スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

 

秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは10月10日(土)13時から開催します。

今年の夏フィンランドではラズベリーがたくさん実りました。それにあやかって今回の料理クラブではラズベリー・ケーキを作ります!生地の上にラズベリーをふんだんに並べ、ヨーグルトのクリーミーなフィリングをトッピングにすると、甘酸っぱいラズベリーの味とチーズ・ケーキのようななめらかさを合わせもつケーキができあがります!そんな味わいのあるラズベリー・ケーキを一緒に作ってみませんか?

参加費は一人2000円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、
paivi. yoshimura@gmail.com まで。

2026年9月27日(日)午前10時半 聖霊降臨後第18主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年9月27日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書21章23~32節

説教題:「神の権威をもって、戦う救い主」

 

テレビのニュースを観ていて、戦争のニュースがない日はない。毎日、世界中の彼方此方で戦争で若い兵隊が命を失っている。爆撃で建物が一瞬に壊され病院や学校、大切な施設まで容赦なく破壊されている。悲惨極まりない悲劇が繰り広げられています。戦争は権力を持った国が権力の弱い国を容赦なく奪い取ろうと武力で戦ってゆく。人間や国の権力の争いが悲劇を生んでゆきます。

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今日の聖書は権力の問題で、主イエス様に対してユダヤ教の指導者たちとの問答です。表面上の言葉のやり取りの勝ち負け程度のものではありません。イエス様からしてみれば神の使命を受けた命がけの十字架の死に関係する大変な激しい戦いであるのです。今日の聖書を見ますとマタイ21章23節以下に権威についての問答とあります。23節「イエスが神殿の境内に入って教えておられると祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこような事をしているのか。誰がその権威を与えたのか」。ユダヤ教の最高の指導者たちがイエス様に、何故このように言って来たのでしょうか。「何の権威で、このような事をするのか。」と、実は激しい戦いを挑んで来ているのです。イエス様に対してこのような事をする権威を持ち出して来て言いがかりをつけて言っているのです。そこで彼らが言う「このような事をする。」と言っているのは何かと言いますと、12節以下でマタイはちゃんと神殿で起こった事を記しているのです。イエス様が公の活動が始められて生涯の最後の週となります。21章の始めにいよいよイエス様はロバに乗ってエルサレムに入城をされると多くの群衆がホサナ、ホサナと歓声を上げて迎えます。12節から見ますと「それからイエスは神殿の境内に入りそこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を蹴倒され。そして、こう言われた。こう書いてある『私の家は祈りの家と呼ばれるべきである。』・・・普段は穏やかなイエス様と全く変わってエルサレム神殿で商売をしている者を皆蹴とばして怒り狂って叫んでおられり。神殿は祈りを献げる神の神聖な家なのだ!と、宮清めをなさった。この様子を見た、言わば神殿の管理をしているユダヤ教の指導者たち、つまり祭司長や律法学者たちはもう、内心怒りに満ち激しい憎しみを抱いていたでしょう。こうしたイエス様の激しい行動の出来事があって、今日の聖書の箇所です。その翌日、イエス様が神殿の境内で集まってきた人々に教えをなさっているところへ祭司長や長老たちが近寄って来た。そこで、昨日の神殿内でなさった商売人たちを追い出された暴挙について「ナザレから出てきた預言者とみんなが言っているお前はいったい何の権威でこのような事をするのか」と、言わば挑戦して来ているのです。彼等は神の権威は自分たちが持っているのだ、だからこの神殿の管理の全責任もあるのだ。それなのに、ナザレの田舎から出てきた、一介の教師にすぎない若僧が群衆の人気を得ている。そんな男にどんな権威があるというのだ。彼らはユダヤ教の指導者でありエレサムの最高の議員であるサンヘドリンという権力者たちです。ですから、イエス様を見下して質問しているのです。イエス様は彼らの質問に答えられました。「では、私も一つ尋ねる、それに答えるなら私も何の権威でこのような事をするのかあなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は何処からのものだったか。天からのものか。それとも人からのものか。」イエス様の返答は彼らの質問内容には答えないで、かえって反対に質問をされ彼らの口を封じられました。ユダヤ教の最高指導者と雖もバプテスマの人々にヨハネの叫んだ「悔い改めて神を信ぜよ!」という真の信仰への叫びに対して彼らは悔い改めも出来ない、信仰が問い詰められると何も答える事が出来なかったのです。神聖であるはずの神の家を商売の場にしてしまっている、目前の利益の欲に取りつかれて表面だけは信仰ぶって神の権威を乱用しているサンヘドリンの議会の最高権力を持っている祭司長たち長老たちをイエス様は神の家で打ち負かされました。

