お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
「神学部時代の思い出」をご覧ください。
聖霊降臨後第10主日(スオミ教会 3) 2019年8月18日
エレミヤ23:23~29、ヘブライ12:1~13、ルカ12:49~53
説教「真の平和をもたらすために」
序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!
1今日の福音書の日課の見出しは「分裂をもたらす」である。また日課の冒頭の主の言葉は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」で、さらに
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」である。
これは実に衝撃的な言葉である!異常さをさえ覚える言葉である。
今日、8月半ばの日曜日、「平和を考える主日」としてふさわしい日である。
8月に入ってから、TVやラジオで「戦争と平和」を特集し、報道している。
「真の平和が、祝福がもたらされ、実現するために
、主なる神さまのみ心と
お導きが、いかに深いものであるかが、ここに内包されている、と私は思う。
ここで主イエスは先ず、「火を投ずるために来た」と言われる。
旧約聖書から学ぶことが出来るのは、「火は聖なるもの
である。
(1)先ず「火は神ご自身の臨在を示すもの
◎モーセの召命の出来事において、ご自身を現された。
「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。・・神は言われた
わたしはあなたの神である。・・・わたしはあなたと共にいる」と。
(出3:2~12)
◎神の民の出エジプトの荒れ野で、夜は火をもって神の民を導いた。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
(出13:21~22)
◎シナイ山頂で神の民に十戒を与える時、神は火の中から語りかけた。
「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。・・・
それが十戒である。 (民4:12、出19:18)
1
(2)続いて、「火は神の裁きの力」を示すものであった。
◎主なる神に背いた退廃の町ソドムとゴモラは火をもって滅ぼされた。
「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
(創19:24~25)
◎詩編からダビデの詠んだ歌にもある。
「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。
(詩11:6~7)
◎イザヤの裁きの預言にも、火の裁きが語られる。
「万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ、民は火の燃えくさのようになり、だれもその兄弟を容赦しない。
(イザヤ9:18)
2 今日、主イエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と言われる。
「その火が既に燃えていたら」とは、極めて終末的な表現である!
<私はここで主の道を備えた洗礼者ヨハネの言葉を想起する>
荒れ野に出てきた群衆にヨハネは語る、「蝮の子らよ!斧は既に木の根元に置
かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節)と。
この火は、今日の主イエス・キリストの言葉の文脈から言えば、それは
“裁き”であり、また同時に“清め”の言葉である。
裁きというのは、言うまでもなく「罪の裁き、断罪
洗礼者ヨハネの言葉から学ぶことができる。洗礼者ヨハネは、周知のように主イエス・キリストの道を備える者、先駆者として来た、すでに預言者イザ
そのヨハネが語った。
2
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという 考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節、10節)
主イエスも、宣教活動開始直後から神の民イスラエルの不信に対して、厳し
い裁きの言葉を語られたのである。(ルカ4章25節以降参照)。
このように洗礼者ヨハネも、主イエスも、神の民の不信、人間の罪ある現実
をするどく指摘し、悔い改めを促した。この信仰に生きる姿勢は宗教改革者
ルターにも受け継がれている。宗教改革の発端となった「95か条の提題」
第1条には語られている。「私たちの主イエス・キリストは、キリスト者の
全生涯は悔い改めであることを欲したもう」とある!
清めというのは、「罪からの清めであり、そこには希望
がある。
洗礼者ヨハネは、裁きと同時に、悔い改めの勧めと、救いの道を備えた。
それは主イエスによる洗礼である。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼
を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 (ルカ3章16節参照)。
主イエスは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられた。そして私たちにも
主イエスにより洗礼の恵みが与えられるのである!ここに希望がある。
裁きと清め、終末の裁き、それは「十字架と復活、命の源」である。
飛躍した表現を取れば、これは決定的な神さまの救いのみ業である。
主は言われた『わたしには受けねばならない洗礼がある』(ルカ12:50)と。
これは救いを実現するために、主の苦難、十字架が必要であったのである。
主イエスは言われた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、(十字架に)
殺され、三日の後に復活する」(マルコ8章31節、マタイ16章21節、
ルカ9章22節)と。この十字架と復活にこそ、救いと命の源がある。
3
3 今日の主題「平和」について、使徒書ヘブライ人への手紙から学ぶ。
日常生活体おいて、信仰による個人の成長が求められている!
<ヘブライ12章11節>「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
今日の使徒書であるヘブライ12章の日課は「主による鍛錬」とある。
◎先ず、ヨブを想起する。5章17節~18節
「見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。
続いて、申命記律法の言葉がある。8章5節
「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
人との平和である!家庭の、日本の、世界の平和が求められている!
<へブライ12章14節>「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
=使徒パウロの言葉を想起する。ロマ5章3節~5節
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖 霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
4 最近のホスピスでの出来事:Sさんの牛込の家は、第二次世界大戦の東京大空襲で牛込の家は全焼した。彼女は小学生でその時、学童疎開で茨城の親戚の家にいて無事であった。1年後、戦地で大きな負傷をした父親がよれよれになって帰ってきた。それまで家族は、バラバラであったが、牛込の土地に穴を掘り、土塀を作り、トタンで屋根を葺いて、生活を始めた。当時彼女は教会学校へ行きだした。それから70年数後、Sさんはホスピスにいた。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませ
てあげよう。」(マタイ11章28節)のコピーを手に持って、「神さまのお
与えくださる平安は最高!」と言って、最後の時を迎えたのである。
4
コリント信徒への手紙 10章1~5節 2019年 8月11日
先週に続いて、コリント信徒への手紙を見ていきます。
今日は10章1節からです。今回のテーマは、7節で言っていますように「偶像を、礼拝してはいけない」ということです。
パウロが伝道しました時代、コリント地方はいろんな宗教があって、人々の心は混乱していたでしょう。パウロが、あれ程、心血注いで、キリストにある信仰を宣べ伝えた教会の中にも、いわゆる偶像の問題が起って、パウロはこれに対して、だまっておれない、どうしても、しっかりと、コリントの教会の人々に信仰に目覚めて欲しい。
