2024年6月23日(日)聖霊降臨後第五主日 主日礼拝  説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

「夏に宣教師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

説経題 「嵐を叱るイエス」             スオミ教会 2024年6月23日(日)

聖書 マルコ福音書4章35~41節

マルコ福音書4章では「種まく人」譬え話をイエス様はガリラヤ湖で舟の上から群集に語ってこられました。4章1節を見ますと、「イエスは再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群集が傍に集まってきた。そこでイエスは舟に乗って腰をおろし湖の上におられたが、群集はみな湖畔にいた。イエスは譬えでいろいろと教えられた。」とあります。

そうして4章35節以下では、その日の夕方になって話しは一転して湖の上での大自然を相手にした奇跡を弟子たちに見せられるのでありました。今日の聖書であります35節から見ますと「その日の夕方になってイエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。さぁここで、この一言で弟子たちは恐らく吃驚仰天したのではないでしょうか。弟子たちの中には、ペテロをはじめ何人もの、このガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちです。何十年もこの湖で過ごしてきて、この湖がどうなるかも知り尽くしている漁師たちです。夕方になり、日も暮れようとしている時、暫くすれば周囲は闇につつまれます。どう考えても不安と恐怖の念がペテロたちの心をよぎります。

しかし、イエス様の一声です。「向こう岸へ渡ろう」え?これからですか、と言いたい。弟子たちは感心できない状況を知りつつも、あえてイエス様に抵抗できない・・・・。ここでルカ5章の始めの場所と非常によく似ていることに注目したい。5章4節にイエス様がガリラヤ湖の岸辺で群集に教えられて話し終わった時、シモン「沖へ漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」と言われた。そのペテロが言ったんです。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も獲れませんでした。しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」。漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり網が破れそうになった」。とあります。シモン・ペテロがイエス様に、はじめは出漁の勧めを断って言います。「私たちは夜通し苦労して漁をしても何も獲れませんでした。漁師たちのこれまでの経験から今更網を降ろしても何も獲れないくらいわかり切っている、とっさにそう思ったのでしょう。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう、と言って実際、行動を起こして漁をして行きます。長年の経験や理屈ではない自分たちの誇りも何も捨てて、しかしお言葉ですから、とここにイエス様への信頼から起こる行動へと、お言葉に従ってゆくのです。

結果は自分たちが一度も想像だにしない大漁を見るのです。あの時イエス様に従っていった喜びが湧き出て、今またここに信頼と信仰から彼らを主イエス様の言葉へ決意させていったのです。たとえ、どんなに恐ろしい困難な状況が起ころうとしても、我が主と仰ぐイエス様に従う喜びがここに秘められている、と言っても良いかもしれません。36節を見ますと「弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」。対岸のゲラサ地域までの中間地点まで凡そ11km離れた頃から急に突風にあおられ暴風と激しい雨に舟は浸水し危険な状態になってきました。もう戻ることも出来ません。進むしかない。暗闇の中で更に恐怖が襲ってきます。ところが、この恐怖の弟子たちに対してイエス様は舟の艫の方で眠っておられるのです。ガリラヤの漁師を長年やってきた弟子たちはこのような暴風になる事もわかっていました。それを敢えてイエス様の言葉に従ってきたのです。“イエス様大変です、舟が沈みそうです。”もはや絶体絶命の時になんと言うことでしょうか。嵐の中で恐怖のどん底にあえぐ弟子たちと、かたやイエス様は舟の後ろで平安の中で眠っておられる。この対比はいったいどういう事でしょう。この事を人生の歩みで考えてみますならば、風と波の渦巻くこの世の支配の只中で困難の極みに苦しむ弟子たちの姿はまさに当時、ローマ皇帝の激しい迫害の下で苦しむキリスト教会の姿、そのものであろうと言う見方もあります。<大切な事は>嵐の中で翻弄する弟子たちと主イエス様の対比だけの話ではありません。初めから主イエス様がずうっと、この舟の中に共におられる、と言う事です。弟子たちがこれまで自分たちの経験から暗闇の海に舟で渡ろうなんてとても無理な事、危険にあうであろう、とイエス様に抵抗はしたものの、そこにイエス様の言葉に一切をかけて信頼して舟を漕ぎ出したのです。

<言い換えますなら>嵐吹くであろうこの世の困難に向って神の支配の下に想像もつかない神の次元の力と権威を持ち給う、この御方、主と仰ぐ、この御方に従ったのです。この御方と共にいる事に対する信頼と喜びとが秘められていたはずです。ところが現実の嵐の中の舟ではこの世の荒れ狂う自然の力の前に弟子たちは一溜まりもない自分たちの無力の空しさでどうにもならないのです。何もかもお手上げ、死を前にしています。“イエス様起きてください。助けてください。私たちは死にそうです。”イエス様なら何とかしてくださる。イエス様というお方の存在、神の力をもって奇跡を起こされる、神の権威をお持ちのイエス様をどれほど信頼を持って見ていたでしょうか。私たちも信仰生活の中でこの世の襲い来る困難に主イエス様をどれほど信頼し、そのみ力を頼って信じているでしょうか。あれほどガリラヤの湖の何もかも知り尽くして嵐の恐ろしさも知り尽くしていたにもかかわらず今、嵐の只中で全く無力です。自然の力の恐ろしさ、私たちも知らされます。大地が裂け、揺り動かされ、津波の押し寄せる前に人間は全く無力です。私たちは直接この身に会ったいませんがテレビの映像で知らされます。さて、今日の聖書を見ますと38節には“弟子たちはイエスを起こして「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」と言った39節、イエスは起き上がって、嵐を叱り湖に「黙れ!静まれ!」と言われた。すると風は止みすっかり凪になった。

