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11月の手芸クラブは晩秋にしては暖かい風の吹く陽気の中での開催でした。
今回の作品は先月と同じ、マクラメのクリスマスの飾り物です。初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回初めて参加された方はクリスマス・リースに興味を持ってそれを選びました。他の方たちはクリスマス・るのではなく、馬小ツリーと星です。まず、全部の作品に必要な糸の長さを測り、それから結び始めます。今回はマクラメの三つの基本の結び方を用いました。
クリスマス・リースは、リングの上にマクラメを結んでいきます。すると、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。結んでいくとだんだん速くなって、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。その次はリースの飾りつけです。赤いリボンを付けて可愛らしいクリスマス・リースが出来上がりました。
クリスマス・ツリーは、初めは二本の糸でスタートしますが、糸をどんどん増やして行くとクリスマス・ツリーの形が見えてきました。途中で可愛いらしいパールで飾りつけをして素敵なツリーの出来上がりです。
星は、初めは小さいリングに糸を沢山結びます。それから新しい結び方で結び始めます。糸が多くて最初は結ぶのが少し大変でしたが、慣れると星の形が少しずつ見えてきました。星も可愛いらしく出来上がりました。
参加者の皆さんはマクラメのクリスマス・飾り物にとても興味を持って作られたので時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。モニターから映し出されるフィンランドのクリスマス音楽を聴きながらコーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。
皆さんの今年のアドベントとクリスマスの期間が心に残る良い時となりますように!
今日マクラメのテクニックを使って作ったものの中に星もありました。私は二つの違った作り方で星を作りましたが、ネットを調べて見ると、マクラメの星の作り方はまだいろいろあります。来年は新しいテクニックを使って可愛いらしい星を作ることが出来たらと思います。
星は夜空に輝く天体です。多くの人たちは夜の星空を見るのが好きです。フィンランドでは冬寒い夜空に輝く星はたくさん見えるので、星座を見つけるのが面白くなります。特によく知られている七つ星の星座、北斗七星を見つけるのは楽しいです。皆さんはそれを見たことがあるでしょうか。
星はクリスマスの飾り物にもなります。教会のカレンダーではこの間の日曜日からアドベント、日本語で待降節という季節に入りました。その前の日曜日に教会ではクリスマスの飾り付けをして玄関のドアに木製の星を飾りました。星の中にあるランプの明かりが本当の星の光のように輝いて教会の前を通る人たちにクリスマスが近づいていることを知らせる光になるように願っています。キリスト教会で言われる「クリスマスの星」にはとても大きな意味があります。「クリスマスの星」というのは、世界で一番初めのクリスマスの時にベツレヘムというところに現れた星を意味します。それはどんな星だったのでしょうか。
救世主の誕生ということが旧約聖書に預言されていました。それで多くの人々はそのことが起こることを待ち望んでいました。一番初めのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の博士たちは不思議な輝きをする星を発見しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印だと考え、はるばる今のイスラエルの地まで旅をして、首都のエルサレムまでやってきました。そこで、その時に王様だったヘロデに言いました。「新しく王になるためにお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」ヘロデ王はとても驚いて、自分に地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤ地方のベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。自分も子どもを拝みに行きたいなどと言いましたが、本当はその子を殺すことを考えました。学者たちは王の本当の考えを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が再び彼らに現れ、彼らはその星を目指すようにして進んで行きました。それはあたかも星が彼らの先頭に立って進んでいるようでした。そうして彼らはベツレヘムの町に入りました。やがてこれ以上進まなくていいというところにつくと、そこには馬小屋がありました。学者たちがその中に入ると、赤ちゃんのイエス様が母マリアの膝の上で安らかに眠っていました。学者たちは目の前におられる幼子は一つの国を支配する者ではなく、旧約聖書に預言された世の救い主になる方だとわかりました。そのような方が王子様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたというのは信じられないことでしたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導ぎがあったので、これは天地を造られた神の御心だとわかったのです。