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そうして、28節から見ますと、即座にイエス様は譬えの話をされます。二人の息子の譬えです。この譬えはあの「放蕩息子」の譬えと似ていると言われています。「ある人に二人の息子があった」と語りだされたところは両方とも全く同じ語り出しです。それだけでなく二人の息子が何れも同じ種類の人々を指しているという点に至るまで全く同じです。つまり、目の付け所はどちらも同じですが「放蕩息子」の譬えよりこの方がイエス様の十字架の死が目前に迫っているだけに、また子の譬えが語られた相手の方がユダヤ教の大物であるだけにイエス様の語られたところ、その迫力は凄いものがあります。しかも、この譬えはとても短く「放蕩息子」の方よりもっと直截的です。「そのものずばり」といった感じさえします。父親が長男の方へ行き「ブドウ園で働いてくれ」という言葉に逆らわず「お父さん行きます」と答えた。しかし、長男はその言葉通りにはしませんでした。これは何よりもユダヤ教の指導者を始めとしパリサイ派の人たちなど所謂、比較的熱心だと言われる人々の姿を表しているでしょう。彼らは口先では宗教的な事を言い形の上ではいかにも信仰者らしく振舞います。彼らの信仰の考えは上部だけの教養程とでも言える形だけの儀式を人々の前でやるのです。熱心に宗教の事を口にするかも知れませんが彼ら自身の罪深い本質は変わっていない、気づこうとも悔い改めもないのです。それは、あたかも口先では「お父さん。ゆきます。」と答えながら、その言葉通りにはしなかった長男の姿ではありませんか。ところで、もう一方の次男の方も同じように「ブドウ園で働いてくれ。」と言う父親に対して「嫌です」と言いながらも思い直して父の言葉に従います。この次男の姿は「徴税人や遊女たち」のことです。彼らは神の民の一員として生まれながらも神の御心に従わず、神の国の御用に役立つというより異邦人の支配者ローマ皇帝の手先になって税を取り立てたりして民を苦しめていた連中です。また、不倫を金のため楽しんでいるような女性たちです。しかし、バプテスマのヨハネが登場してヨハネの悔い改めの説教を聞いて悔い改めます。ヨハネの教えてくれた救い主イエスにやがて従ってゆくようになる人々です。これは譬えの後で主ご自身が解説しておられる事によってよくわかります。ところが、長男に相当するユダヤ教の指導者をはじめとするパリサイ派の人たちはあの後から思い直して主に従った人々を見ても心から悔い改め、思い直さなかったのです。そればかりか、かえって彼らを見て心を頑なにして自分たちの誇り、自分たちの驕り高ぶった権力を振りかざしてゆく事になりました。イエス様はこの最も単純な譬えを語られてサンヘドリンの指導者たちの頑な心に対して「本当に、私はあなた方に言う。徴税人や遊女たちはあなた方よりも先に神の国に入る。」と言われました。だからといって彼らに対して「あなた方は後からでも入る。」とは保証されませんでした。しかし、そうかと言って「絶対に入れない」と言って突っぱねてもしておられません。主イエス様は最後の最後まで神様の前に心から悔い改めをすようにと真剣に救いの機会を与えて待っておられるのであります。この譬えから私たちは罪の根源にどうしても自己を守ろうとする、さらに自己中心に理性が正しく働いてくれると思い込んでいますが、大切な事は口先や表面上は色々うまく繕っても神の前に真実に悔い改めて実行してゆくことであります。自己中心的な自我を砕かれる事を快しとしない自分がいることに気づくことです。「お父さん、嫌です」と言っても神様の前に思い直して従ってゆく姿をこそ主イエス様は最後には喜んで下さるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

歳時記 続・一号遺跡

〈 10私は自分の願いを何でも満たそうとした。どんな楽しみも心の赴くままに求めた。一生懸命に働き,心には喜びが生まれた。この喜びこそ私が一生懸命に働いて得た報酬だ。 11  私は,自分の手で行った全てのこと,苦労して成し遂げたことを振り返ってみた。すると,全てはむなしく,風を追うようなもので,この地上に本当に価値 のあるものは何もなかった。伝道の書2:10、11〉

