お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
6月の料理クラブは14日(土)13時から開催します。
フィンランドは新じゃかの美味しい季節になりました!6月の料理クラブではジャガイモをふんだんに使った料理を二品を作ります。
一つは、フィンランドの伝統的なポテト・フラットブレッド「Perunarieska」。マッシュドポテトを使ってイーストを使わず焼き上げる薄型パンです。焼きたてのPerunarieskaはエッグバターをのせたり、ただバター塗るだけでも美味しく頂けます。
もう一つはサーモン・ポテトサラダ。蒸かしたポテトをビネガー、スパイス、刻みレッドオニオンで味付けし、オーブン焼きのサーモンをまぶします。フィンランドでは田舎風サラダ「Maalaissalaatti」と呼ばれますが、田舎の素朴さを超えた味のシンフォニーが楽しめます!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1750639100iamg@1750639100arumi1750639100hsoy.1750639100iviap1750639100 まで。
茱萸・グミ(Gumi)
<主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。 詩編104:24>
グミが日本固有種とは知りませんでした、道理でグミの英語名を探しても出て来なかった筈です、漢字の茱萸は不思議な字ですが山茱萸と同じシュユとも読めますね。私も始めは茱萸をグミと読むことに驚いていました。茱萸の謂れを調べてみましたら口にすると渋みがある事から「えぐみ」、実を含むから「ぐみ」など、漢字の茱萸は草冠に朱で赤い、草冠に臾(ユ)をユと読ませカワハジカミ、グミを現わしたとありました。公園の入り口付近にこのグミの木が3本あります、毎年このグミの実を楽しみに先日も出かけて来ました。嬉しい事に目当てのグミの木はたわわに実をつけていました。最近の人はグミの実が食べられる事を知らないようです、グミだけではありません桑の実、山法師の実、山桃、木苺、イチジク、アケビ、ヤマナシ等の木の実が食べられる事を親から教わらなかったのか或いは単に知らないのかも知れません。昭和生まれには食べられる木も実を見ると自然に手を伸ばします。
2025年6月8日
ヨハネ14章8−17節、25−27節
「平安のうちに遣わす聖霊の恵み」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様は捕えられる前の最後の晩餐の席で弟子たちに、聖霊が与えられると言う幸いな約束を与えてくださいました。その聖霊の恵みがいかに素晴らしいものであるのかをイエス様はこの14章で伝えています。14章は1節にある通り「心を騒がせるな」で始まり、終わりの26、27節では「平和」、それは新改訳聖書では「平安」という言葉ですが、その「平安」を与えますと言う約束の言葉と、やはり「心を騒がしてはなりません」で結ばれています。それは6節にある「道であり、真理であり、命である」イエスを通るなら、誰でも父のもとに行くことができるとある真理の道と真の命の歩みは、キリストから与えられる「平安ある歩み」であり「心騒がせる必要がない」恵みの歩みであることを約束するものであり、それを実現するのはまさしく聖霊であると、今日の箇所は伝えています。
2、「神を見せてください。そうすれば満足します」
まず弟子の一人フィリポはイエスに尋ねます。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」8節
これは新改訳聖書では「主よ。私たちに父を見せてください」とあります。フィリポのこの言葉は、7節でイエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と言ったことに対してでした。フィリポはこのイエス様の言葉の意味がわかりませんでした。イエス様はご自身を見ているあなた方はまさに神ご自身を見ているのだ、神がここにいるのだと、ある意味、曖昧ではなくはっきりと、イエスご自身が父なる神と一つであり真の神であることを宣言しているのですが、その三位一体の真理を、人間はその理性でも知識でも自分の力では決して理解できないことを、フィリポの言葉は示しています。
そしてイエスの「ここに父がいる」と言う明確な「言葉」があるにもかかわらず、その言葉の通りに、イエスに父なる神を見ようとせず、どこまでも「神を見せてください」と言うこの言葉は、「人間が神をどこに見ようとするのか、どこに神を求めるのか」を示すものでもあります。彼は明らかにイエスの「言葉」に満足していません。彼は弟子であっても、いくら先生でもナザレの大工の子イエスに父なる神を見るなんて現実的にありえない馬鹿げたことだと思ったことでしょう。「そうすれば満足できます」と言う言葉は、イエスの言葉にも現状にも満足していないと言う思いを示しています。彼は3年一緒に歩んできてイエスの言葉にもイエスそのものにも神がいる、真実であるとは信じることができなかったのでした。そして神を実際に見せてほしいといいます。それはまさに、人間の側の五感、知覚、理性でわかり判断できるように、物質的に目にみえる形で目の前に見せて欲しい、あるいは、それは彼自身が予め思い描き期待している通りの姿、形で見せて欲しい、という意味でした。その「神をどこに求めるのか、見ようとするのか」という問題とフィリポの問いかけですが、これはおそらく誰でもフィリポと同じように求めるのではないでしょうか。事実、教会へ来たり聖書に触れたりする未信者は沢山いますが、皆がそれを信じるわけではありません。多くの人々は信じないのですが、その時の彼らの「問いかけ」は大体これでしょう。「神がいるなら神に会わせてよ。見せてよ。科学的に証明してよ。」等々ではありませんか?そのように、人間は目にみえる形で、しかも彼らが自分の思いの中で仮定し予測し期待する考えに当てはまるように、しかも目に見える物質、被造物の中に神を見ようとするし求めるし探そうとするのです。
