2023年2月26日(日)四旬節第一主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

本日の礼拝のストリーミングはウェブカメラの不調により途中で中断してしまいました。申し訳ありません。田口先生の説教文を掲載しますのでご覧下さい

マタイによる福音書4章1−11節。

「絶えることのない誘惑にあって勝利の恵みに与らせる唯一の救い主」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 「はじめに」

 このところはイエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられる箇所です。これは、3章終わりのイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声があった後、そして、12節以下、イエスが伝道を開始される前の出来事になります。この誘惑は、悪魔や天使が登場し、「聖霊に導かれて」とあったり、さらには、人から見れば、悪魔の誘惑があまりにも壮大で超自然的に見えたり聞こえたりするので、これは神であるイエス様だけの特別な出来事、特別な試練であり、私たち人間とは何も関係のない出来事であるかのように見えたり思えたりするかもしれません。あるいは、クリスチャンの中でも、このように書かれている「悪魔」や「天使」などは、人間の理性に反するからそんなのはいないんだと言う人たちもいますから、そのような人にはこの場面は単なる空想話や譬え話なんだと主張する人もいるでしょう。ゆえに、このところはただの人間が見習うべき律法であり、道徳律を教えているんだと結論づけられるかもしれません。しかし、このところは、空想話や道徳律でもなければ、律法だけに終わるものでもありません。人間に全く関係のないイエス様と悪魔だけの出来事でもありません。このところは、正しく人間とその罪の深さと大きさを何よりも表していると同時に、未信者というよりは、とりわけ、まさに洗礼を受けて伝道へと出ていくクリスチャン、教会を指しているメッセージでもあり、そのクリスチャンや教会が直面する誘惑はいかに巧妙で恐ろしいかを警告しています。しかし何より、まさに受難節に入るこの聖日にふさわしいところでもあり、イエス様の生涯は、この荒野だけではない、生涯、そして受難と十字架を頂点としての試練の歩みであり、この荒野の試練は、その公の歩みを始めるその最初の一歩であるということ、そして、何より、イエス様はそんな私たちのためにこそ、この誘惑を受けられるのであり、やはり、ここでも今日も、イエス様の十字架の福音が私たちに示されていることを教えられるのです。1節から見ていきましょう。

2. 「霊によって導かれて」

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)

 「悪魔から誘惑を受けるため」とありますが、同時に「「霊」に導かれて」とあります。これは聖霊のことであり、聖霊によって荒野に導かれてこの試練は始まります。ですから、これは試練が悪魔によるものか、それとも神によるものであるのか、どちらなのかと言うなら、悪魔ではなく神によって意図され導かれたものであり、ヨブ記の神との問答を思い出すのですが、悪魔がイエスを誘惑するのを、神はそれをそのままさせた、いや、その場にむしろ導いたのですから、神様の明確な目的があるのです。ここで、ある人は、「神は試みに会わせるのか?それは主の祈りに矛盾するのではないか」と思うかもしれません。しかし、悪魔の試みは、私たちに信仰を捨てさせ滅びに導くものであり殺すための試みですが、神の試みは、あくまでも試みるためそれだけの目的ではなく、ヘブル書12章に「訓練するため」「平安の義の実に与らせるため」「聖さに与らせるため」ともあるように、どこまでも相手を生かすためであり信仰に進ませ強める、救いのためのものです。この荒野の誘惑も、聖霊に導かれているとあることからも、それは、神様の私たちのための壮大な救いの計画のための一つの大事な出来事であり、つまり世のため、私たちのためのものであると言うことが見えてくるのです。

3. 「苦難の生涯のはじめ」

そして「荒野」の誘惑や、2節の

「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(2節)

 とあること。これは、まさに旧約聖書で、イスラエルが荒野に40年間導かれ、大きな試練に立たされたことや、空腹であったことなどを思い起こされるのです。よく言われるように、イエス様が空腹を覚えられとあるように、私たちと同じ肉体を持ったイエス様であることがわかるのですが、まさに聖書のヘブル書4章で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(4:15)」とある通りに、イエス様は空腹だけでなく、まさしく人となられ、私たちと同じように、つまり、イスラエルが荒野の40年で経験したのと同じように試練に遭われるし、むしろその試練の内容を吟味するなら、それはこの荒野の40日間や空腹だけでもない、「あらゆる点で」とあるように、そう、まさしく、その究極は十字架の受難と死で頂点に達するその苦難の全生涯で、イエス様はその言葉の通りに、私たちと同じくなられる、そこまでも低くなられ、全てを負われ、そして生きられることを、この洗礼を受けられて直後、まさにそのことを私たちに具現される出来事がこのところなのだと示されるのです。

4. 「三つの誘惑」

 そして、三つの誘惑です。このところは思い巡らすほど、実に深く心刺されるものを感じさせられるところです。まず3節

「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」(3節)

A.「悪魔の誘惑は巧妙に」

 皆さんは、試練や誘惑はどのようにくると思いますか?多くの人は、明かな目に見える迫害の形でわかりやすいように来ると考えるかもしれません。もちろん、そこにも誘惑や試練は当然あります。あるいは、十戒の中の明らかに「〜しては行けない」と言う言葉に反するよう迫ってくるはっきりと認識できる罪への誘惑も確かにあります。それも誘惑であり、試練であり、私たちは、祈りとみ言葉と聖霊の助けによって悔い改めと克服に導かれなければならないことはとても大切なことです。しかし、悪魔の神への信仰を捨てさせよう、救いを疑わせ捨てさせよう、滅ぼそうとする誘惑は、目に見えるような形でわかりやすくくるものだけでは実はありません。むしろ真の悪魔の誘惑は、その信仰と福音のために重要な教会とみ言葉こそを責めてきます。しかもあからさまに攻撃するようにではなく、非常に巧妙であり、「偽預言者は羊の形をしてやってくる」と聖書にあるように、むしろ聖い姿さえ装ってやってくる、恐ろしいものであると言うことがまさにここで教えられているでしょう。まずこの3節です。

B.「みことばを用いて」

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

 皆さん。悪魔は「神の子なら」と語りかけています。この意味がわかるでしょうか?この直前の3章17節で天からの声はこう言っています。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。そう、悪魔は、その天からの神の声、イエスは神の愛する子であるという、そのみ言葉を明らかに知っているのです。「神の子なら」と。つまり、悪魔はその3章17節の天の声、神のみ言葉さえも誘惑に用いているという事実です。天の声がそう言っているのならと。これは第二の誘惑でも同じです。6節以下ご覧ください。こうあります。

「6節〜「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、

あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」

 ここでも「神の子なら」とありますが、それだけではありません。今度はもっとはっきりと、悪魔は聖書を用いるでしょう。旧約の詩篇の言葉(91篇11−12節)を用いて誘惑するのです。聖書にこう書いてあるではないかと。悪魔は、私たちに聖書を否定させようと試みる存在です。しかし、彼らは明かに聖書の言葉を否定し侮辱し嘲るようにして誘惑し試みてきません。もちろんいつの時代も外側から、そのようにして明確に聖書を否定して誘惑してくる誘惑や試練はあり、今の時代も溢れているでしょう。しかし悪魔の誘惑は、むしろクリスチャンの間で、教会の中で、実に巧妙に働き、しかもわかりにくく現れるのです。むしろ聖書の言葉さえ敬虔そうに用いてきます。「聖書はこう言っているでしょう?」と。そのように聖さを装ってさえ悪魔は教会を荒らすことは実は少なくないし、それは外側からの迫害と同じくらい、いやそれ以上に多いと言うことを神学や教会の歴史は物語っていますし、この教会ではなくとも、世界中、日本中の教会内で今もあることです。