続、一号遺跡

承前。この一号遺跡は散歩の途中にあり此処を通らなければ家には帰れない関所のような所でした。十年ほど前にこの遺跡を知りました。当初からこの遺跡の竪穴遺構は馬を飼うための施設、馬小屋の跡ではないかと思っていました。何故ならば、竪穴の四周の壁はまさに馬牧の柵に匹敵するからです。古代から馬牧は山や丘、川などの地形を利用してきました。その足りない部分を柵や土塁などで補っていました。竪穴が馬を飼う施設と知り今度は当時の馬の大きさについても調べてみました。当時の馬は現代のサラブレッド(背高165㎝)とは異なる蒙古馬系の小型の馬(背高130㎝)でした。遺跡の観察の回数も増えてきましたので次にこの遺跡の復元図の作成を試みたくなりました。幸い図書館に遺跡の調査報告書があるのを知り取り寄せて調べてみました。考古学的には良く出来た報告書でしたが遺構についてはあまり参考にはなりませんでした。それでも、遺構の計測の資料があったので参考にしました。幾度も通っているうちに次第に全体のイメージがまとまって来ました。しかし、三点ほどどうしても解けない謎がありました。第一は竪穴と馬の出し入れ。第二は南北の二種類の柱(丸太柱、太鼓落としの角柱)。第三は東西の妻側の真ん中の芯ずれした独立柱の意味などでした。しかし、図面を引いているうちに次第に謎が解けてきました。第一の馬の出し入れはスロープを設ける、でした。第二、第三は少し専門的になって説明し難いのですが、第二の謎は太い丸太の柱は梁を受ける柱、太鼓落としの角柱は軒桁を受ける柱、と柱を二通りに使い分けていたようです。第三の謎は一番難しかったのですが馬の出し入れにはどうしても柱の中心線をずらさなければ馬の出し入れが出来なかった、それで馬の大きさが必要でした。この柱はそのための苦肉の策のようでした、当時の大工は技術的にも未熟で、それに相応しい道具も持ち合わせていませんでした。それ故に彼らなりに考えた解決法でした。図面を引きながら何時しか当時の大工と同じような気持ちになり同じように考えていました、そして考えた末の図を此処に掲げました。

終わりに。調査報告書によるとこの館は中世の町田市全域に渡る激しかった戦乱の業火にも会わず、何故かそのままの形で捨て置かれたようです。その証拠に貴重な財産である天目茶碗や明銭の束が出土していました。また、調査報告書には館の北東の隅に断定は出来ないが火葬跡があったとの記述があります。当時の火葬は高貴な人や豪族、僧侶などに行われていたようです。・・此処から先は私の極めて勝手な想像です。火葬されたのが、館の当主でしたら、その死は予想もしない突然の死だったかも知れません。当主の死後、館は慌ただしさの中に残された財産の始末もなされずに館を閉鎖して残った人々も一斉に去って行ったのかもしれません。谷戸の向かいの尾根にはこの館の当主のものとみられる人の墓が掘り出されました。館の当主は自分の死後もこの館の顛末を見ていたに違いなかったと思っています。了

ところで最近の散歩でまた新たな疑問を見つけました、ひとつの謎を解き明かすと又次の疑問が生じてきます。全ての疑問を解き明かす事は到底無理ですが何処までやれるか自分の寿命との競争ですね。

太鼓落としの柱:丸太の二面を削って角柱にした。  芯ずれ柱:柱間の中心線から外れた独立柱。外観図について:厩舎の屋根は安価で手に入れ易い杉或いは桧の樹皮を葺いています。館は茅葺を想定しました。周囲の建物は倉庫、厠、作業人らの小屋等です。

  

歳時記

 

