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虫の声
<主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。詩編 104:24>
「涼風 秋草を動かし蟋蟀鳴きて相随・・」。難聴になって以来、自然界の音。雨、風、鳥、蝉・・などの音と縁が切れて久しいのですが不思議に秋の虫の声だけは普通に聞こえています。数少ない自然界の音を慈しみながら大事にしています。子供の頃に歌った「虫の声」と言う唱歌には色々な虫が出てきますね。耳を澄ませてその声を聞き分けようとしましたが虫の種類が少なくなったのか聞き分ける事が出来ませんでした。何時頃からでしょうか虫たちの世界にも自然淘汰が起こっているようです。秋も深まりその虫たちの声も少なくなってきました。フランスの詩人は秋の事を「小さな死」と表現していました。虫たちの声が次第に鳴き細りゆき小さな死が増える毎に秋の深まりが濃くなって行きます。
一番 「あれ、松虫が鳴いている。 ちんちろちんちろ、ちんちろりん。 あれ、鈴虫も鳴き出した。 りんりんりんりん、りいんりん。」 「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」
二番 「きりきりきりきり、こおろぎや。 がちゃがちゃ、くつわ虫。」 「あとから馬追い追いついて。 ちょんちょんちょんちょん、すいっちょん。」 「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」
主日礼拝説教 2025年11月2日 全聖徒主日 スオミ教会
ダニエル書7章1~3、15~18節
エフェソ1章11~23節
ルカ6章20~31節
説教題 「復活の視点で見渡すことができれば、あなたも聖徒」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書ルカ6章の日課はマタイ5章と同じ「幸いな人」についての教えです。教えの主題は同じですが、見比べるといろいろ違いがあることに気づきます。一般に4つの福音書を見比べると同じ教えや出来事の書き方が違っていることがよくあります。これはどういうことでしょうか?以前にもお教えしたですが、以下のようなことです。ルカ福音書の記者はその冒頭で、自分は信頼できる目撃者の証言や書き留められたものを集めて書き上げたと言います。つまり、自分は目撃者ではないと明らかにしているのです。マタイ福音書の方は、言い伝えによると12弟子の一人のマタイ、つまり目撃者が書いたことになっています。しかし、彼が今の形で全部書き上げたというよりは、彼が残したことを土台にして彼の取り巻きか後継者が追加資料を加えて完成させたと見るのが妥当ではないかと思います。このように、ルカもマタイも今の形になる前にいろいろな資料が土台にあるのです。それでは、それぞれの違いはどのようにして生まれたのでしょうか?
福音書を完成させた人が手にした資料は、その手に渡るまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そして最後にそれらをまとめて完成させた人がいます。そうした流れの中で、各自の観点で短く要約したりとか逆に解説を加えて長くしたということが起こります。もしそうだとすると、完成品は史実を正確に反映していないのではという疑いが起こるでしょう。
ここで忘れてはならない大事なことがあります。伝えた人、書き留めた人、完成させた人は自分の観点で短くしたり長くしたりしたとは言っても、彼らはみな共通の観点を持っていました。共通の観点とは次の4つから成ります。まず、イエス・キリストというのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であるということ。第二に、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。第三に、そのイエス様が死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。そして第四に、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これら4つのことを共通の観点としてみな持っていたのです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。この観点はイエス様の教えと出来事がなければ生まれませんでした。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めて福音書を完成させたのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性を損なうものではありません。違いの根底には同じ出来事、同じ教えがあるのです。それに、いろんな記述があることで同じ出来事と教えをいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあってもみな同じ信仰の観点で書かれていることを忘れないようにしましょう。それらを皆等しく神の御言葉として扱い、いろんな角度を総合した全体像を予感することが大事です。教会の礼拝で福音書をもとにしてする説教とは実は、今日はルカの角度から全体像に迫ります、ということに他なりません。
2.復活の視点と「幸い」
ルカ福音書とマタイ福音書にある「幸いな人」の教えは共に人間的に見て好ましくない状態が将来逆転することを述べています。好ましくない状態についてルカは経済的な格差に焦点を当てています。将来とは復活の日のことです。今日は全聖徒主日、イエス様を救い主と信じる信仰を抱いてこの世の旅路を終えた人たちを覚える日であり、彼らと相まみえる日に思いを馳せる日です。復活の視点はこの日に相応しいテーマです。
「幸いな人」の教えの中に復活の視点があることがわかるために、まず「幸い」とは何かを考えてみます。どうして「幸せ」と言わず、「幸い」なのでしょうか?「幸せ」はこの世的な良いものに関係します。「幸い」はこの世を超えたことに関係します。皆さんもご存じのように聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。よく終末論と言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正解でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちをメンバーとします。黙示録で言われるように、そこは神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道を進む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。
