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本日は、中央線沿線7教会による講壇交換日なので当教会は八王子教会の中川俊介牧師をお迎えしました。吉村宣教師は八王子教会にて礼拝の奉仕をされました。
「愛の失格者」 ヨハネ21:15-19
今日は復活後第3主日です。教会の暦では、イースターから40日後の昇天日まで復活のお祝いが続きます。フィンランドの歌で「毎日クリスマス」という歌があるそうですが、この40日間は「毎日イースター」の時です。古い教会の暦では、今日の主題が喜び、来週は、賛美、次が祈りと決まっていました。この喜びについて、ルターは述べています。「私たちは自分では罪とか、死とか、一切の否定的な感覚をもつことがあるけれども、神の憐れみの子として、信じなければいけないことがある。それは私たちが全く罪のないものとされたことである。」それが喜びの理由です。
ただ、誰もが罪の赦し、罪のないものとされたことをすぐに信じたり、体験できたわけではありません。イエス様の一番弟子のペトロだってすぐに信じることができたのではありません。
では、今日の日課を見てみましょう。ペトロはイエス様が十字架につけられる前に、3度、「あなたも弟子でしょう」と尋ねられて、3度イエス様を知らないと否定しています。今日の箇所では復活されたイエス様から、同じように3度、私を愛しているかと尋ねられます。この中でイエス様は最初の二回はアガペーという言葉、「あなたは私を無条件の神の愛で愛するか」という動詞を用いて尋ねています。それに答えるペトロはフィリオスという「親や兄弟のように慕っています」という動詞で答えています。でも、三度目にイエス様がペトロの立場に降りてきてくださった。そしてペトロが答えたと同じ動詞で「あなたは私を親や兄弟のように慕っているかい」と尋ねました。すると彼はおそらく自分が3度もイエス様を知らないと否定した自分の罪のことを、痛みと悲しみの中で思い出したのです。わたしたちの場合はどうでしょうか。
ある家族では、父親が早くなくなり、母親が苦労して二人の息子を育てたそうです。ところが子供たちが成人し、結婚して家庭を持つと、母親に言ったそうです。「お金はあげるけど会いには来てくれるな。」なんと冷たい言葉でしょうか。ただ、冷静に見ますと、人間関係は相互的なものです。母親の方も、忙しさのあまり息子たちが小さい時に、十分に愛を注がなかったかもしれません。あるいは生活の苦しさとストレスを子供たちに当てつけて厳しすぎたのかもしれません。相手を非難しているときは悲しくはないのですが、「お金はあげるけど会いには来てくれるな。」などと平気で言える子供を育ててしまった自分の失敗を思うと悲しくもなるでしょう。わたしたちにもペトロの悲しみはわからなくもないといえるでしょう。
それにもかかわらず、イエス様は裏切り者であったペトロを信じることをやめません。そして彼の目線におりてきて「あなたは私を無条件の神の愛で愛するか」という高度な質問ではなく、「あなたは私を親や兄弟のように慕っているかい」とわかりやすく慰めてくださったのです。これこそ罪ある者を受け止める愛だとわたしは思います。「わたしは不従順で反抗する民に、一日中手をさしのべた」(ローマ10:21)と書いてあるとおりです。それでなければ、神の真実の愛は実証されないでしょう。人間の弱さ、卑怯さという泥沼にしか真実の愛の花は咲かないのです。
真実の愛といえば、昔、ある若い牧師が伝道の意欲に燃えて地方の教会に赴任しました。若いころのペトロのようでした。自分が神の愛の伝道者だと疑うことは決してなかった。ところがその地で伝道は苦しかった。赤ちゃんも生まれたが、奥さんはあまりの生活の苦しさに病気になってしまった。病院で治療を受ける金もない。祈る力もなくなった。教会の仕事もできない。そんなときが長く続いた。自分はもう力がない、試練を越えられない、駄目だと思った。しかしあるとき祈れないで泣いていると、思わず言葉が出てきた、「罪深い私を憐れんでください」それまで彼は、若き日のペトロのように自信に満ちていた。自分が罪深い存在だとは思ってもみなかった。しかし、自分は愛の失格者だとわかった。すると今まで考えてもみなかった「罪深い私を憐れんでください」という言葉が真心から言えるようになった。そしたらあれほど重かった気持ちが慰められ、軽くなった。悲しみのかわりに喜びがでてきた。まさに罪と死の力から解放されたのです。
ペトロも同じだったでしょう。自分が他の誰よりも主を愛している、自分が一番仕えている、そう思い、他の人々を見下していた、それらのことがまさに罪だったとわかったのです。私たちの思い上がりが砕かれるとき失格者でとなり、「憐れんでください」としか言えません。それが生まれ変わりです。失格者こそ神の国の合格者です。復活です。イエス様の復活の体験は、古い自分が愛の失格者だと知ることです。そしてこの失格者をイエス様は信じてくれて、十字架の犠牲、「無条件の神の愛」で贖ってくださったと知ることです。それをペトロは知りました。17節には、知るという言葉が2度でています。イエス様が「ご存じ」であること。ペトロの愛を知っていること。言葉の意味は幾分違います。「ご存じ」というのは直感的に知ること、後の「知っている」はギリシア語のギノースコーであって、段階的・経験的に知ることです。ですから、イエス様はすべての成り行きを以前から既に知っておられ、ペトロが自分の失敗を通して愛を徐々に知っていったことを知られたというのです。イエス様の認識の先行性が語られています。これを、パウロはローマ書で、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(ローマ9:16)と述べています。神の恵みが先行するというのが聖書のメインテーマではないでしょうか。
さて、ペトロにイエス様は三度も私の羊を飼いなさいと命じています。実は羊飼いの仕事というのは、評判の良い仕事ではないのです。イエス様の時代に書かれたラビ文学というのがあります。その当時のラビというのは現代の牧師のような仕事です。ラビは羊飼いを、盗人、詐欺師と同じに見ていました。そして書いています。「この世で、羊飼いの仕事ほど、いやしめられているものはない。」社会的に最低の身分だったのです。ですから、イエス様は最低の仕事につきなさい。ひとから侮蔑される仕事でも、それでも神の愛を最後まで逃げないで貫きなさいと命じたのです。
以前、イエス様が、ヨハネ10:11で「私は良い羊飼いである」といったことは、最低の仕事にわたしは喜んで立つよ、という意味をもっています。わたしがそうなのだからあなたも喜んで、一番低い姿をとる羊飼いになりなさい。ペトロに言われた言葉は、ある面で、わたしたち自身もそう言われているのです。
ロシアのドストエフスキーという作家は政治犯としてシベリアに送られて、苦しみの中で新約聖書を読み、ある日の日記にこう書いています。「たとえ、これが嘘であるにしても、自分はこの心を打つ真実なもの、これと一緒に立ったり、倒れたり、生きたり死んだりしたい。」わたしたちもこの羊飼いの羊飼いであるイエス様とともに低い最低の姿で、一緒に立ったり、倒れたり、生きたり死んだりしたいものです。この方の愛の犠牲によって愛の失格者である「私たちが全く罪のないものとされたこと」、を心から信じて。そして、愛の失格者に向けられた神の限りない愛は真実の信仰を生み出し、真実の信仰はあたたかい奉仕を生みだすのです。そして、毎週日曜日、毎日毎日が復活の日、主に仕える喜びの日と変えられるでしょう。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.先週の主日礼拝の説教で、マルコ16章9-20節は後世の付け足しと考えてはいけない、他の3つの福音書の記録同様に復活されたイエス様が弟子たちに現れたことを伝える大切な記録である、ということを強調して教えました。本日の福音書の箇所が収められているヨハネ21章も、マルコと同じ問題を抱えています。つまり、ヨハネ福音書は本当は20章で終わっていたはずなのに、21章は後で付け足されたのだ、と。どうしてこのように思われるかというと、20章の終わりを見ると、この福音書の結びとして書かれていることがわかるからです。
ヨハネ20章を概観しますと、まずイエス様が埋葬された墓が空であったことが記され、それから復活されたイエス様がマグダラのマリアに現れ、次いで弟子たちの前に二回続けて現れます。そして終わりの30節を見ると、イエス様はこの他にも弟子たちの前で多くの奇跡のしるしを行ったが本書では書かれていない、と断り書きがされます。それに続く最後の31節をみると、この福音書が書かれた目的について述べられます。どんな目的かと言うと、それは、読者がイエス様をメシア救世主、神の子であると信じるようになるためである、そして、そう信じることで読者がイエス様の名において永遠の命を持つことができるようになるためである、という目的です。私たちが、ヨハネ福音書を初めから通して読んで、イエス様をそのように信じることができるようになった時、この目的が達成されたことになるのです。誰がそのような目的を設けたのでしょうか?福音書の記者ヨハネというのは正しくありません。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられる神が、私たちの救いのためにイエス様を送られて、そのことが書物に記されたわけだから、目的の達成というのは、神が設けた目的の達成です。
さて、20章でヨハネ福音書が完結するかと思いきや、「この後、イエスはまた弟子たちの前でご自身を現された」と言って21章が始まり出します。20章で復活したイエス様が現れたのはエルサレムでしたが、21章では場所を変えてガリラヤのティベリアス湖畔になります。ティベリアス湖というのは、ガリラヤ湖のことです。この21章が誰の手による付け足しかということについて、学界でも議論がありますが、原文のギリシャ語の使い方や文体からみて、1章から20章までを書いた人と同一人物と見なしてよく、仮に異なる人だったとしても、福音書記者の直近の弟子が先生の残した証言録を正確に伝えて記したと言えるものです。ヨハネ福音書は一体誰の手によって書かれたかということについては、これも学界では諸説がありますが、本福音書は直接の目撃者が記したのだということが随所に言われているので、12弟子の一人であるのは間違いないでしょう。さらに加えて、あの裕福な漁業経営者(マルコ1章20節)ゼベダイの二人の息子の一人ヨハネであると言っても、何も問題ないという立場を本説教者はとる者です。
2.ヨハネ21章の文章は、20章までと同じように直接の目撃者の証言としての性格がよく出ている文章です。どうしてかというと、創作にしては隙だらけの文章で、むしろ目撃者の狭い視点で生き生きと直接的に語られているからです。以下にそうしたことを見てみましょう。
ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。これらの弟子たちがエルサレムからガリラヤに戻ってきたことは、イエス様の復活を告げた天使が弟子たちにガリラヤに行くように指示したこと(マタイ28章7節、マルコ16章7節、マタイ28章10節ではイエス様が直接指示)が背景にあると考えられます。さて、その夜は何も捕れませんでした。ガリラヤ湖の漁師にとって、夜は最適な漁の時間帯だったようです。ルカ5章でペトロはイエス様に、夜通し頑張ったが何もとれませんでした、と言います。最適な時間帯でもダメな時があるということです。
夜が明けた頃に、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、それがイエス様だとはまだわかりません(4節)。イエス様が復活直後に弟子たちに現れた時も、すぐにイエス様であるとはわかりませんでした。マグダラのマリアは最初、庭師かと思いました。名前を呼ばれて初めてイエス様だと気づきました(ヨハネ20章15節)。エマオに向かう途中の二人の弟子は、一緒に話しながら歩いている男がイエス様であるとわからず、夕食の時、イエス様が賛美の祈りを唱えてパンを裂いた時に、「目が開かれて」イエス様だとわかりました(ルカ28章13-32節)。なぜ、そこまで気づかなかったかと言うと、ルカによれば二人の目が「遮られて」いたからでした(24章16節)。それは、彼らが、イエス様が以前預言していたこと、つまり、自分は処刑されても死から復活すると言っていたことを心に留めていなかったことを、また、死者の復活そのものをまだ信じていなかったことを意味するのでしょう。
イエス様だと気づかれなかった原因は、弟子たちの方だけでなく、イエス様の側にもあったと言えます。マルコ16章13節によると、イエス様は二人の弟子たちに何か「別の姿かたち」(εν ετερα μορφη)で現れたと記されています。復活されたイエス様は、気づこうとすれば気づけるけれども、一見すぐには気づけない何か以前とは異なる姿かたちをしていたことが窺えます。ルカ福音書やヨハネ福音書では、復活したイエス様が鍵をしめた家の中に突然入って来られます。弟子たちは亡霊だと言ってパニックに陥りますが、イエス様は「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」と言って、弟子たちに手足を見せたり(ルカ24章39-40節)、わき腹に触れさせたりします(ヨハネ20章27節)。亡霊とか人間とかいう範疇ではくくれない、想像を超えた姿かたちとして復活の体が存在するのであります。イエス様自身、マルコ12章25節で、死者の中から復活する者は「天使のようになる」と言っています。空間を超えて移動する様は、さながら天使そのものです。使徒パウロは、復活した体は朽ち果てることのない輝きと力に満ちた体だ、と言っています(1コリント15章42-43節)。ちなみに、私たちも復活の日に死者の中から復活させられる時は、そのような体を与えられるのです。
以上のように、気づこうとすれば気づけるのだけれども、見る方の不信仰も手伝って、すぐには気づけない何か以前と異なる姿かたちがある、そんな姿かたちを復活のイエス様はとっていた。それで、弟子たちは、すぐにイエス様とわからなかったのでした。それと同じことが、ガリラヤ湖でも起きました。弟子たちは、湖岸に現れた男をイエス様とはわかりませんでした。それが、イエス様とのやりとりを通して最後にわかるようになります。どんなやりとりがあったのかをみてみましょう。