そしてそれはイエス様と三年一緒に歩んできて多くを学んだはずの弟子でさえもそうであると言うことは注目したいです。既にイエスの弟子である皆さんも、神はどこにいると考えるでしょうか?神をどこに探したり求めたりするでしょうか?イエス様は常に変わらず、私たちにみ言葉を通して、何よりこの福音である「十字架の言葉」という人から見れば躓きであり愚かな言葉にこそ、神がおられ、神の救い、力、働きがあることを教え続けています(第一コリント1章18節)。あるいは、信仰とは目に見えないことの確信だとも聖書は教えています(ヘブライ11章1節)。そして救いや義認は、私たち人間があたかもそこにあるかのように期待し易い目に見える何らかのわざや功績や、何を持っているとか何を達成したとか、そのようなことにあるのではなく、どこまでもキリストの十字架に現された神の恵みと約束、このキリストの十字架と復活のみに救いの本質、神の真理があると聖書を通して指し示し続けてくれているでしょう。しかしそれなのに、弟子のフィリポでさえもそうであるように、教会やクリスチャンであっても、自分たちや誰か、人間の側で勝手に期待し思い描く何らかの目に見えるわざや行い、結果や成功に何か救いや救いや祝福があるかのように求めやすいでしょう?それらの期待する目に見えるわざや結果に、神をみたい、神を見せてほしい、そこに救いの確かさ、救いの原因や根拠があるかのような考えにすぐに陥ってしまったり、そのような教えや勧めを聞いたりすることがあるのではありませんか?「神はどこにいるのか、どこに探すか、求めるのか」それは、何か私たちや誰かが自分たちの思い描いた通りに教会のために一生懸命やったから、成果を出したから、計画通りに成功し実現させたから、だから神に祝福されるんだ、そこに神はいるんだと、考えてしまったり、それが宣教や伝道だとしてしまい、クリスチャン生活や伝道や教会運営を、まず私たちの側で何かを果たし、行い、頑張って、そうすれば祝福されます、そうしなければ祝福されません、と律法的に駆り立てるような教会は、実は少なくありません。しかしそれはまさに、先ほど読みました、創世記11章の神の恵みやみことばや神がなさるという約束をそっちのけで、人間の力で天に届く塔を建てようとすることと同じではありませんか?または、このフィリポのように、まさに彼の予想し「見たい」と期待し思い描いた先に目に見える形で「神を見せてください。証明してください。そうすれば満足します」という求めと同じことでしょう。イエス様は、あなた方が目で見たいと望んだ先に神がいるとか、あるいは、目にみえる形で自分たちの目に見えるわざで何かを果たした先に神を見ることができるとは言っていないですね。そのように「あなたの栄光を見せてください」と神を見たいと望んだモーセにさえも神の通りすぎる時の神の背中しか見せませんでした(出エジプト33章18節、22-23節)。イエス様ははっきりと言います。「わたしを見たものは神を見たのだ、わたしに父がいるのだ」と。イエス様は人でもその行いでも、人が何らかの目に見え思い描く先を指し示してそこにいると言うのではなく、イエス様ご自身をさし示し、そこに神はいるのだと示しているでしょう。
3、「弟子であるキリスト者はどこに神を見るか?」
イエス様はフィリポにいいます。9節以下、
「9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
見えない神の本質、真理は、イエス様ご自身にあり、見えない神がイエス様を通してその真実なわざを、つまり、真実な言葉を語っている、そこに父は確かにおられるとイエス様はご自身をさし示し、信じるように招いているです。特に、「わざそのもの」と言っていますね。その「わざ」とは何でしょう。この場面は最後の晩餐の席です。つまり、イエス様は明らかに十字架にかけられ復活されるご自身を指し示し救いのわざである「十字架と復活に神を見ることができる」「神の約束の救いと祝福はあるのだ」と伝えているのです。
私たちはどこに神を見るでしょう?どこに神を探すでしょうか?何らか目に見える被造物、その中でも偶像礼拝のように並外れたものすごい物質にでしょうか?確かに特に日本では八百万の神信仰と言われ、そのような並外れた特別な被造物、石や岩、木や自然、あるいは並外れたすごい人に神を見ようとしたり神にしたりします。立派な人の行いや功績には何でも神がかったものを見ようとしたり称賛したりもします。野球の好きな方は聞いたことがあるかと思いますが、「神様、仏様、稲生様」なんて言葉もありますし、最近だと村神様なんて言葉もありましたね。しかしそこに本当の神はいるのでしょうか?教会やクリスチャンはどうでしょう。どこに神を探しますか?教会やクリスチャンの中にも確かに何かまず自ら思い描いて期待し、それを果たした先に、あるいはそのように良い行いや功績を残した先や、教会を成功さえた繁栄させた先に、神はおられ、そこで初めて祝福や救いや恵みが与えられるのだと考えたり教えたりする教会やクリスチャンは確かにいます。しかし果たしてそうなのでしょうか?皆さんは、そのように考えていませんか?それが正しいとするなら、逆に、そうならなかった時、つまり、試練や逆境、苦しみや悲しみ、失敗や挫折や罪深さを覚えさせられる時、クリスチャンでもそこに神はいないかのように考え易いのですが、しかし本当にそこに神はいないのでしょうか?それは実はクリスチャンが一番陥りやすいところです。私もそのように思わされる時もあります。今でもあります。しかし違うでしょう。11節「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
。何より十字架がそのわざですが、その他にも、それまでイエス様が宣教の歩みでなさったわざもそのことの答えでしょう?イエス様はまさに誰も近寄らず敬遠するような罪人、罪に苦しむ人々のところにこそ、歩み寄り、近づき、友となり、一緒に食事をし、悔い改めを教え、神の国を伝えたでしょう。あの徴税人ザアカイに語りかけ、彼の家で食事をし、彼が悔い改めた時に何といいましたか?ルカ19章9−10節
「イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
失われていた罪人ザアカイのところに神はいなかったでしょうか?いや、神は確かにおられました。そしてこの最後の晩餐の後、イエスを3度知らないというペテロ、そして逃げていく弟子たちのために、イエス様は何と言われましたか?ルカ22章32節
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
3年間、ともに歩んできて教えてきてもなおも罪深い弟子たちに神はいませんか?とんでもない。彼らを見捨てず、ともにおられ、そのために祈られるイエス様がいるでしょう。そして、何より、私たちが見るべきイエスのわざであるこの十字架は私たちに証ししています。
