歳時記

街角の聖句(続き)

木曽谷の外れに奈良井宿という宿場町があります。何故か此処には三度ほど訪れました。此処にはマリア観音と言う隠れキリシタンが密かに拝んでいた地蔵があります。 こんな奥深い山間の宿場町にもキリスト教が入って来ていたことに驚きましたが更に町を歩いていたらとある家の壁に大きな緑板があり訝って見てみると,なんと聖句が書き込まれていました。特に教会の名前もなくクリスチャン個人の辻説法のようでもありました。良く見ると実に一字々丁寧に書かれています、字はその人の人柄を現わすそうで、これを書いた人もこの大きな緑板に向かって真剣に書いた事でしょう。改めてこうやって意外な所で聖句を見るのも新鮮な気持ちにしてくれました。

2025年7月27日(日)聖霊降臨後第七主日 礼拝 説教 木村長政 牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン                    スオミ教会 2025年7月27日(日)

説教題:ルカ福音書11章1~13節

   説教題: 「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」

今日の聖書はルカ福音書11章1~13節までです。この箇所にはイエス様が弟子たちに「何を祈ったら良いか」教えられました。礼拝で何時も祈っている「主の祈り」です。それが1節から4節までです。その後、続いて5節から13節までのところで「如何に祈るべき」「祈りの大切さ」と「熱心に祈れ」と、たとえ話を用いて話されます。

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まず、11章1節を見ますと、此処に弟子の一人がイエス様に言いました。「主よ,

ヨハネが弟子たちに教えたように私たちにも祈りを教えて下さい」。イエス様はこう祈りなさい、と「主の祈り」を教えて下さいました。イエス様はまことに祈りの人でありました。それがルカの福音書で最もよく示されいます。イエス様は時々弟子たちと離れて真剣に一人で深い祈りをされた。そうしたイエス様の祈りの姿に心打たれる事もあったでしょう。それである時、イエス様の祈りの様子を見ていた弟子の一人が自分達もイエス様のように祈りたい、そういう思いを持ったのでしょう。当時のユダヤ人の祈りは形式的で枠の中に縛られたような祈りであって、それに比べバプテスマのヨハネの祈りは形式的なところはなくユダヤ人の祈りに対して改革的意味を持って単純率直で厳粛で道徳的でもあったようです。ところで3章16節以下を見ますとそのバプテスマのヨハネ自身が「私より優れた方が来られる。その方は聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる」と言いましたから、バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えているのを比べればイエス様の祈りはもっと優れた父なる神に対する新しい関係であられる、そうした思いを込めて私たちにも祈りを教えて下さい、と言ったのです。イエス様が教えられた祈りの言葉をルカ11章2節から4節のところで書いています。ここを読みますと、いま礼拝で祈っている「主の祈り」と少しニュアンスが違います。私たちが祈っています「主の祈り」はマタイ福音書の6章9節から13節までにあります。ここでの「主の祈り」は5章のはじめの山上の説教から続いて祈る時にはこう祈りなさい、と祈る時の姿勢について偽善者のように祈るな、とか人に見られようとして大通りで長々と祈るな、とか異邦人のようにくどくど祈るな、等など細かい注意項目が長々と書かれて9節で「だから、こう祈りなさい」。となって主の祈りです。マタイの方といちいち細かく比較してみようとは思いませんが、ただ注意項目の中の「異邦人のようにくどくどと長く祈ればよいと言うものではない」と言う事は大切な事です。

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さて、今日の聖書の日課のルカの方を見てゆきますと、マタイより祈りの項目が簡潔になっています。最初の2項目は父なる神についての祈りです。終わりの3項目は自分についての祈りです。まず、神のことを祈り、次いで自分のことに及ぶのがイエス様の祈りの根本であります。この事は旧約聖書に於けるモーセの十戒が最初の5つは神に関してのこと、終わりの5つが人間に関する律法であるのと同様であります。第一項「神の御名が崇められること。」この事を人間の根本的な祈りとするところに神本位、神中心の信仰を表すものであります。子として私たちも神の子とせられて父の名を何にも優って崇められる事であります。宇宙、万物は神の栄光を顕し人類の歴史も神の摂理の妙なることを証しています。神の知恵と権威と能力と恩恵は全被造物によって顕されています。この神を仰ぎ賛美し喜ぶ事こそ私たちの衷心とするところであります。私たちの目を神の栄光に注ぐことはまことに喜ばしいことであり、祈りの第一であります。次の第二項にありますのは「御国が来ますように。」私たちの目を神の御名の栄光から、今度は現実のこの世に目を移す時私たちはそこに神を信じない者の不信仰と不義の姿をみます。地球の自然が汚されている。排気ガスや人間の科学技術が進んでも緑の森林が壊れている、地球の海水が熱く上がると地球上の気候が狂って来ています。人間同士の憎しみ合い戦争によって罪なき人々の命や建物が一瞬にして失われている、核兵器の恐ろしさ等測り知れない人間の悪辣な世は神の裁きがくだる。地上の国に神の義、神の平安、神の支配が完全に行われるようになるのはどうすれば可能でしょうか。地上の世界を永遠の正義と平和の行われる理想の社会と、なす事は人間のどんな努力や科学が進んでも出来ないであろう。神の国の実現は理想よりほど遠い。此処に於いて私たちは知るのです。神の国は人間の努力の積み重ねで、その上に築かれる事は出来ない。人類社会が進化して理想状態に到達するのではない。何年も何十年も続いている痛ましい戦争を人間は止められないでいる。神の国は神より出て、地上に来るのである。それは神の意志、御心とによって神の思いと導きに基づき神の審判を通して地上に臨むのであります。それであってこそ神の国の完成に希望と確信を持つことができるのであります。この故に、この故にです。イエス様は「御国の来たらんことを」という祈りを教え給おうのです。「来たり給え」「主イエスよ来たり給え」来たりて「神の御国を地にならせ給え。」と祈り神の栄光と地の平和とを祈りの中に結ばれるのであります。人類社会に平和がもたらされますように、神の救いがもたらせますように、と切なる希望と期待がこの祈りに凝結されているのであります。神の栄光と支配の神への祈りから、第三に急転直下、イエス様は自分のための祈りを教え給うています。それは私たちの生活の只中に必要な日毎のパンのための祈りであります。イエス様は日毎のパンが如何に人間に必要であるか、それなしには生きられない事を御自身の体験からも熟知しておられたのです。パンの祈りに次いで第四には罪の赦しを求める祈りであります。パンは一日々ずつ与えられねばならないように私たちの罪の赦しも日毎に与えられる必要がある、と言う事です。私たちは神に対して、また隣人に対して日毎に罪を犯しています。自分で気づかないうちにも罪を犯してしまう、心に傷を負わせてしまっているのです。それ故に日毎に罪を赦して頂かなければ心に安らぎを得ないのです。罪の赦しを得、新しい一日を迎え勇気をもって歩み始めるのであります。私たちの罪の赦しを神に祈り求める事について私たち自身が隣人の罪を許す事が自分の罪が赦される条件になっているのです。もし、此処に兄弟を憎む心を持ちながら己の罪を神に赦して頂かこうなんて、そんな祈りを捧げることは不可能であります。そこで、神の助け、聖霊の力を受けて、隣人の罪を許してゆくのです。神の前に素直な心をもって己が罪の赦しを神に求める時、神は私たちの罪を赦して心に永遠の平安を与え給うのであります。ルカの表現ではマタイより、より強力で直接的にイエス様の言葉を書いています。

