動画、スオミ・キリスト教会料理クラブ、フィンランド風チョコレート・イチゴケーキ、聖書のお話

スオミ・キリスト教会のパイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にフィンランド風チョコレート・イチゴケーキを作りましょう。出来上がってから聖書のお話「神様の素晴らしい創造の業」も聞きましょう。

チョコレート風味のイチゴケーキ

ケーキ

卵  4個
砂糖  150 ml
小麦粉  100 ml
片栗粉  75 ml
ココア 大さじ3
ベーキングパウダー  小さじ1 ½

中身

生クリーム  200ml
クリームチーズ  50g
砂糖  大さじ3
チョコレート  30g
イチゴ  5-6個
トッピング
イチゴジャム  100 ml
イチゴ  1 ½ パック
ゼリエース粉  大さじ3
お湯  50ml
水  50ml

1. 小麦粉、片栗粉、ココア、ベーキングパウダーを振るっておく。
2. 卵と砂糖をよく泡立て、1.のものを二回に分けて、加え混ぜる。
3. 2.の生地をオーブンシートを布いた鉄板に流し入れ、表面をならす。
4. 200℃のオーブンで10分から12分くらい焼く。
5. 別のオーブンシートの上にアーモンドスライスを少しかけて、焼いたケーキをその上にひっくり返して冷ます。
6. 中身を作る。チョコレートとイチゴを細かく切る。
7. 生クリームを泡立てて、その中にクリームチーズと砂糖を加えて混ぜ、6のものを中に加えて軽く混ぜる。
8. 冷ましたケーキを二つに切って、一枚に中身の7をのせて伸ばす。
9. 8の上にもう一枚のケーキをのせて、上にイチゴジャムを伸ばす。
10. 上にのせるものを作る。トッピングのゼリエース粉にお湯を入れて溶かして、水を加えて、冷ます。
11. トッピングのイチゴを細かく切って、9の上にのせる。
12. 10のゼリーが卵の白身のようになったら11の上に塗って1時間くらい冷やす。

 

 

 

 

 

5月28日(木)18時30分「聖句と祈りのひと時」 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖句 ローマ12章12節
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」
題 「神は祈りを聞き遂げられる」
歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY 宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスクSLEY宣教師

 

 

 

 

 

 

聖句と祈りのひと時「主の守りの翼の中で」パイヴィ・ヨシムラSLEY(フインランド・ルーテル福音協会)宣教師

2020年5月14日
聖句 詩篇91篇4〜6節
題「主の守りの翼の中で」
フィンランドの讃美歌552
歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師

 

 

 

 

 

 

 

子どもの料理教室、オートミールパンとストロベリーシェイク、フランネルの劇「良い羊飼いと100匹の羊」

子どもの料理教室

パイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にフィンランドのオートミールパンとストロベリーシェイクを作りましょう!出来上がった後、フランネルの劇「良い羊飼いと100匹の羊」」という聖書のお話を観ます。

オートミールのパン

オートミール 200ml
小麦粉(薄力粉) 200ml
ベーキングパウダー 小さじ2
塩 小さじ1/2
すりおろした人参(大きめ ) 1/2 本
シロップ 大さじ1
油 大さじ3
牛乳 120 ml

1. オートミール、小麦粉、ベーキングパウダー、塩をボールに入れて混ぜる。
2. 人参の皮をむいてすりおろす。
3. すりおろした人参、油、シロップと牛乳を1.に入れて混ぜる。生地は柔らかくて大丈夫です。
4. 鉄板の上にパイシートをしく。
5. 生地を二つに分けて、パイシートの上にのせる。
6. 生地の上に少し小麦粉をふりかけて、手で丸く伸ばす。
7. 丸くした生地の表面にナイフで四等分の十字の印をつけて、フォークで少しさす。
8. 200℃のオーブンで15分くらい焼く。きれいな焼き色が出来るまで焼く。

ストロベリーシェイク(4人分)

牛乳 250ml
バニラアイス 200ml
バナナ 1本
イチゴ 200g

1. イチゴを洗って葉っぱをとる。
2. イチゴをボールに入れて、ミキサーで混ぜる。
3. バナナと牛乳をボールに入れて、ミキサーで混ぜる。
4. バニラアイスを3.に入れて混ぜる。シェイクをコップにそそぐ。

