お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
先主日(5月7日)の礼拝説教にて、4つの福音書を文学作品のように読むと信仰にとって問題がある、使徒的伝統に立って読むべきである、ということをお話ししました。どういうことか、コラムの場を借りて説明いたします。
この問題は、神学の中の「釈義学」分野の話です。釈義学とは、聖書中の書物がそれぞれ歴史的にどのように成立したか、また成立時の歴史状況を研究する分野で、旧約釈義学、新約釈義学に別れます。歴史学、批判的文献分析、考古学等とも結びつき「歴史的聖書学」とか単に「聖書学」とも呼ばれます。その研究成果は、聖書の解釈や聖書への向き合い方にさまざまな影響を与えてきました。
1800年代終わりのドイツ語圏の釈義学で、マルコ福音書が一番古い福音書であることが定説となり、同福音書を通して実際のイエスに近づけると考えられて、歴史上のイエスはこうだったという説が数多く現れました。それに対して、福音書を通しても実際のイエスは分からないという見解が強まり、代表的なものはW.ヴレーデ「Das Messiasgeheimnis in den Evangelien」(日本語翻訳見つからず)の、イエスが自分のメシア性を公けにしないように語る記述は福音書著者の創作という説です。この説は、1970年代のH.ライサネンの反論(2つのドイツ語論文)が出るまでは、特にマルコ福音書の解釈において世界中で大きな影響力を持ったと言われます。もう一つは、R.ブルトマンの「Die Geschichte der synoptischen Tradition」(「共観福音書伝承史」という翻訳あり)。福音書中のイエスの教えは、福音書が書かれた時代状況(例えばキリスト教とユダヤ教が反目し合っている状況)で機能するように書かれている。なので福音書の記述をみても実際のイエスはわからないというものです。
1953年にブルトマンの弟子の一人E.ケーゼマンが学会講演で師の教えに挑戦するまで聖書学会は歴史的イエス研究が途絶えた時代と言われています。そのような時代に神学教育を受けた人たちは、福音書をどう読みどう教えたでしょうか?これはイエス様が言われた教えであると堂々と言うのは難しかったのではないか?代わりにマルコの考えは、マタイの考えは、というふうに著者の考え方の分析紹介に重きが行ってしまったことはないでしょうか?イエス様が何か小説の登場人物のように扱われてしまわなかったでしょうか?(続く)
[私たちの父なる神とシュイエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように]
ヨハネ14章15~21節 スオミ教会2023.5,14(日)
「聖霊を与える約束」
今日の聖書はヨハネ福音書14章15~21節であります。まず、13章23節から見ますとここにイエス様は弟子たちに別れの予告をされています。
13:33「子たちよ、今しばらく私はあなた方と共にいる。あなた方は私を捜すだろう。私が行く所にあなた方は来ることができない。」そうすると36節ではシモン・ペトロはイエスに言った「主よ!どこへ行かれるのですか」。イエス様の答えは、こう言われた。14:2~3に「あなた方のために場所を用意しに行く。」行ってあなた方のために場所を用意したら戻って来て、あなた方を私のもとに迎える」。と約束しておられます。6節では、とても大事なことを語られています。イエスは言われた「私は道であり真理であり命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と宣言されています。イエス・キリストこそ、神の国の命そのもの、それは神の真理である。神の国へ行くにはイエス・キリストを通らなければ行けない。イエスこそ道そのものである。と言われました。
こうした展開から、今日のみ言葉である14章15~21節までになります。イエス様が去って行かれた後、弟子たちは世界中に出て行ってイエス様が示された福音伝道の大きな業が出来るようになるために、必要な三つを挙げて説明しておられます。第一は13節から14節で「イエスの名によって願う」祈りの力であります。次に第二は15節から17節まで、でイエス様が去る事によって送られてくる「別の助け主」、つまり真理のみ霊が送られる、と言うこと。それから、第三は18節から21節にかけて、約束されている通りイエス様ご自身が「帰って来る」ので弟子たちを決して孤児にしない、という約束のことです。
さて、第一の13節~14節のところの要点は13節の言葉です。「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光を受けるためである。」イエス様と短い期間、約3年を共に過ごした弟子たちがイエス様が去って行かれた後、全世界に出て行って伝道してゆかねばならない状況がこれから先やって来る、その時弱くて力のない彼らが、どうやって行けるか。そのことを全部見こしてイエス様は「何事でも私の名によって願うなら、私はそれをかなえてあげよう」と約束されているのですから弟子たちはどんなに心強く励まされた事でしょうか。ここでは詳しく申しません。さて、本日の聖書は第二番目14節からであります。「あなた方は私を愛しているならば、私の掟を守る、そういうあなた方に私は父にお願いしよう。そうすると父は別の弁護者を遣わして永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。そういう約束をしてくださっているのです。ここで注意したいことはイエス様は「父にお願いしよう」と言っておられる。その言ってくださるのは何処で言っておられるのか。イエス様が捧げるお願いは地上にいる弟子たちの前🄬のイエス様が天の神様に向かって「助け主を送ってください」と願う、という意味ではありません。
そうではなくして、イエス様が復活して、この地上から昇天して父の右に座して、そして天に於いて神様である父を説得して、その天からみ霊を送るように取り計らってやろう・・・・・という意味であります。その事は16章7節以下を見ますと、はっきりと分かります。「私は本当の事をあなた方に言うが、私が去って行くことはあなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方の所に助け主は来ないだろう。もし、行けばそれをあなた方に遣わそう」。ここで、はっきり説明されているように、「父に願う」というのは、イエスご自身が父のそばまで行って天から助け主を送るようにしていただく。と約束してくださっているのです。ここは非常に神秘的なことが展開しています。天の世界で行われる、霊の中での業が語られている。ですから、地上での事柄ではない。天と地の次元がちがう中の事柄でありますから、もう、ちっぽけなこの世の我々の聞く展開ではないのです。霊のっ世界の秘義に私たちの心が開かれて行く!「父は別に助け主を送ってくださる」とこういわれます。新共同訳の聖書には、父は別の弁護者を遣わして・・・・」というふうに訳してあります。助け主と言った方が分かりやすいと思います。ここで「別に」というのは何に対して「別に」なのかふつうには「あなた方」とは「別」に「助け主」も送ってくれる、という意味に理解します。やがてイエスが弟子のもとを去って行かれます。そうすると、弟子たちは、これから孤軍奮闘して、この世と戦い悪魔と戦って行かなければなりません。”でも心配するな!君たちは一人ぽっちで戦うのじゃない、君たちとは「別に」助け主が送られてくるんだから・・・”というように理解するわけです。ところが、もう一つの考えがありまして、それは、イエスとは「別に」代わりの助け主が送られてくる。というように理解するわけです。間もなくイエスは弟子たちのもとから去って行かれます。助け主はいなくなってしまいます。”しかし、心配することはない、私とは「別に」助け主がっちゃんとついてくれる”というふうに理解する方が良い。そのように送られてくる「助け主」は17節で「心理のみ霊」つまり真理を伝えるみ霊であると言われます。イエス様は」既に6節のところで、実は私がその真理である、とおっしゃっていたのです。ですから、ここで約束されている別の助け主、すなわち真理を伝えるみ霊とは、真理そのものであられるイエス様を弟子に伝えるみ霊なのです。そういう意味からみてもイエス去ってゆくがイエスとは別にイエスを伝えるみ霊がちゃんと、あなた方の所へ来る、ということです。
これには一つの事が必要であります。すなわち、今までの、生前のイエス様も「助け主」であった。ということです。
ヨハネの第一の手紙2章1節に、同じ言葉を使って昇天なさったイエスが助け主である。と言っています。「私の子たちよ、これらの事を書きおくるのは、あなた方が罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには私たちの助け主、すなわち義なるイエス・キリストがおられる」ここでは「天に昇られた栄光のキリストが、いま助け主であり給う・」とあります。ところで、ここで「助け主」と訳されている言葉は、どういう意味なのだろうか。非常に難しい言葉といわれます。
ギリシャ語で「パラクレートス」と呼ばれていますが、その本来の意味は「傍らに呼びよせる者」と昔のキリスト教の教父たちは、そのように理解していた、というのです。「パラ」というのは「傍らに」、「クレートス」とは「呼びよせる者」つまり、しょげ返って悲しんでいる人を、傍らに呼びよせて元気をつけてやる、という意味です。そういうことで慰め主というように説明しています。
今日のギリシャ語の言語学の研究では「呼びよせる」という意味ではなくて、受け身の形をとると「傍らに呼びよせられる者」と考えられてきたようです。よく分かるように言うと罪を犯した罪人が裁かれる裁判、法廷の場面で「お前はこういう罪を犯したじゃないか」と言われると、確かにもう浮かぶ瀬もありません。が、その時イエスが傍らに呼びよせられて、つまり今の言葉で「弁護士」となってくださる。被告のために力となって下さる。そういう者をパラクレートスと言うのです。ですから、新共同訳聖書には弁護者となっています。(ヨハネ第1・2章には弁護者キリストの事が詳しく記されています。)今日の新しい訳では「ヘルパー」とか「フレンド」というように呼ばれているようです。
イエス様の弟子たちは助け主としての友を困った時に呼んだのでしょう。しかし、今日2000年の時を超えて日本という国の中で私たちは目に見えませんが、いつでも「主よ」と助け主イエス様を呼び寄せる事ができる。最後に18節~21節までにイエスご自身が又帰って来ると約束されています。「私はあなた方を捨てて、孤児とはしない、あなた方のところに帰って来る」という約束です。
イエス様がここで「あなた方を孤児とはしない」と、まるでご自分が弟子たちの父であるかのように語っておられるのは珍しい事です。イエス様は既に13章33節でも、この晩餐に連なっている11人の弟子たちに「子たちよ」と呼びかけなさっていました、からここでは珍しくご自分がお父さんの立場から弟子たちを、その可愛い坊やたちに言っていらっしゃるのです。そういう意味から言って