C. 「「もし〜なら」によってみ言葉を条件化する誘惑」

 そして、それだけではありません。注目したいのは、悪魔は「どのようにして」み言葉を悪用するのかということです。それは「もし〜なら」という言い方が隠されていることです。「神の子なら」「天の声がそう言うなら」「みことばにそう書いてあるなら」と。この「もし〜なら」は実に私たちが誘惑されやすい言葉でありますが、その「もし」という意味には「本当にそうなのか」「本当にその通りなら」、つまり、裏返せば「そうではないのでないか」という「疑い」が実は必ず含まれている質問だということに気付かされるはずです。いわば、「もし」には、質問する側、求める側の条件付けが必ずなされているということであり、神やその言葉を条件付けることが起こります。つまり、神ではなく、こちらが人間が、主導権の質問や願いになるということです。

 皆さんこれは実は、先ほど第一の聖書朗読でも読みました。創世記3章の悪魔の誘惑と同じなのです。悪魔はエバに言うでしょう「神は本当にそう言ったのか」「もし食べても死なない」「もしそれを食べるなら〜神はご存知である」と。ここでも同じです。もし天の声が言うように、あなたが神の子なら、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。神殿の頂から飛び降りたらどうだ。そうすれば、空腹は満たされる。そうすれば、みことばの通り、天使たちがあなたを助けるだろう」。悪魔はイエスはそれができないと思って言っているのでもないし、天使がみことばの通りには助けに来ないとも思っていません。できることはわかっているのです。実際に、イエス様は石をパンに変えることもできますし、神がみことばにある通りに、イエスを助けることもできるのです。しかし、このみことばを用いてまでの「もし〜なら」には深刻な落とし穴があるでしょう。「もし〜なら」と投げかけているその問いかけは、それがどれだけ敬虔な祈りや願いであったとしても、その通りになることを願う悪魔中心、人間の思いや願望が中心、土台にあって、その通りになることで、結局は、人間の思いや願望に神を従わせようとする思いが隠されているのです。悪魔の言う通りにイエスがするのなら、イエスは自分自身の栄光を自分で自分のために得ることにはなりますが、悪魔の「もし」への同意することになります。そしてその結果は、人に、救いとは神の恵みのわざではなく、「自分自身の栄光を自分で自分のために果たすことだ」と言うその偽りの模範をまさに示すことになります。そして人間の救いの道はまさにそのようなものになり、恵みも信仰義認も何もなくなり、ただ自分で果たす律法になっていたことでしょう。悪魔の問いかけの狙いはそこにあります。実に巧妙です。しかしそれはずっと変わらない手法なのです。堕落の時も、悪魔の「神は本当にそう言ったのか、〜もしその身を食べるなら生きるようになる」という言葉の通りになっていくところには、アダムとエバの、神の言葉や御心よりも「神にようになれる」「賢くなれる」「見るに慕わしい」という彼らの思いや願望が優先し、それにみ言葉を勝手に解釈し当てはめ、従わせようとして堕落するでしょう。その過程と結果は、どこまでも罪人で救いようのない私たちの現実ではありませんか。堕落の時の「もし」の手法に悪魔は成功し、初めからいつまでも変わらない。狙いも常に変わりません。この狙いによって教会はどうなるでしょう。「もし〜なら」とみことばを用いて、結局は、神中心のみことばではなく、罪人である人中心でみ言葉を理解しようとする、解釈しようとする、人の思いや願望にみ言葉を当てはめよう、従わせようとすることが起こっていないでしょうか?それは正しく悪魔の思いのまま、狙い通りの誘惑に、人が陥ることです。そのようにして、教会で、福音は律法にすり替えられ、律法があたかも福音であるかのように語られるようになったり、理性や道徳やヒューマニズムが語られるようになりますが、しかし大事なことです。そこには救いも平安もありません。そうなってしまうと正しく、悪魔の勝利に他なりません。実はそれが教会にとっても、クリスチャンにとっても、つまり、宣教や伝道にとっても何よりも恐ろしいことであり、悪魔はいつでも巧妙に教会に入り込み、混乱させようとしているのです。

D. 「人中心の解釈で歪められるみことば」

 皆さん、聖書の言葉、確かに私たちにとって大事です。誰も否定しません。しかしただ

「聖書の言葉、聖書の言葉」と掲げていれば、それだけで安心でもなければ、正しいキリストの救いの教えかどうかは実は判断できません。なぜなら、異端でも「聖書の言葉」を掲げ「聖書は何より大事だ」と声高に言うからです。自分達は聖書の言葉を第一にしているのだと。リベラルでも熱狂主義者でも律法主義者でも「聖書は大事」「聖書は第一」と聖書の言葉を掲げます。「聖書は第一、大事」と、聖書を掲げているだけなら、世界中のキリスト教のどんな団体も、異端でさえも、誰も意義を挟まないことでしょう。しかし、「みことば」を掲げても、「神が私たちに真に何を伝えたいのか、神が何を伝えているのか」ではなくて、まさに「もし〜なら」の人間中心の土台で聖書を人間の思いに従わせ、人間の都合に合わせ、文化や流行りに合わせ、世界の潮流に合わせるようにして聖書を解釈して、それが、間違った解釈なのに、文化や潮流がそうだから正しい神の教えなんだと、教会で説教されたり教えられたりするようなことはいつの時代も常にあるし、この現代は人間中心主義のもとでなおのこと顕著になってきています。それは多くの人々には心地よい教えなのかもしれません。人間の「もし〜なら」に聖書を当てはめ都合よく解釈しているのですから。しかし、それが本当に神が、イエス様が私たちに伝えていることではなく、単に人間が聞きたいことを聞いているだけであるなら、まさにそれは、イエスが悪魔の声に従って石をパンに変えてしまったこと、神殿の頂上から飛び降りたこととと、同じです。究極的にはイエスも十字架もなきものにしているのです。人の前では上手くいっているように思えても、神の前では、悪魔への敗北であり、そこで「みことば」と幾ら掲げても、真のキリストはいない、真のみことばもない教会のような建物や集まりであり、そこに真の宣教も伝道もないと言えるでしょう。

5. 「イエスの答え」

A. 「〜と書いてある」

 イエス様はどう答えるでしょうか。4節

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 そして7節

「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 そして、世のすべての繁栄が見えるところで、もし私にひれ伏せばこの繁栄を全て与えようという最後の誘惑に対しても、10節

「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 イエス様はこれら三つの誘惑への答えとともに、まさに真の教会とは何かを私たちに示しています。それは、もちろんみことばです。しかしそこには人間の側の「もし〜なら」などの条件付けは何もない、「こう書いてある」「神はこう言われる。聖書にはこうある。」それだけです。人の側が「もしこうであれば」「もしこうでなければ」「こうであったなら」と、みことばを人間の思いや願いや文化で捻じ曲げてでも聞きやすいように、わかりやすいように、受け入れやすいように教える、伝える、説教する、では決してない。神が私たちに何を伝えているか、何を伝えたいのか、そのまま、神はこう言っている、神はこう言われた、聖書はこう書いてある。教会の宣教、説教、教えは、これに尽きる、そしてイエス様や使徒たちがしたように「こう書いてある」ことの正確な解き明かしに尽きるのだとイエス様は私たちに教えているのです。そのようにみ言葉の正しい福音を受けて救われ聖霊に導かれているものは、「もし〜なら」の人間中心で条件付け神を従わせるみ言葉利用ではなく、「神はこう言われる」の福音にこそ聞くのであり、その言葉にこそ、日々、罪を示され、悔い改めを与えられると共に、そこに、十字架の救いの光をはっきりと見せられ真の平安を経験するのです。

