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宣教師の週報コラム  「フィンランドのラスキアイスプッラ」


かつてキリスト教会では復活祭/イースターの前の40日は断食するという伝統がありました。 イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方は、間にある6回の主日は断食日に数えないので、断食期間の開始はその分繰り上がり、復活祭の前7週目の水曜日となりました。今年は先週2月22日の水曜日でした。

 この断食の期間は教会のカレンダーでは「四旬節」とか「受難節」と呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を用います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらって救いを頂くというような考え方は全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方がそのまま今も続いているだけということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。それで信仰ある人の中には、この期間は嗜好物を遠ざけたり好きなテレビ番組をみないようにする人もいます(若者の中にはSNSを止めるという人も)。もちろん、これらはルター派の基本を確認した上でのことです。

 フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る1カ月位前から、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋さんでもスーパーでも喫茶店でも並びます。当教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。それで、「断食の期間」が始まると、店頭からパタッと姿を消します(ただし、私たちがいた十何年前のこと。教会離れ聖書離れが進む今はどうでしょうか?)

 見かけはハンバーガーに生クリームを挟んだみたいな何の変哲もない菓子パンですが、カルダモン風味の焼きパンと潰しアーモンドの砂糖漬けを添えた生クリームのコンビネーションは絶妙で、食する人はきっと天国の味を賞味した気分に浸るでしょう(だなんて、まるでテレビの飲食店の紹介番組みたい)。断食が終わった復活祭には、パシャやマンミというデザートが待っています。これらについてはまた機会を改めてということで。

説教「聖霊とキリスト信仰者は風のごとく往く」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書3章1-17節

2023年3月5日(日)四旬節第二主日 主日礼拝
聖書日課 創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ニコデモ - 自省するファリサイ派

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在である、しかし、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられる、これが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はイエス様を贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救う、人間が神に国に迎え入れられるようにするということ。今日はこれらのことについて少し詳しくみていきます。

 まずニコデモという人について。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべきと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 そこにイエス様が歴史の舞台に登場しました。彼が数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。

 全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このやり方で神の前で清くいられるだろうか、神に義とされて天の御国に迎え入れられるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するタイプのファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50

52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、ローマ帝国総督のピラトのもとに行き許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節))。

2.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。イエス様はニコデモにイエス様はいきなり言われます。

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)

 「新たに生まれる」ということについて注意します。それは、「生まれ変わる」ということと全く違います。例えば、自分は前世では誰々だったが、今の自分はその生まれ変わりであるなどと言う人がいます。こういう考えを輪廻転生と言います。そこまで大胆でなくとも、今度生まれたら金持ちになりたいとか、有名人になりたいなどと言う人は沢山いると思います。あるいは、赤ちゃんが生まれた時、亡くなったおじいちゃんかおばあちゃんに似ているので、この子はおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うのもよく聞かれると思います。

 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私この吉村博明はこの世から死んだ後は何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられてイエス様のおかげで(※)朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。それでは、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」とはどういうことでしょうか?(※ この「イエス様のおかげで」を礼拝の説教では「運が良ければ」と言ってしまいました。「イエス様のおかげで」ということは本説教の後で強調されることなので、ここでは冗談ぽく言っておこうという軽い気持ちでした。礼拝後のコーヒータイムで教会員から、とても気になったとご指摘を受けました。良くなかったと反省しました。お詫びして訂正いたします。)

 イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありません。どんな誕生かは、次のイエス様の言葉を聞いてみましょう。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。

 イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。

 人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきますが、それはまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが新しく生まれることです。

3.肉的な存在から霊的な存在へ

 それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 なにかとても深いことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。気流の流れによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?

 さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架の死も死からの復活も起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれるということもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。加えて、風のたとえを難しくしているもう一つの理由は、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ言葉プネウマということです。イエス様とニコデモは間違いなくアラム語で会話しています。それが後にギリシャ語に翻訳されて新約聖書になりますが、アラム語でも「風」と「霊」は同じ言葉ルーァハです。それで、「風は思いのままに吹く」と言うのは、「霊は思いのままに吹く」と言い換えることができます。「霊」とは神の霊、聖霊のことです。「聖霊」の場合は「吹く」と言わずに「往く」と言った方がよいでしょう。ギリシャ語の意思を表す動詞テロ―が使われているので、風の場合は「思いのままに吹く」でいいですが、聖霊の場合は「自分の意思に従って往く」という意味になります。洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者もそうであると言うのです。そうならば、聖霊もキリスト信仰者もどこから来てどこへ往くのか誰にもわからないというのはどういうことなのか?それについては後で見ることにして、今はイエス様とニコデモの対話に戻ります。

 理解できず困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。

 イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から新しく生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうすることで神の国に迎え入れらえるようになること、こうしたことが、どのようにして起こるのかについて明らかにします。

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 ここでイエス様は、「水と霊による新たな生まれ」を起こすのは他ならぬ自分であると教えます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で作った蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、どのように起こるのでしょうか?

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられたのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持てるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。

 それでその後は人間が、これらのことは本当に起こった事でありイエス様は本当に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになり、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を持てて万物の主である神のもとに永遠に迎え入れられます。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

4.聖霊とキリスト信仰者は風のように往く

 このように洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は復活の日に永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられるということがわかりました。それが、イエス様の風のたとえとどう結びつくでしょうか?先にも申しましたが、アラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。ここでイエス様は両方をひっかけて教えているのです。このたとえで教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。

 これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまる。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちも見えるし声も聞こえるから実在するのはわかる。しかし、聖霊と同じように、あくまで自分の意思に従って往くので肉的な人にはわからない。このことはパウロが第1コリント2章14~15節で言っていることと一致します。

「肉的な人は聖霊が示すものを受け入れない。なぜなら、肉的な人にとってそれは馬鹿げたことだからだ。それは、霊的な状態をもって吟味されるものである。だから、肉的な人には理解できない。霊的な人がそれを吟味する。しかし、霊的な人は肉的な人から吟味されない。」

 それでは、洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は、肉だけの人と何が違うのでしょうか?以下それを見ていきます。そこで聖霊の働くについてもわかってきます。

 キリスト信仰者は新たに生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めように、「他人のものを自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんかどうでもいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。

 まさにこの時が聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって神罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲となったおかげと、あなたにあの方を真の救い主と信じる信仰があるおかげで、神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先に赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。

神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」

 この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。しかしながら、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。実はこうすることが、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きていることの証しなのです。

 このような聖霊が働く内なる霊的な戦いは、本当に内なる戦いなので、外部の人、肉的な人には信仰者の内で何が起きているのかはわかりません。肉的な人にはそのような内なる戦いは無意味なものです。なぜなら、肉的な人にとって、例えば人を傷つけるようなことを言ったり行ったりしなければ十分である、心の中まで神の意思に照らし合わせたら身が持たないと言うでしょう。しかし、霊的な戦いに身を投じた人は、イエス様が救い主になっているので心の中まで神の意思に照らし合わせても大丈夫なのです。ここのところが肉的な人にとって理解できないところになると思います。

 たとえ肉的な人がわからなくても、キリスト信仰者は内なる霊的な戦いは全て自分をゴールに導く戦いであるとわかっています。ゴールは復活の日に神の御国に迎え入れられるところです。かの日、天地創造の神のみ前に立たされる日、神は、キリスト信仰者が旧い世で罪を内に持っていたにもかかわらず、罪の赦しのお恵みに留まって罪に与せず罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。その時、霊的な戦いは終結します。なぜなら、肉の体に代わって神の栄光を現す復活の体を着せられるからです。キリスト信仰者が受ける栄冠です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2023年2月26日(日)四旬節第一主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

本日の礼拝のストリーミングはウェブカメラの不調により途中で中断してしまいました。申し訳ありません。田口先生の説教文を掲載しますのでご覧下さい

マタイによる福音書4章1−11節。

「絶えることのない誘惑にあって勝利の恵みに与らせる唯一の救い主」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 「はじめに」

 このところはイエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられる箇所です。これは、3章終わりのイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声があった後、そして、12節以下、イエスが伝道を開始される前の出来事になります。この誘惑は、悪魔や天使が登場し、「聖霊に導かれて」とあったり、さらには、人から見れば、悪魔の誘惑があまりにも壮大で超自然的に見えたり聞こえたりするので、これは神であるイエス様だけの特別な出来事、特別な試練であり、私たち人間とは何も関係のない出来事であるかのように見えたり思えたりするかもしれません。あるいは、クリスチャンの中でも、このように書かれている「悪魔」や「天使」などは、人間の理性に反するからそんなのはいないんだと言う人たちもいますから、そのような人にはこの場面は単なる空想話や譬え話なんだと主張する人もいるでしょう。ゆえに、このところはただの人間が見習うべき律法であり、道徳律を教えているんだと結論づけられるかもしれません。しかし、このところは、空想話や道徳律でもなければ、律法だけに終わるものでもありません。人間に全く関係のないイエス様と悪魔だけの出来事でもありません。このところは、正しく人間とその罪の深さと大きさを何よりも表していると同時に、未信者というよりは、とりわけ、まさに洗礼を受けて伝道へと出ていくクリスチャン、教会を指しているメッセージでもあり、そのクリスチャンや教会が直面する誘惑はいかに巧妙で恐ろしいかを警告しています。しかし何より、まさに受難節に入るこの聖日にふさわしいところでもあり、イエス様の生涯は、この荒野だけではない、生涯、そして受難と十字架を頂点としての試練の歩みであり、この荒野の試練は、その公の歩みを始めるその最初の一歩であるということ、そして、何より、イエス様はそんな私たちのためにこそ、この誘惑を受けられるのであり、やはり、ここでも今日も、イエス様の十字架の福音が私たちに示されていることを教えられるのです。1節から見ていきましょう。

