宣教師の週報コラム SLEYの全国大会へ!

フィンランド・ルーテル福音協会(SLEY)は、フィンランドのルター派国教会の中で活動する1873年設立の団体です。 ルター派信条集に基づく信仰が国教会の中で守られるようにすることを目的とし、賛同する牧師や教会員がその精神に基づいて地元教会で礼拝を行ったり、全国各地に「祈りの家」を建設して様々な集会を行ったり、ルター派の書籍の翻訳や出版事業を始めたりしました。このようにSLEYの活動は当初は国内向けのルター派のリヴァイヴァル運動でした。それが、海外にもルター派の信仰を伝道しようという機運が高まり、最初の伝道地に日本を選び、1900年から宣教師を派遣し始めて今日に至っています。 SLEYが日本各地に設立した教会の中で主なものは、札幌、池袋、飯田、諏訪、大岡山の教会があります。全て大正~昭和初期に建てられたものです。それらは、1960年代に「日本福音ルーテル教会」が設立された後は順次日本側に移譲、スオミ教会は1990年誕生の末っ子です。

 SLEYの集会の中で最大のものは1874年から毎年夏に開催される「福音祭」と呼ばれる全国大会です。開催地は毎年各地の持ち回り、週末の3日間に延べ2~3万人位が参加します。大抵陸上競技場がメイン会場ですが、地元の学校などの公共施設も貸切られ子供から大人まで年代層に応じた様々なプログラムが実施されます。

野外礼拝の聖餐式では長い行列が延々と続きます。

 中でも最大のプログラムは、土曜夕方と日曜朝の野外礼拝です。50~60人位の牧師の前に6,000~8,000人位の人が聖餐式に与る光景は圧巻です。日曜午後は宣教師の派遣式が盛大に執り行われます。大勢の参加者が見守る中、宣教師たちはSLEYと国教会の関係者から按手を受けます。

 SLEYが設立した日本の教会からは多くの方が全国大会に参加されました。何度も行かれた強者もいらっしゃいます。スオミ教会からはまだありません。来年2024年の全国大会はオウライネンという北の町で開催されます。神がお許しになれば、久しぶりに新しい日本宣教師の派遣式があります。さらに神がお許しになれば、スオミ教会の現宣教師の延長派遣の可能性もあります。この機会にスオミ教会からも参加があれば素晴らしいと思います。

2023年1月29日(日) 顕現節第4主日 主日礼拝

本日の説教は動画配信でご覧ください

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。

 

 

2023年1月22日(日)顕現節第三主日 主日礼拝

司式 吉村博明 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
説教・聖餐式 ペッカ・フフティネン牧師・SLEY元海外伝道局長
本日の説教は動画配信でご覧ください。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

宣教師の週報コラム ニーニスト・フィンランド大統領の年頭スピーチを聞いて

写真 ユハニ・カンデル(Juhani Kandell)/大統領府

毎年1月1日にフィンランドの大統領はテレビで国民向け年頭スピーチを行う。 フィンランド語とスウェーデン語それぞれ15分ずつの短いスピーチだが、前年の国内外の情勢を振り返り、新しい年の歩みを始める国民一人一人が心に留めておくのが大事と考える視点を簡潔に提示する内容である。

今回はもちろんロシアのウクライナ侵攻が話題の大半を占めた。それは無理もないことだ。フィンランドをめぐる安全保障の環境は激変し、国是だった中立政策を捨ててNATO加盟を決めたからだ。テレビ・ニュースでも、ニーニストがウクライナ戦争を1939~1940年の冬戦争に、プーチンをスターリンになぞらえたことを公言したことに注目が集まった。

そういう対外的な大問題と併行する形で、国民の日常にも目を向け、こういう時だからこそ心に留めておくのが大事と考える視点を提示していた。今回、キリスト信仰の観点から見ても興味深いと思われる点を3つほど発見した。

一つは、ウクライナ戦争の影響で世界的に経済が失速し物価高、電力不足が深刻になる中、フィンランドは比較的に経済や福祉を維持できていることに関して。フィンランドが国際的に平均値が高いことに満足してはいけない。格差が拡大すれば、平均値の下側の人たちはより困難な状態に陥ることを忘れてはいけない。彼らの状況に目を向け支援を忘れてはいけない。

二つ目は、暗い事件は国外だけでなく、国内でも身近に起きている(クリスマスに礼拝中の教会が放火される事件が起きた、あとニーニストは国内の組織犯罪の増加に警鐘を鳴らしている)。悪の力は、一般市民をストップさせて不安に絡めて前に進むことができなくなるようにする力である。しかし、不安を抱きながらでも日常を続けることに努めることが悪に打ち克つことになる。

三つ目は、あまり聞きなれない言葉、人間はepeli olemusという言葉を使った。文脈から「意外な可能性を持つ存在」という意味だと思う。もう可能性などなくなってしまったというピンチの状態は実は、それまで自分にあると気づかなかった可能性に気づけるチャンスなのだ。フィンランド国民のシス精神はまさにそれだ。

以上の視点は、もちろんお上のお達しなんかではなく、受け入れるか受け入れないか、どう批評するかは聞く人の勝手というものである。(識者のコメントの中には、SDGsや気候変動についてもっと言及すべきだったというものがあった。)それでも、危機迫る国民に危機から目を逸らさせず、それを乗り越える共通の手がかりになるものを示し、しかもフィンランド国民なら乗り越えられると自信を与える内容になっていると言える。

