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説教「はじめにことばありき」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書のこの出だしの部分は、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを詩的な口調で表現しています。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神、その中の御霊つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに総括・分析した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。そして、この真理は詩的に語られるので、これは「詩的な真理」と言えます。途中の6-7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質をさらに明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。

このヨハネ福音書冒頭のイエス様についての詩的な真理というものは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を大いなるものを受けとめられるくらいに豊かにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を豊かにする力に触れられることを目指していこうと思います。

2.天地創造の前からいた神のひとり子

「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると。しかし、実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」とは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。説教題の「はじめにことばありき」の「はじめ」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると、何かが始まる時の初めというように意味を狭めてしまうのではないか、本当はその前のことなのに。それでひらがなにとどめた次第です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいて、天地創造のあと時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語というのは、ヨハネ福音書をはじめ新約聖書の書物が書かれている元の言語です。ギリシャ語のロゴスという言葉ですが、これはとても幅広い意味を含みます。もちろん、文字にして紙に書き記したり(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ話、スピーチを意味したり、「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」とか、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄がロゴスに収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話で、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出されたものでした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場ですので、生み出す大元にあるのはあくまで神です。哲学では、その大元は人間ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場し、まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。同席だけではありません。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は神の言葉の側面を持つと考えれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

本日の説教題「はじめにことばありき」で「ことば」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると何か話された言葉とか書かれた言葉のように意味を狭めてしまうのではないか、本当は背後にあるもっと壮大なものを意味するのに。それでひらがなにした次第です。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づきます。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。

「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは天地創造がない、時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」があるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」なのであり、生み出した方を「父」と呼ぶ、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節にあるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

3.永遠の命をもたらし導く光

4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。それを再び人間に取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにするために、神のひとり子が父のもとからこの世に送られてきたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」というのは、ギリシャ語の原文では「照らす」とまでは言っておらず、ただの「人間の光」です。もちろん暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示してあげるという意味を持ちます。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯してもらう光も意味します。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。ただ、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、父なるみ神の力で死から復活させられて、死を超える永遠の命の扉を開かれた、このことを思い起こせば、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがよりピッタリではないかと思います。なぜなら、悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で事実上破たんしてしまったのですから。

4.インカーネーションの良い知らせ

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を罪の呪縛から解放して再び永遠の命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。あなたは、もう神から罰を受けないですむようになったんですよ、あの方が全部請け負って下さったんですよ、と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、自分一人の罪さえ背負いきることのできない人間が、全ての人間の罪を背負って神罰を受けることなどは不可能です。父なるみ神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それを父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 イエス様の十字架と復活を目撃した人たちは、イエス様というのは人間が神の罰を受けないで済むように、罪の呪縛から解放されて、永遠の命を持てるようになるためにこの世に送られて、それで十字架と復活の業を成し遂げられた。そのことが、ジグソーパズルが一挙に埋まるようにわかったのです。旧約聖書の趣旨はそうした全人類的な救いにあるとわかったのです。それで、出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらに、天に父のもとに戻られたイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。まさに、本日の旧約の日課の箇所イザヤ書52章で言われるような「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足」になりました。

イザヤ書52章9節に「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」と言われます。「エルサレムの廃墟」というのは直接的には、イエス様の時代から約600年近く前に起きたバビロン捕囚の時代のエルサレムが廃墟だったことを指しています。同時にこれは、打ちひしがれた人、心が打ち砕かれて廃墟のようになってしまった人たち全てを象徴しています。実は「歓声をあげ」という句の前に、ヘブライ語の原文では「心を平安にせよ」という句(פצחו)があるのですが、どういうわけか、日本語、英語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では皆省かれています。恐らく「歓声をあげ」ることからみたら、余分なものとされてしまったのでしょう。(ただし、イザヤ書14章7節では52章9節と同様、この同じ動詞が「歓声をあげる」という動詞と一緒に使われていますが、そちらはちゃんと訳されています。)しかし、これは大事な句です。この「心を平安にせよ」というのは、正確には「嵐が過ぎ去った海や空のように心を静めて穏やかにしなさい」という意味です。つまり、廃墟のようになって悲しんでいる人たちに向かって次のように語っているのです。「嵐は過ぎ去った。もう廃墟のままとどまる時は終わったのだ。なぜなら、天地創造の神から送られたひとり子が、私たちが背負いきれない本当の重荷を背負って下さったからだ。だからそこを出発点にして、それを真の希望の拠りどころとして立ち上がりなさい。この方を救い主と信じていく限り、あなたは他の重荷をきっと背負っていけるでしょう。そのために主は必要に応じてあなたに休息を与えてくれるでしょう。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教:河田 優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)

今日の説教は中央線沿線7教会+神学校の講壇交換の日に当たり河田優牧師をお迎えして説教のご奉仕をお願いいたしました。

ルカ1:46-55

 

ルーテル学院大学・神学校チャプレンの河田です。本日はスオミ教会とルーテル学院との講壇交換ということで来させていただきました。お招きをいただいてありがとうございます。

 

待降節第4主日として私たちに与えられる御言葉は、マリアの賛歌と呼ばれる箇所です。今、私たちは主イエス様のお生まれのクリスマスに備えて、心整えて待っています。そして本日は、このマリアの賛歌から聞き取り、私たちはどのようにクリスマスを待ち、主をお迎えするのかを共に分かち合っていきましょう。

日課の47節から55節までのマリアの賛歌は私たちにもよく知られているみ言葉であり、教会では「マグネフィカート」と呼んできました。「マグネフィカート」これは長い間、教会で用いられてきたラテン語であり、「あがめる」という意味です。47節の「わたしの魂は主をあがめ」この言葉から、マリアの賛歌全体をマグネフィカートと呼んできたのです。

そしてまた、この「マグネフィカート」という言葉は、そもそも「拡大する。大きくする。」の意味を持つものなのです。ですからマリアの賛歌を次のように言い返ることもできます。「私の魂は、主を大きくします。」

神様をあがめ、神様を讃美することは、神様を大きくすることです。そして神様を大きくするということは、反対に自分自身を小さくすることになります。

 

毎日の生活の中で神様とこの自分が向かい合うときに、私たちは神様を大きくしているでしょうか。それとも自分自身を大きくしているでしょうか。私たちはやはり自分が大事であり、この世の様々な誘惑にも負けてしまいます。自分自身を大きくしながら、神様を大きくすることはあり得ないでしょう。自分自身を大きくする者は、神様を小さくしているのです。

でもマリアは「神様を大きくします」と主を褒め歌いました。それは神様の前では自分はほんに取るに足りない小さな者である、というマリアの心からの謙遜がそこに告白されているのです。

 

実際に、主なる神様がイエス様のお生まれのために母としてお選びなったマリアは、王家の娘や大祭司の娘ではありません。ナザレという小さな片田舎でひっそりと生活していた娘マリアであったのです。マリアの年齢はおそらく10代半ばもいかない歳であったと思われます。それは48節のマリア自身の言葉にも表わされます。

「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」

このように人知れず生活してきた小さな娘を神様はイエス様のお母様として選び取りました。

しかし、御言葉を通して思わされることは、ここに主なる神様のご計画が明確にされているのではないかということです。たとえば、名門の家に生まれ、裕福な家庭に育ち、誰からも素晴らしい女性として尊敬されるような女性がイエス様の母として選び取られたならば、おそらくこの女性は、「神様を大きくします」と主を讃美することができなかったかもしれません。それはどうしても自分自身を大きくしてしまうからです。自分自身を大きくする分、神様を小さくしてしまうのです。

ですから主なる神様は、謙遜を知るいと小さき娘マリアを主イエス様の母親としてお選びになったと御言葉は告げているのです。

イザヤ57章にも次のように神様は約束してくださいます。

57章15節「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

主なる神様は、打ち砕かれへりくだる者と共にあることをイザヤは語ります。それは大いなる方として私たちにまことの命を与えてくださるためなのです。

 

