お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」
Youtubeで見る 5月11日19時45分~
聖句 詩篇107篇30節 「彼らは波が静まったので喜び祝い/ 望みの港に導かれて行った。」
ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師 ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師
スオミ教会・手芸クラブは4月27日、春の爽やかな陽気の中で再開しました。前回から4カ月くらい経ってしまいましたが、やっと再開することができました。
今回の作品はかぎ針編みのコースターです。初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。毛糸にかぎ針棒を合わせて編み始め、鎖網をして輪を作ります。その後はモデルに従って編み続け、コースターはどんどん大きくなっていきます。おしゃべりをしながら楽しく編み続けていくうちにコースターはあっという間に出来上がりになりました。皆さん、素敵な可愛いコースターを編み上げました。
その後はコーヒータイムですが、今回は手芸クラブと同じ時間帯に教会に自由に入れる「チャーチ・カフェ」も開きました。壁掛けモニターに映し出されるフィンランドの景色を眺め、響いてくる讃美歌に耳を傾けながら、コーヒーとフィンランド風菓子パン”プッラ”を味わうひと時です。そこで旧約聖書の詩篇121篇についてのお話も聞きました。
次回の手芸クラブは5月25日に予定しています。
詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。
私たちの家族は山が好きで休みの日に時々ハイキングに行きます。私たちが登る山はあまり高くありませんが、山があるところに行って山の景色を見ると、いつも旧約聖書の詩篇の121篇を思い出します。その1節と2節にはこう書いてあります。
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。 私の助けはどこから来るのか。 私の助けは来る天地を作られた主のもとから。」
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは来る天地を作られた主のもとから。」
これを書いた人は高い山を見上げて、それよりも高いところにおられる神様のことを尊敬の気持ちで思いました。私は具体的に高い山を見る時、この詩篇を書いた人のように神様の偉大さと人間の小ささを感じます。聖書は神様が天と地とその間にあるもの全てを無から創造されたことが言われています。それを思う時、神様は富士山のような高い大きな美しい山も創造された、本当に大きな力がある方、何でもできる方だと強く感じます。天地を創造された神様は詩篇に書いてあるように私たちのことを全てご存じで私たちを助けてくださる方でもあります。それで神様は私たちから離れないで、いつも私たちのそばにいて守って下さいます。
私たちは高い大きい美しい山を見ても、春の美しい自然を見ても、自然の中で神様の創造の力が働いていることを強く感じます。これも神様の人間に対する愛の業です。
「主が全ての災いを遠ざけてあなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出て立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。 今も、そしてとこしえに。」7-8節
この箇所は、神様が守って下さることについて書いてあります。神様は私たちの全てのこと、旅のような人生で出発の時から帰りの時まで守って下さるのです。これはとても感謝すべきことです。でも私たちは、神様の守りや助けがあると分かるでしょうか?私たちは何も困難がない時は、天地を創造された神様がいるなんて忘れてしまいます。そのような時、別に神様なんかいなくても大丈夫と思う人は多いでしょう。でも人生の中に事故や病気、地震などが起こると、私たちは神様は眠っていて何もしないからこんなことが起こるのだと思うでしょう。どうして神様は助けてくれないのかと思うでしょう。天地を創造された神様は眠っていません。それもこの詩篇の 節で言われています。「 まどろむことなく、眠ることもない 」
私たちの人生の中に困難があっても神様はそれを全てご存知で、私たちのそばにいてくださいます。でも、それはどうやって分かるでしょうか?それは、神様が人間のために行った愛の業から分かります。神様は私たちを愛して、私たちを罪の悪い力から救うためにご自分の子、イエス様をこの世に送られて、十字架の上で身代わりに死なせたのです。そして、イエス様を三日目に死から復活させられました。このように神様は人間を罪の悪い力から救って下さって、人間と神様の関係をとり直してくださいました。このことから、神様は本当に神聖な方、私たちを救う力がある方と分かります。
私たちも詩篇121篇を書いた人と同じように天地を創造された神様に信頼していきましょう。
パイヴィ宣教師がイースター・マフィンを焼き上げた時ウサギのププちゃんがイースターエッグを持って教会に入ってきました。さて、これから何が起こるでしょうか?
