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スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2026年11月1日 全聖徒主日
黙示録7章9-17節
第一ヨハネ3章1-3節
マタイ5章1-12節
説教題 「キリスト信仰者が幸いなのは、秘められたものを持っているから」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日の福音書の個所は有名なイエス様の「山上の説教」の出だしのところ、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。9つのタイプの人たちが「幸い」と言われます。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエス様のために罵られ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人です。これを読んで違和感を抱く人もいると思います。心の清い人や平和を実現する人が幸いというのはわかるが、悲しんだり迫害される人を幸いというのは当たっていないのじゃないかと。「幸い」というのはギリシャ語のマカリオスの日本語訳です。「幸せ」ではなく「幸い」と訳されました。普通の幸せではない、何か特殊な「幸せ」なので「幸い」と訳されました。「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとっての幸せだという、神の視点での幸せです。人間が自分でこれが幸せだと考えるのとどこか違います。そういうわけで、人間的な視点での「幸せ」からちょっと離れて神の視点での「幸い」とは何かを考える必要があります。
ところで、このイエス様の教えを最初に聞いた群衆は果たして9つのタイプが神の視点で幸せ、幸いであるとわかったでしょうか?私が思うに、彼らはわからなかったのではないかと思います。どうしてかと言うと、ユダヤ教社会の伝統では「幸いな人」とは、旧約聖書の詩篇の第1篇で言われいるように、律法をきちんと守って神から愛顧を受けられる人のことです。ヘブライ語でアシュレーと言います。また、詩篇の第32篇を見ると、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫な人のことをアシュレー/幸いと言っています。このように律法を守って生きて、その見返りとして神から愛顧を受ける、もし神の意思に反する罪を犯したらエルサレムの神殿で動物の生贄を捧げる贖罪の儀式を行って赦しを頂く、これがユダヤ教社会にとって幸いでした。イエス様はそういったことには触れず、心の貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を作る人、義のゆえに迫害される人、イエス様のことで悪く言われたり迫害される人が幸い、神の目から見て幸せと言うのです。これは一体どういうことか?今日はイエス様が教える「幸い」について見ていきましょう。
2.
このイエス様の「幸い」の教えをギリシャ語の原文に沿ってじっくり見ていくと、日本語の訳では見えてこないことが見えてきます。それが見えると、この教えをもっとよく理解できるようになります。
まず、「~する者は幸いである」と言った後に、必ず「なぜなら」という言葉が続きます。日本語訳では抜け落ちていますが、「悲しんでいる者は幸いである。なぜなら彼らは慰められることになるから」とイエス様は言っているのです。つまり、悲しむこと自体が幸いなのではなく、逆転が起きるから幸いなのです。だから、今悲しんでいるのは将来慰めに取って代わられる前触れに過ぎないということです。
次に日本語訳で見えないことは、「なぜなら」で始まる文の動詞が未来形ということです。慰めも、地の受け継ぎも、義の渇きの満たしも、憐れみを受けることも、神を見ることも、神の子と呼ばれることも全て将来必ずそうなるとイエス様は約束されているのです。ここで問題になるのは、では、その将来とはいつのことか、逆転が起きるのはいつかということです。それについてはこの説教の終わりで明らかになります。ここの一つ注意すべき点は、慰めや地の受け継ぎなどは将来起こることなのに、心の貧しい人と義のゆえに迫害される者が神の国を持つのは現在形です。将来ではなく今の時点で持っているということです。それゆえこれらの者は幸いであると。神の国を今持っているというのはどういうことか、これもこの説教の終わりで明らかになります。
もう一つ日本語訳で見えないことは、新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、「~される」という受け身の文がある時、誰によってそうされるかと言えば、それは大抵は父なる神が隠された主語になっているということです。なので、慰めるのも、義の渇きを満たしてくれるのも、憐れみを授けるのも、神の子と呼ぶのも全部神がそうされるということです。そういうわけで、幸いな者というのは、今は人の目から見て惨めとか取るに足らないような状態にあっても、将来は全てが逆転する、神の取り計らいでそうなると信じる者なのです。まさに神の視点で幸せ、幸いな者なのです。
さらに、もう一つ日本語訳で見えないことはがあります。それは、最初の「心の貧しい人」です。ギリシャ語原文では「霊的に貧しい人」で、心を意味するカルディアではなく霊を意味するプネウマという言葉です。英語、フィンランド語、スウェーデン語、ドイツ語ルター訳でも「霊的に貧しい」と訳しています。どうして日本語が「心の貧しい」になってしまったのか、大体理由はわかりますが、後の8節に出てくる「心の清い人」はギリシャ語は「心」を意味するカルディアです。しかし、この3節は「霊」を意味するプネウマを使っています。なので、ここに「心」を当てはめるのはよくないと思います。それで、これからは「霊的に貧しい人」と言い換えます。
そうすると、「霊的に貧しい人」とはどんな状態なのかを考えなければなりません。「心が貧しい」と言うと、「あの人は心の貧しい人だ」などと批判することがあります。それで「心が貧しい」というのは人間同士の間での何か至らない状態を意味します。「霊的に貧しい」というのは相手が人間ではなく神を前にしての自分の至らない状態を意味します。それでは、神を前にした至らない状態とはどんな状態でしょうか?それを理解する鍵は、旧約聖書にあります。イエス様の言葉も使徒たちの言葉も、全てが旧約聖書を土台や背景にしていると言っても過言ではありません。イエス様や使徒たちの言葉が難しい時は旧約聖書のどこかに鍵があると思って探すことが大事です。難しくない、簡単だ、わかったと思っても、旧約聖書の背景を考えないで自分たちの常識や理想の中で考えたら、それはもうイエス様や使徒の言葉ではなくなります。
「霊的に貧しい」に関係する旧約聖書の個所はいろいろあります。イザヤ書66章2節で神は言われます。「私が目を注ぐのは、貧しい者、打ち砕かれた霊、私の言葉を恐れる者。」神のみ言葉は人に罪があることを明らかにします。そのみ言葉によって霊が打ち砕かれて貧しい状態になるのです。(注目 新共同訳では「貧しい者」が「苦しむ者」になっています。しかし、ヘブライ語のアーニーはHolladyのConcise lexiconによると「貧しい」が基本的な意味です。「苦しむ」はありませんでした。違う訳をするから「霊的に貧しい」の意味を探る手掛かりを失ってしまいます。)同じように、詩篇34篇19節「主は打ち砕かれた心の近くにいまし、とことんヘリ下った霊を救われる。」詩篇51篇19節「神への捧げ物は打ち砕かれた霊、打ち砕かれてとことんヘリ下った心を神は軽んじることはしない。」イザヤ57章15節「私は高く聖なる所に住み、とことんヘリ下る者、ヘリ下る霊と共にあり、ヘリ下る者たちの霊を修復し、うち砕かれた心を修復する。」
