牧師のコラム

牧師の週報コラム - SLEYは150歳になりました!

Sley

「フィンランド・ルーテル福音協会」(Suomen Luterilainen Evankeliumi-yhdistys -SLEY)は1873年にフィンランドのルター派国教会の中で活動する団体として結成されました。今年は150周年の記念の年です。

団体結成に至る背景は、1700年代のドイツや北欧のルター派教会をめぐる状況があります。当時のヨーロッパのイデオロギーの潮流は信仰よりも人間の理性に重きを置く合理主義が主流でした。それに対してルター派教会の中は、宗教改革の教義を厳密に体系化した正統主義が主流でした。そのような時に、信仰の危機を見て取った人たちが、信仰者個人の内面の敬虔さや「悔い改め」の体験を追求する「敬虔主義」と呼ばれる信仰復興運動を起こしました。これがドイツや北欧でまたたく間に広まりました。

フィンランドは1809年にスウェーデンからロシア帝国に併合されましたが、国教会制度はそのまま存続したので信仰面ではドイツ・北欧の影響下にありました。そのような時にF.G.ヘドベルイという牧師が、敬虔主義の主観的な救い観に対して、たとえ信仰者が罪に堕ちて敬虔さが傷ついても、主の十字架の贖いの業には何の影響もなく罪の赦しの恵みは微動だにしないということをルターの神学から見出して主張。それが多くの牧師と信徒の賛同を得て「福音派」と呼ばれる信仰復興運動が誕生しました。その運動が1873年にSLEYとして結成されたのでした。SLEYはまた国内伝道だけでなく海外伝道も始め、最初の伝道地として日本を選び1900年から宣教師を派遣して現在に至っています(「福音派」といっても現代の北米などの福音主義とは異なります)。

客観的な恵みと救いを強調すれば、聖書の御言葉も人間が勝手に手を加えられないものになり、SLEYは本質的に保守的です。フィンランドの国教会は近年リベラル化が進み、SLEYとは多くの軋轢があります。しかし、国教会の中には教会の現状を憂えSLEYに賛同する人たちも大勢いるのです。

先週の週末は全国各地のSLEYの教会や国教会の教会で150周年の記念礼拝や行事が一斉に行われました。ヘルシンキではSLEYの2つの教会の他に、観光名所として知られるテンペリアウキオ教会でも音楽聖餐式礼拝が行われ、若者を中心に700人もの出席がありました。Youtubeで見る

スオミ教会 手芸クラブのご案内

shugei

秋の手芸クラブは10月25日(水)10時~13時に開催します。

今回はかぎ針編みをします。shugeiかぎ針編みは現在も人気がある昔からの手芸テクニックの一つです。かぎ針編みで可愛い手芸がいろいろ出来ます。 今回はペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きを作る予定です。作りたいものをお選びください。

材料費は編み物により変わります。500円~

好みの糸や毛糸を持っていらしても大丈夫です。

手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1774098098iamg@1774098098arumi1774098098hsoy.1774098098iviap1774098098

www.suomikyoukai.org

03-6233-7109

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

東京都新宿区鶴巻町511-4―106

 

 

 

スオミ教会 臨時総会

本日、礼拝後スオミ教会の今後を決める大事な会議がありました。結果スオミ教会は日本福音ルーテル教会としての組織を解散してSLEYと行動を共にすることになりました。 前途多難が待ち構えている事と思いますが兎に角船出しました。どうか主よ我らを守り給え。

宣教師の週報コラム - キリスト信仰者としての成長を助ける説き明かし

以下は、第1ヨハネ5章4節「世に勝つ勝利は我らの信仰なり」のルターの説き明かしです。

『信仰の奥深い業と力は、見えないことを見るということにある。さらに、感じることを見ない、圧迫するもの苦しめるものさえも見ないということにある。翻って、不信仰は感じることだけを見、感じないことは一切信用しない。それゆえ神が事を成し遂げると、信仰はちっぽけなことと関りを持たず、この世が仰天するようなことに関りを持つようになるのである。

