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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の個所は、イエス様の二つのたとえの教え、「見失った一匹の子羊」と「無くした一枚の銀貨」の話です。子羊のたとえでは、100匹の羊のうち1匹がはぐれてしまって、持ち主が探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は衰弱していたかケガをしていたでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。銀貨の方は、持ち主の女性が10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話でした。
二つの話は、状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びはとても大きいので多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであると。そこで大事なことは、この二つのたとえは何についてのたとえなのかをわかることです。二つのたとえの終わりに同じ結論で結ばれていることに注目しましょう。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こる。「罪びと」というのは、天地創造の神の目に相応しくない者をいいます。「悔い改め」というのは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の意思に沿うように生きようとすることです。イエス様がこの二つのたとえで伝えようとしているのは次のことです。罪びとがそういう方向転換をして神の許に立ち返る生き方をし始めた時、神のおられる天上では大きな喜びが沸き起こる。天使たちも歓声をあげる。罪びとというのは、たとえの羊や銀貨のように見失われてしまったもの無くなってしまったものと同じなのだ。しかし、方向転換をしたら神に見つけてもらった者となって、その時天上では大きな喜びの歓声が沸き起こるということです。
実は、この二つのたとえはその次に来る、有名な「放蕩息子」のたとえの伏線して語られます。つまり、イエス様は「放蕩息子」のたとえが理解できるためにこの二つのたとえを先に話したのです。従って、「放蕩息子」のたとえが正確に理解できるためには最初の二つのたとえと一緒にみなければなりません。一般的に言って、イエス様の教えを正確に理解しようとしたら、その教えが言われているテキスト上のコンテクストと歴史的時代的コンテクストの両方を見なければなりません。教えをそれらのコンテクストから切り離して、いろんな人間的な分析を加えて解釈しようとすることも行われますが、そうやって出てきた解釈は、人間的には感動を与えるものでも、本当にイエス様が伝えたかったものと同じかどうか判断、評価できないといけません。ひょっとしたら全然関係ないものになっているかもしれません。もちろん、教えをコンテクストから切り離したら、絶対イエス様と無関係な理解になるとは申しません。関係あるかどうか判断、評価できるため、まずイエス様が本当に伝えたかったことをコンテクストに基づいて理解することから始めなければならないでしょう。
それでは、羊、銀貨、放蕩息子の3つのたとえが一緒に語られたコンテクストはどんなものだったかを見てみましょう。ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動をみて度肝を抜かれました。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもと交流し一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として3つのたとえを話します。つまり、羊、銀貨、放蕩息子の話は自分の行動を正当化するために話されたのです。これが、テキスト上のコンテクスト、出来事上のコンテクストです。
さらに時代的歴史的コンテクストに踏み込んでいきましょう。一つの手がかりとして、E.P.サンダースという歴史聖書学者が1986年に出した「Jesus and Judaism」という有名な研究書があります。タイトルを日本語に訳したら「イエスと第二神殿期ユダヤ教社会」ということでしょうか。何がこの書物を有名にしたかというと、ナザレのイエスの思想と行動を当時のユダヤ教社会のコンテクストにどっぷりつけて分析したからです。それまでは、とかくイエス様をユダヤ教から切り離す仕方で理解することが主流でしたから、この書物は歴史的イエス研究の方向を大きく変えるのに一石を投じました。
ただし、画期的な書物ではありますが、問題もいろいろあります。外国の有名な影響力ある本だからと言って、なんでもハイハイと言って無批判そのまま受け売りする必要はありません。本日の個所に即してみますと、イエス様が罪びとと交流したことが宗教エリートの反感を買って、それが後の十字架刑の一因になったなどと言っています。サンダースの主旨はこうです。イエス様が悔い改めも何もしない、罪びとをそのまんま受け入れて一緒に飲めや歌えやの大騒ぎをしていた。つまり、イエス様というのは、反体制の姿勢を示すやり方としてわざとエリートに嫌悪感を引き起こすようなことをしたということです。ほんとうにそうでしょうか?悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者たちをイエス様はそのまま受け入れて交流したのでしょうか?羊と銀貨のたとえの結論を見て下さい。一人の罪びとが悔い改めれば、天上では大きな喜びが沸き起こる、と言っています。つまり、イエス様が罪びとたちと食事を共にしているのは、実にこの天上の喜びを体現するお祝いとして行っていたのです。つまり、イエス様のまわりの席についている罪びとは、悔い改めて方向転換した「元罪びと」なのです。
イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。罪びとを方向転換なしで受け入れたということはありません。ヨハネ8章でイエス様は、姦淫の罪のために石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは、もう罪を犯してはならない、と言っています。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。姦淫くらいいいんだよ、などと罪を許可したのではありません。そうではなくて犯した罪については不問に付してこれから方向転換して生きる可能性を与えたのです。
それでは、イエス様の周りに集まったのが元罪びとならば、なぜ宗教エリートたちは彼らの方向転換を一緒に喜んであげられなかったのでしょうか?そういう疑問が起きると思います。そこで、神の目に相応しくあるということについて、イエス様とエリートたちの考えには180度の違いがあったことに気づく必要があります。エリートたちからすれば、律法の掟をしっかり守って、その守っていることを行為行動でしっかり示さないと神の目に相応しくない。この点に関して、イエス様の教えと行動には私たちの理解と常識を超えたものがありました。まず、十戒の掟は外面的な行為行動で守ってもだめだ、心の中でも守れていなければならないと言います。女性をみだらな目で見たら、もう第七の掟「汝、姦淫するなかれ」を破ったことになると言うのです。全ての掟についてそうならば、神の意思に沿える者など誰もいなくなるでしょう。。神の許に立ち返るなんて無理だと誰もが思うでしょう。人によっては馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。でも、そんなこと言ったら、#MeToo運動はいつまでたってもなくなりません。人間には方向転換が必要なのです。でも、どうやってそれは可能でしょうか?
