聖書研究会: 神学博士 吉村博明 宣教師

今年最初の聖書研究会です。テーマは昨年に続き「ローマ信徒への手紙」です、先生は私達キリスト教信仰者にとってたいへん重要な箇所である1章から8章までをおさらいということで読み返されました。

交わり

きょうの教会ランチはライスカレーでした、いささかか持て余し気味だった正月料理のあとのカレーは懐かしく美味しかったです。食後はクリスマスの飾りつけを片付けました。

新年礼拝説教「永遠を思う心を持って行こう」神学博士 吉村博明 宣教師

礼拝説教 2020年1月1日新年の礼拝

コヘレト3章1-11節、エフェソ4章17-24節、ルカ12章22-34節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 西暦2020年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は、昨年の12月1日に待降節に入った時に始まっています。世俗のカレンダーでは今日がが新しい年の第一日目です。この日は、教会のカレンダーではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書2章21節に記されているように、イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、その名が公けにされた日でもあります。

日本では新年は一年の中で最も大きなお祝いの期間です。以前の説教で、日本の新年の過ごし方とフィンランドのクリスマスの過ごし方に似ているところがあるとお話ししたことがあります。フィンランドでは12月24日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり(後で言うように、最近は開いている店が増えてきました)、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日12月25日丸一日あって、26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。

この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家か親元のところに帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。それなのでクリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、クリスマス・カードやプレゼントやクリスマス料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家や親元で過ごすというのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は日本と違って特に大きな休みとは考えられていません。学校は大体1月6日の「主の顕現日」くらいまでは休みで、日本の冬休みと同じですが、働く人はクリスマス後の12月27日は仕事で、1月1日は休みですが、2日からまた平常です(もちろん休みを取る人も多いですが)。そういうわけでフィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものです。

ところが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドは先ほども申しましたように、クリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、多くの店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、地元の近くの教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。より多く御利益を得ようと教会をはしごすることはありません。ひとつだけです。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者は減ります。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が前もって用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。近年は減ってきていますが、キリスト教が根付いている人にとって、クリスマスとは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから一時離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間です。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数でしょう。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っているのではないかと思います。

日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、そこに自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?お店やデパートなどをみると、1日は休みでも2日から開くのが多く、店によっては1日もやっています。それで日本の正月は日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがします。私が子供の頃は正月三が日と言ったら、どこもお店は閉まっていて繁華街も静かだったのですが。もっとも近年は働き方改革が言われるので変わるかもしれません。しかし、それも「自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離す」ためのお祝いというよりは、健康のため、より良い仕事効率のためということでしょう。もちろん、それも大切なことではあります。

フィンランド、フィンランドと同国が模範みないな偉そうなことを言いましたが、実は5年ほど前に法改正があって店の開店時間が教会の伝統にとらわれずに自由に出来るようになりました。クリスマス期間中でもやる店が増えてきているので、今度はそっちが日本化してしまうのではないかと心配もしています。

 
2.

 救世主の誕生をお祝いするという大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りあるこの世の日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」3章11節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神は私たちに見るための目、聞くための耳だけではなく永遠を思う心も与えて下さったのです。せっかく神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、日常の思い煩いに取り囲まれて、それしか見えなくなってしまいます。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、その説明は簡単ではありません。聖書の出だしの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造主の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造した。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは「神の国」という永遠の世界があるところです。今ある天と地が造られてからそれが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界ということになります。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側ないし上側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様が父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた。それは、永遠の世界におられる神が限られたことだけのこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神に守られて生きられるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。そして私たちがこの世の人生を終えたら永遠の神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて今を生きられるように、またこの世の人生を終えたらその神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神から切り離している、染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様はその人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運び上げて、人間にかわって神罰を受けて、神に対して私たちの罪を償って下さいました。そこで人間が、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見てもらえるようになったのです。そうなると人間としては、これからは神の御心に沿うように生きよう、罪に手を染めないように生きようと注意するようになります。もし、悪い思いにとらわれても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、罪の赦しは微動だにせずあるということがわかります。それで心に平安を得、神に感謝し襟を正します。いつの日か神の御前に立たされるとき、純白の衣をしっかり手放さず生きていたことを認めてもらい、永遠の神の御国に迎え入れられます。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そのようなものも「定められたもの」と言われると、この世で真面目に生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになってしまうかもしれません。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、言葉的にも人生の実際に照らし合わせても難しいところです。これを、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない、そこから出発しなければならない、ということを意味していると理解できるとします。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの天と地の中だけにとどまります。この世は不正義が蔓延るところですから、真面目に生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、最後の審判で不正義は全て清算されて正義が隅々まで行き渡っている神の国が待っていることになります。それがわかると、目指して向かうべきものが見えてきて、不正義は被っても真面目に生きることに意味がある、不正義には手を染めない、という姿勢になるはずです。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目から見て不幸な状態にいる人たちの立場が逆転するということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。もちろん、この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、それが永続する保証はありません。たとえ逆転を果たせなくても、イエス様を救い主と信じる者たちには最終的には「最後の審判の日」と「復活の日」に逆転が実現します。