一号遺跡

〈 また彼らはおのおのその割当にしたがって馬および早馬に食わせる大麦とわらを、その馬のいる所に持ってきた。 列王記上4:28〉

”赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ” 宇遅部黒女 万葉集には多摩の名が出て来る歌は二首しか載っていません。この歌は多摩での馬牧(うままき)を現わしている貴重な歌です、この歌には当時の多摩丘陵での馬牧の様子がよく表されています。古来から多摩では馬牧が盛んでした。丘陵での馬牧は丘に囲まれた谷戸が最適でしたが谷戸は耕作地が少ない多摩では食料生産の場として使われていました。黒女さんのように馬は山野(丘陵)ではがし(放牧)されていたようです。また多摩には大きな集落が少なく小さな集落が点在していました。従って馬の飼育も個人単位で行われていたようです。黒女さんも一頭しか飼っていなかったのでその赤毛の馬を捕まえそこなって防人となって出征する夫を多摩の横山道を歩いて行かせてしまった、と嘆いています。今回の一号遺跡の概要は歴史的には平安末期から室町期にかけての遺跡とされています。遺跡は谷戸を見下ろす南面した丘の中腹を開削して東西約50m南北約10~20m、面積約800㎡の平坦地を造成し尚且つその中央に12m×6m、深さ約1.3~1.5mの大型の竪穴を設けてあります。またその東西には複数の建物群の遺構もあります。資料によると。12世紀に小山田別当有重と言う人がこの地に広大な馬牧を営み配下にも谷戸の開墾を進めた。とありますので確かではありませんが有重の配下の人が起こした馬牧の場であったのかも知れません。私は散歩の折に何度も此処に佇み往時の姿を思い起こしていました。(次回へ続く)

馬牧(うままき): 飛鳥時代の頃に兵部省によって管理された牧場で、主に軍馬や貴族への貢馬、駅伝馬などの供給源とされました。馬牧の立地は、山や丘陵に囲まれた窪地が利用され、袋状の谷戸に馬を追い込み、出入口を馬柵棒(ませぼう)をかって馬の逸出を防いだり、外部からの危害を防ぐ繋飼場(けいしば)にもしたと言う。この小山田の地はその適地だったと言えます。

2026年9月20日(日)10時半 聖霊降臨後第17主日説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団) 礼拝

2026年9月20日福音ルーテル・スオミ・キリスト教会

礼拝説教

マタイによる福音書20章1−16節

「全ての人々へ等しいキリストの福音の約束」

田口 聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

1、「背景」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の聖書の言葉は、私たちの救いも、そして、そこにある日々新しいいのちの歩みも、それは私たちが何かをして得たものではなく、どこまでも主なる神が約束してくださった通りに与えてくださったものであり、全て神の恵みであることを教えてくれています。

 これはイエス様が語った譬え話です。どのような背景でこれを語っているでしょうか。19章の後半を見ると、金持ちの青年の話が記録されています。彼はイエス様のところにやってきて「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねます。そこには彼は自分はいつも律法に従って良いことを行なっているという自負がありました。なぜなら、イエス様が十戒を示したときに、20節、「そういうことはみな守ってきました。」と言い、「まだ何か欠けているでしょうか。」と答えているからです。彼は「良い行いについて」尋ねていながら、「自分には欠けているところがない」と答えるのです。彼には永遠の命を得る自信がありました。しかしその根拠は、ただの自分は律法を行い欠けたところがないという自信だけでした。それに対してイエス様は彼が決して神の前に完全ではないことを言うのです。21節「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 と。イエス様は彼が律法において欠けているところがないと言うなら、律法が求めることはどのようなものかを示し、そしてそれを行なって自分に従うように招いたのでした。しかし、青年はそのイエス様の言葉を聞いた時、悲しみ立ち去ったのでした。なぜなら、青年は財産を沢山持っていたからでした。そこでイエス様は言います。23節

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 それに対して弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚きます。しかしそれに対してイエス様は言うのです。26節

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」

2, 「神の律法の前に義人はいない」

 神の前、神の律法の前には、普段から良いことをたくさん行なっているという自負のある青年であっても、不完全です。イエス様は青年をいじめているのでも責めているのもでなく、人間がどれだけ善を行なっても、神の前ではどこまでも不完全である、そのことを青年に教えたかったのでしょう。そして、弟子たちの「それでは誰が救われるだろうか」という問いはある意味、的を射ています。誰でも神の前、律法の前では、ただただ罪人です。不完全です。主なる神が求める律法の完全さに誰も叶うものはありません。つまり、人は、自らの行い、あるいは、自分がどれだけ持っているか、どれだけのことをしたかに救いはかかっているのでは決してありません。そう、私たちの前にある真理は、イエス様が言われる通り、救いは、