ヴィデオをYoutubeで見る
卵 2個 砂糖 1 dl 小麦粉 1 ¾ dl ベーキングパウダー 小さじ 1 オレンジマーマレード 大さじ1 溶かしたマーガリン 50g 生クリーム 1dl パインアップルジュース dl ¼ パイナップルスライス 1 ½ 枚 アーモンドダイス ½ dl
アイシング 粉砂糖 1dl 薄めたレモンジュース 大さじ2
1. 紙のマフィン・カップを鉄板の上に並べておく。 2. マーガリンを溶かしておく。 3. 小麦粉にベーキングパウダーを加えて、振るっておく。 4. パイナップルを細かく切る。 5. ボールに卵と砂糖を入れて混ぜる。 6. 5.のボールにオレンジマーマレードを加え、混ぜる。 7. ふるった小麦粉をパイナップルジュ-ス、2.のマーガリンと生クリームと交互に入れて軽く混ぜる。 8. 4のパインアップルとアーモンドダイスを加えて混ぜる。 9. 出来た生地をマフィン・カップに大さじで入れる。 10. マフィンを180℃のオーブンで15分くらい焼く。 11. 焼いたマフィンを冷ます。 12. アイシングを作る。粉砂糖に薄めたレモンジュースを少しづつ加えて混ぜる。 13. マフィンの上にアイシングで飾りをして、その上にトッピングをする。
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今日の礼拝出席者は26名でした。大勢の方をお迎えしてコロナに注意しながら主の復活の喜びを祝いました。
スオミ教会・家庭料理クラブは4月9日に再開しました。今回はイースター/復活祭に向けてヨーグルト風味のピーチケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。ハンドミキサーで砂糖とマーガリンをよく泡立ててから他の材料を加えて生地はあっという間に出来上がります。その次は中身です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁などを加えてクリーミーにし、缶詰めの桃を薄くスライスしておきます。ここで生地を型に伸ばしてその上に中身を注ぎ、トッピングとして桃のスライスをきれいに並べます。こうして出来た生地をオーブンに入れて焼き上げます。すると、美味しそうな香りが教会中に広がりました。ケーキは黄色に焼き上がりました。黄色はイースターの色とも言われます。ケーキを少し冷ましてから切って、参加者の皆さんと美味しく頂きました。
今回はピーチケーキの他にフィンランドのイースター・デザート、パシャ・クリームとクリシャ・パンも一緒に味わいました。
美味しく頂いた後で、パシャと最初のイースター/復活祭の出来事についてのお話を聞きました。
次回の料理クラブは5月に予定していますが、コロナ感染の状況を見て日程を決めます。教会のホームページにお知らせしますのでご覧ください。
良いイースターを過ごし下さい!
今イースター復活祭の日が近づいています。2週間の後はちょうどイースターの前の土曜日です。この季節になると、フィンランドの家庭ではイースターのお菓子、お菓子パン、ケーキなどを作ります。今日作ったピーチケーキはその一つです。黄色の桃は春の明るい雰囲気を表すので、春を迎える時に作るお菓子にピッタリ合います。フィンランドでは黄色はイースターの色とも言われるので、このケーキは特にイースターに向けてよく作られます。 イースターのお祝いは春なので前の年の夏に採って冷凍庫に保存していたイチゴやブルーベリーなどのベリーは残り少なくなります。そのため、ベリーの代わりに缶詰めの果物を使ってイースターのお菓子やケーキを作ります。
今日はもう一つのイースターのお菓子、パシャも味わってみました。パシャもピーチケーキと同じ材料、ヨーグルト、レモン、フルーツが入っています。これらはイースターのお菓子によく使われる材料です。 「パシャ」という名前は実は、フィンランド語ではなくヘブライ語から来た言葉で復活祭を意味します。パシャは元々はフィンランドのお菓子ではなく、ロシア正教会の人たちを通してフィンランドに伝わってきました。フィンランドの東にあるカレリア地方にはロシア正教会の人たちが多く、彼らを通してパシャはフィンランド全国に広がって1970年くらいから一般の家庭でもイースターのデザートとして作られるようになりました。今ではフィンランド人のイースターの食卓を飾るデザートの一つです。パシャはヨーグルトの他にバター、生クリーム、アーモンドなどが入っているのでカロリーが多いです。それで、イースターの前の40日間の受難節が終わった後で食べるデザートにピッタリかもしれません。