 
3.

 イエス様の罪の償いを衣のように纏っているキリスト信仰者ではありますが、それでもその内にはまだ罪が残っています。自分では神の御心に適うように生きようと志しても、それが叶わない、至らない自分にいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分は一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つでしょうか?これだけ助けたら十分と見てもらえるような合否ラインがあるのでしょうか?

本日の福音書の個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これは、ギリシャ語原文を直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした度合いの分を(εφ’ οσον)あなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことは小さかったということです。少なくしたら、しなかったことは多かったということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないとおっしゃっているのです。

キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しの上に立つ限りは、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。それから、助け人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられないことばかりかもしれませんが、それでもその人たちのために神に祈りましょう。たとえ大勢の人を助けてあげられても満足せずに、世界中にはまだまだ大勢いるのだから、その人たちのために祈らなければなりません。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りが自己満足の手段になることはあり得ません。

兄弟姉妹の皆さん、今世界は皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして掲げて、それがSNSを通して拡散されて何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力がある人たち、感情に訴える力のある者たちが我が物顔です。最近よく言われるように、分断とポピュリズムとポスト真実の状況です。まさにこういう時こそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い出しましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はいつか火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなことと別のところにあることもわかります。そのような目と心を持って、今年も時代の荒波の中を進んでいきましょう。イエス様はいつも私たちと一緒におられます。あの嵐の日に弟子たちと一緒に舟に乗っていたようにです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「悩むより歩もう、主が開いた道を」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章13-23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神は悪に対して無力か?

 本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。

初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難したが、王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは、初期のキリスト教徒たちがそう見て、マタイもそれに倣って記したのかもしれません。

二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイあるいは初期のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみました。

三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ただ、明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と繋がっています。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。そして、同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰をかわりに受けて苦しむ神の僕についての預言があります。イエス様の十字架の死はその預言の成就であったと理解した人たちは、彼が「ナザレの人」と呼ばれていたことを覚えていれば、エッサイの若枝ネーツェルはイエス様のことを指すと分かったでしょう。(「ナザレ」については、民数記6章1ー21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)

 ところで、本日の福音書の中で最も難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件と思います。どうしてかというと、一人の赤子を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものがあるからです。その赤子は将来救世主になる人だから、多少の犠牲はやむを得ないと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちに危害が及ばないようにするのが筋ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつ勘違いしてはならないことは、幼児虐殺の責任者は神ではなくヘロデ王ということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、東方の学者たちがヘロデに報告しないように導きました。神はまた、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」というものでした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙に出たのです。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は天と地と人間の造り主で全知全能と言っているのに、ヘロデの暴挙も予想できなかったのか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えられなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の存在を許してきたのか、なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか、もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ただただ至福の状態にとどまることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は悪に対して力はないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.悩むより歩もう

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にとどまることができるではないかという見解に対して、次のような指摘をすることが出来ます。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいた。そして、それは創造主の神の御心に沿うものだった。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまった。この辺の経緯は創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになる。つまり善いことだけでなく悪いこともできる存在になってしまう。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死ぬ者になってしまったのです。

何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。創造主の神への不従順がそれです。世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道を採ってしまいました。それで、人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すために、神は計画を、人間救済の計画を用意されたのです。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていきますが、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現します。そのことは新約聖書で明らかにされていきます。

どのようにして神と人間の結びつきは回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められている。その呪いをイエス様は全部自分で引き受けて、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれた。神のひとり子の十字架の上での死が人間にとってとてつもなく大きな意味を持っていることは、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる力を持つ悪魔を無力化するためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。そこで、その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下さり、基本的にはもう済んでしまった。それなので、悪魔としてもこれから人間を陥れようとしても、もう陥れることが出来なくなる状況が生まれました。

