お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
♰ ペンティ・マルッティラ SLEYアジア地域コーディネーター
(フィンランド語からの訳)
「キリスト信仰はイエス様の歴史上起きた死と復活に基づきます。自らの死をもって主は罪と死と悪魔の支配を打ち破り勝利しました。キリストの復活は、イエス様を救い主と信じる者全てがかの日に永遠の命へと復活を遂げることの保証です。イエス様が最初に永遠の命に復活されました。キリストのものである者たちがかの日それに倣います。」
『しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』 第一コリント15章20節」
♰ セイヤ&パーヴォ・ヘイッキネン 元スオミ教会SLEY宣教師、 ラハティにて
「フィンランドのルター派教会の復活祭讃美歌の歌詞をもってスオミ教会の皆様にご挨拶申し上げます。
『心怯える多くの人が、あたかもイエス様がまだ墓の中に安置されているかのように、悲しみを心にため込んで通り過ぎていく。多くの人が独りぼっちで希望を失ってため息をついてる。しかし、それは、復活されて私たちと共におられるイエス様が私たちの心を満たす時までのこと。』
私たちの主は本当に死から復活されました。今は喜びの時です!」
♰ ティ―ナ・ラトヴァ-ラスク SLEY宣教師インターネット伝道部門
ミカ・ラトヴァ-ラスク 元SLEY宣教師
(原文は日本語)
「スオミ・キリスト教会の皆様、
主のご復活のお慶びを申し上げます!イエス・キリストが私たち一人ひとりの心に真の平安・生きる喜びと希望を与えられますように。」
♰ パイヴィ&マルッティ・ポウッカ元SLEYスオミ教会宣教師
イエスは生きておられます。ですからキリスト者は希望を持っています。
時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙一1:3-4)
イースターの喜びと希望を皆さんにお祈りいたします!!!
♰ 高木賢 SLEY宣教師インターネット伝道部門
アンナカイサ・タカキ 元SLEYアジア地域コーディネーター、 ヘルシンキにて
スオミ教会の皆さん、イースターおめでとうございます。
神の御子イエス様の十字架の死と復活は私たち人類にとって唯一の罪の赦しであり救いであり揺るがぬ希望です。洗礼を通して神の子どもとされ信仰をもって天の御国への帰り道を終わりまで歩み続けましょう。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)
「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」
(「使徒言行録」4章11〜12節、口語訳)
♰ シルッカ-リーサ&ペッカ・フフティネン 元SLEYスオミ教会宣教師、元SLEY海外伝道局長、元SLEYアジア地域コーディネーター
イースターおめでとうございます。 スオミ教会の兄弟姉妹に久しぶりに会うことが出来ましたことを感謝します。一人一人の上にそして吉村先生とPaivi先生の上にイエスキリストの復活の力と喜びがありますように。 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」コリントの信徒への手紙一 15:54-55
フィンランドでは、イースター/復活祭はクリスマスに並ぶ教会の大きなお祝いの時です。前週の「枝の主日」から受難週に入り、金曜日から復活祭翌日の月曜日までの4日間は国の祝日となります。木曜日はまだ平日なので聖木曜日の礼拝は夕方にあります。イエス様が十字架にかけられる前夜の晩餐を記念して聖餐式が行われます。礼拝が終わるや否や、聖卓の上にあるものは花瓶も蝋燭立ても全て片付けられて、黒い布が敷かれます。その上にイエス様の受けた傷を象徴する赤いバラの花が5本置かれます。
聖金曜日の礼拝は、黒い布をかけられた聖卓を前にして、讃美歌斉唱もオルガンの伴奏なしという暗い沈んだ雰囲気の中で守られます。礼拝後は会衆は交わりの時を持たずに直ぐ帰宅、教会は静まり返ります。
復活祭は盛大に祝われます。深夜に礼拝を行う教会と行わない教会がありますが、どちらの場合も朝の聖餐式礼拝を行います。聖歌隊も出て、私たちの救い主イエス・キリストの復活を喜び祝います。礼拝後は家庭でお祝いします。クリスマスと同じ連休なので実家に帰って親族と会う機会になります。皆で一緒に食事をして、マンミやパシャというイースターのデザートを楽しみます。翌日月曜日も礼拝がありますが、流石に出席者は少いです。
あと、キリスト信仰とは関係ないのですが、この季節に子供たちが魔女の格好をして、家々を回ってネコヤナギの蕾がついた枝を渡して、お菓子をもらう風習があります。私たちが住んでいたトゥルクのある南西地方では「枝の主日」の午後、パイヴィの実家のある南ボスニア地方では聖土曜日に行われ、地方によって日が違います。その日は町角や住宅地のあちこちで箒と小枝を持った小さな魔女のグループに出くわします。私たちはイースター連休はいつも実家に帰省したので、ウチの子供たちはこの「お菓子ねだり」を毎年2回していたことになります。あまりにも信仰に関係ないので、訪問先で復活テーマの子供讃美歌を歌いなさいと言ったことがあります。そうしたら、夫に先立たれたばかりのご婦人が涙を流して喜んでくれたそうです。
今月の手芸クラブは桜が満開の時期の中での開催でした。朝はまだ少し肌寒い感じでしたが昼間は太陽が輝いて暖かい春の陽気でした。
前回に続いて今回もマクラメのコースターを作ります。
初めにコースターのモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回の作品は太目や細目の糸のどちらでも作ることが出来ます。参加者はモデルに合わせて糸を選び必要な糸の長さを測ります。各自マクラメを結ぶ場所を準備して結び始めます。今回も二つの基本の結び方を用いました。初めは巻き結びで一段を結びます。次は平結びでコースターのメインの結びです。参加者の皆さんは結びに集中しつつも、おしゃべりや笑い声も聞こえ楽しい雰囲気の中で作業ができました。完成された方やまだ途中の方もおられましたが、皆さんのコースターはレースのようなきれいな模様が現れていました。コースターのフリンジはお家に帰って仕上げることにしました。
作業を終えてコーヒータイムに入りました。今回は先週のチャーチカフェでも出されたバタープッラも一緒です!皆さん、温かいプッラを美味しく頂きました。今回はフィンランドから海外ミッションのボランティアとして日本に来たロサさんも一緒だったので、歓談は賑やかになりました。終わりにロサさんの「信仰の証」を皆で聞きました。ロサさんはこの日が帰国の日で、夕方ヨシムラ宣教師の家族が成田空港まで見送りに行きました。
次回の手芸クラブは4月26日に予定しています。日程が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。
