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説教「神の前でやましさのない生き方は可能か」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章1~6節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は宗教改革主日ということで、日本のルター派教会に定められた福音書の箇所はマタイ5章1節から6節まで、あの有名なイエス様の「山上の説教」の出だしの部分です。「山上の説教」は、ガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(7章29節)。そのように聞く人に強いインパクトを与えた教えでした。2000年後の今を生きる私たちが読んでも、例えば「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず、読む人に慰めと励ましを与えるものです。そうかと言えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも、心の中で兄弟を罵ったら同罪であると言います。また、第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくとも、ふしだらな目で異性を見たら同罪である、などと教えます。そこまで言われたら神の御前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と反発してしまいます。このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、励ましや慰めに満ちた心温まる教えもあり、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしてもイエス様は確信を持って語るので、聞く人は何か不動の真理が述べられていると気づき、大きな権威を感じました。

 本日の福音書の箇所として定められている5章1節から6節までですが、実はこれは、5章1節から12節までがひとくくりの部分なので、それの出だしの部分でもあります。そのひとくくり出来る1節から12節までというのは、「幸いな人」についての教えです。「幸い」と訳されるもとのギリシャ語の言葉μακαριοςですが、これは普通の「幸せ」と異なる意味を持ちます。それで、訳語として「幸せ」でない言葉を考えなければなりません。「幸い」という日本語が選ばれました。そこで、この「幸い」と普通の「幸せ」はどう違うかと言うと、例えば、お金でも健康でも家族でも、一般に持っているのが望ましいと思われているものを持てたら、それは「幸せ」なことです。人によっては、不足なく持てるだけでは物足りず、人よりも多く持てることを「幸せ」と感じる人もいます。

 「幸い」は次元が違います。これは何かを不足なく持っているか、沢山持っているか、とは関係なくある幸せです。誤解を恐れずに言えば、お金がない時にも、健康が損なわれた時にも、家族がいない時にも、ある幸せです。お金とか健康とか家族がある時の幸せよりも、もっと深いところにある幸せです。「幸せ」がこの世と密着しているものなのに対して、「幸い」はこの世離れしています。貧乏や病気になって一体何が「幸い」か!と言われてしまうかもしれませんが、もちろん、貧乏や病気になったら自動的に「幸い」を得るということではありません。これから解き明かしていくように、イエス様が指し示す方向に進んで行かないと得られません。逆に、金持ちは「幸い」を得られないかというと、そういうことではなく、金持ちもイエス様の方向に進んで行ければ得られます。ただし、イエス様も他の箇所で教えるように、人間は持っているものへの執着があるために、深いところにある「幸い」に目が向きにくいということがあります。

2.

 さて、この「幸いな人」についての教えは、一見すると互いに相反するような内容です。どんな人が幸いか?誰がこの世離れした深い幸せ「幸い」を得ることができるのか?本日の箇所の中でリスト・アップされているのですが、どうも首尾一貫していないのです。

 まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。この「心の貧しい人」というのは、よく指摘されるところですが、ギリシャ語の原文では「霊的に貧しい人」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳によるドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています。どうして新共同訳で「心の貧しい人」と訳されたかはわかりません。「心が貧しい」と言うのは、辞書を見ますと、人格や器量が乏しいさま、とか、考えが狭かったり偏っていたりすることとか、何か至らない人間を指す言葉です。「霊的に貧しい」というのは、そういう、人間同士の関係で至らないところがあるという意味ではありません。そうではなくて、天地創造の神に対して至らないところがあるということです。そして、その至らなさを自覚していることです。例えば、十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかを知っているのに、それを行うことが出来ない、そういう無力な自分を思い知る。これが霊的に貧しい状態です。自分は確かに殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言えば、「山上の説教」で神のひとり子自身が、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと、神聖な神は外面的な行為のみならず人間の心の奥底まで潔白かどうかを見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた方である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者である。このように神聖な神の意思を考える時、汚れに満ちた自分に気づき意気消沈する。これが霊的に貧しいことです。そして、このような者が「幸いな者」と言うのです。

それでは、なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由も言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では理由の意味は出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議な事です。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の御前に立たされても何の問題もない、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てる、とは言わない。全く逆に神聖な神の前に出されたら罪の汚れのゆえに焼き尽くされてしまう自分を自覚している、そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てると言われるのです。これは一体何なのでしょうか?後で明らかにしていきます。

 次に悲しむ者が幸いな者と言われます(4節)。悲しむことが一般的に言われているので、何が悲しみの原因かは特定出来ません。前の節にあるように、神の前に立たされて持ちこたえられない霊的に貧しさが考えられます。また神とではなく人間との関係で社会や生活の中でいろんな困難に直面していることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言及されていなければ、その場合たいていは神が行為の主体です。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになる、ということです。

 次に「柔和な人々」が幸いな者と言われます(5節)。「柔和」とは、辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語πραυςは従順で大人しい感じを指しますが、例えば、酷いことが起きたり酷い人が来ても取り乱したりしないで、全てを静かに受け入れて静かに対処することができる、そういう内面の強さに裏打ちされた従順さ大人しさです。忍耐強さ、へりくだりの心、素直さを含んでいます。これは、霊的に貧しい人や悲しんでいる人に比べて素敵な感じがします。そんな従順で大人しい人たちが幸いである理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。わかりにくい事ですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、神に選ばれたイスラエルの民がこれまた神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることになります。

 次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しいとされることです。神の前に立たされても大丈夫、問題ない、やましいところはない、とみなされる状態です。それが「義」です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でない状態にあることを自覚しています。それで義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いと言われますが、その理由は「彼らは満たされることになるからだ」と言われます。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということになります。義がない状態にあって、それを自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから義のない状態を自覚して悲しみ希求する者は幸いである、と。

 以上みてきたように、幸いな者は、一方では霊的に貧しい者、悲しんでいる者、義に飢え渇く者があげられます。あまり好ましい状態にあるとは思えないのですが、でも将来状況が変わるので今から幸いなのだと言う。他方で柔和な者が幸いな者としてあげられ、これは好ましい状態と思われるので、幸いと言われても納得できます。本日の箇所の後の7節から12節までを見ても同じことが言えます。幸いな者として、憐れみ深い人(7節)、心の清い人(8節)、平和を実現する人(9節)のように好ましい状態の人があげられます。他方で、義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに迫害される者(10-11節)もあげられます。迫害されてしまうなんて好ましい状態ではありません。

3.

当時はじめてこのイエス様の教えを聞いた人たちは面食らったでしょう。なぜなら、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は専ら好ましい状態にある人のことを指したからです。一つの例として、詩篇の第一篇があげられます。

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(1~3節)

「主の教え」というのは、ヘブライ語原文ではトーラーなので、具体的には十戒を含むモーセの律法です。天地創造の神が人間に求めるものを明らかにしたのが律法です。それを与えられたイスラエルの民はとても誇りに思い、それを心に留めて守ろうとしました。そのような者が幸いなのである、と。

幸いな者のもう一つの例は詩篇の32篇です。

いかに幸いでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は(1~2節)。

神から罪を赦され、神の前に立たされても大丈夫、よしとみなされる者が幸いな者です。人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に基づいて贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

イエス様の教えを聞いた人たちは、旧約聖書の伝統に立っているので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを一時的に得られる人とか、そういう人を連想しました。先ほど挙げた詩篇の第1篇と32篇は、ヘブライ語の原文では「幸いなるかな

אשריという言葉が先に来て、「~する人」という言葉が続きます。イエス様は「山上の説教」をアラム語というヘブライ語に近い言葉で話しましたが、聖書ではギリシャ語に翻訳されて記されています。それでも形は同じで、「幸いなるかな」μακαριοιという言葉が先にきて、「~する人」と続いて行きます。語るリズムは旧約聖書と同じなのに、聞いているうちに、律法のこととか、罪の赦しのことが言われず、好ましい状態の人が言われたり、好ましくない状態の人が言われたり、聞いている人たちは、一体なんだこれは?と思ったでしょう。

イエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は、人間の心の潔癖さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。毎年繰り返される生け贄の捧げではなく、一回捧げたらもう十分、これ以上捧げる必要はないという位の生け贄が捧げられた時、本当の罪の赦しがあるのだ。だから私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えてあげよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になるのだ。そして、本当の「幸いな者」になると、お前たちは今度は、霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、義に飢え渇いたり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。また同時にお前たちは柔和な者になり、憐れみ深い者、心の清い者になり、平和を実現する者にもなるのだ。

それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして本当の「幸いな者」にしたのでしょうか?

4.