そういうわけで、イエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節で言われるように、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいてその奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもありません。人間として受けたので本当の罰受けになって、人間の罪を償うことが出来ました(17節)。ヘブライ2章18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら自分自身人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので、彼は試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら、試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、わかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、罪の呪いから解放された、悪魔の力が働かない状況が生み出されました。さらに、父なるみ神にとって、ひとり子を陰府の中に留めておくことは認めがたいことでした。それで彼を3日後に復活させました。これにより、死を超えた永遠の命が打ち立てられ、その扉が人間に開かれました。ただし、悪魔は人間を死に陥れる力を失ったとは言え、人間の側で死を超えた行先が決まっていないとまた引きずり込まれる危険があります。しかし、行先も確立しました。それで、悪魔にとっては二重の打撃となりました。

しかしながら、今度は人間のほうが、そうした死に至らない状況、永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて完成した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたらその確立した状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあったのだ」とわかって、イエス様を自分の救い主と受け入れて洗礼を受けることです。洗礼を通してイエス様がして下さった罪の償いを純白な衣のように被せられる。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せられた罪の償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。あとは、この高価な衣をしっかり纏って罪を押しつぶしていきます。この世を去って神の御前に立たされた時、そのしっかり纏っていたことを認めてもらえて、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。

このようにキリスト信仰者は、永遠の命に向かう道に置かれてそこを歩んでいきます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方があるので、苦難や困難もあります。それは詩篇23篇でも言われています。「我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時がある。しかし、イエス様が御言葉を通して、聖餐を通して、祈りを通して私たちと共におられるので災いを恐れる必要はない。イエス様の衣をしっかり纏って進む道は復活と永遠の命に向かっていることに変更はない。

 以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからというのは、キリスト信仰の観点では本質的ではないということです。悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を用意しそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、これが真理です。このことがわかれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということは悩む問題ではなくなります。神がこの私にこんなにも大きなことを成し遂げて下さったということの方に目が向いて、自分が永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.正義と赦し

  終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、遅くとも必ず次の世で償いがなされる。黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らの場合は、神の書物に記された前世の行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの裁きを受けることになっています。特に、「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が造り上げたものや与えて下さるものに対して、またそれらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。

 人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。それなのに、来世で全てが償われると言ってしまったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力を軽視することにならないかと言う人もいるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる間は、神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見守って下さっていることを忘れないようにしましょう。

ところで、キリスト信仰に炎の地獄とか裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「あれっ、キリスト教ってたしか赦しの宗教じゃなかったの?」と言われるかもしれません。その通り、キリスト信仰は先ほどもお話ししましたように、罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはどういうことかと言うと、まず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことがあります。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと方向転換の悔い改めをすることがあります。方向転換もなしイエス様にひれ伏すこともなしでは赦しはありません。そういうわけで、どんな極悪非道の悪人でも、まさにこのような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

交わり

高木先生のご家族を交えて歓談のひと時を過ごしました、ことし最後の交わりに思わぬ方々との再会!神様はビッグなお計らいをしてくださいました。

クリスマス・イブ礼拝説教「クリスマスの見えない希望」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1ー20節

降誕祭前夜礼拝説教 2019年12月24日

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

  1.今朗読された「ルカによる福音書」の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。国を問わず世界中のキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される個所です。

 この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(joulu‐evankeliumi)とも呼ばれます。ちゃんと教会に通う家族だったら、クリスマス・イブの晩にクリスマスの御馳走が並ぶテーブルの席に家族全員がついて、この「クリスマス福音」が朗読されるのをみんなで聞いたものです。朗読の後で待ちに待った御馳走をいただきます。我が家もそうしていますが、近年教会離れが進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?

