お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
フィンランド的なパン「サンピュラ」を作ります。今回はオートミールをたっぷり含み、白ゴマ黒ゴマでトッピングしたオートミール・セサミ・サンピュラです。オートミールもセサミも栄養素が豊富なのでフィンランドでは健康的な食卓パンに数えられます。パンはふっくらとしていて、バターやマーガリンだけでも香ばしく美味しく頂けます。もちろん、ハムやチーズを挟んでサンドイッチにも最適です!
そして、パンのおともにフィンランドの秋の季節によく作られるキノコのスープも作ります。色んな種類のキノコを加えてクリームチーズで煮立てると、奥の深いまろやかな味のスープが出来上がります。
フィンランドのオートミール・セサミ・サンピュラとクリームチーズ風味のキノコスープをご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,800円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1763914214iamg@1763914214arumi1763914214hsoy.1763914214iviap1763914214 まで。
虫の声
<主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。詩編 104:24>
「涼風 秋草を動かし蟋蟀鳴きて相随・・」。難聴になって以来、自然界の音。雨、風、鳥、蝉・・などの音と縁が切れて久しいのですが不思議に秋の虫の声だけは普通に聞こえています。数少ない自然界の音を慈しみながら大事にしています。子供の頃に歌った「虫の声」と言う唱歌には色々な虫が出てきますね。耳を澄ませてその声を聞き分けようとしましたが虫の種類が少なくなったのか聞き分ける事が出来ませんでした。何時頃からでしょうか虫たちの世界にも自然淘汰が起こっているようです。秋も深まりその虫たちの声も少なくなってきました。フランスの詩人は秋の事を「小さな死」と表現していました。虫たちの声が次第に鳴き細りゆき小さな死が増える毎に秋の深まりが濃くなって行きます。
一番 「あれ、松虫が鳴いている。 ちんちろちんちろ、ちんちろりん。 あれ、鈴虫も鳴き出した。 りんりんりんりん、りいんりん。」 「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」
二番 「きりきりきりきり、こおろぎや。 がちゃがちゃ、くつわ虫。」 「あとから馬追い追いついて。 ちょんちょんちょんちょん、すいっちょん。」 「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月16日の日課から
「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。」 (詩篇14篇1節)
「これが自然な状態の人間とその理性の言い草だ。それらは、目で見ること耳で聞くこと感覚で感じることを超えることができない。見たり聞いたり感じることができないと、すぐ次のように言って神を否定してしまう。『ここには神はいない、何かいるとしたらそれは悪魔だろう。』 これが高等教育機関が照らし出す光である。本当は、それらは人間を創造主の神のもとに導くことをしなければならないのに、地獄の底に沈めてしまうことをするのだ。人間の自然な状態の光と神の恵みの光は決して一つにはなれない。
自然な状態の人間は見て聞いて感じてわかろうとし、信じる前に確信を得ようとする。ところが、神の恵みは見て聞いて感じる前に信じるように導く。それゆえ、自然な状態は自分の光が届く範囲から出て行くことができない。これに対して神の恵みは暗闇の中に導いていく。しかし、神の御言葉の後について来なさいと言って導いてくれるので、周りがどう不安を掻き立てるものに見えようがそんなことにお構いなく、大丈夫だという気持ちで導きについて行けるのである。このように神の恵みは御言葉と固く結ばれ、それなしにはあり得ない。自然な状態がそれを偽りだと言っても、そうなのだ。まさに信仰が信仰たるゆえんは、神の御言葉にのみしがみつくことにおいてである。目には見えなくとも御言葉が約束しているものならばしがみつく、それが信仰である。しかしながら、同時に信仰は御言葉を台無しにしようとするものにも多く直面する。それらは、御言葉の約束が無効で空虚だと思わせようとするのだ。
人間の自然な状態が愚かなものと呼んで避けようとするものを信仰は正しい道と呼ぶ。信仰は、自然な状態が自分を賢いものと思うなら勝手に思わせ、その目に愚か者に映るなら喜んでそれで構わないとし、それが踏み込めないところに堂々と入っていく。そのようにして信仰はキリストのもとに到達して彼を見いだすのだ。」(以上ルターの説き明かし)
これぞ、ルターの「御言葉の神学」!
