お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
フィンランドでは11月最初の土曜日は「全聖徒の日」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。 キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は昨日の11月5日でした。
その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方の人は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、それを見た日本人は、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、などと考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。どうしてそんな違いがあるのかについて、本日の説教を聞けば明らかになります。
「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。
東京も秋が深まり朝晩は寒く感じられるようになりました。10月のスオミ教会の手芸クラブは朝の冷たい空気を陽の光が温めてくれるような雰囲気の中で開催されました。
今回の作品はマクラメのテクニックを使ったクリスマスの飾り物でした。
初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回参加された皆さんはクリスマス・リースに興味を持ってそれを作りました。まず、糸の長さを測って結び始めます。マクラメの一つの基本の結び方を用いました。リングの上にマクラメを結んでいくと、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。参加者の皆さんは手早く結べるようになったので、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。
次はリースの飾りつけです。鈴や赤リボンやキラキラ星で飾り付けるとリースはクリスマスの装いになりました。可愛いらしいクリスマス・リースが出来上がりです!
参加者の皆さんにとってマクラメのテクニックは初めてだったので今回のクリスマス・リースはとても興味を引き付けました。時間が経つのも忘れて作業に集中したためか、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。
次回の手芸クラブは11月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はクリスマスの飾り物を作りましたが、クリスマスまではあと2か月なので少し早すぎると思われるかもしれません。しかし、クリスマスの準備の期間アドベント、日本語で待降節は11月27日から始まりますので、そこまではあと4週間位だけです。それでクリスマスの飾り物を少しづつ作り始めても良いと思いました。
今日はマクラメのテクニックを使ってクリスマスの飾り物を作りましたが、もちろんマクラメ以外にもいろんな素材やテクニックを使って作れます。また、特別の季節に飾られるものだけではなく、一般的にいつでも飾られる飾り物もいろいろあります。飾り物は家の壁にかけたり、服に付けたりして雰囲気を作ります。特に誕生日のお祝いのように、にぎやかな飾りつけは子どもたちにとって大事なことです。飾り物は自分だけでなく相手も喜ばせます。美しい飾り物は目を引き付けて力を与えられます。美術でも視覚に訴えることは重要です。また、自然の中で美しいものや景色を見ると、それはずっと目に焼き付いて私たちを力づけてくれます。私は夏のフィンランドで白夜の太陽が沈みそうになる場面や、太陽の光が海や湖の水面にあたってキラキラする美しさが今でも目の前にあります。日本は今はあちらこちらで美しい紅葉の景色を見ることが出来ます。自然の中の美しい花、新緑、紅葉などは私たち人間が造るものではありません。それは、天地を創造された神さまが造られたということがよく分かります。天の神さまは私たちに美しいものをいろいろ与えて下さる神さまです。
旧約聖書の創世記には神さまが天地を創造したことが書いてあります。天の神さまは天と地と全ての植物、動物、太陽、月など、そして最後に人間を造られました。神さまは造られたもの一つ一つを見て全てについて、「よく出来ている、これでいい」と言われました。このように天の神さまは全てのものを良い相応しいものに創造されました。造られた人間の最初の男の人と女の人もこの良さと相応しさの中で暮らしていました。この良さと相応しさがあることが美しいことなのです。
しかし、この美しさはずっと続きませんでした。どうしてでしょうか。それは最初の男の人と女の人が造り主である神さまの言われたことを守らずに破ってしまったからです。このために神さまが創造をされた時にあった良さと相応しさは壊れてしまいました。それで世界には美しくないものがたくさん現れてしまったのです。犯罪や戦争が起こるようになったのもそのためです。私たちも神さまが言われたことを守ることが出来ません。
しかし、神さまには人間が壊してしまったことを回復する計画がありました。その計画は世界中の全ての人々のためのものでした。どんな計画でしょうか?それは、私たち人間がまたいつか神さまが最初に創造された時と同じように良さと相応しさに満ちた美しい大地に住むことが出来る計画です。それを実現するために神さまと人間の関係を直さなければなりませんでした。それはどのようにして出来たでしょうか?それは、神さまがひとり子のイエス様をこの世に送って実現させました。イエス様は、私たち人間の悪いこと、罪を全部十字架の上まで背負って持って行って下さって、そこで私たちに代わって神さまから罰を受けて死なれました。そして3日後に神さまの力で死から復活させられました。イエス様の十字架と復活のおかけで、私たち人間の悪いこと、罪が全部許されて、神さまと人間の関係は元通りになりました。イエス様のおかけで私たちはこの世では神さまの美しい大地を目指して歩むことが出来ます。そして、この後に来る次の世で、その美しい大地に迎え入れてもらえます。
今、私たちは良さと相応しさに満ちた美しいものを周りに見つけることが出来るでしょうか?私たちが天の神さまの御手の業を見ることが出来るように、神さまが私たちの目と心を開いて下さるようにお祈りしましょう。
「やもめと裁判官のたとえ」 2022年10月16日(日)
ルカによる福音書18章1~8節 スオミ教会礼拝。
今日の福音書は、読んだだけで、その内容についてはすぐ、わかる、たとえ話です。たとえの内容はわかりやすいのですが、このたとえの話で、イエス様は何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカ18章1節で、こう書いています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに『たとえ』を話された。」イエス様は弟子たちが気を落とさず絶えず祈れ、と言っておられる。弟子たちのこれから先、ずうっと先まで、生涯かけてイエス様の福音を宣べ伝えて行かなければならない。大切な大切な使命を果たして行くのに、幾多の困難が山ほどあるだろう。その困難と迫害の只中で絶えず祈れ、と教えておられるのです。
そこで、イエス様はやもめと裁判官のたとえ話を持って語られたのであります。2節をみますと、「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。ところがその町に一人のやもめがいて裁判官の所に来ては『相手を裁いて私を守って下さい』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権力を持っています。政治をする為政者も又権力を持っていて、たいてい権力を持つとその力をひけらかして自分の力でどうにでもなるという誇りや高慢になります。そうして差別や偏見の目を持って不正なことも平気でやってしまいます。