 

聖句と祈りのひと時「今日の日は主が与えて下さる日」パイヴィ・ヨシムラ宣教師、詩篇118篇24節

4月30日(木)18時30分「聖句と祈りのひと時」
パイヴィ・ヨシムラSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
聖句 詩篇118篇24節 「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」
題「今日の日は主が与えて下さる日」

 

礼拝および諸集会の休止のお知らせ

コロナウイルスの感染拡大が止まない中、日本福音ルーテル教会東教区は4月4日付で教区内の各教会に対して、感染拡大の終息が見られるまで主日礼拝と諸集会の休止を提案しました。スオミ教会としてもこれを受けることとし、その間は聖書の日課に基づく解き明かしやメッセージを動画配信します。本ホームページからアクセスできますので是非試聴下さい。

2/26 手芸クラブのご報告

 

どんよりとした空模様の中、スオミ教会の手芸クラブは開かれました。

今回はフィンランドからスオミ教会に来られている、
カイヤ・レーナさんも一緒に編み針を進めます。
細い編み棒で、美しい編み地の手袋を編む手元に、見とれてしまいました。

8枚の正方形で作られるルームシューズは、1足作るのに16枚必要で、
2色の毛糸を選び、作り目をして、おぼつかない手つきで編み進めます。
1枚2枚と編み上がるのは嬉しいですね、作業は一段落、そしてティータイムです。

今日は カイヤ・レーナさんから、フィンランドの西部、スウェーデンに続く多島海のお話を、美しい写真と共に聞かせて頂きました。

小学校の先生をされていて、小学生の様子や学校の事、行事などの質問に、丁重に答えていただいたり、最後には、教会中に響き渡る美しい歌声も聞かせて頂きました。

参加の皆様お疲れ様でした。

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カイヤ・レーナさんのお話です。

今日のお話は「新しいことを始めること」についてです。

私は新しいことを始める時には楽しくワクワクして始めますが、ちゃんとうまく出来るかどうかの心配もあります。小さな手芸の作品を作り始めるのは小さなことですが、私たちは生活の中でもっと大きいことを始めます。私自身にとって今回の3週間の日本旅行は今まで経験がない新しいことです。私はこのように長い期間家族から離れた経験がありません。日本に来て少し心配な感じがしました。特に夜一人で知らない場所にいるのは少し恐くて心配です。

私は新しいことを始めると、いつも天の神様に祝福と導きをお祈りします。私が祈り求めることは、私の選ぶ道は神様の御心の通りになること、そして神様が新しいことをする私を助けて下さることです。私は天の神様にいつでも、どこでもお祈りが出来ます。聖書には、神様が私たち人間に約束したことが書いてあります。それは、神様は私たちを導いて下さる、そして助けて下さるという約束です。エレミア30章9節にそのことが書いてあります。「彼らは泣きながら帰って来る。私は彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。」

毎朝新しい一日が始まります。イエス様は私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。私は毎朝仕事に行く前に「主の祈り」をお祈りして一日を始めます。このように自分で祈る言葉を考えなくても、イエス様が教えてくださった「主の祈り」でお祈りしても良いのです。もちろん、私たちは自分の言葉で神様に必要なことをお願いしてもいいし、感謝の祈りも忘れず、神様が私たちに与えて下さった全ての良いことについての感謝も大事です。私たちはこのスオミ教会の手芸クラブやそこで作る新しい作品のことも天の神様に感謝してお祈りにいれることが出来ます。

説教:木村長政 名誉牧師

コリントの信徒への手紙  11章17節~22節              2020年2月9日(日)

                 「キリストに結ばれて生きる」

 今日の聖書は、前回に続いて、11章17節から22節まで。前回までのところで、パウロは男と女のかぶりものや服についてまで、こまかく、うるさく言ってきました。

 さて、今日の17節から見ますと、がらっと、うって変って、教会内の争いについて語っています。教会生活の中心は、礼拝であるべきである、と、前回でもはっきり示しています。礼拝に集まる、と共に、いっしょの礼拝に招かれ参加することは、すばらしいことであります。