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」

 それが紛れもない私たち人間の救いの真理なのです。しかし、27節、ペテロは、それでもおそらくイエス様の言葉の真意を悟るのに鈍かったのでしょう。

「すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 

 これはペテロの敬虔な言葉のように聞こえます。しかし、反面、彼は自分たちはこれだけのことをあなたにしたのだから、あるいは、そうすることで従ってきたのだから、いっぱい長く従い、いっぱいあなたのためにしてきたのだから、その行いに見合う多くのものをいただけるでしょう。と言う思いがあるでしょう。イエス様は確かに全てを捨てて従ってきたものには多くの報いがあり、永遠の命を受け継ぐのだと言います。しかし、それは弟子たちの行いのゆえなのでしょうか?弟子たちが沢山行なってきたからなのでしょうか?つまり、救いや新しいいのちの生き方や働きや受けるものは、「人がどれだけのことをしてきたか」にかかっているのでしょうか?そこでイエス様は、この20章1節から天の国は次のように例えられると教えたのでした。

3、「葡萄園での働き人を雇う譬え」

A,「主人からの約束」

 そこでは葡萄園の主人が葡萄園での働き人を雇います。主人は、夜明け、9時、12時、3時、そして5時と、合計五回、人々を雇います。2節を見ると「一日につき一デナリオンの約束」でと書かれています。そして4節では、9時に出会った人々に主人は「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言っています。さらには、それ以後の時間に出会った人々にも5節「同じようにした」とあるのです。ですから、この労働は、当然ですが、葡萄園の主人が、しかも主人の方から雇い入れるものでした。さらには主人が主人の方から「一日につき一デナリオンの約束」と言う約束を示し、その約束に基づいて雇い入れています。そしてその後も「同じように」とあるように、それがどの時間に雇った人々にも「相応しい賃金として」主人が定め、主人が与えると約束したものでした。つまり、労働者がそれぞれ長く働いたらその長く働いた分だけ与えるという約束はしなかったのでした。夜明けに最初に出会った人にも「一日につき一デナリオン」と約束していたのでした。そして、労働の終わりに、先のものにも後のものにも差はなく、同じ報酬を約束の通りに与えたのでした。それはまさに「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ように思うでしょう。19節の最後30節でもイエス様は「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言っています。

 天のみ国はそのようなものなのです。つまり、先に召されようが後に召されようが、神の約束、神が与える救いや新しいいのちの恵みの全ては、全ての人々に等しく及ぶのです。それが神の約束であるからです。それは人の行いやその量にかかっているものではありません。つまり、先に救われたとか、だから長い時間、沢山、従ってきた、沢山のことを行なってきた、自分はどれだけのことをしてきたとかは、関係ない、約束に従うものは、長かろうが短かろうが、全ての人々に等しい約束のものを受けることができる、それが天のみ国に他なりません。ですから、普段、立派だから、良いことを沢山しているから、より神の国に相応しい、していないから相応しくない、天のみ国はそのようなものではありません。誰であろうと、主人が約束したものをそのまま受ける時、その約束したものをそのまま受けられる、なぜならそれが主人の約束だから。それが天のみ国なのです。

B,「沢山働いたものたちによる不平」

 しかしです。10節以下、こうあるのです。

「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 」

 最初に来た人達は、主人のやることに不条理を感じたようです。自分は後から来た人々よりも最初から働いてきた、長く働いてきた、沢山の成果を出し、沢山の労働力を費やしてきた、だからもっとくれてもいいではないか、最後に来て少しし行なっていない働いていない連中と同じ報酬なのか?不平を言うのです。気持ちはよくわかります。確かにこの地上の社会では、そのような原理原則こそが平等であり、いっぱいすれば、いっぱい行えば、いっぱい成果を出せば、そうではない人々よりもより多くのものを受けるはずだ。世の中はそのように動いています。しかし神の国のこと、神の考えていることはそうではないのです。神の救いの神の国の約束は、人がどれだけのことをしたか、どれだけ長いことしてきたか、どれだけ貢献し、どれだけ成果を出し、どれだけ成功してきたのか、にかかっているのではない。約束は全ての人々に語られ向けられ、その約束の通りに受けるものは、その通りに約束のものを必ず受ける、なぜなら、それは人が決めた人から神への約束ではない、どこまでも神が定めた神から人への一方的な約束であり、神が人に与えるものだからです。ですから主人は言うのです。13節。