そこで、イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたことに気づきましょう。ルカ19章のザアカイの話を覚えていますか?イエス様が受け入れるや否や、ザアカイは不正で蓄えた富を捨てる決心をしました。イエス様が罪びとを受け入れて食事を共にしたのは、彼らの神の意思に反する生き方をよしとしたのではありません。また、気高く留まったエリートたちの鼻を明かす乱暴なパフォーマンスでもありません。罪びとに方向転換を生み出す行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。
イエス様が受け入れると方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたのだということは、三つ目のたとえの放蕩息子の話にも暗示されています。放蕩息子は、異国の地で飢え死にしそうになり、故国の父親のもとに帰る決心をする。そこには食べ物が豊富にあるというのが帰る動機になっています。もちろん父親に迷惑をかけた以上は、以前のようにたらふく食べさせてもらうというのは虫が良すぎる。そこで自分の愚行は神に対する罪であったと告白して、雇い人にしてもらうことを条件に愚行を赦してもらおう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせずお仕置きもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れます。息子は考えていた言葉を、罪の告白まで言ったところで遮られます。父親はその後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じます。その言葉とは、雇い人にして下さいという条件でした。息子は条件付きで受け入れられることを期待していましたが、父親は無条件で受け入れると言ったのです。息子が帰国を決めた時、またたらふく食べられたらいいがそれでは虫が良さすぎる、だから条件を示そう、そういうふうに後悔と方向転換の心にはいろんな動機や打算が混じっていました。ところが、父親に無条件で受け入れられた瞬間、後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて、後悔と方向転換は純粋なものに変えられたのです。受け入れることにそのような力があったのです。
もちろん、イエス様に無条件で受け入れられることがそのような力の発揮に結びつくためには、受け入れられる側でも何かがなければなりません。それは何か?ザアカイの場合は、一目イエス様を見なければならないという思いがありました。なぜそんな思いがあったかは記されていませんが、不正に貯えた富が関係していたことは間違いないでしょう。というのは、イエス様に受け入れられてそれを捨てる決心をしたからです。放蕩息子の場合は、お腹が空いた、自分は愚かだった、雇い人にしてもらうことで家に入れてもらおう、と純粋ではなかったかもしれないが後悔と方向転換の心がありました。それが、無条件で受け入れられて、後悔と方向転換から不純物が取り除かれました。イエス様の周りに集まった元罪びとたちも同じだったでしょう。自分は神の意思に沿う生き方ができないでいる、宗教エリートの言うやり方で外面的な行為行動で神の目に適う者になれる力はない、なぜなら心に弱さと汚れがあるからそんな力は生まれてこない。そういう思いがあった。まさにそんな時に「あなたの罪は赦される」と教えるイエス様が登場した。それは一体なんなのか、それが今の自分を変えられるのか、わけもわからずとにかくイエス様のところに行く。そしてイエス様に受け入れられると、純粋な方向転換が生まれたのです。
放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに純粋な方向転換が生まれたことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。彼は、弟の方向転換を不十分としたのです。無条件の受け入れには純粋な方向転換を生む力なんかないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちを元罪びとと見なさず現役の罪びととみなしたのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。この時、彼らのうち誰がこれに気がついたでしょうか?
このように当時の人たちは、自分の状態を変える力があると期待してイエス様のもとに行き、イエス様に受け入れられて、本当に神の方を向いて生きる生き方に方向転換することが起こりました。それでは今を生きる私たちは、自分の内に同じような方向転換が生まれて神の意思に沿うような者になっていくことができるでしょうか?そういう受け入れをする肝心のイエス様が身近にいないので無理ではないか?だから、自分を変えるためには何か別の手段方法を考えて、それを実行しなければならないのか、それとも変える必要なんてない、このままの生き方でいいということになるのか?
実は、全ての人間はもう少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ受け入れが完結していないので、方向転換が生まれていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられるにまかせて死なれました。これによって、人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければならない神罰を、イエス様は全部自分に吸収されるように受けられたのです。イエス様は罪の重荷を私たちに代わって担われ、自分を犠牲にして本当は受ける必要のない神罰を受けられたのです。全ては、人間が神に背を向けた生き方を方向転換をして神の意思に沿うように生きようと、そういう心を生み出すためになされたのでした。どういうことかと言うと、償いのために私たちは何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で果たされました。あとは私たち人間が、あのゴルゴタでの償いは本当に起こったのだ、自分の罪の償いもそこで果たされたのだ、と観念して、イエス様こそ自分の救い主と信じたら、イエス様が受け入れるよと言って両手を差し出している中に飛び込むことになります。ただし、飛び込んでもイエス様の両腕の中にしっかり留まることが出来なければなりません。この世には、こっちの腕は甘いぞ、と言って誘いをかけてくるものが沢山あります。洗礼が大事なのはこのためです。洗礼は、イエス様に受け入れられたことを神の目に焼き付けます。そうなると神は、洗礼を受けた者が道を踏み外さないように常時見守り、支えて助けて下さらないではいられません。このように、イエス様の十字架の業は、来なさい、お前たちを受け入れるよ、という掛け声のようなもので、信じて洗礼を受けるというのは、その声に応えてイエス様の受け入れに飛び込んでそこに居を構えることです。このようにイエス様の受け入れが完結した人は、あの女性のように、罪を不問にされてこれからは神の意思に沿うように生きなければと志向して生き始めます。一過性ではない大規模な方向転換が起きるのです。この時、天上で喜びの歓声が上がります。