この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、復活に至る道に置かれてそれを進むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏は満たされ涙は拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。これは創造主の神の約束です。だから今の境遇は陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われて快活に笑う自分が見えるのです。
もちろん、復活の日を待たずともこの世の段階で貧しさや空腹や涙から脱することは出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ、空腹、涙と同じ陽炎です。このように、この世の不運だけでなく幸せもみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。
「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。一つ注釈しますと、ギリシャ語の原文は「あなたがたは不幸である」という言い方ではなく、「お前たちに災いあれ」という言い方です。英語のwoe to youで、ドイツ語もフィンランド語もスウェーデン語も同じ言い方です。どんな災いが降りかかることになるのかと言うと、将来飢えるようになり泣くようになるなどと今の境遇が逆転することが未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。
こんなことを言うと、この世で裕福になったりお腹一杯食べたり笑ったりしてはいけないみたいで、もう誰もイエス様の言うことなど聞きたくなくなるかもしれません。ここで次のことに気づきましょう。イエス様は不運な境遇それ自体が「幸い」と言っているのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにすることできる、これが幸いなのです。同じように裕福、満腹、笑いそれ自体が災いではないのです。そのような人も信仰に生きて復活を自分のものにすれば、この世の有り様は消えて復活の有り様に替えられるのです。しかし、裕福、満腹、笑いの中にそうさせない力が特に働くので、そういう人たちはとても注意しないといけないのです。
それはどんな力でしょうか?26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことを聞かず、偽預言者を賞賛してその言うことを信じた時代がありました。偽預言者のように人間にちやほやされてまるで神のお墨付きを得たような気分に浸ることが災いになるのです。そのような人は神よりも人間を頼りにする人です。神の御前に立たされる日が来たら、神から言われてしまいます。お前は私よりも人間を頼りにしてきたのだから、私抜きで神の国に入ってみよ、と。同じように裕福、満腹、笑いにも神以外のものに頼るものを求めさせる力が働きます。だから、そういう人は注意しないといけないのです。
イエス様はこれらの教えをつき従って来た人々に宣べました。彼らに対して「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言い、「富んでいるあなたがたには災いあれ」と言うのです。つまり、彼の周りで聞いている人たちの中に貧しい人も裕福な人もいて、両者に復活の視点を提供しているのです。神の正義はこの世での不正義を逆転させるものなので、今大変な境遇にある人には最終的には大丈夫になるという希望を与えてこの世を雄々しく生きる勇気を与えます。逆に今満足な境遇にある人には注意しないと将来大変なことになるぞと警告を鳴らしてへり下って生きる賢明さを与えます。
3.復活の視点と正義
次にくる教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝の敵を愛せよ、汝を憎む者に良くしてあげよ、これは実行は難しくとも理想としてなら受け入れてもいいと多くの人は考えるでしょう。ところが、その後がもっと大変です。汝を呪う者を祝福せよとか、汝を侮辱する者のために祈れとなどと。極めつきは29節、汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分の愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちも殴ってやろう、となってしまわないか?
これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを破る者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰も信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、どうしたらよいでしょうか?実は、イエス様はこれらの教えを通しても、キリスト信仰者は物事を復活の視点で見ることを教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様はどんな視点に立ってこれらを教えているのかを見抜けなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。
敵を愛せよ、頬を差し出せという教えについて。これは、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。マタイ5章にも同じ教えがあります。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っています。これを聞いた人は、神の心の広さに驚くでしょう。しかし、こんなに気前よくしたら悪人は、しめしめ神は罰など下さないぞ、とつけあがらせてしまわないだろうか?これではあまりにも正義がなさすぎるのではないか?
しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることは、旧約聖書のエゼキエル書18章と33章からも明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。
敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。先ほども申しましたように、神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。
汝のものを取られるに任せよというのも、私たちが神から頂いた賜物に固執してしまって賜物を与えてくれた本人を忘れてしまうから、そんな賜物は取られてしまった方がいいのだと極端な言い方で教えているのです。
そうすると一つ大きな問題が出てきます。こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、及ぼされた危害そのものには何もしなくてもいいのかということです。神から頂いた賜物を固執などせず神の御心に沿うように用いていたのに不当な仕方で取られたらそのままでいいのか?そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけない、盗んではいけないというのが神の意思である以上は、それらを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論は起きます。そんな程度では納得できないということが出てきたかと思うと、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分な補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分な罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。
キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それが出来るのは、復活と最後の審判の時に神が完全な正義を実現されると信じるからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげようという優しい気持ちがあるからかもしれません。しかし、受けた危害が大きければそんな気持ちは消えてしまうでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。
4.勧めと励まし
十字架と復活の出来事が起きる前にイエス様の教えを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活と完全な正義に至る道に置かれてそれを歩み始めたのです。神から罪の赦しを頂いたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が肥大化するのを抑える力になるはずです。それなのに、私はあいつを裁く、絶対に赦さない、などと言ったら、神は何のためにひとり子を犠牲にしたのかとがっかりするでしょう。私がお前にしたようにお前も周りにすべきではないか、お前に対して恨みを持つ人にそれをなくしてほしいと願うなら、お前がそうしなければならない、そう神は言われるでしょう。イエス様の教えと行動は神の視点、復活の視点をもって見れば見るほど、私はできない、絶対できないと言い張る頑な心を柔和な心に変えてくれるはずです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月16日の日課から
「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。」 (詩篇14篇1節)
「これが自然な状態の人間とその理性の言い草だ。それらは、目で見ること耳で聞くこと感覚で感じることを超えることができない。見たり聞いたり感じることができないと、すぐ次のように言って神を否定してしまう。『ここには神はいない、何かいるとしたらそれは悪魔だろう。』 これが高等教育機関が照らし出す光である。本当は、それらは人間を創造主の神のもとに導くことをしなければならないのに、地獄の底に沈めてしまうことをするのだ。人間の自然な状態の光と神の恵みの光は決して一つにはなれない。
自然な状態の人間は見て聞いて感じてわかろうとし、信じる前に確信を得ようとする。ところが、神の恵みは見て聞いて感じる前に信じるように導く。それゆえ、自然な状態は自分の光が届く範囲から出て行くことができない。これに対して神の恵みは暗闇の中に導いていく。しかし、神の御言葉の後について来なさいと言って導いてくれるので、周りがどう不安を掻き立てるものに見えようがそんなことにお構いなく、大丈夫だという気持ちで導きについて行けるのである。このように神の恵みは御言葉と固く結ばれ、それなしにはあり得ない。自然な状態がそれを偽りだと言っても、そうなのだ。まさに信仰が信仰たるゆえんは、神の御言葉にのみしがみつくことにおいてである。目には見えなくとも御言葉が約束しているものならばしがみつく、それが信仰である。しかしながら、同時に信仰は御言葉を台無しにしようとするものにも多く直面する。それらは、御言葉の約束が無効で空虚だと思わせようとするのだ。
人間の自然な状態が愚かなものと呼んで避けようとするものを信仰は正しい道と呼ぶ。信仰は、自然な状態が自分を賢いものと思うなら勝手に思わせ、その目に愚か者に映るなら喜んでそれで構わないとし、それが踏み込めないところに堂々と入っていく。そのようにして信仰はキリストのもとに到達して彼を見いだすのだ。」(以上ルターの説き明かし)
これぞ、ルターの「御言葉の神学」!