イエス様は弟子たちに、「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞いていますが、ギリシャ語の原文で「子たちよ」というのは、実は複数の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、日本語訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語の原文の形は、「ありません」と否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。つまり、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。日本語では「そうすればとれるはずだ」ですが、正確には「見つかる」です。何が見つかるかというと、「食べる物」です。
このやりとりから推測するに、弟子たちは天使の指示通りにガリラヤに戻ってはきたものの、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の弟子であるとは公にしにくい状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。主は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。
まさにこの時、かつてガリラヤ湖の湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が、ペトロの記憶に蘇ったでしょう。それは、ルカ5章1-11節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には船が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと、同じことが今また起きた。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」 そう思うや否や、この福音書の記者であるヨハネが、同じ結論を真っ先に口にします。「主だ!」ペトロは、復活の主にまた相まみえるべく、湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペテロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れているところです。
ペテロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペテロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。もちろん、ヨハネが後日ペトロに、あの時どんなことを話していたのか、と聞き取りしていれば、それを加えることも出来たでしょうが、それはなかったのであります。ない以上は、書きようがなく、それでここは空白にならざるを得ないのです。こういうわけで、ヨハネ福音書に限らず、他の福音書や使徒言行録の目撃者の証言録はできる限り尊重しなければなりません。現代人の感覚にあわないものは、すぐ、これは創作だ、と決めてかかる態度は出来る限り、信仰者であればなおさら控えなければなりません。
こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主に今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。かつて、12弟子たちが宣教旅行から帰って来た時、イエス様がまっさきにしたことは、彼らを休ませることでした(マルコ6章31節)。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とはまさに主の御心なのです。
3.以上、本日の福音書の箇所は、福音書記者ヨハネの目撃したことに基づく出来事の生き生きした記述であることをみてきました。ここから先は、この箇所が読者である私たちの信仰にとって、どんな意味があるかをみてみたいと思います。
本日の箇所の出来事は、イエス様を救い主と宣べ伝える者にとって大きな意味があります。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹が高まった時、主が助言して、それに従うと、予想を超えた成果を得ました。そして、主に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。主が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さったのです。網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しています。本日の箇所に出てくる153匹の魚の153という数字は、当時世界中の魚の種類は全部でそれだけあると考えられていたという説があります。それで、153匹の魚が網に入ると言うのは世界の全ての民族が福音を信じるようになったことを意味するのだと解釈する人もいます。この説の真偽はここでは吟味いたしませんが、いずれにしても、イエス様は漁師ペトロとアンデレを弟子にする時、「人間を捕る漁師にしてやろう」と言っているので(マルコ1章17節)、網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しているのです。そのため、本日の箇所は、宣べ伝えで一生懸命労苦しても誰も福音に耳を傾けてくれず心も向けない、ひどい時は悪口を言われたり追い出されたり、昔なら迫害を受けてしまうこともある。ただただ疲労に疲労を重ねるだけの時期がある。場合によっては食に窮することもある。ところが、ある時、主の助言があり、それに従うと予想もしない成果が現れることがある。そして、主は疲れた心と体を癒しねぎらってくれて、再び宣べ伝えに出ていく力をつけてくれる。そういう福音の宣べ伝えの現場のサイクルが見事に暗示されています。このことを本日の箇所から学ぶことができます。
さて、主の助言がある、と言う場合、私たちはいつどこでそれを聞くことができるのでしょうか?復活されてから天に上げられるまでの40日間、イエス様は弟子たちに現れて、彼らを教え、また強めました。私たちには同じような形で主は現れません。しかし、そのかわりに私たちには、主に助言を求める拠りどころとして聖書があります。聖書には、イエス様が教えたこと、なさったことが目撃者の証言をもとに収められています。さらに、イエス様をこの世に送られた天と地と人間の造り主である神の私たちに対する御心が明らかにされています。神は、堕罪の出来事で死む存在となってしまった人間が、再びご自分のもとに永遠に戻ることが出来るようにと望まれました。そこで、その妨げになっている罪と不従順という私たちの汚点の重荷を全てイエス様に請け負わせて、その罰を全てイエス様に十字架上の上で受けさせました。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を「赦す」というやり方をとって、人間に新しい人生の道を開いて下さいました。このような神の愛と恵みを受け取った者の信仰と人生とはいかなるものか、ということについても聖書は詳しく教えています。このように聖書は、私たちにとっては主の助言の大切な源であります。
それから、福音の宣べ伝えに携わる者というと、それは牧会者や宣教師にのみ関係すると考えられそうですが、これは異なる仕方で信徒にもかかわっています。イエス様は、彼を救い主と信じる者は、神を全身全霊で愛するように、と、また隣人を自分を愛するが如く愛するように、と教えられました。神を全身全霊で愛するというのはどういうことでしょうか?それは、人間が罪と死の囚われ状態から解放されて、神との永遠の結びつきをもって生きられるために、御自分のひとり子を犠牲にまでした神の愛と恵みにただ感謝して、その愛と恵みの中にしっかりとどまって生きようとすること、その結果、そのような神の意思に沿うようにするのが当然と志向することです。
隣人を自分を愛するが如く愛するというのは、神がこの救いようのない自分に対して多大な愛と恵みを持って接して下さったように、自分もまた、どうしようもないと見える隣人に対して愛と恵みを持って接するということです。接する際に、隣人にもなんとか神の愛と恵みが及ぶようにし、いつかはその中に入ることができるようにすることを目指すのが隣人愛です。もし隣人が同じキリスト信仰に生きる人であれば、その人が神の愛と恵みにしっかりとどまって、永遠の命に至る道を踏み外さないで歩めるように助けあい支え合うことです。もし隣人がキリスト信仰を持たない人であれば、神の愛と恵みの中にとどまる者としてその方に接しつつも、いつかは同じ道に歩みを共にすることができるようにと神に祈り願い、機会が与えられれば、聖霊の助けを得て神の愛と恵みを証すること、これが神の望まれる隣人愛です。こういうわけで、信徒も、牧会者や宣教師とは異なる仕方ではあっても、日常生活の場面で福音の宣べ伝えに深くかかわっているのです。
最後に、先ほど見た福音の宣べ伝えのサイクルでひとつ忘れてはならないことがあります。それは、主は、牧会者・宣教師であろうと信徒であろうと宣べ伝えに携わる者を見捨てないということです。残念ながら、困窮や苦難そのものは消滅しません。というのは、この世はその性質上、造り主を忘れさせる自分中心主義や、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義から抜け出ることができないからです。従って、この世を超える永遠と造り主に目を向けさせる福音に対して、この世が敵対するのは避けられません。しかし、私たちが困窮や苦難に陥っても、主はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、その時に現れました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さると本日の箇所は教えています。そのことを忘れないようにしましょう。本日の箇所以外にも聖書には、神は決して見捨てないとの教えが沢山あります。この世の人生の歩みで、神が果たして私のことを心に留めておられるのか、と心配になり弱気になることが多々あります。それでも、洗礼を通して神との間に絆が築かれたこと、その絆が聖餐式で受ける主の血と肉によって固く保たれること、これらは私たちの弱い感覚や感情がどう感じ、どう思おうが、神の目からみたら揺るぎのないものであります。そのことも忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 2015年4月19日 復活後第二主日 聖書日課 ヨハネによる福音書21章1-14節、使徒言行録4章5-12節、第一ヨハネ1章1-2章2節
1.聖書は聖霊のコントロールが働いて出来たもの
イエス様の復活は本当にあったのかどうかという問題は、それについての福音書の記述が信頼できるものかどうかという問題に結びついています。そこで、復活についての記述そのものに問題があり、それがその信ぴょう性を揺るがしていると見る人たちが大勢います。本日の福音書の箇所があるマルコ16章9-20節も問題ありと見なされる記述の一つです。何が問題なのかというと、16章9-20節は、もともとマルコ福音書が16章8節で終わっていたのに、後で付け足して書かれたものと見なされるからです。つまり、マルコ1章1節から16章8節までが本当のオリジナルのマルコ福音書で、その後は誰かがイエス様の復活を本当のことのように見せたいために、もともと空っぽの墓で終わっていた福音書に、姿をとって現われたイエス様のことを付け加えたのだ、と言うのであります。もっともらしく聞こえますが、事実はそう単純ではありません。
そういうわけで本日の説教では、最初にこのマルコ16章9-20節の信ぴょう性について少し考えてみたいと思います。その次に本日の主題である信仰と洗礼についてお話ししたいと思います。第一部と第二部に本日の説教は分かれることになります。第一部は、ひょっとしたら大学の講義みたいに聞こえてしまうかも知れませんが、実はその結論で述べることが第二部のお話の大前提になるので避けて通れません。申し訳ないですが、少しの間ご辛抱下さい。もっとも、大学の講義みたいになるとは言っても、普通、大学の神学部の授業だったら、マルコ16章9-20節は付け足しだったと教えるのが多いのではないかと思います。その意味では、第一部は、大学の講義みたいにはならないでしょう。
まず、マルコ1章1節から16章8節までがオリジナルのマルコ福音書であったということがどうしてわかるのか、という問題があります。マルコ福音書は4つある福音書の中で一番古いと見なされ、西暦70年にローマ帝国の大軍がエルサレムを徹底破壊する直前ないし直後に書かれた、というのが学界の多数派の見解です。(なかには、西暦30ないし40年代に書かれたという研究者も若干います。)しかしながら、オリジナルのマルコ福音書は現存していません。私たちが目にすることができるのは、オリジナルの後に出て来た手書きのコピーだけです。15世紀のグーテンベルグの活版印刷術までは、本は手書きでコピーされていました。新約聖書の中にある書物の手書きコピーは地中海世界のあちこちで発掘され、今では主として欧米諸国の博物館や大学の図書館に保存されています。発見された新約聖書の手書きコピーの中で一番古いものは、西暦200年代のものです。そういうわけでマルコ福音書は、オリジナルは言うに及ばず手書きコピーにしても、本が生まれてから少なくとも150年位の間のものは発見されていません。さらに注意すべきことは、マルコ福音書の年代の古い手書きコピーをみても、どれも完全からは程遠い一部分しか残っていないものばかりです。西暦300年代、400年代以後になると完全に近い形のコピーが出てくるようになります。古い断片的な手書きコピーを土台にして、オリジナルのものを「復元」しようとする努力がなされてきました。(現在、ギリシャ語の新約聖書としてよく用いられるNovum Testamentum Graecaeはそのような復元作業の成果であります。)