パシャを作る形も決まっていて、このような高いピラミッドの形です。形の意味は、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷になっていたことを思い出させるという意味です。このようなピラミッドの形を作るための型もあります。その型には、アルファベットのXとBの文字が掘られています。この二つの文字の意味は「キリストは復活した」です。
パシャはこのまま食べるものではありません。イーストで発酵させた「クリツァ」Kulitsaという特別のパンを作ってその上にのせて食べるのです。
フィンランドのイースターの食卓の料理やお菓子を通しても、イースターが意味する「新しい命」ということがよく表わされます。イースター・エッグもその一つです。卵からヒヨコが生まれるので、卵は「新しい命」を表わします。フィンランドではチョコレートで作った卵型のお菓子も売っています。その中に入っている小さな飾り物やおもちゃは嬉しい驚きをもたらしてくれます。歴史初めてのイースターの時も嬉しい驚きがありました。
それでは、最初のイースターの日にどんなことが起きたでしょうか?聖書はこのことについて詳しく書いてあります。まずイースターの前にイエス様が苦しみを受けられたことが書いてあります。イースターの前の週の木曜日イエス様は、彼に反対する者たちに捕らえられて、沢山の苦しみを受けました。そして翌日の金曜日、イエス様は何も悪いことはしていなかったのに、十字架にかけられて殺されてしまいました。イエス様の遺体は十字架から下されて、布に巻かれて岩に掘った墓に葬られました。しかし、3日目の日曜日の朝イエス様は復活されたのです。
その日の朝、かつてイエス様の教えをよく聞いて従っていた女性たちがイエス様の墓に行きました。ところが、イエス様の体はもうそこにはありません。イエス様の弟子たちも墓に来て、遺体がないことを目撃して、誰かがどこかに持って行ってしまったと思って悲しく帰りました。しかし、マリアという女性は帰らずに墓の入口で泣いていました。その時、誰かが歩いてきました。マリアが後ろを振り向くと一人の男の人が立っていました。それはイエス様でした。しかし、マリアは最初なぜかイエス様だと分かりませんでした。イエス様はマリアに言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは答えて言いました。「あなたがあの方の体を運び去ったのですか?どこに持って行ったのか教えてください。わたしが引き取ります。」そこでイエス様はマリアを見つめて、「マリア」と言われました。マリアはその時はじめてイエス様であることに気づき、「先生」と言いました。マリアは、イエス様が「マリア」と言われた時にイエス様のことを分かったのです。
イエス様が十字架で死なれてからマリアと弟子たちは悲しみに沈んでいました。イエス様が一緒にいた時、彼らは幸せでした。しかし、今はただ寂しくて、これからどうなるか全然わからず、将来の希望もありません。マリアや弟子たちの喪失感はとても大きく、ただ静かなところで悲しんでいるだけでした。マリアはイエス様の墓の前で泣いていました。しかし、まさに希望がなくなっていた時にイエス様はマリアの前に立っておられたのです。神様はイエス様を死から復活させられたのです。イースターの前とイースターに起こったことは全て神様の計画でした。イエス様が罪と死に打ち勝って、その勝利に人間も与れるようにするという計画でした。マリアの深い悲しみは大きな喜びに変わり、彼女はイエス様の復活は本当にあったと人々に伝えることになりました。
私たちの人生にもいろんな試練があり緊急事態も起きます。そのような時、私たちはイエス様の姿を見ることは出来ませんが、イエス様はマリアと同じように私たちにも 「なぜ泣いているのか」と尋ねられます。イエス様は私たちの目を見て全ての答えが分かります。私たちのことを本当にわかって下さるイエス様は私たちを本当に愛してくださっているのです。私たちはこの神のひとり子を受け入れることが出来るでしょうか?