手紙の中で、こうして10章にいたって、書かざるを得ない気持で記しているのであります。
6節「彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために。」
又、8節には「彼らの中の、ある者がしたように、みだらなことをしないように。」
みだらなことをしていた者に対して、神は、ようしゃなく神の罰を与えられた。一日で、みだらなことをした者2万3千人倒れて死にました。キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて、滅びました。不平を言った者も滅ぼされました。こうしたことを面々と書いて、10章での結論は、11節です。「これらの事は前例として、彼らに起ったのです。それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している、わたしたちに、警告するためなのです。それで14節に書きそえています。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」と、パウロは万感の思いをこめて、筆をとったのです。
さて、以上のことを書いて、読んだだけで、コリントの教会の人々の中の偶像に心みだれている者が、新しく、変るでしょうか。
パウロは、10章の冒頭に、突然、モーセの話を、出してきたのであります。
これまた、おどろきでありますね。
パウロの持ち味の、自由奔放な、広い信仰の中から、力強く、美しい言葉をつらねて書いています。
1節、「兄弟たち、次の事は、ぜひ知って欲しい。」とこう言う。イスラエルの民が、モーセによって導かれ、エジプトを脱出し、長い旅をしていくのであります。壮大なこの出来事を出していきます。<出エジプト記32章にある話であります。>
モーセが、シナイ山で、神から十戒を受けていました時、その帰りが遅いので、イスラエルの民は、モーセの兄、アロンに、自分たちのために、神を造ってくれと迫りました。アロンは、みんなに、金等を持ってこさせ、それをとかして、金で偶像を造って、拝ませたのであります。<全く、おどろくべき話です。>
一方で、モーセが神に会っている、最も尊い、聖なる瞬間に、もう一方では、山のふもとで、イスラエルの民は、もう、長い旅に疲れはてた。そうして、自分たちの偶像を造って、拝むという事が、起っていきます。実に、人間の愚かさを示しています。
人間が、神がなくては、生きていくことができない、ということであります。今の今まで、モーセが、神のみを頼り、導かれて、長い旅をしている最中です。モーセによって、神を拝む生活をしていながら、モーセが見えなくなると、すぐに偶像を造ったのです。人間が拝むものなしには、生きられないものである事を、よく表しています。
私たちは、自分たちが、そんなにやすやすと、偶像礼拝するような人間であると思っていないはずでしょうが、そう思いながら、あらゆる事で偶像を造らなければ、生きることができないのであります。
偶像と言っても、そんなことはない、と思うかも知れませんが、これこそ頼りにすべきもの、偶像に似たものはいくらでもあるのではないでしょうか。神以外に、これがなければ生きられないものをさしているでしょう。
14節、パウロは、こん身をこめて、言っています。それだから「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」
しかも、ここには、奇妙なことが書いてあります。
それは、何の前触れもなしに、洗礼と聖餐のことが書いてあることであります。
洗礼と聖餐をもって表されるものは、言うまでもなく、教会生活であります。
それならば、どうしてパウロは、偶像礼拝の問題と、洗礼と聖餐とをもって表される教会に於ける礼拝生活とを比べて、語ろうとしているのでしょうか。
ここには、教会という字は出てきませんが、それが、教会であることは、明らかなことです。
その教会の中心的なことが、礼拝であることもよくわかります。そうであれば、パウロが偶像礼拝について、きびしく戒めようとした事が、一層はっきりするのではないでしょうか。
しかし、この事を語るのに、パウロは、イスラエルと教会との関係を、いきなり語るのです。
教会は、イスラエルから出たものであり、又、新しいイスラエルなのであります。そのことを言うのに、洗礼と聖餐のことを述べようとするのであります。
教会は、新しいイスラエルである、と言う代わりに、洗礼と聖餐とが、イスラエルの経験した事と、どのように関係しているのかを告げるのであります。
イスラエルの最大の経験は、エジプトにおける奴隷状態から、救い出されたことでありました。
旧約聖書は、ことある毎に、この神の救いの出来事を語るのであります。神もまた、ご自分をあらわすのに、自分は、お前たちを、エジプトから救い出したものである、と言われるのです。それ故に、イスラエルにとって、最も重要なことの1つは、エジプトから出る時、紅海で海を渡ったことでありました。海が二つに分かれて、彼らが、陸地を通るようにして、海を越えることができたことであります。しかし、そのことを、パウロは、モーセが海の中でバプテスマを受けたのである、と、説明するのであります。それならば、モーセをはじめ、イスラエルの民は、紅海の中で、これを渡ることによって、洗礼を受けたのであって、教会が行う洗礼は、そのことをモデルにしたものである、と言うのであります。
このような導きは、言うまでもなく、神によるものであります。神は昼は雲の柱、夜は、火の柱をもって、ご自分の、ご臨在を示されました。ここに、2節のところで、雲の中、海の中と言われているように、雲のことが言われているのは、そのためであります。出エジプト記13章21節に記されています。
ところで、海の中を通ったイスラエルは、霊の食物を食べ、霊の飲み物を飲んだのであります。
旧約聖書は、神がマナを降らせ、うずらを与えて、イスラエルを養われたことを、記しております。
しかし、ここに書かれているのは、彼らが飲んだ水のことであります。荒野の長い旅の中で、彼らの生命の源となったものが水であったことは、言うまでもありません。その水を得ることが困難であったところから、かえって、更に難しい方法で、水が与えられることが信じられるようになりました。それは、岩から水が出る、という事であります。
モーセが手を上げ、杖で二度打つと、岩から水がわき出したので、会衆と家畜とが、共に、それを飲んだのであります。民数記20章11節に記してあります。
その事から、やがて、その岩からはじまって、彼らは、いつでも水が飲めるようになった、ということです。
それが、ここに、パウロが書いている事であります。
この水は、どんな時にも、どこででも、彼らが飲むことのできるもであって、もし、それを今の信仰生活にあてはめて言えば、この岩は、キリストにあたるわけではないか、と言うのです。
この水が聖餐であるとは、書いてありませんが、しかし、イスラエルに、このような命を与えたものを、もし私たちの信仰生活に、あてはめて言えば、それは、聖餐にあたる、と言ってもいいのであります。
まことのイスラエルとは、まことの神の民、神を拝むことを知っており、偶像を拝まない、イスラエルと言わねばなりません。
神の約束を信じて、新しく出発した民でありましたが、その多くの者は、神をあなどったために滅びてしまいました。これらのことについては民数記14章にあります。
そこには、この民が、神に背き、神の怒りをひき起したことを述べ、それに対して、モーセがどんなに神にゆるしを求めたか、が記してあります。
イスラエルの人々は、少しつらいことがあると、「ああ、私たちは、エジプトの国で、死んでいたらよかったのに」と騒ぎ立ちました。又、わざわざこの荒野に来て苦しい目にあうぐらいならエジプトで奴隷のままで死ねばよかった、」と言うのです。
このことは、信仰生活をする者に、しばしば、おそってくる誘惑ではないでしょうか。
そういう不安や、つぶやきが、ただ、自分の気持ちをぶちまけているにすぎないのです。それが神に対する不平であるとは思わない愚かさがあります。
神様は、これに対して、「わたしが、もろもろのしるしを、彼らのうちに行ったのに、彼らは、いつまでも私を信じないのか」と仰せになりました。 民数記14章11節に記してあります。
信仰生活とはどんなものか。それは信仰をもって見るほかありません。神のなさることが気に入らないと、その神からのしるしが見えないのであります。モーセは、そのことがわかっておりました。彼は熱心に、その民のために神にとりなしたのであります。
私たちが信じている神の恵みは、神のさばきを乗り越えたものである、という事であります。
それゆえにこそ、たしかな恵みである、ということが言えるのです。
私たちに与えられている救いは、確かなものであります。
パウロはだから、モーセのひきいた出エジプトの出来事を見よ、と叫びたいのであります。