今ここで問題となっているマルコ16章9-20節は、古い手書きコピーには入っていませんでした。西暦700年代、800年代のコピーの中に入っているものが見つかりました。このようにこの箇所は、見つかった年代が遅いために、後世の付け足しであるという見解を強めています。しかしながら、西暦200年代の手書きコピーになかったとは確実には言いきれないのです。なぜなら、その年代の発見された手書きコピーは、どれを取っても福音書の一部分しか残していないからです。残っていない部分にどんなテキストがあったかはわかりません。さらに忘れてはならない大事なことが一つあります。それは、イレナエウスという西暦100年代後半に活躍したリヨンの教会指導者が、他でもないこのマルコ16章9-20節を引用しているのです(この引用の事実は4世紀終わりに由来する引用のラテン語訳から知ることができるのですが)。そうなるとマルコ16章9-20節の起源は、一気に西暦100年代後半に遡ります。これで、700年代の手書きコピーに出てくるから、その年代に書かれた付け足しであるという説は成り立たなくなります。
付け足し説にもう少しお付き合いするとして、マルコ16章9-20節は西暦100年代半ばに書き足された、しかし、オリジナルのマルコ福音書はやはり16章8節で終わっていた、と主張してみます。ところが、先ほど申しましたように、マルコ福音書はオリジナルは言うに及ばず、手書きコピーも西暦100年代のものは発見されていません。付け足しかどうかということは、その年代のコピーを発見して確認しないと確実なことは言えないのです。
マルコ16章9-20節がもともとのマルコ福音書になかったと疑うもう一つの根拠として、マルコの記述の仕方がマタイ、ルカ、ヨハネの他の三つの福音書の記述を要約したもののように見えるということを挙げる人もいます。つまり、付け足しを書いた人がマルコ福音書より後に出た三つの福音書を読んで、イエス様が人々に姿を現した出来事の部分をそれぞれ要約してつなぎ合わせて、マルコ福音書の終わりにくっつけた、というのであります。例えば、マルコ16章9-11節はイエス様がマグダラのマリアに現れた記述ですが、これはヨハネ20章14-18節にある詳細な記述の要約と見なされる、と。またマルコ16章12-13節にある移動中の二人の弟子にイエス様が現れたという記述は、ルカ24章13-35節にある有名な「エマオの道」の出来事の要約である、と。マルコ16章14節のイエス様が11弟子に現れたと記述は、ルカ24章36-43節とヨハネ20章19-23、26-29節にある詳細な記述の要約ではないか、と。そしてマルコ16章15-18節にあるイエス様の弟子たちに対する宣教命令は、マタイ28章18-20節の要約である、という具合です。
しかしこれも、文章をよく見るとそう単純なことではないのです。というのは、要約したとされる内容ともとにあったとされる内容との間に食い違いがあり、マルコの記述は必ずしも、三つの福音書の要約とは言い難い点があるからです。移動中の二人の弟子にイエス様が現れた出来事について、マルコでは他の弟子たちが二人を信じなかったことが強調されますが、ルカでは他の弟子たちの不信仰は触れられません。またイエス様の宣教命令をみても、要約元とされるマタイ福音書では、マルコ福音書にある、信仰を持つ者が行う奇跡について何も言っていません。こうなると、マルコ16章9-20節は、マタイ、ルカ、ヨハネの三福音書のつまみ食い的な要約とは言えず、三福音書の記述と並んで、ひとつの独立した伝承の流れに乗ったものと見なすことができます。
このように、復活したイエス様が人々に現れた出来事について、4つの異なる伝承の流れがあるとすると、どの流れが実際の出来事を反映しているのか、という疑問が起きます。これは、4つの福音書では同じ出来事の記述になぜ違いがでるのか、という問題につながります。手短に説明しますと、イエス様にまつわる出来事の目撃者である弟子たちの証言がまず生まれました。それが口伝えされたり記録にとどめられていくうちに、そうする人たちの置かれた状況やものの見方も手伝って、例えば強調したいところはより強調され、瑣末に思われるところは背後に退くということが起きる。それで、最初の目撃者の証言の伝承や記録は、時間の経過とともに膨らんだり縮んだり、また記述される出来事の文脈が変わってきたりすることもあります。
しかしながら、このような場合でも絶対忘れてはならないことがあります。それは、 (1)記憶のされ方やものの見方に相違が出るとは言っても、これらの目撃者や伝承者や福音書の記者たちはすべて皆、イエス・キリストが死から復活した神の子であると信じた人たちということ、 (2)さらにパウロを含む使徒たちの教えに忠実だったということです。つまり彼らは、共通の土台の上に立っていたのです。従って、記憶やものの見方に相違が生じても、それは土台そのものを覆すほどのものではなく、許容範囲にとどまるものでした。その意味で、目撃者の証言の伝承の過程において聖霊の影響力とかコントロールがしっかり働いていたと言うことができます。(「聖霊のコントロール」などと非学術的な言葉を使わないで、学術的な言葉を使って言い換えると、「使徒的伝統に忠実だった」となります。両者は同じことを別の言葉で言い表しています。)当時は、聖霊のコントロールから外れた伝承、教え、見解が多く流布しておりました(例として、トマス福音書とかユダ福音書とか)。しかし、そうしたものは一切、聖書のなかに入ることはできませんでした。そういうわけで、聖書は聖霊の働きの結晶です。聖書をあなどってはいけません。
そういうわけで、4つの福音書のイエス様の復活の記述にいろいろ相違があっても、 (1)墓の前の大石が取り除かれ墓が空だったこと、 (2)最初にそれを目撃したのは少なくともマグダラのマリアであったこと、 (3)イエス様が復活してすでに墓から出て行ったことを天使が告げたこと、 (4)その後でイエス様は何人かの弟子たちに現れ、最後に11人の弟子に現れたこと、以上は、どれも中核を成す共通項です。本当に起こったことは、この中核部分に結びつくものだったのでしょう。
以上から、マルコ16章9-20節は、後の付け足しであると結論を下すためにはクリアーしなければならない問題が多くあることが明らかになったと思います。もちろん、以上の議論をもって同箇所がマルコ福音書のオリジナルにあったと結論づけられるかというと、それもまだ決定的なことは言えないというのも事実です。しかしそれでも、ひとつ確実な結論があります。それは、マルコ16章9-20節は、マタイ、ルカ、ヨハネの記述に寄りかかってできたものでなく、それらと並んで、同じく聖霊の影響力・コントロールが働いて出てきた記述であるということです。それゆえ、聖書の他の箇所と同じく、人に信仰を生み出す力を持つ神の御言葉であるということです。
2.
それでは、マルコ16章9-20節も人に信仰を生み出す力を持つ神の御言葉という以上は、この箇所は私たちに何を教えようとしているのでしょうか?ここから本説教の第二部に入ります。ここでは、イエス様が「信じて洗礼を受ける者は救われる」(16章16節)と言っていることについて、つまり、救いの前提には信じることと洗礼を受けることの二つがあると教えていることについて見ていきたいと思います。
日本語の訳にあるように、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と言うと、救われるためには、最初に信じることがあって、次に洗礼を受ける、というような順番があるような印象を受けます。しかし、これは正しくは、双方が一緒にそろって救われるという並列の関係です。順序ではありません。つまり、救われるためには、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることの双方がそろわないといけない、と言うのであります。
そうなると、赤ちゃんは幼児洗礼によっては救われないのか、洗礼は子供が誰を救い主と信じるか自分でわかる年齢に達するまでは受けても意味がないのかという議論が起こります。ここで注意しなければならないことは、幼児洗礼には、救いというものが神からの贈り物として与えられる、ということが最も強くあらわれるということです。どういうことかと言うと、人間は堕罪によってそれまであった自分の造り主である神との結びつきを失ってしまいました。神との結びつきを持たないままこの世を生きるだけでなく、この世から死んだ後も永遠に自分の造り主から引き裂かれた状態に陥ってしまう、つまり永遠の滅びに陥ってしまう存在になってしまったのです。そこで神は、人間が再び自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにと、またこの世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れるようにと、そのために一人子イエス様を御許からこの世に送られました。そして、自分と人間との結びつきを壊した原因である罪と不従順を全てイエス様に請け負わせ、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして、彼が与り知らない罪の罰を全て身代わりに受けさせて十字架の上で死なせました。さらに神は、一度死なれたイエス様を今度は復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さいました。
こうして人間は、イエス様の十字架の死と死からの復活によって、全ての罪が償われて、目の前に死に打ち勝って自分の造り主のもとに通じる道が開かれたのです。あとは人間の方が、これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を神からの贈り物として受け取ることができるのです。
洗礼の時、無力で非力な赤ちゃんは100%受け身に徹しているので、救いはまさに注がれるようにして受け取られます。他方で大人は、どうしても自分はちゃんと聖書や教理を理解できているかとか、どこまで真人間になったかとか、ということが気になって、洗礼を受けるのにまずそれにふさわしい人間にならなければならないと考えてしまう。しかし神からみれば、人間が、自分のことを罪と不従順に染まった存在であるとわかって、そこから助けて下さい、私のために十字架にかけられたイエス様以外には救い主はいません、と叫べば、本当はそれで十分なのです。もちろん、大人が洗礼を受ける時は、洗礼が何をもたらすのか知らないでは受けられませんので、その意味で教理を学ぶことは必要です。しかし、その学びは、学べば学ぶほど自分は神の救いを赤子のように受け取らないと救われないと観念するような学びでなければなりません。その意味で赤ちゃんは、そのような学びが必要ないのです。
しかしながら、赤ちゃんが洗礼を受けたら、それで終わりかというと、そうでもないのです。子供が育っていくにつれて、自覚や理解力ができてくるにつれて、今度は自分がどれほど大きな贈り物を受けているのか、洗礼が自分に何をもたらしたのかをわかるようにならなければならない。そうなるために両親の責任は大きなものがあると言えましょう。つまるところ、幼児洗礼を受けた人の場合の信仰とは何かと言うと、自分が既に受けた神の愛と恵みの深さ大きさをわかるようになること、そのようなものを受けた者として自覚的に生きること、と言い換えてもいいでしょう。大人洗礼の場合は、これから受けることになる神の愛と恵みの深さ大きさがわかって洗礼を受け、そのようなものを受けた者として自覚的に生きていきます。どっちにしても、「信じ、かつ洗礼を受ける者」になります。
ところで、私が長年居住したフィンランドをはじめ欧米の伝統的なキリスト教国に近年顕著にみられる傾向ですが、幼児洗礼は形式的な通過儀礼に堕してしまっているということがあります。子供が自分の受け取った神の贈り物がどれほど大きく素晴らしいものか、わからずに大人になってしまうことが多くみられるようになりました。これでは、「信じ、かつ洗礼を受ける者」にはなれません。親の責任は重大です。人は神からの贈り物がわからなければ、心に神への感謝は生まれなくなります。神への感謝が生まれなければ、人のものの見かたや考え方は自分の造り主を忘れた人間中心になり、また永遠の命を忘れたこの世中心なものとなってしまいます。
それでは、今度は逆に、自分はイエス様が救い主であると自覚して生きるから洗礼はいらない、と言った場合はどうでしょうか?例えば、ルカ23章にありますが、イエス様の十字架の隣の十字架にかけられた犯罪人が死ぬ直前にイエス様のことを神の国の王と告白する場面があります。この犯罪人は洗礼を受けなくても、イエス様から救いを約束されたではないか、と。この場合は、洗礼を受けるも何も、もう最後の瞬間で洗礼式など執り行える可能性はゼロです。このような他に手立てがない場合には、イエス様を救い主と告白することだけで救われるという例であります。しかし、一度告白した後もまだ先がある場合は、そうしたらあの犯罪人が行ったような全身全霊の告白をずっとしなければなりません。洗礼なしで、そんなことは可能でしょうか?
このことを考える時、ペトロがイエス様のことをメシア/救世主、神の子と告白した時、イエス様は、この告白はペトロ自身(「人間の血と肉」)から出たのではなく、天の父なるみ神がペトロに言わしめた、と言ったこと(マタイ16章17節)を思い出すとよいでしょう。加えて、本日の使徒書の箇所でヨハネは、イエス様をメシア/救世主と信じる者は神から生まれたのである、と言っていました(第一ヨハネ5章1節)。これらから明らかなように、人間がイエス様を救い主と信じるのは、人間の力や能力から来るのではなく、神の霊である聖霊の力によるのです。人間の力や能力だけでイエス様のことを知ろうとすれば、せいぜい歴史上の類まれな宗教家とか哲学者とかイデオローグないしは社会改革者というような捉え方で終わるでしょう。歴史上の人物ですから死にますし、今復活した状態で天におられるなどとはとても考えらません。これは知識上のイエス・キリストであって、信仰上の主ではありません。知識は、人を自分の造り主である神のもとに連れて行くことも、死を超えた永遠の命を与えることもできません。それができるのは、信仰です。
人がイエス様を救い主とか、今も復活しておられると信じ始める時というのは、その人が聖霊の影響を受け始めたことを意味します。ここまで来たらあとは洗礼を受けるのが自然の流れです。洗礼を受ける時、人はイエス様が約束された聖霊を注がれます。洗礼を通して聖霊を受けることで、人は恒常的にイエス様を救い主と信じる信仰を持って生き始めることになります。洗礼を受けられる可能性がありながら、それをあえて受けないままでいて、人がイエス様を救い主と信じて生き続けることは不可能です。
3.
最後に、「信じる者に伴う」(16章7節)奇跡のしるしについて少し触れておきましょう。本日の箇所で、そのようなしるしとして、悪霊を追い出すこと、異言を語ること、蛇をつかんだり毒を飲んでも傷つかないこと、病人を癒すことが数えられています。ここで注意しなければならないことは、これらのことが伴わなくても、それは信仰の弱さとか欠如を示すものではないということです。「伴う」パラコルーテーセイπαρακολουθησειというギリシャ語の動詞は未来形ですが、ギリシャ語の未来形は「伴うことが可能である」と可能性の意味に考えることもできます。仮に未来の意味で考えても、はっきりしていることは、「イエス様を救い主と信じ、かつ洗礼を受ける」ことこそが救われる大前提であるということです。これは、先に見た通りです。この大前提があれば、別に奇跡のしるしを行わなくとも、救いには何の影響もありません。他方で、自分に信仰があることを示してやろうと、こういう奇跡のしるしを追い求めることは本末転倒です。それは「神を試す」(マタイ2章7節)ことになるからです。
ここにリストアップされている奇跡のしるしは、福音の宣べ伝えに際してあらわれたものであることにも注意しましょう。「毒を飲む」というしるしの事例は新約聖書には見つかりませんが、「蛇をつかむ」ことはパウロがローマに送られる途中のマルタ島で体験したことが使徒言行録に記されています(28章3-6節)。そういうわけで、キリスト信仰者は自分にはどんな奇跡のしるしが伴うかを気にするのではなく、自分は福音の宣べ伝えを行っているかどうかを先に考えるべきです。私たちの隣人が「信じ、かつ洗礼を受け」て救いを受け取る者となれるように、祈り、働きかけることの方が本質的なことであります。父なるみ神にそのための知恵と力と勇気を与えてくれるよう、祈り求めましょう。
主日礼拝説教 復活後第一主日 4月12日の聖書日課 マルコ16章9-18節、使徒言行録3章11-26節、第一ヨハネ5章1-5節
礼拝の後ポウッカ先生が恒例のフルートの演奏をして下さいました。
4/11の料理クラブは、「レモンクリームのプッラ」を作りました。
冬が戻ってきたような寒い中、教会に到着すると可愛い黄色の花に迎えられ、今日はイースターカラ―の「レモンクリームのプッラ」を作りました。
最初にお祈りをしてスタートです、計量して生地を捏ねていきます、フィンランド式のゆったりとした生地作りに、驚かれた方もいらしゃいました。発酵の時間に、今度はレモンクリーム作りへ、レモンの表面をおろし金に当てた瞬間、牧師館は爽やかなレモンの香りに満たされました、クリームの味見をしつつ、発酵を待ちます。
ふっくらした生地を分割・成型して、再度発酵させ、レモンクリームにレモン果汁を最後に加え、生地にトッピング、180度のオーブンへ・・・・・、焼き色もかわいい、レモンクリームのプッラが完成しました。
試食会では、説明用に作ったシナモンロールも一緒に味わいました、パイヴィ先生からは、イースターシーズンのフィンランドの食の習慣や「マンミ」や季節の食べ物の事、日本ではあまり知られていない、イースターの本当の意味「復活」について、聞かせていただきました。
次回の料理クラブは、9月開催を予定しています。
1.キリスト信仰の復活
「復活」という言葉は、死んだ人が生き返るというのが基本的な意味ですが、普通は「生き返り」に直接関係しなくて、もっと広い意味で使われます。例えば、もう回復の見込みがないとか、もう見つからないと観念していたものが回復したり見つかったりするような時に使われます。「敗者復活戦」という言葉は、一度チャンスや希望がなくなっても、それが新たに与えられることを意味しています。そのように、「復活」という言葉は、絶望や失望を超える大きな希望があることを教えてくれる言葉になっています。とても素晴らしい言葉だと思います。ところで、キリスト信仰でいう「復活」とは、これは文字通り本当に死んでしまった人が生き返ることを意味します。しかももっと大事なことは、「生き返る」とは言っても、それは、仮死状態から蘇生することとは全く違う現象を意味します。
それでは、キリスト信仰の復活とはどんな現象かと言うと、まず私たちが存在する今のこの世がいずれ終わる時が来て、今ある天と地が新しい天と地に取ってかわる時が来る(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、第二ペトロ3章13節)。その時、存在する被造物は全て揺り動かされて取り除かれ、唯一揺り動かされず取り除かれない神の国が現れる(ヘブライ12章27-28節)。まさにそのような天地大変動の時に死者の復活が起きて、神の目に適う者(本日の使徒書の日課の言葉では「キリストに属している者」第一コリント15章23節)、これがこの世の時と異なる体と命、つまり復活の体と命を与えられて神の国に迎え入れられる、というものであります。神の国とは天の国、天国とも呼ばれますが、そこで復活した者はどうなるかと言うと、黙示録19章や21章それに本日の旧約の日課イザヤ書25章6-9節にも記されているように、盛大な結婚式の祝宴にたとえられるお祝いの席に招かれて、全ての涙を拭われるのであります。それは、まさに、この世で背負った労苦が最終的に完全に労われ、またこの世で被った害悪も最終的に完全に償われるということです。こうして復活を遂げた者たちは、自分のもともとの造り主である神のもとで、神の義と正義と愛と恵みに包まれて永遠に過ごすことになるのであります。
そういうわけでキリスト信仰の復活とは、それがいつ起こるかは天の父なるみ神しか知らないという(マルコ13章32節)、この世の終わりの時、次の新しい世が始まる時に起こるものであります。先ほど、復活は、仮死状態からの蘇生とは違うと申しました。蘇生の場合は、死んだ体がちゃんと残っていなければなりません。復活の場合は、体は土葬されて骨も肉も腐敗して干からびた状態、火葬ならば灰になった状態で跡形もありません。それにもかかわらず、使徒パウロが詳しく教えているように、復活の体と命が与えられて、もう朽ちない体、もう死なない存在に変えられるのです(第一コリント15章35-53節)。仮死状態から蘇生した人は、いずれ本当に死ぬ時が来ます。しかし、復活の場合は、本日の旧約と使徒書の日課や他の聖書の箇所で「死が滅ぼされる」と言われているように(イザヤ25章8節、第一コリント15章26、54-55節、黙示録20章14節、21章4節、ホセア13章14節)、もう死ぬことのない永遠の命を持って生きることになるのです。キリスト教の葬儀では、亡くなった方と復活の日に再会できるという希望を集まった会衆同士が確認しあいます。復活の日の再会がどのような場所でどのような形で起きるかは、以上みたように聖書を繙けばかなり明らかになるのであります。
2.イエス様の復活
キリスト信仰で、復活というものが、今のこの世の終わりの時に起こるものとすれば、2000年近く前に起きたイエス様の復活は大きな例外となります。まだこの世の終わりが来ていないのに復活させられたからです。本日の使徒書の日課の中で、復活には順序があり、最初はキリスト、次はキリストが再臨する時にキリストに属する者が復活させられる、と言われています(第一コリント15章23節)。この日課の一つ手前の節を見ると、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(同20節)と述べられています。使徒パウロの言葉です。「初穂」は、ギリシャ語のアパルケー(απαρχη)の訳ですが、とても詩的で素晴らしい訳だと思います(注 23節の「最初はキリスト」の「最初」も同じギリシャ語の言葉ですが、訳しわけをしています)。イエス様の復活が起きてからもう2000年近く経っているので、初穂の次に穂が出てくるのは時間がかかっていますが、それは、一日は千年のごとく千年は一日のごとくという(第二ペトロ3章8節)父なるみ神の時間表ですから、神がよかれと思う、機が熟する時を忍耐して待つしかありません。いずれにしても、イエス様は、私たちの復活の先駆けになったのであります。ここで、なぜイエス様が一足先に死からの復活を成し遂げなければならなかったのかを見てみましょう。
このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかったわけですから、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。
この間の聖金曜日礼拝の説教でも申しましたように、イエス様の十字架上での死というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが堕罪の出来事のゆえに罪と死に支配される存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも罪が強調されるので、外部からは訝しがられることがあります。人間には悪い人もいるが良い人もいるではないか、悪い人だっていつも悪いとは限らないではないか、と。しかし、死ぬということが、人間が最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。
さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死ぬ存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしてあげようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、イエス様の十字架上の死がまさに自分のために行われたのだと分かって、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神が与える罪の赦しがその人に対して効力を持ち始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復して、この世の人生を歩み始めることになるのです。
以上から明らかなように、一足早いイエス様の復活は、彼自身のために起こったのではありません。私たちが救われるために起こったのです。イエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命、そしてこの世的でない復活の体が実在することが示され、そこに通じる扉が開かれたのです。イエス様を救い主と信じる者は、この永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めたのです。父なるみ神にこれだけのことを取り計らってもらった以上は、これからは本当に神の御心に沿う生き方をしよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、そうするのが当然という心になります。しかし、実際の生活の中で神の御心から遠い自分の姿に気づかされます。そのような時はいつも、十字架上のイエス様の肩に全ての人間の罪が重くのしかかっていることに心の目を向けましょう。その中にあなたも罪も混じっているのです。このことが確認できれば、あなたは神から大いなる赦しを与えられていることを確かなものとすることができます。そして、再び神の御心を心に留めて歩み続けることができるのです。
キリスト信仰者が歩んでいる道、永遠の命、復活の体に至る道というのは、このようなことを繰り返しながら進む道です。この道を歩む者にとって、自分の中に残存している罪は、もはやその人を神の裁きや永遠の死に追いやるものではありません。逆にイエス様の十字架の下に立ち返えらせて神の赦しを再確認させるきっかけにしかすぎなくなります。しかしやがて、そうしたことが繰り返されなくなる時、ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になる時が来ます。この世に別れを告げ、肉は朽ち果てるにまかせて、神のみぞ知る場所にて復活の日まで安らかな眠りにつく時です。そして、本日の使徒書の箇所でパウロが述べるように、次はキリストに属する者たちが復活させられるのであります(第一コリント15章23節)。この言葉を記したのは一使徒ではありますが、聖書の御言葉の一つとしてある以上は、これも神の言葉として神の約束を伝えるものです。
3.復活を信じるということ
キリスト信仰の復活から私たちは、とてつもない希望を得ています。それは、今の私たちの命が、私たちの造り主である神のもとにある、死を超えた永遠の命に繋がれているという希望です。
ところが、キリスト信仰の復活は、キリスト信仰者でない人のみならず、実は信仰者の間でも最初は受け入れ難いものがあったようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の15章のはじめで使徒パウロが、イエス様は本当に復活された、そして死者の復活は本当に起こるということをコリントの信徒たちに一生懸命に弁明していますが、彼がそうしなければならないくらいに、復活を信じられない信徒がコリントにいたということであります。復活を信じられないキリスト信仰者は、それでは何を信じるのでしょうか?パウロは次のように述べています(15章17-19節)。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」つまり、希望というものは全て、この世の生活に関係するものに限られてしまいます。また、この世と次の新しい世を合わせた広大な視野をもって、そこからこの世で遭遇するいろんな事柄や出来事を眺めたり意味づけたりすることができなくなってしまいます。本当に、視野も意味づけも全てこの世の範囲内にとどまってしまいます。
どうして、このようなことが起きるかと言うと、いろんな理由がありますが、一つには、人間はどうしても、自分の目で見て耳で聞いて手で触れて直接確かめられないと、また計算したり測定したりして明確に示せないと、信じることができない、ということがあります。復活にしろ、その他の奇跡にしろ、いくら他人が見たと言い張るのを聞いても、現場に居合わせて自分の目で見ないと信じられないというのが大方の考え方でしょう。当時はビデオもデジカメもスマートフォーンもなかったので撮影して記録することもできません。仮に撮影できたとしても、今はコンピューターの技術で合成できたりするので、信ぴょう性はますます疑われるでしょう。そうなるともう、見たと言う人たちの証言を信じるか、信じないかのどちらかしかなくなります。果たして、見たと言う人たちの証言は信用に値するのでしょうか?