ただ、洗礼を受けたと言っても、この世にはイエス様の受け入れから引き離してやろうという力が沢山働いていますから、信仰者は苦しい戦いを強いられます。神は常時見守り支え助けてくれるなどと言いながら、全然そう感じられないということが起きてきます。しかし、そのような時は心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けます。そこには罪の償いが果たされたので自分の罪は確実に赦されているということが微動だにせずしっかりあります。それを確認できたら、神と自分の間には何も問題はない、だから、神は今のこの時も見守って下さっているとわかります。詩篇23篇で言われるように、「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、災いを恐れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」という心境でトンネルの出口を信じて進んでいきます。
キリスト信仰者のこのような歩みにとって聖餐式は重要です。というのは、聖餐式には霊的に弱い私たちを強める栄養があるからです。神の意思に沿うように生きねばと思っても自分の力ではダメだと思い知らされる。十字架に目を向けてもなんだかかすんでしまう。どうか私に力を与えて下さい、澄んだ目を与えて下さい、と唱えて聖餐式に臨むと、主は「よく来たね。しっかり食べて行きなさい」と言って与えて下さいます。聖餐は力と澄んだ目を与えてくれるものと信じて受ける時、その者に本当に与えるものになって受けた者は力と目を与えられます。その時、天上では歓声が沸き起こります。
そのようにしてキリスト信仰者は、罪を償ってもらい赦してもらいながらも、弱さのゆえに何度も立ち止まりくじけそうになりながらこの世の道を神に守られ支えられて進んでいきます。洗礼の時に大きな方向転換をしたのですが、道を踏み外しそうになって軌道修正をしなければならないことも沢山あります。ただこれらは最初の方向転換を上回るものではありません。最初に比べたら小さな方向転換です。このように、大きな方向転換が打ち立てられても、小さなものが繰り返されるというのは、まだ罪が残っていて、それと戦わなければならないからです。キリスト信仰者は「罪びとにして義人」ですから仕方ありません。しかし、打ち立てられた大きな方向転換は自分から捨てない限り、なくなることはありません。心の目を常にゴルゴタの十字架に見据えている限り、方角を誤らないように神が手を取って導いて下さいます(後注)。
やがて、この世を去り、眠りから目覚めさせられる復活の日が来ると、どうでしょう、この世では心の耳をすまして遠くから響いてきたあの天上の歓声が、今まさに目の前で天使たちが手を振って歓呼の声をあげているではありませんか!その情景をイザヤ書35章で次のように描かれています。
「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。」
兄弟姉妹の皆さん、私たちはまるで凱旋する者のように天の御国に迎え入れられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るようにアーメン
(後注)羊と銀貨のたとえの結論のところで、悔い改める(=方向転換する)罪びとに関して天上では大きな喜びがある、という時、「悔い改める(方向転換する)」の原文ギリシャ語はμετανοουντιで分詞の現在形です。つまり、方向転換がなにか一回限りで、これからはしないで済むというような完璧なものではなく、日々繰り返されるものであることを示しています。そうすると、そういう方向転換を日々繰り返すような生き方に入ることを「大きな方向転換」と言っていいと思います。
新会堂での初めての交わりのひと時を持ちました。まだ新しい環境に馴染めないせいかどうもしっくり往かないようです、でも時間が解決してくれるでしょう。エッサイの元気な顔と土産話に気を取り直してあれこれ行き届かなかった点を整理してぼちぼち新会堂の続きを進めて行こうと思っています。
聖餐式:木村長政 名誉牧師
聖霊降臨後 第12主日 (緑)
コリントの信徒への手紙 10章6~13節
2019年9月1日(日)
今日の聖書は、コリントの信徒への手紙 10章6~13節です。
前回10章になって、パウロは突然モーセの話を持ち出しました。[私たちの祖先は、皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。]
モーセが、イスラエルの民を、奴隷の状態にあったエジプトから、脱出させた。
これはイスラエルと神との歴史、を述べてきました。神が全人類の中でも、特に、イスラエルという民族を選んで、神の業をなしていかれたのです。
ところで、そのイスラエルは、神の前に、いろんな意味で、罪を犯してしまうのでした。罪を犯したというのは、自分たちの事は自分だけで何とかできるようになると言う事、別に神等と関係なしでいけるのだと、思ってしまいます。
しかしこれは、神の前に於いては罪を犯したという事です。
10章5節には「彼らの大部分は、神の御心に適わず荒野で滅ぼされてしまいました。」とあります。罪を犯したのなら、神の罰があるのであります。
しかし、ここに、事はそれだけではありませんでした。私たちの思いもよらない、神の真理の世界が示されていきます。イスラエルが罪を犯したことは、この民の中の神の背き、人間の欲、深い問題でありますね。ところがここに最も心を用いられたのは、神様でありました。
彼らは、たしかに、神に対して罪を犯したのでした。神はモーセを通して、様々の律法も与えられ、それによって、罪を犯してしまう自分たちに気づかされたのでありました。
しかし、もう1つの事がありました。彼らの罪は、神に対することであっただけでなく、その罪も又、神が支配しておられたのであります。
もう少し、ふみこんで申しますと、これは、神がすべてを支配しておられ、罪をさえ、支配される。それだけでなく、このように、神が支配されるのは、その罪さえも神の 御業のために用いられる、ということでありました。
だから聖書に記されたのです。
神の救いのために、いましめとして、神が用いられるのであります。
これはすごいことでありますね。
例えば、前の者が何か失敗したり、しかられたり、きびしくそのとがや失敗をとがめられる、それを見て、自分は前の者のやぶれを教訓にして、そして、自分はあーにはならないぞ、といった程度の話ではありません。
1つの例として、エジプト脱出の話をしたいのであります。イスラエルの民はエジプトを出る時、それはもう大変で、着の身着のまま、そこいらにある食料をもてるだけ持って、にわとり、やぎも羊もみんないっしょになって、何万という民が互いに助け合いながら旅に出ます、が、やがて、食べるものも水もなくなって、つぶやきや不満が起こります。どこへ向ってのがれて行くのかわからない。
とうとう行きついた先は紅海でした。海です。民はモーセに、ののしり、迫ります。モーセは両手を
天にかかげて祈るのであります。そうすると目の前の海が二つにわれて、そこに道ができたのであります。モーセにもわからない、神のみ業が海の道を開いたのです。
イスラエルの民は、海の中をわたって、苦難をのがれることができた。
いったい誰がこのようなことが起るのを想像したでしょうか。