 御馳走の前に聖書の個所を読み聞かせるのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスは誰を称えるお祝いなのかをはっきりさせることになります。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いであり、そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのでしょうか?それは聖書によれば、彼が天地創造の神のひとり子であり、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いということを忘れないために、御馳走の前に聖書を朗読するわけです。そして、イエス様を贈って下さった天地創造の神に感謝して御馳走を頂きます。それなので、神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何か贈り物をする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからなので、それで私たちもハガキを出して「良いクリスマスと新年を迎えて下さいね」と書いて、あなたのこと忘れていませんよと伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、讃美歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。

 

2.「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで、毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教をする人は毎回新しい発見をします。出来事のあらましは以下の通りです。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、同地方のナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、マリアに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子である、と告げられます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。グーグルマップによると157,1㎞、徒歩で33時間とありましたが、身重のマリアにとっては辛い旅だったと思います。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデの家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。ところが着いてみると、町は旅人でごった返ししていて宿屋は一杯。マリアは月が満ちて今にも子供が生まれそう。そこである宿屋に併設の馬小屋があってそこに案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは、馬の餌の飼い葉桶に寝かせられました。人間の救い主となる方はこのような誕生をされたのでした。

 

3.以上がイエス様の誕生のあらましです。ルカ福音書2章ではこれに羊飼いの出来事が加わります。ベツレヘム郊外の野原で羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。そこに天使が現れて、ベツレヘムで救い主が生まれたことを告げました。羊飼いたちは神の栄光に覆われました。神聖な神の栄光ですから、目も開けられない位に眩しかったでしょう。羊飼いたちが恐怖に慄いたのも無理はありません。天使は「恐れるな」と言って彼らを落ち着かせ、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれだ、と教えます。さらに、その天使に加えて大勢の天使が大軍のように現れて、神を賛美しました。羊飼いたちはあっけにとられてこの光景を見ていたでしょう。

天使が去ってしまうと、辺りはまた暗黒の闇と静寂に包まれました。一時前の光の世界と天使たちの賛美の大合唱がうそのようです。しかし、羊飼いたちの心は光と賛美に満たされていました。周りの闇はもう気にもなりません。先ほどの恐怖心は消え去っていました。光と賛美に心が満たされた羊飼いたちは互いに言い合いました。「さあ、ベツレヘムに行こう!主が知らせて下さったその出来事を見に行かなくては。」そして、彼らはベツレヘムに向かって出発し、そこで馬小屋に宿している親子を見つけました。赤ちゃんは飼い葉桶に寝かせられていました。まさにこの子が天使の告げた救い主となる方でした。

ここで一つ不思議に思うことがあります。それは、羊飼いたちはどうやってイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのかということです。羊飼いというのは、生活の大半を野原で過ごすので都会のことなんか何もわからないでしょう。ベツレヘムは小さな町と思いますが、それでも家々が並び、役所もあり、道路や路地も沢山あると思います。馬やロバが交通手段の時代ですから、馬小屋だって一つや二つではなかったでしょう。羊飼いたちは、町のどこに馬小屋があるかもわからず、真夜中の暗い街を手探りするように探さなければなりません。星や月が輝いていたとしても、街灯やイルミネーションの明るさには比べものになりません。

私が思うに、羊飼いたちがイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのは、探しながら大声を出していたからではないか?「天使のお告げがあった、今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになった、その子は今どこかの馬小屋にいるということだ!」という具合に。羊の群れも野原に残しておけないから、一緒だったでしょう。大変なことになりました。一体何の騒ぎかと驚いた町の住民は家々から出て羊飼いたちに合流して、知っている馬小屋は片っ端から行ってみたのではないか?そして、一つの宿屋に併設する馬小屋がそれだったのです。

どうして町の人たちが合流したと言えるのかというと、17節に、羊飼いたちは天使が話したことを人々に知らせ、聞いた者たちは羊飼いたちの話を不思議に思った、と書いてあるからです。馬小屋に押しかけたのはもう羊飼いたちだけではなかったのです。

 

4.町のことを知らない羊飼いたちが、町のどこかの馬小屋にいる赤子を見つけようとして街灯もイルミネーションもない暗い街に出かけて行ったというのは、少し無茶な話に聞こえます。しかし、見つからなかったらどうしようという心配や疑いは彼らにはありませんでした。彼らは、まだ目にしていなくとも必ず目にすることになるという希望に燃えていました。

使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」の8章24~25節で次のように教えています。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」羊飼いたちの心はこのような希望に満たされていました。赤子のイエス様をまだ目で見てはいなかったけれど、必ず見ることになると信じ、それで無茶さ加減に構わず探しに出かけたのです。

そう言うと次のような疑問が生じるかもしれません。羊飼いたちの場合は、天使の告げ知らせを聞き、神の栄光を目にし、天使たちの賛美の大合唱を聞いた。それくらいのことがあれば、神のひとり子が生まれたと言われても信じて、きっと見つかると信じて、探しに行くことも出来よう。そういう驚くべきことが起きないと、見えない希望を持ち続けるなんて無理な話だ、と。

