スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

フィンランド家庭料理クラブを再開します。次回は4月9日(土)13時から開催します。人数制限がありますのでご注意ください。

今年もイースターの季節がやってきました!

今回はイースターの季節にフィンランドでよく作られるヨーグルト風味のピーチケーキです。ヨーグルトの他にレモンの隠し味が爽やかです。黄色いピーチはイースターのイメージも表します。ご一緒に作って味わいましょう!


ピーチケーキと一緒に、フィンランドでイースターの食卓によく出されるデザート菓子パシャPashaも味わいましょう!

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

人数制限がありますのでご注意ください。

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1746531247iamg@1746531247arumi1746531247hsoy.1746531247iviap1746531247 まで。

2022年3月6日(日)四旬節第1主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年3月6日(四旬節第1主日)スオミ教会

申命記26章1-11節、ローマ10章8b-13節、ルカ4章1-13節

説教題 「神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立とう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  1. はじめに - 受難節は「断食の期間」

教会のカレンダーは受難節とか四旬節と呼ばれる期間に入りました。イエス様の十字架の受難を覚える期間です。以前の説教でもお話ししましたが、フィンランドやスウェーデンではこの期間を一般的に「断食の期間」と呼びます。なぜかと言うと、昔キリスト教会では復活祭の前の40日間は断食するという伝統があったからです。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるのかは調べていないのでわかりません。事の始まりは、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだった、それで復活祭の前に彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、本日の福音書の日課にあるように、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間にある6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がって復活祭の前の7週目の水曜日となりました。先週の水曜日です。それで本日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」を唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えてイエス様の受難を身近に感じるようにします。

フィンランドやスウェーデンで今でも「断食の期間」という言葉を使うのは少し奇異な感じがします。というのは、両国ともルター派教会が主流の国なので、断食のような何か修行を積んで神さまに目をかけてもらうというような考え方はありません。人間の救いは人間の業にではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼に基づくというのがルター派の基本だからです。カトリック時代の言い方が今もそのまま続いているというだけのことです。そうは言っても、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。牧師の中には、この期間は嗜好物を避けるとか、好きなテレビ番組を見ないとかいうようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。

 

2.神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立とう

さて、今年の断食の期間ですが、今ウクライナの戦争が大きな影を落としています。先週も申しましたが、世界の戦争や内乱は近年いろいろなところでありました。アフガニスタン、ミャンマー、シリア、その他ニュースであまり取り扱われないところで沢山ありました。なぜウクライナの戦争がこれほどまでに大きく取り上げられるのか?理由はいろいろありますが、それらをここで紹介することはしません。ただ、近年世界中で起きていた良くない流れが積み重なってついにこの戦争で堤防が決壊して濁流が一気になだれ込んで来たような感じがします。この戦争の前から世界的に各地が無秩序化していたと思います。戦争や内乱がない国々でも偽りや中傷、誇張や扇動が以前よりも広まりやすくなって人々が振り回されてしまっている状況があったと思います。

ウクライナの戦争がどういう形で終結するのか、わかりません。一日も早く終わらなければなりません。そう言うのは、遠い日本にいる私たちの生活にも影響を及ぼすから、というのではありません。破壊と殺戮はいつどこであっても終わらせなければならないものだからです。どういう形で終わるにせよ、この後の世界は、自分の思うようにならない相手、言うことを聞かない相手は武力を用いてでも思うようにさせていい、という風潮を強めてしまうのではと心配します。破壊と殺戮を直接行うだけでなく、ソフトなやり方で偽りの情報をまき散らして人々を惑わすということがもっと当たり前になるのではないかと危惧します。これはそのまま十戒の「汝殺すなかれ」と「汝偽証するなかれ」という創造主の神の意思に真っ向から対立することです。ウクライナの人たちは自分たちで気づいているかいないか、彼らの戦いは祖国の自由と独立のためということを超えて、その後の世界の方向にも大きな影響を与える戦いを戦っているという気さえします。

今後もし、神の意思に真っ向から対立することが増えるようになれば、私たちはどうしたらよいのか?キリスト信仰者の答えは、神の意思に沿う平和や安定を築きそれを守る側に立つ、に尽きると思います。神の意思に沿う平和や安定とは何か?それを築き守る側に立つとはどういうことか?神などという絶対的なものを持ち出すから妥協できなくなって殺し合いになるのだ、という人もいるかもしれません。でも、聖書にある神の意思に沿う平和や安定は果たして殺し合いをもたらすものかどうか、それは以下のことを聞いてから言ってほしいです。神の意思に沿う平和や安定とは、十戒の掟に従う平和と安定です。具体的には、行為や言葉をもって人を傷つけないこと、他人に属するものを奪わないこと、不倫に関わらないこと、真実を曲げないことです。さらに、パウロの「ローマの信徒への手紙」12章もよく読んでください。これらのことのどこが、妥協できなくなって殺し合いになるのか?キリスト信仰について何か言おうとする人は、聖書を見て言うべきで、聖書を知らない自称キリスト教徒たちを見て言うべきではないと思います。

イエス様はこれらの掟は行為や言葉だけでなく心の有り様も当てはまる、それが掟を与えた神の意図なのだと教えました。心の有り様まで問われてしまったら、自分はどれだけ神の意思に反する者かを思い知らされてしまいます。キリスト信仰者と言えどもです。しかし、キリスト信仰では、神はそれで私たちを失格扱いにして見捨てることはしないということがあります。心の中で守り切れない自分に気づいたら、それを神の意思に反することだと素直に認めます。そして、神のひとり子のイエス様が私たちの罪を引き取るようにして十字架の上で神罰を受けられたことを思い起こします。その彼の犠牲の上に今の自分があることを思い出します。神のひとり子の犠牲の前にヘリ下ってその心でまたこの世を歩んでいきます。このように神が与えた罪の赦しの中にいつも留まって、神の意思に反するものが溢れるこの世に立ち向かっていきます。

罪の赦しの中に留まってこの世を生きる時、十戒の前半部分がなくてはならないものになります。最初の3つの掟のことですが、簡単に言うと次のようなことです。罪の赦しを与えて下さった神こそ本当に自分の願い事、悩み、喜びを聞いてくれる方とわかって打ち明けること。これだけ自分のことを顧みて下さる神なのに自分の弱い思いや悪い思いを擁護するために引き合いに出すようなことはしない。むしろ弱い思い悪い思いを頑張って捨てること。そして、この世に立ち向かう力を毎週リフレッシュする主日礼拝を守ることです。