”私がいなくなるために、あなた方が父親を失った孤児のような可哀そうな目に会うようにはさせない、と言っておられるわけです。では、イエス様が「帰って来る」と言って下さっているのは、いつ、どのようにして帰って来られるのでしょうか。20節を見ますと「その日には私は私の父におり、あなた方は私におり、又私があなた方におることが分かるであろう」と言われています。その日という表現は旧約聖書では、メシアが現れる終わりの時を表す用語でありますので文句なくイエス様が帰って来られるのは終末的な再臨のことだ、と沢山の教父たちが考えました。アウグスティヌスのように主にラテン語で勉強する教父たちは、こう唱えてきたわけです。しかし、そうじゃなくて21節の最後に「その人に、私自身を表すであろう」と言っておられるのですから終末の再臨の時なら、その人に表し、あの人に表さない、なんてのじゃなく全ての人の一瞬に見えるようになるのじゃないか。「その人に表す」とおっしゃるからには、終末の再臨の時とは考えられない。また、別の教父たち(クリストモスといった人々)に考えではイエスが復活された後、弟子たちにあちこちで顕現された、そのことを言われたのではないか、しかし、これも弟子たちに現れ、、又、いつ消えられるかわからない。イエスがここで約束しておられるのは、もう二度と再び孤児にはしない、帰って来てからもずうっと、あなた方とおり続ける、ということだから違うのではないか、とおもわれます。
結局では何かと言えば、これは16節~17節で約束されておりました、み霊という別の助け主が送られて来る、という形での「イエスが帰って来る」と言われる意味なのだ、ということです。15節から17節までに、み霊が送られて来ることを描く部分とは何かもそっくりそのまま同じ言い方で並行して記されています。
どちらの場合も、これが成就する必要条件があります。イエスを愛し、イエスの戒めを守ることです。15節と21節のどちらにも書いてあります。それから、み霊の場合もイエスの場合も「み霊が送られて来る」、「帰って来る」ということが16節と18節に約束されています。17節と19節を見ますと、その時にどちらの場合もこの世は見ないが弟子たちには見るという区別があります。
その時には、もうずうっと共にいて下さる、という永遠の保証が17節にも21節のどちらにも約束されています。このように結局、同じ条件、同じ結果、同じ出来事を描いています。イエス様はみ霊が送られて来ることに於いて私たちの中に住まわれるのであります。
――――――――――――――――――――◇―――――――――――――――――――
ヨハネは此処に於いて、イエスの復活顕現はひと時の過度的なものであって、本当にイエスが帰って来られるのはペンテコステの日、教会に降った聖霊に於いて教会に主は来てくださるのだ。と約束しているのであります。19節の言葉を、そういう意味で見てみますと「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。私が生きるので、あなた方も生きることになる。」聖霊が働いてくださることによって、イエス・キリストは生きているのである。それが分かるのは21節にあります言葉「私の掟を受け入れ、それを守る人は私を愛する者である。私を愛する人は私の父に愛される。私もその人を愛してその人に私自身を表す。」とあります。このことは私が帰って来て、ずううっとあなた方と一緒にいる、ということなんだ。天の父に愛される者は天のみ国へと召されて後もずうっと永遠の命に生かされるのです。天のみ国では、もう肉体の欲するものは、そこには何もない、霊の世界は魂の世界です。そこで決定的なものは愛であります。私を愛する者は、私の父に愛されるのであります。この世の次元とは全く違う、すでに天のみ国の約束であります。私たちの霊がみ霊を愛する心でないと受け入れることができないでしょう。古代、教父アウグスティヌスも言っています。み霊に於いてイエス様が私たちと共におられ、私たちの内に住み、信仰者としての大いなるみ業を起こして下さるのであります。
アーメン・ハレルヤ
どうか、望みの神が信仰から来る、あらゆる喜びと平安とを、あなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
今回はマクラメのテクニックを使ってフラワー・バスケットを作ります。以前作ったコースターを希望される方はそちらも選べます。マクラメの糸は作るものに合わせます。
マクラメの壁掛けフラワー・バスケットやコースターは可愛らしいインテリアの要素になります。
手芸クラブでは他に自分の好きな編み物をしても大丈夫です。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
材料費は500円~800円です(作るものによって変わります)。
お子さん連れでもどうぞ!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 *protected email* 03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
スオミ・キリスト教会
2023年5月7日 復活節第五主日 主日礼拝説教 スオミ教会
使徒言行録7章55-60節
第一ペトロ2章2-10節
ヨハネ14章1-14節
説教題 「神を信じ主イエスを信ぜよ、さらば心騒ぐことなし」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?
弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。
ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。
2.道の決定版、真理の決定版、命の決定版
イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して神聖な復活の体を持つイエス様がおられるのに相応しい場所、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。そこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。どこに連れて行ってくれるのでしょうか?それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、新しい天と地のもとで新しく始まる世の中にあります。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。
そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれす。つまり、その国では旧い世の不正義の報いが完璧に果たされます。また、そこは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様はこの約束を必ず果たされると信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちを持てるのです。
しかしながら、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に復活に関係する話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。
イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。どういう決定版かというと、創造主の神のもとに至る唯一の道という意味で決定版なのです。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っているなどと誤解する人が出てきます。
このように言うと、人によっては、いや、それはこの福音書を書いたヨハネの考えであって、実際のイエス様はそんな偏狭な考えの持ち主ではないと言う人もいます。そういう人にとって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は実際のイエス様の言行録ではなく、それらを書いた人の限りなくフィクションに近い文学作品なのです。そういう、福音書を見ても実際のイエス様の教えや業は見えてこないという考え方はドイツの有名な聖書学者W.ヴレーデやR.ブルトマンの時代から1980年代まで聖書学会に根強くありました。福音書を文学作品のように扱うと、作者の意図は何かということに関心が行きいろんな解釈が生まれます。人を感心させたり感動させる解釈が注目を集めます。文芸評論みたいになります。ただ、それが実際のイエス様と関係ないことは、福音書は作者の文学作品であるという前提から明らかです。そのような解釈が信仰にとって妥当かどうかは、キリスト信仰の土台である使徒的伝統に照らし合わせてみればすぐわかります。
話がわき道に逸れたので戻ります。イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいいが、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価を受けます。
しかしながら、至福に至る道に関してキリスト教を他の宗教と同列にできない点があることを忘れてはいけません。恐らく多くの宗教では人間はこの世を去ったらあの世に行ってそこからこの世にいる人たちを見守っているというような、この世とあの世が同時併行してあるという見方ではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地再創造があるので同時併行にならないのです。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異なる次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は新しい復活の体を与えられてそこに迎え入れられるという流れになります。もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。それで、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なるのではないかと思われます。他の宗教ではこの世から離れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような何かを行っているという見方があると思われます。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。
道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。
真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理なのです。そしてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、これは真理なのです。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場です。最後の審判が真理であるということです。
次に命の決定版ということについて見てみます。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。
3.父なるみ神と御子は一体
7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践し、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことがわかるようになったのです。
12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?
弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を開きました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。
それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。弟子たちの働きはイエス様が天に上げられた後で本格化します。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。
イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務として祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。
自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者とは神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難に解決を与えて解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。それに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のために、その歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の忍耐が試されるところです。
4.おわりに
イエス様は、心を騒がせるな、神を信じ私を信じなさい、と弟子たちに言われました。そこで、復活が関係する将来のことを話しましたが、まだ十字架と復活の出来事が起きる前です。弟子たちは何のことかわかりませんでした。イエス様はさらに、自分と父なるみ神は一体であることも教えましたが、それもわかりません。そこでイエス様は、言葉で信じることができなければ、イエス様の業のゆえに信じなさい、その業はイエス様と一体である父なるみ神が行うのである、それくらいイエス様と父なるみ神は一体なのであると言います。弟子たちはイエス様の行った数多くの奇跡の業を思い出したのではと思われます。
しかしながら、それで弟子たちが心を騒がせなくなったかどうかはあやしいです。というのは、最後の晩餐の後でイエス様が逮捕されてしまうと、弟子たちは逃げてしまったからです。ペトロに至っては、お前はあいつの弟子だっただろうと聞かれて、あんな人知りませんと3度も答えてしまいました。
ところが、弟子たちが心を騒がせなくなるような真の業がこの後に起こったのです。イエス様の復活がそれです。これこそイエス様と一体である父なるみ神が行う業の中で最高の業でした。復活された主を目撃した弟子たちは一変しました。権力者から、イエスの名を広めたら命はないぞと脅され続けたにもかかわらず、彼らはひるまず恐れず伝道していったのです。それでイエス様が、言葉で信じるのが難しければ業のゆえに信じなさい、と言った時の業とは復活だったことが明らかになりました。このように復活というのは、神がイエス様を通して行う業のなかで一番心を落ち着かせて勇気を与える業なのです。それなので復活の日を目指して歩むこと自体が、心騒がず勇気を持って歩める歩みになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
田口先生の発表された論文「ルターの『ハイデルベルク討論』の十字架の神学から見る『福音は宣教』についての考察」についての紹介と概略の説明がありました。ルター派神学について大変勉強になるお話でした。田口先生の御働きに感謝いたします。
田口先生の許可を得てこの論文のご紹介をいたします。
論文「ルターの「ハイデルベルク討論」の十字架の神学者から見る「宣教は福音」についての考察」の簡単な紹介
2023年4月30日:スオミ教会礼拝後の交わりにて
田口 聖
はじめに
この論文は、聖書から学んだり説教したりする時に、少なくともルター派ではとても大事なこととして「律法と福音とを適切に区別する」という教えがあるのですが、それに従う時に、「宣教は律法」ではなく「宣教は福音」であるということを紹介するものです。初めから難しい言葉が出てきますが、「律法と福音の適切な区別」というのは、ものすごく簡単に言えば、みことばや信仰をどう理解するかということであり、「律法」はもちろん十戒を指すのですが、それを含めて「私たちが神のためにしなければいけないこと、あるいはしてはいけないこと」で、「福音」はその逆で、もちろん十字架の罪の赦しや復活の新しいいのちのことですが、それを含めて「神が私たちのためにしてくださったこと」です。それを正しく区別して聖書を理解することは大事なことで、説教もその区別に基づいて正しくみ言葉を伝えなければなりません。その、みことばや信仰をどう理解するのかの区別は、私たちの信仰の実践、生活や生き方にも関わることです。本当は父子聖霊の恵み(つまり、福音)として教えられなければならないものが、律法に混同されたり、あるいは律法として(つまり逆に)教えられたり理解されたりすると、それはキリスト者の信仰生活に大きく深刻な影響を及ぼします。例えば、礼拝と説教は、キリストの十字架と復活が中心であり、そこで最初に律法で悔い改めに導かれ、悔いるものに罪の赦しと新しいいのちが与えられて、福音の言葉で平安のうちに遣わされていく大事なものです。スオミ教会の礼拝はもちろん、同じような順序と式文に従って行われているルーテル教会の礼拝は基本的はそのようになっているはずです。しかし、礼拝、聖書の言葉が出てきたとしても、律法の行いによって救われるとか、それによって、人間の価値が決まるとか、律法によって生きるように教えられたり、または、キリストが語られても、キリストの十字架や復活が、恵みや平安としてではなく、ただ道徳や立派な行いの従うべき模範や目標としてだけ教えられたり、そうしなければ救われないとかクリスチャンではないなどと教えられたりすると、それは正しく区別されていません。混同されています。そしてそのまま教えられて遣わされた人も、そのように生きるようになると、キリスト者にとってとても大事な、「福音によって救いの確信を与えられ、平安のうちに遣わされる」ではなく、「律法によって、救いの確信なく、重荷を負わされ遣わされる」ことになり、そのように生きることににもなります。もちろん、十戒は大事なことですし、私たちが、従うべきものですが、誤解してはいけないのは、キリスト者は、従わなければいけないから(つまり律法で)、律法に従うのではなく、キリストが十字架と復活で私たちの救いを果たされたから(つまり福音によって)喜んで律法にしたがっていくのがキリスト者の服従であり良い行いです。それは同じ従うでも、180度違う逆の行動です。それは、律法と福音の正しい区別が教えらているかどうか、あるいは、律法によって遣わされているか、それとも、福音によって遣わされているのか、どうかによって変わってくるのです。そのように律法と福音とを正しく区別して教えられ、福音によって歩むことはキリスト者の良い行い、隣人愛、そして、伝道や宣教に関わる大事な問題です。まずこの律法と福音の適切な区別がこの論文の土台にあります。
また言葉についての前置きがもう二つあります。まず「宣教」とありますが、宣教学の言うような厳密な定義づけはしていませんし、伝道と宣教の区別もしていません。さらに言えば、そこには、キリストの実践全体、良い行いや隣人愛まで含まれての、信仰の歩み全体を含んでいます。それは言葉を曖昧にしていると言うことでそうしているのではありません。信仰者にはそれぞれにキリストからの召命(Vocation/教会、社会、家族それぞれの場で)が必ず与えられており、福音によって遣わされる私たちが、福音に生かされ、福音から生まれる信仰生活の、派手でも劇的でもないけれども、ごくありきたりな家族との日常や人間関係、そこにある良い行いや隣人愛の全ては、決して宣教に関係のないことではなく、むしろ関わっており神に用いられており、そこにもキリストの証人としての宣教がある、という前提で用いております。ですから、宣教とあっても、宣教師や牧師だけの働きということではなく、キリスト者の実践全体まで含む書き方となっています。
もう一つ、前置きですが、途中でルターのハイデルベルク討論が取り上げられ、そこに十字架の「神学」とか「神学者」と言う言葉があります。「神学」という、その言葉だけ聞くと、多くの信徒の皆さんは、自分とは関係のない、その言葉は、牧師先生だけの言葉、神学校内だけの言葉だと思うかもしれません。けれども、ルターにとって、神学というのは、キリスト者が、日々、み言葉を通して、信じたり、時に葛藤したり、励まされたり、一喜一憂したり、考えたり、そのように信仰の活動そのものを、神学をしているのだ、と考えます。そのように、聖書の主の声を聞きながら、キリストを信じて、祈ったり、生き、生活し、行動するキリスト者は、皆、神学者であるという意味で述べています。
2、このテーマの経緯
前置きが長くなってしまいましたが、前置きも意味のないことではありません。私は、「宣教は福音である」ということをこの論文で紹介しています。というのも、なぜそのことを紹介したいかと思ったかというと、正直にいうと、そうではない状況が教会にあったことへの長年の苦悩からでした。私は、いわゆる、福音派と呼ばれるグループの中で、その影響を強く受けているルーテル教団の牧師です。
(ちなみに、余談ですが、「福音派」という言葉は、本来は、ルーテル教会のことで、今でもそうかもしれませんが、ヨーロッパ、特に、ドイツなどでも「福音派」というのはルーテル教会のことを指していると、聞いたことがあります。ですから、私の言う「福音派」というのは、いわゆるアメリカ型の福音派のことで、信仰復興運動の流れにある保守的なバプテスト派やホーリネス派やきよめ派のグループのことで、日本の福音派もその流れだと思われます。)
彼らは宣教に熱心です。それはとても良いことです。しかし、その熱心がどこから出ているのかと疑問を持ちました。つまり、福音から生まれているものなのかと。というのも、私たちはよく分かっている通り、キリストの福音は、十字架と復活であり、罪の赦しと新しいいのち、そしてそれはどこまでも恵みであり、キリストが「平安があるように」「安心して行きなさい」と言っているように、信仰は平安と喜びが溢れるものであり、平安と喜びのうちに遣わされていき、平安と喜びで神に仕え人に仕えていき、そこに福音の泉が溢れ出るように(ヨハネ4章14節)私たちの宣教も隣人愛もあるはずです。しかし「福音を伝えなければ伝えなければ」と熱心さはあるのですが、そこに、平安も喜びもない、むしろ、絶えず、「しなければ」「達成しなければ」という重荷と心配と強迫観念があり、目の前に、自分が描いた期待通り、計画通りにことが進まなくなったり、望まない試練や問題に直面すると、犯人探しが始まり、牧師同士、信徒同士、教会同士、牧師から信徒へ、信徒から牧師へ、等々、裁きあいが頻繁に、しかもそうすることが正義であるかのように罪悪感もなく起こります。(逆に彼らが期待する通りにうまくいっている時は、裁きあいは起こりませんが人や人の功績を誇ることが必ず生まれますし、そしてやはりそこにも、活動に参加しなかったり、消極的であった人に、怠け者だとか、敬虔でないとか、等々、裁きや軽蔑が起こります)。それが、彼らの熱心でした。誤解のないように何度も言いますが、熱心なのはとても良いことです。しかし、それが動機や出発点が、「律法から生まれるものなのか、福音から生まれるものなのか」によって180違います。そして、福音はどこまでも平安を生み与えるもの(ヨハネ14章27節、20章19−21節)であり、不安や重荷も決して与えませんし、その不安から生まれる裁きも福音からは生まれないはずです。しかし私は、彼らが「福音、福音、宣教、宣教」と叫びながら、①その福音が与えるはずの平安がないこと(むしろ裁きと批判)、②その平安がないのに、福音を宣教と叫ぶ矛盾(平安を知らないのにどんな平安を伝えるのか?)、③つまり、平安がない熱心であること、④つまり、彼らの熱心や宣教は、福音からではなく律法からであること、⑤それはキリストが伝えている福音と宣教とは異なること、を悟りました。そのように苦悩と疑問の葛藤の苦しい期間があり、ルーテル教会に疑問を持ちましたが、しかし、アメリカのルーテル同胞教団の神学校や、神戸ルーテル神学校で、正しいルーテル教会の神学を学ぶことを通して、少なくともルターやルーテル教会にとっては、宣教は律法ではなく、宣教は福音であるということの理解へと導かれたのでした。そのルターの沢山の教えの中で、助けの一つとなったのが、ルターの「ハイデルベルク討論」でした。