 例えば、この世は死に耐えられない。死を恐れ、その下に屈服してしまう。反対に信仰は屈強で、この世をしゃぶりつくす死の前に立ちはだかる。信仰は、あの命の引き裂き屋を飲み込んでしまうのだ。さらに、この世は肉の思いを抑えることが出来ない。肉はこの世の隅々まで支配している。常に肉の思いのままに全ては起こる。だから、この世は肉的なのだ。反対に信仰は肉、つまり堕ちた自然に体当たりして倒し、それを監督下に置く。

 人間は誰一人としてにこの世の反対や侮辱に最後まで耐えることは出来ない。この世が人間を占拠して勝利者になってしまうのだ。反対に信仰はこの世を見下して足蹴にしてしまうのである。同じように人間は誰一人としてちっぽけな罪に対しても反抗できない。罪は良心に噛みつき、もう地獄に落ちるしかないという位に揺さぶり尽くす。この世全てがその人を慰めようとしても何の役にも立たない。しかし、信仰は真の英雄である。それは全ての罪に勝利する。たとえその罪が全世界が犯した位の大量の罪であってもだ。』

(以上)

「見えないことを見るのが信仰」というのは、ローマ8章24~25節、第2コリント5章7節、ヘブライ11章1節を思い起こさせます。死に対する勝利は第1コリント15章、肉を監督下に置く信仰はローマ6章と8章。不信仰は感じることだけを見てしまうというのは、湖の上を歩けたペトロが波風を見て溺れてしまう出来事そのものです。信仰と不信仰を対比させる象徴的な出来事だったのでしょう。これらの他にもまだいろいろあると思います。このようにルターの説き明かしは聖書のいろんな箇所が編み上げられて出来ていると言えます。さすが「聖書を読みぬいた男」と言われるだけあります。キリスト信仰者としての私たちの成長を助ける説き明かしはこのようにして出来ると思います。因みに「信仰」とはイエス様を救い主と信じる信仰です。お忘れなく。

手芸クラブの報告(2023年6月28日)

6月の手芸クラブは蒸し暑い日の開催になりました。

今回はマクラメのテクニックを使ってブレスレットを作りました。初めに見本を見て各自、自分の作りたいものを選びます。今回の材料はワックスコードとビースです。参加者の皆さんは好みの色のワックスコードとそれに合わせてビースの色も選びます。皆で作り方を見てから早速、見本に合わせてワックスコードの長さを測って作り始めます。今回の結び方は以前と同じ平結びですが、ワックスコードは細いので引っ張る強さに注意しなければなりません。それでも皆さん、あっという間に出来るようになりました。おしゃべりをしながら楽しい雰囲気の中でコードを結んで作業を進めました。皆さんはそれそれ違う色のワックスコードとビースを選んだので、どんなものになるかお互いに楽しみです。結んだコードを手の周りに合わせるとピッタリの長さになりました。その後はワックスコードを一本一本を切ってコードが抜け出さないように一本一本を火でとかします。指がやけどしないように注意しないといけません。最後にブレスレットの閉め部分を作って出来上がりです!皆さん素敵な夏用のブレスレットを手首にかけました。

作業の後はコーヒータイムです。コーヒーとフィンランド風菓子パン「コルヴァプースティ」を味わいながら参加者みんなで楽しい歓談の一時を持ちました。歓談の後、モニターでフィンランドの夏の景色と音楽のビデオを鑑賞しました。最後に聖書のお話がありました。

帰る時、ドアを開くと思わず「サウナみたい!」との声があがりました。それ位、外はとても暑かったです。皆さん、本当にお疲れ様でした。手芸クラブはしばらくお休みになります。次回は9月に開催予定です。その時は暑さも少し和らぐといいのですが。日程が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。それでは皆さん、お身体に気をつけて暑い夏を無事に乗り切られますように。また秋にお合いしましょう!

 

手芸クラブの話し2023年6月28日

今日はマクラメのテクニックを使ってブレスレットを作りました。皆さん作ることに夢中になって時間はあっという間に経ってしまいました。この手芸クラブの時間が皆さんにとってリフレッシュできる時間になったら良いと思います。リフレッシュできることは新たな力を得ることになります。

この間私はフィンランドの新聞に出ていた面白い記事を読みました。そのタイトルは「時間を奪うもの」というものです。この記事の内容について少しお話します。この記事は現在の私たちの時間の使い方についてでした。一日の24時間の使い方は普通は仕事、仕事以外の活動、休みの3つに分けられて一つ一つは大体8時間というのが基準です。しかし現在の人たちの休む時間はどんどん短くなって、多くの人は忙しい生活をして疲れています。それはどうしてでしょうか?時間を奪うものがあるからです。それは何でしょうか?

