宣教師の週報コラム  フィンランドの「クリスマス平和宣言」

12月24日のクリスマス・イブの日、フィンランドのトゥルク市には14世紀から続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。その日、ブリンカラという名称で親しまれる市の会館前の「旧大広場」に大勢の群衆が集まります。トゥルク大聖堂の12時を知らせる鐘が鳴ると、軍楽隊の伴奏で群衆は一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら(日本のルター派教会の教会讃美歌450番「力なる神は」)」を歌います。歌い終わると会館のバルコニーから市の儀典担当者が巻物を広げて次の宣言文をフィンランド語とスウェーデン語で高らかに読み上げます。

「明日は、もし神がお許しになるのであれば、我々の主であり救い主でおられる方の恩寵溢れる降誕の日である。それゆえトゥルク市にクリスマスの平和を宣言する。市民はこのお祝いに相応しい敬虔さをもって祝い、静かに騒ぎ立てぬよう振る舞わなければならない。なぜなら、この平和を破り、違法あるいは相応しくない行為によってクリスマスの平和を乱す者は、重大事案が生じたことになるので法令がそのために別途定めている刑罰に処せられることになるからである。終わりに、トゥルク市に居住する全ての住民にとってクリスマスのお祝いが喜びに満ちたものになるように。」

読み上げた後、再び軍楽隊の伴奏で今度はフィンランド国歌を斉唱し、最後は「ポリ市民行進曲」の演奏で終わります。大体15分位の内容ですが、テレビ中継され国民のほとんどが注視するひと時と言っても過言ではありません。ヨーロッパでは中世から同じようなクリスマスの平和宣言はどこでも行われていたそうですが、現在も続けているのはフィンランドのトゥルク市だけだそうです。(2021年12月19日初掲載)

「クリスマスの平和宣言」をYoutubeで見る

スオミ教会・家庭料理クラブの報告


12月のスオミ教会・家庭料理クラブは10日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマス料理の定番の中から「ポテト・キャセロール」Perunalaatikko と「ビーツ・サラダ」 Rosolli を選びました。あわせてデサートにクリスマス・クッキーも作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にポテト・キャセロールを作ります。今回は伝統的なポテト・キャセロールと少し違って甘味を出すためにジャガイモだけでなくサツマイモも入れました。ジャガイモとサツマイモを茹でてからハンドミキサーでマッシュします。牛乳など他の材料を混ぜて焼き方型に入れ、あまり高くない温度で焼きます。

次はビーツ・サラダの番です。茹でた野菜をサイコロ状に切って種類ごとにお皿にきれいに並べます。参加者が大勢いたおかけで色とりどりの華やかなサラダがすぐに出来上がりました。サラダの酸っぱさを和らげるクリームも作ります。生クリームをホイップしてスパイスとビーツの汁を少し加えるとピンクの可愛らしいクリームの出来上がりです。

最後はクリスマス・クッキー「ピパルカック」を焼きます。生地を伸ばして花や星やハートなどいろんな形の型どりをして沢山のクッキー生地を鉄板に並べます。鉄板をオーブンに入れると教会中クリスマスの香りで一杯になりました。

参加者の皆さんにとってフィンランドのクリスマス料理を作るのは初めてだったので、試食が楽しみでした。出来上がったポテト・キャセロールとビーツ・サラダをそれぞれのお皿に盛りつけて、さあ、頂きます!ポテト・キャセロールが入った型はあっという間に空っぽになりました。クリスマス料理やクッキーをゆっくり味わいながら、モニターを通してフィンランドのクリスマスの歌を聴きました。終わりにフィンランドのクリスマス料理やクリスマスの過ごし方、そして聖書に出てくるクリスマスのお話も皆で一緒に聞きました。

今回の料理クラブも無事に楽しく終えることができ、天の神さまに感謝です。

料理クラブは年明けの1月はお休みになります。次回は2月第2の土曜日に予定しています。日にちが近づきましたら教会のホームページの案内をご覧ください。何を作るか、ぜひお楽しみに!

それでは皆さま、天の父なる神さまが豊かに祝福されるクリスマスをお迎え下さい!