しかし、聖書が伝えていることは、実は私たちには、羊飼いたちが見聞きしたことよりも、もっと驚くべきことが起きたということです。私たちにです。何が起きたのか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活という出来事です。

神のひとり子が私たち人間の全ての罪を神に対して償う犠牲となって十字架の上で死なれました。それは、私たちが神罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、話はそれで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を今度は復活させて、死を超える永遠の命への扉を私たち人間のために開かれたのです。

イエス様の十字架と復活の業は歴史上起こったことです。イエス様があなたの救い主になると、イエス様を死から復活させられた父なる神がいつどこででも、何が起きようとも、あなたのそばについていて守って下さっていることがわかります。まさに、目には見えないけれども、決して潰えることのない希望を持って生きることになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

クリスマス・イブ礼拝

イブ礼拝に先立ってクリスマス・マーケット、カンテレコンサートが開かれました。予想をはるかに上回る大勢の方々で狭い会堂も嬉し悲鳴でした。マーケット・カンテレグループSointuの演奏などが恙無く進み7時からイブ礼拝が始まりました。。礼拝時には集会スペースにも多くの人が残り、クリスマスのメッセージに耳を傾けていました。フインランドから帰省された高木先生のご一家も懐かしい顔を見せてくださいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスマス祝会

新しい会堂での祝会が予想以上の参加者で嬉しい限りでした。持ち寄ったたくさんの食べ物をまえに美しい讃美歌の披露もあり時の過ぎるのも忘れて主の生誕を祝いました

 

木澤さんの弾き語りです、アップテンポの曲はオープニングにふさわしく祝会を盛り上げてくれました。

音楽家小林兄の讃美歌独唱です、声量のある歌唱力にうっとりしました。 

堀越家のコラボレーシオン、素晴らしかったです。

今年もたくさんの祝いのメールをいただきました、フインランドのみなさんありがとう。

有志によるコーラス、練習の成果が発揮されました。 

エッサイのギター演奏、しばらくぶりに聞いたがうまくなったです。

          教会のテーマソング”この青い空の下で”をみんなで歌ってお開きになりました。

 

説教「イエス・キリスト・インマヌエル!」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書1章18~23節、イザヤ7章10~14節

主日礼拝説教 2019年12月15日待降節第3主日

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

  イエス・キリストは歴史的にも世界的にも有名人です。彼が何者かはこのスオミ教会の礼拝の説教でも毎週お話ししています。今日の説教では、まず最初にイエス・キリストという名前を見てみます。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていて役に立つと思います。「キリスト」というのは、新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとはメシアのことだったのです。そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう思想が出てきます。聖書の預言にはそういう終末論があると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時が来ると「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。いずれにしても、イエス・キリストの「キリスト」は本名の苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。

 次に「イエス」の方を見てみましょう。これも、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は、「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われたので付けました。それでこちらは本名です。そういうふうに、イエス様の名前はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語ではイエス・キリスト)になったのでした。

本日の旧約と福音書の日課を見ると、まず旧約のイザヤ書7章に「おとめが身ごもって男の子を生む」という預言があります。その子がインマヌエルと呼ばれるということでインマヌエル預言とも言われます。インマヌエルとは、ヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוで、「神が私たちと共におられる」という意味です。福音書のマタイ1章の方は、その預言がついに実現する時が来たことを記しています。おとめマリアに聖霊の力が働いて身ごもりました。誰が生まれてくる子供をインマヌエルと呼ぶのかと言うと、ヘブライ語原文のイザヤ書では母親です(後注1)。しかし、母マリアがイエス様のことをインマヌエルと呼んだかどうかは、今日の福音書の日課の中には記されていません。ただ、ルカ1章にマリア賛歌と呼ばれる下りがあり、そこにマリアが神を賛美して述べた言葉があります。それを見ると、神はへりくだった心の者や神を畏れる者を本当に助けて下さるということがマリアの言葉として言われています。まさに神はそうした者たちと共にいる、文字通りインマヌエルな方なのだということが明らかに見て取れます。

このように、本日の旧約と福音書の日課はイエス様の名前について述べています。以上述べたことは名前の言葉についての辞書的な意味でした。これが、日課の御言葉を解き明すことで、イエス様の名前は私たちと私たちの命にとって大事な言葉であることが明らかになります。以下そのことを明らかにしていきたいと思います。