このたとえの裁判官もそうとうの悪のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから、想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。
又、この裁判官は「人を人とも思わない。」のです。人間らしい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重と言った感覚は全くゼロに等しいのです。しかもそういう人が権力を持ち、この町を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定する役なのです。
旧約聖書 申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは、裁きを曲げてはなりません。人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからです。ただ、公義のみを求めなければなりません。」これが正しい裁判官、また政治をする人のありかたです。さらにパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。
「彼は善を行うために立てられた神の僕なのです。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」と、これが理想的な裁判官、政治家のあり方です。
しかし、理想であって現実のこの世では権力を我が物にして自分の力を過信して行く、ついに恐ろしいほどの人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない、高慢な、我がままで正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない。自分のために固着するしかない。権力は民衆を恐れ神を忘れ自己達成を目指す、やがて腐敗しはじめます。権力の上には神がいて神の支配のもとでないと崩壊します。いつの時代でも戦争で多くの命が踏みにじまれて悲惨な世の中はいつもある。現代の世界で独裁者が権力をふるっています。まさにプーチン大統領もそうです。やがて滅んで行くでしょう。これが現実の私たちの生きている世界、この世です。
さて、たとえ話では、その町にやもめがいて裁判官のもとに行って「私の訴訟相手を裁いて私を守て下さい。」と言っています。このやもめの姿は無力な私たちの姿のようです。このやもめは賄賂を使う金もなければ、つてもない、助けてくれそうな人もない、全く無力です。それに今彼女は訴えられています、被告です。日本に初めてキリストの教えを広めようとした宣教師の人々も迫害にあい苦難を受け、神に召されました。権力には無力です、弱い者です。
やもめの彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。唯一つ、正義の神様がいます。このお方が必ず正しいことを通して下さる。この信念があります。パウロはコリントの第2の手紙12章9節でこう書いています。
「私の力は弱いところに完全に現れる。」彼女が持っているもの、この状態は決してあるべき姿ではない、という確信です。
主の祈りにあります。「御心の天になる如く地にもなさせ給え。」という祈りです。彼女はただこの祈りを持って悪い裁判官に立ち向かいました。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きて行けないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。いかなる権力にもひるまず、訴えている。その根底には実にそのことが自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけでは生命の問題とはならないのでう。裁判官は長いこと彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。
この純真な要求は聴き入れられない。幾度も、幾度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もし、この要求が生命の問題にまでなっていなかったら、途中であきらめるか、自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官はなぜ聴き入れようとしないのか。それは、「神を畏れず、人を人とも思わないからです。正義の感覚など、微塵も持ち合わせていないからです。」この裁判官がついに聴き入れたのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけでは悪魔に対抗することは出来ません。悪魔はいつも、もっと巧みな理論を用意しています。
そこに、しばらく聴き入れない期間があります。そのような期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。(※裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。)私たちの祈りも神様にすぐ聴き入れられない期間というものがあります。そういう時があるのです。裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし、今その裁判官がその後自分自身で言いました。「私は神を畏れないし、人を人とも思わないが、このやもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。そうすれば、とことんまでやって来て私を苦しめることがなくなるだろう。」
イエス様のたとえ話は5節までです。そうして6節で主イエスは即ち言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい。」イエス様は問われます。「彼の言うことを聞きましたか。」他でもない、この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをする、と言うのです。その不思議な事実を聞くのです。ここでは、極悪の地上の裁判官が正義の神になぞられているのです。では、何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは悪い裁判官がついに正義の神の裁判を行うという不思議な事実をです。
この裁判官は依然として「私は神を畏れないし、人を人とも思わない。」がと念を押すように言っています。つまり、彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急にやもめの祈りを聞いて、その熱心さに涙を流して悔い改めた。」とは書いてありません。権力者の利己的な動機などは変わりません。しかし、彼は「この、やもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。」と言い始めるのです。「うるさくて、うるさくて、俺を煩わすから。」と言っているのです。
裁判官を正義の裁判官に変えることは出来ない。それは人間の仕事ではありません。しかし、驚くことに、この権力の利己主義を通しても神の正義が実現して行くのです。しかし、絶えず、ぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し、ただ、それのみによって動かされるのです。
旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々は、その苦役のゆえに、彼らの叫びは届きました。神は彼らの、呻きを聞き
アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの民をかえりみて下さいました。」
神が働いてくださったのです。
悪い裁判官が世界を動かしているかにみえます。しかし、そうではありません。人間には、その時その時でいっぱいあります。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・信仰、不信仰・・あらゆるものを貫いて、ただひとつ、神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書の箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ。」