料理クラブのお話2022年

今日皆さんと一緒に作ったポテト・キャセロール「Perunalaatikko」とビーツ・サラダ「Rosolli」は昔からあるクリスマス料理です。オーブン焼きの温かいキャセロールの種類は多くて、ジャガイモの他にニンジンやルタバガと呼ばれるスウェーデン・カブのキャセロールも作られます。一番人気のあるのはポテト・キャセロールですが、作り方が少し難しいので、自分で作らないで店で買う家庭が多いです。今日は簡単な作り方で作りました。甘味を出すためにサツマイモとシロップを入れましたが、伝統的な作り方はジャガイモだけから甘味を引き出します。ジャガイモだけでどうやって甘くなるのでしょうか?それは、茹でたジャガイモをマッシュしてその中に小麦粉を少し混ぜて、大体50℃位の温度に3時間から5時間くらい置いておくと、ジャガイモのでんぷんが分解されるので甘味が出るのです。そのマッシュポテトをあまり高くない温度で焼きします。これが伝統的なポテト・キャセロールの作り方です。

ビーツ・サラダは伝統的なクリスマスサラダの一つです。サラダの名前「Rosolli」はロシア語から来たものです。このサラダはクリスマスの時だけでなく、一年のお祝いの食卓にもよく出されます。このサラダにはいろいろな野菜が入っているので、私の母は秋の収穫が終わってからよく作りました。

フィンランド人はクリスマス料理の伝統をとても大事にして、母親が作ったクリスマス料理が子供に受け継がれて、どの家庭でも昔お母さんが作ったものと同じ種類の料理を作ります。料理の味と香りを通しても、それぞれの家庭のクリスマスの雰囲気が作られると言ってもよいです。

クリスマスの時に毎年同じ料理を作ったり、同じ過ごし方でクリスマスをお祝いすることで、フィンランド人は安心感を得ていると言えます。クリスマスが近づくと、たいていの子どもたちは「今年も豚肉のオーブン焼きやポテト・キャセロールを作るの?」と親に聞きます。作りますよ、と答えると、子どもはホッとした顔をします。これで今年も同じ雰囲気のクリスマスになると感じて安心するのです。しかし、今の世界の動きはこの2、3年の間にとても大きく変わってしまって、前は当たり前だったことが今はそうではなくなってしまいました。このため、クリスマスにいつも同じ料理を作ったり同じ過ごし方でお祝いできるかどうか、来年も出来るのだろうかと多くの人々が不安を感じるようになったかもしれません。

この間フィンランドのテレビのニュースを見ていたら、今フィンランド人は誰を一番信頼しているかについての世論調査がありました。調査の結果、フィンランド人が一番信頼しているのは、国境警備隊、救急隊、救急医療センターでした。これは、今のフィンランド人が大きく変わる世界の中で安全と安心を重要なものと考えていることを表わしています。それで、安全と安心を与える機関に対する信頼が高まったのです。さて、この変化する世界で私たちは誰を信頼するでしょうか?

聖書には信頼について沢山書いてあります。今教会のカレンダーはアドベントの期間に入ったので、クリスマスの前やクリスマスの時に起きた出来事について聖書に書かれてあることを見てみたいと思います。その中で、イエス様の母親になるマリアとマリアの夫になるヨセフが天の神さまに対して持っていた信頼は私たちの心を動かします。

CC0昔ナザレという町にマリアという若い女性が住んでいました。彼女はダビデ家のヨセフと婚約していました。ある日天使のガブリエルがマリアに現れてこう言ったのです。「おめでとう、恵まれた方。神さまはあなたと共におられます。」とても驚いたマリアに対して天使は続けて言いました。「あなたは神さまから恵みを与えられました。これからあなたは神の力で身ごもって男の子を産むことになります。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者になり、いと高き神の子と呼ばれる。彼に神はダビデの王座を授ける。彼は永遠に神の民を治め、その支配は終わることがない。」天使の言葉はマリアには完全に理解できないことでしたが、それは旧約聖書の預言が関係しているとマリアにはわかりました。マリアも旧約聖書に預言された救い主はいつ来られるかと待っていたからです。マリアは神さまがメシアを送る約束を果たす日がついに来たのだと分かったのです。それで天使に次のように言ったのです。「私は主にお仕えする者です。お言葉の通りにこの身になりますように。」マリアは神さまを信頼していたので覚悟が出来ていました。しかし、婚約者のヨセフがこのことをどう思うか心配があったでしょう。

Dennis Jarvis from Halifax, Canada, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commonsマリアの妊娠に気づいたヨセフは結婚をやめることを考えました。しかし、ヨセフには天使は夢の中に現れて次のように言ったのです。「マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は将来、人間を罪から救い出す。だからマリアと別れてはならない。結婚しなさい。」ヨセフも旧約聖書に預言されていた救い主を待ち望んでいました。それで、その時がついに来たのだ、それは自分とマリアを通して本当のことになるのだとわかりました。ヨセフはマリアを妻として迎えることにしました。

