スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回は4月23日(水)10時―13時の開催です。

キーホルダー

バンド織キーホルダーを作ります。

次回の手芸クラブはバンド織のキーホルダーを作ります。 フィンランドの民族衣装に使われるバンド織りで、北欧のウールを使った可愛いキーホルダーをご一緒に作りましょう。

織る道具はお貸しします。

手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

参加費 1000円

キーホルダーお子さん連れの参加も大歓迎。

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み
moc.l1746129235iamg@1746129235arumi1746129235hsoy.1746129235iviap1746129235

03-6233-7109

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

 

 

牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月31日の日課から

キリスト信仰の国家論の基礎!

「私の国はこの世に由来するものではない。」(ヨハネ18章36節)

「自分の十字架を喜んで背負う者は誰か?それは、この王と彼の国の性質を正しく知る者である。その者は、主も同じように十字架を背負われたのだと知っている。そればかりではない。その者は、この世で苦難を受けなければならなくとも、目的地に到達すれば喜びと幸いがあることが励ましと慰めになっている。

これとは逆に、こうしたことを知らない者たちは、思い通りにならないと、取り乱し、しまいには絶望の淵に落ちてしまう。彼らは、もし神が本当に憐れみ深い方ならば、こんなに多くの不運が起こるのを許すはずはない、または起こっても直ぐ助け出して下さる方のはずだ、と考えているのだ。このような考えは、キリストの国はこの世に由来するものではないと信じていないことの表れに他ならない。この世の王(現代なら権力者)は臣民(現代なら国民)の命と財産を守るだろう。しかし、栄光の王であるキリストは、身体、命、財産その他全てのものが危険に晒されることを否定しない。

ゆえに、君はこの世にいる限り、自分は満たされて何一つ不足のない者になるためにキリスト信仰を用いてはならない。君の真の王に何が起こったかを見よ。受難の道を歩み、嘲りの的となり、不名誉な死を遂げたではないか?だから、キリストの国に属している者も、彼が金銀その他のものを与え、この世の王(権力者)のように富をもたらしてくれるなどと期待してはならない。肝心なことは、彼は罪を赦し、永遠の死から救い出して下さる方であるということだ。さらに、彼の御声に聞き従う者に聖霊と永遠の命を与えて下さる方ということだ。」

キリスト信仰者は、この世にある国と天の御国の二つの国を持って生きています。この世にある国は現実の目に見える国ですが、天の御国は現実にはあるものの、まだ目に見えません。しかし、ヘブライ12章で言われるように、今の世が終わりを告げる時、世にある国は全て揺り動かされて取り除かれてしまいますが、天の御国が唯一揺り動かされず取り除かれないものとして現れます。その時、キリスト信仰者の国は一つになります。キリスト信仰者にとってこの世の国の中で生きることには大きな意味があります。そこは、信仰者が神の意思に沿う生き方と罪の赦しの恵みに生きることを実践する場だからです。また、いろんな課題や挑戦を得られて、神の助けと導きを受けられるコンテクストでもあるからです。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

4月の料理クラブは12日(土)13時から開催します。

メレンゲ・タルト
今年もイースターの季節がやってきました。今回はこの季節フィンランドで作られるレモン風味のメレンゲ・タルトを作ります。このタルトは三つの層から出来ていて、下からタルト、真ん中はレモンのキーセリ、そして上はメレンゲです。レモンのキーセリはタルトをジューシーなものにし、トッピングのメレンゲはレモン味と重なることで爽やな味わいになります。ふんわりしたメレンゲとジューシーなレモン・キーセリが一緒になることでタルトは口の中で美味しくとろけます。レモン風味のメレンゲ・タルトを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

メレンゲ・タルト参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1746129235iamg@1746129235arumi1746129235hsoy.1746129235iviap1746129235 まで。

 

 

 

 

牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月22日の日課から

「私は神に対して罪を犯しました。」(サムエル記下12章13節)

「間違ったことをしていると知りながらそうする人たちがいる。しかも、それを何とも思わないばかりか、それを認めない神の真実というものに対して敵意を剝き出しにさえする。そのような人たちは意図的に罪を犯すのであり、悪の自覚を持って罪に留まろうとする。罪を捨てる考えなどなく、ましてや神に赦しを乞うことなど微塵にも思わない。

他方で、それとは違う仕方で罪を犯してしまう人たちがいる。ダビデの場合がそうだ。ウリヤの妻を奪おうとして彼を死なせるべく激戦地に送った時、ダビデはそれは神に対して罪を犯すことだとわかっていた。しかし、邪悪な欲望と悪魔が彼を焚きつけてしまい、罪に陥るまで引っ張って行ってしまったのだ。自分がしていることを考えてみる余裕も持てなくするような激しさで。しかし、ダビデは事後的ではあるが、罪を犯したことを神に告白したのだ。それは彼の心を突き刺したのであり、そのようなことはすべきではなかったと彼は悔い、神に赦しを乞うたのだ。