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4節「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆、赦しますから。」最後には第五の「私たちを誘惑に遭わせないでください。」この祈りは私たちの日常生活がサタンの試みによって信仰の一番大切な根本を揺るがしてしまわぬように、神の御守りを求めるものであります。私たちの信仰は弱いものですからサタンの試みに遭わぬことが最も安全です。以上の三つは人の生活上の必要を全面的に渡って素朴で基本の祈りをイエス様は教えておられるのであります。次に5節から13節に渡って分かり易い譬え話を用いて「如何に祈るべきか」について、実に力強く、熱く語っておられます。此処での譬え話は一言で言えば、祈りは執拗にまで熱心であらねばならない。また真実にして、真に迫ったものでなければならない。と言う事です。それが真夜中であろうと、実に困っている状況であるなら、求めて、求めてゆく、そこには友人の家の戸を真夜中にドン、ドン、ドンと叩く音が聞こえそうです。こうして強く迫って、求めてゆく熱意が高まってゆきます。熱心に求め、天国を求める者は必ず開けてもらえる、と言う約束が添えられています。しかしながら、どんなに熱く、何回も、何回も祈っても、そこに祈り求めた通りにはならないかもしれない。私たちのこれまでの祈りがこの経験をしているのではないでしょうか。ところで後になってみれば、たとえ求めた通りのものではないが、それ以上の善き物を神様は私たちのに与え賜うのです。此処が大切な事です、私たちの必要を更に深く満たし給うのです。そうして、その熱心な祈り求めと、信頼に対して天の父なる神様から聖霊が送られるのであります。天の父なる神からの聖霊によって、彼らの心は一層強められ、そして天に繋がるのです。更に彼らの目は一層、明らかに神を見る事が出来るのであります。13節の終わりで「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」と約束して言って下さっているのであります。神様はそれ以上に「善き物」として何故「聖霊」を与えて下さるのでしょうか。イエス様の御心に適う祈りだけが天の父の御許に達し、天の父はこれに対して「善き物」を私たちに与え賜います。そして私たちの喜びを満たし給うのです。そして、その「善き物」の中の善き物こそ聖霊であるのです。それを賜わる時、真に私たちの喜びは満たされるのであります。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

牧師の週報コラム 

「信仰ノ証ノススメ」

以下は20231217日の週報コラムに掲載したものです。

『教会の信徒の皆さんには、特にクリスマス、復活祭、聖霊降臨祭の時に礼拝後の祝会で「信仰の証し」をお願いするのですが、皆さん、どうも消極的。前任者の時は積極的にされていたそうで、証しを聴いた宣教師が感激のあまり泣いてしまったこともあるなどと聞いています。当時の熱意はどこに行ってしまったのか?まさか、今の牧師のせいなのか

 「信仰の証し」の何が難しいのか?基本的なことを申し上げると、自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、とか、一時そのイエス様は遠くになってしまったが、また身近な方になった、とか、または、今大変な人生を歩んでいるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、というようなことを、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/伴走を確信させてくれました/確信させてくれます、というようなことをお話し下さればよいのです(長文ですみません)。聞く人も、ああ、あの聖句はやっぱりそのような力があるんだ、自分もそうだと確認したり、または、その個所にはそんな力があったのか、知らなかった、と新たな発見をしたりして、信仰の豊かな分かち合いになります。

 聖書の御言葉が決め手となって十字架と復活の主が身近になるというのは、まさに聖霊が御言葉を通して働くということです。どの御言葉が決め手になるのかは人それぞれ。それで信徒さんの証しは牧師にとっても新しい発見になるのです。どうか宜しくお願いします。』(以上)

「信仰の証し」は「聖徒の交わり」に内容を与えて霊的に豊かにします。一つ注意することは、何か聖句が結びついているということです。聖句がなければ、ただの思い出話、自慢話になってしまいます。それはそれで聞いて楽しいですが、でもそれは「信仰の証し」ではありません。別に聖句を教えたり解説する必要はありません(それは牧師の仕事)。修羅場と波乱万丈を経験した者でないと立派な証しは出来ないなどということはありません。無理して人を感動させる必要はありません。ただ、「私はこの聖句からこんな励ましを受けました(今受けています)、支えられました(今支えられています)」ということをお話し下さればそれでもう立派な証しです。それを皆と一緒に分かちあえるのは恵みです。聖句の代わりに讃美歌や聖歌もOKです。本日コーヒータイムで牧師が一つお話ししますので、参考にして夏の間少し意識して過去を振り返ったり今を自省したりして、自分にも何かあるか考えてみて下さい。秋に名乗り出る方を期待しています!

本日の牧師の証しは、原稿なしで行ったので本コラムには掲載されません。あしからず。

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歳時記

街角の聖句

私の住む団地の一角に保育園があり、そこのフェンスに一枚のマルコ福音書12章31節の聖句を書いた看板が掲げられています。何故その前の29節の第一の教えが無いのか不思議に思っていましたが、29節には神を敬えとあります。保育園は厚生省の管轄なので宗教的な教育はご法度でした。幼稚園ならば文部省の管轄なので信仰の自由が保証されていますから当然29節も堂々と掲げたでしょう。保育園側の苦心の作だったのですね。ところで、保育園の先生は幼い子供たちに「愛する」とはどのように教えていたかに興味がりました。中世、ポルトガルから来た宣教師たちはキリスト教の「愛する」を「御大切に」と教えていました。保育園の先生は幼い子供たちに「愛する」を教えるためにポルトガルの宣教師のような難しさを感じた事と思います。それと日本古来の「相手を愛おしい」「可愛い」「守りたい」などの言葉もあわせて園児たちに教えていたと想像しますが、どうでしょうか。

参考:『「どちりなきりしたん」というキリスト教の教理書には、「一には、ただ御一体のでうすを万事にこえて、御大切に敬ひ奉るべし。二には、我身のごとく、ぽろしも(隣人)を思へという事是なり」と神への愛と同時に隣人への愛も説く。 』

2025年7月20日(日)聖霊降臨後第五主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年7月6日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

創世記18章1~10a節

コロサイ1章15~28節

ルカ10章38~42節

説教題「福音の力」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所もよく知られている話です。マリアとマルタという姉妹がエルサレムに向かうイエス様一行を迎えて食事や恐らく宿を提供する。その準備にマルタは一生懸命なのに、マリアの方はイエス様の教えを聞く方に専念して何もしない。業を煮やしたマルタはイエス様に、私一人で全部しなければならないなんて不公平です、マリアに手伝うように言って下さい、と文句を言う。それに対してイエス様は、教えを聞くことは大事だからマリアにそれを止めさせてはならないというようなことを言う。マルタ、マルタ、と名前を繰り返して言ったことから、マルタがそれ位苛立っていたことがうかがえます。

 このイエス様の言葉を皆さんはどう思うでしょうか?救世主メシアであるイエス様の教えを聞くのは大事なことだから、マリアに聞くのを止めさせてはいけない、イエス様の言うことはもっともだと思われるでしょうか?それとも、マリアは座ってイエス様の話を聞けているのに、マルタは一人で忙しく立ち働かなければならないのはやはり不公平だ、マルタの言うことがもっともだと思われるでしょうか?多分、大方は、イエス様の言うことはもっともだ、しかし、それでも不公平感は拭えないというものではないでしょうか?

 この出来事でもう一つ気になることは、イエス様の発言の後で何が起こったかは記されていないことです。マルタは、はい、わかりました、と言って一人台所に戻って行ったのか、それとも、それなら、私もあなたの教えを聞きます、と言って、食事の準備そっちのけでマリアと一緒に座って教えを聞くようになったのか、それとも、イエス様は気をきかして、今回の私の教えはこれで終わりだ、さあ、マリア、マルタのところに行って一緒に準備しなさい、と言ったのか?さあ、どれでしょうか?他にも可能性があるでしょうか?