2. 「霊によって導かれて」

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)

 「悪魔から誘惑を受けるため」とありますが、同時に「「霊」に導かれて」とあります。これは聖霊のことであり、聖霊によって荒野に導かれてこの試練は始まります。ですから、これは試練が悪魔によるものか、それとも神によるものであるのか、どちらなのかと言うなら、悪魔ではなく神によって意図され導かれたものであり、ヨブ記の神との問答を思い出すのですが、悪魔がイエスを誘惑するのを、神はそれをそのままさせた、いや、その場にむしろ導いたのですから、神様の明確な目的があるのです。ここで、ある人は、「神は試みに会わせるのか?それは主の祈りに矛盾するのではないか」と思うかもしれません。しかし、悪魔の試みは、私たちに信仰を捨てさせ滅びに導くものであり殺すための試みですが、神の試みは、あくまでも試みるためそれだけの目的ではなく、ヘブル書12章に「訓練するため」「平安の義の実に与らせるため」「聖さに与らせるため」ともあるように、どこまでも相手を生かすためであり信仰に進ませ強める、救いのためのものです。この荒野の誘惑も、聖霊に導かれているとあることからも、それは、神様の私たちのための壮大な救いの計画のための一つの大事な出来事であり、つまり世のため、私たちのためのものであると言うことが見えてくるのです。

3. 「苦難の生涯のはじめ」

そして「荒野」の誘惑や、2節の

「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(2節)

 とあること。これは、まさに旧約聖書で、イスラエルが荒野に40年間導かれ、大きな試練に立たされたことや、空腹であったことなどを思い起こされるのです。よく言われるように、イエス様が空腹を覚えられとあるように、私たちと同じ肉体を持ったイエス様であることがわかるのですが、まさに聖書のヘブル書4章で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(4:15)」とある通りに、イエス様は空腹だけでなく、まさしく人となられ、私たちと同じように、つまり、イスラエルが荒野の40年で経験したのと同じように試練に遭われるし、むしろその試練の内容を吟味するなら、それはこの荒野の40日間や空腹だけでもない、「あらゆる点で」とあるように、そう、まさしく、その究極は十字架の受難と死で頂点に達するその苦難の全生涯で、イエス様はその言葉の通りに、私たちと同じくなられる、そこまでも低くなられ、全てを負われ、そして生きられることを、この洗礼を受けられて直後、まさにそのことを私たちに具現される出来事がこのところなのだと示されるのです。

4. 「三つの誘惑」

 そして、三つの誘惑です。このところは思い巡らすほど、実に深く心刺されるものを感じさせられるところです。まず3節

「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」(3節)

A.「悪魔の誘惑は巧妙に」

 皆さんは、試練や誘惑はどのようにくると思いますか?多くの人は、明かな目に見える迫害の形でわかりやすいように来ると考えるかもしれません。もちろん、そこにも誘惑や試練は当然あります。あるいは、十戒の中の明らかに「〜しては行けない」と言う言葉に反するよう迫ってくるはっきりと認識できる罪への誘惑も確かにあります。それも誘惑であり、試練であり、私たちは、祈りとみ言葉と聖霊の助けによって悔い改めと克服に導かれなければならないことはとても大切なことです。しかし、悪魔の神への信仰を捨てさせよう、救いを疑わせ捨てさせよう、滅ぼそうとする誘惑は、目に見えるような形でわかりやすくくるものだけでは実はありません。むしろ真の悪魔の誘惑は、その信仰と福音のために重要な教会とみ言葉こそを責めてきます。しかもあからさまに攻撃するようにではなく、非常に巧妙であり、「偽預言者は羊の形をしてやってくる」と聖書にあるように、むしろ聖い姿さえ装ってやってくる、恐ろしいものであると言うことがまさにここで教えられているでしょう。まずこの3節です。

B.「みことばを用いて」

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

 皆さん。悪魔は「神の子なら」と語りかけています。この意味がわかるでしょうか?この直前の3章17節で天からの声はこう言っています。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。そう、悪魔は、その天からの神の声、イエスは神の愛する子であるという、そのみ言葉を明らかに知っているのです。「神の子なら」と。つまり、悪魔はその3章17節の天の声、神のみ言葉さえも誘惑に用いているという事実です。天の声がそう言っているのならと。これは第二の誘惑でも同じです。6節以下ご覧ください。こうあります。

「6節〜「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、

あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」

 ここでも「神の子なら」とありますが、それだけではありません。今度はもっとはっきりと、悪魔は聖書を用いるでしょう。旧約の詩篇の言葉(91篇11−12節)を用いて誘惑するのです。聖書にこう書いてあるではないかと。悪魔は、私たちに聖書を否定させようと試みる存在です。しかし、彼らは明かに聖書の言葉を否定し侮辱し嘲るようにして誘惑し試みてきません。もちろんいつの時代も外側から、そのようにして明確に聖書を否定して誘惑してくる誘惑や試練はあり、今の時代も溢れているでしょう。しかし悪魔の誘惑は、むしろクリスチャンの間で、教会の中で、実に巧妙に働き、しかもわかりにくく現れるのです。むしろ聖書の言葉さえ敬虔そうに用いてきます。「聖書はこう言っているでしょう?」と。そのように聖さを装ってさえ悪魔は教会を荒らすことは実は少なくないし、それは外側からの迫害と同じくらい、いやそれ以上に多いと言うことを神学や教会の歴史は物語っていますし、この教会ではなくとも、世界中、日本中の教会内で今もあることです。

C. 「「もし〜なら」によってみ言葉を条件化する誘惑」

 そして、それだけではありません。注目したいのは、悪魔は「どのようにして」み言葉を悪用するのかということです。それは「もし〜なら」という言い方が隠されていることです。「神の子なら」「天の声がそう言うなら」「みことばにそう書いてあるなら」と。この「もし〜なら」は実に私たちが誘惑されやすい言葉でありますが、その「もし」という意味には「本当にそうなのか」「本当にその通りなら」、つまり、裏返せば「そうではないのでないか」という「疑い」が実は必ず含まれている質問だということに気付かされるはずです。いわば、「もし」には、質問する側、求める側の条件付けが必ずなされているということであり、神やその言葉を条件付けることが起こります。つまり、神ではなく、こちらが人間が、主導権の質問や願いになるということです。

 皆さんこれは実は、先ほど第一の聖書朗読でも読みました。創世記3章の悪魔の誘惑と同じなのです。悪魔はエバに言うでしょう「神は本当にそう言ったのか」「もし食べても死なない」「もしそれを食べるなら〜神はご存知である」と。ここでも同じです。もし天の声が言うように、あなたが神の子なら、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。神殿の頂から飛び降りたらどうだ。そうすれば、空腹は満たされる。そうすれば、みことばの通り、天使たちがあなたを助けるだろう」。悪魔はイエスはそれができないと思って言っているのでもないし、天使がみことばの通りには助けに来ないとも思っていません。できることはわかっているのです。実際に、イエス様は石をパンに変えることもできますし、神がみことばにある通りに、イエスを助けることもできるのです。しかし、このみことばを用いてまでの「もし〜なら」には深刻な落とし穴があるでしょう。「もし〜なら」と投げかけているその問いかけは、それがどれだけ敬虔な祈りや願いであったとしても、その通りになることを願う悪魔中心、人間の思いや願望が中心、土台にあって、その通りになることで、結局は、人間の思いや願望に神を従わせようとする思いが隠されているのです。悪魔の言う通りにイエスがするのなら、イエスは自分自身の栄光を自分で自分のために得ることにはなりますが、悪魔の「もし」への同意することになります。そしてその結果は、人に、救いとは神の恵みのわざではなく、「自分自身の栄光を自分で自分のために果たすことだ」と言うその偽りの模範をまさに示すことになります。そして人間の救いの道はまさにそのようなものになり、恵みも信仰義認も何もなくなり、ただ自分で果たす律法になっていたことでしょう。悪魔の問いかけの狙いはそこにあります。実に巧妙です。しかしそれはずっと変わらない手法なのです。堕落の時も、悪魔の「神は本当にそう言ったのか、〜もしその身を食べるなら生きるようになる」という言葉の通りになっていくところには、アダムとエバの、神の言葉や御心よりも「神にようになれる」「賢くなれる」「見るに慕わしい」という彼らの思いや願望が優先し、それにみ言葉を勝手に解釈し当てはめ、従わせようとして堕落するでしょう。その過程と結果は、どこまでも罪人で救いようのない私たちの現実ではありませんか。堕落の時の「もし」の手法に悪魔は成功し、初めからいつまでも変わらない。狙いも常に変わりません。この狙いによって教会はどうなるでしょう。「もし〜なら」とみことばを用いて、結局は、神中心のみことばではなく、罪人である人中心でみ言葉を理解しようとする、解釈しようとする、人の思いや願望にみ言葉を当てはめよう、従わせようとすることが起こっていないでしょうか?それは正しく悪魔の思いのまま、狙い通りの誘惑に、人が陥ることです。そのようにして、教会で、福音は律法にすり替えられ、律法があたかも福音であるかのように語られるようになったり、理性や道徳やヒューマニズムが語られるようになりますが、しかし大事なことです。そこには救いも平安もありません。そうなってしまうと正しく、悪魔の勝利に他なりません。実はそれが教会にとっても、クリスチャンにとっても、つまり、宣教や伝道にとっても何よりも恐ろしいことであり、悪魔はいつでも巧妙に教会に入り込み、混乱させようとしているのです。