神様は、御自分の御業のために、どんな事でも用いて、私たちには、測り知れないような事を神がなさる、ということであります。神の支配であります。
更に、神がそのようになさったことは、信仰を持った者でなければ知ることはできない。
なぜなら、これは、信仰を持った者のために与えられることだからであります。
もっと言えば、神の支配が一層広く及ぶため、だからであります。
イスラエルの民が神の前にした事すべてが、信仰者には心に刻んでほしい大事なことでありますから、聖書に書かれたのであります。
それは、聖書を読むことのできる者、すなわち、信仰を持っている者に対して、訓戒と警告とを与えるためであったのです。
信仰を持たない人にはわからない。
パウロは、コリントの教会の中で起こっている大変な問題を、具体的に数字を上げ、赤裸々に悔い改めをうったえています。それが6節~10節までにパウロが書いているとおりです。読むだけでわかります。
6節[これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために、彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらな事をした者は、一日で2万3千人倒れて死にました。又、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなた方はそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらの事は前例として彼らに起こったのです。]
そうしてパウロは、これまで延々と述べてきたまとめとして、11節に記しています。「それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している私たちに警告するためなのです。」
世の終りに臨んでいる者たちのためと言うふうに記しています。
自分が世の終りに臨んでいるという事は、信仰がなければ分からないのです。初代の教会の人々には、このことが特に強く感じられていたと思われます。彼らはこの世の終りがやがて来ると待望していたのです。
世の終りに臨んでいる、というのはどういうことでしょう。
はじめの教会の人々は、主がもうまもなくおいでになると信じていました。その時が世の終りである、と思っていました。ですから、世が終りであるというのは、ただこの世のすべてが終わってしまうという事だけでなく、救い主がおいでになる時ということであります。
この時から救いが完成するのである、ということなのです
神様から与えられている救いが、完成する時であります。
ナザレで30年をすごされたイエスは、ガリラヤへと出てこられ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」と叫ばれて、わずか3年間、イエス様はひと時もおしまず、福音を語り、あらゆる所で病人をいやし、奇跡の業を行われた。12人の弟子たちは毎日、一瞬たりとも離れず、イエスがあらわされた神の国を示された。にもかかわらず、彼らは理解できないまま、イエスは十字架上に死をもって限りない神の愛を示された。どれもこれも、すべては完全ではない未完成のままで、彼らのこの世では、幻を見ているようでありました。ちょうどくもりガラスを見ているようでよく分からない。
しかし、終りの時、救いが完成するのである。不充分であった未完成がすべて完成するのであります。
神の時の中で、神の世界のすべての真理が見えてくる。深い深い無限の神の愛が存分にあふれて、私たちのすべてをつつんでくれる。ゆるしの愛、いたみの愛からすべてつつみこんでよろこび合う愛が分かる。すべてが完成する時なのです。
私たちは、皆、死が終りではなく、新しい生活が始まる。
この時から、新しい時代が始まるのであります。
<アーメン・ハレルヤ>
中野での最後の礼拝も終わり記念撮影をしました。いろいろと欠陥の多いいどう仕様もない建物でしたが私は好きでした、今日ここに集まった方々も同じ思いでしょう。まことにまことに残念でなりません。来週からは早稲田の新会堂に移ります、かの地でも神の祝福が有らんことを願って去りました。
聖霊降臨後第11主日(スオミ教会 4) 2019年8月25日
イザヤ66:18~23、ヘブライ12:18~29、ルカ13:22~30
説教 「神の国の宴会に招かれている」
序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!
1 今日の詩編117編は最も短い詩編である。しかし重要な詩編である。
「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
これは旧約聖書の時代、聖会つまり礼拝を開始する際、祭司が、その開始を呼びかける言葉、賛美の言葉として用いられてきた。
①イスラエルの民のみならず、すべての国よ、すべての民よと繰り返し世界の国々、世界の民に主への賛美、礼拝を呼びかけている。
②この詩編は単純、素朴に、礼拝の司式者が:
◎先ずすべての人々に、その日毎の生活に「神の豊かな慈しみ、恵み」が
与えられていることを告げる。
◎さらにそのために「主のまこと、その真実は永遠である
言い換えれば「主は、最後まで決してあなたを見捨てない」と歌う。
◎ハレルヤは、アーメンと共に、会衆の神への賛美と感謝の応答の言葉である。
◎今日のこの礼拝を、時代から時代へと私たちを導く神の民の礼拝に 連なる礼拝として、また大きな過渡期にあるこのスオミ教会の礼拝を今神さまの恵みの中に守っていることを感謝をもって確認したい!
=
2 さて、今日の福音書の日課にはその冒頭に 「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」(ルカ13:22)とある。
これは主イエス・キリストの生涯が、
第一に、神の国を宣べ伝えること、宣教であったこと。
第二に、その目的は、エルサレムにあることを語っている。
1
さて、主イエスの宣教の歩みを振り返って見よう。
先ずフィリポ・カイザリアでの出来事(ルカ9:18~27)。
そこでペトロは、「あなたこそ神の救い主である」と信仰告白した。
それに基いて、主イエスによって教会誕生の予告なされ、その直後、
主イエスは、第一回目の十字架と復活を予告された。
この直後が、主イエスの山上の変容である。(ルカ9:28~36)。
それは栄光に輝く神の国到来の前触れである。そしてその直後から、
主イエスの歩みは『エルサレム』を目指すものとなった。
異教の神(バアル)礼拝の地サマリア訪問(ルカ9:51~55)。
主イエスと弟子たちは共にサマリアの村を訪ねたが歓迎されなかった。
しかし、再び主イエスの『エルサレム』行が、確認されている。
宣教の強化、進展が図られた(ルカ10:1~12)。
12人の弟子に加えて、主イエスは72人の弟子を宣教に派遣する。
ここには宣教の緊急性と必要性がしるされている。
主は、宣教の初心に立ち返ることを求められた(ルカ13:1~5)。
洗礼者ヨハネと主イエスの宣教開始の言葉:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」の言葉の想起である。
<繰り返して、主イエスは悔い改めの必要性を語られた!>
そして今日の日課の冒頭で、3回目のエルサレム行が確認される。
イエスは・・・『エルサレム』へ向かって進んでいた」のである!