3、ハイデルベルク討論の伝えること:簡単に
ルターが命題を28の命題を掲げ、それを解説する形で書かれています。あくまでもごく簡単な概略ですが、
1)(1〜3命題)律法はどこまでも聖であり有益ですが、人間は堕落し圧倒的な罪人であるがゆえに、自ら律法を果たすことができず、義に進むどころかむしろ反対していくと教えています。ルターは、「神の前」と「人の前」という区別を用いており、「人の前」にどんなに美しく良いように見えるものであっても、罪人の行為は神の前に決して義とするものにはなり得ないと教えています。
2)(4〜12命題)人間の行いと神の行いとの間の明確な違いをルターは述べています。やはり、人の前と神の前の区別に基づいて、人の前における目に見える行いは、 どんなに良く見える、どんなに高く評価されるものであっても、神の前には義とするものではないが、逆に神のわざは、どんなに人間にとって醜く不条理に見えたり思えたりしても、それは、神の矛盾のない永遠の功績であると教えています。
3)(13〜16命題)ここでは自由意志が論じられています。ルター以前もそれ以降も、教会では程度の差こそあれ、自由意志は賛美され、教会では「自己のかぎりをなす者には神は恩恵を拒まない」というアリストテレス倫理学が前提となり教えられていました。今もそうかもしれませんが、「自分の持てる限り一生懸命に行うものに神の祝福や恵みはある」という教えは、ルター以前も以後も、「人の前」では分かりやすく、教えやすく、人を動かしやすい教えでした。しかし、ルターは、1)2)の命題に従って、むしろ「自由意志は罪の虜、奴隷とされている」と述べ、その自由は神に向き、神を信じる自由ではなく、その逆で、ただ神に背を向け反逆する自由であると教えました。
4)(17〜18命題)前半部分のまとめとして、これまでの命題(1〜16)は、ある意味、人が耳を閉ざし聞きたくない認めたくない人間の完全な堕落や自由意志の無力さなど厳しい現実を伝えてきましたが、しかしルターは、それらの命題とその現実は、決して絶望を与えるためではなく、むしろ、律法によって人間はその罪を教えられ神を恐れるようになり、天を見上げることができず、ただ「憐れんでください」というしかできないほどに人を打ち砕き、「神の前」に謙らせる事によってキリストの恵みに出会い平安を受けるようにするためだとまとめます。この前提を踏まえて、本題の十字架の神学者のことをルターは述べて行きます。
5)(19〜22命題)真のキリスト者(真の神学者)の姿であるという十字架の神学者とはどのようなものなのか、それは、その反対である栄光の神学者との比較で述べられています。ここはこの提題の核心部分なので、命題をそのまま載せます。
第19命題 「神の目に見えない本質が「被造物を通して理解されると見なす」者は、神学者と呼ばれるに値しない。(ローマ1:20)」
第20命題 「だが、目に見える神の本質と神が見られる背面が、受難と十字架によって知られると解する者は、神学者と呼ばれるに値する。」
第21命題 「栄光の神学者は悪を善と言い、善を悪という。十字架の神学者は事態をそれが現にある通りにいう。」
第22命題 「神の目に見えない本質が諸処のわざによって理解されると考える知恵は、人間を全く思い上がらせ、全く盲目にし、そして頑なにする。」
そこでは「神の目に見えない本質」を「被造物を通して理解されると見なす」ことができると考える人は、神学者と呼ばれるに値しないとし、それを栄光の神学者と呼びます。逆に、「目に見える神の本質と神が見られる背面」が、「受難と十字架によって知られると解する」人は、神学者と呼ばれるに値するとし、それが十字架の神学者であるといいます。このことは、神学者つまりキリスト者が、神を、あるいは、神の栄光や祝福を、どこに見よう、信じようとするのかの大事な問題を私たちに提起しています。
難しいので説明しますが、ルターは出エジプト記33章18−23節を引用して説明しています。以下、新改訳聖書からの引用ですが、
「18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(新改訳)
モーセは、その目で神を見たいと願いました。ルターはモーセの求めを「あなたの栄光をお示しください」とも訳しています。神の栄光をその目で見たいと願ったのでした。けれども、神は顔を見ることができないといい、ただ「神の背中」「神のうしろ」だけを示したのでした。このモーセの求めは、人間の求めを表しています。人間は、肉の目でその願うまま、思いのままに神を、特にそのはっきりとした「顔を」見たいと思います。つまり、神のわざが肉の目に見える形で(つまりそこに人間の側の願望などの慈善概念を込めて)現されることを期待し、求め、見ようとします。しかし、それは人間中心、人間の願望や期待を中心にして神を目の前に見よう求めることと同じで、神にとってはそれは「死」でした。ルターが言ってきたように、肉の目や知識、その知恵や理性、自由意志では神は知ることはできないのです。
むしろ、神はご自身が示された通りに、しかも神が「わたしが手を退けたら」とある通り、それはモーセが意図した時や方法でも意志でもなく、神が意図した時と方法と神の意志で、神はご自身を啓示され、それでしか人は神を見、知ることはできません。それは名指しで選び出されたモーセであっても、です。人が望まず思い描かず期待もせず、ある意味、愚かにも見え、理性では信じられない、その通り過ぎた後の、神の意志した瞬間のその隙間に見える神の背中にのみ、神はご自身を現したのでした。その「背中」に、はっきりと目で見て神だとわかる「顔」はないように、理性では神を見ることはできません。 そればかりか、人間の意志や決心の先に見ることができるものでもありません。神が手をよけた時でした。しかし、それが神がご自身を啓示するために取られた神の意志であり方法であったのでした。それは人の目には不十分な方法には見えますが、神にあっては、不十分な方法ではなく完全で御心にかなった方法でした。それはキリストを指し示しているのです。神が啓示されたキリストにこそ、そしてキリストを通してこそ、それのみを通して、私たちは神に会うことができるということなのです。事実、キリストは、「私たちに父を見せてほしい。そうすれば満足します」と願ったピリポに「わたしを見たものは父を見たのです」と答えている通りにです(ヨハネ14章8−9節)。
そのことはキリストが世に与えられたことそのものを証ししています。実に、キリストは、人の思いや計画に従って来たのでも、人が期待した通り、願い通り、思い描いた通りに、救い主は世に与えられたのではありませんでした(イザヤ書53章)。実際、キリストは、人が王や救い主が来ると期待するような、王室や貴族の家に生まれたのでもなければ、国中の人に喜ばれて誕生したのでもありませんでした。人が誰も思いもしないような、貧しいナザレの大工の家の、普通の罪深い女性マリヤの胎を通してその聖霊によるいのちを育まれ、ベツレヘムの家畜小屋で生まれました。預言の通りではありましたが、人は誰も思いも期待もしませんでした。マリヤもヨセフも、御使いのメッセージを聞くまでは、不安と恐れしかありませんでした。世の人々も、目に見える繁栄やエルサレムの再興、あるいは、パンを食べて満腹することを期待した人々、つまり、目に見える被造物に神や神の栄光を見ようとした人々は、キリストを受け入れませんでした。期待通りではなかったことに躓き、蔑みました。むしろ信仰へ導かれたのは、神の前に、自分の罪深さを認めさせられただ謙るものや、顔を上げることもできず、憐れんでくださいとしか言うことのできないような、まさに目に見えない、肉の思いが認めたくない、自分の罪を認め、ただただ神の前の憐れみと罪の赦しにすがるものでした。そして、何より十字架と復活の出来事は、人々が拒み、躓き、拒否し、蔑み、絶望するものでした。世の価値観で期待する通りの贖いや救いではありませんでした。人はそんなイエスに、受難に、十字架に、神がいるとか、神の栄光や祝福や恵みがあるとは期待もしませんし思いもしません。人の目に見えることや価値観だけで判断するなら、十字架は敗北であり、絶望なのです。しかし、ここに神の逆説があり、神の変わることのない啓示があります。神はモーセにご自分の背中のみを示し、神が示してたところにしか神の本質を見ることができなかったように、人の前、人の目には、敗北にしか見えない、キリストにこそ、神の御心があり(イザヤ53章)、キリストこそ、神が示された、神の背中、神の栄光であり、そのキリストにこそ救いも、栄光も、救いの祝福も恵みもあるのであり、そこにキリストはおられ、神はおられるのです。
キリスト教信仰の核心は、そのキリストの十字架と復活に神と出会い、キリストに神と神の栄光を見ることであり、その神が示されたキリストにおいてのみ、その救いの恵みは溢れていると言うことなのです。そのようにキリストの十字架と復活に神の栄光を見るものが、十字架の神学者であり、そうではなく、人間中心に、人間の肉の欲求、願望、事前概念や価値観に基づいて、その通りに実際に被造物に(つまり、目に見える形で)起こるところに神はいるとか、神の祝福があると理解する人は栄光の神学者であると言うのです。それは人中心で人基準ですから、自ずと、人が何をしたか何を成し遂げたのかで、神がそこにいる、いない、あるいは、祝福されている、祝福されていない、等々、神や神の祝福や恵みを推測するので、自ずと人間の欲や感情のままに、裁きや蔑みは起こりやすいのです。パリサイ派の人々のように。ですから、それは神(キリスト)中心の神学(Christ-centered)か、人中心の神学(Anthropocentered, humancentered)かの区別でもあります。その区別は、どこまでも聖書の正しい解釈と教えにしっかりと基づいて、理性や文化を考えるか、その逆で、今もよくある、人間の理性や文化に、聖書を従わせ、解釈や教えをどんどん変えていくのかの、問題にも関わってくることでもあります。また、これは幸いな教えでもあり、私たちの目には神がいないかのように思えるところにも、たとえば、目に見える、失敗や挫折、大きな試練や困難、罪の只中や絶望など、人の目にはあたかも神に見捨てられたかのような状況にあっても、キリストはそこにおられないのでも見捨てられたのもなく、そこにこそキリストは居られ、いつでもみことばを通して聖霊によって働いておられるということでもあるのです。
(論文では、新約聖書の箇所、マタイ4章(荒野の三つの誘惑)、ヨハネ3章27〜30節のバプテスマのヨハネの言葉、ルカ18章9〜14節(二人の人の祈り)、ルカ22章以下の弟子たちとキリストのやりとり、使徒言行録を取り上げて、聖書に証されている十字架の神学者を紹介しています。時間が足りないため、時間があるときにぜひ読んでいただけたらと思います。)