 それは、天地創造の神の人間救済計画を実行することで行われました。もともと人間は神に創造された当初は罪を持たない、従って罪の赦しを必要としない存在として、神聖な神のみもとにいることができていました。ところが、創世記3章に記されているように、神に対して不従順になり罪を犯し、罪が人間の内に入り込んだがために人間と神との結びつきは失われて、神のもとにいられなくってしまいました。この時、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを直すためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上で人間の身代わりに全ての罪の罰を受けさせて死なせました。あたかも彼が罪の張本人であるかのように。本当は彼こそ罪と何の関係もない神聖な神の子だったにもかかわらず。神がこのようにしたのは、ひとり子イエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたからです。この犠牲は神聖な神の神聖なひとり子の犠牲でした。神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方が、これらのことは自分のためにもなされたのだとわかり、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人にその通りに起こります。

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、使徒パウロが「ガラティアの信徒への手紙」3章26-27節で言うように、イエス様を衣のように頭から被せられます。

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

イエス様という神聖で義を持つ方を衣のように被せられた人は、まだ内側に罪の汚れを持ってはいても、父なるみ神はその人の汚れなき純白な衣に目を留めて下さいます。至らぬ自分なのに、ひとり子を犠牲にするくらい、よくして下さったのだ、そう神に感謝の気持ちで満たされた人は、神がそうしなさいと言われることはその通りだとわかり、そのようにしようとします。神がしなさいと言われることを要約すると、まず、神を全身全霊で愛することがあります。次に、その神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することです。イエス様はこの二つの愛に律法の全てがかかっていると言われました。

こうして神への感謝の念から律法が心に留められるようになります。そうなると今度は、律法に照らし合わせてみると自分は神の意思に沿うように生きていないではないか、沿うように思ったり行ったり語ったりしていないではないか、ということに気づかされるようになります。外面的には罪を行為にして行っていなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づかされます。その時キリスト信仰者はすぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。このようにキリスト信仰者は、心の中に置かれた律法と外側から与えられる罪の赦しという恵みの間で内的な戦いを戦わなければなりません。しかし、イエス様に結びついている限り、いつも罪の赦しが勝ちます。純白の衣は、少し引っ張られたかもしれませんが、大丈夫ちゃんと身に纏っています。

キリスト信仰者がイエス様の十字架の死を重く受け止めて、被せられた純白の衣を価値あるものとわかっているならば、罪が心の壁を破って行為に現れる危険は少ない、とは言っても、内的な戦いをしっかり戦っていなかったり、あるいは本当に隙を突かれたとしか言いようがないくらいの不注意が原因で行為の罪を犯してしまうこともあります。その場合は、相手があることなので謝罪や償いの問題が出て来ます。キリスト教の伝統がある社会ならば、「神に赦された以上、私が許さないわけにはいかない」という精神がみられます。日本では「絶対に許せない」、「神が赦しても自分は許せない」などという言い方が聞かれます。そのようなところでは、誠心誠意がなかなか通じないかもしれません。大変なことと思います。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しを祈れば、神は内的な戦いの時と同じように赦して下さるから大丈夫です。純白の衣は強い力ではぎ取られそうになりましたが、大丈夫ちゃんと纏っています。世間や人間との関係では厳しいものがありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は純白の衣を纏う者をちゃんと見守り、支え、導き出して下さいます。

そして、いつか神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと認めざるを得ないのはわかりつつも、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりでした、それには不十分なところもあったかもしれませんが、それ以上のことは出来ませんでした、と神に申し開きをします。自分にやましさがないことを主張できるとすれば、これ以上のことは出来ないでしょう。しかし神はその時、次のように言われるでしょう。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が来ても、しっかり握り掴んで手放さないようにした。そのことは今お前が同じ衣を着て立っていることからわかる。

その人は自分にはやましさがないことを神に認めてもらったことを知り、これまで経験したことのない深い安堵と深い感謝に満たされます。そして「小羊の婚宴」(黙示録19章)と呼ばれる祝宴の席に通され、神に全ての涙を拭われて、死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21章4節)神の国に迎え入れられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

10月の手芸クラブの報告、アロマキャンドル


この秋初めての手芸クラブは10月25日に行われました。雨が静かに降り、外は雨雲のため暗かったでしたが、会場となった教会の2階は明るい雰囲気に包まれました。

手芸クラブは最初にお祈りをして始めます。

今回の作品は、アロマキャンドルでした。はじめに作品のモデルを見て、どんな香りや飾りつけのキャンドルを作りたいかを考えます。きれいな飾り物、カリフラワーや果物が沢山並べられたテーブルはいろんな色で溢れました。ハーブなどの香りのオイルが紹介されて、その後でキャンドルに入れたい香りを考えました。初めにキャンドルの形や飾り物を選びます。紙の上にモデルを作って、キャンドルの飾り物をのせます。次にワックスを溶かして、型に流してから、タイミングの良い時にワックスの上に飾り物をのせます。溶かしたワックスの中に入れたオイルの良い香りがだんだん部屋中に広がりました。楽しく話ながらワックスが固くなるのを待ちます。子どもも固まるのを待ち遠しくしていました。固くなったキャンドルを型から出すと、きれいな飾りや良い香りのするキャンドルが出来上がっていました。みなそれぞれに違う飾り物を施して、全部素敵なアロマキャンドルが完成しました。お家に持って帰ったら、良い香りは家中に広がったでしょう。

かたつけをしてからコーヒータイムに入りました。そこで、冬のフィンランドの氷ランタン作りや聖書の中に出てくる「光」についてのお話がありました。

「光」

手芸クラブの話

今日は皆さんと一緒にきれいな飾りの、良い香りがするキャンドルを楽しく作ることが出来ました。スオミ教会の手芸クラブで初めてこのようなキャンドルを作ることが出来て嬉しいです。
以前、私はフィンランドでキャンドルを作ったことがありますが、それは飾り物ではなくて灯すためのものでした。作るのはかなり大変でした。ロウを溶かして、それに色を入れて、形を作りましたが、あまりきれいなキャンドルは出来ませんでした。しかも、溶かしたロウはいつもあちこちに落ちてしまって、作る場所は汚くなりました。後の掃除も大変でした。今日はキャンドルがとても簡単に作れたので驚きました。

フィンランド人はキャンドルが大好きです。フィンランド人もきれいなキャンドルを飾り物として家に飾ったりしますが、使い方の一番はもちろんキャンドルを灯すことです。これから暗い季節になるので、フィンランド人はキャンドルを沢山灯すようになります。ちょうど今度の週末にフィンランドや他のヨーロッパの国々は夏時間から冬時間に変わります。時計を1時間戻します。(それで日本との時差も6時間から7時間に変わります。)そうすると、フィンランドでは日が沈む時間が早くなって、暗くなるのも早くなります。暗い季節の時にフィンランド人はキャンドルを光として灯しますが、雰囲気のためにも灯します。キャンドルの明かりは暖かい雰囲気をもたらします。雰囲気のために灯すキャンドルは夏の夜レストランでもよく見られます。

冬の暗い季節にフィンランド人は家の中や外でもキャンドルを灯します。そしてクリスマスが近づくと電気のロウソクとイルミネーションも沢山飾ったりします。外に置かれる氷ランタンは面白いものの一つです。それは簡単に作れるので、普通の家庭でよく作られます。バケツに水を入れて、それをマイナスの温度の外に置いて凍らせます。底と周りの部分が凍って、真ん中がまだ凍っていない状態でバケツから氷を取りだします。そうすると、真ん中がカラっぽで、ガラスのような大きな氷の器が出来ます。それをひっくり返して雪の地面に置いて、その中にキャンドルを置いて灯すと、暗い外でとてもきれいに光を照らします。

聖書にも光について書いてあります。聖書の光はイエス様のことを指しています。「イエス様は再び言われた。『私は世の光である。私に従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」ヨハネの福音書8章12節のみ言葉です。

イエス様は「私は世の光である。」と言われました。これはどんな意味でしょうか?この世は、明るい時に目を開ければいろんなものが見えます。しかし、将来どうなるかということは目を開けても見えません。また他の人たちが何を考えているか、それが自分にどんな影響があるのかもわかりません。身近な人だったらわかるかもしれませんが、それもいつも自分が思っている通りとは限りません。そのように私たちは、目で見えないことについては暗闇の中にいるのと同じでしょう。イエス様の光とは、そのような暗闇の中でも心配しないで前に進めるように導いてくれる光です。将来どうなるか、他の人たちとの関係はどうなるか、いろいろ心配はあっても、心の目でその光を見て、それを目指して行けば、安心して前に進めます。進んで行けば、将来どうなるか、他の人たちとの関係もどうしたらよいか、わかってきます。イエス様は本当に導きの光です。

それでは、どうしたらイエス様の光を見つけることができるでしょうか?それは聖書のみ言葉を通して見つけることが出来ます。聖書を読むと、イエス様は本当にそういう光であることがわかってきます。

イエス様からの光は、キャンドルの明かりよりもっと明るく輝く光です。その光は私たちの心の中に入って、イエス様は信頼できる方、だから心配しないで安心して前に進もうという気持ちを起こします。その光は毎日心の中で輝いて、私たちに喜びを与えて下さいます。


次回の手芸クラブは11月22日です。詳しくは、少し後で、教会ホームページの案内をご覧ください。

 

説教「神の国の実を結ぶ者」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章33-44節、イザヤ書5章1-7節

主日礼拝説教 2017年10月22日 聖霊降臨後第20主日

 

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/11/Kimurasensei_2017_11_12.mp3
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/10/2017_10_22_Yoshimura.mp3

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所のタイトルは「ブドウ園と農夫のたとえ」です。正確には、農夫は自営農ではなく雇われ人ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」です。さて、聖書を読んだことのある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、雇われ農夫たちはユダヤ教社会の指導者やそれに従う人たち、所有者が送って迫害される僕たちは神が遣わした旧約聖書の預言者たち、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 これがわかれば、イエス様がたとえで言いたいこともわかります。世界の数ある民族の中から天地創造の神に選ばれたイスラエルの民。彼らはモーセの律法を授けられて、それを一生懸命に守ろうとした。ところが、人々の生き方は次第に神の意思から離れていって、エルサレムの神殿を中心とする崇拝も外面的な儀式の繰り返しに堕してしまった。神はそれを正そうと、預言者を立て続けに送ったが、指導者も民も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後に神はひとり子イエス様をこの世に送ったが、それも彼らは殺してしまった。神はイスラエルの民に神の国を託していたが、これを機に民を見限ってそれ以外の民族に神の国を委ねることにした。その、ユダヤ民族にかわって新たに神の国を担うことになったのがキリスト教徒ということになります。イエス様がここで話していることは過去の出来事の復習と将来についての預言で、預言は具体的な歴史の中でその通り実現しました。このように世界史の復習も兼ねて、イエス様の預言が見事に当たったことに感心しながら、このたとえを理解できます。

