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説教「神は大いなる方」フィンランド・ルター派福音協会SLEY会長トム・サイラ牧師、ルカによる福音書24章44~53節

サイラ先生は原稿なしで説教されたので、音声のみでお聞きいただけます。通訳は吉村宣教師。

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「いずみの会」合同講演会 北欧の宗教改革

5月14日日本福音ルーテルむさしの教会にて「いずみの会」(むさしの教会、スオミ教会、市ヶ谷教会から構成)の合同修養会として、吉村博明宣教師による講演会が催されました。以下は、その要旨です。


2017年5月14日 いずみの会(スオミ教会、むさしの教会、市ヶ谷教会)合同修養会

北欧の宗教改革

北欧の人々のアイデンティティ―形成に宗教改革が果たした役割とは?

SLEY(フィンランド・ルター派福音協会)宣教師・吉村博明

講演会の要旨、PDFファイル

1.はじめに

(1) 本講演の視点と限界

― 教会史の視点
北欧の宗教改革の推進者たちの神学や教義の分析ではなく、教会史として論じる。もちろん北欧諸国の一般史の知識も重要。
― 試論、序説として
北欧史の講座のある大学でも教会史を扱うところはあまりないのではないか?また神学部や神学校でも、北欧に特化した講義はあまりないのではないか?おそらく稀な試みなので叩き上げられておらず、至らない部分がある。よりよいものは後日に期す。
― スウェーデン・フィンランドが中心
講演者が北欧の言葉はスウェーデン語とフィンランド語しか出来ないため(ニューノルスクは音読してスウェーデン語から推測する読み方になってしまい時間がかかってしまう)。

(2) 北欧諸国の「先進性」と「ルター派性」とは関連性があるのか?

― 北欧の「先進性」についてのいくつかの指標
 ― 各国幸福度ランキング(国連持続可能開発ソリューションネットワーク)2017年発表
 1位 デンマーク
 3位 アイスランド
 4位 ノルウェー
 5位 フィンランド
10位 スウェーデン
 (日本は46位)

 ― 1人当たりGDP名目/購買力(USドル2016年)
3位 ノルウェー(70,392) /7位 ノルウェー(69,249)
7位 アイスランド(59,629)/17位 スウェーデン(49,836)
9位 デンマーク(53,744) /18位 アイスランド(49,136)
17位 フィンランド(43,169)/29位 フィンランド(42,165)
(日本は38,917ドルで22位)/(日本は41,275ドルで30位)
⇒ 意外なことにGDPは、福祉国家の北欧諸国も「経済大国」の日本もそれほど高くない。ただし、北欧の場合は残業はせず、1カ月以上の夏休みを取ってこの結果。日本の場合は長時間労働で休みもなくてこの結果。

 ― 報道の自由度(Reporters without Borders – press freedom index)2017年発表
 1位 ノルウェー
 2位 スウェーデン
 3位 フィンランド
 4位 デンマーク
10位 スウェーデン
(日本は10年位前は11位だったが、今年発表では72位)

 ― 男女平等ランキング(WEF The Global Gender Gap Report) 2016年
  1位 アイスランド
  2位 フィンランド
  3位 ノルウェー
  4位 スウェーデン
 19位 デンマーク
 (日本は111位)

 ― 国会の女性議員割合ランキング(列国議会同盟)2016年
 6位 スウェーデン(43,6%)  
 8位 フィンランド (42,5%)
11位 アイスランド (41,3%)
13位 ノルウェー   (39,6%)
17位 デンマーク   (38%)
 (日本は11,6%で147位)

― 北欧諸国の「ルター派性」について
  各国のルター派「主要」教会の正式名称と信徒(洗礼を受けた者)の国民に占める割合
 ― スウェーデン Svenska kyrkan(スウェーデン教会) ⇒ 63,2%(2015年)
 ― フィンランド Suomen evankelis-luterilainen kirkko/Evangelisk-lutherska kyrkan i Finland(フィンランド福音ルター派教会) ⇒ 71,9%(2017年1月1日)
 ― デンマーク  Den Danske Folkekirke(デンマーク国民教会) ⇒ 76,9%(2016年)
 ― ノルウェー  Den norske kirke/Den norkse kyrkja (ノルウェー教会) ⇒ 71,5%(2016年)
 ― アイスランド Hin evangeliska lúterska kirkja/(the National Church)(アイスランド福音ルター派教会/国民教会) ⇒ 71,6%(2016年)
      ⇒ 各国とも国民の60~70%がルター派教会の洗礼を受けた教会員。教会員数600万の「スウェーデン教会」は世界第二位、欧州最大のルター派教会。       

  ⇒ 一見すると北欧諸国の「先進性」と「ルター派性」は何か関係がありそうに見える。「ルター派」だから「先進的」?「ルター派」には社会を「先進的」にする何かがある?果たしてそうか?

― 各国のルター派教会の近年の動向および各国民の教会に対する態度
  ― 各国とも最近30年の間、教会所属率は90%台から減少し、歯止めがかからない。
    ⇒ スウェーデン、フィンランドの1980年の所属率は、それぞれ92,9%、90,3%。デンマークは1984年に91,6%、ノルウェーは2000年に85,9%、アイスランドは1998年に90%。
  ― 同様に各国とも新生児に対する洗礼が減少している。
    ⇒ フィンランド全国で2010年は80%、2016年は69,5%の新生児が洗礼を受けた。ヘルシンキ監督区では2006年に61,7%だったが、2016年は42,7%。市民の非キリスト教化が進んでいる。
 ― 規則正しく主日礼拝に通う信徒はどこの国も10%以下。
 ― 教会に所属する信徒でも、世論調査から、自分の都合や好みで所属する態度「教会が教えるようには信じない」が明らかに。

― 北欧各国人のアイデンティティーの構成要素としての「ルター派性」
  ― かつて国民の90%以上がルター派教会に属していた頃は、属していないと「普通の」スウェーデン人等々に見なされない雰囲気があったと思われる。スウェーデン人等々であればルター派教会に属するのが当たり前というような。
  ― 仮に各国人のアイデンティティーの構成要素を①母語、②北欧 の「先進性」に対する誇り、③ルター派キリスト教徒の3つとすると、③が弱くなってきていると言える。教会所属率がこのまま減少すれば、いつかはルター派教会に属していなくとも、「普通の」スウェーデン人等々でいられることになり、構成要素は①と②だけになるのではないか?

⇒ 「ルター派性」が「先進性」をもたらすというような関連性は、少なくとも近年は見られないのではないか?安易な結びつけは禁物。
  ― 最近の「先進性」の例として、同性婚の承認とそれぞれの教会の対応について。
    ― 北欧各国は2000年代に入って、同性婚を認める法律を制定。その後を追うようにして各国の教会も認める決定をした(フィンランドは今年春の教会会議にて審議入り)。
    ― スウェーデン教会ストックホルム監督区のエーヴァ・ブルンネ監督は世界初の女性かつ同性愛者の教会監督として知られるが、クリスチャン・トゥディ紙(ネット版2015年10月9日付)によると、ストックホルム市内の教会から十字架等キリスト教シンボルを撤去すべきと提言。理由はイスラム教徒の気分を害するから。

⇒ もし、国と教会が「先進的」であることが、同時に国民の大多数が過去同様に教会に属し、かつ「自分の都合」でなく「神の都合」に合わせて神を信じるのであれば、国や教会の「先進性」は「ルター派性」と関連があると言えるだろう。しかし、少なくとも教会所属率が減少しているこの30年間はそういう関連性は見られない。

 

2. 宗教改革とルター派王国の誕生

(1)前史

― 北欧のキリスト教化
― 中世カトリック教会での教会生活
― カルマル連合(1397-1523)
 デンマーク、スウェーデン(フィンランド)、ノルウェーの同君 連合

(2)スウェーデン・フィンランド

 ― 経緯     
1522 「ストックホルムの血浴」事件
1523グスタフ・ヴァーサ、国王に選ばれる。カルマル連合終わる。
1526 スウェーデン語訳の新約聖書
1527 ヴェステロース議会の決定及び国王令
 ― 教会財産の没収、教会は王権に服することに。国教会としてのルター派教会の歩みが始まる。
1529 オーレブロー会議
1531 ラウレンティウス・ペトリ、初の非カトリックの大司教(大 監督?)に就任。按手式を執行した司教がローマ法王の按手 を受けた者だったので、ペトロ以来の「使徒承継」は保持さ れることに。
 ⇒ 「司教」、「監督」という用語について。日本語では異な   る言葉に訳仕分けるが、英語、スウェーデン語、フィンランド語は皆同じ言葉(bishop, biskop, piispa)である
1536 教会会議
 ― スウェーデン語ミサが義務化、聖職者の独身制廃止     
1541 グスタフ・ヴァーサ版聖書
1544 ヴェステロース議会の決定
 ― スウェーデン全土は「福音的/福音主義的」と宣言 ⇒ 「福音的」、「福音主義的」という用語について。北欧のキリスト教のコンテクストでは、聖書に基づかない伝 統や慣習や制度には権威を認めないという意味合いが強 く、その意味で「非カトリック」ないし「プロテスタント」と同義。現代アメリカの「福音派」と同一ではない。
1593 ウプサラ会議の決定
 ― 国教会は、国王の信仰に関係なく福音ルター派であり続ける。
 ― カトリック的伝統への対応、ルター派の教義の解釈・理解をめぐる対立の解消をはかる。
 ― 聖書が全ての土台、聖書自体にない事柄を付け加えてはいけない。国教会の信条集を採択。
 
     フィンランドの動向
 1530年代 改革志向の司教シュッテが優秀な若者をヴィッテンベ ルグ大学に送る。その一人がミカエル・アグリコラ。
 1548 年 アグリコラの手によるフィンランド語訳新約聖書
 1554 年 アグリコラ、グスタフ・ヴァーサ王によりトゥルク監督 区の「監督」に任命される。

(3) デンマーク・ノルウェー

 ― 経緯
 1536 クリスチャン3世のもと、デンマーク-ノルウェーはルター派と宣言。教会財産を没収。法王側にとどまった司教、聖職者は投獄、国外追放。
 1537 ヴィッテンベルグ大学のルター派神学者ヨハンネス・ブーゲンハーゲンがデンマークにてルター派教会の組織化、制度化を進める。

(4) 北欧諸国とルター派信条集

 ― スウェーデン 
 1660年代、議会がLiber concordiaeを王国の信仰の基礎に定める。
 1686 議会が制定した教会法の中に、使徒、二ケア、アタナシウス三信条、アウグスブルグ信条、1593年のウプサラ会議の決定に加えてLiber condordiaeを国教会の信条集に定める(つまりはLiber concordiaeとウプサラ会議の決定ということ)
 ― フィンランド スウェーデン王国の一部なので上に倣う。1809年にロシア帝国の大公国となった後、1869年議会が制定した教会法では上記からウプサラ会議の決定が除外(つまり、Liber concordiaeのみということ)
 ― デンマーク、ノルウェー
 デンマーク王はLiber concordiaeに署名せず。それで、両国教会の信条集は、使徒、二ケア、アタナシウス、アウグスブルグ、ルターの大小教理問答書のみ。
    