ここで一つ考慮に入れてよいのは、ペトロをはじめとする弟子たちが、イエス様の復活後にとても変わったということです。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆、逃げてしまいました。イエス様が裁判にかけられた時、ペトロは群衆に混じって様子を窺っていましたが、周りの人から、お前もあの男の仲間ではなかったか、と気づかれてしまい、違う、あんな男は知らない、と嘘をついてしまいます。それくらい自分の身を守ることに精一杯だったのです。ところが、復活したイエス様に出会った後、ペトロはもう何も恐れるものがなくなりました。権力者側から、イエスの名を広めたら命はないと思え、と脅されても、ひるむことなく伝え続け、最後は迫害に遭って命を落としました。
もしイエス様の復活が起こらず、弟子たちが創り上げたデマだったとすると、果たして、嘘のためにここまで生涯をかけ命をかけることができるでしょうか?ここはやはり、復活したイエス様に出会った以上は、そうとしか言いようがないのであり、復活の主を通して死を超えた永遠の命があることを見せつけられた以上は、もう何をもおそれずに自分が見聞きしたことを正直に伝える他はなくなった、と理解する方が自然なのではないでしょうか?キリスト信仰がエルサレムを出発点として急速に広まったというのは、実は弟子たちの命を顧みない証言を聞いて、イエス様を見たことのない人たちが信じたということがあります。そのような信仰を土台として、新約聖書の中に収められている書物が生まれたのです。旧約聖書の方も、使徒たちの目から見て、イエス様を用いて実現されることになる神の人間救済計画を明らかにする書物となりました。そういうわけで、今私たちが手にしている聖書は、こうした使徒たちの証言と信仰を当時と全く同じように現代の私たちにも伝える媒体になっているのです。
4.あの墓を塞いでいた大石は今もわきへ転がされたままか?
最後に、本日の福音書の箇所で一つ注意を引かれる部分があるので、それについてお話ししたく思います。それは、マルコ16章4節で、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」というところです。どこが注意を引くかと言うと、原文のギリシャ語の動詞「わきへ転がす」の使い方が少し奇妙なのです。日本語訳を見ると、「石は既にわきへ転がしてあった」とあります。つまり、女性たちがイエス様の墓に到着した時、墓を塞いでいた大石は彼女たちの到着前にわきに転がされて、到着の時までずっと転がされた状態であったということです。描写の仕方としては、この訳は何の問題もありません。しかし、奇妙なのは、ギリシャ語の表現では、大石がわきに転がされた状態は、女性が到着した時を超えて、福音書記者マルコがこれを書いている時、出来事から大体30年位経った後としておきますと、その時点でも転がされた状態が続いているという表現なのです(現在完了αποκεκυλισται)。もし、転がされた状態が続いていたのは女性たちが到着した時、というふうに、30年前の出来事として書けば、この「転がされた」という動詞はテキストにあるのとは違う形を取るべきではないか、と思うのです(過去完了απεκεκυλιστο?ないしην αποκεκυλισμενος?)。マルコの書き方は、「わきに転がされた」状態が30年前の出来事としてではなく、現在もそのままであるという書き方なのです。
マルコがどういう意図でこのような動詞の形をとったのかは確実なことは言えませんが、読めば読むほど、直接の目撃者でなかった彼自身にとっても、墓の大石がわきに転がされた状態は彼の執筆の時にもそのままだった、ということが伝わってきます。つまり、墓は空のままということであり、あの時復活したイエス様は今も復活された状態でおられるという認識だったのです。(第一コリント15章20節でパウロはイエス様の復活を現在完了形で書いていますが、同じ認識だったのでしょう。)
マルコがそのような動詞の形を使って書いた文ですが、読む側としても、読めば読むほど、墓の大石がわきに転がされた状態は、マルコの記述から1950年程経った今も同じで、つまり、墓は空のままで、イエス様は今も復活された状態でおられることが伝わってきます。キリスト信仰者にとって、あの墓を塞いでいた大石がわきに転がされたというのは、ただ単に過去に起きた事実ということだけにとどまらず、信仰者自身にとっても、転がされた状態が続いているのです。
主はまことに死から復活されました。ハレルヤΑλληλοια הללו-יה!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2015年4月5日 復活祭
5月5日の聖書日課 マルコ16章1-8節、イザヤ25章6-9節、第一コリント15章21-28節
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったのでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様というのは、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったような印象があります。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。ちょうど10年程前にアメリカの映画で「キリストの受難The Passion of Christ」という映画が上映され、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こっていたのではないかと思います。いずれにしても、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。
イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。
このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの事実を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの事実の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。それは何かと言うと、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。このことを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。
それでは、なぜイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。
イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。話が少しそれますが、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではありますが、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのであります。以下、この箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(53章4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのであり(同6節)、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。
以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罪の罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たち人間に、一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。
人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいという傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのです。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。
ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。それこそ、償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦される。このように罪を赦された者として、人間は神との結びつきを回復させることができる。このような解決策を神は立てたのです。
それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、神聖な神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。
ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければなりません。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。そういうわけで、神のひとり子の身代わりの犠牲は、人間の具体的な歴史の中で出来事として起こらなければならなかったのです。
さて、神のひとり子は歴史を超えた無限のところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに本日の使徒書の日課で述べられている通りです(ヘブライ4章15節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのです。
そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世の終わりに出現する神の国がどのような世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けることが具体的な形を取ることができたのでした。
このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした救いの計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力が粉砕されてしまいました。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、どうぞ受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで、人間の方が、イエス様の十字架の死は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたのだとわかり、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神との結びつきが回復し、そのような者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができるのです。
このように「罪の赦しの救い」を受け取った人は、神に対する感謝の気持ちに満たされ、神の意思に沿うような生き方をしようと志向し始めます。つまり、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、という生き方です。ところが、それはそう簡単なことではないと気づかされることになります。この生き方をできなくなるようにしてやろうという力に絶えず直面することになるからです。とにかく現実の世界で生きていると、いろんなことがあります。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも神に助けを祈り求めることから始めなければなりません。
加えてイエス様は、神の意思に沿う生き方というものは、外面的な行為だけでなく内面的な心の有り様まで問われるのだと教えました。例えば、自分や他人の結婚生活をしっかり尊重し守っていても、もし淫らな目で女性を見たら姦淫を犯したのも同然(マタイ5章27-28節)とか、殺人を犯していなくとも、もし隣人を憎んだり悪く言ったりしたら同罪(同5章21-22節)という具合です。ここまで見抜かれたら、誰も神の意思に沿う生き方などできません。しかし、神は人間がそこまで完全になれないことを知っておられるので、私たちがイエス様の身代わりの死に免じて罪を赦して下さいと祈ると、神は、私たちがイエス様を自分の救い主として信じていることを確認できて、「このことはもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、この世に送り出して下さるのです。
キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって包み隠さずに罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さると知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が得られないこともあります。特に死が間近に迫った時、信仰者でも、果たして神は自分を御許に引き上げてくれるだろうか、それとも自分はまだ罪の汚れが多く残っているのでだめなのだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架を心に思い浮かべるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あの方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しを確信できるはずです。
十字架上のイエス様というのは、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点なのであります。その者にとって内在する罪は、もはや死と罰に追いやる力はなく、逆に絶えず十字架のもとに引き戻す契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとって、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地であります。目的地に到達するや否や、それは今度は立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。
主日礼拝説教 2015年4月3日 聖金曜日
今日の礼拝は受難週の礼拝であります。主イエス様の十字架の上で叫ばれた言葉を中心に見ていきたいと思います。この福音書を書いていますマルコはイエス様の受難物語を、他のどんな記事よりも多くのページを割いて書いています。それは14章から始まって15章までマルコは約7ページに渡って書いています。この受難物語は、ちょうど十字架を背負われたイエス様の後を悲しみ、嘆きながらついて行った婦人たちのように、私たちも又み言葉を聞き、心を痛め叫び声を上げるほど心を暗くします。
ルカ福音書には23章27~28節にイエスは婦人たちに言われた。「エレサレムの娘たち、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」イエス様が十字架を担いで行かれる、痛み、重み、苦しみのすべてに自分の罪を見なければならない。このイエス様の受難のすべてが、私たちのためであることを知らされるのです。この十字架の受難の苦しみ、そして暗さの中にこそ主イエス様の次のステージ復活の光と喜びを見出すことができるのです。
マルコは受難記事の中で最も重要な箇所であります33節~41節までにイエス様が十字架につけられ、息を引き取られる様子を記しています。マルコはまことに簡潔な描き方で十字架の死の重さをぐっと押さえて神様の側から見た十字架上のイエス様を書こうとしたのです。まず、十字架の下にいる人間が二つに分かれていると言うことです。一方はイエス様を軽蔑している人です、もう一方は信じている人です。主を軽蔑している人が圧倒的に多く、信じている人は婦人たちを含むごくわずかの人です。
十字架の上で、イエス様が息を引き取られる前に叫ばれた声を聞いて、36節を見ますとそばにいた人々のうちこれを聞いて「そら、エリヤを呼んでいるぞ」と言っている。十字架の極刑の苦しみ、極みでの声に何と愚かな人間が、こうした連中が大部分を占めていたのです。そういう二種類の人々の中でイエス様は息を引き取られたのです。マルコはここに不必要なことは何一つ記されていないのです。15章25節には「イエスを十字架につけたのは午前9時であった。罪状書きには『ユダヤ人王』と書いてあった。又イエスと一緒に二人の強盗を一人は右に、もう一人は左に十字架につけた」そうして、ローマの兵隊やユダヤ人たちは罵り侮辱したのです。
さて、33節から見ますと「昼の12時になると全地は暗くなり、それが3時まで続いた。」
明るかった昼のまっただ中に突然、雷雨と地響きと共に全地は真っ暗の暗黒の世界に変わったのです。何が起こったのかわかりません。キリストであるイエス様の十字架が全地に闇をもたらした、と言うことです。十字架の上でイエス様が殺された時、大部分の人は死んだと思ったに違いない。誰一人として十字架が救いだなどと思わなかった筈です。十字架が死だけであったとすれば、イエスは取り去られただけで全てが終わり、この世は闇として残ります。この世は、まさに暗黒の世界です。
僅かの者が主イエス様に望みをかけたとしても、そのイエスが死んだと、なれば世は闇しか残っていない。つまり神がなくなったら世界はどうなるか、神がおられなければ闇だと言う事を私共は知っています。神はいない等と私共はとても言えません。主イエス様の死は神がいなくなったと言うことです。そう言う世界、神のない世界が全地に襲い掛かってきた、と言っているのです。そこには死しかない、死がすべてを支配している。暗黒の支配が覆い被さっている。私たちが、キリストに望みを置くのはキリストが死に勝ちたもうたからであります。キリストが死なれた、ということの重みを十分に知っておかねばならないのです。
死の支配が確かに全部を覆ったのです。十字架のイエス様は本当の意味で人間として耐え難い痛み、苦しみ、敗北を味われた、と言うことです。そうして3時になると、主イエス様は十字架の苦しみの中で大声で叫ばれた。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」と、これは「わが神・わが神・なぜ・私を・お見捨てになったのですか」という意味であるとマルコがしっかりと記しています。この言葉は詩篇22編2節の言葉をと言うことです。ここに重要なことが隠されております。「神よ、なぜ、お見捨てになったのですか」という叫びは、もっとイエス様ご自身の言葉で訴えてもよかったはずです。しかし人の心に訴えるような言葉で記さずに、あくまでも詩篇にある聖書の言葉で表そうとする。それに驚くのです、何故でしょうか。
エロイ・エロイ・レマ・サバクタニと叫んだ、と言うと敗北の言葉と感じる。しかし、それを詩篇の言葉で言われたとするならば、つまり神の言葉で言おうとされた、とするならば、それは敗北ではない。詩篇22編の終わりの方まで読むとわかります。この詩は神への絶望ではなく、神こそ救いだ、と歌っているのであります。「わが神・わが神」と絶望の中で神を呼ぶことができた、絶望の言葉を神の言で語る、そこに神に対する信頼が示されているのであります。この言葉でイエス様の十字架の上での最後の叫びは聖書に基づいて言われている。そして、聖書の神への信仰によって貫かれている。そう信じてほしいと言っているのではないでしょうか。
当時のユダヤ教では詩篇を聖書日課のようにして暗唱していたとも言われています。そして、イエス様は十字架の苦しみの中で、この聖書の日課の言葉を暗唱していたとも言われます。そして、イエス様は十字架の苦しみの中で、この聖書の日課の言葉を暗唱しておられたのだと言う。いずれにしてもイエスキリストの十字架上の悲惨な叫び声が聖書の言葉によって叫ばれている。そうだとすると、これは悲しい十字架の話ではない。いや、確かに悲しい苦しみの極みの十字架の話しではありますが、それはいつでも神の守りを信じている。そして、いつも神に導かれている話しではないでしょうか。そうして見るとこの叫びは絶望のように聞こえますけれども本当はそうではなくて義人の祈りであると言ってもよい。父なる神への祈りの叫びでもありましょう。
しかし又、ただそれだだったのか。やがて十字架の上で死ぬ、その直前の叫びであります。確かに救いの御業のために死なれたのであります。神の言で語られたのではありますが同時にこれは神の前に立たされた罪人の言葉だと言わなければなりません。私たちはイエス様が私たちの身代わりとして十字架に死なれたと信じていますが、ここでイエス様は罪人が神の御前で言うべき言葉を口にされたのであります。「わが神・わが神・なぜ・私をお見捨てになったのですか」。私共が自分の罪ゆえに苦しみ、悩み、その罪のドン底で叫ぶのは究極のところ「どうして自分は神から見放されているのか」と言うことなのです。悪事をしておいて,神に訴える、何と言う身勝手な言い方でありましょう。しかし、真にそう叫ぶのであれば私たちは決して見捨てられていない、と言うことをこの言葉に見出すのです。
だからこそ、わたしたちも神の御子イエス様の十字架の死と言う暗黒の中に真の光が輝くのです。死から復活への希望の中に生きることが出来るのであります。
アーメン・ハレルヤ!
