礼拝お休みのお知らせ

礼拝お休みのお知らせ

コロナウイルス感染拡大の危険が増している中、 このたび日本福音ルーテル教会の東教区長より教区内の教会におかれては3月29日と4月5日の礼拝を中止する旨の提案がありました。 スオミ教会としてはこれを受け入れることとしましたので、この二主日の礼拝はお休みとなります。今後、礼拝の動画配信を整えるつもりですが、それまでは聖句の解き明かしである説教はこれまで通り本ホームページに掲載し続けますので、御覧下さいますよう宜しくお願い申し上げます。皆様の健康と生活を父なるみ神が守り導いて下さるよう、お祈り申し上げます。

来週の礼拝:2020年3月29日 四旬節第5主日

聖書   エゼキエル 37:1~14

ローマ   8:6~11

ヨハネ   11:1~45

讃美歌   65 71 316   345

司式  吉村博明 宣教師

説教  吉村博明 宣教師

奏楽        青木千恵   姉

当番

応対

今週の週報のコラムから - 文明国家の尺度

文明国家の尺度

先週フィンランドで新たなコロナウイルス対策が打ち出されたのをインターネットを通してテレビ中継でみました。 マリン首相が記者会見にて発表した内容は、緊急事態立法に基づいて政令を2つ定めるというものでした。一つは、一部例外を除いて学校を閉鎖し、10人以上の集会は禁止するというもの(これに先立って国教会は礼拝および10人以上集まる集会を全て中止しました)。 もう一つは医薬品の流通は政府のコントロール下に置かれるというものでした。首相が最後に力を込めて言ったのは、「今回の措置で国民生活に多大な不便をもたらすことになるが、これは高齢者や病気を抱える弱い立場の人たちを危険から守るためのものであることを覚えて下さい。 強い立場にある人たちは弱い人たちを守るために我慢しなければなりません。」

ウイルス対策の目的をあのような特化した言い方をするというのはどういうことなのだろうかと考えていた時、そういうことだったのかと思わせることがありました。それは、いまだ封鎖状態にある武漢で日記をブログ公開している作家のことが新聞に紹介されていたことです(朝日3月19日夕刊)。彼女が2月24日に書いたものがそれです。

「一つの国が文明国家であるかどうかの尺度は、高層ビルや車の多さや、強大な武器や軍隊や、科学技術の発達や卓越した芸術や、派手な会議や絢爛な花火や、世界各地で豪遊する旅行客の数ではない。唯一の尺度は、弱者にどう接するのか、その態度だ。」

「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んで下さったのです。」(第一コリント8章11節)

2/26 手芸クラブのご報告

 

どんよりとした空模様の中、スオミ教会の手芸クラブは開かれました。

今回はフィンランドからスオミ教会に来られている、
カイヤ・レーナさんも一緒に編み針を進めます。
細い編み棒で、美しい編み地の手袋を編む手元に、見とれてしまいました。

8枚の正方形で作られるルームシューズは、1足作るのに16枚必要で、
2色の毛糸を選び、作り目をして、おぼつかない手つきで編み進めます。
1枚2枚と編み上がるのは嬉しいですね、作業は一段落、そしてティータイムです。

今日は カイヤ・レーナさんから、フィンランドの西部、スウェーデンに続く多島海のお話を、美しい写真と共に聞かせて頂きました。

小学校の先生をされていて、小学生の様子や学校の事、行事などの質問に、丁重に答えていただいたり、最後には、教会中に響き渡る美しい歌声も聞かせて頂きました。

参加の皆様お疲れ様でした。

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カイヤ・レーナさんのお話です。

今日のお話は「新しいことを始めること」についてです。

私は新しいことを始める時には楽しくワクワクして始めますが、ちゃんとうまく出来るかどうかの心配もあります。小さな手芸の作品を作り始めるのは小さなことですが、私たちは生活の中でもっと大きいことを始めます。私自身にとって今回の3週間の日本旅行は今まで経験がない新しいことです。私はこのように長い期間家族から離れた経験がありません。日本に来て少し心配な感じがしました。特に夜一人で知らない場所にいるのは少し恐くて心配です。