B. 「全ては私たちのために」

 そしてここでもう一つ大事な点があります。イエス様の試練の道は、この後も続き、イエス様はあのゲッセマネの祈りでも、もちろんイエス様も「この杯を取り除けてください」と、その思いをあからさまに祈っています。願うことは決して悪いことではありません。しかし、イエス様は、その自分の人としての肉体の苦しみの願いに神の計画や御心までも従わせようとせずに、最後にこう祈りを結んでいます。しかし「父の御心のなる通りに」と。そして、イエス様は、まさに十字架に至るまで、私たちの経験する以上の大いなる苦しみと死を受けられました。しかし何よりそれは私たちが受けるべきものの身代わりとして、私たちの罪のためであり、その罪とその結果から救うためであったでしょう。この荒野の悪魔の三つの誘惑から始まる、イエス様の試練の道、苦難の道、それは私達への律法でもなければ模範や道徳律でもない。どこまでも私たちのために神はイエス様を導いています。その道を、イエス様は悪魔の「もし〜なら」の願望を刺激する誘惑の通りに、自分自身の栄光を自分のための自分で果たすようなことはせず、むしろ、イエス様は、どこまでも、神を神とし、神のみ言葉そのまま、神のなさることにそのまま黙って従い、仕える者の姿となり、十字架にまで従われます。イザヤ書にはそれが私たちのための神の御心であったとあるでしょう。苦難や重荷を私たちに負わせるのではない、それらを私たちのために担い背負ってくださる救い主が私たちに示されているのです。

6. 「福音によって遣わされる」

 皆さん。ここでも福音によって私たちは遣わされています。私たちは、自らの力では、決して誘惑に打ち勝つのことできないものです。最初の人は、その誘惑に負けました。イスラエルも誘惑や試練に負けました。弟子たちも負けました。私たち人間は誰も生まれながらの力でも理性でも、この誘惑と試練に打ち勝つことはできません。罪人だからです。しかしこの箇所は、あなた方罪人が自らの力で誘惑に勝ちなさいという道徳や律法の教えでは決してありません。イエス様が言いたいのはそんな私たちに重荷を負わせることではありません。絶えることのない荒野の世の、悪魔の目に見える誘惑と巧妙な目に見えない両方の誘惑に対して、私たちはあまりにも弱いのですが、しかし、何よりイエス様が私たちのために、この十字架と復活で、打ち勝ってくださった。みことばで、そして十字架で。そしてその事実とそれが恵みとして私たちに与えられるこそがこの聖書に「こう書いてある」と今日もいつまでも変わらず、何よりも私たちに示されている救いの約束の核心ではありませんか?そして、事実、イエス様こそが同じようにこれからもこのみことばを持って誘惑を退けてくださるお方であり、十字架のイエス様こそが、今日も変わらず私たちに宣言してくださいるでしょう。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。

 私たちは今日も罪を悔い改め、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と豊かに罪を赦してくださるこの十字架のイエス様の福音を受け、安心してここから出ていきましょう。そのような私たちをイエス様は新しい週も主の勝利の器として豊かに用いてくださるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

手芸クラブの報告(2023年2月22日)

今月の手芸クラブは22日水曜日に開催しました。朝はまだ冬の寒さでしたが昼間は太陽が輝いて暖かくなり春が近づいていることを感じさせました。

今回の作品はマクラメのコースターです。初めにコースターのモデルを見て自分の作りたいものを選んで、作品に必要な糸の長さを測ります。それから各自マクラメを結ぶ場所を準備して結び始めます。今回はマクラメの二つの基本の結び方を用いました。初めは巻き結びで一段を結びます。次は平結びで、コースターのメインの結びです。参加者の皆さんは楽しくおしゃべりをしながら結んでいきました。次第にレースのような模様がきれいに見えてきました。皆さん、結ぶ手が速く、あっという間にコースターの長さになりました。最後に巻き結びを一段結んでコースターの結びは出来上がりです。コースターのフリンジはお家ですることにしました。

皆さん、マクラメの結びに夢中になって時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。コーヒーの準備をして皆ホッとして座ります。手芸クラブの前の日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネン「Laskiainen」という日でした。それで、その日にちなんだラスキアイスプッラというフィンランドのお菓子パンをコーヒー・紅茶と一緒に味わいました。中に生クリームがたくさん挟まっているお菓子パンです。皆さん美味しそうに頂きました。少し歓談の時を持ってから、モニターでフィンランドの景色と音楽のビデオを鑑賞しました。終わりにフィンランドのラスキアイネンについてと聖書のお話がありました。

次回の手芸クラブは3月29日に予定しています。日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。

 

手芸クラブ2023年2月フィンランドのラスキアイネン

昨日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネンという日でした。イースター・復活祭の前の準備期間を四旬節と言います。40日くらいあります。四旬節が始まる水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、今日がその日です。ラスキアイネンはその前の日です。ラスキアイネンとは「下ること」を意味し、四旬節に下っていくという意味です。それが昨日で、今日から四旬節が始まりました。

四旬節に入る前、フィンランド人はラスキアイネンの日を特別な過ごし方で過ごします。ラスキアイネンが近づくと多くの家庭ではラスキアイス・プッラというお菓子パンを作ります。クリームがたくさんプッラの間に挟まったカロリーの高いお菓子パンで、家庭で作られるだけでなく、冬から春にかわる今の季節にお店で一番売られるお菓子パンです。昔フィンランドの教会ではラスキアイネンから断食の期間に入ったので食事は簡単なカロリーが少ないものでした。そのためラスキアイネンの日に人々は油や肉が沢山入っているカロリーが多い料理を食べたのです。カロリーが高いラスキアイス・プッラもその一つでした。

ラスキアイネンの日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中をそりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るかいつも競争しました。その日は学校に行く前に朝5時や6時頃にそりで滑ったこともあります。

そんなふうに子供の頃は兄弟たちとの競争心が強かったので、ラスキアイネンに朝早く起きるのは問題なく楽しいことでした。しかし今、早起きはどうでしょうか?日本の冬はフィンランドのように家庭の暖房が整っていないので夜が寒く、朝の早起きは少し辛いです。寒さだけでなく、周りでいろいろなことが起こると朝起きが大変に感じられます。しかし、新しい朝を迎えられるというのは本当は神さまに感謝すべきことなのです。特に年を取ると新しい朝を迎えられるのは当たり前のことではなく神さまからの贈り物であるますます考えられるようになりました。フィンランドに百歳近くの元宣教師の方がおられました。その人は新しい朝を迎えるといつも、「天の神さまはまた新しい朝を与えて下さった」と不思議そうに言いました。

旧約聖書の哀歌には朝について次のように書いてあります。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」哀歌3章2-3節です。この御言葉は、私たちは新しい一日を迎える時、いつも新たな力や新たな希望を持ってスタートできるという意味です。私たちはその日の為に計画がありますが、実際どんな日になるかは分かりません。計画したことが実現しないこともあります。しかし、そのような日にも天の神さまは私たちと共にいて導いて下さるので、その日は神さまからの贈り物になるのです。それで、哀歌のみ言葉に書いてあるように、「主の慈しみは消して絶えない。それは朝ごとに新たになる」のです。

毎朝新しい一日は天の神さまの恵みによって頂くものです。恵みとはどんなことでしょうか?私たち人間は正しいことだけでなく悪いこともしてしまいます。それは罪です。神さまは毎朝、私たちの心を罪が赦されて感謝に満ちた心にして下さいます。私たちは聖書の神さま以外に、罪の赦しの恵みを毎朝与えて下さる方を持つことができるでしょうか?