偶像礼拝の誘惑に人間がいかに弱いかを、パウロは、この話を持ち出したのであります。
パウロは警告するのです。
偶像礼拝を避けなさい、と。 <アーメン>
早稲田の新会堂の近況です。近況と言っても先週の水曜日でしたので現在はガラスなども入り更に進んでいると思います。エアコンも決まり月末の竣工に向けて休み明けから一気に進むはずです。
コリント信徒への手紙 第1 9章8~12章
2019年8月4日(日)
私の説教では、コリント信徒への手紙を学んでまいりました。
今日は9章8~12節までです。
今回のテーマは、「働いたら、報酬を受けるのは、当然ではないか」ということです。
パウロは、この事を、モーセの律法のことを引き合いに出してまで言っています。
8~9節を見ますと、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。」 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。この事は私たち人間のためにも言われていることではないか、と言って、耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が、分け前にあずかる事を期待して働くのは、当然です。ましてや、このことは、神様のために働いている、伝道する者についても、言われているのではないでしょうか。
パウロが、この報酬のことについて、これまで、どうしても言っておかねばならない、と思ったからでしょう。
実は、コリントの教会内で、パウロへ批判の言葉をいろいろ言う者がいて、「パウロは、報酬のために伝道していたのではないか」というふうな、悪口として言われていたらしいのです。
パウロはこれに大変憤慨して言っていくのです。「人が働いたら報酬を受けても当然である。」
けれども、パウロは言う。「報酬のために伝道している人はいないのだ。」
パウロ自身は報酬を受けてはおりませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために弁明しているわけであります。
パウロの本心は、「福音を宣べ伝える、ということは、どういうことか」ということを教えようとするのです。そうしながら、福音の性質を示したいのであります。
大部分の伝道者は教会から、報酬を受けているかも知れません。
しかし、報酬のために、伝道している人はいないのです。
福音というのは、神の恵みによって、救われる事であります。それならば、伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもありましょうし、正しく知らせることも、できるでありましょう。
パウロは、そのためにこれを書いているのであります。
人は、どんな事についても、報酬を求めるものではないでしょうか。
パウロはすでに9章7節で、パウロ流の例を次々と上げています。
自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。軍隊に加わるとは命を投げ出していくことでしょう。
ぶどう畑に行く者は、その実を食べることではないでしょうか。
羊を飼えば、羊の 乳を飲むことでしょう。
そして更に、モーセの律法のことを引き合いに出しました。
モーセの時代だけの事でなく、このことは、自分たち伝道する者についても、言われていることではないでしょうか。
自分たちが、霊のものを与えたならば、肉のものを返礼として返すのが、あたり前のことではないでしょうか。
実はその事こそ、もっと大切なことであるはずです。
しかし、それならば、そういう報酬を求めて、働いているのでしょうか。
断じて違う、とパウロは叫びたいのです。伝道者もほかの商売と同じことをしようとしているのでしょうか。
断じてちがうのだ。
信仰のある者は、当然、自分の力で得たものすら、神の恵みとして受けとるのではないでしょうか。
それどころか、報酬を受けるこの体、この心も、神から与えられたものであるはずであります。
それならば、ここに、人間の権利のように書かれている事は、実は、神のご配慮を語っているのです。
穀物をこなして働いている牛は、権利の事など、考えていないはずです。
それは、神が、その事をお望みになるのであります。
それなら、神のお望みにあるのと、人間とを、同じように扱う事は、できないはずであります。
つまり、もう、神の霊の世界の事柄です。
人間には、そのような権利が与えられているように見えます。人が働いた分、報酬を受けてもいい権利がある。
そのように言えるでしょうが、実は、それも神から与えられているにすぎません。
ですから、人間は、そういう要求めいたものを持ちながら、無償の働きを尊いものとするのではないでしょうか。何も要求せずに、人のため、働く事こそ望ましいと、考えるのではないでしょうか。実にりっぱなことです。
しかし、現実には、例えば教会の牧師は、無償の働きで、何も食べずには、生きていけません。
パウロは1人身で伝道しました。それに、自分で食う分は、自分で他に働いて生活して、その上、伝道していきました。
教会の牧師の中には、独身者ばかりではありません。
教会のほとんどの牧師は、牧師夫人と2~3人位の子供、といった、家族を養っていかねばならない。食べるだけの牧師の給料では、子供の教育、教養、文化的な生活は、ほとんどできません。
現実の教会の牧師給の一覧表を見たら、とてもなげかわしい、きびしいものです。
パウロは申します。
人が働いた分の報酬は当然受けるものである。
伝道者は、報酬を得ようと、福音の伝道のために働いているのではない。
ただただ、主に召されて、すべてを神様の恵みのうちに、ゆだねきって、生かされていくのであります。主が共にいて下さる希望があるのです。
<アーメン・ハレルヤ>
この教会に来始めたころからこの窓際の席が気に入り以来たびたびここに座っていました。ある日いつものように空を見ていたら空の色が紺碧に見えていました、こんな色の空は3000m級の山でしか見られないと思っていましたので内心驚きでした。しかしその後二度と見ることはありません。来月からは新教会に移動ですこの窓からの景色も二度と見ることがないでしょう、残念!
聖霊降臨後第7主日(スオミ教会 2) 2019年7月28日
創世記18:1~14、コロサイ1:21~29、ルカ10:38~42
説教「神に聴き続ける」
田中 良浩
序 父なる神とみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!
1 私たちが毎週、用いている聖書日課は、ご存じのように3年周期のABCと呼ばれる
聖書日課をもっている。ご存じのようにAでは主としてマタイによる福音書を用い、
Bでは主としてマルコによる福音書、そしてCではルカによる福音書が用いられる。
ヨハネ福音書はA、B、そしてCに分散して用いられている。
これらの聖書日課によれば、いずれも前半の暦、大体一年の半分は「キリストの出来事」(待降節、降誕節、顕現節、四旬節、そして復活節)である。ここで私たちはこの日課を 通して、主イエス・キリストによる救いと恵みの出来事を学ぶのである。
続いてその後の暦、一年の後半は、聖霊降臨の出来事、つまり教会の誕生以降、「教会とは何か、そこでの教会生活、信仰生活とは何か
を学ぶのである。言い換えれば、
神の救いと恵みの中で、私たちは「如何に生きるか?」を学ぶのである。
ちなみに今日の詩編15編は冒頭で語っている。
「どのような人が、神の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか?」と。
つまり、ここに語られている「神の幕屋」とは何か?
◎それは神の家つまり、神の教会、キリストの教会であり、私たちの教会である。
◎使徒パウロによれば、私たちは「神の宮」であるから、私たち自身そのものを意味している。そこで私たちが「日々、如何に信仰に生きるか?
ということである。
2 私たちの家庭では、十数年来、全ルーテル教会共同で発行している「聖書日課」を用い
て毎朝、夫婦で礼拝をしている。私たち夫婦の場合には、家内が当日の聖書を読み、私が
聖書日課の黙想を読んで、お祈りをしている。またその聖書日課には、その編集委員会が
選んだ教会名が記されていて、祈りの対象として選ばれている。
◎このことはこの聖書日課を通して、主のみ言葉に聴き、祈ることができるからである。
◎同時に、記されている教会の宣教のために祈る機会が与えられている。―それがたと
え、知らない教会であっても―その教会のために祈ることは大切である。
ちなみに、先々週、7月16日(火)は、
聖 書 = コヘレト12章 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を止めよ。」
教 会 = このスオミ教会であった!