(5) 重要人物と業績

スウェーデン 
― オラウス・ペトリ
― ランレンチウス・ペトリ
― ランレンチウス・アンドレア

フィンランド
― ミカエル・アグリコラ(「フィンランド語の父」)

 

3. 一般教会史の中の北欧ルター派国教会

(1) ルター派正統主義の時代(1600年代)

(2) 啓蒙時代と敬虔主義(1700年代)

(3) 神学の多様化とリバイバル運動(1800年代以降)
 ― 1809年 フィンランド、スウェーデン王国からロシア帝国の自治的「大公国」として同帝国に編入
 ― 1814年 ノルウェー、デンマーク統治からスウェーデン王国と同君連合に
 ― スウェーデンとフィンランドにおける敬虔主義的なリバイバル運動に対して、それから決別する形で、フィンランドに「福音主義的」ルター派のリバイバル運動が誕生。1873年に「フィンランド・ルター派福音協会(SLEY)」を結成。敬虔主義が信仰の「主観化」を目指したのに対して、福音主義的ルター派は、イエス・キリストによって打ち立てられた救いを「客観的」なものとして信仰を捉えなおした。

(4) 岐路に立つ北欧のルター派国教会(現代)

 ― 1905年 ノルウェー、独自に国王を選出してスウェーデンから独立
 ― 1917年 フィンランド、国家権力を議会に移譲する法律制定。ソヴィエト・ロシアが離脱を認めて独立。一時君主制を目指すが、1919年に共和国憲法を制定
 ― 1944年 アイスランド、デンマークとの同君連合を解消して共和国として独立
  ― 国家権力との結びつきをやめる方向
    ― スウェーデン 2000年に国会が関与する「教会法」の制度を廃止して、教会会議が決定権を持つ「教会令」に替える。これで同国のルター派教会は、原則的には、福音ルター派的な一「宗教団体」となる。
    ― フィンランド 2000年の憲法改正で、監督の任命権は大統領から大監督に。ただし、国会が関与する「教会法」の制度は存続。
 ― 国家権力の正統性が民主主義に基づくことから来るジレンマ
   例として、婦人牧師制、同性婚
    ― スウェーデン 第二次大戦後、教会会議にて女性に牧師職を認めるか否かが議論されるが、1957年に政府がそれを可能にする法案を国会に提出すると、翌年の教会会議は婦人牧師制を採択。
    ― 各国国会は同性婚を認める法律を制定。各国の「主要」ルター派教会もそれに倣う。以下は各国の法律制定年(カッコ内は教会が承認した年)スウェーデン2009年(2009年)、ノルウェー2009年(2017年4月)、アイスランド2010年(確認できず)、デンマーク2012年(2012年)、フィンランド2015年、施行2017年(2017年審議入り)。
    ⇒ 教会が認められないと言っていたことも、国家側が民主主義で決定すれば、教会内の勢力関係は容易に逆転し、認められることになる。

 

 4. おわりに 誰が宗教改革・ルター派の伝統を受け継いでいるのか?

(1) 宗教改革 ― 「変革」か? 「信仰浄化」か?

⇒ スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語では、「宗教改革」は、英語、ドイツ語同様にReformationを使うが、フィンランドでは「信仰浄化」を意味するUskonpuhdistusが一般的。それらの意味については、講演者が2016年11月15日に日本福音ルーテル神学校の夕刻礼拝にて行った説教「AD FONTES - 源へ」を参照のこと。

(2) 「主要」教会内部のリバイバル運動体と外部のルター派教会

― 各国には「主要」教会の流れに与しない小さなルター派教会が「主要」教会のような公的な地位を持たず、宗教団体として存在する。
― SLEYは国教会と摩擦を繰り返しながらも、現在国教会の公認ミッション団体の地位はなんとか保てている。SLEYの最近の動向と挑戦について。
― フィンランドにはSLEY以外にも国教会の公認ミッション団体の地位を保てている、比較的新しいルター派リバイバル運動体もある。
⇒ スウェーデンやフィンランドでは、「リバイバル」を意味する言葉は「目覚め」(väckelse/herätys)を用いる。英語圏の「リバイバル」と同一視できないのでは?ところで、講演者の見方としては、フィンランドの新しい「リバイバル」運動は、アメリカ的な「福音派的」なところがあるようにも思える。

(3) 今後の注目点として

― 北欧各国人のアイデンティティーの構成要素として“ルター派性”は薄れて、いつかは消滅するのか?
― それとも、“ルター派性”自体が自由自在に変容して構成要素であり続けられるのか?その場合、変容した“ルター派性”は“ルター派的”と言えるのか?誰がそれを決めるのか?
― 変容を認めない人(例としてSLEY)は、将来の北欧各国人のアイデンティティーから見て異端なものになっていくのか?

(了)

説教「創造主に目を向けよ、主は約束を守られる方」 神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録17章22-34節

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/05/sekkyou_HY_2017_5_21_Apt17.mp3

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日の説教は、使徒言行録17章の出来事、使徒パウロがギリシャのアテナにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したことをもとに解き明しをしようと思います。皆様もお気づきのように、説教題が予告していたものから変わりました。最初の考えでは、哲学者たちからみて福音は愚かな教え、何かずれている馬鹿馬鹿しいものにしか聞こえなかった、それがパウロの弁明を聞いて、ずれているのは福音ではなくて人間の知恵の方であったとわかった人たちも現れた、そのことを中心にお話ししようと思っていました。それで、「ちょっとずれてるキリスト教」という題にしたのですが、説教をまとめているうちに、それまで陰に潜んでいたものが急に明るみに出るようなことが次々とあって、解き明しする聖句は同じなのですが、結局は「創造主に目を向けよ、主は約束を果たされる方」という題に落ち着きました。キリスト教がずれている、などと言うのは説教題として相応しくない、と聖霊の戒めだったのでしょう。もちろん、私の本意は、実はずれていないのだ、ということを言いたかったのですが、それだったらなぜ、「ぜんぜんずれていないキリスト教」にしなかったのか、と言われてしまったでしょう。でも、それも当たり前すぎてあまりいい題に思えません。いずれにしても、「ずれてる」、「ずれていない」など、あまりいい言葉ではなかったと思います。反省しています。

それでは、本題に入ります。パウロは二回目の地中海伝道旅行でギリシャのアテネに到達します。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人たちの妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と少し様子が違っていました。まずユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわり、町中に溢れていたのは、金や銀や石を用いて人間の頭で考え作った神々の像、すなわち偶像でした。いくら異なる宗教の人たちのこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統にしっかり立つ人ですから、心穏やかでなかったことは言うまでもありません(16節)。

パウロはまず、いつものように現地のユダヤ人会堂でイエス・キリストの福音を宣べ伝えます(17節)。その内容は記されていませんが、イエス様は神が約束されたメシア救い主である、そのことは彼の十字架の死と死からの復活で明らかになった、そういう内容だったのは間違いないでしょう。宣べ伝えた相手は、ユダヤ人と「神をあがめる人々」です。「神をあがめる人々」というのは、使徒言行録に何度も出て来るギリシャ語の言葉セボメノスσεβομενοςで、意味は、ユダヤ人以外の人つまり異邦人でユダヤ教に改宗した者を意味します。さらに、まだ改宗はしていないが、旧約聖書の天地創造の神を信じ出し、メシア救世主の到来を信じるようになった異邦人も指します(使徒言行録13章43節、50節、16章14節、17章4節、17節、18章7節)。地中海世界のユダヤ教の会堂には生まれながらのユダヤ人の他にこうした異邦人のシンパもいたのです。パウロは伝道旅行をする時は大抵、まず初めに彼らのところに行って、ナザレのイエスが約束のメシア救世主である、と伝えたのです。ところが、イエス様をメシアと受け入れないユダヤ人たちが追いかけるようにやってきては妨害、迫害する。会堂の人たちの多くは背を向けてしまいますが、会堂の外の人たち、つまり完全な異邦人に宣べ伝えると、そちらの方が受けがいいということが起きてくる。パウロの伝道旅行は大体そういう構図でした。

アテナではユダヤ人からの妨害、迫害はなかったということは驚くべきことでしたが、もっと驚くべきことが待っていました。それは、パウロがまさに旧約聖書の伝統と何の関わりもない人たちとその精神世界とに文字通り火花を散らすようにぶつかり合ったということです。どういうことかと言うと、町にはエピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちが大勢いました。二つとも古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。エピキュロス派というのは簡単に言えば、人間にとって最高の善は幸福である、それはこの世で獲得されなければならない、なぜなら、人間は死ねば魂は分解して原子になってしまうから、そういう唯物的な考え方をしていました。言葉は悪いですが、死んでしまえば元も子もない、だからこの世の中ではとことん幸福を追求しよう、ということでしょう。ストア派というのは、森羅万象を支配するものを「神

とするが、それは人格がなく心のない法則のようなものである。人間はその法則に従って生きることで道徳的になれる。ただ森羅万象には周期があって大きな火で焼かれては繰り返される。魂は死んだ後も残るが、それは人格のない神のところに行って時期が来たら森羅万象と一緒に焼かれてしまう。なんだか想像を絶する話ですが、これだけ大いなるものに支配されていると観念できれば、本能や欲望を抑えてひんやりと平静に生きていけるかもしれません。

さて、パウロはユダヤ人会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで前述したような哲学者たちと議論することになりました。その結果、アレオパゴスというところに連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを監視する役割も果たしていました。

パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。これは実は、世界史上、とても大きな意味を持つ出来事なのです。というのは、まさにこの時、二つの異なる文明が武力的にではなく知性的な衝突をしたからです。一方は、人間の理性の力を信じて万物を理性をもって推し測ったり説明しようとする哲学的なギリシャ・ヘレニズム文明、もう一つは、天地創造の神という万物を司る方自身が人間に対して自分のことや自分の意思・計画を啓示するという信仰のヘブライズム文明です。簡単に言うと、一方は人間の内部に備わる理性に重きを置く文明、もう一つは人間の外部から来る神の啓示に重きを置く文明、この二つがぶつかったのです。この二つは、水と油の関係と言っていいくらい、お互いに相いれないものです。ところが、こうした人間内部の理性を重んじる流れと、人間外部から来る神の啓示を重んじる流れの二つは本質的には対立するものであるはずなのだが、いつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