 福音書に後のことが書かれていないのは、福音書記者のルカがイエス様の発言で十分である、伝えるべき大事なことはしっかり伝えられた、だからその後のことは書く必要なしと考えたからです。それでは、伝えるべき大事なこととは何でしょうか?それは言うまでもなく、イエス様の終わりの言葉です。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マルタは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

この言葉は、後のことを記さなくても大丈夫という位、重みのある言葉です。それで、イエス様の訪問の場面を超えて時と場所を超えて広く普遍的な意味を持っているのです。今日の説教ではその意味を明らかにしていきましょう。

2.二人とも「平和の子」であった

 まず、イエス様の一行を受け入れたマリアとマルタの二姉妹について少し情報収集してみます。マリアとマルタはヨハネ福音書11章に兄のラザロの死からの蘇りの出来事のところでも出てきます。さらにヨハネ12章でイエス様がマリアから高価な香油を注がれた時にも出てきます。少し厄介なのは、ヨハネ11章と12章のマリアとマルタの舞台はべタニアでこれはかなりエルサレムに近い所です。今日のルカ福音書の出来事の舞台はイエス様一行がエルサレムに向かって南下している時のことで、まだべタニアよりも遠いエリコにも到着していません。ルカ10章とヨハネ11、12章のマリアとマルタの繋がりがよく見えないので、今回はヨハネ福音書のことは脇に置いてルカ福音書のマリアとマルタに集中します。そうなると、二姉妹について他に情報がなくなるので情報収集が難しくなります。

 ここで一つの手がかりとして、ルカ10章の初めにイエス様が72人の弟子を町々や村々へ派遣した出来事があったことを思い出しましょう。二週間前の福音書の個所です。それについて説教をしました。その時、イエス様が弟子たちに与えた指示の中に道中誰にも挨拶するなというのがあり、どうしてそんな指示を出したのか考えてみました。当時ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと言うのです。ただし、誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいというのです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まる、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和、イエス様から言付かった平和が留まる人と留まらない人がいるわけです。平和が留まる人は「平和の子」です。

 このようにイエス様は普通とは違う「平和」の挨拶を弟子たちに指示したのです。ここから、イエス様が考えていた「平和」は一般的に考えられていたのとは違うものであることがわかります。イエス様が考えていた「平和」とはどんな平和だったでしょうか?それは、神と人間の間の平和でした。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。人間が神と平和な関係を持てるようにするために神はひとりこのイエス様をこの世に贈ったのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると認めて神との平和な関係を希求する人だったのです。まだ平和な関係を持てておらず希求する段階なので「子

なのです。

 しかしながら、みんながみんな「平和の子」ではありませんでした。私と神さまの関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしているから、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。しかし、自分には自分を造られた創造主の神がいるとわかって、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないとわかって神と平和な関係を希求する人はもう「平和の子」なのです。実際に希求が叶えられて人間が神と平和な関係を持てるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きてからのことでした。それで平和な関係を持てるようになると、「平和の子」は「平和を実現する者」になるのです。マタイ5章でイエス様が言うように者は「神の子」と呼ばれるのです。

 72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅をしていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事の舞台となるところです。イエス様の弟子派遣は、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。マリアとマルタの家はまさに弟子たちの訪問を受けた家だったのです。弟子たちの口を通してイエス様の平和の挨拶を受けた時、二人は「平和の子」であることが明らかになったのでした。神との平和な関係を持てるために今の罪ある状態ではいけないとわかっていて神との平和を希求していたのです。イエス様の一行はそのような家々を見つけて訪問して世話してもらってエルサレムへの旅を続けました。弟子たちの数は12人プラス72人さらにプラスアルファです。かなりの人数です。一行はマリアとマルタの村で分散したでしょう。マリアとマルタがイエス様を受け入れて世話をすることになりました。他にも何人かの弟子たちが一緒だったでしょう。以上が二人についてルカ福音書に基づく情報収集とその分析の結果です。

3.律法的な生き方でなく福音的な生き方を

 マリアとマルタは、神との平和な関係を持てるためには今の罪ある状態ではいけないとわかっている、それで「平和の子」であることが明らかになりました。ところが、イエス様が来られてからの二人の対応は全く異なりました。マルタは一生懸命に食事の準備をし、マリアは恐らくイエス様が弟子たちに教えているところに行って、そこで教えを聞いたのです。それに対してマルタがイエス様に文句を言ったのでした。

 まず、イエス様が「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われたことに注目します。これは一見すると、食事の準備のことであれこれ悩み心配しているように聞こえます。食材は足りるか、味付けは大丈夫か、客を長く待たせてしまわないか等々。全てが上手くいくかどうか気が気でないという感じです。しかし、マルタが思い悩み心を乱している「多くのこと」とは果たして食事の準備だけのことだったのでしょうか?実はそうではなかったということを後で明らかにします。

 次に、イエス様が「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言っていることに注目します。日本語訳では「良い方」となっているので、これはイエス様の教えを聞く方が良いのだと理解されます。そして、「それを取り上げてはならない」というのは、イエス様の教えを聞くことを中断させてはいけないと理解されます。ところが、日本語で「方」と訳されるギリシャ語のメリスという単語は「分」とか「取り分」という意味です。なので、教えを聞くという動作ではなく、何か与えられるものを意味するのです。教えを通して与えられものです。取り上げてはならないというのも、教えを通して与えられるものを取り上げてはならないということです。聞くことを中断させてはならないということではないのです。

 それでは、イエス様が教えを通してマリアや弟子たちに与えようとしたことは何だったでしょうか?それがわかるために、イエス様は何を教えて何を行ったかを振り返ってみます。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言して活動を開始しました。イエス様は神の国について教え、自分をこの世に贈った父なるみ神についても沢山教えました。また無数の奇跡の業を行って、死も苦しみも嘆きもない神の国を人々に垣間見せたり味わせたりしました。そして最後に十字架と復活の業を行って、人間が神の国に迎え入れられないようにしていた罪の問題を解決して下さいました。本当なら人間が受けるべき神罰を代わりに受けて人間が受けないで済むようにして下さったのです。それで、彼は本当に救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪を赦された者になれて神との結びつきが回復します。そして神の国に迎え入れられる復活の日に向かう道に置かれて、その道を神との結びつきの中で進むことになります。これで神と平和な関係が構築されたのです。他でもない神と平和な関係にあるのでもう何があっても大丈夫と、心は安心と平安に満たされ、周囲に対しても柔和でへりくだった態度になれるのです。高ぶったりいきり立ったりする必要はなくなるのです。まさに「平和を実現する人」になるのです。

 マリアとマルタは神との平和な関係を持てるためには今のままではいけないとわかっていました。それで「平和の子」とされたのでした。ところがその後で二人は正反対の方向に進みました。マリアは、神との平和な関係を持てるためにイエス様の教えを通してでなければ得られないものを得ようとしてイエス様のもとに行ったのです。イエス様の教えを聞けば聞くほど平和な関係は自分の力では得られない、それはきっとイエス様が整えて下さる、だからイエス様にすがるしかないということになったのです。それで、マリアが選んだ良い取り分というのはつまるところイエス様そのものになるのです。ところが、マルタの方は、神との平和な関係を持てるために今のままではいけないとわかってはいても、マリアのようにイエス様のもとに行きませんでした。そうなると、平和な関係を持てるためには自分の力で何かしなければならなくなります。イエス様抜きで神との平和な関係を得ようとすると律法主義になります。しかし、罪の問題を人間の力で解決することは不可能です。不可能なのにしようとすればするほど、思い悩み心を乱すことになります。マルタが「多くのこと」に思い悩み心を乱しているといういのは、食事の準備のことだけではなかったのです。マルタの生き方全てに関わることだったのです。

 そういうわけで、マルタも同じ「平和の子」なのだから最初からマリアと一緒にイエス様の教えを聞けばよかったのです。食事の準備は多少遅れても、後で二人で一緒にやれば遅れは取り戻せます。イエス様も本当はそれを望んだはずです。しかし、二人が別方向に走ったことで、イエス様にしがみつく福音的な生き方と律法的な生き方の違いがあらわれました。それでイエス様は福音的な生き方をするようにと教えたのです。十字架と復活の出来事の後で福音書を書いたルカはこのポイントがわかりました。それで彼からすれば、その後のことは述べる必要はなくなったのです。