「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 そう、全ては神のものが神が定め神の約束した通りに与えられる。それが天のみ国、神の国であり、救いの恵みです。私たちが沢山頑張ったからと私たちの行い云々で左右できるような小さな範囲の神の国ではないのです。しかし、世の宗教をはじめ、世の人々は救いを逆に考えてしまいます。まさに世の価値の基準に従って神が与えてくださるものまでも計ります。そしてその通りに受け取れないと、神に不平を言うのです。神はずるい、神は間違っているのではないか、神は不公平ではないか、だから神はいない、インチキだ。しかしそれは神中心ではなく、どこまでも人間中心の、自分がどれだけ行なってきたのか、しかも隣の人がどれだけ行なったかと比べての、狭い視点から見ている神への評価に過ぎないでしょう。それは絶対的なものにはなり得ません。むしろ神を自分たちの評価の枠にはめて神を限界のあるもの小さなものにしてしまっています。

C,「ヨナの不平と重なる」

 最初の聖書箇所であった、ヨナ書のヨナの不平も似たようなものがあります。彼はニネベに遣わされますが、行くのを拒みました。そして魚のお腹にあって彼は悔い改め、ヨナ書2章10節にある通り、「救いは、主にこそある。」と告白し、ニネベに向かいます。そしてニネベの人々に神の言葉を伝え宣教をするのです。そして、素晴らしいことに、その宣教は成功するでしょう。ニネベの人々はヨナの伝える神の言葉を聞いて悔い改めるのです。素晴らしい出来事です。しかしです。ヨナは、その結果に大きな不満を表し怒ります。ヨナ書4章2節以下の彼の言葉を見ると興味深いです。

「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 」

 なんと、ヨナは神が恵みと憐れみの神であり、忍耐と慈しみに満ちていることを知っているのですが、それに対しての不平です。つまり、その恵みと憐れみでニネベの人々を悔い改めさせたことに怒っているのです。なぜでしょう。それは、ヨナにとっては、ニネベの人々は異教徒であり、悪い裁かれるべき民であり救われるべき民ではなかったからでした。だから、彼は最初、怖いからという理由でニネベに行くのを拒んだのではないのです。ニネベの人々に伝えるのを拒んだのです。確かにニネベの民は異教の民で、悪の溢れる民は裁かれるべき、滅ぶべき、人間の感情としては叫びたいのかもしれません。しかしそれはヨナの思い、人間の思いであり、神の思いではないでしょう。神の思いはニネベの人々が悔い改め滅びを免れることです。人の評価から見るなら、悪いことをしている、真の神を信じない、偶像礼拝をしている人々は、神を信じる私たちと同じものは受けるべきではない、そうなるでしょう。しかし、神の思いは違います。全ての人々が悔い改め、真の神に立ち返り、誰でも悔い改めるなら全ての人々に等しく与えると約束している恵みの罪の赦しと救いをそのまま受け取り、滅びないようになることが神の思いです。そう、ヨナも自分中心の行いの評価で神のなさる救いを計っています。そして自分の思い通りではない神がなさることに、それが恵みであっても納得できなかったのでした。そう、葡萄園で最初から働いていて、最後に数時間しか働かない人々と同じ報酬を受け取った時に、約束の通りを受け取ったのに不平を言っている人々と重なるでしょう。ヨナはトウゴマの木のことでもそうです。神がヨナを憐んで与えたトウゴマの木です。その恩恵、その神の恵み、自分が受ける益には感謝し喜ぶのです。しかし自分の願う利益が得られなくなるとその木を惜しみ、その神の恵みに不平を言い、怒るのです。全て自分が基準、自分中心で見てしまっています。神は言うのです。ヨナ4章10節11節。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

D, 「天のみ国とは」

 神はヨナに問いかけているのです。「あなたは自分に利益を与える植物には憐れみを感じるのに、わたしが造った何万人もの人間には憐れみを感じないのか」と。

 天のみ国はこのようなものなのです。人間がどれだけのことをしたか、しなければいけないか、に左右されない、それを人間がどう評価し、どう思うかも関係ない。神は全ての人々が悔い改めてイエスキリストの十字架による罪の赦しを受け取り、復活の新しいいのちに生かされていくことを何よりも願っている。そのために私たちは召され、そのために私たちの教会はある。その福音を今日も説教で語り、その福音をそのまま私たちが受け取るように今日も差し出されています。パウロも「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」とまさに自分中心、自分基準を放棄しています。生きるにも死ぬにもキリスト、キリストにあっては死もまた益である。私たちの行い、私たちの勲によって私たちの新しいいのちの生活はあるのではない。すべてはキリスト、全てはキリストの恵み、キリスト・イエスに結ばれているから。だから律法ではなく、キリストの福音に相応しい生活があるのだと。その福音にあって生きなさいと。