D. 「人中心の解釈で歪められるみことば」

 皆さん、聖書の言葉、確かに私たちにとって大事です。誰も否定しません。しかしただ

「聖書の言葉、聖書の言葉」と掲げていれば、それだけで安心でもなければ、正しいキリストの救いの教えかどうかは実は判断できません。なぜなら、異端でも「聖書の言葉」を掲げ「聖書は何より大事だ」と声高に言うからです。自分達は聖書の言葉を第一にしているのだと。リベラルでも熱狂主義者でも律法主義者でも「聖書は大事」「聖書は第一」と聖書の言葉を掲げます。「聖書は第一、大事」と、聖書を掲げているだけなら、世界中のキリスト教のどんな団体も、異端でさえも、誰も意義を挟まないことでしょう。しかし、「みことば」を掲げても、「神が私たちに真に何を伝えたいのか、神が何を伝えているのか」ではなくて、まさに「もし〜なら」の人間中心の土台で聖書を人間の思いに従わせ、人間の都合に合わせ、文化や流行りに合わせ、世界の潮流に合わせるようにして聖書を解釈して、それが、間違った解釈なのに、文化や潮流がそうだから正しい神の教えなんだと、教会で説教されたり教えられたりするようなことはいつの時代も常にあるし、この現代は人間中心主義のもとでなおのこと顕著になってきています。それは多くの人々には心地よい教えなのかもしれません。人間の「もし〜なら」に聖書を当てはめ都合よく解釈しているのですから。しかし、それが本当に神が、イエス様が私たちに伝えていることではなく、単に人間が聞きたいことを聞いているだけであるなら、まさにそれは、イエスが悪魔の声に従って石をパンに変えてしまったこと、神殿の頂上から飛び降りたこととと、同じです。究極的にはイエスも十字架もなきものにしているのです。人の前では上手くいっているように思えても、神の前では、悪魔への敗北であり、そこで「みことば」と幾ら掲げても、真のキリストはいない、真のみことばもない教会のような建物や集まりであり、そこに真の宣教も伝道もないと言えるでしょう。

5. 「イエスの答え」

A. 「〜と書いてある」

 イエス様はどう答えるでしょうか。4節

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 そして7節

「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 そして、世のすべての繁栄が見えるところで、もし私にひれ伏せばこの繁栄を全て与えようという最後の誘惑に対しても、10節

「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 イエス様はこれら三つの誘惑への答えとともに、まさに真の教会とは何かを私たちに示しています。それは、もちろんみことばです。しかしそこには人間の側の「もし〜なら」などの条件付けは何もない、「こう書いてある」「神はこう言われる。聖書にはこうある。」それだけです。人の側が「もしこうであれば」「もしこうでなければ」「こうであったなら」と、みことばを人間の思いや願いや文化で捻じ曲げてでも聞きやすいように、わかりやすいように、受け入れやすいように教える、伝える、説教する、では決してない。神が私たちに何を伝えているか、何を伝えたいのか、そのまま、神はこう言っている、神はこう言われた、聖書はこう書いてある。教会の宣教、説教、教えは、これに尽きる、そしてイエス様や使徒たちがしたように「こう書いてある」ことの正確な解き明かしに尽きるのだとイエス様は私たちに教えているのです。そのようにみ言葉の正しい福音を受けて救われ聖霊に導かれているものは、「もし〜なら」の人間中心で条件付け神を従わせるみ言葉利用ではなく、「神はこう言われる」の福音にこそ聞くのであり、その言葉にこそ、日々、罪を示され、悔い改めを与えられると共に、そこに、十字架の救いの光をはっきりと見せられ真の平安を経験するのです。

B. 「全ては私たちのために」

 そしてここでもう一つ大事な点があります。イエス様の試練の道は、この後も続き、イエス様はあのゲッセマネの祈りでも、もちろんイエス様も「この杯を取り除けてください」と、その思いをあからさまに祈っています。願うことは決して悪いことではありません。しかし、イエス様は、その自分の人としての肉体の苦しみの願いに神の計画や御心までも従わせようとせずに、最後にこう祈りを結んでいます。しかし「父の御心のなる通りに」と。そして、イエス様は、まさに十字架に至るまで、私たちの経験する以上の大いなる苦しみと死を受けられました。しかし何よりそれは私たちが受けるべきものの身代わりとして、私たちの罪のためであり、その罪とその結果から救うためであったでしょう。この荒野の悪魔の三つの誘惑から始まる、イエス様の試練の道、苦難の道、それは私達への律法でもなければ模範や道徳律でもない。どこまでも私たちのために神はイエス様を導いています。その道を、イエス様は悪魔の「もし〜なら」の願望を刺激する誘惑の通りに、自分自身の栄光を自分のための自分で果たすようなことはせず、むしろ、イエス様は、どこまでも、神を神とし、神のみ言葉そのまま、神のなさることにそのまま黙って従い、仕える者の姿となり、十字架にまで従われます。イザヤ書にはそれが私たちのための神の御心であったとあるでしょう。苦難や重荷を私たちに負わせるのではない、それらを私たちのために担い背負ってくださる救い主が私たちに示されているのです。

6. 「福音によって遣わされる」

 皆さん。ここでも福音によって私たちは遣わされています。私たちは、自らの力では、決して誘惑に打ち勝つのことできないものです。最初の人は、その誘惑に負けました。イスラエルも誘惑や試練に負けました。弟子たちも負けました。私たち人間は誰も生まれながらの力でも理性でも、この誘惑と試練に打ち勝つことはできません。罪人だからです。しかしこの箇所は、あなた方罪人が自らの力で誘惑に勝ちなさいという道徳や律法の教えでは決してありません。イエス様が言いたいのはそんな私たちに重荷を負わせることではありません。絶えることのない荒野の世の、悪魔の目に見える誘惑と巧妙な目に見えない両方の誘惑に対して、私たちはあまりにも弱いのですが、しかし、何よりイエス様が私たちのために、この十字架と復活で、打ち勝ってくださった。みことばで、そして十字架で。そしてその事実とそれが恵みとして私たちに与えられるこそがこの聖書に「こう書いてある」と今日もいつまでも変わらず、何よりも私たちに示されている救いの約束の核心ではありませんか?そして、事実、イエス様こそが同じようにこれからもこのみことばを持って誘惑を退けてくださるお方であり、十字架のイエス様こそが、今日も変わらず私たちに宣言してくださいるでしょう。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。

 私たちは今日も罪を悔い改め、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と豊かに罪を赦してくださるこの十字架のイエス様の福音を受け、安心してここから出ていきましょう。そのような私たちをイエス様は新しい週も主の勝利の器として豊かに用いてくださるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

手芸クラブの報告(2023年2月22日)

今月の手芸クラブは22日水曜日に開催しました。朝はまだ冬の寒さでしたが昼間は太陽が輝いて暖かくなり春が近づいていることを感じさせました。

今回の作品はマクラメのコースターです。初めにコースターのモデルを見て自分の作りたいものを選んで、作品に必要な糸の長さを測ります。それから各自マクラメを結ぶ場所を準備して結び始めます。今回はマクラメの二つの基本の結び方を用いました。初めは巻き結びで一段を結びます。次は平結びで、コースターのメインの結びです。参加者の皆さんは楽しくおしゃべりをしながら結んでいきました。次第にレースのような模様がきれいに見えてきました。皆さん、結ぶ手が速く、あっという間にコースターの長さになりました。最後に巻き結びを一段結んでコースターの結びは出来上がりです。コースターのフリンジはお家ですることにしました。

皆さん、マクラメの結びに夢中になって時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。コーヒーの準備をして皆ホッとして座ります。手芸クラブの前の日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネン「Laskiainen」という日でした。それで、その日にちなんだラスキアイスプッラというフィンランドのお菓子パンをコーヒー・紅茶と一緒に味わいました。中に生クリームがたくさん挟まっているお菓子パンです。皆さん美味しそうに頂きました。少し歓談の時を持ってから、モニターでフィンランドの景色と音楽のビデオを鑑賞しました。終わりにフィンランドのラスキアイネンについてと聖書のお話がありました。

次回の手芸クラブは3月29日に予定しています。日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。

 

手芸クラブ2023年2月フィンランドのラスキアイネン

昨日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネンという日でした。イースター・復活祭の前の準備期間を四旬節と言います。40日くらいあります。四旬節が始まる水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、今日がその日です。ラスキアイネンはその前の日です。ラスキアイネンとは「下ること」を意味し、四旬節に下っていくという意味です。それが昨日で、今日から四旬節が始まりました。

