お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
今回はフィンランド風三角パンを作ります。 小麦の粒を全部使って製粉した栄養価の高い全粒粉で焼き上げるフィンランドの食卓パンです。三角の形に切っていただきます。生地の中に細切れのバジルを混ぜ、生地の上に白ゴマをかけるとパンの風味が不思議と一層深まります。
パンのおともにポテトサラダも作ります。今回はマヨネーズを使わず、ヴィネガーとサラダ油で作るさっぱりした自家製ドレッシングです。トッピングにディルの葉をタップリかけると美味しいポテトサラダになります。フィンランドではポテト料理にディルをよく使います。
フィンランド風三角パンとディル風味ポテトサラダを是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1774659726iamg@1774659726arumi1774659726hsoy.1774659726iviap1774659726 まで。
電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 www.suomikyoukai.org
マルコによる福音書 10:46~52 2024・10月27日(日)スオミ教会
説経題「盲人の癒し」
今日の聖書はマルコ福音書10章46~52節です。ここでは目の見えないバルティマイという男をイエス様が見えるように癒された奇跡の出来事です。46節を見ますと〔一行はエリコの町に着いた、イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒にエリコを出て行こうとされた時、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。〕目の見えないバルティマイという男は恐らく生まれつき目が見えない中で20年か~30年間、全く何も見えない手探りの暗闇の世界で何も出来ないから道端に座って物乞いをして生きてきたのでしょう。私たちは、ただ読むだけで想像しますが、彼の真っ暗な世界をとても、とても想像を絶する危難の一日、一日を過ごしてきたことでしょう。私たちは、それぞれの人生の歩みの中で、やはり色々な病気をします。ある日突然苦しい目に会います、或いは予想だにしなかった痛い目に会って時としてこの突然の自分ではどうにもならない難しい問題に直面します。まだ、何とかなるのではないだろうかと思いめぐらすくらいなら距離をおいて病院へ行かねばと思ったり、薬で暫く様子を見ようとしたり、まだ「神様助けてください」と叫ぶまでに大分距離があります。しかしどうでしょう、エリコの町で物乞いをしなければ生きて行けないバルティマイという男はこの世に生まれた時から真っ暗な世界です。信仰深い人たちは病気も神様からの賜物、神様から与えられた試練である、と思うかもしれません。その病気がある程度したら入院をしたり薬で治まったとしてもある程度の距離をおいて、そのうち平常の人間らしい生き方へ戻るでしょう。しかしバルティマイは全く違う、どうにもならない暗闇です。何のために生まれて来たのか、どんなに親を恨んだでしょう。これからどうなって行くのか全くわからない。そういう彼に今イエス様の一行が近づいて通り過ぎようとしている!バルティマイはそこに居合わせました。彼は来る日も、来る日も道端に座って物乞いをしている。その傍らを病気をたちどころに癒す奇跡の業を起こされる、というナザレのイエスが通りかかろうとされている。彼は叫びだしました、「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください。」この瞬間の以前に以後、エリコの道端には他にも盲人の人が座っていたかもしれません。しかし、バルティマイが偶々座っていた、その時主イエス様が傍らを通り過ぎようとされている。この時しかない。一生をかけてイエス様に出会う時はこの時とばかりに叫びだすのです。彼は千載一遇のチャンスを逃しませんでした。彼の癒しの奇跡の最初のポイントは主イエス様との出会いであります。彼はこの出会いを逃さなかったのです。多くの人が何故私には小さな奇跡でも起こらないのだろう。「祈っても、祈っても願いどおりにイエス様はみ業を起こしてくださらない」と嘆きます。案外イエス様はその人の傍らを通り過ぎておられるにもかかわらず自分自身の事に拘りすぎて主の方に向こうとしないまま主イエス様との千載一遇のチャンスをむざむざ失っているのかも知れません。私たちは生まれながらの目が見えないバルティマイより、あまりにも恵まれていないでしょうか、目に見えているのに一番関心のイエス様、そのものがどれだけ見えているでしょうか。バルティマイは全く見えないにもかかわらず今イエス様と出会って一番大事なものを見ようとしている。彼は死にもの狂いで叫び続けるのです。「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください!」それは率直な叫びでした。何の損得もない、ただ一心に憐れみを乞う叫びだけです。「ダビデの子」と呼んだからにはイエス様こそ私の救い主という思いがあったことでしょう。