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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
何年か前のヒットソングに「素敵な日曜日」というのがありました。小学生だった息子が区の特別支援学級の連合運動会でこの歌に合わせてダンスを踊ったので、私も歌詞の一部を覚えています。確か、さんさんとお日さま輝く日曜日おでかけしましょう、とか、ざあざあ雨が降ってる日曜日、傘さして長靴はいておしゃれして出かけよう、とか、ニコニコ心が躍る素敵な日曜日、とか。それを聞いていて、教会に来る人もそんな気持ちで来ることができるだろうか、などと思ったものでした。
日曜日は、週7日ある中の休みの日ですが、もちろん、実際にはお店も多く営業しているし、仕事をしている人たちは多くいます。それでも、日曜日にお店や行楽地をやっているのは、やはり休みの人が多いので買い物を多く見込めるということでしょう。ところで、1週間に7日あって七日目が休みと言うのは、多くの方はご存知と思いますが、旧約聖書の創世記の中にある出来事が背景にあります。全知全能かつ天地創造の神が万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事から離れて休まれ、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1-3節)。その日を旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)とか、単に短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とか言い、普通「安息日」と訳されています。大学関係者なら誰でも知っている英語のサバティカルという言葉もここから由来しています。
さて、私たちキリスト信仰者は安息日である日曜日に教会の礼拝に参加してこれを守りますが、どれだけ多くの人が礼拝に参加する安息日を素敵と感じているでしょうか?もし礼拝参加に何か重荷感とか束縛感を感じる方があれば、本説教ではそれを少しでも減らせるようにしたく思います。
2.安息日 - 奴隷状態からの解放を記念し霊的に休息する日
安息日に仕事を休んでこれを神聖なものとせよ、という神の掟は、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の一つとして与えられました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8節)。
「休みなさい」と言ってくれているのはありがたいことですが、ここでポイントになっていることは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。つまり、「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は天地創造の神に属する者であると自分に言い聞かせ、かつ他人にも示すことになるのです。仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を神に向けよ、ということです。さらに言えば、週の日に仕事も含めて生活一般のことなどでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を神に向けなさいということです。どうやってそんなことが出来るかと言うと、例えば、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷を一時あなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。投げ出して出来た空白を今度は礼拝の中で与えられる賜物で満たしていきます。御言葉や説教の拝聴を通して神が自分に何をしてくれたかを思い起こします。また、讃美歌を歌うことで神への賛美を声に出し、祈りの時に普段抱えている重荷の真の解決を与えてくれるように助けを祈り求めます。聖餐式がある日ならば、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な癒しを受けて強められた者は、十分な休養を取ったことになり、新しい1週間に臨むことができるのです。
本日の旧約の箇所は申命記でした。エジプトを脱出した後40年間続いたシナイ半島の荒れ野の移動も終わりに近づいた時の記録です。この時、神は民に対して十戒の復習をします。その安息日の掟を見ると、先ほど見ました、出エジプト記の時の掟に少し補足がなされます。安息日を守る理由が一つつけ加えられます。それは、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民は休むことも許されず安息日を守るどころではなかった、その民を神が解放して下さった、だから安息日を守り神聖なものとしなさい、と言うのです(申命記5章15節)。天地創造の時、6日働いて七日目に休まれた神はまた、御自分の民を奴隷状態から解放して苦役をしなくても良いようにして下さった、それゆえ、安息日には解放された民、奴隷状態ではなくなった民として振る舞わなければならない、というのであります。
イスラエルの民にとって、神が解放してくれた奴隷状態というのは、エジプトにおける境遇からの解放です。神との新しい契約の中で生きるキリスト信仰者からすれば、イスラエルの民のエジプトからの解放はあまり直接関係ないもののように見えます。しかし、実はキリスト信仰者にとっても、もっと重大な奴隷状態からの解放があったことを忘れてはなりません。それは、罪と死の力の下に服していたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に送られました。まさにそれゆえに、安息日とは奴隷状態からの解放を記念し霊的に休息する日であるということは、これはキリスト信仰者にとってもしっかり当てはまるのです。
3.安息日と神の意思
本日の福音書の箇所で、イエス様は安息日の間違った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。起きた出来事はこうでした。ある安息日に弟子たちが麦畑を通って進んで行った。その時、皆空腹を覚えて、麦の穂を摘み始めた。これを目撃したファリサイ派の人たちが弟子たちの教師であるイエス様に難癖をつけ始めた。問題となったのは、他人の麦を取ったことではありませんでした。申命記23章25節をみると、隣人の麦畑の麦は自分の空腹を満たすために手で積むのは良いが、それ以上取るために鎌を使ってはいけない、という規定があります。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだことが脱穀作業と見なされ、さらに麦の粒を取り出すために手で籾摺りをしたことも作業と見なされたことです。作業である以上は仕事で、それは安息日にしてはいけないことでそれをした、という論理だったのです。
少し馬鹿馬鹿しく思えるような論理ですが、当人たちにとっては真面目な大問題でした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならない、ということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように隙が出来ない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。
ファリサイ派の批判に対してイエス様は、サムエル記上21章にある出来事を引き合いに出して反論します。それは、ダビデがサウル王から逃れる途上で祭司にパンを乞うた時の出来事です。ダビデはその時、本当は祭司しか食べることが許されていない聖別された供え物のパンをもらいました。(* 祭司アビアタルとアヒメレクについて後記の注をご覧下さい。)サムエル記上ではイエス様が言われるように、従者にもパンが分け与えられたことは記されていませんが、ダビデと祭司のやりとりを見ると後で分け与えられたと考えられます(サムエル上21章3、4-5節)。将来王の位につくダビデでしたが、この時は猜疑心嫉妬心に憑りつかれたサウル王から逃れる日々を送っていました。実はそれは、神の大いなる導きの中の一コマでした。その中でもがくダビデでしたが、それはそれで神の意思に従う生き方だったのです。彼が祭司にしか許されない食べ物を得られたというのは、神の計らいによるもので、神の御心に適うことでした。さて、イエス様の弟子たちの場合も同じでした。弟子たちは、イエス様と行動を共にし、イエス様から教えを受け、それを各地に伝える役目を果たしました。自分たちの空腹を満たすために鎌ではなく手で麦の穂を摘むのは、安息日であっても神の目から見て何の問題もないことでした。これが、もし許されなければ、弟子たちの空腹が満たされないだけでなく、弟子たちと共に神の国について人々に宣べ伝えるイエス様の活動にも支障をきたしてしまいます。ファリサイ派の人たちが自分たちこそ神の意思を守って実現しているのだと思ってやっていることは、実はその反対のことをもたらしてしまうのです。まさに、人間というのは安息日のために存在するのだ、ということになってしまいます。イエス様の教えは正反対でした。人間のために安息日が存在するのだ、と。
この教えは、本日の福音書の箇所の後にも続きます。イエス様が手の萎えた状態の人を癒したという出来事です(マルコ3章1-6節、ルカ14章1-6節も)。それも、ちょうど安息日でした。もしイエス様が癒しをしたら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」これには誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。
ここで、ひとつ注意しなければならないことがあります。イエス様は安息日に好き勝手にあちこちを巡回して人助けだけしていたということではありません。ルカ4章16節を見ますと、ナザレの町で安息日に会堂に入って聖書の朗読をした出来事があります。つまり安息日の礼拝に出席したということですが、この出席が「いつものように」と書いてあります。ギリシャ語原文を見ると、安息日の礼拝に出席するのはイエス様にとって習慣であった、という表現です(κατα τω ειωθος αυτω)。イエス様もちゃんと安息日を守る方でした。そしてその上で病人を癒したりしたのでした。安息日に何をしてはいけないか、何をしなければならないか、ということはイエス様が全て正確にご存知なのです。というのは、彼は神のひとり子なので、父なるみ神の意思を誰よりも一番知りうる立場にあったからです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っている者であると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。
4.安息日の主、律法の主そして罪の奴隷状態からの解放者
本日の福音書の箇所の終わりでイエス様は、「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているという意味です。父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っているということになります。イエス様は、安息日の主のみならず、律法の主でもあります。
ところが、安息日の主、律法の主と言う時、それは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて、それを人々に教えることができるという意味だけではありません。イエス様が安息日の主、律法の主というのは、律法が人間に加える圧力に人間が押し潰されてしまわないように助けて下さる方という意味もあります。イエス様はそのような力を超える力を持つ方なので、人間を律法の重圧から助けて下さることができるのです。
どういうことかと言うと、十戒の中に「汝殺すなかれ」とか「姦淫するなかれ」という掟があります。イエス様が教えたのは、外面的な行為で掟を破らないということだけでなく、心の状態も潔白でなければならないということでした(マタイ5章21-30節)。人間一人一人を造られて命と人生を与えられた神は、一人一人の心の奥底までもお見通しで、何も隠し立てすることはできない。外面的な行為で罪を犯さなくとも、心の状態まで問われたら誰も罪のない人間などいなくなってしまうのです。そのことを、詩篇の御言葉を引用して(14篇1、3節、53篇2、4節)使徒パウロは言います。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章11節)。律法とは実は、守ったら神の目に適うものとされる手段ではなく、人間がただただ神の目に適うものではないことを暴露する鏡のようなものだったのです。
このように全ての人間は、一番最初の人間アダムの時から、神の怒りを受ける存在となってしまったのでした。神は神聖そのものなお方です。神聖さというのは、罪の汚れを許さず、それを持つ人間も一緒に焼き滅ぼしてしまう力を持つものです。それが本当の神聖さというものです。しかし神は人間が焼き滅ぼされることを望まなかった。御自分がお造りになり命と人生を与えた人間ですから。しかし、神の神聖さというものは罪の汚れをほってはおけない。ではどうしたらよいか?