4.勧めと励まし

 主にある兄弟姉妹の皆さん、人間は神でも霊でも仏でも何か超越的なものを拝みます。それで、もし人生で何か困難や苦難に遭遇したら、超越的なものにお伺いを立てたり、何か捧げものや供えものをして宥めることをしたり、清めの儀式を受けたりします。私たちのキリスト信仰ではどうでしょうか?超越的なものとは言うまでもなく天と地とその間にある全てのものを造られた創造主の神です。私たち人間も一人一人造られ、髪の毛の数も全て把握されている真の造り主です。私たちの神は造り主であることに加え、倫理的な問題ではっきり態度表明する方です。人を傷つけるな、人のものを奪い取るな、真実を曲げるな、不倫をするな、そうしたことを心の中で思い描いてもいけないと言います。そのため、私たちはこの神との関係はどうなっているか絶えず自問し自省します。神の態度表明を知れば知るほど自分は神の前に立たされたら何も申し開きできず持ちこたえられないと思い知ることになります。何を捧げても供えても清めの儀式を受けても何の役にも立たないと思い知らされます。

 だから、神は私たちにイエス様を贈られたのでした。この神聖な神のひとり子が神を宥める捧げもの供えものになったのです。彼が十字架の上で流した血が私たちを罪から洗い清めたのです。イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まっていれば、神の御前に立たされた時、神から義と認められるのです。人間の力では不可能なことが福音の力で可能になるのです。

 では、キリスト信仰者が苦難や困難に遭遇したらどうなるのか?それはやはり神が怒ったり背を向けたことなので捧げもの供えものをして宥めたり清めの儀式を受ける必要があるのではないかと言う人がいるかもしれません。ナンセンスです。イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みにとどまっていれば、苦難や困難があっても神との平和は何の変更もなくそのままなのです。だから試練があっても、それは神が怒って私たちに罰を与えていることだ、だから宥めないといけないのだ、などという考え方からキリスト信仰者は解放されています。これも福音の力によるものです。そのような考え方から解放されると、試練というのは神がこのトンネルのような暗闇の道を光が差す出口まで一緒に歩んでくれる絶好の機会になるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム

「私は教会に命を預けにきたのだ」

 スオミ教会の前に赴任していたY教会での出来事。週日の夕刻に隔週でギリシャ語とヘブライ語のクラスを開いた。ギリシャ語は4~5人の参加者、ヘブライ語は1人。うちキリスト信仰者はY教会の方と他のルーテルH教会のSさんの二人。SさんはK大学のドイツ語の教授を務められた方で、引退を機にH教会で小教理問答の学びをされて晴れて受洗。ドイツ語とドイツ文化を専門とされていただけに、それでルターやルター派教会に対して関心を抱くようになってキリスト教会の門を叩くようになったのではないかと思われた。

 ところが、ある日そのSさんが唐突に、私はルーテル教会をやめました、別の教派の教会に移籍しましたと。一体どうして?なんでも、H教会で講演会が催され、ある神学校の教授が講師を務められた。話の内容は、聖書の神と日本の神道の神々には共通点が沢山あるというような話で、いろんな逸話を身振り手振りで楽しく興味深く話して聞かせたと。会堂で一緒に聴いていた教会員たちも惹きつけられて、みな目を輝かせて面白い素晴らしいと絶賛。「吉村先生、私は教会に命を預けるつもりで来たんです。それなのに、もうこんな遊びの教会にはいられないと思いました。」講演の内容のどこが問題だったか詳しいことはもう記憶にないが、Sさんの「教会に命を預けにきた」という言葉が今でも頭に残っている。

 教会に命を預けるとはどういうことか?人によっては、カルト宗教にはまって財産を失ったり、通常の生活が出来なくなるような印象を持ってしまうかもしれない。しかし、そういうことでは全くない。フィンランドのようなキリスト教が国の伝統になっているところでは(近年は変わってしまったが)、子供が生まれたら洗礼式、思春期の堅信礼、青年期の結婚式、子供が生まれたら洗礼式、その子の堅信礼や結婚式、そして自分自身の葬式という具合に、この世の人生の初めから終わりまでが教会の中にあり、教会が伴走してくれる、そして最後は主の復活の約束を本人にも肉親にも確認して送り出してくれる、本人はその約束を希望の源として送り出され、まだこの地に残る者はその希望を抱いて歩み続ける、こういうことが教会に命を預けることではないかと思っている(この「希望」をフィンランドでは復活の日の「再会の希望」jälleen näkemisen toivoと言います)。

 もちろん、日本のように大人になってから洗礼を受ける人も同じです。イエス様もたとえの教えで(マタイ20章)、夜明けに仕事を始めた労働者も、9時や12時や15時や17時から始めた労働者も皆同じ賃金を支払われると教えていることはこのことです。教会に繋がっていたのが人生の全期間であっても、終わりの時であっても、神から見たら命を預けた点では同じなのです。

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2025年7月13日(日)聖霊降臨後第五主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年7月13日(聖霊降臨後第四主日)スオミ教会

申命記30章9~14節

コロサイ1章1~14節

ルカ10章25~37節

説教題「永遠の命と隣人愛」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日のイエス様のたとえの教え「善きサマリア人」は、聖書を読む人なら誰でも知っている教えの一つです。そこでイエス様は何を教えているでしょうか?まず、困っている人を助けてあげなければならないと教えているとわかります。盗賊に襲われて半殺しにあった人が道端に横たわっていました。そこをエルサレムの神殿の祭司と祭司に仕えるレビ人が通りかかりました。しかし、二人とも無視して行ってしまいました。神殿のエリートたちがそんなことをするのです。ところが、サマリア人という、当時ユダヤ民族が見下していた民族の人が走り寄って助けました。これを聞いた人はどう思ったでしょうか?見下していた人が正しいことをし、偉いと思っていた人がしなかった、あの民族はレベルが低い、立派な行動などとるはずはないと決めてかかるとしっぺ返しをくらうことになる。逆に自分の民族はレベルが高いのだと鼻を高くしていると遜らなければならなくなってしまうことになる。このようにイエス様の教えは、困っている人を助けることを教えると同時に異なる民族に対する偏見は愚かなことだと教えているように見えます。こういう教えは、ちょうど今、参院選挙の真っ最中の日本で各党の主張やSNSに溢れる声を聞く時に少し考えさせる材料になるかもしれません。

 ところが、イエス様の教えはもっと深いことも教えているのです。もし、困っている人を助けることが大事とか、偏見は捨てよ、という教えだけだとしたら、そういうことは別にキリスト教徒でなくても、他の宗教の人でも、また宗教を持たない無神論的なヒューマニズムの人でもわかります。イエス様が教えるもっと深いこととは何でしょうか?イエス様の教えの発端は、律法の専門家が、何をすれば永遠の命を得られるか?と聞いたことがありました。イエス様のたとえはこの問いに対する答えなのです。なので、このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いを忘れては理解出来ないのです。(2世紀から3世紀にかけて活躍した有名な神学者にオリゲネスという人がいます。彼はこのたとえについて有名な解釈を残しています。教会の説教でも牧師がよく取り上げたりします。詳しいことはここでは割愛しますが、オリゲネスの解釈は私から見たらイエス様が本当に言おうとしたことを飛躍して拡大解釈しているにしか見えません。もし、永遠の命に関する答えを明らかにしていれば解釈は妥当であると申しましょう。)

2.永遠の命

 このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いに対する答えとしてこのたとえがあることを忘れてはなりません。当時のユダヤ教社会では、どうしたら永遠の命を持てるかということが関心事になっていました。ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章に金持ちの青年がイエス様のもとに走って来て、何をすれば永遠の命を持てるでしょうか?と尋ねたことからも明らかです。また、イエス様が活動を始める前に洗礼者ヨハネが現われて、悔い改めよ、神の国は近づいた、と宣べ伝えると、大勢の人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとに集まってきました。これも永遠の命を得るためでした。当時、聖書に基づいて次のような考えが持たれていました。この世は神が創造して始まったが、始まりがあったように終わりもある、今ある天と地は新しい天と地に造り変えられる、その日は神の怒りの日であり裁きの日である、神に義と認められた者は怒りと裁きをクリアーできて新しい天と地のもとで永遠の命を持つことができるという考えです。人々はヨハネの洗礼でクリアーできるようになると思ったのです。ところがヨハネは自分の後に偉大な方が来られると言って、人々の心をイエス様に向けさせたのです。

