2020年度スオミ教会定期総会

当教会の主任牧師である浅野直樹牧師(市ヶ谷教会)の立会いの下に定期総会が開かれました。吉村博明宣教師から提案された今後の教会の在り方についての議題をめぐって遅くまで討議がなされました。

説教「死の陰を蹴散らす光を見よ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章12―23節

主日礼拝説教(顕現後第三主日)イザヤ8章23節―9章3節、第1コリント1章10―18節、マタイ4章12―23節

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、いろんなことが詰まっているので、統一したテーマのもとで説教するのが難しいです。それでも、旧約の日課と重ねて何度も読み返すと少し方向性が見えてきました。うまく出来るかどうか自信ありませんが、やってみます。「イエス様は光」というのが統一したテーマというか、コンセプトになるのではないかと思いました。イエス様はどんな光かと言うと、本日の旧約の日課イザヤ書9章の言葉を借りれば、私たち人間はこの世では暗闇の中を進んでいるようであり、CC0死の陰の中に住んでいるようなものである。そこにイエス様という光が現れ、そのおかげで暗闇の中を歩くような危険はなくなり、死の陰なる暗さも消えて何も恐れる必要はなくなるということです。どうしてそんなことが言えるのか、見ていきます。

まず、出来事の流れを見てみます。イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの霊、聖霊が彼の上に降るということが起きました。これはイザヤ書の預言の実現でした(同書11章2節、42章1節)。その後でイエス様はユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けました。悪魔はイエス様に肉体的な苦痛だけでなく、それから逃れられるために旧約聖書の御言葉を逆手にとって、イエス様がひれ伏すように仕向けました。しかし、全て失敗に終わりました。イエス様は神のひとり子ですから、父の御言葉を正確に理解しています。悪魔の曲解は全てお見通しです。悪魔は退散しました。

悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は、ユダヤ地方の北のガリラヤ地方に移動し、そこで活動を開始しました。ガリラヤ地方とは、イエス様が育ったナザレの町があるところです。なぜガリラヤに移動したのか?洗礼者ヨハネが投獄されたことが言われています。ヨハネを投獄したのは領主ヘロデとありますが、これはイエス様が生まれた時にその命を狙ったヘロデ王とは別人で、その息子のヘロデ・アンティパスのことです。父のヘロデはローマ帝国の支配の下でユダヤ民族の王としての地位についていました。息子のヘロデ・アンティパスの版図はもっと狭まり、北のガリラヤ地方だけの領主でした。王よりもランクが低いわけです。洗礼者ヨハネはこの領主アンティパスの不倫を咎めたために投獄されたのでした。ヨハネは後に首をはねられてしまいます。イエス様は、ヨハネが投獄されたと聞いて、ガリラヤにやって来たのです。新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、事実は逃げたというより、アンティパスの本拠地に乗り込んで来たというのが真相です。

しかしながら、育ち故郷の町ナザレを活動拠点とはせず、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。その辺の事情はルカ4章16~30節に記されています。

さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。「悔い改めよ、神の国が近づいた」という言い方で人々に教え始めました。教えるだけでなく、人々の病を癒すような多くの奇跡の業を行いました。そのことが本日の旧約の日課イザヤ書にある預言の成就であったと言われています。活動開始の時、弟子になる者たちを選びました。本日の個所ではペトロとアンドレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、4人ともガリラヤ湖で漁をする漁師でした。みなイエス様に声をかけられるや、生業を捨てて後についていきます。特にヤコブとヨハネは「舟と父親を残して従った」とあります。救世主が一声かけたら、生業も親も捨てて行ってしまうものなのか?弟子になれるんだったらそれ位は当たり前だなどと言ったら、なんだか世間を騒がす宗教みたいです。この点については、以前の説教で、ルターが教えていることをもとにしてお話ししたことがあります。基本的なことは今も変更ありませんが、今日はまた新しい視点を付け加えてお話ししようと思います。

 

2.闇を照らし、死の陰を蹴散らす光

 まず、イエス様がガリラヤで活動を開始したことが、イザヤ書の預言の成就であるということについて見てみましょう。

マタイ福音書には成就した預言の文句として、イザヤ書8章23節と9章1節を引用しています。ちょっと端折った引用ですので、この2節の全文を見ることが大事です。

「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

ヘブライ語の原文から見て、この訳には注文をつけたい点もありますが、細かいことは抜きにして話を進めます。この預言は、これが語られた紀元前700年代に関わることがあります。それに加えて、700年たった後に起きるイエス様の出来事に関わることが含まれます。さらにはイエス様の出来事がその後の時代を経て現在にまで関わっていることも含まれています。とても重層的な預言です。一つ一つ解きほぐしていきましょう。