 

2.インマヌエル預言

  まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史状況の中で言われた言葉でしょうか?ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣のアラム王国と結託して、兄弟国のユダ王国を攻撃しようと計画したのです。この知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから大丈夫だ、落ち着け、そうアハズ王に伝えよ、と命じます。

 そして今日の日課の個所となります。初めは神とアハズ王とのやり取りですが、王は預言者の言葉を聞いても確信を持てなかったことが伺えます。イスラエルとアラムの共謀は実現しないと言われても、何を根拠にそう言えるのか、そこまで言うのなら証拠として神は何かしるしを見せろ、大体そんなやり取りがあったことを伺わせます。しるしというのは、大抵は奇跡的な出来事を意味します。

 それに対して神は、パニック状態にあるアハズ王に次の言葉を述べます。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」陰府というのは、死んだ者が安置される場所です。怯えてしるしを求める王に神はこう述べたのですが、どういう意味でしょうか?こういうことです。「そんなにしるしが見たいなら、自分で陰府にまで下って探し求めてみよ、あるいは、天にまで上って探し求めてみよ、そうすればきっと見れるだろう。しかし、お前はそんなところへは行ける筈がない。私を信じていればそんなところまで行く必要もない。なのに、お前はそこまで私の言うことを信じられないでいる。本当に呆れかえった」ということです。

 これに対してアハズは恐れおののいてしまって、もうしるしなど求めません、しるしを見せてくれたら信じてやるなどと神を試すことももうしません。それに対してイザヤは、「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」と言います。ここでの「もどかしい思い」とはどういう思いか分かりにくいと思います。問題となっているヘブライ語の単語(לאה)は「~を無力だと思う」という意味もあると辞書に書いてあります。それでいくと、すっきりします。「お前たちは人間を無力だと思うことではもの足りないのか?神をも無力だと思うのか?」(後注2)。

 そこまで信じられないのなら思い知らせてやろう、ということで、神は次のように言います。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」

先ほども申しましたように、インマヌエルとは「神が我々と共におられる」という意味です。この言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は大帝国アッシリアに滅ぼされ、二国の計画は頓挫すると述べます。このことは、古代オリエントの歴史の教科書にも記されている通り、紀元前8世紀にその通りになります。

 さて、このおとめから生まれるインマヌエルという子供は誰をさすのでしょうか?イエス様で良いでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王は歴代の王たちと違って神のもとに立ち返る生き方をし、預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王だったからです。そして、アッシリア帝国が大軍を引き連れて今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になりますが、ヒゼキヤ王は神の力で打開できると信じる姿勢を貫きます。アッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして18

5千の兵を失って総退却となります。列王記下19章35ー36節、イザヤ書37章36ー37節に記されています。(因みに、アッシリア側の年代記には退却したとは書かれず、生意気なユダヤ民族を十分懲らしめたから占領しないで帰還した、というような書き方をしているとのことです。昔の大本営発表みたいです。)

 このようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれました。それで、このインマヌエルはヒゼキヤ王をさすのだと考えられたのです。

 ところが、それではヒゼキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。実は、イザヤ書7章14節の預言の「おとめ」という言葉、へブライ語の「アルマーハ」עלמהという言葉は、「若い女性」、特に子供を産む前の若い女性という意味があります(後注3)。はっきりと処女の意味は持ちません。それでヒゼキヤ王は、父親のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのです。

 そうなるとは、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」とキリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?

実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インマヌエル預言」はヒゼキヤ王で完結したとは考えられなくなったことも出てきました。神の民を苦境から救い出すインマヌエルはこれから出てくるのだ、ヒゼキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだ、という見解が出てくるのです。というのは、ヒゼキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国に今度はバビロン王国から使者が来ます。バビロンは約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を連行することになる国です。ヒゼキヤ王は使者たちに王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいます。しかし、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。そして、ヒゼキヤ王の次に即位したマナセ王は神の意志に背く宗教政策をとってしまいます。それは、列王記下24章3ー4節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまいました。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのです。

イザヤ書も終わりのほうになると、神が自分の民を最終的に救う日は新しい天と地が創造される日である(66章17節、22節)と言われます。天と地が新しく創造し直されると言うのであれば、その時の救いの担い手も普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。生まれる男の子はちょっとやそっとの男の子ではない、と。まさにその時、「若い女性」と訳されたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味が深まりだします。単なる「若い女性」が子供を産むということではなく、「若い女性」が「子供が生まれる前」の状態を保ったまま子供を産むという、まさにおとめが産むという理解が生まれます。こうした理解の変化があったことを示す出来事があります。それは、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהがはっきり「おとめ」を意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたことです。