そして神様は憐れみに富み給うお方であると信じ、暗黒の中にいるにもかかわらず、その憐れみを信じ乞うたのです。旧約聖書 イザヤ書50章10節には「お前たちのうちには、主を畏れ主の僕に聞き従う者がいるであろうか。闇の中を歩く時も、光のない時も主のみ名を信頼し、その神を支えとする者がいるであろうか」とあります。彼は自分の悲惨な現実から神様の愛を推し量ることはせず、この暗闇から自分を解放してくださる神様の憐れみの深さを信頼したのです。神様の愛を信じ願った彼の信仰は的を得たものでした。けれども多くの周りの者たちは彼の叫びを不快に思い彼を叱り黙らせようとしました。バルティマイは怯まず叫び続けます。この時をおいてチャンスはない、誰が何と言おうと今この方にこそ救いを求める他はない。なりふり構わず叫び続けました。私たちは顧みて彼ほどの必死になって本当に主を求めているでしょうか。生命の危機にあれば求めることでしょう。バルティマイはついに主イエスを立ち止まらせる事に成功しました。主イエス様は「あの男を呼んできなさい」とお命じになったのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」「安心しなさい」という言葉は「勇気を出して」とも訳せます。今まで道端に座り込んで物乞いしなければ生きて行かれなかった者が勇気を出して立ち上がったのです。主の呼びかけに従って答えたのです。もはやためらう事はありません。ほかならぬ主イエス様が呼んでおられるのです。バルティマイは上着を脱ぎ捨て踊りあがって主のもとに行きました。今、私の声は主に届いた。もう暗闇は私を支配することはない!その彼に向かってイエス様は「何をして欲しいのか」と尋ねられます。何をして欲しいのかですって?イエス様が彼の願いを知らないはずがありません。しかし,あえて主イエス様は問われるのです。それは彼自らがその願いを言葉に出して言う必要があるからです。そしてその願いが的を得たものであるか、外れたものであるか、吟味される必要があるからです。そうしてイエス様は言われました。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救われた」。すると彼はすぐさま見えるようになった。そしてイエスに従ったのであります。彼が癒されたのは病院の医者でもない学者でもない占い師でもない、ダビデの子メシア救い主が癒して下さる。そのお方に止められようとも黙らされようとも、どんなことをしても必死で近づこうとするバルティマイの信仰にこそ主は目をとめられたのです。彼にとって神様はどんな方として信じられていたのでしょう。「愛」のお方なのです。必ずこの私を憐れんで下さるにちがいない。生まれながらの暗闇に苦しむこの難問は主のみ心ではない、むしろ主なる神は光を給い、人を生かされる愛のお方なのです。この信仰が彼を勇気づけ叫び続けさせ彼を救いへと導いたのです。「神は愛なり」との信仰がどんな暗闇にも希望の光を差し込む癒しの方なのです。どうにもしょうがないんだよ、と言う人間が作り出す勝手な常識を打ち破ったところに奇跡の業が起きているのです。神様は御子を十字架にかけてまで私たち一人一人を愛してくださったのです。私たち人間の常識を超えて神様は私たちに愛を注いで下さり病にも悩みにも癒しの愛を注いで下さって、私たちを苦しみから救いたいと願っておられるのであります。バルティマイは溢れる光の中を喜びと感謝に溢れて生きたことでしょう。この奇跡の出来事はエリコの町で起こされました。エリコの町は荒野の中のオアシスとして緑あふれる恵みの町であります。バルティマイに起こった全てを象徴するエリコであります。 <人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン>
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
秋の最初のフィンランド家庭料理クラブを10月19日に開催しました。10月後半のこの日も夏のように暑い日となりました。今回はフィンランドの家庭でもよく作られるベリーのケーキです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。今回ケーキに入れるベリーは冷凍のベリーミックスを使いました。初めにベリーを少し細かく刻んでまた冷凍に入れておきます。次にケーキのトッピングの生地を作って冷やします。それからケーキの生地の準備。材料を計って卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てます。白く泡立ったら他の材料を加えて生地を作り、それをパイ皿に流し込みます。刻んだ冷凍ベリーを生地の上全体にかけていきます。「色とりどりできれい!」との声が聞こえてきます。最後にトッピング用の生地をベリーの上にのせてオーブンに入れて焼きます。
ケーキが焼けている間に一休み。楽しそうな会話が教会中に広がる時になりました。もちろん美味しそうなケーキの香りも。
ケーキは焼き上がってからしばらく冷まします。その間にテーブルのセッティング。みんなで席に着き、出来たてのベリーのケーキにバニラアイスを添えて、コーヒー・紅茶と一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。この時フィンランドのベリーと聖書が教える神さまの恵みについてのお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月9日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日皆さんと一緒に作ったベリーのケーキはフィンランドの家庭でもよく作られるケーキの一つです。フィンランドでは夏や秋に新鮮なベリーを森で採ったり、朝市で買ったりしてベリーのケーキを作るのは家族みんなの楽しみです。フィンランドの森ではブルーベリー、リンゴンベリー、グランベリー、クラウドベリーなどのベリーはだれでも自由に採ることが出来ます。それで多くのフィンランド人はベリーを沢山採って冷凍したり、ジャムを作ったりしてベリーのケーキやデザートは冬でも作って味わうことが出来ます。
最近フィンランドではスーパーフードという言葉をよく耳にします。スーパーフードとは何でしょうか?これはビタミンやミネラルや繊維質などの栄養が特別に豊かな食料品を意味します。スーパーマーケットにはスーパーフードのコーナーもあります。特にフィンランドのベリーはビタミン、ミネラル、繊維、フラボノイドなどが沢山含まれているので、ベリーはフィンランドのスーパーフードと言われます。べリーは2デシリットルを食べると、一日分のビタミンCとミネラルをとることが出来ます。もちろんベリーが含んでいるビタミンとミネラルはベリーの種類によって変わります。例えば海岸に生えるシーバックソーンというベリーはビタミンCがとても豊富です。ブルーベリーはビタミンCをあまり多く含みませんが、目に良い影響があると言われていています。最近ベリーの栄養や健康への良い影響が注目されているので、フィンランド人はベリーを沢山食べるようになりました。
フィンランド人はベリーを採る国民と言われます。フィンランドの東にある町ではベリーを採る世界選手権も行われるようになりました。この行事は少し遊びの競争ですが、フィンランドの全国や海外からも選手が参加します。ある男性の選手は一時間で70リットルもとる人で、もう何回も優勝しました。
ベリーを採るのはかつては中年の女性の趣味でしたが、現在は若者もベリーの栄養性の価値を分かって採るようになりました。ベリーを採る習慣は世代から世代へ伝わっていきますので、これからもフィンランド人はベリーを採る国民と言われるでしょう。
フィンランドで食べられるベリーの種類は多くて37種類もあります。森で一番多く採れるベリーはブルーベリーとリンゴンベリーです。今年の夏はベリーが育つのに良い気候だったので収穫は良かったです。今年は私たちは森に採りに行けなかったですが、イチゴ狩りに行ったり友達からブルーベリーを沢山もらったのでベリーのケーキを何回も作りました。
フィンランドの森は私有地の森でも、ベリーを自由にとることが出来ます。それでフィンランドではベリーを沢山採るのは、だれにとっても当たり前のように感じられます。しかし、少し考えてみると、これは奇跡のようにも感じられます。私たちは自分で種を蒔いたり水や肥料をあげなくても、こんなに美味しくて、しかも健康に良い食べ物が沢山得ることが出来るからです。ブルーベリーの実も他の自然の豊かな実りもみな、天と地と自然全てを造られた神様が私たちに与えてくださる恵みです。天の神さまの恵みはこのように造られた自然を通して具体的な形をとって私たちに与えられます。今年は神さまはベリーが育つために十分な雨や陽の光を与えて下さったので、美味しいベリーが沢山できたのです。私たちはこのように神さまの私たちに対する恵みを周りに見ることが出来るのです。
天の神さまは恵みの素晴らしさを自然だけでなく聖書を通しても私たちに教えて下さいます。旧約聖書の詩編には「主は憐み深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。」詩編103篇8節。神さまの恵みは自然の中で現れて私たちに美味しくて栄養豊かなベリーを与えて下さいます。私たちは神さまの恵みの素晴らしさをもっと知ることが出来るでしょうか?聖書はこのことを教えます。神さまの恵みは私たち一人一人に向けられています。
私たち人間は神さまの御前で正しい者とは言えず、神さまの御前で相応しいことだけをする者でもありません。しかし神さまはこのような私たちを慈愛に満ちた父親のように愛して下さいます。慈愛に満ちた父親は、子どもが言うことを聞かなくても、後で後悔して「ごめんなさい」と言うと赦してくれます。天の神さまは私たちも同じように赦して下さるので私たちは神さまの目に相応しい者にしていただきます。これは神さまがイエス様を通して与えて下さった救いです。このように神さまの素晴らしい救いの恵みはイエス様に現れているのです。私たちはイエス様を信じると救いの恵みを頂けるのです。
今日はケーキのベリーから神さまが与えて下さる自然の恵みを味わって体の栄養にしました。聖書のみ言葉の恵みは心で受け取ると魂の栄養になることも忘れないようにしましょう。
前回に続いてフィンガーレス手袋(フィンランド語でカンメッカートKämmekkäät)を編みます。今回初めての方も編み方をお教えしますので大丈夫です!
今から始めても冬の準備には遅すぎません。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1000円
材料 毛糸 60g、編み棒(毛糸に合わせる)
好みの色の毛糸と編み棒をご持参ください。
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1774659726iamg@1774659726arumi1774659726hsoy.1774659726iviap1774659726 ℡ 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106 www.suomikyoukai.org
なぜ日本では牧師は「先生」なのか?
昔、フィンランド留学中に現地のキリスト教会(ルター派)で聖書の学びと洗礼を受けて日本に帰国する時、教会関係者から東京にあるルーテルO教会を紹介してもらった。 帰国後、早速電話すると事務の方が応対。「牧師のKさんをお願いします。」相手は少し間をおいて「牧師のK先生ですね。少しお待ち下さい。」 思わず、エーッ、日本では牧師は「先生」と呼ばないといけないのか!フィンランドでは牧師と信徒はファーストネームで呼び捨て。その東京の教会にはSLEYの牧師も宣教師として働いていて、彼とフィンランド語で話す時は、「おい、ペッカ」、「なんだ、ヒロアキ」だが、周りの人も一緒に日本語で話すと、「あの、フフティネン先生」、「なんですか、吉村さん」と全く別人格の世界を行ったり来たりするようであった。
牧師を「先生」と呼ぶのは、聖書を教えるからか?日本の神学校では牧師養成の課程を「教職」課程と呼ぶところもある。しかし、それだけではなさそうだ。14年前、SLEYの宣教師として日本に来た時、日本の協力教団(当時)のお偉方と初の顔合わせの会合の席、私の仕事の内容の打合せが始まり、最初の議題はなんと私を「先生」と呼んでいいのかどうか(当時はまだ牧師の按手を受けていなかった)。だめだ!だめだ!牧師でもない者を先生呼ばわりするのは認められない、と剣幕の人もいれば、「でもフィンランドの大学の神学部で博士号を取ったと言っているから、聖書くらい教えられるでしょ。」「でも、牧師でなければダメ!」と結局コンセンサスは得られず、その教団の中では暫く先生という人もいれば、さんづけの人もいた(次第に先生に統一されていったが)。
牧師を「先生」と呼ぶ理由として聖書を教えること以外に何があるか考えてみた。洗礼や聖餐式の聖礼典を執行するという牧師の職責、また結婚式や葬式のような宗教的な儀式も。しかし、住職や神主は「先生」と呼ばれるだろうか?それから、教会を一つにまとめ、信徒一人ひとりの信仰を御言葉と聖礼典を通して支えると共に、見舞ったり話を聞いたりお祈りしたりして支える牧会者としての役割。しかし、教会の頭はあくまでキリスト。その前には牧会者も信徒同様、一弟子にしかすぎない。
先日チャーチカフェで、私のことを昔から知っているT氏が私のことを吉村牧師と言ったり、昔ながらに吉村さんと言ったりした。彼は上記O教会の信徒。自分の教会の牧師は先生と呼んでいると思うが、昔から知っている吉村さんを吉村先生に変更すると、今まで同列にいたのが上下の序列になってしまうようで何か変、今まで通りがいい、でも牧師であることははっきりさせたい、ということなのだろうか。私はそれで良いと思った。フィンランドで例えば同じ人が「Aさん、牧師が呼んでいるよ」と言う時もあれば、「Aさん、ペッカが呼んでいるよ」と言う時もある。それに似ているのではないかとも思った。
この夏フィンランドで支援教会訪問を行った時、ある教会で礼拝の説教と聖餐式を担当しました。 説教は20分と少しの長さで、讃美歌は全部の節を歌い、聖餐式は20名(田舎の教会なので少なめ)、それで1時間15分で終わりました。スオミでは説教は今まで30分以上でしたが、これを20分位にしても1時間半位かかります。どうしてだろう?先週の役員会で長い話し合いになりました。
そこで一つ分かったのは、フィンランドの(ルター派の)礼拝は流れるような感じがあるということでした。スオミでは、合間合間に「次は~です」と言いますが、それがなく、会衆は皆、いつ立つか、いつ歌うか、朗読があるか、わかっている。初めて来た人も静かに全体の流れにあわせればよく、何度か通ううちに慣れていきます。讃美歌の個所も、金属製の数字の掲示板がどの教会にもあり(会堂の壁のあちこちに)、それを見ればいいので司式者はあえて言いません。自然に伴奏が始まり、皆で歌い始めます。聖餐式も、設定辞以外は司式者と会衆が交互に歌いながら進む感じです。設定辞のところで音楽の流れが一時止まって静まり、会衆は設定辞に全身全霊を集中させるかのようです。
そういうふうに礼拝を一つの音楽の流れのようにしていくことを考えています。説教の長さですが、20分はあくまで目安で、聖句と説き明かしがどうしても要求するものであれば、長くなることもあることをご了承ください。関西のルーテル教会で展開しているフィンランドの宣教師(SLEYとは別団体)たちは40~50分位の説教をすると聞いたことがあります。彼らは、よもやま話や高尚な世間話は一切しない、聖書一筋の人たちなので御言葉に渇く会衆にとっては大いなる恵みです。(私など一度40分位の説教したら、長すぎると怒られたことがあります。関西はいいなぁ、などと思ってしまいました。)
追記 SLEYの前海外伝道局長のフフティネン先生が、地元ヘルシンキの教会から上記の讃美歌掲示板を譲り受けて、それをスオミにプレゼントすることを考えています。ただとても大きいので金属ノコギリ等で小さくできるか思案中とのこと。
フィンランドでは夏と秋はベリーの季節です。イチゴの他に、ブルーベリー、リンゴンベリー、ラズベリー、クラウドベリーなど森で自由に採れるベリーが沢山あります。森で採ったり、朝市で売っている新鮮なベリーを使って色とりどりのデザートやお菓子を作るのはフィンランドではとても普通です。次回の料理クラブでは家庭でもよく作られるベリーのケーキを作ります。このケーキはベリーそのものの味が美味しさを引き立てるだけでなく、焼きあがった生地の表面はサクサクするので香ばしさも一緒です。このフィンランドの典型的なお菓子の一つ、ベリーのケーキを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
電話03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
僕らは二つの国の国民なのさ」
フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターのペッカ・シモヨキの曲の中に「僕らは二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。新約聖書フィリピ3章20節「我らの国籍は天に在り」とか「私たちの本国は天にあります」とか訳されている聖句に由来する歌です。キリスト信仰者とは、この世の国に属しながらも、天にある本国を目指してこの世を歩む者であるという心意気を歌い上げています。ご機嫌な感じのポップス・フォークソング・ゴスペルソングです。フィンランドの堅信礼のキャンプでも必ず歌われる若者向け聖歌の一つ、クリスチャンならみんな知っています。
何年か前にルーテル市ヶ谷教会で開催された一日教会祭にスオミ教会として参加した時に、急きょ日本語に訳して皆で歌いました。まだ不完全な訳ですが、一応歌える形にははなっています(単数形を複数形にしたのは誤訳ではなく、訳者の”神学的工夫”です!)。是非YouTubeで聞きながら試してみて下さい。(ペッカ自身が歌っています。同名の歌で歌詞メロディーが全く異なるものがあることにご注意!)
1.あしもとの このくにも
はてしない てんごくも
いつだって ぼくらとともさ
このくにも たいせつな
ともだちさ いつかは
わかれつげ しゅイェスのみてつかむ
(以下を二回繰り返す)
地にあしつけていきよう
その目は天国みすえ
わかるさ、どこにゆくか
こくせき天にあるのさ
2.さわやかな かぜかおり
みみあらう しおさい
まいおちる しろゆきもみた
かけあしで ときはすぎ
くらやみが ちかづく
おそれるな ふっかつはゆめじゃない
3.かたいつち ほりおこし
あらそいに まくのさ
ふくいんの へいわのたねを
すきをおく ときがきて
しゅうかくの ひまぢか
おかえりと まことのいえにつく
この秋の最初の手芸クラブは9月25日に開催しました。今まで暑い日がずっと続いていましたが、やっと少し涼しくなってホッとした朝でした。
今回の手芸は編み物です。冬に備えてフィンガーレスの手袋を編みます。参加者の皆さんは好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めにフィンガーレスの出来上がり例を見て自分の作りたいものを選びます。今回編み物は初めてだったので、編み物のいろいろな基本を練習してから始めました。フィンガーレス手袋を編む時、初めは作り目を四本の編み棒に作ります。それから四本の編み棒を付け編むと丸いものになります。始めは手首のところを表編みと裏編みを交互に編みます。十段になってから毛糸の色を変えます。編み物は完成まで時間がかかるので、今回は手首のところでストップしました。参加者の皆さんは編み物にとても集中したので、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。次回はフィンガーレス手袋の続きを編みます。
テーブルのセッティングをして皆で席に座ると肩も目もリラックスできました。フィンランドの今の季節にピッタリなフィンランド風アップルケーキをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。そこでいつものように聖書のお話を聞きます。今回の話は、フィンランドで贈り物として頂いた素敵な靴下に教会の模様があることや、教会とはイエス様が船長でおられる船であるという内容でした。
次回の手芸クラブは10月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
暑い日々が終わって涼しくなりました。今フィンガーレス手袋を編むのは早いと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、涼しい秋はもうすぐです。今フィンランドではもう涼しい秋になって朝の空気は冷たく感じます。この季節に多くの人たちは自転車で学校や仕事に通いますが、少し寒いので、手袋やフィンガーレスが必要です。今フィンランドではフィンガーレスを編み始めるのは少し遅いですが、日本では今は寒い季節に備えて良いタイミングだと思います。もちろん編む速さによりますが、編み物は完成までしばらくかかります。今日始めたフィンガーレス手袋は寒くなるまで完成すると思います。そのように頑張りましょう。
フィンランドでは編み物は夏の手芸でもあります。女性たちは寒い冬の準備のために暖かい靴下や手袋を編みます。今年の夏私たちは一時帰国して私たちの日本での働きを支える教会を訪問しました。一つ訪問した教会はフィンランドの真ん中辺にあるレイスヤルヴィという町でした。そこでの集会の終わりに私たちはこのような暖かい素敵な靴下をもらいました。模様もとても多いです。靴下のデザイナーはその集会にも参加されたレイスヤルヴィ教会の会員でした。そこで女性は模様の意味を説明してくれました。靴下の真ん中の二つの模様は特別です。一つはレイスヤルヴィの教会、もう一つはレイスヤルヴィの町の紋章を表しています。デザイナーはどうしてこの模様を選んだのでしょうか。これらはレイスヤルヴィの道しるべだからです。このデザイナーにとってレイスヤルヴィと教会は大切だからこの模様にしたのです。靴下にあるハートの模様はそれを象徴します。もし皆さんがデザイナーでしたらどんな模様にするでしょうか。
私は初めて教会の模様がある靴下をもらってとても嬉しかったです。フィンランドでは教会は地域のシンボルです。フィンランドの国民の60パーセント以上はフィンランドの国教会のメンバーで、教会に深い帰属意識を持っています。教会は人々の人生の中で重要な役割を果たします。フィンランドでは赤ちゃんが生まれたら多くの赤ちゃんは幼児洗礼を教会で受けます。洗礼を通して赤ちゃんは教会のメンバーになります。子どもは15歳になると、教会で堅信礼の儀式を受けます。多くの親戚も参加します。これは若者にとって大事な節目です。教会では後、結婚式や葬式も行いますので、人生において教会は多くのことに関わっています。教会は儀式を行う場だけではありません。教会は毎週礼拝を行いそこで聖書を通して神さまのみ言葉を述べ伝えます。神さまはみ言葉を通してご自分自身のことを私たちに教えて神さまの元に導いて下さいます。み言葉を通して私たちは神さまの意思が分かるようになります。
フィンランドの南西部にある教会は会堂に大きな帆船の模型が吊るして飾ってあります。船はどんな意味でしょうか。教会とは海で揺れる船のことを意味します。教会という船には乗客も乗って船長はイエス様です。聖書の中にはイエス様と弟子たちがガリラヤ湖を船で渡った時の有名な話があります。イエス様が弟子たちと船に乗ってしばらくしてから嵐が起きて船は沈みそうになりました。弟子たちは怖くなりましたが、イエス様は船の中で寝ていました。弟子たちはイエス様に「先生、私たちがおばれてもかまわないのですか。」と言って起こしました。Nheyob, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons イエス様はどうしたでしょうか。イエス様は起きて、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、湖は静かになりました。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
船は天候の良い日に海で真っ直ぐ進んで行きますが、嵐の日も来ます。その時進みは難しく行くべき方向も分からなくなります。私たち人間も海の上に浮かぶ船に乗っているようなものです。私たちの人生の中にはいろんな時、生活は問題なく穏やかな時ですが、嵐みたいな試練がある時もあります。私たちは弟子たちと同じようにパニック状態になるかもしれません。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」イエス様は弟子たちと同じ船におられ風を静めたので、弟子たちは安心しました。イエス様は私たちと一緒にいて下さると、私たちも安心できます。このようにイエス様が共にいて下さると、試練が来ても、それは軽くなるのです。
イエス様は共にいることを私たちにも約束しています。私たちはイエス様を受け入れてイエス様は天の神さまの独り子であると信じることが出来ると、イエス様はどんな時があっても私たちと共にいて下さいます。新約聖書ヨハネ黙示録には次の言葉があります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってそのものと共に食事をし、彼も、また私と共に食事をするであろう。」ヨハネの黙示録3章20節。
レイスヤルヴィで頂いた素敵な靴下は足を温めてくれますが、イエス様を信じることを通してイエス様と繋がりがあるから靴下は心も温めてくれます。
フィンランドの「道の教会」
日本の地方の一般道を車で走ると「道の駅」に出くわします。農産物をはじめ地域の食材や特産品の売店があったり、喫茶店や食堂もあったり、場所によっては温泉にも入れます。 高速道路のサービスエリアと違って、まさに地道に地方を旅している雰囲気を味わえ、立ち寄ってみたくなる施設です。
夏のフィンランドの地方を車で走ると「道の教会」に出くわします。フィンランド語でTiekirkkoと言い、スウェーデン語系住民が多い地方ではVägkyrka、夏の期間、道路庁の公認の道路標識としてあちこちに立てられます。「道の教会」とは、旅行や仕事で移動中の人が、標識のある教会に立ち寄って自由に見学してもよし、座って心を落ち着かせる時を持つのもよし、というフィンランド国教会の夏のオープンドア・イベントです。時間帯によってはオルガン等の演奏を聴かせる教会もあります。すべて無料です。
夏の前にホームページにその年の「道の教会」が告知されます。今年は260程の教会が指定されました。フィンランドは町の郊外に出ると、小さいながら牧歌的で可愛らしい教会が無数にあります。南西部には中世の時代に建てられた石造りの教会が多く、それ以外の地域では1700~1800年代に建てられた木造りの教会が沢山あります。
それらの教会を訪れると、大抵は人はまばらか、誰もいない時もあります。売店もカフェも何にもありません。サウナもです。とにかく静かのひと言につきます。石造りの教会はやや暗くひんやりし、木造りの教会は明るく暖かい感じがします。中に入ると自然に聖卓へと足が進みます。周りの壁の装飾や絵画、石造りの教会なら壁画そして天井など上下左右を見回しながらゆっくり進みます。聖卓の前で立ち止まり、正面の十字架あるいは宗教画を見上げた後、回れ右をして戻ります。途中、少し長椅子に座ってみようかという気分になります。座っていると時間が停まったような感覚になり、都会の喧騒や心の中の騒がしさが静けさに呑み込まれてしまったことに気づきます。さて出発しようかと立ち上がろうとするのですが、慌てる必要はない、もっと座っててもいいのでは、という声が心の中でするかのようです。教会は赤ちゃんの洗礼から10代の若者の堅信礼、結婚式、葬式まで人の一生と共にあります。人の一生を包み込む神の祝福に触れることができたからでしょう。