イースターの時、私たちはいろいろな美味しいものを用意して楽しい時を過ごします。これらも大事なことですが、イエス様が復活したというメッセージを通して本当のイースターの喜びが得られます。今年のイースターはイエス様のことを覚えてお祝いをしましょう。
先週金曜日(8日)子供向けのヴィデオ作成が行われました。吉村宣教師夫妻、ミリアム宣教師、富田姉、星野姉の皆さんがご奉仕されました。いまミリアムさんが編集中です、火曜日(12日)にHPに載せる予定です。
新約聖書を英語で1時間学びます。
First we read a short story from the New Testament in English. Leader explains some difficult words and phrases. (Japanese translation of the text is available.) Then we have questions from the text we have just read. Leader asks questions in English, participants try to answer them in English, but if difficult in Japanese ok. Lastly we discuss on some important topics of the text in English, but if difficult in Japanese ok. We learn by our own discoveries, sharing and listening each other. No previous knowledge of the Bible is necessary.
You are warmly welcome!
人数制限がありますので、申し込み順で受け付けます。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1751467596iamg@1751467596arumi1751467596hsoy.1751467596iviap1751467596 03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
今年もイースターの季節がやってきました!
今回はイースターの季節にフィンランドでよく作られるヨーグルト風味のピーチケーキです。ヨーグルトの他にレモンの隠し味が爽やかです。黄色いピーチはイースターのイメージも表します。ご一緒に作って味わいましょう!
ピーチケーキと一緒に、フィンランドでイースターの食卓によく出されるデザート菓子パシャPashaも味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
人数制限がありますのでご注意ください。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1751467596iamg@1751467596arumi1751467596hsoy.1751467596iviap1751467596 まで。
主日礼拝説教 2022年3月6日(四旬節第1主日)スオミ教会
申命記26章1-11節、ローマ10章8b-13節、ルカ4章1-13節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
教会のカレンダーは受難節とか四旬節と呼ばれる期間に入りました。イエス様の十字架の受難を覚える期間です。以前の説教でもお話ししましたが、フィンランドやスウェーデンではこの期間を一般的に「断食の期間」と呼びます。なぜかと言うと、昔キリスト教会では復活祭の前の40日間は断食するという伝統があったからです。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるのかは調べていないのでわかりません。事の始まりは、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだった、それで復活祭の前に彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、本日の福音書の日課にあるように、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間にある6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がって復活祭の前の7週目の水曜日となりました。先週の水曜日です。それで本日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」を唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えてイエス様の受難を身近に感じるようにします。
フィンランドやスウェーデンで今でも「断食の期間」という言葉を使うのは少し奇異な感じがします。というのは、両国ともルター派教会が主流の国なので、断食のような何か修行を積んで神さまに目をかけてもらうというような考え方はありません。人間の救いは人間の業にではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼に基づくというのがルター派の基本だからです。カトリック時代の言い方が今もそのまま続いているというだけのことです。そうは言っても、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。牧師の中には、この期間は嗜好物を避けるとか、好きなテレビ番組を見ないとかいうようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。