記事によると私たちの時間を奪うものは様々な電子メディアです。私たちは例えば携帯電話でメールを読んだりいろいろ情報を調べたりすることが一日のうちで何回位あるでしょうか?携帯電話だけではなくてパソコン、タブレットやテレビ等も同じです。小さいことでもそれは時間をとります。フィンランドでは大きな流れは小さな流れから生まれるということわざがあります。携帯電話やパソコンでいろいろ調べると、やっている内に目的から離れることは多いと思います。そうなると時間の無駄な使い方になってそれで休む時間は短くなります。私にもそのようなことがあります。

休みは私たちにとって大事です。それは人間にとって最も必要なことの一つです。現在の私たちの生活の大きな課題は時間の使い方です。生活の中の優先順位を考える時、力が戻るために休みが必要であることは忘れていないでしょうか?休みがないと、力はだんだん失わられて、いろいろ病気になったり事故も起こりやすくなります。このようなことが起きて休みの必要性がわかるようになったら遅すぎです。定期的に休むことも重要です。

聖書にも休みの必要性について書いてあります。神のひとり子のイエス様は肉体的な休みや精神的な休みの必要性を教えられました。イエス様も時々疲れて静かな場所に行って一休みされました。ある時弟子たちは伝道から帰ってイエス様の所に集まってきて、自分たちが行ったことや教えたことについて報告しました。弟子たちは多くの人たちに神様について教えたので、イエス様に詳しく報告したかったのです。しかし、イエス様は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。イエス様と弟子たちの周りにはいつも大勢の人たち、神様について教えを聞きたい人たちや癒しを求める病気の人たちなどが集まってきました。この時も大勢の人たちが来たり行ったりして、弟子たちは食事をする時間もありませんでした。このようにするべきことがたくさんあってもイエス様は弟子たちに休む時間を持たせました。イエス様は弟子たちの肉体的な休みの必要性を良く知っておられたからです。弟子たちは休んでから元気づけられて、新たな力でまた人びとに教えることが出来ました。イエス様と弟子たちの例にならって、私たちも休まなければなりません。私たちにとっても休むことはイエス様の時代の人たちと同じように重要です。

私たち人間は肉体的な休みのほかに精神的、霊的な休みも重要です。霊的な休みとはどんな休みでしょうか?イエス様はこのことについても教えています。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書11章28節の御言葉です。イエス様は世界の全ての人々が自分のもとに来るようにと招かれます。私たちはイエス様の姿を見ることは出来ませんが、聖書を読んだり、お祈りすることでイエス様のもとに行くことが出来ます。イエス様はご自分のもとに来る人に休みを与えると言われるのです。イエス様が与える休みとはどんなことでしょうか?

イエス様が救い主としてこの世にいらっしゃったと信じることが出来れば、私たちは心の中にイエス様が与える平安を得ることが出来ます。それは、イエス様が与えて下さる休みです。私たちは、生活の中にいろいろ心配することがあっても、イエス様に繋がっていれば彼から平安が心の中に与えられるのです。そしてイエス様をこの世に送られた神様を信じることが出来れば、全てのことを神様の御手に委ねることが出来ます。神様に全てのことを委ねることができれば、心は平安で満たされます。その時、心は本当に休むことができます。

私たちもこれから毎日の生活の中で休むことが出来るように時間の使い方をよく考えて生活して行きましょう。イエス様が言われた言葉「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」、これをいつも思い出して行きましょう。

 

 

 

 

宣教師の週報コラム - 宗教改革は何をどう改革する改革か?

ルターの薔薇の紋章

宣教師の週報コラム - 宗教改革は何をどう改革する改革か?

宗教改革は英語、ドイツ語、スウェーデン語でReformationと言います。それぞれ発音の仕方は異なりますが、日本語のカタカナではリフォーメーションです。宗教改革は何を改革する改革だったのでしょうか?