彼らはヘロデ王のところに戻って知らせなければと思いましたが、夢の中でヘロデ王のところに行かないようにという神様からのお告げがありました。それで彼らは戻らないで別の道を通って自分の国に帰りました。
クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年前のことですが、2000年後の私たちにも大きな意味がある出来事です。東方の学者たちのように、私たちも世界で一番初めのクリスマスにお生まれになったイエス様の元に導かれることが起こるのです。それはどのようにして起こるのでしょうか?それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時に起こります。聖書のみ言葉は私たちにベツレヘムの星と同じ役割を果たすのです。そのことについて聖書には沢山書いてあります。例えば詩篇の119篇105節には次のように書いてあります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」。聖書のみ言葉は私たちが歩んでいる道をいつも照らし続けます。それに従って行けば、世界で一番初めてのクリスマスの意味、つまりイエス様はこの世の全ての人の救い主として生まれになったということが分かります。この意味を心で受け取ると心の中は平安で満たされます。
今年のアドベントとクリスマスが皆さんにとって神様が祝福される時となりますように。
今日は待降節第一主日です。教会の暦では今日、新しい一年がスタートします。フィンランドのルター派国教会の礼拝ではこの日、 全国の教会で一斉に「ダビデの子、ホサナ(日本の教団讃美歌307番)」を元気よく歌います。スオミ教会でも歌います。
「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)
今日からまた、降誕祭(クリスマス)、顕現日、受難節、聖金曜日、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。聖霊降臨祭の後は、聖霊降臨後第何主日という形で続き、待降節第一主日の前の最後の主日は、北欧のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれ、最後の審判がテーマになります。
このように教会のカレンダーは、イエス様の誕生から十字架と復活の出来事までをフォローでき、私たち自身の復活にも思いを馳せられるようになっています。
それなので教会の暦に従って礼拝出席を欠かさないようにすれば、主の再臨を心に留めつつ、この世での自分の歩みを造り主である神の御心に照らし合わせて反省したり、また神から罪の赦しの恵みと愛が豊かに注がれていることを絶えず確認できます。しかも、一人ではなく信仰の兄弟姉妹たちと共にです。それなので、日々の歩みを教会の暦に合わせて日曜礼拝を守りながら生きることは、キリスト信仰者としてのアイデンティティーを確立し、この世を生きる上で大きな力を与えてくれるます。
どうか、天の父なるみ神がこの新しい一年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。(2020年11月29日初稿掲載)
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聖句 ローマの信徒への手紙10章11節~11章10節
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 」しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。
では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。
(新共同訳)
マクラメでクリスマスの飾り物を作ってみませんか。
今回はマクラメのテクニックを使ってクリスマス・リース、クリスマス・スターを作ります。クリスマスツリーのミニチュアも作れます!
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできます。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費は材料費の500円-1000円 (作るものによって変わります)です。
人数制限がありますのでご注意ください。
お子さん連れの参加も歓迎です。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、moc.l1757706447iamg@1757706447arumi1757706447hsoy.1757706447iviap1757706447
日本福音ルーテル・スオミ教会 新宿区鶴巻町511ー4-106 03-6233-7109
コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。
手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。
ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。(コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106 www.suomikyoukai.org
キリスト信仰にとって大事な言葉「贖い」と「償い」は似ているようで意味が違います。 両者を混同すると、朝に「おやすみ」、夜に「おはよう」と言うのと同じ間違いをすることになりますので、キリスト信仰者は意識して使い分けできるようにしましょう。
「償い」とは罪を償うことです。社会生活や人関関係で罪や過失を犯したら、賠償したり刑罰を受けることが償うことになります。殺すな、姦淫するな等々神の掟を行動や心で破って神に対して罪を犯した場合の償いは神罰を受けることになります。キリスト信仰では、人間が神罰を受けないで済むようにと神のひとり子が自分で人間の罪を引き取って十字架の上で神罰を受けられました。イエス様が人間の罪を人間に代わって償って下さったのです。
「贖い」はとてもわかりにくい言葉です。フィンランド語やスウェーデン語や英語では「買い取る、買い戻す」という言葉が用いられます。日本語のように敢えてわかりにくい物々しい言葉を充てることはしないのです。それでは、何を「買い取る、買い戻す」のか?人間です。罪の言いなりになって心も体も罪に支配されている人間を神のもとに買い戻すということです。その時に支払われた代価が、神のひとり子が十字架の上で流した血だったのです。
そういう訳で、「償う」のは罪、「贖う」のは人間ということになります。
時々「罪の贖い」という言い方を耳にします。それは「罪からの人間の贖い」を縮めて言っているのだなと理解してあげれば済むことかもしれませんが、紛らわしいです。すっきりさせるためにも罪は「償い」に結びつけた方がよいでしょう。フィンランド人やスウェーデン人や英語圏の人と信仰の話をする時に、「罪を贖う」という日本語をそのまま直訳して話したら混乱します。父なるみ神がひとり子を犠牲にしてまでご自分のもとに買い戻したいのは人間であって罪ではないからです。
11月のスオミ教会・家庭料理クラブは12日、晩秋にしては暖かい陽気の中で開催しました。今回は「オーツのリング・パン」Reikäleipä とそれにあわせてサーモンスープも作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、パンの生地を作ります。生地をよく捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵をさせます。生地はあっという間に大きく膨らみました。パンを形作るタイミングです。生地を三つに分けて皆で一生懸命に丸めて、手とめん棒で平らに伸ばして真ん中に穴を開けます。鉄板にリングパンをきれいに並べて二回目の発酵をさせます。
パンを発酵させている間にサーモンスープの準備に入ります。野菜の皮をむいてレシピ通りに切ります。もちろんサーモンも。サーモンと野菜を鍋で煮込み始めて、発酵したリングパンをオーブンに入れます。少し経つと教会の中はサーモンとディル、焼きたてパンの香りで一杯になりました。
出来上がったサーモンスープをお皿に盛りつけ、焼きたての香ばしいパンにマーガリンを塗って、一緒に頂きます!サーモンスープは味付けも上手くできて皆さんおかわりもされて、お鍋は空っぽに。スープとパンを味わいながら、フィンランドの70年代の有名なテレビドラマ「嵐の岬のマイヤ」の主題歌を皆さんで聴き入りました。その後で、フィンランドのパンや聖書に出てくるパンの話についてのお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回は待降節(アドベント)の期間の12月10日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日皆さんと一緒に作った「リング・パン」Reikäleipäはフィンランドの伝統的なパンの形の一つです。このような「リング・パン」は私の実家があるフィンランドの西の地方では普通に作られました。私の母や祖母もいつもこの形のパンを作りました。母や祖母が作ったパンは普通はライ麦のパンでしたが、今では生地にオートミールや大麦や野菜などを入れるようになってパンの種類はどんどん増えました。このようなパンは健康にもよいのです。
フィンランドではパンは昔から毎日の食事の一部でした。今は消費が減ってきましたが、それでもフィンランド人の食事の中でパンはまだ重要な食べ物です。例えばフィンランドではパンは栄養価の高い食品として推奨されます。また、フィンランドでは毎年9月に「パンの週」と呼ばれる行事があります。その週は学校やお店でパンが健康に良いことが宣伝されます。「パンの週」には毎年テーマもあります。今年のテーマは「パンはどこで育つか?」というテーマでした。テーマの意味は、今パンを家で作らずに店で買うようになったフィンランド人に原料の麦を作ることや粉にするまでのプロセスを知ってもらうようにすることでした。人々が食物連鎖の意味やその重要性をもっとよく分かって国産の食料品の価値も高めるという狙いもあります。今年は学校でも「パンはどこで育つか?」という絵の教材を通して麦からパンになるまでの段階を教えたりしました。パンを自分で作っていた昔の人にとって、そうしたことは当たり前のことでした。