何と言う事でしょう。イエス様のこの大自然の力、狂ったように襲い来るものに向って一声で叱り飛ばされたら風はたちまち止み湖は凪となったのです。大変な奇跡です。「黙れ、静まれ」と言うイエス様のこの言葉は実は全く同じ言葉を悪魔につかれた者に向っても叱って言われました。マルコ1章25節に記されています。ガリラヤ湖の破壊的な力で荒れ狂う嵐にも、また汚れた霊に取り付かれて暴れまわる男に対してもイエス様はこれを叱り飛ばし完全な勝利を表したのです。もう一方で嵐の中にあっても同じ舟の中に平和のうちにイエス様が共におられる、この信頼に屈服してしまっている弟子たちを、この言葉で目覚めさせ叱っておられるのです。だから40節を見ますとイエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。この言葉こそ弟子たちの心を揺さぶりイエス様に寄せていた信仰、絶対的信頼を新たに目覚めさせられたのであります。誰もが自分の内にある信仰の足らなさに目覚めさせられ「主が共にいます」と言うこの信頼への重さを新たにさせられるのです。主イエス様がご自分の命を与えてくださっている、それほど愛されている、この恵みを知るとき新たな信仰の歴史が起こり生かされて創りかえられてゆくのであります。   アーメン

歳時記

黄色い百合・イエローウィン

<1わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。2おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。雅歌2章>

散歩の途中、道路わきの生垣に咲いている黄色い百合を見つけました。黄色い百合を見るのは初めてなので思わずパチリ。聖書にも百合の花は度々出てきますね。百合をネットで調べてみたら旧約聖書には17回、その内の雅歌には8回も出てくるとありました。これからの季節、色々な百合が楽しめますね、我が家のベランダの鬼百合も大分背丈が延びて来ました。8月にはまた見事な鬼百合を見せてくれるでしょう。

牧師の週報コラム 

キリスト教の「信条」(「信仰告白」)を学ぼう!

519日付け週報の牧師コラムにて(「スオミ教会は本物の教会ではない?」)、立派な会堂を持たない教会でも、立派な教会たりえるとしてルター派のアウグスブルグ信仰告白の第7条を根拠に掲げました。 曰く、「教会とは、福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく執行される聖徒の共同体である。」

「ア」信仰告白は、見直してみると、自前の会堂を失って少し意気消沈したスオミの信徒たちを励まし新たな自信を与える内容だと思いました。特に、20条「信仰と善行について」と、21章「聖人崇拝について」は、スオミを越えて、広く日本の社会と霊性の中でキリスト教と教会が大きな変革の力を秘めていることを感じさせるものです。

そういうわけで、次週から礼拝後のコーヒータイムの時に、一回一条のペースで読み上げて(長いものは分割して)、各自の心に一条一条をともし火のように灯して、信仰生活、教会生活を自省する手がかりになればと思います。聖書を繙く時やお祈りする時にも方向性がはっきりするようになると思います。

キリスト教の「信条」(日本語では「信条」と言ったり、「信仰告白」と言ったりします)について。ルター派教会では「一致信条集」という書物に収められています。アウグスブルグ信仰告白と一緒に、「使徒信条」、「二ケア信条」、「アタナシウス信条」といった3つの古代信条も収められています。

 「使徒信条」 スオミ教会の礼拝の中で毎週唱えられる、皆さんよくご存じの信仰告白です。西暦200年頃に今の形になったと言われています。もともとは、洗礼を受ける時に唱えるものとして始まりました。キリスト教信仰のエッセンスです。

 「二ケア信条」 西暦381年のコンスタンティノポリス公会議にて採択。長年続いたアタナシウス派とアリウス派の教義論争に決着。キリストの神性を否定する後者を退ける。スオミ教会では聖餐式のある礼拝の時に唱えられます。

 「アタナシウス信条」 西暦400年代~500年代にスペインで確立。アウグスチヌスの神学を反映。西方教会のみ。

 「アウグスブルグ信仰告白」 1530年 ルターの改革の賛同者が神聖ローマ皇帝カール5世に対して自分たちの教義的立場を弁明する文書です。

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2024年6月9日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝  説教 田口 聖(日本ルーテル同胞教団) 牧師

マルコ3章20−35節(スオミ教会礼拝説教2024年6月9日)

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母です」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 この3章を1節から簡単に振り返りますと、まずイエス様は手のなえた人を癒されました(1−6節)。そしてその後、イエス様と弟子たちは湖の方に退かれるのですが、すでに、イエス様の噂は広まり、大勢の人々がイエスに会うために群衆となって押し寄せてきていました。7節以下でも、岸辺にあまりにも多くの群衆が押し寄せたために、押し潰されないようボートまで用意させたことが書かれていますが、そのように集まってきた人々のためにもイエス様は「多くの病人を癒したり」(10節)「悪霊を厳しく戒めたり」(12節)など不思議なわざを行ったことが書かれています。そして、13節からは12弟子を選ばれることが書かれて、今日のところになります。

2、「イエスのもとに人々は集まるが」

 今日の箇所でも、まず20節

「20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

20節

 と始まっています。「家」というのが、イエス様の家なのか、あるいは、よく滞在していた「シモン・ペテロ」の家なのかははっきり書かれてはいないのですが、そこにも群衆は絶えることなく集まってきました。それは、彼らが食事をする暇もないほどであったのでした。もちろんこの時、まだ十字架と復活の前であり、聖霊が与えられる前ですから、イエスのもとに集まってくる群衆は、全ての人が、バプテスマのヨハネが指し示した「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」の本当の意味を理解し、罪の赦しと真の救いを信じて集まってきていたのではなく、不思議な癒しやしるしを見て評判を聞きつけ、ただ見てみたい、あるいは純粋に直して欲しいという動機で集まっている人々がほとんであったことでしょう。しかし、たとえそのような人々であっても、イエス様は蔑んだり、突き放したりはせずに、「食事をする暇もないほどに」、彼らに対応されていたのでした。