神は夜、昼、神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや、神は速やかに裁きをして下さるでしょう。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を思い出すでしょうか、8節で問うておられる。これは、信仰の課題です。週末の時、どうなっているか、私たちにはわからない。神の遅き、というものは遅いのではない。神は速やかに裁きをされる、と約束しておられるのです。それは又、人の速さは速いのではない。
神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀の最大の神学者、カール・バルトが言っていることです。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主、イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って、今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただ、この神に基ずくのです。たとえ、天地が崩れ去るとも、崩れることのない土台の上に立っているのです。
ある時は、神は私たちから全てを奪って行くかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうかと思える。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。それは突如として与えられます。気付かないうちに、ある時突如としてです。神は必ず働いて下さる。
神様はいないか、に見えます。神は時として沈黙し給う。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うのです。それは、その民が神に選ばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて、神が御旨をなさるのです。神様の側でなさることであります。私たちは、あの貧しいやもめと共に、ただ感謝であります。
<アーメン・ハレルヤ>
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
クラスは【初級】【中級】の2つです。初級はフィンランド語が全くはじめての方向けです。中級はフィンランド語の基本を学んだ方向けです。
授業は19から20時までです。その後10分くらい聖書日課を読んだり、讃美歌を歌ったりします。
参加費 1000円
秋の予定は 10月19日の次は11月16日、12月14日です。 人数制限がありますので、申し込み順で受け付けます。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1757712707iamg@1757712707arumi1757712707hsoy.1757712707iviap1757712707
03-6233-7109
日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
スオミ教会・家庭料理クラブは10月9日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。 今回はこの季節にフィンランドの家庭でもよく作られるリンゴのケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキのトッピング用の生地を作って冷やします。次に他の部分の準備。材料を計ったり、リンゴをスライスして、卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てます。白く泡立ったら他の材料を中に加えて生地を作り、それをパイ皿に流し込みます。その上にスライスしたリンゴをたっぷりのせて、さらにリンゴの上にシナモンシュガーをたっぷりかけ、トッピング用の生地ものせてオーブンに入れる準備完了。これを焼き始めます。
今回の料理クラブはお子さんと一緒に参加された方もいて、親子で可愛いエプロンをかけて一緒に材料を計ったり生地を混ぜたりして、親子が共通して何かに取り組めるひと時になりました。
ケーキがオーブンで焼けている間、子どもたちの遊ぶ声や参加者の楽しそうな会話が教会中に広がっていきました。もちろん、シナモンの香りも。
ケーキは焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのリンゴのケーキの上にバニラアイスをのせてコーヒー紅茶と一緒に味わう歓談の時を持ちました。同じ時に、フィンランドのリンゴと聖書に出てくるぶどうの木のお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月12日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
日本ではこの季節になると、お店にりんご、なし、ぶどう、かきなどいろいろな美味しそうな果物がたくさん並びます。日本で育つ果物の種類は多いですが、北欧のフィンランドでは育つ果物の種類はあまり多くなく、ベリー類を除けば、りんご、西洋なし、プラムくらいです。フィンランドの夏は短く、冬は長くて寒いので他の果物はあまり育つことが出来ません。一番多く育てられる果物はりんごです。りんごはフィンランドの南の地方でよく育てられますが、寒い北のラップランドでは育てることは出来ません。
夏私たちはフィンランドに一時帰国しましたが、今年の秋のリンゴの収穫は去年程よくありませんでした。去年は庭のリンゴの木は枝が折れそうになるくらいにリンゴで一杯でしたが、今年のリンゴは少なかったです。しかし今年も実家のリンゴを取ってそのまま食べたり、リンゴのケーキを作ったりして楽しみました。
フィンランドのりんごは日本のように大きくなく豪華な感じがしませんが、フィンランド人は自分の家の庭にりんごの木を植えて育てるところが日本と違います。りんごの木は庭の女王みたいに見られ、大事に育てられます。五月の終わりになると、木には白い花が一杯さいて、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、りんごの花が咲くのを毎年楽しみにしています。
9月になるとフィンランドの家の庭のりんごの木は赤めと緑色の実が実ります。出来具合は、はじめにも言ったように、年によって変わります。春が寒かったらリンゴの実は木に何個しかできません。そして受粉者、ハチも必要です。美味しくて虫がつかないりんごが出来るためには、ピヒラヤという木の実が関係しています。ピヒラヤの木に赤いベリーが沢山出来きる年は、美味しいりんごも沢山出来ます。しかし、ピヒラヤにベリーが出来なかったら、良いりんごも出来ません。どうしてかと言うと、ピヒラヤのベリーを食べる虫が関係するからです。もしピヒラヤのベリーがあまり出来ないと、虫はピヒラヤのベリーの変わりにりんごの中に入ってりんごを食べてしまうからです。今年はピヒヤラの実はとても少なかったので、リンゴもあまり出来ませんでした。
フィンランドではリンゴの木は3種類あって、夏リンゴ、秋リンゴ、冬リンゴがあります。夏リンゴの実は一番早く出来て、味は甘く、そのまま食べて美味しいリンゴです。秋リンゴの実は固めでジャムやジュースを作るのに用いられます。冬リンゴの実は酸っぱくて、木から採った後、何週間か地下においてから食べます。冬リンゴの実はよくクリスマスの時に食べられます。フィンランド人は自分の好みの味のリンゴを選びます。皆さんはどんな味のリンゴが好きですか。
リンゴの木や他の果物の木は美味しい実が出来るために適温、栄養、水分、日光など、適切な気象条件が必要です。木の手入れも大事です。美味しいリンゴや果物が出来るために人間はいろいろ手間をかけますが、天の神様は人間が実を結ぶことができるようにもっと手間をかけます。