次の手芸クラブは、前回に続いて刺繡はフィンランド風の刺繡をします。
刺繡はフィンランドでは何世紀にもわたって親しまれている手芸の一つです。今でも多くの人気があります。小さなクロスステッチで作った花などの模様は服やインテリアに可愛らしい趣きを増やします。
今度もクロステージのテクニックを使います。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1000円
手芸クラブではその他にも自分の好きな手芸を行っても宜しいです。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1763914214iamg@1763914214arumi1763914214hsoy.1763914214iviap1763914214 03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
金木犀(Kin mokusei)
<また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 エフィソ5:2>
春の駿河台匂いと秋の金木犀とは何れ劣らず馥郁たる香りを楽しませてくれます。教会の行き帰りの途中に大きな二本の金木犀の木があります、過日その前を通りましたら金色の花が零れんばかりに咲いていました。車を停めてもらい窓を開けると金木犀の香りが車内いっぱいに広がりました。
(裏山の 径(みち)をのぼりて 木犀の 香を嗅ぐころぞ 秋はれわたる― 斎藤茂吉)
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ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月13日の日課から
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7章3節)
「もし君が寝ぼけてさえいなければ、他の者に君ほどの多くの罪があることを見ることはないだろう。それでも君は他の者を見ると、多くの罪、例えば1年分ないし2年分の罪が見えると言うのか。君自身には2年どころか一生分の罪があることが見えないのか。とりわけ、他の人たちに知られていないあの恥ずべき数々の所業を。さらに忘れてならないことは、もし隣人に何か悪いものが見えたとしても、それでその人を拒絶してはならないということだ。そうではなくて、その人の良い面にも目を向け、君が神から頂いた賜物をもってその人が悪いものから離れられるように助け、その人の罪が公けに広まらないようにし、全てが神の御心に適うようになることがその人にとって最善のものになるというようにしていかなければならない。
もし君が世界で一番敬虔な者だとしても、他の者を断罪する時に君は世界で最悪な者になる。君が神から賜物を与えられたのは、自己満足のために消費するためではない。隣人が君の賜物を必要としていることに気づいたら、それで助けてあげるためなのだ。君の持てる力でその人の弱さを背負ってあげ、君の敬虔さと名誉をもってその人を飾ってあげ、その罪と恥を公けにならないように覆ってあげるのだ。これこそ、まさしく神がキリストを通して君にしてくれたことであり、今もなお毎日してくれているのだ。もしこのように行わず他の者を見下すならば、君はその人の目に塵を見つけて満足し、神のみ前では目に材木を入れている者なのだ。」(以上ルターの説き明かし)
重い罪を犯した女性を石打ちの死刑にしようとした指導者たちに対して主イエス様が言われた言葉 「あたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 ヨハネ8章7節
この言葉を聞いて指導者たちが一人また一人と立ち去った後、刑を免れた女性に対して主が言われた言葉 「わたしもあなたを断罪しない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 同11節
(注 ギリシャ語の動詞カタクリノーは「罪に定める」よりも「断罪する」が良いと思います。)
トマト
<5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。 詩編126:5・6>
近くと言っても車で5,6分ほど下った先の畑を覗いたら井手さんが笑顔で迎えてくれました。家内と早速お喋りが始まりました、私はそのまま奥の畑を散策していましたら取り入れを忘れられたのでしょうか、トマトが所在なげにぶら下がっていました。その向こうに井手さんと私たちが住む日向山が雲をまとってのんびり横たわっていました。
秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは10月11日に開催しました。小雨がぱらつく一日でしたが、教会の中は爽やかで明るい雰囲気でした。今回はこの季節にフィンランドの家庭でよく作られるリンゴ・ケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にそれぞれの材料を計って準備します。それから、マーガリンと砂糖をハンドミキサーで泡立て、白く泡立ったらシロップや卵などの材料を加えます。そうして出来上がった、茶色がかった生地をパイ皿に流し込みます。次は、リンゴの準備です。皮をむいてスライスしてから黒砂糖、カルダモンなどのスパイスで味付けをします。そうして味付けしたリンゴを生地の上にたっぷり押しこんでオーブンに入れて焼きます。
今回は教会に新しいオーブンが設置されたばかりだったので、ケーキはちゃんときれいに焼けるのか心配がありました。しかし、ケーキをオーブンに入れてしばらく経つと、台所から美味しいそうな香りが教会中に広がり、それで大丈夫だとわかりました。
今回の料理クラブはお子さんと一緒にご家族で参加された方もいて、親子で一緒に材料を計ったり生地を混ぜたりして皆さん一生懸命でした。
ケーキがオーブンで焼けている間、子どもの遊ぶ声や参加者の楽しそうな会話が教会中に広がりました。もちろん、シナモンなどスパイスの香りもです。参加の方々も新しいオーブンに興味をもって何度もケーキの焼き具合を覗いては、「きれいに膨らんでいるわ」「美味しそうね」と話されていました。
ケーキが焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのリンゴのケーキの上にバニラアイスをのせてコーヒー紅茶と一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。歓談の時に、フィンランドのリンゴにまつわる話と新約聖書のマタイによる福音書にあるイエス様の教え、イエス様は重荷を負う人の重荷を軽くする方であることについてお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月15日の予定です(注 11月は月の第三土曜日になります)。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
秋になると、フィンランドの多くの家庭ではよくリンゴ・ケーキが作られ、リンゴやシナモンの香りが家中に広がります。シナモンはリンゴ・ケーキに欠かせない大切なスパイスの一つで、シナモンがなければリンゴ・ケーキの味にならないとさえ言われます。今回のケーキにももちろんシナモンを入れましたが、カルダモンとグローブのスパイスも加えたので少し違う風味に仕上がりました。今回はさらにシロップや黒砂糖も使ったので、ダークで奥深い味のリンゴ・ケーキになりました。
秋のフィンランドはベリーやリンゴの季節です。フィンランド人はリンゴをどのように食べるでのしょうか。収穫の良い秋にはリンゴ・ケーキの他にもいろいろなリンゴのデザート、おかゆ、ジャム、ジュースを作ったり、乾燥したリンゴのスライスを楽しんだりします。もちろんリンゴをそのまま沢山食べる人も多いです。多くの人たちは職場のおやつにリンゴを持って行きます。自分の庭で育てたリンゴを同僚の人たちに分けてあげるのは楽しみの一つです。
リンゴは健康にとてもよい果物です。フィンランドには「毎日リンゴを1個食べれば、医者を遠ざけることができる」ということわざがあります。リンゴはビタミン A、B、C、E、K 、ミネラル、繊維など沢山入っているので健康に良いのです。研究によると、リンゴは心臓病や血管疾患、糖尿病などの予防にも非常に良い効果があるそうです。特に皮には健康の良いフラボノイドが沢山含まれているため、フィンランドでは国内産のリンゴを皮のまま食べるのは普通です。
フィンランドのリンゴは小さくて日本のように見た目は豪華ではありませんが、フィンランド人は自宅の庭にリンゴの木を植えて育てる習慣があり日本とは異なります。リンゴの木は庭の「女王」ように大切にされ丁寧に育てられます。五月の終わり頃になると、木には白い花が一杯咲いて、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、リンゴの花が咲くのを毎年楽しみにしています。
9月になると家の庭のりんごの木は赤めと緑色の実が実ります。出来具合いは、年によって大きく異なります。今年は去年ほど良くありませんでしたが、収穫の良い年はリンゴの木の枝が折れそうになるくらいに沢山の実がなります。そのような場合は枝が折れないように木のブロックなどで下から枝を支えます。
リンゴの実は沢山実るのは喜ばしいことですが、折れてしまって枝もリンゴも地面に落ちてしまうのではと心配になることがあります。これは私たちが時々感じることと似ているではないでしょうか?