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
1.イエス様は永遠の命に至る道を照らす光
ヨハネ福音書では、イエス様が「光」であるということがよく言われます。本日の箇所や先週の箇所のようにイエス様が「自分はこの世に来た光である」(3章19節、12章46節)とか「この世の光である」(8章12節、9章5節、12章35-36節)と自分で言う場合もあるし、この福音書を記述したヨハネが、イエス様は光であったと総括する場合もあります(1章4-5、9節)。イエス様が光であるとは、どんな意味でしょうか?
ひとつには、闇の中を照らして、私たちが道を誤らず正しい道を歩めるようにするという意味があります。ヨハネ8章12節で、イエス様は「私は世の光である。私に従って来る者は闇の中を歩むことがなく、命の光を持つに至る」と言います。また、12章35節では、「もう少しの間、光はあなたがたと共にいる。あなたがたが光を持っている間に歩みなさい。闇に捕らわれてしまわないように。闇の中を歩む者は、自分がどこへ向かっているかわからないのだ」と言います。
それでは、イエス様という光を持った時、人はどこへ向かって歩むのでしょうか?何か目的地があって、そこへ道を誤らないで行けるようにとイエス様が光となって道を照らして下さっている。イエス様という光が照らなければ、周りは全くの暗闇で誰も道が見えず目的地に到達できない。その目的地とはどこなのでしょうか?
それは、神の国です。天の御国とか、短くして天国とも呼ばれます。日本語で普通、天国と言うと、死んだ人が行くところで、亡くなった人たちがそこからこの世にいる私たちを見守ってくれている場所という意味で使われます。興味深いことに一般の仏教関係の人たちも、亡くなった人が極楽浄土から私たちを見守ってくれているとはあまり言わないのではないか、天国から見守ってくれているというのが一般的ではないかと思います。恐らく、極楽浄土も天国も同じものという理解がされていると考えられます。(あるいは、極楽浄土に到達するまでは33年くらいかかると考えられているので、それまでは極楽浄土から見守ってくれている、とは言えません。それで、亡くなった方が見守りをしてくれる場所として天国が引き合いに出されるのかもしれません。)
ところが、キリスト教でいう天国とか神の国というものは、今どこか上の方にあってそこから亡くなった人たちが見下ろすようにして見守ってくれているところではありません。確かに神の国は今、私たち人間のあずかり知らないところ、天地・人間を造られた神がおられるところにあります。しかし、その神の国に人間が迎え入れられるのは、まだ先のことです。いつのことになるかというと、「ヘブライ人への手紙」12章26-28節に答えがあります。「(神は)今は次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」
つまり、今私たちの周りにある森羅万象が揺り動かされ取り除かれる時、唯一揺り動かされず取り除かれないものが現れてくる。それが神の国であります。このような森羅万象の大変動について、イザヤ書を見ると、神が今ある天と地にかわる新しい天と地を造るという預言があります(65章17節、66章22節)。このような新しい天と地のもとで神の国が現れるということが、黙示録21章のはじめに預言されています。このようにキリスト信仰では、神の国とか天国というものが人間にとって具体的なものになるのはいつかと言うと、それは、今のこの世が終わりを告げる終末の日のことなのです。ここで一つ付け加えますと、キリスト信仰では、この世の終わりの日に死者の復活ということが起こり、イエス様を救い主と信じる者が神の御心に適う者として神の国に迎え入れられるということです。(こういう教えは近年では、他の宗教に失礼と言わんばかり、あまり言わなくなってきたように見受けられますが、でもこれはキリスト教の主眼なのであります。)
さきほど、一般の仏教関係者の天国観がはっきりしないというようなことを申し上げましたが、はっきりしない点ではキリスト教会も同じではないかと思います。いつだか、某教会の総会に顔を出したら、教会がこの世に神の国を建設する、などと言っていて、ルターが聞いたらびっくりするのではないかと思いました。小教理問答を見てもわかるように、ルターに言わせれば、神の国は、つくるも何も、既に神のもとにあり、いつか私たちのもとに来るものだからです。そう言っても、今現在の私たちが神の国と無関係ということではありません。神の国とは、ルターの言葉を借りるまでもなく、完全な罪の赦しがある世界です。もし、私たちが、神に罪の告白をし、洗礼、聖餐そしてイエス様を救い主と信じる信仰を手掛かりとして神から赦しをいただければ、それはもう、神の国と見えない形でつながっていることになるのです。それが、この世が終わりを告げる終末の日、復活の日につながりが見える形になるということです。
以上のように、キリスト教では神の国とか天国というものは将来に関係するものということになります。そうすると、それでは既に亡くなった方たちはその日まではどこでどうしているのか、という疑問が起きてきます。これについては、当教会の説教や聖書の学びでも度々触れたところでありますが、ルターによれば、亡くなった人は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということであります。復活の日に目覚めさせられて復活の新しい命と体を与えられて、もともと自分を造られた神のもとに永遠に迎え入れられるということであります。たとえ眠っていた時間がこの世の時間単位では100年であっても1000年であっても、眠っていた本人にすれば目を閉じて再び開けるまではほんの一瞬にしか感じられないとルターは教えています。
復活の日まで亡くなった方がただ安らかに眠っているだけというのは、この世に残された側にしてみれば寂しいものがあると思います。そうしたら、今起きていて目を覚まして自分たちのことを見守ってくれる者がいなくなってしまうではないか、と。それが、キリスト信仰ではちゃんと今起きていて目を覚まして見守ってくれる方がいるのです。誰かと言うと、天と地と人間を造られた神がそれです。神は、今この世を生きている者だけでなく、この世から離れて今安らかに眠っている方も同様に造られた方で、その神が私たちを見守って下さるのです。誰でも最愛の人に先立たれたら悲しみのどん底に突き落とされます。そういう時、日本では一般に、亡くなった方が天国から見守ってくれるという思いが励ましになっています。キリスト信仰では、見守りは自分の造り主である神がしてくれて、亡くなった方に関しては復活の日に再会できるという希望が励ましになっています。
それでは、復活の新しい命と体を与えられた者が迎え入れられるという神の国、天国とはどういうところかについて、聖書に沿って少し具体的にみてみましょう。黙示録21章3-4節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」つまり天国とは、この世で私たちの身に降りかかっていた苦難や害悪を、もうこれで涙は流さなくてもいいんだよ、というくらいにまで神が全てを清算してくれるところです。天国はまた、黙示録19章7、9節で盛大な結婚式の祝宴にたとえられます。それは、新しい天と地のもとでは、以前生きていた世の労苦を全て労われるということです。そして、神のもとに永遠にいることになるので、死というものがありません。
それでは、このような天国に行けるために、なぜイエス様という光がなければならないのでしょうか?それは、私たち人間の状態が、神と永遠に一緒にいられる状態にはないからです。創世記3章に堕罪の出来事が記されています。最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となってしまいました。神聖な神と神に造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。人間は自分の力でこの断絶を埋めることはできません。なぜなら、そうするためには人間は神と同じくらい神聖な存在にならなければならないからです。この神との断絶をそのままにしておくと、人間はこの世から死んだ後、永遠に造り主から離れ離れになります。そうなると、天国での完全な清算からも完全な労いからも永遠に遠ざけられてしまいます。そればかりか、黙示録20章やマタイ25章に出てくる永遠の火に投げ込まれてしまうかどうかという問題も迫ってきます。
しかしながら神は、人間が永遠に自分のもとに戻ることができるようにと、つまり人間がそれくらい神の目に相応しいものになれるようにと、そのための手筈を全て整えて下さいました。どのようにしてかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、全人類分の罪と不従順の罰を全て彼に負わせて、私たちの身代わりとして十字架の上で死なせたのです。人間に向けられていた罰は全部イエス様が吸収・消化してしまったので、人間からすれば誰か他人の犠牲で罰を帳消しにしてもらえる状況が生まれました。それだけでなく神は、一度死んだイエス様を復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉をも人間のために開いて下さいました。
このように神は、イエス様を用いて人間のために「罪の赦しの救い」を用意して下さいました。この知らせ ― この良い知らせを福音と呼びますが、これを聞いた人が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主と信じて洗礼を受けると、人間はこの「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。そして、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなり、神との結びつきを回復した者として、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主のもとにもどることができるようになったのであります。
もし、イエス様という光を持たなければ、誰も目的地がどこにあるか見えません。また、そこに到達する道も見えません。全てが闇の中です。ヨハネ14章6節で、イエス様は自分のことを、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われますが、まさにその通りなのです。
2.イエス様は人間を照らし出す光
以上、イエス様が光であると言う時、それは神の国、天国という目的地とそこに至る道を私たちに照らしてくれる光という意味があることをお教えしました。もう一つの意味があることを忘れてはなりません。それは、ヨハネ1章9節で言われるように、人間を照らし出す光という意味です。人間を照らし出してどうするのかと言うと、人間に宿る罪や神への不従順を白日の下に晒すということであります。
人間に宿る罪や不従順というものは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者といえども免れていません。キリスト信仰者とは、イエス様が持っている神の義という純白な衣を頭から被せられただけの者なので、実はまだ内側に罪と不従順を宿したままなのです。神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することが神の神聖な御心であると知っていながら、この内在する罪と不従順のためにそうしないことがよく起こります。けれども、そのたびに悔い改めの心を持って罪の告白をすれば、神は私たちに被せられているイエス様の純白の衣を見て、「この者は私が整えた救いをしっかり受け取っている」と確認して、私たちを赦して下さいます。まさにこのために、毎週行われる礼拝のはじめに罪の告白と罪の赦しの宣言があるのです。
このように罪の告白と赦しの宣言を繰り返しながら、私たちは永遠の命に至る道を歩みますが、ここには実に内面の戦いが不断に続きます。かたや、肉に結びつく古い人が悪魔と組んで、「神を全身全霊で愛さなくてもいい。隣人を自分を愛するが如く愛さなくてもいい」とそそのかし、そのようになってしまった時には、「それをわざわざ神に打ち明ける必要はない」とたぶらかし、私たちと造り主との関係をどんどん引き裂いていきます。この引き裂きを通して、私たちが造り主である神から独立した存在のように見せかけ、やがてはさも造り主など存在しないかのように、人間が自分こそ自分の主人であると錯覚させていきます。
これに対して、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人は、「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することは、神が望んでおられることである」と知っており、もしそれに反してしまった場合には、すぐ神の方に向き直って赦しを乞わなければならないとわかっています。このように新しい人は、造り主である神に従属して、神との結びつきの中で生きていくことを志向します。この内面の戦いは苦しい戦いですが、私たちには、十字架の上で罪と死の力を無にし全てに勝利した主イエス様が常についていて下さることを忘れないようにしましょう。
このように、イエス様の光が私たちを照らし出すというのは、人間の真の姿を晒しだしながら、私たちが神との結びつきの中で生きられるようにするためであることが明らかになりました。先週の主日の福音書の箇所にあったヨハネ3章21節で、イエス様は「真理を行う者は光のもとに来る。それは、その人の行いが明るみに出て、それが神に導かれてなされたことが明らかになるためである」と言われていました。先週の説教でも申し上げましたが、「真理を行う」というのは、まさに、自分の罪と不従順を神の前に晒しだし、悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ること、これが「真理を行うこと」です。「ヘブライ人への手紙」4章15節には、罪の赦しという恵みの王座の前に勇気を持って進み出ること、これが、神から憐れみと恵みを受けて、時宜にかなった助けを頂けるために必要なことである、と言われています。キリスト信仰者の生きる力の源は、こうした「罪の赦しの救い」を土台とする神との結びつきにあると言えましょう。
3.どうしたら人々をイエス・キリストという光のもとに導けるか
以上みてきたように、私たちは、イエス・キリストという光に照らされて、神の国、天国への道を誤らずに進むことができ、かつ自分の真実の姿を神に晒しだすことで神との絆、罪の赦しの絆を日々強めることができます。ヨハネ12章47節で、イエス様は、自分の教えの言葉を聞いてそれを守れない人がいても、そのような人を裁くのではなく救うのだと言われます。私たちが、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようになるというのは、そうしないと罰せられるからという恐怖心からそうするのではありません。そうではなくて、「罪の赦しの救い」を頂いたことによる感謝から、そうするのです。これが、本日の旧約の日課の中で言われていた「神の律法が心に記された」(エレミア31章33節)ということです。心に記されていなければ、律法は単に私たちの外部にある規則でいやいや守るものにとどまります。ところが心に記されると、律法は私たちの心身の一部になり、守ることが当たり前のようになります。しかし、しょっちゅう守れない自分に気づかされて、それで罪の告白と赦しの宣言が必要となるのです。このようにキリスト信仰者は、イエス様の教えの言葉を受け取って、また神からも赦しを受け取って、日々イエス・キリストという光に照らされながら、この世を生きていくのであります。