 金持ちの青年の質問に対してイエス様はどう答えたでしょうか?まず、十戒の掟を守りなさいと言います。それに対して青年はそんなものは子供の時から守っている、まだ何が足りないのかと聞きます。イエス様は答えます。お前には足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に施せ、そして私について来なさい、と。金持ちの青年はそれが出来ず悲しみにくれて立ち去って行きました。

 今日の教えも同じです。律法の専門家は、何をすれば永遠の命を得られるのかと聞きました。それに対してイエス様は律法に何が書いてあるか、それをお前はどう理解しているかと聞きます。男の人は律法の専門家だけあって、十戒の教えを旧約聖書に基づいて二つの項目にまとめました。一つは、神を心を尽くし魂を尽くし力を尽くし理解力を尽くして愛せよ。これは申命記6章5節にあります。もう一つは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ。これはレビ記19章18節にあります。イエス様は専門家の答えを良しとし、その通りにすれば永遠の命を得られると言いました。ところが、専門家は自分が神の目に相応しい者であることを認めてもらおうとさらに聞きました(後注)。私の隣人とは誰のことか?と。なぜ、この質問が神の目に相応しい者であることを認めてもらうための質問だったのでしょうか?

 それは、レビ記19章を少し広く見るとわかります。そこでは隣人とは、ユダヤ民族に属する者であることが言われているのです。大体9節くらいから、ユダヤ民族に属する貧しい人たちを助けてあげろとか、盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないとか、裁判は公平に行えとか、同じ民族に属する者を中傷してはいけないとか、そして18節で同じ民族に属する者に復讐してはいけない、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、が来ます。隣人とはユダヤ民族に属する者なのです。ただし33節を見ると、興味深いことにユダヤ民族の中に一緒に住む異民族の人たちにはユダヤ民族と同じように愛せよとあります。つまり、ユダヤ民族には属さない者にも隣人愛を行いなさいということです。これは、実際はどうだったでしょうか?イエス様の時代、ガリラヤ地方とユダヤ地方に挟まれたサマリア地方がありました。サマリア人は純粋なユダヤ民族ではないと見下されて隣人愛の相手とは見なされなかったのです。ユダヤ人にとって隣人とはやはり同胞が中心に考えられていたのです。

 律法の専門家は隣人=ユダヤ民族という一般的な理解を念頭において、イエス様に隣人とは誰かと聞いたのです。もし、イエス様がそれはユダヤ民族に属する者であると答えたら、しめたもの、専門家はきっと、はい、ちゃんとその通りにしています、と答えたでしょう。これが自分は神に相応しいと認めてもらうことでした。ところが、イエス様はたとえの中でレビ記19章の異民族に対する隣人愛をどんでん返しするように出したのです。ユダヤ民族の神殿エリートが傷ついた同胞を助けませんでした。このエリコに向かう途中で襲われた男の人は神殿のあるエルサレムから出発したので間違いなくユダヤ人です。傷ついたユダヤ人を助けたのは、ユダヤ民族が見下していた異民族のサマリア人だったのです。本当はユダヤ民族の方が異民族に隣人愛を行わなければならなかったのに、それが出来ずにいたところ、異民族の方がユダヤ人に隣人愛を行ったのです。ユダヤ人に隣人愛を行ったサマリア人がユダヤ人の隣人である、お前はこのサマリア人のようにしなければいけない、というのです。そうしなければ永遠の命は得られないというのです。律法の専門家は立ち往生してしまったでしょう。金持ちの青年が悲しみながら立ち去って行ったのと同じことが起こったのです。

 イエス様は一般的に愛に満ちた優しいお方、何でも言うこと願いごとを聞いてくれる神さまみたいな方(実際、神さまですが)という見方がされます。イエス様は本当は厳しい方なのです。思い出してみて下さい、十戒の第5の掟「汝、殺すなかれ」について、イエス様は人を殺していなくても心の中で罵ったり憎んだりしたら同罪であると教えました。第6の掟「汝、姦淫するなかれ」も、たとえ不倫をしていなくても淫らな目で異性を見たら同罪であると教えました。「貪るな」という第9と第10の掟も、実際に他人のものを盗んだり台無しにしなくても、心の中で自分のものにしたいとか台無しにしてやりたいと思ったら罪なのです。こういうふうに十戒の掟というのは、行いや言葉で悪をしなければ十分というものではなく、心の中もそうでなければならないというのが十戒を与えた神の意思なのです。イエス様は神のひとり子の立場にたって父の意思をそのように伝えたのです。

 さて、大変なことになりました。心の中まで問われたら神のみ前で潔癖な者などいなくなります。神の怒りと審判の日が来たら何も申し開きができません。神は全てお見通しです。イエス様、あんまりです、厳しすぎます、と言いたくなります。しかし、まさにここでイエス様が本当に愛のある方であることが明らかになるのです。イエス様は、神の怒りと審判の日に人間が絶体絶命にならないために、人間が受けてしまう罪の罰を全て自分で引き受けて下さったのです。それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は私たちの身代わりとなって神罰を受けて死なれたのでした。イエス様の厳しさと優しさは表裏一体なのです。厳しさがあるから優しさは自己犠牲の愛になるのです。ところで、事はイエス様の死で終わりませんでした。神の想像を絶する力で三日後に死から復活され、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、復活と永遠の命が待っている地点への道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは、私たちがこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いが自分のものになり、その人は罪を償ってもらったから罪を赦された者として神から見なされるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきが回復して復活と永遠の命に向かう道を進んで行くことになります。

 しかしながら、永遠の命への道を歩むようになったとは言っても、自分の内には神の意思に反する罪があることにいつも気づかされてしまいます。そこで自分を偽らず、罪があることを認めて、イエス様を救い主と信じます、私の罪を赦して下さい、と神に祈り願えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦すから、これからは気をつけなさい、と言って下さるのです。神が罪を赦すというのは、不問にするから新しくやり直しなさい、と言ってもらうことです。過ぎ去ったことを執念深く突っつきまわすことはしないということです。そういうわけで、キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。しかし、イエス様の厳しさと優しさが表裏一体で優しさが厳しさを上回っていたのと同じように、罪の自覚と赦しも表裏一体で赦しが自覚を上回っているのです。それで繰り返しの人生が可能なのです。そして、繰り返しの人生は罪から完全に解放される復活の日に終了します。

 このように永遠の命というのは、人間の力ではどうにもならないものなのです。神のひとり子の十字架と復活の業に全てお任せしないとだめなのです。それなのに、金持ちの青年や律法の専門家のように、人間が頑張って何かをすれば得られると考えてしまったら、イエス様が十字架にかけられて復活する必要はなくなってしまうのです。イエス様がこの世に贈られる必要もなくなってしまうのです。イエス様自体が必要ではなくなってしまうのです。

 金持ちの青年は失意のうちに立ち去り、律法の専門家はおそらくふてくされた立ち去ったでしょう。それは、その時点ではやむを得なかったと思います。なぜなら、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起こっていなかったからです。出来事の後、それを聞き知った二人は、永遠の命を得る決め手は自分たちにはない、神があのひとり子を用いて成し遂げて下さったことが全てだと信じるようになったことを願うばかりです。それは決して不可能ではありません。ファリサイ派のパウロだってイエス様を信じて受け入れたのですから。