因みにニーニスト大統領は年頭スピーチの終わりにいつも「神の祝福が皆さんにあるように」と結び、自身のキリスト信仰を表明する。今まで大統領によっては言わない人もいたが、ニーニストは言うのだ。

2022年1月8日(日)顕現節第1主日 主日礼拝

「天からの御声」         2023,1,8(日) 木村長政 名誉牧師

マタイ福音書 3章13~17節

2023年新しい年を迎えました。

今日の福音書はマタイ3章13節から17節です。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた話です。ユダヤの国の北から南へとヨルダン川が流れています。行く先は”死海”と言う湖です。さて、マタイ3章を見ますとバプテスマのヨハネはユダヤの民に「悔い改めよ」と叫んだ。そうするとエルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来て罪を告白し彼の質問にパスした者にはヨルダン川で洗礼を授けました。この洗礼を受けようと集まっていた民衆の中にイエスも混じって順番を待っておられた。ヨハネはイエスを発見してびっくりしたでしょう。どうして、びっくりしたかと言いますとイエスの方が自分より優れた人物であることに気づいたので言いました。「イエス様、わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに。」と思いとどまらせています。しかし、今は受けさせてもらいたいと、イエスの強い願いに負けて、ついに洗礼を授けました。イエスが岸辺に上がって祈っていると突然天が開け神の霊が下って神の御声が聞こえて来ました。「このイエスこそ、神の心にかなった救い主である。」と宣言しました。この時からイエスの救い主として活動が公に始まるわけです。この出来事について、他のマルコもルカもヨハネも福音書で記録しています。それほど、この出来事は大事な意味を持っていますので、しっかりとそれぞれの福音記者の独自の立場からイエス様の宣教の始めを計画的に書き記しているわけです。

考えてみてください。イエス様がこの洗礼を受けられた時30才でありました。ナザレの田舎で父ヨセフと大工の仕事を一緒にして家族の大きな助けをされていたのでした。ところが突如としてナザレを出てガリラヤで神の国を宣べ伝え始められました。そして、わずか3年後十字架の死をとげ、3日後に復活された。イエス様の地上に於ける生涯33年のうちの30年というほとんどの年月はナザレ村で神の福音を実行に移されるまでの大事な大事な準備の期間であったろうと思われます。その深い準備の期間、何をどう過ごされたか聖書には何も記していない。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、神の計画は準備を整えて、いよいよ天からの神の御声があったのです。この天からの声がどういう重要な内容を含んでイエス様の上に下ったのか、少しづつ見て行きましょう。

まず第1には、天の声はナザレ村で大工の長男として育って家族の中心であったイエスに対して「これからは、お前は大工の子ではない、神の子であって民衆を救うべき救い主だ。ナザレ村を出て公に神の子本来の働きをしなさい。」という神のご命令であった。神の霊が鳩のように、ご自分の上に下って来るのをご覧になった。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」これはマルコが書いている、天の声です。ルカ福音書の方はマタイと同じような意味を込めて3章22節でイエスが洗礼を受けられ、祈っておられると、その祈りに答えて天からの声があった。「あなたは、私の愛する子。」と2人称で語りかけています。ヨハネ福音書によると、この出来事はイエスにバプテスマを授けた預言者ヨハネに対して<この、イエスこそお前の待ち望んだメシアだ>ということを教えている天の声であった、というのです。そこではヨハネ福音書で言っています。1章33節で「私はこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。ある人の上に『み霊が下って、留まるのを見たら、その方こそみ霊によってバプテスマを授ける方である』私はその方を見たので、この方こそ神の子である、と証したのである。」この出来事に出会って見た多くの人々も又イエスは、ただの人ではない、神の子である、と教えられたと思います。

では、マタイはこの出来事を、どの点に力説しようと、したのでしょうか。マタイ3章17節の最後の部分で、天からのみ声があった、「これは、私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。この、天の声の仕方に秘密があるのかも知れません。マタイの言うのは、マルコやルカによる記録のように、「あなたは・・・・私の愛する子だ」と2人称で語りかける父親の声ではありません。マタイの言うのは、言ってみれば「これが、こういうのが、私の愛する子である」と言う客観的な宣言文です。日本語訳によると,マルコもルカも「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者である」と一気に言われた文章を記してあるかのように見えますが、実はこれは二つの文章に切れていて「あなたは私の子、愛する者である。私は、あなたを喜ぶ」となっています。これは、父親が子に対する率直な気持ちを伝える親子の語らいなのです。ところが、マタイだけはこれを一つの文章で 書いています。つまり「こういうのが、私の喜ぶところの、私の子、愛する者なのである」と。ここではイエスが神と、どういう続柄にあるか、神はどういう気持ちを抱いておられるか、というような問題ではなくて、神が喜ぶ、愛する子、とはどういう者なのか、という定義が述べられているのです。神からの宣言です。この声によって、イエスが神の子だ、という事が言われているのです。同時に、だから神の子はどういう性質のものなのか、という事までわかるのだ、とマタイは言いたげであります。