さて、まもなくクリスマスを迎えます。教会ではよくクリスマスの礼拝でまた礼拝後の集会で、教会学校の子供たちが中心にクリスマスの聖劇を行ったりします。私の住んでいる三鷹や武蔵野の地域には超教派の市民クリスマス礼拝が毎年開催されていますが、そこで活躍するのも聖劇を行う子供たちです。私たちの通うルーテル三鷹教会でも毎年のようにクリスマス愛餐会でイエス・キリストのお生まれの劇を行ってきました。

 

この聖劇の中での印象的な場面のひとつとして、身重であるマリアと夫ヨセフが、一晩の宿を探してベツレヘムの町をさまよう場面があります。主イエス様が今にも生まれそうである。ところがベツレヘムの町の宿屋は、どこもいっぱいで二人が泊まる場所がないのです。

劇の中では次のような歌をマリアとヨセフを演じる子供たちが歌います。

「泊めてください。トントントン。お部屋は空いていませんか。」

すると宿屋の主人が出てきて、こう歌います。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

マリアとヨセフは仕方がなく、となりの宿屋を訪れます。しかしそこでもやはり超満員。再びマリアはとなりの宿屋へと向かうわけです。

そして最後の宿屋の主人がこう歌うのです。

「馬小屋ならば空いてます。そこでよければ、さあどうぞ。」

マリアとヨセフは、宿屋の主人から馬小屋に案内され、イエス様はこの馬小屋でお生まれになります。

 

宿屋が超満員ということは、私たちの心にも通じることです。神様をお迎えしようにも自分自身があまりにも大きくて神様をお迎えすることができないのです。さらに言うと、自分自身を大きくしてしまう心は、神様が今、私たちのもとに来られていることにさえ気づかないのかもしれません。

主が私たちの心をノックします。トントントン。しかし私たちは歌うのです。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

イエス様が、そのお生まれの場所を小さな馬小屋に選ばれたことは、私たちの小ささや謙遜の中に、お生まれになることを示しています。イエス様は小さな飼い葉桶の中に静かに休まれました。馬小屋の中の小さな飼い葉おけ、私たちのそのような心に主イエス様はお出でになるのです。私たちは子供たちが歌う3番目の宿屋の主人のように、自分たちの心の馬小屋をイエス様に差し出し、「そこでよければ、さあどうぞ。」と歌うのです。

 

マリアは自分に預けられた神の子の命を決して小さなものとはしませんでした。マリアはまだ生まれてもない命も神様から与えられた大切な命として受け止める覚悟をしたのです。それが自らを小さい者として、さらに神様を大きなものとして賛美するマグニフィカートに表されていました。

そして、このマリアが謙遜のうちに受け止めた小さな命が、十字架にお架かりになることによってすべての人を救う命となるのです。小さいけれど大きな大きな命です。生涯を救い主として歩み通された神の子イエス・キリストの命です。

クリスマスを待つ私たちも今、神様の前に自分自身を小さくして、主イエス様のお生まれに備えましょう。いと小さき私に大きなまことの命がもたらされます。これがクリスマスの喜びです。神に感謝します。

 

説教:木村長政 名誉牧師、マタイ1章18~23節

 今日の礼拝はクリスマスを迎え、待ち望む降誕節第三主日です。聖書はマタイ福音書1章18節から23節までです。イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。とクリスマスの出来事を私たちに告げています。

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この福音書を書きましたマタイは新約聖書の冒頭にいきなり、まずイエス・キリストの系図を記しています。なぜでしょうか、ユダヤ人にとって系図はとても大切な事柄でありました。私たち日本人には到底想像もつかない深いものがありました。その上マタイは福音書をユダヤ人のために向けて書いたようであります、ですから系図をきちんと記してイエス・キリストに至るまでのことを記しています。

アブラハムの子・ダビデの子・イエス・キリストの系図。

17節
「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへ移住まで14代、そしてキリストまで14代。」16節を見ますと「ヤコブは、マリアの夫ヨセフを儲けこのマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあります。福音を書くのにキリストの系図をドーンと延々とカタカナで書いて人の名ばかり綴られています。そして今日の聖書18節にこれを全部受けてイエス・キリストの誕生の次第は次のようであった、と入って行く。

これは救い主、キリストの降誕に至るまでに、いかに壮大な神の計画がユダヤという民族に向けられて進められて来たか、と言うことを書いている。マタイは自分もユダヤ人の血が流れている者として神様がユダヤという民を特別に選ばれ、長い長い旧約聖書に明らかにされているように長い歴史を貫いて働かされてきた。その神の恵みを万感の思いを込めて綴り始めているのです。

そこには世界中、どこにもない戦いや敗北もあった苦しい苦しい民族の歴史です。そのような民を神は選び神の計画の中にあっては、そこには計り知れない神の恵みがあった、その恵みは何者にも束縛されない全き神の自由であります。その奥には神の「人類を救う」という神秘の計画、隠された神の秘義があって救いの系図の最後の人として今やヨセフがその選びに預かり、重大な課題を託されようとしている。

その内容を次に展開して行く訳です。

大工の倅、貧しくも若きヨセフには結婚の約束をしていたマリアがいた。そのマリアに思いもかけない事態が起こった。結婚前にすでに妊娠している、という課題であった。18節でマタイは絶妙の表現で書き表しています。「マリアとヨセフは婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアはまことに清らかな信仰をもっている乙女でありました。普通の人と変わらぬ一人の人間です。罪の根源をみんなその人の本性の中に持っているところの人間の一人にすぎない。その罪に染まった人間の姿を持って誕生されるのです。

マタイは素晴らしい言葉を使って記しています。「聖霊によって身ごもっている」ことがあきらかになった。聖霊によって身ごもる、ということはどういうことでしょう。神の福音は神の霊の世界のことであります。宗教は霊の世界であります。人間には到底わからない。神秘の霊の世界にかかわる、ということです。

神ご自身が人の姿をもって神の子として乙女の胎内を通して人であり又同時に救い主キリストとして生まれられるのであります。聖霊によって身ごもった、ということがそこに秘められている霊の世界の神秘であります。分からない世界であります。それを偉そうな顔をした哲学者や神学者たちがその神秘を何とかして説明しようといろいろ考えている。当時の一番身近な例を持ってきてギリシャ神話の中にある神が人間の女性と交わって神の子を生む、という話が多くあります。プラトンやアレキサンダー大王などの偉い人が父親なしに生まれたと言いまわったのでありました。その伝承や言い回しが用いられるかも知れないそこで、マタイは乙女マリアの胎内に聖霊によって身ごもった生まれる子が自分の民を救うキリストとなられる、ということをはっきり示しています。婚約者のヨセフとしてはもう信じがたい異常な事態でありました彼がどんなに戸惑い悩んだことか。

19節を見ますと「夫ヨセフは正しい人であったのでマリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。当時は婚約者であっても妻と同じように見なされていましたからマリアが身ごもった事が公になった場合、それは大変なことです。

申命記22章22節には「妻たる者の淫行が発覚した場合これを死刑に処すべきである」という規定がありました。夫ヨセフはこうした律法にも正しい人であったでしょう。彼は公になる前にどんなに

愛していても愛するがゆえに秘かに離縁しようと決心したのであります。ヨセフでは到底抱えきれない愛の重さがあります。そのどん底にまで彼は突き落とされたような状態であります。神様はその全てを知り尽くして彼に天の使いをもって救いのみ手を下されるのです。天使が夢に現れて主のみ旨をヨセフに直接伝えたのです。神様はどんな瞬間にも、思いをかけないみ手をもって事を起こされるのであります。

マタイはしっかりと20節から23節まで記しています。主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

ヨセフはこの天使からの声を聞き夢の中で語っているとはいえ彼を信じ受け入れた、といことです。そしてこれから容易ならぬ試練に立って行くことになります。特にユダヤ教の伝統の中に処女は身ごもって子を産むというようなことなど絶対にないことでしょう。ヨセフはそのような神の選びに預かった、到底信じがたい異常な事態を黙って一心に主のみ旨を負っていたのであります。そうして、こう言われています。「古き自己を死に引き渡す以外に到底不可能な決断であった。」と。つまりこれまでのいっさいの己を捨てて死を覚悟しての「主のみ旨を受け入れてゆく人生」の始まりでありましょう。主のみ旨は何か、と言いますと「恐れを克服し敢てマリアを受け入れよ」と命じるのであります。そしてこの妊婦は不倫の結果ではなく、聖霊による天から与えられる賜物である、とみ使いは言うのでありました。