紀元前700年代、かつてのダビデの王国が南北に分裂して二つの王国が反目しあって200年近く経ちました。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、南の兄弟国ユダ王国を攻めようとしました。ユダ王国は王様から国民までパニックに陥りますが、預言者イザヤが現れて「攻撃は成功しない、なぜなら神の御心がそうだからだ、だから心配に及ばない」と言います。実際、イスラエル王国とその同盟国は東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまい、ユダ王国に対する攻撃は実現しませんでした。イザヤの預言の言葉で辱めを受けた「ゼブロンの地、ナフタリの地」というのは、もともとはユダヤ民族の12の部族のうちのゼブロン族とナフタリン族の居住地域で、北のイスラエル王国の版図です。それが、アッシリア帝国に蹂躙されてしまったのです。

しかしながら、預言の言葉は滅亡に終わりません。「後に、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。」

これは、異民族に蹂躙されてしまったこれらの旧ゼブロン、旧ナフタリの地域が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに受けるかということについては9章1節から言われます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」預言はさらに続きます。その光を見た人々は大きな喜びに包まれる。それはさながら刈り入れの時を祝うようであり、戦争に勝って戦利品を分け合う時のようである、と。戦利品を分け合うというのは物騒な話ですが、戦争が日常茶飯事な時代でしたから喜び祝うことのたとえとして使われたのでしょう。ただし、死の陰を照らす光が現れる時、戦争がなくなると言います。本日の日課を超えますが、4節です。「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」順序が逆になりましたが、「ミディアンの日」と言うのは、士師の時代のイスラエルの指導者ギデオンが小部隊でミディアン人の大部隊を敗走させた出来事を指すと考えられます。士師記7章です。

イザヤ書9章の預言はまだ続きます。本日の日課を超えていますが、大事なので見ていきます。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている「平和の君」とは誰のことを言うのか?

紀元前700年代、ゼブルンの地とナフタリの地にまたがる北王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。その後、南王国は次は自分たちの番かと固唾を飲む状況が続きました。本日の日課の個所の少し前に国民が精神的にも追い詰められていた状況がずっと述べられています。それが8章23節で「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない」ということなのです。

 そこで、蹂躙されたガリラヤ地方がまた栄光を受けるとはどういうことなのか?ひとりのみどりごが生まれるとは誰のことなのか?南王国はヒゼキア王の下でアッシリアの大軍を寸でのところで撤退させることが出来ました。みどりごはヒゼキア王のことだったのか?しかしながら、南王国も大筋はそのまま神の意思に背き続け、紀元前500年代にバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。みどりごはヒゼキア王ではなかった。では、誰か?紀元前500年代終わりにエルサレムの町と神殿の復興が行われましたが、一時期を除いてユダヤ民族はずっとかわるがわる外国の支配下に置かれ続けました。そうしていくうちに、イザヤ書の預言にある「苦悩の中にある」とか、「闇の中を歩む」とか「死の陰の地に住む」というのは、一民族が外国の支配下にある屈辱な状況を意味するのではなく、もっと人間の根源的な苦しみを意味すると気づかれるようになります。そうなると、生まれてくるみどりごも、民族を復興させる英雄ではなくなり、民族に関係なく人間そのものを救う救世主であるとわかるようになります。そもそも、旧約聖書の人類誕生の出来事に照らしてみれば、それこそが正しい理解になるのです。その理解が出てきた頃にイエス様がこの世に贈られてきました。

 

3.神の国への迎え入れ

 イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味していました。

 神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々が大勢出ました。彼らは、将来この世が終わりを告げて天と地が新しくされる時に到来する神の国というのは、この世で奇跡と捉えられることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

 この問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせました。どうしてそのようなことをしたかと言うと、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。そこで人間の方が、十字架の出来事の意味はそういうことだったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人に効力を持ち、罪が赦されるので神の目に適う者となり、神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。その人は、そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならないと思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