2.神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立とう
さて、今年の断食の期間ですが、今ウクライナの戦争が大きな影を落としています。先週も申しましたが、世界の戦争や内乱は近年いろいろなところでありました。アフガニスタン、ミャンマー、シリア、その他ニュースであまり取り扱われないところで沢山ありました。なぜウクライナの戦争がこれほどまでに大きく取り上げられるのか?理由はいろいろありますが、それらをここで紹介することはしません。ただ、近年世界中で起きていた良くない流れが積み重なってついにこの戦争で堤防が決壊して濁流が一気になだれ込んで来たような感じがします。この戦争の前から世界的に各地が無秩序化していたと思います。戦争や内乱がない国々でも偽りや中傷、誇張や扇動が以前よりも広まりやすくなって人々が振り回されてしまっている状況があったと思います。
ウクライナの戦争がどういう形で終結するのか、わかりません。一日も早く終わらなければなりません。そう言うのは、遠い日本にいる私たちの生活にも影響を及ぼすから、というのではありません。破壊と殺戮はいつどこであっても終わらせなければならないものだからです。どういう形で終わるにせよ、この後の世界は、自分の思うようにならない相手、言うことを聞かない相手は武力を用いてでも思うようにさせていい、という風潮を強めてしまうのではと心配します。破壊と殺戮を直接行うだけでなく、ソフトなやり方で偽りの情報をまき散らして人々を惑わすということがもっと当たり前になるのではないかと危惧します。これはそのまま十戒の「汝殺すなかれ」と「汝偽証するなかれ」という創造主の神の意思に真っ向から対立することです。ウクライナの人たちは自分たちで気づいているかいないか、彼らの戦いは祖国の自由と独立のためということを超えて、その後の世界の方向にも大きな影響を与える戦いを戦っているという気さえします。
今後もし、神の意思に真っ向から対立することが増えるようになれば、私たちはどうしたらよいのか?キリスト信仰者の答えは、神の意思に沿う平和や安定を築きそれを守る側に立つ、に尽きると思います。神の意思に沿う平和や安定とは何か?それを築き守る側に立つとはどういうことか?神などという絶対的なものを持ち出すから妥協できなくなって殺し合いになるのだ、という人もいるかもしれません。でも、聖書にある神の意思に沿う平和や安定は果たして殺し合いをもたらすものかどうか、それは以下のことを聞いてから言ってほしいです。神の意思に沿う平和や安定とは、十戒の掟に従う平和と安定です。具体的には、行為や言葉をもって人を傷つけないこと、他人に属するものを奪わないこと、不倫に関わらないこと、真実を曲げないことです。さらに、パウロの「ローマの信徒への手紙」12章もよく読んでください。これらのことのどこが、妥協できなくなって殺し合いになるのか?キリスト信仰について何か言おうとする人は、聖書を見て言うべきで、聖書を知らない自称キリスト教徒たちを見て言うべきではないと思います。
イエス様はこれらの掟は行為や言葉だけでなく心の有り様も当てはまる、それが掟を与えた神の意図なのだと教えました。心の有り様まで問われてしまったら、自分はどれだけ神の意思に反する者かを思い知らされてしまいます。キリスト信仰者と言えどもです。しかし、キリスト信仰では、神はそれで私たちを失格扱いにして見捨てることはしないということがあります。心の中で守り切れない自分に気づいたら、それを神の意思に反することだと素直に認めます。そして、神のひとり子のイエス様が私たちの罪を引き取るようにして十字架の上で神罰を受けられたことを思い起こします。その彼の犠牲の上に今の自分があることを思い出します。神のひとり子の犠牲の前にヘリ下ってその心でまたこの世を歩んでいきます。このように神が与えた罪の赦しの中にいつも留まって、神の意思に反するものが溢れるこの世に立ち向かっていきます。
罪の赦しの中に留まってこの世を生きる時、十戒の前半部分がなくてはならないものになります。最初の3つの掟のことですが、簡単に言うと次のようなことです。罪の赦しを与えて下さった神こそ本当に自分の願い事、悩み、喜びを聞いてくれる方とわかって打ち明けること。これだけ自分のことを顧みて下さる神なのに自分の弱い思いや悪い思いを擁護するために引き合いに出すようなことはしない。むしろ弱い思い悪い思いを頑張って捨てること。そして、この世に立ち向かう力を毎週リフレッシュする主日礼拝を守ることです。
このようにすれば神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。しかし、守る側に立つと今度は攻められます。神の意思に沿う平和や安定など破壊してやろうという力です。それはこの世の具体的な国や軍隊ではありません。聖書にも言われる、肉眼の目では見えない力です。本日の福音書の日課ではそのような力を持つ者として悪魔が出てきます。悪魔がイエス様に試練を与えて屈服させようとしました。悪魔が与えた試練はイエス様個人の運命に関わるものではなく人類全体の運命に関わるものでした。イエス様はそれらを撃退しました。それで人類は大きな危機を回避できたのです。イエス様が受けた試練がそれほどのものであったとは、一体どんな試練だったのでしょうか?イエス様はそれらをどうやって撃退したのでしょうか?これから、それらについて見ていきます。私たちはこれが分かると、この悪が猛威を振るう世にあって神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。
3.聖書が明らかにする悪魔とは?
