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トマト
<5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。 詩編126:5・6>
近くと言っても車で5,6分ほど下った先の畑を覗いたら井手さんが笑顔で迎えてくれました。家内と早速お喋りが始まりました、私はそのまま奥の畑を散策していましたら取り入れを忘れられたのでしょうか、トマトが所在なげにぶら下がっていました。その向こうに井手さんと私たちが住む日向山が雲をまとってのんびり横たわっていました。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年10月19日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書18章1~8節
説教題:「気を落とさず、絶えず祈れ」
今日の聖書は「寡婦と裁判官」の譬えです。読んだだけで分かり易い譬え話です。イエス様はこの譬え話で何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカは18章1節に、この譬え話の教えを次のようにはっきり書いています。「『イエスは気を落とさずに、絶えず祈らなければならない』この事を教えるために弟子たちに譬えの話をされた。」イエス様は弟子たちに、気を落とさず絶えず祈りなさい、と言っておられるのです。弟子たちはこれから先イエス様がおられなくても福音を宣べ伝えて行かねばならない。この大切な使命を生涯をかけて果たして行くのに多くの困難がある。その苦難と迫害と戦い耐えて行かねばならない。そうした中で「神様に向かって、絶えず祈れ」と教えておられるのです。「絶えず祈る」というこの繰り返し、繰り返し、へこたれず忍耐して続けて訴えて行け、祈れという意味が込められているわけです。そこでイエス様は具体的にもっと詳しくわかるために、此処に「寡婦と裁判官」の話を譬えて語られたのであります。
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2節から見ますと「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官げいた。ところが、その街に一人の寡婦がいて裁判官のところに来ては『相手を裁いて私を守ってください。』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権利を持っています。政治をする為政者もまた権力を持っていて、権力を持つとその力をひけびらかして自分の力でどうにでもなる、という誇りや高慢になります。そして差別や偏見の目を持って不正な事も平気でやってしまいます。この譬えの裁判官もそうとう悪(わる)のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。また、この裁判官は「人を人とも思わない」のです。そこには人間らしい情けや優しい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重といった感覚は全くゼロに等しいのです。しかも、そういう人が権力を持ちこの街を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定を下す役なのです。旧約聖書、申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは裁きを曲げてはなりません、人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし正しい者の事件を曲げるからです。ただ、広義のみを求めなけなればなりません。」以上ですがこれが正しい裁判官、また政治をする人の在り方です。更にパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。「彼は善を行うために立てられた神の僕です。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」これが理想的な裁判官、また政治家のあり方です。しかし、理想であって現実のこの世では権力をわが物にして自分の力を過信して行く、遂に恐ろしい程の人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない高慢な我儘で正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない、自分のために固着するしかない。権力は民衆を忘れ、神を忘れ自己達成を目指す、そしてやがて腐敗を始めます。権力の上には神がおられ、神の支配の下でないと崩壊します。何時の時代でも戦争で多くの命が踏みにじられて悲惨な世の中はあるのです。現在でも世界で独裁者が権力を奮っています。これが現実の私たちの生きてゆる世界です。毎日、建物が破壊され人が傷つき死んでいます。
さて、譬え話ではその町に寡婦がいて裁判官のもとへ行って「私の訴訟相手を裁いて私を守ってください。」と言っています。この寡婦の姿は無力な私たちの姿のようです。この寡婦は賄賂を使う金もない、全くの無力です。誰かを頼む伝手もない、誰も助けてくれそうもない全くの無力です。それに、いま彼女は訴えられています、被告になっています。寡婦の彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。ただひとつ正義の神様がいます。このお方が必ず正しい事をして下さる。彼女にこの信念があります。パウロはコリントの第二の手紙12章9節でこう書いています。「私は力の弱いところに完全に現れる」。神様は全てをご存じです。神様は決して見捨てられない。しかし、いま彼女の状態は決してあるべき姿ではない。主の祈りで私たちは祈ります。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と。彼女は、ただこの祈りをもって悪い裁判官に立ち向かいます。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きてはゆけないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。