 後に、マタイ16章16節にあるとおり、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時に(マタイ16:16)、イエス様はその告白について「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16:17)と教えている通りに、イエス様に対する正しい理解と告白は、弟子でさえもそうであるように、人のわざや力ではなく、どこまでも神からからの賜物であり、み言葉と聖霊によるものです。ですから、イエスに集まってきた群衆のイエス・キリストについての理解も十分ではなかったのと同時に、今日のところで出てくる、本来、私たち人間の一般的な考えでは、イエスの身近にいて最高の理解者であるはずと思うイエスの家族や、あるいは、聖書をよく知っている律法学者でさえも、集まってきていた群衆と同じように、イエスを神の救い主として正しく理解できていなかったことがここで書かれているのです。21節からこう続いています。

3、「身内の人々がイエスの活動をやめさせようとした」

「21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 「身内の人たち」とありますが、、おそらく家族だと思われます。彼らは、「イエスのことを聞いて」とあります。何を聞いたのでしょう。それは、彼らの周りの人々が「あの男は気が変になっている」と言っていたのを聞いたのでした。このようにイエスの家族の周り、イエスを見るために集まってきていた人々、そして噂を聞いていた人々が、みな好意的にイエスの前に集まってきていたのではないこともわかります。イエス様は病人を治したり、悪霊を戒めたりしました。しかし、家族にとっても、近所の人々にとっても、彼は大工の家の長男にすぎません。彼らにとっては、そんな大工の息子が、病人を癒したり、悪霊を戒めたり、そして聖書から神の国や救いを説いたりするなんて、ありえないことであり、人々は懐疑的になり疑って当然のことでした。しかも、そんな大工の息子が、12人の弟子まで連れているというのですから、世の中の常識や目にみえる日常の秤や先入観とは違うイエスの姿は「気が変になっている」ように見えて当然であったのでした。おまけに、6節までの手のなえた人を癒した出来事の場面でも、イエスは社会で宗教文化を支配している宗教指導者たちからの評判もすこぶる悪いことも、家族は窺い知ることができたことでしょう。そのように、目の前の普通ではない現実から見て、身内の人々、家族の人々は心配して当然なのです。そこで「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」のでした。イエスの活動を止めさせようとしたのでした。家族の人々も、この時は、全くイエスの神の国の活動を理解していません。彼らにとっては、もう父のヨセフは不在であり、イエスは家の長男であり、家族やその生活を保っていくためには、評判が悪くては困る一家の主的な存在にしか見えていなかったのかもしれません。

 そんな家族の対応に対して、31節以下でイエスの応答が書かれていますが、その前に、22節以下で、宗教指導者たちのイエスへの評価が続いていますのでそちらか見ていきます。

4、「律法学者たちの理屈とそれに対するイエスの答え」

「22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 律法学者たちは、律法、つまり、旧約の律法、預言、詩篇など旧約聖書の専門家のことです。彼らは聖書のこと、特に律法のことをよく知っているはずの人で、事実、ファリサイ派同様に、自分たちは律法を十分知っているし守っている、行なっていると自負する人々であり、人々にもそのように求める人々でしたが、彼らはファリサイ派同様に、イエスのことを良く思っていませんでした。彼らと同調するファリサイ派にあってはすでに2章の終わり、彼らは「安息日にイエスの弟子たちが穂を摘んだこと」や同じ安息日にイエスが「手の萎えた人を癒したこと」を批判するのです。それに対してイエスが聖書から適切に反論したことに対してをファリサイ派は反発を強めており、「どのように殺そうか」までも話し合っていました。この律法学者たちは、イエスが悪霊を追い出したのは、それは「ベルゼブル」つまりサタンの力によって追い出したのだと理屈を述べ始めたのでした。しかしそのような理屈に対してイエスは明快に答えます。23−27節

「 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

 イエス様は、サタンの力で、その仲間である悪霊を追い出すなんてことは滑稽だと、律法学者たちの言っていることの矛盾を指摘します。むしろ、24節以下のイエス様の言葉は悪魔のご自身への攻撃の現実を皮肉的に示しているようでもあります。巧妙で狡猾な悪魔はそんな矛盾した愚かなことはするはずもなく、イエスの家族を、人間の目に見え聞こえるような、心配と恐れで煽り、イエスへの悪い評判でイエスの家族を分裂させようとするだけでなく、その分裂で、イエスの働きを妨げさせようとしていることがわかるでしょう。そして、このイエスの「家の内輪揉め」の例えにある通り、サタンは、聖書の専門家という地位も名誉もある強い人々のそのプライドを誘惑し刺激し、彼らを用いて、サタンにとって最大の敵であるイエス・キリストご自身を攻撃して、まさに家を略奪しようとしていることを、暗に示していることがわかるのです。律法学者たちは、おそらく妬みに駆られて、イエスがサタンの力を用いていると批判するのですが、イエスは背後に働く全てを見通しているのです。むしろサタンが、家族や聖書の専門家たちを用いて、彼らの恐れや心配、プライドや名誉を突いて、ご自身の成そうとする神の御心を妨げようとしている、自分を攻撃しているのだと見通していたのでした。

