説教:木村長政 名誉牧師

 

22回 コリント信徒への手紙 61214節 201892

パウロが書きました、コリントの信徒への手紙を読んできました。まず前回の611節でパウロは力強い神がなさる御業のメッセージを語り上げました。さて、今日の聖書の12節を見ていきますと、何とも奇妙な話に変わっていきます。12節「わたしには、すべての事が許されている。しかし、すべての事が益になるわけではない。わたしには、すべての事が許されている。しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」同じようなことを、1023節でも言っているのです。313ページ1023節です。「すべてのことが許されている。」しかし、全てのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。つまり、何をしてもかまわない、と言っているのです。キリスト者は何をしてもかまわない全く自由とされているのである。この言葉はよほど広く用いられていたとも考えられます。この言葉がどこから出たのか分かりません。当時、キリスト教に反対していた一派の人々がよく言ったのではないかとも言われます。しかし、パウロも一応納得していたのでしょう。マルチン・ルターの「キリスト者の自由」ということから見ると、信仰の極意は神の前に全く、自由に生きること。何も妨げられない、こうした徹底した、自由から言えばパウロがここで書いている「すべてのことは許されている」という事がキリスト者の願いであったかも知れません。何をしてもかまわない、から、自分のしたい放題の事をして、他人の迷惑など考えないで、自分のしたいことをするんだ、ということになると、それは、自由に対して「わがまま」というものであります。自由である中にも自分の願望を満たすだけでなく、自分でおさえねばならない面もあるわけでしょう。パウロはガラテヤ書51節で言っています。「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放して下さった」と言っています。問題は何が自由かということです。一切が許されて思うままの生活ができるのか、してもいいのかということが大きな問題になります。そこでパウロは言います。今日の聖書の12節で「すべての事が許されていると言いながら、すべての事が益になるわけではない」と。何をしてもいい、と言われてもそれなら、何をしても何か自分に得るかと言うとそうとは限らないでしょう。好き勝手な生活をすれば人にきらわれるでしょう。自分も傷つくに違いありません。従って自由と言う事は、人間のあこがれでありながら実に難しいのであります。パウロは「すべてのことは許されている」と言いました。しかし、それだけでは本当ではないことを知っていました。許されるとはどういうことかということであります。従って、パウロはすべての事は許されていると言っても、すぐに「すべての事が益になるわけではない」と言って、その上に、又、すべての事は許されていると言って、しかし、私は何ものにも支配されているわけではないと書いています。ですから、コリント教会の人々が、すべての事は許されている、と言っていることに賛成しているように見えながら、それがただでは済まないことをよく知っていました。自由であることに対して自分も異論はない、しかしその真の自由はそんなに簡単に得られるものではないと言いたかったのです。人が自由になりたいのは自由になれば何でも益が得られるからであるということでしょう。しかし自由になってはたして、あらゆる益を得ることができるでしょうか。自由と言うのは自分のしたいとおりにする事でありましょう。しかし、自分のしたいとおりにする事で自分自身は完全でもなければあらゆる事が分かっているわけでもありません。こうすれば自分が得をすると思ってやってみても必ずしも益にはなりません。なぜなら自分が何でも知っているわけではありませんから。これなら益になると思っていた事が必ずしも益にはならないからであります。簡単に言えばしたい通りにした人がいつでも成功するとは限らないのであります。それなら人間は神のような自由を持つ資格もなく力もないということであります。そこに限りない難しさがあります。しかし、もう一つ、自由にとって重大な事があります。それはパウロがその次に言ったことです。「すべての事は許されている。しかし、私は何ものにも支配されることはない」というのであります。自由というのは自由のしたいとおりにするのですから、何ものにも支配されないはずです。しかし、そういかない。したい通りにするのだと言うのは実は自分自身の奴隷になることです。もっと言えばそこに自分の欲望に支配されることになるのではないでしょうか。自由と言っても、何の自由を求めるのでしょう。それはただ心の自由ではありません。その心の自由が体を動かすのです。それなら、自由というのは体を自由に用いるということになります。しかしその体の自由と言う事が又大変難しいのであります。事由がほんものであるのなら、自由であると共に神のみ心にかなったものでなければならないでしょう。