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12/12のフィンランド家庭料理クラブの報告

穏やかな冬の日が差し込む牧師館で、今年最後の「家庭料理クラブ」を開きました。

ケーキ、フィンランド最初にお祈りをしてスタートです、
今回はクリスマスの食卓を彩る「ターテリカック」を作りました。

煮込んだ干しナツメヤシ(デェーツ)をたっぷり入れたターテリカックは、
黒い焼き上がりと、しっとりした生地の味わい深いケーキです。

焼き上がりのケーキにナイフを入れると、湯気と香ばしい香りに、ターテリカック、フィンランド、ケーキ歓声が上がり、
試食会は、グロッギと軽いスナックを添えてピックヨウルになりました。

パイヴィ先生からは、
フィンランドのクリスマスの特色の一つ、
クリスマスイヴにトゥルク市の広場で、中世から続いている、「クリスマスの平和宣言
」が正午に発せられ、
店やレストランは閉まり、国中が静まり、イヴとクリスマスは多くの人々が家族と過ごし、
静かな平和な雰囲気に包まれる、そんなお話を聞かせて頂きました。

 

今年も「スオミ家庭料理クラブ」に、多くの方にご参加いただけた事、感謝しています。
2016年も美味しいフィンランドを紹介していきたいと思います。

Hyvää Joulua!
皆さま、よいクリスマスをお迎え下さい。

西尾 ひろ子

説教「救い主を待ち望む者の心得」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書3章1-6節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 先週の主日に本年の待降節が始まり、本日はその二回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美を捧げながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節や降誕祭は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2000年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待ち望む心を活性化させる期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるように生きていかねばなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、今のこの世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心をしっかり持ち、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場とか境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるために、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、そうする。解決が必要な問題は解決に向けて努力する。こうした世話や改善や解決をしていく際の判断の基準として、キリスト信仰者は、まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、この神への全身全霊の愛に基づいて、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらやっているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な者ではありません。

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。主を待ち望む者が心得るべきものとは、簡単に言えば、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言うことです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに」なるくらいに道を整える。そうすれば「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」ことになるのです。このように言うと、一つ疑問が起こります。あれ、この「主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ」というのは、救い主イエス様の最初の到来を待ち望んでいた人たちに対して言われていたことではなかったか、第二の到来を待つ私たちにも関係するのか、という疑問です。それが実は関係するのです。もちろん、最初の到来を待ち望んでいた人たちには、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。私たちにはそれらは既に起きています。そういう違いはあります。それでも、主を待ち望む者がすべきこととして道の整えはあります。それでは、主の道の整え、その道筋をまっすぐにするというのは、具体的に何をすることなのか?このことについて、以下みていくことといたします。

 

2.主の道の整えよ - 十字架と復活の出来事の前の時代

初めにイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の人たちにとっての「主の道の整え」について見ていきましょう。

その時、洗礼者ヨハネが救い主に先だって登場しました。彼が宣べ伝えたことは、「悔い改めの洗礼」でした。新共同訳では「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ギリシャ語の原文は、もちろん、そのように訳すことができます。しかし、ヨハネの洗礼が罪の赦しを得させた、という理解には留保をつけましょう。なぜなら、神が与えるものとしての罪の赦しは、イエス様が十字架で死なれた時にはじめて実現したからです。それで、ヨハネの洗礼がすでに罪の赦しを与えたような表現は避けた方がよいでしょう。それでは、ヨハネの洗礼はどう理解したらよいでしょうか?

洗礼者ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」とも言われています。「悔い改め」と言うと、何か悪いことや落ち度のあることをして悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に頻繁に出てくる言葉、「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞シューブשובと結びつけて考えられるようになりました。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで神に背を向けて生きていたことを改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、というように意味が限定されていったのです。そういうわけで、「悔い改めの洗礼」とは、「神のもとに立ち返る洗礼」という意味になるのです。

この「神のもとに立ち返る洗礼」は、当時のユダヤ教の考え方からすれば、画期的だったと思われます。当時のユダヤ教にも水を用いた清めの儀式がありました。しかし、同じ水を用いた儀式でも、ヨハネの洗礼は全く次元の異なるものでした。皆様も覚えていらっしゃると思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との有名な論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争です。ファリサイ派が重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清めがありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。

ところがイエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので、神の意思の実現・体現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。

洗礼者ヨハネが「罪の赦しに導くための、神のもとに立ち返る洗礼」を宣べ伝えた時、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。つまり、神が与えるものとしての「罪の赦し」はまだ実現していません。ヨハネが人々を自分の洗礼に呼びかけたというのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。

このように洗礼者ヨハネは、人間の造った掟や儀式で汚れがなくなると信じること自体から清められよ、そうすることが神の整える救いを全身全霊で受け取ることができるために必要なことだ、と教えるのであります。それができると、あとは神からの救いがスムーズに入ってくる。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのです。人間の掟で汚れが無くなると言うなら、もう神が整えた救いはいらなくなってしまいます。神が整えた救いがやってくることの障害になってしまいます。道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。

 そういうわけで、ヨハネの洗礼は人間の心をもうすぐ現れるイエス様に向けさせるものでした。単なる清めの儀式にはイエス様との関連は何もありません。

 

3.イエス様の十字架と復活がもたらしたもの

さて、イエス様の十字架と復活の出来事は起きました。それでは、罪の赦しはどのように得ることができるでしょうか?洗礼者ヨハネの時のように、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということはまだ必要なのでしょうか?それは、ヨハネの時は違う仕方ですが、必要なのです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、神や彼が送られる救い主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。もちろん、神は、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは神に障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神はそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを、私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?そもそも、私たちは、神の近づきがとても良いものであるとわからなければ、何が障害になっているかとか、それをいかに取り除くことができるかということには興味を持とうとはしないでしょう。そういうわけで、最初に、神が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが素晴らしいことなのか、ということについて考えてみなければなりません。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在だったのです。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです(6章23節)。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。こうして、人間は、神との最初にあった結びつきを失ってしまいました。

 これに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。

 神が人間の救いのためにイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間は自分の力で罪と不従順を心身から除去することができない。それが出来ない以上、人間は罪の呪いの力の下に留まるしかない。そこで神は、人間の全ての罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせる。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。それだけで終わりませんでした。神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開いたのです。これが、天地創造の神による人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで、その彼を通して、私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復できて、再び永遠の命を持つことができるためでした。このことは、ヨハネ福音書3章16節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

4.主の道を整えよ - 十字架と復活の出来事の後の時代 - 洗礼への道

それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪が他の人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩に、頭に、全身に、私の罪がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまで歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それは、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた全人類の創造主である神の計らいだったのだということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、明瞭に私たちの目の前に私たちの救い主として立ち現われてくるのです。

 イエス様が私たちの救い主として立ち現われたというのは、それはもう彼を自分の救い主と信じることです。人間は、イエス様を自分の唯一の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。神は、お前は私がお前に送ったイエスをやっと救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう、と言ってくれるのです。私たち人間はまだ肉を纏っている以上は、罪と不従順を内に宿しています。しかし、神は、それが理由で神との結びつきを認めない、とは言われません。イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、罪の支配力がその人に対して無力になり、罪の呪いが消えたということです。人間は、罪の赦しを得ることで神との結びつきを回復できるのです。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、支配力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ勢力を保っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び人間を罪の支配下に置いて、神との結びつきを失わせようとします。これが悪魔の仕事なのです。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることができますが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。私たちに残存する罪や悪魔だけでなく、私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も、私たちには救い主がいることを忘れさせようとします。そのような困難の真っ只中にあっても、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり答えられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8章38-39節)

 

5.主の道を整えよ - 十字架と復活の出来事の後の時代 - 洗礼の後

以上から、私たちが神と救い主の近づきを受け入れるためには、イエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることであることがわかりました。これがイエス様の十字架と復活の後の時代を生きる私たちにとって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことであります。

 ところが、この道の整え、道筋をまっすぐにすることは、信じて洗礼を受けて終わりません。自分を造ってくれた神が、意にそぐわなかった自分を御子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということがわかって、神への感謝に満たされて、これからは神の御心と意思に沿う生き方をしよう、沿う考え方をしよう、と志すにもかかわらず、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。しかし、忘れてはならないことは、告白に続く罪の赦しの宣言が「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」という確証を与えくれることです。主の道を整えるとは、このように、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。

ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて神の愛から切り離そうとします。そうしたことを相手に苦しい戦いを強いられることが何度も何度も繰り返されます。しかし、神の意思に反することを体現しているものは、恐るべきものではありません。本当に恐れるべきものは、人間を造り、一人一人の髪の毛の数まで数えておられ、肉体だけでなく魂も滅ぼすことが出来る神であります。その神が大きな愛を示して私たちにイエス様を送って下さいました。イエス様は、十字架の死と死からの復活を成し遂げられることで、罪と死と悪魔が私たちを服従させようとする力を無にして下さいました。そのイエス様が、マタイ福音書28章20節で、信じる者たちと毎日、世の終わりまで共にいる、と約束されました。なにをか恐れじです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


主日礼拝説教 待降節第2主日
2015年12月6日の聖書日課  ルカ3章1-6節、マラキ3章1-3節、フィリピ1章11

説教「あなたの王がやってくる」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章28-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて下さり、皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みの上に神が豊かな祝福を与えて下さいますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書の箇所が読まれる際に群衆の歓呼のところまでくると、そこで朗読はいったん止まります。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。先ほどこの礼拝の初めに歌った歌です。フィンランドやスウェーデンでは実に讃美歌集の一番の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。

 

2.ルカの観点

 ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、本日読まれたルカ福音書の中には「ホサナ」の言葉がありませんでした。マルコ11章、マタイ21章、ヨハネ12章に同じ出来事の記述がありますが、それらには群衆の歓呼には「ホサナ」があります。「ホサナ」というのは、アラム語の言葉で、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語と言うのは旧約聖書の言葉で、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になったわけです。この言葉は今見たように、もともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味がありました。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。さて、ルカ以外の福音書では、群衆はこの歓呼の言葉を叫んでいますが、ルカにはありません。どうしてでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?

 この問題は4つの福音書がどのようにして出来上がったかというとても大きな問題に関わるので、ここではそれには立ち入らないで、「ホサナ」がルカ福音書にないことをどう考えたらよいかについて述べておくだけにします。ルカ福音書の1章を見ますと、この福音書がどのようにして出来たかが言われています。福音書記者の手元に資料が山ほどある。まずイエス様の出来事の直接の目撃者の証言。次にその証言を聞いてイエス様を救い主と信じた人たちが聞いたことを口伝えに伝えた事柄。さらに、そうした人たちが記録として書き留めた事柄等々です。ルカ福音書は、それらの資料を編集して出来たというのであります。福音書の記者自身もイエス様を救い主と信じる人です。だから、受け取った資料は慎重に扱わなければならない。しかしながら、資料には重複があったり、同じ出来事を扱っても詳細が一致しないものもある。そういう時、優れた編集者は手元の資料を単に無修正でつなぎ合わせることはしません。自分の観点から取捨選択をして一つスムーズにまとまった全体をつくりだそうとします。ルカの観点は言うまでもなく、イエス様は神の子で旧約聖書に約束された全人類の救い主であるという信仰です。これが彼の観点です。その観点から見て、瑣末と思われることは背景に追いやられたり省略されたりしたでしょう。逆に重要と思われることは、表面に出されたり強調されたりしたでしょう。このようなことがあるので、4つの福音書の中で同じ出来事を扱っていても細かい点で違いは出てくるのは当然なことなのです。

ここで忘れてはならないとても大事なことがあります。それは、同じ出来事を扱って細かい点が違っているというのは、実は大元にある出来事の信ぴょう性を高めるということです。十字架の出来事にしろ、復活の出来事にしろ、大元にある出来事がまず直接の目撃者によって目撃される。これが動かせない事実としてある。それが口伝えに伝えられ、書き留められ、まとめられていく。その過程で、大元は核としてそのまま残り続けるが、周りの細かい点で違いが生じてくるというだけにすぎないのです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、福音書に記された事柄、イエス様の教え、業、彼に起きた出来事の全てを、昔の人の空想か作り話などと言って軽々しく扱わないように注意しましょう。イエス様の出来事の直接の目撃者である使徒たちは、権力者側からイエスの名を広めたら命はないぞと脅され警告されたにもかかわらず、広めて行ったのです。自分たちの目で見て耳で聞いた驚くべきことを黙っているわけにはいかなかったのです。それくらい見聞きしたことは驚くべきことだったのです。そういうわけで、福音書の土台にあるものは実は、使徒たちの命を賭した証言集なのです。

大元にあるものは動かせない事実としてあるが、それを4つの福音書が4つの観点から記述している。それゆえ、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるためには4つの福音書全てをしっかりみないといけないのです。ある福音書を読んだら、あとは適当でいいということでは不十分なのです。(注)

ここで、ルカ福音書に「ホサナ」の歓呼の声がないことについてどう考えたらよいかということについてみてみましょう。ルカという福音書と使徒言行録の記者は、イエス様についてイスラエルの民の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それがあるので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界にとっての「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、先ほど申しましたようにイスラエルの民が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉です。それで、ルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する時、イエス様が神から祝福を受けて神の名において到来する王ということが読者に伝われば、それで十分、あえてイスラエルの民族性を出さなくても良いとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったと思いますが、彼らは伝えられた史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。

 

3.未完の預言

 いずれにしても、エルサレムに入城したイエス様は、群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちで凱旋したでしょう。ところが、この王は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。本当にこの光景、出来事は一体何なのでしょうか?

加えて、イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるようにと命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

実は、これはパロディーでもなんでもないのです。まことに真面目で神聖なことそのものなのです。昨年の説教の時にも申し上げたのですが、このことについて少し振り返ってみます。

 このイエス様の行為は、旧約聖書の預言書のひとつ、ゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという預言は、イザヤ書11章1-10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。今のこの世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがては今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完全な正義を実現するのがイエス様ということなのです。

そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の目からみた正義や公平について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。これらの預言は確かに成就されたとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、新しい天と地の世界はまだ起きなかったではないか?預言は完全には実現しなかったではないか?実はこれらの預言は、イエス様の再臨の時に実現するものなのです。まだ預言は未完なのです。イエス様が最初に来られた時、一部は実現しましたが、それは預言全体の実現が始ったということで、イエス様の再臨をもって全て完結するというものであります。最初に来られた時、イエス様は無数の奇跡の業を行いましたが、実はこれは害悪も危害もない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味があったのです。

 

4.イエス様は「王」

 ところでイエス様を歓呼で迎えた弟子たちや民衆は、実は神の大事業が全人類の救いに関わるとまでは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様はあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる王でしかありませんでした。旧約聖書の本当の意図することと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでしたが、それはいたしかたのないことでした。というのも、一方でバビロン捕囚後のユダヤ民族が辿った歴史があり、他方で旧約聖書にメシアについての預言があり、そうなると民族解放の願望がメシアに結びつけられてしまうのは容易なことでありました。メシアというのは実は、全人類を罪と死の支配から解放してくれる王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。

イエス様が全人類を罪と死の支配から解放してくれる王という時、それはどのようにして実現したのでしょうか?イエス様は、自分自身神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架にかけられて自分の命を捧げて、人間の罪を人間にかわって償いました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲の生け贄は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死んでくださったイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦される。神から罪の赦しを受けることで人間は、それまで罪のゆえに断ち切れていた神との結びつきを回復する。まさにこれで罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は無力化されたのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、永遠の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになりました。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に戻ることができるようになったのです。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた圧倒的な力を完膚なきまで無力化しました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。

そのような計り知れない権威と支配力を持つイエス様が王と呼ばれるのですが、現代ではこの呼び名は大丈夫でしょうか?民主主義が確立する前の歴史の段階では、王は国の実際の支配者でした。王冠をかぶって支配権を象徴する杖をもって王座に座っていました。そして、国の重要事項の決定は取り巻き連中に諮りながらも自分の責任で行い、戦争があれば軍隊の先頭に立って出陣しました。そういう時代であれば、イエス様は王と呼ぶのは、イエス様の権威を理解する上でよかったと思います。

しかしながら、民主主義が確立すると、君主制は廃止されるか、残っても実際の支配権は持たないというのがほとんどです。権力は、国民が選挙で選ぶ大統領に委ねられたり、または選挙で選ばれた国会や国会が選ぶ政府や首相に委ねられたりします。そういうところでは、王は国会の開会を宣言したり、国会が可決した法案に署名して法律の体裁を整えたりするなど、極めて形式的儀礼的な役割しか持っていません。それなら、イエス様を王と呼ばずに首相とか大統領と呼んだ方が実態に即しているでしょうか?