以上のような次第で、「闇の中を歩む者に光が現れ、死の陰の地に住む者に光が輝いた」という預言は、2000年前のガリラヤ地方の人たちに向けられたものではありません。神に対する不従順と罪を持つがゆえに、神との結びつきを失ってしまった全ての人間、この世を去った後に永遠の命が待つ神の国に入れない全ての人間のことを言っているのです。それが、闇の中を歩むことであり、死の陰の地に住むことです。ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ地方などと日本には縁遠いローカルな地名が登場します。それは、その光であるイエス様がたまたまその地で活動を開始したからにすぎません。イエス様は、十字架の死と死からの復活をもって、創造主の神の栄光を現わし、世の光となられました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はこの光を向いて歩みます。もう死の陰の地に住んでおらず、闇の中を歩みません。

 

4.心で捨てる

 イエス様が4人の漁師に弟子になるように呼びかけ、彼らは生業も家も捨てて付き従って行きました。そうなると、私たちもイエス様の弟子になるのなら、同じようにしなければならないのか?ルターは、そういうことではない、と教えました。彼によれば、行為に表さなくても心で捨てていれば、それでもう4人の漁師と同じくらいにイエス様の弟子であるというのです。「心で捨てる」とは一体どういうことか、彼の教えを今一度引用してみます。

「この4人の漁師の話を聞いた君は、財産や妻や子供は捨てなければならないのか、という思いにとらわれるかもしれない。しかし、そういうことではない。心で家や土地や妻や子供たちを捨てなければならないということなのだ。彼らと一緒に暮らし、彼らのために生活の糧を獲得し、神の定めに従って彼らの世話をしていても、心で彼らを捨てていなければならないのだ。もし行為で捨てなければならない時が来たら、神のためにいつでも捨てることが出来なければならない - そう考えることが出来れば、君は心で捨てたことになるのだ。心が囚われ人のようになってはいけない。心から独占欲、強い執着心、強い依存心を洗い落としていかなければならないのだ。

このようにすれば、仮に財産があっても、内面でそれを捨てることができるのだ。万が一、実際に行為をもって捨てなければならない時が来たら、神の名においてそれを行うのみ。ただし、それは、妻や子供や財産なんてものはない方がいいんだな、などと投げやりな態度で捨てるのではない。そうではなくて、ああ、本当は、神がお許しになれば、もっと自分の手元において世話をしたかったんだ、世話をすることで神にお仕えしたかったんだ、そう考えて捨てるのだ。

自分の心の状態をよく注意しなさい。何を所有しているかとか、いないかとか、多く持っているかとか、いないかとか、そういうことで頭を悩ませないように。今自分のもののように見える財産があっても、それをわきに追いやっておきなさい。あたかも最初からなかったかのように、あるいは、いつでも失うつもりでそうしなさい。そうすることで、我々は常に神の国に結びついているのである。」

実に厳しい教えです。行為で捨てなくても「心で捨てる」と言うのは、何か冷たい感じがします。しかし、ルターは面白いことに、親や子供や伴侶というのは天地創造の神が与えたものであるがゆえに、まさに世話をし仕えるためにあるのだ、だから、ないがしろにしてはならない、と言う。これは冷たい感じと逆で、愛がしっかりあります。親や子供や伴侶というのは本当は神からの贈り物である。だから世話をして仕えなければならない。そうする責任を、与え主の神に負っているのである。贈り物が素晴らしいと、それが愛おしくなるのは当然だが、与えられたというのは、世話をするように任されたということなので、自分の好き勝手にしていい所有物ではないだ。だからこそ、与えられている期間は永遠ではなく限られた時間なのだ。だからなおさら一生懸命に世話をしなければならない。いつかは自分のもとを立ち去ると意識しているからこそ、今一生懸命に世話をするということになっていく。不思議なことに、心で捨てると言っていたことが、こんなふうに愛を持つことになるのです。それは、神が介在しているからです。もし神が介在しておらず、それで「心で捨てる」なんて言ってしまったら、もう世話も何もなくなります。

私たちはどちらかと言うと「心で捨てる」ということはあまり意識していないので、自分から「行為で捨てる」なんてことも想像できないのではないでしょうか?ところが、「自分から」行為で捨てることはしなくても、そうすることを余儀なくされることがあります。例えば、愛する人に先立たれた時などはそうでしょう。その人を無理やりに手放さなければならなくなったからです。「心で捨てる」ということを前もってしていなかったら、急激すぎる現実の変化に心はついていけないのではないでしょうか?