2.イザヤ書5章の「ぶどう畑」のたとえ」

このような理解が出来るのは、私たちが、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後で歴史上何が起こったかを知っているからです。たとえで言われていること一つ一つを歴史上起きたことに結びつけることができるからです。ところが、イエス様と面と向かい合って初めてこのたとえを聞いた当時の人たちは、当然ながら、歴史を遡って確認するような理解はできません。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中でユダヤ教社会の指導者たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。まだイエス様の十字架と復活の出来事の前のことです。

ただし、指導者たちがこのたとえを理解できる鍵がひとつありました。それは、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。どのような聖句だったかと言うと、天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体のようにひとつのぶどう畑を持っていた、というたとえの教えです。一心同体のように、と言うのは、神の「愛する者」が持つぶどう畑と言われつつも(1節)、神はそれを自分のぶどう畑とも言います(3節、ただし4節の「ぶどう畑」も5節の「このぶどう畑」もヘブライ語原文ではちゃんと「私の」ぶどう畑と言っています)。畑を耕したり、見張りの塔を立てたり、「酒ぶね」(ぶどうを足で踏んでぶどう酒用の汁を搾り出すところ)も作ったり、そういうふうに神の「愛する者」が一生懸命働きますが(2節)、働いたのは神自身であるとも言います(4節)。

さて、一生懸命働いて、良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。「酸っぱいぶどう」というのは、野生のぶどうとも訳される単語ですが、要するにぶどう酒造りに役立たないぶどうが出来たということです。そういう出来事を述べた後で神は、実はこの恩知らずのぶどう畑は神に選ばれたはずのイスラエルの民の情けない現状である、という解き明しを始めます。その時ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは、キリスト信仰の観点では神の御子イエス様を指すことは間違いないでしょう。

さて神は、ぶどう畑が良い実を実らせるようにと、できるだけのことをしてあげた。つまり、民を奴隷の地エジプトから解放して、約束の地カナンに定住させた。その途上で神の意思を明らかにする律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってくれたりした。それなのに民は、神の意思に沿わない生き方に走ってしまった。この神の御言葉を記した預言者イザヤはイエス様の時代から700年以上も前に活躍した人です。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、当時の状況をよく言い表していていました。当時イスラエルの民には南北二つの王国がありましたが、北王国はちょうどその頃アッシュリアという大帝国に滅ぼされます。南王国は100年近く持ちこたえますが、これも最後はバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさに神に見捨てられたぶどう畑となってしまったのです。

3.イエス様の「ブドウ園と雇われ農夫たち」のたとえ

 それから700年以上経った後で、イエス様がブドウ園と雇われ農夫のたとえを話しました。話す相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ園の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。「この、預言者の再来と騒がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何か自説を展開しようとしているな、聞いてやろうじゃないか」ということになりました。ところが、イエス様の教えにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ました。雇われ農夫がその一つです。「あれ、イザヤ書には農夫なんか出なかったぞ、一体何を指すのだろう。」違いは聞く人の注意を引いたでしょう。イエス様の狙いもそこにありました。

 イエス様のたとえのブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先かと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことが納得できます。普通だったら、そんなことをしたら自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまいます。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということなので筋は通っています。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これらの出来事の意味は、私たちには明らかです。先にも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はユダヤ教社会の指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる前、イエス様が本当に神の子なのか疑いがもたれていた頃、人々は私たちと同じようには理解できなかったでしょう。所有者は神だとわかるとしても、農夫とは一体誰のことだ?神が送って農夫が殺した僕たちとは誰なのだ?それにしても、所有者の息子つまり神の息子とは一体誰のことだ?

まさに疑問の渦が沸き起こるや否や、イエス様は指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」指導者たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。」この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すかはっきりわからない状態で、たとえを額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても想像できなかったでしょう。

 指導者たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22~23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのです。それを捨てた建てる者というのは、イエス様を十字架の死に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にここでこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた者たちというのは、価値あるものを理解できず、価値のないものにしがみつく者という連想を生むので、先ほどの農夫同様に良からぬ者たちを指していることに気づきます。さて、イザヤ書5章と詩篇118篇の聖句をもとにして、この男は何を言いたいのか?雇われ農夫、家を建てる者とは誰を指すのか?指導者たちはイエス様の口から出て来る次の言葉を固唾を飲んで待ちます。

 そこでイエス様は、全ての謎の解き明かしをします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていの場合ユダヤ民族以外の民族「異邦人」を指す言葉です。ここにきてイエス様の教えの全貌がはっきりしました。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者はやっぱり神ではないか!神が送って迫害され殺された僕たちは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫とは自分たち、ユダヤ教社会の指導層のことを指していたのだ!この時点で指導者たちはたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまで旧約聖書の聖句と外国人所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事のごちゃまぜだったものが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異邦人に渡されてしまうということを、自分たちの口を通して言わせるとは!怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

4.「神の国」とは?

 このイエス様のたとえは、私たちから見たら歴史の復習になるので、ああそういうことが後で起きましたね、という受け止め方が出来ます。ところが、まだイエス様の十字架の死と死からの復活も起きていない、神の国の移譲も起きていない段階にいる人たちにとっては、そんなことは認められない、と反発するしかありません。そして、全てが起こってしまった後は、起こってしまったことに対して認められない、などとは言えません。

 それでは、本日の福音書の箇所は、もう実現してしまった預言として、私たちからみたら過去の出来事として、ああ、イエス様は将来のことを見事に言い当ててすごいなあ、と言って終わるものでしょうか?たとえの中で言われていることは全て実現してしまったので、それに対して何も付け加えることも削ることもできない。それで本日の福音書の箇所の説教は、ただ歴史の復習のような解説で終わってしまうのでしょうか?

 そうではありません。このイエス様のたとえの教えは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えるものになっています。イエス様の時代から2000年過ぎた今でもそうです。説教というのは、聖句の正確な解説だけではありません。できる限り正確な解説の上に立って、それが今を生きる自分に何を語ろうとしているか、これを正確な解説の上に立って明らかにすることが説教です。聖書の聖句は生ける神の御言葉ですから、その神が今を生きる自分に何を語ろうとしているかを明らかにするのが説教です。

 この、一見私たちの目からすれば過去のことを言っているだけにすぎない聖句は、もちろん今を生きる私たちにどう生きるべきかを教えています。それがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語の原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくて「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の民族すなわち「異邦人」です。ユダヤ民族以外の、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられる、と言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とはなんなのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族は取り上げられると言われて激怒するが、異邦人の我々は与えられて嬉しいものなのか?

 「神の国」については、説教で何度もお話ししてきました。ここでもまた繰り返します。これからお聞きになればわかるように、聖書の「神の国」について知るということは、キリスト教の死生観を知ることにもなります。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。こうしたことが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、神の意思を実現できない人間にそれは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

 このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。

 ところが、キリスト信仰者と言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の場合は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。

 このようにキリスト信仰者は罪の汚れを残しているのだけれども、イエス様のおかげで全く清いと見なしてもらえるようになった、それで、それに相応しく生きなければと襟を正すのです。かつて自分の造り主である神に背を向けていたが方向転換をして、これからは神の方を向いて、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々を歩むのです。これがキリスト信仰者です。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む時、既に神の国に予約席を持っています。

 ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはまた最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れられます。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

5.神の国の実を結ぶ者

以上「神の国」がどういう国かについてお話ししました。(当時のユダヤ教社会の指導層が「神の国」を同じように理解していたかどうかは別の問題になるので、ここでは取り上げません。)今度は「神の国」が与えられることになる「異邦人」、「神の国の実を結ぶ異邦人」とは誰なのかを考えてみましょう。「異邦人」は、先ほども申し上げましたように、ユダヤ民族以外のその他の民族です。日本人も中国人も欧米人もアフリカ人も皆、ユダヤ民族から見たら「異邦人」です。それが「神の国の実を結ぶ」というのは、どういうことか?答えは、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言っているので、誰に「神の国」が与えられるかを思い出せばいいのです。それは、前にも述べましたように、イエス様を救い主と信じる者です。イエス様を救い主と信じる者に神の国が与えられる。神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられる。つまり、イエス様を救い主を信じる者と神の国の実を結ぶ者はイコールで結ばれるのです。イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶことなのです(後注)。

 そこで、イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶなどと言われても、実際本当に何か実を結んでいるのか実感がわかない人が多いかもしれません。そもそもキリスト信仰者というのは、神の意思に沿うように清く正しく生きようとし、それに反するものに与しないようにしようとします。果たして反するものが自分の前に立ちはだかってきたら、その時はゴルゴタの十字架から来る解放の力、罪と死の支配からの解放の力で打ち破ってもらいます。それが本当に打ち破られるのは、キリスト信仰者には罪の赦しと永遠の命が洗礼を通して植えつけられているからです。そしてイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、それらが植えつけられているのは動かせない事実だとわかっています。そのようにしてキリスト信仰者は毎日毎日、罪の赦しと永遠の命に相応しい者へと変えられていきます。これが神の国の実を結ぶことです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(注)ここで注意しなければならないのは、単純にユダヤ民族が失格で異邦人が合格ということではないことです。ユダヤ民族でもイエス様を救い主と信じた人たちがいます。ペトロもパウロもマリアも皆ユダヤ民族出身のキリスト信仰者です。ユダヤ民族は、イエス様の十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じる者と信じない者と真二つに分かれました。異邦人も同じでした。パウロのような伝道者が異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えた結果、欧米人、日本人、中国人、アフリカ人にもイエス様を救い主と信じる人が生まれるに至りました。要は、ここで言われる「異邦人」とは、何民族に属するか関係なくイエス様を救い主と信じる者全てを指すということです。