ところで、ギリシャ文明が理性を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そうすると、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?多神教のギリシャ文明も信仰の文明ではないか?それがどうやって理性を重んじる哲学的な文明と一緒になれるのか?詳しいことは専門家に聞かなければなりませんが、一つはっきりしていることは、これらの神々は、人間の思いや願いや恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それが人間の外部にあるように置かれて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテナで遭遇したものは人間知性の最先端を行く哲学と多神教の神々ではありましたが、実はそれらは皆、人間内部から生み出されたものなので、同じ範疇に入れても良いでしょう。

ところで、私たちの聖書の神ですが、これは人間の思いや願いや感情の結晶、シンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った方で、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。

2. さあ、パウロは人間の理性に重きを置く人たちに、どう神の啓示を伝えたでしょうか?まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりして、どうしようもないやつらだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことを取り上げ、それを取っ掛かりにして、自分はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の多神教信仰ではもちろん、前述したような名前と役割の神々がいろいろいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか、ということですが)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあることが、パウロにとってちょうどよい取っ掛かりとなったのです。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りない物があるかのように人間にいろいろ世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて下さるのである。ここで、神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点が逆転します。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について話します。神はそれぞれの民族に歴史と居住する地域を決めた。新共同訳では、神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。原文の正確な意味は「前もって定められた歴史上の出来事を与えた」ということで、それぞれの民族の歴史の出来事は前もって定められているということです(英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳は、ずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。)

神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのかと言うと、それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャの人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。新共同訳では、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」となっていますが、探し求めても実際は見いだすことはできていないのです。そういうわけで、原文は新共同訳のような楽観的な意味はないと思います(動詞のアオリスト・オパティブの意味をよく考えなければなりません)。「もし、手探りをしてでも、見つけることができるのならば」という、見つけるのはちょっと厳しいんじゃないかな、という意味だと思います。(ドイツ語もそういう訳です。英語、スウェーデン語、フィンランド語は「多分、見つけることができるかもしれない」と見つけられる可能性に踏み込んでいます。)

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられてちゃんと見つけることが出来きる方である、見つけられれば、もう偶像など作る必要もなくなるのだ。神が私たちから遠く離れていないというのは、あなたたちの先人の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)の詩にも歌われているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいました、と指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということですが、これがギリシャ人も神が近くにおられると考えられる根拠として言われています。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に対して、途絶えてしまっていた結びつきを回復してあげようと働きかけて下さっている、そういうふうに、人間界、自然界という大きなことはひとまず脇において、一人一人の小さな人間に神が自分から働きかけている、そういう視点で神は近くにおられると言っているのです。神と人間の途絶えてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。イエス様が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあれば、順境の時も逆境の時も神から絶えず守りと良い導きが得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げてもらえ、永遠に自分の造り主の許にもどることができるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを全ての人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している、それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。ギリシャの詩人の詩の中で歌われる神の近さは、このような神からの人間に対する働きかけとそれを受け取ることから生じる近さではありません。近い、近い、と言っても何を根拠に言っているのかわかりません。

このようにパウロと詩人の考えは根本的に違っているのですが、パウロは見かけ上の共通点を切り口にして教え続けます。神の「子孫」と言っているギリシャの言葉ゲノスγενοςは少しわかりにくい言葉で、英語は日本語訳と同じ「子孫」、フィンランド語は「親族」、ドイツ語、スウェーデン語は「我々は神を起源とする」とまちまちです。要は、人間は神の血筋を引いていると言っておきながら、金や銀や石を使って人間の頭で考えて作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はこんなものの子孫なのか、こんなものに起源を持つのか、つじつまが合わないではないか!君たちは自分で何をしているのかわかっていないのだ、なんと無知なことか!

ここでパウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、大目に見ることは終わってしまったのである。それを知らせる出来事が起きたのである。何かと言うと、死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのである。神は全ての人が「悔い改めるように、と命じておられます」とありますが、この「悔い改める」というのはギリシャ語のメタノエオーですが、これの正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。なぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか、と言うと、ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に誰が迎え入れられて誰が入れられないかの審判が行われる。まさにそのために方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならない。もちろん、パウロはここまで立ち入っていませんが、神がこの世を裁く日を決めたということの詳細は実に旧約聖書の預言に基づいています。預言されたことが本当に起きるということが、一人の者の死からの復活が起きたことで確証が与えられた。そして、その者は最後の審判の日に裁きを司られる方である。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員たち、哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?彼らは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神は、全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと常に共にある神である。全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる。これらのことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として与えられたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにも異なっていました。もちろんパウロもそのことを知っています。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスはメシア救世主だったと言って始めなかったのでしょう。それにしても、死者の復活ということが彼らにとって一番の躓きの石になったようです。先にも述べたように、エピキュロス派にすれば人間は死ねば魂は原子に分解してしまうのだし、ストア派にしても魂はいつかは燃やされてしまう。加えて、神が人間を罪の支配から救い出そうという意思を持って計画を立ててひとり子をこの世に送ってそれを実行するというのは、人格を持たない法則のような神からあまりにもかけ離れています。

つまりは、理性の知性を磨きあげた人たちからみて、パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある者たちが嘲笑ったのも無理はありません。別の者は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう、と言いますが、哲学者というのは疑問や関心があれば日が暮れるまでとことん議論し合う人たちです。そうしないでこう言ったのは、もうこれで十分、お引き取り下さい、ということを丁寧に述べたのではないかと思われます。人々は席を立ちました。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったかもしれません。

 

3. ところが、そうではなかったのです。何人かの人がパウロの後について行きました。ついて行った人たちの中で信仰に入った者が出たのです。信仰に入るというのは、イエス様を救い主と信じることですから、アレオパゴスを出て行った後で、パウロからさらに教えを聞いて、イエス様のことを聞いたのです。彼らがアレオパゴスでのパウロの話を聞いて、どのようにして、もっと聞いてみようと思うようになったのか、それについては何も記されていません。ただ、背景全体から考えると、次のようなことではないかと思います。

これまでずっと何かおかしいと思いつつも、何がどうおかしいのか、はっきりさせようにも、伝統の重みとか、知識人の言葉の重みとかに遮られて明確にできないでいた。例えば、自分たちが神に起源を持つと言いながら偶像を造って崇拝することの矛盾。そして、死んだら全て消滅してしまうとか、冷徹な法則の一部分のようにしか生きられないのなら、この世で生きる意味と目的は本当にあるのか?それが、パウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を創造した神で、人間に自分を見いだしなさいと働きかける神であるということ、この世を去っても消滅しない命があり、その命を生きられる世が来ること、それが本当に起こることの確証として一人の者が死から復活させられたということを聞かせれる。では、その者とは誰なのか?ここまで来たら、あとはイエス様がメシア救い主であるという福音を聞くことだけです。この福音を聞いた時、天地創造の神は約束されたことを守り、それを必ず実現される方であるとわかったでしょう。不確かさと変転極まりないこの世にあって、信頼して絶対に大丈夫な方がおられるというのは、何と励まされ勇気づけられることでしょうか?

兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じ信頼を持つことができ、同じ励ましと勇気が与えられます。そのことを忘れないようにしましょう!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「神の知恵」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章20~25節

第5回

コリントの信徒への手紙Ⅰ   1章20~25節「神の知恵」

今日与えられた御言葉は私たちに励ましを与えてくれる言葉です。神の救いを語ってくれる言葉です。<こういう言葉は何度読んでもいいところです>神の救いの見事さに心打たれるものがあります。では、まずゆっくり味わいながら読んでみましょう。20節です、「知恵ある者はどこにいる、学者はどこにいる、この世の論者はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」ここには神の救いの御業の見事さ、それに対して人間の業と知恵の惨めさとが鮮やかに示されています。この世は自分の知恵で神を知ることができないと言っているのです。私たちが求めたいのは神様から力が与えられることです。そして勇気と希望が与えられることでしょう。しかし、ここでは神の救いが人間の力に比べられているのです。十字架の言には神の力がある、と18節で告げていました。それなら人間の知恵や力はどこにあるのでしょうか、それをいきなり「知者はどこにいるか、学者はどこにいるか」と問うてきます。知者と言うのはただ知識を持った人、ということではありません。神の知恵であります。その知恵は人の救いになるのだ、と言っているのです。

世の中にはこうしたらあなたの人生は幸せになりますよとか、こうした人生もあります、といった知恵はいくらでもあります。しかし十字架の知恵に比べたらそれは物の数ではない、と言っているのです。学者というのも世間で言う学者ではありません。コリントはギリシャ文化や貿易の最も盛んな栄えた町でしたから学者と言われた優れた人も多くいたでしょう。しかしここでは律法の学者となっています、またある訳では聖書の学者のことと書いてあるといいます。聖書と言う場合この時代、もちろん旧約聖書のことであります。いずれにしろ神のことについて知っている専門家というに違いありません。それならば神のことについて知っているといっても、そんなことは十字架の前にいかに空しいかということであります。神のことについて知っていると言う者はどこにいるか、いや彼らは神を本当に知ることができない者たちではないかということであります。この世の論者というのは、この世にあってこの時代あって、いろいろと議論をしたがる人々ということでしょう。ある訳では物を書く人や評論家と訳してあります。こういう仕事をしている人々がそのまま悪いわけではないでしょうか。十字架の救いにおいて神がなさったことに比べたらその知恵において、その力において、いかに貧弱なことでありましょう。それは多くのことを語りながら結局は救いを与えることはできないからであります。神様は十字架をお与えになってこれらのものを愚かしいものとしてしまわれたのです。人間は多くの知恵を持っているつもりであります。それらの知恵に時として感動してしまう程のこともありましょう。しかし神からご覧になればそれらのものは愚かしいのであります。なぜなら救いを与えることができないからであります。

ローマ人への手紙1章18~20節を見ますと「人間は神を知ることができたのに神を知るに至らなかった」と書いてあります、なぜか。18節にこうあります。「不義によって心理の働きを妨げる、人間のあらゆる不信心と不義に対して神は天から怒りを現されます。」それで今日の聖書のコリント第Ⅰ1章の方の21節では「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」とあります。ここのところをある訳ではこう言っています。神は理性の助けによって神を知る力を与えておられた。しかしそれはできなかった、ということをもうすでに含めて言っているわけです。人間は長い間理性と言うものを持って神を求め続けてきたということも言えるでしょう。しかしそれと同時にそのようにして神を知ろうとするのには神が見えるはずである、ということがなければなりません。人はみなそう思って神を探し求め神について語ってきたのであります。しかし神を見出すことはできなかったのであえります。なぜでしょうか。それは人間には罪があるからであります。神を知るというのはその辺の物を知ることとは違います。人を知るように知るのは神を知ることは神を愛することと同じであります。ですから神を求めようとする者に罪があっては神を知ることができないのであります。罪ある者は神の前に出ることができません、従って神を知ることができないのであります。この世は自分の知恵によって神を知るに至らなかったのであります。ここには自分の知恵と書いてあります、理性も神から与えられたものであるにちがいありません。しかし人間はそれを神の下さった知恵として用いず、つまり信仰によって用いることをしないでこの世の知恵として用いました。その故にこの世の知恵を持っては神を知ることができなかったのであります。旧約聖書は人間が自分たちの力で神にまで至ろうとして神の怒りに会ったことを書いています。バベルの塔です(創世記11章)同じようなを人間は繰り返ししていると言ったら良いでしょう。21節を見ますとこの世は神を知ることができない、それは神にふさわしいことである。そこで、であります。