「心で捨てる」ということが意味を持つのは、別れる相手が他人の場合だけでなく、自分自身の場合にも当てはまると思います。私たちは年齢を重ねたり健康上の変化を経験すれば、変化の前の若い自分、元気な自分と別れなければなりません。もちろん病気の場合は、ちゃんと治療して治れば、また元気な自分に戻りますが、年齢や老いの場合は後戻りできません。スピードは人それぞれですが、人生は別れに次ぐ別れです。

そして最後はこの世との別れが待っています。誰もが、このあまりにも大きすぎる別れに際して全てを手放させなければならないことを観念します。人生には別れに次ぐ別れがありましたが、この無数の別れのやっと最後の局面にて、天地創造の神、聖書の神のみが自分に唯一残されたものになりました。その神にこの自分を全て投げ出すように委ねるのであるが、果たして受け取ってもらえる保証はあるのか?キリスト信仰では、その保証があることが強調されます。何がその保証なのか?人間の罪が赦されるようにと人間に代わって罪の償いを果たしてくれた御子イエス様がその保証です。そして、その彼を救い主と信じることも保証になります。さらに洗礼を通して罪の赦しを汚れのない白い衣のように被せてもらうことも保証です。それからは雨の日も風の日もその衣が剥がされないようにしっかり握りしめて纏い続けました。これがあれば父なるみ神は必ずや私をしっかりと受け取って下さる、そう信じて全く大丈夫です。

兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰は、まさに神に自分を投げ出す勇気と神は必ず受け取って下さるという安心を与えてくれます。まさに死の陰を蹴散らした光を見て信じた者は、その勇気と安心を持つことが出来るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

読書会:木村長政 名誉牧師

 

木村先生の読書会「放蕩息子の帰郷」(ナウエン著)もそろそろ大詰めになってきました。今回はレンブラントの絵に描かれた3人の登場人物のうちの三人目の父親についての解釈でした。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご報告

2020年の最初の料理クラブは、あいにく冷たい雪交じりの雨の日の開催でしたが、それでも8名の方が参加されました。

料理クラブは、最初にお祈りをして始めます。

今回はフィンランドの食卓パン「サンピュラ」と田舎風サラダ「マーライス・サラーッティ」を作ります。初めにパンの生地を作り、温かい場所に置いて発酵させます。その間にサラダに入れるポテトをフライパンで焼いて冷ましておきます。

パンの生地はあっという間に大きくふくらみました。生地を丸い形に分けて鉄板に並べます。そこで二回目の発酵をさせます。その間にサラダの材料を刻んで、ボールに材料の段を重ねていきます。レッドオニオンとサーモンを上にのせると、きれいな色のサラダの出来上がりです。オーブンからはパンが焼きあがる香りが部屋中に拡がりました。

試食の時間です。オートミールとライ麦粉が入った焼きたてのパンは香ばしく、いろんなスパイスと酸っぱさのある田舎風サラダによくマッチしました。

参加者の皆さんお疲れ様でした。

次回の料理クラブは2月になります。詳しいことはホームベージをご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年1月18日 フィンランドのパンの話

今日は皆さんと一緒にフィンランドのパン「サンピュラ」を作りましたので、フィンランドのパンについて少しお話ししたく思います。パンはフィンランド人の食卓の中で最も大事な食べ物です。特に私の父くらいの年令の人はパンの大切さをよく知っています。もしパンがなかったら、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な一部です。かつてパンは店で買うものではなくて、いつも家庭で作られました。それで、パンの味もそれぞれの家庭の味になりました。

フィンランドは、パンを作る習慣によって東と西の二つの地方に分かれていました。東の地方では、柔らかくて厚めのパンでしたが、西の地方のパンは薄くて、円形の形の真ん中に穴があいていました。作る回数も違っていて、東の地方では毎週パンを作る曜日がありましたが、西では一年に2,3回しか作りませんでした。ところで、西の地方ではどうしてパンの真ん中に穴を作ったのでしょうか?それは、その穴に棒を通してパンを天井にかけたからでした。棒にかけたパンは涼しい場所に置かれて保存されました。このようにしてパンは長持ちしたのです。そのようなパンはフィンランド語でレイカレイパ、訳すと「穴のパン」と呼ばれます。