そこで神がとった打開策は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、彼に人間全ての罪を請け負わせ、あたかも彼に全ての責任があるようにして全ての罪の罰を受けさせて、十字架の上で死なせた。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。さらに一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれた。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それを見た神はイエス様の犠牲に免じて人間を赦すということにしたのです。罪はお前の心の中に残るかもしれないが、お前はわが子イエスの犠牲に免じて赦されたのだから安心しなさい。お前は、言わば高い犠牲を払って罪の奴隷状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだからそれに相応しい生き方をしなさい。罪を行為で犯さないように注意しなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪と戦いなさい。お前は死と罪の力に勝利したイエスとしっかり結ばれていることを忘れないようにしなさい。こうしたことを神はおっしゃって下さっているのです。
そうは言っても、毎日の生活の中でいろんな課題があり、いろんな人間関係の中で生きなければなりません。それらのことが原因となって、神の意思にそぐわない思いが心の中に渦巻き始めます。また、生活一般の悩み事や心配事が心を縛りつけたりしてしまいます。しかし、キリスト信仰者は、1週間に少なくとも1日は罪の赦しを頂いたことを公けに確認できる日があります。また、心を縛りつけるものから解放されて、神に心を向けることができる日があります。それが安息日です。
先ほども申しましたように、安息日に、悩み事心配事を神の足元に投げ出して、そこで出来た空白を今度は礼拝の中で与えられる賜物で満たしましょう。御言葉や説教の拝聴を通して神が自分に何をしてくれたかを思い起こしましょう。讃美歌を歌って神への賛美を声に出し、祈りの時に普段抱えている重荷の真の解決を与えてくれるように助けを祈り求めましょう。聖餐式がある日には、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいましょう。こうして霊的な癒しを受けて強められて十分な休養を取った者として、新しい1週間に臨んでいきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(*)マルコの記述によれば、ダビデが供え物のパンをもらった祭司はアビアタルですが、サムエル記上21章ではこの祭司はアヒメレクとなっています。よく言われるのですが、これはマルコが間違えたのでしょうか?これは、そう単純な問題ではありません。マルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアビアタルの名があった可能性も考えなければなりません。その際、パピアス伝承を信じれば、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。パピアスを信じなければ、書かれたものか口伝えのものかマルコが受け取った伝承のなかにその名があったことになります。さらに、イエス様自身がアビアタルの名を言った可能性も否定できません。そうなるとイエス様が間違えたことになるのでしょうか?それもそう単純ではありません。今私たちが使っている旧約聖書は紀元1000年頃に集大成された版に基づいています。イエス様の時代から1000年後のものです。イエス様の時代のサムエル記上の記述は今のものとそっくりそのまま同じだったでしょうか?死海文書を研究する人に聞いてみるのもいいですが、それでも決定的な答えがでるかどうか。 以上のような文献成立史の観点からだけでなく、今ある文献の中からもいろんな可能性が考えられます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。サムエル記上のアヒメレクがダビデにパンを与えた時、もしアビアタルが同席していて、父親が息子に、お前パンを持ってきなさい、と命じていたならば、渡したのはアビアタルになります。もちろんサムエル記上にはそのようなことは記されていません。しかし、神のひとり子ならその時の出来事を天から見ていて知っている筈です。いずれにしても、マルコが間違えたなどという説明はあまりにも安易すぎます。
主日礼拝説教2015年6月21日 聖霊降臨後第四主日 聖書日課 申命記5章12-15節、第二コリント4章7-18節、マルコ2章23-28節
本日の福音書の箇所のイエス様の教えは少しわかりにくいかもしれません。まず、断食についての教えがあります。ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をするのに、なぜイエス様の弟子たちはしないのか、と問われて、イエス様が答えたのは、花婿が一緒にいる時に婚礼の客たちは断食などできない、ということでした。つまり、イエス様が花婿、イエス様の弟子たちが婚礼の客ということで、それで断食する必要はない、というのです。これは一体、どういう意味でしょうか?
イエス様はまた、花婿がいなくなってしまう日が来て、その時に婚礼の客たちは断食することになる、とも言われます。つまり、イエス様がいなくなって弟子たちが断食することになる、ということです。新共同訳では「花婿が奪い取られる」となっていて、イエス様が「奪い取られる」ということですが、ギリシャ語原文の動詞(απαιρω)はそんな略奪のような強い意味で訳する必要はなく、イエス様が私たちのもとから「取り去られてしまう」程度でよいと思います。英語のNIV訳もドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳もそうです。そうであるならば、この箇所は、イエス様が天に上げられて弟子たちのもとを離れていくことを意味します。そうなると、イエス様が天の父なるみ神のもとにいる時が断食をする時だということになります。それでは、私たちも断食をしなければならないのでしょうか?後ほど、これらの疑問を明らかにしていきましょう。
次にイエス様は、織りたての新しい布を古い服の継ぎあてに使う人はいない、そんなことをしたら新しい布切れが古い服を引き裂いてしまう、と教えられます。これはもっともなことです。織りたての布はまだ洗濯して乾かしていないので縮んでいません。古い服は何度も洗濯して乾かしているので既に縮んでいるし、生地も使い古されて弱くなっています。そんな服に新しい布きれを継ぎあてにして縫い付けて洗濯して乾かしたら、どうなるでしょうか?新しい布はギュッと縮んで、古い弱くなった周りの布を引っ張って、ひどい時は引き裂いてしまいます。イエス様は、何か実生活に役立つ知恵を教えているのでしょうか?
新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけないという教えも同じように聞こえます。熟成した古いぶどう酒とは異なり、新しいぶどう酒というのは酸味が強いです。古い革袋というのは、弾力性もなくなって硬直していたり擦り切れたりしています。そこに酸味の強い液体を流し込んだら、すぐ裂け目ができてぶどう酒は漏れ出してしまうでしょう。これも生活に役立つ知恵です。
ところが、この箇所をよく目を凝らして読んでみると、イエス様は実生活に役立つ知恵を教えているのではないことがわかります。イエス様はこう言います。誰も古い服に新しい布を継ぎあてしない、誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れない、と。つまり、こんなことは誰でも知っている当たり前の話である、と言っているのです。それでは、なぜイエス様は誰でも知っていることをわざわざ話すのでしょうか?それは、こうした日常生活の当たり前のことを話しながらも、それを何かにたとえているのです。そのたとえられたことも同じくらいに当然のことなのだと言おうとしているのです。それでは、イエス様は何のたとえを話されているのでしょうか?以下にそのことも見ていこうと思います。
最初に断食についてのイエス様の教えを見てみましょう。断食と言うのは、多くの宗教に見られる行為です。ある決められた期間とか、何か特別なことが起きた時に、食べ物を摂らない、ないしは食べ物飲み物双方を摂らないということをします。断食と聞いて私たちがよく耳にするのは、イスラム教でラマダーンと呼ばれる月に日の出から日没までの間毎日行われる断食があります。断食の目的はそれぞれの宗教により様々ですが、おおざっぱに言えば、食べる飲むという人間の基本的な欲求を制限することを通して、それぞれの宗教が崇拝しているものと近づきになるということがあるのではないかと思います。
旧約聖書の世界では、断食のなかで大きなものは、レビ記16章に定められている、毎年秋の第七月の十日の贖罪日、イスラエルの民全体の罪を贖う儀式の日、これが民全体の断食の日と定められていました。これとは別に、ダビデ王がサウル王とヨナタンの戦死を聞いて悲しんで断食したということがあります。深い悲しみの心を個人的に神に捧げる意味合いで断食することがあったと思われます(サムエル記下1章12節、サムエル記上31章13節も)。
時代が下ってイエス様の時代のユダヤ教社会では、前述の贖罪日の他には、ファリサイ派の人たちが週二回断食していたことが知られています(ルカ18章12節)。洗礼者ヨハネの弟子たちも、週何回かはわかりませんが、本日の福音書の箇所から断食をしていたことが窺われます。イエス様自身は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で悪魔から試練を受けた時に40日断食をしました。しかし、彼は特に弟子たちには断食を命じることはありませんでした。その理由が、先ほど見ました花婿と婚礼の客たちのたとえだったのです。このたとえについて見てみましょう。
イエス様を花婿とする婚礼というのは何か?これは、黙示録19章や21章に記されていますが、将来イエス様が再臨し、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて神の国が目に見える形で現れる日の祝宴を指します。その日、死者の中から復活させられた者たちとその時点で生きていた者たちの中から選ばれた者たちがこの祝宴に招かれて、前世の労苦を百倍にもされて(マタイ19章29節)労われます。その祝宴の席につく者は皆、天地創造の神のもとに永遠にいることが出来る者たちです。わざわざ断食などして神とお近づきになる必要などありません。祝宴に招かれたのに、断食しますと言うのは招待を断るようなものです。それでは、イエス様が地上におられた時、あたかもそのような祝宴があるかのように振る舞って、断食など必要ない、などと言ったのはなぜでしょうか?まだ今ある天と地はそのままで神の国も到来していなかったのにもかかわらず。
イエス様が地上で活動していた時、神の国は将来のように見える形ではないが、実はイエス様にくっつくようにして一緒だったのです。どういうことかと言うと、将来現れる神の国は、黙示録にも記されているように、嘆きも苦しみもなく死さえないところです。また、前世の労苦が全て労われ、前世に被った不正義が最終的に清算され、神の愛と恵みと正義が完全に実現されるところです(黙示録19章5-9節、21章1-4節、マタイ25章31-46節、ルカ16章19-31節、ダニエル12章1-3節等々)。イエス様が地上で活動していた時、数多くの奇跡の業を成し遂げられました。病気の人に治れと命じると病気は治り、悪霊に出て来けと命じると言われるままに出て行きました。また嵐に静まれと命じれば静まり、何千人もの人たちの空腹を僅かな食糧で満たしたりました。
イエス様のこうした奇跡の業は、将来現れる神の国がどういうところであるかを、今ある天と地の下でという条件のもとで、人々に体験させる意味がありました。奇跡の業を受けた人たちは、嘆きや苦しみや死もない神の国を垣間見たというか、味わうことができたのです。このようにイエス様が弟子たちと共に行動し、群衆に教え、奇跡の業を行ったというのは、将来現れる神の国の祝宴の予行演習のようなものだったのです。将来断食など不要になる大いなる祝宴の日が来る、今自分が地上にいるのはその前触れなのだ、ということなのであります。
しかしながら、イエス様は昇天日に天に上げられ、再臨の日までは天の父なるみ神の右に座しています。そのため私たちは今、イエス様の一回目の降臨と二回目の降臨の間の時代を生きています。このイエス様が地上におられない期間は断食することもある、とイエス様は教えるのですが、ここで注意しなければならないことも教えられます。それは、マタイ6章11節にあります。断食をする場合、自分はどれだけ苦行を積んでいるかを周りの人にひけらしてはいけない、自分がどれだけ信心深いかを他人に見てもらうために行ってはならないということです。同じような教えは、既に旧約聖書の中にもあります。イザヤ書58章やエレミア書14章の中で神は、いくら断食や祈りをしても、する者たちが神の意思に背くような生き方をしていれば、そうした苦行は何の意味も持たない、と言われます。神の意思に背くような生き方をする者が神の恩寵を得ようとして断食したり祈っても顧みてもらえない。神に顧みてもらえる断食とか祈りというものは、まず神の意思に沿う生き方をして、既に神から恩寵を受けている者ができるということです。
いろいろな宗教の中で、神と呼ばれるものから恩寵や恩恵を得ようとして、様々な苦行を積んだり、掟や戒律を守るということはよくあることではないかと思います。ところが、イエス様の場合はどうやら逆で、最初に神から恩寵や恩恵を受けた者が、その結果苦行したり掟を守るという順序になっているようです。最初に断食のような苦行をして神から特段目をかけられて褒美をもらえる、ということではない。そうではなくて、既に目をかけられて恩恵を与えられた者がその結果、いろいろな業を行うということです。そうなると焦点になってくる質問は、どうすれば、業を行う前の段階で神から、お前は私の目に適う者だ、と言ってもらえるのか、ということになります。そこで、本日の福音書の箇所のもう一つの教え、新しい布きれと新しいぶどう酒のたとえが答えの鍵になります。以下にそれを見ていきましょう。
先ほど、イエス様の新しい布きれと新しいぶどう酒の教えは、実生活の知恵を教えているのではなく、何かをたとえる教えであると申しました。何のたとえなのでしょうか?ここのイエス様の教えのポイントは、最後の節22節で「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言ってところにあります。どういうことかと言うと、古い服や古い革袋を引き裂く力を持つ新しい布きれとか新しいぶどう酒というのは、イエス様自身のことを指します。引き裂かれてしまう古い服や古い革袋とは、ある状態にある人間を指します。つまり、イエス様は私たちに、新しいぶどう酒である彼を入れてもずたずたにならない新しい革袋になれ、とおっしゃっているのです。イエス様を内に入れられないままだと、古い革袋は古い革袋のままで、ただ硬直した、やがて擦り切れて使い物にならなくなってしまうものでしかない。しかし、そのままの状態で新しいぶどう酒を入れたら耐えられるような代物でもない。新しい革袋に変身しなければ、イエス様をしっかり内に留めて置くことはできない。どうしたら古い革袋がそのような革袋になることできるのでしょうか?苦行を積んだり、掟や戒律を守ったりすることで、自分をそのように新しく変身させることができるでしょうか?
先ほど、そういうことをしても、まず最初に神の方から、お前は私の目に適う者、と認めてもらわなければ、意味がないと申しました。神から、お前は私の目に適う者、と認められるというのは、実は新しい革袋になったということです。人間が自分の力で新しくなれないのは明白です。父なるみ神とそのひとり子であるイエス様の力によって、私たちを新しい服、新しい革袋に変えてもらわなければなりません。どのようにして、そのようなことが可能でしょうか?
実は、父なるみ神とひとり子イエス様は、私たちが新しく変えられるための大きな業を既に成し遂げて下さったのです。多くの人たちは、まだこのことに気づいていません。いつ、どこで成し遂げて下さったのでしょうか?それは、ゴルゴタの丘の十字架の上で起きました。人間の造り主である神と造られた人間との間を引き裂いていた原因である罪、この罪の支配から人間を救い出して神との結びつきを回復させるために、イエス様は人間の全ての罪をご自分で請け負って、十字架の上で私たちの身代わりとなって罪の罰を受けられました。それは、あたかも自分が神に対して全ての罪の責任があるかのように振る舞ったのです。神聖な神のひとり子ですから、本当はそうする必要はなかったのに。しかし、人間は罪の罰を背負いきれないので、あえてそうしたのです。イエス様は、真に犠牲の生け贄になったのです。私たち人間は、このことが本当に自分のために起こって、それでイエス様こそが自分の救い主だとわかって信じると、すかさず神はイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦して下さるのです。こうして、人間と神の間の結びつきが回復します。つまり、イエス様を救い主と信じる信仰によって、人間は神の目に適う者とされるのです。
これらの出来事がこの自分のためになされた、イエス様こそは自分の本当の救い主だ、と信じることができるのは、これは神の霊である聖霊の力が働いたことによります。それで、信仰に至った人は洗礼を受けることで、完全に聖霊の影響力の下で生きることになります。信仰者がしっかりしていれば、もう他の霊が入り込む余地はありません。聖霊の影響力の下で生きることは大事です。そうしないと、人はイエス様が救い主であることがわからないし、わかってもすぐ見失ってしまいます。また現実問題として、信仰に至って洗礼を受けた人でもその後の人生の中でイエス様が救い主であるということを忘れさせる力に何度も直面します。それで、聖霊の影響力の下にあることを自覚して生きることは大事です。
以上から、どうすれば、人間は神の目に適う者とされて、イエス様という新しい布きれを継ぎあてられても大丈夫な服となり、イエス様という新しいぶどう酒を注がれても大丈夫な革袋に変えられるかが明らかになりました。イエス様を救い主と信じる信仰と聖霊の影響力の下で生きられるようにする洗礼の二つです。この二つのことによって、人間は神の目に適う者とされ、新しくされるのです。信仰と洗礼が人間を新しくするということについて、使徒パウロは次のように述べています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテア3章26-27節)。このように新しくされた者は、神の意思に沿って生きることが当然という心になって、神を全身全霊をもって愛しよう、隣人を自分を愛するが如く愛しようということを志向するようになります。新しく変えてもらうために、そうしようとするのではなく、変えてもらったから、そうするのです。
ここで注意しなければならないことは、新しく変えてもらったとは言っても、それは出発点に立ったことで完結したのではありません。そのことについて、ルターは次のように教えています。「主イエス・キリスト以外に汚れなき手、清い心を持つ者はいない。それ以外の者は全て汚れに満ち、自分の能力や努力によっては清くなることはできないのである。神がイエス様を通して示した恵みとそのイエス様を救い主と信じる信仰によってしか、人は清くなることはできないのである。キリスト信仰者が清い心の持ち主であるという意味は、彼または彼女が清くなり始めたということである。キリスト信仰者は、まだまだ多くの点で汚れている。彼または彼女はイエス様の清さを被せられて清いのであるが、清くされていく存在でもあるのである。」
最後に、キリスト信仰者は断食をすべきかどうかということについて、一言述べたく思います。キリスト教のいろんな教派にそれぞれの考え方と思いますが、これまで述べたことに即してみると、私がフィランドで見聞きしたことがちょうどよいように思われます。どういうことかと言うと、復活祭の前の主日を除く40日間は四旬節と呼ばれる期間ですが、古いキリスト教会の伝統として、この期間に断食をすることが行われていました。40日というのは、イエス様が荒野で悪魔から試練を受けた時に40日間何も食べなかったことに由来します。昔のキリスト教徒たちはこの期間の断食を通して、イエス様が御自身を生け贄にすることに備えようとした生涯というものを身近なものにしようとしました。
日本語で「四旬節」と呼ばれる期間ですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国ですから、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりません。それに「断食」と言っても、名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、お近づきになれるとか、救いを確実なものにするとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは四旬節であるなしにかかわらず、どんな時でも、心を絶えずイエス様に向けるようにしましょう。日々の生活ではいろんなことがあり、心はいろんなものに向けられてしまいますが、こうして主日に教会に集まって一緒に礼拝を守れるというのは、1週間の中で一番心をイエス様に向けられる機会だということは、皆さんもよくご存知でしょう。
主日礼拝説教2015年6月14日 聖霊降臨後第三主日 聖書日課 ホセア2章16-22節、第二コリント3章1-6節、マルコ2章18-22節
今日のみことばは、新約聖書の一番はじめにあります福音書を書いた、マタイという人の回心の出来事であります。マルコ2章13節に、「イエス様は、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆、そばに集まって来たので、イエスは教えられた」とあります。ここに「再び」とありますから、以前にガリラヤ湖に行かれた事があって、今、再び行かれたのでしょう。マルコ1章16節を見ますと、すでに、イエス様はガリラヤ湖のほとりを、歩いておられた姿が記してあります。その時には、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネを弟子に招されています。そして、再び湖のほとりに行かれて、その「通りがかりに」収税所に座っているアルファイの子レビを見かけられた。イエス様は、収税人レビに声をかけられます。「わたしに従いなさい」。すると、レビはすぐ様、イエス様に従う者となったのです。ここの訳でレビとなっているのがマタイのことでした。
ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖のほとりで漁をしていた漁夫たちです。幼い頃から、生まれ育ったガリラヤ湖で魚をとり、畑では、野菜や麦をつくって生活していた、おだやかな漁民でした。ところが、今日の聖書では、イエス様が弟子に招かれたマタイは、漁師たちとは全くちがいます。ユダヤの人々から、税金を取り立てる仕事をしている、取税人と言われる者です。ユダヤの民からすれば、最も憎い取税人です。この取税人マタイに、イエス様は声をかけられたのです。「わたしに従いなさい。」
なぜ、イエス様は、他の誰れもがきらうような、取税人を求められたのでしょうか。
ガリラヤは、古代代世界の中で、陸上交通の中心地の一つでありました。神学者バークレーの研究によりますと、パレスチナは、ヨーロッパとアフリカを結ぶ陸橋である、と言われた程、すべての陸上交通は、そこを通過しなければならない。海の大道はダマスコからガリラヤを経由して、カペナウムを通り、カルメル山のふもとをまわり、シャロンの平原に沿ってガザへ出て、そこからエジプトへ至る、という壮大な幹線道路です。そのような幹線の要所がカペナウムの町でした。カペナウムが、なぜ要の場所となるかといいますと、この当時、パレスチナは大きく二つに分割されていて、ユダヤ全体はローマの長官の下におかれていましたが、ガリラヤはヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスによって支配されていました。
もう一方、東の領土(テラコニスとバタネア)は、ヘロデ大王のもう一人の息子ピリポに支配されていました。さて、このピリポの領土からヘロデの領土への道で、旅人たちの来る最初の町が、カペナウムであったのです。つまりカペナウムという町は、国境の町であったゆえに、そこには税金を取り仕切る収税所があった。旅人や人々がカペナウムを通るたびに、交通税、物を輸入したり、輸出するたびに税が課せられていった。又一般に、所得税や消費税もとられていたことでしょう。
マタイは、そういう収税所に座って、働いていたのでしょう。彼のような収税人は、ユダヤの民からは憎まれていたのでした。なぜ憎まれていたかといいますと、取税人たちは、取れるだけ税を取り立てていたからです。当時の人々は、自分がいくら税金を払うべきかを知らない。役所からの通知とか新聞もテレビもない。取税人にまかせられていたから、取れるだけ絞り取って、余った分は彼らの手数料として、私腹を肥やしていたからです。このようにユダヤの民からは、きらわれ者、罪人として見られていたマタイが、なぜイエス様によって、弟子とされたのでしょうか。マタイには一つだけ取り柄があった。ヤコブやヨハネのように漁師出身の彼らには、物を書くことが出来なかった。魚を捕っていればよかった。その点マタイは、物を書くことが出来る専門家であった。
イエス様がマタイに声をかけ、「従って来なさい」と言われた時、彼はその一声ですべてを捨てて、イエス様に従った。ただ一つ、捨てなかったものが、彼の筆であります。マタイは、文章の才能をいかして、神様のために用いられたということです。そうして、イエス様の生涯と教えを記録として、福音書として書き残したということです。この事が、どんなに大きな働きとなっていったか、はかり知れないものでしょう。マタイが書きました、福音書の大きな特長は、先ずユダヤ人のために書かれた福音書であるということ。その大きな目的の一つは、旧約聖書の預言が、イエス様によって成就された、ということを実証することであった。
イエスというお方こそ、メシヤであるということをユダヤ人に、しかと証明するため、先ず、彼自信がユダヤ人であり、彼の経験と、筆の技術が用いられたのです。ユダヤ人を回心させるため、ユダヤ人であるマタイをイエス様は招かれたのです。しかも、ユダヤの人々からは嫌われていた、取税人であった者を、弟子へとされたのです。神のなさる御計画というものが、私たちには到底はかり知れない、深くて大きな、不思議なものであります。
新約聖書は、四つの福音書と使徒言行録を除きますと、殆どが使徒パウロの手紙です。このパウロは、神様のために働く前は、名をサウロと言い、キリスト者を迫害していたのです。迫害から逃れて、ダマスコへ行ったキリスト者を追って、次々と捕えてはエルサレムへ送って殺していった人物です。ところが、サウロはダマスコへの途中で、突然、天からの光に打たれて、目が全く見えなくなり、地面に倒れたのです。そうして、天からの声を聴いたのです。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。するとサウロはたずねました。「主よ、あなたはどなたですか」。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」というイエス様の声に、彼の生涯は一変していきます。
神様は、パウロの劇的な回心の出来事を、彼の身に起こして、今度は、主であるイエス様のことを、全世界へと伝える、伝道者にされたのです。これまた、神様は考えられない、逆転の人生をもたらして用いていかれます。神様の不思議な、驚くべき御業であります。
マタイは、ユダヤ人の嫌がる、憎んでいるユダヤ人のために向けて、福音のために用いていかれる。パウロは、迫害していた彼を回心させて、キリスト者へと伝道者へ変えられていく。神様の導きは、誠にすごい事であります。
最後に、どうしても不思議に思いますのは、マルコ1章16~20節のところで、漁師をしていたペテロやヤコブの兄弟たちには、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。彼らは網を捨てて、イエス様に従っていった。一家の家計を支えていた若者たちが、職業を捨て、親、兄弟をはなれて、イエス様の弟子となっていく。そこには、とても説明のできない内的悩み、苦闘があったにちがいない。しかし、それにもまして、圧倒的な不思議な引かれる力におされて、魅力に引かれて、ただ、ただ、イエス様の言葉に従って行ったのであります。自分の人生のすべてを、イエス様にかけて行こうと、決意していったのです。
マタイについて言いますならば、恐らくこの時、マタイは心に痛みを持っていたでしょう。彼はイエス様について、すでに聞いていたにちがいない。彼はイエス様が語られていたメッセージを、群衆の外側で聞いていたにちがいない。又、彼は心の中に、何かが動いていたにちがいない。自分自身と、この取税人という嫌な仕事を憎んでいたにちがいない。堂々と、人々の前に顔を向けて歩いていけない、自分の人生に嫌気がさしていたことでしょう。彼は熱心なユダヤ教の国粋主義者でありましたから、正統な善人たちのところへ行けたら、と思ったことでしょう。そのような時、イエス様の方から、全く思いがけなく、声をかけられたのです。「わたしに従って来なさい」と招いて下さった。イエス様のことを、人々からもいろいろ聞いていて、メシヤであられるかも知れない。そのお方のほうから近付いて、招いて下さるとは、何ということだろう。イエス様のひと声の招きに、どんなに感動し又救われたことでしょうか。まさに恵みの時、救いの時、マタイは全く新しい人生へと、導かれていったのです。神様に用いられる道とは、そういうものでしょう。理屈や、納得等というものを超えた、神様への不思議な道へと、人生が引き込まれていく世界でありましょう。
15節以下では、イエス様は、マタイの家で食事を共にされて、そこに多くの取税人や罪人と呼ばれた人々と、弟子と共に同席しておられる。その中に、イエス様がおられる、という存在そのもに、神の国の福音が輝いているのです。
ルカ17章21節に「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」とあります。イエス様は、パリサイ派の律法学者たちの非難に対して、はっきとり宣言された。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。ガリラヤで、「時は満ちた。神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様のこの宣言が、弟子たちを招かれていった、すべての根底に響きわたっているのであります。
マタイという取税人を弟子にして、マタイの家で大勢の罪人を招き、食事を共にされることを通して、神の国は、そこに現に存在していることを、教えられるのであります。私たちもマタイと同じように、主イエス様に従っていく人生の中で、福音の証人として用いられてゆきたいものです 。 アーメン
聖霊降臨後第二主日 2015年6月7(日)
1.三位一体の神
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。
そうは言っても、わかりそうでわかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとしてもできません。これは、もうこういうことなのだ、とそのまま受け入れるしかありません。そこで、皆さんの理解を助けるために、ひとつのことをお見せしたく思います。フィンランドにいた時、教会学校や堅信礼教育で三位一体を教える時はこうしたらいいと教わり、私もよく使っていました。
ここに大きな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています(写真1)。
この三角形全体が神です。まず、イエス様が地上に送られる前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります(写真2)。
ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約を見ると、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがあったと言えます(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、イエス様が天に上げられた10日後に起きた聖霊降臨の時からです。
さて、イエス様が地上に送られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6-7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました(写真3)。
さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる時が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が孤児のように一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。写真4)
ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。イエス様は、ちゃんと約束を守りました。よかったですね。
聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります。そして、信じるようになった者は、聖霊からイエス様についての真理を示してもらったり、罪の悪い力から守ってもらいます。また聖霊は、信じる人たちにいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、それを用いて、まだ信じていない者に信仰への道を示したり、信じている者には信仰をしっかり守れるように助けたりします。どうです、父と御子は天におられるとは言っても、三位一体のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。感じがしないどころか、実は私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに耳元や口元においでになると言うことができるのです。私たちの神はまことに素晴らしい方です。
2.新たに生まれることは可能か?
本日の福音書の箇所は、イエス様とニコデモという男の人の対話のはじめの部分です。ニコデモは、当時のユダヤ教社会の最高自治機関である最高法院の議員でした。位の高い人です。彼はまた、ファリサイ派という、旧約の律法やその他の戒律を非常に重んじたグループの一員でもありました。福音書を繙けばわかるように、ファリサイ派はいつもイエス様に言いがかりをつけて論争を挑んでは、いつも打ち負かされていました。神のひとり子のイエス様は神の意思や計画について一番よく知りえる立場にいるのに、ファリサイ派の人たちは自分たちの理解が正しいと信じこんでいました。イエス様がどんどん人々を惹きつけていくことに対して敵意を抱きます。そのようなグループのメンバーであるニコデモが、ある夜イエス様のところに一人で出かけ、「先生」と言って教えを乞うのです。夜に行ったということですから、人に見つからないようにしたということです。二人の対話は21節まで続きます。その中に、キリスト教の福音のエッセンスが詰まっていると言われるヨハネ3章16節のイエス様の言葉も含まれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様の逮捕について話し合われた時、ニコデモは、嫌疑をかけられた者を審問なしに裁いてはいけない、と弁護したことに伺えます(ヨハネ7章50-52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられた時、アリマタヤ出身のヨセフと一緒にイエス様の遺体を引き取って丁重に墓に葬ることもしました(19章39-42節)。
さて、本日の箇所にあるイエス様とニコデモの対話で重要なことは、「新たに生まれる」ということです。「新たに生まれる」というのは、どういうことでしょうか?「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が、今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、病弱な人が、生まれ変わったら健康な者になりたいとか言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ていると、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだとか言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。しかし、時として、自分は前の世には別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。輪廻転生の考えを持てば、生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や虫にまでなってしまいます。
聖書が教える信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明のこの世での一生は一回限りで、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはありません。ルターの教えによれば、この世から死んだ後は、復活の日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。
それでは、本日の福音書の箇所でイエス様が教える「新たに生まれる」とは、「生まれ変わり」ではないとすると、どういうことなのでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモは、輪廻転生の考えを持っていないと言うことです。もし持っていたならば、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。しかし、イエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、旧約聖書もしっかり勉強しているので、輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と聞いて、年老いた自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。
ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」は、母親の胎内を通って起こる誕生ではなかったのです。それでは、どんな誕生かと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5-6節)。イエス様が教える新たな誕生は、「水と霊による誕生」ですが、これは洗礼を受けることと、洗礼を通して神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるが、それは単なる肉の塊である。それが、洗礼を受けて聖霊を注がれると、「肉から生まれたもの」が「霊から生まれたもの」に変わる。肉をまとってはいるが、霊的な存在になる。これが、人間が新たに生まれるということなのです。
3.新たに生まれた者として生きる
それでは、肉をまとっているが霊的な存在になる、というのは、どういうことなのかを見ていきましょう。霊的な存在などと言うと、お化けか幽霊になったように聞こえる人もいるかもしれませんが、そうではありません。ここで言う「霊」とは、先ほども申しましたように神の霊、聖霊のことです。聖霊が注がれた結果、人はそれまでの神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになる。神とはそもそも人間の造り主ですから、自分の造り主の方を向いて生きるようになるわけです。そうなると人は、神の意思に沿うように生きようと志向します。そのため、神の意思に反すること、つまり罪を犯さないようにしようと志向します。
このように、新たに生まれて霊的な存在になるというのは、最初に肉として生まれた者が聖霊を注がれた結果、神の方を向いて生きようとすることになるという内面の大きな変化を意味します。その変化は周りには見えますが、聖霊がどう働いてそれが生じたのかは誰も見ることは出来ません。そのことについて、イエス様は8節で次のように述べます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」空気も、空気の移動である風も、聖霊と同じように目には見えません。しかし、人がイエス様を自分の救い主と信じ、万物の造り主である神の方を向いて生きるのは、風にしなう枝や葉と同じように周りの目に見えることです。風や聖霊は目では見えなくても、それが引き起こす変化は周りには明らかになるのです。
ところで、新たに生まれて霊的な存在になったとは言っても、人間ですから肉をしっかりまとっています。そのために、聖霊が、神の意思はこうですよ、と聖書の御言葉を通して教えてくれるのに、それに反するようなことを考えてしまったり、果ては行ってしまうことがあります。さらには、神の意思そのものをぼやかしてしまうこともあります。人間は霊的な存在になった瞬間、まさに一人の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた聖霊に結びつく新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。
この内面の戦いは、苦しい戦いです。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。心の奥底まで、神の意思に完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんかにこだわって生きないことだ、と決めてしまったら、それは、神に背を向けて生きることに戻ってしまいます。心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
ここで最も重要なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりするかしないかというその瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けるのです!聖霊がそれを導いてくれます。あそこにいるのは誰だった忘れたのか?あれは、神が送られたひとり子が、神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか。あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、そしてお前があの方を真の救い主と信じたゆえに、神はお前を受け入れて下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから受け入れてくれたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神は御自分のひとり子を犠牲に供することで、至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。
こうして再び心の目を開けてもらった信仰者は、神のこの深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持てて、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを与えられて、万が一、この世から死ぬことになっても、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。イエス様が、霊によって新たに生まれる者が神の国に入れると言っている通りです(5節)。
このように心の目をイエス様の十字架に向けることができた時、洗礼の時に植えつけられた新しい人は一段と重みを増して、肉に結びつく古い人を押し潰していきます。ルターの言葉を借りれば、信仰者というものはこのようにして古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていくのです。このことについてのルターの教えをひとつ、本説教の締めとして見ていきたいと思います。この教えは、「ローマの信徒への手紙」8章13節の聖句「霊によって体の仕業を経つならば、あなたがたは生きます」の解き明しです。ルターを引用する前に少し注釈しますと、日本語で「経つ」と言っているのは、ギリシャ語原文では文字通り「死なせる」です。原文の趣旨を明らかにするように訳すると次のようになります。「あなたがたは聖霊によって体の業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に生きることになります」です。この聖句についてのルターの解き明しは以下の通りです。
「ここで使徒パウロは、キリスト信仰者と言えども、人間としての性質上はまだ、罪がもたらす病理を宿していることを認め、それを死なせなければならないと教えているのである。我々の有り様そのものの中で動き回っているこれらの「体の業」とは、以下のものである。神の命じることに反対しようとするあらゆる欲望や反抗、罪に対する自省の心を肉が弱めること、罪を犯してもなんとも思わない無感覚さ、神の愛について聞かされても何も感じない冷え切った心、神の御言葉を理解しようとする意志の欠如、困難に陥るとすぐ神に対して不平がましくなること、神に対して素直でいられなくなること、隣人との関係で復讐心を抱くこと、妬むこと、憎むこと、欲にはまりすぎて悩みが多くなってしまうこと、ふしだらなこと、その他同様なことすべてが「体の業」である。我々の肉や血の中に流れているこれらの欲望は、人を燃え上がらせたり、神に対する反抗心を掻き立てたりするばかりではない。信仰者と言えども、しっかり目を覚まして注意しないと、人間的な弱さのゆえに、一瞬のうちにそれらの囚われの身となってしまう。その時、人は境界線の中に留まることが出来ず、それを超えてしまう。人は、そうした人の弱みに付け込もうとするものに対してしっかり反対しなければ、またパウロが言うように、体の業を死なせることをしなければ、それらの支配下に置かれてしまうのである。
聖霊によって罪を死なせることは、次のようにして起こる。まず、人が自分の罪と弱さについて学び知ること、そして、罪から来る欲望が燃えるのを感じたらすぐ、我に立ち返って、神の御言葉を心に思い起こすことである。このようにして、人は、「罪の赦しの救い」の信仰にあって自分を強められ、罪に対抗することができ、罪の言いなりにならず、欲望が気持ちの段階から行為の段階に発展するのを阻止することができるのである。」
主日礼拝説教2015年5月31日 三位一体主日聖書日課 イザヤ6章1-8節、ローマ8章14-17節、ヨハネ3章1-12節
毎月の第4主日は吉村宣教師が担当する聖書研究会があります(今月は第五主日)。今回からは、「ヘブライ人への手紙」を一緒に学びます。
初回の今日は、同手紙の概説の話を聞き、第一章について学びました。この、旧約聖書をふんだんに使いこなしながら、キリスト教徒を親身に、時には厳しく時には励ましをもって導こうとする著者は、どんな背景を持つ者か、どのような状況にある教会の信徒に書いているのか等が概説の主眼でした。
第一章を通して、キリスト信仰者は、天使の実在を信じても、それを崇拝してはならないこと、崇拝の対象はあくまで父、御子、聖霊の三位一体の神であることを確認しました。
1.聖霊降臨祭 - 教会の誕生日
キリスト教会のカレンダーでは、復活祭から7週間たった今日は聖霊降臨祭です。復活祭の日を含めて数えるとちょうど50日目になります。50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラー(πεντηκοστη ημερα)と言うので、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。この聖霊降臨祭は、クリスマス、復活祭とならんでキリスト教会の三大祝日です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子イエス様が天から降って乙女マリアから人間として生まれ、人間の救いのために神が人となられたことを感謝しお祝いします。復活祭の時は、イエス様が人間を罪の呪いから救い出す生け贄となって十字架の上で死なれるも、神の力で復活させられて死を滅ぼし、人間が天の神のもとに戻れるようにして下さったことを感謝しお祝いします。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束した通りに神の霊である聖霊を天から送って下さり、私たちが聖霊の力でイエス様を救い主と信じる信仰を持てて、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになったことを感謝しお祝いします。
聖霊が弟子たちに降ったこの最初の聖霊降臨祭の日、3000人もの人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたという出来事が使徒言行録2章41節に記されています。まさに聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。この日、一体何が起こったのかを以下見ていきましょう。
2.一番最初の聖霊降臨祭の日の出来事
死から復活させられたイエス様が天の父なるみ神のもとに上げられてから10日たった時でした。当時の大都会エルサレムには、地中海世界や中近東の各地からユダヤ人が大勢訪れたり滞在したりしていました。どんな地域から来ていたかは、先ほど朗読していただいた使徒言行録2章の中に詳しく列挙されています。
聖霊が降ってイエス様の弟子たちに注がれた時、天から激しい風が吹くような音が聞こえたので、人々は驚いて音のする方へ集まってきました。そこで、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ地方出身のグループが突然、集まってきた人たちのいろんな国の言葉で話し始めたのです。ギリシャ語、ラテン語、アラム語は言うに及ばず、世界各地の土着の言語を使って話を始めたのです。外国語を習得するというのは、とても手間がかかることです。それなのに弟子たちは、突然できるようになったのです。使徒言行録2章4節によると、聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉で話し出した、とあるので、聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?使徒言行録2章11節を見ると、集まった人たちの驚きぶりを誰かが代弁して言います。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
弟子たちが世界各地の国々の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは、世界各地からやって来たユダヤ人でした。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても、出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野を40年間移動し、その時に神から十戒を与えられ、神の民として約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、バビロン捕囚からの帰還もあげられます。一度滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超えた歴史のかじ取りのおかげで、普通だったらありえない祖国復帰が実現したという出来事です。さらに神の偉大な業としてあげるならば、神が万物を、そして私たち人間を造られた天地創造の出来事も付け加えることができるでしょう。この他にも、ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解する出来事はいろいろあるかと思いますが、以上の3つは代表的なものでしょう。
ところが、イエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のような伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃したイエス様の出来事でした。つまり、あの「ナザレ出身のイエス」は実は神の子であり、十字架刑で処刑され埋葬されたにもかかわらず神の力で復活させられて、再び人々の前に現れ、つい10日程前に天に上げられた、という出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」と一緒に、イエス様の出来事が弟子たちの口を通して語られたのです。
そこでペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について解き明しをします。これを聞いた群衆は、皆「大いに心を打たれて」(2章37節)、ペトロに、どうしたらよいのか、と聞きます。ペトロは悔い改めと洗礼を勧め、それで先ほど述べたように3000人の人が洗礼を受けたということが起こりました。この「心を打たれて」というのは、ギリシャ語の原文をみると実は、「心に突き刺さるものを感じた」(κατενυγησαν την καρδιαν)というのが正確な意味です。(フィンランド語訳の聖書ではそう訳されています。英語NIV訳they were cut to the heartは同じような意味でしょうか?スウェーデン語訳とドイツ語Einheitsübersetzung訳では「言葉が心に命中した」というような訳です。)いずれにしても、グサッときた、ということです。「心を打たれて」と言うと、なにかペトロの解き明しに感動したような感じもに聞こえてしまいます。そうではなく、ペトロの話を聞いて、良心が咎められた、痛いところを突かれてしまった、ということです。それだから、群衆はペトロに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞いたのです。それでは、ペトロの解き明しの何が彼らの心を突き刺して、彼らを悔い改めと洗礼に導いたのでしょうか?以下にそのことについて見ていきましょう。
3.ペトロの解き明し
ペトロの解き明しは二つの部分から成っていてます。最初は、他国の言葉を話し出すという現象についてで、これは先ほど朗読していただいた使徒言行録の箇所(2章14-21節)です。ペトロの解き明しはこの後も続き、イエス様とは何者だったかについて解き明かします(22-40節)。
異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだす現象について、ペトロは、旧約聖書ヨエル書3章1-5節の預言が成就したと解き明かします。イエス様は、自分が天に上げられた後は弟子たちを孤児みたいに一人ぼっちにしない、神の霊である聖霊を神のもとから送ってあげる、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4b-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出しました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言通りの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きたのだとわかったのです。つまり、イエス様が送ると約束された聖霊はこの旧約の預言の成就だったのです。
ペトロは次に、死から復活したイエス様とは何者かについて解き明しをします。ここから先は、本日の日課の箇所の後になるので、皆様はお家でご確認下さい。要旨は以下の通りです。
あの、神から力を授けられて数々の奇跡の業を行い、神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者やローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というのは、もともと天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはおれません。イエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なことなのだ(2章24節)。このことは、旧約聖書に既に預言されていたのである(25-28節、詩篇15篇)。こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇109篇)。これら全てのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明らかになる(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、イエス様が神のひとり子で神が定めたメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちも何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。
これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません。自分たちはどうすればよいのか、という群衆の問いに、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めました。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは何かと言うと、イエス様が全ての人間の全ての罪を請け負って身代わりに罰を受けることで「罪の赦しの救い」が生み出されましたが、それを受け取ることが洗礼です。人間は方向転換して神の方を向いて生きようとしても、神の意思に反することを考えたり口にしたり時には行ったりしてしまいます。その時、この「罪の赦しの救い」を持っていれば、神との結びつきは失われることはなく、もう一度神の方を向いて生きていくことが出来ます。「罪の赦しの救い」がなければ、一度神の意思に反することをしてしまえば、もう神の方に向くことはできなくなってしまいます。
こうしてペトロの解き明しを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。神に背を向けてイエス様を殺した側を離れ、神の方に向き直ってイエス様と共に歩む者となったのです。こうして、人間の生き方に大きな方向転換を引き起こす出来事がこの時に始まったのです。悔い改めと洗礼は、今も当時と同じ働きをするのです。
4.聖霊の働き
ペトロが勧めの中で言うように、人は洗礼を受ける時に神が送られる霊、聖霊を受けます(38節)。人がイエス様を自分の救い主とわかって信じることができるのは、聖霊の力が働いているからです。聖霊の力が働かなければ、誰もイエス様が自分の救い主だとはわかりません。いくら歴史や宗教学の本をたくさん読んだり、社会学的に「ナザレ出身のイエス」の思想と行動を分析しても、それではイエス様は、せいぜい歴史上の卓越した思想家、宗教家の一人にしか捉えられません。単なる知識の集積だけでは、イエス様を「私の救い主」として捉えることはできません。「私の救い主」とは、この世を生きる私を永遠の命に至る道に乗せて下った方、そしてその道の歩みを日々支えて下さる方、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である天のみ神のもとに永遠に戻ることができるように引っ張り上げて下さる方、これが「私の救い主」です。単なる歴史学、社会学、宗教学の説明の中には聖霊は働きません。そもそも学術的研究というものは、本質上そういうものなのです。
ところが、もし人が、知識や学識の有無に関係なく、ああ、あの2000年前の彼の地で起きた出来事は実は今を生きている自分のためになされたのだ、とわかった時、それは聖霊がその人に働き始めているのです。そしてその人が洗礼を受けると、それからは100パーセント聖霊の働きのもとで生きることになります。他の霊は、その人に対して足場を失い、出て行かざるを得なくなります。「エフェソの信徒への手紙」1章13節に、聖霊を受けることは証印を押されることである、とありますが、まさに「この人は、神がイエス様を用いて整えた『罪の赦しの救い』を受け取った」という証印であります。
聖霊を受けた人は、イエス様を唯一の救い主と信じて全ての造り主である神の方を向いて生きる人です。イエス様はそのような人を霊的に新しく生まれた者と言います。次のイエス様の言葉をみてみましょう。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである」(ヨハネ3章8節)。興味深いことに、ヘブライ語とギリシャ語では「風」と「霊」を意味する単語が同じです(רוח、πνευμα)。空気は目で見えません。だから空気の移動である風も見えません。ただ、風が吹いてその音が響くのが聞こえた時、目では見えないけれども風が吹いたことがわかります。また、風が木を吹き抜けて枝や葉っぱがざわざわ音を立てたら、やはり風自体は見えないけれども、風が吹いたことがわかります。霊から生まれた者、つまり聖霊を受けた者も同じなのです。聖霊も目では見えません。しかし、人がイエス様を自分の救い主と信じ、万物の造り主である神の方を向いて生きるのは、風にしなう枝や葉と同じように周りの目に見えることです。風や聖霊は目では見えなくても、それが引き起こす変化は周りには明らかになるのです。
イエス様の言葉はまた、風が自分の意思に基づいて吹くように、聖霊も自分の意思に基づいて行動することを言い表しています。日本語訳では「思いのままに吹く」と何か気まぐれに吹く感じがしますが、ギリシャ語の原文では「意思する方向に吹く(οπου θελει πνει)」です。聖霊はまさに意思するのです。ここで注意しなければならないのは、聖霊も人格を持った神としての存在ということです。日本語では聖霊を指すとき「それ」と言って、まるでモノ扱いですが、英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語ではずばり「彼」と言って、人格を持つ方であることがはっきりしています。それで、イエス様と同じように聖霊にも様をつけて呼ぶ人もいます。
聖霊が自分の意思で人に影響を及ぼすことにはいろいろなことがあります。一つには、イエス様についての真理、つまり、神はひとり子イエス様を用いて人間の救いを実現された、という真理を聖書を通して人に明らかにすることがあります。本日の福音書の箇所でも言われていましたが、聖霊が「真理の霊」と言われる所以です(ヨハネ15章26節、14章17節、16章13節)。また、イエス様が教えたことをやはり聖書を通して人に明らかにすることもします(ヨハネ14章26節)。さらに、もしキリスト信仰者が罪やその他の困難に陥って途方にくれた時には、聖霊は私たちの目の前に十字架にかかった主を示して、あの方があなたを滅ぼそうとする一切のものを全部引き受けて下さったのだ、だからあなたは守られているのだ、と思い出させてくれることもします。同じように、サタンが信仰者をつかまえて、お前は本当は罪の汚れにまみれて神も呆れ返っている、などと絶望に追い込もうとする時も、すかさず聖霊は「この人は洗礼を通して、イエス様の義という白い衣を頭から被せられている」と言って弁護してくれます。本日の福音書の箇所にあったように、聖霊が「弁護者」と言われる所以です(ヨハネ15章26節、14章15節、26節、16章7節)。
それから、聖霊は御自分の意思に基づいて、信仰者に様々な賜物を付与します。使徒パウロは、いろいろな聖霊の賜物の例を挙げています。預言、奉仕、教えること、勧めをすること、施し、指導、慈善、知恵の言葉、知識の言葉、病気の癒し、奇跡を行うこと、預言、霊の見分け、そして聖霊降臨の時のような知らない外国語で神の業を語ったり、それを解釈すること等などです(ローマ12章6-8節、第一コリント12章8-11節)。異なる人に異なる賜物を与えるのは、それらが集まって教会という一つの全体を形作って、あたかも一つの体のいろんな部分としてみんな一緒になって教会という一つの体全体を成長させる目的があるのです。それだから、ある人の賜物は優れて見えて、自分のは取るに足らないものに見えても、聖霊からすれば、教会という全体の中に入っている限り、全部のものはみな同じ価値を持っているのです。もし、優れているように見える賜物を持つ人が得意がったり自分中心になったりしたら、全体の成長にとって害となり、その人の賜物の価値は失われてしまいます。
賜物は人それぞれ大小それぞれありますが、もしお互い支え合って教会という体を成長させていければ、一人一人に聖霊の結ぶ実が実っていくと使徒パウロは教えています。どんな実が実るかというと、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテア5章22節)。この教えは、当スオミ教会の本年の主題でもありますが、このような立派な徳を掲げられて、自分は果たして実を結んでいるだろうかと自問したら、気恥ずかしくなってしまうかもしれません。しかし、そこは、聖霊が示す真理にしっかり目をとめ、聖霊の弁護に身を委ね、また聖霊が与えて下さる賜物を教会に繋がる人たちと分かち合っていけば、自然と結んで行くはずです。そのことを信じて、これからも歩んでまいりましょう。
主日礼拝説教2015年5月24日 聖霊降臨祭 聖書日課 エゼキエル37章1-14節、使徒言行録2章1-21節、ヨハネ15章26-16章4a節
5月の第3水曜日、春のさわやかな陽気の中で手芸クラブを開きました。今回は人数も増えて、雰囲気も一層楽しいものとなりました。
手芸クラブは、最初にお祈りをして始めます。 今回の作品は、日本の伝統的なつまみ細工でした。みんなは既に出来ているモデル作品を見て、「きれい!」、「素敵!」、「これを作ってみたいわ」と言いながら、まず、自分で作りたいものを決めて、それに合う生地を選びます。 次に、生地を適当な大きさに切っていき、最後にピンセットを使って花びらを作ります。みんなで話し合いながら一生懸命に作って、上手に花びらが作れるようになりました。今度は、花びらを花の形に作っていく番です。難しい花の形にもチャレンシして、素敵な髪飾りやブローチが出来上がりました。完成したものをテーブルの上に並べて、みんなで感激して見入っていました。
つまみ細工に夢中になったので午前の時間はあっと言う間に過ぎてしまいました。コーヒータイムの時を持って、終わりにCDで「一人の小さな手」という歌をみんなで聞いて、「イエス様はまことのぶどうの木」という聖書のお話を聞きました。
「また作りたいわ」という声も聞かれる中、今回の手芸クラブは終わりました。
フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長ペッカ・フフティネン先生は5月17日、スオミ教会の主日礼拝にて説教されました。
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2015/11/sekkyou_Huhtinen2015_lyhennetty.mp3
1.本日の福音書の箇所でイエス様は、弟子たちが守るべき掟はこれだと言って、自分が弟子たちを愛したように弟子たちも互いに愛し合いなさい、と命じられます(ヨハネ15章12節)。本説教では、弟子たちをはじめ私たちキリスト信仰者が互いに愛し合う時の愛について、本日の福音書の箇所に基づいて見ていきたいと思います。キリスト信仰の愛のかたちについてです。
2.イエス様が「互いに愛し合いなさい」と命じる時、「私がおまえたちを愛したように」と言っていることに注目しましょう。どんな愛で愛し合うかと言うと、それは、イエス様が弟子たちを愛した愛と同じ愛を持って愛し合いなさい、ということです。それでは、弟子たちが模範とすべきイエス様の愛とはどんな愛か?これがわからなければなりません。実は、これもすぐはっきりします。13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエス様は言います。つまり、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということです。そこで、大事になってくるのは、この犠牲が、誰による、誰のためになされる、何のための犠牲か、ということをはっきりさせなければなりません。
天の父なるみ神がみ子イエス様を用いて行ったことが、自己犠牲を伴う愛であるということをわかるために、まず私たち人間は神に造られた被造物であるということをしっかりわきまえておく必要があります。人間は自分の力や自分の意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまったことが、聖書に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順に陥り罪を犯して、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。まさにそのために神は、人間が自分との結びつきを回復して、自分のもとに戻ることができるようにと、そのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。
神がイエス様を用いて行ったことは以下のことです。人間に張り付いている罪や不従順というものは、人間を永遠に神から引き裂かれたままにする力がある。文字通り呪いの力です。その力から人間を解放するために神は、人間の罪と不従順を全部イエス様に責任があるかのようにして彼にそれらを請け負わせて、そこからくる全ての罰をイエス様に下して、人間にかわって罪の償いをさせた。これがゴルゴタの十字架の出来事です。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命への扉も私たち人間のために開かれました。
ここで人間が、これらのことが本当に自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神の方で、イエス様の犠牲に免じて罪を赦してやる、ということになった。つまり、お前の罪はもうとやかく言わない、不問にしてやる、なかったことにしてやる、だから、お前はもうこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言って下さる。お前の命は、私のひとり子が十字架で流した血で買い戻されたくらいに高価なものなのだ、そのことを忘れるなと言って下さる。こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、神がイエス様を用いて実現した救い、まさに「罪の赦しの救い」を受け取って、神との結びつきを回復して生きるようになったのであります。
こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているのにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力から解放されたのです。永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなり、神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。ところで、神との結びつきが回復したとは言っても、それは私たちの目には見えません。しかし、神の目からみてしっかり見えているのです。この結びつきは洗礼の時にできます。私たちの目にはただの水にしかすぎないものが、洗礼執行者である牧師先生が水を前にして神の御言葉を読むと、御言葉と結びつけられた水は「救いの恵みの手段」に変わります。こうして私たちは、イエス様の犠牲がもたらした「罪の赦しの救い」を洗礼を通して受け取ります。このようにして、神の目から見て結びつきができあがるのです。聖餐式も同じです。私たちの目にはただのパンのかけらとぶどう酒にしかすぎないものが、やはり神の御言葉をかけられて「救いの恵みの手段」にかわり、神の目から見て、聖餐に与った者と神との結びつきが強められるのです。
とは言っても、いろんな感情や思いにとらわれてしまいがちな私たちは、時として神が遠ざかってしまったと感じられる時があります。しかし、それは人間の勝手な思い込みで、神の方では洗礼で確立した結びつきはしっかり保たれていると見ておられる。そのことを、私たちが口を通して味わって体で受け止めることができるのが聖餐式なのです。
以上から、神がイエス様を用いて私たちにどれほどの愛を示して下さったかが明らかになったと思います。ヨハネ福音書3章16節でイエス様は次のように言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅ばないで、永遠の命を得るためである。」神の私たち人間に対する愛は、まさにこの言葉通りのものであります。イエス様は、この同じ神の愛を持たれて私たちを愛し、神の救いの計画の実現のために御自分を犠牲に供したのであります。
3.これで、神とイエス様の私たちに対する愛がどのようなものであるかが明らかになりました。ここでひとつ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が「私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え」と命じられる時、私たちにはイエス様がやったのと同じ犠牲は課せられていないということです。人間を罪の呪いから贖い出すこと、これは神がひとり子を用いて全ての呪いに関して一回限りで完結されたので、イエス様の犠牲の後には何も付け加えることはあり得ません。人間を罪の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復するために、もっと何かが必要だ、などと考えるのは、神の救いの計画では不十分だ、と言うのも同然で、被造物が造り主に言うべきことではありません。
それでは、イエス様が模範を示した愛で私たちも互いに愛し合うとは、どうすることなのでしょうか?神がイエス様を用いて、人間を罪の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復する道を開いたことはもう動かせない真理です。イエス様を救い主と信じる者が他の人たちを愛する時、この愛が出発点にならなければなりません。それでは、これを出発点としたら、どこに向かったらよいのでしょうか?
それは、他の人たちも罪の呪いから解放され、神との結びつきを回復することができるようにすることです。
隣人愛というものが究極的にはそのようなことを目指していることは、ルターも教えるところです。「ローマの信徒への手紙」15章7節の御言葉「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」について、彼は次のように教えます。
「(…)我々は罪を除去すべく人々を助ける。我々は誰をも避けたり拒否したり見下してはならないのであって、罪びとを受け入れ罪びとと共にいるようにしなければならないのである。そのようにして我々は罪びとを悪い方向から助け出し、教え諭し、助言し、その人のために祈り、その人のことを耐え忍び、背負ってあげるのである。我々がこうするのは、もし我々が同じような罪にある場合、我々がそうしてほしいと思うからだ。キリスト教徒とは、他者の利益になろうとすることのためだけに生きる者である。その他者の利益というのは罪を除去するということである。(…)我々は、隣人が信仰や人生においてしでかす誤りを耐え忍ぶだけではなく、それを直させるように努める者なのである。」
同じ「ローマの信徒への手紙」15章3節の御言葉「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」についてのルターの教えは次の通りです。
「(…)もしキリストも、ファリサイ派が取税人にしたように振る舞っていたならば、我々の誰が罪から贖い出されることができたであろうか?主が我々に対して振る舞ってくれたように、我々も隣人の罪に対して振る舞わなければならない。我々は、裁いたり、排除したり、嘲ったりしてはならないのであって、隣人が罪から離れられるように助けてあげなければならない。たとえ、そのために命や大切な時間や財産や名誉その他我々が持っている全てのものを支払わなければならなくなったとしても、そうしなければならないのである。このようにしない者は、キリストを放棄したと思い知るが良い(…)。」
このように、隣人愛とは究極的には、隣人が罪の呪いの力から解放されて、造り主との結びつきを回復できて、永遠の命に至る道を歩めるようにすること、そして、この世から死んだ後は造り主のもとに永遠に戻ることができるようにすることです。もし隣人が、同じキリスト信仰を持つ人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれるよう支えてあげることです。また、もし隣人が、キリスト信仰を持たない人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることです。
こう言うと、心穏やかでなくなる人も出てくると思います。日本のようにキリスト教徒の人口比に占める割合が非常に少なく、かつ信教の自由を尊重しなければならない社会では、罪の赦しの救いの中に「入れるようにする」などと言うと、宗教を他人に強要するように感じる人もいます。そんなのは、何か強引な宗教団体のやることと同じだとさえ言う人もいます。もちろん、キリスト信仰を持たない人がキリスト教や聖書に興味を持って教会の門を叩いて来れば、話は別です。その時は、この私たちを「罪の赦しの救い」の中に入れるようにしてくれた神の愛について堂々と証しすることができます。しかし、そうでない場合は、どうでしょうか?ある人は、私は食べ物に困っている人に食べ物を与え、着る物に困っている人に着せてあげることで隣人愛を実践する、そうすることで助けを受けた人は、私をこのような助けに突き動かしたイエス・キリストにいずれは興味を持ってくれるだろう、これこそが信仰の証なのだ、ということを言っていたのを覚えています。
こうした考えは理解できることでありますが、それでも神とイエス様の御心というものは、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることにある、ということを考えると、やはりもう一歩何かなければならないのではないでしょうか?まさに、そのために神はひとり子を犠牲にしたのだし、イエス様もそのために御自分を犠牲に供することを受け入れたのですから。でも、興味も何もない人たちに信仰を証しするなどとは、何か場違いなことのように思われるし、かえって反発をくらってキリスト教がもっと嫌われることに手を貸してしまう等々、ある時はもっともに聞こえるけれども、ある語気は言い訳にもなりうる、そういう逡巡の状態に陥ります。
そこで、キリスト信仰の隣人愛の実現のために最低限これだけはしなければならないというものを提案したく思います。それは、私たちの日々の祈りの中に、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるように祈ることを付け加えることです。「天の父なるみ神よ、あなたが私にして下さったように、あの人も、罪の呪いから贖い出され、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命への道を共に歩めるようにして下さい。」
私たちは、困窮している人たちのために祈る時、彼らが神の助けを得られるよう祈ります。それならば、衣食住や健康といった焦眉の助けの他に、もっと根底的な助けである「罪の赦しの救い」の中に入れるようにするという祈りも付け加えるべきです。この祈りは、隣人と面と向かって信仰を証することではなく、神に向かってお願いすることなので、隣人の信教の自由に抵触することはありません。先ほど隣人愛を人道的支援に限定して行う人の中には、自分がキリストの愛に突き動かされていることを見てもらって人々がキリスト教に興味を持つようにするという戦略的迂回の手法を取っていることを申しました。もしそのような人が、自分を突き動かすキリストの愛とはなんだろうとしっかり自問して、まさに人間を罪の呪いから解放し、造り主との結びつきを回復させ、永遠の命に至る道を歩めるようにすること、これがキリストの愛であると確認できるのならば、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神に祈ることは、戦略的迂回と何の矛盾はありません。戦略的迂回で肝要なことは、迂回をしすぎてもとに戻れなくなってしまわないように注意をすることです。(残念ながら、神学を学んだ人たちの中には、もとに戻れなくなるくらいに迂回しすぎて、今度は迂回している道の方が本道だと言い始める人も見受けられます。)
さて、この祈りの提案に大切な補足をします。隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神にお祈りすれば、神はなんらかの形で道を準備し始めます。ひょっとしたら、隣人がなんらかの経路を辿って信仰の証しを聞く機会が与えられないとも限りません。それが、祈る人本人の証しになるかもしれません。どんな経路で誰の証しでそれがいつになるかは、神にお任せするしかありません。しかし、祈る人は、それが自分自身の証しになる場合に備えて、そのような機会が与えられた暁にはしっかり証しができるよう力添えと自分自身の信仰の支えを神にお願いしましょう。「御心でしたら、その証の機会は私にお与え下さい」と勇気を持って祈ることができれば申し分ないですが、それは各自の自己吟味にお委ねしましょう。
4.このように、父なるみ神とみ子イエス様の御心がわかっていれば、私たちはイエス様の友なのであります。父なるみ神とみ子イエス様は、全人類のために「罪の赦しの救い」を整えられ、私たちは当初想像も予想もできなかった道を辿ってその中に迎え入れられました。従って、私たちは自分でイエス様を選んだのではなく、イエス様に招かれたことがわかって、その招きは受け入れるべきものとわかって受け入れたので、まさにイエス様に「選ばれた」のであります。何も自分が優れているから選ばれたというのではありません。救いようがないから選ばれたのです。もし、今「罪の赦しの救い」の外側にいる人たちが、自分たちもそこに招かれていることがわかって、それを受け入れれば、彼らもイエス様に「選ばれた」ということになります。
それから、世界に出て行って、持続するような実を結ぶ、と言うのは(16節)、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、実際にそのような人が増えて、その中にしっかりとどまれるよう支える、ということです。「実を結ぶ」と言うと、何か目に見えるような人道支援や慈善事業をするようなイメージがあります。そのような支援や事業が「罪の赦しの救い」の中に入る人を増やし、そこにいる人を支える、ということをちゃんと射程に入れていれば、本当に「実を結ぶ」仕事になるでしょう。
言い方が少しきつくなるかもしれませんが、ここで、人助けをしようにもできない重い病気の人や障害のある人のことを考えてみて下さい。慈善事業や人道支援が隣人愛の実を結ぶことそのものであると考えると、これらの人たちは実を結べない人たちになってしまいます。しかし、その人たちが例えば、病床に横たわりながらも、「天の神さま、あなたが私にして下さったように、私の大切なあの人も、罪の呪いから贖い出され、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命への道を共に歩めるようにして下さい。」と祈れば、これこそイエス様が教えられる「実を結ぶ」ことなのです。キリスト教会が、肉においても霊においても「実を結ぶ」ものとなりますように。そして、肉において結ぶのが難しい人たちが霊において結ぶ時、そのことも、両方できる人たちの実と同じ価値があると認められますように。
本日の箇所の終わりで、イエス様は「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ということを教えられます(16節)。同じ教えは、15章7節や14章13節でも言われます。この教えは、私たちに試練を与えます。私たちは誰も、自分勝手な利己的な願いを神にお願いしようとは思いません。そんなことをしたら十戒の第二の掟を破ることになります。もし利己的な願いが実現してしまったら、それは神から来たものではないので、大変危険です。私たちは、神の御心に沿った祈りをしなければならないと知っています。しかし、自分や隣人の病気が治るように、とか、陥った苦難を超えられるようにと祈っても、また、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにと祈っても、もしそうならなかったらどうしよう、と、いつも一抹の不安を覚えます。全知全能の神にできないことがあったと言いたくないがために、困難な問題を祈ることに躊躇する人もいます。難しいことです。
しかしながら、ここでイエス様が「祈れば与えられる」と言っているのは、世界に出て行って持続する実を結ぶこと(16節)と関係することです。世界に出て行って持続する実を結ぶと言うのは、先ほども申しましたように、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、また、その中に入った人がそこにしっかりとどまれるように支える、ということです。これこそが神の愛の実現です。祈り求める事柄が、こうした神の御心に沿うものであれば、これは神としても聞き遂げないわけにはいきません。それですから、私たちとしては、神は約束されたことを必ず実行される方であると信頼して、祈りを絶やさないようにしなければなりません。
5月10日の聖書日課 ヨハネ15章11-17節、使徒言行録11章19-30節、第一ヨハネ4章1-12節
今日の聖書は、有名な「ぶどうの木と枝」のたとえ話です。1節を見ますと、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。ここで、イエス様御自身のことを、「まことのぶどうの木」と言われています。バークレーという神学者が、この「まことの」と、いわれている深い意味について、まず指摘しています。
旧約聖書では、イスラエルは「ぶどうの木」として描かれています。あるいは「神のぶどう畑」として、描かれています。イザヤはイスラエルを、「主のぶどう畑は、イスラエルの家である」と言っています。(イザヤ書5章1~7節)エレミヤは、2章21節で「わたしはあなたを、すぐれたぶどうの木として植えた」と言っています。エゼキエル書15章では、イスラエルをぶどうの木にたとえています。ホセア書は、10章1節に「イスラエルは、実を結ぶ茂ったぶどうの木」である、と述べています。詩編80篇8節で詩人は、「あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出された」と詩っています。
このようにぶどうの木は、実際にイスラエル民族の象徴となっていました。ぶどうの絵が貨幣の紋章として使われたり、神殿の壁書に描かれたりしています。まさにぶどうの木は、ユダヤ人の表象でありました。ところがイエス様は、ご自分こそ正真正銘の、まことのぶどうの木である、と述べておられるのです。旧約聖書では、ぶどうの木の表象は、いつも堕落の概念と一緒に用いられている、ということです。イザヤの描写の中心は、ぶどう畑が荒れはててしまった、という点です。エレミヤは、イスラエルが野生のぶどうの木に退化してしまったことを、嘆いている。ホセアは、イスラエルが偽りのぶどうの木であると、叫んでいるのです。
そこでイエス様は、実際、次のように言われているのです。「あなた方は、イスラエルの民族に属しているから、神のまことのぶどうの木である、と考えている。或は又、あなた方はユダヤ人だから、神の選びの民の一員と考えている。そのように血筋や出生や国柄のゆえに、神のぶどうの木の枝であるというふうに考えているが、とんでもない!のだ。まことのぶどうの木の枝は、民族ではない。イスラエル民族は、預言者たちが言ったように、堕落したぶどうの木である。まことのぶどうの木は、このわたしである」。
あなた方がユダヤ人である、という事実が、あなた方を救うのではないのだ。
わたしと親しい、生きた交わりを持ち、わたしたちを信じることだけが、あなたを救うのである。
なぜなら、わたしは神のぶどうの木であり、あなた方は、わたしにつながれれいる枝でなければならないからである。神の救いに至る道は、ユダヤの血筋ではない。イエスを信じる信仰であると、イエス様は断言されているのです。
さて次に、2節以下を見ますと「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように、手入れをなさる」。この後、3節以下は一貫して、一つの事に集中して語られています。つまり、ぶどうの枝が木につながれていなければ、実を結ぶことができない。
ぶどうの木は、パレスチナ全域で栽培されていましたから、だれでもよく知っていました。よい実を得るには、よく手入れをしなければ、よく実らないこともわかっていました。まず大切なことは、よい土をつくること。荒れ果てたやせた土からは、甘く太い、よい実はみのらないでしょう。念入りに土壌を良くする。次に大切なことは、ぶどうの木は非常な勢いで繁っていくので、徹底的な刈り込みが必要であることでした。実らない枝は、木の力を浪費させてしまうので、徹底的に容赦なく、切り落とされてしまう。イエス様は、こうしたこともよくご存知でした。それで、このぶどうの木が豊かに実るための手入れのことまで、たとえとして語られています。
このたとえで、ぶどうの枝はイエス様の弟子たちのこと、そして又言い換えると、イエス様を信じているすべてのキリスト者、私たちです。そして、そのことは、教会のことでもあります。ですから私たちも弟子たちも、農園の主人である父なる神様は、実らない枝は容赦なく切り落とされて、火に焼かれるだけである。そのように教会は、刈り込まれをされるのだ、ということを言われる。6節をみますとよくわかります。だから、最も大切なことは、5節で言われているように、「人がわたしにつながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」イエス様とつながっていなさい。
ここで言われていることは、いつもキリストの中にいる、ということ。それで神の愛に生きることになる。それで、キリスト者はイエス様を信じて、キリスト者の友人との交わりの中に、あり続けることが、つながっていることなのです。イエス様の生涯は、いつも、父なる神との交わりでありました。イエス様は、いく度も神との交わりを求めて、さびしい場所に退いて祈られた。十字架の前のゲッセマネの祈りは、大変な祈り、父なる神とのあつき交わりでした。霊の世界の深い語らいであったでしょう。
イエス様は、いつも神の中に生きておられたのです。そのように又、私たちも、イエス様との交わりを続けることが必要です。一日たりともイエス様を思わず、その臨在を感ぜずにすごしては、ならない、ということです。朝の祈りで2~3分であっても、その祈りが、その日一日の、神の守りの働きとなります。キリストに接する時、私たちは悪に向かうことはできない。偽りも、憎しみも、ののしりも、敵意も、そこにはない。キリストの中にある、ということが言葉に表わしがたい、神秘的な体験となって、毎日の生活の中で祈りとなっていく、静かな神様との交わりの時をもつことになります。
7節以下のイエス様を読んでみましょう。あなた方が、わたしにつながっており、わたしの言葉があなた方の内に、いつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる。あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は、栄光をお受けになる。9節、「父がわたしを愛されたように、わたしも、あなた方を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
神様が、私たちに要求なさっておられることを、ひとことで言うとするなら、「私にとどまっていなさい」ということです。ヨハネの第一の手紙2章5節には、さらにくわしく書かれています。
2章5節「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には、神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが、神の内にいることが分かります。」
4節の終りには、力強いことばがあります。神の言葉が、あなた方の内に、いつもあり、あなた方が悪い者に打ち勝ったからである。
10節、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人には、つまづきがありません。」この、とどまっていることは、具体的には、「神のめぐみ」にとどまっていることなんです。神の恵みは、どんな中で実行されるのでしょうか、というと、一つは信仰にとどまっている中で、神の恵みは起こされます。二つには、キリストの教えにとどまっている中で、神の恵みはなされるのです。三つ目には兄弟愛にとどまっていることの中で、神様の恵みはなされるのです。私たちは教会の礼拝の中で、聖書の言葉を聴き、神の恵みの中に生かされて、神の栄光をあらわしていけますように、ぶどうの幹にしっかりと、主イエスにつながっていきたと思います。
ハレルヤ・アーメン
復活後第四主日 2015年5月3(日)