まず、イエス様に試練を与えた悪魔とは何者かを見てみます。悪魔は聖書の中で二つの言葉で言い表されます。一つは、新約聖書に多く出てくるディアボロスδιαβολοςというギリシャ語の言葉で、もともとは「中傷する者」「誹謗する者」という意味があります。もう一つは、旧約聖書に出てくるサーターンשטןというヘブライ語の言葉で、新約聖書にもそのままギリシャ語でサタンσατανという語が用いられています。もともとは「告発する者」「起訴する者」「非難する者」という意味があります。それで、二つの単語は語源的に大体同じような意味を持っています。本日の福音書の箇所ではディアボロスが使われています。
悪魔が何をするものかについて、旧約のヨブ記では、神に忠実で信心深いヨブが実はそうではないということを神に示そうとして、彼をありとあらゆる不幸に陥れます。まさに無実の者を有罪に仕立てようとする「告発者」「起訴者」です。黙示録12章でディアボロスともサタンとも呼ばれる太古の蛇が地上に投げつけられる場面があります。その蛇はキリストを救い主と信じる者たちを絶えず告発していたと言われています(10節)。太古の蛇とは間違いなく創世記3章に出てくる、あの蛇です。最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反しようとする罪を持つようにしてしまった仕掛け人、神と人間の結びつきを断ち切ることに成功した張本人です。
その悪魔の運命ですが、マタイ25章41節では、最後の審判の時キリスト信仰者に救援の手を差し伸べなかった者たちが永遠の炎に行くよう命じられる場面があります。その永遠の炎は、ディアボロスとその天使たちに用意されたものであると言われています。黙示録20章2節では、神の側の天使がこのディアボロスともサタンとも呼ばれる蛇を捕えて千年間縛りつけておくとあります。その後で永遠の炎の海に投げつけられると言われます。
このように悪魔は最後の審判の時に滅ぼされますが、その時までは影響力を行使して、神の意思が実現されるのを阻止しようとします。最初の人間の時にそうしたように、人間が神との結びつきを回復できないように、復活の日に神の御国に迎え入れられないようにしようとするのです。どういうふうにするかと言うと、ヨブの場合のように、人間を苦しめて神に愛想をつかせて背を向けさせようとします。神の愛や恵みなどないと思わせようとします。また人間の弱みに付け込んで神の意思に反するようにと持っていきます。そしてほくそ笑んで言います。「お前ほど偉大な罪びとは存在しないのだ。そんなお前を神が顧みてくれるわけがない。ほら見ろ、お前の今の悲惨な状態を。どこに神の愛がお前にあると言えるのか。」そういうふうに巧みに私たちを絶望に追い込み、私たちを造り主の神からどんどん遠ざけようとするのです。
ここで、悪魔が告発者、起訴者の役割を果たすことに関連して、キリスト信仰者には弁護者がついていることを忘れてはいけません。聖霊のことです。イエス様は聖霊を弁護者と呼んだのです。どうしてでしょうか?悪魔が信仰者と神に向かって、お前は罪びとだ、あいつは罪びとだ、神の意思のかけらもない失格者だ、と言う時、聖霊はまず、うなだれる信仰者に向かって次のように言います。「あなたの心の目をあの十字架に向けなさい。あの方の肩の上に重くのしかかっている罪の山の中にあなたのも入っています。あの方が償いをして下さったのです。」そしてすかさず神に向かって言います。「この人は、イエスを救い主と信じる信仰に立っています。私がそれを証言します。」これを聞いた父なるみ神は信仰者に次のように言うのです。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されたことは揺るがない。もうこれからは罪に従わないように生きなさい。」
4.イエス様が受けた3つの誘惑について
イエス様が悪魔から受けた試練について見てみます。3つの誘惑がありました。最初は、40日間飲まず食わずにいて空腹で苦しい状態のイエス様に、お前が神の子なら石をパンにかえて空腹を満たしてみろ、でした。神のひとり子が本当に空腹を感じるのか?と思われるかもしれませんが、人間のマリアから生まれたことで人間と同じ血と肉を持っています。だから、人間と同じ空腹を感じることができます。イエス様は悪魔の言うとおりにしませんでした。2番目は、イエス様に世界の国々の豪華絢爛を見せて、俺様にひれ伏したらこれらを全部くれてやろう、というものでした。イエス様はこれも拒否しました。3番目は、お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から飛び降りて天使に助けさせてみろ、というものでした。イエス様が立たされたのはおそらくキドゥロン谷という急な谷側の面だったと思われます。イエス様はこれも拒否しました。イエス様は不治の病を治したり自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。パンを石に変えたり天使に飛んできてもらうことなど容易いことだったはずです。それなのになぜそうせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また危険な高い所にとどまることを選んだのでしょうか?