4、「結び:空っぽの手で福音を受け取る」

 今日も主は約束してくださった通り、この恵みの手段である聖餐を通して、救いの恵み、罪の赦しと新しいいのちを与えてくださいます。私たちは手に自分の何かを握ってまず何かを神のためにするから神は報いてくださるのではない、神が約束のものを約束の通りに与えてくださる。だから私たちは今日も空っぽの手を開いて、主が受けよと与えてくださるイエス様のからだと血をそのまま受け取ろうではありませんか。イエス様は今日も宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ平安のうちに今日も遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

歳時記

葛の花

〈15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15,16〉

葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり。 釈迢空 「海とやまのあひだ」

朝の散歩の終点の小さな丘に登ると道に葛が我が物顔に蔦を伸ばしています。迢空さんは踏みつけて歩いたようですが臆病な私は蔦が足首に絡みつくような不気味さを感じて除けながら通り抜けています。葛の花は綺麗なのですが蔦が蛇のようにのたくっている姿はいただけません。憶良さんの秋の七草です、読めましたか?  ”萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また 藤袴 朝貌の花” 山上憶良。

注:朝貌は朝顔にあらず、桔梗でした。万葉時代には桔梗を朝貌と呼んでいたのですね。

説教「罪の赦しという神の恵みに満たされてこの世を生きる」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書18章21-35節

主日礼拝説教 2026年9月13日(聖霊降臨後第十六主日)

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの家来に怒り、自分がしたように情けをかけるべきではないかと言って牢屋に入れてしまったという話でした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければいけないと教えているんだと思うでしょう。

ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していた額は大体100万円です。その彼が王様に負っていた負債額は6,000憶円。(これらの金額の算出方法はホームページに説教文を載せる時にそこで説明します)。情けのない家来は6,000億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の100万円の借金は免除してあげなかった。これだけ莫大な借金を免除されたら、普通だったら、解放感とこれからは新しい人生を歩めると希望や感謝に満たされて、誰かが少しの借金の返済を待って下さいとお願いしたら、そんなものはもういいですよ、という気持ちになるのではないだろうか?それなのにこの家来はそうしなかった。イエス様はなぜこの情けのない家来の話をしたのでしょうか?

このたとえは、イエス様がペトロの質問に答えてその続きに来ます。ペトロの質問は、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、ということです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。

キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならない。なぜなら、信仰者が神から罪の赦しを受けたというのは1万タラントンの負債を帳消しにされたことと同じことで、兄弟の犯した罪など6,000憶円に対する100万円くらいのちっぽけなものにすぎない、だらか兄弟の罪を無制限に赦すのは当然のことになるからです。それではどうして当然のことにならなかった家来の話をしたのでしょうか?今日はそのことを考えてみましょう。

2.「兄弟」とは?「罪」とは?「赦す」とは?

まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。

まず、「私の兄弟」とは、先週の説教でもお教えしたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。

次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。

三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、相手が神の意思に反することをした時、された側は、先週の説教でお教えしたように、それは神の意思に反することだということを気づかせて、相手がそれを認めて謝ったら、それを受け入れて、受け入れたら今後は取りざたしない、不問にするというのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪が起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい、と。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?

ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」新共同訳では「罪に定めない」ですが、ギリシャ語原文では「裁かない」です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判の時にとやかく言われることはなく、申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と言われたら、本当にその通りにしなければ、と思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。

犯罪は処罰しないのかという疑問が残ると思います。それについて私は次のように考えます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然です。なぜなら神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないからです。そう言うと、なんだ、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合、赦しと刑罰は別々に考えるべきものと思います。赦しは被害を受けた人の心に関わることです。処罰や賠償は、社会が正義に基づいて成り立つために定められたものです。なので処罰や賠償は社会の安定に関わることです。