10月21日家庭料理クラブのご報告

大型台風の接近のニュースに、天候が心配される中、10月のスオミ教会家庭料理クラブは、「ムスティッカプッラ」を作りました。

最初にお祈りをしてスタートです。

今回は、フィンランド人の大好きなプッラとブルーベリーの取り合わせに、作業前から期待感が高まりました。

最初はプッラ生地を作ります、
今回は少し柔らか目の生地作りにトライです。
頑張って捏ねた木地は、とても良い出来上がりになりました。
発酵、成形と作業が進み、最後のブルーベリーの登場に、歓声が上がり、丁重に生地に乗せ、オープンへ。
きれいな焼き色と香ばしい香りに、試食タイムが待たれます。

柔らか目に頑張って捏ねた生地は、とても美味しい出来上がりになりました。

パイブィ先生からは、森に自生するブルーベリーのお話をたっぷり聞かせて頂き、
聖書についても、分かりやすくお話しして頂きました。

参加の皆様お疲れ様でした。


次回の「家庭料理クラブ」は、 11月11日を予定しています。


 2017年10月21日ブルーベリーの話

今日は、皆さんと一緒にmustikkapulla ブルーベリープッラを楽しく作ることができました。フィンランドの多くの家庭では、毎年ブルーベリーを採る季節にブルーベリープッラやパイを作るのは習慣になっています。新鮮な採ったばかりのブルーベリーから作るブルーベリープッラを味わうのは家族みんなにとっての楽しみです。

フィンランドでブルーベリーは森で採られるベリーの中で最も人気があるベリーの一つです。ブルーベリーの実は、7月の終わりごろからなり始めますが、収穫は年によって大きく変わります。ブルーベリーの花は寒さにとても弱いです。5月から6月、ブルーベリーの花が咲く時に、もし気温が下がって夜にマイナスになると実はあまり出来ません。また、蜂が少ない年は、受粉も少なくなるので、ベリーの収穫はよくありません。ブルーベリーが出来るのには水分も大事です。よく育つ場所は森の中の湿っているところです。ブルーベリーはフィンランド全国にみられる植物で、高さは15―20cmくらいと低いです。

ブルーベリーは、7月の終わり頃から8月の終わり位まで採ることが出来ます。ちょうどこの頃は森の中に蚊や蠅が沢山いるし、そして暑い夏の日は森の中でブルーベリーを採るのはなかなか大変です。それでも、人によっては、何十リットルも採る人もいます。私たちが住んでいたトゥルクの家の隣のおじいさんは、毎年ブルーベリーを何百リットルも採って、お店や近所の人々にわけてあげたり、売ったりしていました。

フィンランド人はどうしてブルーベリーを沢山採るのでしょうか?それは、健康にとてもよいからです。ブルーベリーには、ビタミンA,B とC、そしてミネラルも多く含まれています。最近ブルーベリーの栄養や健康への良い影響が注目されているので、その使われ方が広がりました。例えば、目にも良い影響があることがわかりました。ブルーベリーの健康への影響はまだ研究されている段階なので、新たな発見も出てくると思います。

フィンランド人は、ブルーベリーをそのまま冷凍にしたり、また乾燥果実にして保存します。もちろん、ベリーからジュースヤジャムも作ったりします。ブルーベリーは、ほとんどデサートやお菓子の材料に使われます。例えば、いろいろな種類のケーキやゼリーなどです。昔は、採ったブルーベリーは、そのまま牛乳と混ぜたりしました。私も子供の頃、そのような飲み物を作ってよく飲みました。飲んだ後は、唇も口の中もブルーベリーの色で青くなりました。

フィンランドの森は、私有地の森でも、ブルーベリーや他のベリーを自由にとることが出来ます。それで、フィンランドではベリーを沢山採るのは、だれにとっても当たり前のように感じられます。しかし、少し考えてみると、これはある意味で奇跡のようにも感じられます。私たちは種を蒔いたり水や肥料をあげなくても、こんなに美味しくて、しかも健康に良い食べ物が沢山得ることが出来るからです。ブルーベリーの実も他の自然の豊かな実りもみな、天と地を造られた神様が私たちに与えてくださるものです。しかしながら、自然から得られるブルーベリーは当たりまえのもののようなので、それを与えて下さる神様への感謝の気持ちは忘れてしまいます。私たちの日常生活の中には神様に感謝することが本当は沢山あると思うのですが、皆さんはお気づきになるでしょうか?聖書の中に感謝について次のように書いてある箇所があります。「いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」エフェソの信徒への手紙5章20節です。

私たちは天と地と人間の全てを造られた神様にいつも感謝することが出来るでしょうか?生活の中に嬉しい、素晴らしいことがある時には感謝するのは簡単です。しかし、当たりまえのようになったことは感謝するのを簡単に忘れてしまうのではないでしょうか?また、生活の中に困難がある時には感謝することなどできないでしょう。そのような時、感謝することなんか何もないと思ってしまいます。でも、本当はあるのです。困難の時にも感謝することがあることに気づくと心に平安が得られます。どこに感謝することがあるでしょうか?悩みや苦しみがある時、私たちはお祈りして神様に全てのことを伝えることが出来ます。私たちは自分の父親に対するのと同じように信頼をもって、天の父である神様にお祈りして全てのことを伝えることが出来ます。全てのことを伝えるというのは、大きな信頼のあらわれです。そして、神様を信頼していれば、全てのことを神様の御手に委ねることもできます。こうして、困難がある時に天の父である神様にお祈りして全てを委ねることが出来れば、神様に対して感謝の気持ちが起こってきます。この時、私たちは困難の中にあっても心には平安があります。神様が与えて下さる平安です。

ブルーベリーを含めて、私たちのために与えられるものは全て、神様の手によるものです。だから、私たちの感謝も、最終的には創造主である神様に向けられるのがふさわしいと思います。

説教「私たちの最大の負債は既に支払われた」マルッティ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書20章1-16節

 ラジオとかテレビのニュースをみると次のような話をよく聞きます。物価が上がるので、従業員はもっとお金を要求します。社長はたいてい給料を上げたくないので、長い交渉をします。交渉は何ヶ月もかかることがあります。現在は、消費税が上がるという話題もありますね。

人間の社会だったら、当たり前のことだと思います。今もイエスの時代もそうでしょう。人々は、仕事をしたり、給料をもらったり、借金を払ったりしてきました。

 イエスはよく社会と普通の人の生活のことをご存知でした。何でもご存知だったからです。今日の聖書の箇所は、仕事と給料について考えてみましょう。

1.「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに行った。

これはイエスの時代では普通のやりかたでした。時間は大体朝六時からでした。

 

2.主人は、一日につき,一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

 一デナリオンは当時の普通の労働者の一日分の給料でした。現在の日本を考えるとアルバイトをする人がもし一日で一万円をもらったら、かなりいいほうでしょうか。

 

3.また、9時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

4.『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と行った。

5.それで、その人たちは出かけて行った。

主人は、十時ごろにと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

 家の主人はまた朝九時にぶどう園で働く労働者を雇うために出かけました。けれども、十二時に行く人も、午後三時に行く人もいました。特に午後三時に行くというのは珍しかったです。あと三時間ほどで暗くなるからです。

 

6.五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

7.彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。

主は彼等に、『あなたたちもぶどう園にいきなさい』と言った。

 これは本当に不思議なことでした。働く時間はもうほとんどないからです。

 

8.夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者からはじめて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

 賃金を払うのは午後六時でした。その順番は面白いものでした。

 

9.そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

10.最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

 みんな同じ一デナリオンをもらいました。ある人は一日中あせをかけてがんばって働きましたが、ある人はほとんど何もしないで一デナリオンをもらいました。

 

12.『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中をしんぼうして働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

 長い時間働いた人はがっかりしました。人間的に考えるとこれはとても当たり前なことです。けれども主人の考え方はそれと違います。

 

13.主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

14.自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

 15.自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか

16.このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

主人は自分の言った約束を守りました。一デナリオンを約束しました。一デナリオンを払いました。その結果、労働者はみんな約束された給料をもらいました。多分その主人は労働者の家族と子どもたちのことを考えたのでしょう。

神様も愛をもって私たち人間のことを考えてくださいます。救いは給料ではなくて、神の御恵みによることです。

イエスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように、私たちに何の価値も無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。

「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。

神様の考え方と私達人間の社会的な考え方は全く違います。イエス・キリストの御業に依る恵みは、給料ではなくて、只です。私達は払わなくていいですよ。

 けれども、キリスト者として、私達は奉仕する事が出来ます。神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。

 そして、私達は、御恵みによって、喜ばしい自由な心を持って、キリスト者として生活しましょう。

キリスト者は、強制の下でいやいやながらだったり、または報酬を目当てにしたりするのではなく、むしろ、自らすすんで「うれしい自由な心」から、神の御旨を遂行します。

 「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩篇100:2)。

 「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)。

「喜ばしい自由な心をもって働け」(マルティン・ルター)。

まとめ

私たちの最大の負債は既に支払われました。それは罪の借金でした。恵みは給料ではありませんし、人間の借金で払えるものもありません。イエスを信じて受けとるものです。

 喜びを持って、他の人もイエスのことを知ることが出来るように神様の御国のために奉仕しましょう。

 

祈りましょう。

天の父なる神様。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださったことを感謝いたします。よいニュースは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。私たちの最大の負債は既に支払われたのです。

私たちは恵みによって救われます。私たちは信仰によってあなたの子どもです。毎日あなたの教えを聞けるように導いてください。そして心の中にあなたの光を照らすことができますように。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。