6)ルターは、ここで結びとして、十字架の神学者こそ、真の良い行いの実行者となることを述べていて、つまり十字架の福音から生まれる真の実践について論じています。先ほども触れたように、良い行いにせよ、隣人愛にせよ、宣教にせよ、人間の側で、事前概念や願望を、被造物に目で見ようとすると、自ずと律法を動機にした行為に帰結します。神の前の真の良い行いは、そのような律法を動機に、自由意志や人間の側の努力などによって達成しようとするような律法のわざではあり得ません。神の前の、真の良い行いや隣人愛は、律法からではなく、神の目に見える神の本質であり神の見える背中である、イエス・キリストの十字架を通して、キリストご自身から福音を通してくる約束と賜物によって、なされていく神のわざであり、それは律法としての信仰ではなく、 福音としての信仰によるわざであり、神ご自身、キリストご自身が福音を通して行う新しい創造だとルターは結びます。
ですから、ルター以後の改革者たちは(もしかしたらルター派の牧師の中でも)、ルターは信仰義認を強調するが、良い行いを軽んじているとよく批判して、ルター以後のカルヴァンやその他の改革者達や、敬虔主義者達が、ルターの足りないところを完成させたんだと主張したり教えたりします。しかしそれは全くの誤解であり、ルターは、十字架と復活の福音によって生きる十字架の神学者こそ、真の良い行いや隣人愛、そして真の宣教の実行者であり、それこそ真に力強く躍動的であることを教え、むしろその真の良い行いを強調さえしています。そのように、宣教は律法ではなく、福音であるということを、ルターの正しい聖書理解から学ぶことができるのです。
(論文では、栄光の神学者の陥る、人間中心の神理解、それによる、律法と福音の混同によって生じる、様々な現代的な問題に触れています。栄光のすり替え。宣教において何を伝えるか(福音ではなく、人が期待するような、模範、道徳、自己愛の奨励、等々)。人が信条になる。栄光の神学者の隣人愛。数の束縛。などを取り上げておりますが、時間がないので、機会があればぜひ読んでください。)
4、十字架の福音から始まる実践と宣教:三つの転換
最後に、ではどうするかという結論を述べなければなりませんが、私の論文は「こうすればこうなる」というハウツー(方法論)を提示する目的はありません。ただ、福音と十字架の神学者の理解は、見方の転換を与えてくれることを紹介しています。
1)日々の洗礼:
日々の洗礼の理解を紹介しています。大教理問答書のルターの言葉から紹介しています。以下、一部引用です。
「洗礼は~生涯を通して私たちの内部に行われるべき事がらであり、したがって、キリスト者の生涯とは、一度、開始せられるや、絶えず続けられていくべき日毎の洗礼に他ならない。古いアダムにつけるものが常に除かれ、新しい人に属するものが現れてくるように、絶え間無くなされなけばならない。〜私がかく言うのは、私たちが長い間、思い違いしていた考えに陥らないためである。これまでは「洗礼はもう済んでしまったのだ。だから、再び墜ちた後ではもう二度と役立てることはできない」と言う風に、間違って考えられていた。これは洗礼を単にかつて起こったわざとしか見ないところからくる考えである。そしてそれは確かに聖ヒエロニムスが「懺悔は、私達がキリスト教界に入った時、乗り込んで航海して行く、船が難破した後の第二の板切れで、私達がこれにすがって泳ぎきり、岸辺につかなければならない」と記しているところに 誤解の原因がある。この言葉によって、洗礼の「正しい」用い方は止み、洗礼 はもはや私達を益することのできないものとなってしまった。だからこの言葉 は正当ではない。なぜなら、この船は(すでに述べたように)神の秩序であって、私達のものではないゆえに、決して難破をすることはないからである。けれども私達が滑って船から落ちるということはもちろんありうる。だから、船から落ちたその場合には船に泳ぎ着き、これに取り付いて、再び乗り込み、先 に開始した通りにこの船で航海を続けるように心がけるべきである。」
このようにルターは、キリスト者の歩みは、日々、キリストの十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちを受ける、日毎の洗礼であることを教えています。洗礼の日で、洗礼は終わったのではなく、私たちはむしろ、日毎に、律法を通して罪を示され、悔い改めによって、水に沈められ死に、水からあげられ新しく生かされる、その繰り返しであることを述べています。ですから、教会で、洗礼を受けるまではお客さんのように優しく親切にされるけれど、会員になるといきなり、教会の対応が180度変わり、あれこれと律法を強いられ、その矛盾のゆえに信仰生活が続いていかない人が多いという問題のように、主の恵みは、洗礼の日までで、洗礼を受けた後は、律法の日々が始まると言うような教会生活は、キリストの教えではないと言えます。そうではなく、日々の洗礼によって、日々平安があり、福音と平安のうちに遣わされていくことに、福音を動機とした、福音から生まれる「真のキリストの証人の日々」があるのであり、そのように、宣教は、日々、罪の赦しの福音に生かされることから生まれる、素晴らしいものだということなのです。
2)聖化の正しい理解
聖化の理解の転換を紹介しています。きちんとしたルーテル教会の教えが教えられている教会では触れなくても良い部分かもしれませんが、ルーテル教会以外の、律法的に人間の協力や努力で実現する聖化や、目に見える人間の期待する律法的行いの成長を聖化と見るとか、特定の時と現象によって(特別な第二の回心を経験する等々)目に見える変化などを強調する聖化の教え、等々の影響が強い状況を踏まえて、この聖化の理解の転換を取り上げ触れています。ルター派の聖化は、小教理問答書にもある通り、義認にある聖化であり、日々の洗礼に重なるように、日々、悔い改め、日々、福音によって 新しくされることの、日々の繰り返しによって、すでに、聖化は日々進行していると言う理解です。つまりそれは栄光の神学者のように、目に見える形で、右肩あがりで年々、いい人間になっていくとか、何かを人に感動を与えたり目立って取り上げられるような劇的な変化や経験があったとか、聖人になったかのように罪を犯さなくなったとか、何か聖化がそのような人間の価値観中心の判断基準で測られるようなものではなく、どこまでもイエスが、福音と聖霊の働きにおいて日々、私たちの信仰のうちに進行しているのが聖化であり、キリスト者は、十字架と復活の福音にあって信仰に生きるなら、皆、聖化にあるのであり、それは重荷としてではなく、平安と希望の聖化なのです。
3)神が仕える礼拝(Gottesdienst/Divine Service)
礼拝の理解の転換を紹介しています。この部分も、スオミ教会では当たり前のことかもしれませんが、栄光の神学者の礼拝は、人中心の律法的な理解ゆえに、人が神のために、人が思い描くように何か目に見える成果を期待して、組織や自分のために礼拝をささげる傾向にあり、教会や宣教の考え方同様に、礼拝は、聖餐なども含めて、人が神のためにたてあげるものであり、その期待も、人間的な事前概念に基づいた期待であり、ゆえに説教も「神が何を語り何を伝えているか」(神中心)、ではなく、人のニーズや価値観に応えるようなもの(人中心)になります。しかし、十字架の神学者を土台とした真の礼拝はその逆です。人がまず神に仕えるではなく、神が私たちに仕えてくださるというのが真の礼拝です(ルカ2章、マタイ2章:最初の礼拝者、ヨハネ5章17節、マルコ2章27−28節、マルコ10章45節、使徒17章24−25節、創世記22章、詩篇51篇17節、ヨハネ4章23−24節、ルカ10章42節、ヨハネ21章)。「宣教は福音」は、何より礼拝そのものにも貫かれ、礼拝から始まるのですが、それは「人が神に仕える」の礼拝 ではなく、「神が私達に仕える」礼拝(Gottesdienst:Divine Service)であり、神が私たちにまず仕えてくださりキリストがみ言葉で私たちに仕えてくださり与えてくださるものを受け、平安のうちに遣わされるからこそ、平安と喜びに満ちた真の宣教になり、宣教は福音になるのです。
5、終わりに
「宣教は律法」では実は、「福音を宣教する」とどれだけ素晴らしいスローガンを掲げ、それをどんなに熱心におこなっても、結局は、矛盾を感じ、平安のない生活と律法的な組織活動になります。罪の赦しと新しいいのちを与え、神の前に義とされ平安のうちに遣わすのは福音だけであるので、律法を動機にし、律法を目的に、律法に駆り立てられても、それは結局、人間の力や意思にかかってしまうので、人の前では合理的であったり、うまくいくことがあったり、見た目や人間の基準で成功することがあっても、それは人の結ぶ実以上ではなく、神の前や救いや義に関わることでは、平安はなく、日々の生活はもちろん、宣教にも平安はありません。挙句の果てに、平安を伝えるどころか、宣教を声高に叫ぶその中に、裁きあいや人を誇ることが溢れるという矛盾と更なる重荷が生じるだけです。そうではありません。「宣教は福音」です。キリスト者は、キリストによる十字架の罪の赦しと日々新しくしてくださる復活の福音によって平安のうちに遣わされてこそ、真の歩み、実践があるのです。
ルカによる福音書24章13〜35節
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「はじめに」
イエス様の復活は、ご自身が既に約束されていた通りに、死んで葬られてから三日目の日の朝に起こりました。ところがその時、弟子たちは、イエスが言われた通りになるだろう、つまり復活するだろう、と堅く信じて待っていたわけでもなければ、復活の後もすぐにそれを信じたわけではありませんでした。それはこの前の12節までのところでもそうでした。最初は、婦人たちが、墓にイエス様の遺体がないのを見つけます。そんな彼女たちが途方に暮れているところに御使いが現れ言います。「イエスはよみがえったのです。イエスがかつてよみがえるといったことを思い出しなさい」と。彼女たちは、その言葉によって、イエス様の言葉を思い出して、イエス様は本当によみがえったのだと信じるのです。そして彼女たちは、その良い知らせを伝えるために、急いで弟子たちのところに走ります。しかしその知らせを聞いても、それでも使徒たちは、11節「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように、その時はまだ、彼女たちの話を信じなかった、つまり、イエス様の復活を信じなかったのでした。
もちろんこの後、彼らはイエス様の復活を信じます。しかし、大事な点ですが、このキリスト教信仰の核心である、イエス様の復活の事実を信じるということ、それは、この女性たちも、5−8節で、御使いから、
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」5−8節
と言う言葉を受けて、それから「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」ともあるよう、彼ら彼女たちは、自分たちの力や、意思や、理性で信じることができたのではなく、まさに、御使いの告げるイエスのみ言葉と、み言葉に働く聖霊によって、そのイエスの言葉を思い出させられることによって信じるように導かれたのでした。そのように、「信仰」というのは、決して律法ではない、つまり、私たちの、行いや力や努力や決心で「信じなければいけない」、ではなくて、むしろ全くその逆、信仰はどこまでも福音である。つまり、神からの恵み、賜物、み言葉を通しての導きと働きとしての信仰であるのだということを、このところは私たちに伝えています。そのことは、単純で当たり前のようでありながら、しかし同時に私たちクリスチャンが一番誤解し、逸れていきやすいところであり、だからこそ何度も繰り返し教えられ、立ち返らされる福音の核心なのです。今日はそのことを見ていきますが、13節から見ていきましょう。
