牧師の週報コラム

日本人を日本人たらしめる視点

かつてジャパンアズナンバーワンと言われた日本も、今では平均賃金、一人当たりの国民総所得ともに欧米諸国は言うに及ばず韓国にも追い抜かれてしまった(円安をやめれば計算上はまだ救いはあるかもしれない)。 フィンランドでもかつては自分が日本人と言えば、一目置かれる雰囲気があった。国の存在感の威光が薄れた今こそ、個人の存在感で自分は中国人でも韓国人でもベトナム人でもない日本人であることを示せるかが試される時代になったのだと思う。

日本が羽振りが良かった80年代、フィンランドにいた時に何が自分を日本人たらしめるかを考え、それは他の国の人間が持てない視点を持てることで、しかもそれが他の国の人間の視点にインパクトを与えるような視点であること、そんな視点を持てれば国の威光に頼らない存在感のある一端の日本人になれるのではないかなどと考えた。それで、子供の頃から気になっていた二つの特殊日本的な極限状況に自分を置いてみて、自分だったら何を思いどう立ち振る舞うかを考えることで、そのような視点が得られるのではないかと考えた。二つの特殊日本的な極限状況とは、一つは特攻隊、もう一つは踏絵である。

特攻隊は、子供の頃は凄いとか可哀想という二つの複雑な思いの混合。高校大学の時に読んだ「きけわだつみの声」や阿川弘之の「雲の墓標」で、彼らの苦悩と葛藤がとても他人事に思えなくなった。自分だったらどうするのだろう、とにかく自分なりに考えに考えて、結局は「志願」させられて出撃するしかないのだろう。では、どう自分を納得させられるだろうか?家族の住む町が爆撃されないため、国が占領されて占領者の言いなりにならないために必要なのだと言い聞かせるしかないだろう。

踏絵は、小学校か中学の時にキリシタン迫害のドラマの演劇を観て身近に感じたことがきっかけ。まだキリスト教徒ではなかったが子供ながらにキリシタンの人たちの苦悩と葛藤が他人事に思えなかったことを覚えている。もし自分がキリシタンだったら踏むのだろうか、踏まないだろうか。キリスト教徒になった今は文字通り自分事になってしまった。全くしょうもないものを幕府は作りおって。もし踏むという選択ならば、その納得の仕方として遠藤周作の「沈黙」は果たして妥当か、ずいぶん悩んだ。帚木蓬生の「守教」でそれを超えられる視点が得られたのではないかと思う。

二つの特殊日本的な極限状況は追体験の機会を与えるだけではない。人をそのような極限状況に追いやってはならないこと、そしてそのような仕組みを作り出す精神構造から脱却されねばならないことを日本の政治と社会が課題として持っていることを教えるものでもあると思う。それを忘れないためにも追体験による思考訓練は意味があると思う。

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歳時記

灯台下暗し

<1わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2わが助けは、天と地を造られた主から来る。 詩編121:1・2>

”北に遠ざかって雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ” 平家物語 巻十、海道下りの一節です、海道下りの舞台は静岡県手越宿ですから確かに北の方角ですが私の場合は町田ですから西の方角ですね。まさに、これと同じ景色が何時もの散歩道、尾根緑道から眺望出来ようとは夢にも思っていませんでした。尾根緑道は私が良く利用する散歩道で町田街道沿いに八王子まで続く尾根道です。途中の休憩場で西の方角を見ると右手の奥多摩と左手の丹沢の山並みが途切れて狭間となっている所があります。その狭間の奥を遠望すると雪を被った白い山々が見えていました。もしや、と思い夢中でシャッターを切りました。帰宅してpcで見ると確かに南アルプスです、地図を頼りに山座同定を試みてみましたら農鳥岳と塩見岳と判断してフェイスブックに投稿しました、早速反応がありこれは間ノ岳(中央)と農鳥岳(左)であると教えられました。南アルプスの北岳、間ノ岳、農鳥岳は白根三山と呼ばれていて日本アルプスの南側のアルプス山脈です、三山とも3000m以上の標高を持ち特に間ノ岳から右の北岳にかけては標高3000mクラスの稜線が続き此の高さの稜線は日本には此処にしかありません。遠い昔の若かった頃にこの三山を縦走しました。北岳から隣の間ノ岳までの稜線は右側には駒草が咲き乱れ左前方には富士山が何時までも離れずに見えていました。町田の一角から100kほど離れた南アルプスの眺望を楽しめるとは40年以上住んでいたのに気付きませんでした、これこそ灯台下暗しの譬えですね。

2026年2月8日(日)10時半 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年2月5日(顕現節第五主日)