 イエス様は私たちの本国である天への道も開いてくださいました。それは私たちの人生の目的です。あなたは、すべての人間を救う計画を作ってくださいました。どうか天国への道を他の人々にも見せるように助けてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。漁師シモンのように私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。 私たちをあなたの体の部分として働く人間をとる漁師にしてください。

 人生の正しい使い方も教えてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。あなたに与えられた力によって子どもたちや隣人を大切に出来るように、また、隣人と赦し合うことが出来るように。様々なことによって苦しんでいる人を助けられるように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエス・キリストによって強めてください。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

説教「借金」マルッティ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書18章21−35節

古い車の例え話をします。ある日古い車が道を走っていました。

エンジンの音はうるさいし、タイヤもだめです。車の後ろからは青い煙が出てきました。前にも、下にもさびがたくさん見えました。本当にいい車ではありませんでしたが、一つ面白い事が車の後ろの窓に大きい文字でかいてありました。[廃車みたいな車ですが、借金は全部払ってあります]。フィンランドではたいてい車の借金は高いので、払うのは数年かかるものです。この車の場合は何年間もかかったと思います。けれども、もう借金はなかったのです。

今日の聖書の箇所を読みましょう。

21. そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
22. イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

どうでしょうか。普通の生活の中に、私達人間はけんかをしたり、悪口を言ったりします。赦し合うのはそんなに簡単なものではないと思います。イエスもこの事をよくご存知でした。

23. そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
24. 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
25. しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

これは大変な生活の中での状況でした.普通の人には、決して払う事が出来ません。何をしたらいいでしょうか。

26. 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
27. その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

本当に憐れみ深い主君でした。そして、大金持ちでもあったようです。けれども家来は憐れみ深い者ではありませんでした。その反対でした。

28. ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29. 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
30. しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

自分は一万タラントンの借金を支払わなくともよいと赦されたのに、他の人に対しては百デナリオンの借金の支払いさえも赦すことが出来ませんでした。皆困っていたでしょうね。

31.仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
32. そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
33. わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
34. そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

主君が怒った事は、よく理解できると思います。私達が主君の立場でも怒ったと思います。

35. あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

自分の力で、兄弟を赦すことはなかなか難しいですが、信仰によって、イエスの御心に従う心が生まれると、それが出来るようになります。それを、イエスも喜んでくださいます。

義とせられることについての教えです。

また、われらの諸 教会はかく教える。人は自分の力、功績、或は、業によって神の前に義とせられることはできず、キリストのゆえに、信仰によって、代償なく、神の恩恵により 義とせられる。その時、人々は恩恵の中に受け入れられ、その死によってわれらの罪のために贖いとなられたキリストのゆえに、その罪が赦されることを信ずる。この信仰を神はみ前に義と認められるのである(ローマ3章、4章)。(アウグスブルク信仰告白第4条 義認について)

イエスの御業は素晴らしいものです。感謝します。それに従っていきようとする私達人間はどう生活すれば宜しいでしょうか。

奉仕への贖い

神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、 すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きる のではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(第二コリント5:14-15)。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)。

これは、神様が教えられたキリスト者の生活の仕方です。神様に頂いた力によって。

まとめ。

人間と神様の間には、「罪の借金」があります。自分の力とか財産によっては、人間はその借金を払う事が出来ませんが、イエスはその「借金」を全部払ってくださいました。十字架の御業は私達の「罪の借金」の終わりです。

ヨハネ 3:16、17「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

祈りましょう

天の父なる神様。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださったことを感謝いたします。よいニュースは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。

私たちは恵みによって救われます。私たちは信仰によってあなたの子どもです。毎日あなたの教えを聞けるように導いてください。そして心の中にあなたの光を照らすことができますように。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。

イエス様は私たちの本国である天への道も開いてくださいました。それは私たちの人生の目的です。あなたは、すべての人間を救う計画を作ってくださいました。どうか天国への道を他の人々にも見せるように助けてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。漁師シモンのように私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。 私たちをあなたの体の部分として働く人間をとる漁師にしてください。

人生の正しい使い方も教えてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。あなたに与えられた力によって子どもたちや隣人を大切に出来るように、また、隣人と赦し合うことが出来るように。様々なことによって苦しんでいる人を助けられるように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエス・キリストによって強めてください。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

途中でフインランドの賛美歌を演奏してくださいました。

説教「植える者と水を注ぐ者」木村長政 名誉牧師

2017年10月1日(日)日曜礼拝説教

第11回コリント信徒への手紙 3章5~9節

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/10/Kimurasensei_2017_10_1sekkyou.mp3

 
私の礼拝説教ではコリント信徒への手紙のみ言葉を連続での説教です、今回で11回目になります。今回は3章5~9節まで聞いていきたいと思います。コリントの教会で伝道した二人、パウロとアポロの使命についてスポットを当ててみたいと思っています。3章5節には「アポロとは何者か、またパウロとは何者か。この二人はあなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて使えた方です」。とあります。これがきょうのテーマですね。パウロは自分が伝道した教会が今どうなっているか、この手紙の最初から問題としてきました。1章11~12節にあらわに記しています。〔私の兄弟たち実はあなた方の間に争いがあるとクロエの家の人たちから知らされました。あなた方はめいめいに「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファにつく」「わたしはキリストにつく」などと言い合っているとのことです。〕こうしてコリントの教会の中が四つに分かれて争い合っているというのです。なんの言うことだろうか。パウロの思いはどうであったでしょうか。自分はパウロにつくとか自分はアポロにつくと言い合っている、それどころかパウロこそが神の人だ!と言い、いやアポロこそが神に仕える者だなどと神にまで祭り上げようとしている。ところで1章では四つの分派で争って混乱している様子を書いていますが3章のところでは四つの中でもパウロにつく者とアポロにつく者について言っています。この二人だけが特にコリントの人々を導いたからでありましょう。二人だけが直接にこの教会で働いた人であったからでしょう。パウロは自分を慕ってくれている人気に甘えて得意になったでしょうか、いいえそうではありません。それどころか「アポロは何者か」「パウロはいったい何者か、何ができるというのか」と怒り心頭に言うのであります。そこで普通でしたら自分を「神なんかではない。」と卑下して「アポロもパウロも普通の人ではないか。」と言うところであります。ここのところが本当のところ微妙な問題であります。簡単なようでそうではないのです。パウロもアポロも心血を注いで伝道したのです。この二人は救いの言葉を語っているのです。人の知らない神の救いを知っているのです。それならその人々を崇めようとしても何も不思議ではない思われます。どんな宗教でも救いを教える人ならその人に特殊な能力を持っていると考えられて普通の人より上に扱われたりします。人間の力でどうしようもない苦難を神の力に頼むのに神に取り次ぐ特別な役割を負って働いてきた二人です。パウロ自身からはこうしたことは言い難いかもしれません。自分たちが扱っているものが全く自分たちの力が及ばないものであったからです。それは特別な経験をしたり、特別な能力をもっているからではなく神の救いのの言葉を神から託されているだけであったからであります。

自分と教会との関係は「語る人」と「聞く人」との関係であってそこに取り扱われている事柄は神の救いの言葉であったからです。大事なのは神の救いの言葉そのものであってそれを語る人ではないからであります。そう意味で信仰に導いただけであったということであります。伝道者の謙遜という者は自分が神の業に対して全く無力であることを知っているからであります。パウロもアポロもわざと謙遜しているわけでもありません。自分たちが伝道しているものは全く自分たちの力の及ばないものであることを十分知りつつしかし語らざるを得ないのであります。もう伝道に夢中であります、そうして彼らの熱意が周りの人々へと信仰を起こし広がって教会をつくって行ったのであります。神の言葉を受けて熱意に心が燃えなければどうして信仰が与えられ起こっていきますか。パウロとアポロとは対照的な人であり辿ってきた人生も性格も全く違っております。パウロもアポロも当時としては学識豊かな人であったと言えるでしょう。パウロについてはもう使徒言行録を見れば9章や22・26章に詳しく記されています。パウロはキリキヤのタルソという所から生涯が始まっています。エレサレムでラビとしての厳しい訓練を受け又エレサレム最高議会の議員としてもそうとうの権力を持った人となります。そうしてキリスト者を迫害し捕らえていく人でありましたがダマスコの途上で神によって劇的な回心をします。人生のどん底からキリスト者の信仰を与えられ命がけで伝道に気が狂ったように情熱を注いで伝道しコリントの教会を築いていったのでありました。その教会が内部分裂して崩壊しようとしているわけです。パウロの重大使命が与えられていくことになります。一方アポロはどんな人であったか聖書に詳しく記してないのです。アポロは アレキサンドレアの出身で彼は聖書に詳しい人であった、しかも雄弁な人であった。使徒言行録18章24~28節に記してあります。アレキサンドレアは旧約聖書のギリシャ語訳をしたところで有名でした。従ってギリシャ文化とヘブル文化とが接触し融合したところでありました。彼はそういう中で特に旧約聖書に精通するほどに学問をした人でありました、加えて雄弁であった。こうしたパウロとアポロの全く違った二人がこの教会の伝道に熱心に関わったのでした。そう見ますと教会の中に両方それぞれにつく人ができることは不思議なことではないでしょう。そこで大事なことは「私はアポロにつく」とか「私はパウロにつく」といった分裂や相対立することではなく、お互いの与えられている才能や能力を信仰の面で生かして用いていくべきでしょう。(教会は二人の優れた面を用いて相働く場であるべきでしょう。)パウロにとってはキリスト教の福音は何か信仰の基本的なことを語る役目を大切にしていったということです。パウロの数々の手紙を見ればそこに丁寧に分かり易く繰り返し繰り返し救いの根本を語っています。アポロはどうであったかと言うとギリシャ哲学や教養豊かな面で優れていましたから基本を教えると言うよりも信仰生活に肉付けした美しさが備えられているのが得意でありました。例えばヘブル人への手紙はアポロが書いたのではないかという学者もいるくらいこのヘブル人への手紙には旧約聖書を素材にしながら華麗な書き方をしているからであります。

今日のみ言葉の結論を言いますと神様はこのパウロとアポロという伝道者をコリントの教会の重要な役目を最も適切な働きに用いられた。それぞれにイエス・キリストのみ力を受けて教会の大事な人々を選び神の栄光のために働いていった。そうして絶妙の表現で次のように記しています。〔私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。〕この世の風雪に耐えて信仰が養われていくのには神様が与えてくださる種を良い土地に植え大切に育て、そして水を注ぐ。アポロもパウロもそのために用いられます、成長させてくださるのは神様であるということをしっかり覚え教会の成長と栄光を望んでいきたいと思います。     
アーメン・ハレルヤ

 

説教「神の救いを贈り物として受け取る信仰」吉村博明 宣教師(講壇交換により市ヶ谷教会にて)、マタイによる福音書18章1-14節

 主日礼拝説教 2017年9月24日 聖霊降臨後第16主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、イエス様から祝福をいただこうと親たちが子供を連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、イエス様は逆に弟子たちを叱って、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言い、祝福を授けます。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を父なるみ神は断じて許さないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、イエス様が子供の信仰を引き合いに出して、何を私たちに教えようとしているのか、それを見てまいりましょう。

 2.

 弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問しました。「天の国」とは、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、かわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨します。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国に君臨しそれを統治することになる王、イエス様の側近になれるのは誰なのか?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
 つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。誰が神の国で一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えるのです。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできないのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、それは本当は人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。加えて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は今度は、一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。「神の恵み」と言うように「恵み」という言葉がありますが、北欧のルター派の国スウェーデンやフィンランドの言葉では「恵み」は「恩赦」を意味する言葉の派生語です([ス]nåd ← benåda、[フィ] armo ← armahtaa)。つまり、これらの国の言葉では「神の恵み」とは「罪の赦しの恵み」の意味が強く出るのです。

ところで、キリスト信仰者とは言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の違う点は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。

そういうわけでキリスト信仰者とは、絶えず神の方を向いて歩き、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々歩む者と言えます。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む者はこの世の人生の段階で既に神の国の一員として迎え入れられています。

ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありませんが、目に見えるようになる日が来ます。それは復活の日と呼ばれる日であり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、イエス様が再臨され、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れて、王として君臨される。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。少し脇道にそれますが、キリスト教会のある教派の総会を覗いたことがありますが、そこで「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この世の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に迎え入れられるようにすることだと思います。

3.

 神の国が以上述べたようなものであることは、実はイエス様の十字架と復活の出来事の後にはっきりします。十字架と復活が起きる前の人々の神の国理解と神のひとり子イエス様の理解の間にはギャップがありました。神の国を人々がどう理解していたかは、福音書の記述や当時のユダヤ教社会の思想から大体見当がつきますが、それはここでは立ち入らないことにします。いずれにしても、十字架と復活の出来事が起きる前は、人々は神の国とそこに君臨するメシアについて正確な理解を持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問したのです。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われたのです。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない」と。これはどういうことでしょうか?

「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では「立ち返る」という意味の動詞στρεφωです。それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申しました、神がイエス様を用いて実現して下さった「罪の赦しの救い」を子供のようにいただくということです。神が「どうぞ受け取りなさい」と言って下さるものを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。これだけのものをいただけるのだから、こちらからも何かしないといけないとか、そんな返礼は考えず、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに子供のようになって受け取るだけです。ここまでして「自分は何もできない、おできになるのは天の父なるみ神だけだ」と観念して受け取らないと、イエス様の犠牲の上に成り立つ罪の赦しはその人にその通りにならないのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後は、人間は洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、神がイエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」を子供のように無力な者になって受け取る、こうして人間は神の国に迎え入れられることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は今度は、その神の国の中で一番偉い者は誰かという、最初の質問に答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べた神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて一生懸命業を行っても、人間は死を超えた永遠の命を持てない、神の方で整えてくれて与えてくれなければ持てない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のように自分を低くする人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。この文のギリシャ語原文は少し厄介なところで、私なりに解決策があるのですが、話が細かくなるので立ち入りません。新共同訳の文を使っても、前後の脈絡をしっかり押さえておけば大丈夫です、と言うにとどめます(*後注)。この「受け入れる」ということですが、これは、孤児とか貧しい子供を引き取るというような人道支援的な意味ではありません。次の6節でイエス様が「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っていることに注意しましょう。ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つ子供です。信仰を持つ子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは人道支援ではなく、信仰を持つ子供を信仰者の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様が「神の御前にいる守りの天使は大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えていることにも注目しましょう。イエス様を救い主と信じる者は、大人だろうが子供だろうが、皆全く同じくらいに「罪の赦しの救い」と「神の国への迎え入れ」を持つのです。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語としてスキャンダルという言葉があります。日本語で「醜聞」と訳されることがあります。昨今の日本ではニュースで醜聞が多すぎるのではないかと思わされます。それだけ「つまずく」人が多いということなのでしょう。

「つまずかせるもの」は、どう私たちをつまずかせるでしょうか?先ほど申しましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで「罪の赦しの救い」を所有することができるようになり、この世にあって神の国に至る道に置かれて、今その道を神から力を得ながら歩んでいます。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく者です。そうした時、「つまずかせるもの」が、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとします。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑もあります。例えば、「これをすれば君は素敵なことを経験できるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合にです。しかし、キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が十字架の上で流した尊い血が代償となってこの私を罪と死の支配下から解放してくれたということが最大の自由であります。この世が誘う「素敵なこと」こそが束縛です。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり、また享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。

しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」がひけらかす人間像が何か新しく見えて、本当の新しい人間が古くなったように見えてしまう危険があります。

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰から外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なるみ神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられるのを拒否しない限り、必ず神に見出されて天の御国への道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか神によって見つけられますように。

4.

 それでは、イエス様が子供の信仰を引き合いに出して、私たちに信仰について何を教えようとしているのか、それを見てみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」は、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取りなさいと、全人類に差し出して下さっている。「罪の赦しの救い」はまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのです。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。その時また、信仰が人間の自由な意思決定に従うものとなって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しない限り、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の御言葉などは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、新たに洗礼を受ける必要はありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、人生の歩みの途中で受けるということが多いです。そうなると、信仰を自分の自由な意思決定に従わせてしまう危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力か何かを持ってこの救いを得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地で起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その意味で、子供が有利な地位にあることは否めません。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言申し上げたく思います。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。どうして親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではないか、むしろ全てを客観的に眺められる立場でい続けようということになると思います。しかし、もし子供をキリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波にも乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。さらに、キリスト信仰者の自由とは、何と言っても罪と死の支配下からの自由であり、同時に父なるみ神に対する感謝の念から神の意思に沿うように生きようと志向する自由です。いずれも、イエス様の十字架と復活から生じた自由です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、主の十字架と復活を語らずして、キリスト者の自由を語るなかれ、です。これをよく肝に銘じておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教:浅野直樹 牧師(武蔵野教会)

 

2017年9月24日 聖霊降臨後第16主日礼拝説教(スオミ教会)

 

聖書箇所:マタイによる福音書18章1〜14節

説教題:「小さき者を愛される神さま」

 

「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」

 

 今日の説教題は「小さき者を愛される神さま」とさせて頂きました。今日の福音書の日課を読んでみますと、新共同訳の小見出しにもありますように、三つの話題に分けられるようにも思います。しかし、この三つの話には共通しているものがあるように思うからです。それが「小さき者」です。6節にも、10節にも、この言葉が登場して参ります。もっとも最初の部分…、18章1節以下では「子供」という言葉が繰り返されますが、お読み頂ければお分かりのように、この「子供」と「小さき者」とは重なり合うわけです。ですので、最初の話題の「子供」ということを考えていきますと、この「小さき者」というのが一体どのような存在なのかが、自ずと見えてくると思います。

 まずイエスさまはこのようにお語りになられました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。有名な言葉です。しかし、正直、誤解も受けやすい言葉だと思います。その一つが、「心を入れ替える」といった言葉です。皆さんは、この「心を入れ替える」といった言葉にどんな印象を持たれるでしょうか。道を誤った任侠者の人が…、ちなみに、この説教の準備をしていて私自身はじめて知ったのですが、「任侠者」といえばヤクザ映画(暴力的な)などの印象を持っていたのですが、もともとの意味は「弱い者を助け、強い者をくじき、義のためには命を惜しまないという気風。おとこぎ」(かっこいいですね)といった立派な意味を持っていたのですね…、ともかく、その任侠者がその道から足を洗い、まっとうな人生…、カタギの人生を送るような場面で「心を入れ替える」といった言葉が用いられそうな印象があります。すくなくとも、大層な場面で使われる印象がある。ある解説を読んでいますと、この言葉が人々にプレッシャーを与えてきた、とありました。私も同感です。もちろん、そういった重々しいイメージも全部が間違いではないのでしょうが、もともとの意味は「グルッと向きを変えて」とか、「戻るべきところへ戻って来て」といった意味合いなのです。「悔い改め」といった言葉の印象もそうですね。もともとは「神さまに立ち返る」といった意味合いなのに、なにか厳しい修行の果てに身につける奥義のような印象を受ける。これは予断ですが、ちょっと翻訳を考え直していただきたい、…近々、標準訳といった新たな日本語の翻訳聖書が出ると聞いていますが、どんなものに仕上がっているのか私には分かりませんが…、ともかく、あまり重苦しい、厳しい表現にしすぎない方が良いと個人的には思っています。話が逸れてしまいましたが、もちろん、軽々しく考えて良いことではないのでしょうが、しかし、ことさら自分の内面に沈潜するような事柄ではないように思うのです。そうではなくて、今の自分がどのような状態なのかをしっかり把握して、どこに向かうべきなのかをしっかりと聞き取るべきなのです。