フィンランドの国教会の讃美歌集にはこの哀歌の箇所についての讃美歌もあります。フィンランドでよく歌われる讃美歌の一つです。その中の一節を訳します。

Joka aamu on armo uus,
毎朝、罪の赦しの恵みは新しくされる

miksi huolta siis kantaa!
それなのに、なぜ、あなたは心配事を背負うのか?

Varjot väistyy ja vajavuus、
闇も弱さも退く

Jeesus voimansa antaa.
イエス様が力を与えて下さる

Kiitos Herran, hän auttaa tiellä,
感謝は主に帰せられる、主は人生の歩みを助けて下さる

meidän kanssamme nyt ja aina on,
主は今も、そしていつも私たちと共におられる

täällä suo Isän suosion,
主はこの地上で父なる神の御心を私たちに向けて下さる。

rauhan luonansa siellä.
天の御国で神のみもとにいさせて平安を与えて下さる。

ユーチューブで賛美歌を聞く

 

宣教師の週報コラム キリスト信仰者の経歴

 キリスト信仰者の「信仰歴」とは、普通は洗礼を受けた後の人生を考えると思います。幼児洗礼の方なら、堅信礼が大事な節目になるでしょう。 また教会や教派の変更、さらには信仰の試練や危機を乗り越えたことも信仰歴の中に加えられるでしょう。

 そういう信仰歴に含まれないことですが、洗礼に至る前に「主の導き」に実際に導かれるようになる期間があることを忘れてはいけません。父なるみ神は全ての人をイエス様を救い主と信じるように導いているので「主の導き」はいつどこででもあります。ただ、多くの人は気づかなかったり知らなかったり、知らされても疑ったり受け入れなかったりしています。そのために福音の伝道が行われるのです。そして、受け入れた人たちが信仰を携えてこの世を生きられるようになるために教会の礼拝があるのです。

 先日礼拝前のこと、東京で雪が降ったことに関して木村先生に、私、九州出身で子供の頃、東京に引越して来たら寒い所だと思いました、と言ったところ、「九州のどこ?」、「博多です」、「博多のどこ?」、「最初は香椎、次は貝塚、小学校は箱崎」、「あの辺はよく知ってるよ、僕は聖ペトロ教会の牧師だったから」、「私は香椎のカトリックの幼稚園に行っていました」、「ああ、あそこね、九州にいたのはお父さんの仕事の関係?」、「大丸でした」、「昔、大丸の向かいのビルに九州のルーテルアワーの本部があったんだよ」。

 なんだか話しているうちに私は、自分は幼い時からキリスト教に方向付けられていて、それもルター派がその頃から私を招いていたような感覚に襲われました。それはまた、今自分がルター派のキリスト教徒であるのは、人生の細かい紆余曲折はともかく、大局的に見たら一貫していたと感じさせ嬉しく思いました。

 キリスト信仰者は洗礼前の自分を振り返る時、例えばミッション系の学校だったとか幼稚園だったとか、そういう洗礼がなかったら経歴上大きな意味を感じないものを、とても大きな意味があると見なします。そういう出来事を紡いで本当の自分の経歴にします。皆さんも振り返ってみれば、小さくても今思えば主の導きだったと思える出来事がいろいろあったことに気づくのではないでしょうか?そんな経歴を作ってみませんか?

2023年2月12日(日)顕現節第六主日 主日礼拝

「神との和解」  2023・2・12(日)

マタイ福音書5章21~34節

今日の御言葉は、有名な「山上の垂訓」と呼ばれる、マタイ福音書5章です。 1節の始めを見ますと、「イエスは、この群衆を見て山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで口を開き教えられた。」とあります。「山に登られた」とありますが,ガリラヤ湖を望む高原の小高い丘であります。ここを読む毎、私はイスラエルの旅でこの場所に立った時の事を思い出します。周りを木々に囲まれた森のような下で、世界中から訪れるクリスチャンが皆な手を取り合って輪になって祈り合っています。教会が建てられ眼下にガリラヤ湖が広がって素晴らしい所です。この場所でイエス様は弟子たちに大切な教えをなさったのです。さて、今日の聖書は5章21節からです。実は17節から20節までのところでは「十戒」についての大変きびしい教えです。律法の中心は十戒です。そして、今日の聖書の21節から48節までは、その十戒の中の五つだけを取り上げて語っておられます。その一番初めに「殺すな」という戒めについて教えられています。21節から見ますと「あなた方も聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」人を殺す、と言うことはどんな意味でも決して許されるものではありません。ところが現実の世界を見てください。戦争という名のもとに多くの人々が殺され家を壊され、人の生活が破壊されています。しかも、何年も続いている。次にイエス様は何と言われたかというと、22節「しかし、わたしは言っておく、兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院に引渡され『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる。ここで、イエス様は誰でも怒った者は裁きに合う。と言われました。怒った者は殺したも同然だ、とは言われてない。しかし、両方とも裁かれるのだ、と言っておられます。ここには人を憎んだら、とは言われません。怒ったら、と言うのです。怒ることは憎むことよりもっと悪いことは言うまでもありません。もし、そうであるなら私たちはどうでしょうか。たびたび怒ってしまいます。頭に来た!とか、腹がたつ!と感情的になってしまいます。そうすると、イエス様の言葉からすると、私たちもたびたび殺人に等しい罪を犯している。怒ったから、と言って殺人にまで発展する事はありませんが、イエス様は同じように裁きを受けるのだ、と言われます。大変きびしい言葉であります。人を殺した者が裁きにあうことは分かります。当然です。しかし、怒った人が裁きにあう等と言うことは私たちには、とても考えられない。この当時、ユダヤ人の間では怒った者は裁判にかけられた、というのです。しかもその怒りと言うものは、いつまでも忘れない怒りであります。そこのところが大切な事です。怒ると、どうして殺した、事と同じになるのか、理屈ではない。どちらも神の裁きにある、ということです。普通の常識では考えられない、ことでありますが、ただ信仰を持っている者だけが信じる事のできることです。信仰者にとってはどちらも神の前に行われることでことでありまして、怒られた人も又神によってつくられた兄弟であり一人一人尊い人格を持った人でありますから、従って、怒ったら神に対して責任を取らねばならない事だからです。イエス様が神の目を持って人間に対して鋭く神の世界、信仰の世界から言われるのです。神に対しての責任からして、神の裁きを受けるのだ、ということ。神の裁きということが信仰生活の中で何か古い事のように思われて、私たちの実感として、どれ位あるのか問われているわけです。私たちは神のことを第一にする、と言いますが神様の生きた働きがはっきりと実感として、受けとめられた生活であるか、どうか問われています。「裁き」というのは、神が私たちの中で、私たちのすること、なすことに正しく判断なさる、自分に都合のいいような、曖昧な事はなさらない方である、という事です。神が「私の中に生きておられる」ことを信じる、ことであります。神の裁きがある、と言っても、いつもびくびくして、生きるということではありません。神が生きておられる、 このこ事を信じて生きることです。この事をイエス様は、この教えの中ではっきりさせたい、と思われているのです。