私は新しいことを始めると、いつも天の神様に祝福と導きをお祈りします。私が祈り求めることは、私の選ぶ道は神様の御心の通りになること、そして神様が新しいことをする私を助けて下さることです。私は天の神様にいつでも、どこでもお祈りが出来ます。聖書には、神様が私たち人間に約束したことが書いてあります。それは、神様は私たちを導いて下さる、そして助けて下さるという約束です。エレミア30章9節にそのことが書いてあります。「彼らは泣きながら帰って来る。私は彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。」

毎朝新しい一日が始まります。イエス様は私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。私は毎朝仕事に行く前に「主の祈り」をお祈りして一日を始めます。このように自分で祈る言葉を考えなくても、イエス様が教えてくださった「主の祈り」でお祈りしても良いのです。もちろん、私たちは自分の言葉で神様に必要なことをお願いしてもいいし、感謝の祈りも忘れず、神様が私たちに与えて下さった全ての良いことについての感謝も大事です。私たちはこのスオミ教会の手芸クラブやそこで作る新しい作品のことも天の神様に感謝してお祈りにいれることが出来ます。

「ランチタイム小礼拝」のご案内

ランチタイム小礼拝は、コロナウイルスのリスクに鑑みて、コーヒータイムとお弁当持参は当面中止して、小礼拝のみといたします。ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。

毎週木曜日12時15分から15分位の「小礼拝」があります。内容は、讃美歌、短い聖書のメッセージ、祈りです。

「小礼拝」の後は集会スペースを13時半くらいまで開放します。ムーミン・マグカップのコーヒーで一息ついていって下さい。フィンランド風菓子パン”プッラ”やスナック風パイの”カレリア・パイ”も一緒にどうぞ!(300円、コーヒーのみは100円)。
お弁当持参もOKです!

火曜日から金曜日までの13時半から15時まで礼拝堂を開放していますので、静かにお祈りしたい方はご自由にどうぞ。宣教師と一緒にお祈りしたい方はお申し出下さい。

スオミ教会は2019年の9月、新しい場所に移転しました。所在地は、新宿区 早稲田鶴巻町 511-4-106です。Googleマップで見る

説教:木村長政 名誉牧師

コリントの信徒への手紙  11章17節~22節              2020年2月9日(日)

                 「キリストに結ばれて生きる」

 今日の聖書は、前回に続いて、11章17節から22節まで。前回までのところで、パウロは男と女のかぶりものや服についてまで、こまかく、うるさく言ってきました。

 さて、今日の17節から見ますと、がらっと、うって変って、教会内の争いについて語っています。教会生活の中心は、礼拝であるべきである、と、前回でもはっきり示しています。礼拝に集まる、と共に、いっしょの礼拝に招かれ参加することは、すばらしいことであります。

 教会のことを「エクレシア」と言います。この字は呼び出すという字からきています。だから、教会は、召し集められた者の群れである、ということですね。*私たちは、教会で礼拝できる事のありがたさ、特に、昨年と今年の今の大きな変化を身にしみて経験してきました。

 礼拝は、ただの集まりではありません。神のみ前に、正しく集まるための心得が必要となってくるでしょう。それでパウロは、礼拝での服装や髪形や、男と女の位置についてまで「礼拝の秩序」というものを深く考えたわけです。

 ところで、あなた方の集まりを伝え聞くと、その礼拝たるや、召し集められても、結果として、役に立たないことになってしまっている、邪魔になるようでは困る、と言っています。集まりが礼拝であれば、なおさらのことです。その礼拝の中心は聖餐であるからです。

 古代教会と言われる教会では、たびたび集まっては一緒に食事をいたしました。それはイエス様と食事をした事に習ったのでありましょう。一緒に食事することによって、かつてイエス様と共に食事をした時のことを思い出したのです。福音書にはパンの奇跡が6回も書いてあります。だから、ただ集まるのではなく、実は、主と共にいたい、ということでありました。主イエスと、共に食事をしたい、ということでありました。普通の食事のようにみえながら、実は主の晩餐でありました。特に思い出されるのは最後の晩餐であります。