そのような罪は私たちキリスト信仰者一人一人の首回りに張り付いている。私たちは気がつかないうちにいとも簡単に罪の渦に巻き込まれ、ある時は悪魔と自分の肉が、またある時はペトロのように恐れが自分を席巻してしまって罪に陥らせてしまう。そればかりではない、警戒の怠り、愚かさ、理解の不足も私たちを席巻して罪に陥らせるものだ。もちろん、悪に対する鈍感さや驕りの心は言うまでもない。キリストが十字架に運び上げて取り除いて下さったのはこのような罪である。それは赦しのお恵みと矛盾しない罪だ。そのような罪を犯す者は、自分は間違ったことなどしていない、などとは言わない。その人は何も覆い隠すものがないと観念した裸同然であり、それゆえ、罪を犯したことを神に告白し赦しを乞うのだ。」

もちろん、最初のタイプの人も、心の突き刺さりが起こって神に罪を告白して赦しを乞えば、その罪は赦しの恵みに覆われ、最後の審判の時に追及されず、申し開きの必要もありません。ところで、自分は「真実」を掲げているのだと言って正当化する人は、真実は人を築き上げるものでなければならないということを十戒から知って、掲げている「真実」が真実に値するものか吟味しないといけません。

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手芸クラブの報告

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3月の手芸クラブは26日、桜が咲き始めた時に開催しました。今週の暖かさで桜はすぐにでも満開になるでしょう。 これから楽しみです。

今回の作品は手芸クラブの人気ものの一つ、バンド織りのキーホルダーです。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸から好きな色のものを選ぶのは楽しいスタートです。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。

それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので、皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。今回はハートの模様をバンド織りで作るNauha の準備もしました。来月出来上がったものを互いに見せ合うのは楽しみです。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!

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今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、今年のフィンランドの手芸のテーマが「つぎあてと中古の服を直す」というものだったので、それについてとイエス様のたとえ話の教え「良いサマリア人」についてお話がありました。

次回の手芸クラブは4月23日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブ2025年3月のお話

毎年フィンランドではその年の手芸のテーマが決められます。今年はつぎあてと中古の服を直すことが全国のテーマに選ばれました。このテーマは2021年にも選ばれていて今年は二回目です。どうしてそんなテーマが選ばれるのか、驚く人もいるかもしれません。つぎあてと中古の服を直すというのは、新しいものを作るテクニックと関係ないからです。しかし、少し考えてみたらこれは今の私たちにとても良いテーマだと思います。私の子供のころ服や靴下に穴が出来たら母はつぎあてをして直したものですが、いつの間にかにつぎあての靴下は見かけなくなりました。生活が豊かになったので人々はどんどん新しい服を買うようになりました。使い捨て文化の時代になったのです。もし服につぎあてをしたりすると恥ずかしいかもしれません。私も子供の頃はそうでした。つぎあてをした服は着たくありませんでした。

しかし今はエスディージーズ(SDGs)、日本語で「持続可能な開発目標」がよく言われるようになって考え方が少し変わってきたのです。服につぎあてをしたり他の方法で直したりすると、服の寿命が延びます。服の寿命が延びると使用回数が多くなるだけでなく服の価値も上がります。生活も少しシンプルになります。実はつぎあては手芸の観点では創造的で、色んな手芸のテクニックを使って直すことが出来るのです。特別な道具の必要もありません。毛糸や針があれば靴下を直すことができます。しかしそれには時間と忍耐が必要です。今の忙しい時代の私たちに時間と忍耐があるでしょうか?私たちは何のために時間と忍耐が必要になるか時々立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。例えば、隣人を助ける時間が私たちにあるでしょうか。

ここでイエス様が教えられた「よいサマリア人」についてお話をしたいと思います。ある偉い学者がイエス様に「私の隣人とはだれのことですか」と聞きました。イエス様は次のたとえ話を話されました。あるユダヤ人の旅人が、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしていました。すると、突然強盗が飛び出してきて旅人の持っているものを服まで取って、その人に乱暴をして半殺しにしたまま逃げてしまいました。

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しばらくするとエルサレムの神殿の祭司がそこを通りかかりました。祭司は道端に横たわる怪我人を見ましたが、道の反対側を通って行ってしまいました。次に神殿で仕える人も同じ場所を通って来ましたが、怪我人を見ると、祭司と同じように道の反対側を通って行ってしまいました。

しばらくすると、旅をしていたサマリア人がロバに乗ってやってきました。当時ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していたので、彼らの関係は良くありませんでした。しかし、このサマリア人は、道端に倒れている人を見るとユダヤ人とわかっても、その人の傷に油とぶどう酒を注いで消毒し、christiancliparts.net包帯をして自分のロバに乗せて宿屋に連れて行ってそこで介抱しました。

翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を二枚渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。もしお金が足りなかったら、私が旅から戻ってここを通った時に払います」と。

イエス様は、この話を終えた後で、質問した人に聞きました。「さあ、この祭司、仕え人、サマリア人のうち、誰が旅人の隣人になったと思うか?」学者は、「その旅人を助けてあげた人です」と答えました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。

イエス様が話されたこの「良いサマリ人」の例えは私たちにも向けられているのです。私たちはサマリア人のように敵味方を区別しないで人を隣人として、その人のために時間や力を使うことが出来るでしょうか。隣人を助けるためにどこまで忍耐があるでしょうか。そして私たちの隣人とはだれでしょうか。

聖書は無条件の愛について教えています。神さまの愛は無条件の愛でとても深い愛です。イエス様はそれを聖書のみ言葉を通して私たちに教えて下さいます。この「良いサマリア人」の例えはその一つです。イエス様が無条件の愛について教えたのは言葉だけでなく他の人たちに対する態度を通してでも教えました。イエス様はご自分の働きを通して、例えば多くの病気の人々を癒やすことで隣人愛を示されました。しかしイエス様はこれよりもっと深い無条件の愛を私たちに示してくださいました。それはイエス様の十字架の出来事です。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人たち一人一人の救い主になりました。これより深い隣人愛、無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々にjuujika対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはそれを受け取ることが出来るでしょうか。それはイエス様が私たちの救い主でおられることを信じることで受け取ることが出来るのです。この愛をないなどと言って否定することは出来ません。イエス様の愛を受け取ると、イエス様はいつもどんな時でも共にいて下さいます。嬉しい時も悲しい時も共にいて下さるのです。イエス様は私たち一人一人がご自分の元に来るようにと待っておられるのです。

私たちが隣人を助けたりする時の力と忍耐は限られてしまうかもしれません。だから、私たちは十字架を背負ったイエス様の私たちに対する力と忍耐を思い出しましょう。人間が持てない力と忍耐をイエス様はお持ちで、そんなイエス様を私たちは信仰を通して持つことができるのです。

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

3月の料理クラブは15日の今にも雨が降りそうな土曜日の開催となりました。 今回はツナ&ベジタブル・ピーラッカを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカ生地を作って冷蔵庫に入れて冷やします。次に中身の準備。みんなで玉ねぎ、パプリカを一生懸命刻みます。色とりどりの野菜をフライパンに入れて炒めると野菜の美味しそうな香りが広がります。皆さん、どんなピーラッカになるか楽しみ。炒めた野菜を冷ましている間にトッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜると出来上がります。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に油を切ったツナと炒め野菜を載せます。

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その上にトッピングを流し込んで最後にチーズをかけてオーブンに入れます。

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ピーラッカが焼けている間、皆で楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がり、皆さん興味深そうに順番にオーブンの中を覗いていました。

ツナ&ベジタブル・ピーラッカが焼き上がりました!皆さん席に着いて出来たてアツアツのピーラッカを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち、テーブルのあちこちから「美味しい!」と言う声があがりました。「こんな材料でこんなに美味しいピーラッカができるなんて」という驚きの声も聞こえました。ピーラッカを頂いた後で、フィンランドてよく食べられる魚と聖書のイエス様の弟子になった漁師についてのお話を聴きました。

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今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は4月の12日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブのお話2025年3月15日

pai今日皆さんと一緒に作ったツナ&ベジタブル・ピーラッカは簡単に作れるピーラッカの一つです。このようなものはフィンランドではパーティーやお祝いの時、夜の軽食としても出されます。ツナはマイルドな味わいでフィンランドではパイ、ピザ、サラダなどに使われます。保存食なので、使い方は簡単です。フィンランドでは魚の種類はそんなに多くないので、ツナをよく料理に使います。

フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか。日本ではお店で売っている魚の種類は多いですが、フィンランドの普通のお店で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。

昔はいわしをよく食べました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを多めに買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べました。silakkamarkkinat近年トゥルクやヘルシンキでは秋になると、いわしの市が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。

近年は湖や川で捕れる白身の魚もよく食べられるようになりました。海の魚ではいわしの他にはニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。高価なサーモンの料理は昔は、クリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでしたが、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。

さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。

ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っていました。そこでイエス様は漁師の一人のペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと捕れないと思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。

petorowww.christiancliparts.net 2006-07-28 by MMBOX PRODUCTION

ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。

このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできます。み言葉からはイエス様の呼ぶ声が聞こえてきます。それは全世界の全ての人々に向けられます。それを聞いたらどうしたらよいでしょうか。私たちは神さまの前では正しい人間ではなく心の中に悪い考えもあります。それでイエス様を従う前にもっと良い人間になってから従おうと考える人が多いと思います。しかし、このお話の漁師たちはどうだったでしょうか。彼らは仕事している途中でイエス様の呼ぶ声を聞いてすぐイエス様に従うようになりました。ペテロはイエス様と出会う時に自分の弱さ罪深さを分かりましたが、同時にイエス様は神のみ子でいらっしゃるから大丈夫と信頼しました。それでペテロはイエス様と共に歩むようになりました。

イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様は神さまの子でいらっしゃって私たちの救い主と信じると、イエス様はいつも共に歩んでくださるのは確かなことです。

スオミ教会チャーチカフェ 2025/4/5(土)11:00~16:00

チャーチカフェ

 

ティモとマリリーサの歌と演奏を是非お聴きください。

チャーチカフェでお会いしましょう!あと、お二人は、スオミ教会の3月30日の礼拝にも出席され、ティモさんが説教奉仕をされます。あわせて是非いらして下さい。

2025年度の年間主題と年間聖句について

3月2日(日)主日礼拝後に2024年度の年次総会が開かれ、活動報告の総括、会計報告を行い、新年度の予算と活動計画や年間主題と聖句などの議案を採択しました。 以下、牧師報告の主要部分(実名は伏せました)と年間主題と聖句に関する議案を紹介します。どうぞご覧ください。

牧師報告(抜粋)

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである。」 
マルコ4章20節

あるキリスト教団の神学校の校長先生が述べたこと、「以前は何もしなくても教会には人が集まって来たが、今は何をやっても集まって来ない」。これは、伝統的なキリスト教会ではどこも同じ思いではないかと思います。スオミ教会だけの問題ではありません。

昔は、倫理とか正義とか生きる意味について悩み考える人にとって聖書は真っ先に手にする書物の一つだったのではないかと思います。今の時代は、キリスト教以外にも宗教的なもの哲学的なもの心理学的なものが沢山出回り、キリスト教は数あるものの一つに過ぎなくなって以前より目立たなくなったのではないかと思います。かつて問題意識を持った人たちが教会の門を叩いたのとは違い、今は悩みの解決、苦痛からの解放が関心事になったのではないかと思います。そうなれば「罪」について話すことは悩みや苦痛を軽減するどころか増やすことになると警戒されタブーになります。心理セラピーが跋扈し、キリスト教会も心理学やセラピーの手法を取り入れるようになるのは当然です。

かつて日本人にとって憧れと尊敬の的だった欧米世界もキリスト教離れが進み、逆にその反動でかけ離れた主張をするキリスト教派も出てきたりして、それもキリスト教に魅力を感じさせなくなっている一因になっているのではないかと思います。

伝統的なキリスト教会の多くで高齢化が進み、後が続かない状況にあるのは、かつて真っ先に聖書を手にした人たちが高齢者となり、その後の世代の人たちはキリスト教がかつての輝きを持たない時代に育ったということではないかと思います。(以下 省略)

2025年度の主題と主題聖句について

新年度の聖句と主題を決める際に以下のルターの聖句の説き明かしを元にしました。聖句はローマ15章4節「忍耐と聖書の慰め励ましを通して私たちには希望があります。」

「この聖句でパウロは二つのこと、すなわち忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たち

に負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。『私はあなたと共にいて、あなたを守る。』

キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。

もし聖書が、私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでないとできないのだ。」

以上のルターの説き明かしに基づいて本年度の主題は「罪の赦しの恵みに生きる者にとって逆境は聖書から慰めと励ましを得るチャンス」としました。

聖句のローマ15章4節ですが、新共同訳だと「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。ルターの説き明かしは、忍耐は忍耐、慰めの方は聖書由来という理解に基づいています。これは、ギリシャ語原文がそうだからです(ルター訳ドイツ語聖書の1920年版を参照)。「忍耐」も「慰め」も両方とも聖書由来という書き方は新共同訳だけでなくフィンランド語訳も英語訳(NIV)もそうでした。スウェーデン語訳はギリシャ語原文とルター訳を踏襲して補足もしてありわかりやすいので選びました。

主題聖句 ローマ15章4節

「私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。」(スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)

以上

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

パイ

3月の料理クラブは15日(土)13時から開催します。

今回の料理クラブではパーティーの人気メニューの一つツナ&ベジタブル・ピーラッカを作ります。パイ生地の上に缶詰めのツナ、炒め野菜、チーズをのせてオーブンで焼くと美味しいピーラッカができ上がります。チーズの組み合わせでツナも滑らかな味わいになります。このパイとサラダのコンビで立派な食事になります。

是非ご一緒に作って味わってみませんか!

参加費は一人1,500円です。パイ

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1746129235iamg@1746129235arumi1746129235hsoy.1746129235iviap1746129235 まで。