このようにすれば神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。しかし、守る側に立つと今度は攻められます。神の意思に沿う平和や安定など破壊してやろうという力です。それはこの世の具体的な国や軍隊ではありません。聖書にも言われる、肉眼の目では見えない力です。本日の福音書の日課ではそのような力を持つ者として悪魔が出てきます。悪魔がイエス様に試練を与えて屈服させようとしました。悪魔が与えた試練はイエス様個人の運命に関わるものではなく人類全体の運命に関わるものでした。イエス様はそれらを撃退しました。それで人類は大きな危機を回避できたのです。イエス様が受けた試練がそれほどのものであったとは、一体どんな試練だったのでしょうか?イエス様はそれらをどうやって撃退したのでしょうか?これから、それらについて見ていきます。私たちはこれが分かると、この悪が猛威を振るう世にあって神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。

3.聖書が明らかにする悪魔とは?

まず、イエス様に試練を与えた悪魔とは何者かを見てみます。悪魔は聖書の中で二つの言葉で言い表されます。一つは、新約聖書に多く出てくるディアボロスδιαβολοςというギリシャ語の言葉で、もともとは「中傷する者」「誹謗する者」という意味があります。もう一つは、旧約聖書に出てくるサーターンשטןというヘブライ語の言葉で、新約聖書にもそのままギリシャ語でサタンσατανという語が用いられています。もともとは「告発する者」「起訴する者」「非難する者」という意味があります。それで、二つの単語は語源的に大体同じような意味を持っています。本日の福音書の箇所ではディアボロスが使われています。

悪魔が何をするものかについて、旧約のヨブ記では、神に忠実で信心深いヨブが実はそうではないということを神に示そうとして、彼をありとあらゆる不幸に陥れます。まさに無実の者を有罪に仕立てようとする「告発者」「起訴者」です。黙示録12章でディアボロスともサタンとも呼ばれる太古の蛇が地上に投げつけられる場面があります。その蛇はキリストを救い主と信じる者たちを絶えず告発していたと言われています(10節)。太古の蛇とは間違いなく創世記3章に出てくる、あの蛇です。最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反しようとする罪を持つようにしてしまった仕掛け人、神と人間の結びつきを断ち切ることに成功した張本人です。

その悪魔の運命ですが、マタイ25章41節では、最後の審判の時キリスト信仰者に救援の手を差し伸べなかった者たちが永遠の炎に行くよう命じられる場面があります。その永遠の炎は、ディアボロスとその天使たちに用意されたものであると言われています。黙示録20章2節では、神の側の天使がこのディアボロスともサタンとも呼ばれる蛇を捕えて千年間縛りつけておくとあります。その後で永遠の炎の海に投げつけられると言われます。

このように悪魔は最後の審判の時に滅ぼされますが、その時までは影響力を行使して、神の意思が実現されるのを阻止しようとします。最初の人間の時にそうしたように、人間が神との結びつきを回復できないように、復活の日に神の御国に迎え入れられないようにしようとするのです。どういうふうにするかと言うと、ヨブの場合のように、人間を苦しめて神に愛想をつかせて背を向けさせようとします。神の愛や恵みなどないと思わせようとします。また人間の弱みに付け込んで神の意思に反するようにと持っていきます。そしてほくそ笑んで言います。「お前ほど偉大な罪びとは存在しないのだ。そんなお前を神が顧みてくれるわけがない。ほら見ろ、お前の今の悲惨な状態を。どこに神の愛がお前にあると言えるのか。」そういうふうに巧みに私たちを絶望に追い込み、私たちを造り主の神からどんどん遠ざけようとするのです。

ここで、悪魔が告発者、起訴者の役割を果たすことに関連して、キリスト信仰者には弁護者がついていることを忘れてはいけません。聖霊のことです。イエス様は聖霊を弁護者と呼んだのです。どうしてでしょうか?悪魔が信仰者と神に向かって、お前は罪びとだ、あいつは罪びとだ、神の意思のかけらもない失格者だ、と言う時、聖霊はまず、うなだれる信仰者に向かって次のように言います。「あなたの心の目をあの十字架に向けなさい。あの方の肩の上に重くのしかかっている罪の山の中にあなたのも入っています。あの方が償いをして下さったのです。」そしてすかさず神に向かって言います。「この人は、イエスを救い主と信じる信仰に立っています。私がそれを証言します。」これを聞いた父なるみ神は信仰者に次のように言うのです。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されたことは揺るがない。もうこれからは罪に従わないように生きなさい。」

4.イエス様が受けた3つの誘惑について

イエス様が悪魔から受けた試練について見てみます。3つの誘惑がありました。最初は、40日間飲まず食わずにいて空腹で苦しい状態のイエス様に、お前が神の子なら石をパンにかえて空腹を満たしてみろ、でした。神のひとり子が本当に空腹を感じるのか?と思われるかもしれませんが、人間のマリアから生まれたことで人間と同じ血と肉を持っています。だから、人間と同じ空腹を感じることができます。イエス様は悪魔の言うとおりにしませんでした。2番目は、イエス様に世界の国々の豪華絢爛を見せて、俺様にひれ伏したらこれらを全部くれてやろう、というものでした。イエス様はこれも拒否しました。3番目は、お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から飛び降りて天使に助けさせてみろ、というものでした。イエス様が立たされたのはおそらくキドゥロン谷という急な谷側の面だったと思われます。イエス様はこれも拒否しました。イエス様は不治の病を治したり自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。パンを石に変えたり天使に飛んできてもらうことなど容易いことだったはずです。それなのになぜそうせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また危険な高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

それは、もしそうしていれば、その瞬間、悪魔が命令したからこれらのことをしたということになってしまいます。これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従ったことになってしまいます。悪魔がやれと言ったからやったことになるのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ?それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でないんだ、という具合に、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれで空腹と恐怖の中に留まることになっても。

特に2番目の誘惑を撃退したことは、他の二つに増して人類の運命にとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様はこの試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かっていました。その時、神から聖霊を受けて神の子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10~11節)。もし、その神のひとり子が悪魔にひれ伏してしまったら、神の子が受けている聖霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と聖霊が悪魔よりも下になってしまったら、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔の上に立つ者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。