実は即していないのです。イエス様はやはり王と呼ぶのが相応しいのです。どうしてかというと、首相とか大統領は国民が選挙で選ぶものです。国民の多数の支持がなければ、選出されません。イエス様がメシア救世主というのは、彼が神のひとり子だからそうなのであり、選挙で選ばれたからではありません。イエス様がメシアでいられるために国民の多数の支持など必要ないのです。国民の多数が嫌いになろうが背を向けようが、イエス様が神のひとり子でメシアであるということには何の影響もないのです。

民主主義が確立する前の時代では民衆は王に「お仕えする」ということがありました。私たちが国会や政府や首相に「仕える」ということはありません。私たちがそれらの決めたことに従うのは、それらにお仕えするからではなく、それらは国民のためにいろいろなことを決めなさいと国民から選ばれたという建前があるからです。もちろん、そうした権力機関の決めたことが、果たして国民のためになっているのかどうか怪しいと多くの人が疑問視するようになると、この建前は機能が難しくなります。いずれにしても、この民主主義の時代に国民が「お仕えする」ような権威を設けることは難しいのではないかと思われます。それなのに、イエス様をいつまでも「王」と呼ぶのはどうしてなのでしょうか?

よく考えてみると、「お仕え」したのは私たちではなく、イエス様の方であったことに気づかされます。私たちを罪と死の支配から贖い出すために御自分の命を犠牲にされたのです。人間が受ける「お仕え」でこれ以上のものはあるでしょうか?大統領や首相や人間の王様のだれも、人間を罪と死の支配から贖い出すことなど出来ません。また、国民の福利厚生のために自分の命を犠牲にするということもまずありえないでしょう。とにかく私たちは、それくらいの「お仕え」をイエス様にしていただいたことがわかれば、私たちが王であるイエス様に対して行う「お仕え」というのも、怠けるのも恥ずかしいくらい取るに足らないものであることがわかるでしょう。私たちの「お仕え」は何かと言うと、イエス様によって罪と死の支配から贖い出された者としてしっかり生きることです。具体的にどういうことかと言うと、もし罪の考えを抱くようなことがあれば、それが行為や口に出てしまって罪の支配下に戻らないようにしなければなりません。その時はすぐ神に罪の赦しを乞います。すると神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さいます。その赦しが本当であることを確信させるために、神は私たちの心の目をいつもゴルゴタの十字架の上で死なれたイエス様に向けさせます。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様によって罪と死の支配から贖われた者ですので、そのような者としてしっかり歩んでまいりましょう。私たちのイエス様に対する「お仕え」は、以上のような自分自身の生き方に関することだけではありません。それと併せて、出来るだけ多くの人が罪と死の支配からの贖いを持てるように祈ったり働きかけたりすることもあります。そのことも忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(注)そうすると、トマス福音書とかユダ福音書とか、聖書には収められていない福音書はどうするのか、という疑問が起きてきます。福音の全体像がわかるためにこれらの書物には意味はないのか?答えは、意味なしです。というのは、こういう「福音書」の名がつく書物は、使徒たちの教えや伝えたことと相いれない、つまり使徒的な伝統から外れているのです。それで聖書には載せられなかったのです。それでは、何の書物を聖書に載せることができて何を載せないとする基準にある使徒的な伝統とは何か?それは、簡単に言えば、新約聖書の使徒書の部分が使徒的な伝統を表しています。何の書物を聖書に載せることができて何を載せないというのは、別の言い方をすれば、聖霊のコントロールが働いていたということですが、使徒書を書いた人たちは本当に聖霊の力を受けて書いたとしか言いようがないのです。

そういうわけで私は、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるために聖書は次のような順序で読むのがいいのではないかと、最近強く考えるようになってきました。まず使徒書を通して使徒的伝統の基本を学ぶ。次に旧約聖書に行って、なぜ人間は神からの救いが必要なのか、そのために神は何を計画されたかを学ぶ。その次に4つの福音書と使徒言行録が来て、神の計画が実際どのように実現されたかを学ぶ。そんな順序です。最後はもちろん、黙示録です。ただし、これは、旧約新約両方の書物で、終末の出来事やイエス様の再臨について述べているものを復習しながら読むのがいいと思います。


主日礼拝説教 待降節第1主日
2015年11月22日の聖書日課 エレミア33章14-16節、第2テサロニケ3章6-13節、ルカ19章28-40節

説教「神の裁きにも耐えうる潔白な良心」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書13章24-31節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人となってこの世に来たクリスマスの出来事に向けられます。2000年以上前の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様に思いを馳せます。

さて、待降節は次主日にゆずるとして、教会の一年の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わりを告げる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る時に起きることです。私たちが礼拝の中で唱える信仰告白の使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判です。その時はまた、今ある天と地さえもが崩れ去って全く新しい天と地が創造されるという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、創造主である神の御心に適うとされた者が復活の体を着せられて、永遠の神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時生きている人と一緒に審判を受けるのであります。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」ということであります。

その裁きの日がいつであるかは、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が言われるように、これは天の父なるみ神以外には誰にも知らされていません(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(33-37節)。

このように教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会ではこの日、最後の審判に今一度心を向けて、いま自分は永遠の命に至る道をしっかり歩んでいるかどうか、自分の信仰生活を振り返る意味があります。もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日です。この課題は、ことの性質上とても重々しく恐ろしいことですらあります。そのため、自省することを避けてさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人の方が多いのかもしれません。しかし、忘れてはならないことは、最後の審判は恐ろしいことではありますが、イエス・キリストの福音というものは、裁きの恐れを乗り越える勇気と力を与えてくれるということです。そのような勇気と力が与えられた時の喜びと安心はひとしおです。まさに福音の力がわかるためにこそ、最後の審判に目を向けるべきだと思います。そういうわけで本説教では、最後の審判の恐れを乗り越えられる福音の力を明らかにすることを目標にしたく思います。

その前にひとつ脇道になるかもしれませんが、今次パリで起きた痛ましいテロ事件の中で「裁き」とか「復活の希望」について少し考えさせることがあったので先にそれについて触れておきたく思います。それは、この事件で愛する妻を失った夫がテロリストに対してフェイスブックに書き送った文章です。アントワーヌ・レリスという方の「君たちが私の憎悪を得ることはない」という題の文章で、投稿されてすぐ20万人もの人に読まれて感動を与えたということです。新聞にも報道されたのでご存知のかたもいらっしゃると思います。

文章の要旨は大体以下のことです。テロリストの目的は、テロを被った人たちが絶望に陥って生きる希望を失うか、または深い憎悪に陥って復讐を生きる目的にしてしまうことにある。しかし、自分はそのような憎悪に陥るつもりはないし、残された息子とこれまでと同じようにこれからも生きて行くので希望も失っていない。そういうわけで、テロリストの目的は失敗したのだ。もちろん、深い悲しみに突き落とされたという点ではテロリストの勝利は認めるが、それも実はちっぽけな勝利で長続きしないのだ。

このように悲しみのどん底にあっても絶望に終わらず憎悪の連鎖にも陥らない。もし、そうなったらテロリストの思うつぼですが、そうならないで憎悪から全く自由な愛と希望を持ち続けられるというのは、一体どうして可能なのでしょうか?私の推測ですが、この悲劇がきっかけとなってレリス氏の心に「復活の再会の希望」というキリスト信仰で最も大事なことが輝き出したからではないかと思います。氏がどのような信仰の持ち主かは知りようがありませんが、文章の中に次のような「復活の再会の希望」をうかがわせる下りがあります。「妻はいつも私たちとともにあり、私たちは自由な魂たちのパラダイスで再びあいまみえるのだ。君たちが入れることのないパラダイスで」というところです。人生を今あるこの世の人生と次の新しい世の人生の二つを合わせたものと見なすことができれば、テロリストの勝利は実に「ちっぽけで」「長続き」しないものになるのです。