この重罪の刑罰である十字架には誰がかかりましたか?この十字架に誰がいますか?そこに神はいませんか?いや、まさに十字架におられるのは天地創造の神である御子イエス様ではありませんか。しかも神であるこの十字架のイエス様は、全人類の罪人のために、私たちの罪をその身におわれ死なれ、私たちに罪の赦しを与えるでしょう。まさに人の間に来られたイエス様は、罪人の間に来られ、罪人の間、隣に立ち、その罪汚れに触れ、そこから救い出してくださるお方でしょう。そう、イエス様は、罪に苦しむ私たちの間に来られ、おられるのです。試練や逆境、苦しみや悲しみ、失敗や挫折や罪深さを覚えさせられる中に、神はいないのではない、むしろそこにこそ来られ、そのために来られ、その只中に神であるイエス様は確かにおられるのです。その十字架のゆえに、十字架にかかられたイエス様のゆえにこそ私たちにも罪の赦しが宣言され、悔い改め信じ、その赦しをそのまま受ける人は誰でも、その罪の赦し、義認、救いが恵みとしてその人のものになると聖書は約束しているでしょう。そしてその人は、まさにただそこにいるイエス様のゆえに「既に」祝福されています。私たちが目に見える形で何かをするから達成するからそこに神はいて、だから祝福されるのではありません。私たちは神をこの十字架のイエスにこそ見ることができる、神はここにいる、十字架のイエス様に。これを信じ受け取るなら「既に」それは祝福なのです。
4、「「大きなわざを行うようになる」とは?」
しかし、そうは言ってもこの後のイエス様の言葉を見て多くの人は反論するでしょう。12節「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る
、そう書いてあるではないか、だから結局は律法なんだ。福音だけではダメなんだ。福音の後にはやはり律法なんだ、私たちの行い、私の達成が来るんだ、と思うかもしれません。しかし、皆さん、その行いはどこからきますか?イエス様は何と言ってますか?その行いのために、イエス様は、13節「13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
と言っており、16節以下では、
「16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
と言ってます。イエス様はそのことを弟子たちが行うことができるように、「祈り」、「願い」とあり、それに応えくださるとあり、尚且つ、イエス様自身が願い取りなしてくださる。そして、そこで、まさにそのことをかなえるため、行わせるために一緒にいてくださる「弁護者」、この弁護者はピンと来ません。英語のESVバイブルでは「Helper」とあります。新改訳聖書ではその通り「助け主」とありますが、そちらがわかり易いです。まさにそれらのことを行わせる助け主、真理の御霊である聖霊を与えてくださると、イエス様は約束しているでしょう。しかもその聖霊は「あなた方と共にいるため」だと言っているでしょう。まさにそのように悔い改め信じ、福音によって新しく歩むものに、神であるイエス様がそのわざを行わせてくださる。そして、もっと大きなわざを行うようにさせ、何でも願うことをかなえ、そして掟、律法を守らせるのは、私たちの力ではない、三位一体の聖霊であることをイエス様ははっきりと伝えています。しかも、イエス様は、弁護者、助け主である聖霊、26節「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とも言っているでしょう。聖霊は何より私たちにみ言葉を思い起こさせ、み言葉に働き、みことばを通して働き、すべてのことを教えてくださると言うのです。何よりそれは十字架の言葉である福音の言葉を通してです。パウロはこう言っています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 」第一コリント1章18節
と。十字架の言葉である福音の約束こそ、救いの全てを行わせ実現させる神の力だとパウロは教えているでしょう。事実、使徒言行録1章で、復活のイエス様は弟子たちに、いきなり「あなたたちの力で教会を始め宣教を始めなさい、伝道し教会を大きくしなさい」とは言わなかったでしょう。何といっていますか?イエス様は聖霊を受けるまでは都に留まっていなさい、待っていなさいといいました。そしてまさに「今こそ栄光が現される時か」と勢いづく弟子たちにイエス様は「いつとかどんな時とかはあなた方は知らなくていい、神が権威を持って定めている」と自ら動き出そうとする行動主義を諌めています。イエス様の命令は約束の聖霊を「待ちなさい」なんです。そして聖霊を受けるときに、力を受けて、神の御心である地の果てまで証人になっていきますとイエス様は約束していますね。その通りに、使徒言行録2章、聖霊を受けた時に、聖霊の力で、まさに更なる大きなことが、キリストの教会が、神の宣教が、始まっていくでしょう。律法を行うことは大事な神の御心です。しかし新しく生まれたクリスチャンは、福音から始まる、しかも聖霊の力によって、まさにヨハネ4章でイエス様が言われたように、福音から湧き出て溢れ出て流れていく泉のように、宣教や良きわざを行なわされていくのです。神の宣教の道具としてです。
5、「安心して行きなさい」
そして最後に結びますが、更なる幸いは、その福音と聖霊による歩みも宣教も良きわざも平和のうちに、平安のうちに行われていくと約束されているということです。27節
「27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
これは新改訳聖書の方がわかりやすいです。
「27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。
聖霊が福音を通して与える平和、平安は、世が与えることができないものです。つまり私たちの力や理性で果たすような行為義認によっては得られない、イエス様ご自身が福音のうちに、聖霊を通して与えてくださる特別な平安なんだとイエス様は教えています。皆さん、聖霊の力も何もなく、自分たちの力で、救いを、神の国を達成しなさい、そうすれば罪赦されます、祝福されます、救われます、と言われ、そのように生きて、そのクリスチャン生活に平安はありますか?ないでしょう。自己義認は自分で天に届く塔を建てることと同じです。それは神の怒りを買うだけでなく何よりそこに平安はないでしょう。私たちの宣教は福音を宣教することでありイエスが与える平安を証しすることなのに、その平安がないなら平安を証できません。宣教が律法なら平安はありません。私たちに平安がないなら福音宣教は成り立たないのです。しかし逆に、あなたの罪は赦されています、わたしはあなたを助ける助け主を送ります。それはあなたと共にいます。だから安心して行きなさい、と言われるとどうですか?安心していけますね。平安を心から証しできるでしょう。これが福音から始まる新しい歩み、そこに完全と働く聖霊の恵みなのです。