現代のフィンランド人の毎日の食事の中でパンはまだ重要な食品の一つです。2018年フィンランド人はパンを一人当たり41キロ食べました。それは毎日一人当たり4個食べることになります。フィンランド人の食事の中のパンの重要性は、例えば毎年「パンの週」という行事があることでもわかります。それは大てい毎年9月にあって、テーマも毎年変わります。去年のテーマは「オートミールを食べよう」でした。その目的は、この行事を通して多くのフィンランド人がオートミールの健康的な影響を知るようになること、そしてオートミールが入っているパンをもっと食べるようになることです。最近オートミールはフィンランドでは健康食品の一つにもなりました。オートミールには、ミネラルやビタミンの他に体に良い繊維や油が入っています。オートミールに入っている繊維は、体の糖分やコレストロールのバランス、そして腸管や心臓にもよい影響があると知られています。最近フィンランドではオートミールが入っている新しい食材が増えて沢山売られるようになりました。

オートミールが入っているパンに少しマイナスなこともあります。例えばオートミールが入っているパンはあまり長く持ちません。それから、他のパンに比べてボロボロにくずれやすいということもあります。それは、オートミールにはねばり強さがないためです。

食事のパンは私たち人間にとって大事なものですが、新約聖書の「マタイによる福音書」にはイエス様がパンについて言われた有名な言葉があります。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言っているところです。イエス様はこの言葉をどんな意味で言われたのでしょうか?イエス様は、私たち人間にとって肉体的な栄養になる食べ物は大事だけれども、それに加えて魂のための霊的な栄養も必要だと教えているのです。パンや他の食べ物は私たちが生きるために重要なものです。これらは毎日食べていると、得られるのが当たり前の感じがしてしまいます。でも、これは本当は神様が良いみ心を示して私たちに与えて下さるものなのです。それで、私たちは食べ物のことで神様に感謝しなければなりません。

さらにイエス様は、パンよりもっと大事なものがあると言われます。それは、食べ物を与えて下さる神様の口から語られる一つ一つの言葉です。神様の口から出る言葉とはどんな言葉で、どこで聞くことができるでしょうか?聖書を読むと神様の言葉に触れることが出来ます。聖書を読むと、神様はどんな方なのか、神様の人間に対する愛がどれだけ大きいかを知ることが出来ます。神様の人間に対する愛は、たとえこの世が終わっても終わらないくらい強い大きな愛であると聖書は教えています。その強い大きな愛についてイエス様は次のように教えました。「神は、その独り子のイエスをお与えになったほどに、この世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章16節にある有名な言葉です。パンが私たちの体に栄養を与えるならば、神様の言葉は私たちの魂に栄養を与えてくれます。だから、人はパンだけで生きるのではなくて、神の口から出る言葉で生きるのです。神様の御言葉を信頼して心で受け取ると、心は毎日力づけられます。

歳時記

近くの「漱石山房記念館」

 

早稲田の地に越してきてからまだ日も浅く周辺の土地の事情が分からなかった。早稲田は夏目漱石のゆかりの土地である。手元にある正岡子規の「墨汁一滴」という日記の中に次のような一節があるので紹介したい。「余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士(とじんし)の菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。(五月三十日)」・・・・早稲田から関口の方へ歩いたのならば当然教会の所在地である鶴巻町を通ったかも知れないと一人空想に耽っています。

説教「伝えられた教え」木村長政 名誉牧師、コリント信徒への手紙 11章2~16節 

 

2020年1月12日(日)

  今日は昨年からの続きで、コリント信徒への手紙11章2~16節です。これまでに8章から10章まで、パウロは何について語ってきたかと言いますと、「偶像礼拝」について、異常な程に、しつこく、長々と書いてきました。なぜ、それほど、この問題が重要だったのか、ということです。偶像を拝むうちは、まことの神を拝まない、ということになります。従って、それは、礼拝を正しくしていない、ことになります。それで、パウロは、11章から14章にわたって、「礼拝を中心にした話」を、語っていくことになります。 まず、今日の聖書で、2節から10節までを読みますと、私達の常識では考えられない様なことが書いてあって、全く、おどろかされます。パウロは、いったい、何を言おうとしているのだろうか。