聖書の中にはぶどうの木について有名な話があります。そこでイエス様は、神様やご自分について次のように教えられます。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」ヨハネによる福音書15章1節です。ここでイエス様は、私たち人間はぶどうの木に繋がっている枝であると教えられます。天と地と人間を作られた天の神様は農夫の役割をして、ぶどうの木を世話するように私たちの世話をしたり、私たちを育てられます。私たちに必要な食べ物、衣服、住まいなどを与えられます。それらは天の神様の贈り物です。しかし私たちにとってそれらは当たり前のようになっています。今世界中に起きていることを見ると、それらは当たり前ではないと思うようになるかもしれません。私たちが今持っている生活の必要な物は天の神様が与えて下さるものなのです。
同じヨハネの箇所でイエス様は次のように教えられます。「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。」ヨハネによる福音書15章4節です。リンゴや他の果物の木を育てると、栄養や水分は根や枝を通して実に入ります。そして枝は木の幹に繋がっていなければなりません。これは私たち人間とイエス様の関係のことを言っています。イエス様は、枝が木に繋がっているように私たちもイエス様に繋がるようにと教えます。繋がっていれば、どんなことがあっても大丈夫になります。
イエス様と繋がることはどのようにして出来るでしょうか?それは、天の神様の独り子イエス様のことを知って信じることで出来るのです。知って信じるとは、どういうことでしょうか? 天の神様は、ご自分の独り子、イエス様をこの世に送られました。どうして送られたのでしょうか?それは、私たち人間が神様の言われたことをしっかり守ることが出来ないからです。そのためにイエス様をこの世に送られ、イエス様は十字架の上で、私たちの罪の罰をかわりに受けてくださいました。このように神様は、私たち一人一人を愛して罪の罰を受けないで済むようにして下さったのです。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させられて、死を超えた永遠の命があることを世に示されました。イエス様を救い主と信じる者はイエス様という木に繋がる枝として人生を歩むようになります。イエス様と繋がっていると、信仰の実が生まれます。イエス様を信じる信仰の実が生まれると、本当の喜びや平安が心の中で生まれます。
私たちが食べるリンゴや果物はビタミンなど健康にも良いものが含まれていますが、イエス様に繋がってできる信仰の実は魂の栄養になります。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」ヨハネによる福音書15章5節です。
ルカ17章11-19節
2022年10月9日
(いずみ教会共同体講壇交換説教)
浅野 直樹
「誰よりも信頼できるお方」
暦は10月の第二週、いつのまにか一年の終盤にさしかかっています。教会の暦も聖霊降臨後の主日が18週となりました。終わりへと向かう暦にあわせて、きょうの福音書もそれをほのめかす一節で始まっています。
11節「イエスはエルサレムへ上る途中」とあります。イエスがエルサレムへ向かう、これは聖書では何度か出てきますが、とても象徴的なひとことと言えます。イエスにとってのエルサレムというのは、十字架を指していますので、イエスはいよいよ十字架へと向かうというということを、この言葉から聞き取るべきなのです。
エルサレムへと向かうとき、イエスはサマリアとガリラヤのあいだを通っていきました。そこで十人の重い皮膚病を患っている人とイエスは出会います。「重い皮膚病」と訳されています。口語訳聖書のときはらい病と書いてあったり、ハンセン氏病と書き換えられたりしましたが、聖書学者によるとここに出てくるツァーラートという単語は、必ずしも特定の病気に限定することはできないということで、「重い皮膚病」という訳になっています。最も新しい訳の教会共同訳では、ちょっと奇妙な訳になっていて「規定の病」と訳されていました。訳する人たちがこの一言にとても悩まされ、苦肉の策で訳したんだろうなと思えます。
12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま」とあります。遠方から立ったままイエスを出迎えたのです。近づいてはいけない、近づいたら感染してしまうと思われていたので、彼らは遠くにいたのです。イエスの時代がそうだっただけでなく、近代の日本でも、らい病についてはそういうふうに言われ続けてきました。そこから差別や偏見が生まれました。けれども今はほとんど感染しないことがわかっています。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。彼等は遠くのほうから声を張り上げて懇願しました。イエスはその人たちを見るとひとことこう言います、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。「治れ」と言葉をかけるとかはいっさいなく、ここにあるのは、ただ「祭司に体を見せなさい」でした。そして彼等十人は、イエスのいうとおりにしようと祭司のところに出かけていく途中で癒されたのです。聖書には「清くなった」というルカの言葉を記しています。ただれた皮膚がきれいになったということでしょう。イエスによって癒しの奇跡が起こったのです。
ここでわたしたちの疑問は、なぜイエスは「祭司にみせなさい」と言ったのかです。当時のユダヤ社会では、ユダヤ教の議員、祭司、律法学者といった人たちというのは、一般庶民からしてみれば絶大な権力者でした。神様のことをいちばんよく知っていて、いちばんちゃんととそれを守って、そしていちばん神様に対していちばんきちんとしていた人たちだったのです。いわば神様の代理人。なんでもできる人、なんでもわかっている人なのです。医者であり、弁護士であり、大学の教授なのです。
祭司もそうした権力者の一人でした。祭司に見せて祭司が皮膚の状態を確認し、「治った」と宣言すれば、それが診断書となり、完治した証拠になったのです。ですからイエスはこのように言ったのです。
まだ皮膚がただれて治っていない状態のとき、彼等はイエスに、「わたしたちを憐れんでください」と願い出ました。病人の「憐れんでください」は、「私の病を癒やしてください」と同じです。まだ癒やされていない、そういうタイミングでイエスは、「祭司に体を見せなさい」と言うのです。まだ良くなっていないと思っている段階から、イエスさまはもうすでに「あなたがたは癒やされた」と言っているのです。このことはとても大切です。なぜならここに信仰の実態がよく表れているからです。信仰を持つ、洗礼を受ける、そして教会生活を始める。これは人生における大変化です。ただそれによって私たちの日頃の生活が大きく変わったでしょうか。悔い改めて心を入れ替えたことで、すぐ腹を立てていた自分が次の日から急に優しい性格になるかというと、そうでもないでしょう。自分が自分を知る限りにおいては、私たちはなんら変わらないのです。洗礼を受けて「あなたは救われました」と牧師から宣言される。救われたという実感は、洗礼を受けたそのときは喜びを感じることでしょう。けれどもそうした喜びがいつまでも続くわけではなく、再び普段の日常を送ることになります。日常においては救われているという実感も特にないでしょう。けれども主イエスは私たちに向かって「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」とすでに宣言しておられるのです。まだ皮膚がただれているにもかかわらず、「祭司に体を見せなさい」と宣言したように、「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」というイエスの言葉はもうすでに実現しているのです。
一人だけがイエスのところに戻ってきて、「先生、治りました」と感謝の言葉を伝えに来ました。ほかの九人もおそらく治ったのでしょう。けれども喜びと感謝の応答をしたのは一人のサマリア人でした。皮膚病が治ったとしても、ユダヤ人にしてみれば近づきたくないサマリア人だけでした。ここからもう一つの出来事が始まります。