 教会のことを「エクレシア」と言います。この字は呼び出すという字からきています。だから、教会は、召し集められた者の群れである、ということですね。*私たちは、教会で礼拝できる事のありがたさ、特に、昨年と今年の今の大きな変化を身にしみて経験してきました。

 礼拝は、ただの集まりではありません。神のみ前に、正しく集まるための心得が必要となってくるでしょう。それでパウロは、礼拝での服装や髪形や、男と女の位置についてまで「礼拝の秩序」というものを深く考えたわけです。

 ところで、あなた方の集まりを伝え聞くと、その礼拝たるや、召し集められても、結果として、役に立たないことになってしまっている、邪魔になるようでは困る、と言っています。集まりが礼拝であれば、なおさらのことです。その礼拝の中心は聖餐であるからです。

 古代教会と言われる教会では、たびたび集まっては一緒に食事をいたしました。それはイエス様と食事をした事に習ったのでありましょう。一緒に食事することによって、かつてイエス様と共に食事をした時のことを思い出したのです。福音書にはパンの奇跡が6回も書いてあります。だから、ただ集まるのではなく、実は、主と共にいたい、ということでありました。主イエスと、共に食事をしたい、ということでありました。普通の食事のようにみえながら、実は主の晩餐でありました。特に思い出されるのは最後の晩餐であります。

 しかし、主イエス様が、私たちのために十字架につき、甦られ甦るとから言えば、ただ主イエスと共に食事をする、ということではなく、そこで何を食べるか、ということが重要になったのです。主イエス様と共に食事をして、主イエスご自身を食べるということが大切になってくるのであります。それが聖餐であります。このように聖餐では、主ご自身の、復活の主のみ体をいただき、御血を飲むことで主イエス様をおぼえる、そういう礼拝をすることになるのであります。

 人は、自分の熱心や誠実だけで、礼拝ができるものではありません。神の恵みを受け、それを感謝することによってのみ、正しい礼拝ができるのであります。そこに、聖餐を中心にする礼拝の意味があります。

 パウロは、今日の聖書の18節以下を見ますと、「まず第1に、あなた方が教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがある、と聞いています。」第1に問題にされたのは、この教会に紛争があった、ということであります。コリントの教会に紛争があったということは、実はこの手紙のはじめから言われていることでありました。この手紙が書かれる理由であったかも知れません。人間の集まるところ、どこにでも、紛争があることがあたり前なことであります。紛争はたしかにありますが仕方がないことであるかもしれません。

 しかし、パウロは紛争のある事だけを責めたわけではありません。3章でもふれていますように、私はペテロにつくとか、私はパウロにつく、アポロにつくと、色々あったようです。ここで、18節以下でパウロが言っているのは、それまでの見方とちがっています。1つの教会の中で、信仰のちがいがあっては困るにちがいありません。しかし、それだけでなく、聖餐を正しく受けるためには、1つの信仰を持っていなければならないのであります。聖餐は信仰によるもので、儀式が中心ではありません。キリストの救いに対する、誤りのない信仰を持っていることが必要なのであります。

 コリントの教会の中に紛争のあった事は不幸なことにちがいありません。しかし、まことの正しい信仰が明らかにされるためには、信仰がためされ、正しい信仰への戦いもやむをえない場合がある、ということでしょう。なぜなら、それによって本当の信仰、本当の聖餐を行うことができるからであります。その時、礼拝は正しい礼拝になり、教会が「集まる所」という意味が生きてくるからであります。しかし、聖餐を守るためにはまだ大事なことがありました。信仰の一致を説いたパウロは、その後、なおもこう言っています。コリントの教会のあからさまな現状です。

 食事の際、各自が自分の晩餐をかってに食べるので、飢えている人があるかと思えば酔っている人がある、と書いています。これはどういうことでしょう。今日の私たちの教会の聖餐式では想像もつかないことであります。これは、もちろん、まだ教会が確立していない頃の話であります。