皆さまこんにちは。今日の手芸クラブの終わりに聖書に関係している小さなお話をしたく思います。私はまだ日本語が話せないので、パイヴィさんに通訳をお願いしました。私はスオミ教会の礼拝、料理クラブやフィンランド語クラスに参加して、もう何人もの方と知り合いになりました。この教会に通われている方々はみんなとても素敵な方たちで、お会いできてとても嬉しく思います。将来また皆さんとお会い出来たら嬉しいです。今日は初めてお会いする方もいらっしゃるので、少し自己紹介をします。私は24歳でフィンランドからミッションのボランティアとして日本に来ました。私は日本での伝道に関心があり、ミッションの働きを知ることができればと思って来たのですが、もう今日の夕方フィンランドに帰ります。フィンランドのクリスチャンは将来に関係していることについて話す時によく言う言葉があります。それは、「もし神さまの御心であれば」という言葉です。それで私も、天の神さまの御心であれば、またいつか日本に戻ることができると信じます。
今日はマクラメのテクニックを使ってコースターを作りました。マクラメは手芸のテクニックの一つで、いろんな結びを使って装飾的な模様が出来ます。マクラメの作品はフィンランドでは人気がありますが、多くの人たちはマクラメのテクニックはどこから来たのか知りません。マクラメの歴史はとても古いです。何千年も前のバビロンとアッシュリアの遺跡から見つかった石の板にマクラメの結びの絵が描かれていました。マクラメのテクニックの発明者は一人ではなくて、様々な国の人たちが何世代にもわたって、マクラメの模様をいろいろな材料や使い方のために作っていったのです。マクラメの結びは粗い糸を使っても実用的で素敵なものができます。パイヴィさんが私に手芸クラブのお話をお願いした時、私はすぐ話のテーマが分かりました。
3週間前、私は日本に来るとき飛行機に13時間半も乗っていました。とても緊張しました。一人で世界の向こう側に旅行をするのは私にとって初めてだったからです。飛行機の中でいろいろ考えるようになりました。どんなことから始めたらいいのか?日本語が出来ないので、東京での生活は大丈夫だろうか?考えるととても疲れましたが、なかなか寝ることは出来ませんでした。
夜、飛行機が飛んでいる時に乱気流がありました。中国の上空で飛行機はとても揺れるようになりました。私の隣に座っているドイツ人の女性は手を合わせてお祈りをしました。その時、私も勇気を出してカバンの中から聖書を取り出して飛行機の中で読み始めました。その時、開いたページには次のように書いてありました。「恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」イザヤ書43章1~3節です。
30分後に飛行機の揺れはおさまり、私は浅い眠りに落ちました。その後また乱気流が始まりずっと続きましたが、この時は私はもう落ち着いていました。私は神さまを信頼しているので、もし神さまの御心ならば悪いことは何も起きないと信じることが出来ました。だれでも恐れることはありますが、私たちクリスチャンは神さまが助けて下さることを信じています。親が子どもを助けてくれるように、神さまは私たちをいつも助けてくださいます。
先ほど読んだ聖書の箇所で言われているように、神さまは私たちをまとめて一緒にではなく、一人一人に個人的に語りかけて下さいます。神さまは「 私はあなたの名を呼ぶ」と言われます。神さまは私たち一人一人を名前で呼ばれるのです。親は子どもを呼ぶ時、もちろん名前で読びます。呼ぶ理由がいろいろあります。子どもがご飯を食べに来るようにとか、学校に行くようにとかですが、子どもを呼ぶ最も大事な理由は、親は子どもを愛しているからです。
天の神さまは親と同じように私たち一人一人を愛して名前で呼んで下さいます。どうしてでしょうか?それは、私たち人間が造り主である神さまをもっと知って信じるようになるために、そのために一人一人を名前で呼ばれるのです。それは、私たちが百点満点を取る学生だからではなく、また完璧に仕事をこなす者でもなく、素敵なマクラメの装飾品を作れるからではありません。それは、天の神さまが私たちを愛してくださるからです。
この話を通して皆さんも天の神さまとご自分の関係を考えてみたら良いと思います。神さまは皆さんのことも一人一人名前で呼んで下さいます。皆さんはそのことを信じることができるでしょうか?皆さんは今日手芸クラブに参加したのは偶然でしょうか?それとも神さまの道びきでしょうか?これらの質問を皆さんお一人お一人心の中で考えてみてください。私は皆さんとこれからずっと会うことが出来ないかもしれませんが、フィンランドに帰ったら皆さんのことをお祈りするときに覚えたく思います。
聖書日課 イザヤ書50章4-9a節、フィリピ2章5-11節、マタイ21章1-11節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。
受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、意味は「救って下さい」と神にお願いするものでした。同時に、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語で言えば、さしずめ「王様、万歳」ということでしょう。そのホーシーアンナ―が、当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。
ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書のもともとの言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事があって異国での捕虜生活の間にアラム語化していきます。イスラエルの地に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝ではヘブライ語の聖書が朗読されましたが、それをアラム語で解説していました。イエス様を迎えた群衆がヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。この出来事は最初アラム語で言い伝えられました。後にギリシャ語でマタイ福音書が書かれた時、マタイは群衆の歓呼の声ホーシャーナーを「王様、万歳」とギリシャ語に翻訳せず、アラム語の音声をそのままギリシャ文字に置き換えてホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を開くと当時の群衆の生の声が響いてくるのです。「王様、万歳」と訳したら意味は分かりますが、声は聞こえてきません。マタイは現場の生々しい雰囲気を後世に伝えたかったのでしょう。
そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様をユダヤ民族の王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城がある自分の町に入る時は、大勢の家来や兵士を従えて白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。ちぐはぐな感じがします。どうしてロバなんかに乗って来るのでしょうか?
さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰も乗ったことのないものを、と言います。まだ誰も乗っていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行動を神聖なものと示すのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳と歓呼で迎えられつつも、ロバに乗って、これは神聖な行動であると、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何なのでしょうか?
このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真剣で人類の運命に関わる重大な神聖な出来事でした。イエス様のこの行動は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」に注意します。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。マタイはこれを引用した時、なぜか「柔和な者」としか書きませんでした。ヘブライ語原文で「義なる者、勝利者、へりくだった者」と言っているのになぜ「柔和な者」だけになってしまうのか?こういう時は、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳を見てみます。マタイは福音書をギリシャ語で書いたので旧約聖書もギリシャ語版で見たのかもしれない。ところが、ギリシャ語訳は「義なる者、救う者、柔和な者」です。「柔和な者」が出てきます。「義なる者と救う者」もあります。どうしてマタイはギリシャ語版の「柔和な者」だけを採用してあとのものを省いたのでしょうか?マタイ11章29節を見ると、イエス様が、労苦する者、重荷を背負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私は「柔和で心からへりくだった者」なので、わたしの軛を負い、私から学びなさい、そうすれば、あなた方は魂に休養を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休養を得られるカギはイエス様の柔和さとへりくだりにあると考えて、それで「柔和な方」に全てを集約してしまったのではないかと思われます。果たしてこの説明が正しいかどうかはわかりませんが、本説教ではイエス様が王であると言う時、ヘブライ語原文通りの「義なる者、勝利者、へりくだった者」ということで見ていきます。
最初に「義なる者」について。「義なる者」とは、神に義と認められた者、神聖な神に相応しい者です。イエス様は神のひとり子で罪を持たない神聖な方なので間違いなく義なる者です。加えて、イエス様は神の意思に反する罪を持ってしまっている私たち人間を罪の支配から解放して、私たちも義なる者となれるようにして下さいました。十字架と復活の業を果たすことで、それを可能にしたのです。このようにイエス様が義なる者であると言うのは、自らが義なる者であることと、他者にも義を与える者であるということです。しかしながら、当時の群衆からすれば、まだ十字架と復活の出来事が起きる前ですので、イエス様が自ら義なる者ではあるとわかっても、他者を義なる者にして下さるとは誰もわからなかったでしょう。
次に勝利者について。イエス様が勝利者であると言う時、それはどんな勝利者でしょうか?イエス様は十字架と復活の業を果たすことで罪と死を無力にし、人間を罪と死の支配から解放する道を開きました。それでイエス様は罪と死に対する勝利者です。しかし、まだ十字架と復活の出来事を見ていない群衆は、そこまではわかりません。イエス様が勝利者という時、群衆の目に映っているのは、これから占領者ローマ帝国の総督とその軍隊そして彼らに付け入る同胞の支配層を追い払うという民族の英雄です。とても罪と死に対する勝利者、人間を罪と死の支配から解き放ってくれる解放者にまで思いは及びません。
「へりくだった者」というのは、本日の使徒書の日課フィリピ2章で言われている通りのことです。ここでパウロは当時フィリピの信徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用しています。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところは、ギリシャ語原文では段落が別になって行も短くなっていて引用であることを示しています。このキリスト賛歌はパウロ自身の作である可能性もあります。
パウロがこれを引用した意図はこうです。パウロは、キリスト信仰者とは相手にけんか腰になったり高慢に振る舞ったりはしないのだ、相手を自分より優れたものと考えてへりくだるのだ、しかも、各自自分の利害に目を向けるのではなく他人の利害に目を向けるのだ、と勧めます。どうしてそうしなければならないのかと言うと、イエス・キリストがそうだったからと言うのです。私たちの救い主がそういう方だったのにあなたがたはそんなの嫌だとは言えないではないか、ということです。イエス様が果たしてそういう方であったかどうかは、広く唱えられているキリスト賛歌からも明らかでしょ、今ここで引用するからへりくだることについてよく自己反省しなさい、ということなのです。
「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
しかしながら、へりくだりについても、十字架と復活の出来事はまだです。それで、神のひとり子ともあろう方が人間の救いのために神と同等であることを捨てて、十字架の死を受け入れるくらい神の意思に従ったこと、これがへりくだりの真相だとわかった人はいなかったでしょう。むしろ、民族の解放者になる偉大な王様がロバに乗ってやって来るという、何か威厳さとか権威とかそういうものの正反対の様子がへりくだりを表していると思ったでしょう。
このようにゼカリア書9章の預言は広い深い内容を持つものでしたが、ロバに乗ってエルサレムに入るイエス様を見た人々はそこまではわかりません。ついに民族解放の日が来たと期待を強く抱いたのでした。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦しました。また、彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に出てくる終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称したことも指導層にとって許せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。
イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。イエス様が神の想像を絶する力で死から復活させられたことがそれです。これによって死を超えた永遠の命があることが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活が本当に起こるものであることが明らかになりました。
そこを起点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様は死に引き渡されたまま放っておかれることのない神の子であることが明らかになりました。それでは、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が持ってしまっている神の意思に反しようとする罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。罪を持たない神に相応しい僕が人間の受けるべき神罰を自ら受けて、人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまっている人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれました。イエス様の十字架と復活の業によって人間が罪の呪いから解かれて永遠の命を生きられる可能性が開けたのです。
そこで今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。行き先は、永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。
最後に本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちの心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から救い出して神との結びつきのうちにこの世と次に来る世の双方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも自分は神の立場に立つ者とわかっているので何も怖くはありません。暴行は痛いし辛いが、自分の立場は神を裁判官にした裁判では潔白以外の何ものでもない。神を裁判官にした裁判が8節と9節で言われます。
8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」神がイエス様を死から復活させて、彼が罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。そのようにイエス様の潔白は人々の前で証明されます。
「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことで、それで、上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、ということです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨のことが続きます。
「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」それでここは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。
9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」
「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから、私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にそばにいて働きかけていることを意識していることを感じさせる箇所です。
同じ意識はキリスト信仰者にも当てはまります。この日本では、さすがに暴力を振るってまでして信仰を捨てさせるようなことはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷は起きると思います。キリスト教を名乗って社会を騒がせる団体がいろいろある昨今ではなおさらです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰で生きる以上、神を裁判官とする裁判では潔白なので、動揺せず恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、人々にへりくだって、自分より優れた者として接して、自分の利害を脇において他人の利害を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、を続けていけばいいわけです。
非難や中傷は他の人から来ず、心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、その意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配いりません。確かに私には神の意思に反する罪があるが、その罪はイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、と思い出して、そこに踏みとどまればいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放すつもりはないと悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から差し出されて受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前も、イザヤ書50章9節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は51章9節にも出てきます)。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注1 ギリシャ語のモルフェ―が日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥ―ロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もありまる。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。