大学の神学部に入学したての頃、基礎科目の一つに「宗教現象学」なる科目がありました。そこで何を学んだか、一つだけ覚えていることがあります。授業で講師が、リフォーメーションと聞くと、普通は古いものを新しいものに変えるイメージが持たれるが、ルターの宗教改革はむしろ逆である、カトリック教会が歴史の過程で作ったもので聖書に根拠がないものは廃止する、つまりカトリック教会が歴史の中で始めた新しいことをやめて教会を原点に戻そうとするのが運動の本質であった、ということでした。因みにフィンランド語では宗教改革はUskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方が一般的です。

ルター派にとって、教会の原点とは「信仰義認」であり、しかも律法主義に陥らず反律法主義にも堕さない信仰義認です。言うのは簡単ですが、ルター自身、この信仰義認は「滑りやすい」教義だと言っています。

ルターの宗教改革を国としていち早く採用したのはスウェーデンでした。16世紀の同国の教会会議の歴史を見ると、「今会議でローマの何某の伝統を廃止して『福音的になる』ことを決定した」ということがよく出てきます。ここからも「福音ルター派(福音ルーテル)」が何を意味するかがわかります。カトリックの伝統から離れる際にルター派的に離れるということが、ルター派にとって「福音的」なのです。よく巷に聞かれる「福音派」とか「福音主義」とは異なるのです。

今日ルター派教会の内部でも、教会が保持してきた伝統を変えて改革していかなければならないという声をよく聞きます。その場合、変えなければいけないと言われる伝統は聖書に根拠がないからそうすべきなのかどうか深く考えなければなりません。変えること自体が価値ではないからです。

スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回の手芸クラブは6月28日(水)10時~13時に開催します。

マクラメのブレスレット

今回はマクラメのテクニックを使ってブレスレットを作ります。マクラメのワックスコードやパールを使って可愛らしい夏向きのブレスレットが出来ます。

以前作ったコースターやフラワー・バスケットを希望される方はそちらも選べます。マクラメの糸は作るものに合わせます。

材料費は500円~800円です (作るものによって変わります)。

手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1774098098iamg@1774098098arumi1774098098hsoy.1774098098iviap1774098098
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

転入式

6月11日の聖霊降臨後第ニ主日の礼拝では早稲田大学留学生のエーリク・シートネン兄の転入式が行われ、「信仰の証し」を語って頂きました。クリックすると視聴できます。

今来日中のシートネン兄のご両親も礼拝に参加されました。コーヒータイムでは、シートネン家とも関係があるラヌアの野外日本博物館や、北フィンランドで盛んなルター派教会内のリヴァイヴァル運動の一つ”レスタディオ派”について興味深いお話を聞かせて下さいました。

Siitonen

宣教師の週報コラム フィンランドの”タルコー精神 talkoohenki” 

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私たちの住んでいたトゥルク市のアパート群では毎年5月に「タルコーの日」という日があります。 何をする日かと言うと、住民が一緒に周囲の掃き掃除をしたり冬の間芝生に落ちた葉っぱや木の枝を集めたりします。これらのゴミはかなりの量になり、いつもゴミ収集会社からコンテナを手配します。またブランコベンチ、ガーデン・チェアーやテーブルを倉庫から出して芝生に置いて夏の楽しみに備えます。共同公園の砂場の砂を入れ替えたり新しい遊具を購入して自分たちで設置したこともあります。これら一仕事の後は皆でフランクフルトをバーベキューして談笑のひと時。共同サウナも点火、最初は女性組、次は男性組、話はそこでも続きます。

“タルコー”talkooとは何か?フィンランド語・英語の辞書を見ると、ボランティアの意味ともう一つ、隣人的という意味があります。タルコーはボランティアと言い換えてもよさそうですが、フィンランド語では英語のボランティアに相当する言葉は”ヴァパーエヘトイネン”vapaaehtoinenがあります。何か違いがあるのです。日本語で言うボランティアは何か社会活動の意味があると思います。タルコーは特にそれはなく、身近な共通のこと(ないしは自分にとって身近で共通と感じること)のために時間を割いて一緒に働くという意味合いが強いと思います。それと、参加する人は、しない人に対して別に何もとやかく言いもしないし思ったりもしません。アパートのタルコーで、何か事情があって参加できなかった人がバーベキューしている所に来ても「一緒にどうぞ」と誘われます。サウナも同じ。参加できない人も引け目を感じることはありません。この大らかさ気前の良さは一体何なんだと思ったものです。