イエスという名はヘブライ語のもとの意味は「ヤハウェーは救い」というつまり救いであられると言う、やがてイエスは彼の民イスラエルを「罪から救う」という使命を負っていかれるのであります。「イエスこそ救い主キリストであられる」このことを証言することがマタイの主眼でありました。こうして預言の言葉を添えるのであります。イザヤ書7章14節のみ言葉で「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む、その名はインマヌエルと呼ばれる」。その名は「神は我々と共におられる」と言う意味である。

そしてマタイは福音書の最後の言葉を28章20節で「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる」という同じインマヌエルで結んでおります。救い主として、この世に生まれて来てくださった神の子いえす・キリストはいつもあなた方と共にいてくださるのであります。

                                                                                                                                                                                                                                                                  アーメン・ハレルヤ

12月10日「スオミ教会家庭料理クラブ」のご報告

クリスマスのお料理、フィンランド

師走の第2土曜日、
今年最後の料理クラブは、「ピックヨウル」クリスマス会になりました。

最初にパイビ先生のお祈りからスタートです。

メニューは盛り沢山なので、参加の方々は大忙し、
「ピパルカック」スパイスクッキーの型抜きをしてオーブンへ入れて、次は「ロソリ」ビーツのサラダ作りです、ビーツにピクルス、リンゴ等を小さな角切りにして、色鮮やかなサラダは、冷蔵庫で冷やします。
最後は、「ヨウルタルト」クリスマスパイです。
パイ生地にプルーンのジャムを乗せて焼くパイは、一口サイズの可愛いい出来上がりになりました。

時間のかかる「カレリアンパイスティ」カレリアシチューと「ペルウナラーティッコ」ジャガイモのキャセロールは、パイビ先生が、前日より仕込んで下さいました。

食卓をクリスマス仕様に飾り、温かい「グロッギ」も揃い、いよいよピックヨウルは始まりました。

お料理を食べながらの楽しい会話も一段落した頃、パイビ先生から、クリスマスのお料理のお話や、イエス様の誕生を祝う日であるクリスマスのお話など聞かせて頂きました。

参加の皆様、大忙しの「ピックヨウル」でしたが、最後の後片付けまでありがとうございました。

よいクリスマスをお迎え下さい。

 

フインランド家庭料理教室、フィンランドのクリスマス料理のお話、パイヴィ先生

今回の料理にはパイヴィ先生が大変に力を入れているとNさんから聞いていたので楽しみにしていました。Karjalanpaisti(カレリヤシチュー)という料理をメインにした食事会でした。もともとはカレリヤ地方のう伝統的な料理でしたが今ではフインランドの代表的な料理として伝わっているようです。味は?と問われるならば、メチャメチャに美味しかったです!と答えるのみです。

 

パイヴィ先生からのメッセージです。

フィンランドのクリスマス料理2016

クリスマスはフィンランド人にとって一年の中で最も大きなお祝いです。クリスマスの前の4週間の期間をアドベント、日本語で待降節と言います。その期間に入ると、フィンランド人はクリスマスの準備で忙しくなります。クリスマスの準備には、クリスマスカードを送ること、家の大掃除をすること、クリスマスの飾りやイルミネーションをつけること、クリスマス料理を作ることなどをします。

クリスマス料理はフィンランド人にとって、クリスマスの雰囲気を高めるものの一つです。フィンランドの伝統的なクリスマス料理は種類がとても豊富です。フィンランド人はクリスマス料理の伝統をとても大事にして、お母さんが作ったクリスマス料理が子供へも受け継がれて、どの家庭でも昔お母さんが作ったのと同じ種類の料理を作ります。その料理の味と香りを通してもクリスマスの雰囲気が作られます。子供たちも、クリスマス料理やお菓子を作ることに興味を持つので、よく親と一緒に作ります。それで家庭の味は世代から世代へと伝わっていくのです。

クリスマスが近づいてくると家中にクリスマスの香りがすると言われます。クリスマスの香りとは、どんな香りでしょうか?普通それは、シナモン、クロヴ、ジンジャーなどの調味料を入れるピパルカックの香りです。ピパルカックを焼く時、その香りが家中に拡がり、外にまで拡がっていきます。ピパルカックは長く持ち、置いておけば置くほど味は良くなるので、クリスマスの準備の最初にします。その後で他の焼き菓子、クッキー、ケーキなどを作ります。今日皆さんが作ったクリスマスパイ、ヨウルトルットゥもそうです。昔はヨウルトルットゥの生地は家で作りましたが、それは大変なことでした。現在は、生地と真ん中にのせるプルーンのジャムは店で買うことが出来るようになったので、作るのはとても簡単になりました。

フィンランドの伝統的なクリスマス料理をみてみますと、豚肉のオーブン焼き、魚のビネガー漬けやオーブン焼き、ニンジンやジャガイモのキャセロール、生野菜やゆで野菜のサラダなどがあります。このような料理は1800年代には貴族の館で作られていましたが、一般の人々にはまだ遠いものでした。しかし1900年代の初めからクリスマス料理は少しづつ一般の家庭でも作られるようになり、やがてフィンランドのクリスマスの国民的な料理になりました。クリスマス料理は、塩、砂糖、ビネカーで味付けするので、何日も持ちます。「クリスマスには朝、昼、晩だけでなく夜まで料理に手が出てしまう」という言い回しがありますが、それくらいクリスマス料理はフィンランド人の心を惹きつけるものです。

フィンランドでは、クリスマスは両親のいる実家に家族みんなが集まるお祝いです。家族はひとつになって一緒にクリスマス料理を味わいます。クリスマスイブの日、家族みんなは食事の席について、食前に誰かが聖書のクリスマスのメッセージ、ルカによる福音書の2章1-20節を読み聞かせます。それが終わってから食事をします。この聖書の箇所は、世界で一番最初のクリスマスについて書かれています。

世界で一番最初のクリスマスにどんなことが起きたでしょうか?その頃、ローマ帝国の皇帝が全領土の住民に住民登録をせよ、という命令を出しました。これは、人々から税金をとるための登録でした。このため、人々は自分の故郷の町に行って登録をしなければならなくなりました。ヨセフとマリアも登録のために、住んでいたナザレという町からユダヤのベツレヘムに行かなければなりませんでした。その時マリアは身ごもっていました。ロバに乗ってする長い旅はマリアにどんなに大変なことだったでしょうか。ベツレヘムに到着すると二人は、宿屋を探しました。しかし、どこも皆一杯で、馬小屋しか寝る場所がありませんでした。寒い馬小屋の中でその夜マリアは男の子を生みました。マリアは赤ちゃんを布にくるんで飼い葉おけに寝かせました。

実はマリアが生んだ男の子は神様の子、全ての人間の救い主だったのです。それはどのようにして分かるのでしょうか?それは赤ちゃんが生まれる前にマリアに起こった出来事からわかるのです。赤ちゃんが生まれる九か月前のある日、天使がマリアに現れて、マリアは男の子を生むことになると告げ知らせました。しかし、この時マリアはまだヨセフと婚約中で結婚していません。驚いたマリアは、「どうしてそんなことが起こると言えるのでしょうか?」と天使に聞き返しました。すると天使は、「天と地を造られた神の霊があなたに降り、その力であなたは身ごもる。それで生まれる子供は神聖な方、神の子と呼ばれるのです」と答えました。それで世界で一番最初のクリスマスにマリアが生んだ男の子は神様の子でイエスと名付けられました。それは、「神は御自分の民を救う」という意味があります。