彼らは皆癒されました。全員が祭司のところに行って皮膚が清くなったことを見せた、はずです。そして治ったことの証明をもらったのです。イエスは、治ったら私のところに戻ってきて神様を賛美するように、などと言ってはいません。戻って報告に来なかったからといって、別に責められるわけでもありません。ただ18節をみると、「この外国人のほかにはいないのか」と言っているので、ユダヤ人がだれも戻って来なかったことをイエスが残念がっている様子が伝わってまいります。
注目はサマリア人に集まります。皮膚病が癒されても、ユダヤ人からすれば穢れていると偏見の目で見られていたサマリア人です。イエスの足許に彼はひれ伏して感謝をしました。ひとえに嬉しかったからです。そのとき彼は自分がユダヤ人から差別を受けているとか、嫌われた民だということもすべて忘れていたのではないでしょうか。ただひとえに癒された喜びを素直に表して、それがイエス様のところに戻ってきて「ありがとうございます」という言葉となったのです。その喜びの大きさはどれほど大きかったことでしょう。
イエスはサマリア人にこう言いました、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」このように聞くと、サマリア人にはイエスをきちんと信じる信仰があったのだ、そんなふうに思えてきます。わたしたちが信仰というとき、それは聖書を読んで学んだことがあるとか、主の祈りを言えるとか、使徒信条をちゃんと唱えることができるとか、そんなことを考えるかもしれません。信仰という日本語が、そういうふうに思わせるのです。新しい聖書協会共同訳でも同じです。「あなたの信仰が」となっています。
ところがもうひとつの聖書があって、これはもう少し聖書学的見地を重視した聖書で、岩波書店が訳した新約聖書というのがあります。それをみるとちょっと違っていてこう書いてあります。「あなたの信頼が、あなたを救った」。信頼という言い方だと宗教的なニュアンスがそれほどなく、少し違った見方ができます。サマリア人にとっても聖書は大切な書物であった点は同じですが、聖書をどこまで読み込んで理解しているかとか、どういう解釈をしているかということよりも大切で見落としてはいけないこと、それはこのサマリア人がイエスのことをとことん信頼していたということなのです。「イエス様、どうか私を憐れんでください」と真剣に願い、大声で神様を賛美して、イエスの足許にひれ伏す姿から、サマリア人がイエスを心底信頼していたのだとわかります。
誰よりもサマリア人を受け入れるイエス、そして誰よりもイエスを信頼し感謝をささげるサマリア人。この両者の在り方のうちにこそ、信仰とは何かが表れています。形式ではなく、血筋でもなく遺伝でもなく、はたまた社会の常識やしきたり、特定のものの見方ではありません。無条件に受け入れていくイエスの愛に信頼すること、それが信仰です。そのイエスを素直に信頼する心が、私たちを主イエスと結びつけてくれるのです。
テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」
聖書箇所 ローマ10章1~11節
1.はじめに
ローマ10章9~10節でパウロは「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公けに言い表して救われるのです。」と言います。これをどのように理解したらよいでしょうか?9月25日の聖書研究会の質疑応答の時、これは迫害を前にした時のキリスト信仰者の心構えと理解できるという意見がありました。私は、ここは、律法を行うことで神から義とされ救われるというユダヤ教の伝統から決別した信仰の有り様を表現していると教えました。迫害の心構えの役割を持つようになったことは否定しませんが、それは後のことで、パウロがこれを記述した時点では、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様であったということを以下に見ていきます。
2.10章4節
新共同訳では「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」とあります。「目標」と言っているギリシャ語の言葉テロスの意味は「終わり」とか「終着点」です。それで、
「キリストは律法の終わり/終着点です。信じる者全てに義がもたらされるための」となります。「律法の終わり」とは、律法が廃棄されるとか消滅することではありません。ローマ3章から7章までを振り返ればわかるように、「律法の業を行うことで神から義とされる」という有り様が終わりということを意味します。このようにこの節は前に述べられたことが凝縮されています。これを踏まえないと後に続く箇所がわからなくなります。
3.10章5~8節
新共同訳では「(5)モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。(6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。(7)また、「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。(8)では、何と言われているだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
「キリストを引き降ろすことにほかなりません」と聞くと、キリストを引き降ろしてはいけないと言っているように聞こえます。キリストは天にいなければならないのだと。これはその通りかなと思わせますが、「キリストを死者の中から引き上げることになります。」はどうでしょうか?キリストを死者の中から引き上げてはいけないと言っているように聞こえ、キリストは死者の中にいなければならないような感じがします。これは完全におかしいです。この5~8節が正しく理解できないと、問題の9~10節も理解できません。
5~8節の理解には、パウロがここで土台にしている申命記30章11~14節を見ないといけません。
申命記30章11~14節(新共同訳)
(11)わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
(12)それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない.
(13)海のかなたにあるものでもないから、「誰かが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
(14)御言葉(※)はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
※ ヘブライ語のダーバール。意味は「言葉」の他に「もの事」、「事柄」、「出来事」です。ここでは神の戒め、律法を指すことは11~13節を見れば明らか。
この申命記の個所で、律法は遠くにない、とても身近にある、口と心にある、だから行える、それ位身近にあるということを言っています。一つ注釈すると、ヘブライ語の原文は「行うことができる」ではなく、「行うことができるように口と心にある」が正確です。新共同訳は少し楽観的かなと思います。
この申命記の個所を土台にすると、ローマ10章5~8節で、キリストを引き降ろすとか引き上げるとか言っているのは、キリストは引き降ろすには及ばない位に身近にある、引き上げるに及ばない位に身近にあるという意味であることが分かります。それでその個所をギリシャ語原文に忠実に訳すると以下のようになります。
(5)モーセは律法に由来する義について次のように書いた。
「律法の掟を行う人は掟によって生きることができる。」(レビ18章5節)
(6)しかし、信仰に由来する義は次のように言う。
「心の中で『誰が天に上がっていくことができのか?』などと聞いてはいけない。そんなことを言うと、キリストをそこから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)
(7)また、『誰が深い所に下って行くことができるのか?』などと聞いてもいけない。そんなことを言うと、キリストを死者のところから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)
(8)そんなことではない!(申命記に)何と言われていたか?