SLEYから派遣されていたロサさんが任期を終え今週水曜日にフインランドに戻られます。 短い期間でしたが教会の人気の女性でした。今日の交わりの席で信仰の証をしてくださいました、身近に経験した飛行機の中での出来事を交えながら感慨深い証でした。
前回に続いてマクラメのテクニックを使ってコースターを作ります。今回は、細目のマクラメの糸を使います。
可愛いらしい、きれいなコースターはテーブルの飾り物にもなります。
手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
材料費は500円~800円です(作るものによって変わります)。
お子さん連れでもどうぞ!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1765637251iamg@1765637251arumi1765637251hsoy.1765637251iviap1765637251 03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
講師:SLEY(フインランド・ルター派福音協会)宣教師・神学博士 吉村博明
宣教師の週報コラム 修養会「キリスト教、特にルター派は死者にどう向き合うか?」
3月19日春の青空が広がる爽やかな午後、スオミ教会から徒歩15分位のところにある肥後細川庭園に場を移し、庭園内にある松聲閣(しょうせいかく)の集会室にて修養会を行いました。テーマは「キリスト教、特にルター派は死者にどう向き合うか?」。テーマの趣旨について2月12日の週報コラムでお知らせしたものを以下に紹介します。
“旧統一教会の問題が今やこの国の政治や社会を揺るがす大問題になっています。どうして日本人は「霊感商法」にかかりやすいのかということについて、先日新聞の生活欄に識者のインタビュー記事がありました(朝日9月13日、「霊感商法トリック知り防いで」聞き手は社会心理学者の西田公昭・立正大教授)。
西田教授いわく、「超自然的なパワーや『ご先祖様のおかげ』『たたり』などを信じる日本文化が影響しているのは確かだと思います。」
確かに見渡せば、大多数の日本人は、仏壇や墓の前で死者に話しかける、死者とのコミュニケーションの宗教性を持っています。お寺の住職もそれを推奨するし、今健康でいられるのは先祖のおかげとか、亡くなった方が見守って下さっていると普通に言われます。そのため、何か不運なことが起こると、霊的な原因を求める土壌があると考えられます。
西田教授は続けて、「『私は信じない』と反応する人は圧倒的に多い。でもそれは、あなたがいま幸せに暮らせているからそう言えるんです。人生にはいろいろなことが起きる。問題を抱えたタイミングで声をかけられたときの怖さや、トリックに気づけているかが大切です。」
ルター派のキリスト信仰は、死者とのコミュニケーションを取らない宗教性を持ちます。当教会の礼拝や聖書の学びで教えてきたように、「復活」の信仰があるからです。先立った方は今、復活の日まで神のみぞ知るところにて安らかに眠っている、だから、今見守って下さっているのは他でもない神であると観念し、不運なことがあったら「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍を恐れじ、なんじ共にませばなり」(詩篇23篇)という心意気でいます。
こういう時世ですので、キリスト信仰の「復活」について復習し、ルター派の信条集「一致信条集」の関連個所(聖人に対してどう向き合うかという問題について)を学ぶ機会を持つことは時宜を得ていると思います。日本人の大半が言う「無宗教」は「無神論」でないこともわかります。乞うご期待”
発題は吉村が行い、最初に死者とコミュニケーションを取る日本人の宗教性について具体例や識者の観察について紹介、次にキリスト信仰の復活についてのルターの教えを紹介しました。それから、ルター派教会の教義集「一致信条集」の中にある関連箇所を一緒に見てみました。関連個所とは、一つは、(復活の日を待たずに一足早く天国に迎え入れられた)聖人たちに助けを祈り求めてはならないという教え、もう一つは、死者の救いの為に聖餐式礼拝が行われていたという宗教改革前の慣行を批判するところです。
関連個所を二つに絞りましたが、それだけでもかなりの内容で、大事なことを全て手短にまとめられたか自信がないままの発題になってしまいました。また関連個所は以上の2つの他にもあると思います。発題後の話し合いの時間に参加者からいろいろな意見やコメントがありました。後日、発題の欠けている部分を補ってテーマの論考を公けにできたらと思っています。
マタイ福音書の16章に、イエス様が弟子たちにこれからエルサレムで起こる自分の受難について予告した時、それを否定したペトロを叱責する場面があります。 その時イエス様がペトロに言った言葉、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16章23節)。ペトロをサタン呼ばわりして、失せろ!と言うのはとても厳しいお言葉です。
先日フィンランドのトゥルク市にあるSLEYのルター教会の礼拝説教を聞いていると、T.ニスラ牧師が、今回説教を準備した時、ひとつ新しい発見をしたと言って以下のことを教えました。
「引き下がれ」(フィンランド語訳では「どけ」)はギリシャ語原文では、ヒュパゲ(行け/立ち去れ)オピソームー(私の後ろに)である。「引き下がれ」と訳したら、オピソームーの意味が消えてしまう。オピソームーは大事な句である。イエス様がペトロとアンドレに「私について来なさい」と言った時に使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ4章19節)。「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言った時にも使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ16章24節)。それなので、マタイ16章23節は本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」という意味になる、ということでした。
イエス様は神と人間の失われていた結びつきを回復するために十字架の死の受難を受けて復活を遂げるという使命を帯びていました。それを否定しようとするのは結びつきを邪魔する悪魔と同じ立場になってしまいます。ペトロよ、即刻その立場から離れて、私の後ろにつけ、お前は私の前に立ちはだかるのをやめて私の後に従ってついてくればよいのだ、ということなのです。そして、十字架と復活の出来事の後、イエス様の後ろについていくというのは、彼が打ち立ててくれた罪の赦しのお恵みから外れないようにその中に留まって生きるということになります。そうすることで私たちは復活の初穂であるイエス様に続いて復活を遂げるのです。