5、「聖霊を冒涜することの罪の重大さ」

 そして、ここでイエス様はさらに続けて重要な言葉を伝ているでしょう。28節以下

「28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

A,「聖霊を侮ること」

 ここで、イエス様は律法学者たちが「ベルゼベルの力で」とか「汚れた霊に取り憑かれている」と言うことに対して、厳しい言葉を伝えます。「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。それは正しく、イエス様のしるしも言葉も、そしてその言葉の通りにこれから成そうとする救いのわざも、それは全て聖霊なる主の働きであることをイエス様は示しています。その御霊の働き、つまり、それは当然、み言葉を通じての聖霊の働きのことを聖書は指しているのですが、そのみ言葉と御霊の働きを侮り、軽んじ、ましてそれがサタンの力だとか、神以外の力だとか、あるいは信じないものは、永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負うのだと、戒めるのです。

B,「信仰と救いは、人ではなく、聖霊とみ言葉のわざ」

 みなさん、このイエスの言葉はとても意味があります。私たちが救われたのは、もちろんイエス・キリストを信じる信仰によってです。その信仰のゆえに義と認められました。しかし、それは私たちの義ではなく、イエス・キリストの義のゆえです。私たちには何も義なることを果たす力も意思も理性さえもありません。私たちは堕落以後、アダムとエバの腐敗を受け継ぐ堕落の子であり、永遠に呪われた死にゆくものでした。しかし、神は第一の聖書日課である創世記3章15節にあるように、あの堕落の時、既に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(15節)と最初の福音を伝え約束を示していました。そしてその通りに、神はご自身の御子を人として、つまり女の子孫として生まれさせました。そのように神が世に与えてくださった救い主によって、まさにその約束の通り、私たち堕落の子に、その約束の御子キリストというサタンに打ち勝つ道を備えてくださったというのが、聖書が伝える神の一方的な救いの計画であったと私たちは信じるでしょう。そこには人のわざも知恵も努力も何もありません。人間には何も功績も貢献もなかったしできなかったのです。ただただ、神の御子イエス・キリストが私たちが果たせなかった律法の義を十字架の身代わりの死という神が備えた計り知れない方法で果たしてくださった。そして神は、罪の報酬である死からそのイエス様を復活させ、まさにサタンの頭を踏み砕いて罪に勝利してくださった、約束を果たしてくださったことこそ、この十字架のキリストは私たちに証し指し示しているのではありませんか?そのキリストの義こそを神はただそのまま受け入れるように差し出してくださり、私たちはただそのまま信じて受けとるからこそ、神はそれを私たちの救い、義としてくださると言うのが、私たちに与えられている単純な救いであり良い知らせであり福音ではありませんか。そしてさらに素晴らしい事実があるでしょう。そのキリストの救いの成就にも父子聖霊の主の働きがあると同時に、なんと、私たちがそのことを信じる信仰さえも、それは律法でもなければ私たちの力ではなく、聖書はそれは聖霊の賜物であると教えているでしょう(エペソ2章)。

C,「信仰を律法のわざ、人のわざにすることの罪の深刻さ」

 このように、私たちの救いは、その信じる信仰さえも、私たちの理性や行いや功績、貢献ではありませんしありえません。しかし兎角、私たちには救いのために一歩を踏み出すためのわずかな理性の力、意志の力が必要なんだと、ほんのわずかだが人間の力も必要なんだと教える教会もあれば、人間の貢献や条件をある程度、果たして初めて洗礼の救いの祝福に値するんだとか、教える教会もあります。しかし、それは決して福音でも宣教の言葉でもありません。救いも、そして信じる信仰さえも、それは、神の賜物、イエス・キリストが与えてくださる福音であり、聖霊がみ言葉を通して働き、福音を受け入れ信じる信仰さえも与えてくださるからこそ、私たちに今その信仰も救いも現実にあるということを忘れてはいけません。もしそれが聖霊とみ言葉、福音の働きや力ではなく、人間のわざ、貢献だ、自分の努力だ、意志の力、などなど、に変えてしまうことは、どうでしょうか?それは、聖霊の力や働きを無駄にし、み言葉もその力も信じておらず、ある意味、聖霊を冒涜することと同じではありませんか。私たちが100%神の恵みによる救いに、混ぜ物をして、人間にも数パーセント何かが必要だと言うことは、クリスチャンであっても時に受け入れやすい合理的な教えかもしれませんが、それはサタンの最大の落とし穴であり、救いをボケさせ、確信を失わされ、平安を失わせます。それは、まさしく「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」につながる重大なことだと教えられているように気づかされます。大事なのは、どこまでもイエス・キリストの十字架による救い、福音、約束こそ真実であり、神からの賜物、恵みであると、み言葉と聖霊に立ち返ること、そこに救いの確信も平安も絶えることはないのです。

5、「神のみ心を行う人々こそ」

 最後に、イエスの家族のことが再び記されています。31節以下、

「31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 これは家族を突き放しているような冷たい言葉に感じられるでしょうか?しかしここでイエス様が伝えたいことを理解しましょう。大事なのは34節と35節です。周りに座っているおそらくイエスのみ言葉を聞いている人々であり、弟子達もいたでしょう。彼らを指して、私の兄弟がいるとイエス様は言われます。そして35節

「 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 「神の御心を行う人々こそ」とイエス様は言うでしょう。もちろん、イエス様は自分の肉の家族を愛していなかったわけではありません。母マリヤのことを愛する弟子に託されることもヨハネの福音書には書かれているでしょう。そしてイエスの弟たちもやがてイエスを信じるようになり、イエスの弟はエルサレム教会の監督になり、ヤコブはヤコブ書を残しています。イエス様がここで言いたいのは、主の祈りにもあり、ゲッセマネの祈りにもあるように、神の御心が行われることの大切さです。この時の家族は、周りの目に見えるイエスの評判や評価や、イエスのしていることの非日常のみでイエスを判断し、そしてイエスを心配するだけでなく自分たちのことを心配するしかできませんでした。しかしそれによってイエス様の行おうとしている神の御心、まさにみ言葉が聞かれること、を21節「取り押さえようとした」つまり「止めさせよう」とした、結果として「妨げよう」としてしまっているのです。そのように神の御心を妨げるものは、地上では家族であっても、天の神の前にあっては、兄弟でも母でもない、イエス様ははっきりと「神の前」の真理を述べているのです。