今年の夏に私は一つの小説を読みました。その小説は1800年代後半のフィンランドの西にある多島海に住んでいた漁師の家族の生活についてでした。小説の名前は「嵐のみさきのマイヤ」です。「嵐のみさきのマイヤ」はテレビドラマにもなり、主題歌はとても素敵な曲でした。小説の主人公はマイヤという女性です。この小説の中でもパンの重要性がよく出ていたので、それを少し紹介したいと思います。
マイヤの家族が住んでいる多島海の土地は不毛で麦などの食物を育てるのは簡単ではありませんでした。その上に天候の影響で収穫が少ない不作の年もよくありました。マイヤの家族には子どもが四人もいてパンの為の麦は足りるかどうかという心配がよくありました。家族の生活は貧しかったでしたが、パンを作る日は皆にとって大喜びの日でした。その日、子どもたちは蒔きオーブンの近くでパンが焼きあがるのを目をキラキラさせて待ちました。温かい焼きたてのパンの上にバターを塗る時はとても幸せな気持ちになりました。その時お母さんのマイヤは喜びに溢れていつも天の神様に感謝の祈りをささげました。
マイヤは一生懸命に家族が幸せになる為に働きました。しかし、作物が不作の年にはパンを焼く日は少なくなり、子どもたちに古くなった固いパンしか食べさせられないのは辛いことでした。そのような時でもマイヤは神様の助けがあることを信じて祈りながら働き前向きに生活していました。マイヤは、パンは神様が与えて下さるものと分かっていたのです。それは、聖書の中にパンについての教えが沢山あるからです。
旧約聖書の「列王記上」の17章にある、預言者エリアとやもめの話はその一つです。昔イスラエルに雨がずっと降らなかったため、麦が育たず、多くの人々は飢えに苦しんでいました。その時、一人のやもめは息子と一緒にとても貧しい生活をしていました。預言者エリアはやもめのところに行きました。やもめには小麦粉一握りと油少ししかなく、これはパン一回分の材料でした。やもめは、これを食べたら息子と死ぬのを待つしかないと思いました。
はじめにエリアはやもめに「水をくださいと」お願いしました。やもめが水を持ってくると、今度は「パンを一切れ持って来て下さい」とお願いしました。息子と自分のための一回分のパンの材料しか持っていなかった女性はエリアのお願いを聞いて怖くなったでしょう。残りの小麦粉と油でパンを作って、それを渡したら、もう自分たちのパンは無くなってしまうからです。
しかし、エリアはやもめに「心配しなくてもいい」と言い、最後の小麦粉と油でパンを作って持ってくるように命じました。そして、その後で彼女と息子のためにパンを作りなさいと言ったのです。やもめは、なぜそのようにしなければならないのか、と聞きました。エリアが答えて言いました。「天の神様が、『私が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることはなく、瓶の油もなくならない』とおっしゃって下さったのだよ。」これを聞いたやもめはどうしたでしょうか?彼女はエリアの言うことを信じてその通りにしたのです。すると小麦粉と油は本当になくならず、やもめと息子とエリアの3人にずっと足りたのです。このようにやもめは神様の言葉を信じて、やもめと息子は神様から命をいただいたのです。
私は、この話を読んだり聞いたりすると、いつも不思議な感じがします。これは神様が私たち人間にできないことをする奇跡です。神様はどうしてこの奇跡を起こしたのでしょうか?私は、それは神様はこの奇跡を通してどれだけ人間を愛して守って下さるかを示そうとしたのだと思います。神様はいつの時代の人々も、現在の私たちのこともみんなご存じで私たちを見守ってくださる方です。神様の愛はイエス様の十字架の出来事で一番よくあらわされています。神様の人間に対する愛は、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない」と言うように、いつまでも続くものです。
パウロは新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の中で神様の愛について次のように教えています。「誰が、キリストの愛から 私たちを引き離すことが出来ましょうか。艱難か。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」8章35節です。その答えはこうです。何があっても、どんなことが起こっても、「私たちの主キリスト・イエスによって示される神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」8章39節です。
神様は、約束されたようにいつも私たちを守って下さいます。このことを忘れず日々を感謝の気持ちを持って過ごしていけたらと思います。
聖句 ヨハネによる福音書 11章25ー26節
イエスは言われた。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、 決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ギリシャ語のカリスの日本語訳「恵み」という言葉は、父なるみ神や主イエス様を言い表す時に最も使われる言葉の一つです。それは一体何を意味するのでしょうか?