如何なる権力にもひるまず訴えてゆく根底には実にその事が自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけででは生命の問題とならないのです。裁判官は長い事彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。この純真な要求は聴き入れられない。いく度も、いく度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もしこの要求が生命の問題にまでなっていなかったら途中で諦めるか自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官は何故聴き入れられようとしないのか。それは「神を畏れず。また人を人とも思わない」からです。正義の感覚など微塵も持ち合わせていないからです。この裁判官がついに聴き入れるのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけで悪魔に対抗する事は出来ません。悪魔は何時ももっと巧みな理論を用意しています。そこに暫く聴き入れない期間があります。大切な期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。私たちの祈りも神様に直ぐに聴き入れられない期間というものがあります、そういう時があるのです。この裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし今その裁判官がその後、自分自身で言いました。「私は神を畏れないし人を人とも思わないがこの寡婦は私を煩らわすので彼女の裁判をしてやろう。そうすればとことんまでやって来て私を苦しめる事が無くなるだろう。」イエス様の譬え話は5節までです。そして、6節で即、言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい」。イエス様は問われます。「彼の言う事を聞きましたか。他でもない。この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをすると言うのです。不正な裁判官のへ理屈などどうでも言いのです。その不思議な事実を聞くのです。此処では極悪の地上の裁判官が正義の神に名添えられているのです。では何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは不正な裁判官がついに正義の裁判を行うという不思議な事実です。裁判官は依然として彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急に寡婦の祈りを聞いてその熱心さに涙を流して悔い改めた」とは書いてありません。しかし、彼は「この寡婦は私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう」と言い始めるのです。煩くて、煩くて俺を煩すから、と言っているのです。不正な裁判官を正義の裁判官に変える事は出来ません。人間の仕事ではありません。しかし驚く事にこの権力の利己主義を通しても神の正義が実現してゆくのです。権力は正義の理論では動きません。しかし、絶えずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し・・ただそれのみによって動かされるのです。小さな奇跡が起きているのです。
旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々はその苦役の故に彼らの叫びは神に届きました。神は彼らの呻を聞き、アダム、イサク、ヤコブとの契約を覚え神はイスラエルの民を顧みてくださいました。」神が働いて下さったのです。悪い裁判官が世界を動かしているかに見えます。しかし、そうではありません。人間にはその時、その時で事がおこるのです。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・・信仰、不信仰、等々あらゆる物を貫いてただ一つの神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書、箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ」。神は夜、昼神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや!神は速やかに審きをして下さる。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を見い出すであろうか。8節で問うておられる。これは信仰の課題です。終末の時、どうなっているか私たちにはわからない。神の遅き、と言うものは遅いのではない。神は速やかに審きをして下さる、と約束しておられるのです。それは又人の速さは速いのではない。神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀最大の神学者、カール・バルトが言っている事です。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時を持ち給う方が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただこの神に基づくのです。たとえ天地が崩れ去るとも崩れる事のない土台の上に立っているのです。ある時は神は私たちから全てを奪われるかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうか、と思えます。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。気づかないうちに、ある時、突如としてです。神は必ず働いて下さる。神はいないかに見えます。正義は聞かれないかに見えます。神は時として沈黙し給うのです。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うです。それは、その民が神に選らばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて神が御旨をなさるのです。