スオミ教会

イザヤ58章1-12節

第一コリント2章1-16節

マタイ5章13-20節

説教題 「真にキリスト信仰者は地の塩、世の光なのだ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  1. はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちや群衆に向かって、君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言います。その言葉は私たちキリスト信仰者にも向けられています。「地の塩」、「世の光」とは何を意味するのでしょうか?16節に「立派な行い」などと言っているので、何か世の中のためになるものという感じがします。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。君たちはもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?「地の塩」、「世の光」とは何かについては後ほど見ていきます。

 その次にイエス様は律法や預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために来たのだと。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は死文化しています。ところが人間は神から罪を赦して頂くために罪の償いが必要です。神殿があった時は動物の生贄が捧げられていました。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は死文化しても、罪の償いはしなければならないこと、人間は神から罪を赦されて罪の支配から解放されなければならないこと、これは神殿がなくなっても、そのままです。ここにイエス様の十字架の意味があります。このことはまた後でお教えます。

 このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様は二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。

 イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現しているのです。預言も、神と人間の結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が来られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書が示す神の意思と計画を実現した方です。

 ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫と認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。

2.キリスト信仰者は「地の塩」である

 それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。

 塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。

 ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になるので、もう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。

 本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に関係する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた知恵の現われで、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた計画なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。

3.キリスト信仰者は「世の光」である

 次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代のイスラエルの地にはギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸の地域にヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然とした輝きであるということです。

 輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然とした光です。

 イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市の輝きや燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じようにキリスト信仰者は全ての人の前で光を放つのだと教えます。立派な行いがその光であると言います。人々はキリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?

 そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないと言っているのでしょうか?でも、そうしたら、人助けをしたくても病気だったり障害があったり、困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?

 人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には信仰者の特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっているという事情です。この事情があるためにキリスト信仰者は「地の塩」、「世の光」になっているのです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味します。病気や困窮して人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広い意味で良い業が言われるのです。

 光のように輝く良い業が人助けに限られないことは、本日のイザヤ書の箇所からも明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンは辞書を見ると、呪いという意味があるかどうかはクェッスチョン・マークが付いています。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。

 さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイスラエルの民に起きた出来事と結びつけて考えると、民を外国の支配から解放して王国を復興させる日が来るという預言に解することができます。しかし、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失った廃墟のような人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現してくれたイエス様はもちろん、イエス様の福音を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導いた使徒たちも光を放つのです。

 このようにキリスト信仰では良い業は人助けだけでなく、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。

4.勧めと励まし

 イエス様は、お前たちは「塩」になれ、「光」になれとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を意味する言葉を付け足して言いました。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。

 それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが失われているこの世にあって、まさにこの世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めたのです。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。

 このことがわかったキリスト信仰者は、こんな凄いことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きようという心になります。その感謝から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。

 ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。これからは罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければと心を新たにします。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。

 このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに留まって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。

 ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために自分の力で掟を守るというものです。彼らは、自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったので優越感にも浸りました。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、一足先に神から義と認められてしまう義です。神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が誇りの源になってしまったら、宗教的な行為を行っても、それは肉の状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

聖書の翻訳の諸問題と課題

111日の礼拝の後で信徒の方から、礼拝中に朗読されたイザヤ書426節について質問があった。同節では、神が僕(イエス様のこと)のことを「あなたを形づくり、あなたを立てた」 と言っているが、スオミ教会の礼拝で唱えられる二ケア信条(西暦325年成立)で御子は「つくられたのではなく生まれ」と言っているのと矛盾するのではないかという疑問。私は説教を準備する時は原文しか見ないから、日本語でどう言われているか気づくのは大抵は礼拝の朗読の時。その日当番の方の朗読で、あれ、と一瞬思ったが、その後の礼拝の流れに集中しなければならず通り過ぎてしまった。

ヘブライ語の文章では「形づくる」はない。「守る」という動詞ならある。6節を忠実に訳すと次のようになる。「私、主(ヤハヴェ)は、あなたを恵みによって召し出し、あなたの手を取ってあなたを守り、あなたを私と民の契約として、また諸国民の光として立てた。」

どうして「形づくる」などと訳したのか。新共同訳はカトリックとプロテスタント諸派が一緒に作った訳。諸派の中には使徒信条や二ケア信条のような古代の信条を顧みない派があって、その関係者が訳したのか?それとも、この預言はイエス・キリストと無関係であることを強調したいためにわざとこうしたのか?それなら、どうして辞書にない意味を持ちだしてきたのか?私が用いるのとは異なる辞書にその意味があったのか?(因みに私が用いているのは、HolladayA Concise Hebrew and Aramaic Lexikon of the Old Testament。大学の神学部時代は手に負えない時は学部図書館にあったBaumgartenの大型のものを用いたことがあるが、個人ではとても所有できない。)