「御言葉(※)はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。」
すなわち、これが私たちが宣べ伝えている信仰の言葉(※)なのです。
※「御言葉」も「言葉」も両方ともギリシャ語のレーマです。「言葉」なのに有名な「ロゴス」でないことに注意。レーマの意味は広く、「語られた事」から転じて「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「物事」、「事柄」の意味を含みます。パウロは申命記30章14節のダーバールにこのレーマを当てはめました。というより、旧約聖書のギリシャ語訳で既にレーマと訳されていたのです。
「御言葉はあなたの近くにあり」の「御言葉」は何を指すか?6~7節から明らかなように「キリスト」です。パウロは6~9節で、「キリスト」と「イエス」を使い分けています。「イエス」と言うと、地上にいた時のイエス様の意味になります。「キリスト」と言うと、十字架と復活の業を遂げて今天の父なるみ神の右に座して将来再臨する方という意味が強くなります。
この「御言葉」は、「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「事柄」なので、キリストそのものを越えてキリストが十字架と復活の業によって成し遂げた贖いを含みます。それを象徴するものとしてのキリストです。そのキリストの贖いが申命記の律法に代わって、口と心にある位に身近になったのです。大きな入れ替えかもしれませんが、言葉上はダーバールがレーマという同義語に代わっただけになっています。
そこで、8節終わりの「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」について。この「言葉」は先ほどの「御言葉」と違います。「御言葉」はキリストとその贖いを指しました。ここの「言葉」、これもレーマですが、なんの「事柄」でしょうか?
新共同訳のように「信仰の言葉」とすると、前にある「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」が「信仰の言葉」になります。そこで、これを「信仰の事柄」とすると、「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」は「信仰の事柄」ということで、「信仰の内容」とか「信仰の有り様」ということになります。つまり、「キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある」というのが信仰の内容、信仰の有り様になるのです。
「私たちが宣べ伝える信仰の言葉」はまた、「私たちが宣べ伝える事柄すなわち信仰」とも訳せます。そうすると、「『キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。』これが私たちが宣べ伝えている事柄すなわち信仰なのです。」この場合も、キリストの贖いが口、心の中にある位に身近にあるというのが信仰の有り様であることを言っています。
4.10章9~10節の理解
以上のように8節は、イエス・キリストの十字架と復活の業による贖いが洗礼を通してキリスト信仰者の内に注がれて口と心の中にある、それ位身近にあることが信仰であると言っています。あとは、キリストの贖いをそのまま口や心の中に留めて身近なものにしていれば救われるのです。口にあるからそれを公けに言い表すのは自然なこと、心の中にあるから心で信じているのは自然なことなのです。言い表すことと心で信じるということは口や心の中に留めていることなので救われていることなのです。これが9節の意味です。10節はユダヤ教の伝統から決別したことを念頭に置いて見たら次のように言い換えることが出来ます。「かつて律法を行うことで人は義とされ救われるとされていたが、キリストが贖いを成し遂げて洗礼が設定されてから以後は、人は心で信じ口で公けに言い表して義とされ救われるのである。」
5.終わりに
以上、ローマ10章9~10節は、申命記に照らし合わせて見ていくと、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様を言い表していることが明らかになったと思います。この大転換は、パウロが手紙を書いた当時の人たちだけではなく、その後の時代の人たち、現代を生きる私たちにとってもキリスト信仰を理解する大事なポイントであり続けていると思います。
それから、この個所が迫害を前にした心構えになるということについて。パウロがローマの信徒たちに手紙を書いたのは西暦50年代です。皇帝ネロの治世の西暦64年にローマで大火災が起こり、キリスト教徒が犯人扱いされ大きな迫害が起こりました。伝説によれば、パウロの殉教はこの迫害の時とも言われています。キリストの贖いが口と心の中にあるのが信仰であるという教え、そして、その口にあるもの心にあるものを言い表しつつ信じることで、律法がなしえなかった義認と救いを得られるという教えは、迫害を前にしたパウロ本人をはじめ、この手紙から学んだローマの信徒にとって心構えになったのは間違いないでしょう。
現代を生きる私たちも、このユダヤ教の伝統からの大転換をわかった上で、口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じると、本当にキリストの贖いが口と心の中にあるというふうになるでしょう。(了)
教会員の皆さん、「魂ケア」にどうぞ
フィンランドの大学の神学部には「魂ケア」という科目があります。 何を学ぶかと言うと、悩み事その他なにか心に引っかかるものがあって一人ではなかなか平安を得られなくなってしまった人の話し相手や聞き役になって一緒に解決の糸口を見つけるということです。牧師が授業を担当し、学生同士で事例について話し合い、最後は病院に派遣されて実習をします。
これを聞くと、それは日本の神学校で行われてる「臨床牧会教育(CPE)」や「牧会カウンセリング」のことではないか、と思われるでしょう。授業には、「悲しみと向き合う作業」という課題もあり、これなども近年日本でもよく耳にする「グリーフ・ケア」のことでしょう。
私個人としては、「臨床」とか「カウンセリング」と聞くと、専門医学的な感じがして身構えてしまうのでフィンランド的に「魂ケア」の方がしっくりします。それに加えて、コンテクストの違いもあります。フィンランドでは国民の大多数はルター派国教会の会員なので話をする相手は間違いなくキリスト信仰者ということになります。それなので「魂ケア」は、話す側も聞く側もルター派のキリスト信仰の枠組みの中にいて共通の言語を用いることが出来るということがあると思います。ところが、日本ではキリスト信仰者は全人口の1%という圧倒的少数派な上、教派も様々です。「枠組み」とか「言語」においてフィンランドとは比べものにならない難しさがあると思います。それで日本では、「臨床」とか「カウンセリング」という学術専門的な言い方が相応しくなるのかもしれません。
