説教「僕を安らかに去らせて下さる神」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章25-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、皆さんもよくご存知のシメオンのキリスト賛歌があるところです。皆さんがよくご存知というのは、この賛歌は礼拝の中のヌンク・ディミティスと呼ばれるところ、聖餐式が終わって教会の祈りを捧げる前のところで一緒に唱えられるからです。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも賛美しているところです。「ヌンク・ディミティス」というのは、この賛美の2つ目の文の中にある言葉「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。この2つ目の文の全文は「主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます」ですが、福音書の中では冒頭に来ます。福音書と礼拝式文とで最初の二つの文の順番が入れ替わっているのですが、この福音書では冒頭の文、式文では二番目の文をちょっとラテン語で読んでみます。

Nunc dimittis servum tuum, Domine, secundum verbum tuum  in pace:

なんだかローマ法王みたいな雰囲気になりますが、宗教改革者のルターは、聖書はラテン語を通さず直接原語から訳すことを重視した人です。それで、同じ文を原語のギリシャ語でも読んでみます。

νῦν ἀπολύεις τὸν δοῦλόν σου, δέσποτα, κατὰ τὸ ῥῆμά σου ἐν εἰρήνῃ·

 さて、本日の説教題は「僕を安らかに去らせて下さる神」ですが、教会の外の掲示板用に説教題を拡大プリントした後で、一つのことに気がつきました。「僕を安らかに」と書いてありますが、この「僕」という漢字が「しもべ」ではなく、道行く人たちに「ぼく」と読まれてしまうのではないか。聖書を読む人なら「しもべ」とわかるだろうが、「ボク」と読んでしまった人はどう思うだろうか。「ボクを安らかに去らせて下さる神」だと、なんだかキリスト教というのは人をこの世から静かに退場させる宗教で、この世での活動や生き様をないがしろにするような印象を与えてしまわないだろうか、と心配になりました。それで、漢字の横に「しもべ」と振り仮名を付ければ、安らかに去るのが誰か聖書に登場する人物に特定されて、一般の人には無関係と理解されるのではないだろうかと思ったりしました。

しかし、天と地と人間を造られた神というのは、やはり人間がこの世から去る時は安らかにできるようにするということは否定できないので、問題となっている漢字はむしろ「ぼく」と読まれたほうがいいのではないかとも思われました。神というのはボクも私もあなたも皆、この世を安らかに去らせて下さる方だとわかったら、じゃ出口は整ったので、そこに行くまでの期間をどう生きようか、この期間は神に与えられた時間なので神の御心に適うように生きよう使おう、という心意気になって、それでこの世での活動や生き様をないがしろにすることにはならないのではないか。それで振り仮名は付さないことにしました。

そういうわけで本説教では、イエス様を救い主と信じる者が、シメオンのように、本望だ、もう思い残すことは何もない、という思いでこの世を去ることができるかどうかということも考えてみたく思います。その前に、本日の福音書の箇所にある出来事の中で、聖書をよく読まれる方が一つ疑問に感じることがありますので、それを少し見ていきます。その次に、シメオンのキリスト賛歌を見て、最後にキリスト信仰者の本望について考えてみようと思います。

 

2.

本日の福音書の箇所で疑問に感じられることと言うのは、出来事として赤ちゃんのイエス様がエルサレムの神殿にマリアとヨセフに連れられて来ます。それは、ユダヤ教の律法に従って、出産後の母親の清めの儀式を行うためでした。ところが、マタイ福音書2章によれば、生まれたばかりのイエス様はヨセフとマリアともにヘロデ王の手から逃れるためにエジプトに避難したことになっているのです。マタイによれば、親子三人はヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。イエス様誕生後の時間の流れはどうなっていたのでしょうか?

ルカ2章21節をみると、イエス様が誕生後8日目にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。それから22節から24節までをみると、律法によれば、子の割礼後、母親は99日間清めの期間を守らなければならず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4-8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのは、この律法の規定を守るためでした。すると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?約3か月間の清めの期間中は神殿には行けないことになっているので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

しかし、それでも時間的にうまくつじつまがあわないことがあります。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後で、王の死は歴史上は紀元前4年とされています。するとイエス様の誕生は紀元前4年ないし5年になる。しかしながら、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年としては紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に登録があったという記録は見つかっていない。さらに、普通にはない星の輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。もし、紀元前6、7年をイエス様の誕生年とすると、三人のエジプト滞在は3か月より長くなってしまいます。イエス様はシメオンが腕に抱き上げるくらいの大きさで、あまり大きな子供ではない。また、ヘロデ王が死んだ後、息子のアルケラオがユダヤ地方の領主になって、三人はエジプトからイスラエルの地には戻るけれども領主を恐れてナザレのあるガリラヤ地方に向かったとあります(マタイ2章21-23節)。そういうわけで、イエス様の誕生は紀元前7年から4年の間として、エジプトから帰る途中でエルサレムの神殿で清めの儀式を済ませて、ナザレに戻ったとみるのが妥当なのではないかと思われます。

 こういうふうに、イエス様誕生の後の時間の流れは、ジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。しかし、これはやむを得ないことであります。大人の時のイエス様の言行録は、12弟子という目撃者によってつぶさに目撃され記録され伝えられました。それに比べると、大人になる前の出来事は、ヨセフが生前に周囲の者たちに語ったことや、もっと長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心になるので、目撃者に限りがあります。細部に不明な点が出てくるのは止むを得ないのであります。しかし、大きく全体的に見れば、書かれた出来事が互いに矛盾しすぎて無効になるような、そんな大きな対立点はないのであります。

 

3.

イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に立ち寄って、清めの儀式をした時、シメオンという老人が近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が、神の約束されたメシア救世主である、と。ここで、シメオンのキリスト賛歌を見てみましょう。

 シメオンは、「イスラエルの慰め」(παρακλησις του Ισραηλ)を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。

ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありませんでした。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる」ような者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる。実際そうなりました。自分たちこそが旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正しく把握していると思っていた律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、イエス様から全然そうではないと暴露されて、彼に躓いてしまいます。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様を自分の目で見なければならなくなるマリアは、文字通り「剣で心を刺し貫かれた」ようになります。

 しかしながら、イエス様はただ単に反対され、躓きを与えただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなりました。イエス様の十字架の死は、ただ単に反対者から迫害を受けてそうなったということではありませんでした。神の計画がそういう形をとって実現したということでした。それでは、神の計画とは何かというと、それは、人間の罪がもたらす罰を神が人間に受けさせるのではなく、自分のひとり子のイエス様に全部請け負わせたということ、つまり、イエス様を人間の身代わりの生け贄にしたというのが十字架の真相だったのです。神はなぜそうしたかと言うと、罪の罰は人間が受けるにはあまりにも重すぎたからです。さらに神は三日後にイエス様を死から蘇らせて、人間のために死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さいました。人間は、これらのことが罪と死の支配から救われるために神が起こしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦され、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになったのです。このように、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も多く出たのです。使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者も出た一方で、受け入れずに反対する者も出た。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

 シメオンがイエス様を腕に抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナという人生の大半をやもめとして生きてきた老婆がやってきました。神に自分自身を捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきた女性です。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると話し始めたのです。

シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、またこの出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしていることです。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあり、イエス様の誕生はこれらの預言が実現したと理解されたのです。

イザヤ書の40章から55章までの部分は一見すると、イスラエルの民が半世紀に渡るバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還できることを預言しているように見えます。実際にこの帰還は歴史上起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後も、イスラエルの民の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時代のような勢いはありませんでした。ほとんどの期間は異民族の大国に支配され続け、神殿を中心とする神崇拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実はバビロンからの帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。

加えて、イザヤ書56章から後は、今存在する天と地が終わりを告げて新しく創造される天と地に取って代わるという預言が出て来ます。それで40章から55章までの預言も、そういう終末論の観点から理解されるようになります。イザヤ書53章に登場する有名な「主の僕」という者も、バビロン捕囚で苦しみを受けたイスラエルの民を象徴する者ではなくなって、罪と死に支配される人間を神のもとに立ち返らせて神との結びつきを回復してくれる人類全体の救世主として理解されるようになりました。このように旧約聖書の預言を理解していたのはユダヤ民族の一部でしたが、その理解が正しかったことが、イエス様の降誕、十字架の死、死からの復活で明らかになったのです。どうして、ユダヤ民族のみんながこのように理解しなかったかと言うと、それは、現実に異民族に支配されている状況があって、そこからの解放を夢見ていると、メシアはどうしても自民族の解放者として捉えられてしまったのです。

 シメオンの賛美の言葉もよく見ると、ルカ2章31節と32節に、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります。32節は、イザヤ書49章6節の預言「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」、これが実現したことを言っています。「それにもまして」というのは、原語のヘブライ語では、それでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという意味です。神が自分の僕と呼ぶ救世主のなすべきこと、それは、諸国民の光となり、神の救いを全世界にもたらすことだと言うのです。

 そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味しています。ユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、その救いを受け取る者が真のイスラエルの民なのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が天上のエルサレムと呼ばれるのであります。

 

4.

 シメオンは、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと告げられ、そしてイエス様を目にしました。本望だ、もう何も思い残すことはない、という気持ちに満たされました。いつ死んでも悔いはない、というのであります。私たちは今のところはイエス様を目で見ることはできませんが、神がイエス様を用いて実現した救いを受け取ることはできます。その救いを受け取って、シメオンと同じように、いつ死んでも悔いはないという気持ちになれるでしょうか?

人は誰でも、成し遂げたい実現したい計画や志があると思います。計画とか志とかそこまではっきりしたものでなくても、こうなったらいい、こうなってほしいという希望があると思います。そうしたものが実現した時には、本望だ、もう何も思い残すことはない、という気持ちになるでしょう。しかし、もし実現しなかったら、キリスト信仰者といえども、やはり残念無念となり、場合によっては死んでも死にきれないという気持ちが起きるかもしれません。

それでも、キリスト信仰では復活ということがあるのを忘れてはなりません。もちろん、志半ばで終わってしまったら、悲しいし残念無念であります。しかし、キリスト信仰者の場合はそこで全てが終わってしまうことはない。将来、復活の日、最後の審判の日が来て、全ての事柄が最終的に清算される。神の目から見て、この世で払い過ぎを余儀なくされた者は無限と言えるくらいに払い戻しを受け、逆の立場の者は無限と言えるくらいに埋め合わせをしなければならなくなって神の正義が最終的に実現する。その時、永い眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられる者は、この世で中途半端に終わってしまったことが新しい世で完結する。天の御国の祝宴に招かれて、この世での労苦が労われる。このようにイエス様を救い主と信じる信仰を持って生きる者にとっては、この世で神の御心に適う生き方をして、つまり神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛して、無駄に終わるということは決してなく必ず報われるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、シメオンは約束されたメシアを目にしていつ死んでも悔いはないという気持ちに満たされました。私たちはと言うと、このメシアが実現してくれた救いそのものを受け取ったのです。私たちには、このはかり知れない神の恵みに対する感謝の気持ちがあるので、神の御心に適うようにこの世を生きようと志向します。それで、今すぐこの世から立ち去ってもいいとは簡単には言えません。しかしながら、御心に適うように生きようとして志半ばで終わるようなことがあっても、復活があるゆえに、永久に残念無念に終わってしまうことはなく、シメオンのように本望だ、もう何も思い残すことはない、ということになるのであります。この世の出口でイエス様を全身全霊で信頼してその御手に自分の全てを委ねて天の御国の入り口に引っ張り上げてもらいます。神は本当にボクを、ワタシを安らかに去らせて下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 降誕後主日
2015年12月27日の聖書日課 エレミア31章10-14節、ヘブライ2章10-18節、ルカ2章25-40節

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