ところが、こうした生き方と反対の生き方もあります。ヨハネ12章48節で言われるように、イエス様という光自体を拒否し、彼の教えの言葉を受け取ろうとしない者がいます。その場合は、天国に行く道が照らされないので、そのような人にとって人生はただこの世だけで終わるか、または続きがあるとしてもそれは闇の世界です。また、自分の真実の姿を晒し出すこともしないので、自分の行い、思い、考え、発する言葉が造り主の意思とどれくらい離れているか知る由もないし、知りたくもない。そうなると、自分の主人は自分自身という自分中心の生き方になります。
神が人間の救いを整えられ、そのためにイエス様を救い主としてお送りになったのに、なぜ人間は信じないで闇にとどまることを選ぶのでしょうか?本日の箇所の初めの方にある40節で、ヨハネ福音書の記者ヨハネは、ユダヤ人がイエス様を信じなかったのは、神がそうさせなかったからだと言います。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」ギリシャ語の原文はもっと強い調子で、「彼らが目で見ることがないように、心で悟らないように、立ち返らず、わたしが彼らを癒すことがないように、そのために神は彼らの目を見えなくした云々」です。
これは、イザヤ書6章10節にある神の言葉の引用です。引用元をみると、裁きの調子はもっと強く、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」となっています。イザヤ書では、神は預言者イザヤに、これから出て行ってイスラエルの民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じます。ヨハネ福音書の引用では、心のかたくなさや目の見えなさは、もう実現されたことになっています。いずれにしても、人が神を信じないのは神がそうさせないようにするからだ、と言っているように見えます。もしそれが本当なら、イエス様を救い主と信じない人が出るのは神がそうさせないからということで、不信仰はその人のせいではなくて神のせいということになります。そうなれば、神が人を信じないようにさせておきながら、そういうふうになった人を裁いて、天国に行けないようにするというのはなんという理不尽なことかということになります。
しかしながら、イザヤ書6章10節はそれだけ取り出してみるべきではなく、同書のもっと広い文脈と神のその言葉が出た歴史的状況とをあわせて理解する必要があります。預言者イザヤが神のこの厳しい裁きの託宣を受けたのは、紀元前700年代の後半ユダ王国の王ウジヤが死んだ年です(イザヤ6章1節)。ウジヤ王の次にヨタム王が即位します。列王記下によると、ウジヤ王とヨタム王の二人の王自身は神の目に正しいことを行ったとのことですが(列王記下15章34節)、国民の方はどうかというと、200年程前にさかのぼるレハブアム王の時代に異教の神崇拝をまねて国内各地に高台が築かれてアシェラ像なる像に生け贄を捧げることが始められ、天地創造の神の怒りを招くこととなりました(列王記上14章22-24節)。この高台での生け贄の捧げはユダ王国の伝統となってしまったのです。イザヤの時代にもこれは続けられ、ウジヤ王もヨタム王も生け贄の高台は廃止できませんでした(列王記下15章35節)。歴代誌下には、ヨタム王の時代の国民は「依然として堕落していた」と記されています(27章2節)。ヨタム王の次に即位したアハズ王はついに王自らこの高台の生け贄を推進する者となってしまいます(列王記下16章3-4節)。
このようにユダ王国の王と国民は、若干の王を除いて神の意思に背き続けていました。イザヤ書1章をみると、イザヤが活動し始めた頃のユダ王国の社会の混乱ぶり、道徳の退廃ぶり、そのくせ宗教的な行事や礼拝は外面的には守り続けている欺瞞性を糾弾する神の言葉が記されています。預言者イザヤが6章10節にある神の裁きの託宣を受けた時、彼はその目で神の姿を目撃してしまいます。彼はその時、汚れた唇を持つ民の中に住み自ら汚れた唇を持つ自分は神聖な神を見てしまった以上、自分は消滅してしまう、と恐れおののきます(イザヤ6章5節)。
つまり、神が民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じたのは、心が清い無垢な民の心をかたくなにすることでも、目が見える民の目を見えなくすることでもなかったのです。既に心がかたくなになっていて目が見えなくなっていた民に対して、もう何度言っても無駄だ、救いようがない、そんなに心をかたくなにしていたいのなら勝手にするがよい、そんなに目が見えないのが好きなら勝手にそうするがよい、と突き放したのであります。
神は、人間が再び造り主である御自分のもとに永遠に戻ることができるようにと、イエス様を用いて人間のために救いを整えられました。人間に対して、さあ、この救いを受け取りなさい、と提供して下さっているのです。救われるために人間がすることと言えば、それを受け取るだけです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ受け取りは完了です。しかし、どうぞと提供されて、いりません、と背を向けて受け取りを拒否した場合は、神はそのままにされます。拒否した人が自分の道をそのまま行くのにまかせます。しかし、神は、拒否した人に対して、それならもう提供なんかしてやるもんか、というスケールの小さいことは言いません。その人が考え直して受け取りに来る日を待っているのです。本当に受け取りに戻ってきたら、あの時拒否したくせに、などと嫌味になることもありません。戻ってきてくれたことを本心から喜んで下さるのです。その時の神の本心からの喜びがどのようなものであるかは、イエス様の有名な「放蕩息子」(ルカ15章11-32節)のたとえに出てくる父親が息子の帰宅をどれほど喜んだかを思い出していただければ十分でしょう。
先週の説教でも教えたところですが、私たちも、できるだけ多くの人が、神の整えられた救いを受け取ることができるように祈り、かつその受け取りを助けてあげることができるような知恵と力を、神に祈り求めていきましょう。もし、愛する肉親や隣人がまだ救いを受け取っていないのであれば、キリスト信仰者としては受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして今の状況を説明して助けをお願いすることから始めます。先週申し上げたお祈りの一例をまた繰り返します。「天の父なるみ神よ、どうか、私にとって大事なあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が福音を伝える適任者とお思いでしたら、伝える機会をお与えください。私でなければ別の適任者を送ってください。もし、私に機会をお与えになる場合は、しっかり伝えられるようにあなたからの知恵と聖霊の導きをお与えください。」
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<p>主日礼拝説教 四旬節第五主日4月22日の聖書日課 ヨハネ12章36b-50節、エレミア31章31-34節、エフェソ3章14-21節</p><hr />
1. はじめに
東日本大震災から4年の年月が経ちました。先週は東京にいる私たちも、本当に新たに立ち止まって被災した方々や犠牲者の遺族の方々そして今なお避難生活を送っている方々の悲しみや苦労を心に留める1週間になりました。私たちを立ち止まらせた出来事と言えば、このところ残酷な殺人事件が相次いだこともあります。どれだけ多くの人の心を痛め立ち止まらせたかは、例えば多摩川の河川敷に置かれた花束の数からも明らかでしょう。あわせて東京大空襲から70年たったということで、その関連のニュースもあり、生存者の方たちの語りや出来事の惨さを伝える記録写真に、やはり心の立ち止まりを覚えた人が多かったのではないと思います。
このような時勢では、キリスト教会の礼拝の説教に対して、自分は何を考えたらいいのか、何をしたらいいのか、という問いに対する答えが期待されるのではないかと思います。聖書の御言葉から何か指針になるような答えが得られるのではないか、説教者が聖句から答えを導き出してくれるのではないか、と。しかしながら、聖書の御言葉というものは、今それを聞いている人たちが直面する問題や課題に直接的な答えや解決を出してくれるような、打ち出の小槌やアラジンの魔法のランプではありません。むしろ、御言葉というものは、イエス様にしろ預言者にしろ、最初に口にした時から始まって、それが聖書の形に文書化された時を経て、その後100年たった後でも1000年たった後でも2000年たった今もずっと変わることのない神の意思が貫かれているものです。そうした普遍的なものを説教者は明らかにしなければなりません。そして、その普遍的なものを聞いて確認した会衆は、今度はそれをもとにして自分の問題や課題、または自分が生きる同時代の問題や課題に向き合っていく、そういうものだと私は考えます。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、今日の世界にいて日本にいて東京の中野にいて、自分は何を考え何をすべきか、という問いは、一先ずこの礼拝の間は脇に置いて、まず人間に対する神の意思はそもそも何であったか、それを本日の御言葉を通して確認しましょう。それを終えてから私たちの日常に戻って、自分自身の課題または同時代的な問いに取り組んでいっても遅くはありません。
本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ニコデモについて、新共同訳聖書では「ユダヤ人たちの議員」と訳されていますが、彼は間違いなく当時のユダヤ民族の最高意思決定機関である最高法院の議員だったのでしょう。ファリサイ派というのは、神に選ばれた民であるユダヤ民族が神聖さを保てるということに非常にこだわったグループでした。神殿祭司を中心とするサドカイ派と呼ばれるグループが別にありますが、いろいろな意味でこの二つは対称的なグループでした。ファリサイ派の人たちは、モーセ律法だけでなく、それから派生して出来た清めに関する規則も厳格に遵守することを唱え、自らそれを実践していました。
イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちも付きまとうようになります。一体、この男は群衆に何を吹き込もうとしているのか?あの男が律法や預言に依拠しているのは明らかだが、何かが違う。一体あいつの教えは何なんだ、という具合でした。イエス様に言わせれば、神の前での清さ、神聖さというのは表面的なものではない。内面を含めた全人格的な清さ、神聖さでなければならなかったのです。例えば、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても、心の中で他人を憎んだり見下したりしたら、もう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟は、実際に婚姻外の性関係を持たなくても、心の中でそれを描いただけで破ったことになるとイエス様は教えたのであります(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそういう深い所にあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせていたのであります。
全人格的に神の掟を守っているかどうかということが基準になると、人間はもはや本質上、神の前で清い存在になることは不可能です。それなのに、人間が自分で規則を作って、それを守ったり、また修行をすれば清くなれると信じて、自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、ファリサイ派のイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、中には、今のようなやり方で本当に神の前の清さ神聖さは保証されるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。本日の福音書の箇所に登場するニコデモは、まさにそのような自省する心を持ったファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様に向き合うと、たいてい批判や非難を浴びせかえけるだけでしたので、夜にこっそり一人で出かけるというのは意味深です。ニコデモはイエス様から、人間の霊的な生まれ変わりについて、また神の愛や人間の救いについて教えを受けます。その後、ニコデモはファリサイ派がイエス様に対して抱く敵意に距離を置き始めます(7章51節)。イエス様が十字架刑で処刑された後、亡骸を引き取って手厚く埋葬することに奔走しました(19章39節)。
本日の箇所は、イエス様とニコデモの間に交わされた人間の救いについての問答の一部ですが、その中にある3章16節は特に大事な聖句です。なぜかというと、この聖句には、旧約聖書と新約聖書の双方にまたがって聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が要約されているからです。ルター派教会が国教会的な地位にあるフィンランドでは、教会に属する中学2年生の子供たちの9割近くが10日から2週間に及ぶ堅信礼教育を受けます。そこでの課題の一つに多くの聖句を暗記することがあります。ヨハネ3章16節はその筆頭です。次にこのヨハネ福音書3章16節について見ていきたいと思います。
2. ヨハネ3章16節
それでは、聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が詰まっているというヨハネ3章16節をみてみましょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この聖句が理解できるためには、「滅び」とは何か、「永遠の命」とは何かがわからなければなりません。創世記3章に有名な堕罪の出来事があります。悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間が神に対して不従順となって、その命に罪が入り込んでしまい、それ以後人間は死ぬ存在となってしまいました。人間を造られた神聖な神とその神に造られた人間との結びつきが切れてしまったのです。この結びつきが切れた状態をそのままほうっておけば、人間はただ滅びるだけです。この世でどんなに栄えて栄華を誇っても、この世から死んだ後で、自分を造られた神と永遠に離れ離れの状態に陥ります。これが「滅び」です。神と永遠に離れ離れになる状態がどんなものかを理解するには、これと正反対である永遠に神のもとにいることができる状態、つまり「永遠の命」がどんなものかをみてみるのが良いと思います。それがわかれば、神と永遠に離れ離れの状態、つまり「滅び」とはその逆のことだとわかるからです。