マリアとヨセフの将来の見通しは最初に考えていたことと大きく変わってしまいました。この先何が起こるのか予想がつかず、二人とも不安を感じたかもしれません。それでは、なぜ二人は神さまが与える課題を受けいれたのでしょうか?それは、神さまが本当に信頼して大丈夫なお方であることを旧約聖書から学んでいただからです。神さまが救い主を送って下さるという約束を必ず守ると信じていたからでした。

旧約聖書の詩篇62篇9節には次のように書いてあります。「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ」。このみ言葉は私たちにも向けられています。今世界が大きく変わっていてどこに向かっているか誰もわからない時でも、私たちは神さまが示される道を進んで行くことができます。その道はいつも平らではなく坂道もあれば曲がり道もあります。しかし、神さまのみ言葉が生きる土台にあれば、神さまは信頼して大丈夫な方と分かり、神さまが示される道を歩むことが出来ます。たとえクリスマスの過ごし方が前と違うものになっても、イエス様が私たちの救いのためにこの世にお生まれになったというクリスマスの本当の意味は変わりません。変化が激しい世の中で、変わらない神さまの愛とみ言葉は本当に信頼できるものです。クリスマスの本当の喜びは、本当に信頼できる方を持つことがで見いだすことが出来るのです。

 

宣教師のコラム   キリスト信仰者と戦争 - フィンランドの視点

12月6日はフィンランドの独立記念日。毎年その日のニュースに必ず出てくるのは、 「あなたにとって独立は何を意味しますか?」と聞く街頭インタビュー。老若男女問わず必ず返って来る答えは「自由」である。この「自由」は、外国の支配からの自由だけではない。国内で自由と民主主義の体制が守られることも意味する。フィンランド人は第二次大戦で両方の自由を守ったという自負が強くあるのだ。(そう言うと、あれっ、フィンランドは枢軸国ではなかったの?と疑問に思う人が出てくるかもしれない。フィンランドは実は戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた国だったのだ。そんな国がなぜ後半はナチス・ドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)

 この自由を守ることは国民の義務で、場合によっては武力を用いてでも守らなければならないということを示すのが徴兵制である。パイヴィの兄弟姉妹たちの男の子たちも高校を卒業すると皆、大学入学前までに当たり前のように兵役を済ませていた。二重国籍の息子にも”召集令状”が来たが、障害があるため医師の診断書で免除となった。女性は志願制だが年々増加しているという。予備役の再訓練の参加率も高まっていて、2014年のロシアのクリミア半島併合以来の傾向だと聞いた。

 ところで、キリスト信仰者が銃を取ることは許されるのだろうか?国教会の堅信礼教育で十戒を教える時に問題になるところだ。第5戒「汝殺すなかれ」。教師を務めた時、私はいつもその項目の担当を外してもらった。フィンランドの中学2年の子供たちに外国人の私が、銃を取って宜しいとか、逆に兵役は罪を犯すことになるとかとても言える立場ではない。

 最初の堅信礼合宿の時、この問題で牧師と夜遅くまで話した。彼は次のように自分の立場を説明した。ローマ13章などにあるようにキリスト信仰者はこの世の権力に従うことを基本とする。ただし、使徒言行録4章19節などにあるように、神の言うことと権力の言うことが対立したら聞き従うのは神である。第2次大戦はフィンランド国民にとって、まず権力が銃を取るよう命じたので従ったという面がある。それと、敵国のソ連という国は、もし占領されてしまったら信仰の人生が不可能になってしまう相手であったという面がある。彼は授業でも、自分はこのように考えていると、押し付けるのではなく自分の考え方を紹介する仕方で子供たちに語っていた。僕はこう考える、あとは君たち自身で考えてみてくれ、という具合に。そうは言っても、牧師の説明はフィンランドのキリスト信仰者の間では広く共有されていると思う。

 しかしながら、フィンランド国民の90%以上が国教会に属していた時代はもう過去になってしまった。私が牧師の話を聞いた頃はまだ80%台だった。昨年は66%まで落ちた。生まれてくる子供の洗礼率も今では半分位だそうだ。この傾向が続けば2040年には国教会の所属率は50%を切るということだ。兵役の是非を考える際にかつてのように信仰と関連づけて考えることは、もう一般的ではないのかもしれない。それでは彼らは今、何に関連づけて何に拠って考えるのだろうか?かつては神のみ言葉が価値でそれを自由と民主主義が保証していたのが、今は自由と民主主義自体が価値になったということか?