では、「私が喜ぶところの、私の子、愛する者とは」何のことでしょうか。マタイは12章17~18節のところでこう記しています。「これは、預言者イザヤの言った言葉が成就するためである。見よ、私が選んだ僕、私の心に適う愛する者。私は彼に私の霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」。ここに、今の3章13~17節を思い出させる重要な言葉が次々と出て来ることに気づくでしょう。「私の心に適う」とか「愛する者」という二つの言葉は天の声と同じ用語です。「私は彼に私の霊を授け」という言葉も、イエスが受洗された時の天から下ったみ霊を思い出させます。「正義」という言葉も3章15節の」「正しいこと」と同じ言葉です。すなわち、マタイが3章17節に記している天からのみ声は、マタイが12章18節で引用している旧約聖書イザヤ書42節1節に他ならないのです。正確に調べると、イザヤ書42章を開いて読むと、マタイが引用した天からの声と全く同じでは、と感じられるかもしれません。それは、旧約聖書のヘブル語をギリシャ語に訳したために多少変わってしまったからです。要するに、マタイによれば、この時天からの声は旧約聖書の預言したメシア、とりわけイザヤが預言していたメシアとはこういう方である、と説明したのです。

イエスが神の子だと言うが、彼と神との父子関係がどういうものであるか、そんなことは論じられていません。むしろ、マタイが今までイエスはメシアである、と論証してきた、そのメシアというのはどんな性格の方であるかをマタイは言おうろしているのです。私たちは誰が救世主であるかを知ればそれで充分なのではありません。彼が、どういう性格の救い主であるか、が分からなければ信じる事が出来ません。神信仰と言うのは、神がおられることを信じるだけでなく、どういう神がおられるか、という事まで含む信仰です。イエス・キリスト信仰もイエスという方を救い主と信ずるだけでなく、イエスという方がどういう者かという事まで含む信仰です。

では、真のメシアとはどういう性格の方でしょうか。それを、明らかにするためにマタイは他の福音書記者の切り捨てたものをちゃんと保存しています。すなわち、ヨルダン川でイエスがバプテスマを受けられる前にイエスとヨハネとの間で交わされた言葉のやり取りが、このメシアの特色をよく伝えてくれるのです。マタイ3章14~15節を見ますと「ところがヨハネは、それを思いとどまらせよう�として言った。私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私の所においでになるのですか。しかし、イエスは答えられた、今は受けさせてもらいたい。このままにして論じないままにしておいて欲しい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しい事である。これまで、預言者としてのヨハネは人々に説教をしてきました。「私の後から来る方は、私より力のある方で、聖霊によってお前たちにバプテスマを、お授けなるであろう」と。それが、今、イエスの方から何故バプテスマを授けて欲しいと言われるのでしょうか。イエスの答えは明快でした。「このように、すべての正しいこと義を成就するのは我々に相応しい事であるから」と言っておられる。理由はただ一つ、「正しい事を果たす」のが我々に相応しい、適切だからだよ。もっと言えば、この事はメシアであるイエスにとって適切だ、とか言うのではない、又、預言者ヨハネに有利だ、と言うものでもない。

◎ ただ神を信じ、神に仕える「我々に」適切なことなのです、ということです。

◎ 神様が喜ばれるのは、そうした真理と正義への率直な服従と熱心であります。」イエス様は人の肉体をとり人の心を持って、この世に来られました。十字架にかかられる前日には血の汗を流して祈られました。出来ることな ら、十字架の死の盃を取り除いて下さい。正真正銘の人の子として生きられました。

◎ しかし、彼は真理のため、正義のためには、どんな事も果たされたのです。それが十字架の死

  であっても、神の、み心であれば相手が誰であれ服従されたのです。

◎ 神の喜ぶメシアとは、こういう方なのであります。イエスがヨハネに「このことは我々に相応しい」

  と言われた、この言葉使いの中にはイエスご自身を民衆の中に徹底的に身を置こうとされる

  考えがにじみ出ています。

驚くべき事は、ヨルダン川に出て来て、神の子として活動して行こうとされるイエスが、このように人々の列の中に行列に加わることによって、悔い改めのバプテスマを受けようとする、罪びとの中にその身を置かれた、というこの事実です。告白すべき罪などない神の子がバプテスマを受けることは一体、何でありましょうか。彼はメシアでありながら、神に背く罪が自分にもある、と言いたげに、今、人生の出直しを新しく決意されているのです。彼は罪びとの最も身近な友、最も親しき罪の共犯者になろうとしておられる。バプテスマのヨハネは、どうかと言うと、もし、メシアが来られたら、きっと聖霊の火を持って罪びとを焼き滅ぼすに違いないと思っていました。しかし、そうではない。聖霊は恐ろしい、滅ぼす火のようではなく。鳩のように、ひっそりと下られました。ヨハネの後から来る方は力ある裁き主ではなかった。むしろ、力なき者の友、罪びとの友、悔い改めて泣き崩れる者の味方であった。彼こそ真の救い主なのであります。神の喜ぶメシアはイザヤの預言どおりの救い主なのだ、と天の声は断言しているのです。ナザレから出て、洗礼を受けられたイエスは、天の声で断言されたメシア、神の子の使命をこれからいよいよスタートして行かれる。天から神のみ声は大きな霊の力となってイエス様に下ったのでありました。   アーメン