それは、もしそうしていれば、その瞬間、悪魔が命令したからこれらのことをしたということになってしまいます。これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従ったことになってしまいます。悪魔がやれと言ったからやったことになるのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ?それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でないんだ、という具合に、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれで空腹と恐怖の中に留まることになっても。
特に2番目の誘惑を撃退したことは、他の二つに増して人類の運命にとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様はこの試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かっていました。その時、神から聖霊を受けて神の子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10~11節)。もし、その神のひとり子が悪魔にひれ伏してしまったら、神の子が受けている聖霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と聖霊が悪魔よりも下になってしまったら、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔の上に立つ者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。
人類は実に際どいところにいたのです。もしイエス様が必要物を得るために悪魔の指示通りに動いたり、欲望を満たすために悪魔にひれ伏していたら、神自体が悪魔の下の立場に置かれることになっていたのです。神が悪魔の下に置かれるということは、この世も当然、悪魔の下に置かれることになります。そうならなかったので、神は依然として悪魔の上に立つ方です。確かにこの世は現実には悪魔に振り回されることが一杯あります。しかし、悪魔の上に立つ方がちゃんといて下さるのです。だから、この世には救いがないとか希望がないと言うのは当たっていません。ないと言ったら悪魔の思うつぼです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、創造主の神が私たちの側についておられ、私たちも神の側に立つ限り、希望が失われることはないということを信じて参りましょう。
5.聖書の御言葉は悪魔の誘惑を撃退する最上の武器
それでは、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑を撃退したかを見ていきましょう。結論から言うと、イエス様は旧約聖書の神の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対して、イエス様は申命記8章3節の御言葉をもって誘惑を撃退にします。その箇所の全文はこうでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。もし、悪魔が空腹のような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを従わせようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を唱えればよいのです。
次の誘惑、「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対してイエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を撃退します。その御言葉とは、ずばり「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」でした。神との結びつきを持ってこの世を神の守りと導きの内に生き、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、このシナリオは万物の創造主でありこの私の造り主である神が私のために準備され、それがその通りになるとイエス様の十字架と復活の業で示した下さった。この世の豪華絢爛などという復活の日に消滅するもののためにこのシナリオは捨てることなど想像もできません。
3番目の誘惑は要注意です。悪魔はイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、巧妙にも聖書の御言葉を使いました。それは詩篇91篇11
12節の御言葉、「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を撃退します。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事です。イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。
実際イスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、困難に遭遇するたびにすぐ神に不平不満をぶつけました。神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに新しい困難が起きる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、こんなことならエジプトに帰ってやるなどと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と言うのです。
それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを神の解決として受け入れる、それくらいに神を信頼するということです。実は、このイエス様の神への深い信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨でした。この篇の最初をみると次のように言われます。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2