 そして、もう一つはこの「子供のように」といった言葉が誤解を生んでいるようです。現代の子供理解と当時の子供理解とでは随分と違っていたことが指摘されています。現代は子供…、特に小さな子供といえば、純真無垢、天真爛漫、天使のよう…、つまり大人のようには汚れていない、といった肯定的なイメージを強く抱くものです。ですから、この「子供のようにならなければ」といったイエスさまの言葉に対しても、イエスさまはそんなふうに、汚れなき姿を、素直で純粋な姿を私たちに求めておられるのだ、と現代人は受け止めるわけです。しかし、当時の子供理解は…、もちろん親たちにとっては当時(昔も)においても自分の子供は可愛かったでしょうから違った受け止め方をしていたと思いますが、世間一般では役に立たない無力な者といったイメージでした。これは、私たちにもなんとなく理解できることです。日本でもかつてはそうでしたし、世界では今でもそういった国々が決して少なくないことを私たちは知らされていますが、子供も労働力と考えられているからです。つまり、一方では子供を働かさなければならないほどの厳しい世界、社会とも言えるわけです。そういった中では、いつまでも子供でいてもらっては困るのです。はやく大きくなってもらわなければ、家族の役に立つようになってもらわなければ、稼げるようになってもらわなければ、自立してくれなければ困るのです。それが社会です。生きていくための仕方のない論理です。そして、先ほども言いましたように、今日では当時とは全く状況も理解の仕方も違っているわけですが、しかし、そんな社会の仕組み、社会の中で生きるための基本的な理解・構造は現代でも変わっていないように思います。

 私たちもまた、早く子供を卒業するようにと、早く大人になって自立するようにと求められて生きてきました。それが、この世界では大切なことだから、この世界で生きるためには仕方がないことなのだからと教えられ生きてきました。また、親とされた私たちも、子供を可愛がってきましたが、天使のようだと喜んできましたが、そのままであることを求めることはなかった。人よりも成長が遅いと、心配になりました。この子はちゃんと大人になれるのだろうか、と不安な気持ちも持ちました。やはり、大人になることを、自立することを、自分で、自分の力でちゃんと立派に生きていくことを願った。そうです。私たちは「子供のようになりなさい」という世界には生きていないのです。「大人でありなさい」という世界に生きている…。

 ですから、この時の弟子たちの問いの方がずっと良く分かる。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。偉くなるためには、子供であってはならない。自分で生きていけないような、自分で責任をとることのできないような、自分で自分を支えることもできないような、そんな未熟な、幼稚な、すぐに泣き出して誰かを頼るような、そんな子供であってはならない。そうではなくて、誰もが認める立派な大人、人々が賞賛するような立派な大人にならなければ、天の国でだって偉くはなれないはずだ。そう弟子たちが考えたってなんらおかしくないでしょう。むしろ、それが常識です。

 しかし、イエスさまは「違う」とおっしゃる。その常識を、世の、社会の常識を変えよ、とおっしゃる。少なくとも、天の国ではそんな常識は通用しない、とおっしゃる。むしろ、天の国では、大人であるよりも子供であることの方がはるかに望ましい、とおっしゃる。では、ここでイエスさまが語られている「子供らしさ」とは一体何か。先ほど言った純真無垢さでも、天真爛漫さでもないことは明らかです。そうではなくって、子供の子供らしさとは、頼る、ということです。すがる、ということです。大人になるためには否定されるべきこれらのことが、何よりの子供らしさだと思うのです。親に頼る。親にすがる。なぜか、自分だけでは立ち向かえないからです。自分だけでは解決できないからです。誰かを頼らなければ、誰かに助けられなければ生きていけない。それが、子供です。そんな「子供らしさ」をイエスさまは「自分を低くして」とおっしゃるのです。変に大人の知恵を働かせた自己卑下ではないのです。下手に出た方が有利だ、といった計算でもないのです。そうではなくて、頼らなければ、すがらなければ、生きていけない。それが、何よりも神さまにこそ向くことを神さまは求めておられるし、喜んでおられるのです。あの山上の説教にある「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」の言葉に通じるものです。苦しい時の神頼み…。大いに結構。子供らしい姿じゃないですか。逆に、こんなことで神さまをわずらわすことはできない、なんて遠慮深くする方が子供らしくない。それは、大人がすることです。神さまはそんな子供らしさを求めておられます。そんな子供っぽい小さき者を躓かせるものは大いに不幸だ、と言ってくださるほどに慈しんでくださっています。この小さき者のために天使が仕えてくれていて、この小さき者を必死に探し出してくださっています。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と。

 この世界、この社会が大人であることを求めることにも意味があるでしょう。確かに、自立をし、自分の力で生きていくことも大切なことだと思うからです。私自身、(三人の子供たちがいますが)子供たちには、そんな生き方をしていってほしいと願っています。しかし、では、大人でなければダメなのか、大人でなければこの世界、この社会では生きていく資格がないのか、といえば、そうではないはずです。神さまは天の国ばかりでなく、この世界、この社会においても、たとえ大人としての生き方ができなくても、それでも生きていける、愛され、守られ、用いられていく世界、社会をも求めておられるのではないか、と思うのです。つまり、私たち自身が天の国に入るために子供のようになることを求められているのと同時に、今度はそんな天の国を知った者として、他者を、この世界を、この社会をどのように見るべきなのか、ということにもなるわけです。

 イエスさまは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がまし」だ、とさえ言われます。では、小さな者をつまずかせるとは一体どんなことなのか。「小さくてはダメだ」ということでしょう。何もできないような、役に立たないような「小さな者ではダメだ」と、大きくなることを、立派になることを求めることです。あるいは、イエスさまは10節で「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」と言われます。やはり迷う奴はダメだ。周りを見ろ。みんなちゃんとやっているではないか。お前だけだ。お前一人だけがウロウロして迷っている。そんなことではダメじゃないか。もっとしっかりしろ…。私たちは、ついついそう言いたくなる。でも、イエスさまは違う、とおっしゃるのです。そうではない。この「小さい者」を軽んじるな、とおっしゃる。なぜならば、この小さい者を神さまは愛しておられるからです。

 私たちはどうしても、自分を見るときも、また他者を見るときも、弟子たちと同じ視点で見てしまう者です。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と。誰が一番偉いのか。誰が一番ふさわしいのか。誰が一番能力があるのか。そんな中で自分は一体どれくらいの位置にいるのか…。そうではない。イエスさまはそんな思いを変えて、そんな価値観…、方向を変えて「子供のように」と語られるのです。なぜならば、神さまは大人ぶっている私たちであろうとも、背伸びをして自分自身でなんでもできるような顔をしている私たちであろうとも、我が子のように愛(いと)おしんでおられるからです。心配で、目が離せないでおられるからです。放ってはおけないからです。だから、もう一度、子供のようになれ、子供の頃を思い出せ、とおっしゃっておられるのではないでしょうか。

祈りましょう。

「憐れみ深い私たちの天の父なる神さま。今朝はスオミ教会の皆さまと共に礼拝の恵みに預かれましたことを心より感謝いたします。直ぐにでもあなたの恵みを、愛を忘れてしまう私たちをどうぞ憐れんでください。あなたを軽んじて、常に自分の力、知恵、思いなどに頼ってしまう私たちを憐れんでください。そして、人をも同じ基準で測り、出来る出来ないと優劣で判断してしまう私たちを、どうぞ赦してください。あなたにあって『子供らしさ』を取り戻すことができますように。そして、この小さき者をも愛してくださっているあなたの愛から離れることなく、他者に対しても、このあなたの愛の眼差しで見つめることができるようにお導きください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン」

 

 

「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン」

説教「教会にしかない鍵」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書16章13-20節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
By Nheyob (Own work) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons 本日の福音書の箇所は一回読むとなんとなくわかった感じになります。ああ、イエス様は弟子たちに質問して、人々は「人の子」を誰だと考えているか、と聞くんだな。それに対して弟子たちは「人々は『人の子』を洗礼者ヨハネとか旧約聖書のいろんな預言者だと思っています」と答えるんだな。次にイエス様はペトロに「お前は私を何者と思うか」と尋ねて、ペトロは「メシアです、生ける神の子です」と答えるんだな。それに対してイエス様は、ペトロがそう答えたのは神がわからせたからだ、と言っているんだな。そしてイエス様はペトロを将来のキリスト教会の長にする、教会の鍵を与えると言って、彼を教会内で権威ある地位につけるんだな。なるほど、なるほど、簡単じゃないか。

ところが本日の箇所は本当はとても難しいのです。一つ例を挙げると、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」と言うのは、皆様もご存知のように、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今あるこの世が終わりを告げる時、神の国が到来する。それを統治する者が「人の子」です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに聞いたのです。弟子たちの答えは、洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、エリヤだとかエレミアだとか旧約聖書の預言者の名をあげる人もいます、というものでした。このように「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、それでは弟子たちは彼のことを誰だと思うか、と尋ねます。つまり質問が「人の子」についての人々の見解から、イエス様自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは一体どういうことでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っている、と答えた後だから、続く質問としては、それでは弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、というのが自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - これらは一体どう繋がっているのでしょうか?