宣教師の週報コラム  フィンランドの「クリスマス平和宣言」

12月24日のクリスマス・イブの日、フィンランドのトゥルク市には14世紀から続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。その日、ブリンカラという名称で親しまれる市の会館前の「旧大広場」に大勢の群衆が集まります。トゥルク大聖堂の12時を知らせる鐘が鳴ると、軍楽隊の伴奏で群衆は一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら(日本のルター派教会の教会讃美歌450番「力なる神は」)」を歌います。歌い終わると会館のバルコニーから市の儀典担当者が巻物を広げて次の宣言文をフィンランド語とスウェーデン語で高らかに読み上げます。

「明日は、もし神がお許しになるのであれば、我々の主であり救い主でおられる方の恩寵溢れる降誕の日である。それゆえトゥルク市にクリスマスの平和を宣言する。市民はこのお祝いに相応しい敬虔さをもって祝い、静かに騒ぎ立てぬよう振る舞わなければならない。なぜなら、この平和を破り、違法あるいは相応しくない行為によってクリスマスの平和を乱す者は、重大事案が生じたことになるので法令がそのために別途定めている刑罰に処せられることになるからである。終わりに、トゥルク市に居住する全ての住民にとってクリスマスのお祝いが喜びに満ちたものになるように。」

読み上げた後、再び軍楽隊の伴奏で今度はフィンランド国歌を斉唱し、最後は「ポリ市民行進曲」の演奏で終わります。大体15分位の内容ですが、テレビ中継され国民のほとんどが注視するひと時と言っても過言ではありません。ヨーロッパでは中世から同じようなクリスマスの平和宣言はどこでも行われていたそうですが、現在も続けているのはフィンランドのトゥルク市だけだそうです。(2021年12月19日初掲載)

「クリスマスの平和宣言」をYoutubeで見る

スオミ教会・家庭料理クラブの報告


12月のスオミ教会・家庭料理クラブは10日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマス料理の定番の中から「ポテト・キャセロール」Perunalaatikko と「ビーツ・サラダ」 Rosolli を選びました。あわせてデサートにクリスマス・クッキーも作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にポテト・キャセロールを作ります。今回は伝統的なポテト・キャセロールと少し違って甘味を出すためにジャガイモだけでなくサツマイモも入れました。ジャガイモとサツマイモを茹でてからハンドミキサーでマッシュします。牛乳など他の材料を混ぜて焼き方型に入れ、あまり高くない温度で焼きます。

次はビーツ・サラダの番です。茹でた野菜をサイコロ状に切って種類ごとにお皿にきれいに並べます。参加者が大勢いたおかけで色とりどりの華やかなサラダがすぐに出来上がりました。サラダの酸っぱさを和らげるクリームも作ります。生クリームをホイップしてスパイスとビーツの汁を少し加えるとピンクの可愛らしいクリームの出来上がりです。

最後はクリスマス・クッキー「ピパルカック」を焼きます。生地を伸ばして花や星やハートなどいろんな形の型どりをして沢山のクッキー生地を鉄板に並べます。鉄板をオーブンに入れると教会中クリスマスの香りで一杯になりました。

参加者の皆さんにとってフィンランドのクリスマス料理を作るのは初めてだったので、試食が楽しみでした。出来上がったポテト・キャセロールとビーツ・サラダをそれぞれのお皿に盛りつけて、さあ、頂きます!ポテト・キャセロールが入った型はあっという間に空っぽになりました。クリスマス料理やクッキーをゆっくり味わいながら、モニターを通してフィンランドのクリスマスの歌を聴きました。終わりにフィンランドのクリスマス料理やクリスマスの過ごし方、そして聖書に出てくるクリスマスのお話も皆で一緒に聞きました。

今回の料理クラブも無事に楽しく終えることができ、天の神さまに感謝です。

料理クラブは年明けの1月はお休みになります。次回は2月第2の土曜日に予定しています。日にちが近づきましたら教会のホームページの案内をご覧ください。何を作るか、ぜひお楽しみに!

それでは皆さま、天の父なる神さまが豊かに祝福されるクリスマスをお迎え下さい!

料理クラブのお話2022年

今日皆さんと一緒に作ったポテト・キャセロール「Perunalaatikko」とビーツ・サラダ「Rosolli」は昔からあるクリスマス料理です。オーブン焼きの温かいキャセロールの種類は多くて、ジャガイモの他にニンジンやルタバガと呼ばれるスウェーデン・カブのキャセロールも作られます。一番人気のあるのはポテト・キャセロールですが、作り方が少し難しいので、自分で作らないで店で買う家庭が多いです。今日は簡単な作り方で作りました。甘味を出すためにサツマイモとシロップを入れましたが、伝統的な作り方はジャガイモだけから甘味を引き出します。ジャガイモだけでどうやって甘くなるのでしょうか?それは、茹でたジャガイモをマッシュしてその中に小麦粉を少し混ぜて、大体50℃位の温度に3時間から5時間くらい置いておくと、ジャガイモのでんぷんが分解されるので甘味が出るのです。そのマッシュポテトをあまり高くない温度で焼きします。これが伝統的なポテト・キャセロールの作り方です。

ビーツ・サラダは伝統的なクリスマスサラダの一つです。サラダの名前「Rosolli」はロシア語から来たものです。このサラダはクリスマスの時だけでなく、一年のお祝いの食卓にもよく出されます。このサラダにはいろいろな野菜が入っているので、私の母は秋の収穫が終わってからよく作りました。

フィンランド人はクリスマス料理の伝統をとても大事にして、母親が作ったクリスマス料理が子供に受け継がれて、どの家庭でも昔お母さんが作ったものと同じ種類の料理を作ります。料理の味と香りを通しても、それぞれの家庭のクリスマスの雰囲気が作られると言ってもよいです。