3 今日は、使徒パウロの教えに耳を傾けたい。
コロサイ1章21節~22節には、このように記されている。
「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と。
そしてパウロは続いて言います、「(あなたがたは)揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と力強く教えます。
使徒パウロは、コロサイにある小さな群れに、獄中から手紙を書き送った。
コロサイ地方はAD60年頃の大地震により、大きな被害を受けた。周辺の諸都市の
復興は早かったが、コロサイは発展、繁栄からは取り残された小さな都市であった。
その地域にあるコロサイ教会は、決して大きな群れではなかったであろう。
地震からおよそ20年後、その小さな群れを励ますために書き送られた手紙であろう。それゆえ、1章冒頭、まず「信仰、愛、希望」という言葉が記される。
こうした混乱と閉塞感のただよう状況下で初代教会特有の異端の教えであるグノーシス(哲学者プラトンの影響を受けた霊肉二元論等の教え)や宗教的なタブーや迷信、また哲学的な教えに取り囲まれていた。こういう社会的な状況、宗教的な潮流の中にいる群れに、使徒パウロは信仰的に元気を回復し、励ますように「信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れてはならない」と強く語るのである。
さらに積極的に「神の秘められた計画」―異邦人伝道―についての言及もある。
この言葉には大きな意図と、使徒パウロの計り知れない希望が込められている。
現代社会に生きている私たちの教会の現状は、2000年後であっても、同じである!いやむしろさらに悪化していると言えるであろう。
また、このスオミ教会も決して大きな群れではない。むしろ大きな世界都市東京の小さな群れである。この群れが、新たな宣教、伝道と牧会のために、早稲田へと旅立とうとしている。そのために、しっかりと、み言葉に立つ必要があるのである。
<ルーテル教会は伝統的に、そして現在も“みことばに立つ教会”だからである。>
4 さて、今日の福音書は有名な、「マルタとマリア
の物語である。
◎福音書記者ルカの記す、主イエスの伝道の時間的、地理的な経過を見ると、その足跡は現代に生きている私たちからすれば、遠くて想像を絶する。
ガリラヤの湖に近い町々で、神の国を宣べ伝え、弟子たちとフィリポ・カイザリアへ
行き、そこで弟子のペトロが「あなたこそ生ける神の子、キリストです」との信仰告白をした。(ちなみにガリラヤからフィリポ・カイザリアの距離は50キロ~60キロ以上)。
再びガリラヤに戻り、主はご自身、受難と復活の予告をされたのである。
そこからサマリアを経て、エルサレム近くまで来られたのである。そして弟子たちをさらに72人を町々、村々に派遣し、弟子たちと共に伝道を日々を過ごした。
(ガリラヤの湖周辺からエルサレムまで直線距離は170キロ、歩く行程では200キロ)
主イエスと弟子たちは、心身ともに疲労は頂点に達していたに違いない。
◎主イエスが入られたのは、エルサレム近郊のべたニアという村であった。
そこにはマルタ、マリア、そしてラザロのイエスを愛する兄弟たちが住んでいた。
◎姉のマルタは、宣教のために疲れも極度に達していた主イエスと弟子たちのために
できる限りの食ベ物をもって、一行に奉仕しようとした。それがマルタの出来る
最善の奉仕であった。そのおもてなしのマルタの姿に私たちからも異論はない。
一方妹のマリアは、主イエスの足元に座って語られる言葉に聴きいっていた。
私の推察するところ、マリアの心は大きな喜びに満たされていたであろう!
◎しかしこういう主イエスをお迎えした姉妹の全く相反する姿に、マルタは我慢が出来なかった。
直接主イエスに進言した。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。
◎しかし、「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。
ここで奉仕の本質を学ぶことは、重要である。自らしている奉仕を、他者がたとえ
無視していても、関わらなくとも異議を申し立てないことである。またその意図に反して他者を巻き込まないことである。そうすることで行っている素晴らしい奉仕は本質と目的を失ってしまうであろう。
「忙しい、孤独の奉仕、助けを必要とする奉仕」を訴えたマルタに、主イエスは
「あなたは思い悩み、心を取り乱している」と語られたのである。
<まさに「忙しいとは、心を亡くすこと」>である。
◎そして主イエスは言われた、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
主イエスは、この主の言葉を聴くマリアの姿こそ、何物にも代えることのできな
い主イエス・キリストに従う者の姿であると明言されたのである。
ここで私たちは如何なる状況にあっても、このマリアのように、神の言葉を日々聴き続けることの大切さを学ぶのである。
皆様は、この「マルタとマリアの物語」をどのようにお思いになるであろうか?
主イエスのお言葉、「必要なことはただ一つだけである!」について:-
私は聖書から一つ、二つの関連する聖句を思い起こす。
荒れ野で40日、40夜の断食の後、最初に語られた言葉である。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ、一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)=これはすでに申命記8:3で語られている。
※私はこのみ言葉から
神さまが与えてくださった救済史(それはこの世における私自身の救いの歴史と生活である)において、中心であり、本質であるものは、旧約聖書から新約聖書を貫いて、それは神の言葉である。
使徒パウロの言葉
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち
救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)。
※これは使徒パウロの信仰告白であった。また同時に私たちの信仰告白として覚えたい!
◎人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思い
を、イエス・キリストにあって守ってくださるように。アーメン。
聖霊降臨後第6主日(スオミ教会 1) 2019年7月21日
申命記30:1~14、コロサイ1:1~14、ルカ10:25~37
説教「心は神に、手は人に
1 教会の礼拝では伝統的に詩編を用いている。
礼拝における賛美のためであり、またその主日の主題を理解するためである。
ちなみに今日の詩編25編の4節で、イスラエルの王ダビデは「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えてください」とある。
ちなみに多くの人々が、自動車、飛行機、船等を利用して日本や世界を旅行しているがそれは道路標識、電波標識、あるいは航路標識が設置されていて自動車、飛行機、船がそれに従って、安全に運転、運航されているからある。
50年近くも前のことであるがアメリカ留学の帰途、ドイツでの研修の機会が与えられて、ロンドン空港からでドイツのハノーヴァー空港に向かった。
しかし離陸前ハノーヴァー空港の上空が雷雨に覆われているので、もし着陸できなければロンドン空港に引き返すかもしれないと予告のアナウンスを聞いていた。確かにハノーヴァーの上空に来た時飛行機はしばらく旋回を始めた。空港周辺を10数分もぐるぐる回っていたであろうか、突然コックピットから機長の「光が見えた!」(We saw the light!)という喜びの声が聞こえた。飛行機が着陸するための進入路の航空標識が、おぼろげではあっても確かに基調には見えたのであろう。その時、機内からも歓声が上がったのを今でも忘れることはできない。
ダビデのように「主よ、<今日>あなたの道を私に示し、<今日>あなたに従う道を教えてください」と祈り求める姿勢を保つのが信仰生活である。
これは私たちが信仰生活を生きる指標、指針を求める祈りである。
また、日々をキリスト者としていきるための祈りでもある。
日々確認する必要がある。また皆様の中には聖書から、既に信仰生活のための特別な指標、指針となる言葉をお持ちの方もあるでしょう!