3節)。このような神に対する強い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に神への強い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分をちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。しかし、そんな軽々しいやり方で重みのある真理を覆すことなど出来るはずがありません。
このようにイエス様は聖書の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。このことは、私たちがこの世にあって、神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立って生きる上で大事です。もし悪魔が私たちを従わせようとして必要物や欲望をちらつかせてきたら、私たちは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある!『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある!」と言えばいいのです。ただ、やっかいなのは、悪魔が私たちを誤らせようとして聖書の御言葉を使う場合です。イエス様の試練から明らかなように、悪魔は御言葉を文脈から切り離してもっともらしく聞こえるようにするという手口を用います。私たちは騙されないために、本当に聖書に習熟して全体像と文脈を把握して個々の御言葉を受け入れなければなりません。そのために毎日の聖書の繙きは大事です。毎週礼拝で御言葉の説き明かしに耳を傾けることも大事です。その御言葉に立って神に祈り賛美を捧げ聖餐に与ればこの世ではもう怖いものなしです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
2月6日に開催された定期総会にて本年度のスオミ教会の年間聖句と主題が採択されました。
年間聖句 詩篇107篇30節「彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」
年間主題 「イエス様と一緒に最終港を目指してこの世という海の航海を続けよう。」
この聖句と主題を提案した宣教師の提案趣旨は次の通りです。
昨年のフィンランド滞在中、VALLILAという繊維布地の会社の専門店に立ち寄りました。店内で最初に目に留まったのは、湖の向こうに沈みそうで沈まない白夜の夕日のデザインの布でした。「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」という、復活の日を示唆するゼカリア書14章7節の聖句を思い出し、スオミ教会の会堂の壁に掛けるのにちょうど良いと思いました。もう一つの布にも目が留まりました。湖の上を走る船です。フィンランドの南西部にある教会は皆、会堂に大きな帆船の模型を天井から吊るして飾っています。それは、教会とは復活の日の神の御国を目指してこの世という海を進む船であるという意味を持ちます。キリスト信仰者はその乗員なのです。この布もスオミの会堂の壁を飾るのに相応しいと思い、最初どっちにしようか迷ったのですが、結局両方購入しました。今、会堂の壁にかかっています。
詩篇107篇を繙くと、イスラエルの民の苦難の歴史とその中で神の導きがあることが歌われます。苦難一つ一つについて、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救って下さった」と民の祈りと神の応えが言われ、救出の後で「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と民の感謝が続きます。同じフレーズが繰り返されます。
苦難のリストの最後は船出です。天地創造の神は嵐を起こされ、船は沈みそうになる。その時も同じ祈りと神の応えが唱えられます。そこで神が嵐を沈黙させて波はおさまる。「彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」そして、同じ感謝で締めくくられます。
苦難の遭遇とそこからの救出の繰り返しは私たちの人生にも当てはまります。青空のもと追い風に乗って進む時と雨風に晒され波に揉まれる時そして港で一息つく時とまた出発する時。その繰り返しです。しかし、キリスト信仰者には、この繰り返しが終了してもう出発しなくていいという永遠の安息の最終港があります。復活の日の神の御国です。(新共同訳では「望みの港」ですが、ヘブライ語では「喜びの港」です。)
詩篇には言われていませんが、キリスト信仰ではイエス様という私たちの船旅の同行者がおられます。マタイ28章20節で復活の主が言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マルコ4章等でイエス様が弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡った時、嵐が起きて舟が沈みそうになり、それを静める奇跡を起こして皆が対岸に無事に着くことができたという出来事があります。この奇跡は、詩篇で言われていることは単なる文章ではなく本当に起こるということを示すものでした。イエス様と一緒に航海していれば、嵐に遭遇して慌てふためくことがあっても最後は必ず港に導いてもらえ、最後の最後は復活の日の神の御国という港に到着することが出来るのです。時には、イエス様は眠って何もしてくれないように思える時もあるかもしれませんが、イエス様は必ず起きて助け導いて下さることをガリラヤ湖の奇跡で示したのです。
この2022年、今度こそコロナが終息するという期待が高まりますが、ひょっとしたらまだ続いてしまうのではという疑いと心配もあります。いずれにしても空模様・海模様がどんなものであれイエス様と共にする航海を続けていくことには変わりません。この1年も主が共におられる舟/船に乗っていることを忘れないように礼拝に繋がり御言葉に留まっていきましょう。