人類は実に際どいところにいたのです。もしイエス様が必要物を得るために悪魔の指示通りに動いたり、欲望を満たすために悪魔にひれ伏していたら、神自体が悪魔の下の立場に置かれることになっていたのです。神が悪魔の下に置かれるということは、この世も当然、悪魔の下に置かれることになります。そうならなかったので、神は依然として悪魔の上に立つ方です。確かにこの世は現実には悪魔に振り回されることが一杯あります。しかし、悪魔の上に立つ方がちゃんといて下さるのです。だから、この世には救いがないとか希望がないと言うのは当たっていません。ないと言ったら悪魔の思うつぼです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、創造主の神が私たちの側についておられ、私たちも神の側に立つ限り、希望が失われることはないということを信じて参りましょう。

5.聖書の御言葉は悪魔の誘惑を撃退する最上の武器

それでは、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑を撃退したかを見ていきましょう。結論から言うと、イエス様は旧約聖書の神の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。

まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対して、イエス様は申命記8章3節の御言葉をもって誘惑を撃退にします。その箇所の全文はこうでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。もし、悪魔が空腹のような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを従わせようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を唱えればよいのです。

次の誘惑、「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対してイエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を撃退します。その御言葉とは、ずばり「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」でした。神との結びつきを持ってこの世を神の守りと導きの内に生き、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、このシナリオは万物の創造主でありこの私の造り主である神が私のために準備され、それがその通りになるとイエス様の十字架と復活の業で示した下さった。この世の豪華絢爛などという復活の日に消滅するもののためにこのシナリオは捨てることなど想像もできません。

3番目の誘惑は要注意です。悪魔はイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、巧妙にも聖書の御言葉を使いました。それは詩篇91篇11

12節の御言葉、「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を撃退します。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事です。イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。

実際イスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、困難に遭遇するたびにすぐ神に不平不満をぶつけました。神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに新しい困難が起きる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、こんなことならエジプトに帰ってやるなどと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と言うのです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを神の解決として受け入れる、それくらいに神を信頼するということです。実は、このイエス様の神への深い信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨でした。この篇の最初をみると次のように言われます。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2

3節)。このような神に対する強い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に神への強い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分をちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。しかし、そんな軽々しいやり方で重みのある真理を覆すことなど出来るはずがありません。

このようにイエス様は聖書の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。このことは、私たちがこの世にあって、神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立って生きる上で大事です。もし悪魔が私たちを従わせようとして必要物や欲望をちらつかせてきたら、私たちは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある!『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある!」と言えばいいのです。ただ、やっかいなのは、悪魔が私たちを誤らせようとして聖書の御言葉を使う場合です。イエス様の試練から明らかなように、悪魔は御言葉を文脈から切り離してもっともらしく聞こえるようにするという手口を用います。私たちは騙されないために、本当に聖書に習熟して全体像と文脈を把握して個々の御言葉を受け入れなければなりません。そのために毎日の聖書の繙きは大事です。毎週礼拝で御言葉の説き明かしに耳を傾けることも大事です。その御言葉に立って神に祈り賛美を捧げ聖餐に与ればこの世ではもう怖いものなしです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2022年度のスオミ教会の年間聖句と主題

2月6日に開催された定期総会にて本年度のスオミ教会の年間聖句と主題が採択されました。

年間聖句 詩篇107篇30節「彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」

年間主題 「イエス様と一緒に最終港を目指してこの世という海の航海を続けよう。」

この聖句と主題を提案した宣教師の提案趣旨は次の通りです。

主題の趣旨

Degerby教会の船の模型

昨年のフィンランド滞在中、VALLILAという繊維布地の会社の専門店に立ち寄りました。店内で最初に目に留まったのは、湖の向こうに沈みそうで沈まない白夜の夕日のデザインの布でした。「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」という、復活の日を示唆するゼカリア書14章7節の聖句を思い出し、スオミ教会の会堂の壁に掛けるのにちょうど良いと思いました。もう一つの布にも目が留まりました。湖の上を走る船です。フィンランドの南西部にある教会は皆、会堂に大きな帆船の模型を天井から吊るして飾っています。それは、教会とは復活の日の神の御国を目指してこの世という海を進む船であるという意味を持ちます。キリスト信仰者はその乗員なのです。この布もスオミの会堂の壁を飾るのに相応しいと思い、最初どっちにしようか迷ったのですが、結局両方購入しました。今、会堂の壁にかかっています。

詩篇107篇を繙くと、イスラエルの民の苦難の歴史とその中で神の導きがあることが歌われます。苦難一つ一つについて、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救って下さった」と民の祈りと神の応えが言われ、救出の後で「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と民の感謝が続きます。同じフレーズが繰り返されます。

苦難のリストの最後は船出です。天地創造の神は嵐を起こされ、船は沈みそうになる。その時も同じ祈りと神の応えが唱えられます。そこで神が嵐を沈黙させて波はおさまる。「彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」そして、同じ感謝で締めくくられます。

苦難の遭遇とそこからの救出の繰り返しは私たちの人生にも当てはまります。青空のもと追い風に乗って進む時と雨風に晒され波に揉まれる時そして港で一息つく時とまた出発する時。その繰り返しです。しかし、キリスト信仰者には、この繰り返しが終了してもう出発しなくていいという永遠の安息の最終港があります。復活の日の神の御国です。(新共同訳では「望みの港」ですが、ヘブライ語では「喜びの港」です。)

詩篇には言われていませんが、キリスト信仰ではイエス様という私たちの船旅の同行者がおられます。マタイ28章20節で復活の主が言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マルコ4章等でイエス様が弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡った時、嵐が起きて舟が沈みそうになり、それを静める奇跡を起こして皆が対岸に無事に着くことができたという出来事があります。この奇跡は、詩篇で言われていることは単なる文章ではなく本当に起こるということを示すものでした。イエス様と一緒に航海していれば、嵐に遭遇して慌てふためくことがあっても最後は必ず港に導いてもらえ、最後の最後は復活の日の神の御国という港に到着することが出来るのです。時には、イエス様は眠って何もしてくれないように思える時もあるかもしれませんが、イエス様は必ず起きて助け導いて下さることをガリラヤ湖の奇跡で示したのです。