 このことは現代の教会にも示唆があるのです。むしろ現代の教会は、肉の目に見え、耳に聞こえる人の評判や評価には、人が集まるかどうか、人に受け入れられるかどうかに関わる重要なことなので敏感かもしれません。それ自体はもちろん悪いことではありませんし時に大切なことです。しかし、それがただ「人集め」が目的となり極端になり優先順位を間違えて、それが最も大事なことであり、教会や宣教の黄金律や王道とされてしまうとそれは行き過ぎになるでしょう。目にみえる耳に聞こえる「人がどう思うか」にあまりにも流されることによって、本来、本当に救う力があり、そして私たちが指し示すべき、神の御心、律法と福音の神の言葉、罪の赦しの十字架と日々新しい復活の福音のみ言葉にこそ、そしてそのみ言葉に聞くことにこそ、日々悔い改めさせ、日々洗礼に与らせ聖化させる真のクリスチャン生活があると言うことが、弱められたり、忘れられたり、傍に置かれたり、全く語られなくなるなら、あるいは、あのマルタとマリヤの姉妹のところでもイエス様は「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われたその「必要な一つだけ」のことは、「み言葉を聞くこと」であったのに、「み言葉に聞くなんて、弱々くし消極的で力がない。活動的ではない」と、「聞くこと」を軽んじ、それよりも律法的な行動に駆り立てのなら、それは私たちが見てどこまでも立つべき、そして伝えるべき「神の前」のこと、真の神の御心を見失ってしまっています。指し示すべきキリストの十字架、真の唯一の救いの道が示されていないのです。まず聞くことこそ神の御心であり、力があることが侮られているのです。それは、たとえ「人の前」では、効果的で評判も良く人も集まり良い数的結果になったり、成功しているように見えることが起こったとしても、しかし、まさに「人の前」のことに過ぎず、イエスがなしてくださったこと、成そうとすることを「取り押さえようとしている」「止めようとしている」、御心を妨げていることと同じことをしていることになるでしょう。それはもはや宣教ではありません。それでは、イエスの兄弟姉妹でも母でもなくなるのです。

6、「神の前にあって、イエスの兄弟姉妹、母である幸い」

パウロは第二の聖書日課で伝えています。

「16、だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17、わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18、わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。1、わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」コリント第二4:16ー5:1 

 目に見える評判や数や繁栄は過ぎ去ります。しかし目に見えない永遠なる神の御心、律法と福音のみ言葉、そして十字架と復活の救いは永遠に残るものです。そこに私たちが向かっている永遠の住まいがあります。そのみ言葉の約束が正しく伝えられ聞かれ、聖霊が御心のままに人に働くためにこそ私たちは礼拝に集い、なおもみ言葉に聞き、信仰を日々新たにされるのです。そのように平安のうちに遣わされていくことこそ、私たちは御心を行っており真の兄弟とイエス様は呼んでくだ去るのです。ですから、今私たちは、み言葉に聞くために集まっていますね。そうであるなら、私たちは何よりの神の御心を行っており、イエス様は今日この時私たち一人一人を指して「わたしの兄弟姉妹、母である」と言ってくださっているのです。今日もイエス様は私たちに罪の赦しを宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しと救いを確信して、安心してここから世に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム 

どうしてキリスト信仰者はいつも喜んでいられるのか?

使徒パウロはキリスト信仰者に「いつも喜んでいなさい」と勧めます(第一テサロニケ516節、他にもフィリピや第二コリントなど多数)。 嫌なことがあっても、嫌なことの最中でこそ喜んでいなさいと言うのです。どうしてそんなことが出来るでしょうか?宗教改革のルターは喜んでいられるコツを次のように教えます。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 528日の個所から)

「この御言葉から我々は、嫌なことに遭遇した時、イエス様を救い主と信じる信仰が本当に必要だということがわかる。信仰は嫌なこと忌まわしいことを全て軽いものにする。時には麗しいものにさえする。殉教者の生き方がまさにそうである。逆に信仰がないと、全てのことは煩わしい辛いものになってしまう。たとえ、全世界の歓楽と享楽を手にしていてもだ。そのことは、憐れな人生を送った金持ちたちの生き方が示している。

 次のようなことを言う者がいる。「それじゃ、嫌なことに遭遇した時、それは自分の愚かさや悪魔が引き起こしたのではなく神が引き起こしたと思えば、喜んでいられるのか?」と。何という言い草!信仰の欠如以外の何ものでもない。キリストは言われたではないか?鳩が地に落ちるのは神がそう決めた時であると。また、神は私たちの頭の髪の毛の数を一本残らず数えておられると。

 罪と愚かさが原因で嫌なことに遭遇することがあるが、あなたの罪と愚かさが関わっていなくても同じような嫌なことに遭遇することもあるのだ。その場合の嫌なことは神の御心に適っている。なぜなら、罪以外のものは全て神の御心に適うものだからだ。なので、もしあなたが、あなたの罪と無関係な嫌な課題を抱えてしまったのならば、それは、あなたが取り組むようにと神がお許しになったのだ。

 その時あなたの成すべきことはただ一つ、取り組みにおいて正しく立ち振る舞うことだ(※)。そして、課題の取り組みにおいて感じるであろう、なんで私がこんなことを、という反発ややるせなさは実は、あなたがまさに神の御心に適う課題に取り組んでいることの証しなのである。その取り組みの中には神が一緒におられることを忘れるな。神は悪魔があなたを試すことを許可したのだ。あなたが神に対して忠実でいて課題に取り組んでいくか、それとも放棄してしまうかを見定めるために。すなわち、神はあなたに信仰の戦いを戦う機会と信仰にあって成長する機会を与えて下さるのだ。