2022年12月11日(日)待降節第3主日 主日礼拝

「あなたこそ来るべき方、メシア」       2022年12月11日

マタイ福音書11章2~11節

今日の福音書は、バプテスマのヨハネとイエスの活動についての話です。どういう場面かと言いますと。マタイ11章2節でわかりますが。「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。」とあります。ヨハネは、今獄中に入れられています。なぜ獄中に捕らえられているか、ということを先ず簡単にふれたいと思います。マタイ14章3節を見ますと、領主ヘロデは自分の兄弟フイリポの妻であるヘロディアを自分のものにしようと夫のフイリポを戦場に出して戦死させた。そしてヘロディアを自分の女にしたわけです。こうした人道から外れた事をローマ帝国の領主たる者が衆知の中で、やっている事が許されることではない、と厳しくヘロデ王を咎めたために投獄されたわけです。ところで、2節~3節のところを日本語訳のまま読んでみますと、バプテスマのヨハネが獄中から、まるでイエスを疑って弟子たちをイエスのもとに行かせて「来るべき方はあなたでしょうか、それともほかの方を待たなければなりませんか。」と質問しているかのように読み取れます。このことが昔からここは福音書の中でも最も難解な箇所の一つであると言われました。2節を見ますとマタイはこう書いています。「さて、ヨハネは獄中でキリストの御業について伝え聞いた。」とあります。これまで、バプテスマのヨハネという人は人々に「来るべき方」を紹介するという特別な任務を神様から授かっている預言者でありました。彼は神の啓示に従って「イエスこそ待望のメシアである」と人々にも弟子たちにも紹介してきました。ところが、その後ガリラヤの領主ヘロデの怒りにふれ投獄されてしまいました。

この事については「ユダヤ古代史」を書いたヨセフォスという人の記録にもあります。それによるとバプテスマのヨハネが入れられた牢獄はヨルダン川の東にあるぺーレアという所にありました。そこは深い谷で囲まれた死海の海面から1200mもそびえる山の頂にある天然の砦であった、と言われます。まだ30才の預言者ヨハネは囚われの身となって死海の彼方に広がる山々を見ていたにちがいありません。その彼の耳にイエス様と弟子たちの活動の様子が伝えられていたのです。

マルコ福音書6章19節によると、ヨハネを捕らえて殺そうとした張本人は領主ヘロデの不義の妻であるヘロディアでありましてヘロデ王の方は「ヨハネは正しく聖なる人である事を知って彼を恐れ彼に保護を加えていた。」とあります。ですから「獄中」とは言え彼にはかなりの自由な弟子との連絡が許されていたようです。そうした事からイエスの活動ぶりが逐一報告されていたものと思われます。報告を聞いてヨハネはどう思ったでしょうか。自分は山の中の獄に捕らわれているのに対して、自分が「この方こそメシアだ」と世に紹介したイエスが眼下に広がる湖の彼方で活動している噂を聞いて預言者の胸中はどのようなものだったでしょうか。聖書はそれをドラマチックに描き出してはおりません。ただ一言「来るべき方はあなたなのですか、それとも他に誰かを待つべきでしょうか。」という彼の言葉が記録されているだけです。ここのこの言葉についていろいろ想像がめぐらされてきました。第一には、ここをそのまま読んで獄中のヨハネも余りの辛さに短気を起こし救い主の救いを待っていたが、もう我慢できないと、あなたなどメシアでも何でもないと、弟子たちを遣わして確かめたかった。という説です。預言者も現実の苦しみの前には信仰を捨て始めたのか・・・・というのです。しかし、これは聖書が預言者ヨハネのこの世に於ける働きの意義を重要な使命と教えている、ところから見るとそうは思えない。また、信仰を捨て始めたなどとはとても考え難いことです。例えば使徒言行録13章24節~25節を見ますと、彼の働きをこう要約しています。24節にヨハネはイエスがおいでになる前にイスラエルの全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、自分の事をヨハネはこう言いました。「私を何者だ、と思っているのか。私はあなた方が期待しているような者ではない。その方は私の後から来られるが、私はその方の足の履物をお脱がせる値打ちもない。」ここに引用されているヨハネの言葉は福音書では、彼の預言者としての開口一番のメッセージとして記されているものです。それ以後ヨハネが殺されるまでの年月はほんのわずかしかありませんでした。そうして見るとヨハネのメッセージは預言者として登場してから死ぬまで首尾一貫して同じであった。それは、私の後にくる方「イエスこそメシアである。」と力強く叫んでいます。それがヨハネでありました。ですから今獄中にあって「来るべき方はあなたなのですか、それとも誰かを待つべきでしょうか。」とイエスを疑って本当かどうか聞いて来いと弟子たちに言うはずがない。ヨハネがそんな不信を抱くような事はないのです。