出来れば、機会を得てお互いに分かち合うことが出来れば、幸いである。
2 さて今日の旧約聖書(申命記30章)は、神の民に十戒が与えられた後に
語られた指導者モーセの勧めの言葉である。繰り返し語られた言葉は:-
「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、
. あなたは祝福をえることができる、という勧めの言葉である。
そしてさらに、今日の申命記30章14節には、簡潔に語られている。
「神の言葉は、遥か遠い天にあるのではない、また誰も行くことのできない
海のかなたにあるのではない」!
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それ
を行うことができる。
と。
こうして神の民は、神の言葉(律法)に聞き従い、それを行いなさい!との
聖なる言葉を聖会(礼拝)の度毎に聞いていたのである。
3 さて今日の福音書は有名な「善いサマリア人」の物語である。
確認のために聖書からもう一度、読んでみよう。
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先
生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」
と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思
いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のよう
に愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい。答えだ。それを
実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれです
か」と言った。
ここで考えられる第一のことは:
律法の専門家は、当然のことながら神の教えをよく知っていたことである。
熟知していた。申命記6章5節には、全く同じ言葉が語られている。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であ
る主を愛しなさい」。そしてこれは聖なる集い、礼拝の度に「ハッシャマー・
イスラエル!」(イスラエルよ、聞け)と呼びかけられて、神の民、会衆全体
が先ず聞いたのがこの言葉であった。
さらにこの律法の専門家は、「また、隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19章18節)という戒めを付け加えている。完璧である。
さらに第二のことは:
この律法の専門家の答えに主イエスは「あなたの答えは正しい」と言われ
た。しかし問題は残った。この信仰は知識に留まっていたようである。
イエスは続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と
言われたのである。“信仰は生活のなかでこそ生きるものである”。
神の言葉を聴き、社会に生きていく信仰者としての倫理的な意識や感覚に
決定的なずれがあったのであろう。
さらに考えられることはファリサイ派の人々の信仰の実態は、イスラエル
の強い選民意識であり、他の国民、異邦人を蔑む、差別意識である。
「隣人とは誰ですか?」との問いには、実はこの異邦人への差別意識が内包
されていたのである。本当に恐るべきことに、そして留意しなければならな
いことは宗教が差別意識、排他意識を醸成するということである。
このことは主イエスにとっては、全く容赦ならないことであった。
そして第三のことは:
主のお教えになった物語によると、強盗に襲われた旅人のそばを通り過ぎ
た人は、祭司、レビ人そしてサマリア人である。
伝統的に祭司は律法の専門家であり、祭儀を行う責任者であり、レビ人も
律法を聖会において朗読し、また律法を教える役目をもっていた。また預言
者の務めにも関りがあった、と言われる。つまりこれら祭司もレビ人も旧約
聖書では、神の民を代表する宗教的な指導者であった。
こうした宗教的な代表者である祭司やレビ人は、半殺しにされた旅人を見
てもいずれも「道の向こう側」を通って行ってしまった。つまり彼らは
強盗に襲われ、半死半生になった旅人にとっては傍観者でしかなかった。
傷ついた旅人にとって「助けを期待していた人」は予想に反して冷淡な傍観
者、臆病で無関心な祭司、レビ人に過ぎなかった。
ところがここにサマリア人が登場する。先週の礼拝に続き「サマリア
が
話題の中心となる。サマリア人とは、聖書によれば
◎伝統的なユダヤ人はエルサレムではなく、ゲリジム山に神殿でバアル(神
ならぬ偶像)礼拝をするサマリア人を「愚か者」と呼び、敵対視してい
たのである。歴史的には王下17:24~31参照。
◎このような歴史的な経過からか、主イエスさえも12弟子たちを派遣す
る時に、「サマリアの町に入ってはならない」とさえお命じになっている。
(マタイ10章5節 参照)
◎さらにこのようは経緯からか、主イエス・キリストがエルサレムに向か
って旅を続けていた時、サマリアの村を通った時に村人はイエスを歓迎しなかった。それを見て、ヤコブとヨハネは怒って「天からの火で彼らを焼き滅ぼしましょうか」と、進言したほどである。もちろん主イエス・キリストは、彼らを戒められたのである(ルカ9:51~55)。
<しかし一方聖書には、サマリア人の信仰の積極的肯定の物語がある>
かつて、ガリラヤとサマリアの間の村で、主イエスは十人のライ病(ハンセン病)を患っていた人々を癒し、清められたが、そのうち、
癒されたことを知って、立ち返ってきて、主イエスの足元にひれ伏したのは一人のサマリア人だけであった(ルカ17:11~19)。
皆様もよくご存じのサマリアの女の信仰である(ヨハネ4章参照)
この女は夫が5人もいるという、倫理的には崩れた生活をしていたが主イエスとの出会いによって、真の礼拝へと招かれたのである。
4 そしてこのような背景の中で、今日の「サマリア人
が登場する。
実にこの一人のサマリア人が傷ついた旅人を助けたのである!
主なる神は言われる「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。
<神の聖なる律法、神の言葉を実現したのは、実にサマリア人であった!>
ここで私たちは何を理解すべきであろうか?
第一は この善きサマリア人とはだれか?ということである。
Mルターによればそれは、主イエス・キリストご自身である。
ルターは言う、「主イエスこそ、すべての人々のための憐れみ深い神のサマ
リア人である」と!この事実を確認することである!
第二は 主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」とお命じに
なったのである!これは単に、律法の専門家に対してだけではなく、現代に
生きている私たちへの聖なる命令でもある。
それは十字架にかかり、復活された主イエス・キリストの愛(アガペー)に
よって生かされている、私たちキリスト者の隣人への奉仕の生活である。
ルターは言う、「善き業は主イエスに対しては不要である。けれど も隣人に対しては、不可欠に必要である。神の愛に触れば触れる程、私た
ちは隣人に対してますます忙しくなる!」と。
5 私は現在も、週2日、ホスピスのチャプレンとして奉仕している。
最初は日野原重明先生が設立された、ピースハウス病院で7年間、その後
そこが閉鎖されてから、現在は救世軍のブース記念病院で働いている。
現在のブース記念病院での奉仕も4年目になる。
この病院を運営する救世軍のモットーは「心は神に、手は人に」(Heart to God,
Hand to Man! )である。これも信仰の指標となる言葉の一つである。
そういう訳で、今日の説教題を「心は神に、手は人に」とさせていただいた。
けれどもこの間に、同時に私は自ら「病み、傷ついた旅人」であったこと
に気付かされた。私は8年間毎年のように腎臓、膀胱の手術を受け、しばし
ば抗癌剤を受けてきた。その後の検査の結果は、いつもV(最悪)であった。
私は心身ともにかなり疲労し、動揺していた。このような状況にも拘わらず、
主イエスは「善きサマリア人」として、しばしば私に現れてくださったので
ある。同時に主なる神さまのお導きによって主治医、看護師、チャプレンも
大きな助けになった。教会につながる同信の友、そして家族も同様である!
感謝の他はない!
このような恵まれた経験の中で、今でもチャプレンとして奉仕できることは
本当に幸いであり、感謝である。アーメン。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
聖書の神は愛に満ちた方、恵み深い方と言われます。本日の説教では、その神の愛について本日の旧約と使徒書の日課に基づいて明らかにしようと思います。
愛は神だけでなく、人間にもあります。それでは、神と人間の愛は同じなのか、違いがあるのか、あれば何が違うのか?これはとても大きな問いです。本日の説教だけで全部を答えることはできませんが、答えの取っ掛かりは得られるのではないかと思います。
まず、使徒書の日課のガラテア5章を見てみましょう。そもそも、ガラテア書という書物でパウロは何の問題を論じていたでしょうか?人間の救いの根幹にかかわることです。罪のある人間は何によって神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫でいられるのか?この世の人生を終えて復活の日までのひと眠りの後、復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられるのは何によるのか?そのような問いの答えに関係することです。ユダヤ教の伝統ですと、「律法の掟を守ることが大事」という答えが真っ先に出てくるでしょう。神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫になれるためには、律法の遵守につきるということです。
律法の中に割礼の規定がありました。割礼は神の民の一員の印でした。最初のキリスト信仰者は皆ユダヤ人でしたから、割礼を受けるのは当然でした。しかし、パウロは、神の目に義とされるのは律法の掟を守ることによってではない、神のひとり子イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされると説きました。そういうわけで、割礼は義とされることに関しては意味がなくなってしまいました。既に割礼を受けた人はそのままでいるしかありませんが、まだ受けていない人たち、つまりユダヤ民族以外の異邦人の場合は、イエス様を救い主と信じる信仰と、洗礼で罪の赦しと聖霊が一緒に注がれること、これらがあれば十分ということになりました。こうしたことがガラテア書の論点です。
それでは、イエス様を救い主と信じて罪の赦しを受け取るだけで、人間は本当に神の前に立たされても義と見なされて大丈夫になれるのか?それが本当になれるのです。というのは、神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運んで、そこで神から神罰を受けて死なれたからです。そのようにして、罪の償いを人間に代わって全部神に支払って下さったのです。だから、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを聖霊と一緒に注いでもらえば、罪の赦しがその人に効力を発揮します。あとは、神から頂いた罪の赦しの恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていけばよいわけです。そういうわけで、十戒の掟も、ちゃんと守らないと神から義と見なされない、だから頑張って守らなければならない、というものではなくなりました。そうではなくて、イエス様のおかげで先に義な人にされてしまった、だからあとはそれに相応しい生き方をしよう、神の意思に沿うように生きよう、そういう十戒の守り方は軽やかな自由なものになります。しかし、罪の赦しを自分の力で勝ち取るために守ろうとすると、重々しく引きずる感じになります。
以上のことは、毎週礼拝の説教で繰り返し教えていることなので、皆さん、もう聞き飽きたという気持ちでしょう。そこで、そういう気持ちでガラテア5章6節を見ると、おやっと思わせることがあります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて結ばれていれば割礼の有無は問題ではない、これはわかります。ただ、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」というのはどういうことか?信仰は、愛の実践が伴わなったら意味がない、ということなのか?そうなると、イエス様を救い主と信じていても、愛の実践がなかったら意味がないということになる。神の前に立たされた時、義とされず大丈夫でいられなくなる。ということは、本質的なことは、イエス様を救い主と信じることではなく、愛の実践ということなのか?
愛の実践とは何でしょうか?真っ先に頭に浮かぶのは隣人愛です。困っている人を助けることです。でも、それなら、別にイエス様を信じていなくても出来るではありませんか?別の宗教を持っている人でも無神論の人でも人助けが大事なことはわかります。キリスト教では、イエス様を救い主と信じる信仰と人助けがセットになっていないと、信仰者として失格と言われてしまうのか?それなら、別にイエスなんか信じないで人助けに集中した方が話は簡単ですっきりするじゃないかなどと思われてしまうかもしれません。
ここで、イエス様を救い主と信じる信仰と隣人愛の関係について見てみます。キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛と違うことがあります。それがわかるために問題のガラテア5章6節をよく見てみます。ギリシャ語原文をそのまま訳すと次のような意味です。少し解説的に訳します。洗礼を通してイエス・キリストに結びついているならば、割礼を受けている受けていないということには意味はない。意味があるのは、「愛を通して作用している信仰/作動している信仰」である。愛を通して作用する/作動する信仰とはどんな信仰か?逆に言えば、愛がなくては作用しない/作動しない信仰です。愛があるから作用している/作動している信仰です。もしこれが愛を実践することで信仰が作用する/作動するという意味なら、結局、愛の実践が本質的なことということになってしまいます。
「愛の実践」と言いますと、人間が行うものになります。ところが、ギリシャ語原文では「愛の実践」とは言っていません。「愛を通して」作用する/作動すると言っています。ここで言う「愛」は人間が実践するものも含めたもっと広い大きな意味での愛です。どういうことかと言うと、キリスト信仰では、愛はまず神が人間に示すもので、示された人間がそれをわかって、味わって素晴らしいものとわかって、それを神に感謝し、神がしなさいと言うからそうする、そういうものです。神が示される愛の素晴らしさが分かればわかるほど、損得細かいことは気にならなくなる、こだわらなくなるというようになって愛を行えるということです。そのような愛が行えるのは、まず神の愛が人間の愛に先だってあるからです。このことは第一ヨハネ4章9ー11節でも言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
神の愛が先立ってあって我々人間がそれを受けて愛する、そういう循環があります。ガラテアの「愛を通して作用する信仰」というのはまさにそのことです。それなのに「愛の実践を伴う信仰」と言ってしまったら、神からの先立つ愛がなくなって、人間の能力・実力としての愛だけになってしまいます(後注1)。
キリスト信仰者の隣人愛とその他の人たちの隣人愛は、確かに同じようなことをするので、わざわざキリスト信仰者にならなくても人助けは出来ると思われるかもしれません。しかし、今見てきたように隣人愛の出発点が異なります。キリスト信仰の場合、まず、神がひとり子を犠牲にするくらいにこの私を愛された。だから私は神の御心に沿うように生きていこう、そういう心から出てくるものです。それで、キリスト信仰の場合、何が神の御心に沿うかということが行う愛の内容を決定します。それなので、場合によっては、キリスト信仰者でない方たちと異なる方向に向かう可能性もあるということを覚えておくことは大事と思います。どう異なるかというと、次に述べるように、人々を神に向かって「悔い改める」ことに導くことが射程に入ってくるということです。人を悔い改めさせる隣人愛なんて、そんなのあるか、と思われるかもしれませんが、キリスト信仰の隣人愛はそういうものなのです。
次に旧約の日課ヨナ書を見てみましょう。本日の日課の個所の出来事は先ほど読んでいただいた通りですが、少し出来事の背景をお話ししますと、預言者ヨナは神からアッシリア帝国の首都ニネベに行けと命じられます。そこで何をするかと言うと、町は悪と不法に満ちているから神が滅ぼすつもりでいると告げることでした。ヨナは一回目は言うとおりにせず、大魚に飲み込まれたりしますが、二回目は行って、ニネベの住民に神の言葉を告げました。アッシリア帝国というのは、紀元前8世紀にユダヤ民族の北王国を滅ぼし、残る南王国も首都エルサレムを包囲し陥落寸前にまで追い込んだ民族の大敵です。そのような国の首都に乗り込んで神の裁きの言葉を告げたのです。するとどうでしょう、国王から住民に至るまで皆が罪を悔い神に赦しを乞い始めます。それを見た神は町を滅ぼすことを思いとどまりました。ただ、収まらないのはヨナの方でした。町を滅ぼさなかった神に大いに不満で怒りに燃えたのです。
そこで神は、ヨナに神の御心がどういうものかをわからせるために、とうごまの木の出来事を起こしました。砂漠の炎天下にとうごまの木を一夜にして茂らせます。ヨナは葉陰の下でホッとしました。ところが神は一夜にして木を枯らせてしまいます。ヨナはまた神を恨みました。そこで神は言われます。お前は、自分で植えて育てたわけではないとうごまの木がなくなったことをとても残念がっている。罪を悔い改めたニネベの町を滅ぼしてしまったら、私だって同じ残念な気持ちを抱いてしまうのだ(後注2)。
これを読みますと、神というのは、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをしても裁かないで赦して下さる、そういう慈愛に満ちた方という理解が生まれると思います。それに対してヨナの方は、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをするのは裁かれて当然という、憐れみのない人間の典型に見えます。しかし、ここで忘れてならないことは、ニネベの住民は罪を悔い改めたということです。それで神は裁きを思いとどまったのです。ヨナの問題は悔い改めてもそれを受け入れなかったことですが、それでも、神の意思に反することは裁きに値するということ自体は間違っていませんでした。神も悔い改めがあったから赦しました。もしニネベの住民がヨナの告げ知らせを聞いても悔い改めなかったら、この話は全然違う結末を迎えたでしょう。
ここで神が赦すということ、裁きや滅びを思いとどまるということにおいて、悔い改めが決定的な意味を持つことを確認したいと思います。悔い改めとは何か?それは、神の意思に反すること聖書にいけないと言っていることに自分は加担してしまったと認めて、神に赦しを願うことです。神から赦してもらうために、人によっては神のご機嫌を宥めなければと儀式を行ったり、掟を守ったりします。ところが、キリスト信仰の場合は、神のひとり子のイエス様が既に償いをしてくれたので、イエス様の償いが本当になされたと信じます、だからイエス様を救い主と信じます、と告白すれば、神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さり、これからは罪を犯さないようにしなさい、と言って不問にして下さるのです。
ここでひとつ厄介なことがあります。それは、人間の心の中には神の意思に反すること聖書でいけないと言われていることが常態としてあるということです。行為や言葉になって表に出なくても、心の中では加担しているということです。イエス様もこのことを指摘されていました。人間は十戒の掟を外面的に守れても、例えば人を殺さなくても、心の中で憎んだり罵ったりしたら同罪である、神の掟は内面の状態まで問うものである、と。そういうことなら人間誰もそのままの状態では神の前に出されてとても大丈夫ではいられません。義なる者と認めてもらえません。だから、イエス様が必要なのです。神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることを行為や言葉に出さなくても、心の中で持ってしまっている。それで私もあなたも全ての人みんな、神の意思に反し、聖書の中でいけないと言われていることに加担している。だから、私もあたなも全ての人もみんなが本当は神の御前では罪びとなのだ。しかし、イエス様を救い主と信じたからには、神は彼の犠牲に免じて義なる者と見て下さり、御前に出されても大丈夫と扱って下さっている。そのようにして、イエス様を救い主と信じる者は「罪人にして同時に義人」ということ不思議なことが起こってくるのです。
そこで、もし神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることが心の中に留めておくことに失敗して、行為や言葉に出てしまったら、どうなるか?その時も神は赦してくれるだろうか?答えは、心の中の時と同じようにすれば赦して下さいます。つまり、神さま、私が行ってしまったこと、口に出してしまったことは、あなたの意思に反するものでした、聖書の中でいけないと言われていることでした。イエス様は私の救い主ですので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。私から義を取り去らないでください。これからはこの行為、言葉を出さないようにする知恵と力と勇気を与えて下さい。そのように祈れば、神は赦し、罪を犯さないために必要なものを与えて下さいます。
罪が行為や言葉に出てしまうことで、相手を傷つけたりすることがあれば、国や社会の法律や規則に従って謝罪や補償をしなければならないということが出てくるでしょう。罰則が度を過ぎた厳しいものがあるかもしれません。そういうのを修正するのは政治の役割ということになります。また、世間が厳しい目を向けたり、「神は赦しても私は赦さない」などと言う人もいるかもしれません。そのような時は罰を受ける人はとても孤独になります。しかし、キリスト信仰では孤独になりません。なぜなら、世間は赦さなくても、赦してくれる神がそばにおられるからです。イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神との関係は何の変更もないので、そこが慰めと励ましの最後の砦になります。それは難攻不落の砦なので、そこにとどまれば孤独に陥らずに世間の厳しい荒波の中でもなすべきことをできるはずです。
神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることが表に出ない時、心の中に留まっている時は世間からとやかく言われませんが、神は知っておられるます。それは、後ろめたく落ち着かないことかもしれません。でも、大事なことは、私たちはイエス様のおかげで、罪びとであるが同時に義人にもなっているという事実です。全てを知っておられる神がそのようにしてくれるのですから、心配せず、安心していけばいいのです。
ここで罪を持つ者が神から祝福を受けられるかということも考えてみたく思います。先ほども申したように、自分は神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心の中で加担してしまっていると認め、神さま、イエス様を救い主と信じますから、私を赦して、あなたの御前に出されても大丈夫でいられるようにして下さい、と願えば、この時、罪びとは同時に義人ですので、神から祝福を受けられます。神は人間がそのままの状態では神の意思に沿えないで罪に留まってしまう、そのままの状態では義人にはなれないと知っています。だから、イエス様を介して、罪びとにして同時に義人にして祝福を受けられるようにしたのです。罪が行為と言葉で現れてしまった場合でも、同じように悔い改めをすれば、神から祝福を受ける立場は大丈夫です。そういうわけで、神から祝福を受ける時には、罪びとにして同時に義人ということが確認される必要があります。
ところが、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心が加担していても、それは別に神の意思に反していないとか、反していると言うのは間違っているとか、聖書に書いてあることは大昔の人間の未発達な考えに基づくから現代にはそぐわないと言ってしまったら、罪びとであることを否定することになります。罪人であり同時に義人という神的なバランスが失われます。それは、神から祝福を受けるのに相応しい状態ではありません。この場合は、心の中で罪に加担して、それを罪と認めて神に赦しを願うという場合と大きく異なります。確かに、罪と認める人も認めない人も皆、心の中で加担していることは同じです。しかし、認める人は神に赦しを願い、イエス様のおかげで赦しを得られます。罪が行為と言葉で現れてしまっても、同じようにすれば赦しを得られます。その時、もう行為と言葉で現れないように注意しようとします。ところが、罪と認めない人にとっては罪ではありませんから、行為と言葉で現れても何も問題はなく、問題なのは神の意思とか聖書で言われていることの方が問題になります。
以上、ニネベの出来事から、神の赦しには悔い改めが決定的な意味を持つことを述べました。そう言うと、あれっ、イエス様は本日の福音書の個所で自分を受け入れなかったサマリアの村を悔い改めなく赦しているではないか、と思われるでしょう。弟子たちは、イエス様に天から炎を送って滅ぼしてしまいましょうと提案しました。あたかもソドムとゴモラのようにです。ニネベの郊外で様子を窺ったヨナもその時を待ったでしょう。ところがイエス様は、サマリアの町がニネベのように悔い改めをしたわけでもないのに滅ぼさなかったのです。なんだ、やっぱりイエス様は悔い改めをしなくても赦しを与えて下さる慈愛があるんだ、旧約の神は厳しいが、さすが新約のイエス様は人間が出来ている、そういうことでしょうか?
先ほども申しましたように、イエス様は、十戒の掟が実現しているかどうかについて心の有り様まで問うた方です。本当は厳しい方です。それじゃ、どうしてサマリアの村に罰を下さなかったのか?イエス様が優しい心の持ち主で憐みに満ちた方だから、という答えではまだ核心を捉えられていません。では何かと言うと、イエス様は、サマリアの村に悔い改める時間を与えたのです。
どういうことかと言うと、イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して永遠の命を持って生きられるようにしたい、そのようにして神の国の一員に迎え入れたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるように十字架にかかってまでお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる無責任極まりない気前の良さを持ついうことなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか悔い改めて神の国の一員になれるよう、猶予期間を与えているということなのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、悔い改めの可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いつまでもいい気になって悔い改めをしないで済ませていいはずがない、と気づかなければいけないのです。もし、この世の人生の段階で悔い改めがなければ、それはもう手遅れで、あとは最後の審判の日に神から、お前はこうだったと監査済みの収支報告を言い渡されるだけです。もし、悔い改めて、イエス様を救い主と信じる信仰に入っていたならば、何も問題ありませんでしたという報告を受けられたのに。
それでは、このサマリアの村はどうだったでしょうか?猶予期間を与えられて悔い改めたでしょうか?それが悔い改めたのです。使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムでキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムを脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。イエス様を救い主と信じることは悔い改めがあって起こるものだからです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことをしなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が神の国の一員として迎えられるということが全てに優先される、ということがありました。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されました。この時のイエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、神の国の一員に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。
以上、神の愛についてガラテア書とヨナ書の日課をもとに述べてまいりました。神の愛が私たちの内に満ち満ちてそこから溢れ出ていく位になるためには、私たち人間の側での悔い改めが大事であることを見ました。悔い改めという言葉は、何か人を反省することに追い詰めて苦しい思いをさせるイメージが持たれるかもしれませんが、イエス様を介すると、全然勝手が違い、倒れて伏してしまった人を起こして立たせて最初よりももっと高く上げてくれるものになります。
兄弟姉妹の皆さん、もし打ちのめされた状態になったら、起き上がる力は全部自分で調達しなければならないなどと思わないで、イエス様を救い主と信じて、父なるみ神に起こしてもらいましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)参考までに、πιστιςδι’ αγαπηςενεργουμενηの各国語訳を見てみると、英語NIVは”faith expressing itself through love”、ドイツ語(ルター)は”der Glauben, der durch die Liebe tätig ist”、(Einheitsübersetzung)”den Glauben (zu haben), der in den Liebe wirksam ist”、スウェーデン語は”tron, som får sitt uttryck i kärlek”、フィンランド語は”(Ainoana tärkeänä on) rakkautena vaikuttava usko”です。英語とスウェーデン語は似ていて、「愛で表現される信仰
ということで新共同訳の「愛の実践」路線になると思います。フィンランド語訳は様格(rakkautena)使うので意味的には英語とスウェーデン語と同じでしょう。ドイツ語訳はギリシャ語原文をそのまま映しだしています。
(後注2 ヘブライ語が分かる人にです)
ヨナ4章11節は、新共同訳では「右も左もわきまえぬ人間」と言って、「わきまえない」が現在の状態になっています。そうすると、わきまえないニネベの住民はわきまえないまま赦されて今に至ってしまいます。しかし、ヘブライ語原文ではלא-ידעとなっていてperfectumです。それで「わきまえない」のが過去の状態であると捉えると、今はそうでないことになり、そうすると、悔い改めがあって赦されたことがはっきりします。このperfektumを過去の意味で捉えていいとする根拠は、すぐ前のところで神がとうごまの木について「お前が労苦せず育てもしなかったלא-עמלת בו ולא גדלתו
を同じperfektumで言っていることによります。ここの意味は明らかに過去です。ヨナととうごまの木の関係と、神とニネベの住民の関係はパラレルになっています。それで、住民の状態も過去の意味と考えられるのです。大体次のような意味になります。「お前は、自分ではなんにもしなかったとうごまの木がなくなってしまったことを残念に思っている。ましてや、以前はわきまえなかったが今は悔い改めたニネベの住民を滅ぼしてしまったら、それは私にとって残念なことにならないだろうか?」
それから、ヨナ書の最後の神の言葉は否定の修辞疑問文で訳されるのが各国共通のようですが、疑問辞הがつかなくてもそう訳せることについては、北欧で一番権威あるH.S.Nybergのヘブライ語参考書で確認できました(§95b)。実は、私は以前ここは素直に普通の否定文で訳しても問題ないのではないか、例えば「お前はとうごまの木に関して平静を失っているが、私はニネベに関して平静を失わない。ニネベが罰を受けないで済んだことは私にとって何でもないことだ。だって悔い改めたのだから。お前には受け入れがたいことかもしれないが、私は平気だ。」そんなノリを考えたこともあるのですが、権威が「疑問辞なくても疑問文になる」と言ったら、私には権威を無視できる位の所見も勇気もないのでそれに倣います。
この建物で吉村先生の最後の礼拝とあっていつもより出席者も多かったです、パイヴィ先生が着任後6年間の記録をスライドで見せてくださいました。懐かしい人たちも写っていて楽しいひと時でした。今日は新会堂の工事契約の調印も済み先生たちが9月に戻られたときは早稲田の新会堂での礼拝が始まります。