 しかし、主イエス様が、私たちのために十字架につき、甦られ甦るとから言えば、ただ主イエスと共に食事をする、ということではなく、そこで何を食べるか、ということが重要になったのです。主イエス様と共に食事をして、主イエスご自身を食べるということが大切になってくるのであります。それが聖餐であります。このように聖餐では、主ご自身の、復活の主のみ体をいただき、御血を飲むことで主イエス様をおぼえる、そういう礼拝をすることになるのであります。

 人は、自分の熱心や誠実だけで、礼拝ができるものではありません。神の恵みを受け、それを感謝することによってのみ、正しい礼拝ができるのであります。そこに、聖餐を中心にする礼拝の意味があります。

 パウロは、今日の聖書の18節以下を見ますと、「まず第1に、あなた方が教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがある、と聞いています。」第1に問題にされたのは、この教会に紛争があった、ということであります。コリントの教会に紛争があったということは、実はこの手紙のはじめから言われていることでありました。この手紙が書かれる理由であったかも知れません。人間の集まるところ、どこにでも、紛争があることがあたり前なことであります。紛争はたしかにありますが仕方がないことであるかもしれません。

 しかし、パウロは紛争のある事だけを責めたわけではありません。3章でもふれていますように、私はペテロにつくとか、私はパウロにつく、アポロにつくと、色々あったようです。ここで、18節以下でパウロが言っているのは、それまでの見方とちがっています。1つの教会の中で、信仰のちがいがあっては困るにちがいありません。しかし、それだけでなく、聖餐を正しく受けるためには、1つの信仰を持っていなければならないのであります。聖餐は信仰によるもので、儀式が中心ではありません。キリストの救いに対する、誤りのない信仰を持っていることが必要なのであります。

 コリントの教会の中に紛争のあった事は不幸なことにちがいありません。しかし、まことの正しい信仰が明らかにされるためには、信仰がためされ、正しい信仰への戦いもやむをえない場合がある、ということでしょう。なぜなら、それによって本当の信仰、本当の聖餐を行うことができるからであります。その時、礼拝は正しい礼拝になり、教会が「集まる所」という意味が生きてくるからであります。しかし、聖餐を守るためにはまだ大事なことがありました。信仰の一致を説いたパウロは、その後、なおもこう言っています。コリントの教会のあからさまな現状です。

 食事の際、各自が自分の晩餐をかってに食べるので、飢えている人があるかと思えば酔っている人がある、と書いています。これはどういうことでしょう。今日の私たちの教会の聖餐式では想像もつかないことであります。これは、もちろん、まだ教会が確立していない頃の話であります。

 はじめの教会の人々は、主イエスとの食事を思い出し、たびたび集まって食事をしていました。そこには二つのことがありました。1つはもちろん聖餐であります。聖餐において主キリストの御体をいただき、主の御血しおを飲み、そうしてキリストとの交わりを新しくしたい、ということです。もう1つの事がありました。それは、とにかく皆んなが集まって食事をするのが楽しい、ということでありました。まだ会堂がなくて、家の教会で、こうした集まりが行われた。そこでは、色んな混乱も起こりやすい状況もあったでしょう。どうかすると、主の晩餐と自分の晩餐とが区別がつかなくなってしまう、という事が起こったりもしたでしょう。

 教会員が一緒に食事をすることは悪いことではありません。しかし、そういう事が教会を造ると考えたら、それはまちがいでありましょう。始めの頃から、教会は、一緒に集って食事をしました。しかしそれは、人々が主イエスとの食事をなつかしんで、主イエス様をおぼえて行なったものでありました。その食事は、やがて、今日のイメージのような聖餐式のようなものとして確立していったのでありました。ともかく「主イエスとの交わりを保つ」ことが唯一の願いでありました。食べることや飲むことが目的ではありませんでした。それなのに、その事が分からないで食事をした人々があった。その人たちは、飢えている人をほおっておいて食べたり酔っぱらってしまったのでした。その事がよほどひどかったと見えて、33~34節にもくり返して語られています。食べることや飲むことが私たち人間の生きる基本であれば又、一方、みだらな方向へもおちいりやすいことであります。