実は11日の福音書の個所にも問題があって、洗礼授けを躊躇するヨハネに対してイエス様が「正しいことを全て行うのは我々に相応しい」と言う下りがある(マタイ415節)。「正しいことを行うのは相応しい」とは少し寝ぼけた訳ではないか?「正しいこと」はここは「義なること」ではないか?英語(NIV)もルター・ドイツ語もスウェーデン語もフィンランド語も皆そう訳している(「義なること」が何を意味するかはその日の説教を参照のこと)。先日の聖書研究でわかったことだが、創世記1816節はヘブライ語で、アブラハムの子孫が「義と正義を行うように」と言っているのに、新共同訳は「義」を削除してしまった!ルター派の翻訳委員は一体何をしていたのか?

今日の山上の説教の「心の貧しい人」(マタイ53節)も正確には「霊的に貧しい人」である。上記4カ国語もそう訳している。「心が貧しい」は、「あの人は心が貧しい」と批判したり、「私は心が貧しい」と反省したりして、人間関係で現れる至らなさ惨めさを意味する。「霊的に貧しい」は、神との関係で明らかになる至らなさ惨めさだ(ドイツ語のEinheitsübersetzungはまさにそう訳している)。

日本語は美しい言語であり、そこで育まれる感性には美しいものが沢山ある。だからと言って聖書の精神をその中に埋没消散させていいわけはない。それは、日本語とその感性に一層磨きをかけることが出来るものであると信じている。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

2026年2月の料理クラブは7日(土)13時から開催します。

本年最初の料理クラブは「ルーネベリ・ロールケーキ」を作ります。2月5日はフィンランドの国民的詩人ルーネベリの記念日です。その日フィンランドではルーネベリ・タルトでお祝いします。

アーモンド、シナモン、ラズベリーの味が引き立つルーネベリ・タルトは、長い冬を過ごすフィンランド人にとって楽しみな味の一つです。料理クラブでは、ロールケーキの形にしてクリームもクリームチーズを用いて上品な味わいに引き立てます。

「ルーネベリ・ロールケーキ」を一緒に作ってみませんか?

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1772015875iamg@1772015875arumi1772015875hsoy.1772015875iviap1772015875 まで。

手芸クラブの報告2026年1月

今年最初の手芸クラブは1月28日に開催しました。外は冬の寒さでしたが、教会の中は温かいので寒さを忘れて心地よく手芸が出来ました。

今回は寒い季節の足元や手首を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」と手首ウォーマーを編みます。参加者の皆さんは自分の好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めに自分の作りたい編み物を決めて編み地サンプルを作ります。それから編み目を編んでいきます。今回はスタートということで、次回に続きをします。一人の方は以前かぎ針編みで編んだスマホケースの続きをしました。可愛い色のスマホケースがもう少しで完成というところまできました。

今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。

いつものように時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこで聖書のお話を聞きました。今回は今年最初の手芸クラブなので、私たちが年の初めに立てる新年の誓い(フィンランドでは「新年の約束」と言います)と、私たちといつも共にあるという天の神さまの約束についてのお話でした。今回も楽しい歓談のひと時でした。

次回の手芸クラブは2月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブの話1月28日

年が明けたのはついこの間だと思ったのに、もう一月の終わりになりました。今日は今年初めての手芸クラブなので、一年の目標についてお話したく思います。新年になると、多くの人は「新しい年はもっと良い生き方をしよう」と考えてさまざまな目標を立てます。フィンランドでは新年の目標を「新年約束」と言います。フィンランド人が立てる「約束」は、普通は自分自身に関するものです。例えばこれからもっと健康的に食べる、体力を向上させる、家族や友達の関係をもっとよくする、新しい趣味を始めるなどです。これらの「約束」はとても良いものですが、少し高すぎてプレッシャーを感じる人もいるかもしれません。初めは皆一生懸命ですが、しばらくして諦めてしまう人が多いです。それで「約束」は簡単に忘れられてしまいます。多くの人はもう2月の中旬には全て忘れてしまい、生活はまた以前と同じに戻ってしまうと言われています。

このように私たちが自分と交わす約束は長続きしないことが多いです。それに気付くととてもがっかりします。私たちは約束を守るのが得意ではありません。しかし、この世には長く守り続ける方がいらっしゃいます。それはどなたでしょうか。天と地と人間を造られた天の神さまです。神さまは私たち人間に様々な約束をされました。それらは聖書の中に書かれています。

