手芸クラブの報告2026年2月25日

2月の手芸クラブは25日に開催しました。週の初めは春一番が吹きましたが、この日の朝は雨が降り肌寒い一日となりました。

今、春が近づく季節ですが、今回は1月に続いて足元を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」を編みました。今回はまた「ストール」や「スマホケース」を編み続けられる方々もいらっしゃいました。このようにスオミ教会の手芸クラブではその日のテーマだけでなく、ご自分の編みたいものを編んでも大丈夫なのです。

はじめにお家で頑張って編んできたものをみんなで見せ合います。「きれいな色ね」、「模様が素敵」、「暖かそう」、「柔らかい」などとお互いにほめたたえます。それからみんなで編み始めます。皆さんとても上手でおしゃべりしながらどんどん編んでいきます。レッグウォーマーやストールは完成まで時間がかがるので、お家や次の手芸クラブでも続きをすることができます。

春に向かって暖かくなっていきますが、まだ寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたレッグウォーマーやストールが必要になるかもしれません。ご自分で編まれたものだから特に暖かさを身近に感じるのではないでしょうか。

今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。

編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れます。先週フィンランドはラスキアイスプッラの時期だったので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後でフィンランドにある手工芸センターやそのセンターのスローガン「幸せを呼ぶ手芸の一時」についてと、聖書が教える幸せについてお話を聞きました。今回も楽しい歓談のひと時でした。

次回の手芸クラブは3月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2026年2月

今日は1月に始めた編み物の続きをしました。編み物は手芸クラブではこれまで何回もテーマにしました。フィンランドでは編み物は最も人気のある手芸の一つで、年配の人たちだけではなく若者も楽しんで編んでいます。以前にもお話したようにフィンランドでは毎年編み物の競争も行われ、多くの人たちが参加します。また靴下のデザインを作成して編むコンテストも開催さえれます。このような行事はフィンランド全国にある手芸工芸センターを通して開催されます。センターの働きの目的は手芸工芸の伝統を大切に守り続けることです。センターでは様々な講座や行事が開かれ、手芸のアドバイスを行ったりします。また、センターでは織機を借りることも出来るので、織物を織ることも出来ます。センターは毎年、全国的な工芸のテーマも選びます。今年のテーマは「パッチワーク」です。

手芸工芸センターでは「幸せを呼ぶ手芸の一時」というスローガンも決めました。このスローガンにはどのような意味があるのでしょうか。それは、手芸が私たちの日常生活の中で大切な役割を果たし、手作りの作品には特別な価値があることを表しています。手芸は多くの人たちに愛されている趣味の一つです。新しい手芸のテクニックが出来るようになったり、美しい作品が完成したりすると喜びを感じます。また、手芸をしている時間は日常生活から少し離れることが出きて、良いリフレッシュにもなります。それでこのスローガンのように手芸は幸せを呼ぶ一時と言えるのでしょう。

皆さんにとって幸せとはどのようなものしょうか。幸せな人とはどんな人でしょうか。お金持ちで大きな家に住み、家の自動車が何台もある人のことでしょうか。職場で高い地位にある人でしょうか。権力を持っている人でしょうか。

私たちは皆幸せを願って生きています。私たちは幸せを自分自身の中から見つけることができるでしょうか。確かに、幸せは日々の生活のさまざまな出来事を通して感じることができます。しかし、それは深いものでしょうか?長く続くものでしょうか。

聖書にも幸せにについて書かれています。旧約聖書の詩編に次のようにあります。「神様のそばにいることは私の幸せです。神様は私の避難場所。私は神様の御業を全て語り伝えます。」詩編73章28編。

「神様のそばにいることは私の幸せです」とは天と地と人間を作られた神様と共に生きることを意味しています。それは一時的に幸せを感じることではなく、ずっと続いていく幸せです。神様と共に生きることが人生の土台になれば、生活の中で様々なことが起こってもその土台は揺らぐことがありません。では、私たちはどのようにして神様と共に生きることができるでのしょうか。聖書を読んで、天の神様にお祈りして、神様はお祈りを聞いてくださると信じるとき、私たちは神様の近くにいることができます。天の神様と共に生きるのは幸せの源になります。生活の中に不幸があっても神様はともにいてくださいます。神様が私たちを見捨てるということはないからです。

フィンランドのある聖歌に幸せについて歌うものがあります。息子が小さい時にこの聖歌が大好きでした。聖歌の言葉は簡単ですが、意味は深いです。それを紹介したく思います。「ボクは幸せさ、ボクは幸せさ。ボクの幸せはイエス様のところにある。イエス様はボクのすべての罪を十字架に運んで取りのぞいでくださった、それでボクは幸せさ。」

私たちが天の神様と共に生きることができるのは、神様の一人子であるイエス様の十字架の御業のおかげです。私たち人間は聖歌に歌われているように弱さや罪を持っています。そのために私たちは神様から離れてしまうようになります。しかし、私たちを愛する天の神様はイエス様を通して神さまのもとへ帰る道を備えて下さいました。この救いの道は世界の全ての人に与えられています。私たちがイエス様がなさったことを全て信じて、この救いの道を歩むようになれば、それが私たちの幸せの源となるのです。

今、この世界には必要なものが十分に与えられない人たちが大勢います。しかし、そのような人たちも、先ほどの聖歌のように喜びを持って歌うことができます。イエス様の十字架の御業を素直に信じることが出来れば、歌の中で歌われる幸せを得られます。

手芸の時間も私たちに小さな幸せを与えてくれます。しかし、日々の生活の中で「神様がそばにいることは私の幸せ」ということを覚えて、それが私たちの幸せの源になりますように。

牧師の週報コラム

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」2月8日の日課から)
キリスト信仰者は苦難困難に遭遇するとこのように立ち向かうのだ。
「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇
118篇1節)
『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは
神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が
本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるため
の光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば
燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の
中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句
は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈
しみは永遠にあるのだから。」
この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと
誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなるこ
と善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられます
ように。」
これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正し
くて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きく
て優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである
。』(以上ルターの説き明かし)
このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えき
れない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれな
い出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるように
なると。(2025年3月2日の週報コラムに掲載)

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰

武道家であり言論人でもある内田樹氏は武道の技術向上と宗教的成熟には相関関係があると主張する。AI情報によれば、氏は「武道も宗教も、個人的なエゴ(我執)や、勝敗・巧拙にこだわるマインドを解除することを目指す」と説く。また、評論家の池上彰氏は、宗教を「よく死ぬための予習」であり、どう生きるかを考える糧と捉えているとのこと(これもAI情報)。

今まで礼拝の説教や週報コラムでルターの聖書の説き明かしを数多く紹介してきたが、どれもが、姿勢や心意気として、覚悟と胆力を身につけさせるものではないかと思っていた。そんな中でマスコミのどこかで二人の識者の発言を耳にして何か相通じるものがあると思い、AIに確認した次第。

礼拝の説教では毎回、「復活の日」にイエス様が眠りから目覚めさてくれることや、彼が整えてくれたものを受け取って手放さずに生きてきたことが最後の審判で神の御前に立たされた時に重要な意味を持つことを説いている。なので、スオミの礼拝は「よく死ぬための予習」をしていると思う。

宗教と武道の相関関係については、内田氏の言う宗教とは修行に大きな意味を置く仏教を指していることは言うまでもない。キリスト教、特にルター派は、信徒に修行や苦行や難題を課して、それを実行して神に義とされるような救いを排する。そこで一つ気にかかる聖句はローマ813節「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」だ。「生きる」とは死を超えた永遠の命に与かれることを意味する。体の仕業、つまり肉体が欲すること、神の意思に反することだが、これを断ち切れば永遠の命に与かれる、救われると言っているように聞こえる。

しかし、そういうことではない。「断ち切る」はギリシャ語原文では「死なせる」。しかも動詞は常態を意味する現在形。エイッ!ヤーッ!と気合を入れて自分の力で一気に欲望を断ち切ることではない(その意味ならば動詞はアオリストになる筈)。「日々、神の意思に反する業や思いを死なせていく」ことである。どういうことかと言うと、キリスト信仰者が自分の内に罪があることを日々自覚して、赦しと希望はイエス様の十字架と復活の業にのみある、その業の力が罪に無力な自分を覆いつくすように自分を日々とことんヘリ下させる、そうすることで自分の内に残る罪は内になだれ込む赦しと希望の重圧を受けて日々圧し潰されていくという死なせ方である。キリスト信仰者はたとえ腕力がなくとも武道家にも引けを取らない覚悟と胆力を持つことができるのではないか。そのことを、これから何回かにわたって紹介するルターの説き明かしからも知ることができればと思います。

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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月7日に開催しました。天気予報は一日雪のマークでしたが、雪は降らず参加者の皆さんは無事に教会にいらっしゃることが出来ました。今回の料理クラブは、フィンランドの「ルーネベリの日」の二日後でしたが、「ルーネベリロールケーキ」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにアーモンドパウダー、片栗粉などの粉類を計ります。今回の生地は小麦粉を入れることがなく小麦粉アレルギーの方にも味わっていただけるお菓子なのです。次に卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てて、白い泡になってから粉類を中に加えると生地が出来ます。それを鉄板に広げてオーブンに入れて焼き始めます。あっという間に生地の焼き香りが広がって、ケーキに焼き上がりました。クッキングシートに潰したクッキーをかけてその上にケーキをひっくり返して冷まします。

ケーキを冷ましている間に今度は中身を作ります。材料を計ってクリームを泡立てます。それから本格的にケーキ作りに入ります。冷めたケーキの上にシロップを塗ってラズベリージャムを全体に拡げます。その上にさらに泡立てたクリームを拡げます。そして、いよいよケーキをロールにします。ケーキが割れないように注意しながら少しずつロールします。ロールしたケーキをしばらく冷蔵庫で冷やしてから切ります。一個一個お皿の上にのせてクリームで飾り付けをして、その上にラズベリージャムをのせると、「可愛い!」「きれい!」の声があがりました。これで「ルーネベリロール」の出来上がりです!

早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリロールケーキをコーヒー紅茶と一緒に味わうと、たちまち「美味しい!」「美味しい!」嬉しそうな声があちこちから。「アーモンドとラズベリージャムがとても良く合う!」という声も。

今回も楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの有名な作家ルーネベリと彼に由来するルーネベリ・タルトについて、そしてルーネベリが残した詩の言葉「神は試練をお与えになるが、決して見捨てることはない」とこの詩が基づいている聖書のみ言葉についてのお話も聞きました。

参加者の皆さんが帰宅する時刻は地面は白い雪で覆われていなくてよかったです。皆さんご無事にお家に帰られたでしょう。

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月14日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

2026年2月7日料理クラブのお話

フィンランドでは2月5日は「ルーネベリの日」です。ちょうど二日前がその日でした。フィンランドでは新年が終わると、お店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。そして、「ルーネベリの日」になると大勢の人たちはこのお菓子を買って美味しく味わいます。もちろん多くの家庭でも作られます。

では、「ルーネベリの日」とはどんな日なのでしょうか?以前お話ししたことがありますが、まだ聞いてない方もいらっしゃるので、少し紹介します。ルーネベルイは、フィンランドの有名な作家で1804年に生まれました。彼は、詩もよく書き、最も有名な詩はフィンランドの国歌です。美しいその詩は多くのフィンランド人を励ましてきました。彼は60曲近い讃美歌集の詩も書きました。今フィンランドの教会で使っている賛美歌の中にはルーネベリが書いたものがまだ沢山のっています。

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ルーネベリは甘いお菓子が大好きで特にこのタルトが大好物でした。彼はこの甘いお菓子を朝食でも食べていたそうです。現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が少し長めの円筒状で、ラズベリージャムを上にのせます。面白いレシピの一つは、生地にピパルカックを入れます。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れると美味しいお菓子が出来上がるのです。最近はつぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。今日皆さんと一緒に作ったロールケーキもそれです。またロールケーキの他に、マフィンやさまざまななケーキの形のものも作られるようになり、生地に入れる材料も多様化しています。ルーネベリ・タルトは2月5日を過ぎたら喫茶店や店から姿を消しますが、ルーネベルの町ポルヴォーの喫茶店では一年中食べられます。

このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはこの冬のお菓子の伝統だけではありません。季節に関係なく、いつも読まれる詩や小説、そしていつも歌われる沢山の讃美歌を残しました。

ルーネベリが書いた作品の中では天の神様は信頼できる方であることがよく言われます。ここで彼が書いた有名な詩の言葉を紹介します。それは「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」という言葉です。これはフィンランドでは昔、人々の生活の中でよく聞かれた言葉です。

聖書の中にはこの言葉通りの出来事の例が沢山あります。旧約聖書の中で最も有名なのはヤコブの息子ヨセフの話です。ヤコブには息子が12人いました。その中でもヨセフを特にかわいがりました。それを見た兄たちはヨセフをねたむようになりました。ある日、兄たちはヨセフを井戸に投げ込んでしまいました。しばらくすると、外国の商人のキャラバンが通りかかったので、兄たちはヨセフを井戸から引き上げて、売りとばしまいました。その結果、ヨセフはエジプトに連れて行かれたのです。

ヨセフはエジプトで多くの困難に遭い、牢屋にも入れられました。しかしそのような時でもヨセフはいつも神様から知恵と助けをいただいて乗り越えることができ、最後はエジプトの王に認められて国の最も位の高い行政官に任命されました。それから何年か後、多くの国々で雨が降らず作物もできない大飢饉が起きました。エジプトは、ヨセフの指導のおかげで前もって食べ物を沢山たくわえていたので、人々は困ることはありませんでした。その時ヨセフの兄弟たちと父親のヤコブが食べ物を分けてもらうためにエジプトに行きました。そこで、ヨセフに出会ったのです。ヨセフは兄たちが自分に対して行った悪いことを全て赦して、父と兄弟たちがエジプトに住めるように整えてあげました。

このように神様はヨセフを見捨てることなく、いつも見守って下さったのです。困難や試練の時は、神様が共にいらっしゃるとはなかなか思えないでしょう。しかし神様が決めた時が来ると、神さまはヨセフを助けて下さったのです。ヨセフは困難や試練の中にあっても、いつも神様を信じて、神様に助けを祈り続けました。神様が本当に見守って導いてくれたことは、後になってわかったのです。

私たちも人生の歩みの中で様々な試練に直面します。しかしそれは神様が私たちを見捨てたということではありません。神さまは遠く離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、時には神さまのみ心に反することをしてします。それでも神さまは私たちを見放したり見捨たりすることはありません。私たちが神さまの元に立ち返るなら神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さるのです。それは神さまが私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられるのです。

ルーネベリの言葉を聞いたりタルトを食べたりする時にはこのルーネベリが書いた言葉「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」を忘れないようにしましょう。

スオミ教会 手芸クラブのご案内

2月の手芸クラブは25日(水)10時~13時に開催します。

2月の手芸クラブは1月に始めたレッグウォーマーの続きです。フィンランド語で「Säärystimet (サーリュスティメット)」と言います。

足元を温めてくれるレッグウォーマーはお家の中だけでなく、散歩やお買い物など外出時にも大活躍。レッグウォーマーは難しくなく初心者の方にも編みやすいものです。単色・多色のどちらでも、また模様編みに挑戦することもできます。

ご希望に応じて足を温めるルームシューズや指先がない手袋などを編まれても大丈夫です。

参加費: 1000円 

持参するもの: 毛糸100g、毛糸に合わせた編み棒4本または5本

手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。

おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。

お子さん連れのご参加も大歓迎です!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み
moc.l1773521014iamg@1773521014arumi1773521014hsoy.1773521014iviap1773521014
℡ 03-6233-7109

 

 

牧師の週報コラム

日本人を日本人たらしめる視点

かつてジャパンアズナンバーワンと言われた日本も、今では平均賃金、一人当たりの国民総所得ともに欧米諸国は言うに及ばず韓国にも追い抜かれてしまった(円安をやめれば計算上はまだ救いはあるかもしれない)。 フィンランドでもかつては自分が日本人と言えば、一目置かれる雰囲気があった。国の存在感の威光が薄れた今こそ、個人の存在感で自分は中国人でも韓国人でもベトナム人でもない日本人であることを示せるかが試される時代になったのだと思う。

日本が羽振りが良かった80年代、フィンランドにいた時に何が自分を日本人たらしめるかを考え、それは他の国の人間が持てない視点を持てることで、しかもそれが他の国の人間の視点にインパクトを与えるような視点であること、そんな視点を持てれば国の威光に頼らない存在感のある一端の日本人になれるのではないかなどと考えた。それで、子供の頃から気になっていた二つの特殊日本的な極限状況に自分を置いてみて、自分だったら何を思いどう立ち振る舞うかを考えることで、そのような視点が得られるのではないかと考えた。二つの特殊日本的な極限状況とは、一つは特攻隊、もう一つは踏絵である。

特攻隊は、子供の頃は凄いとか可哀想という二つの複雑な思いの混合。高校大学の時に読んだ「きけわだつみの声」や阿川弘之の「雲の墓標」で、彼らの苦悩と葛藤がとても他人事に思えなくなった。自分だったらどうするのだろう、とにかく自分なりに考えに考えて、結局は「志願」させられて出撃するしかないのだろう。では、どう自分を納得させられるだろうか?家族の住む町が爆撃されないため、国が占領されて占領者の言いなりにならないために必要なのだと言い聞かせるしかないだろう。

踏絵は、小学校か中学の時にキリシタン迫害のドラマの演劇を観て身近に感じたことがきっかけ。まだキリスト教徒ではなかったが子供ながらにキリシタンの人たちの苦悩と葛藤が他人事に思えなかったことを覚えている。もし自分がキリシタンだったら踏むのだろうか、踏まないだろうか。キリスト教徒になった今は文字通り自分事になってしまった。全くしょうもないものを幕府は作りおって。もし踏むという選択ならば、その納得の仕方として遠藤周作の「沈黙」は果たして妥当か、ずいぶん悩んだ。帚木蓬生の「守教」でそれを超えられる視点が得られたのではないかと思う。

二つの特殊日本的な極限状況は追体験の機会を与えるだけではない。人をそのような極限状況に追いやってはならないこと、そしてそのような仕組みを作り出す精神構造から脱却されねばならないことを日本の政治と社会が課題として持っていることを教えるものでもあると思う。それを忘れないためにも追体験による思考訓練は意味があると思う。

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牧師の週報コラム

聖書の翻訳の諸問題と課題

111日の礼拝の後で信徒の方から、礼拝中に朗読されたイザヤ書426節について質問があった。同節では、神が僕(イエス様のこと)のことを「あなたを形づくり、あなたを立てた」 と言っているが、スオミ教会の礼拝で唱えられる二ケア信条(西暦325年成立)で御子は「つくられたのではなく生まれ」と言っているのと矛盾するのではないかという疑問。私は説教を準備する時は原文しか見ないから、日本語でどう言われているか気づくのは大抵は礼拝の朗読の時。その日当番の方の朗読で、あれ、と一瞬思ったが、その後の礼拝の流れに集中しなければならず通り過ぎてしまった。

ヘブライ語の文章では「形づくる」はない。「守る」という動詞ならある。6節を忠実に訳すと次のようになる。「私、主(ヤハヴェ)は、あなたを恵みによって召し出し、あなたの手を取ってあなたを守り、あなたを私と民の契約として、また諸国民の光として立てた。」

どうして「形づくる」などと訳したのか。新共同訳はカトリックとプロテスタント諸派が一緒に作った訳。諸派の中には使徒信条や二ケア信条のような古代の信条を顧みない派があって、その関係者が訳したのか?それとも、この預言はイエス・キリストと無関係であることを強調したいためにわざとこうしたのか?それなら、どうして辞書にない意味を持ちだしてきたのか?私が用いるのとは異なる辞書にその意味があったのか?(因みに私が用いているのは、HolladayA Concise Hebrew and Aramaic Lexikon of the Old Testament。大学の神学部時代は手に負えない時は学部図書館にあったBaumgartenの大型のものを用いたことがあるが、個人ではとても所有できない。)

実は11日の福音書の個所にも問題があって、洗礼授けを躊躇するヨハネに対してイエス様が「正しいことを全て行うのは我々に相応しい」と言う下りがある(マタイ415節)。「正しいことを行うのは相応しい」とは少し寝ぼけた訳ではないか?「正しいこと」はここは「義なること」ではないか?英語(NIV)もルター・ドイツ語もスウェーデン語もフィンランド語も皆そう訳している(「義なること」が何を意味するかはその日の説教を参照のこと)。先日の聖書研究でわかったことだが、創世記1816節はヘブライ語で、アブラハムの子孫が「義と正義を行うように」と言っているのに、新共同訳は「義」を削除してしまった!ルター派の翻訳委員は一体何をしていたのか?

今日の山上の説教の「心の貧しい人」(マタイ53節)も正確には「霊的に貧しい人」である。上記4カ国語もそう訳している。「心が貧しい」は、「あの人は心が貧しい」と批判したり、「私は心が貧しい」と反省したりして、人間関係で現れる至らなさ惨めさを意味する。「霊的に貧しい」は、神との関係で明らかになる至らなさ惨めさだ(ドイツ語のEinheitsübersetzungはまさにそう訳している)。

日本語は美しい言語であり、そこで育まれる感性には美しいものが沢山ある。だからと言って聖書の精神をその中に埋没消散させていいわけはない。それは、日本語とその感性に一層磨きをかけることが出来るものであると信じている。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

2026年2月の料理クラブは7日(土)13時から開催します。

本年最初の料理クラブは「ルーネベリ・ロールケーキ」を作ります。2月5日はフィンランドの国民的詩人ルーネベリの記念日です。その日フィンランドではルーネベリ・タルトでお祝いします。

アーモンド、シナモン、ラズベリーの味が引き立つルーネベリ・タルトは、長い冬を過ごすフィンランド人にとって楽しみな味の一つです。料理クラブでは、ロールケーキの形にしてクリームもクリームチーズを用いて上品な味わいに引き立てます。

「ルーネベリ・ロールケーキ」を一緒に作ってみませんか?

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1773521014iamg@1773521014arumi1773521014hsoy.1773521014iviap1773521014 まで。

手芸クラブの報告2026年1月

今年最初の手芸クラブは1月28日に開催しました。外は冬の寒さでしたが、教会の中は温かいので寒さを忘れて心地よく手芸が出来ました。

今回は寒い季節の足元や手首を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」と手首ウォーマーを編みます。参加者の皆さんは自分の好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めに自分の作りたい編み物を決めて編み地サンプルを作ります。それから編み目を編んでいきます。今回はスタートということで、次回に続きをします。一人の方は以前かぎ針編みで編んだスマホケースの続きをしました。可愛い色のスマホケースがもう少しで完成というところまできました。

今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。

いつものように時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこで聖書のお話を聞きました。今回は今年最初の手芸クラブなので、私たちが年の初めに立てる新年の誓い(フィンランドでは「新年の約束」と言います)と、私たちといつも共にあるという天の神さまの約束についてのお話でした。今回も楽しい歓談のひと時でした。