そうは言っても、フィンランド社会もこの20~30年の間に大変貌を遂げました。私が神学部で勉強していた2000年代初めは国教会所属率はまだ80%台、「魂ケア」の教科書も所属率が90%以上の頃に書かれたものでした。今では所属率は60%台、ヘルシンキ首都圏では50パーセント台です。きっと、「魂ケア」の科目も変貌したと思います。
とは言っても、教会員の皆さんは同じ枠組み、共通の言語を手にした方たちです。それらを活用し鍛えない手はありません。是非「魂ケア」にどうぞ!(ヨシムラ)
宣教師のフィンランド国内支援教会訪問について
フィンランドのルター派国教会の海外伝道の仕方は、それぞれの教会が宣教師を派遣するという形ではなく、 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のような国教会公認のミッション団体が宣教師を養成・派遣し、国教会内の教会がそれを支援するというやり方を取っています。国教会内で私たちヨシムラの日本伝道を支援する教会は12あります。その他にも3教会が派遣宣教師に関わらずスオミ教会を支援し、あとSLEY傘下の3教会もスオミを支援しています。
今年は、ヨシムラを支援する教会を7つ(オウライネン、ヴァ―サ、ユルヴァ、ライティラ、マスク、ヴァハト、パイミオ)とスオミを支援する教会を1つ(コウヴォラ)を訪問しました。今年の訪問先は、北のオウライネンが滞在地トゥルクから550キロ、東のコウヴォラが350キロと拡がったため、移動距離は延べ3,500キロになりました。
教会訪問で何をするのかと言うと、訪問日が日曜日の時は礼拝の説教を担当し、平日ならば小礼拝や各教会の海外ミッション行事を担当します。今年は2つの教会で説教が予定されていましたが、一つは都合により交替になったので、教会堂での奉仕は説教1つ、平日小礼拝1つでした。
海外ミッションの集会は、プログラム本体は大体2時間位で、最初30分位のコーヒータイム、讃美歌、牧師の挨拶とメッセージ、吉村から日本一般及びキリスト教会の動向の報告、讃美歌、パイヴィからスライド写真を交えてのスオミ教会の伝道の報告、讃美歌、質疑応答、祈り、讃美歌という内容がどこでも同じです。開始の30分前までに到着しなければならず、終わった後も参加者との懇談は続くので実質4時間位の仕事になります。今年は2日がかりの行事が2教会でありました。
この他にも、教会の地元の小中学校や高校や施設の訪問、教会役員との懇親会等もあります。今年は学校訪問はありませんでした。近年では、国教会と言えども公立学校に宣教師を招くというのは信教の自由からよろしくないという見方が、国教会所属率が低下している南部を中心に強まってきています。(ヨシムラ)
「光の子らよ、目覚めよ」 2022年9月18日(日)スオミ教会
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。 アーメン
聖書ルカ福音書16章1-13節
今日は、経済の話をします。経済と言ってもですね、物価高とかインフレと言った、ふつう、私たちが考える経済じゃあありません。
聖書の中で話された「イエス様のたとえ話」です。
イエス様は時々、難しい話をされました。
今日の福音書で、弟子たちに語られたたとえ話も、まさに最も難解な箇所と言われるところです。
ある牧師はこう言っています。
「イエスのいくつかのたとえ話のうちで、最も議論を呼び、最も危険を含んだものの1つである」と。
イエス様が語っておられるたとえ話を聞いているのは、どんな人たちであったでしょう。
もちろん、イエス様といつも一緒にいた、12人の弟子たちです。その他にも多勢いの人々がいました。
ルカは15章の始めの所で書いています。
【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、言い出しました。「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と不平を言いだしたのです。
そこで、イエスは次の「たとえ」を話された。」とあります。
たとえの始めには「ある金持ちに一人の管理人がいた。」とあります。この当時、管理人というのは、地主が遠くにいて、その土地を小作人に貸したり又その代金をいろんな型で管理する、その権威の一切をまかされていたのです。ですから大事な財産の一切をまかせるからには主人は絶大な信頼をおいていた事になります。
ところが、この男が「主人の財産を無駄使いしている」とつげ口する者があった。いわば不正をしていた事がバレて、訴えられたわけです。主人は彼を呼びつけて言いました。「会計報告をだしなさい、もう管理を任せておくわけにいかない」。あれほど信頼して一切をまかせたのに裏切られたわけです。
もうここでは主人に対して釈明する余地がありません。全く信頼できない。後任へ引き継ぐための報告書を出しなさいと断言しているんです。さて管理人は困りました。そして考え込んだのです。
これから、どうしようか。肉体労働する力もないし、かと言って物乞いするのもはずかしい。
そうだ、こうしよう、と彼は一計を案じたのです。管理人の仕事はクビになった。でも自分を家に迎えてくれるような友を作ればいいのだ。あとはそれから考えていけばいい、とぐらい思ったでしょう。
そこで、彼は主人から借りていた者たちをひそかに1人1人呼び出して、最初の者に言うわけです。「私の主人にいくら借りがあるのか」すると「油100パトスです。」彼は言いました「これがあなたの借りている証文だ、急いで50パトスと書き直しなさい。」100パトスという量がどれくらいなのか。
この当時の油100パトスは今で言えば約2300ℓというすごい量です。
そして、次の者に「あなたはいくら借りがあるか」と言うと「小麦100コロスです。」ではそれを80コロスと書き換えなさい。両方とも巨大な量を約半分にしてあげているわけです。
もともと管理人だった彼は不正な財産管理をして横流しして自分のふところに入れていた、それに
加えて借金の証文を書き換えさせるというとんでもないことをしていて、とてもほめられるべき行為ではない。危機に直面してなりふりかまわず、生きのびる道を画策したのです。
現代の私たちはこの不正な管理人を許せない!と思う。どうでしょうか。
ところが、8節を見ますと、このたとえで主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を「ほめた、」とあります。主人の財産をうまいこと横どりして自分のものにしている、あげく、証文を書き換えさせている、というのに主人がなぜほめているのでしょうか。私たちには納得できない難しいところがあります。このたとえ話をどう解釈したらいいのでしょうか。そこに難しさがあり、危険性もある、というわけです。私たちは、この当時の時代背景を知らないとこの難しい経済はわからないのです。
律法学者たちを代表するユダヤ教の世界では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。
しかし、金銭や食物等による商取引の場合には利息を含めて貸借をする習慣があったのです。