みなさん、イエス様が福音を語り与えてくださり、洗礼を授けられた時、私たちは確かに聖霊を受けました。私たちは今日も、福音と聖霊の豊かな助けのうちに遣わされています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音を受け、今日も平安のうちに遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
ペンテコステ祝会
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」5月28日の日課から)
キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その4)。
『いつも喜びなさい。』 (第一テサロニケ5章16節)
『この御言葉は、信仰が我々にとっていかに不可欠なものであるかを教えてくれる。信仰は重々しいもの苦々しいものを全て軽くし甘くする。そのことは、殉教者たちが証ししている。しかし、信仰がなければ、たとえ全世界の絢爛や享楽を手に入れたとしても、全てのことは重々しく苦々しいものになってしまうのだ。そのことは、悲惨な生涯を送った金持ちたちが証ししている。
次のように言う人がいる。「私が望んでいなかった状況に陥ってしまったのは自分の愚かさや悪魔のせいではなく、神がそのようにされたからと確信できたら、喜ぶことなど出来るだろうか?」 なんという信仰の欠如!キリストは、神がお決めにならなければ鳩は地面に落ちることはないと言われたではないか。また、私たちは髪の毛の数も一本残らず神に数えられているのだとも。
ここで、あなたが望んでいなかった状況に、あなたの罪はそこにはないのにそういう状況に陥ったとしよう。もちろん、罪と愚かさによっても同じ状況には陥るのだが、それらがなくてもそういう状況に陥ってしまったとする。それは実は、神の御心に適う状況なのだ。罪以外のものは全て神の御心に適うものだからだ。
あなたが、あなたの罪はそこにはないのに厄介な課題に取り組まなければならなくなったとする。その課題は間違いなく神があなたにお与えになったものだ。だからあなたは課題に取り組む時はただ正しく取り組めばよいのだ。課題の取り組みの中で感じてしまう不本意さや無念さというものも実は、あなたがまさに神の御心に適う課題に取り組んでいることの証しなのである。その時、神は課題のあるところにおられる。神は悪魔に対してあなたの信仰を試すように許可したのだ。あきらめて神に背を向けてしまうか、それとも、神が共におられることを信じて解決を目指して取り組んでいくか。神はあなたが信仰の戦いを戦い、信仰の中で成長する機会を与えて下さっているのだ。(以上、ルターの説き明かし)』
「課題に正しく取り組む」というのは、人を傷つけない、奪わない、妬まない、真実を曲げない、不倫をしない等々、十戒にある神の意思、要約すれば、「神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する」に沿って取り組むということです。
5月の手芸クラブは28日に開催しました。週の初めは曇りの日が多かったでしたが、この日は太陽が輝いて爽やかな一日でした。
今回の作品はかぎ針編みのスマホケースですが、前回のバンド織りのキーホルダーを続けたい方はそちらも出来ることにしました。
スマホケースの方は、初めにモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。それから綿の糸にかぎ針棒を合わせて編み始めます。まず自分のスマホの幅に合わせて鎖編みをします。その後はモデルに従って細編みで円を描くように編みます。そして、いよいよ楽しい模様編みの番です。
長綱でモデルに従って模様を編んでいくと、「可愛い!模様ができてくる!」との声が聞こえてきました。スマホケースはおしゃべりをしながら楽しく編み続けていくうちにどんどん出来てきます。
前回バンド織が途中までだった方たちは続きを一生懸命織りました。可愛いピンク色のキーホールダーや春っぽいの織物のNauhaが出来上がりました。
今回のスマホケースは途中まで編んだので次回はその続きをします。出来上がりはどんなものになるでしょうか?楽しみです!
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。ルバーブケーキを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、かぎ針編みのことや詩篇の「主はあなたの守り手」のお話がありました。
次回の手芸クラブは6月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドでは、かぎ針編みは人気がある手芸のテクニックの一つです。かぎ針で作られる作品は幅広くてインテリア用のカーぺットから細密なオーナメントまで様々です。他に必要な道具もなくかぎ針と毛糸があれば編むことが出来ます。
かぎ針編みは古くからある手芸のテクニックですが、いつ頃始まったかははっきり分かりません。1500年頃には修道院で修道女たちが編んでいたと言われています。1800年代後半、かぎ針編みはフィンランドに拡がって女性たちはシーツやタオルなどの端のレースの部分を編むようになりました。綿で編まれたレースは細かくてとても美しいものでした。当時編み方を紹介する雑誌などなかったので、女性たちは互いに編み方を教え合い新しい模様やテクニックが出来るようになりました。かぎ針編みの基本が出来るようになってベッドのカバー、テーブルクロス、服など多様なものが編まれるようになりました。糸の太さを変えることで、細かく複雑なレースや厚みがあるカーぺットも編むことが出来ます。
今日は皆さんと一緒にスマホケースをかぎ針編みで作り始めました。皆さんが編まれたものは編み方や糸の太さによって仕上がりが異なるので、それぞれが素敵な作品です。かぎ針編みのスマホケースは携帯電話の出し入れがやさしく、衝撃からも守ってくれます。
ところで、日本の電車には「携帯電話はお守り」という広告をよく見かけます。携帯電話は非常に便利でどこにいても人と連絡を取れたり、さまざまな情報を調べたりできるので、今では私たちにとって「お守り」のようなものになっているかもしれません。携帯電話を持っていることで安心感が得られるからです。しかしどうでしょう、携帯電話は本当に私たちを守ってくれるでしょうか?何が私たちを本当に守ってくれるのでしょうか?