どうして神は打ち砕かれてヘリ下った霊や心を求めるのでしょうか?これは、イスラエルの民が神殿で行う贖罪の儀式が機能していないことが背景としてあります。人間はどのようにして神の意思に反する罪を神から赦してもらって神の愛顧の中で生きることができるか?イスラエルの民はエルサレムの神殿での礼拝が罪の赦しを実現すると考え行っていました。律法の規定に従って贖罪の儀式を毎年のように行っていました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでした。それで、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦されて神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
ところが、この贖罪の儀式は、民の心を罪の赦しを受けるのに相応しい心に変えていなかったのです。民のつもりとしては生贄を捧げているので罪は赦されている。しかし、神から見れば、神の意思に反する罪はそのままです。儀式が形だけのものになってしまって、本当の悔い改めは起きていないのです。それで神はそんな捧げものはうんざりだ、見たくもない、生贄に代えてお前たちの打ち砕かれてヘリ下った霊と心を持ってこい、そうしたらそれを修復してあげるから、ということになったのです。
3.
まさにそのような時に神のひとり子イエス様が神の御許からこの世に贈られてきたのです。神とイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守り、神の意思に沿うように生きていると言っているが、実は心に留めてもいないし本当は守ってもいない。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は罪の赦しはもうそこにはない。私が預言者たちを通して伝えたように、毎年繰り返される生け贄捧げの儀式は形だけのものになってしまい、心の中の罪に対しては何もなしえていない。それなので私が本当に私の意思をお前たちの心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えてあげよう。そうすると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが本当に幸いなことなのだ。なぜなら、それはお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しになるからだ。これがイエス様の「幸いな人」の教えの真相です。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、神の意思を心に留められるようにして人間を「幸いな者」にしたのでしょうか?それは、イエス様が父なるみ神の大いなる意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡して全ての人間の罪の罰を人間に代わって受けられることによってでした。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。
あとは人間の方がイエス様が命じた洗礼を受けると、使徒パウロが明らかにしたように、その人はイエス様の十字架上の死と死からの復活に結びつけられます。イエス様の死に結びつけられると自分の中にある罪が人間を永遠の滅びに陥れようとする力を失います。イエス様の復活に結びつけられると永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるようになります。その人はイエス様は真に自分の救い主だという信仰に満たされています。イエス様のおかげで罪を償われたので、神から罪を赦された者として見てもらえ、神との結びつきを持てるようになります。その人は、パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様をあたかも衣のように頭から被せられたのです。本日の黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことです。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。
このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を進みます。しかしながら、キリスト信仰者といえども、この世ではまだ朽ちる肉の体を持っています。それは神の意思に反する罪を内に宿しています。そのため信仰者は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。これが霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは真に私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは犯さないように」と言って下さいます。その時、神はこの者の衣は神の小羊の血で白くされたままであると確認します。私たちに被せられた衣の白さを証明してくれるのです。
キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。神が満たしてくれる方であるとわかればわかるほど、本日の詩篇の日課34篇や23篇に言われるように「私には欠けるものがなにもない」というのが本当になります。それくらい自分は霊的に満たされているとわかると、詩篇24篇4節で言われるような「心の清い者」になります。「潔白な手と清い心を持つ人はむなしいものに魂を奪われない」。また、神によって霊的に満たされていると、自分の力によるものではないと自分でわかるので他人に対して高ぶったりしません。逆にヘリ下るようになります。それが柔和さや憐れみ深さになります。「平和を実現する」とは、何かノーベル平和賞を受けられるようなことを考えてしまうかもしれませんが、もっと身近なところにあることを忘れてはいけません。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、イエス様のおかげで自分には欠けているものがないとわかれば、そういうお人好し路線が当然になるのです。実に9つのタイプは全てキリスト信仰者に当てはまるタイプなのです。
4.勧めと励まし
9つのタイプが全てキリスト信仰者に当てはまるものとすると、信仰者は神から慰められることになります。同じように、地を受け継ぐことになり、神から義の飢え渇きを満たしてもらえ、神から憐れみを受けることになり、神を目で見ることになり、神から子と呼ばれるようになり、天の御国の報酬は大きなものになります。
それでは、慰められたり満たされたりするのは将来のいつなのでしょうか?キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの願いと赦しの受け取りの繰り返しです。そうなると、慰められるのも満たされるのも無数にあることになります。一回終わっても、また次が来るので、どれも最終的なものではありません。しかし、最終的な慰めと満たされの日が来るのです。それは、復活の日、創造主の神が今ある天と地に替えて新しく天と地を創造する日、そこに永遠の神の国が現われて、復活を遂げた者たちがそこに迎え入れられる日です。その日、繰り返しの人生は終了して完全な慰め、完全な満たされが起こります。柔和な者が地を受け継ぐことになるというのは、かつては約束の地カナンから追い出されずに永遠に居住できることを意味しました。キリスト信仰者にとって「地の受け継ぎ」は、永遠の神の国への迎え入れを意味します。神の国から追い出されずに永遠に居住できることを意味します。そうすると、霊的に貧しい者、義のゆえに迫害される者が今、神の国を持っていると言うのは矛盾するのではないか?神の国を持てるのは今ではなく将来と言ったほうが正しいのではないか?
いいえ、そうではないのです。確かに神の国への迎え入れは将来のことですが、神の国は罪の自覚、赦しの願い、赦しの受け取りを繰り返して生きる者のものに既になっているのです。なぜなら、この繰り返しは、罪の赦しという神の恵みに留まる生き方だからです。迎え入れはまだなので、秘められた状態で神の国を持っているのです。迎え入れの時に顕在化した神の国を受け継ぐのです。つまり、こういうことです。人は洗礼を受けることで神の国を秘められた状態で持ち、復活の日に顕在化した状態で持つのです。この世の人生の中でも神に慰められ満たされることはありますが、それは最終的なものではなくその都度その都度のものです。それが、復活の日に最終的に完全に慰められ満たされるのです。本日の黙示録7章と後に来る21章で言われます。またそれらを預言したイザヤ25章でも言われます。その時、神は私たちの目から全ての涙を拭い去って下さると。この世の段階で拭いきれなかった涙も、痛みや苦しみのだけでなく無念の涙も含めて全ての涙が拭われるのです。このことをわかっているキリスト信仰者はだから、この世で何があっても大丈夫、平気という気持ちでいられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルター、アイデンティティー、キリスト信仰
米国の著名な政治学者F.フクヤマは著作“Identity”の中で、近代のアイデンティティーの概念の成立にとってルターがいかに重要な役割を果たしかについて論じている。ただし、ルターのアイデンティティーの理解は純粋に神学的なものだったという点で現代の人々の間で普通に用いられているアイデンティティーの理解とは異なるということにも注意を喚起して次のように述べる。
「しかし、マルティン・ルターは現代のアイデンティティー理解とは遠く離れた地点に立っている。確かに彼は「内なる自己の自由」に祝杯をあげた。しかし、この「自己」には一つの次元しかなかった。すなわち信仰という次元だ。それで、この「自己」は神の恩寵を受け取る自己なのである。従ってルターのアイデンティティー理解には二者択一しかない。人は聖書の神を選ぶ自由を持っているかいないかだ。それゆえ、彼から見れば、人はヒンズー教徒や仏教徒になることを選ぶという自由はないのであり、また人の真のアイデンティティーは性的少数者としてクローゼットから出てくることがそうだと主張することでもないのだ。」(paperback版28~29ページ、少し吉村の意訳)
フクヤマの論じ方から、ルターにとって、この内なる、そして本物の自己とは神との関係の中でのみ成り立つものであることがわかる。しかしながら、当時の教会は聖書の神の言葉に基づかない慣行や教えが沢山あり、それが内なる本物の自己の阻害要因となってしまった。それで内なる本物の自己の実現のために教会は改革されねばならないという構図になる。政治学者から見た宗教改革の構図だ。
それでは、アイデンティティーの概念がルターのような一元的なものではなくなって、現代のように多元化したのはどういう経緯でか?フクヤマはフランスの啓蒙主義哲学者J.J.ルソーの役割を強調する。ルソーはアイデンティティーからルターの神学的な枠を取っ払ったのだ。それで、内なる本物の自己は聖書の神と無関係になってなんでもありになった。ヒンズー教徒でも仏教徒でも性的少数者でも。
このように内なる本物の自己は多元化しても、そのような自己の実現を阻害する要因が制度としてまた伝統として社会に存在すれば、そのような制度や伝統は自己の実現にとって邪魔者でしかないので改革されるか打破されねばならない。まさにルターにとって当時の教会がそうであったように。しかし、ここで注意すべきことがある。ルター的なアイデンティティーの理解では内なる本物の自己の中心には神があった。それに対して、ルソー的な内なる本物の自己にはそれがなくなった。では何があるのか?内なる本物の自己には「自分」があることになったのだ。つまり、「自分」が神に代わって内なる本物の自己を規定するようになったのだ。果たして「自分」は内なる本物の自己を規定することが出来るくらいに確かなものなのか?翻ってキリスト信仰者は、内なる本物の自己は神のひとり子の十字架上の贖罪と死からの復活という神の取り計らいによって規定されていることで良しとするのだ。
10月の手芸クラブは21日に開催しました。10月なのに夏が戻ったような蒸し暑い一日でした。
今回は少し早めにクリスマスに向けてフィンランドのクリスマス・オーナメント「オルキ・タハティ(藁の星)」を作りました。材料はフィンランド直送の天然の藁です!
初めに星のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。それから水で柔らかくした藁を星の形に合わせて8本か12本の束にします。束をパールピンでプレートに取り付けてから星の形に作ります。プレートのパールピンはどんどん増えていきますが、形はまだはっきり見えてません。それでも、参加者の皆さんは楽しくおしゃべりをしながら赤や白い糸で藁を結んでいくと、星の形がはっきり見えてきました。皆さんの手の動きは早くて藁の星はあっという間に出来上がりました。それぞれの個性的な形の星を作り上げると、「わあ、可愛い!」「なんて、きれいな形!」と嬉しそうな声が上がりました。
今回も楽しくおしゃべりしながら藁の星を作って時が経つのを忘れてしまうほどでした。あっという間にコーヒータイムの時間になりました。
テーブルのセッティングをして、フィンランドのお菓子パン「Pulla」をコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの酪農で子牛のためによく作る藁の「避難場所」や聖書が教える私たち人間の「避難場所」についてのお話を聞きました。
次回の手芸クラブは11月25日に開催予定です。開催日が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!
今日はまだ10月ですが、少し早めにクリスマスに向けて皆さんと一緒にクリスマス・オーナメントを作りました。11月の手芸クラブでも同じテーマを予定しているので、今年のクリスマスは皆さんのご自宅は様々な藁のオーナメントで飾られることになりそうです。
藁はさまざまな用途を使われてきた伝統的な素材です。昔はオーナメントだけではなくマットを織ったり布団の中身として使ったりしました。また藁は農業や庭の植物の栽培にも利用される重要な素材です。
私は農家で育ったので、農業で藁がどのように使われていたかをよく目にしました。昔は牛や子牛の休む場所を乾燥した状態に保ち、柔らく快適にするために刻んだ藁を敷きました。実家の牧場では乳牛の乳しぼりの仕事が終わってから子牛の為に新しい藁を敷いてあげました。その時、子牛たちはもう待っているような様子でした。藁を敷くと、子牛は飛び跳ねたり走り回ったりして大喜びでした。それから藁の上に横になり気持ちよさそうに眠りました。子牛たちは母親から離れたので少し不安だったのかもしれません。でも、藁が敷かれた寝る場は暖かくて、安心して眠りました。藁で作った休む場所は子牛たちにとって避難所のような安心できる場所でした。
私たちも子牛と同じように暖かくて安心できる場所にいたいと願っているのではないでしょうか。特に不安を感じる時にそのように願うでしょう。私たちが生きている世界ではさまざまな変化が起こります。戦争や自然災害など、私たちに不安を感じさせる出来事も沢山あります。自然災害が起きれば私たちは安全のために指定された避難所に行くでしょう。
しかし私たちが不安を感じるのはそのような非常事態の時だけではありません。悲しみ、試練、病気、混乱など、さまざまなことが私たちの心を不安におとしれます。そのような時はどうすればよいでしょうか。私たちを不安から守ってくれる安全で安心できる避難場所はどこにあるでしょうか。
旧約聖書の詩編にはそのような避難場所についてこのように書いてあります。 「神様のそばにいることは私の幸せです。 神様は私の避難場所。 私は神様の御業を全て語り伝えます。」 詩編73章28編。
このダビデの言葉によると私たちの避難場所は天と地と人間を造られた神さまです。それはどういうことでしょうか。私たちは天の神さまと繋がりを持つことによって避難場所にいるのと同じ安心感を得られるのです。神さまと繋がりを持つことが出来たら神さまは私たちのそばにいて下さることになります。
それでは私たちはどのようにして神さまのそばにいて神さまとの繋がりを持つことができるでしょうか。それは神さまを心から受け入れて信じることによってです。聖書のみ言葉を読んで、天の神様にお祈りして、神様は必ず祈りを聞いてくださると信じることが出来れば神様がそばにいて下さるという安心感を得られます。み言葉と祈りを通して神さまとの繋がりが強められます。さらに、神さまが私たちを救ってくださるという計画も明らかになって神さまに対する信頼が生まれます。この信頼があると、生活の重荷も軽く感じられるようになります。
私たちの歩む道はいつも平らとは限りません。悲しみや困難や試練に直面することもあります。しかしそのような時にも天の神様が共にいて下さるとわかっています。問題の解決も、神さまに対する信頼があるので、いつ、どのように解決されるかは神さまの御手の中にある、だから大丈夫という安心があります。
ひよっとしたら神様は私たちが信頼して一緒に歩むために試練や困難を与えられるのかかもしれません。しかし、神様は私たちに喜ばしいことも沢山与えてくださいます。だから私たちはそれらは神さまの贈り物としてその一つ一つを感謝して受け取ります。
私たちにはさまざまな状態がありますが、どんな状態にあっても神さまに信頼すれば、神さまは私たちにとって安全な避難場所となります。その避難場所は揺らぐことがなく私たちの生活の確かな土台になります。
天と地と人間を造られた神さまが私たちの避難場所になって下さったら、私たちは暖かな藁の休む場で眠る子牛のように安心に包まれます。
フィンランドの聖歌の中にこのような歌があります。 「神さまのもとに避難する者は、ほかと比べないよい安全な場所に身を置くことになります。その人は、天に輝く星のようであり、また、母鳥の翼の下にいるひなのようです。」 (フィンランド語の賛美歌の歌詞)
ホトトギス
〈1わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。 2おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。 雅歌2:1,2〉
ホトトギスはユリ科ホトトギス属の秋の花ですが秋の七草には入れてもらえません。でも私は勝手に秋の八草と称して秋の花の仲間に入れています。日陰を好む事からお思わぬ所でこの花に出会います。何時もの散歩道の一号遺跡の入り口の木陰でもこのホトトギスを見つけました。鳥のホトトギスの鳴き声を聞く時も、花のホトトギスを見つけた時も何故かハッピーな気持ちになります。今年はベランダの鉢にも一輪だけですが咲いています、よく見ると脇から二本目の茎が伸びてきました。鉢いっぱいになったら何処かの日陰に移植しようと思っています。
ホトトギスは古来から色々な文字で表されてきました。ネットで調べてみましたらこんなにありました。日本語で最も漢字表記の多い鳥のようです。
杜鵑(とけん) 中国由来の表記で、ホトトギス類の総称として使われる。
神学か?文学か?
先日ある教派の神学校を卒業した方の来訪を受けて話をした。彼曰く、その教派の説教は型にはまりすぎて面白くなくなった、 もっと人を感動させる説教をしないと。それに対して私は、別に感動させる必要はない、私など毎回、主の十字架の贖罪と復活を繰り返すので、新味がないと呆れられて礼拝を辞めた人もいる位だ、フィンランドのSLEYの礼拝ではそれを言わないと逆に呆れられてしまうと。彼はさらに、もっとマタイやマルコetcが教えることをちゃんと教えないといけないと。私は、あれっ、イエス様が教えることではないのかと思ったが、話が長くなるのでコメントを控えた。
ドイツを中心にして見ると18世紀までの神学は主に、神とは何か、三位一体とは、聖礼典とは等々を新旧約聖書の至るところから根拠を見つけて体系づける「体系神学」(日本の教派によっては「組織神学」と言うところもあるが、それではワケがわからん)。聖書に書いてあることは全て歴史そのもので真実というのが大前提にあった。ところが19世紀になると「歴史批判」とか「文学批判」が釈義学界を席巻するように。書かれてあることを歴史そのものだと鵜呑みにしない、書かれてあることを文学作品のように分析するというものだ。そこから1899年にA.ユリヒャーが高らかに宣したような、福音書から使徒的伝統を取り払ったところに本当のイエスが見えるという考えが広まり、伝統から自由ないろんなイエス像が編み出されることに。その流れにストップをかけたのがR.ブルトマン。彼は、今あるテキストからは実際のイエスは突き止められない、釈義学ができることはテキストをバラバラにしてそれぞれの部分が初期の教会でどういう役割を果たしたかを見ることだけと。そうなると、マタイもマルコも皆バラバラの資料を継ぎ合わせただけにすぎなくなる。
ところが第二次大戦後ブルトマンの弟子のE.ケーゼマンらが、福音書の記者は独自の視点を持って福音書を書きあげた、各福音書は各記者の一貫した方針の元で生まれた作品なのだと。大事なのはその方針を解明して、それと緊張関係にある部分に実際のイエスの手がかりがあると主張。再びいろいろなイエス像が生まれることに。ただ、使徒的伝統から自由という点では最初の時と同じ。ところが、1980年代から死海文書など第二神殿期のユダヤ文書をふんだんに取り入れた研究が増え、あのN.T.ライトが言ったように歴史的イエス研究は第三段階に入ったと言われるように。興味深いのは、第二神殿期ユダヤの思潮と後の使徒的信仰を発展的な連続体で見てその中にイエスを位置づける研究も出て、そこではイエスは必ずしも浮いた存在ではないということ(私が属していたT.ホルメーン主導の研究グループはまさにそれ※)。
私の結論 マタイ、マルコetcはかくかくしかじかの方針でそれぞれの福音書を書き上げたと論じる本が出たとする。論じられた方針が使徒的伝統と軌を一にしていれば、その本は使徒的伝統のマタイ版、マルコ版etcを明らかにしたと言える。もし使徒的伝統から外れる論じ方であれば、それは神学に関係のない文学作品と言ってよいだろう。優れた文学作品が使徒的伝統に立つ信仰を磨き上げるとは限らないのだ。
合歓の種
〈主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、 イザヤ書30:23〉
家内の好きな詩人、石垣りんのエッセイに”ベランダの鉢植えの合歓の木に花が咲いた”というくだりに誘われて自分もベランダで合歓の花が見たいと数年前から近所の公園を合歓の種を探し回っていました。何処の合歓の木も秋になると来るのが遅かったのか種は既に地に落ちていて風邪に飛ばされたのか、雨に流されたのか見つける事が出来ませんでした。最近になって風の丘公園の途中に格好の合歓の木を見つけました。花の時期も終わりやがて種が出来ました。公園に行く度に種の観察を続けていましたが先日、種の採取に手ごろな時期がきたようで三つほど大きめの種の入った鞘を持ち帰りました。鞘を透かして見ると種らしい影が見えています。鞘は脆く少し力を入れるとあっ気なく壊れ種が出てきました。大豆ほどの大きさで扁平な種です、全部で二十粒ありました。ネットで播種の時期を調べたら三月頃が良いとありそれまでは冷蔵庫で保管するべしとありました。冷蔵庫には”駿河台匂い”の桜の種もあり、こちらも三月に播く予定です。早くも春が待ち遠しいです。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年10月18日(日)スオミ教会
聖書 マタイ福音書22章15~22節
説教題:「神のものは神に返しなさい」
イエス様のこの世での生涯は、お生まれになった時から十字架の死に至るまでの三十三年間、何時も戦いの連続でした。イエス様の命を狙う勢力があの手この手で挑んできました。今日の聖書の箇所ではその戦いの一つです。大きな勢力はユダヤ教の指導者たちで、イエス様の働きがユダヤ教の全体を揺るがすような型破りの行動や教えとに加えて民衆を驚かす奇跡の業を大胆に成してゆかれたからでした。今日の聖書のマタイによる福音書22章15~22節を見ますと。納税の問題で挑戦してきました。15節、それから、ファリサイ派の人々は出て行ってどのようにしてイエスの言葉尻を捉えて罠に掛けようかと相談した。そして、その弟子たちを遣わして尋ねさせたのです。「先生、私たちはあなたが真実な方で真理に基づいて神の道を教えを、誰をも憚らない方である事を知っています。人々を分け隔てをなさらないからです。」今回、イエス様の前に来て質問したのはファリサイ派の人々とヘロデ派の人々でユダヤ教の指導者たちではありません。彼らはもうイエス様に顔を知られていますから、名前も顔も知られていない新人の各々の派閥の弟子たちを送ったのです。何故かと言いますとイエス様に警戒心を起こさせないで問答をさせようとしたのです。目的は質問に答えられるイエス様の言葉尻を捉えて罠にはめ、イエス様を捕らえようとするためであります。表面的には些細な問題を持ち出しているようですが、彼らが持ち出した納税の問題はその時代の国家権力に服従するかどうか、という実は危険千万なものであったのです。つまり、イエス様の答え次第によってその言葉尻を捉え国家権力への反逆罪をひきだしたかったのです。しかも、イエス様に挑戦してきたファリサイ派とヘロデ派は実は反対同士の者たちです。
ファリサイ派というのはユダヤ教の一派で神様から自分たちは選ばれた民という意識が強く熱心党ほどではないにしてもローマ帝国やローマ帝国の領主ヘロデに税を納めたくない人々でした。
それに対してヘロデ派はエドム族出身のハスモニア家の血筋を引くヘロデ家を何とかして先代のヘロデ大王時代の繁栄を取り戻したいと願っている人々です。ですから、彼らもまたローマ帝国の支配そのものには好意を持ってはいませんでした。それでも、ヘロデ家を盛り立てるためにはローマ帝国に忠誠を尽くしてカイザルに税を納めて良い心証を与えたいと考える人々です。ですから、ファリサイ派とヘロデ党の者たちとはローマ帝国への納税については全く相反する考えを持っていたのです。相反する立場の者たちをイエス様のところに送って来たのですからイエス様がそのどちらに転んでもイエス様を無事に済ませないためでした。彼らの質問は「皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか」と言うものでした。さて、このような質問に対してイエス様はどのような態度をとられたでしょうか。イエス様は彼らの悪意を見抜いて言われました。『偽善者ども、どうして私を試みるのか。税金に納める銀貨を見せなさい』。それで、彼らはデナリオン銀貨を持ってくるとイエス様は彼らに言われた。『これは誰の肖像で、誰の銘か』。彼らは答えた。「皇帝のものです」。するとイエス様は言われた。『それでは皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』。イエス様は此処ではっきりと納税の義務を主張しておられます。イエス様は税金を納める事によって皇帝に服従すべき事を命じられました。これを聞いたファリサイ派の者たちは怒ったでしょうね。自分たちの期待とは違った事であったのです。神に選ばれた誇りを持っていたユダヤの民が皇帝によって国が占領され高い税金によって苦しめられている。そんな苦難も十分承知の上でイエス様は支配されている限り皇帝に服従すべきである、という事を言われました。イエス様はこの義務を教えるために一つの実物教育をされました。税金を納める貨幣を取ってそれが『誰の肖像で、誰の銘か』を尋ねられ、それが皇帝のものであることを彼らにはっきりと認めさせて『それでは、皇帝のものであれば皇帝に返せ。』更に『神のものは神に返しなさい』と言われたのです。実に見事な、反論も出来ないイエス様の言葉です。質問した彼らは税金を納める事が良いのか悪いのかを問うたのに対してイエス様は税金というものは「納める」ものであって、つまり「与える」ものではなく、「返す」ものと答えておられるのです。
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納税は本来の所有者への返済金に他ならないのであると。これが納税義務の根拠である、と言っておられる。そして、此処で皇帝と言われている時代のこの根拠は現代の民主主義国家であったとしても国民が選出した政府や地方の議会であったとしても本質的には変わらない、という事です。私たちは、この世にあって、この国の国民として生きる限りこの国の下に生活しなければならない。納税された民の税金が国の働きのため、国民の生活のためにどのように正しく幸せになれるように使われてゆくか、と言うことも大切な事として考えてゆかなければならないでしょう。イエス様は『皇帝のものは皇帝に返しなさい。』と言われて更に大切な事を言われました。それは、最後に語られたイエス様の言葉が決定的にその事を示しています。それは、『神のものは神に返しなさい』と言われたのです。『皇帝のものは皇帝に返しなさい』と言う言葉と並べて言われているのと同じように、神のものは神にと言う場合も同じに神の所有権のもとにある、という根拠から神にお返しする義務が生ずるのだ、と言う事です。それでは、神のものには神の肖像は何処にあるのか。つまり、神の形があるとは何を指しているのでしょうか。それは、言うまでもなく私たち人間の事です。神は人を創られた時、神に似せて創られたからです。私たちは神の肖像です。それでは、納税と言う面から、皇帝にはデナリオンという貨幣を返せば済むかもしれませんが、神には神の形に創られた人間、つまり私たちという人格そのものをお返ししなければなりません。そしてその場合、皇帝に対する場合のように完全に納めるという事は有り得ないでしょう。どうしても、脱税があったり不正申告もあるでしょう。そうであるなら、神のものは神にという場合、私たちの人格そのものをどのようにして神へお返しとして何をなすべきか。そこにはどうしても脱税をしている面もあるでしょうし、不正申告や或いは無視して自分の事だけを考えてしまっているでしょう。この世の事で神への献身という神への思い、神にどのような事をしてお返しをしているでしょうか。それは、神様への行いと金銭の上では完納しても脱税行為なるものを何処かでしている。私たちは自分が神のものを神に返してこなかった事への神の前に於ける反省を求められていないでしょうか。どうしても、此処に神様からの助けを求めてゆくしかない自分を見て祈ってゆく事であります。最後に。パウロはローマ人への手紙13章4~5節でこう印しています。「権威者はあなたに善を行わせるために神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣(つるぎ)を帯びているのではなく神に仕える者として悪を行う者に怒りを持って報いるのです。」だから、良心のため権威者に従いなさいと言っています。たとえ、異邦人の王であろうとも人の立てた制度と権威であっても神の秩序として尊び従いなさい。と言っているのであります。私たちキリスト者は地上では旅人でありますが、何時も神の守りと恵の中にあって神の秩序の中にあるものであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは青空ひろがる秋晴れの10月10日に開催しました。今回のメニューはフィンランドの家庭でもよく作られるラズベリー・ケーキです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にそれぞれの材料を計って準備します。それからマーガリンと砂糖をハンドミキサーで泡立て、白く泡立ったら卵などを加えます。出来上がった生地を冷蔵庫にしばらく置いておきます。次はフィリングの準備です。水切りヨーグルトなど順番にボールに入れて混ぜると出来上がります。
それから生地をパイ皿に伸ばしてその上に冷凍のラズベリーをパラパラとのせます。その時「ラズベリー美味しそう!」という声があちこちから聞こえてきました。最後にラズベリーの上にフィリングを流し込んでオーブンに入れて焼きます。
ケーキをオーブンに入れてしばらく経つと、台所から美味しいそうな香りが教会中に広がります。出来上がりはどんなものになるだろうかと皆さん待ち通しそうにしていました。
ケーキをオーブンで焼いている間、ケーキの香りと一緒に参加者の皆さんの楽しそうな会話も教会中に広がりました。皆さんは、どんなケーキになるかなぁ、と興味をもって何度もケーキの焼き具合を覗いては、「きれいに膨らんでいるわ」「美味しそうね」などと話されていました。
ケーキが焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのラズベリー・ケーキをコーヒー紅茶と一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。歓談の時にはまたフィンランドのラズベリーの話と天の神さまの祝福についてのお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回は11月7日の予定です。11月は第1の土曜日になりますのでご注意ください。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はラズベリーのケーキを作りました。料理クラブではこれまでに、ブルーベリーやイチゴのケーキを作ったことがありますが、ラズベリーのケーキは初めてです。フィンランドではラズベリーは比較的高価なベリーでブルーベリーやイチゴほどケーキなどに使うことはありません。日本ではラズベリーは簡単に手に入らないので、ラズベリーを使ったお菓子やデザートは高価で珍しいです。
フィンランドではラズベリーは、野生のものと庭で栽培されるものと二つの種類があります。私が子どもの頃は、庭でラズベリーを栽培する家庭はまだそれほど多くなかったので栽培されたラズベリーはあまり食べたことがありませんでした。その代わり野生のラズベリーは殆ど毎年実ったので夏によく採りに行きました。現在ラズベリーは庭でもよく育てられるようになりましたが、それでもフィンランド人は、野生のラズベリーをよく採ります。私の父は、収穫の良い年には20リットル以上も採ったことがあります。野生のラズベリーがよく育つ場所は、森の端っことか、日差しが良い畑の横にある水路の周りです。野生のラズベリーの実は庭のラズベリーより小さいですが、味は甘くて、ラズベリー本来の美味しい風味が感じられます。収穫時期は7月の終わりから9月の初めころまでです。実は熟すると手で簡単に摘まむことが出来ます。しかし時々、実の中に虫が入ることがあるので、実を摘む時によく確認しなければなりません。虫は特に雨の多い夏によく出てきます。
今年の夏フィンランドでは野性のラズベリーが沢山実りました。私は、実家の近くで今まで見たことがないほど沢山の赤いラズベリーが実っている場所を見つけました。そこで沢山摘んで久しぶりにラズベリーのジャムを作ったり冷凍したりしました。
今年のフィンランドの夏は特別でラズベリーだけではなく他のベリー、ブルーベリーやリンゴンベリーなども沢山実りました。リンゴも、枝が折れそうになる位に沢山実っているのを見ました。この間、実家の地方の新聞で89歳の男性が102キロもリンゴンベリーを採ったったという記事を読みました。これはとても珍しいことです。このように今年の夏ベリーやリンゴが沢山実っているのを見て「天の神さまが祝福して下さったことだ」と考えて感謝しました。神さまの祝福は素晴らしいことだと思いましたが、少し後で祝福とはどんな意味があるのだろうかと考えました。
祝福という言葉は生活の中でも良く聞きます。皆さんも聞いたことがあるでしょう。フィンランドでは収穫の豊な年や仕事がうまく行った時などに「神さまが祝福して下さった」とよく言います。また、クリスチャン同士のメールの終わりや会って別れる時の挨拶としても使われます。これはどんな意味なのでしょうか。それは「イエス様がこれからもあなたと共に歩んでくださいますように」という願いの挨拶です。
聖書にはイエス様が人々を祝福された話がいろいろあります。例えば親たちが子どもたちをイエス様の元に連れてきた時イエス様は子どもたちを祝福されました。また、イエス様が天に上がられる前にイエス様に従ってきた弟子たちを祝福された美しい場面があります。その時イエス様は「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる。」と約束されました。それは私たちにも向けられた約束です。イエス様は今も同じように私たちを祝福して下さいます。
祝福には他の意味もあります。神さまの良いみ心が目に見える形や見えない形で現れることも意味します。神さまの良いみ心が目に見える形で現れるものとして自然の美しさや豊かさがあります。私たちの日常の生活の中にもあります。私たちが当たり前のように持っている食べ物、服、住まい、健康にも神さまの良いみ心が現れています。しかしもし食べ物に困ったり、病気になったりしたら神さまの良いみ心がなくなってしまったということなのでしょうか。イエス様を信じる人はそのように考えません。信じる人は食べ物に困ったり、病気になった時にも、神さまは助けて下さると信頼してお祈りしながら歩み続けます。困っている時にも神さまの良いみ心が見えない形で働いていると信じているからです。どうしてそのように信じられるでしょうか。使徒パウロがローマの信徒への手紙の中でこう言っています。
「私たち全ての為に、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」 ローマの信徒への手紙8章32節
神さまの良いみ心は私たちの生活の中で目に見える形でも見えない形でも働いています。それが天の神さまから与えられる祝福なのです。友達同士の祝福の挨拶はこのような深い意味があるのです。
この秋最初の手芸クラブは9月30日に開催しました。東京では雨の日がずっと続いてこの朝も小雨がぱらついていましたが、これから少しずつ秋晴れの過ごしやすい季節になっていくのを楽しみにしています。
今回のテーマはビーズ刺繡です。最初に作品のモデルを見て自分の作りたいものを決めます。「素敵な色合いね」、「可愛いわ」、「きれいな形ね」などと参加者の方たちから声をあがりました。作りたい作品に合わせてビーズと布を選び、さっそくビーズを縫い付けていきます。針は細くビーズも小さくて目が疲れやすい作業ですが、それでも皆さん楽しくおしゃべりしながら一生懸命ビーズを増やしていきます。すると、丸い形、幾何学的な形、雪の結晶の形などが現れてくると、お互いに相手の作品を見て「わぁー可愛い!」「素敵!」「きれいな色合い!」とほめ合います。
今回はビーズ刺繡の他に刺繡や織物をされる方もいらっしゃいました。スオミ教会の手芸クラブではその日のテーマの他に自分の好きな手芸をすることもできます!刺繡の方のは、細かい刺繡の布に縫い続けていくと素敵な模様がはっきり見えてきました。織物の方は、難しいカード織を巧みに織られ、織物がどんどん長くなって素敵な模様が現れました。既に沢山の作品を織られ、みんなでそれを見て「素敵!」「きれいな模様!」などと感嘆の声があがりました。