この2022年、今度こそコロナが終息するという期待が高まりますが、ひょっとしたらまだ続いてしまうのではという疑いと心配もあります。いずれにしても空模様・海模様がどんなものであれイエス様と共にする航海を続けていくことには変わりません。この1年も主が共におられる舟/船に乗っていることを忘れないように礼拝に繋がり御言葉に留まっていきましょう。

歳時記

扉を叩く人

クフモ教会 から寄贈された木のレリーフです(礼拝堂の入り口上部に取り付けました)。 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸をあける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 (ヨハネの黙示録3章20節)」

イエスが家の外に立ち、扉を叩いています。この扉は内側からしか開けることができず、外側からは開けることができません。だからイエスは扉を叩いて、扉が開かれるのを待っておられます。

1月22日 スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

今年最初のスオミ教会・家庭料理クラブは1月22日に開催されました。今回はフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に作るのはピーラッカの生地。生地は材料を混ぜるだけで出来上がりです。生地をピーラッカの分量に分けて一個一個を綿棒で薄く伸ばします。その次は丸くて薄い生地の上にお米のお粥をのせます。お粥を平らに広げて周りのピーラッカの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。きれいな形のピーラッカを作るのは簡単ではありませんが、皆さんとても上手でした。ピーラッカを鉄板に並べてオーブンに入れて焼ます。焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたバターを塗ってピーラッカは出来上がりです。

参加者の皆さんのお皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きました。最後にカルヤラン・ピーラッカと旧約聖書のエレミヤ書の陶工のお話を聞きました。

今年最初の料理クラブはコロナ感染拡大の中、いろいろ注意をしながら開催しました。無事に開催できたことを感謝しています。今後の料理クラブは感染状況がもう少し良くなったら開催した方が良いのではと考えているところです。決まりましたら、教会のホームページに’案内をのせますのでご覧ください。

それでは、皆さん注意してお過ごし下さい。

2022年1月22日カルヤラン・ピーラッカ

カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まった食べ物です。第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られたので、そこに住んでいた人々は自分の故郷を去らなければならなくなり、フィンランドの各地に移住しました。それで、カルヤラン・ピーラッカはカルヤラの人々を通してフィンランド全国に広がりました。フィンランド人は最初、カルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。というのは、彼らはパンとおかゆは別々に食べるものと考えていたので、カルヤラン・ピーラッカのように二つを一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。それでも、フィンランド人もだんだん食べるようになって、いつの間にか全国に広がって行きました。そして、かつてはカルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとっても伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。カルヤラン・ピーラッカは、普段の日にも、お祝いの時にも出されます。また、フィンランドのどの食料品店でもカフェでも買うことができます。

昔は、カルヤラン・ピーラッカは店で買うものではなく、家で作るものでした。家によっては、作る曜日も決まっていました。その日には、薪であたためた大きなオーブンで沢山作りました。薪であたためるオーブンはとても熱くなるので、カルヤラン・ピーラッカは早く焼けて美味しいものが出来ました。

カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、普通の家庭料理で使われるものばかりです。パンを作る時に使うライ麦粉で皮を作ります。皮の中にいれるのは米のお粥ですが、フィンランドでは昔から、お米はお粥にして食べていました。こうして、カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、戦争の後、食糧が不足していた時でもほとんどの家にありました。このように特別な材料ではなく、どの家にもある材料で美味しい新しい食べ物が作られるようになったのです。

私の実家はフィンランドの西の地方にありますが、母はカルヤラン・ピーラッカが好きでよく作りました。母は子供たちにピーラッカの作り方を教えましたが、なかなか思うように作れませんでした。しかし諦めないでひとつ作って、もしかしたら次のものはもっときれいに出来ると思って沢山練習しました。

カルヤラン・ピーラッカを作る技能は世代から世代へ伝わって行きます。普通はお祖母さんやお母さんから子どもに伝わっていきますが、今は家でピーラッカを作る人は少なくなったので、ピーラッカを作るコースが開かれて、そこで作り方が教えられます。

カルヤラン・ピーラッカを作るときの難しいことは、皮になる生地を伸ばすことと、中身の回りに皮をしめていくことです。カルヤラ地方出身の人たちは、カルヤラン・ピーラッカを作るのがとても上手です。フィンランドでは、毎年夏になるといろいろなお祭りやイベントが開催されますが、カルヤラン・ピーラッカを上手に作る競争もあります。そこでは、誰が一番早く、形がきれいなカルヤラン・ピーラッカを作れるかが競われます。いつもカルヤラ地方出身の人が優勝します。カルヤラ地方の人たちにとって、きれいな形のピーラッカが出来るのは当たりまえのことなのです。他の地方のフィンランド人はなかなか同じように作れませんが、練習すれば上手になります。

私は、カルヤラン・ピーラッカをきれいな形に作ることに関係して、ある旧約聖書の話を思い出しました。それはエレミヤ章18章の初めにある出来事です。「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下っていけ。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう。』私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」エレミヤ書18章1-4節です。Donnie Nunley Potter's Hands

この場面で、神様は預言者エレミヤに陶工の家に行くように命じて、そこで器を作る陶工の働きを見せます。エレミヤは陶工の働きで神様が教えようとしていること、陶工は神様を、粘土は人間を意味していると分かりました。

この場面は私たちにどんなことを語っているでしょうか?私たち一人一人は天と地と人間を造られた神様の御手で造られました。神様は私たち一人一人に命と人生を与えてくださいました。神様は陶工が器を作るように私たち人間一人一人をお造りになるのです。エレミヤ書にある陶工は粘土をろくろで回しながら、だんだん器の形にしていきます。粘土が器の形になって静かになると陶工はホッとします。ところがどうでしょうか。先ほど読んだエレミヤ書にはこう書かれていました。「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」と書いてあります。器は陶工の思うようなものにならなかったので、粘土をもう一度ロールして器の形を新しく作り変えたのです。