クリスマスの時に毎年同じ料理を作ったり、同じ過ごし方でクリスマスをお祝いすることで、フィンランド人は安心感を得ていると言えます。クリスマスが近づくと、たいていの子どもたちは「今年も豚肉のオーブン焼きやポテト・キャセロールを作るの?」と親に聞きます。作りますよ、と答えると、子どもはホッとした顔をします。これで今年も同じ雰囲気のクリスマスになると感じて安心するのです。しかし、今の世界の動きはこの2、3年の間にとても大きく変わってしまって、前は当たり前だったことが今はそうではなくなってしまいました。このため、クリスマスにいつも同じ料理を作ったり同じ過ごし方でお祝いできるかどうか、来年も出来るのだろうかと多くの人々が不安を感じるようになったかもしれません。

この間フィンランドのテレビのニュースを見ていたら、今フィンランド人は誰を一番信頼しているかについての世論調査がありました。調査の結果、フィンランド人が一番信頼しているのは、国境警備隊、救急隊、救急医療センターでした。これは、今のフィンランド人が大きく変わる世界の中で安全と安心を重要なものと考えていることを表わしています。それで、安全と安心を与える機関に対する信頼が高まったのです。さて、この変化する世界で私たちは誰を信頼するでしょうか?

聖書には信頼について沢山書いてあります。今教会のカレンダーはアドベントの期間に入ったので、クリスマスの前やクリスマスの時に起きた出来事について聖書に書かれてあることを見てみたいと思います。その中で、イエス様の母親になるマリアとマリアの夫になるヨセフが天の神さまに対して持っていた信頼は私たちの心を動かします。

CC0昔ナザレという町にマリアという若い女性が住んでいました。彼女はダビデ家のヨセフと婚約していました。ある日天使のガブリエルがマリアに現れてこう言ったのです。「おめでとう、恵まれた方。神さまはあなたと共におられます。」とても驚いたマリアに対して天使は続けて言いました。「あなたは神さまから恵みを与えられました。これからあなたは神の力で身ごもって男の子を産むことになります。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者になり、いと高き神の子と呼ばれる。彼に神はダビデの王座を授ける。彼は永遠に神の民を治め、その支配は終わることがない。」天使の言葉はマリアには完全に理解できないことでしたが、それは旧約聖書の預言が関係しているとマリアにはわかりました。マリアも旧約聖書に預言された救い主はいつ来られるかと待っていたからです。マリアは神さまがメシアを送る約束を果たす日がついに来たのだと分かったのです。それで天使に次のように言ったのです。「私は主にお仕えする者です。お言葉の通りにこの身になりますように。」マリアは神さまを信頼していたので覚悟が出来ていました。しかし、婚約者のヨセフがこのことをどう思うか心配があったでしょう。

Dennis Jarvis from Halifax, Canada, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commonsマリアの妊娠に気づいたヨセフは結婚をやめることを考えました。しかし、ヨセフには天使は夢の中に現れて次のように言ったのです。「マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は将来、人間を罪から救い出す。だからマリアと別れてはならない。結婚しなさい。」ヨセフも旧約聖書に預言されていた救い主を待ち望んでいました。それで、その時がついに来たのだ、それは自分とマリアを通して本当のことになるのだとわかりました。ヨセフはマリアを妻として迎えることにしました。

マリアとヨセフの将来の見通しは最初に考えていたことと大きく変わってしまいました。この先何が起こるのか予想がつかず、二人とも不安を感じたかもしれません。それでは、なぜ二人は神さまが与える課題を受けいれたのでしょうか?それは、神さまが本当に信頼して大丈夫なお方であることを旧約聖書から学んでいただからです。神さまが救い主を送って下さるという約束を必ず守ると信じていたからでした。

旧約聖書の詩篇62篇9節には次のように書いてあります。「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ」。このみ言葉は私たちにも向けられています。今世界が大きく変わっていてどこに向かっているか誰もわからない時でも、私たちは神さまが示される道を進んで行くことができます。その道はいつも平らではなく坂道もあれば曲がり道もあります。しかし、神さまのみ言葉が生きる土台にあれば、神さまは信頼して大丈夫な方と分かり、神さまが示される道を歩むことが出来ます。たとえクリスマスの過ごし方が前と違うものになっても、イエス様が私たちの救いのためにこの世にお生まれになったというクリスマスの本当の意味は変わりません。変化が激しい世の中で、変わらない神さまの愛とみ言葉は本当に信頼できるものです。クリスマスの本当の喜びは、本当に信頼できる方を持つことがで見いだすことが出来るのです。

 

宣教師のコラム   キリスト信仰者と戦争 - フィンランドの視点

12月6日はフィンランドの独立記念日。毎年その日のニュースに必ず出てくるのは、 「あなたにとって独立は何を意味しますか?」と聞く街頭インタビュー。老若男女問わず必ず返って来る答えは「自由」である。この「自由」は、外国の支配からの自由だけではない。国内で自由と民主主義の体制が守られることも意味する。フィンランド人は第二次大戦で両方の自由を守ったという自負が強くあるのだ。(そう言うと、あれっ、フィンランドは枢軸国ではなかったの?と疑問に思う人が出てくるかもしれない。フィンランドは実は戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた国だったのだ。そんな国がなぜ後半はナチス・ドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)