四旬節に入る前、フィンランド人はラスキアイネンの日を特別な過ごし方で過ごします。ラスキアイネンが近づくと多くの家庭ではラスキアイス・プッラというお菓子パンを作ります。クリームがたくさんプッラの間に挟まったカロリーの高いお菓子パンで、家庭で作られるだけでなく、冬から春にかわる今の季節にお店で一番売られるお菓子パンです。昔フィンランドの教会ではラスキアイネンから断食の期間に入ったので食事は簡単なカロリーが少ないものでした。そのためラスキアイネンの日に人々は油や肉が沢山入っているカロリーが多い料理を食べたのです。カロリーが高いラスキアイス・プッラもその一つでした。

ラスキアイネンの日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中をそりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るかいつも競争しました。その日は学校に行く前に朝5時や6時頃にそりで滑ったこともあります。

そんなふうに子供の頃は兄弟たちとの競争心が強かったので、ラスキアイネンに朝早く起きるのは問題なく楽しいことでした。しかし今、早起きはどうでしょうか?日本の冬はフィンランドのように家庭の暖房が整っていないので夜が寒く、朝の早起きは少し辛いです。寒さだけでなく、周りでいろいろなことが起こると朝起きが大変に感じられます。しかし、新しい朝を迎えられるというのは本当は神さまに感謝すべきことなのです。特に年を取ると新しい朝を迎えられるのは当たり前のことではなく神さまからの贈り物であるますます考えられるようになりました。フィンランドに百歳近くの元宣教師の方がおられました。その人は新しい朝を迎えるといつも、「天の神さまはまた新しい朝を与えて下さった」と不思議そうに言いました。

旧約聖書の哀歌には朝について次のように書いてあります。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」哀歌3章2-3節です。この御言葉は、私たちは新しい一日を迎える時、いつも新たな力や新たな希望を持ってスタートできるという意味です。私たちはその日の為に計画がありますが、実際どんな日になるかは分かりません。計画したことが実現しないこともあります。しかし、そのような日にも天の神さまは私たちと共にいて導いて下さるので、その日は神さまからの贈り物になるのです。それで、哀歌のみ言葉に書いてあるように、「主の慈しみは消して絶えない。それは朝ごとに新たになる」のです。

毎朝新しい一日は天の神さまの恵みによって頂くものです。恵みとはどんなことでしょうか?私たち人間は正しいことだけでなく悪いこともしてしまいます。それは罪です。神さまは毎朝、私たちの心を罪が赦されて感謝に満ちた心にして下さいます。私たちは聖書の神さま以外に、罪の赦しの恵みを毎朝与えて下さる方を持つことができるでしょうか?

フィンランドの国教会の讃美歌集にはこの哀歌の箇所についての讃美歌もあります。フィンランドでよく歌われる讃美歌の一つです。その中の一節を訳します。

Joka aamu on armo uus,
毎朝、罪の赦しの恵みは新しくされる

miksi huolta siis kantaa!
それなのに、なぜ、あなたは心配事を背負うのか?

Varjot väistyy ja vajavuus、
闇も弱さも退く

Jeesus voimansa antaa.
イエス様が力を与えて下さる

Kiitos Herran, hän auttaa tiellä,
感謝は主に帰せられる、主は人生の歩みを助けて下さる

meidän kanssamme nyt ja aina on,
主は今も、そしていつも私たちと共におられる

täällä suo Isän suosion,
主はこの地上で父なる神の御心を私たちに向けて下さる。

rauhan luonansa siellä.
天の御国で神のみもとにいさせて平安を与えて下さる。

ユーチューブで賛美歌を聞く

 

宣教師の週報コラム キリスト信仰者の経歴

 キリスト信仰者の「信仰歴」とは、普通は洗礼を受けた後の人生を考えると思います。幼児洗礼の方なら、堅信礼が大事な節目になるでしょう。 また教会や教派の変更、さらには信仰の試練や危機を乗り越えたことも信仰歴の中に加えられるでしょう。

 そういう信仰歴に含まれないことですが、洗礼に至る前に「主の導き」に実際に導かれるようになる期間があることを忘れてはいけません。父なるみ神は全ての人をイエス様を救い主と信じるように導いているので「主の導き」はいつどこででもあります。ただ、多くの人は気づかなかったり知らなかったり、知らされても疑ったり受け入れなかったりしています。そのために福音の伝道が行われるのです。そして、受け入れた人たちが信仰を携えてこの世を生きられるようになるために教会の礼拝があるのです。

 先日礼拝前のこと、東京で雪が降ったことに関して木村先生に、私、九州出身で子供の頃、東京に引越して来たら寒い所だと思いました、と言ったところ、「九州のどこ?」、「博多です」、「博多のどこ?」、「最初は香椎、次は貝塚、小学校は箱崎」、「あの辺はよく知ってるよ、僕は聖ペトロ教会の牧師だったから」、「私は香椎のカトリックの幼稚園に行っていました」、「ああ、あそこね、九州にいたのはお父さんの仕事の関係?」、「大丸でした」、「昔、大丸の向かいのビルに九州のルーテルアワーの本部があったんだよ」。

 なんだか話しているうちに私は、自分は幼い時からキリスト教に方向付けられていて、それもルター派がその頃から私を招いていたような感覚に襲われました。それはまた、今自分がルター派のキリスト教徒であるのは、人生の細かい紆余曲折はともかく、大局的に見たら一貫していたと感じさせ嬉しく思いました。

 キリスト信仰者は洗礼前の自分を振り返る時、例えばミッション系の学校だったとか幼稚園だったとか、そういう洗礼がなかったら経歴上大きな意味を感じないものを、とても大きな意味があると見なします。そういう出来事を紡いで本当の自分の経歴にします。皆さんも振り返ってみれば、小さくても今思えば主の導きだったと思える出来事がいろいろあったことに気づくのではないでしょうか?そんな経歴を作ってみませんか?

説教「この地上の世界が天の御国と接するところ」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書17章1-9節

2023年2月19日(日) 主の変容主日 主日礼拝

聖書日課 出エジプト記24章12-18節、第二ペトロ1章16-19節、マタイ17章1-9節

説教をYouTubeで見る

説教題 「この地上の世界が天の御国と接するところ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

本日の福音書の日課は、イエス様が高い山の上で姿が変わるという変容の出来事についてです。弟子のペトロとヤコブとヨハネがそれを目撃しました。この出来事は、私たちルター派は聖餐式をどう考えているかを理解する手助けになると思います。今日はそのことについてお話しします。

聖餐式はキリスト教会の神聖な儀式ですが、それがいかなる儀式かについて教派によっていろいろ考え方の違いがあります。ルター派の考え方は、アウグスブルク信仰告白の第10条に端的に述べられています。「聖餐式ではキリストの体と血は本当にそこにあるのであり、キリストの体と血は受け取って摂取する者に分け与えられるのである。」

「キリストの体と血」と言うように「体」と「血」を別々に言っていますが、「体」と「血」というのは合わせて人そのものを意味します。それで、聖餐式ではキリストそのものがそこにおられ、聖餐に与る者はパンとぶどう酒を口にすることでキリストを摂取するということになります。ここで理解できないことがいろいろでてくると思います。これからそれらを一つ一つ見ていきますが、まず初めに忘れてはならない一番大事なことは、ルター派にとって聖餐式とは、イエス・キリストが本当にそこにいるという儀式であるということです。確かに目には見えないが、実は本当にそこにいるというのです。ラテン語の原文で「本当に、実際に」と強調しているのはそのためです。

見えないのにいるだなんて、まるで幽霊みたいで気持ち悪いと思う人も出るかもしれませんが、でも、幽霊とかそういう問題ではないのです。それは聖餐式のパンとぶどう酒は何かがわかるとわかります。ルター派では、正当に職務に定められた牧師が聖餐式を執り行います。その時、儀式の設定のための聖句をパンとぶどう酒に語りかけると、パンとぶどう酒はただのパンとぶどう酒ではなくなって聖餐式用のパンとぶどう酒に変わる、つまりイエス・キリストがその場に本当にいることを可能にするパンとぶどう酒に変わるというのです。

それは、パンとぶどう酒を介してイエス・キリストがその場にいるということです。パンとぶどう酒を介してその場にいるということをルター派は次にように説明します。キリストがパンとぶどう酒の中におられる、パンとぶどう酒と共におられる、パンとぶどう酒という外見の下におらえる、そういう、中に、共に、下に、という三つで、キリストとパンとぶどう酒の結びつきを考えます。

なぜルター派は聖餐式をこのように考えるのかと言うと、それが、イエス・キリストの本質にピッタリあうからです。イエス・キリストの本質とは、神であり同時に人間でもある方であるということです。外見は紛れもなく人間であるが、外見の下に神のイエス・キリストもあるということです。このように、神という超越するものが人間という超越していないものと組み合わさっているというのがイエス・キリストの本質です。聖餐式でイエス様が本当にいるというのも、パンとぶどう酒という超越していないものにイエス・キリストという超越したものが組み合わさっているから本当にいるのです。