3.隣人

 少し隣人についてみてみます。隣人と訳されるヘブライ語のレーアはもともとは仲間という意味でした。それなので先ほどのレビ記19章の中で使われると、どうしてもユダヤ民族を中心に考えがちになります。イエス様は、たとえをもって「隣人」のユダヤ民族中心の見方「同胞の隣人」を壊して「誰でも隣人」にしたのです。傷ついたユダヤ人の隣人になったのはサマリア人でした。二人の神殿エリートは同胞の隣人にはなれなくなってしまったのです。

 永遠の命は神の力によらなければ得られない、なのに人間の力で得られると勘違いする人たちがいたのでイエス様はそれが不可能であることを骨身に染みるように教えました。つまり、本当は出来ないのに出来るとする律法主義の矛盾を暴露したのです。イエス様のたとえでは律法主義の矛盾がもう一つ出てきます。律法主義が隣人をユダヤ民族に留めてしまっているという矛盾です。イエス様はたとえの中に、ファリサイ派ではなく、祭司とレビ人という神殿エリートを登場させました。レビ記21章を見ると、祭司はよほど近い親族でない限り遺体に触れてはならないという規定があります。二人の神殿エリートは道端に横たわっている同胞を見た時、この規定のゆえに、もし死んでいたら近寄ったら汚れてしまうと思ってそそくさと通り過ぎたのです。一方で、祭司は死体に触れてはいけないという掟がある。他方で、隣人を自分を愛するが如く愛せよという掟がある。さあ、どうしたらよいか?隣人愛は、神の意思を二つの大黒柱にまとめたものの一つです。もう一つの柱は神を全身全霊で愛せよでした。祭司は死体に触れるなという掟はこの大黒柱を前にしたら脇に退かなければならないのです。神殿エリートは何が主で何が従であるか本末転倒してしまったのです。まさに律法主義の矛盾です。

 このことは、安息日に病人を癒すのは罪でもなんでもないということと同じでした。イエス様は安息日にユダヤ教の宗教エリートたちの目の前でこれ見よがしに病人を癒してあげました。それは神が与えた安息日の掟を否定したのではありません。病気を治すとか命を守るとか緊急のことがない場合は安息日は守らなければならないことに変更はないからです。

 イエス様は今日のたとえの中に、祭司の汚れ規定が及ばない普通のユダヤ人を登場させませんでした。あえて異民族、しかもユダヤ人が軽蔑しているサマリア人を登場させました。そこに注目します。もし普通のユダヤ人に傷ついた同胞の世話をさせたら、隣人はユダヤ人のままです。しかし、サマリア人を登場させ、彼が傷ついたユダヤ人の隣人になりました。隣人の意味がまさにユダヤ民族中心から解放された瞬間です。隣人から民族の壁を取り払って「誰でも隣人」にしたのは、イエス・キリストの福音の趣旨と一致します。人間の力のおかげではなく、イエス様の十字架と復活の業のおかげとそれをその通りと信じる信仰のおかげで罪の償いと永遠の命が得られるというのがイエス・キリストの福音です。この福音は世界の全ての民族に向けられたものです。神はこの福音をどうぞ受け取って下さいと言って、全ての人間に提供して下さっているのです。

 

4.勧めと励まし

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、人を助けるというのは、キリスト信仰の場合、永遠の命と隣人愛の二つが土台にあることを忘れてはいけません。それが他の宗教やヒューマニズムの人助けと違う点です。キリスト信仰者にとって隣人愛とは、信仰者同士の場合、約束された永遠の命への道を歩めるように支え合うことです。まだ道の歩みに入っていない人たちに対しては、道に入れるように導き働きかけることが隣人愛です。人を助けることにはいろいろな形態があるのに、なぜ、永遠の命に至る道をしっかり歩めるようにすること、また、その道に入れるようにすることが助けになるのか?永遠の命を約束されたというのは、今の天と地が新しい天と地に取って代わる大変動の時、神の怒りと裁きをクリアーできるという確信を得られることです。それはとても大きな安心感を与えてくれます。この大きな安心感があれば、この世で困難や苦難に遭遇しても不安や心配に押しつぶされることはありません。なぜなら、大変動の時にある苦難や困難は今のこの世の苦難や困難よりも遥かに大きなもので、その時に大丈夫ならば今の時はもっと大丈夫だからです。このような不安や心配に押しつぶされないですむ安心感を得られるようにしてあげるのも立派な助けです。助けの中の助けです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)日本語訳では「自分を正当化しようとして」ですが、ギリシャ語のディカイオオ―は「自分を義とする」、つまり、「自分を神の目に相応しい者にする」ということです。律法主義の考えの人なので「律法を守っていることで自分を神の目に相応しい者にする」ということです。

牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」7月1日の日課から

これぞ、聖書の神は人間が作りだしたものではないということの証し!

「町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか」アモス書36

「預言者アモスはなぜ災いは神から来るなどと言うのだろうか?ここで注意しなければならないのは、神が自分から災いを引き起こすのではなく、他のものを通してそれが起こるのを何らかの理由で許すというのが正解であるということである。聖書は、人を永遠の滅びに追いやるのは悪魔であり、人に罪の自覚を生み出して絶望させるのは律法であると教える。しかしながら、聖書はこれらのことは神も行うと言っている。これは一体どういうことか?

 その意図は、我々が神と人間の関係について定めた十戒の掟を心に留めて、唯一の神こそ神であると告白して信じるためであり、いろんな神を作らないようにするためなのである。マニ教の始祖を見よ。彼は二つの神を作った。一つの神からは善いことが起こり、もう一つの神からは災いことが起こるという二つの神を。それで、その宗教を信じる者たちに善いことが起これば、彼らはそれをもたらした神を賛美して拝み、逆に災いが降りかかれば、それをもたらした神の方を向いてそれをなだめようと拝む。しかし、聖書の神である主が我々に求めているのは、我々に善いことがあろうが災いがあろうが関係なく、我々がより頼むのはいつも主なる神のみであるということだ。

 しかしながら、我々は予期しなかった時に不運に遭遇すると、神は機嫌を損ねているに違いないと恐れて神から離れてしまう。これが、我々の自然の本質である。「我々に怒っている神」などという全く異質の神を編み出すことほど、正しい信仰に反することはない。「神は恐るべき方ではなく、憐れみ深い父、あらゆる慰めと励ましを与えて下さる方、その方が唯一の神として存在する」と信じるのが正しい信仰だ。これを信じない者は、唯一の神を信じることをやめて、自分の都合と状況にマッチする神を作り出すことになる。善いことをしてくれる優しい神、災いを起こす怒りの神と言う具合に。」(以上ルターの説き明かし)

神が唯一絶対になると、「神さま、何故なのですか?」という問いをその神にぶつけ、答えが与えらるまで格闘することになります。時として神の答えはヨブの時のようにあまりにも超越したもので神の大きさと自分の小ささを思い知るようなこともあります。しかし、神と誠実に格闘すればヤコブのように勝つことができます。

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2025年7月6日(日)聖霊降臨後第四主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年7月6日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

イザヤ66章10~14節

ガラテア6章1~16節

ルカ10章1~11、16~20節

説教題「『神の国』と『命の書』

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日の福音書の個所は、イエス様が72人の弟子たちを町々に送ったという出来事です。イエス様は以前に12人の弟子たちを各地に派遣したことがあります。いずれの場合も弟子たちの役目は大体同じでした。神の国が近づいたことを宣べ伝えること、イエス様から委ねられた力で病気の癒しや悪霊の追い出しを行うことです。派遣に際していろいろな指示が与えられました。財布も着替えも持っていくなとか。一見無茶な指示ですが、これは、行く先々で弟子たちを受け入れて世話をしてくれるところが必ずある、だから心配はいらないということです。もっと掘り下げて言えば、神がそのような人たちを用意される、それを信頼しなさいという、神への信頼が弟子たちにあるかどうかが試されているのです。