 この自由を守ることは国民の義務で、場合によっては武力を用いてでも守らなければならないということを示すのが徴兵制である。パイヴィの兄弟姉妹たちの男の子たちも高校を卒業すると皆、大学入学前までに当たり前のように兵役を済ませていた。二重国籍の息子にも”召集令状”が来たが、障害があるため医師の診断書で免除となった。女性は志願制だが年々増加しているという。予備役の再訓練の参加率も高まっていて、2014年のロシアのクリミア半島併合以来の傾向だと聞いた。

 ところで、キリスト信仰者が銃を取ることは許されるのだろうか?国教会の堅信礼教育で十戒を教える時に問題になるところだ。第5戒「汝殺すなかれ」。教師を務めた時、私はいつもその項目の担当を外してもらった。フィンランドの中学2年の子供たちに外国人の私が、銃を取って宜しいとか、逆に兵役は罪を犯すことになるとかとても言える立場ではない。

 最初の堅信礼合宿の時、この問題で牧師と夜遅くまで話した。彼は次のように自分の立場を説明した。ローマ13章などにあるようにキリスト信仰者はこの世の権力に従うことを基本とする。ただし、使徒言行録4章19節などにあるように、神の言うことと権力の言うことが対立したら聞き従うのは神である。第2次大戦はフィンランド国民にとって、まず権力が銃を取るよう命じたので従ったという面がある。それと、敵国のソ連という国は、もし占領されてしまったら信仰の人生が不可能になってしまう相手であったという面がある。彼は授業でも、自分はこのように考えていると、押し付けるのではなく自分の考え方を紹介する仕方で子供たちに語っていた。僕はこう考える、あとは君たち自身で考えてみてくれ、という具合に。そうは言っても、牧師の説明はフィンランドのキリスト信仰者の間では広く共有されていると思う。

 しかしながら、フィンランド国民の90%以上が国教会に属していた時代はもう過去になってしまった。私が牧師の話を聞いた頃はまだ80%台だった。昨年は66%まで落ちた。生まれてくる子供の洗礼率も今では半分位だそうだ。この傾向が続けば2040年には国教会の所属率は50%を切るということだ。兵役の是非を考える際にかつてのように信仰と関連づけて考えることは、もう一般的ではないのかもしれない。それでは彼らは今、何に関連づけて何に拠って考えるのだろうか?かつては神のみ言葉が価値でそれを自由と民主主義が保証していたのが、今は自由と民主主義自体が価値になったということか?

2022年12月11日(日)待降節第3主日 主日礼拝

「あなたこそ来るべき方、メシア」       2022年12月11日

マタイ福音書11章2~11節

今日の福音書は、バプテスマのヨハネとイエスの活動についての話です。どういう場面かと言いますと。マタイ11章2節でわかりますが。「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。」とあります。ヨハネは、今獄中に入れられています。なぜ獄中に捕らえられているか、ということを先ず簡単にふれたいと思います。マタイ14章3節を見ますと、領主ヘロデは自分の兄弟フイリポの妻であるヘロディアを自分のものにしようと夫のフイリポを戦場に出して戦死させた。そしてヘロディアを自分の女にしたわけです。こうした人道から外れた事をローマ帝国の領主たる者が衆知の中で、やっている事が許されることではない、と厳しくヘロデ王を咎めたために投獄されたわけです。ところで、2節~3節のところを日本語訳のまま読んでみますと、バプテスマのヨハネが獄中から、まるでイエスを疑って弟子たちをイエスのもとに行かせて「来るべき方はあなたでしょうか、それともほかの方を待たなければなりませんか。」と質問しているかのように読み取れます。このことが昔からここは福音書の中でも最も難解な箇所の一つであると言われました。2節を見ますとマタイはこう書いています。「さて、ヨハネは獄中でキリストの御業について伝え聞いた。」とあります。これまで、バプテスマのヨハネという人は人々に「来るべき方」を紹介するという特別な任務を神様から授かっている預言者でありました。彼は神の啓示に従って「イエスこそ待望のメシアである」と人々にも弟子たちにも紹介してきました。ところが、その後ガリラヤの領主ヘロデの怒りにふれ投獄されてしまいました。

この事については「ユダヤ古代史」を書いたヨセフォスという人の記録にもあります。それによるとバプテスマのヨハネが入れられた牢獄はヨルダン川の東にあるぺーレアという所にありました。そこは深い谷で囲まれた死海の海面から1200mもそびえる山の頂にある天然の砦であった、と言われます。まだ30才の預言者ヨハネは囚われの身となって死海の彼方に広がる山々を見ていたにちがいありません。その彼の耳にイエス様と弟子たちの活動の様子が伝えられていたのです。

マルコ福音書6章19節によると、ヨハネを捕らえて殺そうとした張本人は領主ヘロデの不義の妻であるヘロディアでありましてヘロデ王の方は「ヨハネは正しく聖なる人である事を知って彼を恐れ彼に保護を加えていた。」とあります。ですから「獄中」とは言え彼にはかなりの自由な弟子との連絡が許されていたようです。そうした事からイエスの活動ぶりが逐一報告されていたものと思われます。報告を聞いてヨハネはどう思ったでしょうか。自分は山の中の獄に捕らわれているのに対して、自分が「この方こそメシアだ」と世に紹介したイエスが眼下に広がる湖の彼方で活動している噂を聞いて預言者の胸中はどのようなものだったでしょうか。聖書はそれをドラマチックに描き出してはおりません。ただ一言「来るべき方はあなたなのですか、それとも他に誰かを待つべきでしょうか。」という彼の言葉が記録されているだけです。ここのこの言葉についていろいろ想像がめぐらされてきました。第一には、ここをそのまま読んで獄中のヨハネも余りの辛さに短気を起こし救い主の救いを待っていたが、もう我慢できないと、あなたなどメシアでも何でもないと、弟子たちを遣わして確かめたかった。という説です。預言者も現実の苦しみの前には信仰を捨て始めたのか・・・・というのです。しかし、これは聖書が預言者ヨハネのこの世に於ける働きの意義を重要な使命と教えている、ところから見るとそうは思えない。また、信仰を捨て始めたなどとはとても考え難いことです。例えば使徒言行録13章24節~25節を見ますと、彼の働きをこう要約しています。24節にヨハネはイエスがおいでになる前にイスラエルの全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、自分の事をヨハネはこう言いました。「私を何者だ、と思っているのか。私はあなた方が期待しているような者ではない。その方は私の後から来られるが、私はその方の足の履物をお脱がせる値打ちもない。」ここに引用されているヨハネの言葉は福音書では、彼の預言者としての開口一番のメッセージとして記されているものです。それ以後ヨハネが殺されるまでの年月はほんのわずかしかありませんでした。そうして見るとヨハネのメッセージは預言者として登場してから死ぬまで首尾一貫して同じであった。それは、私の後にくる方「イエスこそメシアである。」と力強く叫んでいます。それがヨハネでありました。ですから今獄中にあって「来るべき方はあなたなのですか、それとも誰かを待つべきでしょうか。」とイエスを疑って本当かどうか聞いて来いと弟子たちに言うはずがない。ヨハネがそんな不信を抱くような事はないのです。

次にもう一つの見解があります。これは殆ど古代キリスト教の学者たちの説です宗教改革者のカルヴァンもこの見方です。これによると”ヨハネの信仰 ”はびくともしなかったがヨハネの弟子たちはいつまで経ってもメシアに従って行こうとしない。捕らわれの身にあるヨハネを慕っている。それで弟子たちに従わせるため彼らをイエスのもとへ遣わしたのだ、という説です。この説に対して反論がありました。ヨハネの弟子たちがこんな形でイエスのもとへ行ってしまったという例はほかにない。つまり、この説で言っているようにヨハネの意図したように弟子たちがイエスについて行ったでしょうか。さて、第三の見解があります。これが近代と現代の殆どの学者たちが辿り着いた説と言われます。神の啓示によってヨハネは「イエスをメシアである。」と紹介したのに今頃になって、その啓示を疑うはずがない。そこでヨハネがイエスを理解していたメシア観は木の根元に斧を振り下ろす審き主のメシア、蓑を以て、麦と殻とを分け殻を火で焼き滅ぼす審きのメシアという信仰であった。そこで、彼はそのメシアがあの領主ヘロデ夫妻を審いてくれるにちがいない。今は捕囚の身であるけれども正義を貫いている自分を救ってくれるにちがいないと期待していた。ところが、実際のイエスは憐みの業と福音伝道ばかりに熱中していて一向に審きを行おうとはしない。それで、ヨハネはイエスがメシアであることの事実は疑いはしなかったが、メシアの性質を考え違いをしたために、痺れを切らした。と言うのです。

しかし、ルカ福音書7章21節によれば「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」とあるように、ちょうどヨハネの弟子たちが来た時イエスはその憐みの業の真っ最中だったが、それを見られても恵みと憐みのメシアとしての姿を示された。そして、憐みのメシアである私に躓かない者は幸いである、とも言われている。そこに、忍耐を求めておられるのでありました。

これらの第三の解釈が大方の見方であります。ところで、第三の見方についてもいくらかの疑問がある、という点を注意してみたいところであります。一つには2節で言われている弟子たちの情報からヨハネが獄中で聞いた「キリストの御業」と言っていますが、ここでヨハネはイエス様のなさっている事を、救い主メシアらしからぬ御業と誤解したのでしょうか。いや、そうではないヨハネ自身はイエスのなさっている働きを「キリストの御業」と理解して聞いていたであろうと思われます。次に、ヨハネの聞いた報告はヨハネの信じていたメシア観から見て期待外れのつまらぬ報告だったのでしょうか。その答えは、マタイの記す前後文からわかります。20節でイエスは数々の力ある業がなされたのに悔い改める事をしなかった町々を呪っておられます。イエスの御業はそれらの町の人々が見てはっきりとメシアの到来を認めねばならぬはずの「力ある業」だったのです。この事はルカ福音書の方でも記しています。ヨハネが弟子たちをイエスのもとへ派遣する前の事です。そこには、死人を生き返らせた大奇跡を記しています。その奇跡の結果、人々は皆恐れを抱き「大預言者が私たちの間に現れた」と言っているのです。また「「神はその民を顧みてくださった」と言って神をほめたたえた。イエスについてのこの話はユダヤ全土及び付近の至るところにも広まった。、これ程の業をイエスがなさって皆知っているわけですからヨハネの弟子たちもこれらの事を全部牢獄の中にいるヨハネにも報告しているわけです。だから、ヨハネは獄中で「なんだ、まだグズグズしてメシアらしい力を表さないのか」という思いで聞いてはいないのです。むしろ、メシアの力ある業を聞き「神がその民を顧みてくださる。」そういうメシアの時代が来た、と人々も認めている。こうした嬉しい報告を聞いているのです。

次に、ヨハネは果たしてメシアを審き主とだけ期待していたのであろうか。マタイ福音書3章7節以下を見ますと、バプテスマのヨハネの始めた頃はヨルダン川で洗礼を授けていた時「悔い改めよ」と叫んで「私の後に来る方は火で焼き払われるぞ」と審きのメシアを叫んでいましたが、後では変わっています。マタイ福音書3章13~17節を見ますとわかりますがイエスがヨルダン川にやって来られてヨハネから洗礼を受けられた。そのお姿は罪人の如く悔い改めてバプテスマを受けようとされるメシアです。へりくだった恵みのメシアです。そこで天から御声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者である」と。ヨハネはこういうメシアであるイエス様を充分知っているのです。だから、獄中からヨハネは審き主としてのメシアの力を発揮して「早く閉じ込めている領主ヘロデを審いて滅ぼしてください」といった考えは持っていないのです。こうして、イエスの返事は4節にあるように「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。」目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病に患っている人々は清くなっている。耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。これら全部の事実こそメシアに相応しい印なのだ、ということです。そうして、イエスは言われる。「ヨハネこそ、あなたはこの私を『ナザレから出たメシア』だと紹介し続けてきた。この点で私に躓かない者であり、幸いなものである」と言っているのです。ですから、イエスの返事はヨハネに対する全面的な祝福と賛同の気持ちに満ちているのです。ヨハネのもとから遣わされた弟子たちはイエスの言葉に満足して帰ることができたでしょう。ヨハネの理解とイエス様の返事とは共にいまイエス様がしておられる恵みの業と力あるメシアの働きとを観る点で一致したのです。

さて、最後に11章3節にあるヨハネの言葉は今の日本語訳で、そのまま読めばどうしても疑問文です。そのことがどうしてもひっかります。実は、聖書学者の研究によれば、ここのところのギリシャ語原文は疑問文にはなっていない。そして、「たずねさせた」という文も原文にはない。というのです、むしろこの文章は力強い肯定文或いは断定文として訳したい構造になっている。これをありのまま訳すと「あなたこそ、かの来たるべき方です。それとも、我々は他の人を待っているべきでしょうか。いやいや、あなただけだ」と訳すのが一番自然と言われます。今日の聖書の箇所は難解でわかり難い面もあったかと思いますが、要するに結論的に申しますと、バプテスマのヨハネが預言者としての大切な働きをし、彼の人生の終わりが近づいている中でイエス様の活動をメシアの力ある御業として聞き、喜んで使者を遣わしイエス様に対する祝辞と力強い応援の声を送った、ということであります。ここには、メシアを民に紹介したヨハネとメシアであるイエス様との間に取り交わされた「祝福」と「賛美」にあふれたものであったのです。「イエスこそ神の子、救い主メシアである」とメシアの伝道を一筋に書いてきたマタイにとって、最高にうたいあげているメッセージであります。獄中にあってもヨハネにとって生涯の終わりまでメシアを指してきた、この働きは預言者ヨハネの最も輝かしいクライマックスでありました。

人知では、とうてい測り知る事のできない、神の平安がキリスト・イエスにあって守るように。>  アーメン

宣教師の週報コラム 祈りの試練の現在

フィンランドの信仰ある人たちの祈りは、他の人のために祈るということだけでなく、 もし自分に何かあれば祈りの課題を他の人に伝えるということを当たり前のようにします。牧師にだけでなく信徒同士でそうするのです。課題を伝えられた人は、信頼の表れとして感謝して受け取ります。伝える人も相手に負担にならないように細かな状況説明はせず簡潔に課題を伝えることが普通と思います。受け取る側も簡潔さの中に大きな真実があるとくみ取って全ては父なるみ神がご存じであることでよしとして立ち入らず、神のみ前にヘリ下って祈りにまい進します。

課題を伝える人が祈る前に詳細を知ってほしいという場合もあります。その時は「魂ケア」の出番となります(「魂ケア」については9月25日付け週報コラムをご覧ください)。

最近スオミ教会の中で、生活にいろいろ困難が生じて礼拝にも集えない状態になったにもかかわらず、祈りの課題をあえて託さないということが一度ならずありました。いろいろ考えさせられました。一つには、キリスト信仰者が「お祈りします」と言うのと日本語の挨拶言葉「~をお祈り申し上げます」の区別がまだ出来ていないことがあるのではと思いました。日本語の挨拶は言う人の願いの表明で、言う人と言われる人の間の事柄に留まります。キリスト信仰の祈りは、「父なるみ神には、私の方からもお伝えし解決をお願いしておきます」という、神へのへりくだった取り次ぎです。自分で解決するから構わないでという態度は、神へのへりくだりがまだ身についていないことの表れではないかと思います。

もう一つには、コロナ禍で礼拝をオンライン化したため、教会に来なくとも礼拝をフォロー視聴できるようになったことも影響していると思います。人と直接顔を会わせず声も聞かないでいると、自分がイエス様を頭とする体の中の部分(他より優れているところがあるかもしれないが実は劣っているところもある)であることの実感が薄れていくのではないかと危惧しています。