ここで罪の赦しは心に関わるということを少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に最終的に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと言います。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと自分を神に置き換えて自分で復讐することになってしまうと思います。自分で復讐しないで最後の審判の神の怒りに委ねつつ、この世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。まず、社会の法律や規定は万能薬ではないと観念する。なぜなら、こんな処罰、賠償では甘すぎる!とか逆に、行き過ぎではないか?ということが出てくるからです。そうした法律や規定を神の意思に沿うように運用して、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつも、パウロが教えるように敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませます。実際に行動に移せるようになるために心の有り様はそうなっていなければならないのです。処罰や賠償が社会の安定に関わるものなら、赦しは心の安定に関わるものです。

それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰でこのような心は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えます。

3.罪の赦し = 神に対する莫大な負債の帳消し

まずイエス様は本日のたとえの教えで、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることを見てみましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同じだ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。

ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日がそれです。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方こそ、かつてダビデ王が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間の代わりに受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に旧約聖書を介して次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後に全てがわかるようになった使徒たちは次のように記しました。

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)まさに罪の赦しは神の恵みなのです。

ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)彼らはイエス様が十字架の出来事の前に言われた次の言葉の意味がわかりました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)

神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として人間が罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。その価値は6,000億円など取るに足らない、まさに地上から見上げる天のような高さの価値なのです。私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、そして、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、すなわち罪という負債を神は御子を用いて帳消しにしたのです。

このようにして人間は自分では何の償いもしていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらい、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。

そこで今度は人間の方が、イエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて、この罪の赦しの状況に入れることとなりました。この中に入った人は、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起きたのだとわかり、それでイエス様は真に自分の救い主だと知っています。その人は死を超える永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めます。そして、この世を去る時が来ても、安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。復活の日までの眠りの時もずっと主のものであり続け、復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者はイエス様の十字架と復活の業のおかげと彼を救い主と信じる信仰によって、罪の赦しという神の恵みに満たされて、この世と次に到来する世の双方にまたがって生きていきます。

4.勧めと励まし

これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分に起こったことがわかります。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しは、兄弟が犯した罪などを小さなものにし、赦しを「心から」するものに変えていきます。たとえの家来は、少額の借金の家来が猶予を求めても聞き入れず牢屋に送ってしまいました。これは、罪を犯した兄弟が赦しを求めても赦さないで裁いてしまうことを表します。情けのない家来が牢屋に入れられてしまったように、赦さない信仰者は裁かれてしまうのです。

それにしても、どうして赦すことができないということが起こるのでしょうか?それは、永遠の生死にかかわる莫大な負債の帳消しが神のひとり子の犠牲の上に成されたこと、それがどれほど尊い犠牲であるかが心に刻まれていないからそうなるのです。イエス様がこの家来の話をしたのは、キリスト信仰者が果たして罪の赦しという神の恵みに満たされているかどうかを自問するためなのです。

最後に、もし罪を犯した兄弟がそれを認めず謝罪もない場合はどうすべきでしょうか?その場合は赦さなくてもよいのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、先週お教えしたことを思い出せばよいでしょう。そのような心の頑なな兄弟は、害を被った信仰者にとって異邦人か取税人のようになればいい、ということでした。ただし、その趣旨は断罪的ではないと申しました。その兄弟の問題は神との結びつきが揺らいで天の国への歩みに支障が生じたということです。だから、それを元に戻せるようにすることが目指されなければなりません。それで害を被った兄弟は証人や教会の代表者と一緒に祈ることから始めなければならないと申しました。これは裁くことと正反対のことです。まさに心から赦す準備ができていることです。なので異邦人か取税人のようになればいいと言うのは、目下のところはそのようなものでいるのは仕方ないが、時が来れば兄弟に戻ると信じているということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

スオミ教会 手芸クラブのご案内

ビーズ刺繡秋の手芸クラブは9月30日(水)10時~13時に開催します。

今回はビーズ刺繡のテクニックを使ってアクセサリーを作ります。ビーズ刺繡とは布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付ける刺繡です。もともと服の飾りに使われた伝統的な手芸のテクニックで、今でも人気があります。このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品を作ることがま出来ます。

是非ご一緒にビーズ刺繡をしてみませんか?ビーズ刺繡

参加費: 1000円
材料費: 500円 (ピーズ、糸、針 など)

手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることができます。作りたいものがあれば、是非ご自由にお持ちください。

おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。

お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み

℡ 03-6233-7109
www.suomikyoukai.org