神様は私たちに同じことをなさいます。神様は私たちを新しい素晴らしいものに作り変えて下さるのです。もし、神様の作り変えが私たちの望むようなものでなければ、私たちは不満や疑問が起きてくるかもしれません。しかし、神様はひとり子のイエス様を私たちに贈られたくらいに私たちのことを愛して下さった方です。そのことがわかれば、神様が私たちに良いことを考えて下さっていると信頼して、神様が導いて下さる道を進んで行けます。神様が導いてくださる道では喜びだけでなく、悩みや悲しみに出会うかもしれません。しかし、神様を信頼して行けば、私たちは後で振り返ってみて神様の素晴らしい働きと導きがあったと知ることが出来るのです。その時、悩みと悲しみを超える喜びがあります。その時私たちの心は神様に対して感謝で満たされます。その時私たちは新しい器に作り変えられていることに気づくのです。皆さん、陶工である神様の御手に全てのことを委ねましょう。「しかし主よ、あなたは我らの父。私は粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。」イザヤ64章7節です。

うさぎのププちゃん、本当のクリスマスを見つける

今年もコロナのためスオミ教会のクリスマス子ども料理教室は開けません。パイヴィ宣教師は去年に続いてビデオで料理教室を開くことにしました。今年はヨウル・トルットゥを作ります。 ちょうどトルットゥが焼き上がった時、突然教会に姿を現わしたのはうさぎのププちゃん。さあ、これから何が起こるでしょうか?お楽しみに!

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説教「マリアの信仰と私たち」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章39-45節

主日礼拝説教 2021年12月19日待降節四主日
ミカ5章1-4a節、ヘブライ10章5-10節、ルカ1章39-45節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は待降節第四主日です。来週の金曜日がクリスマス・イブ、クリスマスはその翌日の土曜日です。キリスト教が伝統的に国民大多数の宗教になっている国ですとクリスマス・イヴもクリスマスも休日になるのですが、事情が異なる日本ではそれらは日曜日や祝日に重ならない限り平日です。それで教会によってはクリスマス礼拝は平日ならば行わず、待降節第四主日の礼拝をクリスマス礼拝を兼ねて行っているところもあります。本スオミ教会もそのようにしてきました。クリスマス・イブの前に救い主の誕生を神に感謝する趣旨の説教は少しあべこべと思われるかもしれませんが、それでも本日の聖書の日課に基づいてイエス様のご降誕の意味を明らかにすることはできます。

 本日の福音書の箇所は、神の御子イエス様を産むことになるマリアが洗礼者ヨハネを産むことになるエリザベトを訪問する場面です。この出来事は私たちの信仰にとって大切なことを二つ教えています。一つは、神はまことに人間の造り主であるということです。神が私たちを造られて命と人生を与えたのは、単に私たちを無造作に大量生産しているのではありません。私たちが気づこうか気づかまいかに関わらず、神は私たち一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっているのです。神が私たちのことを母親の胎内に宿り始めた時から知っているというのはこのことです。それはエリザベトとマリアの妊娠と出産の出来事からも明らかです。後でそのことを見ていきましょう。もう一つ私たちの信仰にとって大切なことは、マリアの信仰がどのようなものであるかを知ることです。エリザベトがマリアに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました(1章45節)。この言葉がマリアの信仰を知るカギになっています。このことも後でみてみましょう。

2.私たち一人ひとりに対する神の計画

 まず、神は人間の造り主であり、私たち一人一人に命と人生を与えたのは私たちに一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっていることについて。このことをエリザベトとマリアの妊娠から見ていこうと思います。

 エリザベトとマリアの妊娠は神の特別な力が働いて起こりました。エリザベトは普通ならもう出産は無理と言われるくらいの高齢者、マリアの方は処女でした。神は御自分の計画を実現するために、これら妊娠不可能な女性たちを通して必要な人材を準備したのでした。エリザベトから誕生したヨハネは「神のもとに立ち返る洗礼」を人々に勧め施しました。それは、人間には神の意思に反する罪があることを人々に自覚させ、罪の赦しを神に願う心を抱かせるためでした。そして、罪の赦しそのものは、イエス様がゴルゴタの十字架の上で死なれた時に実現しました。創造主の神は、このような役割を果たさせるためにヨハネとイエス様をこの世に誕生させました。神は、二人が胎児だった時から二人のことをご存知だったのです。

 それでは、私たちの場合はどうでしょうか?神は、私たちが胎児だった時から私たちのことをご存知だったのでしょうか?私たちにはエリザベトとマリアの胎児のような神の救いの計画を実現する役割などありません。それならば神は私たちのことをイエス様やヨハネほどには知らなかったということでしょうか?いいえ、そうではありません。天と地を造られ人間をも造られた神は私たちのことをみな同じように胎児の時から知っている、このことは詩篇139篇に次のように謳われていることから明らかです。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」(13ー16節)。

 このように人間の造り主である神は、胎児の時から私たち一人一人のことをご存知です。人間の方がその真実を知らないか、知ろうとしないのです。それならば、神は私たちにも何か計画を備えたのでしょうか?イエス様とヨハネのものとは異なりますが、もちろん、私たちにも神の計画があります。どんな計画でしょうか?それは、人間全てに共通する計画と、一人ひとりに備えられた個別の計画の二つがあります。

 まず、人間全てに共通する計画とは、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取って、その救いの持ち主となることです。神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」とは何か?それは、次のような救いです。創世記に記されている通り、人間は造られた当初は神の意思に沿い、神の御許にいることができる良い存在でした。それが悪魔に巧みに誘導されてしまったために神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。そのため神聖な神のもとにいられなくなり、神との結びつきを失って生きなければならなくなってしまいました。神との結びつきを回復できるためには人間の内に宿る罪の問題を解決しなければなりません。しかし、それは人間の力では除去することは出来ず、人間は100%神の意思に沿った生き方も出来ません。何か宗教的な儀式や修行を行ってそれで清められた、神の意思に沿う生き物になれたと勝手に思い込んでいるだけです。イスラエルの民は罪の償いのために牛や羊などの動物の生贄を神殿に捧げるという贖罪の儀式を行っていました。しかし、本日の使徒書の日課ヘブライ10章の中で言われるように、そうした儀式は民が罪から遠ざかる生き方が出来るようには何の役にも立っていなかったのです。それで神は、うんざりだ、もういい加減にしろ、と言うのです。