フィンランドやスウェーデンで教会生活を送った者として、日本語の「恵み」には違和感があります。意味がとても広すぎるからです。フィンランド語やスウェーデン語の「恵み」に相当する言葉アルモ、ノードは、罪や過失を帳消しにする赦しを意味する言葉から派生しています。それなので、二国の言葉では「恵み」は、神からいただく罪の赦しのお恵みという意味が強く出ます。例えば、日本語で「自然の恵み」などと言いますが、フィンランド語とスウェーデン語のアルモやノードを使ってそんな言い方はできません。また、長い日照りの後に雨が降ると、日本では「恵みの雨」とか言って神に感謝しますが、そういう言い方は考えられません。
アーロンの祝福で「主があなたを恵まれるように」と言いますが、フィンランド語やスウェーデン語では「主があなたに赦しを与えて下さる方でありますように」という言い方をします。
日本語の「恵み」の意味は広すぎるだけでなく、意味をはっきりさせずに乱発していると思います。例えば、第二コリント6章の有名な聖句「恵みの時に私はあなたの願いを聞き入れた。今や、恵みの時、」。正しくは「私の心に適う時に」です。ギリシャ語原文には、カリスはありません。
パウロが手紙でよく使う挨拶言葉、「神と主イエス・キリストから『恵み』と『平和』があなたがたにあるように」はどうでしょうか?物心双方不足ない位に恵まれて平和な世界で暮らせますように、ということでしょうか?そうではありません。神から、罪の赦しのお恵みと、赦されたことで神と平和な関係を築けたこと、これらが失われないように、という意味です。
「イエスの神殿崩壊預言」 2022年11月13日
木村長政 名誉牧師
聖書 ルカによる福音書21章5~19節
<私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。>アーメン
今日の聖書は、イエス様の預言と弟子たちへの警告の話です。イエス様はご自分の十字架の死が近づいて来たことを、だんだん深刻に感じ始めておられます。どうしても、今弟子たちに大切な事を伝え、弟子たちがその使命に耐えて行けるように訓練と警告を告げられています。そこで、ユダヤ教の最大のシンボルであり礼拝の場である神殿へイエス様は毎日のように行って弟子たちに教えておられます。ルカ19章47節に「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の祭司長、律法学者たちが総力をあげて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と高価な装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見たいたのでした。そこへイエス様が来られて言われた。6節に「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」この頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いて弟子たちはびっくりしたでしょう。更に7節には「彼らはイエスにたずねた。『先生、ではその事はいつ起こるのですか。またその事が起こる時にはどんなしるしがあるのですか。』」と問うています。イエス様にたずねた彼らというのは実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が密かにたずねた」、と記しています.イエス様は最も信頼している四人の弟子に預言されている、このことは秘密の様式であったらしいのです。何故かと言うとこの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司長たち、律法学者たちでした。ルカ19章の終わりのところには、「祭司長たち、律法学者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で今イエス様がやがてこの神殿はことごとく破壊されてしまうなどと予言されたことは、もう大変な事でした。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに秘密裏に告げておられるのです。祭司長たち及び律法学者たちは何とかイエスの言葉尻を掴んで捉えてやろうと次々に難問を吹っかけてきています。特にルカ19章の終わりの方45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出してしまわれた。」とあります。この事件以来彼らはますますイエスを殺そうと息巻いています。境内で商売をさせて、陰で金を儲けていたわけですから、そうとう頭に来ているわけです。彼らに対してイエス様は外側は立派に見えている神殿も粉々に破壊されるぞ、と預言されているのですから、ここに真っ向から激突する時が切迫しつつあるのです。このような、激しい危機的状況の中で弟子たちは、これから大切な福音の担い手となって世界へ向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくための訓練と警告を告げておられるわけであります。更には弟子たちが想像もしていなかった終末が来る、その直前に大変な苦難と迫害がくることも預言されているのです。考えてみますと、イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機的状況は現在の私たちの世界の危機的状況でもある、と言えるでしょう。まず、新型コロナウィルスが流行し想像だにもしなかったスピードで世界中に蔓延して行きました。何百万人という人が死ぬという、ひどいウィルスです。色々型を変え未だに収まりません。それから連日テレビ、新聞などで報道されているウクライナ侵攻の戦争が起こって未だに続いています。恐ろしい事は、ロシアとウクライナだけの戦いではなく、背後にウクライナを応援しているアメリカを始めヨーロッパの民主国家が一つになってロシアと世界戦争にまでなってしまうことの懸念です。更には核爆弾という一瞬にして何百万何千万の人々が死んでしまう、それによって地球上の放射能汚染によるあらゆる生き物まで死滅し続けて行く、世の末が起こってしまうのではないか、まさに世紀の危機に直面している時代です。イエス様の神殿崩壊の預言は歴史の中で事実となって起こってしまいました。
