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月曜日には大雪予報も聞かれる前の、穏やかな土曜日の午後、家庭料理クラブは「野菜スープとオートミールのテーブルロール」を作りました。
最初にお祈りをしてスタートです。
オートミールのテーブルロールは、暖めたミルクに、シロップやイーストとたっぷりのオートミールを加え、発酵させた後に小麦粉等を加えた、ちょっと仕込みかたの違うパン。
しっとり柔らかく、食物繊維たっぷりの美味しい出来上がりに、歓声が上がりました。
野菜スープは、数種類の野菜を煮込み、バーミックスでトロトロに仕上げた、こちらも食物繊維たっぷりの品になりました。
試食タイムはホカホカのスープにカッテージチーズを添えて美味しく頂きました。
パイブィ先生からは、フィンランドのスープのお話や、先日先生の息子さんの電車登校時の道に迷った話から、聖書の 「迷い」についてのお話を聞かせて頂きました。
参加の皆様、最後の片付けまでお疲れ様でした。
今日は今年の初めての料理クラブです。新年になると多くのフィンランド人はいろいろ一年の目標を立てて、新しい年はもっと良い生き方をしようと考えます。フィンランド人がよく立てる目標は食事に関係することです。クリスマスの季節にカロリーの多い食事や甘いものを沢山食べたので、年明けになると、カロリーを減らそうと考えるようになります。それで1、2月のフィンランド人の食事はわりと簡単なものが多く、例えば今日作った野菜が沢山入っているスープとパンはその一つです。簡単な食事にもかかわらず、スープとパンは沢山ビタミン、ミネラル、繊維が入っているので、栄養的に体に良いものです。この間家で今日のスープとパンを作りました。息子は「野菜スープは食べたくない」と言いはっていましたが、ひと口を食べてみたら「美味しい」と言って、あっという間に全部食べてしまいました。息子はこのように、まだ何も知らないのにこうだと思ったら、それが正しいと思うことがよくあります。スープの時はおいしいことが本当とわかってよかったのですが、逆に本当のことがわかって大変になったこともあります。この話は食事に関係ありませんが、先週息子に起こったことについて話したく思います。
息子は毎朝地下鉄に乗って一人で特別支援学校に通っています。安全のために見守り携帯を持っていて、いつも出発の駅と終点の駅と学校に着いたら電話の発信音を、私と父親に鳴らします。
その朝息子はいつものように家を出て、出発の駅と終点の駅から2回発信音が来ました。もうそろそろ学校かなと待っているとなかなか発信音が来ないで、かわりに電話がかかってきました。「お父さん、今僕が歩いているのは方南町通りだよね?だから学校に着くよね?」と聞いてきたのです。方南町通りを歩いているのに学校に着かないというのは、きっと逆の方向に向かっているに違いないとわかり、すぐ父親が探しに出かけました。電話をかけながら、今いる場所はどこか、何か目印はないか、お父さんが着くまで動かないで待っていなさい、とか言いながら、方南町に着きました。息子が言う目印がなかなか見つからず、40分位探し回ってやっと見つけることが出来ました。電話があったので大丈夫とは思いましたが、もしバッテリーが切れたらどうなるか、それが一番心配でした。だから、見つかった時は父親も私も本当に喜びと安心で一杯になりました。
どうして息子は道が分からなくなったのかというと、いつもは東口の改札を出て地上に出るのですが、前から西口に出ることに興味があって、それを試したのでした。おそらく、上に出れば東口と同じように簡単に学校に着くと思ったのでしょう。ところが、目の前に環七通りと方南町通りの大きな交差点があって、今まで見たことのない景色でした。学校へはその交差点を渡って戻らないといけないのですが、今までそんな大きな交差点はなかったので、それでそのまま逆方向に歩いてしまったのです。自分で大丈夫と思っていたことが全然違ったのでした。
聖書には迷うことについて教えているところがあります。イエス様が話された「迷い出た羊」のたとえの話はその一つです。ある羊飼いが100匹の羊を持っていて一匹一匹をよく知って世話をしていました。彼にはどの羊も大事でした。ところがある日、一匹の羊がどこかに行ってしまいました。羊は自分の群れがいる場所が分からなくなって戻ることが出来なくなってしまいました。羊飼いはとても心配して、迷い出た一匹をすぐ探しに出かけました。羊飼いは大きな声で呼びながら迷い出た羊を探しました。時間がかかってもずっと探しました。羊飼いは諦めないで、見つかるまで探しました。そして、とうとう羊を見つけました。羊飼いはどうするでしょうか?羊に怒ったでしょうか?そうではなくて、とても喜んで、羊を肩の上にのせて、家に連れて帰り、大きなお祝いをしました。
イエス様はこのたとえから私たちにどんなことを教えているでしょうか?羊は私たち人間のこと、羊飼いは神様のことを意味します。私たち一人一人は、羊飼いが持つ100匹の羊と同じように神様にとって大切なものです。しかし私たち人間は、羊と同じように自分の勝手な方向に向かってしまい、自分の造り主である神様から離れて道に迷ってしまいます。けれでも、神様は私たちのことを忘れません。100匹の群れから迷い出た1匹を探しに行った羊飼いと同じように神様も道に迷った私たちを探して出して、いるべきところに連れ戻してくださいます。私たちはどのように神様のもとに戻ることが出来るでしょうか?それは聖書にある神様の御言葉を聞くことによってです。聖書の御言葉は羊飼いの叫び声と同じです。聖書を通して神様が全ての人々に用意して下さった道が分かります。神様のひとり子イエス様は、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と教えました。イエス様は、神様のもとに行ける道です。この道を歩んでいけば、あなたは道に迷っていないと、神様は本当に喜んでくださいます。この間道に迷った息子が見つかった時、この神様の喜びがわかった気がしました。
今年も、神様の良い導きが私たち一人一人が歩む道の上に豊かにあるように、お祈りします。
第14回
コリントの信徒への手紙 3章18~23節
『この世の知恵と神の知恵』 2018年1月14日(日)
今年もコリントの信徒への手紙の御言葉と聞いていきたいと思います。今日は、3章18節から23節までです。今日の聖書の中心点は「この世の知恵と神の知恵」ということです。19節を見ますと、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」であると言っています。
その前のところで1章18節では次のように言っています。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である」とあります。十字架の言の力強い事を強調しています。更に1章25節には「神の愚かさは人よりも賢く神の弱さは人よりも強いからである」と言っています。人間というのはいつの間にか、神と人間の賢さとか、愚かさといったことを比べてしまうものです。自分でも気づかないうちに神のことが自分の思うようにならない、合点が行かないと思ったりしています。そうして人間の方が賢いように思ったりしているんです。
詩篇53篇1節に「愚かな者は心のうちに『神などいない』と思っているのではないか、ただ、そういう人は本当は愚かなのである。というわけです。
賢いとか愚かと言っても、普通の知恵や知識での話ではありません。
自分の持っている知識は神の知識に比べれば大海と砂浜に遊ぶ子どもの持っている貝殻の中の水ほどに少ないと言ったものである。
ここでは、そういう事を言っているのではなく、もっともっと神と対面して自分の貧弱さ、貧しさ救われなければならない罪の中にあるみじめな状態を知った者の言うことであります。
そこでパウロは言うのです。18節です。「誰も自分を欺いてはならない。もしあなた方の誰かが自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら本当に知恵のある者となるためには愚かな者になりなさい。」というのであります。
この世の知恵は神の前では愚かなものだからです。ここで「この世」というのは目に見える、この世界のことだけでなく、目に見えないことも含めて、人間が支配者になっているように見える、この世ということであります。
知恵というのは何でしょうか。確かに知恵は人間をまことに生かすべきものであるはずです。しかし、知恵のあるところには誇りがあります。こうすれば自分は生きることができるという自信であります。
しかし自分の生き死について、本当は誇ることができません。なぜなら人間の生き死にについてはどんな人もどうすることもできないからであります。
自分の命を伸ばすことも短くすることもできません。
この手紙は神の愚かさと人間の賢さのことをしばしば取り上げています。そして神の前にまことに愚かになることによって心に賢くなることをすすめるのです。
神の賢さによって救われることを教えようとするのであります。
この世の知恵が神の御前に愚かであるのは、まずこの世の知恵は神の知恵に及ばないからであります。
神は天と地を創造しこれを支配しておられます。それに対して人間はその中に住む小さなものに過ぎません。その人間の知恵はとうてい神に及びません。私たちはこの世に生まれながら、何のために生まれたのかも知りません。この命は絶対に失われてはならないものであると確信しています。しかしなぜこの命がそんなに尊いものであるかは誰にもわかりません。この命は絶対に大切なものであると言いながら、また、その命の危うさを知っています。それはちょっとしたわずかなことに傷つき、心を痛め、悩んでしまうのであります。いろんな思わぬ出来事が起こっています。しかもそれが毎日のように私たちの周りで起こっていることであります。それにもかかわらず、私たちには、その理由がわかりません。生きていても漫然と月日は過ぎています。生きている事についてわからなければ、死についてはなおさらわかりません。死ほど毎日の私たちの周りで繰り返されているものはありません。
例えば、私の住んでいるマンションの前を毎日何回も救急車がピーポーピーポーと走って行きます。それで死についてつぶさに見ることも調べることもできません。
何十年も生きてきた命すらよくはわからないのです。
ここに言われているこの世の知恵が神の前に愚かであると言う事は、その程度のことを言っているのではありません。1章18節の言葉がそれを示しています。「十字架の言葉は滅びる者には愚かであるが救われるものには神の力である。」と言うことであります。私たちは生き死にについてなぜ知りたいのでありましょうか。
それはそのことを知ることによって本当に安心したいからであります。聖書の言葉で言えば、救われたいからであります。安心を得たい。揺らぐことのない幸福を得たい、と願って苦しみ続けるのであります。しかし私たちの考える事は空しくなってしまいます。
それは、生きることについても死ぬことについても最大の問題である罪から逃れることができないからであります。
罪を追い払うすべがないからであります。そういう知恵はどんなに利口そうに見えても愚かしいものであります。
それに対して神がお与えになった知恵は何であったでしょうか。それは神の御子が十字架にかかって人間の罪のために死ぬと言うことであります。
これこそ十字架の言葉であります。
これはまことに愚かしいもの知恵らしからぬことでありました。
多くの人がはじめにはそれを軽蔑いたしました。この単純なことが何の役に立つのかと思うからであります。
しかしこれを信じたものは皆ここにこそ救いがあったことを発見いたしました。それは簡単な話ではなく神が考えに考え抜いた愛の極みであることがわかったからであります。
人間の欲深い知恵と違ってこれは神が人間を愛しその罪を救うためにとられた最後の愛の御業であったからであります。
それは知恵の好きなギリシア人にはわからない神の知恵でありました。神の力でありました。それゆえに人間の知恵は神の前に愚かなものなのであります。それでパウロは19節と20節に旧約聖書からの引用を二つ持ってきています。
19節はヨブ記5章12節です。
「神は知恵のある者たちをその悪賢さによって捕えられる」。
そして20節の方では詩編94編11節であります。「主は知っておられる。知恵のある者たちの論議が空しいことを」と書いてある。
ここで言われている事はそれほどに神の救いの知恵が大きいと言うことなのであります。だから人間は誰も自分を誇ってはならないのであります。
知恵の話がただの知恵や知識のことでなくて救いの話であります。そのことは旧約聖書からの引用を示してパウロは突然に21節に書いています。
「全てはあなた方のものです」あなた方とは誰のことでしょうか。ここではコリントの教会のことです。これは教会を指しているのです。そうであれば全てはあなた方のものと言うのは、すべては教会に属する事と言うことです。つまり教会のことを正しく知ることですべての事は分かると言うのです。
前回3章16~17節で突然に「あなた方は神の宮である」と書いていました。これらを信仰の立場から言えばわかりやすいことです。つまり信仰生活の最後の目的は教会生活であると言うこと。それだからパウロは言ったのです。あなた方は神の宮であると。そして最後に建てられるべきものは神殿であります。
目に見える神殿ではなく、最後の願いは信仰による神殿が建てられ、そこで全ての人間が神を礼拝することを喜びとするようになることです。そうであれば今は惨めなみすぼらしいものかもしれません。しかしそこでは一切のものが神のために自分があるということがわかるでしょう。そうするとすべてのものが自分は何のために生き、何のために死ぬかもわかってくるでしょう。
このように神殿は一切のことを受け入れすべてのものを生かす場所になる。そうしますとパウロが22節で言っていることがじーんと深くわかってくるのです。
22節には「パウロもアポロもケパも世界も生も死も、現在のものも将来のものもことごとくあなた方のものである」。この言葉にダイナミックに深く分かってくるのであります。
信仰を持ったあなたがあったが一人ひとりの役割を十分に活かして互いに協力し合い組み合わさって大きな1つの神殿となることであります。こうした教会が神殿であればそれこそキリストの教会であり、キリストの神殿、教会はキリストのからだであると言われます。これらの全てのものはキリストに受け入れられると言うことになるのであります。ですからパウロは最後のところで23節に「あなた方はキリストのもの」なのだ。そして「キリストは神のものである」と言うのです。
そして信仰生活に入ると言う事は何か特別な人生観を持ったり特別な生活をすることでなくそれはキリストのものになることであります。自分のものであってもはや自分のものでなくなるのであります。誰でも自分こそ自分のものであると思いながらそれが重荷でどうしようもないような気持ちになるのではありませんか。その時自分が自分のものでなくキリストのものであると言われることこそ救いであります。
自分が救われた経過から言えば自分は神のものであるに違いないが、まず、キリストに救われた、キリストのものと言うべきでありましょう。そしてそのキリストこそはまことに神の子であられるのです。
アーメンハレルヤ!
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実にあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが彼らが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。
本日の箇所に限らず、聖書には、奇跡や超自然的な現象が数多く登場します。イエス様についてみても、おとめからの誕生、難病や不治の病を次々に完治したり自然の猛威を静めたりするなどの数々の奇跡の業、そして死からの復活等々、枚挙にいとまがありません。聖書を読む人のなかには、そのような記述は古代人の創作だと決めてかかる人もいます。そういう人にとって聖書は信仰の書でも神の言葉でもなく、古代オリエント世界の人たちの考えや文化を知るための一つの文化遺産にしかすぎません。他方では、奇跡や超自然的な現象は信じないが、イエス・キリストは「信奉」してもいいという人もいます。イエス・キリストは当時のユダヤ教社会でとても革新的なことを教え、その教えの多くは現代にも通じるものがある、だからその通じるものに注目して(逆に言えば通じないものは排除して)現代社会の諸問題の解決に役立てていこうと。つまり、イエス・キリストを何か一つの主義とか思想を打ち立てた思想家、イデオローグと見なすということです。また、彼がもとでキリスト教が生まれたのだから、仏陀やモハメッドのように一つの宗教の教祖とみなす人もいます。教祖であれば、仏陀やモハメッドが人間だったのと同じように、イエス・キリストも彼ら同様一人の卓越した人間だったとみられていきます。そうなると、イエス様を三位一体の神の一をなす神の子であると信じる信仰となじまなくなります。イエス様が「信仰」の対象というより、「信奉」の対象になります。
本説教では第一の教えとして、本日の福音書の箇所はおとぎ話と決めつけるには歴史的信ぴょう性が高い記述であるということを述べます。歴史を100パーセント復元してみせることは不可能です。しかし、本日の箇所は100パーセントとはいかなくとも、80パーセント位は歴史的事実と言っていいのではないか、それくらい信ぴょう性が高いということを見ていこうと思います。このことは、実は2年前の当教会の説教でも申し上げました。お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、駆け足でおさらいをしておきます。その次に第二の教えとして、聖書に書いてある出来事が80パーセントくらいは真実とみなせるなら、それなら信じてもいい、ということになるのか?それとも、いや、やはり100パーセント確実でないと信じられない、ということになるのか?そういう疑問にどう答えたらよいかを見ていこうと思います。2年前の説教では、聖書に書いてある出来事が100パーセント真実であると確かめることは信仰の出発点にはならない、信仰の出発点は100パーセントの信ぴょう性とは別のところにある、ということを申し上げました。本日の説教でも同じ答えですが、今回は別の角度から見ていこうと思います。そういうわけで本日の説教は二部構成です。
2.
本日の福音書の箇所に記された出来事の歴史的信ぴょう性についてみてみましょう。出来事の中でも特に思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、本説教はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。
1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めていました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があって、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。
そこでイエス様の誕生年についてみると、本日の福音書の箇所に続くマタイ2章13-23節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。
次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れでと考えらました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。
それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみましょう。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からもうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは、旧約聖書のエステル記から伺えます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所は囁いていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。
学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで、本日の箇所にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。
以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もいくつかあります。一つ大きなものは、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これなど本日の箇所で一番SFじみていて、まともに信じられないところです。人によっては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。ただし、本説教では、確認できることだけをもとにして記述の信ぴょう性をみていこうという方針なので、彗星説は可能性はあるけれどもちょっと脇においておきます。先に述べたように、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年は一回限りでなく、何回も繰り返されました。エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事をいいあらわす時、立場をいれかえるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。ここでは、ただ確認できることだけに基づいて福音書の記述をみてみるということです。
確認できることはとても限られています。現在の時点で入手可能な資料や天文学や科学の成果をもってしても確認できないことに出会った時は、すぐ「ありえない、存在しない」と決めつけてしまうのではなく、それは、現在の知識の水準を超えたことで肯定も否定もできないのだと、一時保留の態度がよいのではないかと思います。とにかく神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。
(ここで、ひとつ余計なことを述べますが、歴史的信ぴょう性ということについて、キリスト教は他の宗教にない負荷を負っていると思います。他の宗教では、教典に書かれていること、創始者の言ったこと行ったことの記述の歴史的信ぴょう性が果たしてキリスト教のようにうるさく問われているでしょうか?皆さん、案外、何の疑問もなくその通りだと素直に信じているのではないでしょうか?キリスト教神学の特に聖書の成立を扱う分野などは、「このイエスの言葉は、実は本人が言ったものではなく、初代のキリスト教徒の考えをイエスが言ったものにして書いた」などという批判的な研究がごまんとあります。もちろん、そういう結論に対する反論もあるのですが、同じような批判的な研究手法を用いて他の宗教の教典を分析したら、どんなことになるでしょうか?)
3.
以上、本日の福音書の箇所の記述は、現時点で確認できる事柄をもってしても、空想の産物として片づけられない真実性がある、主観が混じっているかもしれないが実際に起きたことについての忠実な記録であると言っても大丈夫なことが明らかになりました。それでは、これであなたは聖書に書いてあることが本当であるとわかって、イエス様を救い主と信じますかと聞くと、なかなかそうはならないのではないかと思います。仮に本日の箇所はOKだとしても、他の奇跡や超自然的な出来事の真実性はどう確認できるのか、と問い始めるでしょう。そういう人は、タイムマシンにでも乗って聖書に書かれてある出来事が全て記述のとおりに起きたことを自分の目で見て確認できない限りは信じないと言っているのと同じです。ところが、キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。タイムマシンはいらないのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?
そこでまず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、時には質疑応答をしたりして、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからはイエス様こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならない、と脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから弟子たちとしては伝道を続けるしかありません。
そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうちに信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。
では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は後世を生きる自分にも関わっていたのだ、あの出来事は神がこの私のためにイエス様を用いて成し遂げられたのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?皆さんはどのようにしてそうできたか覚えていらっしゃいますか?
イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分というものを見つめる時に神との関係においてそうするということです。ご存知のように、聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。
自分には造り主がいると認めると、造り主は自分に何か考えや目的を託してこの世に送り出したのだ、ということもわかってきます。まさに、この世を生きることには意味があるということが、自分を造り主との関係に置くことでわかってくるのです。
しかしながら、造り主の神は自分にどんな考え、何の目的をもって自分を造ってこの世に送り出したのか、その考え、目的ははっきりわかりません。仮に、自分は自分の持てる能力を駆使して何か大きな事業を起こして名声と財産を得よう、それこそが神が自分を造った目的だと考えて、それを目指すとします。もし、それが達成できたら、自分は神が託した目的を果たしたと考えることになるでしょう。しかし、もし達成できなかったり失敗したりしたら神の目的を果たせなかったということになってしまいますが、果たしてそう言ってよいでしょうか?また仮に成功しても、それが神の意思に反する仕方で行われたものなら、たとえ成功しても神の目的を果たしたと言えるでしょうか?
神の意思というのは、十戒に凝縮した形であります。もし成功や達成が、父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、事実に反することを言ったり行ったりしたり、妬みや嫉妬を原動力にして獲得されたものならば、それは神の目的とは言えません。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り、人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。
加えて、十戒の最初は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟です。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、こんな掟があるから宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えていますが、その根拠として「復讐は神のすることである」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは実に仕返しの権利を全部神に譲り渡すということなのです。そんな丸腰では危ないではないか、やられたのにやり返さなかったら相手の言いなりではないかと言われるでしょう。しかしパウロはただ、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つということは、神の正義と人間の正義の緊張関係の中に置かれて、もがかなければならないことを意味します。
さて、造り主である神が自分にどんな目的を託しているのかという問題に戻ります。以上のような神の意思というものを考えると、人間が何かを成し遂げる、その「何か」そのものに神の目的があるのではなく、むしろ、「どのように」成し遂げるか、というところに注意しなければなりません。神の意思に注意しながら「どのように」ということを考えていくと、成し遂げる「何か」も見えてくるのではないかと思います。特に自分が置かれた境遇や状況をよく見て、またそれまで歩んだ道や経験を踏まえて、神の意思に注意していけば何をすべきかは自ずと方向性が決まってくるのではないかと思います。神は拠り頼む者の祈りを必ず聞き遂げて下さるというのが聖書の立場です。神との関係において自分を見つめ捉え直そうとする人の祈りを、神は必ず聞き遂げて、道を示して下さる筈です。
造り主との関係において自分を見つめるようになると、神の前に立たされた時、自分は神に相応しくない者であることに気づくことも起きてきます。というのは、神は罪を忌み嫌う神聖な方であり、人間の罪を汚れとみなし、それを焼き尽くさずにはいられない方だからです。自分は完璧で、神の前に立たされても何も問題はない、神と対等にやっていける、などという人間はいません。自分は神の意思に沿えない者だと気づかされると、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなってしまうと、自分を見つめたり捉えることを造り主との関係に置かないで、別のものに置いてするようになってしまいます。
まさにそのような時に、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を送られたのかを思い返します。神聖な神のひとり子が人間の罪を自ら被って人間のかわりに神罰を受けて死なれた、そのかわりに彼を救い主と信じて受け入れる者に彼の神聖さを被せて下さった、それでイエス様を信じる者は神の前に立たされても大丈夫とされ、後ろめたさや恐れを拭い去ることができるのです。本日の使徒書であるエフェソ3章の12節で使徒パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べます。これを少し注釈しながら言い換えますと、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついているのであり、その信仰を通して、神の前に立たされても大丈夫という確信がある、それで、神の前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。そのようにしてもらった以上は、これからは神に背を向けるのではなく、逆に、被せてもらった神聖さに恥じない生き方をしよう、それを汚さないようにしよう、という心になります。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、造り主である神との関係の中に自分を置くことは、まさに自分を見つめる座標軸です。今年もその座標軸をしっかり持って歩みましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1.本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。これは福音書の中でよく知られている話の一つです。結婚式の祝宴でお祝いに飲むぶどう酒が底をついてしまった。そこで、イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って、祝宴は無事に続けられたという話です。奇跡と呼ぶには、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、結婚式の祝宴はイエス様の時代にも大がかりなものであったことを考えてみるとよいでしょう。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとあります。一つにつき80-120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきますし、大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えたというのは、やはり奇跡と言うしかありません。
この福音書の箇所はまた、イエス様が困難に陥った人を助けてくれる心優しい方であることを述べている箇所としても知られ、結婚式に関わる出来事なので、キリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように見守ってくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような優しい方がついておられるんですよ、というメッセージは、新郎新婦のみならず列席者の人たちみんなに微笑ましい雰囲気を与えるものでしょう。
ところが、この箇所はよく読んでみると、わかりにくいことがいろいろあります。それは、ぶどう酒が底をついた時に、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という答えです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文が少しわかりにくいのですが、直訳すると「この件に関して、私とあなたとの間にはどんな関係があるのか」、もう一歩訳し進めると「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか」という意味になります。そのすぐ後にイエス様は、「わたしの時はまだ来ていないのだ」と続けます。ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、ひと肌脱ぎましょう、とは言いません。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。心優しいどころか、何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは何と他人行儀も甚だしく、思いやりのない言葉に聞こえます。ところが、このような冷たい答えにもかかわらず、マリアは何を思ったのか祝宴の召使いに、イエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。つまりマリアは、イエス様の一見冷たく聞こえる答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。
結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、優しいイエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりはわかりにくいです。イエス様はあまのじゃくで、素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。そのことは、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉を理解できればわかります。以下それを見ていきたいと思います。
2.その前にもう少し出来事の状況を把握してみましょう。テキストはそんなに詳しく記していませんが、手掛かりはいろいろあります。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に招かれていましたが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言われ、マリア、イエス様、弟子たちが招かれた、とは言われていないことです。マリアは、ただ単に招かれたイエス様と弟子たちと別扱いです。後の方でマリアは召使たちに命じることもして、召使たちは聞き従っていますから(5節)、彼女は単なるお客様でなくて何か役割を持っていたのではないかと思われます。それならば、ぶどう酒がもうすぐ底をつく時の心配は他人事ではなかったでしょう。
そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと思われます。それに対してイエス様は、「婦人よ、この件で私に何を求めるのか、私の時はまだ来ていない」と答えました。さて、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と頼んだのでしょうか?それとも、ぶどう酒がない、ぶどう酒がない、ああ、どうしよう、とおろおろしている様子を示しているだけだったのでしょうか?11節をみると、このぶどう酒の奇跡がイエス様が公けに行った奇跡の最初と言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える力があるとはまだわかりません。お願い、何とかして、と言うのだったら、早く弟子たちと一緒に買い集めてきて、というお願いになったでしょう。でも、13人の男で500リットルのぶどう酒をどうやって大至急で調達と搬送ができるでしょうか?それが不可能であることはマリアにもわかるはずです。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、もう本当におろおろしている状態で言ったのだと思われます。
そうすると、イエス様の言葉は、慌てふためいているマリアを落ち着かせるものであることが見えてきます。お母さん、しっかりして!と言わないで、婦人よ、と少し距離を置いて、この件で私を関与させつつ何をどうしたいのか、言葉に出して言ってみなさい、と促すのです。しかし、マリアとしては、何をどうしたいかはわかりますが、不可能なことなので言葉にしても意味がないと思ってしまいます。そうしたら、何も言えないでしょう。そこでイエス様は言われました。「私の時はまだ来ていない。」いよいよこの言葉の意味を見ていきましょう。
3.「わたしの時」とはどんな時で、その時が来るのはいつなのでしょうか?ヨハネ12章で、次のような出来事があります。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神や神の国について教え、またユダヤ教社会の指導層と激しい論争を行っていた時でした。地中海世界の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらに、ヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。
つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が拷問などの苦しみを受けて十字架にかけられて死を遂げる時、そして十字架の後で神の力で死から復活させられて神の栄光を現わす時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、これは、人間が全ての罪を神から赦していただくための神聖な身代わりの犠牲となるためでしたから、これは神にとっても人間にとっても大事な時だったのです。さらに、イエス様が死から復活させられたことで、死の力が無力にされて死を超える永遠の命の扉が開かれることになりました。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、神との結びつきを持ってこの世を生きて、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性を与える出来事を起こす時、十字架と復活の時を意味したのです。各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きた後でその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。
そういうわけで、「わたしの時はまだ来ていない」というのはどんな意味かというと、「まだ、私が十字架の苦しみの道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神の意思と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、それを教えと奇跡の業を通して示していかなければならないのだ。まだ十字架と復活の前の今は、私はお前たちと共にいてこのミッションを行う時なのだ」という意味になります。
4.このように「わたしの時はまだ来ていない」というのは、まだ十字架と復活の時ではない、まだおまえたちのもとにいてミッションを行う時だ、という意味だとわかれば、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉は奇跡の業を行うことと関係があるとわかってきます。
イエス様の奇跡の業は枚挙にいとまがありません。大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えた本日の出来事を皮切りに、数多くの難病や不治の病を癒してあげたり、一度息を引き取った人を生き返らせたり、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満腹にしてあげたり、自然の猛威を静めたり、悪霊に憑りつかれている人からそれを追い出したり、と無数にあります。
イエス様がこのように人助けの奇跡の業を数多く行った理由として、イエス様も彼を送った父なるみ神も、優しい愛に満ちた方で困っている人を助けずにはいられない方、というふうに考える向きが多いと思われます。もちろん、イエス様も父なるみ神も優しくて愛に満ちた方というのは否定できないから、そう見ることもできますが、それだけが奇跡の業を行った理由というのは一面的すぎるでしょう。もし、それだけならば、イエス様はなぜもっと地中海の東海岸地方だけでなくてもっと広く世界各地を回って奇跡の業をし続けなかったのか、ということになります。世界各地にはまだまだ病気や飢饉はあちこちにあったのですから。しかし、イエス様は時間一杯とばかり、30歳そこそこでミッションを打ち切ってさっさと十字架の苦しみの道に入られました。しかしそれは、イエス様と父なるみ神にとって、十字架と復活の出来事を起こして、早く神と人間の結びつきを回復して、人間を永遠の命に至る道に置いて歩めるようにすることが何にもましてすべきことだったからです。
イエス様が、十字架と復活の時が来るまで奇跡の業を行った理由として、そのことを通して、人々が彼を神のひとり子であると信じさせるひとつの手段として用いていたことがあります。ヨハネ14章でイエス様は、イエス様がまだ神から送られた方だと実感できないと言う弟子のフィリポに対して、次のように言いました。「フィリポ、こんなに長い間、一緒にいたのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見たものは、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を示してください』と言うのか。わたしが父の内にいて、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におわれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14章9-11節)。人間は、ただ言葉で聞いても信じられない、それならば、イエス様が行った業をもとに信じなさい、ということです。
しかしながら、こうした信仰の手段として奇跡を用いることはイエス様自身、問題があることをよくご存知でした。ヨハネ6章で、5千人の群衆がわずかな食糧で空腹を満たされた後、イエス様の後を追いかけてきます。その群衆に対してイエス様は次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6章26節)。奇跡を経験した人々は、それをイエス様が神から送られたひとり子であることを示すしるしとまでは捉えるには至らなかった。イエス様のことを、ただ人々の欲や必要を満たしてくれるありがたい方、一緒にいればまだまだいいことがある、そういう期待を持って追いかけてきたことをイエス様は見抜いたのです。奇跡を経験した人が、もしイエス様を神のひとり子と本当にわかって信じることができれば、その人の心は、どうやって自分の必要や欲をさらに満たしてくれるかということから離れて、どうやって自分は神の御心に従って生きることができるか、ということに向けられるようになります。それができるというのは、やはり、十字架の死と死からの復活という、奇跡中の奇跡が起きないとなかなか難しいのです。
このようにイエス様は、人間というものは、言葉だけでは信じられない弱さがあると知って、奇跡の業を信仰に至る手段として用いつつも、それが必ずしも正しい信仰をもたらさないリスクを持っていることを知っていました。このように人間とはしょうもない存在なのです。それにもかかわらず神は、そんな私たち人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにと、しかもその生きる道が死を超えた永遠の命に至る道であるようにするために、イエス様をこの世に送られ、彼を犠牲にまで用いて人間の救いを実現して下さったのです。このような神は、永遠にほめたたえられますように。
5.イエス様が母マリアに「私の時はまだ来ていない」と言ったのは、彼はまだ人々と共にいてミッションを行う立場にある、ということを意味します。ミッションの中には、人々を信仰に導くための奇跡の業も含まれますから、このぶどう酒が底をついて祝宴が台無しになり出した状況に対しても、何かしなければならないことは、イエス様自身よくわかっていました。そうすると、イエス様の言葉、「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか。わたしの時はまだ来ていないのだ」というのは、私の知ったことか、という意味では全くなく、慌てふためくマリアに、あわてるな、落ち着きなさい、私が共にいる、という意味なのです。もちろんマリアも弟子たちも十字架と復活の出来事が起きる前は、イエス様の時とはどんな時かまだわかりません。しかし、マリアに関して言えば、かつて赤ちゃんのイエスを抱き上げたシメオンは、この子は将来神と神の民の間を取り持つ何かとてつもないことをすると預言していたので、何か将来重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で生まれたこの方は今私たちと共にいる。そうわかれば、イエス様の答えに拒否の意味は感じられず、言葉では言い表せない形にはならない信頼が彼に対して生まれて、落ち着きを取り戻して、召使たちに待機するよう命じたということになります。
イエス様は大量の水を上等のぶどう酒に変える奇跡を行いましたが、それを行ったのは、自分が神のひとり子であることを示す以外の目的では行うのではない、母親を含めて単に人にお願いされたから自動的にそうしてやるのではない、ということがあることを忘れてはなりません。マリアはイエス様の言葉を聞いて、落ち着きを取り戻し、信頼したのです。
6.イエス様とマリアのやりとりは、奇跡が私たちの信仰にとって持つ意味を考えるよい機会かと思います。当時の人たちと違って、私たちの目の前には奇跡の業をそれこそ目の前で行ってくれるイエス様がいらっしゃいません。彼は今、天の御国の父なるみ神の右に座し、再臨の日まではそこから私たち一人一人に対して大抵は見えない形で働きかけられます。もし、イエス様が当時のように私たちの目の前におられ、奇跡の業を行ってくれれば、私たちも信じやすくなるのにな、と私たちは思いがちです。ここで、イエス様の奇跡を受けたり目撃したりした当時の人たちと私たちの間には大きな違いがあることに注意しましょう。当時、奇跡を目のあたりにした人たちは、「イエス様の時」がまだ来ていない時に生きていました。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前に生きて奇跡を目撃した人たちでした。私たちはと言えば、十字架と復活の出来事の後の時代を生きる者です。イエス様の時が来た後の時代を生きる者です。この違いは決定的です。
しかし、ここに大事なポイントがあるのです。どういうことかと言うと、イエス様の同時代の人たちも、やがて十字架と復活の出来事を目撃して、イエス様が神の子であることが、これ以上の証拠はいらないという位にわかって信じることになりました。その結果、自分の必要や欲を満たしてくれるから神の子として認めてやるという考え方は消え去りました。自分を犠牲にしてまで人間と神との結びつきを回復しようとされた救い主として信じるようになったのです。それで、どうしたら神の御心に沿う生き方ができるかを真剣に考えるようになったのです。実は私たちも、このように十字架と復活の出来事の後、つまり「イエス様の時」が来た後に、心が入れ替わった信仰者と同じ立場にあり、同じ信仰を持っているのです。自分の置かれた状況や境遇に振り回されない信仰です。落ち着きを取り戻したマリアが抱いた不思議な信頼、イエス様に全てを任せられる信頼を私たちも持てるのです。この信頼があれば、あとはイエス様が私たちの思いと予想を超えることをして下さいます。マタイ28章20節で死から復活されたイエス様は弟子たち、そしてイエス様を救い主と信じる者たちに言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」皆さん、イエス様が共にいて下さいます。このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
1.本日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と呼ばれる日です。この日、北欧の国フィンランドのトゥルクという町で1300年代からずっと続いている「クリスマスの平和宣言」(Youtubeで見る)という行事があります。目抜き通りを挟んで大聖堂の反対側にある建物のバルコニーから、トゥルク市の助役が巻物を広げて群衆の前でその「宣言」を声高らかに読み上げます。「平和宣言」などと言うと、世界の平和を祈願する内容かと思いきや、そうではなく、これから救世主イエス・キリストの誕生をお祝いする期間に入るので市民は相応しい仕方でお祝いしなさい、もし、このクリスマスの平和を破る者がいれば関連法令に基づいて厳しく罰せられるから注意するように、という内容で、終わりに、喜びに満ちたクリスマスを市民に祈ります、と言って結びます。要は、救世主の誕生日を敬虔な気持ちでお祝いし、そうしたお祝いの秩序を乱してはならない、という当局からの通達です。世界平和の祈願とは趣旨が異なります。もっとも近年は、「クリスマスの平和宣言」の直前に、通りの反対側の大聖堂にてルター派教会、カトリック教会、ロシア正教会の代表者が集まって、世界の平和を祈る集会が持たれています。それが終わると大聖堂の鐘がなって、伝統的な「平和宣言」が告げられる番になります。(トゥルク市の「クリスマス平和宣言」はテレビで全国中継されるほか、インターネットで世界中に同時配信されています。)
「平和」という言葉は、普通は戦争のない状態を意味すると理解されます。国と国、民族と民族の利害が衝突した時、武力を用いないで解決することを平和的解決と言います。そういう衝突や対立がない状態という意味での平和があります。今日本にいる私たちにとっても重く圧し掛かっている問題です。他方で「クリスマスの平和宣言」に言われるような、イエス様の誕生を感謝の気持ちと喜びをもってお祝いできる状態という意味での平和もあります。もちろん、そういうお祝いが出来るためには国や社会が平和であることが大事です。フィンランドの「クリスマスの平和宣言」も、第二次大戦中の1939年は空襲警報が鳴ったため中止になりました。しかしながら、国や社会が平和ならばいつも感謝の気持ちと喜びをもってイエス様の誕生をお祝い出来るかと言うと、そうとも限りません。というのは、心がイエス様以外のものに向いていたら、それは本当のクリスマスのお祝いではなく、そこにはクリスマスの平和はないからです。裏を返して言うと、国や社会が平和でない時も、心がしっかりイエス様に向いているならば、可能な仕方でお祝いをすることが出来ます。第二次大戦中のフィンランドの「クリスマスの平和宣言」は1939年は中止されましたが、その他の年は戦時中もちゃんと行われていました。
先ほど朗読して頂いたルカ伝福音書2章の中で、イエス様が誕生した夜、天使の大軍が夜空に現れて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の言葉を述べました。この、イエス様の誕生に結びつく平和、クリスマスの平和とはどんな平和なのか?これから、このことを見ていきたいと思います。
2.ここで、イエス様誕生の歴史的背景について触れておきます。これは、出来事がおとぎ話とか空想物語と片づけられてしまわないためにも大事なことです。実を言うと、イエス様がこの世に誕生した年月日というのは、歴史資料に限りがあるため100パーセント正確には確定できません。それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほどのルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデという王様はいましたが、独立国としての地位は失っていて、それはローマ帝国の支配下に置かれる属国でした。ローマ帝国は大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのです。先日、アメリカの教会学校の教材を見ていて、イエス様の誕生の出来事を物語風にアレンジしたテキストを見つけました。そこで、皇帝の勅令を聞いたヨセフが「政府ときたら俺たちにもっと税金を払わせたがってるんだ!The goverment wants us to pay more tax!」と文句を言っていました。小学校低学年の子供にもうガヴァメントか、などと驚いてしまったのですが、ヨセフをはじめ同胞たちの気持ちはそんなものだったでしょう。
さて、ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものは記録がありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6-7年という数字が有望になります。
イエス様が誕生した日にちについては、西暦400年代にキリスト教会が12月25日に降誕祭をお祝いし始めたことに由来します。他方で、もっと前の西暦100年代に1月6日が顕現日という祝日に定められました。顕現日というのは当初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念することと、イエス様の誕生を記念することの双方が祝われていました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の証言は、まだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。降誕祭が1月6日から12月25日になった経緯は明らかではありませんが、いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。
3.クリスマスというのはイエス様の誕生をお祝いする日です。それで、イエス様が歴史上、実際に生まれた日が世界最初のクリスマスになります。聖書に従えば、イエス様は神のひとり子です。そして聖書の神とは、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えて下さった父なる創造主です。これに父の子と神の霊である聖霊も併せて、この父、御子、御霊の三つが一つの神を成すというのがキリスト信仰の立場です。この三つを除いた全ての万物は、神に造られたもの、被造物ということになります。私たちの目に見えるもの、また目に見えない霊的なものも全て被造物ということになります。天使たちもそうです。
これから考えると、世界最初のクリスマスの驚くべきことは、造り主に属する神のひとり子が人間として、つまり被造物の形を取って生まれたということです。加えて、天上の神の栄光に包まれていた方が家畜小屋で生まれたということです。皆さんは、家畜小屋がどういうところか想像つくでしょうか?パイヴィの実家が酪農業を営んでいるので、休暇の時はいつも子供たちと一緒に牛を見に行ったものでした。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。数分いるだけで臭いが服にしみつき、後で周りの人に、牛舎に行ってきたなとすぐ気づかれるほどです。
神のひとり子であり人間の救い主となる方が、なぜこのような仕方で地上に送られなければならなかったのか?人間に命と人生を与える造り主の立場にある方が、なぜ自ら被造物の形をとって、しかも家畜小屋で生まれなければならなかったのか?まず、神が人間として生まれたということについて見てみます。ここで大事な視点は、もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っていただけだったろうということです。それでは神と人間の間にある問題を解決することは出来ません。神と人間の間にある問題とは何かと言うと、それは、旧約聖書の創世記にあるように、神に造られた最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったということです。そのために神と人間の結びつきが壊れ、両者はいわば敵対関係に陥ってしまいました。
そこで神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきのなかで生きられるようにしようと考えました。そのためにひとり子をこの世に送り、敵対関係を終わらせるための犠牲の生け贄になってもらったのです。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに、神は、一度死んだイエス様を蘇らせて天に上げられることで、死者の復活が本当に起こるということも示されました。これらのことを実現するためには、被造物はあまりにも無力でした。それを可能にする本物の犠牲が必要でした。それがイエス様だったのです。イエス様が本物の犠牲になれたのは、彼が通常の男女の結びつきから生まれてくる被造物でなかったからでした。聖霊の力が処女マリアに働いて受胎・妊娠が起きて生まれた。そのようにして、イエス様は神としての性質を保ちながら、人間の肉体と魂を得たのでした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、神と人間の間に和解をもたらすために神自らが人間に歩み寄って自分を犠牲に供したということです。
4.それでは、神のひとり子が人間として生まれるのなら、なぜベツレヘムの家畜小屋での出産というような形をとらなければならなかったのでしょうか?聖書を読むと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、有限な私たち人間に影響力を及ぼす時、大抵は自然界と人間界の諸条件の枠内でそうします。時として、自然界の諸条件の枠を打ち破るような影響力を行使して、自然界の中で起こりえないことを起こすこともあります。それが奇跡と呼ばれるものです。例えばイエス様が医療の技術もなく不治の病を治したとか、湖の水の上を歩いたとか、5切れ程度のパンで5千人以上の人たちの空腹を満たしたとかいうものです。
人間界の諸条件の枠内で影響力を及ぼすというのはどういうことか?イエス様の誕生に即していうと次のようになります。紀元前6年頃、現在パレスチナと呼ばれる地域で、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡のために処女のまま妊娠した。その時、彼らを支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。さて、旧約聖書にはメシア救世主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という預言があります。ローマ皇帝はそんな他の民族の聖典の預言など全く知らずに勅令を出したわけですが、そのおかげで預言が実現することになりました。
出産場所が家畜小屋になったことについても、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、町の郊外にいた羊飼いたちに天使が現れて、今ベツレヘムでメシア救世主が生まれた、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれである、と知らせました。これが重要なヒントになりました。なぜなら、家畜小屋を探せばよいからです。単に救世主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤ちゃんは見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。
イエス様の家畜小屋での出産の出来事から次のことがわかってきます。神はヨセフとマリアを歴史的状況、社会的状況の荒波に揉まれさせてはいるが、決して彼らの運命の手綱を手離すことなく、ずっとしっかり握っていたということです。はじめにマリアの妊娠は、戒律厳しいユダヤ教社会の中では不倫か結婚前の関係かと疑われたでしょう。事は十戒の第六の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。しかしヨセフは、神の計画ならば自分たちには周囲の目など気にせず、この私が育てますと決意します。そう決心するや否や、今度は支配者の命令が下され、身重のマリアを連れて160キロ離れた町に旅をしなければならなくなります。やっと着いても泊まる所がなく、家畜小屋で子供を産むことになってしまいます。ところが、まさにちょうどその時、神は天使を通してイエス様の誕生を羊飼いたちに知らせ、彼らにイエス様を探し当てさせました。本日の福音書の箇所によると、家畜小屋には親子3人と羊飼いたちの他にも人々が集まっています。恐らく羊飼いたちは黙って探したのではなく、今夜この町でメシア救世主がお生まれになりました!今飼い葉桶に寝ておられます!家畜小屋はどこですか?と声に出しながら探し回ったのでしょう。羊飼いたちはヨセフとマリアと集まった人々に天使が告げたことを話しますが、人々は天使など見ていませんから、半信半疑です。しかし、天使が現れなければ羊飼いが飼い葉桶の赤ちゃんを探すこともないわけだから、嘘とも決めつけられない。聖書に書いてあるように、ただただ驚くしかありません。他方マリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを既に知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのです。これも書いてある通りです。
以上、ヨセフとマリアは、ベツレヘムまでの旅を余儀なくされて挙句の果ては家畜小屋においやられてしまいましたが、羊飼いたちがやってきたことで、これは不運でもなんでもない、神は何時いかなる時でも絶えず目を注いで下さっている、ということがはっきりしました。このように神は、神を信頼しより頼む者を状況の荒波に揉まれさせて、何もしてくれない、助けてくれないように見えても、実はその人の運命の手綱をしっかり握っていて離すことはないのです。必ず、その人に対する神の計画が明らかになり、それまでのことは無意味ではなかったとわかるのです。
5.このように外面的には嵐と荒波があっても、心は落ち着いていられる平和がある。そのような平和についてルターは次のように教えています。今年は宗教改革500年記念の年なのでルターの教えを引用するのは相応しいことでしょう。この教えは、イエス様がヨハネ14章27節で弟子たちに与えると約束した平和、「イエス様の平和」について解き明かすものです。
「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。
この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏がもたらした害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。
人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪が残っているところにもあるということは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかということを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」
一体誰がこのような平和を持てるでしょうか?先ほどのルカ伝福音書2章14節の天使たちの賛美を思い出しましょう。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
これは、不思議な文句です。原語のギリシャ語のテキストを見ると、名詞と前置詞と接続詞から成り、動詞がないので正確な文ではなく、何か詩のような形です。もともとは羊飼いたちが理解できる言葉だったので、天使たちは彼らの言葉であるアラム語で賛美したのでしょう。あるいは、天上の言葉を使い、それを羊飼いが心で理解して、アラム語で周りに伝えたのかもしれません。いずれにしても、イエス様に関する記録は全て、最初アラム語で口伝えにされたり書き記されたりしましたが、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にことごとくギリシャ語に翻訳されてしまい、私たちの手元に残っているのはギリシャ語のテキストだけです。これを手掛かりにしてみていくしかありません。
天使たちの賛美の文句は2つの部分からなります。最初は、神の栄光について言い、次は平和についてです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神にあるものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは「栄光はいと高き天上の神にある」というのが正確でしょう。
「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、「神の御心に適う人」です。「平和」は、先ほども申しましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現しました。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちがこの神との平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」です。まさにこの平和は、外的な平和が失われた時であろうが、また人生の中で困難や苦難に遭遇しようが、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和です。使徒パウロが教えるように、そういう平和を持つ人は、ダメもとでも周囲と平和な関係を築こう、少なくとも自分からはそれを壊すことはしないというのが当然になっていきます。そういうわけで、天使たちは、栄光が天上の神にあるのと同じくらい、平和もイエス様を受け入れる者にある、だから、出来るだけ多くの人がこの平和を持てますように、と願っているのです。皆さんも、この平和を持つことができますように。
聖書ヨハネ福音書1章3~5・14節
今日はクリスマス特別礼拝です。聖書はヨハネ福音書1章3~5節と14節であります。クリスマスの出来事をヨハネ福音書の方では1章5節を見ますと「光は暗闇の中で輝いている」そして14節になって「言は肉となって私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」と書いています。「この世の人間の心は暗闇である。その暗闇の中に天からの光輝くまことの救い主イエス・キリストが来られた」とこのように告げています。ルカ福音書の2章ではクリスマスの夜、神の栄光が照り渡ったとあります。そこへ御使いたちがあらわれると、主なる神の栄光が羊の群れ一帯をめぐり照らした。羊飼いたちを包むように闇の中に光の束となって照り輝いた。羊飼いたちは、もうびっくり仰天です。真っ黒な闇が一瞬にして昼のように明るくなったのですから、これはもう何事が起こったのだろうと驚きと恐ろしさのあまりひれ伏してしまったことでしょう。クリスマスの光は神の栄光です、天の御使いたちが一斉に神を賛美します。クリスマスには私たちもまず神を賛美するのです。天使たちは歌います「いと高きところでは神に栄光があるように!」。・・・クリスマスは神の栄光に始まって神の栄光に終わった、と言ってもいいでしょう。クリスマスにあらわれた神の栄光というのはどんな光でしょう。旧約聖書の詩篇には次のようにあります。詩篇19「もろもろの天は神の栄光をあらわし大空は御手の業を示す」。・・・そうすると神の栄光というのは、もろもろの天があらわすものですから光とは限らない。普通には神の栄光があらわれた時には眩しいほどの光に照らし出されたというイメージでしょう。私たちの知っている光にはいろいろな光がありますね。太陽の光、熱いねつがあります、月の光は熱いものではありません。人間が最初に作り出した焚き火の光、ろうそくの光、ランプの光、そして科学が進んで電気によるさまざまな色の光があります。自然の雲の中を走る雷の光など光と言ってもいっぱいあります。羊飼いたちをめぐり照らしたのは太陽の光でもない、月のあかり等でもない、どこから来たのでしょう。天からの光で神からの光であります。
旧約聖書の出エジプト記にはモーセが神様にお願いしました、「どうぞあなたの栄光をわたしにお示しください」。すると神様はそれに答えて「わたしはもろもろの善をあなたの前に通らせ主の名をあなたに述べるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。と言われた。
更に「わたしの顔を見ることはできないだろう」と仰せになりました。どんな人間にとっても恐ろしいことです。罪ある人間には眩しくてとても見られないでしょう。神の栄光というのは神が最も生き生きとしてあらわれたもう、ということです。神の御心がはっきりあらわれて神の恵みが強く感じられる時にわたしたちは神の栄光を仰ぐことができるのであります。神は今もわたしたちのこの世界に生きておられます。しかし信仰によってその御力や御恵みが分からない人には、ここに神の栄光が満ちていることは分からないのです。しかし詩篇19編を書いた人はどこを見ても神の栄光がみえたのでしょう。ですから、もろもろの天が神の栄光をあらわしていると歌っているのです。クリスマスは神が生き生きと生きておられるということをわたしたち人間に示すためにあったということであります。それは御使いが出てきて羊飼いの周りを照らしたからではありません。それは一つの徴でしかないのです。この徴によってこの夜まことに力強く驚くほどの恵みを持って神は生きておられる事を示されたのです。しかもそれだけでなくその栄光がわたしたちの目で見えるようにしてくださったのであります。
コリント信徒への第2の手紙を見ますと4章6節には「闇の中から光が照り出でよ」と仰せになった、「神はキリストの顔に輝く神の栄光を悟る光を明らかにする為にわたしたちの心を照らしてくださった」と言っています。
ここに神の栄光はキリストの顔に輝いている、というのです。キリストの御顔を見て、そしてキリストの生涯を見てキリストのなさったこと、キリストが語られた御言葉を見ると神の栄光が見えるというのであります。こうして今は聖書を通してキリストというお方によって神の栄光をあらわしてくださったのであります。クリスマスの夜にはベツレヘムの馬小屋の中で神の栄光が見られました。だから羊飼いたちもむさくるしい仕事着のままで見に行けたのです。そこで神様が疑いもなく生き生きと生きておられることを知ったのであります。それはこんにちも同じです。クリスマスは神様が一番わたし達の身近に感じられる日なのです、どうでしょうか。神はなぜそんなにはっきりとご自分をお現しになったのでしょうか。それは神が私たちを放っておかれないからであります。人間は勝手な者であります、人間の身勝手さが最もよく現れるのは神のことを考える時であります。少し幸せが続くと神に感謝する気持ちに素直になれます。神様のおかげだと感じます。しかし少しいやなことがあると神に感謝する気持ちなどになれない、どうしてこんなに辛い目にあうのかと落ち込みます。又いろいろな事がうまく行くと今度は自身を持つようになって神なんかもう信じなくても自分だけでやって行けると思うわけです。又少し不幸が続くと神はもう自分を見放してしまわれたのではないかと疑うのです。神がおられることは信じているかも知れませんが実際は神様と言っても天の高いところにおられて自分たちのことは余り親身になって思ってくださらないのではないかと疑ったりもします。ところがクリスマスに神の栄光がこんなに強くあらわれたのはそうしたことではない、ここに神様が生きて働いておられることが事実歴史の只中に現されたのであります。御光となって輝き出るまでにそれが示されたのであります。それはこの時だけでなく、いつでも生きておられるという、しるしであります。生きておられるだけでなく、この世とそこに住む人間を放っておかれるのではない、ということであります。それがクリスマスの時にはっきり出てきたのです。それはクリスマスの時以外でも神は私たちを放っておかれるのではない。ですからクリスマスの恵みを知った人はいつでも神の栄光が私たちの周りを照らしている。私たちはそういう神の恵みの中に生きているので、なんという素晴らしいことでしょうか。
世界中の教会がクリスマスは祝われています、私たちは余り代わり映えのしない毎日の生活であります。しかし時として美しい公園や花園に足を踏み入れたり高い山に登るとき森の中では美しい自然がいっぱいです。自分にホットします、新しい発見をします、小さな恵みをみつけます。そしてそれならそれらしい生活をしようと思うのです。それと同じようにクリスマスに神の栄光を知り神が生きて働いておられることに触れたなら神の不思議な支配の中にいるのを軽んじるでしょう。それならそれらしく生きようとおもうのです。クリスマスはそのための最も確かな恵みの時であります、素晴らしい時です、そんな素晴らしい瞬間に私たちは生きるのです。神が御自分を最も生き生きと現されるというのはどういうことでしょう。それは人間を救おうとして現れる時であります。人と人との間でも人が一番強烈に自分を印象付けられる時というのはどういう時でしょう。それはきっと自分が助けられた時でしょう。あの時あの人に助けてもらった。いま自分がここにあるのはあの人のおかげである。と特別にお世話になった人を自分は生涯忘れられないからであります。あの人のあの親切がなかったら自分はもうダメになっていたかも知れない。今日の自分はなかったと思う、そのような愛、親切、助け、救い、それこそどんな姿よりも忘れられないことになるでしょう。その時その人が一番生き生きとして感じられるのであります。神が直接ふれて働いてくださる、救ってくださっているのであります。
神が人間をおつくりになられた時、神の御計画は完全なものでした。すべてのものは良かったのであります。それを詩篇の19編の作者は「もろもろの天は宇宙のすべてのものが神の栄光をあらわしていた」と神のおつくりになった宇宙を、世界を、神の美しさ自然を賛美したのです。ところが人間はこの自然を破壊し罪の人間が神の御計画の美しさを壊してしまって、神の美しさ、立派さをなくしている。時がたつと共に人間は偉くなったと思い人間の自我が奢り高ぶって人間はみな自分中心に生きるようになってしまった、その本来の美しさを失ってしまった。神本来のつくられた目的にしたがって神の栄光を現そうとしないで、自分の名誉、自分の利益のことしか考えていない。そこに栄光の光と共に救い主がおいでになられたのです。人を救うために来られた。もう一度神の栄光のために生きることのできる人間となるように、つくりかえるためにおいでになった。それがクリスマスであります。救い主が誕生されて私共の中に来てくださったのであります。あなたのためにイエス・キリストは救い主として来られたのであります。クリスマスの栄光がきょう私たちの上にありますように。
アーメン・ハレルヤ!
1.
今年は12月3日が待降節の第一主日となって、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。そういうわけで、本日は教会新年の三回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
待降節や降誕祭・クリスマスは、一見すると過去の出来事の記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、つまり再臨するからです。私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を呼び覚まして、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様の再臨の日とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に創造し直される日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様が教えられたように、その日がいつであるかは、父なるみ神以外には誰にも知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、と。主の再臨を待ち望む心を呼び覚まし、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということです。
本日の使徒書の日課である第一テサロニケ5章にも、イエス様の再臨の日にどういう状態でいなければならないかについて述べられています。
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つかけたところのないものとして、守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものにしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(23ー24節)
「平和の神」というのは、神がひとり子イエス様の犠牲の上に人間との間に平和な関係を打ち立てたということを意味します。イエス様の犠牲とは何か?どうしてそれが神と人間の間に平和を打ち立てたのか?そのことは後ほどみていきます。パウロは、その平和の神が信仰者を頭のてっぺんから足のつま先まで全部を清めて、神聖な神の前に立たされても大丈夫なようにして下さいますように、と祈ります。神が人間を清めて神聖に相応しい者にするのがどうして大事なのかと言うと、次に「主イエス・キリストの来られるとき」と言われるようにイエス様の再臨があるからです。イエス様の再臨の時というのは最後の審判の時であり、そこで誰が神の御国に迎え入れられ、誰が迎え入れられないかという問題が起きてきます。神が人間を清めて神聖に相応しい者にしてくれると、人間は神の前に立たされた時、「この者の霊はパーフェクトで、魂と体も文句のつけようがない」と認めてもらえるのです。人間がそのようになることをパウロはここで祈っていて、神は約束をちゃんと守る忠実な方なので、祈られたことを必ず果たしてくれると言っているのです。どのようにして神は人間を清めて、最後の審判の時に神の前に立たされても大丈夫のようにしてくれるのかについては後ほどみていきます。
ところで、今ある天と地が新しい天と地に取って代わられるとか、最後の審判とか言うと怖くなって、誰もそんな日は待ち望みたくないと思うでしょう。確かに聖書というのは、今ある世は初めがあったように終わりもあるという立場に立っているのはわかるが、そんな世の終わりなどというものを考えていたら、今生きていることが意味のないものに感じられてやる気がなくなってしまうじゃないか、と。しかし、キリスト信仰にあっては、そのような無力感に陥ることはありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものであるという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、そうする。解決が必要な問題は、解決に向けて努力していく。こうした世話や改善や解決をしていく際には、判断の基準として常に、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、神への全身全霊の愛に基づいて、隣人を愛しながらやっているかどうか、ということを考えます。
このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、なおかつ、心の中では主の再臨を待ち望むのです。無力感に浸ってなどいられません。(また、新しい天地創造だとか最後の審判などと言っても、その時まで生きていなければ関係ないだろうと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰というものがありまして、その日まで生きていなくとも、その日目覚めさせられて神の前に立たせられるので、結局は同じことになります。)
さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについてひとつ大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。
本日の福音書の日課は、洗礼者ヨハネが来るべきメシア救世主のために道を整える役割を果たしたというところです。ヨハネは、人々に「悔い改めよ」と説いて、来るべきメシア救世主を受け入れる準備としての洗礼を施し始めました。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちは、ヨハネのことを、神の裁きが始まる前に神から送られる預言者エリアではないかと心配しました。というのは、旧約聖書のマラキ書3章にそのことについての預言があるからです。エリアというのは、列王記下2章に記録されていますが、生きたまま天に上げられた預言者です。ユダヤ教社会では、マラキ書の預言のゆえに、神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送ると信じられていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではなく、ましてはメシア救世主などでもない、自分は、イザヤ書40章に預言されている「主の道を整えよ」と叫ぶ荒野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日、この世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、本日の旧約の日課イザヤ書61章に預言されている「神の僕」が来なければならない。自分はその方のために道を整えるものだ。そう、ヨハネは自分の役割について証をします。そのために、人々に罪の告白をさせて、身も心も神に立ち返られるようにする手助けとして洗礼を授けたのです。ただ、これはまだイエス様がもたらすことになる、「罪の赦しの救い」そのものを与える洗礼ではありませんでした。ヨハネの洗礼は、人々を「罪の赦しの救い」に導くための出発点だったのです。
「主の道をまっすぐにせよ」とは、ギリシャ語の単語ευθυνατεは「平らにせよ」とも訳せますが、要は道を整えなさいということです。主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで一つ注意しなければならないのは、天の父なるみ神も、また神が送られるメシア救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは彼らに障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを考えてみたく思います。それがわかったら次は、どうやったら私たちはそうした障害物を取り除くことができるかを考えてみます。そもそも、神と救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?私たちは、その近づきが本当に良いものであるとわからなければ、何が障害になっているのか、それはいかにして取り除くことができるのか、そういうことには興味を持たないでしょう。そういうわけで、最初に、神と救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが良いことなのか、ということについて考えてみます。
「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実を言うと神は、もともとは人間から離れた方ではありませんでした。創世記の初めに明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいられたのです。それが、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神が取ってはならないと命じた実を食べてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に、神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死ぬ存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪がもたらす報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。人間は神との結びつきを失ってしまっただけでなく、罪のゆえに神との間に敵対関係が生まれてしまいました。神は、罪を目の前にすると焼き尽くせずにはおられないほどの神聖さを持つ方なのです。
人間がこうした状態に陥ったことに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実行するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神のこの救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度預言されてきました。実に旧約聖書というのは、来るべき救世主について証する書物群なのです。
さて、神が人間の救いのために行ったことは以下のことです。人間は自分の力で罪を心身から除去することができません。それが出来ないと、罪の呪いの力の下に留まるしかありません。そこで神は、人間の全ての罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての責任者であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。罪の赦しを受けた者はもう罰を免れるので、罪の支配下にいないことになります。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間に開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、人間を罪の支配下から解放し、死を超える永遠の命の可能性を開いて下さったのです。これが、天地創造の神による人間救済です。
このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復して、再び永遠の命を持つことができるようにするためでした。このことは、ヨハネ福音書3章16節にイエス様の言葉として凝縮されています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
それでは、神がこのように私たちに素晴らしく近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?この問いに答える前に、まず逆に、どうやったら神の近づきを受けることができるのかを見てみましょう。
私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪が他の全ての人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩と頭に、私の罪がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまでは歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それはもう、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、自分にも命と人生を与えて下さった造り主である神の計らいだったということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、突然自分の目の前に自分の救い主として立ち現われてきます。
イエス様が救い主として立ち現われたら、それはもう彼を救い主と受け入れていることになります。人間は、イエス様を自分の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。「お前は私がお前に送ったイエスを救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう。」そう神は言ってくれるのです。私たち人間は肉を纏っている以上は誰もが罪を内に宿しています。それにもかかわらず神は、イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、先ほども申しましたように、神の裁きがなくなったということです。神の裁きがなくなったということは、人間をなんとしてでも裁かれるようにしようと必死だった罪があわれにも、イエス様を信じる者に対してはそうする力を失ってしまったということです。まさに人間は、罪の赦しを受けることで神との結びつきを回復でき、神との敵対関係がなくなって平和な関係になります。イエス様のおかげで罪から解放され、神との平和な関係に入った者は今度は、これからは神から頂いた愛と恵みに相応しい生き方をしよう、自分の命はイエス様の犠牲によって新しくされたのだから、何が神の意思に沿うかよく注意しよう、という心になります。使徒パウロは、本日の使徒書の箇所でも他の箇所でも、命を新しくされた者たちの心得を何度も何度も説いています。「全てを吟味して、良いものにしっかり留まり、悪いものを遠ざけなさい。」(第一テサロニケ5章21ー22節)。
しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ力を持っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び罪の支配下に置いて、神との結びつきや平和を失わせようとします。これが悪魔の仕事です。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのですが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。救い主がついていて下さることを忘れさせようとするのは、私たちに残存する罪や悪魔だけではありません。私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も忘れさせようとします。そのような時でも、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり応じられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8章38ー39節)
4.
以上から、神とひとり子イエス様の近づきを受けるためには、人間の方で自分には罪がある、たとえ行いに現れなくても心の中に神の意思に反するものがある、と認めなければならないことが明らかになります。そうしてみると、罪を認めることが神とイエス様の近づきの妨げを取り除くことになります。これは少し変な感じがします。というのは、自分には罪がある、神の意思に逆らうものがあると認めたら、かえって神やイエス様は近づいてくれないのではないかと思われるからです。しかし、そうではないのです。これまで見てきたように、本当は罪を認めたら、イエス様が私たちの心に入って来て、私たちは新しく生まれ変わるのです。そうすると、イエス様の近づきを妨げるものは何かと言うと、ずばり、それは罪を認めないことになります。それが、道を整えないことになります。
それでは、どうして自分には罪、神の意思に反するものがある、と認めないということが起こるのでしょうか?キリスト信仰で罪が強調されることが反発を生み出すことが考えられます。「完璧な人間などいないのだから、絶対で神聖な神など持ち出さず、あくまで人間同士の問題にとどめて、事を必要以上に大きくしなくてもいいではないか?全て善い悪いは、人間の考えや感情を基準にして決めて行けばいいのだ。神など持ち出されるといつも後ろめたくなってしまう」と。しかし、逆説的ですが、キリスト信仰では一瞬後ろめたさが起きても、すぐ大きな安心が来てそれを吹き飛ばしてしまうのです。そういう大きな安心がいつも控えているのです。そんな安心感はどこから来るのか?キリスト信仰者は、自分の命はイエス様に支えられていると知っています。そして、このイエス様のおかげでいつか神の前に立たせられても大丈夫でいられるということも知っています。なぜなら、自分を造ってくれた神がこの自分を、神の意思にそぐわなくなってしまったにもかかわらず、ひとり子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということが土台になっているからです。この神の私たちに対する愛は私たちを驚かせ、私たちを謙虚な者に変え、感謝の気持ちで満たします。そこから私たちは、神の意思に沿う生き方をしよう、と志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」と確証を与えます。
このように、主の道を整えるとは、障害物を取り除き道を整えるとは、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて、神の愛などない、神の意思に沿うように生きるなど無駄なことだと思わせようとするでしょう。本説教の初めに申しましたように、キリスト信仰者とは世話したり改善したり解決したりするものがあれば、忠実に誠実にそうする。しかし、本当は良い結果をもたらしたかったのだが、力不足でできなかったということがあります。あるいは周囲から「クリスチャンのくせに、大したことないな」などと失格者のように言われることもあります。しかし、あなたが世話や改善や解決に努力した時に、忠実に誠実に行ったことは天の父なるみ神はちゃんと見て知っています。真実を知らないでとやかく言う者がいても、それは神でもなんでもありません。そういう人に対して慌てる必要はありません。イエス様が共にいて下さる限り神に対してやましいところは何もないということであれば、何も恐れる必要はないのです。
そういうふうに考えると、上手い言い方ではないかもしれませんが、キリスト信仰者には「ふてぶてしさ」があると思います。本日の旧約の日課イザヤ書61章では、神に遣わされた者が人々に自由と解放をもたらすという預言がありました。神に遣わされた者とは、もちろんイエス様を指します。罪の束縛から解放された者は「神の栄光を現わすために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」とあります(3節)。「樫の木」アイルאילとは、ヘブライ語の辞書では特に何の木か特定されておらず、単に「巨大な木」です。「正義」も、神に相応しいとされるという意味で「義」צדקと訳した方が良いと思います。「罪の赦しの救い」を受けた者は、神が植えられた義の大木である、ということです。どーんと構えている大きな木です。しかも、この世に神の慈愛に満ちた栄光を現すために植えられたというのです。自分の栄光を現わすためではありません。それで、「ふてぶてしさ」とは言っても、とても謙虚なふてぶてしさなのです。不思議なことですが、そうならざるを得ないのです。
そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは神が植えられた義の大木であることを忘れずに進んで行きましょう。
クリスマスが待たれる土曜日の午後、スオミ教会家庭料理クラブは「Bostonkakku」を作りました。
Bostonkakkuはプッラ生地(イーストを使った甘いパン生地)を丸形に焼いた、クリスマスの特別なケーキです。 レーズンにチェリー、アーモンドダイスをたっぷり巻き込み、出来上がりを想像しながら、ケーキの丸形にカットした生地を並べていきます。
発酵を待つ間、今度はピパルカックの型抜きをしました。
スパイス類をたくさん使った今回のメニューに、牧師館はクリスマスの香りでイッバイになりました。
Bostonkakkuとピパルカックは焼き上がり、グロッギと一緒の試食会は始まりました。 アイシングでデコレーションする予定でしたが、焼きたてのため断念、熱々を美味しく頂きました。
パイブィ先生からは、Bostonkakkuのいわれやアドベントのお話、そして聖書のお話を分かりやすく聞かせて頂きました。
皆さま、よいクリスマスをお迎え下さい。
今日作ったBostonkakkuは、私の母がクリスマスの季節に良く作ったお菓子パンです。ドライフルーツやアーモンドなどを中に入れるので、クリスマスのお祝いの雰囲気を高めます。このお菓子パンの面白さの一つは名前です。この名前はアメリカのボストンと関係があるでしょうか?本当かどうかはっきり分からないのですが、ボストンでフライパンの形に似たパンが作られたそうです。そこからフィンランドに伝わったのかどうかは、はっきり分かりませんが、Bostonkakkuはフィンランドの伝統的なお菓子パンの一つになりました。
もう一つ、今日作ったシナモンクッキーは、フィンランドのクリスマスの季節に作られる伝統的なクッキーの一つです。このクッキーはフィンランドのどの家庭でもクリスマスの前に作られます。特に子供たちはこのクッキーを作るのを毎年楽しみにしています。クッキーを焼いているとき、その香りが家中に拡がって、クリスマスが近づいていることを家中のみんなが感じます。
明日の日曜日はもうアドベントの第3の日曜日になります。アドベントは日本語で待降節と言います。キリスト教会では、クリスマスの前の4週間をアドベントと呼びます。その意味は、クリスマスを迎える準備をする期間ということですが、「クリスマスを待つ」という意味もあります。フィンランドではアドベントになると、どの家庭でもクリスマスの準備をします。家の周りにイルミネーションを飾って、暗い外に暖かい光を輝かせます。家の中でクリスマスのお菓子を焼いたり料理を作ったりすると、家中クリスマスの香りで一杯になります。子どもたちはクリスマスが待ち遠しくなって、あと何日したらクリスマスになるかな、と毎日数えます。しかし、時間はとても遅く進んでいるように感じられます。皆さんは子どもの頃クリスマスが来るのを楽しみに待ちましたか?フィンランドには、「待つ人の時間はとても長い」という言い回しがあります。これはアドベントの4週間にピッタリの言葉だと思います。
皆さんも、何か期待する事が起きるのを待った経験があるでしょう。そのような時は、時間は遅く進んでいる感じがするのではないでしょうか?友だちと会う約束をして、先に着いて、早く来ないかなと楽しみに待っていて、もし約束の時間を過ぎても来なかったらイライラするでしょう。でも、待った後で、期待した事が起きたり、友だちが来て「遅れてごめんね」と言ったら、時間が長く感じたことは忘れてしまうでしょう。待つというのは、時々とても長い年月がかかることもあります。聖書には、ある大事なことのために、とても長い年月を待った人たちのことが書かれています。
ある大事なこととは、旧約聖書の中に、天地創造の神がメシアをこの世に送るという預言が書かれていたことです。メシアとは、救世主を意味します。メシアがこの世に送られるという預言は、イエス様がベツレヘムの馬小屋でお生まれになった時に実現しました。これが世界で最初のクリスマスです。イエス様が生まれる前、イスラエルの民もその周りの国々の人たちも、いつかメシアが来ることを知っていました。旧約聖書の学者たちや外国の占星術の専門家も、メシアがいつどこに来るかを調べていました。普通の人たちの中には、神様がお決めになった時に来られるのだから、今はただ神様の御心を信じてその日を待とうと言って、忍耐強く待っていました。
そのような普通の人の一人として、新約聖書にはシメオンという老人のことが書かれています。シメオンは正しい人で、信仰があつく、イスラエルの民が神様の御心に適う民になる日を待ち望んでいました。彼は、メシアを見るまでは死なないと神様に告げられていました。もうかなり年を取っていましたが、それでも必ずメシアに会えると信じて待っていました。ある日シメオンは神様に行きなさいと導かれて、お祈りをするためにエルサレムの神殿に行きました。ちょうどその時、マリアとヨセフの二人が赤ちゃんのイエス様を連れて神殿にやって来ました。シメオンはこの赤ちゃんを見ると、すぐ待ち望んでいたメシアであるとわかりました。彼は母マリアからイエス様を取ってだっこをして、神様に感謝して言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見ました。この子こそ、世界の全ての民のために用意された救いです。異邦人を暗闇から導き出す光であり、あなたの民イスラエルの誉れになる方です。」
シメオンの長い長い待つことは、これで終わりました。神様はシメオンに約束したことをちゃんと果たして下さったのです。シメオンの心は深い平安に満たされました。今だっこしている赤ちゃんが将来、この世の全ての人たちの救い主になると考えただけでわくわくし、神様に感謝しないではいられませんでした。
今年ももうすぐクリスマスになります。私たちも、メシアを待ち望んだシメオンと同じようにクリスマスを待つことは大事なことと思います。クリスマスとは、私たちの救い主であるイエス様が神様のもとから送られて、人としてお生まれになったことを意味します。この意味をクリスマスの日まで毎日繰り返し覚えると、クリスマスは本当に心に平安を与える日になります。皆さんにとって、今年のクリスマスが神様の祝福に満ちた時となりますように。
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/12/Kimurasensei_2017_12_10.mp3
イエス様の御降誕を祝うクリスマスがもうすぐです。今日の礼拝ではクリスマスの喜ばしい出来事が起こる前に神様がどんな出来事をなさったのか、今日はマリアに起こった出来事を中心に御言葉に聞いてゆきたいと思います。ユダヤのガリラヤの町ナザレと言う村に一人の乙女マリヤがおりました。ガリラヤの町ナザレと言ってもこの当時誰にも知られていない片田舎です。26節によりますと〔6ヶ月目に天使ガブリエルはナザレと言うガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人の許婚である乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアと言った。〕とあります。純粋で清らかな心を持っていたマリアに突然天使ガブリエルが現れたのですから彼女はどんなに驚いたことでしょう。そしてマリアに大変なことを告げたのであります。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます。」マリアはいきなりこう言われて」驚きと恐れの思いで聞いたでしょう。天使の言葉は祝福の言葉ですが、なぜ祝福されねばならないのか全く分からなかったからであります。マリアは何を考えてよいのか天使に告げられたことが理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、天使の言われるままを聞いたいます。聞いていくうちにだんだん分かって来たのです。何が分かったにかと言いますと「主が一緒にいてくださる」ということであります。30節から見ますと天使がマリアに告げました。「マリア恐れることはない。あなたは神からの恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることがない」。マリアに対して、恐れなくて良いあなたは身ごもって男の子を産むと言われる。更に天使は告げます。「その子にはダビデ王の座をくださる」と言うのです。天使ガブリエルが告げた言葉は凄いことでした。マリアにはとてもとても考えられないことばかりです。マリアは思い迷って迷って心が乱れたことでしょう。どうしていいか何もかも分からなくなってしまった。マリアが驚いたのは自分にはあり得ないことであるからです。それで34節でマリアは言いました。「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしはまだ夫がありませんのに」。ヨセフとは許婚の仲で結婚はまだしていないのに、どうしてあり得ましょうか、と言うのであります。マリアの言葉はそのとおりに違いありませんが、ただそれだけのことでしょうか、ただ田舎の小娘が慌て恐れてこう言っているだけでしょうか。この前にルカはザカリヤの妻に起こったことを書いています・。
ルカはわざわざ聖書に書き残しておく必要がどこにあるでしょうか。〔実はルカはマリアの話だけでなく、1章5節から25節に至るまで祭司ザカリヤの妻に年老いてから子供が授かっていることを延々と書いているのです。〕年老いたザカリヤの妻に子供が産まれるという、どうしてそんなことがあり得ましょうか。マリアの身に起ころうとしていることが、その6ヶ月前に神様はもう90歳近いこの老夫婦に凄いことをおこされている。「どうしてそんな事があり得ましょうか」人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なことでした。確かにザカリヤ夫婦は子供を望んでいたでしょうが、もうずうっと子度は与えられなかった、それに老人になってしまって子供が出来るなんて考えられないことに絶望していたことでしょう。どう考えても人間の力ではどうにもならないことです。これがクリスマスを迎える全ての人に投げかけられる神からの不思議な神秘であります。そこで35節を見ますと天使
ガブリエルはマリアに答えてあげます。それは壮大な世界しかも深遠な神の霊の世界に触れて、その神秘のベールをあらわにされています。天使は告げます、「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。今や聖霊がマリアをすべて包んでいます。聖霊の出来事です。マリアが乙女であったとか神ご自身がどうして人間の姿をもってみどり子としてお生まれになったのか、そんなことより次元の違う神の霊の次元にマリアはただ恵みを得ているのです。だから生まれる子は聖なる者です、神の子と呼ばれるでしょう。マリアはもう神の霊に満たされて、すべてが神のご計画の中にあってその尊い御業は進められて行きます。マリアは天使の御告げを聞き彼女はそれを正しく受け止めることができました。そこには聖霊の助けとマリア自身の清らかな貧しくしかし純粋な信仰をもっていたからでしょう。カトリック教会の人々はマリアを聖母として特別な人間のようにお祈りをしたりします。しかしマリアが偉いのはそんな事のためではありません、マリアは主なる神が自分に対してなさったことをそのまま信頼をもって受け入れたことであります。そうしてマリアは心のそこから賛美があふれ出て言います。38節にありますように「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」、といっています。天使の言葉からマリアはこのような想像もつかないことが自分の身に起こって行く、それが主のために用いれられ生かされて行くというのです。わたしは、すべてを主に献げて信頼してゆきます、わたしは主のはしためです、と言っています。はしためと言うのは女奴隷のことです、だから、わたしは神様の奴隷でございます、と告白しているのです。奴隷は御主人様の言うままになる者です、その生命もすべて主人のものです。マリアは特別な運命の御業をすべて身に受けて自分を全く神の御手にまかせきったのです。マリアのこれからの身に起こってくる、いろいろな辛い苦難や人々からの非難が襲ってくる、そして家族や許婚のヨセフ、身にも影響して行くすべての事柄を「主のお言葉どおり従って行きます」といっています。それは、計り知れない大きなこと、そして大きな恵みであります、神の子を産むという大きな恵みです。マリアが奴隷と言ったのは少し言いすげでしょうか、神様の思いのまま、そのお考えがどんなものになるのか・・・どこまで思いのままに従うことなのでしょうか。私たちもマリアだけでなく信仰を持つということは神様に委ねて神様に従ってゆく生活です。けれども神の思いのままに従って行きます、とは言っても程度があると言うことになるのでしょうか。毎週の日曜日の朝を神に礼拝しに行くたびに、いろいろと自分の都合を挟み込んで考えてしまいます。自分のうちに口では言えないもろもろの課題が降り注いできます。マリアの思いがどんなに重いものであったか、私たちの神様にお任せする程度などちりのように吹き飛んでしまうほどしかないものでしょうか。
マリアと共にこれから先のことも私たちは一切を神にお任せして従って参ります。神に任せた者の祝福を受けるものがどんなものか、そこには及びもつかない神の祝福がいつもあるということです。マリアは主のはしためです、と言いましたが私たちは神の奴隷としてキリストの奴隷として信頼して主に委ねて行きます、と言うのでしょうか。私たちは神のみ前に罪の奴隷になっていたのにキリストの救いによって購われたのです、キリストに買い取られたのです。そしてキリストのものとなってしまっているのです。今日私たちが信仰生活をするとき少し真剣に考えてみると自分は自分で造ったものでない。両親が造ったものでもない、本当は神様によって造られた自分であることを思えば自分は神様に対して奴隷どころではない、自分は何もせず努力もしないで神様によってだけ造られて今があるのです。それならばマリアと同じように「お言葉どおりにしてください」と言うほかありません。天使は去って行きましたマリアはどうしたでしょうか、ルカは39節以下に一生懸命に書き記しています。マリアはザカリアの家を訪ねエリザベトに会いに行きました。エリザベトは聖霊に満たされてマリアを迎え喜び合います。42節にありますように「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」マリアは感謝と喜びに満たされて彼女の最大の心を込めて主を賛美しました。それが46~55節のマリア賛歌です。「私の魂は主をあがめ私の霊は救い主である神を喜び讃えます。・・・」実はマルチン・ルターはこのマリア賛歌を、分かりやすくドイツ語で請解説教のように書きました。1520~21年に書いてルターの身の危険から保護してくれたマイセンの領主ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ殿下に捧げています。〔殿下よわたしは先日お送りくださいました殿下の親愛なるお手紙、恭しく拝受いたしましたその慰めに満ちたお手紙のおもむき全てを喜びを持って拝承しました、しかしながら殿下よ私が長い間お約束してまいりました「マリア賛歌講解」は多くの反対者との不幸な論争にしばしば妨げられていまだにその責任を果たしていません。それで私は同時にこの小冊子をもって殿下のお手紙に対するお返事に代えたいと存じます。〕王や君主は神のみ前にどうあるべきか、マリアの賛歌の51~53節をもって強調して行きます。
ルター自身がこの時カトリックの会議で破門されるかどうか生死との危険の只中で自分の身を重ね合わせている訳です。そして序言の書き出しには次のようにあります、〔この聖なる賛歌を順序正しく理解するには祝福された処女マリアが彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は聖霊によって照らされ教えられたのである。というのは何人も直接聖霊から与えられない限り神も神の言葉も正しく理解することはできない。しかし何人もそれを経験し試し体得することなしには聖霊からそれを受けることはできない。かくして聖処女は彼女が価値なく卑しく貧しい、そして軽蔑された者にも関わらず神がかくも大いなる事を彼女のうちになしたもうたことを経験したときに聖霊は彼女に神はかくの如き主にいまし低き者を高うし高き者を低くしたもう、ということ、知恵と知識とを与えた。〕今回はこれまでにしましょう。 アーメン・ハレルヤ!
本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨日等々の大きな節目をひとつひとつ超えていく一年が幕を開けました。スオミ教会と教会に繋がる皆様が父なるみ神の恵みと憐れみのうちにとどまり、皆様一人一人の日々の歩みの上に神からの豊かな祝福と見守りと良い導きがありますように。
本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」した出来事についてです。先ほど福音書の朗読で、群衆がイエス様を歓呼で迎える場面のところで、ご一緒に「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。これは、待降節第一主日にフィンランドやスウェーデンの多くのルター派の教会で行われることでして、それに倣ってみました。この「ダビデの子、ホサナ」はスウェーデンやフィンランドの教会讃美歌の一番目の歌です。新しい年を元気に迎えるに相応しい歌ではないかと思います。フィンランドもあと7時間したら、全国の教会でこの歌が響き渡るでしょう(スウェーデンは8時間あと)。右にある写真を押すと、フィンランドのエスポー教会の礼拝で歌われた「ダビデの子、ホサナ」を聴くことができます(ユーチューブ)。
ところで、このフィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書や歌にある「ホサナ」ではなくて、「ホシアンナ」という言葉を使います。両国の聖書の本日の箇所も、「ホサナ」ではなく、「ホシアンナ」になっています。この違いは何なのでしょうか?昨年も少し説明しましたが、これは、聖書に記されたことにはちゃんと歴史性があるということを知るためにも大事ですので、今日も触れておきたく思います。
この「ホサナ」とか「ホシアンナ」というのは、もともとは詩編118篇25節の中にある言葉から来たものです。25節は、「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」と神に助けを求める祈りです。この「どうか救って下さい」がヘブライ語でホーシィーアーンナーהושיעה נא と言います。本日の箇所の群衆の歓呼は、まさにこの詩編118篇25節に基づいています。そのため、日本語訳の聖書のような「ホサナ」と言わずに、「ホシアンナ」と言った方が、引用元の聖句に忠実ということになります。では、どうして日本語の聖書では「ホシアンナ」と言わずに、「ホサナ」と言うのでしょうか?
「ホサナ」というのは、実はヘブライ語のホーシィーアーンナーをアラム語に訳したホーシャーナーהישע־נא のことです。イエス様の時代、現在のパレスチナの地域では、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。それにローマ帝国東部の公用語であるギリシャ語も話されていました。旧約聖書の言葉であるヘブライ語は書物の言葉としては使われていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語やギリシャ語でした。ユダヤ教の会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。イエス様の母語は間違いなくアラム語だったでしょうが、会堂の礼拝でこれを読みなさいとイザヤ書の巻物を手渡されたところをみると(ルカ4章16節)、ヘブライ語も問題なかったことを伺わせます。さらに、ユダヤ民族以外の民族の人たちとコミュニケーションを取っていたことも福音書に記されていますので(例としてマルコ7章24‐30節)、ギリシャ語も堪能だったでしょう。
ところで、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した弟子たちが、出来事の生き証人になり、イエス様は真に天地創造の神のひとり子であった、旧約聖書に約束されていた救世主であった、と宣べ伝え始めました。宣べ伝えの媒体は、最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録でした。その言葉はアラム語でした。ところが、宣べ伝えがローマ帝国内に広がりだすと、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、宣べ伝える人たちもギリシャ語で話したり書いたりするようになって、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。
しかしながら、伝承と記録の全部がギリシャ語に訳されたわけではありませんでした。本日の箇所の群衆の歓呼は、ギリシャ語のテキストではホーサンナωσανναになっています。これはホーシャーナーを「救って下さい」などと訳さないで、そのまま発音をギリシャ文字で書き表したものです。実は、新約聖書の中にはイエス様をはじめいろんな登場人物が口にした言葉の中に、ギリシャ語に訳されないでアラム語の発音がそのままギリシャ文字で書き表されて、日本語訳ではカタカナで記されているものが多くあります。聖書をよく読まれている方は、あれだな、とすぐ思いつくでしょう。ここでは取り上げませんが、大事なことは、生き証人たちの伝承をギリシャ語に訳した人たちは、印象深い言葉を訳さないで、もともとのアラム語の言葉の発音をそのまま残したということです。私たちは、聖書を読む時、カタカナで表記されたアラム語の発音に触れることで、イエス様をはじめ当時それらを口にした人たちの肉声に触れることができるのです。
本日のホサナも同じです。もともと詩篇118篇25節はヘブライ語でホーシィーアンナ―と言っていた。2000年前イエス様を迎えた群衆はこれを引用して、アラム語でホーシャーナーと叫んだ。それをギリシャ語で記録したらホーサンナになった。この群衆の叫びを、スウェーデン語やフィンランド語の聖書は引用元に倣ってホシアンナにした(ドイツ語のルター版も)。英語(NIV)やドイツ語Einhaitsübersetsung訳の聖書は、ギリシャ語のテキストに倣ってホサンナにした。日本の新共同訳はホサナを使っていて、これは当時の群衆の生の声に一番近い形ということになります。すごいですね。
前置きが長くなりましたので、本題に入ります。このホサナはもともとは、天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王様を迎える時に歓呼の言葉として使われるようになりました。本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をまさにイスラエルの王として迎えたのです。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景は一体何なのでしょうか?
加えて、イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと命じました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味ですが、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9~10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。」
ここで、「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのです。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
ところが、王様を歓呼で迎えた群衆が期待していたことと、迎えられたイエス様がこれから成し遂げようとしたことの間にはとてつもないギャップがありました。このことは当のイエス様本人を除いては誰もわかりませんでした。群衆は何を期待していたのかと言うと、ダビデ王の末裔が現れて、ユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して王国を再興することでした。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章などを見ますと、諸国の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。まさに再興を遂げたユダヤ民族の王国が勝利者として全世界に号令をかける、そういう理解が生まれます。このユダヤ民族の王国について、大方はこの世に打ち立てられる王国をイメージしていました。ただ、人によっては、この世の終わりの時、天と地が新しく創造し直されて死者の復活が起こる時に出現する、そういう超越的な世界を思い描いていた者もいました。そういう理解をもたらす預言も旧約聖書にはあるのです(イザヤ66章22節、ゼカリア14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1ー3節)。打ち立てられるのがこの世の王国であれ、超越的な世界であれ、いずれにしても当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるという意味での新しいダビデの王国を考えていたのです。
イスラエルの民の王国への並々ならぬ思いは、イエス様のエルサレム入城の時の歓呼の言葉からも窺えます。群衆は、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫びました。最後の「いと高きところにホサナ」というのは、「ホサナ」という王様を迎える言葉が天の御国でも天使たちによって叫ばれるように、この地上だけでなく天上でも叫ばれるように、という意味です。真ん中の「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」に注目しましょう。これは詩篇118篇にはない言葉です。最初の「ホサナ」は118篇25節にある言葉です。日本語では「どうか主よ、わたしたちに救いを」と訳されています。次の「主の名によって来られる方に祝福があるように」も118篇26節からの引用です。群衆は子ロバに乗って来るイエス様を見て、ゼカリア書の王の到来の預言の実現とわかって、詩篇118篇を引用して歓呼の声をあげました。ところが、詩篇の箇所にはダビデの王国については触れられていません。しかし、王様が来る以上は、王国も再興されるという考えが自動的に出てきたのでしょう。聖句にない言葉を声を一つにして叫べたくらいですから、群衆の思いは本当に一つでした。それは、これまでのうっぷんをこれで晴らせるという感情の爆発でした。このような爆発をもたらす事情が、当時のユダヤ教社会にはあったのです。そのことは、本日の旧約の日課のイザヤ書63章から64章にかけてよく表れています。
イザヤ書の56章から66章までの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還した後にどういう状態に置かれるかということについての預言として知られています。そこでは、40章から55章の中に記されたような、帰還する時の喜びと希望に満ちた預言は影をひそめて、民が敵対者の迫害を受けたり、民自身が結局、神の意思に相応しくない生き方をしてしまい、神殿を中心とする崇拝も神を喜ばせるものになっていないなど悲観的なトーンが強く出ています。
実際、イスラエルの民の捕囚からの帰還の後の歴史はその通りでした。廃墟だったエルサレムの町と神殿を復興し、再出発をしたにもかかわらず、民は相変わらず異民族支配に服し続けました。ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国そしてローマ帝国と支配者はコロコロ入れ替わりましたが、民の状態は対外的には、諸国民に号令をかけられるなど、そんな立派なものではありませんでした。対内的にも、神殿を中心とする神崇拝は続いていましたが、心ある人から見て、それは形式的な儀式に堕してしまい、神の意思の実現には程遠いものでした。支配層からすれば、町も神殿も復興した、崇拝儀式も機能している、だから預言はちゃんと実現しているのだ、一体何が問題なのか、変なことを言うな、という態度でした。しかし、真実が見える者からすれば、支配層やそれに従う者たちの態度や考えは全く理解できないものでした。どうしてこんなに見えなくなってしまうことが可能なのか?これはもう神が罰として民の目を見えなくしてしまったとしか考えられない。それで本日の旧約の日課にあるような悲痛な叫び、「なにゆえ主よ、あなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにしてあなたを畏れないようにされるのですか」(イザヤ63章17節)という叫びが出てきたのです。神に選ばれたはずのイスラエルの民は文字通り閉塞状況に陥っていました。
支配層の言う通りにしている多くの人たちも、支配層の言うことが正しいと思って言う通りにしていた人たちばかりではありませんでした。今のところ他にやりようがないので言う通りにしているが、いつか預言された王様が来られれば、全ては一気に変わる、そういう思いがあったことは、群衆の歓呼から明らかでした。そしてその時がついに来たのです。しかし、この王が成し遂げたことは、群衆が期待したこととは全く別のことでした。そしてそれが実は天地創造の神が預言を通して前もって知らせていた本当のことだったのです。
イエス様は一体何を成し遂げたのでしょうか?エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。指導層の人たちはこの男をもう生かしてはおけないと思うくらいに憎悪を燃やしました。まず、イエス様は神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書14章21節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言と、イザヤ書56章7節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言に基づいていました。次に、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、指導層に大きな不安を抱かせました。というのも、せっかく占領者のローマ帝国に、逆らいませんと言って安逸を与えてもらっているのに、こんなことをしたら反乱を企んでいると思われて軍事介入を招いてしまうではないか、と慌てふためいたのでした。さらに、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる「人の子」であると公言していたことも許せないことでした。「人の子」とは、終末の日に到来するメシア救世主を意味します。つまり、イエス様は自分を神に並ぶ者としたのです。さらには、もっと直接的に自分のことを神の子と公言していました。イエス様を信じない指導層は、これを神への冒涜と受け取りました。
こうしたことが原因となって、イエス様は逮捕され死刑の判決を受けました。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆は一転、背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が国を再興する王だとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかった、なんという期待外れか!と。しかしこれは、旧約聖書の預言の一部分にしか目を向けなかったことによる理解不足でした。ところが、まさにイエス様が十字架にかけられた後に旧約の預言の全体が理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。その扉は、天地創造の後、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を犯して以来、ずっと閉ざされていました。それが、イエス様の復活によって再び開かれたのです。人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命を持つことが出来るようになりました。こうして、人間を死に打ち勝てない存在に貶めていた原因の罪から、人間を支配する力が消えたことが明らかになりました。どこでどうやって、罪は支配力を失ったのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の罪を全て引き受けて人間のかわりに全ての罰を受けたことによります。人間は、イエス様のこの身代わりの犠牲に免じて、神から罪を赦されるのです。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができます。こうして、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。人間は罪の支配下にある奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。ここから芋づる式と言っていいくらい、旧約聖書の預言の意味が次々に明らかになりました。例えばイザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことだったとわかったのです。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3ー6節)
「彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11ー12節)
実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、全ての人間に救いと永遠の幸いをもたらすものとなったのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この「罪の赦しの救い」を実現することが目的だったのです。今の世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことになりました。神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現した後は、今度は出来るだけ多くの人がこの救いに与れるように、イエス様の救いの福音を宣べ伝えていく時代が始まりました。その宣べ伝えは反対者、時には迫害者をも生み出していきました。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進んできました。これからも同じように進んでいくでしょう。それでも最終的には、「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、この世が終わりを告げてイエス様が再臨し、天と地が新しく創造し直される時が来て、今見えるものは全て揺り動かされて取り除かれ、唯一揺り動かさない神の国だけが見える形で現れて新しい世が始まります。ただ、その時がいつなのかは天の父なるみ神以外には誰にもわかりません。
イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は、この神の国の構成員になる者がもはやユダヤ民族という特定の民族ではなく、神がイエス様を用いて整えた「罪の赦しの救い」を受け取る人たちであるということを明らかにしました。さらに、諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言も、もはや地理上、歴史上のエルサレムを意味せず、黙示録21章で「天上のエルサレム」と呼ばれるように、神の国そのものを指すことが明らかになりました。このように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことで、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族の王国復興の夢をはるかに超えた、全人類の救いにかかわるものだったことが明らかになりました。これこそが、天と地と人間を造られて、人間に命と人生を与えた神の意図だったのです。このことを明らかにしたのが、神のひとり子イエス様でした。最初は、人々に教えることを通して、そして最後は、自分の命をうち捨てて神の計画を実現することで、神の意図を明らかにしたのです。
さて私たちは、十字架と復活の出来事からイエス様が再臨されるまでの間の時代にいます。この「間」の時代というのは、人間が「罪の赦しの救い」を自分のものにすることができるように、イエス様の福音を宣べ伝えていく時代です。この救いは全ての人間のために準備されたものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが天地創造の神の意志です。それゆえ、既に「罪の赦しの救い」を受け取った私たちキリスト信仰者は、まだ受け取っていない隣人の心を、この創造主の神に向けさせるように心がけていかなければなりません。隣人に神とイエス様について教え伝える機会があれば、知恵をもって語ることが出来るようにと神に祈りましょう。もし、そういう機会がなかなか得られなければ、機会を与えてくれるように祈りましょう。そして、その機会が来る日まで、またその後も、神がその方に働きかけられるよう、お祈りしていきましょう。それから、既に「罪の赦しの救い」を受け取ったキリスト信仰者同士でも、この救いを手放してしまわないよう、それをしっかり持ち続けられるようにお互いを支え合っていきましょう。ここでも、お祈りが重要です。このように、神の御心に適った隣人愛を行う時はいつも、お祈りが必要です。このことを忘れないようにしましょう。