 信仰はどこまでも主イエス・キリストと共に生きることであります。主との交わりによってだけ生きることができるのであります。だからこそ聖餐が大切なのであります。では人と人との交わりはそこにはないのかというと、そうではありません。キリストとの交わりがあって、そのほかに、互いの交わりがなくてはならないでしょう。

 コリントの教会の実情は、すさまじいものであったとパウロは言って、聖餐の秩序にふれ、聖餐をおろそかにすることは、神の教会そのものを軽んじることになる、とパウロは言うのです。神の教会を軽んじることは、神ご自身を軽んじることになるのです。教会を建てられたのは、ただ、神を信じる者たちをまとめようというのでなく、この教会に入れられることによって、神と結びつくものとせられているからであります。

 教会の基礎となっているものは、キリストによる救いであります。キリストによる救いは、キリストの十字架と復活によることであります。それが聖餐においてあらわされ、聖餐において信仰者に伝えられるのであります。そういう意味で、聖餐こそは教会の中心であり、基礎であります。教会の者になるということは、キリストと結びつく事、キリストと生きる関係を持つことであります。

 コリントの教会の中には、聖餐を軽んじ、教会を混乱させていった。ここには、貧しい者たちをはずかしめた、と言われています。食物の取り合いをして、弱い者である貧しい者たちをはずかしめることになった、というのであります。それは、この混乱の中の1つの出来事であったに過ぎないのでしょうが、この貧しい者を愛し、救いに召された、主イエス・キリストをはずかしめることになるのであります。主イエスの御体と御血しおをいただいた聖餐にあずかって、生かされている貧しい人々がつらい目にあっていることは、復活の主もつらい目にあわされている、ということです。

 主に生かされているものは、主キリストに愛され、教会にあるのであります。つらい目に会い、苦しみのぶじょくの中にあっても、教会の中で、永遠の命にあずかって生きるのであります。

 私たちも、このパウロにふれて、パウロの言葉を聞いて、今、一度、聖餐にあずかるたびに思いを新たにされていきたいものです。           <アーメン>ハレルヤ!

フィンランド・フェスタ・イン・ワセダ開催中止のお知らせ

フィンランド・フェスタ・イン・ワセダ開催中止のお知らせ

厚生労働省は20日、コロナウイルスの感染が拡大しているため、イベントの主催者に対して「開催の必要性を改めて検討するようお願いする」声明を出しました。スオミ教会としても、首都圏各地から大勢の方がいらっしゃることにはリスクがあるので、フェスタの中止はやむを得ないと考えました。誠に残念ですが、ご理解のほど宜しくお願い申し上げます。尚、感染が終息したら、同様なイベントを復活させる予定です。その間、皆様のご健康と生活が守られますようお祈りいたします。


 ご存じでしたか?森と湖の国として知られるフィンランドには実は、ヨーロッパ随一と言われる「多島海」があることを。南西部のトゥルクからバルト海を西に向かって進むと大小さまざまな島がそれこそ気が遠くなるくらいに延々と拡がります。

スオミ・キリスト教会では、トゥルク地方の多島海地域に昔から伝わるパン「サーリストライス・レイパ」のオープンサンドを味わいながら、フィンランドの自然、学校教育や教会事情に触れるひと時「フィンランド・フェスタ・イン・ワセダ」を催します。興味のある方は、どなたでもご参加できます!

2/8 フィンランド家庭料理クラブのご報告

寒い気温でしたが、明るい日射しの土曜日の午後、スオミ教会「家庭料理クラブ」は、ルーネベリ▪ロールケーキを作りました。

最初にお祈りをして始まります。

今回は4組に別れての作業です、レシピの説明を受け、材料の計量をして、軽く柔らかい生地は鉄板に流され、綺麗に焼き上がり、次の作業の巻き込むクリーム作りへ進みます。

完成した4本のロールケーキが冷めるのを待つ間、ヴォイレイパも作りました。

試食会では、楽しいおしゃべりに笑い声が響きました。
一段落した頃、パイヴィ先生から、フィンランドの作家で、お菓子の名前にもなっているルーネベリのお話を聞かせて頂きました。

多くの讃美歌も作られたそうで、機会があったら、ぜひ聞かせて頂きたいと思いました。

参加の皆様お疲れ様でした。

 

2020年2月8日ルーネベリタルトの話

フィンランドでは新年が終わったら、次にお祝いの日になるのは2月5日の「ルーネベリの日」です。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。それでも新年が終わると、ルーネベリタルトがお店で売られることは変わりません。

Albert Edelfelt [Public domain]ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。また、彼は教会のことも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。今フィンランドの教会で使っている賛美歌の中にはルーネベリが書いた賛美歌がまだ21曲のっています。

お祝いをするのが好きだったルーネベリは、50歳になってから毎年誕生日に大きなお祝いをしました。後に彼の誕生日である2月5日は、彼の記念日としてフィンランド全国で祝われるようになりました。現在は彼の誕生日というよりは、フィンランドの文化の日として祝われます。この日にルーネベリが大好きだったルーネベリタルトがオフィシャルなお祝いの会場でも家庭でも出されます。ルーネベルリは小説や詩だけでなく、ルーネベルリタルトも残したと言うことができます。

ルーネベリは、この甘いお菓子を朝食で食べたくらい大好きだったそうです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリタルトはスイスで初めて作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになったのが始まりだと言われています。ルーネベリは甘いお菓子が大好きだったので、奥さんのフレディリカもこのお菓子を作ったそうです。

現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が円筒形で、上にのせるジャムはラズベリージャムです。面白いレシピの一つは、生地にピパルカックを入れるものです。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れて、それで美味しいものが出来るのは素晴らしいことと思います。しかし最近の家庭はピパルカックを昔ほど沢山作らないので、つぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。今日皆さんと一緒に作ったロールケーキはそれです。ロールケーキにはつぶしたピパルカックを使わないで、形もロールケーキですので、新しいタイプのルーネベリのお菓子になりました。

このようにルーネベリタルトはいろいろ変わったバージョンが出来ますが、ルーネベリが書いた詩の中で、時代が変わっても変わらない宝物のことを言っているものがあります。その詩は賛美歌にもなりました(賛美歌183 「On meillä aarre verraton」フィンランド語で聴く)。それを紹介したく思います。この賛美歌は長くて7節までありますが、最初の1節だけを訳して紹介します。

「私たちは宝物を持っている。それは他のものと比べることが出来ない宝物。金よりも価値がある宝物。この宝物を前にしたら宝石など、ただの土のよう。この偉大な宝物は、天の神様がご自分のもとから送って下さる御言葉だ。御言葉を神様は宝物として私たちに与えて下さった。」

この賛美歌はルーネベリが書いた賛美歌の中で最も有名で、最も美しい賛美歌と言われています。この賛美歌で歌われている宝物とは何でしょうか?それはいつまでも永遠に変わらない、神様の御言葉です。ルーネベリは天国に属する御言葉と地上に属する金と宝石を比べます。金と宝石はこの地上がある時だけ存在します。神様の御言葉はこの地上がある時だけでなく、それを超えて天国にまで存在します。このように神様の御言葉は、金や宝石よりも永遠に続くので、それらよりも高い価値があるのです。そして、もう一つ大事なポイントは、神様の御言葉はある限られた人たちに与えられるのではなく、世界中の人たちに与えられる宝物であるということです。

どうして、神様の御言葉は私たちにとって最も高価なものでしょうか?それは、私たちが天と地そして人間を造られた神様のことを知ることができる言葉だからです。聖書を読んだり聞いたりすると、私たちは神様やその独り子イエス様を知ることが出来ます。小教理問答というルターが書いたキリスト教の入門の本があります。フィンランド語でKatekismusと言います。そこで、神様の独り子イエス様を信じて受け入れると神様の子供になれる、それが人生で最も高価なことであると言われています。ルーネベリが書いた賛美歌の意味はとても深いと思います。ルーネベリタルトを食べたり、ルーネベリの名前を聞いたりする時は、この賛美歌の深い意味を思い出しましょう。

交わり

 

本日の礼拝に参加されたフインランドから来日されたカイヤレーナ・ビルヤさんを交えて歓談が持たれました。礼拝の途中できれいな声で歌ってくれた詩編139がとても印象的でした。

説教「キリスト信仰の『幸い』ストーリー」吉村博明 宣教師、マタイにようる福音書5章1-12節、ミカ章6-8節

主日礼拝説教 2020年2月2日 顕現節第4主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 「幸せ」と「幸い」

 本日の福音書の箇所はマタイ5章のイエス様の「山上の説教」の最初の部分です。「山上の説教」はガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(7章29節)。そのように聞く人に強いインパクトを与えた教えでした。2000年後の私たちが読んでもインパクトがあると思います。例えば「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるなしにかかわらず、深い励ましを感じさせます。そうかと思えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも心の中で兄弟を罵ったら同罪であると言います。第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくともふしだらな目で異性を見たら同罪である、などと教えます。そこまで言われたら神の前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と呆れかえられるのではないでしょうか。

このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、励ましや慰めに満ちた心温まる教えもあり、そうかと言えば、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしても聞いた人たちは何か不動の真理が述べられていると気づき、大きな権威を感じました。

 本日の箇所は、「山上の説教」の中で「幸いな人」について教えているところです。「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意しましょう。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」と異なる「幸せ」が意味されています。それでは、「幸い」はどんな「幸せ」でしょうか?一般に、好きなことが出来ることや欲しいものが持てることが幸せなことと考えられるでしょう。その意味で、不足がない状態を幸せと言っていいでしょう。

「幸い」は次元が違います。誤解を恐れずに言えば、欲しいものが持てない時にも好きなことが出来ない時にも失われない幸せです。この世離れした「幸せ」です。聖書の観点で言うと、「幸い」とは創造主の神が「これが人間にとって幸せなのだ」と言っていることです。「幸せ」の方は人間自身が「これが自分にとって幸せだ」と言っていることです。神の目から見た幸せと人間の目から見た幸せということですが、両者は重なる部分もありますが、基準はあくまで神の視点です。

さて、現代のような、あらゆることが人間中心で進む時代に「創造主の神」などを持ち出してその基準に人間を従わせるようなことは流行らないと言われるでしょう。良いこと悪いこと正しいこと間違っていることの判定にもう神など持ち出す必要はない、人間にやりたいようにやらせて何か不都合なことが起きたら軌道修正すればいい、そういうやり方でいけばいいじゃないか、そういう考え方に皆さんなってきているのではないでしょうか?そうなれば、人間が生きる目的は「幸せ」の獲得だけになります。「幸い」などというものは神の余計なおせっかいで、「幸せ」を追求する時の邪魔にさえなります。そうすると、聖書やキリスト信仰というのは実は時代の流れに逆らう反逆児のストーリーではないかと思えるのですが、どうでしょうか?要は、人間は神の前に跪いて祈るのが人間らしいのか、それとも、跪くものなど何もないというのが人間らしいのか、どちらが人間らしいかという問題に行きつくと思います。

 

2.「幸い」のケース・スタディー

 話が広がりすぎました。イエス様の「幸いな人」の教えに戻りましょう。イエス様はどんな人が神の目から見た幸せな人、つまり「幸いな」人であると教えているでしょうか?九つのケースがあります。それぞれについて見ていきましょう。

まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。よく指摘されることですが、この「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳によるドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています(後注1)。どうして日本語訳で「心の貧しい」と訳されたのかはわかりません。「心が貧しい」と言うのは、日本語の辞書を見ると「人格や器量が乏しいさま」とか「考えが狭かったり偏っていたりすること」とか、何か至らない人間を指す言葉です。

それでは「霊的に貧しい」というのはどういうことか?ここから先はルター派の観点で述べていきます。「霊的に貧しい」とは、天地創造の神に対して至らないところがあるということです。さらに大事なことは、その至らなさを自覚しているということです。十戒があるおかげで創造主の神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らし合わせると、自分は神に対して至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。自分はもちろん殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言えば、神のひとり子のイエス様が「山上の説教」で、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えているではないか!神聖な神は人間の外面的な行為のみならず心の奥底まで潔癖かどうか見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた造り主である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、全然なっていない自分に気づき意気消沈する。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。

なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由が言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議な事です。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の前に立たされても大丈夫な者、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと心配する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われる。これは一体どういうことなのでしょうか?これは後で明らかになります。

次に「悲しむ者が幸い」と言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。前の節で言っていた、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。加えて、そういう神との関係でなく、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになるということです。どういうことか、これも後で明らかになります。

次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスπραυςも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えないか?ルターがマリアの品性について言っていることが当てはまると思います。マリアは神を信頼し、神が計画していることは自分の身に起こってもいいという物分かりのいい態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになるかもしれなくても、神は全てに勝る方なので心配しなくてもいいという単純さ、神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純さ、静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入って来ると思います。

そんな柔和な人たちが幸いである理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということも後で明らかになるでしょう。

次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しいということです。神の前に立たされても大丈夫、問題ないという状態です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それなので義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いと言われますが、その理由は「彼らは満たされることになるからだ」と言われます。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。義の欠如の自覚がなく、義に飢えも渇きもない人は満たしてもらえません。それでは、神はどのように義の欠如を満たして下さるのか、これも後で明らかになります。

7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言われます。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに受け入れてもらえるということです。罪を持つのに赦してもらえるということです。どうしたら私たちも赦したり受け入れたりすることが出来るでしょうか?そのことも後で見ていきます。

8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。「心の清い」とは罪の汚れがないということです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。私たちはどうしたらそんな清い心を持てて、神の前で大丈夫でいられるようになれるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。

9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する」と言うと、何か紛争地域に出向いて支援活動をするような崇高な活動のイメージが沸くかもしれません。しかし、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、神の子と呼ばれる者はそうするのが当然というのはどうしてなのか、それも後で明らかになります。

これらの他にも、10~11節で義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに人からあることないこと言われたりひどい場合は迫害されてしまうが、それも幸いなことと言われ、それは神の国に迎え入れられることになるからだと言われます。どうやら、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているようです。神によく慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということが見えてきます。そのことを詳しく見る前に、神の国に迎え入れらるとはどういうことか?どうしたら迎え入れられるのか?これを次に見てみましょう。

 

3.旧約で足踏み状態だったところから足を踏み出させるイエス様

 イエス様の「山上の説教」を当時はじめて聞いた人たちは面食らったことと思います。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味していたからでした。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫に見なされる人を意味しました。

人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

イエス様の教えを聞いた人たちは旧約聖書の伝統に立っているので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを得られる人とか、そういう人を連想しました。詩篇の第1篇と32篇は、ヘブライ語の原文では「幸いなるかな」アシュレーאשריという言葉が先に来て、「~する人」という言葉が続きます。イエス様が「山上の説教」の時に話した言葉はアラム語というヘブライ語に近い言葉でした。それがギリシャ語に訳されて新約聖書に載っているわけですが、それでも文の形は同じで、「幸いなるかな」マカリオイμακαριοιという言葉が先にきて、「~する人」と続いて行きます。アラム語でも同じ形だったでしょう(後注2)。つまり、語るリズムは旧約聖書と同じです。それなのに、聞いていると、律法のことも罪の赦しも言われません。神の前に立たされたら自分は大丈夫ではないこと、大丈夫になるのは今までと違うやり方でないとダメだということ、そういうことを明らかにするような教えでした。イエス様の意図は一体なんだったのでしょう?

イエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は人間の心の清さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。父なる神は預言者たちの口を通して言っていた。毎年繰り返される生け贄の捧げは形だけの儀式になってしまい、心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。

それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして「幸いな者」にしたのでしょうか?

 

4.「神の国」に至る道に置かれてそれを歩むキリスト信仰者

 それは、天地創造の神が立てた人間救済計画を実行することで行われました。もともと人間は神に創造された当初は罪を持たない、従って罪の赦しを必要としない存在として、神聖な神のみもとにいることができていました。ところが、創世記3章に記されているように、神に対して不従順になり罪を犯し、罪が人間の内に入り込んだがために人間と神との結びつきは失われて、神のもとにいられなくってしまいました。この時、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを解決するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上まで運ばせてそこで神罰を受けさせて死なせました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子に人間の罪の償いをさせたわけです。そうしたのは、ひとり子の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたからでした。本日の旧約の日課ミカ書で、神の御前に立つことが出来るために動物の生贄を捧げることはもはや意味がないのではと自問しているところがありました。動物の生贄に意味がないとしたら、人間が自分の子供か胎児を生贄にしなければならないのだろうかとさえ言います。神は、そうする必要はないと言わんばかりに、自分のひとり子を生贄に捧げたのでした。

この犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。罪には人間を神から引き離す力があったのですが、それが完全に削がれるという状況が生まれました。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、その状況の中に入れて罪の赦しがその人に効力を発揮し出します。その人は、復活の体と永遠の命が待っている「神の国」に通じる道に置かれます。そして、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰に入り洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せられます。信仰者は、この罪の汚れのない衣を纏いながら、神の国に至る道を歩んでいきます。

イエス様という義と神聖さを持つ方を衣のように被せられた人は、まだ内側に罪の汚れを持ってはいても、神がその汚れなき衣に目を留めて下さるので大丈夫です。至らぬ自分なのに、ひとり子を犠牲にするくらい、私のことを思って目をかけて下さった。このことが分かった人は、神に申し訳ないという気持ちと感謝の気持ちの両方を持つようになるので、神がそうしなさいと言われることはそうしなくては、という心になります。そこで、神がしなさいと言われることですが、本日の旧約の日課ミカ書6章の8節によく要約されています。
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

「正義を行う」、つまり隣人が大切なもの必要なものを奪われていないかよく注意し、不正や不公平や不正義に反対する。「慈しみを愛する」、つまり私が罪を赦されたように私も隣人の罪を赦す、そのように愛する。「ヘリ下って神と共に歩む」、つまり、罪を犯さないように注意してこの世を生きる。その際、一人ぼっちではなく神と共に歩む(後注3)。

神への申し訳なさと感謝の気持ちから神の意思を心に留めるようになった。すると今度は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。外面的には罪を行為にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づかされます。霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。神の国に至る道を歩むキリスト信仰者はいつも、このように慰めを受け、義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対して強い信頼を抱き柔和になります。

一方的な平和路線で良いという態度については、パウロがローマ12章で言っています。キリスト信仰者たる者は最後の審判で正義が実現することに全てを賭けている、だから自分では復讐はしない。信仰のことを悪く言われても迫害されても、それは「神の国」に至る道を歩んでいることの証しに他ならないということになります。

そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚している。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだった。不十分なところもあったかもしれないが、信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が働いても、しっかり握り掴んで手放さなかった。その証拠に私は今、お前が同じ衣を着て立っているのを目にしている。」

 兄弟姉妹の皆さん、これがキリスト信仰の「幸い」のストーリーなのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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(後注1)「霊的に貧しい」οιπτωχοιτωπνευματιは、英語(NIV)ではthe poor in spirit、ドイツ語(ルター訳)ではdie da geistlich arm、スウェーデン語ではfattiga i anden、フィンランド語ではhengissä köyhät。ドイツ語(einheitsübersetzung)ではdie arm sind vor Gottとなっていて、神に対する至らなさがすぐ出る訳だと思います。

(後注2)アラム語でも「幸いなる」はアシュレーאשריです。これに「~する人」が付け加わえられるわけですが、ヘブライ語の関係詞אשרに代わってアラム語はד’を採ったでしょう。

(後注3)。「慈しみを愛する」はヘブライ語はאהבת חסדで、直訳すると「慈しみ/憐れみの愛」、すこし細かく言うと、「慈しむ/憐れむという仕方で愛する」です。

 「ヘリ下って神と共に歩む」とうのは、הצנע לכת עמ-אלהיךのことで、辞書によれば「注意深く生きること、神と共に歩むこと」です。

聖餐式:木村長政 名誉牧師