今日は神さまの約束の中から一つを紹介したく思います。それは新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれているみ言葉です。これは復活したイエス様が信じる者たちに語られた約束です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
マタイ28章20節

ここでイエス様は、今年も毎日、私たち一人一人と共にいてくださると約束しておられます。私たちはイエス様と密接につながって生きることが出来れば、安心感を得られます。これは私たちにとって大きな励ましであり、大きな希望でもあります。しかし私たちはこの約束を素直に信じられるでしょうか。疑ってしまう時もあると思います。毎日が順調で、幸せな時、全てがうまくいっている時には、イエス様の約束を信じることが出来るでしょう。しかし、病気になったり、仕事を失ったり、自然災害などが起こったときには、「イエス様は本当に共にいらっしゃるのだろうか、私のことなど、忘れてしまったのではないだろうか」と不安になります。

そんな時、私はある有名な詩を思い出します。それは、人の人生の歩みを砂浜の上に続く足跡にたとえた話です。イエス様がその人と一緒に歩いていた時、砂の上には二人分の足跡が残っていました。しかし、その人の人生が終わに近づいたとき、浜辺を振り返ってみると、あるところで

は足跡は一人分しかありませんでした。その人は、足跡が一人分しかない時、イエス様は一体どこに行ってしまったのだろうか、と考え込みました。しかも、その時は、その人の人生で最も辛い時期だったことを思い出しました。不安になったその人はイエス様に尋ねました。「イエス様、あの時、私はとても苦しい状態にあったのに、どうして一緒に歩いて下さらなかったのですか?あの頃、一体どこに行ってしまわれたのですか?」イエス様がお答えになりました。「あの時、あなたが大変な時期だったことはよく知っている。しかし、私はあなたのそばから離れたことはなかった。あの時、私はあなたを背負って歩いていたのだ。だから足跡は一人分しか残らなかったのだ。」

この話のように、私たちの人生に困難があるときにも、イエス様は私たちを離れないで、いつも共にいて下さいます。そのことは、どのようにして知ることが出来るでしょうか?それは、私たちが困難な状態にあっても、イエス様は毎日生きる力を与えてくださって、心の中に平安を与えてくださることからわかります。今年もイエス様が毎日私たちと共に歩んでくださることは、私たちの生きる土台になります。その土台を持っていれば、私たちは安心して前に進むことが出来ます。このことを忘れないで本年も歩んでいきましょう。

最後に旧約聖書のエレミヤ書のみ言葉です。

「私は、あなたたちのために立たてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、
災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。」

エレミヤ書29章11節です。

歳時記

紙飛行機

<あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。 詩編1035

朝のスポーツ公園を散策していると二人の男の人が空に向けて何やら飛ばしています。その一つが目の前に落ちて来たので拾ってみるとそれは紙飛行機でした。割り箸を胴体にして紙の翼を付けゴムのカタパルトで飛ばす素朴な飛行機です。面白そうなので暫く見ていたら、その一人がやって来て色々詳しく説明してくれ更に小さな紙飛行機とゴム紐をくれました。教えられた通りに右手に飛行機を持ち左手でゴムを引っ張り引き離すと飛行機は勢いよく空に向かって飛んで行きました。頂点に達すると風に乗ってゆっくりと輪を描きながら下りてきます。この広場は飛行機遊びの格好の場所でした。子供の頃、竹ひごと紙で作ったグライダーやゴム動力の飛行機を思い出しながら懐かしく遊んでいました。暫くは朝の散歩にはこの紙飛行機とゴム紐を胸のポケットに忍ばせて行く事になりそうです。

牧師の週報コラム

The name of Christian in Japanese

洗礼を受けてイエス・キリストを救い主を信じる人のことを何と呼ぶか?英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語などでは統一した言葉がある。日本ではいろいろな言い方があるようだ。あなたはどう呼びますか?

クリスチャン 子供の頃、キリスト教の人が自分をそう呼んでいるのを聞いて、アグネスチャンみたいで可愛いなと思った。中学生になって英語由来とわかったが、なぜ何でもかんでも英語っぽくしないといけないのかなどと思ったりもした。しかし、考えてみれば、室町末期~江戸時代初期の「キリシタン」もポルトガル語由来だったので、やはり、どうしても伝えた国の言葉に左右されてしまうということか。

キリスト教徒 自分をこう言う人はあまり多くはない感じがする。世界史の教科書などでキリスト教徒とイスラム教徒が対立したなどとあるので「文明の衝突」を想起させ、あまり穏やかな感じがしないのかもしれない。

キリスト者 最初の呼び名と同じ位に多く使われているのではと思う。ひょっとしたら宗教色を出さない場合にも使える名称ではないか?と言うのは、教派や教会によってはイエス・キリストの復活や処女受胎などはなかったと教えたり、またはそこまではっきり言わなくても、それらをただの言葉の綾のように唱えるところもあり、そういうところの人が自分をこう呼んでいるのを聞いたことがある。宗教色がなければ何か?哲学?イデオロギー?