ここで、テロリストがパラダイス楽園すなわち天国に入れないと言われていることについて、ここには言うまでもなく、神の裁きがあります。そうすると、憎悪から自由な愛などと言っても、やっぱり復讐心があるのではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここで使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」12章で教えていることを思い起こせば、なんの矛盾もありません。

パウロはそこで、復讐は神のすることである、全ては神の裁きに任せよ、と教えます(19節)。さらに、キリスト信仰者は全ての人に対して少なくとも自分の方からは平和な関係を結びなさい(18節)、つまり、自分の方からは悪や憎悪を振りかざしてはいけないということです。ただ悪を成す者に遭遇した場合は、もしその者が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませよ、そのような態度で臨みなさい、そうすることで敵の頭に燃える炭火を積み重ねることになる、と教えました(20節)。ここに憎悪と絶望の連鎖から自由になれる知恵があります。それは、神が最後の審判を司る方であるとわかっているから受け入れられるのであり、また復活の再会が待っているという希望があるから受け入れられる知恵なのです。もちろん、犯された犯罪は法律に従って処罰されなければならないということは、パウロもうち立てられた権威には従うべきと言っている以上(ローマ13章)、しなければなりません。しかし、犯罪者の処罰刑罰は憎悪と復讐心とは別物でなければならないということなのです。

 少し脇道によりましたが、ここで本筋に戻ります。神の裁きは恐ろしいものではあるが、イエス・キリストの福音にはその恐れを乗り越えられる力があることを、本日の福音書の箇所をもとに見ていきます。

2.本日の福音書の箇所は、マルコ福音書13章全部にわたるイエス様の預言の一部です。マルコ13章はキリストの黙示録とも呼ばれます。預言の内容はとても複雑です。というのは、イエス様の十字架と復活の後にイスラエルの地で起きる出来事の預言と、もっと遠い将来に全人類にかかわる出来事の預言の二つが複雑に入り交ざっているからです。それらを解きほぐすように読まなければなりません。13章のはじめでイエス様が、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来る、と預言されます(1-2節)。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった4人の弟子が、いつそれが起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と聞きます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。ところが預言は語られるうちに、神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。

マルコ13章のイエス様の黙示録についての詳しい分析は別の機会に譲り、ここでは概要だけにします。エルサレムの神殿の破壊の前兆として、偽キリスト、戦争、地震、迫害が起きると預言されます。西暦70年に起きた神殿破壊の前にはこれらのことは起こりました。14節で「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」と言われます。「憎むべき破壊者」とはダニエル書の11章や12章の預言に出てくるものですが、ここでは詳しいことは抜きにして、そんなことが

西暦70年の前に起こったかどうか。一つの可能性はイエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラが神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちの必死の努力で撤回されたという事件がありました。これがもとでローマ帝国とユダヤ人の間の対立が深まって、ついには西暦70年のエルサレム破壊に至ってしまう導火線になったことがあります。

 ところが、マルコ3章19節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こると述べられるあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていません。明らかなことは、主がその災いの期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定した、と言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、イエス様を救い主と信じる信仰に固く立って救われる者を指します。このあたりの預言は、もう過去に実現したことではなく、私たちから見てまだ将来起こることです。そうすると、「憎むべき破壊者が立ってはいけない所に立つ」というのも、エルサレム神殿の破壊の前兆だけではなく、我々から見て将来そのように描写できる何かが起きることも意味します。今はそれが何かは具体的にはわかりません。そうなると、「憎むべき破壊者」の前にある偽キリスト、戦争、地震、迫害というのも、過去に起きたものだけでなく、将来起きるものも入ってきます。

さて、天地創造以来一度もなかったと言えるくらいの大災難がきた後で今度は、天と地が文字通りひっくりかえるようなことが起きます。そのことについての預言が本日の福音書の箇所になります。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる(24-25節)」。まさにその時にイエス様の再臨が起こり、最後の審判が行われ、選ばれた者たちは集められて神の国に迎え入れられるのであります。

太陽をはじめとする天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言と軌を一にしています。イザヤ書65章17節や66章22節では、神が今の天と地にかわって新しい天と地を創造されることが預言されています。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26-28節に述べられています。

以上を要約しますと、エルサレムの神殿の破壊は歴史上実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える大災難や天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊から1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽りの救世主・預言者は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありました。もちろん現代においても世界の地域によっては迫害は起こっています。そのようなことが多く起きたり重なって起きたりする時はいつも、いよいよこの世の終わりか、イエス様の再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということも歴史上たびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様の預言の終わりの部分が起きるのは、まだ先のことなのです。こうしたことは本当に起こるのでしょうか?1900年以上たったので、もう時効と言えるでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつか起こるというのは否定できません。以前にも申し上げたことですが、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして燃え尽きると言われています。膨張などしたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。もちろん太陽がちょっとでも異変を始めた段階で地球は重大な影響を被るでしょうから、それは50億年よりもっと前に起こるでしょう。いずれにしても、旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということはありうるのです。さらに太陽の異変を待たなくても、大きな隕石とか彗星などが地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となるでしょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、冷戦が終わって20年以上たちましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのです。

 以上、イエス様の預言の前半部分にある戦争とか地震とか迫害は既に起きたものもあるし、残念ながら今も起きています。こうした災難がこれからも起き続けるかどうかについて、地震のような天災は仕方ないにしても、人為的なものはこれまでの歴史や人間性を考えると、なかなかなくならないのではないかと思われてしまいます。何が理想の状態か、とか、それを目指す力と妨げる力がこれからもせめぎ合っていくのでしょう。しかしながら、起こる災難がこうしたものだけではまだこの世の終わりとは言えないのです。イエス様の預言の後半部分にある大災難と天地の大変動が起きるようになって、イエス様がいよいよ再臨するというのであります。そして、その時生きている人も、その時既に死んでいたがその時起こされる人たちと一緒に裁きを受けることになる。その時裁きを司るのが、再臨の主イエス様なのです。

3. 人間は皆神の裁きを受けるのであれば、それに対してキリスト信仰者はどんな心構えでいなければならないかについてルターが教えていますので、それをここでみてみます。この教えは、ルカ福音書21章にあるイエス様の言葉の解き明しです。まずイエス様の言葉は次のものです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ21章34-36節)。」

これについてのルターの教えは以下の通りです。

「これは、全くもって我々が常に心に留めなければならない警告である。我々はこれを忘れることがあってはならない。もちろん主は、我々が食べたり飲んだりすることを禁じてはいない。主はこう言われるであろう。『食べるがよい。飲むがよい。神はきっとあなたたちがそうすることをお認めになるであろう。生活に必要な収入を得ることにも努めなさい。ただし、そうしたことがあなた方の心を支配してしまって、私が再び来ることを忘れてしまうことがあってはならないのだ。』

 我々キリスト信仰者にとって、人生の目的をこの世的なものだけに結びつけてしまうのは相応しくないことである。我々は人生の片方、つまり左手ではこの世の人生を生きるべきである。反対に右手では全身全霊で主の再臨の日を待つべきである。その日主は、あまりにも素晴らしくて誰にも表現できないくらいの栄光と荘厳さをもってやって来る。人間は、この世の最後の日が来るまでは家を建てたり結婚式を挙げたり、屈託なく日々を過ごすであろう。ただただこの世的なことだけに心を砕いて、他には何もすべきことがないかのように思っていることだろう。キリスト信仰者たちよ、あなたたちがもしキリスト信仰者たろうとするならば、こうしたこの世だけの生き方はせず、この世の最後の日のことに心を向けよ。その日がいつかは必ず来ると絶えず心に留めて、神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていなさい。そうすれば、何も慌てる必要はないのだ。その日がいつどこで我々の目の前に現れようとも、それは我々にしてみれば永遠の幸いを得る瞬間なのである。なぜなら、その日全ての人間の本当の姿が照らし出される時、あなたたちが神を畏れ、神の守りの中にしっかり留まる者であることが真実なものとして明るみに出されるからだ。」

 「神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保って」いれば、イエス様の再臨の日はなにも怖いことはなく、慌てふためく必要もない、ということです。ここで皆さんにお尋ねします。神を畏れる心は持てるにしても、「潔白な良心を保つ」ことは果たして可能でしょうか?最後の審判の日、裁きの主は、一人一人が十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうかを見られます。殺人や姦淫を犯していたりすれば、ちゃんと神の前で赦しを乞うて悔い改めていたかどうかが問われます。しかしながら、行為に出さなくても心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけでも、神の目に適う者になれないとイエス様は教えられました。そういうふうに行為だけでなく心の中までも問われたら、一体誰が神の前で、自分は清いです、などと言えるでしょうか?

 神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことを知っていました。堕罪の時から全ての人間は内に罪をもつようになったので、そうはなれないのです。そこで神は人間が神の目に適う者にしてあげよう、そうすることで人間が神との結びつきを回復できてこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでもその時は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして、そのイエス様が十字架にかけられることで、全ての人間にかわって人間の罪の償いをして、人間を罪と死の支配から贖い出したのです。「贖う」というのは、イエス様の流した血を代価として人間を罪と死の奴隷状態から買い戻したということです。それくらい私たちの命は価値あるものとみて下さったのです。

このあとは人間が、イエス様の十字架と復活というものは、まさに罪を持つ自分がその呪いから解放されるためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神からの罪の赦しがその通りに起きるのです。神から罪の赦しを受けるというのはどういうことかと言うと、神があなたのことをさも罪はないかのように、もう神の目に適う清い者として扱って下さるということです。これで裁きは大丈夫なのです!自分にどんなにいまわしい罪の過去があったとしても、その罪のゆえに私たちが地獄に落ちないようにとイエス様は自らの命を投げ捨ててまで私たちの罪を請け負って下さった。それで私たちが「天の父なるみ神よ、イエス様こそ私の救い主です。だから私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、私のひとり子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは赦された者として相応しい生き方をしなさい」と言って下さるのです。

私たちは神の目に適う者になれるために自分では何もしていないのに、神の方で全部してくれて、私たちはそれをただ受け入れるだけで神の目に適う者にされたのです!それで裁きの前に立っても「イエス様が私に代わって全部罪を償って下さいました。私は罪の支配下から贖われた者です。イエス様以外に主はいません」と告白すれば大丈夫なのです。実に私たちがイエス様を救い主であるとしている限りは私たちの良心は神の前で潔癖でいられるのです。何も恐れる必要はないのです。イエス様が代わりに全部償ってくれたので彼は私の救い主である、それでこの恵みに相応しい生き方をしなければと思って生きてきた、ということは何者も否定できない真実なので、やましいところは何もありません。まさに潔癖な良心です。

そこで問題になるのは、神の手によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、実際には神の目に相応しくないことがどうしても出てきてしまう。罪が内に留まる以上は、行為に出さなくても心の中に現れてきてしまう。その場合はどうしたらよいのか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを乞います。これが神への立ち返りです。神は約束されたようにイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうしてまた神の示される道を踏み外すことなく歩み続けることが出来ます。こうしたことは死ぬまで何度何度も繰り返されます。なんだかめんどうくさくなって疲れてしまいそうですが、神への立ち返りが一人で行うことが大変に感じられれば、礼拝で信仰を同じくする兄弟姉妹たちと共に行うことができます。聖餐式では、パンとぶどう酒の形ですが、罪の赦しの恵みを霊的な栄養として摂取することができます。だから教会に繋がっている限りは疲れることなどありません。こうすることでキリスト信仰者の良心はあらゆるゆさぶりに耐えて潔白さを保ち、何の恐れも不安もなく最後の審判に臨むことができるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちをこの滅びゆく天と地を超えて運んで行ってくれるものは、イエス・キリストの福音以外にはありえません。それですので、私たちの命はこの福音にしっかり守られていることをかた時も忘れないようにしましょう。そして、福音を聞いて潔白な良心を持てる人が一人でも増えるように祈り働いてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後最終主日 2015年11月22日の聖書日課  ダニエル7章9-10節、ヘブライ13章20-21節、マルコによる福音書13章24-31節

11月18日の手芸クラブの報告

ヒッメリ手芸クラブは、月1回開かれています。
11月の第3水曜日、晩秋のわりには暖かい午前の時間に手芸クラブが開かれました。参加者の皆さんは作品を作るのを楽しみにしていたそうです。

ヒッメリ手芸クラブは最初にお祈りをして始めます。今回はフィンランドの伝統的な飾り物「ヒンメリ」を作ります。
はじめに作品のモデルを見せると、皆さん、「かわいい」と言いながら作り方の説明を聞きました。ヒンメリは普通わらで作りますが、手に入らないため、今回は赤色のストローで作ります。ストローは初めに合う長さにカットしたものを準備したので、作り始めは楽でした。ヒッメリ針に糸を通し、三本のストローを糸で結んで三角形を作ります。その一辺をもとに二本のストローを糸で結んで別の三角形を作り、それを繰り返していきます。短いストローでも同じように三角形を繰り返して作っていき、最後に大小のヒンメリを糸で結んで完成です。

各自が作ったヒンメリを棒にかけて、素敵なクリスマスの飾り物ができたと皆さん感激していました。ヒッメリ

最後にコーヒーと聖書のお話しになりました。聖書の箇所は旧約聖書の「列王記上」の17章8節から15節まで。預言者エリアが訪問した貧しいやもめの家でわずかな食べ物だけでずっと大丈夫だったという奇跡の話です。

ヒッメリ「私は、この旧約聖書の話をいつも不思議に思いました。これは、神様が私たち人間にできないことを起こされる奇跡です。神様はこの奇跡をどうして起こしたのでしょうか?神様はこの奇跡を通して、どれだけ人間を愛して下さっているか、見守っていて下さっているかを示そうとしたのだと思います。神様はいつの時代の人々も現在の私たちのことも全てご存じで、私たちを守ってくださいます。神様の愛はイエス様の十字架の出来事に一番よくあらわれています。神様の人間に対する愛というのは、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない」と言うように、いつまでも続くことです。このため私たちは思い悩む必要はありません。神様は約束されたようにいつも私たちを守ってくださいます。このことを天と地と人間を造られた神様に感謝して毎日の生活を続けましょう。」

次回の手芸クラブは来年の1月です。詳しくは、ホームページの案内をご覧ください。

 

吉村博明 宣教師の市谷教会での説教です。「新しい礼拝のかたち」、マルコによる福音書12章41-44節

主日礼拝説教2015年11月15日 市ヶ谷教会

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2015/12/2015-11-15-Yoshimura.mp3

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿がありましたが、これは紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されました。これが第一神殿と呼ばれるものです。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚からエルサレムに帰還して、神殿を再建しました。これが第二神殿と呼ばれるものです。最初これは、ソロモン王の神殿に比べてみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後エルサレムには「聖書の神」の神殿は存在していないことは周知のとおりです。

イエス様の時代の神殿はどんな建物かと言うと、まず敷地は横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分の罪と民の罪を神の前で償うために生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ9章1-7節)。

本日の福音書の箇所の出来事は、この神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。正確には、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったことになります。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、わりと容易に識別できたのでしょう。

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さて、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この二枚の銅貨は1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコがローマ帝国市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。しかし、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリです。では、1デナリはいくらかと言うと、それは当時の労働者の1日の賃金でした。今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値しかありません。イエス様は、これがそのやもめの全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対的にみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいのお金ですから、やもめにとってはとても大きな価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。また、やもめの献身は金持ちよりも尊いものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをもっと掘り下げてみたいと思います。

 

2.

本日の箇所が教える大切なこととして、まず最初にあげられるのは、神の目は、御自分が造られた人間一人一人の上にしっかり注がれる、特に人の目には取るに足らないとみなされる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れました。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもありません。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神様はあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたことでしょう。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られていい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本に住む私たちにも身近なものです。そんな時、64分の1デナリしか入れなかったやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去られたかもしれません。

ところが、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、まさになけなしの金であったことを見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実性はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。

天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命と人生を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(15-16節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです(ルカ12章7節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見てみます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(1-4節)」。

このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知って下さり、絶えず目を注いでいて下さる、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、それは、神に忘れられたとか、見捨てられたとか、そういうことでは全くないのです。そのような状況を、まさに神に支えられて一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい危険な状況を通らねばならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることです。私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いの神が同じように方向修正をしてくれます。不意にトントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということなのです。それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。

 

3.

以上、神の目は御自分が造られた人間一人一人の上に絶えず注がれており、特に人の目には取るに足らないと見なされる者にこそ注がれるということについて申し上げました。本日の福音書の箇所が教えるもう一つの大切なことをみていきましょう。それは、何が正しい礼拝の形かについて考えさせるということです。礼拝とは普通、教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の宗教的儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕えて捧げものをすることです。神に仕えて捧げものをすることは、宗教的儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰においては、生きること自体が神に仕えて捧げものをするようになって礼拝的になっていくことを忘れてはなりません。

本日の箇所は、やもめの献身の真実さを示すことで、一種の美談として理解されるかもしれません。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが皆さんは気になりませんか?本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。使徒言行録2章をみると、聖霊降臨の出来事の後に教会が誕生して、そこで信徒たちが自分たちの財産や持ち物を売って、おのおの必要に応じて分けあったことが記されています。どうか、このやもめも信者の共同体の中で無事を得られたように願わずにはいられません。

そういうわけで、本日の箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないかと思います。本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて読むと明らかになります。まず、本日の出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章の初めをみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っている、と神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが戦利品のように略奪の対象になっていることがあげられています。

イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったと考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その後で本日の箇所の出来事がきます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にするのです。本日の箇所の次をみると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1-2節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の場所はもう存在に値しないということであります。そして、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年程の後でローマ帝国の大軍によって破壊されてしまいます。

ところでイエス様は、やもめの捧げ物が金持ちの捧げ物よりも大きな価値があるとは認めますが、それでやもめが神の国に入れるとかそこまでは言っていません。イエス様としては、100%神に捧げることは重要であるが、ただ、それが自分の持ちものから捧げ物をして神から見返りに何か恩恵を受けようとする、そんな捧げ方には反対なのです。そんな仕方で100%捧げても、それは神殿の礼拝の論理で動いていることにかわりありません。神に捧げることは重要であるが、見返りの恩恵のために捧げるのではない捧げ、しかも、捧げるからには100%捧げてしまうことが当たり前になるような捧げ、そのような前例のない神への捧げを可能にするためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、ある意味でそのような新しい捧げを先取りするものでした。イエス様はそれを神殿の礼拝の枠を打ち破って正しい方向に導いていくことを行ったのです。それでは、それはどのようにしてなされたのでしょうか?

答えの鍵は、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24-28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちの基本路線が記されています。どんなことかと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて最も神聖な至聖所に入って行って自分の罪と民の罪の双方を神の前で償う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げた、ということです。神のひとり子の神聖な生け贄ですので、でもう1回限りで十分です。これでも足りないとばかり、また何か生け贄を捧げるようなことをすれば、それは、神のひとり子の犠牲では足りなかったと言うのと同じになって、それこそ神を冒涜することになります。

そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、神からの罪の赦しがその人に効力を持ち始めるのです。こうして神から罪の赦しを受けられた人間は、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得られて、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神の御許の引き上げられて、自分の造り主のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。これがまさに「罪の赦しの救い」であります。

このようなとてつもない救いを受けた私たちの礼拝のかたちはいかなるものになるのでしょうか?もう神から見返りの恩恵を得るために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来た恩恵を受け取りなさいと言われて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備してそれを行ってしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神とはなんと恵み深い方なのでしょうか!

こうして恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、これからどうすればよいのでしょうか?何も神に捧げることはしなくてもよいのでしょうか?この疑問に対する答えは、「ローマの信徒への手紙」12章の最初の部分にあります。使徒パウロは次のように教えます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(1-2節)」。

「なすべき礼拝」というのは、原語のギリシャ語(λογικος)では「理性的」とも「霊的」とも訳される言葉です。理性的な礼拝、霊的な礼拝とはとてもわかりにくいので、新共同訳では「なすべき礼拝」とうまくかわしたのではないかと思います。ルターのドイツ語訳やフィンランド語訳の聖書では「理性的な礼拝」、英語NIVでは本文には「霊的な礼拝」とあって、脚注に「理性的な礼拝でもよい」などとあります。スウェーデン語訳の聖書では「霊的な礼拝」です。次のように考えれば意味はわかります。まず、何が「理性的、霊的でない礼拝」かを考えます。言うまでもなく、それはエルサレムの神殿で行われていたような、人間が何か生け贄とか何かを捧げて罪を償ったり神から見返りとして恩恵を頂くという礼拝です。

ここで使徒パウロが教えることは次のことです。イエス様の十字架と復活の後はもうそういう礼拝の時代は過ぎ去ったのである。キリスト信仰者は、イエス様の十字架と復活を土台にして神から「罪の赦しの救い」の恩恵を受け取ったのである。だから、もう、恩恵を受け取る前の単なる肉だけの存在ではないのである。聖霊を注がれて新しい霊性を備えた存在なのである。神の恩恵が頭のてっぺんからつま先まで満たされているので、その人の体や心や魂は本当はもう神に喜ばれる聖なる生け贄になっているのだ。だから、本当は神の思いに反するこの世の思いに従わないのは当たり前のことになるのだ。イエス様の十字架と復活のゆえに心が一新して変えられた者として、何が神の御心か、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるのが当然になるのだ。パウロはこうしたことを読者に思い起こさせているのです。

こうなると、神の恩恵を受け取った人というのは、今生きているのは自分なのか神の意思なのかわからなくなります。使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです」と言っている通りになります。しかしながら、現実の世界を生きていく時、いろんな課題に直面し人間関係に揉まれていくうちに、こうした霊的に研ぎ澄まされた心が濁ってきたり萎えてしまうことはしょっちゅうあります。まさにそこに信仰の戦い、霊的な戦いがあります。それゆえ、キリスト信仰者は絶えずイエス様の十字架のもとに立ち返って、あそこで自分は神から計り知れない恩恵を与えられたのだと思い起こさなければなりません。まさにそのために主日の礼拝が重要です。主日の礼拝は、十字架のもとに立ち返ることができる大事な時です。今まさにしているように神の御言葉を聞いてキリスト信仰者としての自分の立ち位置を確認します。また、恵み深き神を歌声をもって賛美し、神の助けと導きに信頼して祈りを捧げます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通して神から霊的な糧を受けます。その糧を受ける時、私たちは聖卓の前で神のみ前に全く無に等しい者として受けます。実に聖餐式では私たちは神に自分を100%捧げているのです。それこそ本日の福音書の箇所のやもめのように100%自分を神に捧げているのです。しかも、主の十字架と復活の後の時代に相応しい仕方で、です。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは既に神から罪の赦しの恵みを頂いているのですから、この世の思いに振り回されず、神の思いにしっかり立ち、自分を神に喜ばれる生け贄として捧げてまいりましょう。そして、十字架のもとに立ち返ることができる主日の礼拝を大切にしてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第25主日
2015年11月15日の聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章41-44節

11月14日フィンランド家庭料理クラブの報告

カルヤランピーラッカ冷たい雨が降る寒い土曜日の午後、
家庭料理クラブはカルヤランピーラッカを作りました。

お祈りの後、
レシピの説明です、
今回は、ミルク粥とじゃがいものムースカルヤランピーラッカを作るの2種類。

ライ麦粉と小麦粉を使った生地作りからスタートです、薄く薄く伸ばした生地は、高く重なって行きました。
次はミルク粥とじゃがいものムースを包みます。
刷毛で余分な打ち粉を払い、
苦心しながらも、キレイなピーラッカが鉄板に並びました。

焼き上がりにバターを塗り、美味しく完食しました。

パイビ先生からは、心に響くお話も聞かせて頂きました。

ご参加の皆様、お疲れ様でした。

次回は12月12日を予定しています。
カルヤランピーラッカ

 

説教「愛する力はどこから湧くか?」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書12章28-34節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所の直前ですが、サドカイ派とよばれるユダヤ教の一派とイエス様の間の論争がありました。そこでは、死者の復活ということは起こるのかどうかが議論になりました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は旧約聖書にある神の御言葉に基づいて打ち負かしました(マルコ12章18-27節)。その一部始終をみていたある律法学者が、この方こそ神の御言葉を正しく理解する方だと確信して聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは、「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

なぜこんな質問が出てくるのかというと、律法学者はユダヤ教社会の生活の中で起きてくる様々な問題を神の掟すなわち律法に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟としては、まず私たちが手にする旧約聖書の中に収められているモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒がありますが、それ以外にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな犠牲の生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。それだけでもずいぶんな量なのに、この他にもモーセ五書のように文書化されないで、口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれですが、ファリサイ派というグループはこちらの遵守も文書化された掟同様に重要であると主張していました。

これだけ膨大な量の掟があると、何か解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題は頻繁に起きたと思われます。それだけではありません。膨大な掟に埋もれていくうちに、次第に何が本当に神の意思なのかわからなくなっていき、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きたのです。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養義務を免れるというような言い伝えの掟があって、イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判します(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実なものだったわけです。それは、現代を生きる私たちにとっても切実な問いです。

2.

 イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様は「第一」に続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し重要度が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟であるということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてある、ということです。

 この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。十戒は皆様もご存知のように、初めの3つは、天地創造の神の他に神をもって崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、というように、神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人に属するものを欲して手段を講じて自分のものにしてはならない、隣人の妻など隣人の大切なものを欲して手段を講じて自分のものにしてはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

 このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということになる。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになる、というのであります。話は少し脱線しますが、フィンランドは現在国民の75%がルター派の国教会に属しています。その中で中学2年を終えた子供たちの90%近くが堅信礼を受けます。堅信礼に先だって10日間から2週間くらいの合宿性の研修を受けますが、聖書の箇所や教義についていろいろ暗誦しなければならないことがあります。十戒とイエス様の2つの掟も暗誦箇所の一つです。

 さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿を参拝して規定通りに生け贄を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神への愛や隣人愛がなければ、神からみて何の意味も持たない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者が真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、実は全然そうではないのです。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。「神の国に入れた」とは言っていません。「神の国に入れる」というのは、どういうことでしょうか?それは、人間がこの世から死んだ後、復活の日に目覚めさせられて新しい復活の体を着せられて創造主の神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。今のこの世の人生と次に来る新しい世の人生の二つを合わせた大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への愛、二番目に重要なのは隣人愛である、それらを具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらをちゃんと土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。この点は、先ほど触れたフィンランドの中学2年生もかわりません。教会で厳かに堅信礼を受けて、その後で親戚一同を集めて盛大にパーティを催しても、覚えたことが単なる知識に留まって、それも時間と共に忘れられてしまって、神の国からどんどん遠ざかってしまう人たちも大勢います。

それでは、どのようにすればイエス様が教えるような神への愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それらの実践は果たして可能でしょうか?

 3.

 イエス様が教えた2つの重要な掟が実践可能かどうか、まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきましょう。全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいた熱烈相愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、かつひとり子イエス様をこの世に送られた父なるみ神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても唯一の主として保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外にそれが委ねられているなどと微塵にも考えないこと。自分が人生の中で受ける喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったりした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。以上のようにする時、神が唯一の主として保たれます。

 実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然には備わっていません。私たちに備わっているのは、神への不従順と罪です。それでは、どのようにしたらそのような愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれてきます。それを知れば知るほど、神への愛は強まってきます。神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。悲しむべきことに、人間が自ら引き起こした神への不従順と罪のために神と人間の結びつきは失われてしまったが、神はこれをなんとしてでも回復させようと決意されました。まさにそのためにひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして本来私たちが受けるべき罪の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。もし人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神からの罪の赦しがその人に対してその通り本当のものになるのです。神から罪の赦しを受けた者として、その人は永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになり、こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩み、万が一この世から死んでもその時は神の御許に引き上げられ、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのです。

このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

4.

 次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべるでしょう。しかし、人道支援という隣人愛のかたちは、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても無信仰者・無神論者でもできるということは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたが、神への全身全霊の愛に基づいているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。もし、別に神はいろいろあったっていいんだ、とか、聖書の神は多数のうちの一つだ、という態度をもって行った場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っているように、自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないようになっています。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくても一般的な当たり前の倫理になります。イエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

イエス様は隣人愛をあげた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えました(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別つかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、「隣人」の一部の者が危害を加えたり、迫害をすることも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べられました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、彼らは一気に滅び去ってしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に至る道を歩む群れに加わる日を待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、神は無原則な気前の良さを持っているという意味では全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の奴隷状態から救い出すために死なれたのは、全ての人間に対してなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、この「罪の赦しの救い」を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害が終わるために迫害者をやっつけて下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと言って差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになっていきます。

こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかってきます。つまり、神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった。私はそれくらい神の愛を受けている。私はこの受けた愛にしっかり留まり、これを失わないようにしよう。これが「自分を愛する」ことになります。つまり、神の愛が注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように働きかけたり祈ったりすることになります。隣人がキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中にしっかり留まれるようにすることです。

5.

 最後に、イエス様が教えた二つの重要な掟がちゃんと実践できない場合はどうしたらよいかについて一言述べておきましょう。信仰者といえども、やっぱり自分は神を全身全霊で愛していない、隣人を自分を愛するが如く愛していないことに気づかされることは日常茶飯事です。特にイエス様は、十戒の掟は外面的に守れてもダメ、心の有り様まで神の意思が実現していなければならないと教えました。そのため使徒パウロは、十戒というものは守って自分は大丈夫と思わせるためにあるのではなく、守れない自分を映し出す鏡のようなものだと教えました。そうなると私たちは永遠に神の掟を実現することはできず、知識で知っている状態に留まり、せいぜい神の国から遠くないというだけになります。

ここで次にことを思い起こさなければなりません。それは、イエス様は十字架と復活の業をもって私たちの出来ない部分を埋め合わせて下さったということです。それはかなり大きな部分と言わなければなりません。この私たちの出来ない部分を埋め合わせるために、イエス様は十字架と復活の業を行ったのです。私たちはイエス様を救い主と信じて、神が提供する「罪の赦しの救い」を受け取った。それで神は、私たちがあたかも掟を完全に守れている者であるかのように扱って下さるのです。本当は掟を守り切れていないにもかかわらず、イエス様のおかげで、神の国に迎え入れても大丈夫な者とみて下さるのです。これは、真に信じられないことです!このように扱ってもらっているのに、どうして神の御心に背いていいなどと思うことができるでしょうか?このように扱ってもらっている以上は、掟に示された神の意思に沿って生きるのが当然という心になるのではないでしょうか?それでもまた守れない自分に気づかされたら、すぐ神にそのことを認めて赦しを願います。すると神はすぐ、あなたの心の目の前にゴルゴタの十字架を示され、あのイエスのおかげでお前は大丈夫だから心配しなくてもよい、と言って赦して下さり、また永遠の命に至る同じ道を歩み続けられるようにして下さいます。そのような神への賛美と感謝を忘れずに日々を歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第24主日
2015年11月8日の聖書日課 申命記6章1-9節、ヘブライ7章24-28節、マルコ12章28-34節

聖書研究会:木村長政 名誉牧師

今日の聖書研究会は黙示録19章を学びました。19,20章は神様のみ業が成就する様子が描かれている箇所であると先生が述べられました。10節にある「イエスの証は預言の霊なのだ」について吉村先生とH姉から含蓄ある解説をいただきました。

 

説教「悲しんでいる人は幸いである」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章1~12節

今日の福音書は、有名な「山上の垂訓」と言われる、イエス様が山の上で弟子たちに説教された話です。とてもシンプルな一言、一言ですが、その言われている言葉の意味は、深い真理が込められている含蓄のある言葉です。この山上での説教は誰のために書かれたか、ということが大切なことです。5章1~2節を見ますと「イエスは、この群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き教えられた」とあります。山上の説教は、マタイでは、5~7章にかけて語られています。ルカの方では、6章20~49節に書いてあります。イエス様が山の上で語られた、その山からは、ガリラヤの湖がなだらかな高原の先に見えます。静かな小高い丘の上といったところです。現在はもう2000年以上たって、まわりに大きな木々が森のように囲っていて、小鳥がさえずっています。イエス様が山の上で座られると弟子たちが、みもとに集まってきました。おそらく群集も多く、イエス様の話を聞きたいと集まっていることでしょう。イエス様としては、群集より弟子たちに対して語られたのでしょう。「あなた方は、地の塩である。」と13節に語られています。また「あなた方は世の光である」とも言われました。(14節)

 信仰のない人が「地の塩である」とか「世の光である」とか言われることはないはずです。ですから、この山上の説教は、信仰を持っている人のために語られた、ということです。それなら、私たちにも、信仰を持って弟子たちと同じように語られている、ということです。信仰を持っている、ということは、つまり、キリストの救いによって罪を赦されている、ということになります。それなら、この山上の説教が弟子たちに与えられた、ということは今日の私たちから言えば、キリストに罪を赦された者として、読む、ということになるのです。(山上の説教の内容に入る前に、こうしたことを充分ふまえて見ることが、イエス様の教えの根底にあるのです。)傲慢な人間は自分の力で、神のみ心にかなう人間になることができる、と考えています。自分に欠けたことがあることは知っていても、それは、いつかは何とかすることができる、と内心は思っているのです。自分にはできなくても、人間は、いつかは、できるものである、と思うのであります。そうした人間に対して「人間は神によって救われなければ、ほんとうの人間になれない」ということを、知らせる必要がある。しかし、それは、容易なことではないのであります。神のお求めになることが何であるかを完全に知らなければならないのです。それは、十戒のいましめ、そして、この山上の教え、という一番基本となる、真理をぶっつけて、悔い改めさせるほかないのです。このようにして、山上の説教を読む者は、人間の生活に美しい理想を描くどころではない。それによって、人間は全くどうしょうもない、罪ある者であって、神に救われるほか、ない、と悟るに至るのであります。

 これが、山上の説教全体の一番根底にある、ということを覚えていてください。山上の説教は、今日で言えば、教会にいる者に、告げられたものでありましょう。イエス様の、このころの言葉で言いますと、神の国のためであります。神の国は近づいた、悔い改めよ と叫ばれた。そこには、神の国を予想して、そこで、どういう生活をするか、ということであったにちがいありません。戒めのようなものが少なくないことも事実であります。しかしそれも、ただ人間が守るべきもの、ということではないのです。神の国の中にいる者の、生活の仕方である、ということです。と、すれば、それは神の恵みによって、生きている者の生活、ということになります。神様は、モーセに十戒をさずけられました。十戒は、ただの、いましめではありません。十戒のはじめには「わたしは、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とあります。十戒をとなえる前に、しっかりと、このことを示されています。つまり、「十戒」は、救いを与えられた者が、その救いを受けた物に、自分に従うことを求められたものであります。だから、こうしなさい、と言うよりは「このようになるはずではないか」ということなのであります。恵みを受けた者が、その恵みに答え、その恵みに生かされる道であります。山上の説教の、はじめの方に九つの教えがありますが、そこには、みんな「さいわいである」と言う言葉が付いているのです。文語訳では「幸いなるかな」と、はじまって、心の貧しい人は、なぜなら、点の国は、その人たちのものである。「幸いなるかな」、悲しむ人々は、その人たちは慰められる。このように「幸いなるかな」と、いきなり宣言されて、何を言うよりも先に、「さいわいである」。あなた方は、何んと幸いであることか、と叫ぶように語りかけて」いるのです。こういうことをしたら「さいわいになる」と、いうのではなく、今、すでに「さいわい」になっているのであります。

 なるほど、私たちに与えられている祝福、さいわい、が完全に成就するのは、神のみ前に出た時であるかもしれません。しかし、今までに、その祝福に、あずかっているので、さいわいなのである、というのであります。話は、そこから始まる。3節から始まって12節までの「さいわい」の中で4節だけを少し深く見てみますと、4節には、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは、慰められる」とあります。信仰者の生活には、深い悲しみがあると思います。人には言えない、悲しみもあるでしょう。ある人が言いました。「涙と共にパンを食べ、床の中で泣き明かしたことのない人は、ほんとうの恵みを知ることができない。」ここで、語られていることはただの人間の、悲しみではありません。救いを受け幸いである、と語られている人の悲しみであります。つまり、信仰生活をしている人の悲しみであります。「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」という、この御言葉は悲しんでいる人が慰められる時に用いられるもの、と考えられているのではないでしょうか。従って信仰を持っている人は、その悲しみが慰められることを喜んでいるはずなのでは、ないでしょうか。それなら、信仰者の悲しみというのは、どういうものでしょうか。

信仰を持って、生きると言うのは、正しい生活をすることであります。罪深い、この世にあって、信仰生活をすることは決して喜びだけではありません。信仰者、この世の罪と闘い、罪をうれえ、悲しむ生活にちがいはありません。それは、むしろ信仰生活の特徴であって、これを避けることはできません。なぜなら、信仰者は、自分が罪人であることを知っていますから、世をいたずらに、さばくことができないのです。自分も、この世の人々と同じ人間であることが、よくわかっているはずですから、この世の罪は自分の重荷として荷わなければならないはずだからであります。人ごとのように言うことができないのです、ここにも信仰者の悲しみがあるにちがいがありません。それは実はキリストに従う者の悲しみ、というべきでしょう。それなら、ここで言われる悲しみとはどういうものでしょうか。まず、ここでは心の貧しいに者に続いて語られているのです。3節の「心の貧しい者と悲しむ者」とは関係がある、ということでしょう。

 九つの「幸い」といわれる説教はキリストの救いによって「さいわい」にせられた者を考えているのであります。そこで信仰者は信仰をもっているがゆえに、何を悲しむのでありましょうか。宗教改革者のルターは95ヶ条の項目を城教会のとびらにうったえました。その第1条にルターは多くのことを言っていますが、その主な点は信仰者の生涯は絶え間のない悔い改め、回心の連続であるべきとである、と、うったえています。つまり、私たちの悲しみの中心は罪に対する悲しみであります。罪の赦しを得た時には、この罪がどんなに高くついたものであったか、すなわち、神の御子の十字架の死を必要としたことが分かり、その恐ろしさを改めて知る思いであります。悲しむという字は、悲しみ続けている者という字なのです。今も、いつも悲しみが続いている、という字です。それこそ、罪に対する悲しみの特徴であります。誰でも、悲しみではなく、喜びを求めているに、ちがいありません。悲しみの中で知ることのできる喜びというものがあります。それは、実は慰めであります。慰められることができれば、悲しみの中にも喜びがあるはずです。まことの喜びは 慰めであります。その慰めも、ただひとつであります、ここで言う「ただひとつ」というのは、この慰めが、あらゆる、ほかの慰めのもとになるもの、であるということです。この慰めが得られなかったら、ほかの慰めも喜びも空しいものになってしまう、そういう、もとにある一つの慰めです。しかも、それは罪を悲しんでいる者のみが、それを知ることができるのであります。なぜでしょう。それは罪を悲しむ者は、神との関係が断たれたことを悲しんでいる者であります。それなら、それを慰められるというのは、神との交わりが打ち立てられた者のことであります。ですから、ここにあらゆることのもとがあるのです。慰められる、というのは受身の言葉です、それなら慰める者がいたはずではないでしょうか。だれが慰めるのでしょう。それは、いうまでもなく神様であります。神様は、その名を出していませんが、神様こそ、悲しんでいる者を慰めてくださるのです 神はいつも見えませんが、主役なのであります。神はどうしてくださるのでしょう。神は彼らの重荷を取り去ってくださる、重荷と言っても罪の重荷です。では重荷がどう取り除かれるのでしょう。それは、神に対する罪の責任が除かれるとうことです。そして、それは神様の方からその責任を除いていただくしかないのです。つまり、神から赦していただくほか、ないはずであります。それは、どのようにしてできるのでしょうか。それは、慰めるという字が手がかりになります。「慰め」という字は自分のかたわらに呼ぶという字です。自分のために弁護してくれるようになるということです。神は、そういう意味で私たちの味方になってくださったのでああります。重荷が除かれる、というのは私たちが罪を犯して背いていたにもかかわらず、神様は私たちの味方になってくださった、とうことなのです。

最後にヨハネ福音書14章18節にあるみ言葉を読みます。イエス様は言われました。「わたしは、あなた方をすてて孤児とはしない。あなた方のところに帰ってくる」。神様は、私たちのただひとつの方、慰めになってくださるのであります。                                           ハレルヤ・アーメン

 

 


主日礼拝説教 全聖徒の日
2015年11月1日の聖書日課  マタイ5章1~12節