2、「エルサレムに背を向け」
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
13節
とあります。女性たちが伝えに来たその同じ日、二人の弟子が、60スタディオンという距離、それは、エルサレムから11キロという距離ですが、エマオという村に向かっていました。この二人の弟子については一人は18節にある通り、クレオパという弟子です。彼らは、エルサレムに背を向け離れようとしていました。14節を見ますと、彼らは二人で「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。どの出来事かというと、この後、書かれているのですが、イエス様が二人のもとに現れます。しかし、二人はそれがイエスであると気づかずに、その論じ合っている内容をイエスに話しています。それは19〜24節にある通り、この二人は、十字架の出来事だけでなく、その日の朝の出来事、つまり、女性たちが墓に行ったら、重い石の蓋が開いていて、中にはイエスの遺体がなかったこと、そして御使たちからの言葉を受けたことまでも、話しているのがわかるでしょう。
しかしこの二人は、「それでも」エルサレムに背を向け離れていこうとするのです。11節で、弟子たちは女性たちの言うことを信じなかったことが書かれていますが、正しく、この二人も信じなかった弟子達であったのです。事実、23節、新改訳聖書や英語のESVバイブルを見ると、彼らの説明で女性たちは「御使たちの幻を見た」と言っていることがわかります。二人にとっては彼女達が見たのは「幻」だったのです。女性たちは「幻」ではなく、事実「御使い」を見たと伝えたはずなのにです。つまり信じていないのです。それだけでなく、この二人の明るい平安な思い、ではなく、沈んだ思いもここには現れています。まず、17節に「二人は暗い顔をして」と彼らの心の内、感情を表している言葉です。決して喜ばしい状況で、エマオに向かっていたのではないことがわかります。暗い顔つきで二人は、イエスの十字架からその日の朝の出来事まで語っていたのでした。さらに、イエスについては19節で、あたかも、もはや過去のこととして「預言者でした」とあります。21節でも二人は「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」という言い方をしているでしょう。このところは、新改訳聖書の方は「イスラエルを贖ってくださると望みをかけていた」とも訳されています。つまり、事実、イエス様による「イスラエルの贖い」は、十字架で完全に果たされたのですが、しかし、この二人にとっては、イエスの十字架は、躓きとなり、彼らにとっては、イエス様の十字架という結末は、彼らの期待していた解放や贖いの形ではなかったのでした。まさしく、彼らは、「政治的な解放」としか思っていなかったということを窺い知ることができます。何より「望みをかけていました」とやはり、もはや過去のことなのです。二人にとっては、その望みは過去のこと、そして、望みではなく失望に終わったということが暗い顔に現れているのです。ですから、女性たちの復活の知らせも「たわごと」のように思えて当然なのです。彼らは、まさに暗い顔つきで、望みを失って、イエスがよみがえったという女性達の知らせにもかかわらず、あえて、その復活の約束のエルサレムを離れエマオに向かっているのです。何より、後でそんな二人に発するイエス様の言葉が、彼らのその信じない頑なさを表しているのがわかります。25節にこうあります。
「すると、イエスは言われた。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
25節
イエス様はそのようにいうのです。
3、「人間の現実:自ら信じることはできない」
復活の良い知らせ。その新しさ。新しいいのち。それはまさに福音の真髄であり、そこにキリスト教の信仰も教会も始まっていますし、使徒達たちも全ての弟子達、キリスト者達も、その十字架と復活を福音として世界に伝えていきました。しかし、今日のところではっきりと伝えられているように、その素晴らしい福音を、復活を、自ら、自分の力で「信じる」ことにおいて、弟子たちはみな無力であることがはっきりとわかります。自分たちの力や理性や意志の力では、誰も決して信じることができなかったのです。イエスが前もって伝えていたことであったとしても、そして、女性たちが見て喜びをもって伝えたことであっても、彼らは信じることができませんでした。これは人間の、つまり私たちの紛れもない、否定できない、神の前の現実を伝えている大事な事実の記録です。つまり「信仰、信仰」と、聖書も教会も最も大事だと言うけれども、その「信仰」というのは、決して、私たちの側から、私たちにある私たちの肉の性質から出る力のわざ、行い、努力でも、意思の力でもないと言うことです。むしろそれはできません。誰一人できませんでした。誰一人、信じられませんでした。女性たちとて、最初は、遺体に香油を塗るために墓に行っていました。復活を期待して墓に行ったのでもありません。墓が空っぽでも、彼女らは途方にくれるだけでしたし、御使いを見ても恐れるだけでした。そんな彼女たちは、主が遣わした御使いの方から、イエスが言ったことを、もう一度語ってくださり、その言葉を思い出しなさいと、導かれることによって、そのイエスのみ言葉を思い出して、イエスはよみがえったのだと、初めて悟ったでしょう。悟らされたのです。つまり、人間の側からでは決してない、どこまでも主からの、主のみことばの働きと導きがあってこその、「信じる」であったでしょう。主から与えられた信仰であったのでした。
この信じることができない、頑なな心の弟子たちの姿は、まさにそれこそ「人間のありのまま」を示しています。主イエスがいなければ、み言葉がなければ、主に導かれなければ、主の介入がなければ、誰も信じることができません。むしろ、どこまでも疑う。どこまでも背を向ける。そんな罪深い頑なな心の人間の現実こそ、真の人の「ありのまま」の現実なのです。
4、「主イエスの方から」
しかしそんな二人に対して、まさに「主イエス様の方から」働かれているではありませんか。まず15節です。
「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
15−16節
A,「近づいて、話しかけられる」
「イエスご自身が『近づいて来て』」とあるでしょう。「イエス様の方から」二人のところに来られ、そしてイエス様の方から二人と一緒に、ともに道を歩き始められているでしょう。「イエスの方から」なのです。むしろ、二人はそれがイエスだとわかりません。さらに、イエス様はただ来ただけではありません。「イエスの方から」話しかけられています。17節「イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。」とあります。そして先ほども引用した25節の言葉で、確かに、イエス様は二人の不信仰さと頑なな心を嘆いてはいます。しかし、どうでしょうか。イエス様はそのまま嘆いたまま、彼らを裁くためだけ、嘆いて終わるだけのために、来られたのではないということが、ここでもはっきりとわかります。そのように不信仰で、分からない二人に対して、イエス様はこう続けています。
B,「何度でも繰り返し教える」
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
26−27節
どうでしょうか。イエス様は、その二人が分からないからこそ、何度でも、聖書を、み言葉を、説き明かし、教えているでしょう。もちろん、これまでもイエス様は弟子達に「モーセおよび全ての預言者から始めて、聖書全体の中から」「彼らに説き明かされ」てきたことでしょう。事実、復活のことも十字架の前に、予め約束し伝えていたことです。しかしそれでも信じなかった、女性たちから復活の良い知らせを受けてもそれでもエルサレムを離れようとした、そんな二人を、イエス様は叱るのでもない、裁くのでもない、罰するのでもない、見捨てるのでもありません。み言葉から何度でも優しく教えているではありませんか。そして彼らは後で気づいているでしょう。
5、「信仰は律法ではない」
「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
32節
と。このようにイエス様は、あんなに教えたのに、伝えたのに、それでも分からない、信じない、背を向けるそんな二人のためにこそ、イエスの方から来られ、聖書から何度でも話し、教え、説教をし、心を燃やしてくださる方だと分かるのです。ですから、皆さん。誤解しないでください。「まず私たちの方で、聖書の全て、信仰の全てがわかるから、信仰がいつでも完全であるから、なんでも自分の強い意志と力で神の命令に完全に従えるから、あるいは、罪も犯さず立派に生き、証ができているから、だから、自分には信仰があるんだ、信仰は立派なんだ、そのように自分の何かや自分の完全さで信仰を立派だと誇れるから、礼拝に集う資格がある、だから、み言葉を聞く資格がある、聖餐に与る資格がある、クリスチャンになることができる、立派なクリスチャンなんだ」、と、クリスチャンは考えるかもしれませんし、ある教会ではそう教えるかもしれません。しかし、これは完全に間違いです。それは、せっかくイエス様が私たちに与えてくださった素晴らしい福音の賜物、平安のための喜びの信仰を、律法にし、重荷にしてしまっています。イエス様の恵みの働き、福音の力を、自分の手柄や功績にしてしまっています。それは何より私たちに平安がなくなるし、どこまでも重荷でもあるし、神の前に傲慢でもあります。みなさん、信仰は、そうではありません。
6、「信仰は福音」
A、「信仰は神がみ言葉を通して与える恵み」
皆さん。むしろ、私たちの日々は、第一の聖書日課にあるように、ペンテコステの日の朝に律法と福音の説教を聞いた人々のように、聖書の律法の言葉から自分の罪を責められ毎日刺し通される(新改訳)、悔い改めに導かれる日々ではないでしょうか。私自身がそうです。しかし、私たちの救い主イエス様は、律法で指し通して重荷を負わせるために来た方ではないでしょう。日々、悔い改めてもまた肉の弱さを覚え、何度でも罪を悔い、そのように、私たちがどこまでも弱さを覚えさせられるからこそ、罪深さを覚えるからこそ、信仰の弱さを覚えるからこそ、そして、何度教えられても、わかならないからこそ、まさにエマオへ向かう二人に現れたように、イエス様は毎週、この私たちのために語りかけられ、平安を与えてくださる、聖なる安息日、礼拝を備え、み言葉を語って、何度でも解き明かし、教えてくださっているのだということをこのところは教えているのではないでしょうか。
B、「礼拝も律法ではなく福音(「人が仕える」ではなく、神が仕えてくださる)」
だからこそ、礼拝も、聖書のみ言葉も、聖餐式もそのためのものです。礼拝は、神であるイエス様が、弱く不完全な私たちのためにこそ、備えてくださっており、私たちが神に仕えるのではない、神ご自身が私たちのために仕えてくださる、そして悔い改める私たちに、救いの恵みと平安を与える時なのです。それは、何を通してですか?それは、聖書、み言葉を通して、何度でも教えてくださり、何度も刺し通し、そして、何度でも、十字架と復活に立ち返らせ、力づけてくださり、何度でも心を燃やしてくださるのです。だからこそ、信仰も、礼拝も、洗礼も聖餐も、それは決して「まず私たちの方から何かをしなければならない」「律法」では決して、ない。それはどこまでも「イエス様から私たちへの」「福音」であるのです。