◎この経過(プロセス)において明らかなことは、繰り返して主イエス・
キリストは、「エルサレムに向かっていた」ことである!
第一にエルサレムは「十字架と復活の出来事」が生起するところである。
ちなみに、ヘブライ語で、エルは神、サレムは平和、平安である。
第二にエルサレムは神の平和(シャローム)の成就、実現する都である。
イザヤの預言(52:1)には聖なる都として描かれ、預言されている。
今日のヘブライ12:22には、生ける神の都、天のエルサレムとある。
JSバッハ:カンタータ140番「起きよ、夜は明けぬ」(教会讃美歌137) は神の国到来の備えの歌。「われら喜びの宴、晩餐を共に祝おう!」。
2
3 今ここで、私たちは時には、自らの人生の振り返りの必要があるであろう。
◎Pゴーギャンという画家の人生を閉じる前に描いた有名な絵がある。
私たちは12年前ボストン美術館で観た。日本でも10年前東京国立近代 美術館で2か月半展示された。各方面に大きな影響を与えた。
縦が139.1、横が374.6cmの壮大な絵である。
その絵の右上には「我々はどこから来たのか?」、「我々は何者なのか?」
そして「我々はどこへ行くのか?」との言葉が記されてある。
<その主題のもとにPゴーギャンは、人生の縮図を描いている>
◎この場合、私たちは他者のことではなく、自らの人生について問うこと
が求められている。
特に、キリスト教信仰にあって生きている私たちである。
M.ルターは「神のみ前で」(coram deo)という言葉を重視した。
私たちは多くの場合、「人の前で」の自分を、気にする。・・・・・
しかし、すべてをご存じの「神のみ前で」自らを省みる必要がある。
◎神のみ前で、今の自分を省みて、自分は一体どこから来たのか?、何者なのか?そしてどこへ行こうとしているのか?問う必要がある!
◎主イエス・キリストは常に、エルサレムに向かわれた。
これから私は、どこへ向かおうとしているのか?
4 さて、神の救い、神の国の実現を目指す中で、主イエスは言われた:
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13章4節)と。
ルカ福音書では、「狭い戸口」とある。マタイ7章14節の門と同じである。
ヨハネ10章7節で、主イエスは「わたしは羊の門」と言われる、さらに
10章9節では、「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる」
と断定的に言われる。神の国に招かれるのは、主イエスによるだけである
しかし、神の国への歩みは、困難、試練がある!と教えられる。
何故か?その門を入り、その与えられた道を歩むことは、人間の知恵、知識また経験からくる常識的な判断をはるかに超えるからである。
3
それゆえに、しばしば困難があり、迫害があり、試練がある。
十字架を前にした弟子たちの姿を見れば明らかである。「弟子たちは皆、
イエスを見捨てて、逃げ去った」(マタイ26章56節)のである。
そこには信じる者の、不信もあり、不服従もあり、裏切りさえもある!
このような主イエスへの
服従にも拘わらず、主イエスの門を入り、その道を歩む者を主イエスは決して見捨てることをしない。祝福が約束される!
そしてその行く先は、聖なる都、エルサレムである。今日の使徒書の日課
ヘブライ12章22節によれば、「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり」であり、そこにいますのは新しい契約の仲保者、イエス」なのである!
そこに繰り広げられるのは、祝福に満ちた「神の国の祝宴!
なのである。
◎私は定年直後に、ELCA(アメリカ福音ルーテル教会)からのお招きを
受けて、ハンティントンビーチの教会で4年半滞在した。
その時に、Sさんという沖縄出身の婦人のアメリカ人の夫が末期癌と宣告
されその牧会と葬儀を委任された。その方は海兵隊の出身で、沖縄に滞在
した。除隊後、長年かかって大学で学んだほどの誠実な努力家であった。
末期が近づいた時に、彼は「一つ頼みがある」と言った。彼の姉はカトリック教会のシスターであったが、葬儀の時に歌った賛美歌を私の時にも
歌って欲しい、という。調べると讃美歌481(さかえに輝く)である。
ヨハネ黙示録7章9節以下参照。神の都エルサレムでは白い衣を身に つけた大群衆が、棕櫚の葉を打ち振り、神と小羊への賛美を歌う。
彼が姉とこのような信仰を共有していたことに感動したのを覚えている。
今日の説教の終わりは、ヘブライ人への手紙の最後の部分に記されている 祝福の言葉(13章20節、21節)で終わりたい。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
「神学部時代の思い出」をご覧ください。
聖霊降臨後第10主日(スオミ教会 3) 2019年8月18日
エレミヤ23:23~29、ヘブライ12:1~13、ルカ12:49~53
説教「真の平和をもたらすために」
1今日の福音書の日課の見出しは「分裂をもたらす」である。また日課の冒頭の主の言葉は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」で、さらに
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」である。
これは実に衝撃的な言葉である!異常さをさえ覚える言葉である。
今日、8月半ばの日曜日、「平和を考える主日」としてふさわしい日である。
8月に入ってから、TVやラジオで「戦争と平和」を特集し、報道している。
「真の平和が、祝福がもたらされ、実現するために
、主なる神さまのみ心と
お導きが、いかに深いものであるかが、ここに内包されている、と私は思う。
ここで主イエスは先ず、「火を投ずるために来た」と言われる。
旧約聖書から学ぶことが出来るのは、「火は聖なるもの
である。
(1)先ず「火は神ご自身の臨在を示すもの
◎モーセの召命の出来事において、ご自身を現された。
「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。・・神は言われた
わたしはあなたの神である。・・・わたしはあなたと共にいる」と。
(出3:2~12)
◎神の民の出エジプトの荒れ野で、夜は火をもって神の民を導いた。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
(出13:21~22)
◎シナイ山頂で神の民に十戒を与える時、神は火の中から語りかけた。
「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。・・・
それが十戒である。 (民4:12、出19:18)
(2)続いて、「火は神の裁きの力」を示すものであった。
◎主なる神に背いた退廃の町ソドムとゴモラは火をもって滅ぼされた。
「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
(創19:24~25)
◎詩編からダビデの詠んだ歌にもある。
「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。
(詩11:6~7)
◎イザヤの裁きの預言にも、火の裁きが語られる。
「万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ、民は火の燃えくさのようになり、だれもその兄弟を容赦しない。
(イザヤ9:18)
2 今日、主イエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と言われる。
「その火が既に燃えていたら」とは、極めて終末的な表現である!