神様の側でなさる事であります。私たちに出来る事は絶え間ない祈りであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは10月11日に開催しました。小雨がぱらつく一日でしたが、教会の中は爽やかで明るい雰囲気でした。今回はこの季節にフィンランドの家庭でよく作られるリンゴ・ケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にそれぞれの材料を計って準備します。それから、マーガリンと砂糖をハンドミキサーで泡立て、白く泡立ったらシロップや卵などの材料を加えます。そうして出来上がった、茶色がかった生地をパイ皿に流し込みます。次は、リンゴの準備です。皮をむいてスライスしてから黒砂糖、カルダモンなどのスパイスで味付けをします。そうして味付けしたリンゴを生地の上にたっぷり押しこんでオーブンに入れて焼きます。
今回は教会に新しいオーブンが設置されたばかりだったので、ケーキはちゃんときれいに焼けるのか心配がありました。しかし、ケーキをオーブンに入れてしばらく経つと、台所から美味しいそうな香りが教会中に広がり、それで大丈夫だとわかりました。
今回の料理クラブはお子さんと一緒にご家族で参加された方もいて、親子で一緒に材料を計ったり生地を混ぜたりして皆さん一生懸命でした。
ケーキがオーブンで焼けている間、子どもの遊ぶ声や参加者の楽しそうな会話が教会中に広がりました。もちろん、シナモンなどスパイスの香りもです。参加の方々も新しいオーブンに興味をもって何度もケーキの焼き具合を覗いては、「きれいに膨らんでいるわ」「美味しそうね」と話されていました。
ケーキが焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのリンゴのケーキの上にバニラアイスをのせてコーヒー紅茶と一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。歓談の時に、フィンランドのリンゴにまつわる話と新約聖書のマタイによる福音書にあるイエス様の教え、イエス様は重荷を負う人の重荷を軽くする方であることについてお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月15日の予定です(注 11月は月の第三土曜日になります)。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
秋になると、フィンランドの多くの家庭ではよくリンゴ・ケーキが作られ、リンゴやシナモンの香りが家中に広がります。シナモンはリンゴ・ケーキに欠かせない大切なスパイスの一つで、シナモンがなければリンゴ・ケーキの味にならないとさえ言われます。今回のケーキにももちろんシナモンを入れましたが、カルダモンとグローブのスパイスも加えたので少し違う風味に仕上がりました。今回はさらにシロップや黒砂糖も使ったので、ダークで奥深い味のリンゴ・ケーキになりました。
秋のフィンランドはベリーやリンゴの季節です。フィンランド人はリンゴをどのように食べるでのしょうか。収穫の良い秋にはリンゴ・ケーキの他にもいろいろなリンゴのデザート、おかゆ、ジャム、ジュースを作ったり、乾燥したリンゴのスライスを楽しんだりします。もちろんリンゴをそのまま沢山食べる人も多いです。多くの人たちは職場のおやつにリンゴを持って行きます。自分の庭で育てたリンゴを同僚の人たちに分けてあげるのは楽しみの一つです。
リンゴは健康にとてもよい果物です。フィンランドには「毎日リンゴを1個食べれば、医者を遠ざけることができる」ということわざがあります。リンゴはビタミン A、B、C、E、K 、ミネラル、繊維など沢山入っているので健康に良いのです。研究によると、リンゴは心臓病や血管疾患、糖尿病などの予防にも非常に良い効果があるそうです。特に皮には健康の良いフラボノイドが沢山含まれているため、フィンランドでは国内産のリンゴを皮のまま食べるのは普通です。
フィンランドのリンゴは小さくて日本のように見た目は豪華ではありませんが、フィンランド人は自宅の庭にリンゴの木を植えて育てる習慣があり日本とは異なります。リンゴの木は庭の「女王」ように大切にされ丁寧に育てられます。五月の終わり頃になると、木には白い花が一杯咲いて、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、リンゴの花が咲くのを毎年楽しみにしています。
9月になると家の庭のりんごの木は赤めと緑色の実が実ります。出来具合いは、年によって大きく異なります。今年は去年ほど良くありませんでしたが、収穫の良い年はリンゴの木の枝が折れそうになるくらいに沢山の実がなります。そのような場合は枝が折れないように木のブロックなどで下から枝を支えます。
リンゴの実は沢山実るのは喜ばしいことですが、折れてしまって枝もリンゴも地面に落ちてしまうのではと心配になることがあります。これは私たちが時々感じることと似ているではないでしょうか?
私たちの生活の中には喜ばしいことが沢山ありますが、心配事や悩みもあるかもしれません。例えば、自分や家族の健康のこと、仕事のこと、未来のこと、身近な人の心配なことなどいろいろな重く感じられることがあります。これらは私たちが背負っている重い荷物のようです。これらを降ろそうとしても、自分の力では簡単におろすことは出来ません。このことについて聖書の中でイエス様が次のように教えられた言葉があります。それを紹介したいと思います。
「疲れた者、重荷を負う者は、 誰でも私のところに来なさい。 休ませてあげよう。 私は柔和で謙遜な者だから、 私のくびきを負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。 私のくびきは負いやすく、 私の荷は軽いからです。」 マタイ11書28―30節。
イエス様は世界の全ての人々に「私のとことに来なさい」とおっしゃいます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、イエス様にお祈りすることで私たちはイエス様のところに行くことができるのです。先ほど紹介したマタイの箇所でイエス様はご自分のことを「柔和で謙遜な者」と言われました。柔和で謙遜なイエス様はどのような方でしょうか?
