説教「クリスマスの栄光」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書2章1~20節

 

今宵はクリスマスイブです。2015年のクリスマスイブを皆さんと一緒に礼拝できますことを、大変うれしく思います。今日の、この時に全世界のキリスト教会で救い主として、お生まれになった、主、イエス様の誕生日が祝われています。

神がお創りになった全宇宙の、すべての物、生きとし生きているもの、全人類が神の御子のお誕生をお祝いし喜びに満ちています。神の御子、イエス様は、どのようにして私たちの、この世に生まれてこられたのでしょうか。

新約聖書ルカによる福音書2章1節から7節までを見ますと、ヨセフとマリアがベツレヘムに住民登録するため来ていた、その時マリアに赤ちゃんが生まれたのです。イエス様の誕生です。

6節を見ますと「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子を産み布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とルカは書いています。ベツレヘムの町には住民登録をするため、旅人でいっぱいでした。宿屋は満員でヨセフとマリアも泊まる部屋がなく、やむなく家畜小屋のかたすみで泊まらせてもらったことでしょう。そこへ、マリアは産気づいて、夫のヨセフは、もう、どうしていいか、恐らくパニックになってしまったことでしょう。生まれたばかりのイエス様を布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた、とあります・

人生のスタートのゆりかごは、馬や牛の家畜のえさを入れる飼い葉桶でありました。

考えてみて下さい。神の御子であるイエス様のこの世の誕生が、このようなきびしい、困難な状況から始まりました。

そして、イエス様のこの世での生涯の終わりは、十字架の悲惨な死をもって終わる、などということを誰が想像できたでしょう。私たちの人生の生涯の歩みも右に左に曲折してどのようにたどっていくのかわからないのであります。

さて、このベツレヘムの町から北東へ、エルサレムに向かった道の通りに「羊飼いの野原」がありました。羊飼いたちは、羊の番をしながら夜を過ごしていました。そこへ突然、天から光が照りだして、羊飼いたちのまわりを明るくしたのです。羊も羊飼いたちもびっくりこんです。

皆さん、塑像してください。まわりは真っ暗で、天には星がいっぱい輝いています。

羊飼いたちのまわりは天からの光です。ここに神の栄光があらわれたのです。

皆さん、神の栄光があらわれたのを見たことがあるでしょうか、恐らくないでしょう。羊飼いたちも見たことがない光であります。すると、天使が近づいて言いました。11節を見ますと「今日、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主、メシアである。」

ここで、天使は「あなた方のために、救い主がお生まれになった。」と告げいています。

あなた方のためです。つまり、羊飼いたちに告げられましたが、このメッセージは私たちのためにも救い主がお生まれになったのですよ、と言っているのです。

この出来事が人々に告げ知らされるのに、まずベツレヘムの郊外の羊飼いたちにクリスマスの知らせを告げたのです。

そして、そこには初めから終わりまで、神の栄光があらわれた中で知らされています。

ここには神の栄光ということが初めから終わりまで出てくるのです。これは、とても大事なことが示されているのです。そうしていると、大勢の天使があらわれ、天の軍勢がいっぱいにあらわれてくるのです。

これは、神話か何かのように考えられるかも知れません。けれども大事なことは、これは徹頭徹尾、天の話だということであります。

注目すべきことは、天からこの話が来た、ということです。ということは「神の栄光があらわれる」ということがクリスマスの中心になっていた、ということであります。

これは、すばらしいことです。全くおどろきであります。そこで、クリスマスは誰のためであるか、と改めて言いますならば、私たちのため、自分のためであるよりも、実は神様のためであった、ということです。おどろきです。

神様がクリスマスを必要とされた、というようなことを私たちは理解しているでしょうか。私たちは神様のことを考えます時、いつも自分の都合から考えますから、従って神様がこれを必要であったか、どうかよくわからないのです。

自分が救われるためなら、クリスマスは必要であるとは思います。或いは救い主が生まれたということはわかるけれども、神様のためにクリスマスが、なぜ必要であったかということは私たちには考えてもみなかったことでしょう。

それは、たとえで言いますと、子供が親は自分のために一生懸命心配してくれている、

それを大変うるさく感じて、親がどうして自分のために心配しなければならないか、という、その必要さを忘れてしまっている。わからないでいる、のとおなじであります。

「俺のことなんか、ほっといてくれ!」と息子は言うかもしれないが、親はほっておれないのだ、というのはわからない。

自分のことをうるさく言う、自分の救いのためならば、もう、そんなにうるさく言わなくともいい。自分は自分で、もうやっていると思っている。だけれども親が、そういうふうに心配するのは、たぶん親のためなのだ、と言ったらおかしいでしょうか。そこに親の愛があるからでしょう。親の持っている愛がどうしても、そうさせるのです。

そして、親はほんとうに親になるために、そのことが必要であった、と言えるかもしれません。

人間の親の場合と、神様とを比較することは、それは難しいことかもしれません。なぜなら人間の親は神様ほど立派ではないからです。しかし、クリスマスという出来事を起こして、その独り子、主イエス・キリストを私どもにお遣わしになり、私たちを救うということは、神様としては放っておけないことであった、ということです。

人間が罪を犯している。それは、そのまま放っておけないことであった、ということです。人間が罪を起こしている。それはそのまま、放っておけ、というのでなく人間の方では罪を犯したことさえ、あまり深刻に考えていない。罪を犯したことの、本当の恐ろしさを知っておられるのは神様です。

神様の方が、どうしても放っておけなくて、従って神様が私たちの罪のため、どうしても救いが必要であったのです。そのためにイエス様は救い主として生まれてこられたのです。

そこで、ルカはクリスマスの話では、初めから終わりまで神に栄光が照り輝き、天使の軍勢があらわれ、ただ、神様の方だけのことが書いてある、と思うほど神様のことが中心になっているのです。このことを忘れてはなりません。

そうすると、私たちのクリスマスの祝い方も、神様のための喜びであります。神様の恵み、神様の栄え、神様の権威、神様の御力というものを、神様を褒め称えるにふさわしく、クリスマスを祝うのでなくてはなりません。

そこで、まず第一に神様の栄光があらわれた、というのです。神様の栄光が照り出て来まして羊飼いたちを照らしたのです。これが単なる光なら、それがどこから照り出して来てもやがて消えるでしょう。ここに照り出されたのは単なる光でなくて、神様の栄光なのです。

神様が天、地、宇宙をつくられ支配されている、そして人間にとって一番大事なことを人間に対しての神様の愛をもたらそうとして、神の御子が来られた。それはクリスマスの夜、神様からのすばらしい、唯一の神様の恵み、神様の権威、が地上に及んで来たということです。そうしたことを含んで神様の栄光が照らし出されたのです。

クリスマスの夜、はじめに羊飼いたちに、神様の栄光は照らし出され、最後には

「いと高き、ところには、神の栄光があるように」という天使の軍勢の賛美でおわっています。

神様の方からの支配の力が及んで来たのですから、それを受けました人間にとりましては、みんなで神様の支配を受け、その神様の支配を褒め称えるようにすることが一番だいじなことでありましょう。クリスマスには、神様が本当に、みんなからあがめられ、みんなが神様を、神様だと褒め称えられるようになること、それで神様の栄光が、この世のすべてに及ぶことなのです。私たちも天の軍勢と共に神様を賛美しましょう。

「いと高きところには、栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」      アーメン・ハレルヤ!


主日礼拝説教 クリスマスイブ
2015年12月24日の聖書日課 ルカ2章1~20節

  

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