では、スオミ教会の牧師はどう呼ぶか?フィンランドではkristitty(「キリスト教化した」という意味)が一般的だが、これは洗礼を受けた人みんなを意味する。ただし、洗礼を受けても礼拝に行かない聖書を繙かない人が大半というのが現実(ただし近年若者に回帰の傾向が見られる)。それで、それと区別するために「信じている人、信仰者uskovainen」という言い方もする。私は両者をくっつけて「キリスト信仰者」と言っている。日本語として少し味気ないかもしれないが、「クリスチャン」や「キリスト者」より立場表明がはっきりして正直な呼び方だと思う(時々、説教などで思い切って「キリスト教徒」と言うこともある)。

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歳時記

冬の畑

<27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 マルコ4:27,28>

此のところの暖かさに誘われて小山田緑地を歩いています。何時ものベンチで帽子をとりコートを脱いでくつろぎながら目の前の畑を眺めています。「・・・三畝のはたけに草は生えても大根はいびきをかいて育ち、葱白菜に日はけむり、権現南蛮の実が赤い。・・・」高村幸太郎の世界が広がっていました。その向こうには鎌倉武士たちが弓の稽古をしたという広場があります、また此の辺りには馬の牧場もあったそうです。日当たりの良い丘と水の湧き出る谷地は人も馬にも住み心地のよい所だったのでしょうか。近くには鎌倉街道も縦横に巡らせています、思うにこの地は多くの鎌倉武士を輩出した隠れ里かも・・などと思い浮かべながらひと時を過ごしていました。

牧師の週報コラム

古い歌を新しい歌に

ギター教室に通っている息子が新しい課題曲に「花は咲く」を練習したいと先生に申し出た。いつも息子の希望を聞いてくれる先生はもちろんOKだったが、私は少し困ってしまった。 というのは、メロディーはとても美しい歌だが、内容はキリスト信仰者としてどうかなというところがあるからだ。東日本大震災の後で歌が公表された時、歌詞の主人公は生きている人か死んでいる人かどっちかというちょっとした議論が起きたと聞いたことがある。もし後者なら、キリスト信仰とは相いれない。死者とコミュニケーションは取らないというのが聖書の立場なので、死者が何を考えているか思いを馳せたりはしない(レビ記1931節、申命記1811節、サムエル上28章、列王上216節、イザヤ819節を参照のこと)。キリスト信仰者は、あの方と共に歩めた日々を父なる神に感謝し、今は神のみぞ知る場所にて安らかに眠るその方と「復活の日」に再会できるという希望を神に祈り願いながら、その希望を胸に抱いて今を生きるというスタンスなのだ。創造主の神を介して過去の思い出と将来の復活の希望が現在を満たすのだ。

歌詞の中には「いつか生まれる君に」とあって、まるで主人公がこの世とは別の世界でこれから生まれる人間を見ているようなところがある。童話の「青い鳥」の中に確かチルチルとミチルがこれから生まれる子供たちが舟に乗ってこの世に旅立つ場面に出くわすところがあった。イエス・キリストの少し前の時代のユダヤ啓示思想文書の一つ「エノク書」にもエノクがそういう場面を天使に示される下りがあった。「青い鳥」の作者メーテルリンクは「エノク書」を読んだのだろうか。しかし、それらはいずれも、生きた者が天使に別の世界を見せてもらうというもので、死んだものが見る筋合いではないのだ。

さて、「花は咲く」はどうしたらよいか?特別支援の息子のやる気を失わせないためにも希望を叶えてあげたいが、キリスト信仰と異なる霊性とは距離を置いてほしい。そこで、考えたのは歌詞を少し替えてみることだ。次のようにしてみた。

   「いつか生まれる君に」 ⇒ 「いつか生まれる人に」

   「わたしは何を残しただろう」 ⇒ 「わたしは何をすべきだろう」

どうだろう、これで歌詞は生きている人の呟きになることがはっきりするのではないだろうか?ギターの先生にも歌詞の変更を理由を添えてお願いしたら了承してもらえた。自分がキリスト信仰者であることも公けにでき、まさに一石二鳥であった。

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