次にイエス様は言われます。「兄弟に向かって、愚か者、と言う者は議会に引き渡されるであろう。」そうすると、怒るというのは「兄弟に対して愚か者」と言うことと同じになります。しかも、「愚か者」と言ったら議会に引き渡されるのですから、怒った者が裁きに会う、というのは、やはりユダヤ人たちの裁判にかけられる、ということであります。ユダヤで議会というのは国会のようなものです。この当時ではユダヤ人たちの生活の中心になっていた所です。祭司が議長になって、全部で71人で構成されていました。いずれにしろ、怒ったり、愚か者と言う者は何れかの社会的制裁を受ける、という時代であったのです。イエス様は、そういうユダヤの現実社会の事実を取り上げて、御自分の考えと神の子の権威を示そうとしておられます。その後、又、又凄く厳しい言葉を言われます。「ばか者、と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」と。これは大変な事であります。なぜ、イエス様はこれ程まで、厳しく言われるのでしょうか。どんな意味がそこにあるのでしょうか。この事は5章21節から5章の終わりまで十戒の内の五つの戒めを引き合いに出して同じ形式で言っておられます。みんな通じる事です。その形式は「あなた方も聞いているとおり、と『十戒の戒め』をあげて、しかし私は言っておく、と宣言して厳しいイエス様の常識では考えられない厳しい言葉をもって踏み込んで宣言しておられます。例えば、「敵を愛しなさい」と言われる。43~44節を見ても同じ形式です。あなた方も聞いているとおり「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイが、この福音の中で証し示そうとしたのは、そうした「厳しい言葉を宣言される、お方が来られた」という事であります。このお方は律法に対してさえ「わたしは言う」と言って全く同じ権威を持っている事をお示しになったお方でありました。4章17節で、イエス様はガリラヤ伝道を始められる時、「天の国は近づいた」と言われた。天の国、つまり「神の国が来た」ということは文字通り大変なことであります。それは、「神の支配が来た」ということだからです。今まで、この世界は誰が支配していましたか。ヘロデ王ですか、ローマ皇帝ですか。或いはこの世を支配しているのは政治家ですか。いや、やっぱり金が支配しているのだ、と言うかもしれません。律法学者の律法かもしれません。ところが、いまや、神が支配されることになった。と言うのであります。神の御子が神の国をもたらす時が来た。このお方は神の支配を口にし、神の支配をもたらし、実行し、ついには十字架の死と復活をもって、証明する、そういうお方が言われているのです。「わたしは言う」と、ここに権威があるのです。それは、ただ口先で「神の国は来た」と言われるのではありません。このお方の全生涯を通して、実行されて行く背景があるのです。その背景は神の御子イエスの歴史であって、天の御父が、彼と共に従順を通して復活まで共に行かれたものです。「わたしは言う」と言われる言葉の力はここにあるのです。それは、神の御子であられるイエス・キリストの歩まれた道、でわかる、ということです。それを、もとにして「わたしは言う」と言われるのであります。5章から7章までの「山上の教え」の全ての言葉がこれにかかっているわけです。私たちの「兄弟に対して愚か者」と言うなら地獄の火の裁きを受けねばならない。これを言われたら絶望してしまうでしょう。そういう絶望してしまう弱い立場の者の事をみな知った上で、それに対する救いをも、もたらして下さる、十字架の死をもって、その罪を身代わりに受け、復活して、永遠の生命を与えて下さる、その用意をされて告げておられるのであります。イエス様は神の裁きの厳しい宣言を誰に語っておられるか、と言いますと、山上の説教を聞いている人々、特に弟子たちに語られている。もっと言いますと、この言葉は神によって生きる信仰をもった人々、つまり後の教会生活をする信仰者、すべての人々に向かって言われる言葉であります。

だから、マタイは兄弟という言葉を度々使っています。それは、教会の中の兄弟でもあります。信仰者の間で「ばか者」と呼ばわりするような者は地獄の火の裁きである、ということです。教会ではお互いに愛し合う兄弟姉妹です。従ってキリストにあって罪があることを知らされ、キリストによってそれが赦された、ことを知って互いに愛し合うのであります。それならば、「殺さない」ということは勿論のこと、「怒らない」ことも兄弟に対して「愚か者」と言ったりしない生活ができるのは教会の中であります。ところが、現実には信仰者は教会の枠を超えた、この世の只中に生きている、そこに生けるキリストも共に働いて下さる。パウロは、ローマ人の手紙の中で4章8~15節に次のように書いています。「私たちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死にます。だから、生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のもの、なのです。キリストは死んだ者と、生きている者の主となるために死んで、復活されたのです。それだのに、あなたは、なぜ兄弟を裁くのですか。なぜ、ばかにするのですか。キリストは兄弟のためにも死なれたのです。」イエス様は腹の立ついやな奴のためにも十字架に死なれたのです。私たちは、どうしても赦せない恨みでイエス様を苦しめてしまったのです。そこで、次にマタイ5章23~24節を見ますと、イエス様は仲直りをせよ、と言っておられる。前の方で怒る者は裁きにあう、と言って後の方では恨みを受けるなら供え物をする前に和解しなさい。と言っています。「殺すな」という戒めから話がこのように進んできた。よく考えてみると裁き、と和解とは決して関係がないもの、ではない。むしろ裁きは当然、和解を求めるはずでありましょう。裁きは裁きだけで終わるはずがありません。何故ならそれでは何の救いもない、結果は破滅に向かうだけだからです。戒めは「殺すな」ということであっても、滅びに終わるはずはないのです。「殺すな」と言って、ただ殺さなければ良いと言うものではない。その戒めが深刻に扱われれば扱うだけ救いに近づくことになるはずであります。重要な事は、それが礼拝と結びついている、ということであります。「殺すな」という戒めを考えた、そこから「怒るな」ということになって、それを礼拝の前に持って行けばどうなるでしょう。イエス様は、わたしは言っておく、と言って「愚か者」という者は火の地獄に投げ込まれる。23節で、突然、だから「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したら・・・・」と書いてあります。「そこで思い出したら」とあります。祭壇の前では私たちに隠されていた多くの事が突如として頭に浮かんでくる、と言うのです。礼拝の話が語られて行くのです。礼拝では今まで考えていなかった事が急に思い出される。つまり、神の前に、あらゆる意味で自分の罪の深さを、改めて思わされる、というのです。それで、礼拝に於いて一番初めに罪の告白をいたします。実際に礼拝に於いて、思い出す事は、恨みや、憎しみ、自分のした事、罪として告白すべき、いろいろな事であります。そういうことを、ここで思い出す、ことは何のためか、と言いますと、自分が犯した罪によって神の裁きに会わねばならない、という問題があるからです。もし、そうであるなら、それは怒った時と同じです。怒ったら裁きに合うのだ。そしてついには神の裁きに合うという事になるはずであります。そこで、礼拝に於いて裁きを受けねばならない立場にある、自分が神から赦していただくことであります。つまり、神との和解と言っても良いでしょう。なるほど、私たちは罪を赦されているにちがいない。罪を赦された、と言うのはいつでも赦しの言葉を聞いている、ということです。絶えず、礼拝の度に赦しの声を聞き、それを信じていることであります。洗礼を受けて信仰に入っている、と言うことは、いつでも悔い改めて、神からの恵みを新たに信じる用意が与えられている、ということです。ある人が言いました。「神の赦しを真剣に求める者は兄弟に向かって、行った正しくない事をも考える。このような思い出しこそ、神礼拝が私たちにもたらす祝福である」と。どこまでも、まことの赦しは、神からのみ出るのであります。神との和解が人との和解へと変えて行くところに祝福があるのです。  アーメン