ルターは、キリスト信仰者とは「洗礼」とイエス様を救い主と信じる「信仰」の二つでもう至福を手にしてしまった者である、自分が十分すぎるほど満たされているとわかっている、だから、あとは神のため隣人のために善いことをするしか残されていない、それくらい縛られていない自由な存在なのだと教えます(事情があって隣人のために祈ることしか出来ない場合も善いことです)。タルコー精神の源はルター派の精神というのは言いすぎでしょうか?

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

6月の料理クラブは10日に開催しました。今週は東京でも梅雨に入りましたが、この日は雨が降らず曇り空の天候でした。今回はシードブレッドと「田舎風サラダ」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。はじめに生地を作ります。計量した材料を順番にボールに入れて、強力粉を少しづつ加えてよく捏ねると生地の形が見えてきました。サラダ油を入れてさらに捏ねると生地の出来上がりです。ここで一回目の発酵をさせます。その間に「田舎風サラダ」の茹でジャガイモの皮をむきます。今の季節のせいでパン生地はあっという間に大きく膨み、みんな驚きです。生地を10個に分けて棒の形に丸めていき、一個一個きれいにロールして丸い形にします。鉄板の上に並べて二回目の発酵をさせます。その間に「田舎風サラダ」の準備を進めます。茹でジャガイモ、リンゴ等をさいころ形に刻んで、ドレッシングの材料と混ぜます。皆さんの手は早く、サラダはあっという間に出来上がりました。パンの二回目の発酵も早く済み、膨らんだパン生地の上に卵を少し塗ります。その上にシードをかけて、オーブンで焼きます。その間はコーヒーの準備とテーブルのセッティングです。きれいな焼き色がついたパンがテーブルの上に並びました!

今回は準備が予想以上にスムーズに進みました!「田舎風サラダ」の盛りつけをして皆さん席に着き、温かいシードブレッドと一緒に味わいました。歓談のひと時のあとで、フィンランドの夏の景色と讃美歌のビデオ「夏の光と休み」を皆さんご一緒に観ました。それからフィンランドの夏至祭(ユハンヌス)の過ごし方や天の神さまが与える祝福についてお話を聞きました。

これから料理クラブはしばらくお休みになりますが、また夏の後に再開する予定です。詳しいお知らせはホームページに載せます。どうぞご覧ください。皆さん、お身体に気をつけて天の神さまのお守りの内にこの夏を乗り切られますように。

 

2023年6月10日料理クラブのお話

今日は新ジャカが沢山入っている「田舎風サラダ」を作りました。フィンランド人は5月6月になると、その年の新ジャカはいつお店にでるかと楽しみに待ちます。新ジャカは最初のものはまだ小さいですが、味はとても美味しいのであまり料理をする必要はありません。ただ茹でてバターをのせただけでも美味しく食べられます。新ジャカはサラダにもよく合い、この「田舎風サラダ」もフィンランドで人気があるものです。新ジャカは売り始めの頃はまだ値段は高く、毎日買うことは出来ませんが、フィンランドの夏の大きなお祝い夏至祭(フィンランド語でユハンヌスと言います)になると、どの家庭でも食卓の大事な食材になります。

フィンランド人はユハンヌスをどのように過ごすでしょうか?ユハンヌスは6月の終わりの金曜日から日曜日までの3日間のお祝いです。ユハンヌスの過ごし方にはいろんな伝統があります。町に住んでいる人たちは町を出て別荘に行って、そこでサウナに入ったり、湖で泳いだり、ボートを漕いだりして過ごします。それでユハンヌスの時は町は人が少なくとても静かになりますが、田舎の方が賑やかになります。田舎の人たちは別荘に行く人もいますが、自宅で過ごす人も多いです。自宅でユハンヌスを過ごす人たちはいろいろ準備することがあります。家の大掃除をしたり、マットやカーテンを洗ったり、ケーキやクッキーを焼いたりします。夏用のマットとカーテンを出すので家の中は冬と違う雰囲気になります。森や野原のきれいな花をたくさん摘んで家に飾ったり、細長い白樺の木を何本も切ってきて玄関の前に立てたりします。そうすると白樺の良い香りが玄関前に広がります。ユハンヌスの食事は普通はバーベキューです。肉やソーセージや野菜を焼いたりします。一緒に新ジャガやいろんな野菜のサラダを添えます。夜は完全に暗くならないので、みな遅くまで起きています。