この後もそのことは一貫しています。2人は、イエス様から聖書の解き明かしを受けながらエマオに着きます。その時に、目を閉ざされていた二人の目を、イエス様が開くのですが、それはどのようにしてでしょう。
C、「み言葉と、イエスが裂いて与えてくださるものを通して」
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
30節
パンを取り、それを割いて渡したその時、二人は目を開かれます。二人がイエスを招いて泊まらせたのですから、二人が食事のホストでした。しかしイエス様がパンを取って祝福し、裂いて渡された。それはまさにあの最後の晩餐の日の、主の聖餐と同じでした。二人は、いわば、み言葉とそしてこの裂き与えるパンによって目が開かれ、それがイエスだとわかるのです。それもまさに「目が開かれた」ともある通り、どこまでもイエス様の方から、イエス様によって、その言葉とイエスが仕え祝福し与えるものによって導かれている完全な恵みではあることがわかります。そのようにして二人は、32節の彼らの信仰告白に導かれているのです。
D、「福音が証しを生む」
二人は、まさにイエス様の方から現れてくださり、イエス様によって導かれ、イエス様のみ言葉、イエス様の与えるもので、心燃やされ、目が開かれ、復活のイエス様のその働きによって、自分達の信仰もよみがえらせれたことを告白しているのがわかるでしょう。そして最後、31節の「イエスが彼らには見えなくなった」とある言葉も非常に重要な言葉です。
7、「信仰は確信と平安」
A、「見える必要がない」
なぜ「見えなくなるのか」と皆さん、思うのではありませんか?「見えている方がいい」のに「なぜ消えるの?」と思うでしょうか?しかし実は、もはや見えなくなっていいのです。なぜなら、信仰を与えられた人は、もはや見えることに依り頼まなくてもいいからです。たとえイエス様が見えなくなっても、姿が見えなくても、彼らはまた「信じない」になりましたか?なっていないでしょう。もはや信仰が与えられたので、見えなくても、二人は信じています。心は燃えています。見えなくても、イエスはよみがった、生きていると、二人の信仰はイエスを見ているでしょう。信仰が与えられたなら、見えなくてもいいのです。なぜなら聖書の言葉も言っているでしょう。信仰は見える事柄ではなく、「目に見えないものを確信させる」(ヘブル11章1節)素晴らしい天の賜物だからです。
事実、どうでしょう。女性たちと同様に、イエス様から恵みとしてこの二人に与えられた「イエスはよみがえった、生きている」という信仰は、イエスが見えなくなっても、それまでは暗く沈んで望みを失っていた心から180度変わっているでしょう。
B、「証し、宣教も福音」
「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
33−35節
失望のうちにエルサレムを去り、エマオに向かっていた二人ですが、着いてすぐにエルサレムに引き返すのです。そして弟子たちのところに戻ります。イエス様は、その間に、イエスの方から、シモン・ペテロにも現れてくださったようで、弟子たちの間でも、イエス様がよみがえって、自分たちのところに来てくださったことで話が持ちきりでした。この二人の弟子も、同じように、その日のイエス様の恵みの証しをしたのでした。
このように、信仰と同じように、礼拝と同じように、そして、キリストを証しすることも、つまり福音の伝道や宣教も、それは人の力でしなければいけないからする「律法」では決してないということがわかります。どこまでもまず、イエス様の方からの、福音のことば、解き明かし、聖餐の恵みによって、いつでも、繰り返し教えられ、目を開かれ、信仰を与えられ燃やされ、その福音と恵みによって与えらえた信仰こそが、このように「喜び」のうちに再びエルサレムへと向かわせ、つまり、派遣させられ、そのようにして、その口に、イエス様とその福音が、証しと福音の伝道や宣教を溢れさせていることがここにわかります。みなさん、証しすること、福音の伝道も宣教も、とても大事です。しかし、それは、決して律法ではありません。律法の動機による律法の行い、重荷では決してありません。その逆です。福音の証しも伝道も宣教も、それは福音であり、福音を受けるからこそ、福音から生まれ、その恵みと福音から湧き出る信仰と平安と喜びの行動が、このように、伝える、証する、という、証しの原点だということを聖書は私たちに伝えているのです。
8、「結び:派遣の言葉、最後の言葉は、律法ではなく、福音」
皆さん、信仰も証も宣教も、私たちがイエス様から与えられた新しい生き方は、どこまでも福音から生まれ、福音がなす主のわざです。もちろんそこにはまず律法によって教えられ罪を示され、日々、罪を刺し通され死ぬこと、悔い改めが必要です。しかしその律法が私たちを遣わす最後の言葉では決してありません。それでは重荷を負わされ疲れるだけであり、信仰は苦痛でしかなくなるでしょう。しかしそんなことがイエス様が私たちに与えた救いなのですか?イエス様はそんなことをなされないのです。まさにイエス様は、そのように罪を悔いる私たちこそを、十字架と復活の福音で、日々、その罪と死から助け出し、日々、私たちを新しく生まれさせてくださるというのが聖書が伝える真の約束であり恵みなのです。ですから、真のキリスト教会の最後の派遣のことばは、律法ではない。どこまでも福音です。イエス様は福音で私たちを日々、遣わすのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言うイエス様の言葉がイエス様の派遣の言葉なのです。今日もイエス様は、私たちに語ってくださっているのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、今日も、イエス様から福音を受け、重荷ではなく、平安のうちに遣わされましょう。その時に、イエス様は恵みのうちに、私たちをキリストの証人として、豊かに用いてくださり、それこそ真の宣教として、イエス様の御心と計画のうちに、復活の良い知らせ、真の福音が、私たちを通して広がって行くのです。
「聖霊を受けよ」 2023年4月16日(日) スオミ教会説教
ヨハネ20章19~31節
キリスト教信仰の真髄は何であるか、教会の一番大事な中心は神の御子イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架に死んで蘇られたことです。
パウロはコリントの教会への手紙第1:15章3節で「最も大切な事として、私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のため、死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れその後12人に現れたことです。」と書いています。
イエス様は私たちの罪を全部負って身代わりとなって十字架につけられました。その時十字架のもとにいたのは、母マリヤ、そしてマグダラのマリア、他数名の女性たちでした。ほとんどの弟子たちはどこへ行ったのでしょう。3年間共に働いてきた、あの弟子たちは恐ろしくなって逃げたのです。主であるイエス様が捕らえられ十字架で殺された。次は弟子たちも捕らえられ同じように殺される。もう、その恐怖で十字架から逃げたのです。
その後、彼らはどうしたのでしょうか。今日の聖書であるヨハネ福音書は次のように記しています。20章19節から見ますと。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」彼らは恐ろしくて恐ろしくて家中の戸に鍵をかけ外から誰も入れないようにして、密かに震えていたことでしょう。週の初めの夕方、この時イエス様はもう復活されています。朝にマグダラのマリアが墓を訪れていた時、既にイエス様の姿はなかったのです。
マルコ福音書の方では14章4節で、「弟子たちは11人で食卓についている所に復活されたイエス様が現れた。」と正確に書いています。この夕食はもう遅い夕食でした。ルカ福音書によりますと24章に弟子の一人クレオパという人がゴルゴダの丘の十字架の死の出来事を聞いて、あんなに偉大な尊敬していたイエス様が死んでしまわれた。これから、自分はどう生きようか、と失望して自分の故郷のエマオに帰っていた、その道すがら復活されたイエス様が現れ、はじめはイエス様だと分からず夕食を共にしてパンを割く時、パッとわかった。もう、びっくりしてイエス様は蘇っておられる。そのことを他の弟子たちに知らせようとエルサレムに引き返し集まっていた弟子たちに知らせています。ですから、もう相当遅い夕食であったことがわかります。
その夕食の食卓に突然、復活のイエス様が現れて下さった。絶望と恐怖から一転して彼らは大喜びでありました。十字架に死なれた愛するイエス様が蘇って生きておられる。だれもが考えられない奇跡の出来事であります。そうして、20節から見ますと、蘇られたイエス様は弟子たちの中に立ち「安かれ」と言われた。新共同訳には「あなた方に平和があるように」とあります。弟子たちの喜び、騒ぐ心を先ず落ち着かせて「安かれ」と言われたのです。そう言って手と脇腹とをお見せになった。
そうして、弟子たちにこれから、ずうっと一生をかけて死ぬまで、大切な働きを命掛けでしてゆかねばならない。神からの使命を話してゆかれるのでした。この使命は11人の直弟子だけではなく、他の弟子たち全員に語られているのです。もっと言えば、これから後、世界の歴史の中で神の使命を負って福音を宣べ伝えてゆく、すべての教会のキリスト者に向けて語っておられる使命でありました。
イエス様は言われた。「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私も又あなた方を遣わす」そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が許す罪は誰をの罪も許され、あなた方が許さずにおく罪は、そのまま残るであろう。」
―-――-―――――――――――――――――<>――――――――――――――――――
この重大な使命を果たすのには並大抵のことではないでしょう。いくら強い弟子といっても所詮人は弱いものです。「いつも神の平安があるように」と言われたイエス様はご自分の十字架上で受けられた手と脇腹の傷をしかと見せて、死から蘇られたイエス様がいつも一緒にいる。蘇りの主をしかと受けとめて、これからの使命に生きねばならない。この使命は彼らの持てる力では到底やって行けない。だから、イエス様は「聖霊を受けよ」と言われる。「聖霊を受けて、神の力をいただいて行くのだよ」と、言うことです。福音書の中で、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」とお授けになったのは此処だけです。
ルカ福音書と使徒言行録によりますと、この聖霊は約束されていたもので、その聖霊が下るまで、弟子たちは待っていなければならなかった。そして、やがて50日後、あのペンテコステの日にどーんと一度に聖霊が降って、彼らは伝道を始めた、と言われています。ところが、ヨハネ福音書だけは、そうではない。イエス様が復活なさった夜、もう早々と弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけられている。そこで、昔から多くの学者の間でいろいろ言われてきました。一つには此処で「息を吹きかけられた」と言うのは一つの象徴的な真似事であって、本当に聖霊を授けられたわけではない。ペンテコステの日に起こった聖霊降臨を約束するシンボルであった、考える説です。ところが、AD553年の第二コンスタンティノポリス会議に於いて、この考えは退けられました。どうしても、ここで復活の主は息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたからには、確かに聖霊は下ったのである。