紀元70年ローマ帝国によってエルサレム神殿は包囲され神殿はことごとく破壊されました。(ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトスによる記録もあります。)弟子たちはイエス様の預言と実際の滅亡となって行く過程のすべてを苦しみ味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前にどんなことが起こりますかとイエスに問うた時、イエス様は10節以下にあるように、具体的に起こる事を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対し立ち上がる。そして大きな地震が起こり、飢餓や疫病が起こり恐ろしい天体現象が現れる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には、人々はあなた方に手をかけ迫害し、会堂や牢に引き渡す。私の名のために、王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族、友人にまで裏切られる。また、私の名のために、あなた方はすべての人に憎まれる。」とあります。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きて行くかを示されます。「イエス様の名を名のる偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。主の前に出されたら、それは証しする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と智恵は与えられるから大胆に語れ、臆する事無く勇気を持って語れ。」と言われる。やがて、イエス様の十字架の死後、弟子たちはどうしたか、と言うと一丸となって祈り、聖霊の力が注がれて、数々の迫害に会っても死に物狂いで戦って行ったのでした。
26節には「人々はこの世界に何が起こるのか、と怯え恐ろしさのあまりに気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされて恐怖に落ちてしまう。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間のいかなる力も科学の力も機械の力も、なすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうすることも出来ない。毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加で海面が上がり町の大半が水浸しとなってしまう、こうした事が起こっています。地球全体の規模で大異変が現実に起きている中、人間の力は無力です。それは、全能の神の怒り、罰が下されているのでしょうか。エルサレムの滅亡は地上に住む国々の民に対し、終わりの日の警告であり、人類の大いなる艱難の日であります。「しかし、エルサレムの滅亡をもって、直ちに世の終末が来るのではない。」とイエス様は言われます。エルサレムの滅亡によって、ユダヤの民が、神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音はキリストの弟子たちによって、広く世界へ、異邦人へと向かって行く。全世界へと福音が宣べ伝えられる時代が始まる。エルサレムの滅亡はこの意味において、大きな時代の一大転換期であり、人類の歴史の重要な一段階であります。マタイによる福音書の方を見ますと、24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国の、この福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」とあります。神の選びによって導かれて来た神の強力な力はユダヤ人の主導的地位から失われ、それから後は異邦人によって神の救いの道は移り、救われるべき異邦人の数の満ちるに及んで人の子が来る。(その様子はマタイ24章29節以下にあります。)世の終わりが来て、キリスト再臨による大いなる審判が行われる。(マタイ福音書25章31節に記されています。)そうして、全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神の御心のままに全てはなって行くのであります。
<人知では、とうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いをキリストにあって守るように。> アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
スオミ教会の子ども料理教室は曇り空の11月5日に開催しました。今回は、幼稚園の小さなお子さんから小学校6年生の子どもたちまで、 お母さんお父さんも一緒に参加して、 教会の集会室はぎやかな雰囲気に包まれました。この日みんなで作ったのは、スナックマフィンです。
子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。4つのグループに分けて、最初にマフィン生地を作ります。生地の中に入れるパプリカとハムを細かく切り、粉類を正確に計って材料をボールに入れて混ぜます。別のボールに卵や牛乳などの材料を計ってよく混ぜてから粉類の中にかき混ぜるとスナックマフィンの生地の出来上がりです。生地をスプーンでマフィンカップに入れて、ミニ・トマトとすりおろしチーズでトッピングをします。みんな一生懸命生だったので、生地はあっという間に出来上がりました。スナックマフィンをオーブンに入れて焼き始めます。
焼いている間にテーブルを片つけて、それから少し子どもたちに遊ぶ時間が出来ました。その時台所から美味しそうな香りが広がって、スナックマフィンが焼き上がりました!もう食べたいよ、という声も聞こえましたが、マフィンを冷ます間にみんなで子供讃美歌を歌って、フランネルの聖書劇「木に登ったザアカイ」を一緒に観ました。イエス様がイチジクの木に登ったザアカイに向かって叫んだところです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まりたい。」ザアカイにとって、イエス様に出会ったこの日は人生の中で最も大切な日になりました。
ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。私たちもイエス様に出会うと、ザアカイと同じように大きな喜びを心の中に持てて悪いことをやめて良いことをするようになります。そんな喜びは神様が与えてくださいます。神様に感謝しましょう。
フランネル劇が終って、みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったものをいただきましょう!子供たちは食べるのに黙々と集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい、歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室はみんなで暖かい一時を分かち合うことができました。
次回の子供料理教室は12月に予定しています。詳しい案内は追ってお知らせします。どうぞ教会のHPをご覧下さい!