 もう一つ難しいことは、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと命じたことです。メシアとは、これも皆様ご存知のように、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者を指し、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、「油注がれた者משיח」はユダヤ民族の現実の王様の印でした。これがバビロン捕囚の後の時代になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエルの王国を再建する待望の王様を意味するようになります。さらに紀元前3,2世紀頃になると、ユダヤ教社会のなかで、今あるこの世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだします。そうした時、メシアとは、そういう終末の時に現れて、天地創造の神への信仰を守り抜いた者たちを苦難から救い出して、これを死から復活させた者たちと合流させて新しい世に迎え入れてくれる、そういう救い主と考えられるようになります。

さて、イスラエルの王国を再建するダビデ家系の王様を意味するにせよ、また終末の救世主を意味するにせよ、どちらをとるにしても、問題は、なぜイエス様は、自分がメシアであることを人々に話してはならない、と命じたのか?彼が無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問は、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、そのペトロを教会の基にすると言います。「ペトロ」という名前は「岩」を意味するギリシャ語のペトラから来ています。「陰府の力も教会には対抗できない」と言いますが、具体的に何を意味するのか?さらに、ペトロに天の御国の鍵を渡し、ペトロが「地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とは何を意味するのか?ペトロに教会内での権威ある地位を与えるんだな、ということはわかりますが、具体的に何を意味しているのか?

本日の箇所は、以上の三つのことがわからないとわかったことにならないのです。それで、本日の説教ではそれら三つの疑問点、イエス様の二つの質問はどう結びつくのか?なぜイエス様はメシアと公言してはならないと命じたのか?ペトロを土台にして建てられる教会とは何か?これらを明らかにしたいと思います。

 

2.

 最初の疑問。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、今度は彼自身についての弟子たちの見解を質問したことは、どう繋がるか?これを明らかにする鍵は、「人の子」とは何かということです。実は、このダニエル書に出てくる「人の子」というのは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学の研究者にとってもやっかいな問題でして、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めに触れましたように、「人の子」はダニエル書7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味では「年齢を無限に重ねた者」、つまり天地創造の神を指します。この神から、「人の子」は王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国を統治します。これがダニエル書の預言です。

ところで、紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの200年位の間に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことをダニエル書のような新しい世に登場する王だけでなく、ずばりメシア救世主と同一視する思想が現れます。他方で、本日の福音書の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを「人の子」に抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者のリストに彼を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。弟子たちの答えを聞いたイエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。果たして弟子たちは、あなたこそ「人の子」ですと答えられるだろうか?しかし、イエス様の十字架の受難や死からの復活をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。「生ける神」というのは、金や銀や銅や木や石で作った像ではなく、本当に生きていて万物を創造し影響力大の言葉を発する神ということです。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシア救世主であり神の子でもあるので、ペトロの答えは「人の子」は抜け落ちたけれども間違ってはいません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されます。つまり、迫害を受けるという意味で自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという質問の答えをここで自ら示すのです。

 

3.

 二番目の疑問は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と、現世から新しい世の永遠の命へ橋渡しをする救世主と考える思潮、この二つがあると申しました。イエス様は確実に後者の意味での救世主ですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまでそういう救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないか、そういうことが福音書の他の箇所から窺うことができます。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そういうメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配からの解放を夢見る愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、帝国当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早く起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起こることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。ヨハネはそれを「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べます(ヨハネ12章23節)。つまり、「時」が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、私たち人間を罪と死の支配下から救い出して、造り主である神のもとに私たちを贖い出すために、犠牲の生け贄となるべくエルサレムに入ったのです。この世の終わりの時に天地創造の神は最後の審判を司り、全ての民族を裁きにかけるのですが、その神に前もって捧げられた完全無傷な生け贄、それがイエス様でした。以上のような次第で、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現されなければならない神聖な贖いの業を妨げてしまう恐れがあったのです。この段階でイエス様がメシアであることを公にしてはならないというのは、以上のような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなりました。否、公けにしなければならなくなったのです。

 

4.

 三つの目の疑問は、ペトロを土台にして建てられる教会とは何か、というものです。本日の箇所の17節から19節までのたった3節だけですが、内容がぎっしりですので、じっくり見ていきます。

 まず、17節のイエス様の言葉、イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。新共同訳にあるような「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは、もちろん「人間」を意味する熟語なので、訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、ペトロにわからせたのは神であって誰か他の人間が入れ知恵したのでははない、ということになってしまいます。しかし、そういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、その状態ではイエス様の正体を理解できない、ということです。ペトロがわかったというのは、彼が神から霊的な影響力を及ぼされて、単なる血と肉の塊でなくなった、ということです。

そういうわけで、ペトロがイエス様のことを「メシアです、生ける神の子です」と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではありませんでした。というのは、皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる直前に主を見捨てて逃げてしまったからです。しかし、十字架と復活の出来事の後は全てが一変しました。まず、霊的な影響力に決定的に服することが聖霊降臨の時に起こりました。それからは、ペトロも他の使徒たちもどんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する「人の子」であると公けに宣べ伝え始めたのです。そのように見ていくと、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表したというのは、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

イエス様の十字架と復活の出来事の後、そしてそれに続く聖霊降臨の後、人間が天地創造の神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかが明らかになりました。それは神がイエス様を用いて実現した人間救済が人間の心にすっと入るようになったということです。どういうことかと言うと、旧約聖書の創世記の初めにありますように、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事で人間の内に罪が入り込み、人間と神との関係は壊れてしまいました。神はそれを深く悲しみ、なんとか関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに万が一、この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から取り除かなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神の関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪からくる神罰を全部彼に肩代わりさせて十字架の上で死なせました。まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりません。神は今度は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間に開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全部自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。イエス様のことを単なる過去の歴史上の人物ではなく、現代を生きる自分自身の救い主とわかるというのは、天地創造の神の霊的な影響力が働いていることを示しています。洗礼を受けるというのは、その影響力に服することを決定的にすることです。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言うのは、教会というのは単なる建物ではなくて、まさに天地創造の神の霊的な影響力に服してもはや単なる血と肉の塊でなくなった者たちから構成されるものを意味します。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」です。日本語訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。フィンランド語、スウェーデン語、英語(NIV)の聖書も「陰府の門」と訳しています。(ドイツ語訳Einheitsübersetzungは「陰府の力」でした。)「陰府」(ギリシャ語αδης、ヘブライ語שאול)というのは、死者が安置される場所という意味ですが、これはよく混同されますが、火が燃え盛る地獄(ギリシャ語γεεννα、アラム語גיהנס)とは別のものです(ルカ16章でイエス様がたとえを使って教えている箇所で陰府と地獄が一緒になっていますが、これは例外的です)。火が燃え盛る地獄というのは、今ある世が終わりを告げる時、今ある天と地が創造主の神によって新しい天と地に造りかえられる時、最後の審判が行われて、罪の支配下に甘んじていた者たちがそこに投げ込まれてしまうというように、火の地獄というのは最後の審判の時に出て来るものです。陰府というのは、その日が来るまでこの世を去った者が眠りについている場所です。ルターに言わせれば、この世の痛みや苦しみから解かれて復活の日まで安らかに眠る場所です。

陰府はよく地下にあるイメージを持たれますが、それは埋葬されるのが地面の下だったり墓石の下だったりするためでしょう。しかし、この世の向こう側のことなので、下とか上とかは言えません。いずれにしても、人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも寄せ付けない力を持っている。ところが、イエス様を救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を与えられて神のもとに引き上げられる。固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう者たちから構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 最後に、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことを見てみましょう。この「地上でつなぐこと、解くこと」は一体何を意味するのでしょうか?まず、「地上で解くこと」から見てみます。これはギリシャ語原文の言葉(λυω)の背景にあるアラム語(イエス様が話していた言葉)の言葉(שרא)から見ると、「地上で許可すること」になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」も同様にギリシャ語の言葉(δεω)の背景にあるアラム語の言葉(אסר)からみると「地上で縛りつける、禁止する」という意味になります。天の御国への入国を許可しないということです。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに託される鍵が何の鍵であるかが明らかになりました。

ところが、ここで注意しなければならない大事なことがあります。それは、天の御国への入国を許可するか否かを決めるのは、これは最後の審判を司る天地創造の神であって、いくら神からの霊的な影響力に服するとはいえ、人間個人が行う筋のものではないということです。それなら、なぜイエス様はペトロがそれを決められるかのように言っているのでしょうか?イエス様の趣旨を理解するようにしましょう。

神から霊的な影響力を受けてイエス様をメシア、生ける神の子と証したペトロを中心にして、共に聖霊降臨を受けた使徒たちを土台にして教会が誕生しました。先にも申しましたように、教会は神からの霊的な影響力に服する者たちから構成されるものです。ここでのイエス様の趣旨は、天の御国に入れるための鍵、つまり復活の日に死から目覚めさせられて復活の命と体を与えられて造り主の御許に迎え入れらえるための鍵、その鍵はまさに教会にあって、それ以外にはない、ということです。教会は神の御言葉、つまり十字架と復活の業を成し遂げたイエス様を神のひとり子、メシア救い主と証する神の御言葉を持っています。そしてその御言葉を外に伝える役割を果たしています。教会はまた、天地創造の神からの霊的な影響力に服することを決定的にする洗礼を持っています。そして洗礼を受けた者たちに霊的な栄養を与える聖餐式も持っています。この栄養を受けると、神の御心に沿うようにこの世の旅路を歩む力が得られます。このように、教会にこそ、天の御国への鍵があるのです。イエス様は、この鍵と関わりを持ちなさいとおっしゃっているのです。関わりを持たないと天の御国への入国を認めてもらえなくなる、だから関わりを持ちなさい、と促しているのです。この私にはその鍵で扉を開けてもらえるのだろうか、などと心配するには及びません。イエス様を救い主と信じる者が「その鍵で私にも開けて下さい」とお願いすれば、必ず開けてもらえる、そうイエス様は約束されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン