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説教「バプテスマのヨハネの出現」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書1章1~8節

12月に入りました、いよいよクリスマスが近づいてまいりました。イエス様のご誕生を祝う前に、必ずと言って良い程バプテスマのヨハネが現れた、ことが語られます。 今日の聖書はマルコによる、福音書1章1~8節です。これまで何回となく、この箇所を見て来ましたが、たいていは、先ず1節については読むだけでマルコ福音書全体の表題がつけられたような気持ちで通り過ぎます。

そして、今日の箇所の本題は、2節から4節に行きます。そこには、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるため、『悔い改め』の洗礼」を延べ伝えた」。 そのヨハネは旧約聖書の時代から、すでに、預言者イザヤによって、預言された人物であった。と2節から3節で記しているわけです。聖書学者、ウイリアム・バークレーによりますとマルコはイエスの物語を遠くさかのぼって始めている、と言っています。イエスの地上への誕生で始まっていない。バプテスマのヨハネの荒れ野出現で始まってもいない。それは預言者たちの夢をもって始められた。と言っているのです。

つまり、ずうっと昔に神の心の中で始まった、と言うのです。神の秩序の中にある計画があった。歴史は、最初に最後を見ておられる神によって導かれていくものである。聖書の福音書の最初の出だしの一行がどんなに大切な意味をもって、始められているかとても重要な点です。それでマルコ福音書のは、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」。と記されています。マタイ福音書の1章1節には「アダムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」ではじまっています。イエス・キリストの誕生の出来事については18節から記されています。マルコ福音書はクリスマスの出来事について何もふれていないのです。

マルコによる福音書、とありますから、これはイエス様についての伝記ではない「マルコが伝えた福音」ということです。福音書は確かに伝記のような形で書いてありますが、 ただ歴史的興味から読むべきではなく、教会の信仰によって、貫かれた福音書を読むべきでしょう。著者のマルコは、ペテロの通訳であったらしいのです。ですから、ペテロから聞いた話も多くあるのでしょう。そして初代教会で伝えられていることをまとめて、編集したでしょう。大体紀元65年頃書かれた、と言われます。四つの福音書の中で一番古い福音書であります。

マルコは主イエス様がなさった事、語られた教えを福音書の中で語りながら、だひたすら福音を語るつもりで書いているのです。こうして冒頭の言葉は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」であります。これは神の子について書いたものである、ということです。 この福音書を読んで主イエス様のなさったこと、教えられた言葉を知って信じることで「福音」を得ることができる。福音は神のによって救われるということ。そうするこのお方はただの人ではない、ことがわかります。それは神がこの地上に来られた、ということであります。神の子が地上に来られた、ということは、はあまりにも異常なことであり、不思議な神秘に満ちたことです。

マルコはイエス様のご生涯のことを書いたのでしょうが彼は、はじめから「神が来た」と言っているのです。そのことが福音である、というのです。神は何のために、この世に来たのでしょうか、それは神が造られた世界を神が取り戻すためであります。神が造られた世界は人間の罪のゆえに神から離れてしまいました。だから、もう一度、神のものにしようというのです。そのためには、どんなことが必要でしょうか。問題は人間の罪をどう解決しようとするかです。罪を解決するには、その罪に対して罰したら解決するでしょうか。 罪を厳しく加えていっても罪がなくならない。罪の解決は罪を赦すほかないのです。

神の子が来て、この世で働かれたのもそのためでありました。神の子が働く、というのは 具体的にはどいうことでしょうか。それが、イエス・キリストの生き方そのものであります。マルコが「神の子イエス・キリスト」と言ったのは、神がこの世にあって働く、ということはイエス・キリストにおいて見ることができるというこなのです。イエス・キリストを見るというのは、イエス・キリストというお方をキリスト、救い主として信じることであります。マルコは主イエスというお方のことを、人間の伝記のように語りまがら、ここに神が救い主として働いておられる、ことを示そう、としたのです。

人間イエスの事を書いているように見えながら、実は救い主キリストのことを信仰をもって書いているのであります。「神の子、イエス・キリストの福音が始まった」そして、いよいよ、マルコ福音書には次に洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた、ことを記しています。その冒頭に、預言者イザヤの預言をもってきました。「見よ、わたしは、あなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と宣言しています。こうして預言者の預言のとおり、神より遣わされたヨハネのいでたちと生活がどんなものであったか、6節以下、8節までに記しています。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていなご、と野密を食べていた。

どうして、このような生活をしていたのでしょうか。ユダヤ人の普通の生活では想像できない、野蛮的な姿です。今回私は、ここで新たな発見をしました。今まではここを読むだけで、とにかくヨハネはよほどの変わり者で荒れ野に現れたのだから、らくだの毛衣に腰に皮の帯であったのだろうと想像するくらいでした。ところが旧約聖書、列王記下1章8節に「預言者エリヤはらくだの毛衣を着て皮の帯を腰にしめていた。」とあります。そうすると。ヨハネは預言者エリヤと同じ格好で登場したということです。もう一つ注目したいのは、「荒れ野に現れた」ということです。イザヤ書40章3節の言葉が引用されているのです。第二イザヤと言われる人がイスラエルの歴史の中で最も悲劇的な時代であった、バビロンの捕囚の時に記している預言です。

ここでは、荒れ野というのはバビロンの地のことです。バビロンに捕らわれの身であるイスラエルの民は故郷イスラエルのことを思い、望郷の念にかられた、いつか帰国を切望しながら、故国への遥かな道のりを思い、そこに横たわる荒野を見るのです。その荒れ野で声が聞こえた。それと同じように洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野に立てこもって叫んだのです。荒れ野には人が住んでいません。又住もうとも思わない、そういうところです。とにかく水がないのです。ですから草木も花も何もない、岩と石ころの荒れはてた地です。しかし、出エジプトをしたイスラエルの民を40年間荒れ野の旅をするのです。 そこには徹底した神の導きと助けによって歩むことができた旅でありました。預言者エリヤは自分の弱さを知り、嘆き途方にくれた時、荒れ野に導かれて、神の声を新しく聞きなおしました。荒れ野とは神と共にあるところです。神のみ声を聞くところです。そうして神の導きがあります。

バプテスマのヨハネは、そのような荒れ野に立ち、そしてやがて「悔い改めよ」と叫び、 ヨルダン川で洗礼を授けます。ユダヤ全土からぞくぞくとこのヨハネのもとに来たのです。 身分の差別なく、ユダヤ人も異邦人も貧しい人々も誰もが来たのです。洗礼を誰もが受ける、ことができる。罪の赦しは、皆が受けなければならないのです。罪の赦しがなければ、誰も生きられないからです。誰もが罪の許しを得るために、悔い改めなければならないからです。悔い改めなしに生き得る義人はいないのです。人は自分で悔い改めができる程 、するどい、良心というものを求められるわけではありません。悔い改める、ということは向きを変える。生き方の方向を変えられることです。自分中心の、わがまま、から自分の思っていることが一番と思い込んでいる自分をすてることです。神様の導きを受け入れる、神様に向きを変えられて、祈っていく生活です。神の、みもとに帰るのです。

そこにヨハネの、バプテスマの意味がありました。そうして、ヨハネは言われました「わたしよりも優れた方が後から来られる」と。優れた方とは、「より力がある方」という意味です。この方は「聖霊によって、バプテスマを授ける方」です。ヨハネは言いました「わたしは、この方の靴のひもを解く値打ちもない。」靴のひもを解く務めを与えられた、奴隷にも値しないのです。というのです。主イエスという方が、いかに高い存在の方か。神なのですから比べようがありません。そのイエス様が、ここに来て下さる、聖霊による業を始めて下さるのです。

私たちは、教会の礼拝で、まもなくクリスマスを迎えます。救い主、イエス様が降誕された喜びを迎えるため、み言葉によって、清められその心を備えていきましょう。アーメン

説教「ホサナ - 人知をはるかに超える神の計画」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書11章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日等の大きな節目をひとつひとつ迎えていく一年が幕を開けました。スオミ教会と教会に繋がる皆様が父なるみ神の恵みと憐れみのうちにとどまり、皆様一人一人の日々の歩みの上に神からの豊かな祝福と良い導きがありますように。

(c) 2006-09-25 by MMBOX PRODUCTION

 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。ここで少しノスタルジーになってしますが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会での待降節第一主日の礼拝はどのようなものか少しお話しして、それから本題に入っていこうと思います。

 両国の待降節第一主日の礼拝の流れは毎年同じで、福音書の日課は、本日と同じマルコ11章1~11節、またはマタイ21章1~11節ないしはルカ19章28~40節です。福音書の朗読が群衆の歓呼のところまでくると、そこでいったん止まってパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に讃美歌第一番「ホーシアンナ、ダビデの子よ」を歌います。そのようにして、聖句の群衆の歓呼の部分をみんなで歌うことで置き換えます。普段は人気の少ない教会もこの日はなぜか人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。礼拝のみんなが歌う場面は、テレビのニュースにも毎年必ずと言っていいほどでるくらいです。ただ、フィンランドもスウェーデンも、国民の教会離れ、聖書離れは近年強まる傾向にあり、こうした国民的なキリスト教の伝統は果たしていつまで続くでしょうか?

 ところで、先ほど言及しましたフィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書にあるホサナという言葉ではなくて、ホーシアンナ/ホシアンナという言葉を使います。両国のルター派の聖書の本日の箇所も、ホサナではなく、ホーシアンナ/ホシアンナになっています。何が違うのでしょうか?このホサナとかホーシアンナ/ホシアンナというのは、もともとは詩編118篇25節の中にある言葉から来たものです。それは、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。原語のヘブライ語に忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」となりますが、この「どうか救って下さい」というのが、ヘブライ語でホーシィーアーンナーהושיעה נא と言います。本日の箇所の群衆の歓呼の内容は、まさにこの詩編118篇25~26節からの引用に基づいています。そのため、日本語訳聖書のようなホサナと言わずに、ホーシアンナ/ホシアンナと言った方が、引用元の詩編の聖句に忠実ということになります。では、どうして日本語の聖書ではホーシアンナ/ホシアンナと言わずに、ホサナと言うのでしょうか?

ホサナというのは、実はヘブライ語のホーシィーアーンナーהושיעה נא をアラム語に訳したホーシャーナーהישע־נא のことです。イエス様の時代、現在のパレスチナの地域では、ヘブライ語は旧約聖書を初めとするユダヤ教社会の書物の言葉としては使われていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。ユダヤ教の会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。さて、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後、それらの出来事の目撃者となった弟子たちが生き証人になって、イエス様は真に天地創造の神のひとり子であり、人間の救い主であると宣べ伝え始めました。最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録が宣べ伝えの媒体で、その言葉はアラム語でした。やがて宣べ伝えがローマ帝国の東側に広がりだすと、そこはギリシャ語が公用語の世界でしたので、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。

しかしながら、伝承と記録全てがギリシャ語に直されたわけではありません。本日の箇所の群衆の歓呼は、ギリシャ語の文ではホーサンナωσανναになっていて、これはアラム語のホーシャーナーの言葉を訳さずに、そのまま音声をギリシャ文字で言い表したものです。ホーシアンナ/ホシアンナを使っているフィンランド語とスウェーデン語の聖書は、群衆が声に出したアラム語の言葉ホーシャーナーを引用元の詩篇のヘブライ語の言葉ホーシィーアーンナーに戻したことになります(ドイツ語の訳[ルター1912年版]も同様)。してみると、ホサナを使っている日本語訳の聖書は、意外にも当時の群衆の肉声がそのまま伝わるようになっていると言えます。(英語訳の聖書[NIV]やドイツ語のEinheits‐übersetsungはホサンナとなっていて、これはギリシャ語の発音にならうものです。)

 以上述べましたたことは、私たちの信仰の成長という観点から見たら、瑣末なことではあります。しかし、知っていれば、いればで、聖書を読む時、当時その場面にいあわせた人々の生の声に接することができます。聖書に書いてある出来事が何か空想から生まれたおとぎ話という淡い夢を打ち破り、本当にあったのだという臨場感を与えます。新約聖書にはこのホサナの他にも、イエス様自身が述べた言葉や文がアラム語の音声のまま記されて、日本語訳ではカタカナで表記されている箇所がいくつかあります。さらにマグダラのマリアの叫び声やイエス様に目を開けてもらった盲目の人の嘆願、また使徒パウロが初期のキリスト教徒たちから聞いた唱え文句の中にもアラム語の音声のままになっているものがあります。それらのうち一つは日本語の単語に訳されてしまっていますが、あとはアラム語の音声がカタカナで表記されています。聖書をよく読まれている方は、あのことだなと、すぐ思いつくでしょう。それらについては、いつか機会があれば一つ一つ見ていきたいと思いますが、ここで大切なことは、最初の目撃者たちの伝承をギリシャ語に直した人たちは印象深い言葉をギリシャ語に置き換えず、もともとの言葉のままにしたということであります。私たちは、聖書を読む時、こうしたアラム語の音声に触れることで、イエス様をはじめ当時それらを口にした人々の肉声に触れることができるのです。

イエス、ロバ、エルサレム入城2.さて、前置きが長くなりました。本題に入りましょう。このホサナないしホーシアンナ/ホシアンナは、もともとは、天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉として使われるようになっていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?

 加えて、イエス様は弟子たちに子ロバを連れてくるように命じますが、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのであります。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのであります。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書の預言書の一つであるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9~10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ロバの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」

  ここで、「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような義なる者とされます)。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらずという預言はイザヤ書の11章1~10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、全てが神の守りの下に置かれている世界はもうこの世のものではありません。この世が終わった後に到来する新しい世です。その新しい世を導く「エッサイの根」とは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者であります。つまり、イエス様を指します。やがては今の世にかわって、このような神の神聖で善い意志に服する新しい世が到来する。その時に主導的な役割を果たすのがイエス・キリストということであります。今の世が新しい世にとってかわるという預言書に預言された大事業は、イエス様が担うことになりました。子ロバにのってエルサレムに入城するというのは、まさにその預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという大事業は、イエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

3.この大事業は、当時の人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の仕方で展開しました。というのは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が来て新しい国を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってユダヤ民族の王国を再興することを意味していたからです。人によっては、通常の地上の王国を考えていた者もいました。また、別の人たちは、今のこの世が終わりを告げて天と地が新しくされて死者の復活が起きる時(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1~3節)、出現する超越的な世界を考えていた者もありました。この世的な王国であれ、超越的な世界であれ、いずれにしても当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるという形の新しいダビデの王国を考えていました。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章に、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の王国が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ預言の一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、預言の全ての面が含まれていたのであります。それを、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。宗教指導層がもうこの男を生かしてはおけないと激しく憎悪を燃やした理由は三つありました。一つには、神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦したということがあります。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書14章21節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言と、イザヤ書56章7節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言の成就を意味していたのです。二つ目の理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことです。これには、ユダヤ教社会の指導層も、占領者ローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているところに帝国の軍事介入を招いてしまう危険がある、なんと余計なことをしてくれるのかと慌てふためいたのでした。三つ目の理由は、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる終末の日に到来する「人の子」であると公言していたことでした。「人の子」とは、終末の日に到来するメシア救世主を意味します。つまり、イエス様は自分を神に並ぶ者としていたのです。さらには、もっと直接的に自分を神の子と見なしていました。

こうしたことが原因となって、イエス様は逮捕され、死刑の判決を受けました。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言の一部分にしか着目しなかったことによる理解不足でした。まさにイエス様が十字架にかけられた後で、旧約の預言の全体が理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥って罪を犯して以来、人間は死する存在となって、ずっと閉ざされていました。それが、イエス様の復活によって再び開かれたのです。人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命を持つことが出来るようになったのです。こうして、人間を死に打ち勝てない存在に貶めていた原因である神への不従順と罪が、人間に対する支配力を失ったことが明らかになりました。どこでどうやって、罪と不従順は支配力を失ったのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の不従順と罪を全て請け負って人間のかわりに全ての罰を受けたことによります。人間は、イエス様のこの身代わりの犠牲に免じて、神から罪を赦されるのです。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるのです。こうして、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。人間は罪と不従順の支配下にある奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。こうして、旧約聖書の預言の意味も次々に明らかになりました。イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことだったとわかったのです。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3~6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをなしたのは
この人であった。」(11~12節) 

 実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、全ての人間に救いをもたらすものとなったのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この「罪の赦しの救い」の成就が目的だったのです。今のこの世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことになりました。神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現した後は、今度は出来るだけ多くの人がこの救いを持てるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていかなければならなくなりました。その宣べ伝えはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出していきました。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進んできました。これからも同じように進んでいくでしょう。しかし、それでも最終的には、「ヘブライ人への手紙」12章26~29節に預言されているように、この世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が起こり、今見えるものは全て揺り動かされて取り除かれて、唯一揺り動かさない神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まります。

イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は、この神の国の構成員になる者がもはやユダヤ民族という特定の民族ではなく、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取った人たちであるということを明らかにしました。さらに、諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言も、もはや地理上のエルサレムを意味せず、黙示録21章で天上のエルサレムと呼ばれる神の国そのものを意味することが明らかになりました。このように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことで、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族の王国復興の願いをはるかに超えた、全人類の救いにかかわるものだったことが明らかになります。これこそが、天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた神の意図だったのです。このことを明らかにしたのが、イエス様でした。最初は、人々に教えることを通して、そして最後は、自分の命をうち捨てて神の計画を実現することで、神の意図を明らかにしたのです。

4.以上から、神の意図と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様が子ロバにまたがってエルサレムに入城したことの意味が明らかになりました。この大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約理解をはるかに超える形で展開していきました。まさに、イエス様の十字架と復活の出来事は、旧約聖書を全体的に理解できるきっかけになったのです。

十字架と復活の後に続く時代、つまり私たちが今生きている時代は、いずれはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわられます。先ほども申しましたように、この間の時代は、人間が「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていく時代であります。この救いは全ての人間のために実現されたものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが神の意志です。それゆえ、いち早く「罪の赦しの救い」を受け取った私たちキリスト信仰者は、今度は、まだ受け取っていない隣人の心を、人間の造り主であり、かつ人間を罪の支配から贖い出して下さった神に向けさせるように心がけなければなりません。隣人に神とイエス様について教え伝える機会があれば、相応しい言葉を語ることが出来るように、神に祈りましょう。もし、適当な機会がなかなか得られなければ、機会を与えてくれるように祈りましょう。そして、その機会が来る日まで、またその後も、神がその方に働きかけられるよう、お祈りしていきましょう。それから、既に「罪の赦しの救い」を受け取ったキリスト信仰者同士でも、救いを手放してしまわないよう、それをしっかり持ち続けられるよう、お互いが支え合い助け合っていかなければなりません。ここでも、お祈りすることが重要な意味を持ちます。このように、神の御心に適った隣人愛を実践する際には、お祈りは大切です。このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年11月30日の聖書日課 マルコ11章1-11節、イザヤ63章15節-64章7節、第一コリント1章3-9節 


説教「最後の審判で神は何を裁くのか」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章31-46節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それは最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。

本日の福音書の箇所は、キリスト信仰者が社会的弱者や病気その他の苦しみにある人たちを助ける行動へと駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終わりの日に到来する人の子であると31節で言っているので、再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮した者、特に子供たちに主の面影を見て、支援や救援に乗り出して行くのであります。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、それとも永遠の火に投げ込まれるかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かということが中心になってしまう。つまり、人間の救いは善い業をしたことに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の考えと相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本は、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場を強く出します。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者をいろいろテストする特集記事があり、本日の箇所であるマタイ25章31~46節と信仰義認の関係をどう考えるかという質問が向けられました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でありたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派だけに限られません。善い業を行えば救われると言えば、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。J・イェレミアスという第二次大戦後ドイツの世界的に著名な新約学者などは、歴史上のイエスのこの箇所での意図は、まさにそこにあったと言っているほどです。そんなことを言ったら、仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っているので、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ14章6節におけるイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も、信仰による救いを教えていることがわかります。これから、そのことをみてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころとしてさまざまな支援活動に携わるキリスト教徒を憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動に新しい土台を据えるものであることがわかると思います。

 

2. 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、全ての諸国民を御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、実は、この最後の審判の場には、人々のグループは二つではなく、三つあります。40節で再臨の主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言いますが、これがその三つ目のグループであります。つまり、主の兄弟グループも同じ場にいるのです。日本語で「この最も小さい者」の「この」と言っているのは、ギリシャ語原文では実は複数形なので「これらの」という意味です。全文を原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。つまり、主は、羊と山羊の二グループに対し、「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのであります。

それでは、この主の兄弟グループは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような存在です。社会の基準からみて価値なしとみなされる存在です。従って、主の兄弟たちは子供には限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいと思います。

では、この主の兄弟グループは、もっと具体的に誰であるか特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規則を与え、迫害に遭遇しても神は決して見捨てはしないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41~42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」の「小さい」ミクロスμικροςは、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは誰のことかと言うと、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめるようにと、また自分がなさる業をしっかり見届けるようにと、選んだ直近の弟子たちであります。そして、イエス様の教えと業だけでなく、彼の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を命を賭してでも宣べ伝えるようにと選んだ弟子たちであります。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。マタイ10章では、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は、報いを受けられると言っていますが、本日の箇所でも同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をしてやり、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言うのであります。

 

3.以上から、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは、どうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者たりうると考えている人は、支援の対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではなく、書かれてあることに忠実な理解なのであります。それでは、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるでしょうか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申し上げましたが、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは別にキリスト教徒でなくても、仏教徒でも、イスラム教徒でも、人間中心主義的な無神論者でも、無宗教の人も、みなわかるし、実践しています。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。本説教は、そのことも明らかにしていくことになります。

 さて、使徒というのは、先ほども申しましたように、イエス様が、自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。実際に彼らは、イエス様の教えと業そして十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、この神の人間救済計画実現の福音を宣べ伝え始めました。こうして福音が宣べ伝えられていく時、人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろな仕方で支援してあげる人たちが出る。他方では、福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出る。ここで思い起こさなければならないことは、支援をした人たちは、支援することで、逆に使徒と同じ仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。その意味で、支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだから助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音を信じたから、彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのであります。つまり、支援した人たちは、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った者たちであります。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった者たちであります。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのであります。そういうわけで、本日の箇所は、善行義認なんかではなく、文字通り信仰義認を教えているのです。

 

4.以上から、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らに対する支援は彼らが携えてきた福音を受け入れることから生まれてきたことが明らかになりました。ここで大きな疑問がいくつか出て来ます。神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、使徒たちを支援するのが当然というくらいにまで福音を受け入れることと言うならば、使徒の後の時代の人たちはどうなるのか?12使徒の中でヨハネが一番長生きしたとして、どんなに長くとも西暦100年位とすると、それ以後の人たち、使徒と接触することもなく、支援しようにもできない人たちは、最後の審判ではどうなるのか?イエス様は、西暦100年以後の人たちは最後の審判は関係ないと思っていたのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。イエス様の教えの主眼は、使徒を受け入れて支援するか否かではなくて、使徒が携えてきた福音を受け入れて、その結果として使徒を支援するかどうかということなのです。中心的なことは、福音を受け入れたかどうかということです。福音を受け入れたかどうかということは、使徒の時代の後もずっと今の時代の私たちにもあてはまることですので、私たちも皆、最後の審判の該当者です。もちろん、本日の箇所には、使徒たちをいろいろな仕方で支援することが記されていますが、これは、もし仮に使徒たちが今生きていたら、私たちも同じように支援してあげる準備が出来ていなければならない、と理解すべきです。逆に言えば、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならないということです。

 ここで、使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて触れておきます。福音とは、一言で言えば、人間が失っていた大切なものを人間の造り主である神が取り戻して下さったという、素晴らしい知らせであります。人間が失っていた大切なものとは、自分の造り主である神との結びつきです。このもともとあった結びつきは、人間が神への不従順に陥り罪を犯したために失われてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。神との結びつきを失った人間は死ぬ存在となり、人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしよう、この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めて、それを実行するために、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは以下のことです。人間に浸みついている不従順と罪が神との結びつきを妨げているので、まずイエス様に人間の罪を全部背負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして全ての罪の罰を受けさせて死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしました。これがゴルガタの丘の十字架で起きた出来事です。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命の扉の門を人間に開かれました。

人間は、こうしたことが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして所有でき、その瞬間から罪の赦しが効力を発揮するのです。こうして人間は神との結びつきを回復でき、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、それからはずっと、順境の時にも逆境の時にも、絶えず神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御許に引き寄せて下さり、人間は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。以上が、使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音であります。

人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかった時、神に対する深い感謝から、神の意思に従って生きるのが当然という心を持つようになります。また、神から受けた恩寵の大きさから自分の利害のちっぽけさがわかるようになって、自分の持っているものに執着せず、それを他の人々のために役立てようという心を持つようになります。キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

ここで、神の意思に従って生きるという時の「神の意思」について。2週間前の説教でもお話ししましたが、神の意思とは、要約すると、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つに尽きます。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、この神が自分にどれだけのことをして下さったかがわかるようになった時です。隣人愛ですが、キリスト信仰にあっては、それは全身全霊を持ってする神への愛を土台にしています。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。神は、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取るようにと望んでいるので、キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを念頭に置かなければなりません。

 

5.使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの基準になる。このように言うと、次のような疑問が沸き起こります。それは、福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?態度決定する機会も与えられずに、お前は福音を受け入れなかったと言われて火に投げ込まれてしまうのはあんまりではないか、というものです。この疑問は、特に多くの日本のキリスト信仰者にとって微妙なものではないかと思われます。というのは、復活の日、キリスト信仰者の自分は信仰者でなかった肉親に再会できないのだろうかという不安が生じるからです。

近年ではキリスト教会の中でも、いろんな宗教があるというのはいろんな登山道を登って同じ頂上に到達するようなものだという考え方をする人が増えてきたように思われます。そんなご時世ですから、先ほどのイエス様の言葉、彼こそが天地創造の神のもとに到達する唯一の道、命、真理であるという言葉をそのまま信じると、お前は時代遅れの世間知らずだなどと言われてしまうでしょう。しかし、そう言われるのを承知の上で話を続けていきます。

福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章の預言を手掛かりにしてみます。そこでは、死者の復活と最後の審判が起きる時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちと述べられています(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13~15節)。それ以外の者たちとは、文字通り、信仰のゆえに命を落とした者たち以外の全部の人たちです。つまり、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守るような極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。そして信仰を持たなかった人たちもいます。信仰を持たなかったというのは、洗礼を受けたがそれが何の意味を持たなかった人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全てひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

ただ、ひょっとしたら、洗礼を受けたあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を唯一の救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実の詳細は神の記録に残されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。また、ひょっとしたら、洗礼を受けなかったあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。そういうわけで、福音が伝えられなかった人たちについてはなおさら、神に任せるしかないのであります。

キリスト信仰を持たずに死んだ人と復活の日に再会できるかどうかという問題について、このように全てを神に任せるというのは、大抵の場合、心に平安をもたらします。しかし、時としてそれでは物足りないというような不安も出てくるのではないかと思います。そのような時は、アブラハムが神に対して罪の町ソドムのために祈ったことを思い出すとよいでしょう(創世記18章)。神はソドムの町をその大きな罪のゆえに滅ぼすと宣言します。それに対してアブラハムは、もし町の中に50人神の意思に従う正しい人がいたら、彼らを罪びとと一緒に滅ぼしてしまうのですか、と聞く。それに対して神は、その50人のゆえに滅ぼさないと答える。それに対してアブラハムは、それでは正しい人が40人いたら、30人いたら、20人いたらと必死に値切っていき、最後は10人いたら町を滅ぼさないというところまで譲歩を引き出します。結果は、正しい人は10人いなかったので、町は焼き尽くされてしまいましたが、それでも、神はアブラハムの必死の祈りを聞いて恩赦の枠を広げたのです。

ここで注意しなければならないことがあります。それは、神がその祈りを聞いてあげたアブラハムという人物は、中途半端な信仰の持ち主ではなかったということです。使徒パウロが大きく指摘したように、アブラハムは信仰によって義とされた信仰義認の第一人者です(ローマ4章9節)。そのような人の祈りが神の恩赦の枠を広げる影響力があったのです。もしあなたが、キリスト信仰を持たずに亡くなった方との復活の日における再会を望み、その望みを神に打ち明けるのならば、あなたは、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰をしっかり持つ者として打ち明けなければなりません。中途半端な信仰の持ち主ではいけません。中途半端でない信仰とは、神を全身全霊で愛するのが当然であり、それに基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であるという心を持っていること、そして、洗礼と聖餐式が与える罪の赦しの恵みの中にしっかりとどまっていることです。そのよう者として神に望みを打ち明けるならば、使徒パウロの次の言葉は真にその通りになる筈です。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6~7節)

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように    アーメン


聖霊降臨後最終主日
2014年11月23日の聖書日課  マタイ25章31-46節、エゼキエル34章11-16、23-24節、第一テサロニケ5章1-11節


説教「主の再臨に備えて生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章1-13節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.  結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行ったところです。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとありますが、ひとつにつき80~120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480~720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。

 本日の福音書の箇所でも、結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に結婚を正式に申し込みに行きます。先方の両親と話し合ってOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで、先ほど申しましたような祝宴が盛大に催されるのであります。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。こうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

 本日の福音書の箇所でイエス様は、天の国つまり神の国とはどんなところかを教えるために、婚礼の行列に付き従う役目を負った10人のおとめたちに起きた出来事について話します。まず、大勢の人たちが参加する婚礼の大祝宴ですが、これは、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり持ってこの世から死んだ者たちがこの世の終わりの日に復活させられて、神の国に一堂に集められることを意味します。「ヘブライ人への手紙」12章27~28節や「ペトロの第二の手紙」3章10~13節をみると、この世の終わりの日に全ての被造物は揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが残ると預言されています。黙示録19章7~9節では、そのような神の国に集められるというのは、小羊の婚礼に招かれることであると述べられています。同じ黙示録の21章4節では、神の国の祝宴の席についた者は皆、神から涙を全て拭ってもらい、死や悲しみや苦難や痛みから解放された人たちであると述べられています。苦難や試練の多いこの世の人生の段階で信仰をしっかり持って生き抜いた者にとって、こうした神の国の祝宴の席につける以上のねぎらい、報いはないでしょう。先々週の主日の福音書の箇所だったマタイ22章の初めに、王が王子のために婚宴を催すというたとえがありました。そこで王は神、王子はみ子イエス・キリストを意味しました。本日のたとえでも、花婿はこの世の終わりの日に再臨するイエス様を指しています。

 以上から、10人のおとめのうち、ともし火に買い置きの油を用意した5人の賢いおとめは、この世の終わりの日、復活の日に神の国の入ることができた者たち、油を用意しなかった愚かな5人のおとめは神の国に入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、このたとえを通して、私たちも賢いおとめのように、いつ主の再臨が起こっても大丈夫なように備えていなさい、と教えているのだとわかります。

 このように「10人のおとめ」のたとえがわかったと思うや否や、大きな疑問にぶつかります。それは、たとえの結びの部分の13節でイエス様が、目を覚ましていなさい、なぜなら主がいつ再臨するかは誰にもわからないからだ、と言っているところです。つまり、眠ってはならない、目を覚ましていなければならない、というのが教えの主眼になっています。ところが、賢いおとめたちは、愚かなおとめたちと一緒に眠ってしまったではないか?教えの主眼からすると、賢いおとめたちも失敗例です。しかし、眠ってしまったとは言え、賢いおとめたちは、買い置きの油のおかげで神の国に入れました。それでは、この「目を覚ましていなさい」という命令はどんな意味があるのでしょうか?

2. 賢いおとめたちも、愚かなおとめたちと共に眠ってしまいましたが、彼女たちは、買い置きの油があったおかげで、花婿の突然の到来にも慌てずに、ともし火を持って祝宴に入ることができました。眠ったことは、なんらダメージにはならなかったのであります。この賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」と言われています。こうして見ると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ないで起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあるという象徴的な意味を持っているのだと分かります。

そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているなかで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうという意味ではなく、何かを象徴的に意味していると考えられます。どんな意味かと言うと、「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語の原文では、カテウドー(καθευδω <εκαθευδον)という動詞で、これは「眠る」という意味もありますが、「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。

さらに見ていくと、7節で「おとめたちは皆起きて」と言う時の「起きて」という言葉は、ギリシャ語の原文では、エゲイロー(εγειρω<ηγερθησαν)という動詞で、これも「起きる」という意味の他に、「死から復活する/復活させられる/蘇る/蘇らされる」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。マタイによる福音書25章

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して、死者の復活が起こる、この世の終わりの日の出来事について教えていることがわかります。その日、ある者たちは結婚の祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられない。ここで注意しなければならないのは、神の国の祝宴から排除されてしまった5人の愚かなおとめとは、イエス様を信じない者ではなったということです。彼らも、賢い5人のおとめ同様に、もともとは同じ祝宴に招かれていたのであり、婚礼の行列にともし火をもって付き従う同じ任務を受けていました。つまり、10人みんな神の国への招待を受けていたのです。そういうわけで、10人ともイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者を指します。ところが、神の国に入れたのは、賢い5人だけで愚かな5人はだめでした。マタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのでしょうか?それがわかれば、油を前もって買い置きして、ともし火の火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。そのことが、「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」の意味を明らかにするのです。

これから、こうしたことを解明していこうと思いますが、その前に、ルターが、この世から死ぬことは眠ることと同じであると教えていますので、まずそれを見ていきたいと思います。本日の箇所の謎、「用意が出来ている」とか、ともし火とか、油の買い置きとかの解明にとっても、大事な教えです。この教え(教会ポスティラIII、マタイ9章24節にあるイエス様の言葉「娘は死んではいない。寝ているだけだ」についてのルターの解き明し)は、去る8月31日のスオミ教会、武蔵野教会、市ヶ谷教会の三教会合同の聖書研究会でも紹介したので、その時参加された方はご存知なのですが、今一度ご紹介いたしましょう。

「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

 ここで明らかなことは、人間は死んだら、即天国に上げられない/昇らない、ということです。天国に行くか地獄に行くかは、将来起こる復活の日、最後の審判の日に決せられるのであり、その日が来るまでは、死んだ人たちは皆、神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけということです。このことは、死者の復活を信仰の要とするキリスト信仰からすれば、当たり前のことなのですが、なぜか日本ではキリスト信仰者でない人ならともかく、信仰者の間でも、人は死んだら即天国に行って、今そこから私たちを見下ろしているというふうに考える向きが多くあるように思えます。いずれにしても、ルターの教えから言えることは、死んだ者は安らかに眠るだけなので、移動もせず、飲み食いの必要もなく、私たちが語りかけたり、願い事をかけても別に聞いているわけでもなく、また私たちを見守ることもしない、ただ安らかに眠っているだけ、ということになります。亡くなった人が私たちを見守っていない、などと言うと、大方の日本人はギョッとして心細くなってしまうでしょう。しかし、キリスト信仰にあっては、復活の日までは亡くなった方たちは、神のみぞ知る場所にいて、ただ安らかに眠っているだけなので、私たちを見守ってくれる方、また私たちが語りかけたり願い事をかけたりする正しい相手は、これは天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた神をおいてはいないのです。だから、心細くなる必要は全くないのです。

このルターの教えの中で、もう一つ大事なことがあります。それは、死んだ人のこの安らかな眠りは、死んだ人の観点からすれば一瞬のことにしかすぎないということです。仮にこの世の終わりが西暦2500年に来るとします(預言しているのではありません!)。その場合、西暦1500年に死んだ人は、今この世にいる者の観点からすれば1000年眠ることになります。しかし、死んだ者本人にとっては一瞬の眠りにしかすぎず、ルターの言い方に従えば、死ぬ瞬間、瞬きをした瞬間に、もう目の前では復活の壮大なドラマが始まっているのであります。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、私など、全身麻酔の手術の経験があると、そういう時間の飛び越えはあまり不思議には感じられないのであります。先ほど、死んだ人が即天国に行くという考えは、復活の信仰から見て間違っていると申しましたが、時空の飛び越えをする死んだ本人の観点からすれば、間違いではないのであります。しかし、この世に残された私たちの観点からすると正しくないのであります。キリスト信仰者は、亡くなった方が今どこで何をしているかということについて、言い方を正確にする必要があるでしょう。

3.それでは、「10人のおとめ」のたとえの謎を解明していきましょう。「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」ということにまつわる事柄です。たとえの中で、「用意ができている」とは、油の買い置きをして、ともし火の火が消えてしまわないように、燃え続けるようにしたということでした。買い置きをした5人のおとめは祝宴に入れたが、しなかった5人は入れなかったというのは、死者からの復活が起きる日、ある信仰者は神の国に迎え入れられたが、別の信仰者は入れられなかったということです。まず、どうしてそのような違いがでてしまったのか、ということから始めていきましょう。

キリスト信仰の基本事項ですが、人は洗礼を受けると、イエス様の持つ神の義を純白な衣のように頭から着させられます(ガラテア3章27節)。もちろん、私たちはまだ肉をもって生きているので、私たちの内にはまだ神への不従順と罪が宿っています。しかし、そのために本来は私たちが受けるべき裁きをイエス様がゴルガタの丘の十字架で全部受け負って下さった、それゆえ私たちがイエス様を救い主であると信じる信仰を持つ限り、神は私たちに被せられているイエス様の純白な義の方に目を留めて下さる。このように私たちは、神によって神の義を与えられた者として、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなった。文字通りこの世の命を超える新しい命に結び付けられてこの世を生きることになったのであります。

 しかしながら、洗礼はハッピーエンドではありませんでした。それは完了では全くなく、むしろ私たちの内に新しい命が始まったということ、永遠の命に至る道を歩み始めたということ、洗礼とはそういう始まりの時なのであります。あわせて洗礼は、内的な戦い、信仰の戦いの始まりの時でもあります。私たちは、聖書の御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、それから遠い存在であること、不従順と罪に満ちた存在であることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか?また、隣人を自分を愛するが如く愛せよというのが神の意志なのに、そうしていないではないか?ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということになるのであります。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのであります。

 洗礼を受けて、神がイエス様を用いて実現した救いを所有する者となった筈のに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、私たちがまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点では、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。

それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっているではないか。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私はもっと知ろうとし、それに従って生きよう、いう心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。

しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時に、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。

 このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命と体を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります

さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いのプロセスが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書にある神の御言葉に踏みとどまること、聖礼典の恵みにしっかり結びついていることであります。御言葉への踏みとどまり、聖礼典との結びつき、これが買い置きの油ということになります。これがある限り、信仰の戦いのプロセスは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということなのであります。そうすることが、主の再臨に備えて生きるということであります。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背を向けてしまう時があるでしょう。罪と不従順を内に宿しているので、それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに恵みと憐れみの神に赦しを乞い、主イエス様の十字架のもとに立ち返ることです。恵みと憐れみの神は、そんな私たちを自分の子として迎えて下さり、私たちは御言葉にふみとどまり、聖礼典につながることを確認して、再び永遠の命への道を歩み出します。そうして、主の再臨の日まで霊的に目を覚ましていられるのです。

翻って、5人の愚かなおとめの場合はどうかと言うと、買い置きの油を用意しなかったというのは、これはもう洗礼を受けたらもう終わり、信仰の戦いに入っていかないのであります。そうなると、洗礼の時に植えつけられた新しい人はもう育ちません。肉に結びついた古い人間がまた力を盛り返して支配を取り戻してしまいます。時間がたてばともし火の火も消えてしまいます。

 ここで、5人の愚かなおとめたちは、火が消えるのはよくないことだとわかって、必死に油を買いに行ったではないか、それでも時間通りでなかったという理由だけで神の国から排除されるのは、情けがなさすぎるのではないか、という反論が生まれるかもしれません。しかしながら、その反論に対しては、神の日程表は絶対である、一度決まったら変更が効かない、としか答えられません。神は、信仰の戦いを戦う時を人に与えたのに、人の方でその時をそのために使わなかったのですから。それに、信仰の戦いに入らず、新しい人をいたずらに委縮させ、古い人に以前同様支配を許してしまうのは、洗礼の恵みを踏みにじるものです。

 神の日程表は絶対的なものであると言うと、信仰の戦いを戦っている人にとって重苦しいかもしれません。なぜなら、この世に別れを告げる時、それから復活の日において、自分はどれだけ神の意志を満たせる者になっているのだろうか、新しい人はどれだけ成長したのだろうか、古い人はどれだけ衰退したのだろうか、また、これらの点について、終わりの日に他の信徒たちと比べられたら、自分の達成度は小さいのではないだろうか、そういう疑問が生じるかもしれません。しかし、これは心配する必要のないものです。もし、あなたが信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使っていれば、終わりの日にあなたが仮に40%の達成度をもってこの世の人生の歩みを終えたとしても、神は即座に残りの60%を満たして下さいます。そうしてあなたは、先ほどのルターの言葉を借りれば、完全なキリスト教徒に変えられるのです。神が足りない分を満たしてくれるから、自分は何もしなくてもいい、と考える向きが現れるかもしれませんが、それは完全に間違いです。神が足りない分を満たしてくれるのは、信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使って生きている人たちだけだからです。

最後に、信仰の戦いは内的な戦いとは言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いでもあるので、たいていは外的な戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ28章20節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年11月16日(聖霊降臨後第23主日)武蔵野教会
11月16日の聖書日課   マタイによる福音書25章1-13節、第一テサロニケ3章7-13節、 ホセア11章1-9節


説教「完成へと導く主」浅野直樹 牧師(市ヶ谷教会) 講壇交換日

2014/11/16  聖霊降臨後第23主日 

ホセア11章1-9  Iテサロニケ3章7-13  マタイ25章1-13

説教題「完成へと導く主」

きょうの礼拝は聖霊降臨後第23主日、そして次週が教会の暦の一年最後の日曜日で聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の終わりに来ています。そういうわけで聖書日課の主題も終末です。きょうのテキストはまさしく終末という大きなテーマを扱ったイエスのたとえなのです。

終末というと極めて宗教的なテーマで、およそサイエンスとは無関係と思われます。この世の終わりがいつ来るか、あるいは人が死んだらそのあとどうなるか、そういったことがらは宗教が語ることであって、科学者たちが首を突っ込む領域ではありませんでした。 1995年3月20日に、オウム真理教という宗教団体が地下鉄サリン事件が起こしました。あのときしきりに「ハルマゲドン」という言葉を耳にしたことを思い出します。これは黙示録の中に出てくる善と悪の最終戦争を表す聖書の言葉で、きょうの主題である終末を象徴しています。オウム真理教はサリン事件を起こして、いわばハルマゲドンを自作自演しようとしたのです。そしてその中心人物たちが理科系のエリートたちでした。科学を専門とするエリートたちがハルマゲドンを起こしたのです。科学者が終末に首を突っ込んだのです。

同志社女子大学の1997年の卒業礼拝で、聖書学者の大貫隆がこのことに触れて説教しこう述べています、「科学という合理主義のリーダーが、終末預言という非合理なものにくっついてしまった」。それがあの出来事だったと語ったのです。なぜ合理的なものと非合理なものがくっついてしまったかというと、終末という出来事がいつ、どのように起こるかということに科学者たちが興味をもったからなのだと大貫氏はいいます。いつ、どのようにを問うというのは、科学者たちが物事を考えるときの大前提となる手法です。その方法を使って彼らは終末というものをとらえようとしたのです。すこし難しい言い方をすると、終末という出来事を歴史の中に対象化しようとしたのです。自然界の諸々の現象と同じく、研究すれば見えてくる、いつごろそれがどんなふうに起こるのかが解明されていく。そういう関心が科学者たちを駆り立てたのではないでしょうか。そうした見方は一般の私たちにももちろん関心大ありですが、このアプローチで聖書に描かれている終末を正しくとらえることはできません。それがいつどのように起こるのか。そういう問いから自由になれ、と大貫先生は女子大生に呼びかけたのです。そういう問いにこだわって起きたのがサリン事件でした。 キリスト教が終末を語ると、終わりを完成とみなすことができるのです。たとえば人間のいのちが、人生の終末という出来事において完成するということです。ハイデッガーという哲学者は、「人間は生まれた直後から死へと定められた命を生きている」といったそうです。では聖書が人間を一生をどのように語るかというと、人間は日々完成に向かって生きているということになります。死という出来事をわたしたちのいのちと切り離して考えてはいけないのです。死はいのちとつながっているのです。いのちの到達点に死があるのです。生きるというプロセスのゴールに終末という人生の完成があるのです。不完全な私たち。罪と人間的な弱さのゆえに欠陥だらけの私たち。そんな私たちのいのちを、最後に完成へと導いてくださるのがイエス・キリストです。 「だから、目を覚ましていなさい。」というみことばは、そのような生き方を表しています。神様が最後に与えてくださる完成を目指して生きるということです。自分の力で勝ち取るのではなく、神様がイエス・キリストのあがないによってお与えくださる完成に向かって、一日一日を生きること。それが目を覚ました生き方なのです。

きょうのたとえ話はユダヤの結婚式の一場面が題材になっています。私たちには馴染みがないのですが、イエス時代のユダヤの結婚式は花婿が花嫁を出迎えにいくことで始まります。彼女の家まで出向き、挨拶をして花嫁さんを引き取り、そこから今度は二人の新居まで一緒に道を練り歩きます。新居には彼らを祝福してくれる乙女たちが待機していて出迎えてくれます。それが夜であるならば当然灯りが必要なので、乙女たちは手にろうそくをもち二人の到着を待ち続けます。やがて二人が到着すると乙女たちがエスコートしてふたりを盛大な祝宴会場へと招きます。もちろん乙女たちも同行します。そういう流れを頭に入れて読むと、ここはわかりやすいかもしれません。 ここで問題となっているのは、五人の愚かな乙女たちは油の予備をもっていなかったという点です。その日そのときの備えができていなかったということです。災害に備えて食べ物を備蓄したり、あるいは日用品をまとめておいたりしている家庭も多いと思いますが、同様の警告を主イエスは弟子たちにもしています。それを端的に言い表したひとことが、「目を覚ましていなさい」です。 「わたしは救われて天国への切符を手に入れた。だからもう自由だ。すべてのことが許されている。思い通りの生活ができる」。信仰を得た人がこのような生き方と人生観をもっているとしたら、その人は予備の油をもってこなかった乙女のようです。終末を目指して生きるという生き方にはなりません。目を覚まして生きることにはならないのです。 あるいはここを読んで、ちょっと心配になってきたクリスチャンもいるかもしれません。わたしは一応なんとか信仰を得て今日まで生きてきた。けれども自分はいい加減で信仰的にも眠ってばかりだから、ひょっとしたら私はどちらかというと、この愚かな五人のひとりなのではないだろうか。そういう心配がよぎった人もいるかもしれません。いやもしかすると、私を含めてここに集まっているみんながそういう思いかもしれません。 では逆に、わたしはいつも信仰的に眼覚めているから賢い乙女のひとりだと、自信をもっていえるとすると、その人はどういう人なのでしょうか。私はルカ18章に出てくるファリサイ派と徴税人の祈りの比較を思い出すのです。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈ります。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

「信仰的にいつも目覚めているから大丈夫」と、自信を持って言えるとすると、私にはその人がファリサイ派の人とかぶってみえてきます。罪の中に生きる人間が、信仰的にいつも目覚めていることはできません。どうしても徴税人と声をそろえて「神様、罪人と憐れんでください」と祈らざるを得ないのです。そういうわたしたちだからこそ、イエス様は「だから目を覚ましていなさい」と呼びかけ、それだけでなくわたしたちを義としてくださるのです。いつも目を覚ましていることができないわたしたちですが、イエス様が「してくださる」のです。イエスさまにしていただいているのです。自分の力ではできませんが、イエスさまがわたしたちのために、確かに救いを成し遂げてくださったのです。 先ほど「完成に向かって生きること」が私たちの人生だということを言いました。もっと正確にいうなら、主イエス様が、わたしたちの人生を完成してくださるのです。完成させてくださる主とともに生きて、主のご用に励みます。そして用いられたことを喜ぶのです。そうした体験を積み重ねが目を覚まして生きることです。もちろんいつもそれがうまくいくわけではありません。御心にそわなかったら、「主よ、憐れんでください」と悔い改めながら生きること、それが目を覚まして生きることです。それが私たちにできる油の備えです。行い、祈り、悔い改め、この体験ひとつひとつを生涯かけて積み上げていくとき、わたしたちの人生は完成へと導かれるのです。

 

11月15日 家庭料理クラブの報告

ジャガイモのクッコ秋晴れの中、家庭料理クラブは、オーストラりアからのお客様も参加して
「ジャガイモのクッコ」作りました。

最初にお祈りをして、料理クラブは始まりました。

シンプルな材料ですが、計量から、生地作り、ジャガイモのクッコジャガイモの皮むきと作業が進みます、
沢山の参加者が、牧師館のテーブルを囲み、
日本語やフィンランドに留学されていた方のフィンランド語、
そしてオーストラリア人のご夫妻の英語に、
多くの参加者が英語でお話しする、
とてもにぎやかな会になりました。

ジャガイモの皮を包丁でむく作業に、驚かれたり、
クッコを焼く時間、パイヴィジャガイモのクッコ先生からクッコにまつわるお話を聞かせていただいたり、
オーストラリアの食べ物のお話など、話題もにぎやかでした。

焼き上がったクッコは、アツアツを切り分け、美味しく食べました。

 

ジャガイモのクッコ参加の皆さま、クッコ作りから、きれいに後片付けまでお疲れさまでした、そして、有難うございました。

次回12月13日(土)の家庭料理クラブは
「ピパルカック」と「ヨウルトルッテゥ」を予定しています。

 

説教「人間を造られた神が人間に与えられた最も重要な掟」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書22章34-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所の直前に、サドカイ派と呼ばれる党派とイエス様の間で論争がありました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿祭司やユダヤ教社会の上流階層を構成員とする党派です。論争の的となったのは、死からの復活はあるかどうかということでした。復活などないと主張するサドカイ派をイエス様は、旧約聖書の御言葉に基づいて見事に論破しました。その一部始終を見ていたファリサイ派と呼ばれる別のグループ、これはユダヤ教の伝統的な戒律を幅広くできるだけ多く守ろうとする信徒運動ですが、そのファリサイ派の人たちが集まって、サドカイ派は言い負かされてしまったぞ、自分たちはどうやってあの生意気なナザレ出身のイエスを言い負かそうかと相談を始めます。そこで、彼らの一人で律法学者も務める男がファリサイ派を代表してイエス様のところにやってきて質問しました。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?

原語のギリシャ語を直訳すると、最も偉大な掟、最大級の掟はどれかと聞いています。つまり最も重要な掟ということです。サドカイ派は、復活という死生観の問題でイエス様に挑戦してあっけなく敗れ去りました、ファリサイ派はユダヤ教の根幹とも言える律法の問題で挑戦してきました。

なぜ、このような質問が出たかというと、律法学者は職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を神の掟に基づいて解決する役割を担っていました。それで、神の掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟とは、まず、旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法がありました。それだけでもずいぶんな量ですが、他にもモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。サドカイ派は文書化された掟しか重んじませんでしたが、ファリサイ派は両方とも大事と考えていました。そういうわけで、ファリサイ派の律法学者となると、膨大な神の掟を適用することになるので、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したのです。「どの掟が最も重要ですか、最大級の掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきたのです。もし、これが重要だ、と答えたら、きっと、それじゃ他のは重要ではないのですか?掟は全て神が与えたものではないのですか?これが重要で、あれは重要でないという根拠はなんですか?あれだってこれこれの理由で重要ではないのですか?そういう具合に、相手は法律の専門家ですので、答えようによっては、反論の山が押し寄せてくるのは火を見るより明らかです。

 

2.イエス様の答えは以下のものでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

これは、申命記6章4~5節で神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。その部分を振り返ってみましょう。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

神を愛するという時、このように全身全霊で愛するということはどういうことでしょうか?全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいて身も心も捧げたような熱烈純愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。相手は、全知全能の神、天と地と人間を造られて、人間に命と人生を与えられ、御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

その答えは、今みた申命記の掟の最初の部分にあります。「我らの神、主は唯一の主である。」これは命令形でないので、掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、というのは実は、神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにしなさい、ということなのであります。この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えてはならないこと。自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、また苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にあってはならないということ。もしこれらと反対のことをしてしまったり、またそれ以外のことでも神の意思に反することしてしまった場合には、すぐこの神の方を向いて赦しを願うこと。これが神を全身全霊で愛することであります。

少し脇道に逸れますが、「神」という日本語の言葉はとても紛らわしいものです。聖書にも「神」と書いてあり、日本には「神々」がいると言われます。同じ言葉を使うため、両者が何かお互いに比べ合えるような気がします。そして、ここは違うがここは似ているというような議論が生まれ、そうなると、聖書の神もなにか数多くいる神々の一つのように感じられてきます。しかし、兄弟姉妹の皆さん、よく考えてみて下さい。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた神、また人間との結びつきを回復させるために自分のひとり子を犠牲の生け贄になるように送られた神、このような神は聖書の神の他にいるでしょうか?そもそも、この世に蔓延する霊的な存在はみな、造られたもの、被造物にすぎないのです。(コロサイ1章16節で「万物は御子において造られた」と言われる「王座」、「主権」、「支配」、「権威」は、ギリシャ語の単語からみて、目に見えるものだけでなく見えない霊的なものも含まれています。)聖書の神こそ全ての見えるものと見えないものの造り主なのであります。

天と地と人間を造られた神以外に神はないとする、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにする、これが神を全身全霊で愛することだと申しました。このような愛をどのようにしたら私たちは持てるのでしょうか?このような愛は、何もないところから自然には生まれてきません。それは、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれてきます。それではこの神は私たちに何をして下さったかを見てみましょう。

この神は今私たちが存在している場所である天と地とその中にあるものを造られました。そして私たち人間をも造られ、私たちに命と人生を与えて下さいました。もともと神の目から見て、よいものとして造られた人間でしたが、神への不従順と罪に陥ったために、神との結びつきが失われて死ぬ存在になってしまいました。人間は代々死んできたように、代々罪をも受け継ぐ存在となってしまったのです。

神は、人間が神との結びつきを失ってしまったことは悲しいことと思い、それをなんとか回復させようと、そのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは、本来は人間が受けなければならない罪の罰を全てイエス様に受け負わせて、十字架の上で死なせました。そこで神は、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという方法をとったのです。それだけではなく、今度は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命への扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神からくる罪の赦しがその人に効力を持ち始め、その結果、罪はその人を死に閉じ込めようとする力を失います。このようにして、人間は神との結びつきを回復させることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることになります。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時もたえず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手がしっかりとその人を御許に引き上げて、その人は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのであります。

このように人間の「造り主」である神はまた、ひとり子イエス様を犠牲の生け贄にすることで人間を罪と死の支配から救い出して下さった「贖い主」でもあるのです。こうして神が私たち人間にして下さったことのなんたるやがわかるや否や、私たちの内にこの神を全身全霊で愛そうという心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

 

3.天と地と人間を造られた神を全身全霊で愛するとはどういうことか?それは、この神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることだと申しました。この掟についてイエス様は、最も重要な「第一の掟」であると付け加えました。これに続けて、最も重要な掟には第二もあると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると述べました。そして、本日の箇所の終わりで、「律法全体と預言者たちはこの二つの掟に基づいている」と言われました。この二つの掟は神の掟中の掟である、山のようにある掟の集大成の頂点にこの二つがある、と言うのです。それでも、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが最も重要な掟の第一。それに続いて隣人を自分のように愛することが第二の掟としてある。これから明らかなように、キリスト信仰においては、隣人愛というものは、神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないのであります。

キリスト信仰者は、隣人愛という言葉を聞くと、すぐ苦難困難にある人に対する支援活動を思い浮かべるでしょう。ところで、苦難困難にある人を支援するという形の隣人愛は、これはキリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、または無信仰者・無神論者にも出来るものです。このことは、東日本大震災の支援活動にも明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛には、他の隣人愛にはないものがあります。それは、キリスト信仰の隣人愛は神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということであります。神への全身全霊の愛とは、先ほど申し上げましたように、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、これも申し上げたように、この神が自分にどれだけのことをして下さったかをわかるようになった時です。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。もし、別に神などいろいろあったっていいんだとか、聖書の神も多数のうちの一つだ、などという立場をとった場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということにはなりませんが、しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものになります。

それから、隣人愛とは人道支援に尽きてしまわないということも大事です。イエス様は、最重要掟の二番目に隣人愛があると教えた時、それをレビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。イエス様自身、彼を信じる者たちに対して、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならない、と教えられます(マタイ5章43~48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、「隣人」の一部の者が危害を加えたり、迫害をするということも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

 イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べられます。これは一体、どういうことでしょうか?神は、ただ悪人にも善人同様気前よくしてあげようという無原則な方で、何が正しくて何が間違っているか、何が善で何が悪かということはもう一切お構いなしの方なのでしょうか?敵を愛せよということも、無原則な気前良さなのでしょうか?

いいえ、そういうことでは全くないのです。少し立ち止まって考えてみましょう。もし、神が悪人や正しくない者に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、どうなるでしょうか?太陽の光や水分は、生存にとって必要不可欠なものですので、それらを失う彼らは一気に滅び去ってしまうでしょう。悪人から危害を被った人からみれば、いい気味だ、ということになるのですが、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのであります。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らが、イエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に至る道を歩む者の群れに加わることを待っているのであります。悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛するということがどういうことかわかってきます。それは、悪に対する無原則な気前良さではありません。イエス様が人間を罪と死の支配から救い出すために死なれたのは、全ての人間に対してなされたことです。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、この「罪の赦しの救い

を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵について実現するように祈り、行動するのです。イエス様は、迫害する者のために祈れ、と命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害が終わるために迫害者をやっつけて下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛とは、苦難困難に陥っている人たちに対する人道支援にしても、敵や迫害者を愛することにしても、いずれにしても、愛を向ける人たちが「罪の赦しの救い

を持てるようにすること、そうすることで彼らを永遠の命に至る道を歩む群れに加えるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることができるように助けてあげるべき人たちになっていきます。

私たちが愛することができるために、まず、神が私たちをどれだけ愛して下さったかを知ることが最初になければならないことが、ヨハネの第一の手紙 4章9~11節で言われていますので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年11月9日 聖霊降臨後第22主日
11月9日の聖書日課 マタイによる福音書22章34-40節、申命記26章16-19節、第一テサロニケ1章1-10節 


説教「神のものは神に」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書22章15~22節

今日の福音書はイエス様とファリサイ派の人々、そしてヘロデ派の人々との論争であります。イエス様はこれまでにも、一瞬たりとも気の抜けない、ユダヤの宗教的なグループと激しい戦いをされて来ました。今回はファリサイ派の若手の弟子たちと、そして更にヘロデ派の若手の弟子たちとがいっしょになって、イエス様を罠にかけようとする議論の戦いであります。

この時、なぜ、ファリサイ派もヘロデ派も若手の弟子たちがイエス様を罠にかけようとしたか。マルコの福音書12章の方を見ますとイエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを話されました。このたとえで、ぶどう園の主人が自分の息子まで、貸し付けてやっている農夫たちに打ち殺されてしまった。その報復として「主人は農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるにちがいない」と話され、これを聞いていた祭司長、律法学者や長老たち、つまり宗教指導者は、イエスが自分たちに当てつけて、このたとえを話されたと気づいてイエスを捕らえようとしたが、群集を恐れた。それでイエスをその場に残して立ち去った。とマルコ12章12節にあります。

イエス様にとっては命の危険にさらされての戦いです。その後です、今日の聖書のマタイの方の福音書22章15節を見ますと、それからファリサイ派の人々は出ていって、今度は若手の弟子たちがイエスの言葉じりをとらえて罠にかけようと相談した。同じようにヘロデ派の若手も今度はいっしょになってイエス様に議論をしかけてきたのでありました。 ヘロデ派の人々もいっしょに結託してイエス様を罠にかけようとした、というのは驚くべきことでした。

ヘロデ派というのは、ヘロデ王家の支配を支持する党派の人々です。当時、ガリラヤの領主でありましたヘロデ・アンティスパスという王のもとで、ローマ皇帝の手先となって、地上の繁栄を第一と考えている保守派といっていいグループです。一方ファリサイ派はユダヤ教の律法をきちんと守って生きることが自分たちの神から選ばれた民として第一の生き方だというグループです。

だから普段からファリサイ派とヘロデ派とは全く相入れない人々であった。にもかかわらず、ここにイエスを陥れようというひとつの目的では協力して罠にかけようとしているわけです。こうしてファリサイ派の弟子たちが一緒になって、イエス様のところに遣わされて尋ねさせた。16節です、「先生、私たちは、あなたが真実な方で心理に基づいて神の教えを、誰はばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」 イエス様という方を彼らがどう見ているか、又民衆も、どう見ているか、真実で神の教えを、なさっている方として見ています。

その上で、イエス様をおとし入れようと企んで、イエス様に質問しています。「皇帝に、税金を納めるのは、律法に適っているのでしょうか。適っていないのでしょうか。」納税の問題です。ローマ皇帝に税金を納めなければならない、というのは、大変重い生活にのしかかる課題でありました。ローマ皇帝は納税させるため、人口調査というものをしました。この調査によって、人頭税というものを義務付けたのでした。

こうして、ユダヤは、ローマ帝国の属州として総督の管轄下に置かれていました。ユダヤ民族は、政治的にも隷属されている、というローマの権力に対して強い反発をもっていました。たびたび反ローマ闘争を起していました。だから、若手の弟子たちを、イエスに向けさせた、といってもいい程です。しかも、この人頭税に納めるのはデナリ銀貨に限るというものでした。なぜでしょうか、このデナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻印されてあって、その裏には「神的、アウグストウスの子、皇帝にして大祭司なるティべリウス」という文字が刻まれていたものでした。

だから、これは、この人頭税をもってローマ皇帝の政治の支配下に服従せよ、というしるしです。しかも「大祭司なるティべリウスこそ神である」という神の権威を宣言しているわけです。だから、神の律法を大事にした、忠実なユダヤ教徒の間で、納税に対しては強い反対があったのでした。逆にヘロデ派の人々はローマ皇帝の言う通りに従う、保守的な人々ですからヘロデ王家を支えていくのに納税に賛成です。

ですから簡単に申しますとイエス様が、この納税に対して、どちらの方に味方しても批難される立場におち入ってしまうのでした。イエス様は彼らの質問が悪意に満ちた企みである事を見抜いておられます。そこで言われました。「偽善者たちよ」と言って「税金に納めるお金を見せなさい。」と、彼らがデナリ銀貨を持ってくると「これは誰の肖像と銘か」と きかれた。彼らは「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。

彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。イエス様の言葉はカイザルの支配下に無条件に従え、と言われたわけではない。「神のものは、神に返せ」という、次の言葉こそ最も大事な意味を持ったものであります。「デナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻印されているように、人間は神にかたどり、神のかたちに創られているのだ」と言うこと。 そして、その全存在はすべて神のものである。だから神のものとなる自分をささげて生きなさい。ということです。このすべてのことが律法の根本精神である、ということです。

このイエス様の言葉が聞く人々のすべてに、いかに驚きをもたらしたか。三つの福音書とも、この出来事をしっかりと記しています。実にあざやかな結果となりました。「ものは神に返す」ということを今度は具体的な問題として、自分がどのように信仰の中で受けとめ、 どのように生きていくか、各々の人の判断に委ねられているのであります。イエス様を主と信じるキリスト信徒は霊的には神の支配に服して生きる、ことであります。同時に私たちはこの世にある者として、この世の政治の支配の権力の下にある法律のもとにあります。

パウロはキリストの福音を異邦人のため、宣教して行きました。そして、パウロは福音宣教の最終目標をローマに置いたのであります。当時の世界の中心地です。パウロは彼の生涯の終わりに、ロマ書を後世の遺言として書き残しました。その13章1節に次のように記しています。「人はみな、上に立つ権威に従いなさい」イエス様が言われた「カイざるのものはカイザルに返しなさい」「ローマ皇帝の権力の支配下に生きるのなら、その地上の権威に従いなさい」同時に神の霊の世界に信仰によって生かされているキリスト者は、神の御国の支配の権威のもとに従って生きなさい。という二国論がルターの時代にも論じられました。

ルカは使徒言行録の中に、キリストの福音はローマ帝国の治安を乱すものではなく、皇帝支配の下に於いても存立していく。そして神の支配は、すべての、この世の権力の支配を越えていく。という道を貫いています。ユダヤの律法主義社会に福音が受け入れられない。そして異邦人世界へと、キリストの福音が述べ伝えられていく中に福音は、果たして定着できるだろうか、という、この課題がキリスト信仰の死活に関わる問いでありました。

ローマ皇帝を神つる支配体制の下に、いかに、キリストの福音が存立していけるのか。唯一の神を信じる信仰が貫いて行けるのか、これは皇帝礼拝との対決にほかならない。イエス様につきつけられた納税問答が、この動きを決定していく分岐点となっていったのであります。こうした後々の時代にまで及ぶ歴史的展望からして見ると、いかに、イエス様の答えが重大な意味をもつものであったかがわかります。唯一の神、ヤハウェーを信じる信仰を純粋に守るため熱狂的に反ローマ闘争にのめり込んで行った、ファリサィ派の道をイエス様はお取りにならなかった。

「カイザルのものは、カイザルに返せ」。この世の帝国の支配にあって、なお「神のものは神に返して生きよ」ということが、まことの唯一の神信仰が貫かれていくための、余地を残していく、決定的役割を果たしていくものである、ということ。キリスト信徒のの群れはローマ皇帝の支配下にあっても、ただ単に体制に順応して、のめり込んだのではない、迫害の苦しみに耐え信仰は貫かれていった。やがて時代は皇帝がイエスキリストの父なる神の名のもとに戴冠式を行うようになった、というこの歴史の事実を見て、「神のものは神に返せ」というイエス様の一言の言葉が、やがて後に世界を支配する聖なる世界へと変えられていく原動力となったのであります。   アーメン

 

聖霊降臨後 第21主日(緑)  2014年11月2日

説教「神に選ばれた者とは誰か」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書22章1-14節

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(22章14節)。イエス様は、本日の福音書の箇所である婚宴のたとえを、このように結びました。「選ばれる」というのは、天地創造の神に相応しい、神の目に適う者として神自身によって選ばれることを意味します。「神に選ばれる人」ないし「神に選ばれた人」という言葉、ギリシャ語ではエクレクトスεκλεκτοςと言いますが、これには二つの厄介な問題が付きまといます。

第一の問題は、誰が神に選ばれた人なのか、そしてこの自分は神に選ばれた者なのか、という疑問を生み出します。そうすると今度は、では神が選ぶ基準は何か、何を満たせばそのような者であると言えるのか、という疑問がついてきます。選ぶ主体は、天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた創造の神です。それで、造られた人間があたかも神の考えがわかったように基準を論じるのは、ちょっと僭越ではないかと思われるのですが、いずれにしてもこれらの疑問はそう簡単に解きほぐせるものではないでしょう。

 第二の問題は、今述べた疑問を解明できたと思った時に出てくるものです。「選ばれた者」の基準を解明したぞ、それによると自分こそは神に選ばれた者だ、とか、我々こそは神に選ばれた民族だ、という具合に、選民思想が生まれてくるのであります。自分ないし自民族を神に選ばれたものとしてみると、自分以外、自民族以外は選ばれたものではなくなる。神に選ばれた自分たちは神に近く、他の者たちは遠いことになる。そうなると、上下の見方で自分と他者を分けることになる。神に選ばれ、神に近い以上、自分たちこそが正しさを代表し、他の者には正しさはない。そういうふうに善悪の見方でも自分と他者を分けることになる。こうした優越意識と独善性が結びつく選民思想は、人類の歴史にしばしば悲劇をもたらしてきたことは、私たちもよく知るところです。

 ところで、婚宴のたとえでのイエス様の主眼は、私たちが「神に選ばれた者」であれ、ということです。そうしないと、たとえの中で礼服を着ていなかった人のように神の国から追い出されてしまうことになるぞ、と警告しているのであります。それでは、「神に選ばれし者」たれと教えるイエス様は、私たちが選民思想を持つようにしろ、そして、キリスト教徒でない者を見下して、自分たちこそが正しさの権化であるかのように振る舞え、と教えているのでしょうか?いいえ、全くそういうことではないのです。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰にあっては、「神に選ばれし者」というのは、いわゆる選民思想とは全く無縁のものです。本質的に見てキリスト信仰は、自分を他の者よりも高くすることをしない信仰です。もし誰か、イエス・キリストの名前や天地創造の神の名前に依拠して自分を高くしたり他の者を低くする者がいたら、その人は、神の名をみだりに唱えたことになり、十戒の第二の掟を破ることになります。

 それでは、キリスト信仰者にとって、「神に選ばれし者」とは何を意味するのでしょうか?本説教では、まずそれを明らかにしていきます。それができたら今度は、私たちは果たして、その意味で「神に選ばれし者」であるのかどうか?そのことを考えてみたく思います。

 

2.本日の福音書にある婚宴のたとえは、イエス様がエルサレムの神殿で敵対者である大祭司や長老たちを相手に語った三つのたとえのうち最後のものです。初めの二つのたとえでは、イエス様は解き明かしをしますが、この最後のものにはしません。それが、このたとえを難しいものにしています。最初の「二人の息子」のたとえ(21章28~32節)では、父親にブドウ園で仕事をしなさいと言われた息子が二人いて、一人は最初は「行かない」と言ったのに「思い直して」行った、もう一人は「行く」と言ったのに行かなかった、という話でした。イエス様はこれを解き明かして、「思い直して」ブドウ園に行った息子というのは、洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をした罪びとである、これに対してブドウ園に行かなかった息子は、洗礼者ヨハネを信じず「思い直し」もしなかった大祭司や長老たちである、と解き明かします。

二番目のたとえは、「ブドウ園と雇われ農夫」です。これは先週の主日の福音書の箇所でした。イエス様はたとえの結びで、神の国はイスラエルの指導者たちから取り上げられて異教徒に引き渡される、と解き明かしました。これをもって、たとえのなかにでてくるブドウ園は神の国、ブドウ園の所有者は神、所有者が送り続けた僕は神が送った預言者、所有者の息子は神のひとり子イエス様、邪悪な雇われ農夫こそは大祭司や長老たち、イスラエルの指導者たちを指すことが一気に明らかになったのでした。

ところが、本日の婚宴のたとえには、そのような解き明かしがありません。もちろん、聖書を何度も読んだり、注釈書を読んだりした人は、たとえに出てくる人物や出来事が何を指すか、もう知識があるでしょう。それでも、このたとえには細心の注意を払ってみなければ理解が難しいことが多くあります。そういうわけで、細心の注意を払ってこのたとえをみてみましょう。

イエス様はたとえの冒頭で「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(2節)と言います。ギリシャ語原文は少し違っていて、「天の国は、王子のために婚宴を催した王に似ている」とあります。つまり、天の国と王が似ているもの同士になっています。これはわかりにくい表現ですので、少しわかりやすくしますと、次のようになります。「天の国は、私がこれから話をする王の行動様式や思考様式に沿ったところである。だから、たとえの中で王が何をし、何を言うか、よく聞きなさい。そうすれば、天の国がどんな国かわかるだろう」ということになります。「天の国」は「神の国」と同義語です。マタイにとって「神」と言う言葉は畏れ多すぎるので、しばしば「天」という言葉に置き換えます。

たとえに出てくる王は、神を指します。王子は、神の御子ということになります。このたとえで読者の注目を引き付けることは、この神の御子は何もしないということです。影のような存在です。先週の「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえでは、所有者の一人息子がブドウ園に派遣されて殺されてしまいますが、すぐに神のひとり子が十字架に架けられる出来事を指すとわかりました。ところが、婚宴のたとえでは、神のひとり子にまつわる出来事は何もありません。それが、このたとえの理解を難しくする原因となっています。

しかしながら、目をよく見開いて読んでいくと、神の御子の働きはちゃんとたとえの中にあることがわかります。王は招待客への伝言として「食事の用意が整った。牛や肥えた家畜を屠って、全て用意ができた」(4節)と言います。最初の招待が頓挫した後、王は家来に「婚宴は用意できているのだか」とこぼします。このように「用意できている」という言葉が繰り返されます。これは、神の人間救済計画が実現したということ、人間の救いは神の側で全て整えて準備できているということを指します。イエス様は、十字架の上で息を引き取られる直前に「全てのことが成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言われました。成し遂げられた「全てのこと」とは、神の人間救済計画の全部を指します。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活によって全て実現された。人間の救いは神の側で全部用意して下さった、整えて下さった、ということになります。つまり、婚宴のたとえの中では、人間の救済がイエス様の十字架と復活によって実現している、用意されているのです。そういうわけで、神のひとり子の存在は婚宴のたとえの中にも重々しくあるわけです。

ここで、神がイエス様を用いて人間救済計画を全部実現して下さった、ということについて、それはどういうことか、簡単に振り返ってみましょう。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたことに示されるように、代々神に対する不従順と罪を受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、この赦しを受けることで、罪と死の支配から自由の身とされることとなりました。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さいました。こうして人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の用意した「罪の赦しの救い」を受け取ることになるのです。受け取った後は、その救いを所有する者として、罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。神との結びつきが回復したので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

 

3.以上のような次第で、婚宴のたとえの中で言われている「用意ができたもの」とは、神がイエス様を用いて実現した救いであることが明らかになりました。次に、招待された者たちは誰を指すのかを見てみましょう。

招待された者たちは、二つのグループに分けられています。最初のグループは招待されたにもかかわらず出席を拒否した者です。王が出席を促すために家来を送っても、無視したり暴力をふるったり、果ては殺してしまう人たちです。このひどい招待客は誰を指すのか。また気の毒な家来たちは誰を指すのか。先にもみたように、人間の救いはイエス様の十字架によって神が全て用意して下さいました。それで、家来が来て神の用意されたものにどうぞ来てください、と言うのは、人々に十字架の福音を説いて神の国の一員に招くということです。つまり、無視されたり殺されたりしてしまう家来というのは、福音の伝道者、宣教者であります。招きに応じなかった者とは、福音を拒否した者であります。この福音の拒否者は、もともと神の国への招待を受けていた人たちなので、ユダヤ人を指します。(正確に言うと、最初のキリスト教徒はユダヤ人であったことから、ユダヤ人のある部分は招待を受け入れたのに対して、受け入れないで拒否したユダヤ人たちもいたということです。)さらに拒否した者たちの町、というよりは都市というのがギリシャ語の言葉ポリスπολις正確な訳ですが、それが罰として焼き払われます。この都市は単数形(定冠詞付き)なので、エルサレムを指すことは明らかです。実際に歴史上起こったこととして、紀元70年にエルサレムは神殿もろともローマ帝国の大軍によって焼き払われてしまいました。つまり、イエス様はたとえの中で、エルサレムの破壊を預言しているのであります。皆様もご存じのように、イエス様はこれ以外にも、エルサレムやその神殿の破壊について、事あるごとに預言しました(マタイ23章38節、併行箇所ルカ13章35節、マルコ13章1~2節および併行箇所)。本日のたとえでは、外国ではなく、神自身が大軍を送って都市を滅ぼしますが、これは預言が的確でなかったということではありません。旧約聖書に伝統的な考え方は、神は自分の民を罰する際に他国の軍隊を仕向けてかわりに罰させるというものがあり、イエス様はその伝統の上にたっているということです。

次に招待者の第二のグループ。最初のグループはもうだめだから、誰でもいいから呼んできなさい、という時、ユダヤ人ではない異教徒を指します。異教徒に十字架の福音を説いて神の国に招待しなさい、ということになりました。これも歴史上に実際に起こったことです。ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは、「罪の赦しの救い」を受け取って神の国の一員になりなさい、と招待されたのは善人だけでなく悪人も一緒でした。しかし、悪人は悪人のままで、神の意志に反する生き方のままでは婚宴会場には入れないということです。先ほど述べた三つのたとえの最初のもの、「二人の息子」のたとえ(21章28~32節)のところで、イエス様は当時のユダヤ教社会で最大級の罪びとであった娼婦と取税人を評価しましたが、これは彼らが洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をしたからです。従って、悪人であってももちろん婚宴には招待されますが、その悪人は婚宴の席に着くときには、既に「思い直し」を経て、元悪人でなければならないのです。悪人が「思い直し」のプロセスを経ることができるかどうかは、神の実現した救いをしっかり所有できているかどうかにかかっているのです。

 

4.以上から、いろんなことが明らかになってきました。ここで、本日の最大の問題に入っていきましょう。新しい招待客のグループで宴会場は一杯になります。王が招待客を接見しはじめると、一人礼服を着ていない者がいた。ギリシャ語に忠実に訳すと「婚宴用の服」です。王は尋ねます。「どのようにして、婚宴用の服をつけずにここに入って来れたのか。」(日本語では「どうして」という理由を聞く訳ですが、「どのようにして」とか「いかにして」が原文の正確な意味です。)答えられない客は手足を縛られて外の暗闇の世界に投げ出されてしまいます。ここで起きる疑問は、この婚宴用の服をつけなかった者は誰を指すか、ということ、それから、婚宴用の服とは何を指すか、ということの二つです。イエス様は、その服がない者は招かれただけで選ばれた者ではない、と言われます。「神に選ばれし者」がいかなる者であるかをわかるためにも、この婚宴の服が何を指すのかを突き止めることは重要です。

 そこでまず、招待客で一杯になって王が接見を始めるこの婚宴が何を指すのか、それから見てみましょう。黙示録19章7、9節に、この世の終わりの日に神の国で小羊の婚宴が始まることが預言されています。つまり、本日の婚宴のたとえで王が招待客の接見をする場面は、まさにこの世の終わりの日、今ある全てのものが消え去って天と地も新しくされて神の国だけが残る日です。その日に全てのものが消え去って神の国だけが残るということは、「ヘブライ人への手紙12章27~28節、「ペトロの手紙二」3章10、12~13節に預言されています。婚宴に招待されるというのは、終末の後に始まる神の国の大祝宴に招待されるということであります。神がイエス様を用いて人間の救いを実現したことは、先ほど見た通りです。神はこの実現済みの救いを、どうぞ受け取って下さい、と全人類に提供しているのです。つまり、神の国の一員となって祝宴にどうぞと人類全てを招待しているのです。もし人間がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この救いを受け取ったことになり、それは祝宴の招待を受諾したことになります。つまるところ、キリスト信仰者というのは、神がどうぞと言って差し出しているものを、はい、ありがとうございます、と言って受け取った人であると言うことができます。

 そういうわけで、神に招待されてそれを受諾した人というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の実現した救いを所有する者となった人、そして永遠の命に至る道を歩み始めた人とういうことが明らかになりました。そこで、婚宴の席につけるというのは、その道を歩み終えて永遠の命を持つに至って、神の国の一員以外の何者でもなくなったことを意味します。その時、婚宴用の服をつけていない者のエピソードが示すように、婚宴の席に着くにはその服は絶対条件であります。洗礼を受けて神の実現した救いを所有するようになったのに、婚宴用の服などとまた何か新しいものを獲得しなければいけないのか?この婚宴用の服とは一体何なのか?そのことを見てみましょう。

 まず、ルターがキリスト信仰者とはどのような者を言うのかについて、次のように教えてあるところから見ていきます。

「キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということである。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのである。使徒パウロは、これら全てを「隣人が背負っている重荷」と呼び、我々は相手の内にそれがあると認めて忍耐しなければならない、と教えた。キリストもかつて弟子たちのなかに欠点があることを認め、忍耐し、背負って下さった。そして、今もキリストは、私たちの内にある全く同じ欠点を毎日、背負って下さっているのである。」

 これを読むと、キリスト信仰者であることは、信仰者以外の者に対しても、また信仰者同士においても、自分を高くし他の者を低くするような優越意識からほど遠い存在であることがわかります。もともと選民思想など抱けない存在なのであります。洗礼を受けて神の実現された救いを所有する者となったのに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、救いを所有するとは言っても、私たちはまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点については、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。

それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっている。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私は知ろうとし、それに従って生きよう、いう心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。

しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時には、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。

 このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります。

 そこで、婚宴用の服とは、洗礼の時に私たちの肉を覆うように被せられた目には見えない純白の服を指します。不従順と罪を宿す肉は内側に残っていますが、神は洗礼の日からは私たちを純白な者として見て下さいます。本当は、まだ不従順と罪を宿しているのに。聖霊の導きに従順に従って、自己の不従順と罪と向き合い、絶えず十字架の主に目を据えるという内面の戦いをしっかり戦い抜いた時、私たちは婚宴の席についているのです。その時、洗礼の時に着せられた純白の服が失われていなかったことに気づくでしょう。それが、選ばれた者の印なのであります。婚宴用の服をつけていない者とは、洗礼後の人生において、自己の不従順や罪と向き合わなくなったり、十字架の主に目を据えることがなくなってしまって、内面の戦いを放棄してしまった人たち、そうして洗礼の時に被せられた純白の服が失われてしまった人たちであります。彼らは招かれて招待を受け入れた者ではあったが、選ばれた者にはならなかったのであります。

 終わりに、内面の戦いと言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いなので、たいていは外面の戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ28章20節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨後第20主日
2014年10月26日の聖書日課  マタイ22章1-14節、エレミア31章1-6節、フィリピ3章12-16節


説教「キリスト信仰者の歴史観」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章33-44節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日は、「キリスト信仰者の歴史観」という説教題でお話をいたします。最近は歴史観とか歴史認識ということが、とかく近隣諸国との外交問題を引き起こす火種のようになってしまったりするのですが、本説教では、父なるみ神が与えようとしている平和が皆様の心の中に到達できるようにすることを目指していきたいと思います。

さて、本日の福音書の箇所は「ブドウ園と農夫」のたとえですが、正確に言うと、農夫は自作農ではなく雇われ身分ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」ということになります。キリスト信仰者は言うに及ばず、信仰者でなくても聖書を読んだことのある人やキリスト教について知識のある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は神を指し、雇われ農夫は当時のイスラエルの指導層の人たち、所有者が送って殺されてしまう僕たちは神が遣わした預言者、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に、たとえに出てくる人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 ところで、イエス様が面と向かい合って話をしていた当時の人たちは、このたとえをどう理解したでしょうか?彼らは、このたとえを歴史上、一番最初に聞いた人たちです。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中で大祭司や長老たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。彼らは、このたとえを私たちと同じように理解したでしょうか?私たちの理解はというと、実はイエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きたことを前提としています。その出来事が起きたと知っているので、ブドウ園の所有者の息子の殺害は、神のひとり子が十字架にかけられたことを意味すると分かるのです。ところが、十字架の出来事が起きる以前では、同じような理解はおそらく得られないでしょう。所有者の息子の殺害と重ね合わせて見られる出来事がまだ起きていないからです。そういうわけで、はじめてこのたとえを聞いた人たちは、私たちと正反対にとても難しかったと思います。以下、このことを念頭に入れて、本日の福音書の箇所を解き明ししていこうと思います。

 

2.最初に、21章33~39節までを見てみます。ブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞アポデーメオーαποδημεωは、「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして旅先が外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の金持ち層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、38節で、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがよくわかります。普通だったら、そんなことをしたらブドウ園は自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまうでしょう。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということであります。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これら一連の出来事の意味は、私たちには明らかです。初めにも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はイスラエルの指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前、まだイエス様が本当に神の子なのかはっきりせず疑いがもたれていた時、「これは誰それを指す」とすぐには判明できなかったでしょう。彼らのたとえの理解の仕方は、単に哀れな所有者と邪悪な雇われ農夫との間に起きた事件にしか聞こえないのであります。文字通り額面通りの理解にしかならないのであります。

たとえを話し終えたイエス様は40節で、聞き手の大祭司と長老たち、つまりユダヤ教社会の指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」大祭司たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。

この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すか全く知らないで、たとえをただ額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても文字通り想定外のことだったでしょう。

大祭司たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になった。これは詩編118章22~23節からの引用ですが、これも、私たちの目から見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのであります。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前に初めてこの引用を聞いた人たちは、一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。彼らは、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえを額面通りに理解しました。その理解に基づいてイエス様の質問に答えました。そこで突然、彼らも知っている詩編の聖句が引用されたのです。一体、この三つの事柄はどう結びついて何を意味しているのか、当時の人たちには全く意味不明以外の何ものでもありません。

そこでイエス様は、初めてこれらを聞いた人たちに対して、全ての謎の解き明かしをします。43節です。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉エスノスεθνοςは、たいていユダヤ人以外の「異教徒」を指す言葉です。ここにきてやっとイエス様の教えの全貌が大祭司たちにはっきりします。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者は神ではないか!所有者が送って殺されたり迫害された僕たちとは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫というのは自分たちのことだったのか!この時点に至って大祭司たちがたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまでたとえを額面通りにしか理解できず、外国人ブドウ園所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事にしか聞こえていなかったのが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異教徒に渡されてしまうというようなことを、自分たちの口を通して言わさせるとは!怒りが燃え上がった大祭司たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

たとえを使って聞き手に本当の姿を思い知らせるというイエス様の手法は、実はかつて預言者ナタンがダビデ王に対して使ったものと同じです(サムエル記下11~12章)。ダビデ王は一目ぼれした人妻ベト・シェバを手に入れようとして、その夫ウリヤを戦争の最前線に送って戦死するように罠をかけて目的を達成する。その時、神は預言者ナタンを遣わして、ダビデに対して次のようなたとえを話させる。二人の男がいて、一人は金持ちで多くの羊や牛を所有していた。もう一人は貧しくて一匹の小羊しか持っていなかった。貧しい男はその小羊を自分の子供のように大事に育てていた。ところが、ある日、金持ちのところに来客があり、男は客をもてなさなければならなくなった。しかし、自分の羊や牛は出し惜しみ、貧しい男の小羊を奪って、客に振る舞った、という話です。

さて、ダビデ王はたとえの本当の意味を理解せず、額面通りに受け取りました。そして、その金持ちに怒りを燃やし、そんな男は死刑だとまで言う。それくらい王は、何が正しく何が悪かはわかっている。しかしながら、それは、問題が自分をさしおいて他人に関わる時だけでした。まさにその時、ナタンは、その金持ちとはお前のことだ、神から不足なく与えられていながら、不正を働いてまで欲望を満たすとは何事か、神が与えて下さるものでは足りないと言うのか、そのように神を軽んじる者は厳しい罰を受けてしまえ、と鉄槌を下します。一気に目を覚ませられたダビデは、自分がしたことは大罪であったと認めます。

「ブドウ園の雇われ農夫」のたとえで、イエス様は、実にこのナタンのたとえの手法を踏襲していることがわかります。まさに、雇われ農夫とはお前たちのことだ、というのであります。たとえを用いて、聞く者の真の姿を思い知らせるのであります。ところが、イエス様の場合、ナタンのたとえと一つ大きな違いがあります。ナタンの場合、たとえを聞いて、自分の真の姿を思い知らされたダビデは罪を認めて悔い改めますが、イエス様のたとえを聞いた大祭司たちは悔い改めるどころか、自分たちの真の姿を知らされて逆上し、心を一層かたくなにしてしまいました。全く逆の効果を生み出してしまいました。神の意思というものが、もし、人間が神に対して罪と不従順を認めて悔い改めるものであるならば、ナタンのたとえは目的を果たしたことになります。しかし、イエス様のたとえはそれを果たしませんでした。イエス様のたとえは失敗だったのでしょうか?この疑問に対しては、次のように考えることができます。イエス様のたとえのせいで敵対者の心が一層かたくなになり、イエス様が十字架にかけられるのを確実にしていったとみれば、それは神の計画を実現に導いたのだから、大きな意味では目的を果たしすぎるほど果たしたと言えます。ただそれでも、別の大きな疑問が残ります。それは、神は御自分の計画を実現させるためには、信じない人たちの心を一層かたくなにしてしまうのか、という疑問です。どうして、信じない者を信じるように導かれないのか?神が人の心をかたくなにしてしまうということは、旧約新約聖書全体を通してあり、これは神を信じ神に信頼しようとする者にとって大きな問題です。この問題に対して、神の意図はこうこうですと言って安易に説明を下すことはできません。それくらい奥の深い問題だからです。ここで、神を信じる者が考えるべきことは、自分は神の意思をそっちのけにして自分の意思を優先させて生きていないかどうかを、たえず自己吟味することです。そこではっきり言えることは、神はそのような者に対しては、心をかたくなにすることはしないということです。

 

3.イエス様のたとえを聞いてその意味をわかった人たちが、なぜ一層心をかたくなにしてしまったのか?それは、神が御自分の計画の実現のためなら、信じない人の心を一層かたくなにすることも辞さない方だから、ということが明らかになりました。それならば、なぜ大祭司たちは一層かたくなにされてしまう前に、そもそも信じることができなかったのか?このことについて見ていこうと思います。何が彼らにとって正しい信仰の妨げだったのでしょうか?それは、彼らが、自分たちの行っている礼拝や崇拝は旧約聖書の律法や預言を全うしたものであると思い込んでいた、そうした己に対する無批判性、自己満足性にあったことでした。

当時のエルサレムの神殿はヘロデ大王が大増築したもので、縦横約400メートル、700メートル位の敷地をもち、外門をくぐって最初に出くわす広い前庭は「異教徒たちの前庭」と呼ばれていました。そこからソロモンの柱廊を通っていくと「女性の前庭」があり、これはユダヤ人の女性が到達できる場所、その先は「イスラエル人の前庭」で、ユダヤ人の男性が入れるところ、その次には祭司だけが入れる幕屋があり、垂れ幕の後ろには大祭司しか入れない最も神聖な場所、至聖所がありました。「異教徒たちの前庭」は興味深い場所です。ユダヤ人でない異教徒でも、ここまでなら神殿に入れて生け贄を捧げることができたからです。これは、神殿を運営する側としては、イザヤ書2章にある預言、世界の歴史が終わる日に諸国民が天地創造の神にひれ伏してその律法を学ぼうと「大河のように」こぞってエルサレムにやってくるという預言、それが実現したという雰囲気を与えたことは容易に想像できます。

しかしながら、当時のエルサレムの神殿が神の約束の実現とみなすのは自己欺瞞でありました。ご存じのように当時イスラエルはローマ帝国の占領下にあり、神の民は少なくとも外面上は解放された民族とは言えませんでした。さらに、異教徒が生け贄を神殿に捧げに来るとは言っても、ふたを開ければ、確かに天地創造の神に畏れを抱いている異教徒もいるが、他方ではなにも天地創造の神ひとりだけを信じているわけではない多神教の者もいる。そういう人からすれば世界各地の神を拝んでいればそれだけおめでたいことになるというだけですから、これは天地創造の神が命じる「私以外に神があってはならない」という掟からほど遠いわけです。このように地中海世界全域のユダヤ人及び異教徒たちの吸引力となったエルサレムの神殿は、ユダヤ教社会の指導者たちにとって自己満足を満たす以外の何ものでもなかったのでした。

それが神の御心からかけ離れていると見破ったのがイエス様でした。本日の福音書の箇所の前の21章12~13節で、エルサレムに入城したイエス様はすぐ神殿に乗り込み、そこにずらっと並んであった両替商や生け贄用の鳩を売る出店をことごとくひっくり返して、即座にイザヤ書56章7節とエレミア書7章11節にある神の言葉に訴えて、神殿の礼拝・崇拝の欺瞞性を暴露します。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところがおまえたちはそれを強盗の巣にしている。」

イエス様が、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝が神の御心とは別物であるとみなしたのは、それは彼が神のひとり子として神の御心を知っていたからにほかなりません。ユダヤ教社会の指導層から見れば、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応完結したということなのですが、そもそも律法や預言の本当の目的は何かと言うと、それは神の人間救済の計画とその実現の仕方について教え、知らせることでした。イエス様はそのことを一番ご存じでした。そして、自分を犠牲にしてその計画を実現したのでした。神の人間救済の計画と実現とは以下のことです。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたように、神に対する不従順と罪を代々受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのであります。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなったのであります。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血でありました。詩篇49篇8~9節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして人間を罪と死の支配から買い戻して下さったのです。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さったのです。人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者とされて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになるのであります。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

神との結びつきが回復したということは、神との戦争状態がなくなって神との間に平和が打ち立てられたということです。イエス様がヨハネ14章27節で言っている平和、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言うところの平和なのであります。ルターが教えているように、この世が与える平和とは外面的に嵐や動乱がない状態にすぎません。嵐や動乱が起きれば失われてしまうものです。しかし、イエス様が与える平和とは、外面的に嵐や動乱があっても保たれる平和です。つまり、神がイエス様を用いて実現して自分が受け取った神との結びつきは、いくら嵐や動乱が外面上は荒れ狂っていても、自分から手離さない限りはしっかり保たれているという、心と魂の平和です。この世が与える平和を肉による平和とすると、イエス様が与える平和は霊的な平和ということになります。

 

4.イエス様は、旧約聖書の律法と預言書の真の目的を正確に把握していました。つまり真理を把握していたのです。当時のユダヤ教社会の自己満足的な指導層の律法・預言書理解は、真理とはかけ離れたものでした。もし彼らがイエス様の教えを認めたら、現存の神殿の礼拝・崇拝は存立の根拠を失ってしまいます。それゆえ、指導層の抱いた反感や危機感は相当なものだったと言えます。イエス様が律法と預言書の目的を正確に把握していたということは、彼が神の人間救済計画を知っていたということです。神の民イスラエルの辿ってきた歴史はこの計画の実現に向かう歴史で、自分はその計画が最終的に実現するためにこの世に送られたのだということもわかっていました。

イエス様の十字架と復活をもって救済計画が実現した後は、人類の歴史は今度は、イエス様が再臨する日、つまり終末の日に向かう歴史となります。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取ることができるようにするというのが神の意思ですので、神の人間救済の歴史は十字架と復活の後も続きます。このように人類の歴史は、神の人間救済の歴史であります。

 しかしながら、学校で教える歴史、歴史学で研究される歴史は、これとは全く別ものです。そこでは歴史を神の人間救済計画が実現する場とか時間とは考えません。学校で教えられる歴史や歴史学で研究される歴史は、神とかこの世を超えたものは一切切り離して、この世の中の範囲内で人間が認識できるもの確認できるものだけを見ていき、それ以外のものは見ません。そのような歴史は、キリスト教の誕生についてだいたい次のように説明します。

「ナザレ出身のイエスは、自分を神の子とかユダヤの王と称して、神の愛や隣人愛についてユダヤ教に顕著な自民族中心主義を超える教えを説いたため、ユダヤ教社会の指導層と激しく対立し、最後は占領者ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された。その後、イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ、彼こそは旧約聖書に約束された救世主メシアだったと説き始め、使徒ペテロはユダヤ人を中心に、使徒パウロは異教徒を中心に伝道し、そこからキリスト教が形成されていった」という具合です。

お気づきのように、こうした歴史では「イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ」とは言いますが、「彼が死から蘇えった」 とは言いません。学校教育や研究者の歴史からすれば、そういうこの世を離れたもの、五感や理性で把握できないものは、歴史学の領域ではなく、信仰に属するものである、ということになります。

イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は歴史観を二つ携えてこの世を生きています。ひとつは、以上みた学校教育上や研究者の歴史です。歴史を見る時、この世の範囲内だけを見、天国とか地獄とかこの世を超えたものには一切立ち入らない、五感と理性で認識できるものだけを相手にするという歴史です。もうひとつは、この世を超えたところで神が人間救済を計画し、律法や預言書を通して神の意図を随時明らかにし、最終的にひとり子をこの世に送って計画を実現した、というまさに頭脳では収まりきれない、心でしか把握できない歴史です。たとえ心ででも把握できれば、それは真理です。頭脳に収まる真理より、深く広い真理です。

このようにイエス様を救い主として信じるキリスト信仰者は、この世中心の狭い歴史観とこの世を超えた広い歴史観の双方を持っており、広い歴史観に命を託している者です。先ほども申し上げましたが、神の人間救済の歴史は、イエス様の十字架と復活の出来事の後は今度は、イエス様が再臨する復活の日、終末の日に向かう歴史です。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取って所有できるように働いていくための歴史です。その意味でキリスト信仰者は、使徒言行録の続編を生きているということになります。そのことを自覚してこの世を生きていきましょう。果たして自分は使徒言行録の続編を担って生きているかどうか自問してみることは大事です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年10月19日 聖霊降臨後第19主日
聖書日課  マタイ21章33-44節、イザヤ5章1-7節、フィリピ2章12-18節