この「そこで」の文字は大切な文字であります。字の通り訳せばなぜならばそういうことだから、とでも言うべきところであります。簡単な「そこで」ではなくて、それにはこういうわけがある、それゆえに、とその後に言うことの重要さを示している言葉ばなのです。「そこで」の次に神がお喜びになった、という字が来ます。ある訳では決心されたとなっています。そういうわけなので神は宣教の愚かさをもって人を救うことをことを喜んで決意されたとなる。人間がその知恵を持っては神を知ることができなかった、そこで神は宣教の愚かさを用いられた。それが宣教の理由である、ということになります。宣教の愚かさと書いてありますが宣教とは説教と言う字であります。人間が言わば人知の限りを尽くして神を知ろうとして果たし得なかったのであります。それに対して神はただ福音の説教で救いを与えようとされたのであります。しかもただ救うとは言っていません、信じる者を救うのであります。キリストを信じる者を救うのであります。実はキリストをお遣わしになってご自身を現されたのです。人がその罪のゆえにどうしても神を知ることができないのを、神はキリストによる救いによって罪人を救うという方法でご自分を人にあらわされたのであります。こうして人は救われる、と共に神を知ることができるのであります。宣教は説教のことであると言いました、その説教は福音の説教、つまり福音を告げることであります。宣教という字は宣言することであります、説教の内容は何でしょうか。イエスという人が子として神の子として来られ罪人のために十字架につけられたのであります。まことに単純な話であります。神を求める知恵に比べて実に簡単な報告です。神がなさったことの報告であります、事実の宣言です。それは人には愚かにしか見えないかも知れません、しかしここにこそ神の知恵があるのです。

コリントにはユダヤ人とギリシャ人、いろいろな人種の人々が集まっていましたがこの二つの民族が主な代表でありました。そしてユダヤ人はしるしを求める、ギリシャ人は知恵を求めると言っています。しるしのことを、ある訳では奇跡による証明と言っています。ユダヤ人は神に選ばれた民であると誇り神の恵みを受けながら神のなさることを信じることができませんでした。それで彼らはいつも神の恵みが与えられているということの証拠を求めていました。それに対してギリシャ人は知恵を求めました。それは哲学でした、人間の理性に基づいて事を考えることこそ彼らの生きがいでありました。それは全ての人間の考え方を代表しているようなものです。しかしこういう人間にとって神の救いである十字架はどう見えたでありましょうか。しるしを求めて止まないユダヤ人にとっては一人の人間が神としてこの世に来た、そして十字架につけられるというようなことは奇跡的な証明どころかとんでもない信じがたいことと思われました。神の子が十字架にかかる等ということは神を汚すことになると考えたのです。ギリシャ人にとって十字架はどうでしたか、いうまでもなく愚かな話であります。ひとりの人が罪のために死ぬなどと言う事は理屈にあわないことであります。彼らが十字架を侮ることもよくわかります。

しかし私たちは十字架につけられたイエス・キリストを宣言し続けるのです、ここにのみ救いがあることを知っているからであります。これこそは召された者自身にとっては神の力また神の知恵であるキリストだからであります。24節でそれを言っています。今まで救われる者、信じる者といっていたのにここでは「召された者」になりました。救われるのはキリストの救いを信じるからであります。しかしどうして信じることができるようになるのでありましょうか。自分から進んで信じたのでありましょうか。実はそうではありませんでした。私たちも信じられなかったのであります、ためらったのです、決断がつきません。しかし神様が呼んでくださったのであります、神様が招いてくださったのであります。神に召されたにすぎないのであります。それで十字架のキリストがどんなに強力な力か、どんなに深い知恵をか、を知ったのであります。ここまで示されてみて私たちもしみじみパウロと共に言わざるを得ません。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」。十字架は孤独な救い主の業のように見えます、しかし十字架こそはあらゆる人間のどんな力よりも強いものではないでしょうか。十字架は理屈に合わないと軽蔑します、しかし神の言葉がそこに生きているのであります。   アーメン

説教「善き門 良き羊飼い」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章1-16節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様はたとえを使って教えます。イエス様は自分のことを、命を賭けて羊を守る良い羊飼いである、とか、また羊が盗まれたり危害を加えられないようにする囲いの門であるともおっしゃられます。ああ、イエス様はそういうお方なんだな、と理解できたつもりになるのですが、それでは、羊とは誰のことを指しているのか?羊飼いとしてまた門としてイエス様は、誰を守ると言っているのか?羊を盗んだり危害を加えようとする盗人、強盗とは何を指しているのか?狼が来たら、イエス様は、命を捨ててまで羊を守ると言われるが、その狼とは何を意味するのか?そして、羊が守られている囲いとかそこにある門とは何か?さらには、羊飼いが羊を連れて行く牧草地とは何を意味するのか?いろいろ不明な点が出て来ます。実は、これらのことまでわからないと、イエス様のたとえの教えを理解できたことにはなりません。

 イエス様はこのたとえを、敵対するファリサイ派の人たちに話しました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の宗教エリートです。イエス様は、自分が何者で、何のためにこの世に送られてきたかを教えるためにこのたとえを話しました。しかし、ファリサイ派の人たちはたとえの意味を理解できませんでした(6節)。私たちとしては、本日の説教を通して、宗教エリートたちよりも賢くなってお家に帰るようにしましょう。

 

2.ごくありふれた話しが何かにたとえられる

 イエス様はまず、1節から5節まで、ごく一般的なこと、常識的なことを話します。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

羊の飼育が大事な産業になっているところでは、塀のような囲いをつくって、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材で造られるものだけでなく、石で造られるものもありました。泥棒が「乗り越える」というのだから、決して垣根のような低いものではなく、それなりの高さがあったと言えます。イエス様の話し方から判断すると、囲いの中には、一人の所有者だけでなく複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、門番に間違いなく所有者であると本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の所有する羊を呼び集める。羊は、生まれた時から同じ羊飼いに飼われているので、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられたのでしょう。別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して、囲いの外に出て行きます。囲いの門についてですが、門番が開け閉めをすることから、扉付きの門と言った方が正確でしょう。

以上の話は、当時の人が聞いたら、ごく身近なあたりまえな出来事の描写でした。イエス様がこの話をした時というのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間で、イエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだ、と言う人もいれば、逆に、安息日には仕事をしてはならないという律法の掟を破ったのだから神由来などではないとか、賛否両論の議論が沸き起こりました。宗教エリートたちは、イエス様が神から送られた方であるということをどうしても信じようとしない。それでイエス様は、彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39~41節)。これの続きとしてイエス様は、本日の羊飼いと囲いの話をされたのです。

その内容は、先ほど申し上げましたように、当時の人なら誰にでも頭に思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様はこの話を単なる写実的な話をするためでなく、別の目的をもって話したのです。その目的とは、自分が何者で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにすることでした。従って、この話を聞いて、そう、確かに羊は扉付きの囲いの中で守られるし、自分の羊飼いを間違えないで牧草地に連れて行ってもらうものだ、その通りだ、などと納得してしまっては、この話をたとえとして理解したことにはなりません。この話から、イエス様本人のことやその使命についてわからなければ、理解したことにはならないのです。それで、このたとえを理解できるために、そのなかにある二つのことに注目する必要があります。まず、羊が無事に生活できるためには、しっかりした門ないし扉がついた囲いが必要であること、そして、羊が安全に牧草地に到着できるためには、良い羊飼いが必要であること、この二つです。誰もが日常的に当たり前のことだとわかることを引き合いに出して、イエス様がどんな方でどんな使命を託されて送られてきたかということを、同じように身近なこととして理解させようとする、そういう狙いがたとえにはあるのです。

 

3.イエス様は羊の囲いの門

 イエス様は、自分は羊の囲いの門である(ヨハネ10章7節)、と言ってたとえの解き明しを始めます。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なことに即して見れば、確かに、門を通って囲いの中に入る羊は危険から免れて安全地帯にいることができます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。ところが、ここの霊的な意味は絶大です。ギリシャ語に即してみると、こうなります。「わたしを通って中に入る者は救われることになる。中に入り、そして外へ出て、牧草地を見いだすことになる。」

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れの中に入ることを意味します。どんな群れかというと、その一人一人が天地創造の神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持てて、この世の人生の順境の時にも逆境の時にも絶えず神から見守られて守りと導きを得られる者たちの群れです。万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げられて永遠に造り主のもとに戻ることが出来る者たちの群れです。この永遠に戻ることができる「造り主のもと」と言うのは、「神の国」とか「天の御国」とか呼ばれるところです。先ほどのイエス様の言葉の中に「中に入り、そして外へ出て、牧草地を見いだすことになる」という下りがありました。まさに群れの中に加わった者が今度はイエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に迎え入れられます。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

このように、この世においても次の世においても天地創造の神との変わらぬ結びつきを持てて生きらえること、これが「救われる」ということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様という門を通って救われた者の群れに加わるということです。

それでは、なぜ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けないと、そのように神との結びつきが持てず救われないのか?それは、神との結びつきを持てるためには、イエス様を抜きにしてはありえないからです。どうしてイエス様抜きにはありえないかと言うと、もともと人間は天地創造の後に造られた時には良いものとして神との結びつきを持っていたのですが、神に対して不従順となって罪が内部に入り込んでしまったために神との結びつきが失われてしまいました。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内部に入り込んでしまった罪を取り除かなければならない。しかし、それは不可能なことでした。この問題を解決するために神は、ひとり子のイエス様をこの世に送ることにしたのです。送って何をしたかと言うと、あたかもイエス様が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に他人の罪を全て負わせて、その罰を十字架の上で受けさせたのです。このようにして、神はひとり子イエス様の身代わりの犠牲によって人間の罪を赦すことにしました。それで、人間の側でこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しはその人にその通りになるのです。罪の赦しを受けた者ですので、その人はもう神との結びつきは回復しています。罪の赦しの中で生きるので、そこからはみ出すようなことがあっては神のひとり子の尊い犠牲をないがしろにしてしまうことになるとわかり、罪ではなく神の方を向いて生きるようになります。こうして罪に敵対する勇気を持ち、罪に手を染めないように生きようとします。