<私はここで主の道を備えた洗礼者ヨハネの言葉を想起する>
荒れ野に出てきた群衆にヨハネは語る、「蝮の子らよ!斧は既に木の根元に置
かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節)と。
この火は、今日の主イエス・キリストの言葉の文脈から言えば、それは
“裁き”であり、また同時に“清め”の言葉である。
裁きというのは、言うまでもなく「罪の裁き、断罪
洗礼者ヨハネの言葉から学ぶことができる。洗礼者ヨハネは、周知のように主イエス・キリストの道を備える者、先駆者として来た、すでに預言者イザ
そのヨハネが語った。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという 考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節、10節)
主イエスも、宣教活動開始直後から神の民イスラエルの不信に対して、厳し
い裁きの言葉を語られたのである。(ルカ4章25節以降参照)。
このように洗礼者ヨハネも、主イエスも、神の民の不信、人間の罪ある現実
をするどく指摘し、悔い改めを促した。この信仰に生きる姿勢は宗教改革者
ルターにも受け継がれている。宗教改革の発端となった「95か条の提題」
第1条には語られている。「私たちの主イエス・キリストは、キリスト者の
全生涯は悔い改めであることを欲したもう」とある!
清めというのは、「罪からの清めであり、そこには希望
がある。
洗礼者ヨハネは、裁きと同時に、悔い改めの勧めと、救いの道を備えた。
それは主イエスによる洗礼である。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼
を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 (ルカ3章16節参照)。
主イエスは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられた。そして私たちにも
主イエスにより洗礼の恵みが与えられるのである!ここに希望がある。
裁きと清め、終末の裁き、それは「十字架と復活、命の源」である。
飛躍した表現を取れば、これは決定的な神さまの救いのみ業である。
主は言われた『わたしには受けねばならない洗礼がある』(ルカ12:50)と。
これは救いを実現するために、主の苦難、十字架が必要であったのである。
主イエスは言われた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、(十字架に)
殺され、三日の後に復活する」(マルコ8章31節、マタイ16章21節、
ルカ9章22節)と。この十字架と復活にこそ、救いと命の源がある。
3 今日の主題「平和」について、使徒書ヘブライ人への手紙から学ぶ。
日常生活体おいて、信仰による個人の成長が求められている!
<ヘブライ12章11節>「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
今日の使徒書であるヘブライ12章の日課は「主による鍛錬」とある。
◎先ず、ヨブを想起する。5章17節~18節
「見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。
続いて、申命記律法の言葉がある。8章5節
「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
人との平和である!家庭の、日本の、世界の平和が求められている!
<へブライ12章14節>「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
=使徒パウロの言葉を想起する。ロマ5章3節~5節
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖 霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
4 最近のホスピスでの出来事:Sさんの牛込の家は、第二次世界大戦の東京大空襲で牛込の家は全焼した。彼女は小学生でその時、学童疎開で茨城の親戚の家にいて無事であった。1年後、戦地で大きな負傷をした父親がよれよれになって帰ってきた。それまで家族は、バラバラであったが、牛込の土地に穴を掘り、土塀を作り、トタンで屋根を葺いて、生活を始めた。当時彼女は教会学校へ行きだした。それから70年数後、Sさんはホスピスにいた。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませ
てあげよう。」(マタイ11章28節)のコピーを手に持って、「神さまのお
与えくださる平安は最高!」と言って、最後の時を迎えたのである。
4
コリント信徒への手紙 10章1~5節 2019年 8月11日
先週に続いて、コリント信徒への手紙を見ていきます。
今日は10章1節からです。今回のテーマは、7節で言っていますように「偶像を、礼拝してはいけない」ということです。
パウロが伝道しました時代、コリント地方はいろんな宗教があって、人々の心は混乱していたでしょう。パウロが、あれ程、心血注いで、キリストにある信仰を宣べ伝えた教会の中にも、いわゆる偶像の問題が起って、パウロはこれに対して、だまっておれない、どうしても、しっかりと、コリントの教会の人々に信仰に目覚めて欲しい。
手紙の中で、こうして10章にいたって、書かざるを得ない気持で記しているのであります。
6節「彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために。」
又、8節には「彼らの中の、ある者がしたように、みだらなことをしないように。」
みだらなことをしていた者に対して、神は、ようしゃなく神の罰を与えられた。一日で、みだらなことをした者2万3千人倒れて死にました。キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて、滅びました。不平を言った者も滅ぼされました。こうしたことを面々と書いて、10章での結論は、11節です。「これらの事は前例として、彼らに起ったのです。それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している、わたしたちに、警告するためなのです。それで14節に書きそえています。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」と、パウロは万感の思いをこめて、筆をとったのです。
さて、以上のことを書いて、読んだだけで、コリントの教会の人々の中の偶像に心みだれている者が、新しく、変るでしょうか。
パウロは、10章の冒頭に、突然、モーセの話を、出してきたのであります。
これまた、おどろきでありますね。
パウロの持ち味の、自由奔放な、広い信仰の中から、力強く、美しい言葉をつらねて書いています。
1節、「兄弟たち、次の事は、ぜひ知って欲しい。」とこう言う。イスラエルの民が、モーセによって導かれ、エジプトを脱出し、長い旅をしていくのであります。壮大なこの出来事を出していきます。<出エジプト記32章にある話であります。>
モーセが、シナイ山で、神から十戒を受けていました時、その帰りが遅いので、イスラエルの民は、モーセの兄、アロンに、自分たちのために、神を造ってくれと迫りました。アロンは、みんなに、金等を持ってこさせ、それをとかして、金で偶像を造って、拝ませたのであります。<全く、おどろくべき話です。>
一方で、モーセが神に会っている、最も尊い、聖なる瞬間に、もう一方では、山のふもとで、イスラエルの民は、もう、長い旅に疲れはてた。そうして、自分たちの偶像を造って、拝むという事が、起っていきます。実に、人間の愚かさを示しています。
人間が、神がなくては、生きていくことができない、ということであります。今の今まで、モーセが、神のみを頼り、導かれて、長い旅をしている最中です。モーセによって、神を拝む生活をしていながら、モーセが見えなくなると、すぐに偶像を造ったのです。人間が拝むものなしには、生きられないものである事を、よく表しています。
私たちは、自分たちが、そんなにやすやすと、偶像礼拝するような人間であると思っていないはずでしょうが、そう思いながら、あらゆる事で偶像を造らなければ、生きることができないのであります。
偶像と言っても、そんなことはない、と思うかも知れませんが、これこそ頼りにすべきもの、偶像に似たものはいくらでもあるのではないでしょうか。神以外に、これがなければ生きられないものをさしているでしょう。
14節、パウロは、こん身をこめて、言っています。それだから「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」
しかも、ここには、奇妙なことが書いてあります。
それは、何の前触れもなしに、洗礼と聖餐のことが書いてあることであります。
洗礼と聖餐をもって表されるものは、言うまでもなく、教会生活であります。
それならば、どうしてパウロは、偶像礼拝の問題と、洗礼と聖餐とをもって表される教会に於ける礼拝生活とを比べて、語ろうとしているのでしょうか。
ここには、教会という字は出てきませんが、それが、教会であることは、明らかなことです。
その教会の中心的なことが、礼拝であることもよくわかります。そうであれば、パウロが偶像礼拝について、きびしく戒めようとした事が、一層はっきりするのではないでしょうか。
しかし、この事を語るのに、パウロは、イスラエルと教会との関係を、いきなり語るのです。
教会は、イスラエルから出たものであり、又、新しいイスラエルなのであります。そのことを言うのに、洗礼と聖餐のことを述べようとするのであります。
教会は、新しいイスラエルである、と言う代わりに、洗礼と聖餐とが、イスラエルの経験した事と、どのように関係しているのかを告げるのであります。
イスラエルの最大の経験は、エジプトにおける奴隷状態から、救い出されたことでありました。
旧約聖書は、ことある毎に、この神の救いの出来事を語るのであります。神もまた、ご自分をあらわすのに、自分は、お前たちを、エジプトから救い出したものである、と言われるのです。それ故に、イスラエルにとって、最も重要なことの1つは、エジプトから出る時、紅海で海を渡ったことでありました。海が二つに分かれて、彼らが、陸地を通るようにして、海を越えることができたことであります。しかし、そのことを、パウロは、モーセが海の中でバプテスマを受けたのである、と、説明するのであります。それならば、モーセをはじめ、イスラエルの民は、紅海の中で、これを渡ることによって、洗礼を受けたのであって、教会が行う洗礼は、そのことをモデルにしたものである、と言うのであります。
このような導きは、言うまでもなく、神によるものであります。神は昼は雲の柱、夜は、火の柱をもって、ご自分の、ご臨在を示されました。ここに、2節のところで、雲の中、海の中と言われているように、雲のことが言われているのは、そのためであります。出エジプト記13章21節に記されています。
ところで、海の中を通ったイスラエルは、霊の食物を食べ、霊の飲み物を飲んだのであります。
旧約聖書は、神がマナを降らせ、うずらを与えて、イスラエルを養われたことを、記しております。
しかし、ここに書かれているのは、彼らが飲んだ水のことであります。荒野の長い旅の中で、彼らの生命の源となったものが水であったことは、言うまでもありません。その水を得ることが困難であったところから、かえって、更に難しい方法で、水が与えられることが信じられるようになりました。それは、岩から水が出る、という事であります。
モーセが手を上げ、杖で二度打つと、岩から水がわき出したので、会衆と家畜とが、共に、それを飲んだのであります。民数記20章11節に記してあります。
その事から、やがて、その岩からはじまって、彼らは、いつでも水が飲めるようになった、ということです。
それが、ここに、パウロが書いている事であります。
この水は、どんな時にも、どこででも、彼らが飲むことのできるもであって、もし、それを今の信仰生活にあてはめて言えば、この岩は、キリストにあたるわけではないか、と言うのです。
この水が聖餐であるとは、書いてありませんが、しかし、イスラエルに、このような命を与えたものを、もし私たちの信仰生活に、あてはめて言えば、それは、聖餐にあたる、と言ってもいいのであります。
まことのイスラエルとは、まことの神の民、神を拝むことを知っており、偶像を拝まない、イスラエルと言わねばなりません。
神の約束を信じて、新しく出発した民でありましたが、その多くの者は、神をあなどったために滅びてしまいました。これらのことについては民数記14章にあります。
そこには、この民が、神に背き、神の怒りをひき起したことを述べ、それに対して、モーセがどんなに神にゆるしを求めたか、が記してあります。
イスラエルの人々は、少しつらいことがあると、「ああ、私たちは、エジプトの国で、死んでいたらよかったのに」と騒ぎ立ちました。又、わざわざこの荒野に来て苦しい目にあうぐらいならエジプトで奴隷のままで死ねばよかった、」と言うのです。
このことは、信仰生活をする者に、しばしば、おそってくる誘惑ではないでしょうか。
そういう不安や、つぶやきが、ただ、自分の気持ちをぶちまけているにすぎないのです。それが神に対する不平であるとは思わない愚かさがあります。
神様は、これに対して、「わたしが、もろもろのしるしを、彼らのうちに行ったのに、彼らは、いつまでも私を信じないのか」と仰せになりました。 民数記14章11節に記してあります。
信仰生活とはどんなものか。それは信仰をもって見るほかありません。神のなさることが気に入らないと、その神からのしるしが見えないのであります。モーセは、そのことがわかっておりました。彼は熱心に、その民のために神にとりなしたのであります。
私たちが信じている神の恵みは、神のさばきを乗り越えたものである、という事であります。
それゆえにこそ、たしかな恵みである、ということが言えるのです。
私たちに与えられている救いは、確かなものであります。
パウロはだから、モーセのひきいた出エジプトの出来事を見よ、と叫びたいのであります。
偶像礼拝の誘惑に人間がいかに弱いかを、パウロは、この話を持ち出したのであります。
パウロは警告するのです。
偶像礼拝を避けなさい、と。 <アーメン>
早稲田の新会堂の近況です。近況と言っても先週の水曜日でしたので現在はガラスなども入り更に進んでいると思います。エアコンも決まり月末の竣工に向けて休み明けから一気に進むはずです。
コリント信徒への手紙 第1 9章8~12章
2019年8月4日(日)
私の説教では、コリント信徒への手紙を学んでまいりました。
今日は9章8~12節までです。
今回のテーマは、「働いたら、報酬を受けるのは、当然ではないか」ということです。
パウロは、この事を、モーセの律法のことを引き合いに出してまで言っています。
8~9節を見ますと、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。」 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。この事は私たち人間のためにも言われていることではないか、と言って、耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が、分け前にあずかる事を期待して働くのは、当然です。ましてや、このことは、神様のために働いている、伝道する者についても、言われているのではないでしょうか。
パウロが、この報酬のことについて、これまで、どうしても言っておかねばならない、と思ったからでしょう。
実は、コリントの教会内で、パウロへ批判の言葉をいろいろ言う者がいて、「パウロは、報酬のために伝道していたのではないか」というふうな、悪口として言われていたらしいのです。
パウロはこれに大変憤慨して言っていくのです。「人が働いたら報酬を受けても当然である。」
けれども、パウロは言う。「報酬のために伝道している人はいないのだ。」
パウロ自身は報酬を受けてはおりませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために弁明しているわけであります。
パウロの本心は、「福音を宣べ伝える、ということは、どういうことか」ということを教えようとするのです。そうしながら、福音の性質を示したいのであります。
大部分の伝道者は教会から、報酬を受けているかも知れません。
しかし、報酬のために、伝道している人はいないのです。
福音というのは、神の恵みによって、救われる事であります。それならば、伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもありましょうし、正しく知らせることも、できるでありましょう。
パウロは、そのためにこれを書いているのであります。
人は、どんな事についても、報酬を求めるものではないでしょうか。
パウロはすでに9章7節で、パウロ流の例を次々と上げています。
自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。軍隊に加わるとは命を投げ出していくことでしょう。
ぶどう畑に行く者は、その実を食べることではないでしょうか。
羊を飼えば、羊の 乳を飲むことでしょう。
そして更に、モーセの律法のことを引き合いに出しました。
モーセの時代だけの事でなく、このことは、自分たち伝道する者についても、言われていることではないでしょうか。
自分たちが、霊のものを与えたならば、肉のものを返礼として返すのが、あたり前のことではないでしょうか。
実はその事こそ、もっと大切なことであるはずです。
しかし、それならば、そういう報酬を求めて、働いているのでしょうか。
断じて違う、とパウロは叫びたいのです。伝道者もほかの商売と同じことをしようとしているのでしょうか。
断じてちがうのだ。
信仰のある者は、当然、自分の力で得たものすら、神の恵みとして受けとるのではないでしょうか。
それどころか、報酬を受けるこの体、この心も、神から与えられたものであるはずであります。
それならば、ここに、人間の権利のように書かれている事は、実は、神のご配慮を語っているのです。
穀物をこなして働いている牛は、権利の事など、考えていないはずです。
それは、神が、その事をお望みになるのであります。
それなら、神のお望みにあるのと、人間とを、同じように扱う事は、できないはずであります。
つまり、もう、神の霊の世界の事柄です。
人間には、そのような権利が与えられているように見えます。人が働いた分、報酬を受けてもいい権利がある。
そのように言えるでしょうが、実は、それも神から与えられているにすぎません。
ですから、人間は、そういう要求めいたものを持ちながら、無償の働きを尊いものとするのではないでしょうか。何も要求せずに、人のため、働く事こそ望ましいと、考えるのではないでしょうか。実にりっぱなことです。
しかし、現実には、例えば教会の牧師は、無償の働きで、何も食べずには、生きていけません。
パウロは1人身で伝道しました。それに、自分で食う分は、自分で他に働いて生活して、その上、伝道していきました。
教会の牧師の中には、独身者ばかりではありません。
教会のほとんどの牧師は、牧師夫人と2~3人位の子供、といった、家族を養っていかねばならない。食べるだけの牧師の給料では、子供の教育、教養、文化的な生活は、ほとんどできません。
現実の教会の牧師給の一覧表を見たら、とてもなげかわしい、きびしいものです。
パウロは申します。
人が働いた分の報酬は当然受けるものである。
伝道者は、報酬を得ようと、福音の伝道のために働いているのではない。
ただただ、主に召されて、すべてを神様の恵みのうちに、ゆだねきって、生かされていくのであります。主が共にいて下さる希望があるのです。