今回もあっという間に時間が過ぎました。皆さんもう少し続けたい気持ちでしたが、細かい作業なので目や手は思った以上に疲れています。ビーズ刺繡のブローチを完成させた方はご自分のブラウスに取り付けて大喜びでした。そこでコーヒータイムにして一息入れることにしました。今回はフィンランドのコーヒーブレッド(Pulla)も味わって楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランド語で真珠を意味するHelmiという言葉の使い方やイエス様が聖書で語られた真珠の例えについてのお話を皆で聞きました。
次回の手芸クラブは10月21日に開催予定です。10月は第3水曜日ですのでご注意ください。開催日が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。
夏の前の手芸クラブでもピーズ刺繡をしました。その時皆さんから「もっと続けたい」と希望があったので、今日もピーズ刺繡をテーマにしました。私自身はそれまでこの刺繡をしたことはなかったのですが、皆さんと一緒に作っているうちにもっといろいろなものを作ってみたいという気持ちになりました。作り始めると、なかなか途中でやめることは出来ません。皆さんはいかがでしょうか。
ピーズはフィンランド語で真珠と同じ意味がありますが、フィンランド語で真珠はHelmiと呼ばれます。「Helmi」には少し独特な使い方があります。「真珠」そのものだけではなく、高価で美しい特別の価値があるものについて語る時によく使われます。例えば食器を集める人にとって高価な美しいコップは宝石のように価値があるものです。フィンランド人はそのようなコップを「食器の中のHelmi」と言います。また値段はそれほど高くなくても古くて家族から受け継いだものは特別な思い入れがあるから「Helmi」と呼ぶことがあります。
さらにHelmiはもっと広い意味でも使われます。自分にとって大切な出来事や心に残る思い出を表す時にも使われます。今年の夏、私自身にとってHelmiのように価値があると感じた景色があります。
私たちの家族は何度もフィンランドの多島海にサイクリングに行きました。今年も行きました。その時は雨も降らず天気に恵まれてきれいな景色を見ながらサイクリングを楽しみました。今回はそれほど多くの島に行きませんでしたが、以前にも泊まったことがある「Sottunga」という島に行きました。私たちはこの小さい島が好きになり、そこで一泊しました。「Sottunga」はフィンランドの中で最も小さい自治体で人口は300人ほどしかいません。島の雰囲気は明るくて、小さな港に沢山のヨットが停泊して観光客も多かったです。私たちはそこでもっと長く過ごしかったですが、今回は一泊だけでした。出発の朝私は早く起きて「Sottunga」の景色と朝の雰囲気を楽しみました。その景色は心に残り夏の「Helmi」のような思い出になりました。その朝太陽が輝いて静かな海を照らしていました。小鳥の鳴き声が聞こえました。その島の静かな美しい景色は強く心に残り私にとって夏の思い出の「Helmi」になりました。皆さんもこのようなかけがえのない価値がある思い出があるのではないでしょうか。
聖書の中にも宝石のように高価な「真珠」についてのお話があります。今日はそのお話を紹介したいと思います。これはイエス様が集まってきた人たちに話された例えです。タイトルは「天の国」です。イエス様は「天の国は次のように例えられる」と言われました。ある商人がきれいな真珠を探していました。特に価値が高い真珠が欲しかったのです。そのような真珠は見つかることが出来るでしょうか。商人はいろんな場所を探して、やっと高価な真珠を一つ見つけました。その真珠はとても価値が高いので、商人は「どうすればこの真珠を手に入ることができるだろうか」と考えました。「簡単に手に入らないかもしれません」と心配したかもしれません。しかし、商人はその真珠をどうしても欲しかったので、驚くことに自分が持っているものを全部売ってそのお金で真珠を買いました。その商人にとってそれほど価値があるものだったからです。商人は真珠を手に入れるために自分の財産を全部売ってしまいました。
この例えでイエス様は天の御国について何を教えられたのでしょうか。この例えの意味を少し見てみましょう。商人や真珠は何を意味しているでしょうか。先ず商人は私たち人間を意味します。私たちも商人のように真珠のような価値があるものを探し求めることではないでしょうか。私たちにとっての真珠とは一体どのようなものでしょうか?お金、素敵なお家、高級な自動車、社会的に地位の高い職場などでしょうか。今の私たしたちはこのようなものに価値があると思って欲しいと願うかもしれません。しかしこの例えに出てくる真珠は決してそのようなものではありません。例えの真珠は天の神さまのみ言葉を意味します。神さまのみ言葉を読んだり聞いたりすることで、私たちは神さまの私たちに対するみ心やご計画を知ることが出来るようになります。
神さまのご計画とはどのようなものでしょうか。それは私たち人間を救う計画です。私たちは完璧な存在ではなく、時には悪いことをしてしまうこともあります。それにもかかわらず神さまは私たち一人一人を愛して独り子のイエス様の十字架の出来事を通して私たちを救ってくださいました。この出来事を、自分のために起こったことだと素直に信じて受け取ると、神さまの御国への道が開かれます。天の御国への道が開かれるというのは人が所有する金銭や資産を上回る価値があるものです。だから商人は自分が持っているものを全て売り払ってこの真珠を手に入れたのです。天の神さまは私たちや世界の全ての人々の為にこのようなとても大きなな価値がある「天の神さまの元に入れる道」を開いて下さいました。それは真珠のように輝く最高の価値があるものです。
フィンランドの聖歌の中にこのような歌があります。「私はあの尊い真珠を見つけました。もう他に探し求めることはありません。これこそが私の宝、私はイエスを見つけたのです。」
尾根緑道のコスモス
〈よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 ヨハネ12:24〉
尾根緑道の花畑にコスモスの花が咲き出しました。この畑は春には菜の花が、秋にはコスモスが。夫々、季節に応じて花を咲かせています。後ろに見えるのは桜美林学園の講堂でしょうか、このあたりの土地はは戦後間もなく学園の創立者の清水安三氏が買い占めていてくれたお陰で今も当時の自然が色濃く残っています。1918年、清水安三氏は中国で貧困に喘ぐ子女を対象に学校を設立しました。そのために彼は中国で絶大なる信頼を得ていました。今ではどうか知りませんが桜美林学園では生徒の修学旅行は中国でした。安三氏のおかげで桜美林学園の生徒たちも中国では歓待されていました。娘が高校時代に中国に修学旅行で行った時も文革後の険悪な世相にも関わらずに歓待してくれたと言っていました。まさに、安三氏は中国に於ける一粒の麦だったのかなと思っています。