 もう一つわかりにくいことがあります。それは、道中誰にも挨拶をするなという指示です。イエス様はどうしてそんな冷たい指示を与えたのでしょうか?難しいところですが、私は次のように考えてみました。当時、ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。これがあなたにあるように、という挨拶の仕方でした。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと。ただし、弟子たちが誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと指示しました。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいということです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まり、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和が留まる人と留まらない人がいると。平和が留まる人は「平和の子」であると。

 ここで、イエス様が大事に考えていた「平和」とは、神と人間の間の平和だったことを思い出しましょう。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。それを正すためにイエス様はこの世に贈られたのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると自覚して神との平和な関係を希求する人だったと言えるでしょう。しかしながら、みんながみんなそうではありませんでした。自分と神との関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしている、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。弟子たちを拒否する人は彼らを送ったイエス様を拒否し、イエス様を拒否する人は彼を送った神を拒否してしまったのです。イエス様は、弟子たちを送ることは狼の群れの中に羊を送り込むようなことだと言っているので、受け入れないところでは命の危険があったのかもしれません。イエス様やその弟子たちを受け入れるところと入れないところがあるというのは、イエス様の時代に限らず時代や国を問わずいつもあるのです。自分には自分を造った創造主の神がいるとわかり、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないと考えるようになった人は「平和の子」なのです。

 72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅を続けていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事が待っているところです。イエス様が72人を派遣したのは、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。この72人と12人を合わせてイエス様には少なくとも84人弟子がいたことになります。72人を選んだということは選ばれなかった人もいたことになるので、弟子はもっと多かったでしょう。なので、イエス様一行を受け入れて世話をする人たちをあちこちで準備しなければなりません。72人は2人一組で派遣されたので36カ所に派遣されたことになります。それぞれの場所で何が起きたか詳しいことはわかりませんが、戻って来た弟子たちが皆、悪霊は出て行きましたと喜んで報告しているので派遣は概ね成功だったようです。ルカ19章にエリコの町で徴税人のザアカイの家に泊まった出来事があります。イエス様の一行が町に入った時、大勢の人たちが待ってましたとばかり街道に押しかけました。エリコは先遣隊を受け入れた町の一つだったのでしょう。

 前置きが長くなりましたが、本日の説教では次の2つのことに焦点をあてて福音を宣べ伝えたく思います。一つは、弟子たちの役目の一つに、神の国が近づいたと人々に告げ知らせることがありました。弟子たちを受け入れる人たちにも受け入れない人たちにも知らせるのです。神の国の近づきとは一体何か?これが第一点目。二点目は、たとえイエス様から悪霊を追い出す力や、あらゆる危険を足蹴にできる力を頂いたとしても、そんなことで喜んではいけない、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言ったこと。名前が天に書き記されていることが何にも優る喜びであるということは一体どういうことか?この二つに焦点をあてて見ていきます。

2.「神の国は近づいた」

 イエス様は、活動を開始した時から「神の国は近づいた」と人々に告げ知らせて「神の国」について沢山教えました。そんな国が近づいたとはどういうことでしょうか?そもそも「神の国」とはどういう国なのでしょうか?

 神の国とは、まず、天地創造の神、私たちの周りの森羅万象を造られた創造主がおられるところです。神はこの世を造られた後、引きこもってしまって、あとは勝手にどうぞ、とは言いませんでした。そうではなく、この世に対していろいろ働きかけをしてきました。どんな働きかけがあったかは、聖書を見ればわかります。全ての人間に対してご自分の意思を示す律法を、ご自分が選んだ民に委ねたこと、そのイスラエルの民の歴史を通してご自分の考えやご自分がどのような方であるかを知らしめたことがあります。神はご自分の意思に反することを罪と言い、それを焼き尽くさないではいられない神聖な方であるが、同時に罪を持つ人間が悔い改めて神のもとに立ち返れば罪を不問にして新しく生きられるようにして下さる憐れみ深い方でもある、そういうお方であることを知らしめました。そして、神の働きかけの中で最大のものは何と言っても、ひとり子を私たち人間の救いのために贈ったということです。

 聖書は、「神の国」は将来、私たちの目の前に現れて、私たちはそれを自分の国として受け継ぐことが出来ると知らせます。「神の国」が現れる日とは、今のこの世が終わり、今ある天と地が新しい天と地に造り変えられる時です。このように聖書は終末論と創造論がセットになっています。ヘブライ12章では、今のこの世のものは全て揺り動かされて除去されてしまうが、揺り動かされない唯一の国が現われる、それが「神の国」であると。黙示録21章では、新しく創造された天と地のもとで神の国が現われ、そこは苦しみも嘆きも死もない、全ての涙が拭われる国であると言われます。全ての涙というのは、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世でないがしろにされてしまった正義が最終的に完全に実現し、全ての不正に対して借りを全部返す大清算が行われるのです。

 ところで、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、本当に近づいたのでしょうか?まだ、この世が終わるような天と地の大変動は起きなかったではありませんか?実はこれは、イエス様が行った無数の奇跡の業を通して神の国の近づきが明らかになったということです。難病の癒し、自然の猛威を静めたこと、何千人の人たちの空腹を超自然的な仕方で満たしてあげたこと、一度息を引き取った人たちを蘇らせたこと、これらはどれを取っても嘆きも苦しみも死もない「神の国」の有り様でした。つまり、「神の国」はイエス様と一緒に抱きあわせの形で来ていたのでした。

 しかしながら、人々は難病が癒されても、自然の猛威から助けられても、空腹を満たされても、生き返らせてもらっても、それでまだ「神の国」に入れたわけではありませんでした。人間はそのままの状態では「神の国」に入れない障害がありました。それは、神の意思に背く性向、罪を人間は持っているということでした。人を傷つけてはいけない、他人のものを妬んだり横取りしてはいけない、真実を曲げてはいけない、不倫をしてはいけない等々の神の意思に反することを行いや言葉で出してしまったり、考えで持ってしまいます。反対に、しなければならない正しいこと良いことをしなかったり、言葉に出さなかったり、考えなかったりするのも神のみ前では立派な罪になります。罪のために人間は神との結びつきがない状態に置かれ、この世を生きる時もこの世を去る時も結びつきがない状態になってしまいます。神はこの状態を直して、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世を去った後も復活の日に眠りから目覚めさせて「神の国」に迎え入れられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に贈られたのでした。

 神は、本当なら私たちが受けなければならない罪の罰をひとり子に全部受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。もし私たちが神罰を受けてしまったら、私たちは永遠の滅びに陥り「神の国」に迎え入れられなくなるのです。イエス様は私たち人間の罪を命をもって償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。それで、私たち人間は、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。罪が償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。そして、復活の日に現れる「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩む人生が始まります。

 キリスト信仰者はこの世ではまだ「神の国」に迎え入れられてはいませんが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそれを受け継ぐ者になっているのです。さらに、聖書の御言葉と聖餐式があるので「神の国」に至る道を踏み外さずに歩むことができるのです。聖書の御言葉は生ける神のみ言葉です。なので、信仰の目を持って読み、信仰の耳を持って聞けば、聖霊が働いて父なるみ神とみ子イエス様を身近な存在にして下さいます。聖餐式では私たちの口を通してイエス様を体の内に取り込みます。だから、人生の状況がいかなるものであっても、御言葉と聖餐に繋がっている限りは、道は確か道で、歩みも確かな歩みです。何も心配はありません。

3.命の書

 天のみ神のもとに何か書物があって、そこに名前が記されていることが大きな祝福である、しかし、名前が記されていなかったり削除されるのは悲劇であるという、そういう書物が存在することは旧約聖書の出エジプト記32章32節、詩篇69篇29節、イザヤ書4章3節、ダニエル書12章1節で言われてます。新約聖書もその伝統を受け継いでいて、本日の福音書の日課でも明らかなようにイエス様自身がそのような書物があると言っているのです。新約聖書の中では他にフィリピ4章3節、ヘブライ12章23節、黙示録3章5節で言われています。これらの中で、ダニエル12章1節とヘブライ12章23節と黙示録3章5節を見ると、この「命の書」と呼ばれる書物に名前がある者は復活の日に「神の国」に迎え入れられる者を意味していることがわかります。

 さらに黙示録20章を見ると、「命の書」の他に全ての人間の全ての行いが記された書物があることも言われています。最後の審判の時に神の国に迎え入れられるか、それとも滅びに陥るかの判決はその書物に記されたことに基づいて下されるとあります。今ある天と地のもとに存在した人間全て一人一人の全ての事柄について記録など膨大過ぎてあり得ないと思われるかもしれません。しかし、神は人間を一人一人造られ、母親の胎内にいる時からみんな知っていたという位の創造主です。イエス様も言われたように、髪の毛の数も一本残らず数え上げるくらい私たちのことを知り尽くしてい方です。そうなると私たちは神に対して何も隠し事はできなくなります。審判の日に神の意思に反してしまったことを一つ一つ指摘されてしまったら、取り繕うことも申し開きも一切できません。絶体絶命です。それにしても神に対して申し開きしなくて済むような完璧で潔癖な人間なんて存在するのでしょうか?