言い訳がましくなってしまいますが、私の辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)がオピソームーを、基本は「私の後ろに」だが、マタイ16章23節は「私のもとから」と訳していいなどと言うので見落としてしまったのでした。本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」なのに、「私のもとから立ち去ってしまえ」になってしまったのでした。イエス様の本意は過ちをした人を遠ざけてしまうことではなく、ご自分の後につき従わせて罪の赦しのお恵みに与らせることなのでした。
どうして辞書がそんな理解を示してしまったか少し考えてみました。旧約聖書のヘブライ語ではよく「行け」という命令形の「レーク」が次に来る文の導入的な役割を果たします。例えばサムエル上16章、次主日の日課なので見てみると1節「レーク(行け)エシュラ―ハカー(私はお前を送る)」。「私はお前を送る」が主で、「行け」はそれに注意を喚起する飾り言葉のようなものです。イエス様のペトロ叱責も同じように考えてもいいのではないだろうか?もちろん、イエス様とペトロはアラム語で会話していますが、動詞「行く」はヘブライ語もアラム語も同じ「ハーラク」です(命令形は違いますが)。同じようにイエス様の「ヒュパゲ」(行け)も、次に来る「オピソームー」(私の後ろに)の導入的なものとみなして、強調点は「私の後ろに」に置かれるという具合に。
そのように考えると辞書を書いた人たちは「ヒュパゲ」にこだわりすぎて、「立ち去れ、私の後ろに」とつじつまがあわなくなって、「私の後ろに」ではなく「私から」に訳したほうがいいなんていったのではないかと思われた次第です。
3月の料理クラブは11日、春らしい暖かい陽気の日に開催されました。今回はフィンランドの惣菜パン「サルヴィ」Sarviを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。はじめに生地を作ります。計量した材料を順番にボールに入れて、強力粉を少しづつ加えてよく捏ねると生地の形が見えてきます。次にマーガリンを入れてさらに捏ねて生地が出来上がります。ここで一回目の発酵をさせます。その間にサルヴィの中身を準備します。ハムとパプリカを細かく切ってチーズはすりおろしたものを使います。生地が大きく膨らんだのでサルヴィを作り始めます。丸い形に伸ばして、いくつもの三角形の形に切ります。それぞれの上に中身のものをのせます。それからクルクル巻いて角の形に作ります。みんなで楽しく作りました。あっという間に鉄板にはきれいなサルヴィが沢山並びました。それから二回目の発酵をして、オーブンに入れて焼きます。サルヴィはまた大きく膨らんで美味しそうな焼き色がつきました。
早速テーブルのセッティングをして席に着き、出来あがったサルヴィをサラダと一緒に頂きました。もちろん、コーヒー紅茶も一緒です。歓談のひと時に、今フィンランドからスオミ教会にボランティアとして来ている大学生の紹介、それから食べるサルヴィと聖書に出てくるサルヴィ(角)についてのお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。4月は都合により料理クラブはお休みとなります。次回の料理クラブの日程等が決まりましたら、ホームページでご案内しますので、どうぞフォローしてください。
今日は皆さんと一緒にサルヴィを作りました。サルヴィはフィンランドの惣菜パンの一つです。日本にはコロッケパン、カレーパン等の惣菜パンがありますが、フィンランドではサルヴィの他にもひき肉や魚の肉が入った揚げパン、色んな種類のパイがあります。フィンランドのパンの歴史の中でサルヴィはそんなに昔から作られたパンではありませんが、私は中学生の時、学校の家庭科の調理で簡単なサルヴィを作ったことがあります。
フィンランドではサルヴィはおやつやスナックとして、またパーティの軽食としても出されます。あまり店で売っていなくて、ほとんど家庭で作られます。サルヴィのレシピはいろいろあります。生地は、今日作った材料のものが一番多いです。他には、牛乳のかわりに水を切ったヨーグルトを入れるレシピもあります。今日はイーストを入れて発酵させましたが、生地にベーキングパウダーを入れて早く作れるレシピもあります。サルヴィの生地はソフトでマイルドな味わいなので、中身には風味の強い食材、例えばチーズ、パプリカ、ハム、ハーブチーズ、スパイスキノコ、サンドライト・トマト等が選ばれます。入れる中身によって「チーズ・サルヴィ」、「キノコ・サルヴィ」などと呼ばれます。一番よく作られるのはチーズ・サルヴィです。
サルヴィはフィンランド語で動物の角を意味します。角のような形をしているのでそのように呼ばれます。食べ物と動物の角との関係は、サルヴィだけではありません。フィンランドでは昔、ソーセージを作る時に牛の角を使ってソーセージを作りました。私の実家の引き出しに角が入っているのを見て驚いたことがあります。母はソーセージを作る道具だと教えてくれたものでした。
角は動物にとって大事な部分です。というのは、敵や脅威が近づいていたらそれで守るからです。角は動物の体の最も強い部分だから身を守ることができるのです。私たち人間に角はありませんが、角みたいに私たちを守る者があります。そのことについて聖書には書いてあります。旧約聖書の中に角という言葉が出てきたら、それは「力」や「権力」を意味しました。
新約聖書の中では「ルカによる福音書」1章の「ザカリアの預言」のところで角が出てきます。ザカリアとは、聖書の中に出てくる洗礼者ヨハネという人のお父さんです。ザカリアと奥さんのエリザベトは子どもに恵まれず、もう年をとっていました。ある日、天使がザカリアに現れて「エリザベトは男の子を産む」と告げ知らせました。ザカリアはこんな年寄りにそんなことは起こらないと疑いました。すると彼は口を聞くことができなくなりました。しかし、その後でエリザベトは本当に妊娠して男の子を産みました。名前を決める時に近所の人たちはお父さんにならってザカリアがいいと言いましたが、エリサベトは、いいえ、ヨハネです、と言いはりました。人々が驚いてザカリアに聞くと、彼は板に「この子の名前はヨハネ」と書きました。すると突然ザカリアは話せるようになって、次の預言を語ったのです。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて開放し、我らの為に救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」ルカ1章68~69節。
ザカリアは「我らの為の救いの角」と言いました。「救いの角」とは何を意味するのでしょうか?角が動物を守る部分であるのと同じように、「救いの角」は世界中の人々を悪いものから守る方を意味しました。つまり、クリスマスの時にお生まれになったイエス様のことです。イエス様は神の子なので角のように強く、私たち人間を守る為にこの世にお生まれになりました。それではイエス様は私たちをどのように守るでしょうか?