 しかし、人間がどんなにちぐはぐなことをしていても、創造主の神の御心は人間がまた自分との結びつきを持てて生きられるようにすることでした。それで罪の問題を神の方で解決してあげようと、ひとり子をこの世に送ることにしたのです。人間の乙女マリアを通して人間の姿かたちを持つ者としてこの世に生まれさせ、イエスという名をつけさせました。神はこのひとり子イエス様に旧約聖書について人々に正確に教えさせました。また、将来天地が新しく再創造される日に現れる神の国がどのような国であるかを数多くの奇跡の業をもって人々に垣間見せました。そして最後には全ての人間の罪を自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを果たして下さったのです。実に神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。

 本日のヘブライ10章で言われるように、神が天のひとり子に人間の姿かたちを取らせることをしたのは、動物の生贄に代わる贖罪を果たさせるためだったのです。神聖な神のひとり子の犠牲です。人間の罪を償う生贄の中でこれほど神聖で完璧なものはありません。それで、ヘブライ10章10節で言われるように、未来永劫これ一回限りの犠牲なのです。新共同訳では「ただ一度」と何気なく訳されていますが、ギリシャ語のエファパクスεφαπαξという単語の意味は「これ一回限りで」です。英語で言ったらonce and for allです。only onceではありません。このイエス様が果たした犠牲を受け取った人は、神との結びつきを得るために別の犠牲はもう金輪際何も払わなくてよいのです。

 それでは、イエス様の犠牲を私たちはどうやって受け取ることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子を用いて実現した罪の赦しは自分のためになされたとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けること。そうすると彼の果たした罪の償いがその人に覆いかぶさります。その人は罪を償われたことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを持てるようになっています。この結びつきは、自分から離脱しない限り、いつも変わらずにあります。順境の時だろうが逆境の時だろうがいつもあります。

 このように変わらぬ神との結びつきを持ててこの世を生きるようになると、行き先も定まります。どこに向かうのか?イエス様が十字架の上で死なれた後、父なるみ神は想像を絶する力で彼を復活させました。これによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの道に置かれて歩むようになります。何が起きようとも、いつも変わらない神との結びつきを持って歩むのです。この世から別れる時が来たら、復活の日に目覚めさせられて、使徒パウロがコリント15章で言う、神の栄光を映し出す朽ちない体、復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。これこそが、神がひとり子を用いて実現した「罪の赦しの救い」の全容です。神が一方的に整えて下さったので人間はただそれを「お恵み」のように受け取るだけです。信仰と洗礼をもって自分のものにできるのです。

 以上のことが全ての人間に共通した神の計画です。これの他に個人個人に対しても神の計画があります。それが何であるか、どうしたらわかるでしょうか?神さま、私にふさわしい仕事は何かお示し下さい?とお祈りして、すぐ答えがあるでしょうか?人間はとかく印を求めがちです。もちろん、何か不思議なことが起きて、これはもう神の御心としか言いようがない、ということもあるでしょう。しかし、いつも起きるとは限らないし、もし何か不思議なことが起きても、それが本当に聖書の神の意思という保証もありません。どうしたらよいでしょうか?

 私のささやかな助言ですが、神のお墨付きということはあまり考えず、自分が関心があること、なりたいもの、やりたいこと、使命感を感じることは追及してよいと思います。ただし、追及する際にルールがあります。神の意思に沿っているか、反していないか確認することです。具体的には十戒を任務遂行、目標達成の際のルールにすることです。何かことを成し遂げる際に、創造主の神に特化して自分の思いや願いを打ち明けたり感謝を捧げているかどうか、安息日を守っているかどうか、人々に敬意を払っているかどうか、人を傷つけていないか、不倫はしていないか、偽証や改ざんはしていないか。もし任務遂行や目標達成の際にこれらに反することが出てくれば、選択肢は2つです。任務や目標を神の意思に沿うものに変革するか、ないしは変革不可能であれば任務や目標自体を変えるということです。最初目指したことをやめるというのは自分が失われる感じがして痛いことですが、先ほども申しましたようにキリスト信仰者は何が起きても変わらない神との結びつきがあります。それさえあれば何も失われるものはありません。神は必ず次のものに導いて下さいます。神の意思をルールにする限り、神のお墨付きがある、やりたいこと目指すことは定まってきます。

3.マリアの信仰と私たち

 次にマリアの信仰を見ていきましょう。エリザベトが言った言葉(ルカ1章45節)がマリアの信仰を理解するカギです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 まず、「幸い」という言葉について注釈します。それは時間が経てば薄れてしまう、この世的な幸福や幸運ではありません。不変で持続可能な幸福です。SDGsに加えてもいいくらいのものです。先ほど、キリスト信仰者というのは神との結びつきを持って永遠の命に至る道を歩んでいると申しました。「幸い」とは、神との結びつきがあるので今の世と次に到来する世の双方にまたがることができるということです。それなので、たとえ逆境に陥っても、この結びつきとまたがりは自分から離脱しない限りそのままあるので、その人は「幸い」のままです。マタイ5章の有名な山上の説教でイエス様自身が言われるように「幸いな」人とは霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。イエス様の言葉をよく目を見開いて読めば、どれも今の世と次に到来する世の双方にまたがっていることが見えてきます。これとは逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、神と結びつきもなく二つの世のまたがりもなければ幸いはありません。

 マリアの場合は婚約中の妊娠という、当時のユダヤ教社会の目から見て不名誉な境遇に置かれることを覚悟で、神の人間救済計画を実現するためならば、とそれを受け入れました。神の人間救済計画とは人間を「幸い」な者にすることでした。そのような計画の実現のために自らを捧げたマリアも幸いなのです。

 エリザベトの言葉に戻ります。ギリシャ語の原文はわかりそうで少しわかりにくい形でして次のようにも訳せます。「信じたこの方は、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するからです」。実は、ドイツ語のルター訳やフィンランドやスウェーデンのルター派教会の聖書は、この訳です。英語のNIVは日本の新共同訳と同じです(英語でもジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じでした)。独、フィン、スウェーデンは「信じたマリアは幸いだ。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言う。日本語と英語は「神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。またしても聖書の翻訳における日米同盟と欧州連合の対決ですが、どっちが正しいでしょうか?