他の教派の聖餐式の考え方と比べると違いがはっきりします。カトリック教会は、パンとぶどう酒は本当にイエス様の血と肉に変質すると強調します。イエス様が、これは私の肉である、私の血である、と自らおっしゃったからです。もちろんパンはパンの味で、ぶどう酒もぶどう酒の味のままですが、聖餐式で摂取するのは本当はパンではなくイエス様の肉であり、ぶどう酒ではなくイエス様の血なのです。恐ろしい位に神聖な感じがします。しかし、そうなると、パンとぶどう酒はなくなってしまうことになり、全てのものが超越的なものになります。ルター派のポイントは、超越的なものが超越的でないものと組み合わさっているというものです。

これと対照的に宗教改革のもう一つの雄であるカルヴァン派は、聖餐式はイエス様が裏切られ十字架にかけられる出来事を記念する儀式であることを強調します。イエス様が記念のためにこれを行いなさいとおっしゃったからです。しかし、そうすると、超越的でないパンとぶどう酒はあるが、超越的なものとそれはどう結びつくのだろうかとルター派は考えてしまいます。

もちろんカトリックもカルヴァン派のどちらも聖書の中のイエス様の言葉に基づいて聖餐式を考えます。イエス様はこれは私の肉である、血であると言っているし、また、記念のために行いなさいとも言っています。じゃ、ルター派はそれらの言葉をどう考えるのか?この問題について、ルター派は彼らのような明快な答えは出せないと思います。それでも、ルター派はやはり、イエス・キリストは神であり同時に人間であるお方であるということにこだわって聖餐式を考えます。それなので、イエス・キリストはパンとぶどう酒を介して本当にそこにいるという立場を取らざるを得ないのです。このように聖餐式の考え方の違いがキリスト教会を分裂させているというのは残念ながら本当のことです。私は、ルター派の立場で話を進めていきます。

2.

さて、聖餐式でイエス・キリストが本当にそこにいるとなると、一つ大きな疑問が起きます。それは、イエス・キリストは復活して天に上げられて今は最後の審判と天地の再創造の日まで天の父なるみ神の右に座している、と毎週礼拝の使徒信条で唱えているではないか、それとどうかみ合うのか?という疑問です。天のみ神のところにいるはずなのに聖餐式の時に降って来るのか?しかも、聖餐式が同じ日に多くの教会であったら、イエス・キリストはそのどこにでもいるということなのか?それでは分身の術を使っているみたいではないか。天にいるはずなのに聖餐式の時になると降って来て、しかも同時多発的に降って来て、聖餐式が終わるとまた一斉に天に戻るということなのか?

もちろん、そういうことではありません。イエス・キリストはもちろん聖餐式の時も天の父なるみ神の右に座したままです。それならば、聖餐式の時に本当にいるというのはどういうことなのか?この種の疑問は信仰歴が長い方はさほど問題に考えていないと思います。人間の理解力では理解できないが、そういうものなのだ、と受け入れているからです。ルター派はそういう諦めのよさがあると思います。およそ神に関することは人間の理性や理解力では把握できないことだらけである、もし把握できてしまったら、それは神が人間並みになってしまうことだ、だから、こうとしか言いようがないことはそうしかない、イエス・キリストは天の父なるみ神の右に座していると同時にこの地上での聖餐式にも本当におられる、そこには時間と空間を超えた途轍もないことがある、そう観念してしまうのです。そうすることで、自分を神よりもはるかに劣った者に、神を自分よりもはるかに高い方に留めておくのです。私もそのように観念するようになっていったのですが、聖書のみ言葉そのものがそう観念するように導いたと思います。今日の高い山の上での出来事も、よく見ると、天にいるイエス・キリストが聖餐式の時にもいるということは可能であると納得させてくれるところです。これからそれを見ていきましょう。

3.

高い山の上で何が起こったでしょうか?イエス様が変容して光り輝き出しました。そこにモーセとエリアが現れて弟子たちの見ている前でイエス様と話し始めました。ペトロが三人のために幕屋を建てますと言った時、輝く雲が三人を覆って、雲の中から神の声が轟きました。「これは我が愛しむ子なり、わが悦ぶものなり、汝ら之に聴け」と。弟子たちは恐れおののいて地に伏してしまいました。するとイエス様が彼らの所に来て、手でさするか軽く叩くかして安心させるように言いました。「起きて立ちなさい。恐れなくてもよい。」弟子たちが恐る恐る目を開けてみるとイエス様の他にはもう誰もいませんでした。イエス様も変容する前のイエス様に戻っていました。以上が、山の上での出来事でした。山から下る時、イエス様は弟子たちに、この出来事は自分が死から復活した後で公けに話すようにと命じました。

初めに、イエス様が白く輝いたことについて。イエス様の顔が太陽のように輝き出して、着ているものも白く光り出しました。黙示録1章16節を見ると、ヨハネが天の父なるみ神のもとにいるイエス様を目撃します。その顔は太陽のようであったと言います。私たちは太陽を目で見ることはできません。ほんの瞬きする間くらいしか見れません。その色は白に近いですが、輝きが強烈すぎて見極めることのできない白です。イエス様の顔も着ているものも白く輝いたというのは、このヨハネが目撃した、天のみ神のもとにいるイエス様と同じです。つまり、山の上でイエス様は神としての本性を現わしたのです。人間の外見が外されて、外見の下に隠されていた本性が現れたのです。

そこにモーセとエリアが現れました。二人の出現はこの出来事を理解する上でとても大事です。かたや紀元前1300年代、かたや紀元前800年代の遥か昔にこの世を去った人たちです。これは幽霊でしょうか?でも、幽霊だったら、ペトロたちはきっと恐怖に慄いたでしょう。彼らはイエス様が死から復活して目の前に現れた時、幽霊だと思ってパニックに陥りました(ルカ24章36~43章)。しかし、山の上ではそうなりませんでした。どうしてでしょうか?

当時、ユダヤ民族の間ではエリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10ー11節、マルコ9章11ー12節)。この世の終わりが近づくと、天からエリアが再臨して神の裁きを準備するというのです。つまり、エリアは天のみ神のもとにいて待機しているのです。でも、これは変です。聖書には死者の復活ということが言われているのではなかったか?この世が終わる時に最後の審判があって、死んだ者と生きた者が一緒に裁かれる、そこで神の目によしとされた者は復活の体を与えられて神の国に迎え入れられる。そうすると、最後の審判の日の前にこの世を去った者たちは神のみぞ知る場所にいて眠りについていることになります。眠りから目覚めさせられるのが復活ということになります。これが聖書の立場です。それなので誰が天国に行けるのか行けないのかという問題は、この世の終わりまで待たなければわからないのです。それなのに、モーセとエリアが天から来たというのは、この世の終わりを待たずに天国に入れたということになります。

エリアに関して言えば、その点は問題ないと思います。というのは、列王記下2章にあるように、エリアは生きたまま神のもとに引き上げられたからでした。それでエリアは既に天のみ神のもとにいて、世の終わりの時に再臨すると信じられたのです。このように聖書は、将来の終末や復活の日を待たずして既に天に迎え入れられた者があるということを認めているのです。ところが、モーセの場合は少しやっかいです。申命記34章を見ると、彼はモアブの地で死んだとありますが、神自身が彼を葬ったので誰も彼の埋葬地を知らないと謎めいたことを言っています。それで、モーセは一度死んだが復活の日を待たずして神のみ許に引き上げられたと考えることが可能です。実際、イエス様の時代のユダヤ教社会にはモーセは既に天に上げられたと伝える書物「モーセの昇天」があったのです。ただし、その書物は一部分しか現存しておらず、肝心のモーセの昇天のところは欠けていて、残っているのはモーセがヨシュアに預言を述べる部分だけです。

そうなると高い山の上での出来事は、復活の日を待たずにして天に迎え入れられたモーセとエリアが神の本性を現わしたイエス様と一堂に会しているということになります。そして輝く神の雲が現われ、その中から神の声が轟きました。天の御国がすぐそばにあったことになります。高い山の上で、天の御国の扉が開いたのです。ところで、神がおられる神の国は天の国と呼ばれるので、いつも空の上にあるようなイメージがわきます、しかし、それは高度何万メートルの高い所とか宇宙空間にあるのではありません。天と言っているのは、私たちの手に届かない所にあるということを象徴的に言っているのです。神の国は、目で見えて触ることができるこの世の反対側にある世界だとイメージしたほうがいいと思います。こちらの世界の裏側に天地創造の神がおられる世界がある、と言うか、あちらが表でこちらが裏と言うのが正解でしょう。とにかく、そんな次元が全く異なる世界があるのです。その世界が高い山の上で間近にあった、あたかもその世界の扉が高い山の上で開いたのです。

イエス・キリストが聖餐式に本当におられるというのも、山の上の出来事と同じように考えてよいと思います。正当に職務に定められた牧師がパンとぶどう酒に御言葉を語りかけて聖餐式が始まる段になると、そこで天の御国の扉が開いてイエス・キリストがそこにおられるのです。全ての聖餐式が行われるところで扉が開き、全てが一つの御国におられる一人のイエス・キリストに通じるように接するのです。同時多発的に降って来るなんてことはないのです。御言葉を語りかけられて聖餐式用に変えられたパンとぶどう酒、それらが御国の扉を開いてイエス・キリストに接近できるという途轍もない状況を生み出しているのです。真に聖餐式の場はこの地上の世界と天の御国が接するところです。

4.

実に、この途轍もない状況を生み出しているパンとぶどう酒を私たちは頂くのです。アウグスブルク信仰告白の第10条では、「キリストの体と血は、これを受け取って摂取する者に分け与えられる」と言われます。私たちが本当にいるイエス・キリストを摂取するというのはどういうことでしょうか?イエス様を食べてしまったら、いなくなってしまうではないかと心配する人もいるかもしれません。それになんだか人食い人種みたいです。

そういうことではありません。イエス・キリストを摂取するというのは、イエス様が自分の命と引き換えにしてまで私たち人間に果たしてくれたものを摂取するということです。彼が命を犠牲にしてまで私たちに果たしてくれたものとは、人間の罪の償いであり、人間を罪の呪いから贖うことです。イエス様はこれをゴルゴタの十字架の上で果たされました。

私たち人間は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって、これを自分のものにできます。罪を償われ、罪から贖われたので、神から罪を赦されたものと見なされて神との結びつきを持ってこの世を生きることができるようになります。

しかしながら、キリスト信仰者と言えども、まだ肉をまとっており、それは神の意思に反しようとする性向、罪を宿しています。そのためにキリスト信仰者は罪の自覚とそこから来る罪の赦しの祈り、それに続く罪の赦しを頂くことを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消えないから罪に負けているように感じます。しかし、この繰り返しは、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きている証しです。この繰り返しは実は、罪を手段にして神との人間の結びつきを失わせようとする悪魔にとって痛手になるものです。繰り返しをやめるようにとあの手この手を使って人間をそそのかしたりやる気を失わせようとします。

これに対して聖餐式のパンとぶどう酒は、キリスト信仰者が洗礼の時に自分のものにした罪の償いと罪からの贖いを手放さないようにする力を与えます。罪の自覚と赦しの祈りと赦しを頂くことの繰り返しを続ける力を与えます。聖餐は真にキリスト信仰者の霊的な栄養なのです。私たちが聖餐を受ければ受けるほど悪魔は苦しくなって叫び声をあげます。詩篇23篇の5節で「主は私の敵の前で私のために食卓を整えて下さる」と言っているのはまさに聖餐式のことです。新共同訳では「私を苦しめる者を前にしても」ですが、それでは聖餐式のことを言っているのか見えにくくなります。せっかくヘブライ語の言葉ははっきり「私の敵」と言っているのだから、そう訳すべきでした。

最後に聖書の原語からもう一つ、聖餐式の神秘に近づける発見があるのでお教えします。新共同訳ではイエス様と三人の弟子が「高い山に登られた」と言っています(1節)。ギリシャ語原文では、イエス様は三人を「運び上げた」と言っています。単に「登った」というのは無責任な訳だと思います。「運び上げた」のです。「運び上げた」とはどういうことでしょうか?舞台になっている「高い山」は間違いなく、現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山という標高2814メートルの山です。麓のフィリポ・カイサリアの町から出発したら標高差2000メートル以上を登らなければなりません。目的も告げられず登山につき合わされた三人の弟子たちはなんでまたこんなことを、とブツブツ言いながら登ったのか、それでイエス様はおんぶとまではいかなくとも、叱咤激励しながら登ったので「運び上げた」という言い方をしたのか?真相はわかりません。ただ、一つはっきりしていることは、イエス様は三人をこの地上の世界が天の御国と接する場所に連れて行った、そのことを「三人を運び上げた」という言い方は意味しているのです。

同じことは聖餐式でも起こります。聖餐式を行いなさいと命じたイエス様は、聖餐式に与る私たちキリスト信仰者をこの地上の世界と天の御国が接する場所に運び上げて下さるのです。聖餐式に与る度に、何度も何度も運び上げて下さり、最後は本当に天の御国に到達できるようにして下さるのです。そこには、神の神聖さに焼き尽くされないように守ってくれる雲はもうありません。肉の体に代わる復活の体を着せられた私たちにはもうそのような防御壁はなくても大丈夫だからです。パウロが、旧い世でおぼろに映ったものを見ていたことはなくなり、顔と顔を合わせてみることになると言っている通りになるのです(第一コリント14章12節)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

2023年2月12日(日)顕現節第六主日 主日礼拝

「神との和解」  2023・2・12(日)

マタイ福音書5章21~34節

今日の御言葉は、有名な「山上の垂訓」と呼ばれる、マタイ福音書5章です。 1節の始めを見ますと、「イエスは、この群衆を見て山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで口を開き教えられた。」とあります。「山に登られた」とありますが,ガリラヤ湖を望む高原の小高い丘であります。ここを読む毎、私はイスラエルの旅でこの場所に立った時の事を思い出します。周りを木々に囲まれた森のような下で、世界中から訪れるクリスチャンが皆な手を取り合って輪になって祈り合っています。教会が建てられ眼下にガリラヤ湖が広がって素晴らしい所です。この場所でイエス様は弟子たちに大切な教えをなさったのです。さて、今日の聖書は5章21節からです。実は17節から20節までのところでは「十戒」についての大変きびしい教えです。律法の中心は十戒です。そして、今日の聖書の21節から48節までは、その十戒の中の五つだけを取り上げて語っておられます。その一番初めに「殺すな」という戒めについて教えられています。21節から見ますと「あなた方も聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」人を殺す、と言うことはどんな意味でも決して許されるものではありません。ところが現実の世界を見てください。戦争という名のもとに多くの人々が殺され家を壊され、人の生活が破壊されています。しかも、何年も続いている。次にイエス様は何と言われたかというと、22節「しかし、わたしは言っておく、兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院に引渡され『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる。ここで、イエス様は誰でも怒った者は裁きに合う。と言われました。怒った者は殺したも同然だ、とは言われてない。しかし、両方とも裁かれるのだ、と言っておられます。ここには人を憎んだら、とは言われません。怒ったら、と言うのです。怒ることは憎むことよりもっと悪いことは言うまでもありません。もし、そうであるなら私たちはどうでしょうか。たびたび怒ってしまいます。頭に来た!とか、腹がたつ!と感情的になってしまいます。そうすると、イエス様の言葉からすると、私たちもたびたび殺人に等しい罪を犯している。怒ったから、と言って殺人にまで発展する事はありませんが、イエス様は同じように裁きを受けるのだ、と言われます。大変きびしい言葉であります。人を殺した者が裁きにあうことは分かります。当然です。しかし、怒った人が裁きにあう等と言うことは私たちには、とても考えられない。この当時、ユダヤ人の間では怒った者は裁判にかけられた、というのです。しかもその怒りと言うものは、いつまでも忘れない怒りであります。そこのところが大切な事です。怒ると、どうして殺した、事と同じになるのか、理屈ではない。どちらも神の裁きにある、ということです。普通の常識では考えられない、ことでありますが、ただ信仰を持っている者だけが信じる事のできることです。信仰者にとってはどちらも神の前に行われることでことでありまして、怒られた人も又神によってつくられた兄弟であり一人一人尊い人格を持った人でありますから、従って、怒ったら神に対して責任を取らねばならない事だからです。イエス様が神の目を持って人間に対して鋭く神の世界、信仰の世界から言われるのです。神に対しての責任からして、神の裁きを受けるのだ、ということ。神の裁きということが信仰生活の中で何か古い事のように思われて、私たちの実感として、どれ位あるのか問われているわけです。私たちは神のことを第一にする、と言いますが神様の生きた働きがはっきりと実感として、受けとめられた生活であるか、どうか問われています。「裁き」というのは、神が私たちの中で、私たちのすること、なすことに正しく判断なさる、自分に都合のいいような、曖昧な事はなさらない方である、という事です。神が「私の中に生きておられる」ことを信じる、ことであります。神の裁きがある、と言っても、いつもびくびくして、生きるということではありません。神が生きておられる、 このこ事を信じて生きることです。この事をイエス様は、この教えの中ではっきりさせたい、と思われているのです。