聖書はこのことについてはっきり教えています。旧約聖書の詩編には「主はあなたの守り手」という箇所があります。
「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」 詩篇121篇3~8節
私たち人間にとって命を守ることは何よりも大事なことです。怪我などがしないように自分自身を守るのは当たり前のことです。親は子どもを守ります。しかし、私たち人間にの知恵と力には限りがあります。私たちは全てのことを自分の力で行うことが出来ません。聖書は私たちを守ってくださる、私たちよりもっと力や知恵がある方について教えています。その方は私たちの全てを知っておられ、出発の時から帰る時まで私たちを守ってくださるのです。その方は天と地と人間を造られた天の神様です。先ほど読んだ詩篇には神様はどのように私たちを守って下さるかが次のように語られていました。「主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。主があなたを守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121篇3,5節です。
天の神さまは私たちの前に様々な道を開いてくださいます。全てのことがうまく行くと、私たちは神様のことを簡単に忘れてしまいます。「神様なんかいなくても生活はうまく出来る」という態度にします。しかし、時には私たちが進みたくないような坂道や曲がり道も歩まなければなりません。その道は試練の道であり、そんな道は歩きたくないと思いますが、もし神さまが示した道なら進まなければなりません。
試練の時、神さまは眠っておられるのか、そばにおられないと思ってしまいます。しかし、神さまは私たちがどこを進んでいるかよくご存じです。人生の試練の時も、神様は決して私たちのそばから離れず、眠ることもなくいろいろ働いておられるのです。天の神様は一時も目を離さないで私たちを守ってくださるので、私たちはどんな道でも安心して歩み続けることが出来ます。
詩篇には「主はあなたを覆う陰」と書いてあります。私たちは神さまが共にいることを目で見たり、感じたりすることは出来ませんが、聖書に書かれてあるから、私たちは信じることが出来ます。それで神様の守りは信頼して大丈夫なのです。どんな道でも神さまはいつも私たちを守って共に歩んで下さいます。このことを心で受け入れると、神さまへの感謝の気持ちが生まれます。
定家葛(Teika kazura)
<天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1>
過日、長池公園を散歩をしていたら道の奥の方から上品な甘い香りが漂て来ました。この香りは以前にも・・と香りのもとを探していたら定家葛の生垣に出ました。折から花は満開、香りの元も全開で素晴らしい時期に来たと喜びました。以前も書いたかも知れませんが、歌人藤原定家と恋仲とされていた式子内親王との物語を思い出しました、式子内親王の墓に絡みついていた葛を定家葛と呼ぶようになった、と謡曲「定家」に詠っています。私事ですが私は式子内親王の歌が好きです、天皇家の娘とは思えない天真爛漫な姿が歌にも現れていて、そこが好きなのかも知れません。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」 式子内親
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2025年6月1日 昇天主日
使徒言行録1章1-11節
エフェソ1章15-23節
ルカ24章44-53節
説教題 「イエス様の昇天 ― なぜこの世を生きるのかという問いに対するキリスト信仰者の答えはそこに」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
はじめに
イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。ただし、生きたままとは言っても、死からの復活を遂げたので普通の肉体ではない復活の体をお持ちでした。復活の体を持つというのは死を踏み越える命、永遠の命を持つということです。イエス様はそのような者として天の父なるみ神のもとに上げられたのでした。
イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事ですが、いろいろ考えていくと、なぜこの世を生きるのかという問いに対してキリスト信仰者はどう答えるかを明らかにしてくれます。今日はそのことを見ていきましょう。
2.昇天とはいかなる現象か?
最初に昇天とはいかなる現象かをみてみます。以前にもお教えしえしましたが、これは極めて聖書的な現象です。大事なことなので復習しておきます。
新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。これを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていくか、ドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実のものと思いません。イエス様の昇天を同じようにイメージしてしまったら、誰も真面目に受け止めないでしょう。
そこで、ギリシャ語の原文を見てみます。雲は上空でイエス様を覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲に類する現象がイエス様を運び去ってしまったのです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいるイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みにフィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまったという理解を与えてしまいます。
聖書には旧約新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。モーセが神から掟を授かったシナイ山の雲しかり、イスラエルの民が運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様が高い山の上で姿が変わった時も雲が現れて神の声が響き渡りました。また、イエス様は裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると予告しました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言います。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨すると。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来るということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天は聖書的な出来事の一つなのです。加えて、冒頭で申し上げたように、イエス様の体は復活の体でした。復活後のイエス様は空間移動が自由にでき食事もするという天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神と同質な方なので天使以上の方です。体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だった、そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
3.天の御国とは?
これで、イエス様の昇天は聖書的な出来事、現象であるとわかりました。次に、天の御国について考えてみます。天に上げられたイエス様は今、父なる神の右に座している、と毎週キリスト教会の礼拝の信仰告白の部で唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのでしょうか?