 3節を見ますとこうあります。「ここで、あなた方に知って欲しいのは、すべて、男の頭は、キリスト。女の頭は男、そしてキリストの頭は神である。ということです。4節には、男は誰でも、祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、その頭を侮辱することになります。」とあります。 どういうことでしょうかね。そうして、礼拝する時の服装に至るまで、こまかく、パウロは、教会の人々に、教えていることになります。 男と女の頭の上に物をかぶるのかどうかの当時の伝説にもとづいた習慣を 、少し、きびしく教訓として、示しているわけであります。とても、私たちの現代の習慣では、考えられないことであります「あなた方が何かにつけ、私を思い出し、わたしがあなた方に伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。」と、こう言っています。ここで言っている「伝えられた教え」というのは、少し難しく言えば、伝統であります。それは引き渡されたものであります。 教会の礼拝の根拠となっているものは、引き渡され、受けついだものなのであります。それは、今日も、今、御霊の導きによって、行われるものであります。それと同時に、過去の遺産でもあります。例えば、私たちは、ルター派の教会の遺産の流れの中にあります。しかし、それは、ただ歴史上の1つの流れによっているのではなく、そのもとは、主イエス・キリストにあります。

 23節では、「わたしは、主から受けた」と言っています。それは、聖餐式のことであります。聖餐は礼拝の中心でもありますし、礼拝そのものが、主から、言伝えに基づいたものである、と言っているのです。そして、パウロは又、こう書いています。礼拝について知っていてもらいたいものは、礼拝者たちの秩序であります。神の前に、すべての人が、神に造られたものであり、又、罪人であります。人間の間に、ちがいというものはなくなってしまい、平等です。そして神の前に立つ者は、等しく、罪人なのであります。或は、神に愛されているということです。しかし、その他の意味では、人はそれぞれ顔、形のちがいをもっています。その人の持って生まれた才能もそれぞれちがいがありその運命もちがっています。それらは神によって、定められた秩序をあらわすものです。

 ここにパウロは書いています。「あなた方に知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」ちょっと分かりにくい感じです。特に女のかしらは男であるというのは何でしょう。男女の不平等を言っているのではないかとも考えられます。しかし、ここで、男女が等しいかどうかを言っているのでなくて、神の前に於て、礼拝する人間の秩序を語っているのでありましょう。

 7節を見ますと、「女は男の栄光である」と記されていますし、11節では「主にあっては、男なしに女はないし、女なしに男はない」と書いてあります。つまり、ここでは、男女が平等であるかどうかを言っているのではなくて、礼拝に於てどういう秩序が必要であるかが語られている、と言うべきでありましょう。ですから、男と女の問題だけでなく、神と、キリストと、男と女ということについて、語っていることが分るのであります。

 礼拝に出る者は、しばしば、自分の好き勝手な気持が支配するものであります。つまり、気分しだいで行動する場合があるものです。日曜日に教会へ行こうか、イヤ、他にやる事や行事がいっぱいある。イヤ、余り行く気もしない。等々あります。しかし礼拝が神に対して行なわれるものであるなら、それは、最も秩序だった、整えられたものであるはずであります。神と人間の関係は言うまでもないことですが、人と人とについても、神の前にあるものにふさわしくなければならないはずであります。

 この手紙においては、パウロの時代に、教会に実際にあった事が書かれています。かぶるものを、かぶるのがいいか、髪の毛は切る方がいいのか、長い方がいいのか、ということまで、やはり問題であったのでしょう。現代でもこうした影響を多少なりとも受けている教会もありましょう。大事なことは、その風習を、どうとりいれるかということではなくて、この当時の教会が、このようなことをした理由であり、その背景にある信仰であります。ここに男と女についていくつかの事が記されています。しかし、それらのことの、大切なことは、創世記に記されている、神が人をお造りになった、ということであります。このことは、礼拝そのものの基になることであります。人間は造られたものとして、造り主を礼拝するものであります。それが礼拝の基本であります。それと共に、礼拝の秩序もそこから出て来ると、言えるのであります。

 礼拝というのは、人間が神に対して、わたしはあなたに造られました、わたしはあなたに救われました、と告白して、神を賛美することである、と言ってもいいのであります。

 ちょっと、ここで、どうしてもわからないのは、「男が女のかしらである、女が男から造られた」というややこしいことが言われている。これは旧約の創世記の記事によっていることです。男が1人でいるのは適当でないと言って、共に生きるものとして女が造られた、従って、男が女から出たのではなく、女が男から出たのである、と8節に言われるのであります。これは明らかに自然の生活とはちがっています。ほんとうは、自然の生活で、男は女から生まれるにちがいないのであります。創世記を書いた人が、そんな事を知らないはずはありません。それは誰でも知っている事だからです。では、しかも、あえて、この事を書いたのは、むしろ、女なしに生きることのできない男の生活を書いた、とも言えるのではないでしょうか。従って、それは、男と女とがどのように生まれるのかということではなくて、むしろ、男を生かすために、神が女を与えられたということではないでしょうか。

 かぶるものをかぶる事についても、その背景には、神が人をご自分に似せて造られた、ということがあります。男は神に似せているものであるから、かぶりものの必要はないと考えられるので、男の

特別な優越を語るのではなくて、神の創造の御業から考えたことであります。ですから、女は男の栄光とも言われるわけであります。6節には、「もし、女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったり、そったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。」とあります。ある人は、これは、婦人の髪の魅力が、ある人たちを引きつけて、礼拝の妨げになったためではないかと言っています。しかし、それも1つの説明に過ぎないでありましょう。礼拝においては、神以外のものに心ひかれてはならないはずであります。

 又、10節には、9節の、女は男のために造られたという事を受けて、それだから、女はかしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは、「天使のためである」と書いてあります。ここに、権威と言っているのは、守りのことである、と言われています。人の自然的な弱さを守るための守りであるから、ということになります。それが天使のためである、というのは、天使がいつでもいい天使ばかりを考えると分かりにくくなります。天使は、良くない天使もあるのです。ここでは、そういう天使に対して身を守るため、ということでありましょう。

 礼拝を正しく守るために、教会員のこまかい服装に至るまで問題としていた、当時の教会が苦労していたということを覚え、現代の私たちも礼拝に対して改めて考えていくべきでありましょう。

                              <アーメン・ハレルヤ>

 

交わり

 暮れから冬休みで里帰りしていたヨハンナさんが明日フインランドへ戻ることになりました。今年は例年になく暖冬だった東京と寒冷の地フインランドとの環境の違いが心配です、しかしこの心配は年寄りだけのものであって若いヨハンナには何でもないことなのかもしれません。食事のあとしばしのお別れを交わしました。

聖書研究会: 神学博士 吉村博明 宣教師

今年最初の聖書研究会です。テーマは昨年に続き「ローマ信徒への手紙」です、先生は私達キリスト教信仰者にとってたいへん重要な箇所である1章から8章までをおさらいということで読み返されました。

交わり

きょうの教会ランチはライスカレーでした、いささかか持て余し気味だった正月料理のあとのカレーは懐かしく美味しかったです。食後はクリスマスの飾りつけを片付けました。

新年礼拝説教「永遠を思う心を持って行こう」神学博士 吉村博明 宣教師

礼拝説教 2020年1月1日新年の礼拝

コヘレト3章1-11節、エフェソ4章17-24節、ルカ12章22-34節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 西暦2020年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は、昨年の12月1日に待降節に入った時に始まっています。世俗のカレンダーでは今日がが新しい年の第一日目です。この日は、教会のカレンダーではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書2章21節に記されているように、イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、その名が公けにされた日でもあります。

日本では新年は一年の中で最も大きなお祝いの期間です。以前の説教で、日本の新年の過ごし方とフィンランドのクリスマスの過ごし方に似ているところがあるとお話ししたことがあります。フィンランドでは12月24日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり(後で言うように、最近は開いている店が増えてきました)、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日12月25日丸一日あって、26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。

この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家か親元のところに帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。それなのでクリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、クリスマス・カードやプレゼントやクリスマス料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家や親元で過ごすというのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は日本と違って特に大きな休みとは考えられていません。学校は大体1月6日の「主の顕現日」くらいまでは休みで、日本の冬休みと同じですが、働く人はクリスマス後の12月27日は仕事で、1月1日は休みですが、2日からまた平常です(もちろん休みを取る人も多いですが)。そういうわけでフィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものです。

ところが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドは先ほども申しましたように、クリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、多くの店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、地元の近くの教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。より多く御利益を得ようと教会をはしごすることはありません。ひとつだけです。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者は減ります。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が前もって用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。近年は減ってきていますが、キリスト教が根付いている人にとって、クリスマスとは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから一時離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間です。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数でしょう。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っているのではないかと思います。