次にもう一つの見解があります。これは殆ど古代キリスト教の学者たちの説です宗教改革者のカルヴァンもこの見方です。これによると”ヨハネの信仰 ”はびくともしなかったがヨハネの弟子たちはいつまで経ってもメシアに従って行こうとしない。捕らわれの身にあるヨハネを慕っている。それで弟子たちに従わせるため彼らをイエスのもとへ遣わしたのだ、という説です。この説に対して反論がありました。ヨハネの弟子たちがこんな形でイエスのもとへ行ってしまったという例はほかにない。つまり、この説で言っているようにヨハネの意図したように弟子たちがイエスについて行ったでしょうか。さて、第三の見解があります。これが近代と現代の殆どの学者たちが辿り着いた説と言われます。神の啓示によってヨハネは「イエスをメシアである。」と紹介したのに今頃になって、その啓示を疑うはずがない。そこでヨハネがイエスを理解していたメシア観は木の根元に斧を振り下ろす審き主のメシア、蓑を以て、麦と殻とを分け殻を火で焼き滅ぼす審きのメシアという信仰であった。そこで、彼はそのメシアがあの領主ヘロデ夫妻を審いてくれるにちがいない。今は捕囚の身であるけれども正義を貫いている自分を救ってくれるにちがいないと期待していた。ところが、実際のイエスは憐みの業と福音伝道ばかりに熱中していて一向に審きを行おうとはしない。それで、ヨハネはイエスがメシアであることの事実は疑いはしなかったが、メシアの性質を考え違いをしたために、痺れを切らした。と言うのです。

しかし、ルカ福音書7章21節によれば「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」とあるように、ちょうどヨハネの弟子たちが来た時イエスはその憐みの業の真っ最中だったが、それを見られても恵みと憐みのメシアとしての姿を示された。そして、憐みのメシアである私に躓かない者は幸いである、とも言われている。そこに、忍耐を求めておられるのでありました。

これらの第三の解釈が大方の見方であります。ところで、第三の見方についてもいくらかの疑問がある、という点を注意してみたいところであります。一つには2節で言われている弟子たちの情報からヨハネが獄中で聞いた「キリストの御業」と言っていますが、ここでヨハネはイエス様のなさっている事を、救い主メシアらしからぬ御業と誤解したのでしょうか。いや、そうではないヨハネ自身はイエスのなさっている働きを「キリストの御業」と理解して聞いていたであろうと思われます。次に、ヨハネの聞いた報告はヨハネの信じていたメシア観から見て期待外れのつまらぬ報告だったのでしょうか。その答えは、マタイの記す前後文からわかります。20節でイエスは数々の力ある業がなされたのに悔い改める事をしなかった町々を呪っておられます。イエスの御業はそれらの町の人々が見てはっきりとメシアの到来を認めねばならぬはずの「力ある業」だったのです。この事はルカ福音書の方でも記しています。ヨハネが弟子たちをイエスのもとへ派遣する前の事です。そこには、死人を生き返らせた大奇跡を記しています。その奇跡の結果、人々は皆恐れを抱き「大預言者が私たちの間に現れた」と言っているのです。また「「神はその民を顧みてくださった」と言って神をほめたたえた。イエスについてのこの話はユダヤ全土及び付近の至るところにも広まった。、これ程の業をイエスがなさって皆知っているわけですからヨハネの弟子たちもこれらの事を全部牢獄の中にいるヨハネにも報告しているわけです。だから、ヨハネは獄中で「なんだ、まだグズグズしてメシアらしい力を表さないのか」という思いで聞いてはいないのです。むしろ、メシアの力ある業を聞き「神がその民を顧みてくださる。」そういうメシアの時代が来た、と人々も認めている。こうした嬉しい報告を聞いているのです。

次に、ヨハネは果たしてメシアを審き主とだけ期待していたのであろうか。マタイ福音書3章7節以下を見ますと、バプテスマのヨハネの始めた頃はヨルダン川で洗礼を授けていた時「悔い改めよ」と叫んで「私の後に来る方は火で焼き払われるぞ」と審きのメシアを叫んでいましたが、後では変わっています。マタイ福音書3章13~17節を見ますとわかりますがイエスがヨルダン川にやって来られてヨハネから洗礼を受けられた。そのお姿は罪人の如く悔い改めてバプテスマを受けようとされるメシアです。へりくだった恵みのメシアです。そこで天から御声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者である」と。ヨハネはこういうメシアであるイエス様を充分知っているのです。だから、獄中からヨハネは審き主としてのメシアの力を発揮して「早く閉じ込めている領主ヘロデを審いて滅ぼしてください」といった考えは持っていないのです。こうして、イエスの返事は4節にあるように「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。」目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病に患っている人々は清くなっている。耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。これら全部の事実こそメシアに相応しい印なのだ、ということです。そうして、イエスは言われる。「ヨハネこそ、あなたはこの私を『ナザレから出たメシア』だと紹介し続けてきた。この点で私に躓かない者であり、幸いなものである」と言っているのです。ですから、イエスの返事はヨハネに対する全面的な祝福と賛同の気持ちに満ちているのです。ヨハネのもとから遣わされた弟子たちはイエスの言葉に満足して帰ることができたでしょう。ヨハネの理解とイエス様の返事とは共にいまイエス様がしておられる恵みの業と力あるメシアの働きとを観る点で一致したのです。

さて、最後に11章3節にあるヨハネの言葉は今の日本語訳で、そのまま読めばどうしても疑問文です。そのことがどうしてもひっかります。実は、聖書学者の研究によれば、ここのところのギリシャ語原文は疑問文にはなっていない。そして、「たずねさせた」という文も原文にはない。というのです、むしろこの文章は力強い肯定文或いは断定文として訳したい構造になっている。これをありのまま訳すと「あなたこそ、かの来たるべき方です。それとも、我々は他の人を待っているべきでしょうか。いやいや、あなただけだ」と訳すのが一番自然と言われます。今日の聖書の箇所は難解でわかり難い面もあったかと思いますが、要するに結論的に申しますと、バプテスマのヨハネが預言者としての大切な働きをし、彼の人生の終わりが近づいている中でイエス様の活動をメシアの力ある御業として聞き、喜んで使者を遣わしイエス様に対する祝辞と力強い応援の声を送った、ということであります。ここには、メシアを民に紹介したヨハネとメシアであるイエス様との間に取り交わされた「祝福」と「賛美」にあふれたものであったのです。「イエスこそ神の子、救い主メシアである」とメシアの伝道を一筋に書いてきたマタイにとって、最高にうたいあげているメッセージであります。獄中にあってもヨハネにとって生涯の終わりまでメシアを指してきた、この働きは預言者ヨハネの最も輝かしいクライマックスでありました。

人知では、とうてい測り知る事のできない、神の平安がキリスト・イエスにあって守るように。>  アーメン

宣教師の週報コラム 祈りの試練の現在

フィンランドの信仰ある人たちの祈りは、他の人のために祈るということだけでなく、 もし自分に何かあれば祈りの課題を他の人に伝えるということを当たり前のようにします。牧師にだけでなく信徒同士でそうするのです。課題を伝えられた人は、信頼の表れとして感謝して受け取ります。伝える人も相手に負担にならないように細かな状況説明はせず簡潔に課題を伝えることが普通と思います。受け取る側も簡潔さの中に大きな真実があるとくみ取って全ては父なるみ神がご存じであることでよしとして立ち入らず、神のみ前にヘリ下って祈りにまい進します。

課題を伝える人が祈る前に詳細を知ってほしいという場合もあります。その時は「魂ケア」の出番となります(「魂ケア」については9月25日付け週報コラムをご覧ください)。

最近スオミ教会の中で、生活にいろいろ困難が生じて礼拝にも集えない状態になったにもかかわらず、祈りの課題をあえて託さないということが一度ならずありました。いろいろ考えさせられました。一つには、キリスト信仰者が「お祈りします」と言うのと日本語の挨拶言葉「~をお祈り申し上げます」の区別がまだ出来ていないことがあるのではと思いました。日本語の挨拶は言う人の願いの表明で、言う人と言われる人の間の事柄に留まります。キリスト信仰の祈りは、「父なるみ神には、私の方からもお伝えし解決をお願いしておきます」という、神へのへりくだった取り次ぎです。自分で解決するから構わないでという態度は、神へのへりくだりがまだ身についていないことの表れではないかと思います。

もう一つには、コロナ禍で礼拝をオンライン化したため、教会に来なくとも礼拝をフォロー視聴できるようになったことも影響していると思います。人と直接顔を会わせず声も聞かないでいると、自分がイエス様を頭とする体の中の部分(他より優れているところがあるかもしれないが実は劣っているところもある)であることの実感が薄れていくのではないかと危惧しています。

手芸クラブの報告(2022年11月30日) 

マクラメ

11月の手芸クラブは晩秋にしては暖かい風の吹く陽気の中での開催でした。

マクラメ今回の作品は先月と同じ、マクラメのクリスマスの飾り物です。初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回初めて参加された方はクリスマス・リースに興味を持ってそれを選びました。他の方たちはクリスマス・るのではなく、馬小ツリーと星です。まず、全部の作品に必要な糸の長さを測り、それから結び始めます。今回はマクラメの三つの基本の結び方を用いました。

クリスマス・リースは、リングの上にマクラメを結んでいきます。すると、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。結んでいくとだんだん速くなって、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。その次はリースの飾りつけです。赤いリボンを付けて可愛らしいクリスマス・リースが出来上がりました。

クリスマス・ツリーは、初めは二本の糸でスタートしますが、糸をどんどん増やして行くとクリスマス・ツリーの形が見えてきました。途中で可愛いらしいパールで飾りつけをして素敵なツリーの出来上がりです。

width星は、初めは小さいリングに糸を沢山結びます。それから新しい結び方で結び始めます。糸が多くて最初は結ぶのが少し大変でしたが、慣れると星の形が少しずつ見えてきました。星も可愛いらしく出来上がりました。

参加者の皆さんはマクラメのクリスマス・飾り物にとても興味を持って作られたので時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。モニターから映し出されるフィンランドのクリスマス音楽を聴きながらコーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。

皆さんの今年のアドベントとクリスマスの期間が心に残る良い時となりますように!

 

手芸クラブ11月30日星の話

今日マクラメのテクニックを使って作ったものの中に星もありました。私は二つの違った作り方で星を作りましたが、ネットを調べて見ると、マクラメの星の作り方はまだいろいろあります。来年は新しいテクマクラメニックを使って可愛いらしい星を作ることが出来たらと思います。

星は夜空に輝く天体です。多くの人たちは夜の星空を見るのが好きです。フィンランドでは冬寒い夜空に輝く星はたくさん見えるので、星座を見つけるのが面白くなります。特によく知られている七つ星の星座、北斗七星を見つけるのは楽しいです。皆さんはそれを見たことがあるでしょうか。

星はクリスマスの飾り物にもなります。教会のカレンダーではこの間の日曜日からアドベント、日本語で待降節という季節に入りました。その前の日曜日に教会ではクリスマスの飾り付けをして玄関のドアに木製の星を飾りました。星の中にあるランプの明かりが本当の星の光のように輝いて教会の前を通る人たちにクリスマスが近づいていることを知らせる光になるように願っています。キリスト教会で言われる「クリスマスの星」にはとても大きな意味があります。「クリスマスの星」というのは、世界で一番初めのクリスマスの時にベツレヘムというところに現れた星を意味します。それはどんな星だったのでしょうか。

救世主の誕生ということが旧約聖書に預言されていました。それで多くの人々はそのことが起こることを待ち望んでいました。一番初めのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の博士たちは不思議な輝きをする星を発見しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印だと考え、はるばる今のイスラエルの地まで旅をして、首都のエルサレムまでやってきました。そこで、その時に王様だったヘロデに言いました。「新しく王になるためにお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」ヘロデ王はとても驚いて、自分に地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤ地方のベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。自分も子どもを拝みに行きたいなどと言いましたが、本当はその子を殺すことを考えました。クリスマス学者たちは王の本当の考えを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が再び彼らに現れ、彼らはその星を目指すようにして進んで行きました。それはあたかも星が彼らの先頭に立って進んでいるようでした。そうして彼らはベツレヘムの町に入りました。やがてこれ以上進まなくていいというところにつくと、そこには馬小屋がありました。学者たちがその中に入ると、赤ちゃんのイエス様が母マリアの膝の上で安らかに眠っていました。学者たちは目の前におられる幼子は一つの国を支配する者ではなく、旧約聖書に預言された世の救い主になる方だとわかりました。そのような方が王子様のようにお城で生まれるのではなく、クリスマス馬小屋で生まれたというのは信じられないことでしたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導ぎがあったので、これは天地を造られた神の御心だとわかったのです。

彼らはヘロデ王のところに戻って知らせなければと思いましたが、夢の中でヘロデ王のところに行かないようにという神様からのお告げがありました。それで彼らは戻らないで別の道を通って自分の国に帰りました。

クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年前のことですが、2000年後の私たちにも大きな意味がある出来事です。東方の学者たちのように、私たちも世界で一番初めのクリスマスにお生まれになったイエス様の元に導かれることが起こるのです。それはどのようにして起こるのでしょうか?それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時に起こります。聖書のみ言葉は私たちにベツレヘムの星と同じ役割を果たすのです。そのことについて聖書には沢山書いてあります。例えば詩篇の119篇105節には次のように書いてあります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」。聖書のみ言葉は私たちが歩んでいる道をいつも照らし続けます。それに従って行けば、世界で一番初めてのクリスマスの意味、つまりイエス様はこの世の全ての人の救い主として生まれになったということが分かります。この意味を心で受け取ると心の中は平安で満たされます。

今年のアドベントとクリスマスが皆さんにとって神様が祝福される時となりますように。

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宣教師の週報コラム  待降節は教会の新年

今日は待降節第一主日です。教会の暦では今日、新しい一年がスタートします。フィンランドのルター派国教会の礼拝ではこの日、 全国の教会で一斉に「ダビデの子、ホサナ(日本の教団讃美歌307番)」を元気よく歌います。スオミ教会でも歌います。

「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)

今日からまた、降誕祭(クリスマス)、顕現日、受難節、聖金曜日、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。聖霊降臨祭の後は、聖霊降臨後第何主日という形で続き、待降節第一主日の前の最後の主日は、北欧のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれ、最後の審判がテーマになります。

このように教会のカレンダーは、イエス様の誕生から十字架と復活の出来事までをフォローでき、私たち自身の復活にも思いを馳せられるようになっています。

それなので教会の暦に従って礼拝出席を欠かさないようにすれば、主の再臨を心に留めつつ、この世での自分の歩みを造り主である神の御心に照らし合わせて反省したり、また神から罪の赦しの恵みと愛が豊かに注がれていることを絶えず確認できます。しかも、一人ではなく信仰の兄弟姉妹たちと共にです。それなので、日々の歩みを教会の暦に合わせて日曜礼拝を守りながら生きることは、キリスト信仰者としてのアイデンティティーを確立し、この世を生きる上で大きな力を与えてくれるます。

どうか、天の父なるみ神がこの新しい一年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。(2020年11月29日初稿掲載)

11月23日19時45分 スオミ教会・聖書研究会

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聖句 ローマの信徒への手紙10章11節~11章10節

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 」しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。

新共同訳

スオミ教会 手芸クラブ&チャーチ・カフェのご案内

11月の手芸クラブは30日(水)10時~13時開催です。

マクラメでクリスマスの飾り物を作ってみませんか。

今回はマクラメのテクニックを使ってクリスマス・リース、クリスマス・スターを作ります。クリスマスツリーのミニチュアも作れます!

手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできます。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

 

参加費は材料費の500円-1000円
(作るものによって変わります)です。

人数制限がありますのでご注意ください。

お子さん連れの参加も歓迎です。

皆様のご参加をお待ちしています。

 

お問い合わせ、お申し込みは、moc.l1750429031iamg@1750429031arumi1750429031hsoy.1750429031iviap1750429031

日本福音ルーテル・スオミ教会
新宿区鶴巻町511ー4-106
03-6233-7109

 

手芸クラブの開催中、教会の集会スペースにてチャーチ・カフェも開いています。

コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。

手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。

ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。(コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
www.suomikyoukai.org

宣教師の週報コラム

「贖い」と「償い」の違いについて

キリスト信仰にとって大事な言葉「贖い」と「償い」は似ているようで意味が違います。 両者を混同すると、朝に「おやすみ」、夜に「おはよう」と言うのと同じ間違いをすることになりますので、キリスト信仰者は意識して使い分けできるようにしましょう。

「償い」とは罪を償うことです。社会生活や人関関係で罪や過失を犯したら、賠償したり刑罰を受けることが償うことになります。殺すな、姦淫するな等々神の掟を行動や心で破って神に対して罪を犯した場合の償いは神罰を受けることになります。キリスト信仰では、人間が神罰を受けないで済むようにと神のひとり子が自分で人間の罪を引き取って十字架の上で神罰を受けられました。イエス様が人間の罪を人間に代わって償って下さったのです。

「贖い」はとてもわかりにくい言葉です。フィンランド語やスウェーデン語や英語では「買い取る、買い戻す」という言葉が用いられます。日本語のように敢えてわかりにくい物々しい言葉を充てることはしないのです。それでは、何を「買い取る、買い戻す」のか?人間です。罪の言いなりになって心も体も罪に支配されている人間を神のもとに買い戻すということです。その時に支払われた代価が、神のひとり子が十字架の上で流した血だったのです。

そういう訳で、「償う」のは罪、「贖う」のは人間ということになります。

時々「罪の贖い」という言い方を耳にします。それは「罪からの人間の贖い」を縮めて言っているのだなと理解してあげれば済むことかもしれませんが、紛らわしいです。すっきりさせるためにも罪は「償い」に結びつけた方がよいでしょう。フィンランド人やスウェーデン人や英語圏の人と信仰の話をする時に、「罪を贖う」という日本語をそのまま直訳して話したら混乱します。父なるみ神がひとり子を犠牲にしてまでご自分のもとに買い戻したいのは人間であって罪ではないからです。