黙示録21章3-4節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」これは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、まさに今のこの世が終わる日に、神が死んだ者のうちで御心に適う者を復活させて復活の命と体を与えて御許に迎え入れる時のことを言っています。そこに迎え入れられた者たちは、以前生きていた世で身に降りかかっていた全てのことが清算されて、もう涙は流さなくていい、重荷は負わなくてもいい、そういう完璧な安心安堵の状態に置かれるということです。そこに招き入れられる者たちは、黙示録19章で婚礼の祝宴に招かれた者と呼ばれます(7、9節)。それは、新しい天と地のもとで彼らが以前生きていた世の労苦を全て完全にねぎらわれるということです。彼らは、神のもとに永遠にいることになるので、彼らにはもう死は及びません。
そこで今度は、永遠に神から離れ離れになる滅びの状態をみていきますと、それは今言ったことと全く逆のことになります。まず、永遠の命に与れないので、死んだ後も以前生きていた世の悲しみ、嘆き、労苦やそれらの原因が解消されず引きずられ、涙を拭われることも労苦をねぎらわれることもありません。加えて、第二の死の危険が彼らを待ち受けています。マタイ福音書25章でイエス様は、悪魔とその手下たちを焼き尽くすために永遠の火が準備されていると述べていますが、人間のうちある者たちが最後の審判の日にその火に投げ込まれてしまう危険があると警鐘を鳴らしています。この同じ火は、黙示録20章でも出てきます。まず殉教したキリスト信仰者を中心とするグループが死から復活させられてキリストのもとに迎え入れられます(20章4-6節)。それ以外の者たちについては、「命の書」という神の記録があって、以前生きていた全ての人間の生き様が記録されています。神はこれに基づいて一人ひとりの行先を決めます(12節)。そのうちの誰が永遠の火に投げ込まれ誰が投げ込まれないかについては述べられていません。ひとつ明確に言われていることは、この「命の書」に名前が載られていない者がいて、彼らは即、火に投げ込まれるということです(15節)。この永遠の火があるところは第二の死と呼ばれて(14節)、そこに投げ込まれたらが最後、昼も夜もなく永遠に焼かれることになり(10節)、この第二の死というのは永遠に続く死であります。
以上みたように、人間はこの世から死んだ後、もし自分の造り主である神のもとに戻れなければ、このような悲惨が待っているということを聖書は教えているのです。最近のキリスト教会ではこういうことを言うのは控えて、明るく楽しいことだけを言わなければいけないという雰囲気があるようですが、「こういうこと」を見ないと神がどうして愛と恵みに満ちた方なのかがわからなくなります。つまり、神は、堕罪で生じてしまった人間との断絶を悲しみ、自分の方からそれを解消してあげよう、人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分のもとに戻れることが出来るようにしてあげようと決めたのです。「自分の方からしてあげよう」と言うのは、先ほども見ましたように、罪を内に持っている人間は神の意思を全人格的に100パーセント満たすことが出来ない、救いに関しては全く無力な存在だからです。人間の側のこの行き詰まりを打開するために、神はひとり子のイエス様をこの世に送られました。人間の罪から来る罰を全て身代わりにイエス様に負わせて、十字架の上で死なせ、人間の罪の償いをさせたのです。イエス様が人間の罪を全て十字架の上に運んで行って一緒に断罪されたことで、罪が持っていた力、人間が神との結びつきを持てなくしようとする力は無力にさせられました。そして、神がイエス様を三日目に復活させられたことで、死を超えた永遠の命に至る扉が人間に開かれました。人間が罪の支配から解放される可能性が打ち立てられたのです。
このように神は、人間が永遠の滅びから永遠に神のもとに戻れるようにするという救いを、イエス様を用いて全部自分で整えてしまいました。救われるために私たち人間がすることと言えば、この神が整えた救い、「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることだけです。これらのこと全てはまさにこの私のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この受け取りは完了します。先ほど読んでいただいた使徒書の日課「エフェソの信徒への手紙」の2章8節に、救いは人間の力によるのでなく神からの贈り物であると言われていましたが、まさにその通りなのであります。
ヨハネ3章16節にもどりましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」天地創造の後で起きた堕罪が原因で、人間を造られた神と造られた人間の間に断絶が生じてしまい、人間は永遠に神のもとに戻れず滅びに向かう存在になってしまいました。神と人間の結びつきを回復して人間が永遠に神のもとに戻れるようにしようと、神はひとり子のイエス様を用いて人間の救いを実現されたのです。ここに神が私たち人間をいかに愛しておられるかが明らかになります。このように、ヨハネ3章16節には、旧約新約全聖書を貫く神の人間救済の意思、言い換えれば神の愛が要約されているのであります。
3. 不信仰から信仰への軌道修正
以上みてきたように神は、人間にかわって人間のために人間の救いを整えられました。あとは人間の方でそれを受け取ればよいだけとなりました。救いを受け取るとはどういうことかと言うと、神はこれらのことをこの私のためにイエス様を用いてなさって下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。しかし、人間はみんながみんなこの救いを受け取るとは限りません。なぜこの救いを受け取らない人がいるかと言うと、ひとつには、この神の整えられた救いについてまだ知らされていないということがありましょう。それだからこそ、福音の伝道が必要なのであります。しかしながら、救いを知らされても、それを受け取らない場合もあります。なぜ受け取らないかというと、ひとつの理由として、死んだ後の命など考えるのは馬鹿馬鹿しいと言って現世中心の考えで生きることがあります。もう一つの理由は、死んだ後の命を考えることはしても、聖書で教えるのと異なる考えをするという場合があります。異なる宗教を持つことがそれです。現世中心主義の考え方や異なる宗教があるために神の救いを受け取らないというのは、かたや非宗教的かたや宗教的と全く対称的でありますが、イエス・キリストを救い主と信じないという点では共通しています。そこで、本日の箇所の後半部分(18-21節)で、イエス様はこのキリスト不信仰について教えますので、次にそれを見てみましょう。
ヨハネ3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言われます。これは一見、イエス・キリストを信じない者は地獄行きに定められていると言っているように聞こえ、キリスト不信仰者はきっと、これこそキリスト教の独りよがりだと憤慨するでしょう。ここで注意しなければならないことがあります。もちろん、人間には善人もいれば悪人もいます。しかし、先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている。これは善人も悪人も同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪と不従順を受け継いでいるのです。みんながみんな、この世から死んだ後は永遠に神から離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されるのです。イエス様を救い主と信じなければ何も変わらず、堕罪以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」という意味です。従って、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それで軌道修正がなされて、「既に裁かれている」というのは過去のことになります。
3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、彼を用いて、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を整えて下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまうのです。
3章20節では、人々がイエス・キリストという光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、キリスト不信仰者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと憤慨するところだと思います。しかし、それは早合点です。まず、キリスト信仰者と不信仰者の違いとして、不信仰者の場合は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、自分の造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。
キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意図からどれだけ離れているかが問題になります。結果はいつも離れているので、そのために罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくというプロセスに入ります。毎週礼拝で行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のであります。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせる、ということです。善行もしたかもしれないけれど、罪と不従順の結果もあわせて一緒に白日に晒すということです。私は全身全霊をもって神を愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。それで、以前であれば滅びの道を進む者でしかなかったのが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されるのであります。つまり、キリスト信仰者は自分の罪と不従順を神の目の前にさらけ出すことを辞さないのです。そのために悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ます。これが「真理を行う」ということです。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目に付くように明るみに出すためなんかではありません。そういう「罪の赦しの救い」の中で生きるキリスト信仰者が行うことは、3章21節に言われているように「神に導かれてなされる」ものとなります。善行も自分の力と能力の産物でなくなり、神の影響力があってなせるものとなり、人間は神の前で自分を誇ることができなくなるのです。
翻ってキリスト不信仰者は、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス・キリストという光が来ても、光のもとに行く理由がありません。(イエス様を信じなかったユダヤ人は、もちろん天地創造の神を崇拝してはいますが、イエス様を光とみなさないので、光のもとへは行きません。)しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むということであり、そこから人間を救い出したいがためにイエス様をこの世に送られたのでした。しかしながら、キリスト不信仰者は世界にまだ大勢います。さらに、一度イエス様を救い主と信じたにもかかわらず、それがはっきりしなくなってしまった人たちも大勢います。人間を救いたい神からみれば、これはゆゆしき大問題であります。本日の箇所のはじめの方で(14節)イエス様は、民数記21章のモーセが青銅の蛇を旗竿に掲げた出来事について述べます。毒蛇にかまれて死に瀕したイスラエルの民がこの旗竿の蛇を見ると皆、助かったという出来事です。イエス様は自分にも同じことが起きると預言されます。つまり、十字架に掲げられた自分を信じる者は、滅びから救われて永遠の命を得ると言うのであります。モーセの時は、かまれた人は皆、必死になって掲げられた旗竿の蛇をみました。しかし、掲げられたイエス様をそのように必死に仰ぐ人はまだ少数です。毒が体に回るという緊急事態に比べたら、滅びの道から永遠の命の道に軌道修正するというのは、緊急なものに感じられないかもしれません。しかし、造り主から永遠に離れ離れになるか、造り主のもとで永遠にいることになるか、これは重大な岐路であります。どうしたら、このことを多くの人に気づいてもらえるでしょうか?私たち一人一人は天地創造の神に造られた者でありながら、神との間には断絶が生じてしまっている、しかし、イエス様を救い主と信じることで断絶は解消し、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになる、ということを。このために、私たちキリスト信仰者は何ができるでしょうか?何をしなければならないのでしょうか?
しなければならないことは、はっきりしています。イエス・キリストの福音をとにかく宣べ伝えることです。これは、2000年近くたった今も、これからも変わりません。ただ具体的に何をすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければならないことがあります。宗教一般、特にキリスト教に疑いや反感を持っている人たちは、宣べ伝えに貸す耳など持っていないでしょう。しかし、もしそのような人が愛する肉親や隣人なら、キリスト信仰者としては、同じ救いを受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして状況を説明し助けをお願いすることから始めます。「天の父なるみ神よ、私にとって大事なあの人も私同様、あなたに造られた者です。どうかあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が話をするのが良いとお思いでしたら、その機会をお与えください。その時は、しっかり話ができるようにあなたの知恵と聖霊の導きをお願いします。」このような祈りを日々のお祈りに加えることから始めていくのが良いでしょう。そうすると、祈るあなたも、相手の方との関係において新しい段階に移動させられます。本当にお祈りは、祈る人に予想を超える展開をもたらす手段です。
主日礼拝説教 四旬節第四主日 3月15日の聖書日課 ヨハネ3章13-21節、民数記21章4-9節、エフェソ2章4-10節
今回の家庭料理クラブは「ジャガイモのリエスカ」と「キャベツのスープ」を作りました、春の花がまっ盛りなのに、北風が吹く寒い日でしたので、暖かいスープは、丁度よいメニューになりました。
家庭料理クラブは最初にお祈りをしてスタートします。リエスカ用のジャガイモを茹で、スープに使う大量のキャベツや野菜類は、大鍋でグツグツ煮えています。今回のリエスカは、ジャガイモのムースに、ライ麦粉や小麦粉を加えた家庭の味、ドロドロの生地を薄く伸ばす作業に、皆さん悪戦苦闘しましたが、焼き上がりは、とてもきれいで、美味しいリエスカが出来上がりました。
パイヴィ先生からは、フィンランドの野菜事情やリエスカの成り立ちなどや、イースター復活祭の前の受難節の季節は「断食の季節」とも言われ、スープとパンのシンプルな食事は、丁度合うメニューと教えていただきました。
次回4月11日の家庭料理クラブは、「レモンクリームのプッラ」を予定しています。~