このように、インマヌエル預言は最初に語られたアハズ王のコンテクストを飛び越えて、イエス様の誕生を指すものになっていったのです。しかしながら、ヒゼキヤ王のことも意味したと言うのも、必ずしも間違いではないと思います。というのは、聖書の神の預言は、イエス様のこと終末のこと新しい世のことを預言をする時でも、預言が語られた時代に直接関係があるような言い方をします。そのため、もっと将来のことを言っているのが見えにくくなります。しかし、時代に直接関係あることは起こったように見えても、少し経つとそれは実現ではなかった、本当の実現はもっと後のことなのだとわからせるものばかりです。時代に直接関係あること、例えば、アッシリア帝国の撃退とかバビロン捕囚からの解放というものは、預言の本当の実現ではない。だけど、神は預言を実現する力がある方で、預言が口から言い出しっぱなしだけのものではないことを歴史のあちこちで示すものだったと言うことが出来ます。そういうわけで、旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という壮大な視点を併せもって理解する必要があります。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」にしてしまったものもあります。国名はあげませんが、ちょっと早まったかと思います。)

 

3.イエスの名

 さて、ヨセフは婚約中のマリアが妊娠したことを知りました。これは普通だったらショックを受けて、裏切り行為として相手を公けに非難するに値するものだったでしょう。ところがヨセフは「表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。どうしてでしょうか?マリアが可哀そうだからでしょうか?そうだったら、ヨセフを「正しい人」とは言わず「憐れみ深い人」と言うべきだったではないでしょうか?

ルカ福音書1章を見ると、天使がマリアに聖霊の力が働いて妊娠して男の子を産むことになると告げます。まだ妊娠前のことです。そして妊娠しました。どうしてそうなったか、ヨセフに伝えたでしょう。男の人によっては、そんなのは言い逃れだ!相手は一体誰なんだ!」と逆上して、事を表ざたにしたでしょう。ところがヨセフはそうしなかった。なぜでしょう?それは、マリアの言うことを信じたからでした。これは本当に神の意思によるもので、聖霊の力が働いたのだ、と。そうするとマリアは裏切ったのではないので一安心ですが、それでも生まれてくる子供は自分の子供ではない。自分の家系の一員に迎え入れられない。そうなると婚約破棄しかありません。しかし、表ざたになると、みんながみんなマリアの言うことを信じないだろう、無実なのに不倫の汚名を着せられてしまうだろう。それで事が表ざたにならないようにするしかない。兄弟姉妹の皆さん、このヨセフの行動をよく見て下さい。マリアの言うことを信じ、これは神の御心によるものと信じる。しかし、自分の子供でない以上は自分の家系に加えられない。ならば破断するしかない。しかし、マリアが無実の罪を着せられないようにしなければならない。本当に難しいかじ取りだったと思います。本当に正しく振舞ったと思います。

ヨセフが破断の結論に至った時でした。天使が現れて、マリアに言ったことと同じことを言って確認を与えます。この子供は聖霊の力が働いて宿った、と。加えて、破断の必要はない、と言いました。つまり、生まれてくる子供をヨセフの家系の一員にしなさいということです。ヨセフはダビデの末裔だったので、これでイエス様は、人間として見ればダビデの家系の出身になりました。本日の使徒書のローマ1章で言われている通りです。日本語訳で「肉によれば」と言うのは、「人間として見れば」ということです。同じ個所で、「霊として見れば」神の子であると言われています(後注4)。

天使はマリアに言ったのと同じようにヨセフにも生まれてくる子供にヨシュア/イエスという名前を付けなさいと言います。ヨセフにはその理由も言いました。「この子は自分の民を罪から救うからである」。ヨシュアの名前の意味は先ほども申しましたように、「主が救って下さる」でした。主は何から救って下さるのか?たいていの場合は、敵国から守ってくれるとか侵略者から解放してくれるというようなことを考えます。その場合は、神が守り救うのはユダヤ民族ということになります。ところが旧約聖書という書物は、神の守りや救いは一民族に限定されない、普遍的なものであると明らかにしています。詩篇130篇8節に「主はイスラエルを全ての罪から贖う」という聖句があります。天使の言葉「この子は自分の民を罪から救う」とは、この聖句のことを言っているのです。人間を罪から贖うというのは、人間を罪に支配されている状態から解放するということです。「贖う」というのは、何か代償を払って買い戻すということです。生まれてくるイエス様が何か代償を払って人間を罪の支配下から買い戻して自由にしてくれるというのです。果たしてそんなことが起こったのでしょうか?