訳者注 「正しく立ち振る舞う」とは、十戒の掟に従って立ち振る舞うことです。

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歳時記

蛍袋・ホタルブクロ

裏の叢に夏草に交じってホタルブクロが咲き出しました、僅か一輪ですが真新しいホタルブクロは生き生きとしていました。ホタルブクロを見ていて「夏の賛歌」というフインランドの美しい讃美歌(571番)を思い出しました。6月はフインランドでは「Kesäkuu. 夏(の)月」と呼ばれています。さらに夏の月に相応しい讃美歌もありました。以前、教会でも歌ったこともあったかもしれません。フインランド讃美歌571番にJo joutui armas aika→suvivirsi (夏の賛歌)という美しい讃美歌です。

Suvivirsi(夏の賛歌)をdeeplでざっくり訳してみました。歌の凡その内容は掴めたと思います。

手芸クラブの報告

 

shugei

5月の手芸クラブは22日に開催しました。梅雨が近づいているのか雨の多い日々でしたが、その日は爽やかな天候の中で開催することができました。

前回に続いて今回もクロスステッチの刺繡です。参加された方々が前回途中までだった作品をお家で頑張って完成させて、それを持ってきて見せて下さいました。たちまち、「わぁー可愛い!」「こんなに沢山頑張ったんですね!」「素敵な模様だわ!」などの声があがりました。

shugei今回もチャレンジして作ってみたい模様を決めて、それに合う糸の色と布を選び、早速刺繡に取りかかります。細かいクロスステッチでしたが、参加者の皆さんは沢山練習したので模様の形がとても上手にあっという間にはっきり現れてきました。刺繡は細かい作業なので目が疲れやすく肩も簡単に痛みます。それで時々休憩を取ることも必要です。刺繡は完成まで時間がかかりますが、お家で完成させたものを皆で一緒に見てお互いに素敵なものが出来ると本当にわかりました。夏の間お家で完成させることは一つの楽しみになるでしょう。

shugei

コーヒータイムで肩をリラックスさせます。今回はフィンランドのドーナツMunkkiをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。今回のコーヒータイムのお話は「練習の大切さ」について。刺繍を一生懸命に練習した皆さんにはちょうど良いテーマでした。お話の中ではまた、世の中には練習ができないですぐ臨まなければならない不確かなこともあるけれども、天の神さまはいつも確かなものを与えて下さるという聖書のメッセージもありました。

夏の間手芸クラブはお休みになります。また9月25日に再開する予定です。10月が近づき秋も深まり始めると暖かい服の季節になります。それで9月は毛糸の編み物を考えています。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。天の神さまが皆様の夏の生活と健康を守られますように。

手芸クラブのお話2024年5月22日

手芸クラブでは先月も刺繡をしました。皆さんクロスステッチを一生懸命練習したので、今回は本当に上手に出来ました。

この間フィンランドの雑誌を読んでいた時に、ある俳優が本番前のリハーサルをとても大事にしているという記事を読みました。その人にとってリハーサルは本番のために勇気と自信を与える機会になるのでとても大事なことだと話していました。本番に強いという人もいますが、私は多分その俳優と同じタイプなので、リハーサルや練習はとても大事です。本番で失敗しないために前もっていろいろ練習するのは必要なことです。

フィンランドでは「練習がチャンピンを作る」という言い回しがあります。陸上選手は一生懸命走る練習をしてから自信と勇気をもって競技に参加します。練習をする方がしないよりも、本番の時にどうなるか予測しやすくなるでしょう。ところが、人生のことの全てはスポーツや音楽や劇のように練習することは難しいかもしれません。例えば新しい仕事や新しい人間関係は練習をして本番に入るというよりは、すぐ本番ではないでしょうか?私たちの将来のことも、前もって練習することはできません。練習なしで本番に入るようなものではないでしょうか?それで将来のことは予測が難しくて不確かな感じがすると思います。

このような時、私は聖書を開いて神さまのみ言葉を読みます。それは、不確かなところに確かなものを与えてくれるからです。例えば、旧約聖書の詩篇には次のように書いてあります。フィンランド語の聖書を日本語に訳します。「主を信頼しなさい。しっかり立ちなさい、勇気を持ちなさい。主を信頼しなさい。」詩編27編14節のみ言葉です。天の父なる神さまは私たちの造り主でもあります。それで、私たち一人一人の弱さや、私たちが不確かな世界の中を歩んでいることをよくご存じです。そのためにこのみ言葉を私たちに与えられたのです。神さまは私たちの将来のことも、ここを進んだらあなたにとって一番良いのだ、と私たちに一人一人に相応しい道を開いて下さるのです。それに気がつくと、神さまは本当に私たちのことを一人一人大切に考えて下さっているとわかります。それが神さまに対する信頼と道を進む勇気になるのです。

旧約聖書の箴言には次のみ言葉があります。tjuujika「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにして下さる。」箴言3章5-6節です。私たちは自分の将来についていろんな計画を立てますが、実際にどうなるかはわかりません。私たちは自分の生き方を全部自分の思うようにすることはできないからです。しかし、天の神さまが私たちに歩むのにふさわしい道を開いて下さり、それを歩む力も与えて下さいます。それが、神さまが歩きなさいと言っている「あなたの道」です。神さまが道筋をまっすぐにすることが私たちの歩く力になるのです。これらのことは、私たちが自分の分別を頼ってそれに全てを委ねないで、神さまに信頼して全てを委ねると、本当のことになります。そして、神さまが開いて下さる道はこの世の人生が終わる時が終着点ではありません。この道の終着点は永遠の命だからです。

私たちは、練習があまりできない本番ばかりの不確かな世で生きなければなりません。しかし、神さまに信頼して全てを委ねることが出来れば、不確かな世の中で確かなものを得られて、心の中に平安と安心を得ることが出来るのです。

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

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5月11日の料理クラブはとても爽やかな五月晴れの中で開催しました。今回はフィンランドで人気のあるウィルヘルミーナ・クッキーとフィンランドの伝統的なデザートのベリー・スープKiisseliを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。ryouriまず、クッキーの生地。材料を測ってからハンドミキサーでマーガリンと砂糖も一緒に泡立てます。それから順番に他の材料を加えて軽く混ぜて生地の出来上がり。柔らかい生地を固めにするために冷蔵庫に入れておきます。次はベリー・スープ。今回はブルーベリーをベースにするので、ブルーベリーをしばらく煮込んでスープ状に。それから片栗粉でとろみをつけてスライスしたイチゴを加えてKiisseli は出来上がり。「美味しそう、早く食べてみたい」との声があちらこちらから聞こえてきました。Kiisseliはひとまず冷やします。Kiisseli を作っている間にクッキーの生地は固くなりました。そこでクッキーの形作りをします。生地を丸めて長い棒にします。各自それぞれ生地の棒を作りますので、ryouriあっという間に沢山のクッキー棒が鉄板の上に並びました。それからオーブンに入れて焼きます。クッキーはオーブンの中でとても広がったので、皆さんビックリしましたが、それは生地に粉が足りなかったからではありません。茶色になったクッキーをオーブンから出して、熱いうちに小さめのクッキーの形に切っていくと、「わあー、こんなふうに作るの!」と驚きの声も。

テーブルのセッティングをして出来上がったものを頂く時間になりました。特に、ウィルヘルミーナ・クッキーはコーヒーや紅茶と一緒に味わうのが美味しい頂き方です。皆さんと一緒にフィンランド人が大好きなデザート・クッキーとベリー・スープを頂きながら楽しい歓ryourikurabu談のひと時を過ごしました。翌日は母の日だったので「フィンランドの母の日の過ごし方」や、「私たちの造り主である天の神さまは私たちを守り導いて下さる方」という聖書のお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開する日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!

 

料理クラブ2024年5月11日の話

今日はフィンランドのお祝いのパーティーにも出されるWilhelmiina pikkuleipä とフィンランドの伝統的なデザートKiisseliを作りました。ウィルヘルミーナ・クッキーはフィンランドで人気があるクッキーの一つです。このサクサクした感じのクッキーは材料も特別なものはなく作り方も簡単ですので、家庭でもよく作られます。

ryourikurabuKiisseli はフィンランドの伝統的なデザートの一つです。Kiisseliはベリーのジュースに片栗粉でとろみをつけて作ります。私が子供の頃、お祖母さんは食事の栄養のバランスの為に週に何回もKiiseliを食事のデザートに作りました。今では学校の給食のメニューにもあります。Kiisseli はそのまま食べてもよいし、オートミールやライスのお粥の上にソースみたいにしてかけて食べてもよいです。Kiiseliはベリーで作るのが多いですが、他の果物、例えばプルーン、オレンジ、レモンからでも作られます。でも、やっぱり、フィンランド人は森で採ってきたブルーベリーやリンゴンベリーやクラウドベリー、庭や畑で出来るイチゴ、ラズベリー、赤スグリと黒スグリのようなベリーが大好きなので、ベリーのKiiseliが一番おいしいと思うでしょう。

今日の料理クラブではケーキは作りませんでしたが、今はお店できれいな飾り付けのケーキが沢山並んでいます。明日は母の日だからです。5月第2の日曜日はフィンランドでも世界中の国々でも母の日のお祝いです。

フィンランドでは母の日をどのように過ごすか、それを少しお話したく思います。子どもたちが小学生くらいまでの小さな時は、母の日が近づくと、学校で母の日のカードを作ったり、簡単なブレセントを作りします。私もフィンランドにいた時は、子どもたちが学校で可愛い模様を刺繡したタオルや、絵の具で手の跡を模様につけた買い物袋などをもらいました。母の日の前には子どもたちと父親はお母さんを驚かせようと、いろいろ内緒のことがあるようです。

母の日になると、子どもたちは朝早くお母さんがまだ寝ている時に起きてコーヒーを沸かし、前もって準備したケーキやプレゼントを持って、お母さんのベッドに運び、そこでハッピーバスデーのメロディーでお祝いの歌を歌ってお母さんを起こします。子どもは大きくなって独立すると、母の日に実家に帰ってお母さんにプレゼントやお花を渡したりします。フィンランドでは母の日の花はカーネイションではなく多いのはバラです。もちろん他の種類の花も贈られます。

hana母の日の頃のフィンランドはまだ暖かい季節ではないので、咲いている自然の花はあまり種類はありません。しかし、必ず咲いている花があります。黄色のたんぽぽです。私は子どもの頃、たんぽぽの花で冠を作って母の頭によくのせました。母の日が終わると、だんだん色んな花が咲き始めます。五月の終わりと六月の初めのフィンランドは自然の中でいろんな種類の花が一斉に咲き始めるので、色が豊かでとてもきれいな季節です。

母の日にお母さんを喜ばせる花はカーネイションやバラなどの花屋さんの花ですが、花屋さんの花も自然の花も私たちの心を慰めて喜ばせてくれます。実は全ての花は、私たち人間と同じように造り主の神さまの手によるものです。聖書にあるように、万物は神さまが造られたものだからです。

イエス様が話された有名なみ言葉があります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」マタイ6章28-29節です。

お母さんが子どもを大切に育て世話をするのと同じように、私たちの造り主である天の神さまも私たちの世話をします。子どもが成長して独立すると、お母さんは子どもが大丈夫だろうかと心配します。今読みました聖書の箇所は、イエス様が「思い悩むのはやめなさい」と教える一つの例として話されるところです。お母さんはいつまでも子どもと一緒にはいられませんが、天の神さまはずっと一緒にいて下さいます。天の神さまは私たちの父だからです。私たち一人一人のこと、喜びや悲しみや心配事を全てご存じで、それで私たちの世話をします。私たちをどんな時でも守り導いて下さるのです。神さまの守りと導きは私たちがどう感じようが関係なく、いつもあるものです。私たちが神さまの導きを感じる時に導かれるということではありません。私たちが困難な状況にいる時も、私たちが気がつかない仕方で確かに守り導いて下さっているのです。

hana先ほどお読みした聖書の箇所から明らかなように、毎年春になると花が咲くのは神さまがそのように装って下さるからです。同じように神さまは私たち一人一人のことも覚えて見守って下さり、私たちも花のように咲いて良い実を結ぶことができるように必要なものを毎日与えて下さいます。神様は、困難のない生活を与えるとは約束していません。しかし神さまは私たちにどんなことが起こっても全てをご存じで私たちと共に歩んで下さいます。この世界はいつも変化ばかりですが、神さまの私たち一人一人に対する愛や良い計画は変わりません。神さまは私たちを担い背負い、そして救って下さいます。独り子イエス様をこの世に送って下さったことに、神さまの私たちに対する変わらない愛が示されています。イエス様は私たちの救い主であると信じることが出来れば、神さまは私たちを神の国までも背負って導いて下さいます。

母の日は、お母さんが私たちに尽くしてくれたことや注いでくれた愛を特別な感謝の気持ちで覚える日です。同じように神さまが私たちに示された愛を覚えて、しかも、毎日覚えて感謝の気持ちに満たされて歩んでいきましょう。

牧師の週報コラム 

スオミ教会は本物の教会ではない?

スオミ教会が現在の所に移転した後のこと。ある雑誌社の取材を受けた。 東京中の北欧関係スポットの特集を組むということで、スオミ教会の料理クラブや手芸クラブの紹介も掲載。取材者が電話で席を外した時、話し声が聞こえてきた。「はい、今、教会です。それにしても、ここ、教会なんですって。」あれっ、ここは教会じゃないということなのかな。一般の日本人にとってキリスト教会というのは、やっぱり立派な建物で天上高く、パイプオルガンが鳴り響くところなんだろうなあ。

スオミ教会も以前は自前の立派な建物があったのだが、構造上の問題はもうどんな改修も解決不可能と判明。ミッション団体SLEYも日本の教団とのお金絡みの交渉では赤子も同然、気がついたら無財産の無一文に。もう自前の建物は無理、マンションの賃貸物件が礼拝を続けられる現実的な選択肢に。それでも、来る人が心に安らぎを得られるような礼拝空間にしようと内装面もいろいろ工夫努力を重ねてきたつもりだった。しかし、やはり「自前の立派な天上高くパイプオルガン….」には敵わないのだろう。移転前後に教会から離れてしまう人が続出。

ところが、フィンランドのキリスト信仰者たちはスオミ教会を「教会」と見なして支援を続けてくれているのだ。トゥルクの大聖堂が教会であるのと同じように、スオミ教会も全く同じ教会という認識なのだ。SLEYが宣教師を派遣している国にウガンダとか南スーダンもあるが、そこでは屋根のない掘っ立て小屋以下の教会もある。それも教会という認識なのだ。なぜか?フィンランドのキリスト信仰者は日本人に比べて感覚がずれているのか?

賃貸教会も屋根なし掘っ立て教会も間違いなく教会だという根拠は、ルター派の信仰告白の一つである「アウグスブルグ信仰告白」の第7条にある。「教会とは、福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく執行される聖徒の共同体である。」建物や外見、内装のことは何も言っていない。スオミでもアフリカの難民キャンプでも、福音の純粋な宣べ伝えに心が砕かれる。律法主義に陥らず反律法主義にも堕さず、神のみ言葉に人間の思想、哲学、イデオロギー、感情、心理学を混ぜ込まない。「聖書はそう言っているが、今はそのように考えなくてもいい」などと言わない。そのように使徒的伝統を受け継ぐ教会から正式な手続きを経て按手を受けた牧師が聖礼典を執行する。これらを備えていれば教会は本物という認識と感覚なのだ。

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歳時記

マタイ受難曲

バッハの「マタイ受難曲」は有名ですね。この曲が好きで毎年2・3度聞いています、3時間を超す大曲ですが何故か途中で席を立つことが出来ません。 教会でも何度か「ヴィア・ドロローサ」の寸劇でマタイ受難曲の中のコーラスのメロディを取り入れたことがありました。昔、カール・リヒター指揮・ミュンヘンバッハ管弦楽団・合唱団、ミュンヘン少年合唱団のVHSのカセットテープを持っていましたがいつの間にか紛失し、その後ネットで中古のDVDを見つけましたが2万円以上もする高額なものなので諦めていました。が最近、youtubeで同じものを見つけ感激しています。ドイツ語と日本語の訳が画面に出てきますのでとてもよくわかります。聖書で読むマタイの受難説と違って耳で聞く受難物語は思いがけない発見もします。特にユダがイエスを裏切った時の場面でイエスがユダにMein Freund・わがが友よ、と呼びかけています。たしか、イエスは弟子を呼びかける時は名前かニックネームで呼びかけていましたがこの場面ではユダを「友」と呼んでいます。聖書では何の疑いもなく読んでいましたが耳で聞くと何故かここのところが不思議でなりませんでした。

3時間超ですが宜しければお試し下さい。