その体の自由についてパウロはそれを二つに分けました。一つは食に関する事、もう一つは性に関する事でありました。人間の体がどういう働きをするかパウロは医学者ではありませんから、体の機能を医学的なことからではなく、自由ということから考えたわけです。体の自由な使い方ということから、神との関係を考えようとするのであります。自由は体の用い方に関係があります。それなら、その用い方がどのように神にかかわるかと言う事が大切なことになってくる。神に対する責任の問題となるのであります。」そこでパウロはいきなり「食物は腹のためである」言って続いて「体は不品行のためではなく主のためであり、主は体のためである」と書いています。すると体と言っても腹を用いることと不品行とは別であるとしているのではないでしょうか。腹は食物のためであるとは言っていますが神のためとは言っていません。それに対して不品行の場合には、体は神のためであるというのありましょう。従って体と言っても神との関係
とそうでない部分があることになります。腹も体の一部であるにちがいありません。しかしパウロに言わせると腹は食物をとるだけで他に何の影響も与えるものではない。」腹が食物をとったからと言って主に対してよいとか悪いとかということにならないはずである、と言いたいのであります。体がキリストの体の肢であるのだから、不品行の方は問題になると言うのであります。15節以下にそのことについて書いてあります。腹も食物もキリスト者の生活には関係がなくなる、いずれ人間の自然の生活と共に滅び去ることになる。だから自由の問題では問題にする必要がないのであります。ところが不品行の場合には違います。不品行はただ体の問題であるというわけにいかないのです。不品行によってからだそのものを与えるのであるから、からだが誰のものかと言う事が大事な問題なのです。そこでパウロはそういう説明を省いていきなり「からだは不品行のためではない」からだは元来、主のためにあるばかりでなく、主も又、からだのためにあるのだからであると言うのであります。パウロが言いたいことはからだが主のためにあるという事であります。それゆえに主もからだのために心をお用いになるということであります。からだと主との関係をよく考えねばなりません。しかし、どうしてからだは主のものになったのでしょうか。それだけでなく、そのからだを不品行に用いてはいけないのでしょうか。人間は神によって造られたものである。だから、自分のからだも神のために用いるべきではないか、と。良く分かります。ところが、パウロはもっと厳密に言います。からだは造られたものというのでなくからだは主のものなのであると。主が所有し主のために用いるべきものなのであります。それなら、からだが主のものであるというその根拠はどこにあるか。どういう意味で主のものであるか、と言う事が重要なことです。それをはっきりさせて後のきびしい議論に進んでいくのであります。それについてパウロはこう言います。「神は主をよみがえらせたが、その力で私たちをもよみがえらせて下さるであろう」と言うのであります。これは前の事と結びつきにくいかも知れません。しかし、おそらく一つには腹と食物とはやがて滅びるということに対して神によってからだはよみがえらせられるそういう尊さを持っているのであるとパウロは言いたいのであります。もちろん、腹と体とは普通に考えれば何もちがった事はないに違いありません。しかし、主の復活と言うことから考えればそこに大きなちがいがあるのであります。人間の生活は神によって造られたというだけでなく、その後、罪を犯してしまった人間を救われたものであります。パウロがここによみがえりのことを持ち出したのはそのことのためであります。だからまず、神が主をよみがえらせたということを言うのです。主をよみがえらせたのは罪人を救うため十字架によって人を救うためにキリストを十字架につけてよみがえらせたのであります。だから、よみがえりの力によってとだけしか書いてありませんが、実は十字架と復活によって人を救い、人間をもよみがえらせた、従ってその結果、人間はまことに神のものとせられたのであります。神のもとなるということはキリストの体の一部分つまり肢になるということであります。それゆえに腹の問題とはちがってからだにはキリストの体の肢になるわけであります。だからその用い方が難しいということになるのであります。腹の用い方とはちがうというのはそういうことであります。信仰者の生活を始めてからもまた、肉の奴隷になる機会はいくらでもあるはずであります。それはコリント教会だけの話ではないはずであります。しかし、その事のためにパウロはコリント教会に対して事細かに注意を与えようというのであります。そのようにしてこの教会がまことにキリストのからだである教会になるようにとパウロは祈りつつ熱いメッセージを書いているのであります。<アーメン>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

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