このように、私たちが自分たちの造り主である神との結びつきを回復して、その結びつきの中でこの世の人生を歩むことができ、そして次の世で造り主のもとに戻ることができるようになるためには、イエス様を自分の救い主と信じるかどうかにかかっています。ヨハネ14章6節でイエス様自らが次のように述べています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞ηがついています。定冠詞とは、英語で言えば、皆さんもご存知のtheです。まさに、イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということになります。それは、数多くある道、真理、命の一つではなく、まさにこれこそ、という決定版です。そういうわけで、救いに与る者たちの群れに加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門なのです。「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)というのは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって罪の赦しの救いを打ち立てる以前は、天の父なるみ神のもとに戻ることができる救いは存在しなかったということです。誰かが、自分こそが人間を造り主のもとに導けるなどと言っても、それは真理でも真実でもなく、人間を別のところへ導く誤った道でしかなかったのです。

 ここで、羊を盗んだり危害を加えたりする盗人とか強盗について考えてみます。今見たように、人間を救いの群れから連れ去って、どこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい、滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が、救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、その外に連れ去ろうとするものがいろいろあります。

もし人が、自分の造り主である神を全身全霊で愛せないとか、隣人を自分を愛するが如く愛せないとか、そういう神の意思になかなか忠実になれない自分の真実の姿に気づいて悲しむうちはまだ霊的に健康な証拠です。しかし、この世は、そんなことはいちいち悲しんだりこだわったりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、神は愛だから認めてくれるよ、とかいうような惑わしと誘惑の声で満ちています。まさに創世記3章に出てくる蛇の手口と同じです。惑わしと誘惑に乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気づかなければ、赦しの必要性も感じられなくなります。赦しの必要性が感じられなくなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、そこでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまいます。

盗人、盗賊とは、このような惑わしと誘惑の声と態度をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けるべきではなく、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の教えがあります。それから直接イエス様によって世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。さらに、イエス様をこの世に送られた父なるみ神の意思が記されている律法や預言があります。すなわち、イエス様の声は、全聖書のなかに聞きとることができるのです。

 

4.イエス様は良い羊飼い

 これで、救われた者たちの群れに加わる時、イエス様という門を通らなければならないことが明らかになりました。次に、群れに加わった者たちが今度はイエス様を羊飼いとして囲いを出て牧草地を目指して歩んでいくことをみてみましょう。ここでは、良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないと言うのです。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために、人間の全ての罪を請け負い、それから生じる全ての罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、この犠牲の死を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けます、と言ったのです。

ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに導くものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。それをイエス様は十字架の死を遂げることで一緒に滅ぼしてしまったのです。まさに羊のために命を捨てる羊飼いとして振る舞ったのでした。

次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価として、人間を罪の奴隷状態から解放された状態に買い戻した、贖い出したのです。偽りの羊飼いである雇い人には、同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には既に具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者が羊の群れを飼うことをやめさせて、神の意向に沿った真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現だったのです。

終わりに、イエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われていることを見てみます。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いていく、霊的な表現で言い換えれば、イエス様は双方を、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということになります。それでは、この囲いに入っている羊と入っていないほかの羊とは何を指すのでしょうか?

この囲いに入っている羊と言うのは、端的に言えば、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、ユダヤ人キリスト教徒です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていないほかの羊とは、ユダヤ人以外の諸民族で後になってイエス様を救い主と信じた人たち、異邦人キリスト教徒です。彼らは初めの頃はまだ囲いに入っていませんでしたが、やがてイエス様という「善き門」を通って囲いに入って、神との結びつきを持つ群れに加わり、そしてイエス様という「良き羊飼い」に導かれて、最初のグループと一緒に牧草地を目指すようになりました。この異邦人キリスト教徒のグループは具体的には、初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていったキリスト信仰者です。イエス様は、この二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。

意外なことに思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分しているもっとも主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ人かまたは「その他大勢」のいずれかです。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架で人間を罪の支配から贖う業を行って、この二つのグループ、つまりユダヤ人と「その他大勢」を一つの体として神と和解させたのです。

この視点はとても大事です。というのは、キリスト教と聞くとすぐ、それは西洋の宗教で日本人がイエス様を救い主と信じたら欧米人になびいているように見られがちです。特に、今般導入されることになる小学校の道徳の教科書の検定で「パン屋」が「和菓子屋」に書き換えられなければならない時勢では、そのような見方はますます強まっていくでしょう。しかしながら、聖書の大著者である天地創造の神から見たら日本人も欧米人も「その他大勢」にしかすぎず、本当は他の民族に大きな顔できる立場にはないのです。

エフェソ2章18~ 22節の使徒パウロの言葉は、そのような、民族の違いを超えたキリスト信仰者のこの世での立ち位置、「その他大勢」であろうがなかろうが関係なく共通したこの世での立ち位置をよく言い表しているので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。

「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように        

 

 

宣教師館の窓から 「さよならの力」は復活の信仰にあり、 吉村博明 宣教師

窓

桜の開花が近づいた頃、新聞や電車の広告に伊集院静氏の新刊「さよならの力」が目に留まった。氏が執筆している「大人の流儀」シリーズの第7巻で、同シリーズは既に160万部売れていると言う。私も、「さよなら」には、別離がもたらす辛い現実に足を踏み出させる力があると思っている。ただ私の場合、そう思うのは、キリスト信仰と関係があるからとわかっているのだが。もし伊集院氏がキリスト信仰者でなければどういう道筋で「さよならの力」を見いだしたか興味がわき、それで本を手にした。氏がキリスト信仰者でないことは、本書の内容からすぐわかる。

青年期に弟を事故で失い、大人になってからは妻を病気で失った伊集院氏は、深い喪失感の中で苦しみ抜いて考え続けた結果、次のことに思い至る。「いつまでも俺が不運だ、不幸だと思っていたら、死んでいった人の人生まで否定することになってしまう。短くはあったが、輝いた人生だったと考えないといけない。」(p.183)

他にも同じような知恵ある言葉があるので引用する。「たとえ三つで亡くなった子供だって、その目で素晴らしい世界を見たはずです。だから『たった三つで死んでしまって可哀想だ』という発想ではなくて、『精一杯生きてくれたんだ』という発想をしたい。そうしてあげないと、その子の生きた尊厳もないし、死の尊厳も失われてしまうのです。

やがて、歳月は、私たちに彼等、彼女たちの笑ったり、歌ったりしているまぶしい姿を、ふとした時に見せてくれるようになります。」(p.186)

長い間、去って行った人たちが、どこかで独り淋しくうつむいているのではと憂えていた感情が、今は、彼、彼女の笑顔が浮かぶ時さえある。」(前書き中)

これらの言葉を生み出した背景には、氏の個人的な体験のほかに、東日本大震災をはじめとする近年日本を襲った自然災害の犠牲者や被災者に対する氏の共感があることは言うまでもない。

もちろんキリスト信仰にあっても、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱く。ただし、キリスト信仰の場合それは、死者が復活させられる日が来るという復活の信仰と表裏一体になっていると私は考える。どういうことかと言うと、人間は死ぬと、宗教改革のルターも言うように、復活の日が来るまでは安らかに眠る。痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時を持つ。そして復活の日が来ると、朽ちない復活の体を着せられて、天の御国に迎え入れられる。

そして、そこは、懐かしい人たちとの再会が待っているところである。
亡くなった人は復活の日が来るまでは眠っているだけなので、仏教で言われるように仏の世界に到達するための修行の旅に出るということはない。亡くなった人が仏の世界に到達できますようにと、一生懸命香を焚いて釈迦を宥める必要もなく、お腹が空くだろうか喉が渇くだろうかなどと心配する必要もない。安らかに眠っているのだから。

そう言うと、キリスト教は死者をほったらかしにする冷たい宗教と言われてしまうかもしれない。しかし、キリスト信仰では、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い大切なものとして心にしまっておく。その人と共に過ごした日々を与えてくれた天地創造の神に感謝する。神が与えて下さった日々だから、思い出はなおさら貴重なものとなる、と言うか、亡くなった人は安らかに眠っているだけなので、関わりを持てるのは過去の思い出しかなくなってしまうのだ。それも、飛び切りの、いつまでも輝きを失わない思い出が全てになるのだ。そういうわけで、キリスト信仰は過去の思い出以外には何も残らないと観念してしまうのであるが、仏教では亡くなった後もその人とコミュニケーションや結びつきを懸命に保とうとすることが大きく異なるのではないだろうか。加えてキリスト信仰では、亡くなった人がこの世にいる者たちを見守ったり、助けたり導いたりすることもない。その役割は全て天地創造の神に任せられているからだ。

過去の思い出だけでは空虚さを満たせないのではないか、亡くなった人とのコミュニケーションや結びつきを保ち続けないと生きていく力が生まれないのではないか、と思われるかもしれない。しかし、復活の信仰がある限り、そんなことはないと思う。復活の日、それまで「思い出」という形にしかすぎなかった懐かしい人が再会の時、体を伴った現実の人に変わり、かつて引き裂かされてしまったものが縫い合わされて、神に全ての涙を拭ってもらう(黙示録21章4節)、そういうふうに信じるのが復活の信仰である。そういうわけでキリスト信仰者というのは、亡くなった人の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱き、その人と共に過ごした日々を神に感謝し、復活の日の再会の希望を抱いて今を生きる者なのである。

伊集院氏は素晴らしい思い出の大切さを強調する一方で、お母上が仏壇の前で亡き次男に語りかけることに違和感を覚えない。また、思い出の人が自分の身体の中に生きていてそれが生きる力を与えているとも考える。キリスト信仰から見れば、まだ「さよなら」と言いきれていないのではないか、と思われるかもしれない。見えない相手に語りかける場合、キリスト信仰では天地創造の神以外にはないからだ。復活の信仰がないところでは、思い出を大切にすることと、亡くなった人とのコミュニケーションを保とうとすることは両立するということか。それから、キリスト信仰では、思い出の人が身体の中に内在化することもない。というのは、生きる力を与えるのはあくまで三位一体の神だからだ。

亡くなった人の素晴らしい思い出を大切にすることと、復活の信仰がしっかり結びついていることをよく示す例として、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の最終場面をあげることができる。この小説は、いろんなジャンルの小説が合体したような壮大な小説で、いつだったか村上春樹氏がインタビューで自分は三回読んだと言っておられた。(私はまだ二回である。ところで「騎士団長殺し」の各章のタイトルが長めなのは「カラマーゾフ的」?)。

問題の最終場面とは、カラマーゾフ家の三兄弟の運命がそれぞれ決まった後のところである。無頼漢の長男ドミートリイは本当は無実なのだが父親殺しの判決が下ってしまいシベリア流刑となる。無神論者の次男イワンは理性を超える神の摂理を受け入れられず、宗教からの自由を追求すればするほど逆に別のものに束縛されるジレンマに陥り、ついには精神に異常をきたしてしまう。三男のアリョーシャはロシア正教の信心深い青年で、兄たちの運命を見届けたら故郷の町を出て行こうと決心する。

最終場面は、イリューシャという結核で死んだ少年の葬儀である。柩の埋葬を終えて参列者は墓地からイリューシャの自宅へ向かう。中学の同級生たちは皆、大泣きに泣いている。実は彼らはかつてイリューシャをいじめていたのであるが、アリョーシャが間に入るようになってから次第に態度を変え、病気の可哀そうな同級生を励ましてあげようとしだす。しかし病状は好転せず、少年は死んでしまう。

イリューシャの思い出の場所にさしかかった時、アリョーシャと少年たちは立ち止まる。そこでアリョーシャは思い出の尊厳ということについて話し始める。今みんながイリューシャを本当に愛していたことがよくわかった、彼のことを決して忘れないようにしよう、本当に素晴らしい少年だった、と。すると同級生たちは皆口々に、あの子は父親の名誉のために一人で大勢に立ち向かった勇敢な親思いの本当に高潔な少年だった、と言う。そこでアリョーシャは、みんながイリューシャのこと、この葬儀の日のことをしっかり覚えていれば、将来大人になって何か悪いことをしそうになった時、それを思い止まらせる力になる、とさえ言う。あの時自分はあんなに素晴らしい少年を知っていたではなかったか、そして彼のことを一生忘れないようにしようと誓い合ってみんなの心が一つになったではなかったか、それを思い出せばきっと悪いことを思い止められる。そんな力があるのだ、と。そしてアリョーシャは続ける。

「この善良な素晴らしい感情で僕たちを結びつけてくれたのは、いったいだれでしょうか、それはあの善良な少年、愛すべき少年、僕らにとって永久に大切な少年、イリューシェチカ(イリューシャのこと)にほかならないのです!決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生き続けるのです!」少年たちは口々に忘れないことを誓う。その時 少年たちの目には「涙が光っていた」のであるが、この涙は先ほどの埋葬の後の涙とは別の新しい涙だったに違いない。

ここで一人の少年が突然、驚くべきことを言う。それは、まさに思い出を大切にすることと復活の信仰が結びついていることを示すものであった。驚きなのは、それを言ったのがコーリャという少年で、彼は同級生グループがイリューシャをいじめた時にも励ました時にもリーダー格だった。大人顔負けの頭の良いませた少年で、このまま行けば自己の能力を過信する無神論者になってもおかしくはなかった。その彼がアリョーシャに向かって、こんなことを言ったのだ。

「僕たちはみんな死者の世界から立ちあがり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」

感激してしまったアリョーシャは答える。
「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語り合うんです。」

「ああ、そうなったら、どんなにすてきだろう!」と叫ぶコーリャ。
ここでアリョーシャは少年たちに向かって、さあ、イリューシャの家に葬儀の会食をいただきに行こう、みんなが大好きなホットケーキが出されても、うしろめたい気持ちを持たなくていいんだよ、と促す。アリョーシャと少年たちは皆、元気よく手をつないで歩き出す。こうして、この壮大な小説は幕を閉じる。

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イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことについては、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とラザロ(ヨハネ11章)の例が詳しく記されている。両方の場でイエス様は、死んだ者は「眠っているにすぎない」と言って生き返らせる。もちろんヤイロの娘の場合もラザロの場合も、将来の復活の日に起こる蘇りが起きたのではない。娘もラザロもその後寿命が来て「眠り」についたのであり、今は本当の復活の日を待っているからだ。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったかと言うと、それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはいないということを前もって具体的に人々にわからせるためであった。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
― 兄ラザロの死を悲しむマルタにイエス様がかけた言葉(ヨハネ11章25節)

「この世のたび 終わるそのとき
主のみ国に うけ入れたまえ。
わがからだは 墓に在りて
いと安けき 眠りにつかん。

終わりの日に 墓はひらかれ
眠れるもの よみがえらさる。
わがからだの 朽ちぬものに
変えらるるは いともうれし。」
― 教会讃美歌366番「愛のいずみ」4節と5節

「カラマーゾフの兄弟」からの引用は、新潮文庫の原卓也訳による。

4月の手芸クラブのご報告

肌寒さの残る春の日、
スオミ教会手芸クラブは「白樺のピンクッション」を作りました。

最初にパイブィ先生のお祈りで始まりました。

用意された白樺の皮は美しく、滑らかな肌触りで、完成品を見ながら、丁重な説明にワクワク感が募りました。ボンドや小道具を使って形白樺のピンクッションを作り、沢山の原毛をチクチクして、針山は完成です。
原毛の色や質で雰囲気は違いますが、可愛いい完成品は嬉しいお土産になりました。

パイブィ先生からは、白樺細工の写真やお話、そして聖書日課を聴かせて頂きました。

聖書の箇所はフィリピの信徒手紙4章6節です。私たちは、遠慮しないで心配事の重荷を神様に引き渡したり、投げつけたりしていいのです。願い求めて感謝することの他にしなければならないことはありません。私のこの心配事を神様は、どのように解決して下さるだろうか、しっかり見届けてやろうという信頼の気持ちを持って待っていればいいのです。

5月の手芸クラブは、おしゃれな「つまみ細工」を予定しています。

 

 

説教「聖書が教える人生の目的」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章24~29節

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/05/Yoshimura_sekkyou_yohane20.mp3

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.見ないでも信じることができる信仰

本日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様をまだ見ていなかった弟子の一人トマスが、この目で見ない限り信じない、と言い張って、それに対してイエス様が「目で見たことに信仰を基づかせてはいけない」と戒めた出来事です。復活した主を見ることが出来たら、主が復活したことを信じてやろう、というのは全く当たり前の考え方です。弟子たちが見たと言っているのに信じられないとは、トマスは彼らがでたらめを言っていると思ったのでしょうか?ひょっとしたら、他の弟子たちには現れたのに自分にはないというのは不公平だという嫉妬も不信心を助長したのでしょう。結局、イエス様はトマスにも現れました。この目で見た以上は、もう疑うことはできません。お前は、私のわき腹に手を当ててみないと信じないと言っていただろ、ほら、触ってみなさい、とまで言われ、トマスはもう「私の主よ、私の神よ」と言って絶句状態です。不信心も嫉妬も吹き飛んでしまいました。

「わたしを見たから信じたのか?見ないのに信じる人は、幸いである。」ギリシャ語の動詞(アオリスト分詞)のニュアンスは、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」とか「見ないで信じ出した人々は幸いである」です。つまり、信じるきっかけに「見る」ということがなかった、別のきっかけがあって、それで信じるに至ったということです。それでは、そのきっかけとは何か?それについては後で明らかになります。

「幸い」というのはどういうことか?どうして「幸福」とか「幸せ」と言わないのか?「幸い」というのは、幸福は幸福でも、この世の物事に終始した幸福ではありません。死を超えた永遠の命に与っているがゆえの幸福です。死とか、死をもたらす罪に振り回されない、支配されない、それくらい天地創造の神に見守られて、神から祝福を受けて生きられるということです。仮に財産を多く所有していようとも、永遠の命と全く無関係に生きていれば「幸い」ではないことになります。このように、この世の基準からみて「幸福」度が高くても「幸い」とは限らないのです。逆に「幸福」度が低くても「幸い」であることがあるのです。

そういうわけで、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」というのは次のように言い換えられます。「復活したイエス様を見ないで、別のきっかけで彼を救い主と信じるようになった人は、神から祝福を受けて神に見守られてこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に神の御許に引き上げてもらえる。

もちろん、復活の主を見て信じた弟子たちが幸いでなかったということではありません。彼らが見たことを必死に人々に伝えたおかげで、多くの人たちが主を見なかったにもかかわらず、彼を救い主と信じるようになったからです。つまりイエス様はこうしたことが起きるために、これからは見ないで信じるようになることが肝要だ、と言うのです。それでは、どのようにして見ないで信じることができるようになるのでしょうか?見ることの他にどんなきっかけがあるのでしょうか?

弟子たちは、直接見ることでイエス様の復活を信じることが出来ました。復活したイエス様を見たことで、神の偉大な力が働いたこの方は真に神のひとり子であった、ということがわかりました。それでは、なぜその神のひとり子が十字架の苦しみを受けなければならなかったのか?それは、旧約聖書のイザヤ書53章等で預言されていたように、人間の罪を人間に代わって背負って、人間が神の罰を受けないで済むようにするための身代わりだった、まさに預言の実現だった、ということがわかりました。

それでは、見ない人たちはどのようにして、そうしたことがわかったのでしょうか?イエス様は天に上げられ、弟子たちや他の目撃者たちも、年月を経てこの世を去って行きました。しかしながら、イエス様を救い主と信じる人は増える一方でした。彼らは目撃者でなかったにもかかわらず。一体何が起こったのでしょうか?それは、直接の目撃者である使徒たちの、迫害にも屈しない証言を聞いたことが影響しています。迫害に屈しない命をかけた証言ですから、まさに真に迫るものがあったでしょう。聞いた人たちは、これは本当のことだと確信したでしょう。イエス様が昇天する前に既に目撃者だった使徒たちに加えて、昇天後にイエス様に出会ったパウロが加わりました。まず彼らの体験談や教えが、いろんな教会に送られる手紙の形にまとめられました。その中で、イエス様の出来事がいかに旧約聖書の預言の実現であるかの解き明しがされました。こうした使徒の教えと旧約聖書の解き明しに加えて、次に目撃者たちの証言録に基づくイエス様の言行の記録つまり「福音書」がまとめられました。このようにして旧約聖書に新約聖書が合体して、キリスト教の聖書が出来上がりました。多くの人がこの書物を読み、この書物に基づく教えを聞いて、目で見ていないイエス様を救い主と信じるようになりました。まことにイエス様の言われるような、見ないで信じるようになった幸いな人たちが誕生するようになったのです。

2.生きる目的を教える聖書

もちろん、人が聖書を読んですぐイエス様を自分の救い主と信じるようになるかといえば、必ずしもそうではありません。例えば、キリスト教は西洋文明の土台の一つなので、それを理解してやろう、そうすることで混迷する現代世界を読み解いてみようと言って聖書を読んでみても、イエス様が読む人にとって救い主になることはありません。また古代のオリエント世界の文化や宗教を知ろうとして読んでも同じです。さらには、イエス様を歴史上の思想家ないし社会改革者の一人とみなして読んでもイエス様が救い主になることはありません。思想家や社会改革者が死を超えた永遠の命など与えないからです。

それでは、どういう読み方をすると、古代オリエント世界にも、また西洋にも生きていない私たち、現代という時代のグローバリズムが渦巻く世界の中の日本にいる私たちにとって、イエス様が救い主となるのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒言行録の箇所が一つ参考になります。それは、ペトロが聖霊降臨の日に群衆の前で行った演説の最後の部分です。この長い演説の中でペトロは解き明かしをします。お前たちが死刑に引き渡したのも同然のナザレのイエスは実は旧約聖書に預言された神のひとり子であった。そのことが彼の復活で明らかになった。イエス様は異邦人の手に引き渡されたのだが、神はそうなることを全て前もってご存知で、お前たちにさせるままにしただけだ。そんなことも知らずにいい気なものだ。神のひとり子を死刑に引き渡すなどとは、なんと大それたことをしてしまったことか!

これを聞いた群衆は心に突き刺さるものを感じました。新共同訳では「大いに心を打たれ」と訳されていますが、それではペトロの言葉を聞いて感動してしまったことになります。そうではありません。ギリシャ語の(κατενυγησαν την καρδιαν)は文字通り「心が突き刺された」です。そこで群衆はペトロたちに「私たちは何をすればよいのですか?」と聞きます。ペトロの答えは、悔い改めなさい、つまり神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る生き方を始めなさい、そしてイエス様の名前に依拠して洗礼を受けて罪の赦しを受けなさい、そのようにして自分たちと同じように聖霊を受けなさい、というものでした。その結果、この日3千人が洗礼を受けました。キリスト教会が歴史上、誕生した瞬間です。

心に突き刺さるものを感じて、「私たちは何をすればよいのか?」という問いを発するというのは、それまでの生き方は間違っていた、それを続けることはもうできない、方向転換しなければならない、ということに気づいて、じゃ、何が正しい生き方なのか?目指すべき方向は何か?それを問うているのです。つまり、生きる目的を再考しているのです。

聖霊降臨の出来事というのは実は、人間が生きる目的というのはイエス様を救い主と信じることと切り離せないということをペトロが人々にわからせた出来事です。それを人々はわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。もちろん、この時の人々は、イエス様を死刑に引き渡すことに直接間接に加担した人たちだったので、反省の余地が大いにあり、それをペトロに指摘されて深く反省しました。私たちの場合はどうでしょう?私たちは別にイエス様を死刑に引き渡すことに加担していないのでペトロの演説を読んでも、同じように心に突き刺さるものはないのではないか?果たしてそうでしょうか?

「私たちは何をすればよいのか?」という問いは、生きる目的の問いです。その問いは、それまで目的と思っていたことが目的でなくなってしまった、追及するに値しなくなってしまった、まさに目的を見失った状態の時に出て来ます。あるいは、これまでさしたる目的もなく生きてきたが、何かの原因で今やそれをはっきりさせなければ生きられなくなってしまったという時にも出て来ます。いずれにしても問いは同じです。「私は何をすればよいのか?」そんなこと考えないでも生きていけるという人もいるかもしれません。しかし実際、新聞の新刊本の紹介を見ても、生きる目的を教えるというような本は沢山出ています。多くの人が生きる目的、何のために生きるのか考えたり悩んだりしているのでしょう。

何のために生きるのかという問いは、多くの書物に埋もれて忘れられてしまった感があるとは言え、聖書ももちろん答えています。聖書がどう答えているかと言うと、本日の日課に関連したところでみると、ペトロの演説の中に出てくる「神の計画」がそれです。これは実は本日の日課の箇所の少し前のところで言われています。使徒言行録2章23節ですが、神がひとり子イエス様を十字架の死に引き渡されるのを阻止しないで、そのままにしたのは、「お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで」そうした、と言っているところです。神が定めていた計画とは、人間が天と地と人間を造った神、人間に命と人生を与えて下さった神と結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、ということです。そこで、神との結びつきを持って生きるとは、どういうことかと言うと、順境の時であろうが逆境の時であろうがいつも神から守りと導きを受けられて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができる、そういう生き方をすることです。そのような神との結びつきを持った生き方は、もともとは人間にはあったものでした。しかし、それは失われてしまったのです。なぜかと言うと、旧約聖書の創世記3章で明らかにされているように、造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪が入り込んでしまったために、神との結びつきが失われてしまったのです。

この結びつきを回復させるためには人間の内に宿る罪を取り除かなければならないが、それは人間の力ではできません。それは神もよくご存知でした。そのため神はひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪を負わせて十字架の上で人間の代わりに罰を受けさせて、その身代わりの犠牲のゆえに人間の罪を赦すという方策にでたのです。それで、イエス様を救い主と信じると、罪の赦しがその人にその通りになるのです。罪が赦された者ですので、その人には神との結びつきが回復するのです。このようにして、人間が失っていた神との結びつきを回復する、これが神の人間に対する計画です。

心に突き刺さるもの、私たちは何をすればよいのかという問い、これらは、実は私たちにも関係しています。神のひとり子が犠牲になったのは、私たちの罪のためだったからです。旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたように、私たちが神の罰を受けないで済むようにと、そして私たちが神との結びつきを回復できるようにするためにイエス様は十字架の道を受け入れたのでした。もし、神のひとり子が私たちの罪のために犠牲になったことがわかれば、「何をすればよいのか」は私たちの問いになります。その答えはペトロが言ったものと同じです。悔い改めて、つまり、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生き、イエス様の名に依拠して洗礼を受けて罪の赦しの中に入り、聖霊を受けることです。

ここで罪とは何かについて一言申しておきます。罪とは、神聖な神の意思に反することです。神の意思は十戒の中に凝縮されています。十戒についてイエス様はどう教えたでしょうか?ふしだらな目で異性を見たら、たとえ行為に及ばなくとも姦淫の罪を犯したことになる、たとえ殺人をしていなくとも人を罵ったら第五の掟を破ったことになる、と。行為だけでなく、言葉や心の中まで問われたら誰も神の前で自分は潔白だなどと言えません。しかし、イエス様はそんな自分が神の罰を受けないで済むようにと犠牲になられた、だからイエス様は私の救い主です、そう信じれば、それで神から罪の赦しを得られて、罪が自分に残っているにもかかわらず罪の赦しの中で生きられるようになります。これが神との結びつきの中で生きるということです。いつの日か神の前に立たされても、イエス様のおかげで私にはやましいところはありませんと言っても大丈夫なのです。それにしても、この世はなんと罪に満ちていることでしょうか?心の中にある罪が大手を振って言葉や行いに現れるのを許している感じさえします。ペトロが本日の箇所で「邪悪なこの世から救われなさい」(使徒言行録2章40節)と言っているのは、私たちの時代にも向けられています。神との結びつきの中で生きるとは、罪の力よりも強い力の下にいて安心していられることです。罪が私たちの心を惑わせようとして甘い声をかけてきたり、また私たちを怯えさせようとして怒り声をかけてきたりしますが、そうした声は神の御言葉に耳を傾ける者には一時の耳障りな雑音にしかすぎなくなります。聖霊に一息かけてもらえば、埃のように飛んで行ってしまいます。

以上みてきたように、聖書を読んでイエス様を救い主と信じる信仰に至ることができるのは、聖書が次のことを教えていると気づくからです。まず、自分は化学物質の複雑な化合の結果生じた、そういう偶然の産物としてあるのではなく、この自分に対してお考えと計画を持つ方が造られたということ。次に、今自分は自分の造り主とどんな関係にあるかと言うと、その関係は崩れてしまっているということ。そして、その関係を回復するために造り主は何をして下さったか、と言うと、まさにひとり子イエス様を私たち人間のために送られたということ。こういうことを聖書は教えていて、そうなんだとわかって、やっぱり神との結びつきの中で生きることが大事なんだ、その中で生きなければならないとわかって、それが生きる目的だとわかった時、イエス様を救い主と信じるのは当然のことになります。このように聖書が人間の生きる目的を教えているとわかった時、イエス様は既に救い主になっています。

 

3.この世は仮住まいという視点

神がイエス様を通して与えてくれた罪の赦しの中で生きる人は、自分に注がれる恵みの大きさのゆえに思わずひれ伏してしまい、感謝と賛美を口にしないではいられなくなります。神を全身全霊で愛しなさい、隣人を自分を愛するが如く愛しなさい、隣人が神との結びつきの中で生きられるように働きかけなさい、というイエス様の言われたことが自分の一部になったような当たり前のことになります。

そのように生きる人にとって、この世とはどんな世界かということについて、本日の使徒書の箇所でペトロは「仮住まい」と呼んでいます。最後にそのことについて見てみます。ギリシャ語の言い方(τον της παροικιας υμων χρονον)は、「寄留者としての期間」ですが、「寄留者」とは、一時滞在者、その土地の人間ではなく、よそ者です。カナンの地でのアブラハムがそうでした。キリスト信仰者にとって、この世は自分の本当の土地ではなく、よそ者として一時滞在しているということですが、それは、本国が別にあるからで、その本国とは天の御国、神の国です。それは、今は神のもとにありますが、この世が終わりを告げ、今ある天と地が新しい天と地に創造し直される時に唯一現れる国です。キリスト信仰者はそこを目指して、この世を歩んでいます。もちろん、「仮住まい」と訳してもOKです。そう言うことで、「本住まい」が別にあることを意味していますから。

そこで、今生きているこの世を一時滞在の場所、仮住まいなどと言ったら、本住まいの天国が大事になってしまって、この世のことをないがしろにしてしまうのではないか、と思われるかもしれません。それは心配には及びません。キリスト信仰者にとって、この世で自分のものに見えるものは、本当は自分のものではなく、全て神から与えられたものです。伴侶にしろ、子供にしろ、肉親にしろ、家にしろ、仕事にしろ、自分の才能や身体的特徴にしろ、みな神から与えられたものと観念します。神から与えられたので、どう使おうが自分の勝手だ、ということにはならない。与えることが出来る神は、いつでも取り上げることも出来る。だから、完全に自分のものとして自分の欲望を満たすために自分だけで消化するために与えられたのではなく、神に与えられたものとして大切に用い、扱い、育てる。そうすることで、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛せて、隣人を神との結びつきに導くことができます。そういうわけで、この世にあるものは、実はみんな神からお借りしたもので、しっかり世話し正しく用いるようにと委ねられたものなので、そうするのです。

もし、この世自体が本住まいになって、自分たちはこの地の主人、よそ者なんかではない、この世の外に本当の住まい、本国などない、ということになれば、どうなるでしょうか?創造主に対する畏れがなくなって、全てのものは自分の欲望を満たす手段になってしまうのではないでしょうか?本日の使徒書の箇所でペトロは、人を公平に裁く方を父と呼ぶならば、この仮住まいの期間、畏れをもって生きるべきである、と教えています(第一ペトロ1章17節)。「公平」とは、ギリシャ語(απροσωπολεμπτως)では、人物が偉い人かどうか、人気のある人かどうか、また多くの人の支持を受けた人かどうか、全く考慮しないで、どんな行いをしたかに絞って裁く、という意味です。地位も何も関係ありません。全てを見通されてしまうのです。それで畏れを持つことになるわけですが、畏れをもって生きるなどと言うと、びくびくして生きる感じがします。しかし実は、そうではありません。ペトロはその後で言葉をどう続けていますか?キリスト信仰者というのは先祖代々受け継いだ空しい生き方から買い戻されるようにして解放された者である、その買い戻しにあたって支払われた代価は金銀のような情けないものではなく、神のひとり子が十字架で流した尊い血であった、それくらい私たちは価値あるものとして神から見られているのである、と。この買い戻しの中にとどまる限り、神の裁きの前に立つことになっても、イエス様の血をかけられて純白になった者として見てもらえるのです。神はまことに畏れるべき方ですが、その畏れというのは、感謝や大きな安心と表裏一体になっているのです。キリスト信仰とはなんと、重層的で全てを網羅した奥の深い生き方を与えてくれるのでしょうか!キリスト信仰者は自分でも気づかずにそれを手にしているのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「十字架の言こそ力」木村長政 名誉牧師、コリントの信者への手紙Ⅰ 1章18~19節