イエス様は天と地と人間を造られた神さまの一人子です。神様のもとからこの世に送られて神さまのことを多くの人々に教えました。そして、この世の全ての人たちが神さまのもとに行けるようにと、十字架の業を通して救いの道をわたしたちに開いて下さいました。このイエス様を救い主と信じてイエス様を深く信頼するようになると、不思議なことに心配ごとは軽く感じられるようになります。心配ごとはすぐにはなくならないかもしれませんが、イエス様が私たちの祈りの声を聞いて、私たちが気づかなかったことを示したりして導いて下さるのです。それが心を軽くするのです。それがイエス様が約束して下さった休みなのです。その時私たちはしなやかで強じんな枝に実っているリンゴの実なのです。折れて地面に落ちる心配は全くありません。私たちもイエス様のもとに行きましょう。
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月9日の日課から
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」 最後の晩餐の席で主イエスが弟子たちに述べた言葉から(ヨハネ16章22節)
この主の御言葉を信じられることほど信仰の奥義はないであろう。キリストを救い主に持たない者たちが豊かに安逸に暮らせているのに、救い主に持ってそれを人前で明かす我々は命、名誉、財産を危険に晒してしまうというのは真実である。しかし、将来、我々を待ち迎えてくれるものは何か、心の目と耳をすまして思い起こせば、我々は嬉しさに溢れて「心から喜ぶことになる」。逆に、この世ほど惨めで憐れなものはないともわかる。この世の者たちが我々をどんなに無意味で無価値なものと見下しても、それが一体何であろう。我々が失うものは背中に背負っている荷袋だけだ。それは皮のような表層にしかすぎない。しかし、我々は中核にあるものを持っている。この世で何が起きようともこの世を去る時も持ち続けているものだ。この世で失ったものについては、溢れるほどの補償をしてもらえると知っている。
これとは逆に我々と異なる立場にある者たちは、この世のわずかな時を皮だけ持って生きているようなものだ。彼らには中核がなく、いずれその皮さえも失う。全てが一変する日が来るのだ。今、不足なく人生を謳歌している者たちは、その日には何もなくなる。我々はこのわずかな時を悩み苦しむが、あの者たちは永遠に悩み苦しむことになる。この世にこれ以上ないという位の大きな災難があるとすれば、それは福音を何ものとも思わない盲目さということになろう。その盲目さのゆえにこの世は裁きの下に置かれたのだから。そのようなものをこの世に望んで言いわけがない。私は、この世がこのような恐るべき状態から脱せられるように祈ろうと思う。(訳者注 原文の力強さと迫力が伝わるようにかなり意訳してあります。)
主日礼拝説教 2025年10月12日(聖霊降臨後第18主日)スオミ教会
列王記下5章1~3、7~15b節
第二テモテ2章1~15節
ルカ17章11~19節
説教題 「いつどこででも主なる神に感謝するのは当然であり相応しい」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに
イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所はガリラヤ地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はその場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに行って体を見せなさいとだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだからと言う通りにただちにエルサレムに向かいました。
ところがどうでしょう、出発後ほどなくして10人はみな治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム行きの目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきた人がいました。先ほども触れたサマリア地方の出身者でした。彼は癒しを与えてくれた神を大声で褒め称えながら戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏し神の癒しを及ぼして下さったイエス様に感謝しました。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。
本日の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを2つ明らかにしています。一つは、神から義なる者と認められて救われるのは律法の規定を守ることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によってであるということ。もう一つは、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つの萌芽がサマリア人の行動から見て取れます。この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、キリスト信仰にとって本質的なことがあるというのは少し気が早いかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。
2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味
この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみます。この言葉は一見すると、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからということになってしまいます。本当にそうでしょうか?それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだと言うべきでした。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。このことに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみましょう。
マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、気をしっかりもちなさい(後注)。あなたの信仰があなたを救った」と言います。この言葉をかけられた後で女性は健康になります。マルコ10章とルカ18章では、盲人がイエス様に見えるようにしてほしいと懸命に嘆願しました。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。
本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」はギリシャ語原文では現在完了形(σεσωκεν)です。「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味です。それなので「あなたの信仰があなたを救った」というのは、本当は「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。
これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時まで救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことがありうるのでしょうか?普通は、治った時に救われたと言います。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間の目から見て良い境遇にあるということと同義ではないのです。境遇が良いか悪いかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。
そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。この不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。
さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には向けられませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。