それは実際に起こりました。創世記3章に記されていますが、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で人間の内に罪が入り込み、人間は神聖な神から引き裂かれて死ぬ存在になってしまいました。全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっていて、そこから抜け出られないということの現れになっています。

そこで神は人間がこの世では自分との結びつきを回復して、それを持って生きられるようにしよう、この世を去ることになっても、復活の日に復活させて新しい体を与えて永遠に自分のもとにいられるようにしよう、と考えました。それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪の神罰を受けさせて人間の罪の償いをさせました。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命を打ち立てました。死は目の前に永遠の命を突き付けられて絶対的な力を失いました。人間をひたすら死に向かわせようとする罪もその力を失いました。あとは人間がこれらのことは本当に自分のためにも起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受けると、その人は罪の償いを受けた人となって、神から罪を赦された者と見てもらえて、神との結びつきを回復します。同時に永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。その道を歩む限り、死も罪もその人を支配する力を失っています。その人は本当に罪と死から贖われて神に買い戻されたのです。贖いの代償は何だったでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で流した血でした。神のひとり子の犠牲です。それ以上高価なものはないという位の神聖な犠牲です。私たちは、神の目から見てそれくらい価値のある者と見なされたのです。このことがわかると、この新しく頂いた命と人生を損なうような生き方も神に背を向けるような生き方もできなくなるでしょう。

イエス様は十字架と復活の業によって、人間を罪と死から救って下さいました。そこで、詩篇の聖句と天使の言葉を見ると、救うのはイスラエルと言っています。やはり、民族中心なのでしょうか?そうではありません。罪と死の問題は、創世記を見るまでもなく、民族の区別などまだない時に人類一般のこととして起こりました。だから、その解決も人類全てに及びます。新約聖書でも「イスラエル」はユダヤ民族ではなく、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者の集合体の呼び名になっていきます。

 

4.思い起こしの励まし

 兄弟姉妹の皆さん、
イエス様は十字架と復活の業によって私たちを本当に罪と死の支配から贖って下さいました。まことにイエス様は、「ユホーシュアッ」יהושעです。

イエス様は、マタイ福音書の最後で言われます、世の終わりまで毎日私たちと共にいる、と。私たちが御言葉に聴き、それを繙く時、私たちはイエス様の声を聞きます。私たちが祈りを捧げる時、イエス様は私たちの声を聞いて下さいます。私たちが聖餐を受ける時、イエス様はそこに臨在しています。まことにイエス様は、「インマーヌーエル」אל עמנוです。

最後の審判の時、イエス様は、私たちが洗礼の時に被せられた罪の償いという白い衣を肌身離さず歩んできたことを覚えていて下さり、私たちに復活の体を与えて下さる「キリスト/メシア/マーシーァハ」משיחです。

 

イエス・キリスト・インマヌエル!

Ιησους Χριστος Εμμανουηλ!

!יהושע משיח עמנו אל

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)イザヤ7章14節のקראתは女性・三人称・単数です。マタイ1章23節ではギリシャ語に訳されたイザヤ書が引用され、そこではインマヌエルと呼ぶのは「人々」です。

(後注2)辞書(Holladyの”Concise”です)によれば、לאהは、「~を疲れさせる」という意味もあり、イザヤ7章13節がその例であると言われています。「~を無力だと思う」の例として、エレミア12章6節などが挙げられていますが、私としてはこの意味の方がイザヤ7章13節の意味がすっきりすると思います。

(後注3)辞書Holladyの”Concise”にそう出ています。

(後注4)その「霊」に「神聖」αγιωσυνηςという名詞の属格形がつくという形で限定しています。形容詞が使われていないのが面白いですが、これは「人間として見れば」に対比する形をとったのでこのような言い方になったと考えられます。

 

 

 

讃美歌の練習

クリスマスの日を来週に控えてK兄が讃美歌の歌唱指導を務めてくれました。聞いているとみるみる内にみんなの歌が上手になりました、プロの仕事の素晴らしさに感じ入った次第でした。