聖金曜日 説教「希望の元」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書 19章 17−30節

去年の二月にイスラエルに行っていた時、もちろんエルサレムに行きました。エルサレムは、その時大変寒かった所でしたが、とても、とても面白かったです.聖書の歴史に関係がある建物、にわと道をたくさん見ました。

エルサレムのはイエスが歩いた苦しい道、Via Crux もあります。それを見ると色々な聖書の言葉を考え始めました。

例えば マタイによる福音書/ 27章32節

兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

イエスは本当に色々な苦しみを受けました.あなたの為にも、私の為にも.これは神様の人間には理解出来ない、愛でいっぱい計画です。

私達人間の生活の中にも苦しみがあります。多分ほとんど希望を失うほど大変な苦しみです.苦しい日があると希望はどこでしょうか。

苦しみを考えるとは三種類あると思います。 

初めに

自分のせいの苦しみです。例えば、歩行者が赤信号であっても賑やかな道をわたると、きっと交通事故になりますよ。そして苦しみにもなる。これは自分のせいの苦しみです。  

第二に

5歳の女の子が道を歩いていて、酔っている運転手の車に跳ねられるとします。誰の責任でしょうか。やっぱりその酔っぱらい 運転手の責任だと思います。警察もそう判断します。  

第三に

かわいい赤ちゃんが生まれるとします。お母さんもお父さんも喜んでいます。しかし、後一年で赤ちゃんががんで死ぬとわかる。父親と母親にとって大変な苦しみです。けれども、責任が誰にあるのか、分かりません。説明できない苦しみです。  

今日の聖書の箇所にも苦しみについて書いてあります。イエスの苦しみについてです。  

17−19 大変なでき事でした 

   ヨハネによる福音書/ 19章 17節

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

これは大変なできことだと思います。イエスはとても良い方ですから。  

どんな方なのでしょうか。イエスの人格というのは。  

イエスは父の偉大なる御業を喜び、人類の罪と悩みを見ては、大変苦しみました。

イエスは神が御自身にその使命をお与えになったことを知っていましたので、何も恐れることなく、権威ある者のように教えました。

イエスは御自分の民とその聖なる嗣業とを愛していましたが、同時に彼は人間のあらゆる制約から完全に自由でした。  

そして、イエスは良い業を背一杯なさいました。  

イエスの御業について

イ エスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同 時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。イエスは良い方だと言われても宜しいでしょうね。

これらのことを読むと、私達の人間の考え方で、イエスの苦しみは説明できません。私の知恵は足りませんと思います。  

また、イエスは人々からいじめをうけました。良い業ばかりなさったのに。  

 ヨハネによる福音書/ 19章 20節

イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 

しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。  

兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。  

そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。  

良い業ばかりなさっていたイエス様は、今いじめられました。悪口も言われました。着るものもなくしました。全部預言者が語られた通りです。  

大変な苦しみがあったのに 

ヨハネによる福音書/ 19章 25節

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。  

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。  

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。  

イエスはまだまだケアを考えていました。本当に本当に母親の世話をなさいました。これほどの愛は説明できませんね。  

次に

イエスの苦しみは人間の考え方では説明できません。しかし、神様は人間と全く違います。神様の考えは私達の考えを明らかに超えます。  

イエスの苦しみと言うのは、あなたと私のための苦しみです。  

イ エスは苦難と試練と死の危険を忍び、父の御旨に従順でした。父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与 えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、 代わってその身に受け、神の怒りを取り除いたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちを 罪から贖うための犠牲なのです。

イエスの苦しみの結果として、私達は希望を持っています。

キリスト者の希望というのは

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。  

最後に今日の聖書の箇所の終わりを読みましょう。  

ヨハネによる福音書/ 19章 28節 

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。  

そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。  

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。  

まとめて、この聖書の箇所を読むとイエスの道は本当に苦しい道でした。

それは、私達の罪人のためでした。これは不思議な愛です。これは、私達の希望の元です。 

祈りましょう 

天の父なる神様、あなたは御自分の御子を死に渡して、人間を救う計画を作ってくださいました。イエスは私達のために大変な苦しみを受け入れました。今日私達 は特にその苦しみを覚えています。イエスの苦しみも神様の計画の通りです。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行い は必要ではありません。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たち を助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。
聖書を読むと、贖い主のイエスがあと3日目に復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です、希望のもとです。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の 赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への 道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。

私たちは信仰によってあなた の子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人 生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招 き、また、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力に よって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を 照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。



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