 はじめの教会の人々は、主イエスとの食事を思い出し、たびたび集まって食事をしていました。そこには二つのことがありました。1つはもちろん聖餐であります。聖餐において主キリストの御体をいただき、主の御血しおを飲み、そうしてキリストとの交わりを新しくしたい、ということです。もう1つの事がありました。それは、とにかく皆んなが集まって食事をするのが楽しい、ということでありました。まだ会堂がなくて、家の教会で、こうした集まりが行われた。そこでは、色んな混乱も起こりやすい状況もあったでしょう。どうかすると、主の晩餐と自分の晩餐とが区別がつかなくなってしまう、という事が起こったりもしたでしょう。

 教会員が一緒に食事をすることは悪いことではありません。しかし、そういう事が教会を造ると考えたら、それはまちがいでありましょう。始めの頃から、教会は、一緒に集って食事をしました。しかしそれは、人々が主イエスとの食事をなつかしんで、主イエス様をおぼえて行なったものでありました。その食事は、やがて、今日のイメージのような聖餐式のようなものとして確立していったのでありました。ともかく「主イエスとの交わりを保つ」ことが唯一の願いでありました。食べることや飲むことが目的ではありませんでした。それなのに、その事が分からないで食事をした人々があった。その人たちは、飢えている人をほおっておいて食べたり酔っぱらってしまったのでした。その事がよほどひどかったと見えて、33~34節にもくり返して語られています。食べることや飲むことが私たち人間の生きる基本であれば又、一方、みだらな方向へもおちいりやすいことであります。

 信仰はどこまでも主イエス・キリストと共に生きることであります。主との交わりによってだけ生きることができるのであります。だからこそ聖餐が大切なのであります。では人と人との交わりはそこにはないのかというと、そうではありません。キリストとの交わりがあって、そのほかに、互いの交わりがなくてはならないでしょう。

 コリントの教会の実情は、すさまじいものであったとパウロは言って、聖餐の秩序にふれ、聖餐をおろそかにすることは、神の教会そのものを軽んじることになる、とパウロは言うのです。神の教会を軽んじることは、神ご自身を軽んじることになるのです。教会を建てられたのは、ただ、神を信じる者たちをまとめようというのでなく、この教会に入れられることによって、神と結びつくものとせられているからであります。

 教会の基礎となっているものは、キリストによる救いであります。キリストによる救いは、キリストの十字架と復活によることであります。それが聖餐においてあらわされ、聖餐において信仰者に伝えられるのであります。そういう意味で、聖餐こそは教会の中心であり、基礎であります。教会の者になるということは、キリストと結びつく事、キリストと生きる関係を持つことであります。

 コリントの教会の中には、聖餐を軽んじ、教会を混乱させていった。ここには、貧しい者たちをはずかしめた、と言われています。食物の取り合いをして、弱い者である貧しい者たちをはずかしめることになった、というのであります。それは、この混乱の中の1つの出来事であったに過ぎないのでしょうが、この貧しい者を愛し、救いに召された、主イエス・キリストをはずかしめることになるのであります。主イエスの御体と御血しおをいただいた聖餐にあずかって、生かされている貧しい人々がつらい目にあっていることは、復活の主もつらい目にあわされている、ということです。

 主に生かされているものは、主キリストに愛され、教会にあるのであります。つらい目に会い、苦しみのぶじょくの中にあっても、教会の中で、永遠の命にあずかって生きるのであります。

 私たちも、このパウロにふれて、パウロの言葉を聞いて、今、一度、聖餐にあずかるたびに思いを新たにされていきたいものです。           <アーメン>ハレルヤ!

2/8 フィンランド家庭料理クラブのご報告

寒い気温でしたが、明るい日射しの土曜日の午後、スオミ教会「家庭料理クラブ」は、ルーネベリ▪ロールケーキを作りました。

最初にお祈りをして始まります。

今回は4組に別れての作業です、レシピの説明を受け、材料の計量をして、軽く柔らかい生地は鉄板に流され、綺麗に焼き上がり、次の作業の巻き込むクリーム作りへ進みます。

完成した4本のロールケーキが冷めるのを待つ間、ヴォイレイパも作りました。

試食会では、楽しいおしゃべりに笑い声が響きました。
一段落した頃、パイヴィ先生から、フィンランドの作家で、お菓子の名前にもなっているルーネベリのお話を聞かせて頂きました。

多くの讃美歌も作られたそうで、機会があったら、ぜひ聞かせて頂きたいと思いました。

参加の皆様お疲れ様でした。

 

2020年2月8日ルーネベリタルトの話

フィンランドでは新年が終わったら、次にお祝いの日になるのは2月5日の「ルーネベリの日」です。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。それでも新年が終わると、ルーネベリタルトがお店で売られることは変わりません。

Albert Edelfelt [Public domain]ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。また、彼は教会のことも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。今フィンランドの教会で使っている賛美歌の中にはルーネベリが書いた賛美歌がまだ21曲のっています。

お祝いをするのが好きだったルーネベリは、50歳になってから毎年誕生日に大きなお祝いをしました。後に彼の誕生日である2月5日は、彼の記念日としてフィンランド全国で祝われるようになりました。現在は彼の誕生日というよりは、フィンランドの文化の日として祝われます。この日にルーネベリが大好きだったルーネベリタルトがオフィシャルなお祝いの会場でも家庭でも出されます。ルーネベルリは小説や詩だけでなく、ルーネベルリタルトも残したと言うことができます。

ルーネベリは、この甘いお菓子を朝食で食べたくらい大好きだったそうです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリタルトはスイスで初めて作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになったのが始まりだと言われています。ルーネベリは甘いお菓子が大好きだったので、奥さんのフレディリカもこのお菓子を作ったそうです。

現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が円筒形で、上にのせるジャムはラズベリージャムです。面白いレシピの一つは、生地にピパルカックを入れるものです。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れて、それで美味しいものが出来るのは素晴らしいことと思います。しかし最近の家庭はピパルカックを昔ほど沢山作らないので、つぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。今日皆さんと一緒に作ったロールケーキはそれです。ロールケーキにはつぶしたピパルカックを使わないで、形もロールケーキですので、新しいタイプのルーネベリのお菓子になりました。

このようにルーネベリタルトはいろいろ変わったバージョンが出来ますが、ルーネベリが書いた詩の中で、時代が変わっても変わらない宝物のことを言っているものがあります。その詩は賛美歌にもなりました(賛美歌183 「On meillä aarre verraton」フィンランド語で聴く)。それを紹介したく思います。この賛美歌は長くて7節までありますが、最初の1節だけを訳して紹介します。

「私たちは宝物を持っている。それは他のものと比べることが出来ない宝物。金よりも価値がある宝物。この宝物を前にしたら宝石など、ただの土のよう。この偉大な宝物は、天の神様がご自分のもとから送って下さる御言葉だ。御言葉を神様は宝物として私たちに与えて下さった。」

この賛美歌はルーネベリが書いた賛美歌の中で最も有名で、最も美しい賛美歌と言われています。この賛美歌で歌われている宝物とは何でしょうか?それはいつまでも永遠に変わらない、神様の御言葉です。ルーネベリは天国に属する御言葉と地上に属する金と宝石を比べます。金と宝石はこの地上がある時だけ存在します。神様の御言葉はこの地上がある時だけでなく、それを超えて天国にまで存在します。このように神様の御言葉は、金や宝石よりも永遠に続くので、それらよりも高い価値があるのです。そして、もう一つ大事なポイントは、神様の御言葉はある限られた人たちに与えられるのではなく、世界中の人たちに与えられる宝物であるということです。

どうして、神様の御言葉は私たちにとって最も高価なものでしょうか?それは、私たちが天と地そして人間を造られた神様のことを知ることができる言葉だからです。聖書を読んだり聞いたりすると、私たちは神様やその独り子イエス様を知ることが出来ます。小教理問答というルターが書いたキリスト教の入門の本があります。フィンランド語でKatekismusと言います。そこで、神様の独り子イエス様を信じて受け入れると神様の子供になれる、それが人生で最も高価なことであると言われています。ルーネベリが書いた賛美歌の意味はとても深いと思います。ルーネベリタルトを食べたり、ルーネベリの名前を聞いたりする時は、この賛美歌の深い意味を思い出しましょう。

交わり

 

本日の礼拝に参加されたフインランドから来日されたカイヤレーナ・ビルヤさんを交えて歓談が持たれました。礼拝の途中できれいな声で歌ってくれた詩編139がとても印象的でした。