次の手芸クラブは、前回に続いて刺繡はフィンランド風の刺繡をします。
刺繡はフィンランドでは何世紀にもわたって親しまれている手芸の一つです。今でも多くの人気があります。小さなクロスステッチで作った花などの模様は服やインテリアに可愛らしい趣きを増やします。
今度もクロステージのテクニックを使います。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1000円
手芸クラブではその他にも自分の好きな手芸を行っても宜しいです。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1763308464iamg@1763308464arumi1763308464hsoy.1763308464iviap1763308464 03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
金木犀(Kin mokusei)
<また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 エフィソ5:2>
春の駿河台匂いと秋の金木犀とは何れ劣らず馥郁たる香りを楽しませてくれます。教会の行き帰りの途中に大きな二本の金木犀の木があります、過日その前を通りましたら金色の花が零れんばかりに咲いていました。車を停めてもらい窓を開けると金木犀の香りが車内いっぱいに広がりました。
(裏山の 径(みち)をのぼりて 木犀の 香を嗅ぐころぞ 秋はれわたる― 斎藤茂吉)
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2025年10月26日
福音ルーテル・スオミ・キリスト教会礼拝説教
ルカによる福音書18章9〜14節
「神様、罪人のわたしを憐れんでください
1、「はじめに」
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の箇所の前のところでイエス様は、父なる神様は私たちの祈りを必ず聞いて下さるお方であるのだから、私達はいつでも祈るべきであり、失望してはらないと教えています。そこでイエス様は不正な裁判官の例えを用いて、そのような不正な裁判官であっても、その裁判官にどこまでもしつこく頼むならば、裁判官はその重い腰を上げて裁判をするだろう。不正な裁判官であってもそうであるなら、まして、私達を愛して下さり、子として扱って下さる神様は私達の声を、願いを、祈りを聞いて下さらないわけがあろうかと教えたのでした。その神様への「祈り
についてのメッセージが今日のところでも続いていきます。イエス様は二人の人のことを例に取り上げて、祈りについて、そしてそこにある信仰について教え始めるのです。
2、「自分を正しいと自惚れる人々」
まず、このお話は、9節にある通り、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。「自分は正しい、自分は間違いがない、悪い所は何もない」と言う人がイエス様のまわりにいた。そしてその人々は、他の人、つまり、彼らから見て、周りの正しくない人、間違っている人を見下しているのを、イエス様は見たり、その人の声を聞いたりしていたのでした。確かに15章の有名な放蕩息子の譬えを話した時にも、イエス様は罪人と呼ばれる人達と食事をしている時でした。その時、周りのユダヤ人たちは、それを見てそのようなイエス様を蔑んだたとありました。さらに16章でも、イエス様がそのような罪深い小さな人々こそを愛するように教える中で、周りの金持ちなどは、それを嘲笑ったともありました。そのように自分たちこそ正しいと自認して、そうでない人を見下す人々が、絶えずイエスのまわりにいた、あるいは社会の中には当たり前のようにいたのでしょう。そんな彼らにイエス様はある二人の人の話をするのです。10節からですが、
2、「祈るために神殿に上る二人」
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
二人の人は祈るために神殿に上って来ました。二人とも祈るためにやって来たのです。一人はファリサイ派の人。つまりそれは旧約聖書を幼い時から非常に良く勉強していて、聖書の律法を厳しく守っている人でした。そしてユダヤ社会では地位が高く、世間からは立派な人達と見られている人達でもありました。他方、もう一人は、徴税人です。徴税人たちは、不正を働いて富を得るものとして、罪人として嫌われていました。彼らはユダヤ人でしたが、外国からの支配者であるローマの皇帝のために税金を集めている人達でした。ユダヤ人たちはローマに支配されていることを良く思っていませんでしたから、「嫌なローマのために税金を集めている人
とまず見られるのです。しかし、それだけで罪人と呼ばれていた訳ではありません。それだけでなく、さらに彼らは、本来集める額よりも多く集めて、その多く集めた分を自分の懐にいれていることをみんな知っていたのでした。ですから、罪人と呼ばれて、蔑まれ、嫌われていたのです。 ユダヤ人たちはそのような罪人である徴税人と交わることを忌み嫌いました。
このファリサイ派の人と徴税人の二人が祈りにやってきました。
A、「ファリサイ派の人の祈り」
ファリサイ派の人はこう祈ります。11節ですが
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」
彼は、まさに「自分は正しい」と思っています。そして「自分はこんなに、これだけのことをしている」「神の律法をこんなに守っている」と、自らと自分の行いを誇っているでしょう。しかし彼は他の人々や、なによりその隣の徴税人と「比べて」祈ってます。そして「この彼のような罪を自分は犯していない」「だから正しい」というアピールです。そのように彼の正しさの基準はその徴税人、人との比較にあることがわかります。もちろん神様の律法もよく知っていたでしょう。しかし律法云々よりも、彼は「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。これは新改訳聖書ですと、「ことのほか、この取税人のようではないことを感謝します」と強調の言葉で述べられています。