これも毎年述べていることですが、人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数のロケットやスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても恐らく見つからないのではと思います。
なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰と全く別世界のものだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足を使って確認したり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っていることはこうした計測確認できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして、し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えたことに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、この現実の世界は森羅万象の一部分にしか過ぎないという位に広大な森羅万象を見据えるのが信仰です。天の御国もこの現実の世界を超えたものです。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界が森羅万象の全てだと言うことも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。
ところがキリスト信仰者は、自身も含め現実の世界とそこにあるものは全てこの現実の世界の外側におられる創造主に造られたと見ます。なので、創造主と結びついていれば、命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。皆さんご存じのように聖書には終末論と新創造論があります。この現実の世界は始まりがあったように終わりもある、その時は新しい天と地に再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生がまた続いていくと考えます。このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。
日本では普通、この世の人生が終わると、天国にしろ極楽浄土にしろ別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。なので、この世を去った人はあちら側からこちら側を見ているというイメージがもたれます。
ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論があります。今はこの現実の世界の外側にある神の国がその時に唯一の国として現れます。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来する時、今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前に死んでしまったらどうなるの?と聞かれます。答えはキリスト信仰に特異な復活の信仰です。到来する前に亡くなった人たちは復活の目覚めの日まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言ったのはそのためです。それなので、亡くなった方が起きていて地上の私たちを見守ってくれるというイメージは復活の信仰を持つキリスト信仰者には起きないのです。私たちを見守るのは死んだ人の霊ではなく天地創造の神です。神はかの日に眠れる者を起こして復活させて懐かしい人たちとの再会を果たして下さるのです。
4.今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる命と人生
このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。この死生観に立つキリスト信仰者は、どうして神はひとり子を私たちに贈って下さったかが分かります。それは、私たちの命と人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。人間が今のこの世と次に到来する世にまたがる命と人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。命と人生が二つの世にまたがっているということは、本日の使徒書のエフェソ1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。
それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が二つの世にまたがる命と人生を持てるようになるのでしょうか?人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の命と人生は持てませんでした。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に反する罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するためにひとり子を贈って彼に大仕事をさせたのです。
イエス様は人間に宿る罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を全部受けられました。罪の償いを人間に代わって果たして下さったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様は私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去る時も神との結びつきを持って去り、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世とこの次に到来する世にまたがる大きな命と人生を持てるようになったのです。
5.勧めと励まし
このように神は私たちが大きな命と人生を持てるようにして下さいました。本日の使徒書エフェソ1章でパウロはそれが保証済みであることを述べています。最後にそのことを見ておきましょう。
まず、神には十分な力があることが言われます。一度死んだ人間を復活させることと、その者を天のみ神の御許に引き上げることは、まずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要することが言われます(19~21節)。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つの異なる言葉で言い表します(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。エネルギーという言葉も2回(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も出てきます。このようにパウロはこの想像を絶する莫大なエネルギーを何とか人間の言葉で描写しようと苦労しているのです。新共同訳は「力」という言葉を2回しか出さず、彼の苦労が見えません。とにかく死者を復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主の神はそれをお持ちであるということが言われているのです。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。
ところがもっと肝心なことが言われます。神はこれと全く同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者たちにも及ぼされると言うのです(19節)。キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活を遂げて神の御許に上げられるというのです。これを聞いたらハレルヤ!と叫ばずにはいられなくなるのではないでしょうか?
神が莫大な力を及ぼしてあげようと待機していることに加えて、キリスト信仰者は道の歩みにおいても間違いなく守られていることもエフェソ1章からわかります。パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは天の御国に向かう道に置かれて、それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」とも言われるのです。
その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると同じ体の部分である私たち信仰者もこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている側にいるはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で及ばず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝っているイエス様に繋がっている信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?
それは、イエス様を頭としても体の方はまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世は、命と人生は全部ここで終わりだよ、二つになんかまたがっていないよ、と言って私たちの目を曇らせます。私たちが神に背を向けるように、神との結びつきを見失うようにと、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が私たち信仰者にも働き、イエス・キリストの体は全部が神の国の中に置かれることになります。
そういうわけで、イエス様の昇天から再臨の日までの間の時代を生きるキリスト信仰者は二つの相反する現実の中で生きることになります。一方で全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられる現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