3.キリスト信仰を先取りするサマリア人の行動
先ほども申しましたように、レビ記14章には重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとして定められています。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)、つまり「清い状態」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないかと思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。
もう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯したから、かからなかった人は犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間は死ぬ存在であり続けたことに示されているのです。使徒パウロが罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と言ったのはこのことです。死ぬということが人間が罪を持っていることの表れなのです。
さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを良しとします。つまり、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要な神との和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったのです。モーセの律法には「重い皮膚病」が治った後の「清めの儀式」の他にも罪を償い神との和解を得るための儀式が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27
32節)。
しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。」(10章1
2節)。
そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、神との結びつきを持ったまま去り、復活の日が来たら目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて創造主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
4.勧めと励まし
主にある兄弟姉妹の皆さん、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖い出して、神との和解をもたらして下さいました。私たちキリスト信仰者はそのイエス様を救い主と信じ洗礼を通して、この償い、贖い、和解が自分にはあるという者になりました。私たちが律法の規定を守ることでこれらがあるというのではなく、イエス様を救い主と信じることでこれらがあるという者です。自分では何もしていないのに、なんで?と一瞬あっけに取られます。しかし、自分にあるものをわかるや否や、心と体は強烈な感謝に包まれ、そこから神とイエス様を賛美する心が起こります。ちょうど律法のもとにではなくイエス様のもとに戻ったサマリア人のようにです。神を賛美する心も、神の意思に沿うように生きようと志向する自由な心もこの感謝から出てくるのです。その意味でサマリア人の行動には来るべきキリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後の信仰者はどう立ち振る舞うかをこのサマリア人を例にして前もって教えているのです。
先日、ある教会員の方とお話しする機会があって、いろいろ大変なことがあった人生だったが、今は大分落ち着いて毎晩一日を振り返って一つ一つのことに神さまの良い御心が働いていたことがわかり、感謝に満たされて床につくことができるようになったとおっしゃっていました。素晴らしいことだと思いました。多くの人にとって平穏無事は当たり前になってしまって、特に神に感謝することではなくなっていることが多いからです。後で本説教を準備して、あの時、言っておけば良かったということが出てきました。それは、たとえ平穏無事が離れてしまう時があっても、償い、贖い、和解がある限り、離れない平穏無事を私たちは持っているということです。人間の目では平穏無事はなくても、神の目で見える平穏無事を持っているのです。だから、いつどこででも神に感謝するのは当然であり相応しいことなのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと、健康になりなさい、というふうになって、これから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。
萩(Hagi)
<風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」 ヨハネ3:8>
以前、家の周囲の萩が今年は不作とお伝えしました。しかし此処、白州では萩が見事に咲いていました。古来より万葉人も愛した萩は矢張り美しいですね。風に靡く姿は歌にも歌われてきました。標高の高い清泉寮の辺りでは既に花も終わり綺麗な黄葉となって高原を吹く風に靡いていました。
(秋の野に咲ける秋萩 秋風に靡ける上に秋の露置けり 大伴家持 万葉集8-1597)
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」9月29日の日課から
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 創世記28章15節
この神自身が語られ、ヤコブを祝福した御言葉から、我々は目には見えない形で彼がいかなる状態にあったかがわかるのである。神は意味のないことをだらだら口にするおしゃべり屋ではない。ヤコブは酷い苦境に立たされていた。兄が命を狙っていると知るや否や、彼は泥棒のように逃げ去らなければならなかった。まさにこのような危険の中でどこからも助けが来ない状態にあった時、神は共にいて助け守って下さると約束されたのだ。
この出来事が記録されているのは、神はご自分に属する者たちを決して見捨てないということを我々が確信できるためなのである。たとえ全世界が我々に立ち向かって来ようとも、神は共にいて我々を守って下さるのだ。たとえ全てが万事休すでもう沈没するしかないと思われる状態にあっても、神は共におられ、一瞬のうちに我々を危機から掴み出して下さるのだ。それならば、神はもっと早く助けて下さってもよいのではないか、なぜ直ぐ助けて下さらないのか、という疑問が生じるだろう。それは、助けが絶体絶命の時であればあるほど、神は死から救って下さるという恵みと業と言葉は我々にとって身近な真実になり、その通りだと証言できるようになるためなのである。このことは自分で経験しない限り、誰も信じることは出来ない。この神がどんな状況でも共にいて助けて下さるという希望の励ましは誰もが受けられるものではない。全ての被造物から見捨てられ、神以外には助けてくれるものは誰もいないという状況に置かれた時に受けられるのだ。
主日礼拝説教 2025年10月5日(聖霊降臨後第十七主日)スオミ教会
ハバクク1章1~4節、2章1~4節
第二テモテ1章1-14節
ルカ17章5-10節
説教題 「キリスト信仰者にとって信仰の成長とは?」
1.はじめに
本日の福音書の日課の最初は、イエス様の有名な「からし種」のたとえの教えです。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じです。他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。これと似たような話はマタイ17章とマルコ11章にもあります。ただ、それらでは移動するのは桑の木ではなく山です。マルコ11章ではからし種は出てきません。本日の説教は日課に定められているルカ福音書に集中して話を進めます。
からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなのでイエス様の答えを聞くと、お前たちにはからし種一粒ほどの信仰もないから桑の木に命じてもそんなことは起きない、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?
もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。実は、そういうことではないのです。では、どういうことか?以下に見ていきましょう。
2.からし種のたとえ
最初にからし種のたとえを見てみましょう。イエス様は本当に、お前たちにせめてからし種程度の信仰があれば奇跡を起こせるのに、しかし、お前たちにはそれがない、などと言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?
イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。実際にはないが、もしあれば、という意味になります。これは、高校の英文法で習った事実に反することを言う仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。なので、ここは事実に反することではなく、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っているともいないとも言っていないのです。
ところが不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを言っているのです。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろう。しかし、実際にはそんなことを命じないだろうから、桑の木が海に引越すことはないだろう」という意味です。少し複雑になってきたので整理します。
からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。
このようにイエス様は、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長するということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。それで、ここのイエス様の趣旨は次のようになります。「信仰を小さなものから大きなものに成長するからし種のように持てば、例えばの話であるが、ここにある桑の木に海に引越せと命じたら、その通りになるだろう。ただし、これは例えばの話で実際には誰も桑の木にそんなことを命じたりはしないだろう。しかし、他のことで予想を超えたこと普通では考えられないことを起こせるのだ。」
そこで問題になるのが、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神と聖霊が一緒に自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う人にはない「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長しているなどと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。
奇跡の業や「恵みの賜物」は神が決められることで、キリスト信仰者の「信仰の成長」の度合いを測る物差しではありません。そうなると、「信仰の成長」とは何か考えてみないといけません。私は、それは「信仰の中で私たちが成長する」というふうに考えます。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰です。それが成長するのではなく、その信仰の中で私たちが成長するということです。信仰の中で成長するとはどういうことか?それは次に来る、召使いは労われないで当たり前という教えが明らかにしています。次にそれを見てみましょう。
3.労われない召使い
このたとえの教えで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指すからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間が神の意思に従って生きるというのは、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってしまうではないかと言われるかもしれません。
ところが、神は、労いや誉め言葉などなくても私たちは全然平気、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はひとり子を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。
さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、神から罪を赦された者と見なされるようになり、神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この神から与えられた罪の赦しという恵みに留まり、それを手放さないようにしっかり携えて道を歩み続けていくと、かの日、全知全能の神のみ前に立たされる時、大丈夫だ、お前にはやましいところはないと宣せられるのです。本当は、神の御心に沿うことに関しては、失敗だらけ至らないことだらけだったのですが、いつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて、かつて打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにあることを確認してきました。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに覆われて道の歩みを続けることができました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、このように道を歩む人生になるのです。このように歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでかの日には何も心配せずに神のみ前に立つことが出来るのです。
冒頭で自己肯定感について述べましたが、キリスト信仰者の自己肯定感はここにあります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、神のみ前に立たされても大丈夫でいられる、何もやましいことはないと宣せられる。まさにそういう者になれるように神は私にイエス様を贈って下さったのだ。まだ私が神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はその私にイエス様を贈って下さったのだ。
こうしたことがわかると、やるべきことをした後で労われたり誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。ご褒美は一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと宣せられるようになることを神自らがして下さった。全知全能の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ!これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを得られてできる自己肯定感ではありません。別に見返りなんかなくても平気という自己肯定感です。
もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただキリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで全知全能の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。そういうわけで、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきて、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の御心に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらったからです。神が自分のひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それで人間同士の関係の自己肯定感に振り回されずにせいせいした気持ちでいられます。
そうすると、自己肯定感が神との関係からでなくて、人間同士の関係から生まれるものだけに頼ると、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。いつの間にか肝心の自己が周囲の者に造られていってしまうのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちが信仰の中で成長するというのは、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、罪の赦しは揺るがずにあることを確認してまた歩み出すという繰り返しです。それはまた、神の意思に沿うように生きようという思いを新たにすることの繰り返しでもあります。繰り返せば繰り返すほど思いは強くなっていきます。これこそ罪に敵対する生き方です。こうすることで、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になるというのは、復活の日の私たちの有り様を意味しています。
イエス様は、このように信仰の中で成長する私たちには何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があることを述べました。桑の木の海への引越しはあまり現実性のない一例として述べられました。きっとイエス様は教えていた時に、たまたまその辺に生えていた桑の木が目に入って、勢いであんなことを言ったのではないかと思われす。イエス様の教えには聞く人の度肝を抜くような誇張がしばしば見られるからです。桑の木の件は現実性のない一つの例でしたが、イエス様の教えではっきりしていることは、信仰の中で成長していく人には何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があるということです。それが何であるかは人それぞれです。大勢の人の目を引くようなものもあるでしょう。他方では、他の人から見たらあまり大したことじゃないと思われることでも、本人にしてみれば普通だったらありえないことが起こったということもあります。それなので、兄弟姉妹の皆さん、共に礼拝を守り、共に聖餐式に与かって一緒に信仰の中で成長を遂げて行くスオミ教会の皆さんにおかれては、もし、そういうことがあれば、「私の場合は桑の木の海への引越しとは違いますが、こんなことがありました」とお教え下さい。みんなで分かち合って、そのような可能性を与えて下さった神を一緒に賛美しましょう。
(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεにすべきでしょう。
(後注2)εχετε
ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。
最近フィンランド事情(その2)
前回のコラムは、フィンランドの若者の間でキリスト教回帰が見られることについて触れて終わりました。今回はその続きです。
フィンランドは1980年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属する“キリスト教国“だったが、その後キリスト教離れが進み、人口550万人の国で毎年5~6万人が教会を脱退する事態に。現在は60%すれすれまで落ちた。ところが、最近の傾向として10代20代の若者の間で洗礼を受けたり(つまり親が無宗教になっていたため洗礼を受けていなかった)、信仰を告白する者が増加していることが統計的にも明らかになってきている。
例えば、世論調査で「神を信じるか、イエス・キリストの復活を信じるか」という質問に対する十代の子供たちの回答は、2015年で男子27%、女子16%だったが、2019年にはそれぞれ43%、19%に上昇。調査対象は教会に所属する人しない人双方を含む。同じ質問を堅信礼を受けた15歳の子供たち(つまり教会に所属する)にすると、2024年の調査では男子60%、女子43%が信じると出た。
あれっ、堅信礼を受けたのなら、100%信じるのが筋ではないかと思われるのだが、フィンランドではそれだけ堅信礼は形式的な通過儀礼の意味合いが強かったということ。しかし、2019年は男女ともに30%程度だったので、男子は2倍に増えたことになり、信仰告白が真実のものになってきていることは明白。しかも、興味深いのは、いずれの結果も信仰は男子の方が女子よりも多いということと、男子が増えるにつれて女子も後追いしているということだ。
若者の間で”キリスト教回帰”が見られる背景として、コロナ禍やウクライナ戦争(フィンランドは1,300キロに渡ってロシアと国境を接する)のために命や将来に不安を感じて心の支えを求めるようになったという見方をしばしば聞いた。人によっては、この現象は世界各地で見られる若者の”保守化”の傾向の一環と見る人もいるかもしれない。私もそういう面は確かにあると思う。しかし、現在のフィンランドの国教会の状態を見ると、そうとも言い切れないこともあり、一概にそうだとは言えないフィンランド特有の複雑な事情がある。そうしたことについては、いつか別の機会に紹介できればと思っている。
今フィンランドはリンゴやベリーの季節です。今回のメニューは、フィンランドの多くの家庭で作られるリンゴ・ケーキです。リンゴ・ケーキはいくつか種類があり、今回のものは生地にシロップやオートミールを混ぜてしっとり感を持たせます。リンゴも厚切りにし、黒砂糖、シナモン、カルダモンなどのスパイスで味付けしたものを生地の中に押しこんでいきます。そうすることで生地全体の風味が一層リッチに引き立つのです。バニラアイスを添えたりバニラソースをかけて味わえば、お口の中に贅沢感がひろがることうけあい!そんなリンゴ・ケーキをご一緒に作ってみませんか?
参加費は一人1,800円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ! お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1762079899iamg@1762079899arumi1762079899hsoy.1762079899iviap1762079899 まで。