彼は神に祈っていながら、大事なことを見落としているのです。それは何でしょうか?それは彼は「人の前」のことは見ていても、「神の前」にあっての自分は見えていないということです。彼はどこまでも「人との比較」のことを言っています。「人と比べてどうであるか。人とくらべて正しい、悪くない」と。ですから、断食しているとか、献金しているとかも、それは人とくらべてこれだけしているということを言っているのです。それは神の前ではなく、どこまでも人の前でのことに過ぎないでしょう。ですから、彼は、神に祈っているようで、実は神様に祈っていません。神様に向いているようで、神様に向いていません。人と比べて自分を誇ることだけしか向いていないといえます。むしろ自分を誇るために、徴税人を利用し、神さえも利用しているとも言えます。そして「神の前」ということはまったく、彼の心にはありません。むしろ、もし私たちが「神の前
にあるなら、あるいは神の前の自分を知るなら、私達は誰一人何も誇れるものはないのです。だれと何を比べようとも、どんなに人の前で立派な振る舞いし社会の貢献ができ一人当たりも良く世間に評価されていたとしてもです、全ての人は、誰一人漏れることなく、皆神の前には罪深い一人一人だからです。本来、祈りのための神殿は、その罪のための全焼のいけにえをささげに来る礼拝の場所であり、「神の前にあって
、罪を告白する場所でもあったはずでした。ですから、彼はそのような神殿とか礼拝とか、祈りさえも、まさに自分を誇るために利用しているに過ぎないのでした。なにより「神の前」ということがすっぽり抜けてしまっているのです。
この「神の前」ということが抜けてしまう時に、信仰も、祈りも、どこまでも「人の前」になってしまいます。神に聞いてらうのではなく、人に見せるため、聞いてもらうため、人に評価されるためになってしまいます。そしてやはり「人と比べて」の信仰や祈りにもなってしまうでしょう。人はこの「人と比べる」ということで安心を求めます。そしてそれは一瞬は安心するのかもしれません。けれども、神の前」を忘れて、人と比べることによって得られる安心は、不安定な安心であり、長続きしません。そしてやっぱり不安にしかなりません。それ不安定さと不安の結果として、このパリサイ人のように、隣人を、裁いたり、批判したり、蔑んだりになってしまっているのがわかるのではないでしょうか。
B、「徴税人の祈り」
しかし他方、徴税人はどうでしょうか?13節
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」
目を天にも向けない。そして自分の胸をたたきます。胸の痛みです。それは肉体や内臓の痛みではありません。それは「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい」と。罪ゆえの心の痛みでした。聖書には、罪ゆえの痛みを「心を刺し通される」とか、「心が砕かれる」というような表現がありますが、罪は、心に、何かが刺さるような強い痛みを起こすものです。徴税人は悪いことをしてしまいました。しかし彼は神の前にあって神の前に立つ事ができないのです。見上げることができません。しかし彼は「神の前」にあることを何よりも意識して、知っています。そしてその時、何より、彼はその神の前にあって、自分の罪深さしか見えて来なかったのでした。その痛みと恐れと告白なのです。憐れまれるに値しないような自分しか見えません。絶望的な自分です。しかし彼は、その罪の告白に、この罪人をどうか憐れんで下さいとだけ祈るのでした。いやそう祈ることしかできなかったのでした。
こんな二人、こんな二人の祈りでした。
3、「義とされて家に帰ったのは」
そんな二人について話しイエス様はこう続けます。14節ですが。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」
イエス様はいいます。この徴税人こそ義とされた。ファリサイ派ではないと。ファリサイ派の祈りではなく、この徴税人の祈り、告白こそ、神に受け入れられた。いや、義と認められた。そういいます。正しいとされたというのです。私達人間や、社会の目から見るなら、ファリサイ派の人の方が、社会的にも評価されるのではないでしょうか。人は誰でも、これだけのことをしましたとアピールして、自分を良く見えるように装います。そして世もそれを求めます。それを評価します。人は心の中が見えません。だから人は心を隠し、外面的に自分は正しいとアピールするのです。時にはこのファリサイ派の人のように自画自賛さえします。残念ながら多くの場合、現代でもどの国でも偉い人や地位のある人の方がそのようなことが見られます。政治家は特にそうです。それは宗教家でさえも、牧師にさえも見られることです。当時にユダヤ社会中でもそのようないい人、立派な人、正しい人、信頼できる人は、このファリサイ派の人の方だと、見ていたのです。大体の社会の人の評価はそうかもしれません。しかし、イエス様は、神の視点は全く逆です。義と認められて家に帰ったのは、「ファリサイ派の人ではありません」と、わざわざ言っています。徴税人が義と認められて家に帰ったとイエス様はいいます。なぜでしょう。 「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるからです」といいます。しかしそれは何より、「神の前にあって」ということです。人の前に何をしたか、何ができるかは、神の前にあって、あるいは何より、ここでは「義と認められるために」、つまり「救いのために」は、全く重要なことではないというのです。行いを見るなら、パリサイ人のほうが言うまでもなく立派であり、取税人のしてきたことは、罪です。しかしどんなに人の前で立派に振る舞うことができ、社会に貢献でき周りに評価され尊敬されても、神の前にあっては、その自分の行いを誇って、自分の罪が見えないことは、救いのために何の役にも立たないのです。それどころか高ぶりの罪とさえ聖書は見ます。神の前では、ファリサイ派の人のようであってはならない、むしろ神の前に、自分の罪を認めることこそが、神様はなによりも求めておられる。そして外側を飾り、装うのではない、人と比べるのでもない。むしろその罪を認め、苦しむ心、神にのみ憐んでくださいと、ただすがる心を神様は決して責めるのでも、裁くのでも、更に苦しめ、大きな罰を加えられると言うのでも決してない。むしろ、神様は、それこそを義と認めて下さる。むしろその罪を赦し、正しい者として、再び立たせ、家へ、社会へと送り出してくださる。遣わしてくださる。そのような神様の心を、イエス様は私達に伝えているのです。