日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、そこに自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?お店やデパートなどをみると、1日は休みでも2日から開くのが多く、店によっては1日もやっています。それで日本の正月は日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがします。私が子供の頃は正月三が日と言ったら、どこもお店は閉まっていて繁華街も静かだったのですが。もっとも近年は働き方改革が言われるので変わるかもしれません。しかし、それも「自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離す」ためのお祝いというよりは、健康のため、より良い仕事効率のためということでしょう。もちろん、それも大切なことではあります。

フィンランド、フィンランドと同国が模範みないな偉そうなことを言いましたが、実は5年ほど前に法改正があって店の開店時間が教会の伝統にとらわれずに自由に出来るようになりました。クリスマス期間中でもやる店が増えてきているので、今度はそっちが日本化してしまうのではないかと心配もしています。

 
2.

 救世主の誕生をお祝いするという大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りあるこの世の日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」3章11節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神は私たちに見るための目、聞くための耳だけではなく永遠を思う心も与えて下さったのです。せっかく神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、日常の思い煩いに取り囲まれて、それしか見えなくなってしまいます。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、その説明は簡単ではありません。聖書の出だしの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造主の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造した。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは「神の国」という永遠の世界があるところです。今ある天と地が造られてからそれが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界ということになります。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側ないし上側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様が父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた。それは、永遠の世界におられる神が限られたことだけのこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神に守られて生きられるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。そして私たちがこの世の人生を終えたら永遠の神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて今を生きられるように、またこの世の人生を終えたらその神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神から切り離している、染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様はその人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運び上げて、人間にかわって神罰を受けて、神に対して私たちの罪を償って下さいました。そこで人間が、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見てもらえるようになったのです。そうなると人間としては、これからは神の御心に沿うように生きよう、罪に手を染めないように生きようと注意するようになります。もし、悪い思いにとらわれても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、罪の赦しは微動だにせずあるということがわかります。それで心に平安を得、神に感謝し襟を正します。いつの日か神の御前に立たされるとき、純白の衣をしっかり手放さず生きていたことを認めてもらい、永遠の神の御国に迎え入れられます。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そのようなものも「定められたもの」と言われると、この世で真面目に生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになってしまうかもしれません。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、言葉的にも人生の実際に照らし合わせても難しいところです。これを、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない、そこから出発しなければならない、ということを意味していると理解できるとします。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの天と地の中だけにとどまります。この世は不正義が蔓延るところですから、真面目に生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、最後の審判で不正義は全て清算されて正義が隅々まで行き渡っている神の国が待っていることになります。それがわかると、目指して向かうべきものが見えてきて、不正義は被っても真面目に生きることに意味がある、不正義には手を染めない、という姿勢になるはずです。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目から見て不幸な状態にいる人たちの立場が逆転するということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。もちろん、この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、それが永続する保証はありません。たとえ逆転を果たせなくても、イエス様を救い主と信じる者たちには最終的には「最後の審判の日」と「復活の日」に逆転が実現します。

 
3.

 イエス様の罪の償いを衣のように纏っているキリスト信仰者ではありますが、それでもその内にはまだ罪が残っています。自分では神の御心に適うように生きようと志しても、それが叶わない、至らない自分にいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分は一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つでしょうか?これだけ助けたら十分と見てもらえるような合否ラインがあるのでしょうか?

本日の福音書の個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これは、ギリシャ語原文を直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした度合いの分を(εφ’ οσον)あなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことは小さかったということです。少なくしたら、しなかったことは多かったということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないとおっしゃっているのです。

キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しの上に立つ限りは、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。それから、助け人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられないことばかりかもしれませんが、それでもその人たちのために神に祈りましょう。たとえ大勢の人を助けてあげられても満足せずに、世界中にはまだまだ大勢いるのだから、その人たちのために祈らなければなりません。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りが自己満足の手段になることはあり得ません。

兄弟姉妹の皆さん、今世界は皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして掲げて、それがSNSを通して拡散されて何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力がある人たち、感情に訴える力のある者たちが我が物顔です。最近よく言われるように、分断とポピュリズムとポスト真実の状況です。まさにこういう時こそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い出しましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はいつか火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなことと別のところにあることもわかります。そのような目と心を持って、今年も時代の荒波の中を進んでいきましょう。イエス様はいつも私たちと一緒におられます。あの嵐の日に弟子たちと一緒に舟に乗っていたようにです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン