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説教「この世という荒れ野の中で主の道を整え生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章1-8節

主日礼拝説教2020年12月6日 待降節第二主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会の新年の二回目の主日です。新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救世主のこの世への降臨を待つ期間です。カタカナ語ではアドヴェントと言います。この期間、私たちの心は、2000年以上の昔に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救世主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救世主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、キリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、それじゃまた来年、と済ませるのではなく、毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は再臨の日がいつかは誰にもわからないと言われました。彼が再臨する日というのは、今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それで、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。

もちろん、私たちはこの世では、神から取り組みなさいと与えられた課題がいろいろあります。世話したり守るべきものがあればそうする、改善すべきことがあればそうする、解決が必要な問題があれば解決に努める。先週の説教でも触れましたが、宗教改革のルターも教えるように、キリスト信仰者というのは、片方ではそうしたこの世でしなければならないことをし、片方では主の再臨を待ち望む心を持っているのです。その心を持っていることが目を覚ますことです。

とは言え、イエス様の再臨というのは実は気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、一見おとぎ話みたいで可愛らしい出来事です(本当はそうではないのですが)。ところが、再臨となると先ほど申しましたように、この世の終わりとか、最後の審判とか死者の復活とか想像を絶する出来事がつきまといます。先ほど朗読した第二ペトロの日課の個所でも、創造主の神が今ある天と地に代えて新しい天と地に造り直すことが預言されていて、「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」などと言っています。誰もそんな日が来ることを望まないでしょう。

しかし、キリスト信仰者は、そのような日に目を背けず、それは自分にとって大事なことと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、イエス様を救い主と信じ洗礼を通して聖霊を注がれたキリスト信仰者は、自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。キリスト信仰者の人生は、この世を去るまではこうした罪の自覚と赦しの繰り返しです。しかし、そうすることで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を与えられて神の御国に迎え入れられます。もう罪の自覚を持つ必要はありません。

それから、この世で罪を圧し潰す側について生きると、いろいろ損することや不利益を被ることが出てきます。この世は、別に大勢に影響ないからいいのだとか、誰も見ていない、多くの人がやっているからいいのだとか、果ては、神はそんな厳しいことは言っていない、などと言います。せっかくイエス様の犠牲と復活のおかげで新しい命を得て、神と結びつきを持って生きられるようになったのに、この世はそれを失わせようとします。しかし、パウロがローマ12章で教えるように、キリスト信仰者は不利でも損でもいいからこの世の基準に倣わないで生きていきます。そして、イエス様の再臨の日に全てが逆転します。なにしろ、基準を出してくるこの世そのものがなくなってしまうのですから。今のこの世で神の意思に従って損していたことが、次に到来する世では得になります。逆もまたしかりです。

以上のことを思えば、キリスト信仰者にとって主の再臨とはやはり待ち望むに値するものであると言ってもよいでしょう。

2.

前置きが長くなりました。今日の福音書の日課を見ていきましょう。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したことが記されています。福音書の記者のマルコは、洗礼者ヨハネの登場はイザヤ書40章3節の預言の実現であると考えて、それを引用して書きました。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

聖書を注意深く読む人は、あれ、これはさっき読んだ引用元のイザヤ書40章3節とちょっと違う、と気づくでしょう。実はこれは少し大きな問題なので、後で改めてお話しします。いずれにしても、マルコは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫ぶ声は洗礼者ヨハネのことだったと見なしたわけです。

洗礼者ヨハネが人々に命じた、主の道の整え、道筋を真っ直ぐにすることとはどんなことだったのでしょうか?ユダヤ地方やエルサレムの町から大勢の人が来てヨハネに罪を告白してヨルダン川の水で洗礼を受けました。これが主の道を整えることでした。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを表す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、罪を告白して「罪の赦しに導く」悔い改めの洗礼を受けたのです。水を浴びるので罪から清められることを象徴しました。

ところが、ヨハネは洗礼を授けたものの、自分の後に来る方つまりイエス様が本当に神の怒りが及ばないようにする力がある方だと言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。どうしてイエス様の洗礼には神の怒りが及ばないようにする力や来るべき大変動を乗り越えさせる力があるのでしょうか?それは、イエス様の洗礼には、彼がゴルゴタの十字架で自分を犠牲にして人間の罪を神に対して償ったという、罪の償いをその人に注ぎ込むものだからです。洗礼を受けた人はイエス様に罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたので神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。

さらに、イエス様は死から3日後に神の途轍もない力によって復活させられました。これによって、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る扉も開かれました。洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそれを歩むことになるのです。その道の歩みで、先ほども述べたように、罪の自覚と赦しを繰り返しながら進み、主の再臨の日が来ると、罪を圧し潰す側にいて生きていたことを認められて神の国に迎え入れられます。イエス様の洗礼にはそのような力があるのです。彼の洗礼に聖霊が伴うということについて。聖霊とはそもそも洗礼を受けた者が罪の自覚を持つようにと促し、自覚を持てば今度は心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが微動だにせずにあることを知らせてくれる方です。それで聖霊が伴わなければ、罪の自覚は生まれず、罪を圧し潰す生き方も出来ません。逆に、罪の自覚は生まれても心の目をゴルゴタの十字架に向けさせることがなかったら、絶望に陥ってしまいます。そのように聖霊は信仰者が神との結びつきを失わずにそれを一層強める働きをして、信仰者を主の再臨の日に備えさせてくれるのです。

ヨハネの洗礼にそのような力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせる印でした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。

3.

そうすると、イザヤ書の預言は洗礼者ヨハネがユダヤ地方やエルサレムの人たちに、イエス様を迎える準備の洗礼を授けたことで完結したことになります。ところが、預言はそこで完結していないのです。

イザヤの預言をよく見てみましょう。マルコが引用した預言はこうでした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

引用元のイザヤ書40章3節はこうです。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」

よく見比べると、マルコの引用では、叫ぶ声は荒れ野で叫ぶことになっています。引用元は、声の場所はどこと言っていません。「荒れ野」は声がする場所ではなくて、道を備える場所が荒れ野です。マルコの引用では、主の道を整える場所はどことは言っていません。「荒れ野」はあくまで声がする場所です。それなので、この声はユダヤの荒れ野で叫んでいた洗礼者ヨハネを指すことになったのです。ところが引用元の文では、声がする場所は何も言われていません。それでもし、これをそのまま引用してしまったら、叫ぶ声がヨハネの声だと自信をもって言えなくなります。さて、マルコは、叫ぶ声の主が洗礼者ヨハネだと言いたいがために、元の文を改ざんして「荒れ野」という言葉を「道の整え」から切り離して「声」の方にくっつけたのでしょうか?イエス様にまつわる出来事はみんな旧約聖書の預言の実現だと言いたいがためにそういう小細工をしたのでしょうか?

そういうことではないのです。イザヤ書のヘブライ語の原文を見ると、確かに、声がする場所は何も言われていません。「荒れ野」は主のために道を備える場所です。マルコの引用では「荒れ野」は声がする場所になっています。実を言うと、マルコはイザヤ書のこの個所をギリシャ語版の旧約聖書に拠っているのです。旧約聖書にはヘブライ語版だけでなくギリシャ語版もあるというのは、紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国が地中海地域の東半分を征服して、地域のギリシャ語化が進んだことが背景にあります。ヘブライ語よりもギリシャ語がわかるユダヤ人のために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたのでした。イザヤ書40章3節で「荒れ野」が叫ぶ声の場所になっているというのはギリシャ語版なのです。

そうすると、翻訳者が間違ったのかと言うと、そうとも言えないのです。これはヘブライ語の旧約聖書がどのようにできたかという大問題になるのでここでは立ち入りません。簡単に言うと、翻訳者たち(伝説では70人いた)が目の前にした、動物のなめし皮に刻まれたヘブライ文字の羅列はどっちにも取れる書き方だったのです。「荒れ野に」(במדבר)という言葉は、叫び声がする場所と見ることも出来たし、道を整える場所とも見ることも出来たのです。(私個人の感想では、ヘブライ語のテキストを何度も見るとやはり、道を整える場所ではないかなと思われるのですが、でも声の場所も捨てがたく、とても悩ましいところです。)

そういうわけで、マルコはギリシャ語版に忠実に従っただけで、翻訳者たちも間違いを犯したわけではないことがわかります。そうすると、イザヤ40章3節は、叫び声が荒れ野でしたと言って、それが洗礼者ヨハネを指し、彼の活動をもって実現したということになります。そうなると、この預言は過去に完結したことになって後世には関係ないことになります。しかし、実はそうではないのです。もう一つの理解の可能性、「荒れ野」は主の道を整える場所と考えたら、現代を生きる私たちに関わる預言になるのです。

4.

イザヤ書40章から55章までの部分は額面通りに取ると、紀元前6世紀にバビロン捕囚の憂き目にあったユダヤ民族の祖国帰還を預言する内容になっています。荒れ野に道を整えるというのは、まさに中近東の荒野を通って、蜜と乳が溢れる祖国に帰還する道ということになります。40章2節で、民の苦役の時は満了になった、民は犯した罪に対して二倍の苦汁をなめたのでその償いは十分過ぎるほど果たした、ということが言われています。これは、イスラエルの民がかつて神に背き続けて罰として国滅ぼされ異国の地に連行されて辛酸をなめたことを指すと普通は解されます。このようにイザヤ書40章の預言は、バビロン捕囚期のユダヤ民族からすれば、もうすぐ祖国帰還が近いという希望の預言でした。それは実際に紀元前6世紀の終わりにその通りになりました。

ところが、祖国に帰還できてエルサレムに神殿を再建したものの、ユダヤ民族は立て続けに大帝国の支配下に置かれ続けました。ダビデの子孫が王となって諸国民が創造主の神を崇拝に集まって来るという預言には程遠い状況でした。しかも、エルサレムの神殿で行われる神崇拝は本当に神の意思に沿うものか疑問視する見方も強まりました。それで、イザヤ書の預言は祖国帰還なんかで実現したのではなかった、40章5節で荒れ野に主の道を整えると全ての人の目の前に主の栄光が現れるという預言はまだ実現していない、だから道を整えるというのは過去の祖国帰還のことではなく、もっと別の大きなことなのだという理解になっていきます。イザヤの預言で神が意図したのはそれだったのです。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。

イエス様の十字架の死と死からの復活の後で、イザヤ書の預言は特定民族の歴史上の期待を超えた、もっと大きな普遍的なことを意味していたことが明らかになりました。全ての人間が万物の造り主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようにと、そのために神のひとり子が私たちに贈られました。そのひとり子が私たち人間に代わって罪の償いを神に対して果たしてくれて、死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さったのでした。イザヤ書40章の冒頭で、罪の罰を倍以上受けて神にそれでもう十分と受け入れられたことが言われていました。これはまさしく、神のひとり子の神聖な犠牲の死のことだったのです。

洗礼者ヨハネが人々に道を整えよと命じたのは、心にイエス様を迎える準備をしなさいということでした。そのために罪の自覚を抱かせて、救い主を受け入れるしかないという心にして、もうすぐ聖霊を伴って洗礼を授ける方が来られるので心配しないで待ちなさい、というものでした。

私たちキリスト信仰者にとって、主の道を整えるというのは、本説教の最初でも申しましたような、罪の自覚と赦しを繰り返しながら神との結びつきを強め罪を圧し潰していく生き方をすることです。その時、この世がいろいろなことを言って、そのような生き方から離れさせようとします。それでこの世はまさしく主の道を整える場所なので、「荒れ野」になります。この世の中で神との結びつきを強める生き方をすることが、荒れ野の中で主の道を整えることになります。だから、イザヤ書40章3節の預言は私たちに向けられた預言なのです。そのようにしてこの世という荒れ野を進む私たちを父なるみ神は守って導いて下さることもイザヤ書40章で次のように約束されています。

10節「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」主のかち得られたもの、主の働きの実りとは、イエス様が果たしてくれた償いを洗礼を通して自分のものとしたキリスト信仰者のことです。それがこの世にあって御もとに従い、御前を進むのです。

11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって小羊を集め、懐に抱き、その母を導いて行かれる。」神との結びつきを持って生きる者は、このように守られて導いてもらえるということです。それでは、どこに導いてもらえるのか?罪を圧し潰す側についていれば、この世が仕掛ける障害物はみな、谷が埋められ山と丘が平らにさせられるように倒されて行きます。そして最後に、

5節「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に(יחדו同時に)見る。」罪を圧し潰す側にいた者も、それを邪魔した者もみな一緒に主の栄光を見る日が来ます。その日はまさにイエス様の再臨の日です。

ここで一つ忘れてはならない大切なことがあります。本日の使徒書の日課第二ペトロで言われていたように、神の意思は多くの人がイエス様の救いに与り、罪を圧し潰す生き方に入れるようにすることです。そのために再臨の日を延ばしてくれているのです。でも、それはいたずらに延ばすことでもないと言われています。まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼を受けていない人たちが、洗礼者ヨハネの呼びかけに応じた人たちのように心の中で主を迎え入れる準備が出来るように、父なるみ神に祈らなければなりません。

6、7節「人間は全て草のよう。その華やかさ威光は野の花のよう。草は枯れ、花は散る。なぜなら神の一息が吹きかけられたからだ。」人間はそのままの状態では神の前に立たされる時、枯れて散ってしまうだけです。

8節「草は枯れ、花は散る。しかし、神の言葉は永遠に保たれる。」この永遠に保たれる神の言葉を自分のものとする者は枯れることもなく散ることもなく、同じように永遠に保たれます。「神の言葉」とは、イエス様を介して永遠の命に至るという福音であり、またヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様そのものなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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宣教師の週報コラムから「今日はフィンランドの独立記念日」

Janne Karaste, Suomen lippu, valokuva, CC BY-SA 3.0 12月6日の今日はフィンランドの独立記念日。毎年恒例の大使館でのレセプションも今年はコロナ禍のため最初は招待客を50人に絞って、私とパイヴィもその中に入れて名誉なことと思ったが、 案の定、大使からメールが来てそれも中止となった。

フィンランドの12月6日は独特な雰囲気のある日であったことをよく覚えている。家ではパイヴィが子供たちとピパルカックを作り、晩は大統領官邸でのレセプションのテレビ中継を見たものだ。その日のテレビ番組は第二次大戦の出来事を特集する番組が圧倒的に多く、フィンランド人はいかに独立したかよりも、いかに独立を守ったかの方に関心があるのかと思ったものだった。

それは理由のないことではない。1917年の独立当時のフィンランドは国内は分裂状態で、独立後も、左右イデオロギーの対立、都市部と農村部の対立、フィンランド語系とスウェーデン語系の対立が激しく、今風に言えば「分断国家」であった。それは徐々に解消に向かうが、それを一気に解消したのが第二次大戦での(当時の)ソ連との戦争であった。外的な脅威に対して国民が一致団結したのである。

戦時中の標語に、祖国(isänmaa)自由(vapaus)信仰(usko)の3つが守られるべきものとして唱えられた。「祖国」とは日本風に言えば「兎追いしかの山」であり、「自由」とは自由と民主主義の政治体制であり、「信仰」とはルター派教会である。フィンランド人は国家的困難によく耐え乗り越え、M.ヤコブソンが言ったように、第二次大戦に参戦した欧州の国で英国とフィンランドのみが占領を免れ戦前の国家体制を維持できた国だったのである。

「戦前の国家体制の維持」と聞くと、日本人は顔をしかめるかもしれない。なぜなら、それはかつて丸谷才一が言ったように、お上に盾をついたと言いがかりをつけられないようビクビクしなければならない体制だったからだ。しかし、フィンランドは戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた。(そんな国がなぜ最後はドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)

さて、今のフィンランド人に守るべきものは何かと聞いて、上記の3つは果たして出てくるだろうか?「信仰」が危ういかもしれない。1990年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属していたが、以後国民の教会離れが急速に進み、現在は70%を割ってしまっているからだ。戦時中は大統領から国民に至るまで3つが守られるよう懸命に神に祈ったものだ。ソ連との交渉に臨む代表団がヘルシンキ中央駅を出発する時、見送りに来た群衆が一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら」を歌って送り出した気概はもうないだろうか?

説教「君は主の再臨を待ち望むことができるか」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書13章24-31節

主日礼拝説教2020年11月29日 待降節第一主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.今日は教会の新年

今日は待降節第一主日です。教会のカレンダーではこの日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を見守り、皆様自身も神の愛と恵みの中にしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みとご健康を神が豊かに祝福して下さるように。

スオミ教会では待降節第一主日に讃美歌307番の「ダビデの子、ホサナ」を歌っています。これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統がありまして、今もほとんどの教会でそうしていると思いますが、まず、朗読される福音書の日課が決まっています。イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉です。ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ている言葉で、もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

その福音書の個所が朗読される時、歓呼の直前で朗読は一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり始めます。そこで教会の会衆が一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。

しかしながら、今年は残念なことにコロナの第三波のためにフィンランドも今20人以上の集会が禁止されてしまったので、教会に行けない人たちは自宅でテレビの中継かインターネットのライブを見ながら歌うしかないでしょう。スオミ教会もそうなのですが、しかし、来年こそはまた大勢で集まって一緒に歌うことが出来るように父なるみ神にお願いしましょう。(そこでお知らせですが、待降節第一主日の礼拝の後、スオミ教会のホームページにフィンランドのどこかの教会の「ダビデの子、ホサナ」の斉唱の場面を載せています。今年は過去の録画をお見せすることになりますが、いつもこんな雰囲気なんだなと味わっていただけたらと思います。)

2.主の再臨は本当に待ち望みたい日なのか?

前置きが長くなってしまいました。本題に入ろうと思いますが、実は本日の福音書の日課で困ったことが起きてしまいました。それは、例年ですと福音書の日課は先ほど申しましたように、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。マルコ11章、マタイ21章、ルカ19章の個所が毎年交替で待降節第一主日の日課になっていました。それで「ダビデの子、ホサナ」を歌ってきました。

ところが、今年の日本のルター派教会に定められた待降節第一主日の日課は先ほど朗読しましたように全然違う個所です。マルコ13章のイエス様の預言のところからです。イエス様の預言は今のこの世が終わる時に彼が再臨するという、いわゆる終末についてです。それでマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれます。先週は聖霊降臨後最終主日で福音書の日課も定番の、マタイ25章の最後の審判についてでした。このように教会のカレンダーの最後の主日は最後の審判をテーマにして自分たちの信仰を自省して、新年の今日は景気よく「ダビデの子、ホサナ」を歌って明るく始めよう、そう期待していたのに、さすがに私も、なんだこれは、話が違うじゃないか!と思わず唸ってしまいました。誰が何の基準で決めたのか追求したい気持ちでしたが、そんな時間もなく、不本意ですがこの決められた日課に従って今日の御言葉の解き明かしをしてまいります。これはきっと、自分の思いや期待を引き下げて父なるみ神の思いに服させるための訓練なのでしょう。

ただ、よく考えて見ると、待降節に主の再臨やこの世の終わりについて心を向けるのは、あながち場違いなことではありません。待降節というのは神のひとり子が人として天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた日、クリスマスのお祝いを準備する期間です。クリスマスのお祝いの準備というと、フィンランド人ならすぐ、大掃除と飾りつけ、クリスマス料理や菓子、プレゼント、カード、家族の集まりということが人々の頭を支配します。しかし、本当の意味でのクリスマスのお祝いの準備は、今から2000年以上も昔ベツレヘムの馬小屋でおとめから生まれるという形を取った救世主メシアの到来、これを待ち望むということです。

既に過去に起こったことなのに、今それを待ち望むというのはどういうことか?それは、2000年以上前にメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いとすることです。マリアに抱かれた赤子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナと同じように待ち望むことです。大掃除や料理等は「待ち望む」ことに色を添える付属品のようなものです。もちろん、なかったら寂しい感じですが、しかし仮になくても「待ち望む」ことをしてクリスマスの礼拝を感謝と喜びを持って行えればそれで待降節の目的は達せられたというものです。そこで、同じように「待ち望む」人たちと一緒に礼拝をしたりお祝いをしたら、喜びと感謝はもっと大きくなるでしょう。

しかしながら、クリスマスが終わったらどうなるでしょうか?もう、「待ち望む」季節は終わった、また来年、ということでしょうか?実はそうではないのです。イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられました。彼は再び降臨すると約束されました。最初の降臨は馬小屋で起こり、みすぼらしくほとんど誰にも知られないものでした。次の降臨すなわち再臨は、本日の福音書の個所でイエス様自身が言われるように、誰も目も開けられないような神の栄光の輝きを放ち天使の軍勢を従えて全世界が目撃するものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造し、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられるか入れられないかの最後の審判が下されるという想像を絶することが起きます。

それなので私たちが今生きている時代というのは、実はイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間なのです。再臨の日がいつなのかはイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外には誰にもわかりません。だからその日がいつ来ても大丈夫なように目を覚ましていなければならないとイエス様は言われます。その日がいつ来ても大丈夫なように目を覚ますとはどういうことでしょうか?目を覚ましていれば、そのよう想像を絶する天地の大変動が起こっても大丈夫でいられる、そんな目の覚まし方があると言われるのです。

しかし、そうは言っても、誰もそんな日を待ち遠しいなどとは思わないでしょう。イエス様が再び来てくれるのはありがたいが、今ある天と地が崩れ去るとか、最後の審判とかがあるんだったら来ない方がいい、というのが人情でしょう。しかし、聖書の観点は、今ある天地は初めがあったように終わりもある、そして終わりがあっても神は創造主なので前と同じように新しく造られるという終末論と新創造論が合わさったものです。そういう聖書の立場に立ったら、この世の将来はそうなると観念するしかありません。しかも、新しく造られた天と地に誰が入れるか入れないかという問題について、神は神聖で義なる方なので人間がこの世でどんな生き方をしたかを問うてくる。そこで、自分はそんな遠い未来の前にこの世から去るから関係ないと言っても、まさにその遠い未来に死者の復活が起こり、再臨の主はその時点で生きている人と死んだ人を裁かれます。まさに、伝統的なキリスト教会の信条集の中で唱えられている通りです。

さあ、大変なことになりました。今の時代はイエス様の再臨を待つ時代だという。しかし、それは最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の馬小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話と全然違います。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、いくら避けられないものはいえ、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の正直な気持ちではないでしょうか?出来れば自分の生きている時代には起きないでほしいというのが。しかし、本日の使徒書の日課第一コリント1章7節で言われるように、キリスト信仰者とは主の再臨を待ち望む者なのです。どうしてそんな日を待ち望むことができるのでしょうか?

3.神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていれば

そこでルターが主の再臨の日を迎える心構えについて教えているので、まずそれを見てみましょう。この教えは、ルカ福音書21章にあるイエス様の言葉の解き明しです。まずイエス様の言葉は次のものです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21章34ー36節)

これについてのルターの教えは以下の通りです。

「これは、全くもって我々が常に心に留めなければならない警告である。我々はこれを忘れることがあってはならない。もちろん主は、我々が食べたり飲んだりすることを禁じてはいない。主はこう言われるであろう。『食べるがよい。飲むがよい。神はきっとあなたたちがそうすることをお認めになるであろう。生活に必要な収入を得ることにも努めなさい。ただし、これらのことがあなた方の心を支配して、私が再び来ることを忘れてしまうことがあってはならない。』

 我々キリスト信仰者にとって、人生の目的をこの世的なものだけに結びつけてしまうのは相応しくない。人生に二つの手があると考えてみよう。左手ではこの世の人生を生きるべきである。右手では全身全霊で主の再臨の日を待つべきである。その日主は、あまりにも素晴らしくて言葉に表現できないくらいの栄光と荘厳さをもってやって来る。人間は、この世の最後の日が来るまでは家を建てたり結婚式を挙げたり、屈託なく日々を過ごすであろう。この世的なことだけに心を砕いて、他には何もすべきことがないかのように振る舞っているだろう。しかし、キリスト信仰者たちよ、あなたたちがキリスト信仰者たろうとするならば、こうしたこの世だけの生き方はせず、この世の最後の日のことに心を向けよ。その日がいつかは必ず来ると絶えず心に留めて、神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていなさい。そうすれば、何も慌てる必要はない。その日がいつどこで我々の目の前に現れようとも、それは我々にしてみれば永遠の幸いを得る瞬間である。なぜなら、その日全ての人間の本当の姿が照らし出され、あなたたちが神を畏れ、神の守りの中にしっかり留まる者であることが真実として明るみに出されるからだ。

 以上、「神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保って」いれば、イエス様の再臨の日はなにも怖いことはなく、慌てふためく必要もない、というルターの教えでした。ここで皆さんにお尋ねします。神を畏れる心は持てるにしても、「潔白な良心を保つ」ことは果たして可能でしょうか?最後の審判の日、裁きの主は、一人一人が十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうかを見られます。もし殺人や姦淫を犯していたら、ちゃんと神の前で赦しを祈り求めイエス・キリストの御名によって赦しを与えられた者として相応しく生きたかどうかが問われます。イエス様はまた、行為で行わなくても心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに行為だけでなく心の中までも問われたら、誰も神の前で自分は潔白です、やましいところはありません、などと言えません。

 神は人間が神の目に適う者にはなれないことを知っていました。堕罪の時から全ての人間は内に神の意思に反するもの、すなわち罪をもつようになってしまったので、そうなれないのです。そこで神は人間を神の目に適う者にしてあげよう、そうすることで人間が神との結びつきを回復できてこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った時には復活の日に眠りから目覚めさせて復活の体を与えて永遠に神の国に迎え入れてあげよう、そう決めてひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、そのイエス様が十字架にかけられて本当は人間が受けるべき神罰を受けて死なれ、私たち人間の罪の償いを神に対して下さいました。罪を償われた人間は罪と罪がもたらす永遠の死から贖い出されます。「贖う」というのは、イエス様の流した血を代価にして人間を罪と死の奴隷状態から買い戻したということです。神はそれくらいのことをしてもいいと思う位に私たちのことを価値あるものと見なして下さったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、死を超えた復活の体と永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間のために開かれました。

このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償い私を罪の支配から贖うためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人のものになっています。罪が償われたから、神からは罪を赦された者としてみなされるようになります。神から罪を赦されたというのは、神はもうあなたの過去の罪を問わない、だからあなたはイエス・キリストの義を衣にしてそれを纏って生きていきなさい、ということです。神は私たちキリスト信仰者をその衣を纏う者として見て下さいます。これで最後の審判は大丈夫です!自分にどんなにいまわしい罪の過去があったとしても、その罪のゆえに私たちが地獄に落ちないようにと、それでイエス様は自らの命を投げ捨ててまで神罰を受けられたのです。私たちとしては神の目に適う者になれるために自分では何もしていないのに、神の方で全部してくれて、私たちはそれをただ受け取るだけで神の目に適う者にされたのです!それで神の前に立つ時、「イエス様が私に代わって全部罪を償って下さいました。イエス様以外に私には主はいません」と弁明することができます。

実に私たちがイエス様を救い主であるとしている限り、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられます。神の前で何も恐れる必要はないのです。「イエス様が代わりに全部償ってくれたので彼は私の救い主です。それでこの神の恵みに相応しい生き方をしなければと思って生きてきました。」

このように言っても、これは誰も否定できない真実です。やましいところは何もありません。まさに潔白な良心です。

4.やはり、主の再臨の日は待ち望むに値する日なのだ

そこで問題になるのは、神によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても出てきてしまうことです。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さなくても心の中に現れてくることです。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。そのような時はどうしたらよいのでしょうか?

その時は、すぐそれを神に素直に認めて赦しを祈り願います。神への立ち返りをするのです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている、十字架のイエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待つ神の国に至る道を進んでいきます。

このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指しているのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは一層強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。これが目を覚まして生きることです。霊的な目の覚ましです。このように霊的に目を覚まして生きていれば、最後の審判の時に主は信仰者が罪を破綻させる側についていたことを認めて下さいます。その時、本日の使徒書の日課第一コリント1章8節の御言葉「主は最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます」が本当にその通りになります。「非の打ちどころのない者」とは原文のギリシャ語(ανεγκλητους)では「罪に定められない者」、「罰を受けない者」という意味です。この世の人生の歩みにおいて罪の自覚に苛まれ続けたキリスト信仰者は、ここでもうその自覚を持つ必要がなくなります。なんという至福でしょうか?それが起きる主の再臨の日はやはり来てほしい日ではないでしょうか?

それから、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てきます。というのは、そのような生き方をするとパウロがローマ12章で命じることが当然のことになってくるからです。悪を嫌悪せよ、善にしっかり留まれ、お互いに対して兄弟愛を心から示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たち者たちと共にいることに熱心になれ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和に暮らすことがキリスト信仰者にかかっているという時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が破られた状況を神の怒りに委ねよ、復讐は神のすること神が報復するからだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、それをすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝ってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。

このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しを繰り返せばこんなふうになっていくとわかってはいても、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることもあります。しかし、主の再臨の日、信仰者は、あの時はいろいろ迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、と本当にわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり「待ち望む」日なのです。先ほど見たように、ルターは再臨の日のことを「永遠の幸いを得る瞬間」と言っていました。真にその通りです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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吉村宣教師が説教で紹介していた、フィンランドの教会の待降節第1主日の礼拝で「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)。是非、雰囲気を味わって下さい!

来年の待降節では是非スオミ教会で歌いましょう!

 

 

12月の手芸クラブのご報告

アドベントに入り、クリスマスツリーの飾られた教会で、手芸クラブは開かれました。

コロナ渦の為、テーブルを長くして、間隔を取り、一列に並んでの開催になりました。

初めての編み物に挑戦の方や、大きなマフラーを根気よく完成されたり、ルームシューズの完成形が見えて喜んだりと、まちまちの参加者は、パイヴィ先生から優しくご指導頂きました。

編み物の後は、クリスマスのお話を聞かせて頂きました。

次回の手芸クラブを楽しみにしています。


手芸クラブの話2020年12月

この前の日曜日、アドベントの期間に入りました。キリスト教会では、クリスマスの前の4週間をアドベントと呼びます。日本語では待降節と言います。アドベントは「クリスマスを待つ」という意味がありますが、クリスマスを迎える準備をする期間です。フィンランドではクリスマスは、一年で最も暗い季節における光と温かさのお祝いです。フィンランド人は、アドベントになるとクリスマスの準備で忙しくなります。
クリスマスの季節は楽しいことが多い、特別な雰囲気があるとても素敵な季節です。クリスマスの準備にすることは、クリスマスカードを送ること、家の大掃除、クリスマス料理やお菓子を作ることがあります。それぞれの家族にあるクリスマスの伝統は子供たちに伝わっていきます。クリスマス料理を子供たちと一緒に作ったら、家族の味は世代から世代へと伝わっていきます。子供たちはお母さんが作ったクリスマス料理の味を覚えて、同じように作りたいと思うからです。

もう一つとても大切な準備があります。それは、クリスマスを迎えるための心の準備ということです。それはどんな準備でしょうか?それは、アドベントの期間に教会の礼拝に参加したり、聖書を読んだりして、クリスマスの意味を考えることです。フィンランドでは毎年アドベントになると「美しいクリスマスの歌kauneimmat joululaulut」という行事がどの教会でも行われます。この行事は、教会が一杯になるくらいに人が多く集まるので、とても人気があります。そこで何をするかというと、集まった人たちが皆一緒にクリスマスの歌を沢山歌います。歌うことを通してクリスマスの本当の意味を心の中でかみしめます。今年は残念ですが、クリスマスの歌を歌うために教会では集まることは出来ませんが、多くの教会はこの行事を外で行ったり、オンラインで行います。

人々は、アドベントの期間に様々な準備をして、自分でクリスマスの雰囲気を作ります。しかしながら、クリスマスは本当は雰囲気のことではありません。クリスマスの本当のメッセージがクリスマスをつくるのです。クリスマスのメッセージとは、一番最初のクリスマスの日の真夜中に、野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れて言った言葉です。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この一番最初のクリスマスの時、この世に救い主がお生まれになりました。救い主イエス様は私たち一人一人のためにお生まれになったということが、「ヨハネの手紙1」の中で次のように言われています。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

クリスマスの一番大事なことはクリスマスのための準備や雰囲気ではありません。重要なのはクリスマスの本当の意味を心の中でかみしめることです。最初のクリスマスの時にお生まれになったイエス様とは何者で、なぜこの世に送られたのかを心の中で考えてみることは大切ではないでしょうか。イエス様が送られた神様は人間の罪を赦して下さる神で、私たち人間にそのような愛を示してくださいました。私たち人間が罪の力から救われるためにイエス様をご自分のもとかた遅られ、イエス様は母マリアから人としてお生まれになりました。このように初めてのクリスマスには神様の人間に対する愛が表れました。この愛は、私たちに喜びと感謝と賛美の気持ちを与えてくれます。クリスマスは、本当に喜びと感謝のお祝いです。皆さんにとって、今年のアドベントとクリスマスが神様の与えて下さる喜びであふれる時になりますように。

説教「最後の審判で神は何を裁くのか」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章31-46節

主日礼拝説教 2020年11月22日 聖霊降臨後最終主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は聖霊降臨後最終主日ですので教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。とは言っても、今のフィンランドでそうした自省をする人はどれくらいいるでしょうか?「裁きの主日」の礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くと、町々は、待ってましたとばかりにクリスマスのイルミネーションが点灯され始めます。私などいつも、待降節までまだ1週間あるのにと思ったものです。しかも近年では「裁きの主日」の前に点灯してしまうそうです。

誰も、最後の審判の時に自分が神からどんな判決を下されるか、そんなことは考えたくないでしょう。本日の福音書の個所はまさに最後の審判のことが言われています。説教者にとって頭の重いテーマではないかと思います。あまり正面切って話すと信徒は嫌になって教会に来なくなってしまうのではないかと心配する人もいるかもしれません。しかし、聖書にある以上は取り上げないわけにはいきません。そういうわけで今日はこの礼拝を通して皆さんと一緒に自分たちの信仰を自省することができればと思います。

本日の福音書の箇所ですが、最後の審判について言われていますが、これはまたキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助けるように駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て支援に乗り出して行きます。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。私がフィンランドに住んでいた時、地域の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの主日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者のインタビュー記事があり、マタイ25章の本日の箇所と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がされました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でいたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派を越えてキリスト教のあり方そのものに関わります。善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だってイスラム教徒だって果てはヒューマニズム・人間中心主義を標榜する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すればみんなこぞって神の国に入れると言ってしまったら、ヨハネ14章6節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言えば、本日の箇所は善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も信仰による救いを教えていることがわかります。これからそのことをみてまいりましょう。

2.イエス・キリストの兄弟グループ

 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、この審判の場では人々のグループは二つではなく、実は三つあります。何のグループか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτων)なので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは」となります。つまり、第三のグループとしてイエス・キリストの兄弟グループもそこにいるのです。主は兄弟グループを指し示しながら、羊と山羊の二グループに対して「ほら、彼らを見なさい」と言っているのです。

それでは、このイエス・キリストの兄弟グループとは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような程度の低さも意味します。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。

それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えが得られます。そこでイエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、伝道に派遣します。その際、伝道旅行の規則を与えて、迫害に遭っても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒を受け入れる者は使徒を派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41ー42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ18章6節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことを言っているので、「小さい者」は子供を指しません。使徒たちです。

使徒とは何者か?それは、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめよ、自分が行う業をしっかり見届けよ、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという良い知らせ、つまり福音を命を賭してでも宣べ伝えよ、と選ばれた者たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。イエス様は弟子のことをどうして「小さい」とか「取るに足らない」などと言われるのか、それは、彼が別の所で弟子は先生に勝るものではないと言っているのを思い出せばよいでしょう(マタイ10章24節、ルカ6章40節)。

マタイ10章では、使徒を受け入れて冷たい水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。

3.使徒たちが携えてきた福音を受け取ること

これで、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを一般的に社会的弱者・困窮者と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは怒ってしまうかもしれません。支援の対象は福音を宣べ伝える使徒だなどとは、なんと視野の狭い解釈だ、と。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう一般の弱者・困窮者の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということです。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。あとでそのことも明らかにしていきます。

それから、子供を助けるということに関して聖書が果たした重要な役割についてひと言述べておきます。古代のギリシャ・ローマ世界には生まれてくる子供の間引きが当たり前のように行われていました。この慣習に最初に異を唱えたのがユダヤ人でした。なぜなら旧約聖書に基づいて人間は全て創造主の神に造られ、人は母親の胎内の中にいる時から神に知られているという立場に立っていたからでした。続いて旧約聖書を引き継いだキリスト教が地中海世界に広まるにつれて間引きの慣習は廃れていきました。この歴史的過程とそこで影響を与えた聖書の個所やその他のユダヤ教・キリスト教の文書についての研究もあります。代表的なものとしてE.コスケン二エミが2009年に出した研究書があります(”The Exposure of Infants among Jews and Christians in Antiquity”)。私の記憶では、その中で本日の福音書の個所は分析の対象に入っていなかったと思います。

さて、使徒というのは、イエス様の教えをしっかり聞きとめ、彼の業をしっかり見届けた者たちです。さらに彼らは、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を宣べ伝え始めました。福音が宣べ伝えられていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方で福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで思い起こさなければならないことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。そのような例は使徒言行録にも見ることができます(17章のヤソンとその兄弟たち)。

その意味で支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音に対して態度を決定して、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認なんかではありません。

4.キリスト信仰の隣人愛

これで、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らを支援したのは彼らが携えてきた福音を受け入れたからであることが明らかになりました。実に、神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否かということになります。福音を受け入れることがポイントだとすれば、最後の審判の該当者は使徒の時代の人たちに限られません。その後の時代からずっと今の時代の人々みんなが該当者になります。使徒の時代には受け入れて守ってあげるのは、福音を携えてきた使徒たちでした。使徒たちがこの世を去った後は受け入れて守ってあげるのは、使徒たちが携えてきた福音ということになります。もし仮に使徒たちが生きているとしたら、私たちも同じように支援してあげられなければならない、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならない、さもないと神の国に迎え入れられないということです。

 ここで使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて復習しておきましょう。福音とは、要約して言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻してもらったという、素晴らしい知らせです。どのようにして神との結びつきを取り戻してもらったかというと、人間は堕罪の時以来、神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなりました。この世を去った後も自分の造り主である神の御許に永遠に戻れなくなってしまいました。そこで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部負わせてゴルゴタの十字架の上で彼に神罰を下し、人間の罪を人間に代わって償わせました。あとは人間の方が、これは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だと信じて洗礼を受けると彼が果たした罪の償いが自分のものになります。罪の償いが果たされたのだから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。罪が赦されたのだから神との結びつきが回復して、その結びつきを持ってこの世を生きることになります。この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。以上が使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音でした。

 人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかると、もう神に対して背を向ける生き方はやめよう、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。神から受けた恩寵の大きさがわかればわかるほど、自分の利害がちっぽけなこともわかって、自分の持っているものに執着しないで、それを他の人のために役立てようという心になっていきます。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

ここで、神の意思に沿うように生きるという時の「神の意思」について述べておきます。神の意思とは、要約すれば、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つです。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。何か願い事があればこの神にのみ打ち明けて祈り、他の何ものにもそうしないこと。感謝することがあれば同じようにこの神にのみ感謝し、他の何ものにもそうしないこと。悲しいこと辛いことがあればこの神にのみ助けを求め、他の何ものにも求めないこと。これが神を全身全霊で愛することです。このような愛は、神から受けている恩寵がわからないと持つことは出来ません。

隣人愛の方は、キリスト信仰では、神への全身全霊の愛を土台にして実践することになります。それなので隣人愛を実践するキリスト信仰者は、神を唯一の神としてしっかり保たれているようにしているかどうかをいつも吟味する必要があります。神としては、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取って将来は神の国に迎え入れられるようになることを望んでいます。キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを忘れてはなりません。

5.福音に対する態度決定の問題

以上、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準として明らかになったのは、使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の恩寵の前では自分の利害などちっぽけなものになって自分の持っているものに執着しなくなってそれを他の人のために役立てようとします。またキリスト信仰者になると神の意思に敏感になるので自分には罪があると自覚するようになり、まさにそのために十字架に立ち返り、罪の赦しの恩寵を自分の内に新たにします。そこでまた自分の利害がちっぽけなものになり、他の人のために役に立とうとします。

ここで次のような疑問が起こります。福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?そもそも聞いていないので態度を決めること自体できなかったのに、お前は福音を受け入れなかった、だから地獄の炎に投げ込まれるのだ、というのはあんまりではないか?

 そこで福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章を手掛かりにしてみてみます。そこでは、最後の審判の時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たち、つまり殉教者たちです(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13ー15節)。「それ以外の者たち」とは殉教者以外の人たちですが、どんな人たちがいるかと言うと、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守らねばならない極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。それから信仰を持たなかった人たちがいます。信仰を持たなかったというのは、ひとつには洗礼を受けたがそれが何の意味も持たない生き方をした人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全部ひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

洗礼を受けたがそれが意味を持たない生き方をした人たちについて、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。詳細な真実は神の記録に記されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。

次に福音を伝えられたが洗礼を受けなかった人について、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に心の中で改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。

最後に福音そのものが伝えられなかった人たちについては次のようなことが考えられます。人間はこの世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねることになると気づきます。それに気づくと、その大いなる者は果たして自分を受けとめてくれるのかどうか心配が起きます。自分には至らないことがいろいろあって、その大いなる者は受け入れてくれないかもしれない、しかし自分の力ではもう治すことが出来ない、誰かに執り成してほしい。そのように一瞬でも思えればイエス様との出会いはすぐ目の前です。

この時イエス様を受け入れる素地が出来たと言えるのですが、さて神はどう思われるか?やはり、イエス様を受け入れること自体がないとダメと言われるのか?素地だけでは不足だと?これらことは私たちにはわからないことなので、その人の処遇はもう神に任せるしかありません。

この世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねる時、その大いなる者は自分を受け入れてくれるかどうかという問題について、実はキリスト信仰者というのは心配する必要がない者たちです。どうしてかと言うと、次のように祈ることが出来るからです。父なるみ神よ、私はイエス様が果たして下さった罪の償いと赦しを衣のように纏って、剝ぎ取られないようにしっかり纏ってきました。その衣の神聖さの重みで私の内に残っている罪を日々圧し潰してきました。神よ、これが私の全てです。今あなたにお委ねします。どうかお受け取り下さい。このようにキリスト信仰者はこの世を去る時に誰に対して何を言うべきかということがはっきりしているのです。

6.おわりに

最後に、このイエス様の教えについて一つ忘れてはならない大事なことを述べておきます。それは、先週の3人の家来のたとえと先々週の10人のおとめのたとえが警告の教訓話であると申し上げたことです。同じことが本日の個所にも当てはまります。つまり、山羊のようにならないために今からでも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、イエス様が果たした罪の償いをまだ自分のものにしていない人たちに対しても早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方を始めなさい、ということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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説教「将来現れる永遠の栄光の重みにこの世の艱難は軽くなる」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 25章14-30節

主日礼拝説教 2020年11月15日(聖霊降臨後第24主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の日課の個所も分かりそうで分かりにくいところです。主人が家来に財産の管理を任せて遠い国に旅に出ます。それぞれが持っている力量に応じて任せる額を決めます。ある家来には5タラントン任せました。1タラントンは当時の日雇い労働者の6,000日分の賃金です。今の金額でいくら位でしょうか?東京都の最低時給が1,000円ちょっとなので、一日8時間働いて8,000円ちょっと。その6,000日分は48,000,000円。これが1タラントン。5タラントンは2億4,000万円です。相当な金額です。二人目の家来には2タラントン、9,600万円任せ、三番目の家来には1タラントン、4,800万円任せました。主人はそれぞれの家来の力はこれくらいあると判断して、それに見合う金額を任せたのです。

その後どうなったか?一番目の家来は任せられた5タラントンを元手に働いて、さらに5タラントンの利益をもたらしました。一体何の働きをしてそんなに儲けられたのか?私たちとしてはそっちに関心がいくかもしれませんが、それについてイエス様は何も言っていません。ここは仕事の中身よりもとにかく働いたということがポイントなのでしょう。二番目の家来も任せられた2タラントンを元手に働いて、さらに2タラントンの利益をもたらしました。この二人に対して主人は、全く同じ労いの言葉をかけました。ギリシャ語原文を意識して訳しますと、「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」これは一体どんな意味でしょうか?それは後で見ていきます。

三番目の家来は土を掘って1タラントンを隠してしまいました。なぜそうしたかと言うと、彼は主人のことを種を撒いていないところから刈り取ろうとする、また耕していないところから収穫を要求するような無慈悲な人だからと言います。事業に失敗して元手を減らすようなことになったら大変だとそれで保管することにしたのか、それとも、働くこと自体したくなかったので埋めてしまったのか、どちらかです。激怒した主人がこの家来を怠け者と言って叱責したのをみると、働くこと自体いやだったようです。そうすると、主人のことを無慈悲というのは理由と言うより下手な言い訳になります。主人としては、人の気も知らずによくも言ってくれたな、という感じになるでしょう。

主人は、銀行に預ければ利子が得られて、それと一緒に返せるではないか、と言います。銀行とは現代的ですが、これは当時の両替商のことでお金の貸付けも行っていました。利子を求めるなどとは主人はやっぱり欲張りかなと思わせますが、ギリシャ語の原文を見ると、両替商も銀貨も複数形です。つまり、1タラントンという多額のお金を沢山の銀貨に分けて多くの両替商に預けることを意味します。それはそれで大変な作業になるでしょう。いずれにしてもその家来は暗闇の外に放り出されてしまいます。

以上の話の流れは誰にでもわかります。ところが、イエス様はこのたとえで一体何を教えようとしているのか?これはわかりにくいと思います。元手があればしっかり働いて利益を得なさい、お金は眠らせてはいけない、という資本主義の精神とかプロテスタンティズムの倫理を教えているのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。先週の説教でも申しましたが、イエス様の教えというのは、今のこの世の次に到来する新しい世とか、死者の復活とか、最後の審判とか、そういう今あるこの世を超えた視点を持って語られています。それを忘れてはいけません。イエス様は、この世の人生訓とか処世術とか、あるいは何か思想・哲学イデオロギーを教えるために創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が聖書をそういうものと解釈して自分に都合のよい思想を作るのは人間の勝手ですが、イエス様というのは本当は人間が将来到来する神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方がこの世で出来るようにするために贈られてきたのです。

それでは、人間が将来神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方とはどんな生き方か、それを本日のたとえはどう教えているのか?今日はそれを見ていきましょう。

 

2.まず、この3人の家来のたとえは先週の10人のおとめのたとえの続きとしてあることに注意します。同じ内容の教えを違った角度から教えているのです。10人のおとめのたとえでイエス様が教えようとしたことは、この世で目を覚まして生きるというのは神の国に迎え入れられるために用意することだということでした。神の国に迎え入れられために用意するとは、具体的には、まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様がゴルゴタの十字架で果たして下さった罪の償いを自分のものとすること。そして自分には神の意思に反する罪があることをわきまえ、イエス様が償って下さったという動かせない事実に自分の全てを毎日賭ける、そうやって罪を毎日圧し潰していくこと。そのようにして洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡していくこと。これらが神の国に迎え入れられるために用意をする生き方であるとお教えしました。

本日のたとえも神の国に迎え入れられるために用意する生き方を教えていることが見えてきます。主人が遠い国に旅に出て、かなりの期間の後に戻って来るというのは、イエス様の再臨を意味します。5タラントンと2タラントンの家来は主の喜びに迎え入れられますが、それはまさに神の国への迎え入れを意味します。そうすると、迎え入れが実現するためには、この世で何かをしなければならない、10人のおとめのたとえでは「用意をしなければならない」でした。その具体的な内容は、罪の自覚と十字架の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していく信仰の戦いを戦うことでした。3人の家来のたとえでは何をしなければならないと教えているのでしょうか?イエス様を通して何かを与えられる、そして、それをもとにして働いて成果を出すということ。それは一体何なのでしょうか?

まず家来に与えられたタラントンですが、これを「恵みの賜物」と考える向きは多いのではないかと思います。ローマ12章を見ると、預言する賜物があったり、奉仕をする賜物、教える賜物、人を励ます賜物、指導する賜物、施しをする賜物、貧しい者を助ける賜物などがリストアップされています。第一コリント12章にもいろいろ列挙されています。これらの賜物は神が独断でこの人にはこれと決めてお恵みのように与えるものです。人間が自分の力で獲得するのではありません。その目的も教会を成長させていくことです。賜物を授かった人間が自分を誇ったり偉そうにするためのものではありません。

もし家来に与えられたタラントンがそういう恵みの賜物であるとすると、得られた儲けとは何でしょうか?恵みの賜物の目的は教会の成長だから、儲けは教会が成長したことでしょうか?信者が増えて献金が増えたということでしょうか?再臨したイエス様は、それを見て満足して、教会をそのように大きくした者たちに褒美として神の国へ迎え入れたということでしょうか?

私は、そういうことではないと思います。まず、5タラントン儲けた家来と2タラントン儲けた家来が全く同じ労いを受けたことに注意しましょう。2億4,000万円も9,600万円もイエス様から見たら、神の国に迎え入れられる成果として違いは何もないのです。1億4,400万円の差なんて何も影響ありません。ここで仮に1タラントン任せられた家来も働いて同じように1タラントン儲けたとしましょう。主人は家来の力量に応じて額を決めたので、この者なら働いて1タラントンの儲けを得ることができるだろうと期待したのです。それで1タラントン儲けたならば、きっと他と同じ労いの言葉をかけられたことでしょう。「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にしょう。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」肝心なのは、任せられたものを元手にして働くことでした。しかし、家来は働きませんでした。

それじゃ、主人が両替商に預けて利子でもよかったと言ったのは何なのか?利子収入でいいと言うのは働かなくてもいいということではないのか?先ほども申しましたが、4,800万円分をいくつもの両替商に分散させて預けるはかなり面倒くさいことです。そんなことする位なら土中に埋めてしまった方が楽でしょう。実は1タラントンの家来のしたことの真の問題は、それを土に埋めて隠してしまったことでした。表に出さなかったということでした。あちこちの両替商に預ければ、主人から委ねられたものを少なくとも表に出すことになります。埋めて隠してしまったことがいけなかったのです。主人は1タラントンの家来の力量は小さいと見抜いていました。元手と同じ儲けが無理なら、利子でもいい、それでも神の国への迎え入れをしてあげよう、だから任せたものを少なくとも埋めて隠すようなことはしてくれるな、という思いでした。ところが家来はそうしてしまったのです。

 

3.ここで、主人が与えたタラントンと家来たちがした働き、しなかった働きについてもう一歩踏み込んで考えてみます。ローマ12章の使徒パウロの教えがカギになります。

パウロはそこで、罪の自覚と赦しを繰り返しながら罪を圧し潰して日々新しくされていくキリスト信仰者のこの世での生き方について教えます。罪を圧し潰す生き方についてはローマ8章で教えられていました。また、そのように生きる者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を間違いなく進んでいることも同じ章で教えられていました。この世には神の意思に反することが沢山あります。それなので、キリスト信仰者はこの世がいろんなことを言ってきても耳を貸さず心を奪われず、あくまで神の意思に沿うように進まなければならない。そのことが12章の1節と2節で言われます。そのように進むこと自体がもう自分を神に喜ばれる神聖な生ける生贄にしていることなのです。

そこで3節から、そのような基本姿勢に立つキリスト信仰者が実際にこの世で周りの人たちとどのような関係を持って生きるかということについて教えられていきます。ここでは特に自分が他人より上だなどと思ってはならないということが強調されます。それをまず最初にキリスト信仰者の間で実践されることとして述べられます。ここで大事なことは、全てキリスト信仰者はキリストを一つの体とする体の部分部分であるということです。それぞれが神から何かお恵みの賜物が与えられています。それぞれが結びついて体全体を作り上げているので、どれが大事でどれが大事でないかということはない。すべてが全体にとってもお互いにとっても大事なのである。だから、誰も自分を誇ってはいけないのです。もし誇るのであれば、キリストを誇らなければならないのです。同じ教えが第一コリント12章でさらに詳しく述べられています。

9節からは、この、キリスト信仰者は他の人よりも上だなどと思ってはならないというスタンスに立って信仰者が人々一般とどう関わっていくかということが述べられます。愛は見せかけのものではいけない、悪を嫌悪せよ、善にしっかり留まれ(9節)。お互いに対して兄弟愛を心から示せ、互いに敬意を表し合え(10節)、熱意を持って怠惰にならず、霊的に燃えて主に仕えよ(11節)、希望の中で喜び、困難や試練の中でも持ちこたえ、祈りを絶やすな(12節)、キリスト信仰者が何か足りなくて困っている時、それを自分のこととして受け止めよ、立ち寄る者をしっかりもてなして世話をしろ(13節)、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない(14節)、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け(15節)、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たち者たちと共にいることに熱心になれ、自分で自分を知恵あるものとするな(16節)、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ(17節)、全ての人と平和に暮らすことがキリスト信仰者にかかっているという時は迷わずそうせよ(18節)、自分で復讐をしてはいけない、正義が破られた状況を神の怒りに委ねよ、旧約聖書(申命記32章35節)に書かれているように、復讐は神のすること神が報復するからである(19節)、また箴言25章に書かれているように、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、それをすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになるからだ(20節)。悪があなたに勝ってはならない、善をもって悪に勝たなければならない(21節)。以上の教えがローマ12章にあります。

ここで一つ大事なことを確認します。それは、これらのこと全ては実を言うと、神の国に迎え入れられるためにしなければならないことではなくて、罪の自覚と赦しを繰り返して罪を圧し潰していくと次第にこうなっていくというものです。これらは迎え入れを実現する条件ではなくて、結果としてそうなっていくというものです。神の国に迎え入れられるためにしなければならないこと自体は何かと言うと、罪の自覚と赦しの繰り返しで罪を圧し潰していく信仰の戦いをするということです。この戦いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に必然的に生じてきます。なぜなら、罪の償いを神のひとり子に果たしてもらったことは真にその通りですと告白して、洗礼を受けてその償いがその人に当てはまるようになったからです。それ以後は罪の償いがしっかりあるということが真理だという生き方になります。そこでは罪の自覚と赦しが不断に続きます。

先週の説教でも申しましたが、このような他人とのかかわり方は、いくら信仰の戦いから自然に出てくるとは言え、何だかお人好しで損をする生き方に思えてしまいます。特に今の時代は、インターネットやSNSの悪用も手伝って、他人を追い落とすため自分を有利にするために偽りでさえも真実と言ってはばからない風潮です。そんな中で信仰の戦いを戦ってお人好しになっていくのは馬鹿みたいに思われるかもしれません。しかし、先週も申しましたように、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次に到来する世での得になると考える人たちです。

 

4.さてここで、タラントンとは何か、儲けとは何かについてはっきりさせましょう。主人はそれぞれの力量に応じて、たくさん力がある人にはこのようなお人好しをする可能性をたくさん与えたのです。5タラントンの家来はそれ位の可能性を与えられ、見事それに見合う分のお人好しをしました。人々に喜ばれ賞賛されたこともあっただろうが、人間の目から見て損をしたこともあったでしょう。2タラントンの家来も同じようにしましたが、可能性も実績も5タラントンの家来よりは少なめでした。しかし、そのことは神もわかっていて、それでその人にはそれで十分と言ったのです。宗教改革のルターも言っていますが、ある信仰者に多くの試練が与えられるのはその人がそれを背負える力があると神が認めているからそうなのであり、別の信仰者に試練が少ないのは神がその人は多くは背負えないと考えたからだと言っています。ただ、そうは言っても、背負う力があると認めてもらったことは光栄だが、いつまで背負っていなければならないのか心配にもなります。その時は第一コリント10章13節のパウロの教えを思い出します。そこでパウロは次のように教えています。
「神はあなたがた信仰者を見捨てない忠実な方です。あなたがたが自分の力以上の試練を受けることをお認めにはならず、あなたがたが背負うことが出来るようにと試練と一緒に出口も備えて下さる方です。」

5タラントンの家来は多くを背負う力があると神に認められ、それに見合うお人好しの可能性が与えられ、それに見合うお人好しを行って損をし辛いことにも遭遇しました。2タラントンの家来も自分の力に合う分の可能性が与えられ、それに見合う損や辛いことに遭遇しました。これらの損や辛いことは罪を圧し潰す信仰の戦いを戦うことで生じました。だから、神の栄光を増し加えるもので、それこそまさに儲けなのです。神はそれらを「小さな事」と言い、家来はそれに忠実だったと言います。家来は確かに信仰の戦いに忠実でしたが、彼らが遭遇した損や辛いことの全てをどうして「小さい」と言うのでしょうか?それは、将来神の国に迎え入れらえるという光栄を前にしたらこの世で遭遇したことの総体は小さいものとなってしまうからです。そのことについてパウロは第二コリント4章17節で次のように教えています(ギリシャ語原文を意識した訳します)。
「私たちの艱難の一時性と軽さは、神の国の栄光の永遠さと重さに取って替わられるのです。私たちのためにそれが何百倍にもなって取って替わられるのです。」

さらにローマ8章18節でも同じように教えています。
「現在の苦しみは、将来私たちに現われ私たちが与ることになる神の国の栄光を思えば、大したことではないと私は考えます。」

これで、このたとえの主人が言ったこと「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする」は、本当にその通りなのだとわかるでしょう。
翻って1タラントンの家来は神から与えられた可能性を潰してしまいました。神の国に迎え入れられるための用意する生き方をせず、信仰の戦いを放棄してしまいました。両替商に預ければ、何がしかの可能性を用いて何がしかの用意になったかもしれないのに。それでも神はOKと言ってくれたかもしれないのに。神は、彼に与えた可能性は無駄だったとわかり、それを最大限生かせる家来にあげることにしました。まさに、持っている者に与えられ、しかも一層与えられ、持たない者からは持っているものも取り上げられるということになったのです。

 

5.最後に、このたとえについて一つ大事なポイントをお教えします。それはこれも先週の10人のおとめのたとえと同じように警告の教訓話ということです。1タラントンの家来は、愚かなおとめたちと同じように一度はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを自分のものとしたが、いつしか用意する生き方から離れ、信仰の戦いもしなくなってしまった者です。これらのたとえは、こうした者を断罪するのが目的ではありません。そうならないように、今でも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、先週にも申し上げましたが、まだイエス様が果たした罪の償いを自分のものにしていない人たちに対しても、早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方をしなさい、ということです。そうすれば、お人好しで損をする人生だと思われたことがそうではなくなり、将来現れる永遠の栄光の重みにこの世の艱難は軽くなるということが真理になるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

家庭料理クラブのご報告

再開されて2回目の家庭料理クラブは、とてもフィンランドらしい食事パンを作りました。

お祈りをしてスタートです。

最初は生地の元になるオートミールを作ります。
沢山のシード類を加えて煮上がりを待つ間は、パンの仕上がりを想像して、ワクワクしました。

適温になったオートミールに、材料を加え捏ねあげ、発酵した生地を棒状に伸ばしてカットして丸め、再度発酵を待っての焼き上がりに、笑顔がこぼれ、
滋味あふれるパンを噛みしめて、美味しさを味わいました。

パイヴィ先生からは、フィンランドのパンと聖書のお話を聞かせて頂きました。

12月の家庭料理クラブは、
クリスマスのメニューを考えています。

 

パンのお話2020年11月

パンはフィンランド人の食卓の中で最も大事な食べ物です。特に昔の人はパンの重要性をよく知っていました。もしパンがないと、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な部分でした。かつてパンは店で買うものではなくて、いつも家庭で作られました。パンの生地に入れる材料はどこでも大たい同じでしたが、パンの味はそれぞれの家庭の味になりました。昔のパンの作り方について写真を通して見てみましょう。

1. パンを作り始めるのはパンのもとを生地を作る木の入れものに入れて、体温くらいの暖かいお湯で起こして柔らかくします。ライ麦を少しづつ入れて、柔らかいおかゆみたいなものを作ります。
2. その後で布巾を上にかぶせて夜中発酵させます。
3. 次の日の朝ライ麦を加えて生地をよく捏ねて、最後に生地の上に十字架の印をして、生地を祝福します。これは良いパンが出来るようにという意味です。また生地を発酵させます。
4. 発酵させた生地をテーブルの上にのせて良く捏ねて、細長く丸めてから分けます。そしてパンの形にします。フィンランドはパンの作り方によって東と西の二つの地方に分けられます。東の地方では厚いパンを作るのが習慣でしたが、西の地方では薄いパンが作られました。
5. パンの形を作ってまた発行させます。オーブンに入れる前に空気をとるためにパンをフォークで刺します。
6. パンを薪で暖めたオーブンで焼きます。オーブンは250℃から280℃くらいの温度にします。200℃から250℃位に下がったらパンを焼きます。薪オーブンの大きさはパンの枚数で言い表します。例えば「六枚入りのオーブン」などと言います。
7. パンの焼き具合はパンの底を指で叩いたら分かります。少しポンポンとなるようになったらパンは焼けています。

昔私の母もこのように家のパンを作りました。母は毎回何十個のパンも作ったのでパン作りは一日の仕事になりました。パン作りついて、私たちが住んでいた村には面白い習慣がありました。それは出来たての温かいパンを近所に分けてあげることでした。それで私たち兄弟は焼きあがったパンを近所の家に持って行って、近所の人たちを喜ばせました。もちろんパンを作る人にとっても喜びでした。昔はこのように自分のものを他の人に分けることは普通でした。ある意味で当たり前のことでした。

実はこれは聖書の教えに基づいていました。ルカによる福音書6章38節でイエス様は「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と言われます。そのことについて少し考えてみます。私たちは自分のものを分け与えたりプレゼントをする時はどんな考えがあるでしょうか?今クリスマスが近づいているから、多くの人はプレゼントを考え始めているでしょう。もし友達や親せきから高価なプレゼントをもらったら、どんな気持ちになるでしょうか?申し訳ない気持ちになって何か高いお返しをしなければと考えるかもしれません。また逆に、私たちが友達や親せきに高いプレゼントをあげたら、相手から何かプレゼントを期待するかもしれません。イエス様の教えはこうした考えとは全然違います。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」この意味は、私たちが自分のものを他の人に分け与えると、天と地と人間の造り主の神様がそれを祝福して下さるということです。私たちが持っているものは本当は全部神様が与えて下さったものです。私たちが他の人に何かを分け与えるというのは、神様のものを他の人に渡して喜ばせるということです。その時、他の人がお礼やお返しをすることは考えません。お礼やお返しがなくても他の人が喜んでいるのをみて神様に感謝します。これが神様から祝福が与えられたということです。

私たちはどんな気持ちでプレゼントをするでしょうか?聖書は、「喜んで与える人を神様は愛して下さる」と教えています。私たちは何かをあげる時、喜んで与えることが大事です。でも、そんな与える喜びはどこから来るでしょうか?クリスマスプレゼントが良い例です。私たちは、クリスマスの本当の意味が分かると、プレゼントをあげる喜びが出てきます。クリスマスの本当の意味は、天と地と人間の造り主である神様が私たち人間の救いのためにひとり子のイエス様を私たちに送って下さったということです。イエス様は私たち人間の悪いこと罪を全部十字架の上まで背負って運び、そこで神様の罰を受けて死なれました。そして3日後に神様の力で死から復活されました。イエス様の十字架と復活のおかけで、私たちの罪が全部許されて、神様の前に出ても大丈夫な者にしてもらいました。そして、この世でも、またこの次の世でも、いつも永遠に神様が私たちと共にいて下さるようになりました。このようにイエス様は私たちへの神様の最大のクリスマスプレゼントなのです。こんな高価なプレゼントを頂いたから私たちは喜んで他の人に与える者になれるのです。

神様がイエス様を送って下さったことに比べたら、焼きたてのパンをあげるのは小さなことですが、パンを焼いた人も頂く人も両方喜ぶことになります。ですから、皆さん、これからプレゼントをする時は、神様が私たちにとても大きいプレゼントを与えて下さったかを覚えて行きましょう。

説教「この世で目を覚まして生きるとは?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 25章1-13節

主日礼拝説教 2020年11月8日(聖霊降臨後第23主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行った話です。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶があり、今の単位で言えば80-120リットル入る大きさのものでした。そんな大きさの水瓶が全部で6つありました。既に出されたぶどう酒が底をついてしまった時、イエス様は追加用に水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。

本日の福音書の箇所でも結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従います。こうした付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様は、婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出発するまでの待ち時間にともし火が消えないように油を準備します。愚かな5人はそうしませんでした。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、結婚は成立した、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて油を買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って遅れて来たおとめたちは閉ざされた門の前で、中に入れて下さいと懇願するが門前払いを食ってしまう。そういう話です。

これを読むと、花婿は5人に対してなぜそんなに厳しく振る舞うのか、と大抵の人は思うでしょう。閉じた門の反対側から「お前たちなど知らない」などとは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式の行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるものなのか?それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態ということなのか?こうした疑問は、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。

ここで注意しなければならないことがあります。それは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。お前たちも注意しないとこの5人みたいになってしまうぞと警告する教訓話です。当時の人が身近に感じる事柄を題材にしてひゃっとさせて考えさせる手法です。ところが現代の私たちには婚礼の行列のおとめのともし火なんてあまり身近に感じられません。エキゾチックな感じはしますが。門前払いでひやっとさせる事と言ったら、私などはかつて日本の大学で必修科目の試験で遅刻して門前払いを食ったことがあります。他の単位を満たしてもそれに合格していないと卒業は出来ないので、さすがに次の年は気を引き締めました。それが最終学年の試験でなくてよかったと何度も思いました。

しかしながら、この10人のおとめの場合は門前払いを食って人生の進路の予定が狂うという次元の話ではありません。実はこれは人間の生死にかかわる話で、門前払いを食ったら永久に取り返しのつかないことになるという、かなりシビアなことを教えているのです。それでひゃっとさせることが出来たら警告は重く受け取られることになるでしょう。現代の私たちは同じようなひゃっとはないかもしれません。しかし、たとえ昔と今の感覚の違いはあっても警告は昔と同じくらいに重く受け取られるようにする、これが説教者に課せられた使命です。ここでもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、このたとえは警告の教えだけに留まらないということです。賢いおとめたちのように立ち振る舞えば祝宴に入れるということにも注目しなければいけません。彼女たちの立ち振る舞いが何を意味するのかがわかると、このたとえは希望の教えにもなります。以下そうしたことを明らかにすることを目指して御言葉の説き明かしを進めてまいります。

2.結婚式の祝宴にたとえられる「神の国」

 まず、この10人のおとめのたとえは何についてのたとえだったでしょうか?それは冒頭に言われています。「天の国」についてのたとえです。「天の国」または「天国」は聖書では「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国はどんな国であるとわかるでしょうか?

キリスト信仰で言う「神の国」について、まず一般的なことを大ざっぱに述べておきます。これまでの説教でも何度もお教えしましたが、「神の国」は天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見ると神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に贈り、彼をゴルゴタの十字架の死に引き渡して、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神との結びつきが失われて神のもとから追放されてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神の国は、今はまだ私たちが存在する天と地の中にはありません。しかし、それが目に見える形で現れる日が来ます。復活の日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、創造主の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる時です。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から神の目に相応しい者を神の国に迎え入れます。本日の使徒書の日課「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章にある通りです。

その時の「神の国」は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

「神の国」を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章でもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。

 そうすると、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味することが明らかになります。そうすると、ともし火に油を用意した賢い5人は神の国の入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさいと警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。それは、イエス様がたとえの結びで「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味でしょうか?

3.「目を覚ましている」とは「用意ができている」ということ

 賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、文字通りに寝ないで起きていることではなくて、何か用意ができている状態にあることを意味する、それを「目を覚ます」と象徴的に言い換えていると分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」の「眠り込んでしまった」というのも、文字通りに寝てしまうことではなく、何かを象徴的して言い換えているとわかります。何を言い換えているのでしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉はギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」の他に「死ぬ」という意味もあります。本日の使徒書の日課第一テサロニケ4章13節ではその意味で使われています。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語ではエゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるためにはこの世の人生で用意をしなければならない、と教えるのです。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意とは何をすることなのかを考えなければなりません。

これからそれを見ていきますが、その前に一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世の次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、先を見越して行動することが大切だ、というような誰にでもわかる人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるようにするために贈られてきたのです。

4.罪の自覚と赦しで罪を圧し潰していく戦い

それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。神の国の祝宴から排除されてしまった5人は賢い5人と同様に祝宴に招かれていたことを思い返しましょう。みんな婚礼の行列にともし火を持って付き従う任務を受けていました。つまり10人とも神の国への招待を受けていたのです。その意味で愚かな5人も賢い5人ももともとはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちを意味します。ところが、神の国に入れたのは賢い方でした。先月の福音書の日課にあったマタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのか、それがわかれば予備の油を用意すること、ともし火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。あわせて「目を覚ます」の霊的な意味も明らかになります。

本教会の説教で何度もお教えしましたが、人はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がゴルゴタの十字架で成し遂げられた人間の罪の償いを自分のものにすることが出来ます。イエス様に罪の償いを神に対して代わりにしてもらったことになり、それで神からは罪を赦されたものとして見なされるようになります。それはイエス様の罪の汚れのない純白さをあたかも衣のように頭から被されることです(ガラテア3章27節)。私たちの内にはまだ神の意思に反する罪があるのに、神は私たちが纏うことになった純白の衣の方に目を留められ、私たちもそう見られているのに相応しい生き方をしようとします。

ところが、神の意思に沿う生き方をしようとすると、自分にはそれに反しようとする罪があることに気づかされることになります。神を全身全霊で愛することが神の意思なのに、そうしていない自分に気づかされます。神に全ての願い事や悩み苦しみを打ち明けて祈らなければならないのに、そうしていない。神に感謝しなければならないのにそうしていない自分です。加えて、神への愛に基づいて隣人を自分を愛する如く愛さなければならないのに、そうしていない。自分は人殺しもしない、不倫もしない、盗みもしない、偽証もしない、妬みもしない、だから何も問題ないと思っているが、実は心の中で思ったり言葉で言ってしまっていて隣人愛を持っていないことを証してしまっている。その時、神は私に纏わせた純白の衣は朽ち果て色あせてしまったと見なして、私のことを罪を赦された者と見て下さらないのだろうか?

いいえ、そういうことではありません。純白の衣は純白のままです。では何が問題なのか?それは、内在する罪が衣を捨てさせようと力を行使してその攻撃を受けているということです。その攻撃を撃退するには、純白の衣を手放さないようにしっかり纏ってその重みで罪を圧し潰していくことです。どうやってそんなことができるのか?それは、罪の自覚が生まれた時、神の御前で素直にそれを認めて赦しを祈ります。父なるみ神よ、ゴルゴタの十字架で私の罪の償いをされたイエス様は私の救い主です、どうか私の罪を赦して下さい、と。そうすると神は、お前が我が子イエスを救い主と信じる信仰に生きていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って下さいます。これをすることで、神と人間の間を引き離そうとする罪は入り込む余地がないと思い知らされ歯ぎしりします。

実にキリスト信仰者は罪の自覚と罪の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していくのです。この中で聖餐式を受けると罪の圧し潰しに一層拍車をかけることになります。罪の圧し潰しは私たちがこの朽ちる肉の体から離れる時までずっと続きます。ルターは、キリスト信仰者のこの世の歩みとは、洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、以前からある肉的な古い人を日々死に引き渡すプロセスであると言っています。それで、キリスト信仰者はこの世を離れる時に完全なキリスト信仰者になると言うのです。

賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、まさに霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いを続けることが将来の復活の日の神の国への迎え入れを用意することになります。それをすることがこの世で目を覚まして生きる生き方になります。その生き方はともし火が消えない生き方です。だから、信仰の戦いを続けることは予備の油を持つことと同じです。

翻って、愚かなおとめたちが予備の油を用意しなかったというのは、もう洗礼を受けたらそれで終わり、信仰の戦いに入っていかないか、最初は行ったけれどもいつしか離脱してしまったことです。そうなると、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人はもう育ちません。肉に結びつく古い人間がまた盛り返してしまいます。ともし火の火も消えます。これが目を覚まさない生き方であり、神の国への迎え入れの用意をしないことです。とは言っても、このたとえを話したイエス様の主眼は信仰の戦いをやめてしまった人たちを断罪することではありません。警告が主眼です。信仰の戦いをやめてしまった人たちに対して、こうならないために早く戦いに戻りなさいと促しているのです。信仰の戦いを生きることが大事と言うのであれば、このたとえは、まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼も受けていない人たちに対しても、賢いおとめにならって、それに入りなさいと促すメッセージになります。

5.終わりに - キリスト信仰者はこの世を超えた視点を持つ

信仰の戦いなどという言葉を聞くと、なんだか宗教間の争いを想起させてあまりいい気がしない方がいらっしゃるかもしれません。しかし、この説教で聞いてきたことを思い返せば、それはあくまでキリスト信仰者の内面の戦い、神の意思に反する罪を自覚と赦しを繰り返すことで圧し潰していくことであって、外面的な争いと全然関係ないとわかるでしょう。使徒パウロがローマ12章で教えていますが、内面的な信仰の戦いを真摯に戦えば戦うほど、全ての人と平和に暮らす、自分を相手より上だと思わない、悪に対して悪で報いない、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々のことは当然なものになっていくのです。このような平和路線は、今の時代の、他人を追い落とすために自分を有利にするために偽りを真実と言ってはばからない風潮にあっては、不利で損なことでしょう。しかし、先にも申したように、キリスト信仰者はこの世を超えた視点を持ちます。それなので、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次の世での得になると考えます。それがキリスト信仰というものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は」神学博士 吉村博明 宣教師、黙示録7章9-17節

主日礼拝説教 2020年11月1日 全聖徒の日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今年の日本のルター派教会の「全聖徒の日」の聖書日課は変則的に旧約聖書がなくて、その代わりに黙示録からでした。その7章で著者のヨハネが天使から見せられたこの世の将来の出来事についての一場面です。万物の造り主である神と救い主イエス・キリストの御前に世界中から数えきれないくらいの大勢の人たち、しかも純白に輝く衣を纏った人たちが集まっている場面です。福音書の日課の方はマタイ5章の有名なイエス様の「山上の説教」の初めの部分で、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。今から約2,000年前の地中海東海岸のガリラヤ地方でイエス様が群衆を前にして教えた事柄です。黙示録の方は、イエス様の時代から60年くらい経った後に弟子のヨハネが神からの啓示を受けて今の世が新しい世に取って替わる時の出来事について見せられた事柄です。二つは一見何の繋がりもないようですが、実は内容的には繋がっています。というのは、イエス様が「幸い」と言っている人たちはヨハネが見せられた大勢の純白の衣を纏った人たちのことだからです。今年の全聖徒の日の説教ではそのことについてお話ししようと思います。

2.黙示録7章の純白の衣を纏った人たち

まず、黙示録7章を見てみましょう。玉座には万物の造り主である父なるみ神がいます。その傍に御子イエス・キリストがいて小羊と呼ばれます。玉座を前にして純白の輝く衣を纏った世界中から集められた大勢の者たちが神と小羊を賛美している場面です。彼らは大声で叫びます。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊のものである。」これは少し注釈を要します。原文はギリシャ語ですが、文のヘブライ語の背景を考慮に入れると、「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある」です(後注1)。救いは他のところにはないということです。純白の衣を纏った者たちはその神と小羊の御前に来たのです。救いがあるところにです。この場面はまさに、今ある天と地が終わりを告げて最後の審判と死からの復活が起こって、神が新しい天と地を創造して、そこに神の国が現れて神に義とされた者たちが迎え入れられた場面です。

そう言うと一つ疑問が起きます。ここはまだ7章ではないか?最後の審判と復活は20章、新しい天と地の創造と神の国への迎え入れられは21章ではないか?黙示録というのは、こういうふうに最終的に起こることをプロセスの途中で垣間見せることがあります。19章にも同じことがあります。復活して神の国に迎え入れられた者たちがキリストと結ばれる婚宴の祝宴の場面を見せられます。この祝宴も新しい天と地のもとでの神の国のことです。このように黙示録の時系列は私たちの理解を超えるものです。あまり自分の頭で理解しようとしないことが肝要です。人間の理解力でどうにかなるような代物ではありません。一つはっきりしていることは、理解を超える時系列を通して私たちに大事なことを伝えているということです。それは、最終目的地に至るプロセスの中でどんな苦難や困難の真っ只中にあっても、お前は今垣間見せてもらった、やがて起こることになる場面の当事者なのだ、今そこに向かう道を間違いなく進んでいるのだ、だから心配するな、そう励まし力づけているということです。これで十分でしょう。

玉座の場面を見せられたヨハネは、一人の長老から、これらの純白の衣を纏う者たちに起こることを聞かされます。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽もあらゆる灼熱も彼らを襲うことはない。」これはイザヤ書49章10節にある預言です。太陽や灼熱は身体的な苦痛だけでなく、マルコ4章のイエス様の教えから明らかなように迫害も意味します。「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」とは詩篇23篇の言葉です(後注2)。「神が彼らの涙をことごとく拭われる」というのは、これもイザヤ書25章8節の中にある預言です。8節全部はこうでした。「主なる神は、死を永久に滅ぼされる。全ての顔から涙を拭い、ご自分の民が受けた恥や屈辱を地上から一掃される。」

長老はヨハネに、純白の衣の者たちにこれらの預言が起こると言っているのです。彼らが父なるみ神と御子キリストの御前に立つ時には預言は全てその通りになっているのだと。飢えも渇きも迫害も苦痛もなく、命の水の源がそこにあり、涙も苦痛のだけでなく無念の涙も全て拭われていると。まさに、最後の審判と死からの復活を経て神の国への迎え入れが起こったのです。

これら神とキリストの御前に集う純白の衣の者たちは一体誰なのか?それは、イエス様の山上の説教の「幸いな者」の教えからわかります。

3.幸いな人とは神の国に迎え入れられる人のことである

イエス様は山上の説教の出だしの部分で「幸いな人」について教えていますが、ここで「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意します。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」と異なる「幸せ」が意味されています。以前にもお教えしましたが、「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとって幸せだという、神の視点での幸せです。人間がこれが幸せだと言うのとどう違うのか?重なる部分もあるのですが、人間の視点では幸せとは言えない状態であっても、「幸い」な状態にあるということもあるのです。それで違うのです。それでは「幸い」とはどんな幸せなのでしょうか?

まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。以前にもお教えしましたが、この「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)をはじめ、いくつかの国々の聖書も「霊的に貧しい」と訳しています。「霊的に貧しい」というのはどういうことか?ここから先はルター派の観点で述べていきます。「霊的に貧しい」とは、万物の造り主である神を前にして至らないところがあるということです。さらに大事なことは、その至らなさを自覚しているということです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らし合わせると、自分は神に対して至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。イエス様は「山上の説教」の別のところで、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えています。神聖な神は人間の外面的な行為や言葉のみならず心の奥底まで潔白かどうか見ておられるのです。そうすると、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、全然なっていない自分に気づき意気消沈します。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。

なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由が言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。この後の「幸い」な人のところでも全部「なぜなら」と言っています。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の前に立たされても大丈夫な者、霊的に貧しくなんかない者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと心配する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われるのです。これは一体どういうことなんだろうと考えさせられます。イエス様は同じ調子で話を続けていきます。

霊的に貧しい人に続いて「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。一つには、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。加えて、そういう神との関係でなく、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになる、だから幸いなのだと言うのです。

次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスπραυςも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性がそうだと言えます。マリアは神を信頼し、神が計画していることは自分の身に起こってもいいです、という物分かりのいい態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神が取り仕切って下さるから大丈夫という単純さでした。そうした神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純で静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入って来ると思います。

そんな柔和な人たちが幸いだという理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということです。

次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しい状態、神の前に立たされても大丈夫、問題ないという状態です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それなので義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いだと言う理由は、「彼らは満たされることになるからだ」と言います。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。逆に言えば、義の欠如の自覚がなく、義に飢えも渇きもない人は満たしてもらえないので幸いではありません。

7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言います。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに神が受け入れて下さるということです。神の意思に反する罪を持つのに赦してもらえるということです。そのような罪の赦しを受けていることをよく覚えて、周りの人たちにも赦しの心で接すれば、神はご自分が与える罪の赦しを揺るがないものにして下さるのです。

8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。「心の清い」とは罪の汚れがないことです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。本日の使徒書の日課である第一ヨハネの3章で言われているように、神を目で見れるようになるのは復活を遂げて神の国に迎え入れられた時です(後注3)。

9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する」と言うと、何か紛争地域に出向いて支援活動をするような崇高な活動のイメージが沸きます。しかし、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、神の子と呼ばれる者はそうするのが当然というのです。

10節と11節を見ると、義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに人からあることないこと言われたりひどい場合は迫害されてしまうが、それも幸いなことと言われ、それは神の国に迎え入れられることになるからだと言います。どうやら、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているようです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということが見えてきます。それでは、神の国に迎え入れらるとはどういうことでしょうか?

4.神の小羊の血で衣を白くされる

イエス様の教えは当時はじめて聞いた人たちには理解不能だったのではと思われます。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味していたからでした。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫に見なされる人を意味しました。

人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

それに対してイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は人間の心の清さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。父なる神が預言者たちの口を通して言っていたように、毎年繰り返される生け贄捧げは形だけの儀式で心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが幸いなことなのだ。なぜなら、それがお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しだからだ。

それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして「幸いな者」にしたのでしょうか?

それは、イエス様が父なるみ神の大いなる救いの意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡すことで全ての人間の罪の神罰を人間に代わって受けられたことで果たされました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。

この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の赦しがその人に効力を発揮します。その人は朽ちない復活の体が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰に入り洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せられるのです。黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことでした。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。

このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を神との結びつきを持って進む者です。これが「幸いな者」なのです。

ところで、この「幸いな者」は、この世ではまだ朽ちる肉の体を纏っています。それで、神の意思に反する罪をまだ内に宿しています。それなので信仰者は自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、神の小羊の血が私たちの衣の白さを保ってくれます。キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対する信頼が一層強まり柔和になっていきます。

5.そして復活の日に

そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、復活の日に眠りから目覚めさせられて神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚しています。あの古い世界で神の意思に反することが自分にあった、人を見下すこと罵ること傷つけること不倫や偽証や改ざん等々、たとえ行為で出すことはなくとも心の中で思ってしまったことがあった。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだった。あるいは、弱さのために行為や言葉に出してしまったことがあった。しかし、それは神の意思に反することとわかって悔いて神に赦しを祈り願った。その時イエス様の十字架のもとでひれ伏して祈った。本当にイエス様を救い主と信じる信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、洗礼の時に着せられた純白の衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力や汚そうとする力が襲いかかっても、お前はそれをしっかり掴んで離さず、いつも罪の赦しの恵みの中に踏みとどまった。その証拠に私は今、お前が変わらぬ純白の衣を着て立っているのを目にしている。」
そのように言われたら、私たちはどうなるでしょうか?私だったら、きっと感極まって崩れ落ちて泣いてしまうのではないか。そして立ち上がって周りにいる者たちと一緒にこう叫ぶのではないか。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある、他にはない!」

η σωτηρια τω θεω ημων τω καθημενω επι τω θρονω και τω αρνιω!

幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン


(後注1)黙示録7章10節の群衆の叫びのギリシャ語原文のヘブライ語の背景というのは、前置詞לのことです。ギリシャ語の文はその直訳と考えられます。לは、「~のもの」と所有・所持の意味もありますが、「~のもとにある」の意味もあります。例として詩篇3篇9節「救いは主のもとにあります(新共同訳)」。

(後注2)その詩篇は預言には聞こえませんが、ヘブライ語の動詞の用法を見ると行為が完了していないことを表わしています。つまり、羊飼いは常に導く方である、間違いなく導いて下さる、という意味で預言にも捉えられます。

(後注3)新共同訳では「御子が現れる」と訳していますが、どうでしょうか?第一ヨハネ3章2節のギリシャ語原文を直訳すると以下のようになります。

「愛する者たち、私たちは今神の子なのです。しかし、(復活の日に)私たちがどのような様態になっているのかはまだ明らかではありません。私たちは知っています、(その日に)それが明らかになれば、私たちは彼と同じようになっているということを。なぜなら、私たちは(その日)彼をあるがままの姿で見ることができるからです。」

新共同訳はこうでした。

「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、その時御子をありのままに見るからです。」

参考までにフィンランド語訳はこうです(日本語に直訳します)。

「愛する友よ、私たちは既に今神の子ですが、私たちがどのようなものになるかはまだ明らかになっていません。私たちは知っています、それが明らかになる時、私たちは彼のようになるということを。なぜなら、私たちは彼をあるがままの姿で見ることになるからです。」

新共同訳では「現れる」のは「御子」ですが、ギリシャ語原文やフィンランド語訳では「明らかになる」のは「私たちがどのようなものになるか」です。それから、新共同訳では誰に似た者になるかという時、それは御子ですが、フィンランド語訳では「彼」は「神」を指していることは明らかです。私は、ギリシャ語原文もそうだと思います。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの ご報告

春先からお休みしていた家庭料理クラブが再開されました。

今回は、日本でもファンの多いプッラを作りました。

コロナ渦の中なので、参加人数の制限や、消毒にマスク、手袋を着用しての開催になりました。

最初にお祈りをしてスタートです

計量して、手ぶくろをしての作業なので、参加の皆さん悪戦苦闘されましたが、とても良い生地が出来上がり、可愛いシナモンロールは大きな鉄板に沢山並びました。

オーブンでの焼き上がりを待つ間、久しぶりに、スオミ教会はカルダモンやシナモンとパンの焼き上がる甘い香りに包まれていました。

食前のお祈りをしていただいた、出来たての温かいプッラの味は格別でした。

パイヴィ先生からは、プッラと聖書のお話を聞かせて頂きました。

家庭料理クラブが開催出来た喜び、沢山のプッラが出来上がり、美味しく試食出来た喜び、今日の小さな喜びを集めたら、とっても幸せな一日を過ごせたことに気づき、感謝しています。

 

プッラと聖書の話、パイヴィ先生

今日は久しぶりの料理クラブで皆さんと一緒にプッラ作りが出来たことをとても嬉しく思います。とても美味しいプッラが焼き上がりました。

プッラはフィンランドでは伝統的なおやつの一つです。フィンランド人はおやつの時プッラをコーヒーと一緒に食べます。プッラ作りは他のお菓子作りと違って発酵が2回あるので出来上がりまで時間がかかりますが、プッラ作りで持てる楽しみがあります。それは、プッラの生地は同じですが、そこから色んな味や形のプッラが作れることです。現在プッラの種類はとても多くて、どんどん新しい種類が出てきますが、昔のプッラは大体決まっていて、細長い編んだものでこれを薄く切ってコーヒーと一緒に食べました。このような昔のプッラは今日作ったものみたいに多くの材料を使わず、ただ生地に砂糖とバターを少なく入れただけでした。それでも昔はこのようなプッラは高価なものでした。ほとんどの家庭で作られていましたが、それはプッラがもてなしのために出されるものだったからです。もし近所の人が家に寄ったら、もてなしにはいつもプッラとコーヒーが出されました。お祝いの時はプッラよりもっと高価なもの、たとえばケーキやいろいろなクッキーが出されるようになりました。しかし、クッキーやケーキの種類が沢山でてきても、プッラの重要性は変わりません。お祝いの時のコーヒーの出し物にプッラがないと価値がないように言われるくらいです。それくらいプッラはもてなしの重要なお菓子なのです。

日本ではこフィンランドのプッラみたいなもてなしのお菓子は何でしょうか?

私たちは近所の人や友達が家に来たらどんなもてなしをするでしょうか?何かお祝いをしてお客さんが大勢来たら、色んな準備で忙しくなると思います。

もてなしは聖書の中にもよく出てきます。一つ有名なマルタとマリアのお話を紹介したいと思います。

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ある日イエス様は弟子たちと一緒にマルタとマリアという姉妹の家を訪問しました。マルタとマリアはイエス様の親しい友達でした。イエス様と弟子たちは家の中に入ると、お姉さんのマルタは美味しい食事を出したかったので、すぐもてなしの準備を始めました。マルタにとってイエス様は大事なお客様だったので、良いもてなしをしたかったのです。でも妹のマリアはどうしたでしょうか?マルタが驚いたことに、マリアは食事の準備を手伝わないで、イエス様の足元に座って、弟子たちと一緒にイエス様の教えを聞いていたのです。一人で忙しく食事の準備をしていたマルタは、マリアが手伝わないでイエス様の足元に座っていたことにイライラしてしまいます。それでマルタはイエス様のところに行って、マリアも一緒に食事の準備をするよう言って下さい、とお願いしたのです。この場面を考えると、マルタの気持ちがよく分かります。一生懸命みんなのために料理を準備していたのに、マリアが手伝わないでただイエス様の足元に座っていたのです。これではイライラしてしまうのは当然でしょう。もし私がマルタの立場でしたら、同じように考えたと思います。

イエス様はマルタにどのようにお答えになったでしょうか?「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それはとりあげてはならない。」このように優しくお答えになりました。イエス様の答えはきっとマルタを驚かせたでしょう。イエス様の答えは何を意味しているでしょうか?イエス様はマルタがやっている料理の準備をやめなさいとは言いませんでした。そう言わないで、「しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいました。料理とか、もてなしとか、生活のための必要なものは私たちにとって重要ですが、私たちの人生にとって一番大切なことはそれらではありません。私たちの人生にとって最も大切なことは、天と地と人間を造られた神様について知ることです。神様の子であるイエス様が神様のことを正しく教えることができます。イエス様の教えから私たちは、神様の限りしれない愛を知ることができます。「マリアは良い方を選んだ」というのは、私たちにとって良い例になるでしょう。天と地と人間を造られた神様のことを知ることと、イエス様を信じて私たちも神様の子供とされること、これらは、人生にとって一番大切なことだと思います。聖書を読み、お祈りすることを通して神様は私たちの心に平安を与えてくださいます。

プッラを焼いて、良い香りがして、焼きたてのもので相手をもてなしすることは喜びがあふれることです。それはプッラを焼いた人にも食べる人にも喜びを与えるからです。しかしイエス様は聖書の御言葉を通して私たちに毎日喜びを与えます。このことを覚えていきましょう。