次にイエス様は言われます。「兄弟に向かって、愚か者、と言う者は議会に引き渡されるであろう。」そうすると、怒るというのは「兄弟に対して愚か者」と言うことと同じになります。しかも、「愚か者」と言ったら議会に引き渡されるのですから、怒った者が裁きに会う、というのは、やはりユダヤ人たちの裁判にかけられる、ということであります。ユダヤで議会というのは国会のようなものです。この当時ではユダヤ人たちの生活の中心になっていた所です。祭司が議長になって、全部で71人で構成されていました。いずれにしろ、怒ったり、愚か者と言う者は何れかの社会的制裁を受ける、という時代であったのです。イエス様は、そういうユダヤの現実社会の事実を取り上げて、御自分の考えと神の子の権威を示そうとしておられます。その後、又、又凄く厳しい言葉を言われます。「ばか者、と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」と。これは大変な事であります。なぜ、イエス様はこれ程まで、厳しく言われるのでしょうか。どんな意味がそこにあるのでしょうか。この事は5章21節から5章の終わりまで十戒の内の五つの戒めを引き合いに出して同じ形式で言っておられます。みんな通じる事です。その形式は「あなた方も聞いているとおり、と『十戒の戒め』をあげて、しかし私は言っておく、と宣言して厳しいイエス様の常識では考えられない厳しい言葉をもって踏み込んで宣言しておられます。例えば、「敵を愛しなさい」と言われる。43~44節を見ても同じ形式です。あなた方も聞いているとおり「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイが、この福音の中で証し示そうとしたのは、そうした「厳しい言葉を宣言される、お方が来られた」という事であります。このお方は律法に対してさえ「わたしは言う」と言って全く同じ権威を持っている事をお示しになったお方でありました。4章17節で、イエス様はガリラヤ伝道を始められる時、「天の国は近づいた」と言われた。天の国、つまり「神の国が来た」ということは文字通り大変なことであります。それは、「神の支配が来た」ということだからです。今まで、この世界は誰が支配していましたか。ヘロデ王ですか、ローマ皇帝ですか。或いはこの世を支配しているのは政治家ですか。いや、やっぱり金が支配しているのだ、と言うかもしれません。律法学者の律法かもしれません。ところが、いまや、神が支配されることになった。と言うのであります。神の御子が神の国をもたらす時が来た。このお方は神の支配を口にし、神の支配をもたらし、実行し、ついには十字架の死と復活をもって、証明する、そういうお方が言われているのです。「わたしは言う」と、ここに権威があるのです。それは、ただ口先で「神の国は来た」と言われるのではありません。このお方の全生涯を通して、実行されて行く背景があるのです。その背景は神の御子イエスの歴史であって、天の御父が、彼と共に従順を通して復活まで共に行かれたものです。「わたしは言う」と言われる言葉の力はここにあるのです。それは、神の御子であられるイエス・キリストの歩まれた道、でわかる、ということです。それを、もとにして「わたしは言う」と言われるのであります。5章から7章までの「山上の教え」の全ての言葉がこれにかかっているわけです。私たちの「兄弟に対して愚か者」と言うなら地獄の火の裁きを受けねばならない。これを言われたら絶望してしまうでしょう。そういう絶望してしまう弱い立場の者の事をみな知った上で、それに対する救いをも、もたらして下さる、十字架の死をもって、その罪を身代わりに受け、復活して、永遠の生命を与えて下さる、その用意をされて告げておられるのであります。イエス様は神の裁きの厳しい宣言を誰に語っておられるか、と言いますと、山上の説教を聞いている人々、特に弟子たちに語られている。もっと言いますと、この言葉は神によって生きる信仰をもった人々、つまり後の教会生活をする信仰者、すべての人々に向かって言われる言葉であります。

だから、マタイは兄弟という言葉を度々使っています。それは、教会の中の兄弟でもあります。信仰者の間で「ばか者」と呼ばわりするような者は地獄の火の裁きである、ということです。教会ではお互いに愛し合う兄弟姉妹です。従ってキリストにあって罪があることを知らされ、キリストによってそれが赦された、ことを知って互いに愛し合うのであります。それならば、「殺さない」ということは勿論のこと、「怒らない」ことも兄弟に対して「愚か者」と言ったりしない生活ができるのは教会の中であります。ところが、現実には信仰者は教会の枠を超えた、この世の只中に生きている、そこに生けるキリストも共に働いて下さる。パウロは、ローマ人の手紙の中で4章8~15節に次のように書いています。「私たちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死にます。だから、生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のもの、なのです。キリストは死んだ者と、生きている者の主となるために死んで、復活されたのです。それだのに、あなたは、なぜ兄弟を裁くのですか。なぜ、ばかにするのですか。キリストは兄弟のためにも死なれたのです。」イエス様は腹の立ついやな奴のためにも十字架に死なれたのです。私たちは、どうしても赦せない恨みでイエス様を苦しめてしまったのです。そこで、次にマタイ5章23~24節を見ますと、イエス様は仲直りをせよ、と言っておられる。前の方で怒る者は裁きにあう、と言って後の方では恨みを受けるなら供え物をする前に和解しなさい。と言っています。「殺すな」という戒めから話がこのように進んできた。よく考えてみると裁き、と和解とは決して関係がないもの、ではない。むしろ裁きは当然、和解を求めるはずでありましょう。裁きは裁きだけで終わるはずがありません。何故ならそれでは何の救いもない、結果は破滅に向かうだけだからです。戒めは「殺すな」ということであっても、滅びに終わるはずはないのです。「殺すな」と言って、ただ殺さなければ良いと言うものではない。その戒めが深刻に扱われれば扱うだけ救いに近づくことになるはずであります。重要な事は、それが礼拝と結びついている、ということであります。「殺すな」という戒めを考えた、そこから「怒るな」ということになって、それを礼拝の前に持って行けばどうなるでしょう。イエス様は、わたしは言っておく、と言って「愚か者」という者は火の地獄に投げ込まれる。23節で、突然、だから「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したら・・・・」と書いてあります。「そこで思い出したら」とあります。祭壇の前では私たちに隠されていた多くの事が突如として頭に浮かんでくる、と言うのです。礼拝の話が語られて行くのです。礼拝では今まで考えていなかった事が急に思い出される。つまり、神の前に、あらゆる意味で自分の罪の深さを、改めて思わされる、というのです。それで、礼拝に於いて一番初めに罪の告白をいたします。実際に礼拝に於いて、思い出す事は、恨みや、憎しみ、自分のした事、罪として告白すべき、いろいろな事であります。そういうことを、ここで思い出す、ことは何のためか、と言いますと、自分が犯した罪によって神の裁きに会わねばならない、という問題があるからです。もし、そうであるなら、それは怒った時と同じです。怒ったら裁きに合うのだ。そしてついには神の裁きに合うという事になるはずであります。そこで、礼拝に於いて裁きを受けねばならない立場にある、自分が神から赦していただくことであります。つまり、神との和解と言っても良いでしょう。なるほど、私たちは罪を赦されているにちがいない。罪を赦された、と言うのはいつでも赦しの言葉を聞いている、ということです。絶えず、礼拝の度に赦しの声を聞き、それを信じていることであります。洗礼を受けて信仰に入っている、と言うことは、いつでも悔い改めて、神からの恵みを新たに信じる用意が与えられている、ということです。ある人が言いました。「神の赦しを真剣に求める者は兄弟に向かって、行った正しくない事をも考える。このような思い出しこそ、神礼拝が私たちにもたらす祝福である」と。どこまでも、まことの赦しは、神からのみ出るのであります。神との和解が人との和解へと変えて行くところに祝福があるのです。  アーメン

人知では、とうてい測り知る事の出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月4日に開催されました。10年来の厳しい寒さが続く日々の朝でしたが、昼間は太陽が眩しく輝き清々しさを感じさせました。 今回の料理クラブでは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並べられるルーネベリ・タルトを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に生地に入れるシナモン・クッキー(ピパルカックです)を細かく潰します。次に粉類を計って潰したクッキーと一緒に混ぜます。別のボールにマーガリンと砂糖を混ぜると、教会はハンドミキサーの音が響き渡りました。白く泡立ってから卵などの材料を加えてケーキ用の生地が出来上がりです。生地をマフィンカップに入れてオーブンで焼き始めると「いい香り!」という声が聞こえてきます。

焼き上がったタルトの上にアップルジュースを少しかけて冷やします。終わりはタルトの上にラズベリージャムをのせて、その周りをアイシングで飾りつけ。これで、美味しそうなルーネベリ・タルトの出来上がりです!

早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリ・タルトをコーヒー紅茶と味わう歓談の時を持ちました。その時にルーネベリ・タルトとフィンランドの有名な作家ルーネベリとの関係、ルーネベリが作詞した讃美歌とそのもとにある聖書についてのお話も聞きました。

帰る時もまだ明るくて、日が少しづつ長くなって春が近づいていることが分かりました。次回の料理クラブの時はすっかり春めいているでしょうか?

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月11日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

2023年2月4日ルーネベリ・タルト

今日はフィンランド人が好きなルーネベリ・タルトを作りました。フィンランドでは新年を迎えたあと少しすると、どのお店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。もちろん家庭でも作ります。ルーネベリ・タルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、今日皆さんと一緒に作った形のもので、生地につぶしたクッキーとアーモンドを入れたり、タルトの上にラズベリージャムをのせて周りにアイシングをするものです。この形の他にも最近ではロールケーキやケーキの形のものも作られるようになりました。生地に入れる材料もいろいろ変化しています。

ルーネベリ・タルトはどうしてフィンランドの今の季節のお菓子でしょうか?それは、明日の2月5日はフィンランドでは「ルーネベリの日」という日だからです。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。

Albert Edelfelt [Public domain]ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。彼は書いた詩や小説を通してフィンランドの美しい自然や国民の理想的な像を描きました。また彼は教会のことにも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。今フィンランドの国教会で使っている賛美歌集の中にはルーネベリが書いた賛美歌がまだ15曲のっています。

どうしてフィンランド人がルーネベリを記念する時にルーネベリ・タルトを食べるのかというと、それは彼がこのお菓子が大好きで、朝食の時にも食べたくらい好きだったからです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリ・タルトは初めはスイスで作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになりました。それで奥さんのフレディリカもこのお菓子を作るようになりました。

このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはお菓子の伝統だけではありません。詩や小説、讃美歌も沢山残しました。ルーネベリ・タルトは冬の季節のお菓子ですが、彼が書いた詩や小説、讃美歌は季節に関係なくいつでも読まれたり歌われたりします。これから、ルーネベリが書いた讃美歌について少しお話したく思います。

ルーネベリが書いた讃美歌の一つに「人が地上の人生を歩む時」というのがあります。この讃美歌を通してルーネベリは人生を旅にたとえています。讃美歌の意味を短く説明すると次のようになります。人生の旅には喜びや感謝もあれば、試練や悲しみもある。しかし、天の父なる神さまがいつも導て下さることを忘れずに神さまに信頼していけばいつも安心を得られる。私たちの父である天の神さまは私たちが歩んでいる道を誰よりも一番よくご存じなので、私たちに一人ひとりに相応しい助けをいつも与えて下さる。人生の道に危険がある時は神さまは知恵を与えて安全な道に導いて下さる。このように人生の旅は神さまが守り導いて下さる旅である。だから私は神さまに感謝をする。大体こういう内容です。

この讃美歌は長くて8節までありますが、4節だけ訳して紹介します。

「このことを忘れないでほしい
あなたがどこに向かって歩んでいく時も、
あなたの神は恵み深く、いつもあなたの脇についていて下さる。
だから、たとえ危険が迫っても、
父なるみ神はあなたの歩む道を知っておられ、
あなたの行く手を守って下さる」

ルーネベリはこの讃美歌を1850年頃に書きましたが、讃美歌のメッセージは現代の私たちにとっても励ましになります。神さまはいつも私たちと共に歩んで下さって、私たちのことを全てご存じで相応しい助けをいつも与えて下さいます。このように言うことは簡単ですが、本当に神様は信頼出来るお方でしょうか。聖書には神さまが本当に信頼できる方であることを沢山の人が証言しています。旧約聖書の詩篇を書いた人は次のように言いました。
「主は人の一歩一歩を定めて下さり、み旨にかなう道を備えて下さる。たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」詩篇37章23-24節です。

私たちの生活の中にはいろいろ大変な時がありますが、そのような時でも父なる神さまは助けを与えて導いて下さるというのが聖書が伝えるメッセージです。親が小さい子どもの手を握って歩く時、子どもは遠くに走らないで親の側を歩きます。親は子どもを守ります。天の父なる神さまは親と同じように私たちの手を握って一緒に歩んで守ってくださいます。私たちは神さまが一緒に歩いてくれることを望んでいるでしょうか?時々子どものように親の手を離して好きな道に行こうとしてしまうかもしれません。そのような時は、先ほどの詩篇の言葉を忘れないようにしましょう。「たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」。このような神さまの手を離さずに、私たちは神さまを信頼して人生の道を歩んで行きましょう。

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説教「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章13-20節

主日礼拝説教 2023年2月5日(顕現節第五主日)

聖書日課 イザヤ58章1-12節、第一コリント2章1-16節、マタイ5章13-20節

説教をYouTubeで見る

説教題 「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言う個所です。弟子たちに言われたということは、私たちキリスト信仰者にも向けられた言葉です。「地の塩」、「世の光」とは具体的に何を意味するでしょうか?何か世の中のためになるもの、人々の模範になるような立派なものではないかという感じがします。16節に「立派な行い」なんて言っているからです。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。キリスト信仰者はもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?イエス様がそう言う以上、よーし、そうなるぞー、と気合いが入る人もいれば、逆に自分には無理と尻込みする人もいるかもしれません。しかし、気合いを入れるにせよ尻込みするにせよ、キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」というのは、イエス様が言う通り、既にそうなのです。だから、そういうものとして生きるしかないのです。それでは、「地の塩」、「世の光」とは何なのか?何か立派なものなのか?これについて後ほど見ていきます。

「地の塩」、「世の光」のことを言った後で、イエス様は自分のことを律法や預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために贈られたのであると。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は守ろうにも適用する対象がありません。ところが、人間の罪の償いのために犠牲の生贄が必要ということがあります。イエス様の十字架の死はそのための犠牲だったのです。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は適用できなくなっても、罪というものは神に対して償いをしなければならないということ、人間は罪の呪いから贖われなければならないということ、これは神殿がなくなっても、そのままです。だからイエス様の十字架の死と死からの復活は人間の救いのために今もなくてはならないものです。

このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様はさらに二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。

イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思に反する罪を持たない方、神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現している方です。預言とは、神と人間の断ち切れてしまった結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が贈られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書の中にある神の意思と計画を実現した方です。

ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫、申し分ないと認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。

2.「地の塩」とはどのような者か?

それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。

塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。

ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰が伴う状態で洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になる、するとそれはもう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。

本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に属する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた計画という神の知恵の現われであり、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた知恵なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の秘められた計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。

3.「世の光」とはどのような者か?

次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代にはイスラエルの地にもギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然と輝く光であるということです。

輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然としてある光です。

イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市や燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じように全ての人の前で光を放つのがキリスト信仰者であると言われます。そして、立派な行いがその光であると言います。人々は、キリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?

そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないことになると言っているのでしょうか?でも、そう言ってしまったら、人助けをしたくても、病気だったり障害があったり、または困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?

人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には、信仰者でない人にはない特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっている事情です。キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」になっているというのはこの事情があるからです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味しています。それなので、病気や困窮してしまって人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で困窮していない余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広いものが良い業であるということです。

光のように輝く良い業が人助けに限られないということは、本日のイザヤ書の箇所をもっと先まで読むと明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。

「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンはヘブライ語の辞書を見ると、魔術的な意味があるかどうかはクェッスチョン・マークと書いてあります。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。「有害な言葉」を神に向ければ第1から第3までの掟にも関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。

さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイザヤ書の狭い歴史の枠の中で考えると、イスラエルの民を外国の支配から解放して王国を復興させる時が来るという預言に解することができます。そうではなくて、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、この預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失って廃墟のようだった人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現したイエス様はもちろん、使徒たちのようなイエス様の良い業を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導く人たちも光を放つのです。

このようにキリスト信仰で良い業は人助けだけでなく十戒全体と結びついています。それに加えて、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。

4.ファリサイ派や律法学者の義に勝るキリスト信仰者の義

イエス様は、お前たちは「塩」である、「光」であるとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を言い表す言葉を付け足していったのです。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。

それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。この、神との結びつきが失われている地上にあって、この世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めます。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。

このことがわかったキリスト信仰者は、こんなすごいことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。

ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。だから、罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければという心を新たにします。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。

このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに踏みとどまって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。

ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために掟を守るというものです。だから、人間由来の義なのです。彼らは、掟を守る時に自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったら優越感にも浸ります。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、先に神から義と認められてしまう義です。ファリサイ派や律法学者のように人間由来の義ではありません。神に由来する義です。だから、勝っているのです。神に由来する義でそれを神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が自信の源になってしまっては、宗教的な行為を行っていても、肉だけの状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

 

 

宣教師の週報コラム SLEYの全国大会へ!

フィンランド・ルーテル福音協会(SLEY)は、フィンランドのルター派国教会の中で活動する1873年設立の団体です。 ルター派信条集に基づく信仰が国教会の中で守られるようにすることを目的とし、賛同する牧師や教会員がその精神に基づいて地元教会で礼拝を行ったり、全国各地に「祈りの家」を建設して様々な集会を行ったり、ルター派の書籍の翻訳や出版事業を始めたりしました。このようにSLEYの活動は当初は国内向けのルター派のリヴァイヴァル運動でした。それが、海外にもルター派の信仰を伝道しようという機運が高まり、最初の伝道地に日本を選び、1900年から宣教師を派遣し始めて今日に至っています。 SLEYが日本各地に設立した教会の中で主なものは、札幌、池袋、飯田、諏訪、大岡山の教会があります。全て大正~昭和初期に建てられたものです。それらは、1960年代に「日本福音ルーテル教会」が設立された後は順次日本側に移譲、スオミ教会は1990年誕生の末っ子です。

 SLEYの集会の中で最大のものは1874年から毎年夏に開催される「福音祭」と呼ばれる全国大会です。開催地は毎年各地の持ち回り、週末の3日間に延べ2~3万人位が参加します。大抵陸上競技場がメイン会場ですが、地元の学校などの公共施設も貸切られ子供から大人まで年代層に応じた様々なプログラムが実施されます。

野外礼拝の聖餐式では長い行列が延々と続きます。

 中でも最大のプログラムは、土曜夕方と日曜朝の野外礼拝です。50~60人位の牧師の前に6,000~8,000人位の人が聖餐式に与る光景は圧巻です。日曜午後は宣教師の派遣式が盛大に執り行われます。大勢の参加者が見守る中、宣教師たちはSLEYと国教会の関係者から按手を受けます。

 SLEYが設立した日本の教会からは多くの方が全国大会に参加されました。何度も行かれた強者もいらっしゃいます。スオミ教会からはまだありません。来年2024年の全国大会はオウライネンという北の町で開催されます。神がお許しになれば、久しぶりに新しい日本宣教師の派遣式があります。さらに神がお許しになれば、スオミ教会の現宣教師の延長派遣の可能性もあります。この機会にスオミ教会からも参加があれば素晴らしいと思います。