私たちの生活の中には喜ばしいことが沢山ありますが、心配事や悩みもあるかもしれません。例えば、自分や家族の健康のこと、仕事のこと、未来のこと、身近な人の心配なことなどいろいろな重く感じられることがあります。これらは私たちが背負っている重い荷物のようです。これらを降ろそうとしても、自分の力では簡単におろすことは出来ません。このことについて聖書の中でイエス様が次のように教えられた言葉があります。それを紹介したいと思います。
「疲れた者、重荷を負う者は、 誰でも私のところに来なさい。 休ませてあげよう。 私は柔和で謙遜な者だから、 私のくびきを負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。 私のくびきは負いやすく、 私の荷は軽いからです。」 マタイ11書28―30節。
イエス様は世界の全ての人々に「私のとことに来なさい」とおっしゃいます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、イエス様にお祈りすることで私たちはイエス様のところに行くことができるのです。先ほど紹介したマタイの箇所でイエス様はご自分のことを「柔和で謙遜な者」と言われました。柔和で謙遜なイエス様はどのような方でしょうか?
イエス様は天と地と人間を造られた神さまの一人子です。神様のもとからこの世に送られて神さまのことを多くの人々に教えました。そして、この世の全ての人たちが神さまのもとに行けるようにと、十字架の業を通して救いの道をわたしたちに開いて下さいました。このイエス様を救い主と信じてイエス様を深く信頼するようになると、不思議なことに心配ごとは軽く感じられるようになります。心配ごとはすぐにはなくならないかもしれませんが、イエス様が私たちの祈りの声を聞いて、私たちが気づかなかったことを示したりして導いて下さるのです。それが心を軽くするのです。それがイエス様が約束して下さった休みなのです。その時私たちはしなやかで強じんな枝に実っているリンゴの実なのです。折れて地面に落ちる心配は全くありません。私たちもイエス様のもとに行きましょう。
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月9日の日課から
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」 最後の晩餐の席で主イエスが弟子たちに述べた言葉から(ヨハネ16章22節)
この主の御言葉を信じられることほど信仰の奥義はないであろう。キリストを救い主に持たない者たちが豊かに安逸に暮らせているのに、救い主に持ってそれを人前で明かす我々は命、名誉、財産を危険に晒してしまうというのは真実である。しかし、将来、我々を待ち迎えてくれるものは何か、心の目と耳をすまして思い起こせば、我々は嬉しさに溢れて「心から喜ぶことになる」。逆に、この世ほど惨めで憐れなものはないともわかる。この世の者たちが我々をどんなに無意味で無価値なものと見下しても、それが一体何であろう。我々が失うものは背中に背負っている荷袋だけだ。それは皮のような表層にしかすぎない。しかし、我々は中核にあるものを持っている。この世で何が起きようともこの世を去る時も持ち続けているものだ。この世で失ったものについては、溢れるほどの補償をしてもらえると知っている。
これとは逆に我々と異なる立場にある者たちは、この世のわずかな時を皮だけ持って生きているようなものだ。彼らには中核がなく、いずれその皮さえも失う。全てが一変する日が来るのだ。今、不足なく人生を謳歌している者たちは、その日には何もなくなる。我々はこのわずかな時を悩み苦しむが、あの者たちは永遠に悩み苦しむことになる。この世にこれ以上ないという位の大きな災難があるとすれば、それは福音を何ものとも思わない盲目さということになろう。その盲目さのゆえにこの世は裁きの下に置かれたのだから。そのようなものをこの世に望んで言いわけがない。私は、この世がこのような恐るべき状態から脱せられるように祈ろうと思う。(訳者注 原文の力強さと迫力が伝わるようにかなり意訳してあります。)