人知では、とうてい測り知る事の出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月4日に開催されました。10年来の厳しい寒さが続く日々の朝でしたが、昼間は太陽が眩しく輝き清々しさを感じさせました。 今回の料理クラブでは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並べられるルーネベリ・タルトを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に生地に入れるシナモン・クッキー(ピパルカックです)を細かく潰します。次に粉類を計って潰したクッキーと一緒に混ぜます。別のボールにマーガリンと砂糖を混ぜると、教会はハンドミキサーの音が響き渡りました。白く泡立ってから卵などの材料を加えてケーキ用の生地が出来上がりです。生地をマフィンカップに入れてオーブンで焼き始めると「いい香り!」という声が聞こえてきます。

焼き上がったタルトの上にアップルジュースを少しかけて冷やします。終わりはタルトの上にラズベリージャムをのせて、その周りをアイシングで飾りつけ。これで、美味しそうなルーネベリ・タルトの出来上がりです!

早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリ・タルトをコーヒー紅茶と味わう歓談の時を持ちました。その時にルーネベリ・タルトとフィンランドの有名な作家ルーネベリとの関係、ルーネベリが作詞した讃美歌とそのもとにある聖書についてのお話も聞きました。

帰る時もまだ明るくて、日が少しづつ長くなって春が近づいていることが分かりました。次回の料理クラブの時はすっかり春めいているでしょうか?

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月11日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

2023年2月4日ルーネベリ・タルト

今日はフィンランド人が好きなルーネベリ・タルトを作りました。フィンランドでは新年を迎えたあと少しすると、どのお店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。もちろん家庭でも作ります。ルーネベリ・タルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、今日皆さんと一緒に作った形のもので、生地につぶしたクッキーとアーモンドを入れたり、タルトの上にラズベリージャムをのせて周りにアイシングをするものです。この形の他にも最近ではロールケーキやケーキの形のものも作られるようになりました。生地に入れる材料もいろいろ変化しています。

ルーネベリ・タルトはどうしてフィンランドの今の季節のお菓子でしょうか?それは、明日の2月5日はフィンランドでは「ルーネベリの日」という日だからです。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。

Albert Edelfelt [Public domain]ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。彼は書いた詩や小説を通してフィンランドの美しい自然や国民の理想的な像を描きました。また彼は教会のことにも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。今フィンランドの国教会で使っている賛美歌集の中にはルーネベリが書いた賛美歌がまだ15曲のっています。

どうしてフィンランド人がルーネベリを記念する時にルーネベリ・タルトを食べるのかというと、それは彼がこのお菓子が大好きで、朝食の時にも食べたくらい好きだったからです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリ・タルトは初めはスイスで作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになりました。それで奥さんのフレディリカもこのお菓子を作るようになりました。

このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはお菓子の伝統だけではありません。詩や小説、讃美歌も沢山残しました。ルーネベリ・タルトは冬の季節のお菓子ですが、彼が書いた詩や小説、讃美歌は季節に関係なくいつでも読まれたり歌われたりします。これから、ルーネベリが書いた讃美歌について少しお話したく思います。

ルーネベリが書いた讃美歌の一つに「人が地上の人生を歩む時」というのがあります。この讃美歌を通してルーネベリは人生を旅にたとえています。讃美歌の意味を短く説明すると次のようになります。人生の旅には喜びや感謝もあれば、試練や悲しみもある。しかし、天の父なる神さまがいつも導て下さることを忘れずに神さまに信頼していけばいつも安心を得られる。私たちの父である天の神さまは私たちが歩んでいる道を誰よりも一番よくご存じなので、私たちに一人ひとりに相応しい助けをいつも与えて下さる。人生の道に危険がある時は神さまは知恵を与えて安全な道に導いて下さる。このように人生の旅は神さまが守り導いて下さる旅である。だから私は神さまに感謝をする。大体こういう内容です。

この讃美歌は長くて8節までありますが、4節だけ訳して紹介します。

「このことを忘れないでほしい
あなたがどこに向かって歩んでいく時も、
あなたの神は恵み深く、いつもあなたの脇についていて下さる。
だから、たとえ危険が迫っても、
父なるみ神はあなたの歩む道を知っておられ、
あなたの行く手を守って下さる」

ルーネベリはこの讃美歌を1850年頃に書きましたが、讃美歌のメッセージは現代の私たちにとっても励ましになります。神さまはいつも私たちと共に歩んで下さって、私たちのことを全てご存じで相応しい助けをいつも与えて下さいます。このように言うことは簡単ですが、本当に神様は信頼出来るお方でしょうか。聖書には神さまが本当に信頼できる方であることを沢山の人が証言しています。旧約聖書の詩篇を書いた人は次のように言いました。
「主は人の一歩一歩を定めて下さり、み旨にかなう道を備えて下さる。たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」詩篇37章23-24節です。

私たちの生活の中にはいろいろ大変な時がありますが、そのような時でも父なる神さまは助けを与えて導いて下さるというのが聖書が伝えるメッセージです。親が小さい子どもの手を握って歩く時、子どもは遠くに走らないで親の側を歩きます。親は子どもを守ります。天の父なる神さまは親と同じように私たちの手を握って一緒に歩んで守ってくださいます。私たちは神さまが一緒に歩いてくれることを望んでいるでしょうか?時々子どものように親の手を離して好きな道に行こうとしてしまうかもしれません。そのような時は、先ほどの詩篇の言葉を忘れないようにしましょう。「たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」。このような神さまの手を離さずに、私たちは神さまを信頼して人生の道を歩んで行きましょう。

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宣教師の週報コラム SLEYの全国大会へ!

フィンランド・ルーテル福音協会(SLEY)は、フィンランドのルター派国教会の中で活動する1873年設立の団体です。 ルター派信条集に基づく信仰が国教会の中で守られるようにすることを目的とし、賛同する牧師や教会員がその精神に基づいて地元教会で礼拝を行ったり、全国各地に「祈りの家」を建設して様々な集会を行ったり、ルター派の書籍の翻訳や出版事業を始めたりしました。このようにSLEYの活動は当初は国内向けのルター派のリヴァイヴァル運動でした。それが、海外にもルター派の信仰を伝道しようという機運が高まり、最初の伝道地に日本を選び、1900年から宣教師を派遣し始めて今日に至っています。 SLEYが日本各地に設立した教会の中で主なものは、札幌、池袋、飯田、諏訪、大岡山の教会があります。全て大正~昭和初期に建てられたものです。それらは、1960年代に「日本福音ルーテル教会」が設立された後は順次日本側に移譲、スオミ教会は1990年誕生の末っ子です。

 SLEYの集会の中で最大のものは1874年から毎年夏に開催される「福音祭」と呼ばれる全国大会です。開催地は毎年各地の持ち回り、週末の3日間に延べ2~3万人位が参加します。大抵陸上競技場がメイン会場ですが、地元の学校などの公共施設も貸切られ子供から大人まで年代層に応じた様々なプログラムが実施されます。

野外礼拝の聖餐式では長い行列が延々と続きます。

 中でも最大のプログラムは、土曜夕方と日曜朝の野外礼拝です。50~60人位の牧師の前に6,000~8,000人位の人が聖餐式に与る光景は圧巻です。日曜午後は宣教師の派遣式が盛大に執り行われます。大勢の参加者が見守る中、宣教師たちはSLEYと国教会の関係者から按手を受けます。

 SLEYが設立した日本の教会からは多くの方が全国大会に参加されました。何度も行かれた強者もいらっしゃいます。スオミ教会からはまだありません。来年2024年の全国大会はオウライネンという北の町で開催されます。神がお許しになれば、久しぶりに新しい日本宣教師の派遣式があります。さらに神がお許しになれば、スオミ教会の現宣教師の延長派遣の可能性もあります。この機会にスオミ教会からも参加があれば素晴らしいと思います。

2023年1月29日(日) 顕現節第4主日 主日礼拝

本日の説教は動画配信でご覧ください

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。

 

 

2023年1月22日(日)顕現節第三主日 主日礼拝

司式 吉村博明 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
説教・聖餐式 ペッカ・フフティネン牧師・SLEY元海外伝道局長
本日の説教は動画配信でご覧ください。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

宣教師の週報コラム ニーニスト・フィンランド大統領の年頭スピーチを聞いて

写真 ユハニ・カンデル(Juhani Kandell)/大統領府

毎年1月1日にフィンランドの大統領はテレビで国民向け年頭スピーチを行う。 フィンランド語とスウェーデン語それぞれ15分ずつの短いスピーチだが、前年の国内外の情勢を振り返り、新しい年の歩みを始める国民一人一人が心に留めておくのが大事と考える視点を簡潔に提示する内容である。

今回はもちろんロシアのウクライナ侵攻が話題の大半を占めた。それは無理もないことだ。フィンランドをめぐる安全保障の環境は激変し、国是だった中立政策を捨ててNATO加盟を決めたからだ。テレビ・ニュースでも、ニーニストがウクライナ戦争を1939~1940年の冬戦争に、プーチンをスターリンになぞらえたことを公言したことに注目が集まった。

そういう対外的な大問題と併行する形で、国民の日常にも目を向け、こういう時だからこそ心に留めておくのが大事と考える視点を提示していた。今回、キリスト信仰の観点から見ても興味深いと思われる点を3つほど発見した。

一つは、ウクライナ戦争の影響で世界的に経済が失速し物価高、電力不足が深刻になる中、フィンランドは比較的に経済や福祉を維持できていることに関して。フィンランドが国際的に平均値が高いことに満足してはいけない。格差が拡大すれば、平均値の下側の人たちはより困難な状態に陥ることを忘れてはいけない。彼らの状況に目を向け支援を忘れてはいけない。

二つ目は、暗い事件は国外だけでなく、国内でも身近に起きている(クリスマスに礼拝中の教会が放火される事件が起きた、あとニーニストは国内の組織犯罪の増加に警鐘を鳴らしている)。悪の力は、一般市民をストップさせて不安に絡めて前に進むことができなくなるようにする力である。しかし、不安を抱きながらでも日常を続けることに努めることが悪に打ち克つことになる。

三つ目は、あまり聞きなれない言葉、人間はepeli olemusという言葉を使った。文脈から「意外な可能性を持つ存在」という意味だと思う。もう可能性などなくなってしまったというピンチの状態は実は、それまで自分にあると気づかなかった可能性に気づけるチャンスなのだ。フィンランド国民のシス精神はまさにそれだ。

以上の視点は、もちろんお上のお達しなんかではなく、受け入れるか受け入れないか、どう批評するかは聞く人の勝手というものである。(識者のコメントの中には、SDGsや気候変動についてもっと言及すべきだったというものがあった。)それでも、危機迫る国民に危機から目を逸らさせず、それを乗り越える共通の手がかりになるものを示し、しかもフィンランド国民なら乗り越えられると自信を与える内容になっていると言える。

因みにニーニスト大統領は年頭スピーチの終わりにいつも「神の祝福が皆さんにあるように」と結び、自身のキリスト信仰を表明する。今まで大統領によっては言わない人もいたが、ニーニストは言うのだ。

2022年1月8日(日)顕現節第1主日 主日礼拝

「天からの御声」         2023,1,8(日) 木村長政 名誉牧師

マタイ福音書 3章13~17節

2023年新しい年を迎えました。

今日の福音書はマタイ3章13節から17節です。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた話です。ユダヤの国の北から南へとヨルダン川が流れています。行く先は”死海”と言う湖です。さて、マタイ3章を見ますとバプテスマのヨハネはユダヤの民に「悔い改めよ」と叫んだ。そうするとエルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来て罪を告白し彼の質問にパスした者にはヨルダン川で洗礼を授けました。この洗礼を受けようと集まっていた民衆の中にイエスも混じって順番を待っておられた。ヨハネはイエスを発見してびっくりしたでしょう。どうして、びっくりしたかと言いますとイエスの方が自分より優れた人物であることに気づいたので言いました。「イエス様、わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに。」と思いとどまらせています。しかし、今は受けさせてもらいたいと、イエスの強い願いに負けて、ついに洗礼を授けました。イエスが岸辺に上がって祈っていると突然天が開け神の霊が下って神の御声が聞こえて来ました。「このイエスこそ、神の心にかなった救い主である。」と宣言しました。この時からイエスの救い主として活動が公に始まるわけです。この出来事について、他のマルコもルカもヨハネも福音書で記録しています。それほど、この出来事は大事な意味を持っていますので、しっかりとそれぞれの福音記者の独自の立場からイエス様の宣教の始めを計画的に書き記しているわけです。

考えてみてください。イエス様がこの洗礼を受けられた時30才でありました。ナザレの田舎で父ヨセフと大工の仕事を一緒にして家族の大きな助けをされていたのでした。ところが突如としてナザレを出てガリラヤで神の国を宣べ伝え始められました。そして、わずか3年後十字架の死をとげ、3日後に復活された。イエス様の地上に於ける生涯33年のうちの30年というほとんどの年月はナザレ村で神の福音を実行に移されるまでの大事な大事な準備の期間であったろうと思われます。その深い準備の期間、何をどう過ごされたか聖書には何も記していない。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、神の計画は準備を整えて、いよいよ天からの神の御声があったのです。この天からの声がどういう重要な内容を含んでイエス様の上に下ったのか、少しづつ見て行きましょう。