律法の精神は貧しい者から搾取してはならない。しかし、相互に利益になるようであれば、利益を相互に分け合うのだから禁じられてはいなかった。つまり、ある人が貸し与えられた以上は彼は
何ほどかの物を持っているわけだから貧しいとは言えない。
例えば、このたとえ話で、小麦100コロス貸し与えられた者はその小麦を持っているわけで貧しいのではない。その貸し与えられたものに、利子が含まれるのは当然のことです。ところで、小麦の場合100のうち20はすでに利子分として含まれているから証書には利子分は記されていない。
20の利子を含んだ100の全量として書かれているのです。通常、こういう取引にはいちいち主人に報告せず管理人の裁量にまかされていたのです。
この解釈によると、このたとえ話で管理人が解雇されるという危機に直面して取引証書を持ち出して、負債者が利子を払わなくてよいように利子分を書き改めさせた、といことになることで油の証文を100→50に直しています。つまり割引いたのは利子分であった、ということです。油が半分は利子であった、のは油の取り扱いで陰でよく水まし等されていたから利子の率が高いのが普通であった、というわけです。100のうち半分は利子であった、というわけです。
彼は利子の分を書き直させ、負債者は大喜びです。彼の将来の自分の地位と身の安全を負債者からあがない取ったのです。つまり恩を売ったのです。さて、主人はどうですか、利子の分は別として実質的に何も失ったわけではない。友人の便利をはかってやって援助してやった、ということで主人は周りからありがたがられているわけです。たとえ利子が管理人のふところに入ったとしても
貪欲の避難を受けないため主人は管理人の行為をいちいちとがめない。主人の利子分を差し引いたな、等と言われない。主人は太っ腹のふりして見て見ぬふりするしか他になかった。そういう習慣がこの当時あったのです。それで八方丸くおさまったわけです。
だれも損しない。そこで主人はこの管理人の「利口なやり方」をほめたのです。
たとえ話は7節までで8節後半はこのたとえ話をされたイエス様のコメントが記されています。
つまり、イエス様はご自分の12人の弟子に向けてこれからの生き方への姿勢にきびしい警告をなさっているわけであります。8節b「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」そして9節の言葉には、こうあります。「そこで私は言っておくが不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば金が無くなった時、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
つまり、友人のために富を尽くした者には天使たちが迎えに来て、永遠の住まいに入れられるだろう。富は元来、自分のためではなく、友だちのため、まわりの必要としている人々のために用いてこそ、それは自分の永遠の安らみが用意されていることになる。
矢内原忠雄という先生の解説にはすばらしいものがあります。
この世の子らは、主人顔して時代の中で勢力を占めているがいきすぎ行くこの世だけである。永遠の神の国に於いては彼らはもはや威張ることはできない。この世の子ら、すなわち神を信じないこの世の人々はこの世のことに於いては実に巧妙に振る舞うのである。一方、神を信じる光の子らは、この世渡りの巧妙さにおいてはとうてい彼らに及ばない。しかしこの世の子らが、この世の生活において持つ用意に比べて、光の子らは神の国の生活に対して持つ用意が劣るようではならない。
見よ、あなた方は、いつ、あなた方の「富める人」すなわち神からあなた方に託されている財産の管理状況を求められるかわからないのである。神からあなた方に託された、あなたの命、あなたの体。あなたの精神、あなたの学問、あなたの信仰、あなたの財産、すべて、あなたは自分の利益のために使いこみはしなかったか。その不始末に対してあなたは神のさばきを免れないであろう。
あなたが、この世を去るべき日が来るであろうその時、あなたは、あなたの身をよせるべき安住の場所を準備していますか。
あなたを家に迎えてくれる友を得るために心を働かせよ。それだけの知恵と用意をあなたは払うべきではないか。あなたにとって友の中の友は誰ですか。あなたの真の友、それはイエス・キリストであります。この世でのあなたの生涯の富も、財産も、力も、知恵も、体も、精神も、そのすべてをキリストを友とするために働かせなさい。この世で、たよりとしていたすべての富が失せる時、なくなった時、あなたの永遠の住まいに迎えてくれる最大の友はイエス・キリストであります。さて、イエス様は1節から9節のたとえを語られて更にこの話をきいている弟子たちに大事なことを語られます。それが10~13節です。なぜ不正な管理人は主人からほめられましたか。それは彼の巧妙さを感心されたのであって忠実ではない。彼は主人の所有物を取ろ扱うことにおいて忠実ではなかった。彼は主人をうらぎったのです。
この世の事だから、これを管理し、処理するのに不忠実であっても良いということではない。この世の事は神の国の事に比べて小さい事です。しかし、
小事に忠実でないものは大事についても忠実ではない。この世の事柄の処理に於いて忠実な人は神の国の事柄についても忠実であります。自分に託された仕事が、いかに小さい、この世の事柄であっても、それを忠実に果たす心のある者に神の福音を宣べ伝える任務が託されるのです。
あなた方に管理を託された「不義の富」すなわちこの世の富は本来あなた方のものでなく、この世の人の財産の所有であります。すなわち、人のものであります。しかし、それを扱うについて忠実でなければ、あなた方のものである「真の富」すなわち、神から出る永遠の生命を与えられることはない。
あなた方の主人は神である。従ってあなた方のこの世に於ける生活の目標は神に仕えることでなければならないのです。「神と富に仕えることはできない。」と13節にあります。しかし、神に仕えるということは、この世に於ける働きには身をいれて忠実に働かなくてよい、ということではありません。
神に忠実に仕える者はこの世の小事にも忠実な僕となる、ということです。
これに反して富を主人として、これに仕える者は、ただ神の国の永遠の生命をつがないだけでなくこの世の富についても忠実には管理しない者です。たとえで言うあの不正な管理人が主人の財産の管理に忠実でなかったのは彼が真の神に仕える信仰をもたず神の国に於ける永遠の生命を目標として生きなかったからです。従って彼は主人の利益を害してでも自己の利益を計ろうとしたのです。この不忠実な自己の利益のみ頭がいっぱいで、まことの主人をないがしろにした事は決してゆるされることではありません。
イエス様の弟子たちへのメッセージ です。「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。だから、ひぁりの子らよ!目を覚ませ!この世の子らより、賢く、主人である神さまから賜っている宝を、光り輝かすため、充分に用いて活かしなさい。」
<祝福>
人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン