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主日礼拝説教 2022年3月13日(四旬節第2主日)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課の個所は、あなたの命が狙われているから逃げなさいと促されたことに対してのイエス様の答えでした。命を狙うヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様と弟子たちの一行は北のフィリポ・カイサリア地方からエルサレムに向かって南下する旅を続けているところでした。それで、この促しはガリラヤ地方を通過している時に言われたものでしょう。イエス様に促した人たちがファリサイ派というのは興味深いです。なぜなら宗教エリートのファリサイ派はイエス様と敵対していたからです。しかし、ファリサイ派というのは根は天地創造の神の目に適う者になりたい人たちで、それで律法を余すところなく厳格に守ることを是としていました。それなので中にはイエス様の教えを聞いて、この方は何も間違ったことを言っていない、本当に神から遣わされた者なのではと考えるようになった人もいました。その代表例はヨハネ福音書に登場するニコデモです。そう言えば、後にキリスト信仰を地中海世界に広めることになったパウロも元々は筋金入りのファリサイ派でした。
促しを聞いたイエス様の答えは先ほど朗読した通りです。わかりそうでわかりにくいと思います。二つのことがありました。まず、あの狐のような狡賢いヘロデにこう伝えよ、と言って、ヘロデに対する申し立てがあります。私は今日も明日も人々から悪霊を追い出し病気を癒して三日目に全てを終える、と言います。三日目に全てを終えると言うのは、言うまでもなくエルサレムで十字架の死を遂げた後三日目に神の力で復活させられることを意味しています。もちろん、聞いた人たちはこの時は何のことかわかりません。
33節で「だが、私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」と言います。先ほど申しましたように、イエス様一行はエルサレムに向かって南下中です。それなのでガリラヤ地方を通過します。だからこの言葉は、自分はガリラヤ地方から出ていくが、それはヘロデが恐くて逃げるのではない、エルサレムで死を遂げなければならないという神の計画を実現するためにガリラヤ地方を離れるのだという意味でしょう。
イエス様の答えでもう一つ大事なことは、今向かっているエルサレムを嘆く言葉です。エルサレムは天地創造の神を崇拝し礼拝を盛大に執り行う神殿がある町です。当時は地中海世界きっての大都市でした。その神のおひざ元のような町が歴史を振り返ってみると、神の遣わした預言者たちを受け入れず殺してしまうという、神の御心を顧みない町になってしまったことが何度もありました。イエス様は今も変わらないことを嘆きます。神はエルサレムの人々を親鳥がひな鳥を翼の下に集めるように呼び集めようとしたのだが、ひな鳥は来ることを拒否してしまった。かつてもそうだったし今もそうだ、と。イエス様は神のひとり子なので、この神の呼びかけを自分がしている言い方をしています。
神の呼びかけに応じないとどうなるのか?かつては神罰として敵の大軍に攻められてバビロン捕囚が起きてしまいました。イエス様の時はどうなるのでしょうか?35節を見ると、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。「家」と訳されているギリシャ語のオイコスは神殿の意味もあります。フィンランド語訳の聖書は神殿と訳しています。ドイツ語は「神の家」と訳され、それは神殿を意味します。英語は日本語と同じ「家」でした。私は神殿の方がいいと思います。それで35節を原文を直訳すると、「あなたたちの神殿はあなたたちに渡される」です。「あなたたちに渡される」とは分かりにくいですが、要は、神は神殿から手を引く、後はお前たちで勝手にやれ、私はもうかかわらない、と神崇拝の大事な拠点なのに神の後ろ盾を失ってしまうということです。世界史上の出来事としてエルサレムの町は西暦70年に神殿ともどもローマ帝国の大軍に破壊されてしまうので、イエス様の預言は当たってしまったことになります。
35節のイエス様の言葉で一番わかりにくいのは、「お前たちは『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」と言っているところです。これは何か?もう少し後でイエス様は旧約聖書の預言通りに子ロバに乗ってエルサレムに入城します。その時、群衆はユダヤ民族の解放者が来たと思って歓呼の声で出迎えます。その時、この言葉「主の名によって来られる方に祝福があるように」を叫びました。それなのでイエス様はエルサレムに入城するまでは誰も自分を見ないと言っているのでしょうか?この言葉はエルサレムの住民に言っているように見えますが、実際は神の呼びかけに応じない人たち全てのことを言っています。エルサレムへの道中、イエス様は賛同者だけでなく多くの反対者にも遭遇します。中にはエルサレムから来て観察して宗教指導者に報告する者もいます。それなので、みんなイエス様をずっと見ているわけです。なのに「決して見ることがない」とはどういうことでしょうか?
イエス様を決して見ないというのは、彼がこの地上にいる時のことではなくて、復活したイエス様が天に上げられて今は天の父なるみ神の右の座している期間のことです。それで、私たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うようになって彼を見る時とは、イエス様が再臨する日のことです。イエス様の再臨の日とは、今の天と地が終わりを告げて天と地が新しく再創造される時、死者の復活が起こって最後の審判が行われる日です。その時、神に相応しいと見なされた者は新しい天地のもとに現れる神の国に迎え入れられます。相応しいと見なされない者は迎え入れられないので、私たちとしては自分はどちらになるだろうかと今から心配の種になる日です。
それなのでイエス様が再び来られる日に「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時には、二つの異なる言い方が生じます。一つは、親鳥の翼のもとに身を寄せるひな鳥のように神の呼びかけに応じた者が言う場合です。これは神に相応しいとされた者です。この人たちは眠りから目覚めさせられた時、この言葉を、ああ、主よやっと来て下さったのですね、長い間お待ちしていました、と安堵の心で言うことになります。もう一つの言い方は、神の呼びかけに応ぜず神の意思など気にかけない生き方をした者がこの時になって事の重大さに気づいて言う場合です。その時その人たちは、生きている人と死んだ人双方をこれから裁こうとされる再臨の主を目の前にして、その権力には逆らえないと観念してこの言葉を言うことになります。
それなので、今日の日課のイエス様の言葉は、イエス様の再臨の時、私たちはどっちの意味でこの言葉を言うことになるのかを突きつけているのです。この世の人生で神の呼びかけに応じて親鳥の翼の下で守られるひな鳥のように生きてきて再臨の日に大いなる安堵の気持ちで言うことになるのか。それとも、神の呼びかけに応ぜず神の守りなどいらないと言って生きてきて、再臨の日になって主の威光をもう否定できないと観念して恐れおののいて言うのか。
イエス様の再臨の日に私たちがこの言葉を大いなる安堵の気持ちで言えるようになるためには、この世の人生で神の呼びかけに応じてひな鳥のように守られて生きることが大事です。神の呼びかけに応じて守られて生きるということについて、今日の旧約聖書の日課に出てくるアブラハムの信仰が大いに参考になります。それを見てみましょう。この時点ではまだアブラハムはまだアブラムという名前です。17章で神からアブラハムという名前にしなさいと言われます。アブラハムはヘブライ語の父、多い、民族の三つの意味が組み合わさった単語です。それで、多くの諸民族の父という意味を持ちます。
今日の日課の中に、キリスト信仰にとって決定的に大事なことがあります。それは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」なぜこの箇所がキリスト信仰にとって大事かと言うと、ここに信仰義認の考えがはっきり出ているからです。信仰義認とは、高校の世界史の教科書にルターの宗教改革のところで出てくる言葉ですが、簡単に言うと読んで字のごとく、人は信仰によって神から義と認められるということです。この意味の裏側に、人は善い業を行うことで神から義とは認められないという意味があります。それで信仰義認とは、人は善い業を行うことでは神に義と認められるのではなくイエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められるということです。
そこで、イエス様を救い主と信じる信仰とは何かがわからなければなりません。それは、イエス様が本当に私たちの内にある罪、神の意思に反しようとする性向を全部引き取って神の罰を私たちの代わりに受けて下さった、まさに私たちが受けないですむように身代わりになって受けて下さった、それでイエス様を救い主と信じることです。このイエス様の身代わりの罰受けはエルサレム郊外のゴルゴタの丘の十字架で起きました。加えてイエス様は、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。その道の行く先に復活があります。
イエス様がそのような凄いことを私たちにされた、だから彼は救い主なのだと信じて洗礼を受けると神から義と認められるというのキリスト信仰です。その時善い業というのは神に認められるためにするものではなくなります。先に神から義と認められてしまった、しかも神が自分のひとり子を犠牲にすることで認められてしまった、これは一体何なんだと驚きます。イエス様の十字架を思えば思うほど、そのおかげで何の取り柄もなかった自分が神から義と認められてなんと畏れ多いことか、神から義と認められたので今自分は神の守りと導きの中を復活の日を目指して歩ませてもらっている、そのことを思い知れば思い知るほど、神の意思に反することには手を染めないようにしよう、関わらないようにしようというふうになります。時として神の意思に反することを心に思ったり、ひょっとしたらも弱さや隙をつかれて言葉に出したり行為に出してしまう時もあるかもしれない。しかし、神からの罪の赦しはゴルゴタの丘の十字架で打ち立てられて揺るがなくあることはわかるので、また新しくやり直せます。このようなサイクルの中に入ると、善い業は自分でしようしようと意識してするものではなくなって、植物が育って実を結ぶように出てくるものになります。
イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しの中に留まって生きるとどういう風になるかについては、一つの例としてパウロがローマ12章で述べていることを見ればわかります。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、迫害する者のために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、自分を賢い者とうぬぼれず、だれに対しても悪に悪を返さず、他の人と平和な関係が築けるかが自分次第という時は迷わずそうする、復讐はしない、全ては最後の審判の神の判断に委ねる、だから敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々です。
ここで「神から義と認められる」ということを少しはっきりさせてみましょう。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」この文を少し詳しく見てみます。「アブラムは主を信じた」と言うのは前にある出来事の流れでみなければなりません。何があったかと言うと、アブラムはもう90歳近くになって子供はもう無理、相続のための家系は潰えると諦めていました。その彼に神は諦める必要はない、お前には後継ぎが生まれる、と言ったのです。アブラムに星一杯の夜空を見せて、お前の子孫はこれ位になるとさえ言います。その時にアブラムは信じたのです。それで彼が主を信じたというのは、神が言われたこと約束されたことは人間の目から見ても常識で考えてもありえないことであっても、神が言われたのであればそうなると信じたことです。自分の目で見たこと感情で感じたこと理性で考えたことよりも、目や感情や理性はそんなのあり得ないと言っていることでも神がそうだと言われたらそうなのだと信じたことです。目や感情や理性に黙ってもらい、神の声の方を聞いて神の言葉を先に立て、他のことはその後にしたということです。
アブラムがそのように信じたことを「神が彼の義と認めた」と言います。それはどういうことでしょうか?ヘブライ語の原文を少し解説的に言い換えると、アブラハムがそのように目や感情や理性に黙ってもらい神の言うことを信じた、そのことを神は彼にとっての義と認めてあげた、です。もう少しわかりやすく言うと、アブラムがそのように信じたので神は彼を義と認めた、です。目や感情や理性を脇に置いて神の言うことをその通りだと言う、それくらい神に信頼を置くと神に義と認められるのです。
そこで、神に義と認められるとはどういうことかをわかるようにしましょう。そもそも「義」とは何なのか?ヘブライ語でツェダーカーצדקה、ギリシャ語でディカイオシュネーδικαιοσύνηです。それらが日本語で「義」と訳されるのですが、漢字の「義」という言葉をみて意味が分かるでしょうか?もちろん意味を辞書みたいに説明することは出来ます。しかしそのように説明されても、わかったようでわからないというのが大方の反応なのではないかと思います。そこで、「義」の意味を説明するのではなく、神に義と認められるとどうなるかを見て「義」をわかるようにしていこうと思います。
神に義と認められるとどうなるか?神はいつも共におられ、どんなことがあっても共におられ、この世の人生でもこの世の後に来る世においても共におられるというふうになります。罪を持っているにもかかわらず私たちは神聖な神と結びつきを持てて、この世と次に来る世の双方をその結びつきの中で生きるようになります。神に義と認められるとこのようになります。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がまさにそうです。イエス様のおかげで神との結びつきを回復できて、この世の人生では神の守りと導きを絶えず受けながら復活に至る道を進み、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、これが神に義と認められた者の全人生です。
アブラムの出来事はイエス様がこの世に贈られる何千年前のことでした。しかし、アブラムの信仰はキリスト信仰と同じです。目や感情や理性よりも神に信頼を置き神の御言葉を先に立てる信仰です。イエス様が十字架にかかったことや死から復活されたことを目で見ていません。神の意思に反する罪を持っていることも時として感じることはあるが時として感じません。この世の人生の後に、この世はいつか終わりが来て新しい天と地が再創造されるなど考えられません。ましてやそこに自分が復活して迎え入れられるなどと考えられません。しかし、目や感情や理性が信じられないと言っていることを私たちキリスト信仰者は信じています。だから、私たちとアブラムは同じ立場にあります。宗教改革のルターも、アブラハムのことをキリスト到来以前のキリスト教徒と言った位です。
目や感情や理性が信じられないと言っているのに信じることが出来るというのは、イエス様を救い主と信じることの他にもいろいろあります。イエス様を信じることから始まって沢山のことが出てきます。例えば苦難や困難に遭遇した時、私たちは神の守りや導きが失われたと感じがちです。しかし、それは私たちの目や感情や理性がそう見て感じて言っているだけで、神の守りと導きはなくなっていません。イエス様を救い主と信じる信仰に生き、神の罪の赦しの中に留まる限り、神との結びつきは非常時にあっても平時と全く変わらず、復活の道を踏み外すことなく進んでいます。それなのでキリスト信仰者は、希望のない状態にあっても希望があると言えるのです。まさに詩篇23篇4節の心意気でいるからです。
たとえ我、死の影の谷を往く時も禍害を怖れじ、
汝、我と共に在せばなり、
汝の鞭、汝の杖、我を慰む。
גם כי אלך בגיא צלמות לא אירא רע
כי אתה עמדי
שבטך ומשענתך המה ינחמני
そして、主の再臨の日と復活の日を目指して進む私たちは、苦難と困難の中にあってもパウロと一緒に堂々として次のように言います。
されど我らの国籍は天に在り、
我らは主イエス・キリストの救い主として
その処より来たり給うを待つ。
ημων γαρ το πολιτευμα εν ουρανοις υπαρχει
εξ ου και σωτηρα απεκδεχομεθα κυριον Ιησουν Χριστον,
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 2022年3月6日(四旬節第1主日)スオミ教会
申命記26章1-11節、ローマ10章8b-13節、ルカ4章1-13節
教会のカレンダーは受難節とか四旬節と呼ばれる期間に入りました。イエス様の十字架の受難を覚える期間です。以前の説教でもお話ししましたが、フィンランドやスウェーデンではこの期間を一般的に「断食の期間」と呼びます。なぜかと言うと、昔キリスト教会では復活祭の前の40日間は断食するという伝統があったからです。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるのかは調べていないのでわかりません。事の始まりは、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだった、それで復活祭の前に彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、本日の福音書の日課にあるように、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間にある6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がって復活祭の前の7週目の水曜日となりました。先週の水曜日です。それで本日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」を唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えてイエス様の受難を身近に感じるようにします。
フィンランドやスウェーデンで今でも「断食の期間」という言葉を使うのは少し奇異な感じがします。というのは、両国ともルター派教会が主流の国なので、断食のような何か修行を積んで神さまに目をかけてもらうというような考え方はありません。人間の救いは人間の業にではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼に基づくというのがルター派の基本だからです。カトリック時代の言い方が今もそのまま続いているというだけのことです。そうは言っても、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。牧師の中には、この期間は嗜好物を避けるとか、好きなテレビ番組を見ないとかいうようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。
2.神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立とう
さて、今年の断食の期間ですが、今ウクライナの戦争が大きな影を落としています。先週も申しましたが、世界の戦争や内乱は近年いろいろなところでありました。アフガニスタン、ミャンマー、シリア、その他ニュースであまり取り扱われないところで沢山ありました。なぜウクライナの戦争がこれほどまでに大きく取り上げられるのか?理由はいろいろありますが、それらをここで紹介することはしません。ただ、近年世界中で起きていた良くない流れが積み重なってついにこの戦争で堤防が決壊して濁流が一気になだれ込んで来たような感じがします。この戦争の前から世界的に各地が無秩序化していたと思います。戦争や内乱がない国々でも偽りや中傷、誇張や扇動が以前よりも広まりやすくなって人々が振り回されてしまっている状況があったと思います。
ウクライナの戦争がどういう形で終結するのか、わかりません。一日も早く終わらなければなりません。そう言うのは、遠い日本にいる私たちの生活にも影響を及ぼすから、というのではありません。破壊と殺戮はいつどこであっても終わらせなければならないものだからです。どういう形で終わるにせよ、この後の世界は、自分の思うようにならない相手、言うことを聞かない相手は武力を用いてでも思うようにさせていい、という風潮を強めてしまうのではと心配します。破壊と殺戮を直接行うだけでなく、ソフトなやり方で偽りの情報をまき散らして人々を惑わすということがもっと当たり前になるのではないかと危惧します。これはそのまま十戒の「汝殺すなかれ」と「汝偽証するなかれ」という創造主の神の意思に真っ向から対立することです。ウクライナの人たちは自分たちで気づいているかいないか、彼らの戦いは祖国の自由と独立のためということを超えて、その後の世界の方向にも大きな影響を与える戦いを戦っているという気さえします。
今後もし、神の意思に真っ向から対立することが増えるようになれば、私たちはどうしたらよいのか?キリスト信仰者の答えは、神の意思に沿う平和や安定を築きそれを守る側に立つ、に尽きると思います。神の意思に沿う平和や安定とは何か?それを築き守る側に立つとはどういうことか?神などという絶対的なものを持ち出すから妥協できなくなって殺し合いになるのだ、という人もいるかもしれません。でも、聖書にある神の意思に沿う平和や安定は果たして殺し合いをもたらすものかどうか、それは以下のことを聞いてから言ってほしいです。神の意思に沿う平和や安定とは、十戒の掟に従う平和と安定です。具体的には、行為や言葉をもって人を傷つけないこと、他人に属するものを奪わないこと、不倫に関わらないこと、真実を曲げないことです。さらに、パウロの「ローマの信徒への手紙」12章もよく読んでください。これらのことのどこが、妥協できなくなって殺し合いになるのか?キリスト信仰について何か言おうとする人は、聖書を見て言うべきで、聖書を知らない自称キリスト教徒たちを見て言うべきではないと思います。
イエス様はこれらの掟は行為や言葉だけでなく心の有り様も当てはまる、それが掟を与えた神の意図なのだと教えました。心の有り様まで問われてしまったら、自分はどれだけ神の意思に反する者かを思い知らされてしまいます。キリスト信仰者と言えどもです。しかし、キリスト信仰では、神はそれで私たちを失格扱いにして見捨てることはしないということがあります。心の中で守り切れない自分に気づいたら、それを神の意思に反することだと素直に認めます。そして、神のひとり子のイエス様が私たちの罪を引き取るようにして十字架の上で神罰を受けられたことを思い起こします。その彼の犠牲の上に今の自分があることを思い出します。神のひとり子の犠牲の前にヘリ下ってその心でまたこの世を歩んでいきます。このように神が与えた罪の赦しの中にいつも留まって、神の意思に反するものが溢れるこの世に立ち向かっていきます。
罪の赦しの中に留まってこの世を生きる時、十戒の前半部分がなくてはならないものになります。最初の3つの掟のことですが、簡単に言うと次のようなことです。罪の赦しを与えて下さった神こそ本当に自分の願い事、悩み、喜びを聞いてくれる方とわかって打ち明けること。これだけ自分のことを顧みて下さる神なのに自分の弱い思いや悪い思いを擁護するために引き合いに出すようなことはしない。むしろ弱い思い悪い思いを頑張って捨てること。そして、この世に立ち向かう力を毎週リフレッシュする主日礼拝を守ることです。
このようにすれば神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。しかし、守る側に立つと今度は攻められます。神の意思に沿う平和や安定など破壊してやろうという力です。それはこの世の具体的な国や軍隊ではありません。聖書にも言われる、肉眼の目では見えない力です。本日の福音書の日課ではそのような力を持つ者として悪魔が出てきます。悪魔がイエス様に試練を与えて屈服させようとしました。悪魔が与えた試練はイエス様個人の運命に関わるものではなく人類全体の運命に関わるものでした。イエス様はそれらを撃退しました。それで人類は大きな危機を回避できたのです。イエス様が受けた試練がそれほどのものであったとは、一体どんな試練だったのでしょうか?イエス様はそれらをどうやって撃退したのでしょうか?これから、それらについて見ていきます。私たちはこれが分かると、この悪が猛威を振るう世にあって神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。
3.聖書が明らかにする悪魔とは?
まず、イエス様に試練を与えた悪魔とは何者かを見てみます。悪魔は聖書の中で二つの言葉で言い表されます。一つは、新約聖書に多く出てくるディアボロスδιαβολοςというギリシャ語の言葉で、もともとは「中傷する者」「誹謗する者」という意味があります。もう一つは、旧約聖書に出てくるサーターンשטןというヘブライ語の言葉で、新約聖書にもそのままギリシャ語でサタンσατανという語が用いられています。もともとは「告発する者」「起訴する者」「非難する者」という意味があります。それで、二つの単語は語源的に大体同じような意味を持っています。本日の福音書の箇所ではディアボロスが使われています。
悪魔が何をするものかについて、旧約のヨブ記では、神に忠実で信心深いヨブが実はそうではないということを神に示そうとして、彼をありとあらゆる不幸に陥れます。まさに無実の者を有罪に仕立てようとする「告発者」「起訴者」です。黙示録12章でディアボロスともサタンとも呼ばれる太古の蛇が地上に投げつけられる場面があります。その蛇はキリストを救い主と信じる者たちを絶えず告発していたと言われています(10節)。太古の蛇とは間違いなく創世記3章に出てくる、あの蛇です。最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反しようとする罪を持つようにしてしまった仕掛け人、神と人間の結びつきを断ち切ることに成功した張本人です。
その悪魔の運命ですが、マタイ25章41節では、最後の審判の時キリスト信仰者に救援の手を差し伸べなかった者たちが永遠の炎に行くよう命じられる場面があります。その永遠の炎は、ディアボロスとその天使たちに用意されたものであると言われています。黙示録20章2節では、神の側の天使がこのディアボロスともサタンとも呼ばれる蛇を捕えて千年間縛りつけておくとあります。その後で永遠の炎の海に投げつけられると言われます。
このように悪魔は最後の審判の時に滅ぼされますが、その時までは影響力を行使して、神の意思が実現されるのを阻止しようとします。最初の人間の時にそうしたように、人間が神との結びつきを回復できないように、復活の日に神の御国に迎え入れられないようにしようとするのです。どういうふうにするかと言うと、ヨブの場合のように、人間を苦しめて神に愛想をつかせて背を向けさせようとします。神の愛や恵みなどないと思わせようとします。また人間の弱みに付け込んで神の意思に反するようにと持っていきます。そしてほくそ笑んで言います。「お前ほど偉大な罪びとは存在しないのだ。そんなお前を神が顧みてくれるわけがない。ほら見ろ、お前の今の悲惨な状態を。どこに神の愛がお前にあると言えるのか。」そういうふうに巧みに私たちを絶望に追い込み、私たちを造り主の神からどんどん遠ざけようとするのです。
ここで、悪魔が告発者、起訴者の役割を果たすことに関連して、キリスト信仰者には弁護者がついていることを忘れてはいけません。聖霊のことです。イエス様は聖霊を弁護者と呼んだのです。どうしてでしょうか?悪魔が信仰者と神に向かって、お前は罪びとだ、あいつは罪びとだ、神の意思のかけらもない失格者だ、と言う時、聖霊はまず、うなだれる信仰者に向かって次のように言います。「あなたの心の目をあの十字架に向けなさい。あの方の肩の上に重くのしかかっている罪の山の中にあなたのも入っています。あの方が償いをして下さったのです。」そしてすかさず神に向かって言います。「この人は、イエスを救い主と信じる信仰に立っています。私がそれを証言します。」これを聞いた父なるみ神は信仰者に次のように言うのです。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されたことは揺るがない。もうこれからは罪に従わないように生きなさい。」
4.イエス様が受けた3つの誘惑について
イエス様が悪魔から受けた試練について見てみます。3つの誘惑がありました。最初は、40日間飲まず食わずにいて空腹で苦しい状態のイエス様に、お前が神の子なら石をパンにかえて空腹を満たしてみろ、でした。神のひとり子が本当に空腹を感じるのか?と思われるかもしれませんが、人間のマリアから生まれたことで人間と同じ血と肉を持っています。だから、人間と同じ空腹を感じることができます。イエス様は悪魔の言うとおりにしませんでした。2番目は、イエス様に世界の国々の豪華絢爛を見せて、俺様にひれ伏したらこれらを全部くれてやろう、というものでした。イエス様はこれも拒否しました。3番目は、お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から飛び降りて天使に助けさせてみろ、というものでした。イエス様が立たされたのはおそらくキドゥロン谷という急な谷側の面だったと思われます。イエス様はこれも拒否しました。イエス様は不治の病を治したり自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。パンを石に変えたり天使に飛んできてもらうことなど容易いことだったはずです。それなのになぜそうせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また危険な高い所にとどまることを選んだのでしょうか?
それは、もしそうしていれば、その瞬間、悪魔が命令したからこれらのことをしたということになってしまいます。これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従ったことになってしまいます。悪魔がやれと言ったからやったことになるのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ?それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でないんだ、という具合に、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれで空腹と恐怖の中に留まることになっても。
特に2番目の誘惑を撃退したことは、他の二つに増して人類の運命にとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様はこの試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かっていました。その時、神から聖霊を受けて神の子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10~11節)。もし、その神のひとり子が悪魔にひれ伏してしまったら、神の子が受けている聖霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と聖霊が悪魔よりも下になってしまったら、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔の上に立つ者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。
人類は実に際どいところにいたのです。もしイエス様が必要物を得るために悪魔の指示通りに動いたり、欲望を満たすために悪魔にひれ伏していたら、神自体が悪魔の下の立場に置かれることになっていたのです。神が悪魔の下に置かれるということは、この世も当然、悪魔の下に置かれることになります。そうならなかったので、神は依然として悪魔の上に立つ方です。確かにこの世は現実には悪魔に振り回されることが一杯あります。しかし、悪魔の上に立つ方がちゃんといて下さるのです。だから、この世には救いがないとか希望がないと言うのは当たっていません。ないと言ったら悪魔の思うつぼです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、創造主の神が私たちの側についておられ、私たちも神の側に立つ限り、希望が失われることはないということを信じて参りましょう。
5.聖書の御言葉は悪魔の誘惑を撃退する最上の武器
それでは、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑を撃退したかを見ていきましょう。結論から言うと、イエス様は旧約聖書の神の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対して、イエス様は申命記8章3節の御言葉をもって誘惑を撃退にします。その箇所の全文はこうでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。もし、悪魔が空腹のような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを従わせようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を唱えればよいのです。
次の誘惑、「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対してイエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を撃退します。その御言葉とは、ずばり「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」でした。神との結びつきを持ってこの世を神の守りと導きの内に生き、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、このシナリオは万物の創造主でありこの私の造り主である神が私のために準備され、それがその通りになるとイエス様の十字架と復活の業で示した下さった。この世の豪華絢爛などという復活の日に消滅するもののためにこのシナリオは捨てることなど想像もできません。
3番目の誘惑は要注意です。悪魔はイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、巧妙にも聖書の御言葉を使いました。それは詩篇91篇11
12節の御言葉、「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を撃退します。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事です。イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。
実際イスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、困難に遭遇するたびにすぐ神に不平不満をぶつけました。神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに新しい困難が起きる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、こんなことならエジプトに帰ってやるなどと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と言うのです。
それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを神の解決として受け入れる、それくらいに神を信頼するということです。実は、このイエス様の神への深い信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨でした。この篇の最初をみると次のように言われます。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2
3節)。このような神に対する強い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に神への強い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分をちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。しかし、そんな軽々しいやり方で重みのある真理を覆すことなど出来るはずがありません。
このようにイエス様は聖書の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。このことは、私たちがこの世にあって、神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立って生きる上で大事です。もし悪魔が私たちを従わせようとして必要物や欲望をちらつかせてきたら、私たちは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある!『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある!」と言えばいいのです。ただ、やっかいなのは、悪魔が私たちを誤らせようとして聖書の御言葉を使う場合です。イエス様の試練から明らかなように、悪魔は御言葉を文脈から切り離してもっともらしく聞こえるようにするという手口を用います。私たちは騙されないために、本当に聖書に習熟して全体像と文脈を把握して個々の御言葉を受け入れなければなりません。そのために毎日の聖書の繙きは大事です。毎週礼拝で御言葉の説き明かしに耳を傾けることも大事です。その御言葉に立って神に祈り賛美を捧げ聖餐に与ればこの世ではもう怖いものなしです。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
2月6日に開催された定期総会にて本年度のスオミ教会の年間聖句と主題が採択されました。
年間聖句 詩篇107篇30節「彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」
年間主題 「イエス様と一緒に最終港を目指してこの世という海の航海を続けよう。」
この聖句と主題を提案した宣教師の提案趣旨は次の通りです。
昨年のフィンランド滞在中、VALLILAという繊維布地の会社の専門店に立ち寄りました。店内で最初に目に留まったのは、湖の向こうに沈みそうで沈まない白夜の夕日のデザインの布でした。「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」という、復活の日を示唆するゼカリア書14章7節の聖句を思い出し、スオミ教会の会堂の壁に掛けるのにちょうど良いと思いました。もう一つの布にも目が留まりました。湖の上を走る船です。フィンランドの南西部にある教会は皆、会堂に大きな帆船の模型を天井から吊るして飾っています。それは、教会とは復活の日の神の御国を目指してこの世という海を進む船であるという意味を持ちます。キリスト信仰者はその乗員なのです。この布もスオミの会堂の壁を飾るのに相応しいと思い、最初どっちにしようか迷ったのですが、結局両方購入しました。今、会堂の壁にかかっています。
詩篇107篇を繙くと、イスラエルの民の苦難の歴史とその中で神の導きがあることが歌われます。苦難一つ一つについて、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救って下さった」と民の祈りと神の応えが言われ、救出の後で「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と民の感謝が続きます。同じフレーズが繰り返されます。
苦難のリストの最後は船出です。天地創造の神は嵐を起こされ、船は沈みそうになる。その時も同じ祈りと神の応えが唱えられます。そこで神が嵐を沈黙させて波はおさまる。「彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」そして、同じ感謝で締めくくられます。
苦難の遭遇とそこからの救出の繰り返しは私たちの人生にも当てはまります。青空のもと追い風に乗って進む時と雨風に晒され波に揉まれる時そして港で一息つく時とまた出発する時。その繰り返しです。しかし、キリスト信仰者には、この繰り返しが終了してもう出発しなくていいという永遠の安息の最終港があります。復活の日の神の御国です。(新共同訳では「望みの港」ですが、ヘブライ語では「喜びの港」です。)
詩篇には言われていませんが、キリスト信仰ではイエス様という私たちの船旅の同行者がおられます。マタイ28章20節で復活の主が言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マルコ4章等でイエス様が弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡った時、嵐が起きて舟が沈みそうになり、それを静める奇跡を起こして皆が対岸に無事に着くことができたという出来事があります。この奇跡は、詩篇で言われていることは単なる文章ではなく本当に起こるということを示すものでした。イエス様と一緒に航海していれば、嵐に遭遇して慌てふためくことがあっても最後は必ず港に導いてもらえ、最後の最後は復活の日の神の御国という港に到着することが出来るのです。時には、イエス様は眠って何もしてくれないように思える時もあるかもしれませんが、イエス様は必ず起きて助け導いて下さることをガリラヤ湖の奇跡で示したのです。
この2022年、今度こそコロナが終息するという期待が高まりますが、ひょっとしたらまだ続いてしまうのではという疑いと心配もあります。いずれにしても空模様・海模様がどんなものであれイエス様と共にする航海を続けていくことには変わりません。この1年も主が共におられる舟/船に乗っていることを忘れないように礼拝に繋がり御言葉に留まっていきましょう。
主日礼拝説教 2022年2月27日 変容主日
聖書日課 出エジプト記34章29-35節、第二コリント3章12節-4章2節、ルカ9章28-36節
説教をYouTubeでみる。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節が終わって、この後イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。
イエス様の山の上での変容の出来事は、これは、と言うか、これもですが、私たちの命は今のこの世とこの次にやって来る世の二つにまたがっていることを思い起こさせる出来事です。出来事の場所となった山は、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ8章27節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。
さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。
この出来事は以前の説教でも説き明かしをしましたが、今日は旧約と使徒書の日課が以前と違うので角度を変えて迫ることができます。ただ、結論はいつもと同じになりますが。旧約の日課は出エジプト記34章でモーセがシナイ山で神の栄光を受けて顔が輝き出しそれを覆いで隠したという出来事です。使徒書は第二コリントでパウロがキリスト信仰者は神の栄光を映し出す者であると教える個所です。それで今日は、神の栄光を映し出す者になるというのはどういうことか、なぜそれは大事なことかをお教えすることになります。
最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?人によっては、聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも同じだと考える人もいるでしょう。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディア‐グレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという感じが伝わる言い方です。
モーセとエリアの出現が現実に起きたことなら、彼らは幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えていることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来みんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。
それなのでキリスト信仰の天国の考え方は他の宗教の天国とかそれに類する国の考え方と大きく異なっていると思います。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類する国と言うのは、この世の人生を終えた後すぐ、ないしは30何年間とか一定期間の後で到達できるという考え方ではないかと思います。つまり、今のこの世がまだ存在している時のことです。ところがキリスト信仰では、それは今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その日が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きると思います。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日よりも前に死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。キリスト信仰では死は復活までの眠りで、その後に永遠の安寧か永遠の滅びかの振り分けがきます。
他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上21章6節、イザヤ書8章19節です。
次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。
あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。
そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。
フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。また、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の天の御国での有り様を現わす出来事だったのです。
そうするとイエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなので、あの「雲」はお迎えの「雲」だったのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?
それは、私たち人間も復活の日に神の栄光を映し出して輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするために受難の道を進んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。どうしてそういうふうにしなければならなかったのでしょうか?
それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために守るものではない、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分ではない、兄弟を心の中で罵っても同罪と教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇でダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
そこで神は、できない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、どうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のようなことです。
神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、不問にするから自分との結びつきを持って新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは自分のためになされたとわかり、だからイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそこを神の守りと導きのうちに歩むことになるのです。
イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という神からの贈り物を受け取ることができるようにするためでした。私たちはこの贈り物を受け取って携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になっていることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそのことを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、3章7節辺りから見ていくとわかるようになります。
神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現します。しかし、先に申しましたように、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。先にも申しましたように、十戒は人間が罪深いものであることを明らかにするからです。それで神聖で神の栄光を現す掟は人間を罰に定めてしまい、十戒だけでは人間は神聖な神の前に立たされて立ち行かなくなってしまうのです。
しかし、神の御心は人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てるようにして神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。以前は十戒が現す栄光を目指せば人間は滅んでしまうだけでしたが、神は目指しても滅ばないで永遠の命に至ることができるように栄光を変えられたのです。
そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがこの世は、イエス様の十字架と復活の出来事が起こって神から罪の赦しが与えられる時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままでこの真の栄光を見ようとしない人たちがいるとパウロは嘆きます。
しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けるので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。
12節に戻って、パウロが言う希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使えば、大体それは復活と神の栄光を映し出すことを指しています。キリスト信仰者にとってこの希望が勇気の源になると言っています。12節「確信に満ちあふれてふるまっており」というのは、この希望から大きな勇気が得られてそれを持って生きるという意味です。その勇気ある生き方の具体例が4章2節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について真理を人々に語る、そして、私たちは神のみ前ではこれ以上の者でもこれ以下の者でもないということを他の人たちにどうぞ良心で判断してみて下さい、と言う。復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われようと、人間は神ではないので恐くはありません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
扉を叩く人
クフモ教会 から寄贈された木のレリーフです(礼拝堂の入り口上部に取り付けました)。 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸をあける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 (ヨハネの黙示録3章20節)」
イエスが家の外に立ち、扉を叩いています。この扉は内側からしか開けることができず、外側からは開けることができません。だからイエスは扉を叩いて、扉が開かれるのを待っておられます。
主日礼拝説教 2022年2月20日顕現節第7主日
今日のイエス様の教えはとても難しいです。言っていることは簡単に理解できます。しかし、言っている内容は私たちには実行不可能なことばかりです。それで難しいのです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者らを祝福せよとか、汝らを侮辱する者らのために祈れとか。お前なんか地獄に落ちてしまえと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さい、などと祈らなければならないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげなければならないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返しをしないどころか、こっちの頬もどうぞ、と差し出せとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなるに越したことはないですが、果たしてそんなにうまくいくのだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないだろうか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?
これに続く教えも、そんな無茶なと言いたくなります。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者に与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければいけないのかと聞かれて、そうです、なんて答えたら、もう誰も信仰者になりたいと思わないでしょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者がキリスト信仰者である所以について大事なことを教えているのです。自分には出来ないと言って遠ざけてしまうのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が本当に教えようとしていることを考えてみなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。
この他にもイエス様の実行困難な教えは聞く人読む人の心を揺さぶる試練を与えます。その一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせると言ってもよいでしょう。
さて、イエス様は青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。イエス様はその以前に山上の説教で十戒について教えた時、殺さなければOK、不倫をしなければOKではない、兄弟を言葉で傷つけたり心の中で傷つけを考えただけでも同罪、異性をふしだらな目で見ただけでも同罪と、神は心の有り様まで問うていると教えていました。金持ちの青年の時は、そういうふうには教えませんでしたが、それでも心の有り様を突いてくることを言います。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。
このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。もう一つは、人間は賜物を与えて下さる神よりも与えてもらった賜物に固執してしまうということです。
まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったり、貧困から脱することができると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。要約して言うと救いとは、この世の人生を終えた後でいつか将来この世の天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられること、これが救いです。
そう言うと、救いとは遠い将来のことで今ある天と地がなくなって新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かう日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。神が守って下さる導いて下さるというのは、苦難や困難があるとそんなものないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。
キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世では神の守りと導きの中でそこに至る道を進むことができる、これが救いです。
そこで、救いは人間の力では獲得できないことを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようになってしまいます。それでは自分の力でできなければどうやって獲得できるのか?それは、人間が神の意思に反しようとする罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっている、その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによってです。イエス様はどうやってそれを解消したのか?それは、本当だったら人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は人間の方がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったと受け入れて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、罪を償われたから神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。そのようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを信仰と洗礼でもって受け取って自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。
人間は救いを自分の力で獲得できないことに加えて、金持ちの青年の話が教えているもう一つの大事なことは、人間は賜物を与える神よりも与えられた賜物に固執してしまうということです。神は固執する相手を是正するために時として手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執することは可能でしょうか?宗教改革のルターはキリスト信仰者の賜物に対する心は次のようであるべきと教えています。
「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからだけ得られると考えてしまう位に愛しいものになってはならない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えにならないと言うのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」
本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えについては、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に押しやって賜物に執着しないようにということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきでしょう。
敵を愛せよ、頬を差し出せも文面だけで考えず、聖書のキリスト信仰の観点で見なければなりません。イエス様は山上の説教で同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせると言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くかもしれません。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前がいいというのは悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれているとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?
しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書18章23節と33章11節を見れば明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを裏切ることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。
敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に対して、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、その人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るように導いて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。
ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けを使わなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎではないかということも出てきます。また、肝心の救済機関がちゃんと機能していないという問題もあります。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の見解の基本には復讐はしないということがあります。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされ永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされ永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。
キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活とそれに先立つ最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。
復讐心で行わないということには、神の命令があるからということの他にもう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者自身が神から罪の赦しを受けたという立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたということがどれほど大きなことかがわかると復讐心のエネルギーは削がれていきます。神が贈られたひとり子の十字架と復活の業のおかげで自分は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は自分を子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日道を踏み外さないように迷わないように守り導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。神の意思に反する罪を持ち汚れや至らないところが沢山ある自分だが、私はただただイエス様が成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さず生きている。その自分を父なるみ神は子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日守り導いて下さっている。
本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」イエス様のこの教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。これを述べた時点ではまだ十字架と復活の出来事は起きていないので聞いた人たちは何ことが意味が全然分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後は、この地上に神からの罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私は裁く、罪びとに定めてやる、赦さないと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前に与えたものをよく見なさい、私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われてしまうでしょう。イエス様の教えは私はできない、できない、絶対できないと言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて遠い世界のことに思えます。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪としてこの世では不完全かもしれないが罰せられなければなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。
本説教で、キリスト信仰者とは復活の希望を携えて神の守りと導きの中でこの世を生きる者であるということを繰り返し申しましたが、この世では神の守りと導きがあると言っても、苦難や困難があると本当にあるのか疑わしくなります。しかし、それでもあるということを本日の旧約の日課でヨセフが証ししていますので、それを終わりに見ておきましょう。
ヨセフの人生は、皆さんご存じのように波乱万丈でした。父ヤコブの寵愛を受けて兄たちの嫉妬を買い、エジプトに奴隷として売られてしまいます。エジプトの王ファラオの宮廷役人に仕えている時も神の意思に従い不正なことには手を染めなかったにもかかわらず、不倫の濡れ衣を着せられて牢獄に入れられてしまう。その後もいろいろありますが、ファラオの見た夢の意味を解き明かしたことがきっかけで王室に仕える身分となり、最後は王国の行政の長にまでのぼるつめるところまで行きます。その時オリエント世界を大飢饉が襲いました。エジプトはヨセフの食料備蓄対策が功を奏して難を免れます。カナンの地にいたヨセフの父や兄弟たちは食料に困りエジプトに支援を求めにやって来る。宮殿で兄たちは目の前にいる高官がヨセフだとわかりません。そこでヨセフは自分の正体を明かすという場面です。そこでヨセフは、自分をエジプトに送ったのは兄たちではない、肉親たちが助かるようにと前もって神が送ったのだと言います。自分をエジプトに送ったのは神だと何度も繰り返して言います。このヨセフの半生についてルターが次のように説き明かししていますので、それを引用して本説教の結びとします。
「神のこの世での統治の仕方がいかに人間の理解を超えるものであるか、そのことについてヨセフの事例も聖書の数多くの登場人物と同じように我々によく教えてくれる。実に神は、悪魔や死が目前にあると思われるようなところで実は直ぐそばにおられるのだ。ヨセフも、エジプトに売られた時はさすがに神に見捨てられたと思ったであろう。しかし、神は一時たりともヨセフから目を離さず絶えず彼の後をついて行ったのだ。ヨセフが異国に売り飛ばされて、そこで何年も何年も試練に次ぐ試練を受けなければならないようにしたのは確かに神自身であった。あたかも神などもう近くにはおられないと思わされる位にそうされたのだ。しかし、神が定めた時が来たとき、神はエジプトの国をその手に委ねるほどにヨセフを高い位につけたのだ。そこに至るまでヨセフは神を信じて忍耐強く待たなければならなかった。
父なるみ神は我々にも同じようになさるはずだ。もし、我々もヨセフと同じように神を信じて立ち続けることを学んでいさえすれば。我々にも、ヨセフの時代にこの世を統治していた同じ神がおられるではないか。我々にも同じ全知全能の神と神の約束の言葉があるではないか。神は我々を見捨てることはしないという約束だ。しかし、次のことは覚えておいてほしい。神は、栄誉を与えようとする者を最初不名誉に陥れ、大いなる喜びで満たしたい者を最初悲しみと心の苦しみで満たすということだ。こうしたことを神は特に選ばれた者たちに対して行う。神が彼らを底深い所に沈めれば沈めるほど、彼らを無価値にすればするほど、それ以上に彼らを高い所に引き上げて栄光の座につけるのである。」
主日礼拝説教 2022年2月13日顕現節第六主日
本日の聖書日課は、福音書がルカ6章のイエス様が群衆に教えを宣べるところです。内容的にマタイ5章の山上の説教と同じです。誰が「幸いな」かについて教えます。マタイでは「幸いな人」についてだけですが、ルカでは「不幸な人」についても教えます。使徒書の日課は第一コリント15章のパウロの教えです。キリスト信仰者の中に復活なんかないと主張する人がいて、それに対してパウロが、いや復活はある、と反論するところです。旧約の日課エレミヤ17章は誰が呪われた者で誰が祝福された者かについて述べています。
これら3つは語られたり書かれたりした時代を見てもエレミヤからパウロまで500年以上の開きがあるものですが、何度も繰り返し読むと共通項が見えてきます。3つとも、キリスト信仰者にとって復活の視点を持ってこの世を生きることはとても大事であることを教えています。今日はそのことを見ていこうと思います。それで説教題は「キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな」になりました。
まず、ルカの日課を見てみますが、今申しましたように、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っています。しかし、内容が少し異なっています。4つの福音書の記述を見比べると同じ出来事なのに書き方が違っていることがよくあります。これはどう考えたら良いのでしょうか?以前にもお教えしましたが、簡単に復習します。次のようなことです。本日のマタイとルカの場合ですと、二人とも自分たちが入手した記録や資料を基にしています(それらは重複しているものもあれば、個別のものもあったでしょう)。特にマタイの場合はこれらの資料の他に直接自分の目で見、耳で聞いたこともあったでしょう。それに加えて自分が知らなかったこと見落としていたことについても資料が出てきたのです。さあ、それらをどうまとめるか?
福音書の書き手が手にした資料というのは、手にするまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そうした伝承の流れの中で、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか逆に解説を施して長くしたということが起こります。そうすると書かれたことは史実を正確に反映していないのではという疑いが起きるかもしれません。
しかし、ここで忘れてならない大事なことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、どんな観点に立ってそうしたかということです。伝えたり書き留めた人たちの観点はみんな共通しています。まず、イエス様というのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。そしてそのイエス様は死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。さらに、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めていったのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性には何の影響もありません。むしろ、いろんな記述があることで同じ出来事をいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあっても同じ信仰の観点で書かれていることを忘れず、それらを全部神の御言葉として扱い、総合して全体像を掴むことが大事です。
今日のルカの個所には、復活の視点がはっきり出ています。このことを見る前に「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係します。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。終末論とよく言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正確でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちを構成員とします。そこは、黙示録で言われるように、神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような神の国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道に置かれて歩む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。
この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者の場合は、復活に至る道に置かれてそこを歩むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏していたことは満たされ、涙は全て拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。こうしたことがその通りになるというのは創造主の神の約束だ、だから今の境遇は「幸せ」でなくてもそれは陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われた快活な笑いを持つ自分が見えるのです。
もちろん、復活の日を待たなくともこの世の段階で自分の努力や他人の手助けまたは社会がうまく機能して貧しさや空腹や涙から脱することも出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ空腹、涙と同じ陽炎です。この世的な幸せや不運はみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。
「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。今裕福な人たち、満腹している人たち、笑っている人たちです。これらの人たちは今すでに満足を享受している、それなので将来飢えるようになり泣くようになると未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。
このように言うと、この世の段階で裕福になったりお腹一杯になったり笑ってはいけないみたいで、誰もイエス様の言うことなど聞きたくないでしょう。先ほど、この世で不運な境遇にあっても、またそこから運よく脱せられても、復活の「幸い」から見たら双方とも陽炎のようなものであると申しました。不運な境遇それ自体が「幸い」ではないのです。幸いとは、22節でも言われるように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにしていることが幸いなのです。それがあれば不運な境遇にあっても、またそこから脱せられた境遇でも幸いなのです。不幸な人たちにも同じことが当てはまります。裕福さ、お腹一杯、笑いそれ自体が人を「不幸」にして復活と神の国への迎え入れを不可能にしているのではないのです。裕福さ、お腹一杯、笑いの底に人を不幸にする何かがあって、それで裕福な人、お腹一杯の人、笑う人を不幸にするのです。底にあるものとは何でしょうか?
26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことに耳を貸さず、偽預言者を賞賛してその言うことに耳を傾けた時代がありました。人間にちやほやされて裕福だったり満腹だったり笑ったりするのが不幸なのです。人間にちやほやされる人と言うのは、神を無視して神以上に人間に信頼を置いて頼る人です。しかし、復活の日が来たら、お前たちは神なんか頼りにならないと言って無視していたんだから今さら私のもとに来る必要はない、と言われて復活に与れなくなってしまいます。ここで、神に信頼することと人間に信頼することという問題が出てきました。まさに本日の旧約の日課のテーマです。
エレミヤ17章5~10節は呪われる者と祝福される者の対比です。以前お教えしたことがありますが、聖書の中で「祝福」という言葉に出くわしたら、それは神が人間に御顔を向けて目を注いでくれて見守ってくれている状態だと思わないといけません。というのは、日本語の「祝福」とは、結婚式で新郎新婦をみんなで祝福しました、などと言うので、祝福はお祝いすることに関係すると考えられ、人間同士の事柄のように思われるからです。聖書の祝福は神から授かるもの、神を抜きにしては語れないものです。人間から授かるものではありません。これと正反対のものが「呪い」です。人間が神から顔をそむけられて背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。
エレミヤ17章では誰が祝福される者で誰が呪われる者かがはっきり言われます。呪われる者とは、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人です。逆に、主に信頼し、主がその人の拠りどころになっている人が祝福される者です。こう言うと、人間を頼ってはいけないのか、友人も頼ってはいけないのか、天涯孤独でいなければならないのかと困惑する人が出てくるでしょう。しかし、これも先ほど申したことと同じです。貧しさ空腹さ涙それ自体が復活の日の幸いを保証しない、するのはイエス様を救い主と信じる信仰でした。また、裕福お腹一杯笑いそれ自体が復活に与れない原因ではない。神を無視して神以上に人間に信頼するような裕福満腹笑いが原因でした。つまり、人間を頼ること自体が問題なのではなく、神を無視して神以上に人間を信頼することが問題なのです。それなので、人間にも頼るが神への信頼が土台にあってそうすると言う場合は、人間への頼りは陽炎のようなものです。それを透かして見れば神への信頼が本当の信頼としてあります。神への信頼が土台にあれば、人間に頼る時も、こういう頼り方はいけないとわかって見境のない頼り方はしなくなります。
神への信頼を土台にすると、どうして人間に頼ることが陽炎のように薄れるのかというと、9節と10節で明らかにされます。「人の心は狡猾で災難をもたらす。誰がそれを知り得ようか。」新共同訳では「とらえ難く病んでいる」ですが、ヘブライ語の辞書では「狡猾で災難をもたらす」もOKです。同じ節で誰も人間の心を知りえないと言っているのでこっちの訳がいいと思います。人間の心は狡猾で災難をもたらす、誰もそれをわからない、つかみどころがない、確かに日常生活の中で他人の力を借りることはあるが、完璧な他人など存在しない、それなのに完璧な神を無視して人間を完璧なように見て人間に信頼することは祝福の正反対になってしまうというのです。
そこで神は言われます。人間は人間の心を知ることは出来ないが、私は知ることが出来る、と。10節の原文を直訳すると「私は人間の心の中を探知する主である、人間の奥深い部分もテストする主である」です。神は私たち人間の造り主で髪の毛の数まで知っておられる方なので、探知やテストなど当然出来ます。だからこそ「それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」ことができ、神の下す判断はどんな優秀な裁判官もまねできない絶対正しい判断になるのです。「それぞれの道」の「道」というのは直訳でして、「生き方」という意味があります。神はそれぞれの生き方、業がどんな実を結んだかをことごとく見極めて復活の日に各々の行く先を決められるのです。いろんな生き方、いろんな実がありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きたかどうかが決定打になることは言うまでもありません。
祝福される者が水辺の木に例えられていることについてひと言。この木は、熱波が来ようが来まいが葉は青々とし、干ばつがあろうがなかろうが関係なく実を実らせ続ける木です。そこで、自分は洗礼を受けてイエス様を救い主と信じているのに現実の姿はそんな状態からはほど遠い、私は葉が枯れて実も結ばない木のようで、自分はとても祝福されたなどと思えないと言う人がいるかもしれません。しかし、先ほど申しましたように、今の不運な境遇はこの世の段階で改善される可能性はあります。しかし、改善されたにしろ、されないにしろ不運な境遇、幸運な境遇それ自体が「幸い」ではありません。神が復活させて下さるので、それを信じてその日に向かって進んでいることが幸いなのです。その時、不運な境遇も改善された境遇も陽炎のようになって、それらを透かして見ると、復活の日の栄光の体を纏う自分が見えるのです。それと同じことです。この世では実を結ばない木であろうが結ぶようになった木であろうが、それらを透かして見ると、復活の日に永遠に青葉が茂り実をたわわに結ぶ木のようになった自分が見えるのです。これが復活の視点です。
第一コリント15章は、聖書の中で復活の視点が最も集中的に現れる箇所です。ここで使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返して言います。そこで注意を引くのは、ギリシャ語原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)を用いていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌がれるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形は英語と結構違うので英語のことは忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の復活を繰り返して言う時、過去形(もちろんηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのです。ここが理解の鍵になります。今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書を見て気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですみます)。
ギリシャ語の現在完了形は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているという意味です。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も効力を持って表面に現れているような感じです。パウロがイエス様の復活をこのように現在も続いているように言ったのには二つのことが考えられます。一つは、イエス様が復活されて今も生きておられることを意識したことです。使徒言行録にあるように、復活されたイエス様は40日間弟子たちと共に歩んだ後で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、父なるみ神の右に座して再臨の日まで信仰者を天から守り導き、その日が来たら再臨して眠りについている信仰者を目覚めさせて神の国に迎え入れます。パウロがイエス様の復活を現在も続いているように言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意識したことが考えられます。
もう一つのことが考えられます。これは私たちが復活の視点を持てるかどうかに関わる大事なことです。それは、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、キリスト信仰に生きる私たちみんなの将来の復活を確実にした出来事であるということをパウロは言い表しているのです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、今を生きる私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今も表にあって私たちを引っ張る力であるということです。
そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまってしまうと言っていることに注目します。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪の赦しを頂いた者です。赦しを頂いた後は自分の内に残る罪を自覚して、自覚と告白の度にゴルゴタの十字架のもとに立ち返って神から赦しがあることを確認して頂き、また前に進む、これを繰り返しながら残る罪を圧し潰していきます。もうそれをしなくても済むようになるのが復活です。その日もう自分には圧し潰す罪はありません。神の栄光に輝く復活の体を纏う者に罪などないからです。だから、復活を信じる者の内には罪が残っても罪にはその人が復活に向かう足取りを妨げる力はありません。それで復活を信じる人は内に罪が残っていても罪の中には留っていないのです。
ところが復活を信じない人は様子が違います。その人は罪のない復活の体を目指すことはありません。復活を信じないのですから。そうすると、罪の自覚があっても罪を圧し潰すプロセスが起きません。復活の体を目指さないのですから。それでパウロは復活を信じない人は罪の中に留まると言うのです。罪を圧し潰すプロセスが起きないというのは、罪の赦しの確認が得られず前に進めないということです。そうなると、イエス様の十字架から罪の赦しを得られないことになってしまいます。これは恐るべきことです。十字架を持つキリスト信仰者が復活を信じないばかりに十字架から罪の赦しを得られなくなってしまうのです。この状態は、十字架を持たない非キリスト信仰者よりも悪いと言わざるを得ません。パウロが19節で言うこと、復活を信じない人はキリストに希望を置くと言ってもそれはこの世に関係することに限られてしまい、その人は全ての人間の中で最も惨めだと言うのは誠にその通りです。
最後に20節をみます。キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」になったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げます。それが初穂と呼ばれます。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神への捧げものの意味もありますが、穀物だけではありません。動物もあります。それで「初穂」という訳は狭すぎます。ところで、イエス様は十字架の上で私たちのために私たちの罪を償って私たちを罪から贖い出すための犠牲となって神に捧げらました。まさに神への捧げものです。しかし、捧げものを意味する「初穂」という言葉を用いると、それと眠りについた人たちがどう関係するのかがはっきりしません。
そこで、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあることに注目します。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになります。罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。それで「初穂」を捧げものでなく先駆者の意味で捉えると復活を詩のように描写することが出来ます。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。(今は冬ですが)秋の澄み渡った空の下、一番最初に穂になったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。兄弟姉妹の皆さん、復活の視点と言われてピンと来なくなったら、この秋の田園風景を思い描いて下さい。
主日礼拝説教 2022年2月6日顕現節第五主日
説教をYouTubeで見る。
本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていくところです。これと同じ出来事がマルコ福音書とマタイ福音書では違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。ペトロと兄弟のアンデレが魚を捕っていた時にイエス様が声をかけて従って行った、その後すぐヤコブとヨハネも続いて行った、と簡潔です。4人の漁師がイエス様につき従っていくきっかけに大量の魚がかかったことがあるのはルカだけです。どうしてそういう違いがでたのでしょうか?マルコとマタイが福音書を書いた時、把握していたのは4人がイエス様につき従ったという結果だけだった、ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということでしょう。いずれにしても3つの福音書はみな、人間を捕る漁師にするというイエス様の言葉と4人が生業を捨てて付き従ったということは一緒です。
「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。しかし、ペトロや他の弟子たちは実際そういう勧誘員だったでしょうか?イエス様が言う「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。
3つの福音書では、ペトロたちが「人間を捕る漁師になる」と言われてイエス様につき従っていきますが、ルカ福音書ではまず大量の魚の奇跡があって、ペトロの罪の告白とイエス様のこの言葉が続いて、それからつき従うという流れです。それでこの奇跡について少し考えてみます。
舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかりました。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?
イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。
岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。
ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。しかし、この方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方なのだ。それでペトロは、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。。
半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の魚の量で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは恐れを抱いて叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。
それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。
本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内に神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んでしまったのです。
ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう炎の力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。
このように、人間が真の神を間近に見た場合、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。それで、神を間近に見てしまった時、自分を神の意思に照らし合わせて見る人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせなんかしない人は恐れなど抱きません。こういうことを言うと、私は恐れなんか抱いて生きるのは嫌だから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。
しかしながら、キリスト信仰は神への恐れで終わりません。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくるのです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。まだピンとこないでしょうか?それなら、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰だと言うことができます。そのような信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいゲームに付き合ってられないと言って離脱するか、どちらかです。しかし、キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだ、とわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。
罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に落ちてしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。それでは、ペトロや弟子たちがどのようにしてそうしたかを見てみましょう。
イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員みたいに人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身ではなかったでしょうか?弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られて、活動内容も神の国が近づいたと告げることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちに伝道された町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったのではないかと思われます。
ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づけばあの方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子と信じる人たちがどんどん出てきました。彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。
こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったということが言えます。そしてイエス様が天の父なるみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。それをユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。そういう、人々に伝えないではいられないという駆り立てられるような思いを持つのが「人間を捕る漁師」なのでしょう。
権力者に脅されても使徒たちが怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのになかったなどとても言えない、真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけでは、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を強固なものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関係する真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚があると、神に関係する真実は取り下げられないのです。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかに自分はならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを手放すようなことはしたくない、そういう心になるのです。家族を路頭に、というのは痛いところを突かれることですが、でもルターの讃美歌に「わが命も、わが妻子も取らばとりね、神の国はなおわれのものぞ」と歌われているように、そこに行きついてしまうのです。
神に関係する真実を曲げない引き下げないという生き方になると、今度は神に関係しない日常的な真実に関しても責任感が強くなります。というのは、神に関係する真実を守ろうという生き方になると、神の意思である十戒が心に刻み付けられるからです。その中に「汝、偽証するなかれ」があります。これも神の意思として心に刻み付けられます。それで日常的な真実に関しても責任感が強くなるのです。私たちの日本も創造主の神の意思に照らして襟を正すようにならないと、情けない忖度と改ざんはいつまでも繰り返されるでしょう。
使徒たちが曲げられない引き下げられないとした神に関係する真実とは何だったでしょうか?それは以下のことです。あの十字架にかけられて死なれた方は三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たのだ。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだ。復活は起こるということをあの方自らも教えていたではないか。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかった。自分たちもこの世からの死で全てが終了してしまうのではない。将来、復活の日に一緒に復活させられて一緒に神の御許に迎え入れられるのだ。ここに我々キリスト信仰者の希望がある。それでは、どうしたら自分たちは復活させてもらえるのか?それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする罪の問題をあの方が私たちに代わって解決して下さったことによる。あの方の痛ましい十字架の死は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の生贄の死であったのだ。神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さった。そしてそのことは旧約聖書に預言されていて、それがゴルゴタの丘の十字架で歴史の中で成就したのだ。
創造主の神は私たち人間が罪のために神のもとに戻れなくなってしまった状態を解消するために、ひとり子を贈って私たちの力では出来ないことを代わりに成し遂げて下さった。あとは、これらのことは全て本当に現実に起こったと受け入れる。そしてそれらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神を慈愛に満ちた造り主であると信じ、神罰を受けて下さったひとり子イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、神がひとり子を用いて成就した罪の償いと罪からの贖いがそのまま自分に効力を発する。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。これからも明らかなように、神は復活の日に私たちを御国に迎え入れることを信仰と洗礼の目的に定めている。それなので、私たちがその道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さる。
時として、私たちの目は私たちの内にある罪に向く。罪から贖われた私たちに対して罪はもはや私たちを支配したり死に繋ぎとめる力を失っている。それにもかかわらず罪自体は消えず、隙を狙っては神との結びつきのない状態に引き戻そうとする。しかし、信仰の目を持つ信仰者はすぐ目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪はあそこで償われたので今、内にある罪は自分を死に繋ぎとめる力はないとわかり、感謝と畏れ多い気持ちを持って再び復活に至る道を進む。その時、私たちをこのように愛してくれる神を自分も愛そうという心を新たにする。神がそのように愛してくれる以上は私たちも隣人に対して同じようにしようという心を新たにする。この繰り返しがこの世から別れる時までずっと続く。
新しい世が到来して私たちが神の御前に立たされる時、神は私たちが前の世で罪の赦しに留まってひとり子の死を無駄にしないように生きていたことを義と見て下さいます。そして、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せて御国に永遠に迎え入れて下さいます。それなので私たちもこの世から別れる時は、このようになるのだという使徒たちの教えと証言を思い出して安心して神を信頼して自分の全てを神に委ねて旅立つことができます。このように死を超える安心と信頼があるので、罪の自覚と神への恐れはいつも神への愛と生きる希望に転化します。そして、死から復活されたイエス様は旧約に約束されたメシア救世主であるという真実はもう曲げられないのです。
主日礼拝説教 2022年1月30日顕現節第四主日
本日の説教は先週の続きです。福音書の個所は、イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当した時の出来事でした。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という42章7節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること。その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと。そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと。これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。
とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。旧約聖書に見えない人の目が見えるようになると言われているのは信仰の目のことですが、イエス様は肉眼の目を開けることで、人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。
このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。これから続きを見ていきましょう。何が起きたでしょうか?
朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。席というのは説教者の座る所です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後にイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。
ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。会衆はイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。
イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、彼らが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということです。さらに、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないとイエス様は見破ります。
しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った北王国と同じ立場にある、というのです。
これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。
イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同6章26節)。
信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理であると信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。
それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰として滅亡した王国と同一視するとは何事か、といきり立ってしまったのです。
以上から明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。
しかしながら、父なるみ神は、人間がこの世の人生を終えることになっても、復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてその前のこの世の人生の段階では復活に至る道を守りのうちに歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、罪の神罰を全て彼に身代わりに受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたのです。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。
ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神を恐れたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを全く意に介せず、内なる罪を透かすようにして目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れどす黒い声は止み、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄んでいて冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。
以上、信仰の目を持つと自分の罪を見ることができるようになるが、それが出来るから逆に神の意思に沿うように生きようという心が強まっていくことを見ました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われているので、終わりにそのことを見ておこうと思います。
第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?
ここで、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、というのはどういうことか見てみましょう。「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(παντα)は「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すできでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。
愛とはそのようなものだと述べた後でパウロは、8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって死者の復活が起こり、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうと言うのです。
ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだったからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、自分も神と同じように愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ。これら全てをかの日には持てているのです。かつてはこれらはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。
かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことでしょうか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。
ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。
「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、この私も将来復活の日の神の御国で自分が愛を体現していることをはっきり知るようになる。」
これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。
「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは本当に前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」
そこで神は答えられます。
「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を纏った。それからはそれを取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前の内なる罪は純白の衣を被せられて日々圧搾され力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを救い主と信じる信仰に生き、聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者であると前の世で知っていた、と言ったのだ。」
パウロはフィリピ1章6節で次にように述べています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」
兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!
後注(ギリシャ語がわかる人にです)
・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。
・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。
今年最初のスオミ教会・家庭料理クラブは1月22日に開催されました。今回はフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に作るのはピーラッカの生地。生地は材料を混ぜるだけで出来上がりです。生地をピーラッカの分量に分けて一個一個を綿棒で薄く伸ばします。その次は丸くて薄い生地の上にお米のお粥をのせます。お粥を平らに広げて周りのピーラッカの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。きれいな形のピーラッカを作るのは簡単ではありませんが、皆さんとても上手でした。ピーラッカを鉄板に並べてオーブンに入れて焼ます。焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたバターを塗ってピーラッカは出来上がりです。
参加者の皆さんのお皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きました。最後にカルヤラン・ピーラッカと旧約聖書のエレミヤ書の陶工のお話を聞きました。
今年最初の料理クラブはコロナ感染拡大の中、いろいろ注意をしながら開催しました。無事に開催できたことを感謝しています。今後の料理クラブは感染状況がもう少し良くなったら開催した方が良いのではと考えているところです。決まりましたら、教会のホームページに’案内をのせますのでご覧ください。
それでは、皆さん注意してお過ごし下さい。
カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まった食べ物です。第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られたので、そこに住んでいた人々は自分の故郷を去らなければならなくなり、フィンランドの各地に移住しました。それで、カルヤラン・ピーラッカはカルヤラの人々を通してフィンランド全国に広がりました。フィンランド人は最初、カルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。というのは、彼らはパンとおかゆは別々に食べるものと考えていたので、カルヤラン・ピーラッカのように二つを一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。それでも、フィンランド人もだんだん食べるようになって、いつの間にか全国に広がって行きました。そして、かつてはカルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとっても伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。カルヤラン・ピーラッカは、普段の日にも、お祝いの時にも出されます。また、フィンランドのどの食料品店でもカフェでも買うことができます。
昔は、カルヤラン・ピーラッカは店で買うものではなく、家で作るものでした。家によっては、作る曜日も決まっていました。その日には、薪であたためた大きなオーブンで沢山作りました。薪であたためるオーブンはとても熱くなるので、カルヤラン・ピーラッカは早く焼けて美味しいものが出来ました。
カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、普通の家庭料理で使われるものばかりです。パンを作る時に使うライ麦粉で皮を作ります。皮の中にいれるのは米のお粥ですが、フィンランドでは昔から、お米はお粥にして食べていました。こうして、カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、戦争の後、食糧が不足していた時でもほとんどの家にありました。このように特別な材料ではなく、どの家にもある材料で美味しい新しい食べ物が作られるようになったのです。
私の実家はフィンランドの西の地方にありますが、母はカルヤラン・ピーラッカが好きでよく作りました。母は子供たちにピーラッカの作り方を教えましたが、なかなか思うように作れませんでした。しかし諦めないでひとつ作って、もしかしたら次のものはもっときれいに出来ると思って沢山練習しました。
カルヤラン・ピーラッカを作る技能は世代から世代へ伝わって行きます。普通はお祖母さんやお母さんから子どもに伝わっていきますが、今は家でピーラッカを作る人は少なくなったので、ピーラッカを作るコースが開かれて、そこで作り方が教えられます。
カルヤラン・ピーラッカを作るときの難しいことは、皮になる生地を伸ばすことと、中身の回りに皮をしめていくことです。カルヤラ地方出身の人たちは、カルヤラン・ピーラッカを作るのがとても上手です。フィンランドでは、毎年夏になるといろいろなお祭りやイベントが開催されますが、カルヤラン・ピーラッカを上手に作る競争もあります。そこでは、誰が一番早く、形がきれいなカルヤラン・ピーラッカを作れるかが競われます。いつもカルヤラ地方出身の人が優勝します。カルヤラ地方の人たちにとって、きれいな形のピーラッカが出来るのは当たりまえのことなのです。他の地方のフィンランド人はなかなか同じように作れませんが、練習すれば上手になります。
私は、カルヤラン・ピーラッカをきれいな形に作ることに関係して、ある旧約聖書の話を思い出しました。それはエレミヤ章18章の初めにある出来事です。「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下っていけ。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう。』私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」エレミヤ書18章1-4節です。
この場面で、神様は預言者エレミヤに陶工の家に行くように命じて、そこで器を作る陶工の働きを見せます。エレミヤは陶工の働きで神様が教えようとしていること、陶工は神様を、粘土は人間を意味していると分かりました。
この場面は私たちにどんなことを語っているでしょうか?私たち一人一人は天と地と人間を造られた神様の御手で造られました。神様は私たち一人一人に命と人生を与えてくださいました。神様は陶工が器を作るように私たち人間一人一人をお造りになるのです。エレミヤ書にある陶工は粘土をろくろで回しながら、だんだん器の形にしていきます。粘土が器の形になって静かになると陶工はホッとします。ところがどうでしょうか。先ほど読んだエレミヤ書にはこう書かれていました。「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」と書いてあります。器は陶工の思うようなものにならなかったので、粘土をもう一度ロールして器の形を新しく作り変えたのです。
神様は私たちに同じことをなさいます。神様は私たちを新しい素晴らしいものに作り変えて下さるのです。もし、神様の作り変えが私たちの望むようなものでなければ、私たちは不満や疑問が起きてくるかもしれません。しかし、神様はひとり子のイエス様を私たちに贈られたくらいに私たちのことを愛して下さった方です。そのことがわかれば、神様が私たちに良いことを考えて下さっていると信頼して、神様が導いて下さる道を進んで行けます。神様が導いてくださる道では喜びだけでなく、悩みや悲しみに出会うかもしれません。しかし、神様を信頼して行けば、私たちは後で振り返ってみて神様の素晴らしい働きと導きがあったと知ることが出来るのです。その時、悩みと悲しみを超える喜びがあります。その時私たちの心は神様に対して感謝で満たされます。その時私たちは新しい器に作り変えられていることに気づくのです。皆さん、陶工である神様の御手に全てのことを委ねましょう。「しかし主よ、あなたは我らの父。私は粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。」イザヤ64章7節です。