 実に神は、私たちが申し開きしなくてすむようにひとり子のイエス様を贈って下さったのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで罪を赦された者として生きることが始まりました。ところが、神の意思に反することが自分の内にあることにいつも気づかされてしまいます。その時は、聖霊がいつも私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、大丈夫、あの方のおかげであなたは罰を免れている、あなたの生きることはあの方の尊い犠牲の上に成り立っているのだと思い出させて下さいます。その時、私たちは畏れ多い気持ちと感謝に満たされて、これからは軽々しく立ち振る舞わないようにしようと襟を正します。審判の日に神は、このように罪の赦しの恵みに留まって生きたことがキリスト信仰者の真実であると認めて下さるのです。確かに神の意思に反するものを持ってしまったことがある、しかし、その度に罪を罪として認めて赦しを願い祈り、赦しがあることを確認してもらった。これこそ罪に与しない、罪に敵対する生き方であった。こっちの方が罪を持ってしまったことよりもキリスト信仰者の真実なのです。神はこれを認めて下さるので、キリスト信仰者は申し開きする必要はないのです。ここからもわかるように罪の赦しの恵みというのは人間にとって生命線なのです。

  1. 勧めと励まし

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神のもとには「神の国」に迎え入れられる者の名前が記された「命の書」と、全ての人間の全てについて記された書物があります。罪の赦しの恵みに留まって生きる者は審判の日に神に申し開きする必要がありません。罪の赦しの恵みには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって入れます。罪の赦しの恵みに留まって生きられるために、聖書の御言葉と聖餐式が与えられているのです。これらをよく用いない手はありません。

 神の国が現われる日、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わられる、想像を絶する天変地異の時であり、神の審判が行われる時です。神の恵みに留まって生きたキリスト信仰者は想像を絶する苦難や困難を全てクリアーできるのです。それなのでキリスト信仰者が持っている安心感と言ったら相当なものです。そんな安心感を持てれば、この世で苦難や困難に遭遇しても、本当は平気なはずです。なぜならこの世の終わりの苦難や困難に比べたらこの世の苦難や困難は小さいものだからです。それでキリスト信仰者というのは、本当は大胆不敵で肝が据わっている種族なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

手芸クラブの報告

shugei

6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨に入ってもずっと蒸し暑い晴の天候が続いていましたが、この日の朝は久しぶりに朝が降りました。

今回の作品は前回に続いてかぎ針編みでスマホケースでしたが、ラリエットやコースターも作りました。バンド織りを希望する方はそれも出来ました。初めにモデルを見て自分の作りたい作品を選びます。お家で素敵なスマホケースを完成された方が作品を見せてくれました。みんな感心して同じように出来たらいいなと思いました。皆さんの編み物はおしゃべりをしながらどんどん進みます。バンド織りの方も一生懸命織って、Nauhaはあっという間に長くなりました。

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かぎ針編みやバンド織りに夢中になると目が疲れます。そこで一休みして他の方々が作られる作品を見てみました。「可愛い!」「きれいな色合いね」、「模様が素敵!」などなどいろいろな声が聞こえてきます。かぎ針編みやバンド織りはおしゃべりをしながら楽しく続けていくうちにどんどん出来てきます。秋はどんなものを作りましょうかというお話にもなりました。皆さんの心はもう秋の手芸クラブの作品に移っています。

shugei

今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランド的なドーナツを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、キリスト教系の老人ホームで行われている「心の時間」や「天の神さまはいつも私たちの側にいて下さる」というお話がありました。

夏の間は手芸クラブはお休みになります。再開は9月24日の予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せます。どうぞ是非ご覧ください。天の神さまが皆さんの夏の生活をお守り下さいますように。

手芸クラブの話2025年6月25日

私の家の近くにキリスト教系の老人ホームがあります。そこで毎月「心の時間」という小礼拝が行われています。博明はそこで年に数回聖書のお話を担当しています。私もいつも一緒に参加します。入居者さんたちが一階のロビーに集まって礼拝の時を一緒に持ちます。小礼拝が終わってから入居者さんの方々と少しお話をすることが出来ます。一人の方は毎回参加されて紙で作った色とりどりのきれいな花を牧師に渡してくださいます。私も何度もその花を頂いただきました。花を作るには指先の器用さが必要なので、リハビリとしてもとても良い活動だと思います。

先日行われた「心の時間」に参加した時もこのお祖母さんは礼拝にいらっしゃって花を下さいました。そしてご自分のことを少し話してくださいました。「私は以前山形県に住んでそこでお茶の先生をしていました。山形県では有名なお茶の先生だったので、どこに行っても皆が私のことを知っていました。でも東京に引っ越してきたら誰も私のことを知りません。ここでは一人ぼっちの普通の人です。」とおっしゃいました。お祖母さんの話し声に少し孤独感を感じました。

特に「誰も私のことを知らない」という言葉は私の心に深く残りました。私にも似たような経験があります。学生時代に勉強のために実家から400キロくらい離れた町に引っ越したことを今でもよく覚えています。そこには親戚や友達は誰もいなかったので、とても寂しい思いをしました。皆さんもこのような経験をされたことがありますか。引っ越した時の寂しさや孤独感は自然なことだと思います。

ところで孤独感というのは周りに親戚や人達がいても感じることがあります。例えば、その人たちと関係があまり良くないとそうなります。このような孤独感についてメディアなどを通して耳にすることもあると思います。孤独感に陥らならないように私たちの生活の中で人間関係を築くことはとても大切だと思います。良い友達関係は生きる力にも繋がります。

私は孤独感を感じた時に天の神さまのことをいつも思い出しました。友達は近くにいなくても、神さまは私と共にその場におられると信じています。それを知っているだけで大きな力になります。その経験を通して天の神さまの関係を築き、それを保つことの大切さが分かりました。

神さまとはどのようにして関係を築くことが出来るでしょうか。それは聖書を読んだり、聖書のお話を聞いたり、神さまにお祈りすることを通してです。そうすることで神さまは本当に私たち

のことを全てよくご存じで、いつも私たちと共にいて下さることが分かって信じることができるようになるのです。使徒パウロも次のように教えています。「実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章27節

神さまは遠くに離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、ときには神さまのみ心の反することもするでしょう。しかし、それでも神さまは私たしたちを見捨てることなく、私たちが神さまの元に立ち返るならば神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さいます。なぜなら、神さまは私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられます。

天の神さまの御前では私たち一人一人は等しく大切な存在です。社会的な地位や名声に関係なく全ての人は神さまの御前で平等なのです。それで天の神さまの救いのご計画は全ての人々に向けられています。新約聖書の「テトスへの手紙」には次のように書かれています。「実に、全ての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」テストへの手紙2章11節。

私たちは少し寂しい時があっても天の神さまがそばにいて下さることをいつも覚えて行きましょう。