次回の手芸クラブは2月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブの話1月28日

年が明けたのはついこの間だと思ったのに、もう一月の終わりになりました。今日は今年初めての手芸クラブなので、一年の目標についてお話したく思います。新年になると、多くの人は「新しい年はもっと良い生き方をしよう」と考えてさまざまな目標を立てます。フィンランドでは新年の目標を「新年約束」と言います。フィンランド人が立てる「約束」は、普通は自分自身に関するものです。例えばこれからもっと健康的に食べる、体力を向上させる、家族や友達の関係をもっとよくする、新しい趣味を始めるなどです。これらの「約束」はとても良いものですが、少し高すぎてプレッシャーを感じる人もいるかもしれません。初めは皆一生懸命ですが、しばらくして諦めてしまう人が多いです。それで「約束」は簡単に忘れられてしまいます。多くの人はもう2月の中旬には全て忘れてしまい、生活はまた以前と同じに戻ってしまうと言われています。

このように私たちが自分と交わす約束は長続きしないことが多いです。それに気付くととてもがっかりします。私たちは約束を守るのが得意ではありません。しかし、この世には長く守り続ける方がいらっしゃいます。それはどなたでしょうか。天と地と人間を造られた天の神さまです。神さまは私たち人間に様々な約束をされました。それらは聖書の中に書かれています。

今日は神さまの約束の中から一つを紹介したく思います。それは新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれているみ言葉です。これは復活したイエス様が信じる者たちに語られた約束です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
マタイ28章20節

ここでイエス様は、今年も毎日、私たち一人一人と共にいてくださると約束しておられます。私たちはイエス様と密接につながって生きることが出来れば、安心感を得られます。これは私たちにとって大きな励ましであり、大きな希望でもあります。しかし私たちはこの約束を素直に信じられるでしょうか。疑ってしまう時もあると思います。毎日が順調で、幸せな時、全てがうまくいっている時には、イエス様の約束を信じることが出来るでしょう。しかし、病気になったり、仕事を失ったり、自然災害などが起こったときには、「イエス様は本当に共にいらっしゃるのだろうか、私のことなど、忘れてしまったのではないだろうか」と不安になります。

そんな時、私はある有名な詩を思い出します。それは、人の人生の歩みを砂浜の上に続く足跡にたとえた話です。イエス様がその人と一緒に歩いていた時、砂の上には二人分の足跡が残っていました。しかし、その人の人生が終わに近づいたとき、浜辺を振り返ってみると、あるところで

は足跡は一人分しかありませんでした。その人は、足跡が一人分しかない時、イエス様は一体どこに行ってしまったのだろうか、と考え込みました。しかも、その時は、その人の人生で最も辛い時期だったことを思い出しました。不安になったその人はイエス様に尋ねました。「イエス様、あの時、私はとても苦しい状態にあったのに、どうして一緒に歩いて下さらなかったのですか?あの頃、一体どこに行ってしまわれたのですか?」イエス様がお答えになりました。「あの時、あなたが大変な時期だったことはよく知っている。しかし、私はあなたのそばから離れたことはなかった。あの時、私はあなたを背負って歩いていたのだ。だから足跡は一人分しか残らなかったのだ。」

この話のように、私たちの人生に困難があるときにも、イエス様は私たちを離れないで、いつも共にいて下さいます。そのことは、どのようにして知ることが出来るでしょうか?それは、私たちが困難な状態にあっても、イエス様は毎日生きる力を与えてくださって、心の中に平安を与えてくださることからわかります。今年もイエス様が毎日私たちと共に歩んでくださることは、私たちの生きる土台になります。その土台を持っていれば、私たちは安心して前に進むことが出来ます。このことを忘れないで本年も歩んでいきましょう。

最後に旧約聖書のエレミヤ書のみ言葉です。

「私は、あなたたちのために立たてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、
災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。」

エレミヤ書29章11節です。