イエス様がお生まれになったというニュースは、一番最初だれに知らされたでしょうか?それは羊飼いでした。その夜ベツレヘムの町の外の野原で羊飼いたちが羊の番をしていました。その時突然天使が現れて、神の栄光の光があたりをまぶしく照らしたので、羊飼いたちは非常に恐れました。しかし天使は、「恐がらなくてもよい。今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになりました」と羊飼いたちに告げ知らました。どうして天使は一番初めに羊飼いに知らせたのでしょうか?当時羊飼いは社会の中でとても低く見られた職業でした。このような社会の貧しい層の人たち、恵まれない人たちに天使が現れて救い主の誕生を知らせたのです。ここにはとても深い意味があります。それは、イエス様は本当に人を区別することなく、全ての人々のためにお生まれになったということです。このことをはっきり示すために、神様は社会で低く見なされる人たちを選んで一番最初に知らせたのでした。このように神様の優先順位は人間の考え方とは違い、低く見なされる人たちを選ばれるのです。そして神様は、そのような人たちこそ天使のメッセージを素直に受け入れると知っていたのでした。

さて、天使のメッセージを聞いた羊飼いたちはどうしたでしょうか?彼らは、疑わずに急いでベツレヘムに向かいました。そして、馬小屋にいた母マリアとヨセフそして飼い葉おけに寝かせてある赤ちゃんのイエス様を探し当てました。羊飼いたちは周りに集まって来た人たちに、野原で起きた出来事を全部話して、神様を賛美しながら帰っていきました。

これがルカによる福音書の2章に記録されている世界で一番最初のクリスマスの出来事です。クリスマスイブの時、フィンランドの全国の教会で、また家庭で朗読されます。皆さんはこの出来事をどう思うでしょうか?羊飼いたちと同じように天使のメッセージを受け入れるでしょうか?

クリスマスの料理から出る香りと雰囲気は、クリスマスの季節が終わればなくなります。しかし、「今日ダビデの町ベツレヘムで、あなた方のために救い主がお生まれになった」という天使のメッセージは、クリスマスの季節が終わっても変わらずに、私たちに喜びと賛美の気持ちを与えてくれます。本当にクリスマスは、いつまでも消えない喜びと感謝をもたらしてくれるお祝いです。

説教「良い実を結ぶ木のように」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイ3章1-12節、イザヤ11章1-10節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節とかアドベントなどと呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔、現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた父なるみ神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちは、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあります。その意味で、待降節という期間は、イエス様の最初の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、めでたし、めでたし、で済ませるのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を持つようにして、身も心もそれに備えるようにしなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつなのかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世が終わりを告げる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていないのです。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を持って、身も心もそれに備えるようにする。それが、「目を覚ましている」ということです。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」などと言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は自分の造り主である神から頂いたものだという自覚に立っています。それで、自分が置かれた立場や境遇、直面する課題というものは、各自取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は次の二つの原則に照らし合わせてそうします。まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、次に、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、この二つを基準にして考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っているだけの受け身な姿勢ではありません。

そこで、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

 

2.

 本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事いうことになります。

 洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、例として「ヘブライ人への手紙」12章に記されています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという終わりの日に、唯一揺り動かされずに現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地にとって替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが記されています。

 本日の旧約の日課イザヤ書11章にも、将来現れる神の国のことが述べられています。「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(9節)ことがどういうことかを分からせるために、野獣猛獣、家畜と幼子が一緒にいても何も危険はないということが言われます。それくらい安心と安全が完璧な夢のような国です。加えて、神の正義が完璧に実現される国でもあります。「エッサイの株から萌え出でる若枝」がそれを実現します。エッサイはダビデの父親の名前ですので、この若枝はダビデ王朝に属する者としてイエス様を指します。再臨するイエス様は最後の審判の時に裁きを司りますが、5節で「正義」と「真実」を帯のように纏っていると言われます(「真実」というのは、ヘブライ語אמונהの正確な意味は「頼り切って大丈夫なこと」です)。彼が裁きを行う時、「目に見えるところによって行わない、耳にするところによって行わない(3節)というのは、人の目には見えないことや、人の言葉では言い尽くせないことまで全て真実を把握して裁きを行うということです。だから、この世でいろんなことを見落とされて不利益を被ったり、真実を見てもらえずに無念の涙を流した人たちにとっては朗報以外の何ものでもないでしょう。しかし同時にイエス様は、不正義を行った者もその犠牲者も等しく、全て心の奥底にある見えない部分もちゃんと見抜いておられる。そうなると一体誰が、この正義と安全と安心しかない国に迎え入れられるのか?この問題は、本説教の後半で明らかされていきます。

さて、そんな夢のような神の国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?そうならば、今ある天と地は当時も今もそのままではないか?新しい天と地はまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。実は2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は、不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたり、悪霊に憑りつかれた人々を救ったり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。黙示録21章4節を思い出しましょう。将来現われる神の国は、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところです。2000年前のイエス様の存在と活動というのは、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせる、そういう意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはりあくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。

それでは、今私たちは神の国とは無関係なのでしょうか?そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、彼こそ救い主と信じる信仰に生きる者は、既にこの神の国と結びつけられています。もし、イエス様の再臨が私たちの生きている時代に起きれば、信仰に生きる者はそのままそこに迎え入れられます。もし再臨の前に死んでいれば、再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられます。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現する方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

 

3.

 さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21~22節、26章20~21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。それなので人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びつくと考えられたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。(興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています[マルコ7章4節])。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものはと言えば、律法の様々な掟や様々な宗教的儀式を守ったり行ったりすることでした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのです。

 人間が自分の力で罪や不従順の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部このひとり子に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23~24節とコロサイ3章9~10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限りは、父なるみ神は私たちの罪ある内側には目を留めず、私たちに被せられた神聖な清い純白な衣に目を留めて下さるのです。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものでした。神が人間に贈り与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、今申し上げたイエス様の身代わりの犠牲がもたらしてくれる罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2~3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限りは、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。このような計り知れない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。

 ヨハネの洗礼は、完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっているのだ、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ起こる罪の支配からの解放を全身全霊で受け取る器になれる、ということでした。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということでした。ところが、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

 

4.

 以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得られるようになりました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして受け取った罪の赦しの救いの中にしっかり留まり、聖書の御言葉と聖餐式のパンとぶどう酒を栄養にすることで、肉に結びつく古い人を日々弱体化させ、聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことです。この道を歩む者から「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」が実ってきます。それはどのような実でしょうか?

一般的に言えば、次のようなことです。罪の赦しの救いを受け取った人は、聖霊と共にいろいろな賜物を神から頂く。その頂いた賜物を今度は神の意思に沿うように用いる。そうすると、イエス様の福音が周りの人々に伝えられたり示されたりし、人々が罪の赦しの救いを受け取ることができるようになって教会が成長する。そして、賜物を用いる人自身も、使徒パウロが教えるような聖霊の結ぶ実を結ぶようになる。これはスオミ教会の今年の年間主題でもありますが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったものに満たされるようになる。これら全てのことが、「神への立ち返りに相応しい実」、「良い実」です。

最後に、そのような実について、具体的なことを述べておきます。いろんな具体例が考えられますが、ここでは一例としてあげておきます。キリスト信仰者が、一生懸命の努力と真摯な祈りをもって何か事業に成功してお金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。その人がこの成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することに沿うように用いること、これが「良い実」です。もちろん、みんながみんな、そういう神の意思に沿って用いられる成果を手に入れられるわけではありません。ただその場合でも、もし伴侶がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが溢れるような家庭を築いて行こうと努力すること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうと努力すること。これが「良い実」です。さらに、不運にも病の床についてしまい、成果も得られず家庭もなかなか築いていけないような場合は、このような境遇にあっても、信仰の兄弟姉妹たちの心遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さる、と感謝すること。そして、自分自身のことに加えて、多くの人たちのためにも祈ること。これが「良い実」です。これらはみんな、父なるみ神の目から見て等しく良い実です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「イエス様の大事業と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章1ー11節

待降節第1主日


 

 

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様がロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると一旦朗読を止めます。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。夜のテレビのニュースでも毎年のように「今年も待降節に入りました。画像は何々教会の礼拝での『ホサナ』斉唱の場面です」と言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。

 2.

 ところで、先ほど一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語では「ホサナ」ではなくて、「ホシアンナ」です。福音書の記述も、群衆がイエス様を迎える歓呼は日本語では「ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語は「ホシアンナ」です。昨年もお話ししたのですが、この違いを考えることは聖書をより身近に感じられるきっかけになります。ただ、今回説教を準備している時にまた新しい発見をしましたので、昨年申し上げたことに補足をしなければなりません。このように聖書は読むたびに、それまで気づかなかったことに出くわすことがよくあるので、本当に飽きさせない書物です。

 このホサナ、ホシアンナというのは、もともとは詩篇118篇25節にある言葉から来たものです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。「わたしたちに救いを」をいうのは、原語のヘブライ語を忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい」になります。これが הושיעהנא ホーシィーアーンナァ、つまりホシアンナです。本日の福音書の箇所の群衆の歓呼がある9

10節はこの詩篇の箇所が土台にあります。そういうわけで、ホサナと言わずにホシアンナと言った方が、引用元の聖句の原語に忠実になります。ところで、ホシアンナという言葉は、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳」になるでしょう。

では、どうして日本語の聖書ではホシアンナと言わずにホサナと言うのか?ホサナהישע־נא  というのは、実はヘブライ語のホシアンナをアラム語に訳したものです。正確にはホーシャーナァと発音します。ヘブライ語のホーシィーアーンナァと違います。アラム語という言語ですが、それはイエス様の時代のパレスチナの地域の主要言語でした。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残ってはいましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それで、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語の可能性が高いと考えられるのです。

そこで、肝心のマタイ福音書の原語のギリシャ語のテクストではどうなっているかを見てみると、ホーシィーアーンナァでもホーシャーナァでもなく、ホーサンナωσανναです。英語訳の聖書は、綴りとしてはこのギリシャ語に倣っていて、ホサンナHosannaと書いています。しかし、そのホサンナを英語はホゥザナと発音します。英語は本当に一筋縄ではいかない厄介な言語だと思います。

さて、ヘブライ語のホーシィーアンナ(ホシアンナ)、アラム語のホーシャナ(ホサナ)、ギリシャ語のホーサンナ(ホサンナ/ホゥザナ)の3つが出そろいました。ここで興味深いのは、ギリシャ語は、ヘブライ語やアラム語の言葉を訳さないで、ただ発音をギリシャ文字に置き換えただけということです。皆様もご存知のように「メシア」はヘブライ語のムーシィーアハですが、それがギリシャ語に訳されてクリストス、「キリスト」になりました。ところがホシアンナ、ホサナの場合は、そのような訳がなされず、発音をそのままギリシャ文字に置き換えただけで、さながら日本語が外来語を訳さないでカタカナに置き換えるのと似ています。

 こうしたことをどのように考えたらよいかと言うと、まず、本日の福音書の箇所に出て来る人たちはアラム語を話す人たちなので、叫んだ言葉はアラム語でホサナと言った可能性が高い。しかし、シナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読も聞いていたので、ひょっとしたらホシアンナを覚えていて、それで叫んだ可能性も否定できない。いずれにしても、この出来事も含めたイエス様の言行録は最初、口伝えで伝えられていき、次第に記録として書き記されるようになる。さらにキリスト教がアラム語圏を超えてギリシャ語圏に広まり始めると、アラム語で伝えられたものはどんどんギリシャ語に訳されていく。そこで、この出来事の記録を訳した人は、ホシアンナだったにせよホサナだったにせよ、このエグゾチックな言葉をみて、ギリシャ語の単語に訳さず、ただギリシャ文字を当てはめて書き記したのです。実は、このおかげで聖書を読む人は、この出来事が起きた時その場にいあわせた人々の生の肉声に触れることができるのです。ギリシャ文字を当てはめて書いた人は、その効果を狙ってそうしたのは間違いないでしょう。

 以上のことは、キリスト信仰の観点からみたら瑣末なことですが、知っていれば、聖書を読む時、当時その場にいあわせた人たちの音声の世界に引き戻されます。聖書に書いてある出来事は後に創作された話だ、などという淡い期待を打ち破り、本当にあったという臨場感を与えます。このホサナの他にも新約聖書には、イエス様自身や関係者が述べた言葉や文がギリシャ語に訳されずにアラム語の発音のまま記されて、日本語訳の聖書ではカタカナで表記されているものがいくつもあります。ギリシャ語に訳した人たちは、このようにしてまで現場の生の声をそのまま残そうとしたのです。

3.

 先ほども述べましたように、ホサナないしホシアンナは、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのです。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書やルカ福音書では、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います(マルコ11章2節、ルカ19章30節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 実は、これは何かのパロディーでもなんでもありません。まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事だったのです。以下、そのことを明らかにしてまいりましょう。

 まず、イエス様のこの行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういう途轍もないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、ロバに乗ってやってくるということです。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が、全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという途轍もないことをするにもかかわらず、その実現の仕方は軍事力の行使とは全く正反対な仕方で行うということが、イザヤ書11章1-10節に預言されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界は、聖書の立場からすれば、今のこの世が終わった後に到来する新しい世を意味します。イザヤ書や黙示録に預言されていますが、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがて今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に正義を完全かつ最終的に実現するのがイエス様ということです。

以上のように、今の世が新しい世にとってかわるという、預言書に預言された大事業は、イエス様が担っていくことになりました。ロバにまたがってエルサレムに入城するというのは、まさに預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという、とてつもない大事業はイエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

4.

 この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らは、ダビデ王の末裔が来て新しい世を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエル王国を再興することを意味すると理解していたからでした。人によっては、この来るべき王国のことを、天と地が新しくされて死者の復活が起きる時に(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1-3節)現れると考えていた者もありました。ただ、その場合でも、ユダヤ民族の国が再興されるということが中心でした。先ほど読んで頂いたイザヤ書2章1ー5節では、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言がありました。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、旧約聖書の預言のもっと別の面も含まれていたのです。どんな面か、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。まず、エルサレムの神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。それから、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのにローマ帝国の軍事介入を招いてしまうということが危惧されました。三つ目として、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に預言されている終末の日に到来するメシア「人の子」であると公言していることも問題視されました。特に、自分を神に並ぶ者としていることや、さらにもっと直接的に自分を神の子と見なしていることも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言を一面的にしか捉えられていなかったことによる理解不足でした。そこで、イエス様が十字架にかけられた後、旧約の預言が全て理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間が死ぬ存在になってから閉ざされていた扉が開かれたのです。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命につながることが出来るようになりました。人間が死を超えられなくなってしまったそもそもの原因は、人間が罪を持つようになって神の罰に服するようになってしまったからでした。それが、「お前の罪は赦された、だから神の罰は受けなくてもよくなった」ということが起きたのです。どこでどうやって罪が赦されたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の罪に対する神の罰を全部引き受けて下さったことによります。その時、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。イエス様が自分の命を身代金として支払って、人間を罪の支配下から解放して下さったのです。これにあわせて旧約聖書の預言が次々に明らかになりました。例えば、イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことを指すものでした。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節) 

 イエス様の十字架の死と死からの復活というのは、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、私たち人間すべての罪の償いを神に対して成し遂げたという、犠牲の業でした。加えて、罪の償いをしてもらった私たち人間が、この世のあらゆる悪と誘惑を踏み越えて常に神のもとに向かって進んでいけるようになれるための贖いの業だったのです。実にイエス様の神聖なエルサレム入城は、この犠牲と贖いの上に成り立つ人間の救いが真の目的だったのです。この世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことだったのです。まず、神がイエス様を用いて実現した救いに出来るだけ多くの人が与れるようにしなければならない。しかし、それはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出す。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進み、最終的にはこの世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が生じて今見えるものは全て崩れ落ちて、唯一崩れ落ちないものとして神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まる(ヘブライ12章26-29節)。このように神の国の構成員となるのは、もはやユダヤ民族というより、イエス様を救い主と信じた人たちということになります。イザヤ書2章にあるような、諸国民が天地創造の神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるというのは、もはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。このように、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものだったのです。それが神の意図でした。これを明らかにしたのがイエス様でした。神のひとり子であるがゆえに、神の意図を明らかにすることができたのです。

5.

 以上から、天地創造の神の意志と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様がロバにまたがってエルサレムに入城したことが明らかになりました。そしてその大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約聖書の理解を超えた形で展開しました。しかし、旧約を全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事であったとわかるのです。

さて、今私たちが生きているこの時代、イエス様の最初の降臨と次の再臨の間の時代は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを、一方では受け入れて自分のものにした人たち、他方ではまだ受け取っていない人たちに二分する時代であります。しかし、罪の赦しの救いは全ての人間のために実現されたものである以上、全ての人がその所有者になってほしいというのが神の御心です。それゆえ、兄弟姉妹の皆さん、それを先に受け取った私たちキリスト信仰者は、まだ受け取ってない人たちが受け取ることが出来るよう、絶えず祈り、機会を見いだしては働きかけていかなければなりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

11月の「スオミ教会手芸クラブ」のご報告

 クリスマスの飾りが、楽しい気分を添えてくれる、静かな平日の教会で、麦のストローオーナメントを作りました。

最初に吉村先生のお祈りからスタートです。

ストローをお湯に浸し、ハサミで切り、アイロンをかけて、、、。

細いストローが丸く輪になり、
可愛いいビーズを通したり、バランスを考えりと、作業は進み、
可愛いいオーナメントは完成しました。

クリスマスのお話を聞きながら、
のんびり楽しい手芸クラブは終了しました。

手芸クラブは、毎月1回、平日の午前中開催します。

小さなお子さんと一緒の参加も、大歓迎です。

皆様のご参加をお待ちしています。

オーナメント、クリスマス

待降節「アドベント」のお話、手芸クラブ2016年11月

この前の日曜日、アドベントの期間に入りました。キリスト教会では、クリスマスの前の4週間をアドベントと呼びます。アドベントの意味は、クリスマスを迎える準備をする期間です。日本語では待降節と言います。フィンランドではクリスマスは、一年で最も暗い季節における光と温かさのお祝いです。フィンランド人は、アドベントになるとクリスマスの準備で忙しくなります。子供たちは毎日、アドベントカレンダーの窓を一つずつ開けて、わくわくしながらクリスマスを待ちます。

クリスマスの準備にすることは、クリスマスカードを送ること、家の大掃除、クリスマス料理を作ることがあります。それぞれの家族にあるクリスマスの伝統は子供たちに伝わっていきます。クリスマス料理を子供たちと一緒に作ったら、家族の味は世代から世代へと伝わっていきます。子供たちはお母さんが作ったクリスマス料理の味を覚えて、同じように作りたいと思うからです。

もう一つとても大切な準備があります。それは、クリスマスを迎えるための心の準備ということです。それはどんな準備でしょうか?それは、アドベントの期間に教会の礼拝に参加したり、聖書を読んだりして、クリスマスの意味を考えることです。フィンランドでは毎年アドベントになると「美しいクリスマスの歌kauneimmat joululaulut」という行事がどの教会でも行われます。この行事は、教会が一杯になるくらいに人が多く集まるので、とても人気があります。そこで何をするかというと、集まった人たちが皆一緒にクリスマスの歌を沢山歌います。歌うことを通してクリスマスの本当の意味を心の中でかみしめます。

人々は、アドベントの期間に様々な準備をして、自分でクリスマスの雰囲気を作ります。例えば、クリスマスの料理やお菓子をつくること、クリスマス音楽を沢山聴くことがそうです。しかしながら、クリスマスは本当は雰囲気のことではありません。クリスマスの本当のメッセージがクリスマスをつくるのです。クリスマスのメッセージとは、一番最初のクリスマスの日の真夜中に、野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れて言った言葉です。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この一番最初のクリスマスの時、この世に救い主がお生まれになりました。救い主イエス様は私たち一人一人のためにお生まれになったということが、聖書の「ヨハネの手紙一 4章」の中で次のように言われています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

私たち人間に対する神様の愛は、私たちに喜びと感謝と賛美の気持ちを与えてくれます。クリスマスは、本当に喜びと感謝のお祝いです。クリスマスのメッセージは、クリスマスが終わったら終わってしまうものではありません。その後も、毎日ずっと私たちに喜びや生きる力を与えてくれます。

聖書研究会:詩篇42篇2節、吉村博明 宣教師

昼食の後、子供たちは隣室の教会学校へ、私たち大人は吉村先生の聖書研究会に出席しました。先生は先日の神学校で礼拝説教をされたレジメを参考に詩篇42篇2節を解説してくださいました。たいへん興味深い内容でしたので先生の承諾を得てここに掲載いたします。

主日礼拝説教 2016年11月15日 日本福音ルーテル神学校

説教題 「AD FONTES ‐ 源へ」、詩篇42篇2節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
日本福音ルーテル神学校の神学生及びルーテル学院大学の学生の皆様

1.

 詩篇42篇2節の日本語訳は「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める」です。ヘブライ語の原文でאפיקというのは、辞書(HolladyのConcise使用)によると、「谷の底をかろうじて流れる水路のような小川」です。英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書ですと、「谷底」がなくて単なる「小川」とか「水流」です。日本語訳の方が、本当に周囲が死に枯れたような乾燥地帯で鹿が水を求めて必死に谷を下りて行く情景が目に浮かびます。

この詩篇の箇所は、ギリシャ語訳のセプトゥアギンタやラテン語訳のブルガータを見ると、ちょっと違っていて、鹿が求めるのは「谷底の水流」ではなくて、「水の源」すなわち「水源」です(ギリシャ語τας πηγας των υδατων、ラテン語ad fontes aquarum)。喉が渇いた鹿は、ただ水が飲めればいいわけですので川岸に着けば事足ります。なにも川岸を辿ってわざわざ水源まで行く必要はありません。それなのに、ギリシャ語に訳した人たちは、「水源」を選んで、ラテン語に訳した人もそれに倣ったのです。単に肉体的な渇きを癒すことが目的ではなくなりました。同じ節の後半で、私の魂は神を求める、とあるので、それで霊的な渇きを癒すためには、水そのものでは不十分で源にまで行かなければならない、と考えられたのは明らかです。

ところで、マゾレットのヘブライ語の言葉がもともとあった意味だったのか?それともセプトゥアギンタの言葉がもともとの意味だったのか?どっちが先か?これは皆さんもご存知のように、いわゆる「本文研究」の領域です。旧約聖書のそれは死海文書の扱いも入って来るので、新約聖書よりもとてもやっかいな問題をはらんでいます。加えて、マゾレットのテキストがもともとの旧約聖書の形なのか、とか、今手にすることができるセプトァギンタのテキストがもともとの形を反映しているのか、という問題もあります。考えるだけで気が遠くなりそうなことです。本説教ではそういったことには全く立ち入らずに、頭からマゾレットがもともとの意味で、セプトゥアギンタは後でそれを解釈して今あるような訳をして、それをブルガータが受け継いだ、ということを前提にして話しを進めてまいります。

2.

 旧約聖書がどのように成立したかを見ると、当時のユダヤ人というのは、実に「源にもどる」という姿勢が強かったと言えます。第二神殿期のユダヤ教社会では、天地創造の神の信仰を表す書物が無数に現れました。その中で、ある書物については、その権威は疑いようがないと見なされて、選別されて旧約聖書に収まって行きました。セプトゥアギンタには、マゾレットのテキストにない書物も含まれていますが、それらの、いわゆる外典アポクリュファに属する書物もユダヤ教社会のある時代のある部分では権威的な書物とみなされたわけです。

 それでは、何の書物が聖書に入れてもいいくらいに権威がある書物で、ある書物はそうみなされなかったのか?みなされなかった書物には、モーセやエノクのような名を冠した書物や旧約の人物が登場する書物が多数あります。本説教の関連で言いますと、こういうことです。ある書物が別の書物を引用していると、引用された方がもとにあるので権威があるとみなされるということがありました。もちろん、旧約聖書の書物同士の間でも互いに引用し合っていることが多くあります。それでも、創世記5章に登場するエノクの名を冠している書物が、例えばイザヤ書とかダニエル書を引用していれば、ああ、これはエノクの時代に出来た書物ではない、と誰でもわかるのであります。

 このように、書物が書かれた時代ということに矛盾がなく、後の時代に引用される頻度が高いと権威ある書物とみなされるのです。そのように、権威ある書物を確定する姿勢は、極めて「源に遡る」ものであったと言えます。

 新約聖書でも同じことが言えます。ここでは、パウロも含めた使徒の信仰の伝統が権威になります。使徒教父たちの文書は、福音書や使徒書簡を豊富に引用しています。それらの文書は新約聖書に入れる必要はなかったのです。ところで、新約聖書に収められている書物の他に、トマスやペテロやマリアの名を冠した福音書があります。数年前にはユダの名を冠する福音書が発見されて、話題になりました。しかし、それらは使徒の信仰の伝統から外れる思想を代表していると見なされたので、聖書に入れなかったのでした。それらは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書同様、イエス様の言行録を含んではいますが、4つを材料にしつつ、使徒の信仰とは別種の信仰でイエス様の言行録を塗り替えたものだったのです。

 このように、新約聖書の成立に携わった人たちの姿勢は、使徒の信仰の伝統を権威の源にして、無数の書物やいろんな思潮が溢れるジャングルの中を源に向かって遡って行ったのでした。こうして見ると、世界のいろんな宗教は逆の流れを行っているように思えます。例えば、イスラム教は旧約聖書と新約聖書に依拠していると言われますが、イエス様の役割は全く別のものに変えられています。イスラム教に限らず一般には、古いものを新しいものに塗り替えた方が、古いものよりも進歩して優れた感じを持たれるのではないかと思います。でも、それは源に遡るということでなく、源からどんどん離れて行くことで、それは旧約聖書や新約聖書の根本にある姿勢とは相いれないのです。

 3.

 実はルターの宗教改革にも「源に遡る」という側面があることに注意しなければなりません。「宗教改革」は英語、ドイツ語、スカンジナヴィアの言語ではみな同じ言い方をします。Reformationです。フィンランド語では一風変わっていてuskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方がされます。Reformationという言葉をみてみますと、formation「形作ること、形成すること」に「し直す」の意味を持つreがつきます。「形作り直すこと、形成し直すこと」です。

 それではキリスト教の何をどう形作り直す、形成し直すのかというと、以下のようなことです。カトリック教会はもともとは使徒の信仰の伝統を守り受け継ぐ教会として出発しました。ところが時代の変遷と共に聖書に基づくとは言えない制度や慣行も生み出されて、それが権威ある伝統と化していき、贖宥状はその最たるものでした。ルターが行おうとした改革運動は、そういう聖書に基づかずに人間が編み出したものを捨てて、ただ神の御言葉である聖書のみに権威を認めて、その下に教会を成り立たせようとするものでした。これがキリスト教とその教会を形作り直す、形成し直す、ということです。フィンランド語で宗教改革を「信仰浄化」というのは、まさに神の御言葉にのみ権威を認めて、聖書に基づかずに人間が編み出したものを捨てていくという面を前面に出していると言えます。

一般には「改革」という言葉は、過去の古いものをやめて新しいものにとって替えて時代の要請に応えられるようにするという理解がされると思います。日本語で行政「改革」とか教育制度「改革」という時、それを英語に直すとreformを使います。そういう政治的社会的な「改革」は、reformationを使わずにreformを使うのです。ところが宗教「改革」はreformではなく、reformationです。注意が必要です。(徳善先生のルターの本では、reformとreformationの違いを説明するとき、建物や家の改築を引き合いにだしていますが、昔社会科学を学んだ私としては、政治的社会的な改革との比較で見た方がしっくりします。)そういうわけで、日本語で同じ「改革」という言葉を使うからと言って、政治的社会的な改革と宗教改革を同じように考えてはいけないと思います。ルターの行った宗教改革とは、ただ単に過去の古いものをやめて新しくして時代の要請に応えたというような改革ではなかったのです。

前述しましたように、ルターの場合は、まず聖書という過去に成立した根源的な権威に立ち返り、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていく、そのようにして聖書の権威に立ち返ろうとする時にそれを邪魔するものを打ち破っていく、その結果として時代の行き詰まり状況を打ち破って新しい地平線が開けた、これがルターの改革の本質ではないかと思います。このように宗教改革は「改革」とは言いつつも、根源的な権威に立ち返るという方向性があります。ルターは聖書を研究する際には新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はヘブライ語の旧約聖書を用いましたが、根源的な権威に立ち返ろうとすれば原語にあたろうとするのは当然のことでしょう。

そういうわけで、もしキリスト教会が人間の編み出したものに縛られ出した時には、使徒の信仰の伝統を守りギリシャ語とヘブライ語の聖書に依拠する者は宗教改革を起こせる可能性を持っていると言うことができます。ただ原語が堪能なだけでも不十分です。エラスムスもギリシャ語がよくできました。原語の能力に加えて、使徒の信仰の伝統を受け継ぐという姿勢がなければなりません。加えて、過去の権威に遡るというのは、単純に2000年前の言い回しをすればすむということでもありません。2000年の間に人類が蓄積してきた有形無形のものに立ち向かい、相手が何者であるか知りながら、行く手を阻むものを一つ一つ打ち倒して源に向かって進まなければなりません。ルターだって、単純に一足飛びに使徒の時代に戻ったのではありません。1500年の間の蓄積に立ち向かい、実在論と唯名論の問題を自覚し、エラスムスの人文主義と対決し、キリスト教神学からアリストテレス哲学の縛りを解き放つことをしながら、使徒の信仰の伝統を彼の時代に蘇らせたのです。

最後に、Ecclesia semper reformanda estというスローガンがあります。K.バルトの言葉らしいのですが、教会は絶えず改革されるべきものである、という意味です。その「改革」が意味するものは、以上申し上げたことを念頭に置いて、ルター派としては、政治的社会的な改革と一線を画することをわきまえなければなりません。従って、ルター派としてはこのスローガンは、「教会は絶えず宗教改革的に改革されるべきものである」と銘記すべきです。これからのルター派教会を担う皆さんが、このような仕方で宗教改革を担えるよう願ってやみません。皆さんの学びと研鑽と日々の信仰生活の上に父なるみ神から豊かな祝福と良い導きがありますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「終わりの時を知り、今を豊かに生きる者」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書21章5-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来て、使徒信条や二ケア信条にあるように、「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時に、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。主の再臨の日つまりこの世の終わりの日、最後の審判と死者の復活が起こる日、これがいつであるかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないので、誰もわかりません。そのため、イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚まして祈りなさいと教えられるのです(34~38節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分はその時、神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の信仰生活を振り返る趣旨の日です。本説教も、そうした趣旨で行っていこうと思います。

 

2.

 本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。この預言の内容は少々複雑です。というのも、イエス様の十字架と復活の後に今のパレスチナの地を中心にして起きる直近の出来事の預言と、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事の預言の二つの異なる預言が入り交ざっているからです。つまり、一方では、私たちから見たらもう既に過去のことになった出来事が起きる前に預言されている。他方で、私たちから見たらこれから起きる出来事の預言が入っています。

 この複雑なイエス様の預言を解きほぐしていきましょう。まず、イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れ、人々を誤った道に導くことが起きるので、彼らに惑わされてはならない、つき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように、人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異(ακαταστασιας)を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。そういうわけで偽救世主は、8節で言われるように、世の終わりの「時」(ο καιρος)が近づいたなどと不安を煽る。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかということを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こることではあるけれども、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わり(το τελος)になるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に不安に陥る必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。

その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、王国と王国つまり国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。これは彗星や隕石の落下を意味するのでしょうか?イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者はおびえる必要はない、そう言われるのです。

ここまで見ると、イエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、このように答えたので、こうした偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が破壊の前兆のように聞こえます。ところが、12節を見ると、「これらのことが起きる前に(προ τουτων παντων)」迫害が起きるということを述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害について言うと、権力者によって信仰者が連行されて、自分の信仰について申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者からくるものならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は救い主です」と、その名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、お前たちの髪の毛一本たりとも神の手から失われることはないということ。信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている。神はお前たちから一寸たりとも目を離すことはなく、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりなのだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。まさに試練の中での忍耐を通して、お前たちは神の御許で過ごせる永遠の命を勝ち取ることができるのだ(19節)。

順番から言うと、迫害が起こって、偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。20節からは、質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここで注意しなければならないことがあります。迫害が起きて、混乱と天変地異があって、エルサレムと神殿破壊が起こって、これで全てが完結したわけではありません。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起きると言っています。イエス様の主眼は、質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。つまり、これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起きるが、その後にも起きるということです。

そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく悩み苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨するのです。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言を念頭に置いています。天体の大変動が起きる時、今ある天と地が新しいものにとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の御国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26~28節に預言されています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

 ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言っています。それは、イエス様を救い主と信じる者からすれば、この世の終わりというのは、迫害や苦難・困難に満ちた今の世から、「死も嘆きも悲しみも労苦もない、全ての涙を拭われる」(黙示録21章4節)、そういう神の御国へ移行する段階にすぎないからです。

 

3.

 さて、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊からもう1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽救世主は歴史上枚挙にいとまがありません。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。もちろん、現代の世界でも国や地域によっては続いています。歴史上、そういうことが多く起きたり、また重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということがたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。皆さんもご存知のように、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、膨張を少しでも始めたら、地球への影響は甚大です。それが何年後かはわかりませんが、ここで仮に10億年後とします。それ以外に地球に甚大な影響を及ぼす天体の異変がないと仮定すると、地球は10億年は大丈夫ということになります。これは本当に仮定の仮定の話ですが、何故こんなことを言うのかというと、天の父なるみ神がせっかく10億年大丈夫なようにしてくれているのに、人間の方で自分たちをもっと早く破滅させてしまう可能性があるからです。核兵器やいろんな環境破壊それに原子力や遺伝子操作やクローン技術とか、しっかりコントロールできるのでしょうか?せっかく神から可能性を与えられているのに、もったいないと言うか愚かと言うか、人間は天地創造の神の御心をもっと知るべきだと思います。

話しが横道に逸れてしまいましたが、今ある天と地が永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるかというと、それは万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。

聖書の立場をもう少し詳しく言うと、今ある天と地はいつか新しいものにとってかわられる、その時、死者の復活や最後の審判が起こって、創造主の神に義(よし)と認められた者は新しい天と地に現れる神の御国に迎え入れられる、というものです。それがいつ起こるかについては、もし太陽の寿命が関係することだったら10億年とかそんな後になりますが、もし、その前にまだ解明されていない天体の大変動があれば、もっと早まることになります。そんな気の遠くなるような話をされたら、そうしたことは、まず自分の存命中には起こらないだろう、という気持ちになります。そうなると、自分はこうしたことが起こる前にこの世を去ることになる。その場合は、復活の日まではどこか神のみぞ知る場所で安らかに眠り、その日が来たら目覚めさせられて、神の御国に迎え入れられるかどうか判断を仰ぐことになります。

 そのように、聖書の立場に立ちますと、世の終わりというものがたとえ遠い将来のことで、この私がこの世を去ったずっと後に起きることであっても、それはどっちみち私に関係してくる、私はそれから逃げられないということになります。

 そこで、聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるでしょうか?少し考えてみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなる、と思われるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないと、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもないので全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活というのも、せっかく復活しても居場所がないわけですから、起こらないことになります。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになってしまいます。

ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので(第一コリント15章35~49節)、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分がずっと続いていくことがわかります。

 

4.

 ここで問題になってくるのは、この世の終わりの日、死者の復活と最後の審判が起こる日、自分は果たしてそのような復活の体を着せられて、新しい天と地のもとに現れる神の御国に迎え入れられるかどうか、そのような者としてこの自分は続いていけるのかどうか、ということです。結論から言えば、神は人間が誰でも御国に迎え入れられるようにしてあげようと、いろいろ手筈を整えてくれました。そこで神は、人間の方でそのことをわかってくれて、整えてあげたことを受け入れてほしい、そう望んでいるのです。この、神が望まれていることをすれば、人間は神の御国に迎え入れられる。それでは、神に手筈を整えてもらわないと人間は御国に迎え入れられないというのは、何か人間に不備があるということなのか?その、神が整えた手筈とは何か?それを人間が受け入れるとはどんなことか?聖書に従えば以下のようなことです。

人間はもともと造られた当初は神のもとで何も問題なく暮らしていました。ところが創世記3章の堕罪の出来事に示されるように、最初の人間が神ではなく悪魔の言うことを聞いてしまい、神に対して不従順になって罪に陥ったために神との関係が壊れてしまいました。人間は神のもとで暮らすことができなくなり、死ぬ存在となって、神のもとから離れなければならなくなってしまいました。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできてしまったのです。しかし、神の方では、人間との関係を回復させて、人間がまた自分のもとで暮らせるようにしてあげようとして、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神はイエス様にゴルゴタの丘の十字架で全ての人間の罪の罰を受けさせて、人間にかわって罪の償いをさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間に開かれました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様の犠牲の上に成り立つ罪の赦しが名実と共にその人の赦しになるのです。

このようにして神から罪を赦された者は、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めることとなります。万が一、この世から死ぬことになっても、罪の赦しに基づく神との結びつきがあるので、御手を差し出して御許に引き上げて下さる神に信頼して全身全霊を委ねることができます。また万が一、罪に陥ることがあっても、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、神さま、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と赦しを乞えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはならない、と言って赦して下さるのです。その時、自分の命が尊い犠牲の上にあることが改めてわかり、軽々しいことはできなくなります。本日の旧約の日課イザヤ書52章の3節で「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」という神の言葉がありました。「ただ同然で売られたあなたたち」というのは、原文のヘブライ語(נמכרתם)では「あなたたちは自分自身を売り渡した」という意味も持ちます。人間が最初の人間の堕罪以来、悪魔に売り渡されて罪の支配下にあることを意味します。「銀によらず買い戻される」は直訳すると「あなたたちは銀(すなわち金銭)によっては買い戻されない」です。それでは、何によって誰に買い戻されるのか、というと、それは、神のひとり子の尊い血によって神に買い戻される、ということです。人間は、それ位自分の命が尊い犠牲の上に成り立っていることに気づくべきなのです。

 この世の終りとか、死のことを考えるのは、気持ちを暗くしてしまうもので、あまりいいことではないと思われるかもしれません。キリスト教の説教だから、もっと希望を与えるような明るい話を盛りだくさんにすべきだと言われてしまうかもしれません。果たしてそうでしょうか?エンディングノートを書いた人が、毎日をそれこそ与えられた貴重な時間と捉えるようになって、自覚的に生きるようになった、ということを聞いたことがあります。また、延命治療や高額医療の是非をめぐる議論で、あるホスピスケア専門家が、「人生の終りを見定めてから逆算して考えることも大切です。死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる」とおっしゃっていました(朝日新聞9月10日「耕論-命の値段」での田村恵子京都大学大学院教授の発言から)。聖書というのは、読めば読むほど同じような視点に人を導いていくと私は思います。しかし、聖書の場合は、エンディングノートや延命治療の議論とは違って、死んだ後どうなるかということにも立ち入るので、「生きる感覚の高まり」方が別次元のものになっていくのではないかと思います。例として、ルターのリンゴの木の話をあげることができます。これはルター本人が言ったかどうか確定していないということなのですが、でもルターらしい発言だというのは誰しもが認めることです。ある人がルターに「先生、明日、世界の滅亡がやってくるとしたら今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えは「リンゴの木を植えて育て始める」というものでした。

天地創造の神が私たちのためにひとり子を送って下さった。そのイエス様がこの私のために十字架の死を遂げられ、神の力で死から復活させられた。- このことを知り、イエス様を救い主と信じる者は、自分の行うことはどんな小さなものでも神の栄光を周りに伝える役割を果たすものという自覚があります。だから、行うことが終わりによって中断されても、中断されるまで行っていることは神の栄光を伝える役割を果たしているので、神から見て意味のあることをしているとわかるのであります。本日の使徒書の日課第一コリント15章の58節で聖霊がパウロに働いて語らせる言葉は真理です。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨最終主日の聖書日課、ルカ21章5-19節、 イザヤ52章1-6節、Iコリント15章54-58節