第4回 コリントの信者への手紙Ⅰ 1章18~19節

今日の礼拝では1章18~19節のみ言葉を聞いて見ましょう。前回の1章10~17節までの結論はキリストの十字架が空しくならないため、ということでありました。更に言えばこの手紙のひとつの願いはキリストの十字架が空しくならないように、ということであります。この手紙には多くのことが書いてあります。一貫したことを述べるのでなく、コリントの教会が持っている問題を次々に取り上げていくような書き方であります。しかしその問題についてもパウロが願っていたことは「キリストの十字架が空しくならないように」ということでありました。聖書がいつも願っていることはそのことでありました。従って18節にあります言葉「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが救いに預かる私たちには神の力である」この言葉は聖書の内容を代表する大宣言であった、と言って良いでしょう。18節のはじめに「なぜならば」と言う字が入っています。十字架の言を空しくしてはならない「なぜならば」十字架の言こそは神の力であるからである、というのであります。十字架の言こそは私たちの唯一つの力である。それゆえに何を行うにも十字架が空しくならないようにするのである、ということです。そこで17節を注意深く見てみますとキリストが私を遣わされたのは洗礼を授けるためではなく福音を知らせるためであった。しかもキリストの十字架が空しいものになってしまわぬように言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。この中ほどに「しかもキリストの十字架が空しいものなってしまわぬように」と言っています。

ところで18節の方では「十字架の言」というのであります、言というのであります、なぜそうなのでしょうか。それは言のない十字架は力にならないからです。だから十字架の言が大事なのです。キリストが十字架にかかられた時カルバリーの丘には三本の十字架が立ちました。キリストを真ん中に二人の盗賊が同じようにつけられたのであります。今日私たちは真ん中の十字架が他の二本の十字架とは比較にならない力を持っていることを知っています。しかし当時、例えばたまたまその辺りを通りかかった人がはたして三本の十字架が違うということを知ることができたでありましょうか。その人にとっては三本とも全く同じもので、何の違いもない犯罪者の十字架であるように見えたでしょう。ただ主イエス・キリストがどういうお方であったかを知っていた人だけがその違いを知ることができたでありましょう。人々が興奮しわめき騒いでいる中で主イエスに向かって立っていたローマの軍隊の百卒長だけがこのように息を引き取られた主イエスを見て「まことにこの人は神の子であった」と言われました。マルコ福音書15:39節にあります。これは今日の私たちの気持ちを代表するものであります。百卒長がどれだけキリストについて知っていたか分かりません。しかし彼は彼なりに裁判の場からの主イエスのご様子を見ていて「まことにこの人は神の子であった」と叫んだのでありましょう。十字架はただの飾りではありません、神の御子が私たちの罪のために死んでくださったのであります。それならばここに死なれたお方が神の子であり、その御子が私たちの罪のために死なれたのである、というこの事が分からなければこの死は一人の犯罪者の死となってしまうのであります。そのためには十字架の言が必要なのであります、十字架の意味が分からなければなりまsぜん。それもただ一度知る、というのでなくて幾度となくそれを知りそれを知るごとにそれによって与えられるものを悟るものでなければなりません

 

例えば机の上に十字架を置きます、それは悪いことではないでしょう。その時どのようにして十字架を見つめるのでしょうか。そこで十字架の言を聞くのであります。十字架の言を考えるそして祈るのであります、祈りの中で更に何かが与えられていくのでありましょう。十字架の言という場合、この言は漢字の二文字(言葉)の葉を取り除いた言という一文字で言います、聖書では特別な意味ある重要な言葉であります。ヨハネ福音書1章1節に出ています「始めに言があった。」この場合の言は主イエス・キリストのことを指しているのです。十字架の言、というものは第一には十字架の意味である。しかもその意味は御子が罪人のために死んでくださった、ということでありました。そうであればそれはただの意味ではなく特別の主張を持ち人々に訴えるようなものである、と言わねばなりません。それはただの話ではなくて人を救うことを告げるものであると言わねばなりません。そうすると十字架の言というのは人間の救いについて語るということになります。救いを語るということであればそれはただの話をすることではなくて、どうしてもこれを伝えてその人を救おうと言う事になるのであります。十字架の言が救いの言葉であるとすればそれはどういうことになるのでありましょう。第一に十字架の言を語る人自身がそれを救いの言葉であると認めなければならないでしょう。自分が十字架の言によって救われている、というのでなければならない。十字架の言を語る者は自分がそれによって救われたことを語るのであります。自分の救いであります。

例えばサマリヤの女が昼の暑い時井戸水を汲みに来て主イエス様に出会いました、主イエスと出会って井戸水の事からこのお方がメシヤだと知らされ救われたのです。自分が救われたことを語り他の人々に伝えていったのであります。上手には説明できないかもしれない、しかし自分はそれによって救われた、と語るのでなければ誰も信用してくれないでしょう。そうして見ると十字架の言は十字架の証しいうことになるのであります。それと共に全ての人に対してその人が救われなければならないことを告げなければならないでしょう。救いが必要なのにそんなものは関係ない、と思っている人にそれを悟らせねばなりません。証ししなければならないのであります。これが十字架の言であります。聖書はそのことを良く知っています、そこで十字架の言をただの言葉とせず、滅び行く者と救われる者とに分けて考えようとします。ある人にとってはいきなり滅びとか、救いとかいうことが突然なことかもしれません。しかし十字架の言がただの言葉でなくて人々に訴えるべき言葉であるとすればそれが救いの言葉になることは当然であります。まだ救いを必要としていないかも知れない、しかしこの言葉は救いを与えることを目的としています。人生の暮らし方とか生活の知恵とか、ということを問題にしているのではありません。あなたは救われなければなりません、ということをパウロは言おうとしているのです。そのことを別な言葉で言えば滅び行く者と言うことになるでありましょう。

キリストは十字架において私たちの罪のために死なれたのであります。それならここは滅び行く者と言わないで罪ある者と言えば良いのではないか。「滅びる」などという言い方は大げさであると思われるかもしれません。或いは古い言い方であると言われるかもしれません。しかし聖書はこれの方が罪ある者の実際の姿であると言うのであります・なぜなら罪があるというのは人間の状態ではありません。神の前に自分がどういう者であるかということなのであります。自分の罪に対してどういう責任をとるかという最も厳しい問いで問われている。その時その罪の責任を果たすことが出来なければ滅びるしか他はないことに気づくのであります。死は肉体の滅びになりましょう、しかしそれだけでなく罪の責任を問われそれに答えることが出来なければ一切の滅びになることが分かるのであります。十字架の言はそれを告げるのであります。しかしもしそのことに気づかないとしたら十字架の言ほど愚かしいことはない、十字架の救いほど愚かしいことはないでありましょう。

 18節で言っているように十字架の言はまことに滅び行く者にとっては愚かなのであります。それに対して救いにあづかった私たちにとっては十字架の言こそ強力な力であると宣言するのであります。「私たち」と言っているようにこれは実際に救いを受けた者の証言であります。理屈でもなければ説明でもありません。救いを受けてその力を知った者がそのことを証ししているのです。力という字はダイナマイトと言う字に用いられた字です、救いを受けた者から言えばこれは何もかも吹き飛ばしてしまうような力でありました。罪についての悩みもその恐ろしさもそれから出る不安も、どれもこれも消し飛んでしまって無くなってしまった、と言いたいのあります。この神の力こそがどんな人間の知恵や賢さをも打ち破る力でありました。教会の伝統と働きは救われた者の信仰の告白であります。    

アーメン・ハレルヤ

説教「希望がある」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書20章1−18節

 私たち人間の生活にはいろいろな悲しみがあります。たとえば仕事を失うこと、病気になること、また思い描いていた計画がすっかり変わることもあるかもしれません。未来を予言するのは難しいです。その中で、一番深い悲しみは、親しい人を失うことではないでしょうか。人生の望みがなくなる場合もあると思います。希望と人生の喜びが消えてしまいます。

マリアは最愛の人を失った、そう考えていたでしょう。『最も愛するイエスがなくなった』のです。喜びと望みを失ったことでしょう。

 聖書を開きましょう。

今日の聖書の箇所には、マリアの悲しみ、そして、奇跡と希望について書かれています。

初めに、悲しみについて少しお話したいと思います。今日の箇所を読みましょう。

1.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

2.そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 イエスは葬られました。信仰告白には「死んで葬られ」と表現されています。イエスと親しかった一人の女性の将来についての計画は「大きな質問」に変わったことでしょう。いったい何をするべきなのでしょうか。

次に聖書には奇跡について書いてあります。

弟子たちは走りました。

3.そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。

4.二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

弟子たちは驚きました。墓が空っぽだったからです。

7. イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

8. それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

 弟子たちは奇跡を見て、信じました。神様は何でも出来るということを表す奇跡でした。  

 最後は、希望です。

私たち人間はイエスの教えを少しずつしか理解できません。マリアもその一人でした。  

 9.イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

10.それから、この弟子たちは家に帰って行った。  

 マリアは泣いていました。慰めの神様はこのこともご存知でした。

11.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

12.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

13.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

14.こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった

15.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 マリアには、何が起こったのか、まだ完全に理解できませんでしたので、更にもう一つの言葉が必要だったのです。

 16.イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエスが現れて、マリアは何が起こったのかがやっと理解できて、喜びました。悲しみが消え去りました。主を見たからです。希望と喜びが与えられました。失った希望が戻ったと思います。  

 私たちも主にお会いする希望を持っています。

それが、キリスト者の希望です。

時代の混乱の最中にあって、キリストの教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。

 解放というのは、何でしょうか。

罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

このイエスの御業によって、私達は死と悪魔の力から解放されました。ですから、この生活のなかに色々な苦しみや悲しみがあっても、永遠の命の希望があります。

***** 

 祈りましょう

天の父なる神様。マリアは悲しみましたが、イエスに出会って、喜びました。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。

私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。  

 

洗礼式:颯良 君