フィンランドでは夏至祭の頃の自然は緑が一杯で、いろんな花が沢山咲いてとてもきれいな季節です。私はこれらの自然の美しさを見ると、これは人間の手では造ることが出来ないもの、まさに天の神さまの御手の業によるものと思い、いつも感謝の気持ちに満たされました。天の神さまは自然を通して私たちに祝福を与えて下さると思いました。しかし、神さまの祝福は自然の中だけではなく、私たちの日常生活の中にも、いろいろな賜物や贈り物を通して与えて下さいます。

聖書は神さまの祝福について沢山教えます。新約聖書の福音書の中には有名な「イエス様が子どもを祝福する」というお話があります。これを紹介したいと思います。

イエス様が神さまのことを教える時はいつも大勢の人々が集まってきました。その中に子供たちを連れた親たちもいました。親たちはイエス様が子どもたちを祝福するように連れてきたのです。イエス様が祝福すると子供たちは天の神さまと結ばれると考えたからです。しかし弟子たちは親は失礼なことをしてはいけないと、親たちを叱って帰らせようとしました。彼らはイエス様の祝福に相応しいのは大人だと思ったのです。それを見たイエス様は残念な気持ちになり弟子たちに言われました。「子供たちを私のところに来させなさい、来るのを妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」そして、イエス様は子ども一人一人を自分の膝の上にのせて手を頭の上において祝福されました。

イエス様は大人だけではなく子どもも祝福されました。誰が祝福を受けるのに相応しいか、その例としてイエス様は子どもたちに祝福を授けたのです。親たちはどうして子供たちにもイエス様の祝福を望んだのでしょうか?それは、イエス様の教えを聞いて子どもの将来を神さまの守りと導きに委ねたかったからです。もちろん、イエス様の祝福を受けても子供たちは親の世話を受け続けますが、深いところでは子供の毎日の生活や将来は神さまの守りと導きの下に置かれるのです。祝福を通して天の神さまが子どもの脇に立って一緒に歩んで下さるようになります。

今教会の礼拝で牧師が礼拝の終わりに神さまからの祝福を大人も子供もみな一緒に授けます。礼拝だけでなく、洗礼式では洗礼を受ける人に、結婚式では新郎新婦に神さまからの祝福を授けます。それらの祝福の意味はイエス様がなさった祝福と同じです。天の神さまがずっと一緒にいて守り見導いて下さるということです。

フィンランドのクリスチャンは友達や同僚に会って別れる時は必ず「祝福がありますように」と言います。メールや手紙の終わりにも書きます。クリスチャンの挨拶言葉になっています。この挨拶を通して、神さまがあなたと共にいて守り導いて下さいますようにと願うのです。その人を天の神さまの守りと導ぎに委ねるのです。

私もこの挨拶をよくもらって感謝します。私は今年の春小さな手術を受けなければなりませんでした。これは私の人生の初めての手術で、成功するかどうか心配がありました。いろいろ悩みました。しかし手術の前に励ましの言葉を多くの方々からもらいました。その中にはもちろん「神さまの祝福がありますように」もありました。この言葉の深い意味を考えると心配はだんだん軽くなって手術を神さまの守りと導きに委ねることが出来ました。この手術のことや結果のことも天の神さまが一番よくご存じなのだと神さまを信頼しました。手術の日はもちろん緊張がありましたが、心の中に平安を感じました。それは神さまが与えて下さった平安でした。それを神さまに感謝しました。

このように、神さまの祝福は自然の美しさの中だけでなく、私たちの生活の中でも神さまの守りと導きとして祝福があります。このことを信じられると心に平安がもたらされます。