まず第1には、天の声はナザレ村で大工の長男として育って家族の中心であったイエスに対して「これからは、お前は大工の子ではない、神の子であって民衆を救うべき救い主だ。ナザレ村を出て公に神の子本来の働きをしなさい。」という神のご命令であった。神の霊が鳩のように、ご自分の上に下って来るのをご覧になった。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」これはマルコが書いている、天の声です。ルカ福音書の方はマタイと同じような意味を込めて3章22節でイエスが洗礼を受けられ、祈っておられると、その祈りに答えて天からの声があった。「あなたは、私の愛する子。」と2人称で語りかけています。ヨハネ福音書によると、この出来事はイエスにバプテスマを授けた預言者ヨハネに対して<この、イエスこそお前の待ち望んだメシアだ>ということを教えている天の声であった、というのです。そこではヨハネ福音書で言っています。1章33節で「私はこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。ある人の上に『み霊が下って、留まるのを見たら、その方こそみ霊によってバプテスマを授ける方である』私はその方を見たので、この方こそ神の子である、と証したのである。」この出来事に出会って見た多くの人々も又イエスは、ただの人ではない、神の子である、と教えられたと思います。

では、マタイはこの出来事を、どの点に力説しようと、したのでしょうか。マタイ3章17節の最後の部分で、天からのみ声があった、「これは、私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。この、天の声の仕方に秘密があるのかも知れません。マタイの言うのは、マルコやルカによる記録のように、「あなたは・・・・私の愛する子だ」と2人称で語りかける父親の声ではありません。マタイの言うのは、言ってみれば「これが、こういうのが、私の愛する子である」と言う客観的な宣言文です。日本語訳によると,マルコもルカも「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者である」と一気に言われた文章を記してあるかのように見えますが、実はこれは二つの文章に切れていて「あなたは私の子、愛する者である。私は、あなたを喜ぶ」となっています。これは、父親が子に対する率直な気持ちを伝える親子の語らいなのです。ところが、マタイだけはこれを一つの文章で 書いています。つまり「こういうのが、私の喜ぶところの、私の子、愛する者なのである」と。ここではイエスが神と、どういう続柄にあるか、神はどういう気持ちを抱いておられるか、というような問題ではなくて、神が喜ぶ、愛する子、とはどういう者なのか、という定義が述べられているのです。神からの宣言です。この声によって、イエスが神の子だ、という事が言われているのです。同時に、だから神の子はどういう性質のものなのか、という事までわかるのだ、とマタイは言いたげであります。

では、「私が喜ぶところの、私の子、愛する者とは」何のことでしょうか。マタイは12章17~18節のところでこう記しています。「これは、預言者イザヤの言った言葉が成就するためである。見よ、私が選んだ僕、私の心に適う愛する者。私は彼に私の霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」。ここに、今の3章13~17節を思い出させる重要な言葉が次々と出て来ることに気づくでしょう。「私の心に適う」とか「愛する者」という二つの言葉は天の声と同じ用語です。「私は彼に私の霊を授け」という言葉も、イエスが受洗された時の天から下ったみ霊を思い出させます。「正義」という言葉も3章15節の」「正しいこと」と同じ言葉です。すなわち、マタイが3章17節に記している天からのみ声は、マタイが12章18節で引用している旧約聖書イザヤ書42節1節に他ならないのです。正確に調べると、イザヤ書42章を開いて読むと、マタイが引用した天からの声と全く同じでは、と感じられるかもしれません。それは、旧約聖書のヘブル語をギリシャ語に訳したために多少変わってしまったからです。要するに、マタイによれば、この時天からの声は旧約聖書の預言したメシア、とりわけイザヤが預言していたメシアとはこういう方である、と説明したのです。

イエスが神の子だと言うが、彼と神との父子関係がどういうものであるか、そんなことは論じられていません。むしろ、マタイが今までイエスはメシアである、と論証してきた、そのメシアというのはどんな性格の方であるかをマタイは言おうろしているのです。私たちは誰が救世主であるかを知ればそれで充分なのではありません。彼が、どういう性格の救い主であるか、が分からなければ信じる事が出来ません。神信仰と言うのは、神がおられることを信じるだけでなく、どういう神がおられるか、という事まで含む信仰です。イエス・キリスト信仰もイエスという方を救い主と信ずるだけでなく、イエスという方がどういう者かという事まで含む信仰です。

では、真のメシアとはどういう性格の方でしょうか。それを、明らかにするためにマタイは他の福音書記者の切り捨てたものをちゃんと保存しています。すなわち、ヨルダン川でイエスがバプテスマを受けられる前にイエスとヨハネとの間で交わされた言葉のやり取りが、このメシアの特色をよく伝えてくれるのです。マタイ3章14~15節を見ますと「ところがヨハネは、それを思いとどまらせよう�として言った。私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私の所においでになるのですか。しかし、イエスは答えられた、今は受けさせてもらいたい。このままにして論じないままにしておいて欲しい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しい事である。これまで、預言者としてのヨハネは人々に説教をしてきました。「私の後から来る方は、私より力のある方で、聖霊によってお前たちにバプテスマを、お授けなるであろう」と。それが、今、イエスの方から何故バプテスマを授けて欲しいと言われるのでしょうか。イエスの答えは明快でした。「このように、すべての正しいこと義を成就するのは我々に相応しい事であるから」と言っておられる。理由はただ一つ、「正しい事を果たす」のが我々に相応しい、適切だからだよ。もっと言えば、この事はメシアであるイエスにとって適切だ、とか言うのではない、又、預言者ヨハネに有利だ、と言うものでもない。

◎ ただ神を信じ、神に仕える「我々に」適切なことなのです、ということです。

◎ 神様が喜ばれるのは、そうした真理と正義への率直な服従と熱心であります。」イエス様は人の肉体をとり人の心を持って、この世に来られました。十字架にかかられる前日には血の汗を流して祈られました。出来ることな ら、十字架の死の盃を取り除いて下さい。正真正銘の人の子として生きられました。

◎ しかし、彼は真理のため、正義のためには、どんな事も果たされたのです。それが十字架の死

  であっても、神の、み心であれば相手が誰であれ服従されたのです。

◎ 神の喜ぶメシアとは、こういう方なのであります。イエスがヨハネに「このことは我々に相応しい」

  と言われた、この言葉使いの中にはイエスご自身を民衆の中に徹底的に身を置こうとされる

  考えがにじみ出ています。

驚くべき事は、ヨルダン川に出て来て、神の子として活動して行こうとされるイエスが、このように人々の列の中に行列に加わることによって、悔い改めのバプテスマを受けようとする、罪びとの中にその身を置かれた、というこの事実です。告白すべき罪などない神の子がバプテスマを受けることは一体、何でありましょうか。彼はメシアでありながら、神に背く罪が自分にもある、と言いたげに、今、人生の出直しを新しく決意されているのです。彼は罪びとの最も身近な友、最も親しき罪の共犯者になろうとしておられる。バプテスマのヨハネは、どうかと言うと、もし、メシアが来られたら、きっと聖霊の火を持って罪びとを焼き滅ぼすに違いないと思っていました。しかし、そうではない。聖霊は恐ろしい、滅ぼす火のようではなく。鳩のように、ひっそりと下られました。ヨハネの後から来る方は力ある裁き主ではなかった。むしろ、力なき者の友、罪びとの友、悔い改めて泣き崩れる者の味方であった。彼こそ真の救い主なのであります。神の喜ぶメシアはイザヤの預言どおりの救い主なのだ、と天の声は断言しているのです。ナザレから出て、洗礼を受けられたイエスは、天の声で断言されたメシア、神の子の使命をこれからいよいよスタートして行かれる。天から神のみ声は大きな霊の力となってイエス様に下ったのでありました。   アーメン