では、ペンテコステの日の聖霊降臨とイースターの夜の聖霊とは、どういう関係があるのか、という難しい問題となりました。いろいろな説が出ましたが多くの学者たちの考えている結論を申しますと、ここでヨハネが示していますのは、まさに、あのペンテコステの日に下った、同じ聖霊降臨である。復活された朝、マグダラのマリアが、嬉しさの余りか、イエス様にすがろうとした時、主は言われました。今、私は父の身許に上がって行く・・・上がっている最中である。イエス様の昇天がこの日の朝、既に起こっておりました。弟子たちに夜、現れたイエス様は既に昇天を終えて主となられた、キリストが聖霊を授けておられる。この点でペンテコステと同じであってペンテコステの聖霊降臨は多くの国々から集まっていた人々の上に降った。それまで、待っていなければならなかった。ヨハネはルカの描いた、ペンテコステの聖霊降臨は、もう、復活の日の夜に起こっていた、と教えているのです。つまり、ペンテコステから起こった教会の命は働いていたのです。教会の命と力とはペンテコステの前から主の復活の日から、既に息づいていた、という事をヨハネはここで教えたいのです。この日、弟子たちは主の「手と脇腹」とを見ました。あの、十字架上で流された血と水の脇の傷であります。主が十字架上で血と水を流し給う時、そこから聖霊の水が流れる、という事を象徴的に示しておりました.「手と脇」とを見て、そして十字架の死を終えた主から直ちに弟子たちが聖霊を受けている、という事をヨハネは教えたいわけであります。
旧約聖書、創世記2章7節には、創り主である神様が「土の塵で人を造り、命の息を、その鼻に吹き入れられた」そこで人は生きた者となった。とあります。イエス様が十字架で死なれた後の弟子たちはユダヤ人を恐れて死んだも同然の彼らに、創世記に示されている同じ聖霊の息を吹きかけて、再び新しく造られた者、生きる者とされたのです。死んでいた弟子たちを蘇らせ、弟子たちは新しい命の仕事へと遣わされて行くわけであります。
さて、この聖霊を受けたならば23節にあります、「あなた方が許す罪は、誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」と言われた。これは大変な特権を弟子たちに与えておられる、光栄ある約束です。マタイ福音書では、16章19節でも同じような事が記されています。「私はあなた方に天の国の鍵を授ける、あなた方が地上で繋ぐ事は天上でも繋がれる。あなた方が地上で解く事は、天上でも解かれる」。これは、その後、教会が出来て、教会の規則を定めて行く事になります。地上のあなた方が教会規則を設けると、それが、そのまま天国でも通じます。そこまで、イエス様は権限を与えて言っておられるわけです。
マルコ福音書16章16節を見ますと、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」とあります。ここでは弟子たちが信じた者に洗礼を執行することによって救われる人と、罪に定められる人とをふるい分けてゆく、という約束が語られています。
ルカ福音書の方では、24章47節に、こうあります。「メシアの名によって罪の許しを得させる悔い改めがエルサレムから始まって、諸々の国民に宣べ伝えられる」とあります。三つの福音書で、それぞれニュアンスの違う言い方をしていますが、ヨハネの場合は、もっと大変な言い方です。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残る」。これは単なる教会の規則を作る時、とか洗礼を授ける時の事以上の強い宣言です。そのため、これらの言葉をめぐって教会内で論争されてまいりました。カトリック教会内の司祭の権限をめぐってプロテスタントっとカトリックの解釈に激しい反対が起こったりもしました。
<注意すべき大切な事は>
ここで言われた「誰の罪でも許される」とか「そのまま残される」と、いう受け身の形で語られている、のはユダヤの一つの言い回しであった。ということです。「神様によって赦される」「神様によって留められる」と言うところを「神様」とむき出しに言うのは余りにも畏れ多いいことなので「神様」の部分を隠して遠回しの表現で言われた、ということであります。それで、「あなた方が許す罪」というのはあなた方の力で勝手に赦せる、と言っているのではなくて、あくまでも、それが赦される、とすれば神によって、赦されるのである。又、神によって、そのまま留められるのである。となります。マルコ福音書2章7節の言葉に「神一人の他に誰が罪を赦す事が出来るだろうか」と聖書が明らかに示していいます。
――-―――――――――――――――――<>――――――――――――――――――
このように、ヨハネが強い言葉で宣言しているのは、キリストの弟子たち、或いは現代の教会の福音宣教に遣わされている全ての者に、信仰にある力と希望を与えられているのであります。伝道の困難な中で忍耐と、この世の敵と立ち向かう勇気を与えられているのであります。何度も何度も祈り、何度も聖霊を受けなければならない。アメリカの牧師によって、次のような言葉があります。「キリストに祈り、祈り続けて祈り抜かれると、霊の世界では、たちまち、ふるい立ち色めき立って天使たちや天からの力が反動してキリストは応答されます。」復活されたキリストは天に昇って再び来て死人のように絶望していた弟子たちに直接「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられて最大の使命を宣言されたのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン
今年最初の子ども料理教室は4月8日に開催しました。 春の天候が激しく変わりやすい一週間でしたが、この土曜日の朝は太陽が輝いてちょうど良い暖かさでした。イースター/復活祭の前日でもあるこの日は、みんなでミニ・ピザを作ってイースター・エッグの飾りつけをしました。
子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にピザの生地を作ります。小麦粉の量を計ってボールに入れ、別のボールにお湯、塩、ドライ・イーストを入れてそこに小麦粉を少しずつ加えていきます。子どもたちは楽しそうに生地を捏ねて柔らかい生地が出来上がりました。生地を発酵させる間にトッピングの準備をします。発酵させた生地をテーブルにひっくり返すと、「面白い、おもちみたい!」と驚きの声が聞こえてきました。ピザの生地をちぎって一つ一つ丸くして手や綿棒を使って伸ばしていきます。その上にひき肉などのトッピングをのせてすぐにオーブンに入れて焼き始めます。
ピザを焼いている間にイースターエッグの飾りつけをします。可愛らしい模様のラッピングで卵をくるんでお湯の中に入れると、ラッピングは卵にピタッとくっつきます。くっつく度に「わー不思議!」と声が聞こえてきます。可愛い模様のイースター・エッグが出来上がりました。
ピザの香りが教会中に広がって、ピザはきれいな焼き色がつきました。どんな味になったか楽しみです。
その前にイースター/復活祭の時に何が起こったのかをみんな一緒に聖書のフランネル劇を観ました。イースターの前の週イエス様は私たち人間が救われるために多くの苦しみを受けて死ななければなりませんでした。しかし、次の週の始めの日、日曜日にイエス様は神さまの力で死から復活したのです。イースターの時、私たちはこの出来事を覚えて喜んでお祝いするのです。そしてイエス様を復活させて下さった神さまを感謝するのです。
フランネル劇が終って、みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったピザをいただきましょう!子供たちは黙々と食べることに集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。
♰ ペンティ・マルッティラ SLEYアジア地域コーディネーター
(フィンランド語からの訳)
「キリスト信仰はイエス様の歴史上起きた死と復活に基づきます。自らの死をもって主は罪と死と悪魔の支配を打ち破り勝利しました。キリストの復活は、イエス様を救い主と信じる者全てがかの日に永遠の命へと復活を遂げることの保証です。イエス様が最初に永遠の命に復活されました。キリストのものである者たちがかの日それに倣います。」
『しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』 第一コリント15章20節」
♰ セイヤ&パーヴォ・ヘイッキネン 元スオミ教会SLEY宣教師、 ラハティにて
「フィンランドのルター派教会の復活祭讃美歌の歌詞をもってスオミ教会の皆様にご挨拶申し上げます。
『心怯える多くの人が、あたかもイエス様がまだ墓の中に安置されているかのように、悲しみを心にため込んで通り過ぎていく。多くの人が独りぼっちで希望を失ってため息をついてる。しかし、それは、復活されて私たちと共におられるイエス様が私たちの心を満たす時までのこと。』
私たちの主は本当に死から復活されました。今は喜びの時です!」
♰ ティ―ナ・ラトヴァ-ラスク SLEY宣教師インターネット伝道部門
ミカ・ラトヴァ-ラスク 元SLEY宣教師
(原文は日本語)
「スオミ・キリスト教会の皆様、
主のご復活のお慶びを申し上げます!イエス・キリストが私たち一人ひとりの心に真の平安・生きる喜びと希望を与えられますように。」
♰ パイヴィ&マルッティ・ポウッカ元SLEYスオミ教会宣教師
イエスは生きておられます。ですからキリスト者は希望を持っています。
時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙一1:3-4)
イースターの喜びと希望を皆さんにお祈りいたします!!!
♰ 高木賢 SLEY宣教師インターネット伝道部門
アンナカイサ・タカキ 元SLEYアジア地域コーディネーター、 ヘルシンキにて
スオミ教会の皆さん、イースターおめでとうございます。
神の御子イエス様の十字架の死と復活は私たち人類にとって唯一の罪の赦しであり救いであり揺るがぬ希望です。洗礼を通して神の子どもとされ信仰をもって天の御国への帰り道を終わりまで歩み続けましょう。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)
「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」
(「使徒言行録」4章11〜12節、口語訳)
♰ シルッカ-リーサ&ペッカ・フフティネン 元SLEYスオミ教会宣教師、元SLEY海外伝道局長、元SLEYアジア地域コーディネーター
イースターおめでとうございます。 スオミ教会の兄弟姉妹に久しぶりに会うことが出来ましたことを感謝します。一人一人の上にそして吉村先生とPaivi先生の上にイエスキリストの復活の力と喜びがありますように。 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」コリントの信徒への手紙一 15:54-55