4、「砕かれた悔いた心を神は侮らない」
聖書は一貫してその神様の心を私達に伝えています。詩篇51篇18〜19節にはこうあります。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
これは新改訳聖書ではこうあります。
「たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」
と。神の前に、砕かれた悔いた心こそ、神へのささげものとして喜ばれるとダビデは歌っています。イエス様は、マタイ6章のところで、祈りにおいても、人に見られるような祈りではなく、やはり「隠れたところにおられるあなたの父に」と、人の前ではなく、「神の前」ということをイエス様は教えて下さっています。さらにマタイ7章では、隣人に対しても、兄弟の目の中のちりに目を付けるが、自分の目の中の梁に気がつかないものを、イエス様は偽善者と言っています。そして、なにより「自分の目の梁を取り除くように」と教えました。やはりパリサイ人のような「人の前」で人と比べ自分を誇り隣人を裁くのではなく、この取税人のように「神の前」に自分の罪を認める悔いた心をイエス様は教えているのです。そのような自分の目の梁は自分では取り除くことはできません。しかしその梁はこのキリストの十字架のゆえにこそ完全に取り除かれます。罪はキリストの十字架のゆえにこそ赦され、罪人が義と認められるのです。事実イエス様自身は、そのような人の前だけの立派な人を招くためではなくて、神の前に罪に痛み苦しみ、悔いる者を招くためと言っています。ルカ5章31−32節
「「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」」(ルカ5:31〜32)
5、「神の前にあって真に平安に立てるように」
私達はみな「神の前
にあるものです。アダムとエバは堕落した時に、神の前から隠れ、神の声を避けようとしましたが、彼らがそうであったように私たちは誰も神の前を避けることも隠れることもできません。その「神の前
にあって、私達はみな、この取税人のような罪人です。このファリサイ派の人も同じ罪人です。しかし神様はその罪人を裁くためにイエス様を送ったのではありません。救い主として送りました。罪人を招いて、一緒に食事をし、愛を表し、悔い改めさせるためにです。その神の前にあって、私達は自分を誇ることは空しいことです。人と比べて安心することも、結局は意味のないことです。私達は、神の前にあって、何より、そのままの罪深い自分を告白して、「神様、この私を、憐れんで下さい」と、神様に頼り、求める声を、神様はなにより喜んで下さり、受け入れて下さいます。そのような私たちをも罪を赦し義と認めて下さいます。ですから、今日もイエス様は宣言してください。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。今日も神様は私たちをこの福音の約束と十字架と復活における実現で再び新しく立たせて、平安のうちに私達を家族へ、社会へと、新たにつかわしてくださるのです。ぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月13日の日課から
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7章3節)
「もし君が寝ぼけてさえいなければ、他の者に君ほどの多くの罪があることを見ることはないだろう。それでも君は他の者を見ると、多くの罪、例えば1年分ないし2年分の罪が見えると言うのか。君自身には2年どころか一生分の罪があることが見えないのか。とりわけ、他の人たちに知られていないあの恥ずべき数々の所業を。さらに忘れてならないことは、もし隣人に何か悪いものが見えたとしても、それでその人を拒絶してはならないということだ。そうではなくて、その人の良い面にも目を向け、君が神から頂いた賜物をもってその人が悪いものから離れられるように助け、その人の罪が公けに広まらないようにし、全てが神の御心に適うようになることがその人にとって最善のものになるというようにしていかなければならない。
もし君が世界で一番敬虔な者だとしても、他の者を断罪する時に君は世界で最悪な者になる。君が神から賜物を与えられたのは、自己満足のために消費するためではない。隣人が君の賜物を必要としていることに気づいたら、それで助けてあげるためなのだ。君の持てる力でその人の弱さを背負ってあげ、君の敬虔さと名誉をもってその人を飾ってあげ、その罪と恥を公けにならないように覆ってあげるのだ。これこそ、まさしく神がキリストを通して君にしてくれたことであり、今もなお毎日してくれているのだ。もしこのように行わず他の者を見下すならば、君はその人の目に塵を見つけて満足し、神のみ前では目に材木を入れている者なのだ。」(以上ルターの説き明かし)
重い罪を犯した女性を石打ちの死刑にしようとした指導者たちに対して主イエス様が言われた言葉 「あたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 ヨハネ8章7節
この言葉を聞いて指導者たちが一人また一人と立ち去った後、刑を免れた女性に対して主が言われた言葉 「わたしもあなたを断罪しない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 同11節
(注 ギリシャ語の動詞カタクリノーは「罪に定める」よりも「断罪する」が良いと思います。)
トマト
<5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。 詩編126:5・6>
近くと言っても車で5,6分ほど下った先の畑を覗いたら井手さんが笑顔で迎えてくれました。家内と早速お喋りが始まりました、私はそのまま奥の畑を散策していましたら取り入れを忘れられたのでしょうか、トマトが所在なげにぶら下がっていました。その向こうに井手さんと私たちが住む日向山が雲をまとってのんびり横たわっていました。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年10月19日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書18章1~8節
説教題:「気を落とさず、絶えず祈れ」
今日の聖書は「寡婦と裁判官」の譬えです。読んだだけで分かり易い譬え話です。イエス様はこの譬え話で何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカは18章1節に、この譬え話の教えを次のようにはっきり書いています。「『イエスは気を落とさずに、絶えず祈らなければならない』この事を教えるために弟子たちに譬えの話をされた。」イエス様は弟子たちに、気を落とさず絶えず祈りなさい、と言っておられるのです。弟子たちはこれから先イエス様がおられなくても福音を宣べ伝えて行かねばならない。この大切な使命を生涯をかけて果たして行くのに多くの困難がある。その苦難と迫害と戦い耐えて行かねばならない。そうした中で「神様に向かって、絶えず祈れ」と教えておられるのです。「絶えず祈る」というこの繰り返し、繰り返し、へこたれず忍耐して続けて訴えて行け、祈れという意味が込められているわけです。そこでイエス様は具体的にもっと詳しくわかるために、此処に「寡婦と裁判官」の話を譬えて語られたのであります。
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2節から見ますと「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官げいた。ところが、その街に一人の寡婦がいて裁判官のところに来ては『相手を裁いて私を守ってください。』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権利を持っています。政治をする為政者もまた権力を持っていて、権力を持つとその力をひけびらかして自分の力でどうにでもなる、という誇りや高慢になります。そして差別や偏見の目を持って不正な事も平気でやってしまいます。この譬えの裁判官もそうとう悪(わる)のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。また、この裁判官は「人を人とも思わない」のです。そこには人間らしい情けや優しい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重といった感覚は全くゼロに等しいのです。しかも、そういう人が権力を持ちこの街を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定を下す役なのです。旧約聖書、申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは裁きを曲げてはなりません、人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし正しい者の事件を曲げるからです。ただ、広義のみを求めなけなればなりません。」以上ですがこれが正しい裁判官、また政治をする人の在り方です。更にパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。「彼は善を行うために立てられた神の僕です。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」これが理想的な裁判官、また政治家のあり方です。しかし、理想であって現実のこの世では権力をわが物にして自分の力を過信して行く、遂に恐ろしい程の人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない高慢な我儘で正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない、自分のために固着するしかない。権力は民衆を忘れ、神を忘れ自己達成を目指す、そしてやがて腐敗を始めます。権力の上には神がおられ、神の支配の下でないと崩壊します。何時の時代でも戦争で多くの命が踏みにじられて悲惨な世の中はあるのです。現在でも世界で独裁者が権力を奮っています。これが現実の私たちの生きてゆる世界です。毎日、建物が破壊され人が傷つき死んでいます。
さて、譬え話ではその町に寡婦がいて裁判官のもとへ行って「私の訴訟相手を裁いて私を守ってください。」と言っています。この寡婦の姿は無力な私たちの姿のようです。この寡婦は賄賂を使う金もない、全くの無力です。誰かを頼む伝手もない、誰も助けてくれそうもない全くの無力です。それに、いま彼女は訴えられています、被告になっています。寡婦の彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。ただひとつ正義の神様がいます。このお方が必ず正しい事をして下さる。彼女にこの信念があります。パウロはコリントの第二の手紙12章9節でこう書いています。「私は力の弱いところに完全に現れる」。神様は全てをご存じです。神様は決して見捨てられない。しかし、いま彼女の状態は決してあるべき姿ではない。主の祈りで私たちは祈ります。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と。彼女は、ただこの祈りをもって悪い裁判官に立ち向かいます。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きてはゆけないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。如何なる権力にもひるまず訴えてゆく根底には実にその事が自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけででは生命の問題とならないのです。裁判官は長い事彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。