私たち人間は心の中にある罪や周りにある悪いことから自分を完全に守ることができません。イエス様は私たちの心の中にある罪を全部かわりに背負ってくださって、十字架の上で私たちの罪の罰を私たちにかわって受けて死なれました。しかしそれで全てが終わったのではありませんでした。十字架の上で死なれたイエス様は三日後に復活されて、死を超えた永遠の命に入れる道を開いてくださいました。このようにイエス様は私たちが罪の罰を神さまから受けないですむよう守って下さったのです。さらに、悪いものが奪い取ることが出来ない永遠の命を私たちに与えて下さり、私たちが神さまの子どもになれるようにして下さったのです。神さまは子どもを守られます。イエス様は本当に「救いの角」なのです。イエス様が救い主であると信じて受け入れると、この「救いの角」は私たちをあらゆる悪いものから守って下さるのです。
今日はサルヴィ「角」の惣菜パンを作りました。パンと一緒に聖書のみ言葉の「救いの角」の意味も覚えて行きましょう。
「永遠の命に至る水」 スオミ教会2023年3月12日(日)
ヨハネ福音書4章5~42節
今日の聖書は、イエス様とサマリヤの女がヤコブの井戸で出会われた、有名な話です。 まず、4章からまとめて見てゆきますと、バプテスマのヨハネが領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられた。そのためバプテスマの弟子たちによりイエスの弟子たちがの方が増えてゆく。すると、どうなるかユダヤ教のファリサイ派の連中がイエスの方に競争相手としてトラブルを起こしかねない。そう思われたイエス様は危険を感じられて洗礼を授けることを一切やめてガリラヤ地方へ行く決心をされたのでした。ガリラヤ地方へ行くにはサマリヤ地方を通って行かねばならなかった。サマリヤに「スカル」という町がありました。イエス様はそこへおいでになりました。そこには、ヤコブの井戸があった。そこへ「サマリヤの女」がわざわざ「井戸の水くみに来た」というのであります。ここに「わざわざ」とあります。これは、ちょいと近所の井戸に「水くみに来た」といったものではない。近くにはいくつもの泉もあるのに、」2キロも3キロも歩いて来るという、特に聖なる井戸の聖なる水を求めて来た出来事であります。現在ここにはギリシャ正教の聖ヨセフ教会が建てられています。教会の建物の中から階段でずうっと地下に降りて行きますと直径3m程の井戸があります。実際イエス様が座られた井戸です。私も前にこのヤコブの井戸へ行き自分で水くみ用の竿にバケツを下げてくみあげました。とても冷たいおいしい水でした。4月のはじめの頃でしたが気温30度以上のとても暑い日中でした。6節を見ますと「イエスは旅に疲れられ、そのまま井戸のそばに座っておられた。「正午頃であった」とあります。暑さの中イエス様は旅の疲れで、口も渇いておられましたから、ここの水をくみに来た女に「水を飲ませて下さい」と乞われたのです。9節では、サマリヤの女は言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに飲ませてくれ、とおっしゃるのですか」と女は驚きました。どうして、女は驚いたのでしょうか。まず、一つには見たところユダヤ人のラビのように見える男である、あなたが「女のわたしに」声を掛けるということ自体に驚きました。ふつうなら家族以外の見知らぬ男の人から女に向かって声を掛けられること自体あり得ないことでした。ユダヤ教の学者が女性に話すことは最も恥ずべき事と信じていたからです。しかし、もっと驚くことは「あなたはユダヤ人でありながら、サマリヤの私に水を乞う」ということが又驚きでした。ユダヤ人とサマリヤ人との間には紀元前722年にサマリヤがアッシリアという大国に滅ぼされる、ということがあって、又ユダヤもバビロン大国に滅ぼされる、という悲惨な歴史が始まって以来、ユダヤとサマリヤの両方の間に神殿をめぐって激しい憎しみの間柄にありました。ですから、サマリヤの女は、ユダヤ人である、あなたが「水を飲ませてくれ」と乞うのですか・・・、これは内心たいへんな驚きです。イエス様はそうした全ての事情を知った上で、この女と関わってゆかれるのであります。福音書記者は「ユダヤ人はサマリヤ人とは交際しないからである」と記しています。ここに「交際する」と訳される言葉には「一つの品物を共に用いる」という意味が含まれましたから。さらにサマリヤの女は言います「主よ、あなたは汲む物をお持ちにならない」ではないか。それなのに不浄の身である女に、つまり汚れている身である女の使う釣瓶やバケツやコップといった品物を共に使うということは禁じられているのではないのですか、と言うのです。これが女の最も驚いたことでした。ここから、イエス様はサマリヤの女との間に絶妙な会話がなされて行くのでした。恐らく実際にはもっといろいろな話し合いが交わされたことでしょう。福音書記者は独特の手法でまとめているわけです。3章の始めにニコデモという偉い人が夜こっそりイエスのもとを訪れる話があります。3:2「ラビ、私どもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています、神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことは出来ないからです。どうして、そのようなしるしが出来るのでしょう」と問うているのにイエスは謎めいた、神秘な短い言葉で語られる。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」そうすると、相手の方はその言葉の深さを理解できない、それで頓珍漢な返事をする。年取った者がもう一度母の胎内に入って生まれることでしょうか。それに対してイエスは答えられる。「水と霊とによって、生まれなければ神の国に入ることはできない。」ますます分からない。風は思いのままに吹くと答えられる。イエスは深い意味で教えてゆかれる。こういう形でイエスの深い神秘な啓示が開かれてゆく、とい手法であります。イエス様とサマリヤの女との対話も全く同じであります。はじめに「水を飲ませて欲しい」というイエス様の呼びかけにサマリヤの女の方は驚きます。私たちの信仰生活の生涯の中でも考えられない驚きや奇跡をイエス様は何度も起こしておられるのではないでしょうか。驚きの中で更にイエス様はサマリヤの女に言われた。「なに!私が誰であるか、神の賜物が何であるかを知ったらお前さんの方から頼み込んでくるはずだ」と変なことを言われる。そこで女は「なにさ!自分の方から水をくれ、と言っておいて変なことを言う、あなたはどこからどうして水を手に入れるのですか」と疑問が出てくる。そこから会話は絶妙に発展してゆきます。10節では更に大切な言葉が進みます。それは「水を飲ませて下さい、と言ったのが誰であるか知っていたならばあなたの方からその人に頼むようになり、その人は生きた水を与えたことだろう。」ヤコブの井戸の水は確かに渇いた口を潤してくれる。が又渇くあろう。しかし、その人の与える水はそうではない。「生きた水であって、尽きる事がないのだ。」この生きた水は14節の終わりで示される、それは「永遠の命に至る水」のことである。私たちは、もうこれが一つの霊的なものの象徴であることを悟ることができるでしょう。では「生ける水」とか「イエスの与える水」とか「永遠の命に至る水」とは何のシンボルなのか、ということです。旧約聖書を読んできたユダヤ人やサマリヤ人には少なくとも二つのことは、すぐ分かることでした。第1は「水」と言うとき、神様からの啓示或いは神様の言葉のことです。水は神様が授けて下さる知恵の象徴であります。今日の会話のところで言いますと、サマリヤの女はイエスのことを「預言者である、とお見受けします」と言っています。そう言って次に礼拝の場所の違いが問題になりイエスは教えられます。神は霊である、だから霊と真理を持って礼拝をしなければばらない。25~26節では女はこう言います。「私はキリストと呼ばれるメシアが来られる時、私たちに一切の事を知らせて下さいます。」するとイエスは言われた。「それは、あなたと今、話している、この私である」。この瞬間サマリヤの女はどんなに驚いたことでしょう。29~30節で、その様子がわかります。女は「メシアが来られた」と叫んで人々に伝えたのです。ですから「イエスが与える水」と言うのは何よりも「一切を知らせる神からの言葉、そのものである」という事ができる。もう一つは旧約聖書からの象徴で「神の霊」を「水」ということで表していることです。ヨハネ3章5節でイエスはニコデモに向かって言われた。「水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」。同じようにヨハネ7章37節では、もっとはっきり分かるようにイエスは祭り終わりの大事な日に立って言われた。「誰でも、渇く者は私のところに来て飲むがよい。私を信じる者は聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。これは信じる人が受けようとしている御霊を指して言われたのである。」イエス様とサマリヤの女との出会いの最後にはこの女は救いとなる」「生ける水」を得ることになりました。そして、まことのメシアに出会って希望に満ちた喜びに変えられました。
―――― ――――――――――――――――――◇――――――――――――――――――――――――
毎日毎日、人目を忍んで日照りの長い道のりを、ひっそり水をくみに来るその罪ある女は、もうこれからは心の中の真の渇きをすべて満たしてくれる尽きることのない「生ける水」を得ることが出来たのであります。私たちは、イエス様が与えて下さっている「生ける水」をどう受け取って生かされて行きましょうか。私たちは、この世で物質によって生きている、空気も水も食べ物も、これにたよって一生懸命です。この世では物質によって生かされています。しかし、この世にいつまでもいるわけにゆかない。魂だけの霊の世界です。物質は何もない、頼りにはならない世界です。霊の世界で「永遠に生きる」ものを聖書は示してくれているのです。霊の世界での「生ける水」は神様から特別にあらわされた御言葉であります。神様からの御霊が注がれることであります。神様が神の救いの御旨を人間に知らせて下さり、それを人間が受けて新しく変えられる、それがすべて、この「生ける水」、それは神の言葉、愛の世界であります。イエスというお方は私たち人間の魂が救いを喘ぎ求めている渇きを満たして下さるのです。イエスは又私たちに神の救いと神の知恵とを与えて救いの喜びを味わせて下さいます。その象徴は、まことの「生ける水」「永遠の命に至る水、神の愛、神の言葉であります。ヨハネは3章34~36節でこのことを記しています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が『霊』を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手に全てを委ねられた。御子を信じる者は永遠の命を得ている。」私たちは毎週の日曜礼拝に於いて教会の中心であるイエス・キリストから神の言葉を聞きます。神の言葉の霊の力によって、神の救いに至る永遠の命を与えられています。ペテロは第1の手紙で1章22~23節に次のように書いています。「あなた方は真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから清い心で深く愛し合いなさい。あなた方は朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わる事のない、生きた言葉によって新しく生まれたのです。」サマリヤの女は、まことのメシア、キリストに出会って全く新しくされ、永遠の命の魂に生かされる人生へと変えられました。私たちも神の言葉が私たちを霊的に新しくされ永遠の命の魂へと生かしてくれるのであります。
アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。