 私は両方を合わせてみるとマリアの信仰がよくわかると思います。ドイツ・北欧の訳ですと、マリアがどうして「幸い」かということについて理由を言います。信じたマリアは幸いだ、なぜなら(οτι)神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ、と言います(実はこれは山上の説教でのイエス様の言い方と同じです!「悲しんでいる人は幸いだ。なぜなら(οτι)彼らは慰められることになるからだ(4節)」)。英語・日本語の訳では、マリアがどうして「幸い」なのか理由がなく、ただ神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだとだけ言います。

 ドイツ・北欧の訳で一つ問題なのは、「信じたマリアは幸いだ」と言う時、マリアは一体何を信じたのかがはっきりしないということです。英語・日本語では、信じた内容を「神が言ったことが実現することを」とはっきり言っています。それを信じたマリアは幸いと言います。ドイツ・北欧の訳では、ただ単に「マリアは信じた」です。マリアは何を信じたのでしょうか?

 それは、本日の日課の直前にあるマリアと天使ガブリエルの対話を見れば明らかです。神の子を産むことになると天使から告げられて、マリアはまだ婚約中の身でどうしてそんなことが可能かと聞き返します。これは一見すると、エリザベトの夫ザカリアが天使の告げたことに対して言った反論と同じように聞こえます。しかし、マリアの場合は最後に「お言葉通り、この身に成りますように」と言って天使が言ったことを受け入れます。これがマリアが「信じた」ことです。つまり、マリアは、事がその通りになるという事の真実性を信じたというよりも、その通りになってもいいです、と受け入れた、これがマリアが「信じた」ということです。

 信仰には二つの面があります。まず、神が起こると言うことを信じる、とか、聖書に起こったと書かれていることを信じる、とか、神が示した事柄の真実性を信じるという面があります。それと、ここでのマリアのように、神が起こすと言っていることをそれでいいですと言って受け入れること、神に自分の向かう先を委ねること、それくらい神を信頼するという面があります。このように信仰は事柄の真実性を信じることと神を信頼するということの二つの面を持っています。そいうわけでドイツ、北欧の「信じたマリアは幸いである。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」というのは、神を信頼して自分を神の御手に委ねたマリアは幸いである、なぜなら神が言ったことは必ず実現するからだ、という意味になります。ドイツ、北欧の訳はこちらの面が表に出てきます。

 もちろんマリアの信仰には事柄の真実性を信じる面もあります。そのことを確認しましょう。マリアが旅立ったザカリアとエリザベトの家が町は、ユダ地方の山間部にあるということなのですが、どの町かは不明です。ただ、ナザレがあるガリラヤ地方からユダ地方の中心地エルサレムまで直線距離で100キロ位ありますので少々の長旅です。途中にはユダヤ人に反感を持っているサマリア人が住むサマリア地方を通らなければならない。またイエス様が「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、エリコとエルサレムの間の道に山賊が出て旅人を襲うという話がありますが、そういう危険もあります。とても一人の娘が出来る旅ではありません。誰か付き人をつけたと考えるのが妥当です。ロバに乗って仮に時速5キロ位で進めるとして、日中の明るい時間だけだから10時間くらいでしょうか、100キロ進むのには最低2、3日かかります。道は舗装されていないし、途中にコンビニもありませんから、それだけの日数の二人分以上の旅の準備をしなければなりません。そうしたことはルカの記述には一切触れられていません。読む側としてはどうしてそんな旅行が出来たのかと余計な心配をしてしまいます。人によってはそんなことはあり得ない、マリアのエリザベト訪問は作り話だなどと意地悪なことを言う人もいます。しかし、書き手のルカとしてはマリアの旅支度は読者に伝えるべき本質的なことではなかったのでしょう。伝えるべき本質的なことはマリアとエリザベトが会ってやり取りをしたことだったので、それで十分だったのです。実を言うと、ギリシャ語原文では天使のお告げからマリアの出発まで数日かかったということと、その間マリアは今か今かという思いでいたことが言われています。旅の準備をしていたことを示唆する表現です。日本語や英語の訳でははっきり出てきませんが、フィンランド語やスウェーデン語の訳でははっきり出ています。

 天使のお告げを聞いて早くエリザベトのもとに行かねばという気持ちになったマリアは、ルカ2章に登場する羊飼いと同じです。羊飼いたちは天使からベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中で寝かされている乳飲み子が救世主誕生の印だと告げられました。羊飼いたちは、まだ見ていないのに天使の告げたことを本当のことと信じて急いで出かけて行ったのです。神が示した事柄の真実性を信じたのです。マリアの場合も同じでした。天使から、お前は乙女のまま神の子を産むことになる、高齢のエリザベトが身ごもっているのがその印である、神に不可能なことはない、と告げられ、まだ見ていないのに本当のことと信じて、一刻も早く出発したいという気持ちで旅の準備をして整うや急いで出かけて行ったのです。

 このようにマリアの場合は、神が示した事柄の真実性を信じることと、神に全てを委ねる信頼の両方がありました。これがマリアの信仰の大事なポイントです。そして、この両方を兼ね備える信仰はアブラハムにも見られるものです。父祖伝来の土地を離れて私の示す地に行きなさいと言われてアブラハムは神を信頼して出発しました。高齢でもう子供は無理と諦めていたのに、お前の子孫は夜空の星のようになると言われてそれを信じました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のお恵みの中に生きる私たちキリスト信仰者も、聖書のみ言葉に立って、その両方を持って旅立つことが出来ますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

12月のスオミ教会・料理クラブは11日に開催されました。今回はクリスマスの季節フィンランドの家庭でもよく作られる”プッラのヨウル・クランシ(クリスマス・リース)”です。

初めにいつものようにお祈りをしてスタート。まず、プッラの生地を作ります。パン生地なので良く捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵です。その間に中身の準備をします。レーズンとチェリーを細かく切って、砂糖にシナモン、クローブなどのスパイスを混ぜてスパイス・シュガーにします。プッラの生地が大きく膨らんだらクランシ(リース)を形作るタイミング。生地をロールにして切り型にのせます。それから二回目の発酵にさらします。

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生地が発行している間、フィンランドのクリスマスの過ごし方についてのビデオを見て一休み。発酵したクランシをオーブンに入れて焼き始めると教会はクリスマスの香りで一杯になりました。

焼きあがった「ヨウル・クランシ」を切って分けます。北欧のクリスマスのホットドリンク「グリョッギ」と一緒に頂きました。ふっくらしたプッラと温かいドリンクを味わいながら、フィンランドのクリスマスとイエス様の誕生についてのお話を聞きました。

joulupulla

料理クラブが終わると教会の玄関前のイルミネーションが輝き出し、中も外もクリスマスの雰囲気に満たされました!

次回の料理クラブは新年のあと1月に開催します。日程等くわしくは教会のホームページの案内をご覧ください。次回は何を作るか、ぜひお楽しみに!

それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されたクリスマスをお迎え下さい!

 

料理クラブ2021年12月11日クリスマスのお話

今クリスマスがどんどん近づいています。店にはもう一か月以上前にクリスマスケーキや飾り物が並び始めました。クリスマスのイルミネーションもあちこちで見られます。この季節になるとフィンランドの多くの家庭ではクリスマスの準備をします。大事な準備の一つはクリスマスのお菓子を作ることです。クリスマスの季節になると普段あまりお菓子を作らない家庭でも、お菓子を焼いて家中はシナモン、グローブなどのスパイスの香りがします。これはクリスマスの香りとも呼ばれます。

フィンランドではクリスマスのお菓子の種類は多くてその中で、お菓子パンはクリスマスのテーブルの目を引く物です。お菓子パンも種類が多く今日作ったヨウル・クランシも普通です。パンの中身にはドライフルーツ、アーモンド、ナッツ、クリスマスのスパイスが入って美味しい高価なお菓子パンになります。ヨウル・クランシの形は普通は丸くて真ん中に穴があります。

kuusenpalloフィンランドではクリスマスのお祝いの過ごし方には長い伝統があります。家族それぞれに親の世代から受けついだ過ごし方を守ります。家族のクリスマスの過ごし方を守ることでクリスマスの雰囲気を高めます。

わたしたちがフィンランドにいた時もクリスマスの過ごし方は毎年同じでした。ある年のクリスマスの前に一つ大変なことが起こりました。ちょうどクリスマスの二日前に博明の腰が痛み出してもう歩けなくなりました。初めに市の病院に行きましたが、そこでは治すことは出来ませんでした。私は娘と息子と一緒に博明の状態を病院に見に行ったら、ちょどその時博明は大学病院に連れていくために救急車に運ばれるところでした。子どもたちはそれを見て少しショックを受けて、娘は「今年クリスマスは私たちには来ない」と言って泣き始めました。息子もつられて泣き出してしまいました。博明は大学病院に運ばれましたが、その夜タクシーに乗って家に帰ってきました。完全に治ってはいませんでしたが、私たちは家で家族皆でクリスマスのお祝いをすることが出来ました。

この出来はとても印象に残りました。特に娘の言葉「今年クリスマスは私たちには来ない」が耳に残りました。その意味は、私たちは例年と同じように家族皆でクリスマスのお祝いが出来ない、だからクリスマスの雰囲気にならないので、クリスマスは来ないという意味でした。しかし、どうでしょうか。クリスマスは私たちの状況に関係してあるでしょうか。そうではありません。クリスマスのお祝いは聖書に書いてあるメッセージから生まれます。それは私たちの状況やクリスマスの準備で作った雰囲気と関係なく、毎年同じメッセージから生まれます。

今から2千年前の一番初めのクリスマスの出来事を聖書で読むと、クリスマスの深いメッセージが伝わってきます。聖書には最初のクリスマスの出来事、天の神様の一人子イエス様の誕生について書いてある有名な箇所があります。「ルカによる福音書」の2章1-20節です。11-12節をみると、一番初めのクリスマスの夜に野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れたことが書いてあります。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。』」tenshi

この一番最初のクリスマスに、この世の救い主がお生まれになりました。それは神様のひとり子イエス様でした。イエス様がお生まれになった時、私たちのクリスマスのような素敵な雰囲気があったでしょうか?イエス様はどこで生まれましたか?ベツレヘムという町の馬小屋でお生まれになりました。ロバや馬や牛がいる馬小屋は汚くて臭くて寒い場所だったでしょう。その時旅をしていた母マリアとヨセフには泊まる場所は他にありませんでした。他の宿屋はもう一杯でした。このように救い主イエス様は素敵な雰囲気なんか何もない場所でお生まれになりました。しかし、救い主のイエス様が本当に私たち一人一人のためにお生まれになったということは、私たちにクリスマスの本当の喜びを与えてくれます。この喜びのメッセージは、雰囲気とか、クリスマスの準備やいる場所に関係なく、世界の全ての人々、喜んでいる人たちにも悲しんでいる人たちにも、クリスマスの準備をする人たちにもしない人たちにも皆に与えられました。クリスマスは必ず毎年クリスマスのメッセージを通してお祝いします。クリスマスのメッセージを聞いたら、あとはイエス様を自分の救い主として受け入れるだけです。

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イエス様を自分の救い主として受け入れると、天使が羊飼いに言った「恐れるな」という言葉は私たちにもその通りになります。生活の中には心配や怖いことが沢山あると思います。今世界中で広がっているコロナ感染、自然災害などは怖いことです。自然災害は私たち人間の力では解決は出来ません。しかしクリスマスのメッセージ「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。」これを心で受け取ると、天使の言葉「恐れるな」は私たちの毎日の生活の中で実現すると思います。

クリスマスにお生まれになった救い主は私たちと共に歩んでくださると、聖書に約束さています。だから何も怖がる必要もありません。

今年のクリスマスが皆さんにとって喜びを与えるお祝いになりますように。

クリスマスカレンダー 「私のクリスマスの旅」

今日は、アドベントという「待降節」に入ります。アドベントはクリスマス 前の4週間を意味します。12月1日(水)からはこのページに『私のクリスマスの旅』というクリスマスカレ ンダーを公開します。大人も子どももみんな、 カレンダーの物語を読みながらクリスマスを楽しんで迎えましょう。

文・写真:パイヴィ・ポウッカ
翻訳:パイヴィ・ポウッカ & 杉本輝世

「ダビデの子、ホサナ」

今年は11月28日からクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントが始まります。 キリスト教会のカレンダーでは待降節第一主日は教会の新年の始まりです。 この日フィンランドの教会では教会讃美歌第1番「ダビデの子、ホサナ」を歌うことが伝統になっています。新年の幕開けにふさわしい元気溢れる讃美歌です。この日フィンランド全国でこの歌が響き渡ります。スオミ教会でも毎年歌っています。是非礼拝にいらして、時差7時間あるフィンランドに先駆けてご一緒に「ダビデの子、ホサナ」を歌いましょう!

「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)