攻め立てられてはいるが守られている、守られてはいるが攻め立てられる、これがキリスト信仰者の現実です。しかし、守られていることの方が攻め立てられることをはるかに上回っています。なぜなら、私たちが部分として繋がっているこのキリストの体はやがて神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているからです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。
以上から、キリスト信仰者は、なぜこの世を生きるのかと問われたら、答えは明快です。私は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれたからです、神はその旅路を守って下さるからです、これが答えです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」6月29日の日課から)
キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その3)。
『私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。』 (詩篇130篇6節)
『キリスト信仰者の魂の状態はいかなるものかと問われれば、それは主を待ち望むことに尽きるということになる。それはまたキリスト信仰者の人生そのものである。この聖句でダビデが言い表しているのは、意識の全てを満たすような真剣かつ不断の待ち望みである。彼は我々に次のように教えたいのだ。「もし君が主を待ち望むことを始めたのなら、諦めてはならない。日が沈み夜が更けていこうとも、朝は再び来るのだから待ち望むことを諦めてはならない。洗礼を受けて霊的に新しくされた人は、主を待ち望むことが人生そのものになる。その人の外面的な部分に何が起ころうとも、内なる新しい人は待ち望みながらずっと続いていく。
待ち望むことができずに、神に対して助けの時と手段と数値を設定したがる人たちがいる。そういう人たちは、いかなる仕方で自分たちを助けなければならないかを神に提案するのだ。そして、その通りにならないと、彼らは絶望して道から外れ、助けを別のところに探し求める。そのような人たちは主を待ち望むことをしない。主の方こそ彼らを待ち望まなければならないと思っているのだ。主は彼らが定めたやり方ですぐ助けられなければならないという考えなのだ。
これとは逆に、主を待ち望む者は神の恵みの業を祈り求め、いつ、どのようにして、どこで、何を介して助てくれるかということを全て神の御心に自由な気持ちで委ねるのだ。彼らは神から助けが来ることを疑わない。助けに時間がかかっても、助けの形態を神に代わって決めることをせずに待ち望むのだ。これに対して、どのような仕方で助けてあげなければならないかを定める者には助けは来ない。神の御心に合致する時を待つことができないからだ。』
野の花(続) ニワゼキショウ(庭石菖)
<人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。詩編103:15>
かねてよりこの小さな花が気になっていました、初夏になると裏の小さな原っぱに他の草花に負けじと元気よく咲き出します。名前を調べたらニワゼキショウというアヤメ科の草花で北米からの帰化植物でした。咲き始めは4~5㎝程の小さな丈ですが今頃の時期になると10㎝以上になります。また公園などの草原を良く観察していると驚くほど豊かな植生が見られます。思わず息を呑まんばかりの小さな1mm程の可愛い花をつけるキュウリグサも見付けました、残念ながら私のカメラでは写す事が出来ませんでした。
主日礼拝説教 2025年5月25日復活後第六主日 スオミ教会
使徒言行録16章9-15節
黙示録21章10、22節-22章5節
ヨハネ14章23-29節
説教題
イエス・キリストのシャーローム
שלומ יהושע משיח
Η ειρηνη Ιησου Χριστου
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1.はじめに
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は戦争がない状態と理解されます。今私たちはウクライナやガザの戦争が一日も早く終わるようにと願い毎日祈っています。ところが世界には他にも武力衝突があったりもうすぐ起きそうなところもあったりして世界から平和が失われていく状況があります。また他国の攻撃に備えるためと言って軍備の増強があちこちで進められています。そんな時世にイエス様が平和を与えると言っても空しく聞こえてしまうかもしれません。
ここでイエス様が与えると言った「平和」について立ち止まって考えてみます。イエス様は「私の与える平和」と言い、この世が与える平和とは違うと言います。イエス様が与える平和とはどんな平和なのでしょうか?イエス様はまた、自分の平和を与える時、この世が与えるような仕方では与えないと言います。イエス様はどのような仕方で平和を与えて下さるのでしょうか?
このことについて宗教改革のルターが上手に教えています。以前にも紹介したことですが、要点だけ復習すると、この世が与える平和とは外面的に害悪がない状態のことである、イエス様が与える平和とは外面的にはいろんな害悪、疫病とか敵、貧困とか罪や死それに悪魔といった害悪が私たちに襲い掛かって来ても失われない平和である。この平和を頂くと、心は外面的な不幸に左右されないばかりか、不幸の時の方がかえって勇気と喜びが増し加わる。まさに使徒パウロがフィリピ4章7節で言うような「人知を超えた神の平和」です。
このようにルターは、外面的には平和がなく不幸や害悪があっても内面的にはそんなことに動じない平和があるというのです。こんなことを聞くと、「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいだ、キリスト教と禅仏教には共通点があるなどと言い出す人がでるかもしれません。しかし、共通点はありません。「心頭滅却」の方は苦難や苦痛に遭遇しても心を無にすれば苦しみを感じなくなるという意味ですが、キリスト信仰の方は心を無にしません。全く逆です。神から頂くものを心で受け取って受け取ってとにかく受け取って、それで心を一杯にして苦しみに埋没しなくなる、そしてしまいには苦しみを踏みつぶして前に進んでいくということです。それなので、イエス様が与える平和を理解しようとしたら、まず神から頂くものは何かがわかってそれで心を満たさないといけません。以前の説教で今日の聖句を扱った時、イエス様が与える平和とは外面的な平和が失われても揺るがない内面的な心の平安であるとお教えしました。今回も同じ内容のことをお話ししますが、少し角度を変えて見ていきます。
2.シャロームの観点
本日のイエス様の言葉が書かれているヨハネ福音書は古代ギリシャ語で書かれています。イエス様が言われる「平和」はエイレーネ―という言葉です。ただし、イエス様が弟子たちと会話した時の言葉はアラム語という言葉でした。ギリシャ語のエイレーネ―の元にあるアラム語の言葉は間違いなくシェラームでしょう。これは言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームから来ています。イエス様の時代、ヘブライ語は(後に旧約聖書を構成する)神聖な書物の書き言葉で、律法学者とかファリサイ派のようなユダヤ教社会の知識人エリートが判読できる言葉でした。一般の人はアラム語を話して生活していました。アラム語は文字はヘブライ語と同じ文字を使いますが、文法は古代シリア語に近いのでヘブライ語とは異なる言語です。
さて、ヘブライ語のシャーロームですが、「平和」の他にもいろんな意味があります。辞書(HolladyのConcise)をみれば、健全な状態、無傷な状態、欠けるものがない状態、繁栄とか成功という意味があります。平和の意味もつまるところ、国と国、人と人との関係がそういう健全な状態、無傷な状態、繁栄した状態になるということです。アラム語のシェラームは挨拶言葉としても用いられるようになります(エズラ4章17節、5章7節、ダニエル3章31節、6章26節)。ヘブライ語のシャーロームも挨拶言葉になりました。「あなたに平和がありますように」という挨拶は、「あなたが健全な状態、無傷な状態でありますように、あなたに繁栄がありますように」という意味を持ちます。ここで大事なことは、これらの望ましいシャーローム、シェラームは、みな神から与えらるということです。それで挨拶は、神があなたを顧みてこれらの善いものをお与えくださいますように、という意味になるのです。
そこで、イエス様が与えると言った平和、シェラーム、シャーロームとはどんなものなのでしょうか?この世が与えるようには与えないのなら、どのように与えるのか?シャーロームが健全、無傷、繁栄、成功を意味し、もしそれらが揃っていれば、シャーロームがあることになります。神が顧みて下さったと思うことができます。ところが、もし、それらがなかったらどうなるでしょう?病気になったり、傷がついたり、失敗したり、没落してしまったら、シャーロームではなくなってしまう、それは神から見捨てられてしまったことを意味するのか?ここで、ルターが教えたことを思い出します。ルターは、外面的に害悪があって平和が失われた状態でも、内面的には失われない平和がある、そのような平和があれば、外面的な厳しい状態に立ち向かっていける、そういう平和をイエス様は与えると教えるのです。健全、無傷、繁栄、成功はもちろん神が与えてくれるものです。しかし、それらがなくなってしまったら、それは神から見捨てられた証拠だなどと言ってしまったら、シャーロームを神から切り離してこの世が与えるものに貶めてしまうことになるのです。イエス様は、普通に考えたら健全、無傷、繁栄、成功はないのに、実はそれらはあるというシャーロームを与えると言われるのです。それで、この世が与えるようには与えないと言われるのです。イエス様が与えるシャーロームとはどのようなものなのでしょうか?
3.神とのシャーローム
イエス様が弟子たちにシャーロームの約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。その後で十字架の出来事が起こり、その三日後に死からの復活が起こりました。イエス様が神の力によって復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間が神から罪の罰を受けないで済むように、神のひとり子が身代わりになって受けて下さったということです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになれるのは、神がイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたからです。
このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を用いて人間に自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の出来事が起きて人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んで結びつきは失われてしまいました。神の神聖さとは罪を焼き尽くさずにはおかないものだからです。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神との関係が健全・無傷でなくなり、没落と失敗になってシャーロームがなくなったのです。神と人間は敵対関係に陥ったのでした。
しかし、神はひとり子を用いて人間が失ったものを回復する道を開いたのでした。人間はこの神の救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当にメシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのはあの時代の人たちだけでなく後世を生きる私たちにも向けられているんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを受けられ神との結びつきを回復するのです。神との結びつきが回復すると今度は、復活した主が切り開いてくれた道、死を超える永遠の命への道に私たちは置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと導きを与えて下さるということです。この世から去った後も、復活の日に目覚めさせてくれて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。このように神との結びつきを回復した人は神との関係が無傷な状態、無欠な状態、繁栄した状態、成功した状態になるのです。神との関係がシャーロームになるのです。まさに使徒パウロがローマ5章1節で「主イエス・キリストによって神との間に平和シャーロームを得ている」と言っている通りです。そのシャーロームはイエス様が成し遂げた十字架と復活の業を心で受け取ることで得られました。だから、イエス様が与えるシャロームなのです。この世が与えることができないシャーロームなのです。
4.失われないシャローム
しかしながら、私たちが生きているこの世というところは、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力が沢山働いています。例えば、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者と言えども、内側には神の意思に反する罪が残っています。さすがにそれを行為に出して犯すことはしなくても、言葉に出してしまったり、心の中で思い描いたりしてしまいます。まさにその時、お前は神の前では失格者だ、赦されたなんていい気でいるのもそれまでだ、などと糾弾する者がいます。言うまでもなく悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて自覚を失意と絶望に増幅させます。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。ヘブライ語の言葉サタンには非難する者、告発する者という意味があります。文字通り、悪魔は私たちを神の前で告発するのです。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われました(14章26節)。
私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて私たちを責めるようになっても、聖霊は神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエスの十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエスを救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです。」すかさず今度は私たちに向かって言われます。「心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているんですよ!」洗礼を通して聖霊を受けた私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた父なるみ神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい。
その時、私たちは安堵と感謝に満たされて、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正すでしょう。本日の福音書でイエス様が言われるように、彼を愛する者は彼の言われたことを守ることが本当のことになる瞬間です。キリスト信仰者は罪の自覚と告白と赦しを受けることを繰り返すことで、神との関係がシャーロームであることがますます真理になっていくのです。
内に残る罪の他に、もう一つキリスト信仰者から神との結びつきを失わせようとするものがあります。私たちに何か神の意思に反することがあったわけではないのに苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいと思ってはいないのではないか?という疑いが生じてきます。一体自分に何の落ち度があったのかと神に対して非難がましくなります。
このようなことはヨブ記の主人公ヨブにもみられました。神の御心に適う正しく良い人間でいたのにありとあらゆる不幸が襲い掛かってきたら、正しく良い人間でいることに何の意味があるというのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところでたたみかけるように問いかけます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。私は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは私が造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、お前たち人間の知恵ではとても把握しきれない仕方で私の意思が働いている。なので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味ということにはならない。人間の知恵では把握できない深いことがある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。
神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて眠れる者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなことが出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかかり、復活されれたではありませんか!イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪を忘れてやる、過去のことは不問にする、新しく生きなさい、と言って下さるのです。
4.勧めと励まし
神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで満足というような薄情な傍観者ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して復活の日に無事に送り届けようと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをされたのです。なので、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもその道をしっかり歩めるように支援する責任があるのです。神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえない以上はそうなのです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も祈りも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援の形です。
このようにイエス様を救い主と信じる信仰に留まり、罪の赦しのお恵みに留まって進んで行けば、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく見捨てられたなどということはありません。境遇を神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度に考えたら、シャーロームはこの世が与えるものになってしまいます。そうではありません。イエス様の成し遂げて下さった業のおかげと、それを心で受け取る信仰のおかげの二つのおかげで、私たちには神とシャーロームの関係があるのです。私たちの周りでこの世が与えるシャーロームが崩れ落ちても、イエス様が与えるシャーロームは最後まで残るのです。