この純真な要求は聴き入れられない。いく度も、いく度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もしこの要求が生命の問題にまでなっていなかったら途中で諦めるか自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官は何故聴き入れられようとしないのか。それは「神を畏れず。また人を人とも思わない」からです。正義の感覚など微塵も持ち合わせていないからです。この裁判官がついに聴き入れるのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけで悪魔に対抗する事は出来ません。悪魔は何時ももっと巧みな理論を用意しています。そこに暫く聴き入れない期間があります。大切な期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。私たちの祈りも神様に直ぐに聴き入れられない期間というものがあります、そういう時があるのです。この裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし今その裁判官がその後、自分自身で言いました。「私は神を畏れないし人を人とも思わないがこの寡婦は私を煩らわすので彼女の裁判をしてやろう。そうすればとことんまでやって来て私を苦しめる事が無くなるだろう。」イエス様の譬え話は5節までです。そして、6節で即、言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい」。イエス様は問われます。「彼の言う事を聞きましたか。他でもない。この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをすると言うのです。不正な裁判官のへ理屈などどうでも言いのです。その不思議な事実を聞くのです。此処では極悪の地上の裁判官が正義の神に名添えられているのです。では何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは不正な裁判官がついに正義の裁判を行うという不思議な事実です。裁判官は依然として彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急に寡婦の祈りを聞いてその熱心さに涙を流して悔い改めた」とは書いてありません。しかし、彼は「この寡婦は私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう」と言い始めるのです。煩くて、煩くて俺を煩すから、と言っているのです。不正な裁判官を正義の裁判官に変える事は出来ません。人間の仕事ではありません。しかし驚く事にこの権力の利己主義を通しても神の正義が実現してゆくのです。権力は正義の理論では動きません。しかし、絶えずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し・・ただそれのみによって動かされるのです。小さな奇跡が起きているのです。
旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々はその苦役の故に彼らの叫びは神に届きました。神は彼らの呻を聞き、アダム、イサク、ヤコブとの契約を覚え神はイスラエルの民を顧みてくださいました。」神が働いて下さったのです。悪い裁判官が世界を動かしているかに見えます。しかし、そうではありません。人間にはその時、その時で事がおこるのです。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・・信仰、不信仰、等々あらゆる物を貫いてただ一つの神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書、箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ」。神は夜、昼神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや!神は速やかに審きをして下さる。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を見い出すであろうか。8節で問うておられる。これは信仰の課題です。終末の時、どうなっているか私たちにはわからない。神の遅き、と言うものは遅いのではない。神は速やかに審きをして下さる、と約束しておられるのです。それは又人の速さは速いのではない。神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀最大の神学者、カール・バルトが言っている事です。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時を持ち給う方が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただこの神に基づくのです。たとえ天地が崩れ去るとも崩れる事のない土台の上に立っているのです。ある時は神は私たちから全てを奪われるかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうか、と思えます。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。気づかないうちに、ある時、突如としてです。神は必ず働いて下さる。神はいないかに見えます。正義は聞かれないかに見えます。神は時として沈黙し給うのです。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うです。それは、その民が神に選らばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて神が御旨をなさるのです。神様の側でなさる事であります。私たちに出来る事は絶え間ない祈りであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン