説教「内なる古い人と新しい人の戦い」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書8章27ー38節

主日礼拝説教2018年9月23日 聖霊降臨後第十八主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っているイエス様の有名な教えです。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
マルコ8章34ー37節

これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。そうすると、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、これとどう結びつくでしょうか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?そうすると、最初に言っていること、イエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負え、というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。一方で、命は地球より重いなどと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないか?

聖書を読むと、一つのまとまった個所の中にある個々の教えはそれぞれ理解や納得できるが、その個所全体でみると矛盾だらけでどう繋がるのか?と思わせることがあります。今日の個所の場合、どうしたらよいでしょうか?せっかくイエス様が教えたことだからどれも大事ということで、全体を見ないで個々バラバラで見ることに徹するのが一つのやり方かもしれません。例えば、命の大切さを教える時、イエス様が命は地球より重いとおっしゃていることだけを見て、自分を捨てて十字架を背負えとか福音のために命を失えと言っているところには目をつぶる。また、イエス様が殉教の覚悟を説いておられると言う時は、命の大切さの教えには目をつぶる。必要に応じてある箇所をクローズアップして、それに合わない個所は脇に置いておく。そういうやり方しかないのか?全体を通して意味が通るということはないのか?果たして本日の福音書の個所は、全体を見ると矛盾があるのかどうか、少しじっくり見てみましょう。

2.「メシア」とは?

本日の福音書の箇所は命についての教えだけではありませんでした。命のことは34節から38節までですが、本日の個所はその前もあって27節から33節はイエス様とは何者かということが述べられています。この両方を合わせて全体を見て、筋が通るかどうか見ようというのですから、大変です。

さて、このマルコ8章27ー38節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 それでは本日の箇所の前半、8章27節から33節までを見ていきましょう。まずイエス様は、人々は彼のことを何者と考えているか、という質問をします。人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが弟子たちの答えから明らかになりました。それに対して、ペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで注意しなければならないのは、「メシア」とは何者かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。それならイエス様はなぜメシアである自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?また、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてそんなに怒ったのか?以下そうした疑問に答えていきましょう。

まず初めに「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれて聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束に基づき(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を指すようになります。(それ以外の使い方もあります。イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照。)

紀元前6世紀にユダヤ民族の王国は滅びますが、その後、ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王メシアが現れるという期待が高まります。これがイエス様の時代に近づくと、メシアとはこの世の終わりに現れてユダヤ民族の解放だけでなく全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらない、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

ヘブライ語のメシアという言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとは、これはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名にくっつけたということです。

 話が脇道に逸れましたが、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちにそのことを誰にも話すなと命じますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前で無数の奇跡の業も行い、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人たちを運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と命じたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるでしょうか?イエス様とは本当は、神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた方です。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人間救済計画の矮小化です。それだけではありません。当時イスラエルの地を占領していたローマ帝国は王国復興を企てる反乱者にはいつも神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたし、福音書に記録されているような出来事は起きなかったでしょう。

 それから、ペトロのメシア理解もおそらく、民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。だから、イエス様が迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、ペトロは王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのでしょう。

それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないでしょうか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同じになってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。

3.神の人間救済計画

 ここで、この神の計画というものについて少しおさらいをしましょう。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯し、罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間が神との結びつきを回復してその結びつきの中で生きられるようにしよう、たとえこの世から死ぬことになってもその時は造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この救いの計画はいかにして実現されたでしょうか?罪が人間の内に入り込んで、神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪を除去しなければならない。しかし、それは人間の力では不可能なことでした。マルコ7章の初めにイエス様と宗教指導層の間の有名な論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争です。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも、神のもとに戻ることもできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、人間が神に対して負っている罪という負債を全部ひとり子に背負わせて、罪の罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせる。まさに、ひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦す、というものでした。その時人間の方が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうすることで人間は神から罪の赦しを受け取ることができるようになりました。神から罪の赦しを得られたということは、神との結びつきが回復したことです。そうして人間は神との結びつきの中でこの世を生きられるようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

人間は洗礼を受けることで、まだ罪を内に持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。この衣にしっかり包まれて自分から手放さない限り、神は私たちをイエス様の清さを持つ者とみて下さり、内にある罪には目を留められません。このようなやり方で結びつきを回復し保って下さる神に驚きと感謝の気持ちが生まれます。罪が内にあるのにもかかわらず、清いものと見て下さることに気恥ずかしさと畏れ多さを感じます。まさにここから、このような神の意志に沿うように生きなくてはという心が生まれます。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するがごとく愛するという心です。今月の使徒書の日課はヤコブ書ですが、神から罪の赦しを受けた者がすべき隣人愛について教えています。先週は、怒りに身を任せるなとか、舌を制して言葉を選べとかありました。本日の個所では、キリスト信仰者の間では立場や地位で人を区別するなということを教えています。金持ちの信仰者を優遇し、貧しい信仰者を軽く扱うことはしてはいけない、皆同じ扱いにしなければならない、ということです。人間誰でも、貧しい人は自分に何の益ももたらさないが、金持ちや地位ある人はひょっとしたら、という気になります。キリスト信仰にあっては、相手が益をもたらすかもたらさないか一切見ないで同じように親切にしなさいということです。金持ちや地位ある信仰者も、自分になされる親切さが貧しい人に対するものと同じであることを不満に思ってはいけない、それは当たり前のことと思わなければならないということです。

ここで注意しなければならないことは、怒りに身を任せないとか、舌を制するとか、皆同じ扱いであることを受け入れるとか、他の隣人愛の例も含めて、それらは頑張って気合を入れて達成して、神様やりました!と、まるで神に認めてもらうために頑張るものではないということです。そうではなくて、自分には神の意志に反することが沢山あって、それは本当はいつの日か神の御前に立たされて咎められる根拠になる、そういうものがあるにもかかわらず、神はイエス様の犠牲に免じて咎めないと言って下さる。イエス様の白い衣を纏っている者として見て下さる。本当の自分とはかけ離れているが、そのかけ離れた方が本当の自分であるとおっしゃってくれている。それなら、これからはそれに合わせるように生きていかなくては。被さられた白い衣にふさわしい生き方をしなくては。キリスト信仰にあっては、隣人愛とはこのように神の罪の赦しを受けた後に生じてくる実のようなものなのです。赦しを受けるために、神に目をかけてもらうためにする業績ではないのです。赦しは既に受けているのです。

気合を入れて達成するぞ、というものではなく、生じてくる実のようなものですので、一つ一つこなしていくような時間をかけて成長するようなことになります。これは、ルターが言うように、キリスト信仰者のこの世の人生というものは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結び付く古い人を日々死なせていくプロセスであるということです。怒りに身を任せてしまうこと、舌を制することができないこと、地位や立場で人を選別し、自分もそれを期待すること等などを満載している肉に結び付く古い人、これを神から頂いた罪の赦しとイエス様の白い衣を重しにして、押しつぶしていくプロセスです。一回つぶしてもまた出てきたらまたつぶすという繰り返しです。このプロセスは、信仰者がこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てて復活の日に復活の体を着せられる時に終わります。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者はその時完全なキリスト信仰者になるのです。

4.内なる古い人と新しい人の戦い

 以上、神の救いの計画について述べてまいりました。本日の福音書の個所に戻りましょう。イエス様の弟子たちは、彼にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒し、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する、そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、起きたことは実はユダヤ民族を超えて全人類にとって重大なことだったのだ、旧約聖書にあった一民族の解放を言っているように見えた預言は実は全人類の救いを言っていたのだとわかったのです。

以上がマルコ8章27節から33節の内容でした。神の人間救済計画の全容が明らかになりました。誠に壮大な内容です。神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ8章34節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみていきましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪の負債を全部請け負って、罪の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど申しました、キリスト信仰者の人生は、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスであるということを思い出しましょう。

「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていく、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。捨てるのは古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。プロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、なにか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえたり、逆に自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえたりするかもしれません。そのいずれでもありません。そうではなくて、神が与える罪の赦しに包まれて、さらに包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて古い人が衰えて新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てることです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架とは、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違ってくるでしょう。職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが鈍くなるかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点ではみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(下注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言いました。ここの「命を失ったら」の「失う」と、その前の35節で「命を失う」と二度出てくる「失う」ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う動詞を使っています(35節はαπολλυμι、36節はζημιοω)。36節の動詞(ζημιοω)の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、辞書によっては、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意するものもあるくらいです。「失う」と訳したら、ここのイエス様の教えは、命は地球より重し、になります。「傷がついている、欠陥がある」と訳したら、どうなるでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら、神との結びつきに生きて神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかということに関係することがわかってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」解説的に言い換えるとこうなります。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、神のもとに戻る道を歩んでいない。この世の人生が終わったら全て終わりになる。神のもとに戻る道を歩んでいる者は、この世の人生が終わったら新しい人生が待っている。イエス様を救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえ信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいたからだ。」ここで殉教の可能性が出ますが、そんな極限状況に至らなくても、罪の赦しの福音に立って生きていれば、永遠の命を先取りしているわけだから、その意味で今の命は失っていると言ってもよいでしょう。

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら(傷がついていたら)、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように解説的に言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりに生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手中に収めても何の得があろうか?この世の人生が終わったら全て終わりではないか?死を超えた永遠の命を望んでも、世界中の富を差し出しても永遠の命を買い取ることなどはできないのだ。」

詩篇49篇8ー9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。命は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることもできません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられたのです!神のひとり子イエス・キリストが犠牲の生け贄となって十字架の上で流した血が全世界の総資産をはるかに上回る代価、身代金になったのです。それをもって、人間を罪の支配から解放し、私たちの造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

それですから、兄弟姉妹の皆さん、神はこれだけのことをして下さった方であることを忘れないようにしましょう。そして、私たちがイエス様により頼みながら古い人を日々死なせ新しい人を日々育てていくとき、神は私たちをいつも守り導き助け出してくださることを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(下注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

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