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説教「使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられよ」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書5章1-11節

主日礼拝説教 2022年2月6日顕現節第五主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていくところです。これと同じ出来事がマルコ福音書とマタイ福音書では違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。ペトロと兄弟のアンデレが魚を捕っていた時にイエス様が声をかけて従って行った、その後すぐヤコブとヨハネも続いて行った、と簡潔です。4人の漁師がイエス様につき従っていくきっかけに大量の魚がかかったことがあるのはルカだけです。どうしてそういう違いがでたのでしょうか?マルコとマタイが福音書を書いた時、把握していたのは4人がイエス様につき従ったという結果だけだった、ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということでしょう。いずれにしても3つの福音書はみな、人間を捕る漁師にするというイエス様の言葉と4人が生業を捨てて付き従ったということは一緒です。

 「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。しかし、ペトロや他の弟子たちは実際そういう勧誘員だったでしょうか?イエス様が言う「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。

2.罪の自覚と神への恐れを生きる希望と神への愛に転化するキリスト信仰

 3つの福音書では、ペトロたちが「人間を捕る漁師になる」と言われてイエス様につき従っていきますが、ルカ福音書ではまず大量の魚の奇跡があって、ペトロの罪の告白とイエス様のこの言葉が続いて、それからつき従うという流れです。それでこの奇跡について少し考えてみます。

 舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかりました。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?

 イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。

 岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。

 ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。しかし、この方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方なのだ。それでペトロは、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。。

 半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の魚の量で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは恐れを抱いて叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。

 それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。

 本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内に神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んでしまったのです。

 ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう炎の力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。

 このように、人間が真の神を間近に見た場合、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。それで、神を間近に見てしまった時、自分を神の意思に照らし合わせて見る人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせなんかしない人は恐れなど抱きません。こういうことを言うと、私は恐れなんか抱いて生きるのは嫌だから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。

 しかしながら、キリスト信仰は神への恐れで終わりません。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくるのです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。まだピンとこないでしょうか?それなら、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰だと言うことができます。そのような信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいゲームに付き合ってられないと言って離脱するか、どちらかです。しかし、キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだ、とわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。

 罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に落ちてしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。それでは、ペトロや弟子たちがどのようにしてそうしたかを見てみましょう。

3.神に関係する真実は曲げられないし引き下げることもできない

 イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員みたいに人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身ではなかったでしょうか?弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られて、活動内容も神の国が近づいたと告げることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちに伝道された町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったのではないかと思われます。

 ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づけばあの方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子と信じる人たちがどんどん出てきました。彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。

 こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったということが言えます。そしてイエス様が天の父なるみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。それをユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。そういう、人々に伝えないではいられないという駆り立てられるような思いを持つのが「人間を捕る漁師」なのでしょう。

 権力者に脅されても使徒たちが怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのになかったなどとても言えない、真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけでは、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を強固なものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関係する真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚があると、神に関係する真実は取り下げられないのです。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかに自分はならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを手放すようなことはしたくない、そういう心になるのです。家族を路頭に、というのは痛いところを突かれることですが、でもルターの讃美歌に「わが命も、わが妻子も取らばとりね、神の国はなおわれのものぞ」と歌われているように、そこに行きついてしまうのです。

 神に関係する真実を曲げない引き下げないという生き方になると、今度は神に関係しない日常的な真実に関しても責任感が強くなります。というのは、神に関係する真実を守ろうという生き方になると、神の意思である十戒が心に刻み付けられるからです。その中に「汝、偽証するなかれ」があります。これも神の意思として心に刻み付けられます。それで日常的な真実に関しても責任感が強くなるのです。私たちの日本も創造主の神の意思に照らして襟を正すようにならないと、情けない忖度と改ざんはいつまでも繰り返されるでしょう。

 使徒たちが曲げられない引き下げられないとした神に関係する真実とは何だったでしょうか?それは以下のことです。あの十字架にかけられて死なれた方は三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たのだ。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだ。復活は起こるということをあの方自らも教えていたではないか。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかった。自分たちもこの世からの死で全てが終了してしまうのではない。将来、復活の日に一緒に復活させられて一緒に神の御許に迎え入れられるのだ。ここに我々キリスト信仰者の希望がある。それでは、どうしたら自分たちは復活させてもらえるのか?それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする罪の問題をあの方が私たちに代わって解決して下さったことによる。あの方の痛ましい十字架の死は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の生贄の死であったのだ。神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さった。そしてそのことは旧約聖書に預言されていて、それがゴルゴタの丘の十字架で歴史の中で成就したのだ。

 創造主の神は私たち人間が罪のために神のもとに戻れなくなってしまった状態を解消するために、ひとり子を贈って私たちの力では出来ないことを代わりに成し遂げて下さった。あとは、これらのことは全て本当に現実に起こったと受け入れる。そしてそれらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神を慈愛に満ちた造り主であると信じ、神罰を受けて下さったひとり子イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、神がひとり子を用いて成就した罪の償いと罪からの贖いがそのまま自分に効力を発する。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。これからも明らかなように、神は復活の日に私たちを御国に迎え入れることを信仰と洗礼の目的に定めている。それなので、私たちがその道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さる。

 時として、私たちの目は私たちの内にある罪に向く。罪から贖われた私たちに対して罪はもはや私たちを支配したり死に繋ぎとめる力を失っている。それにもかかわらず罪自体は消えず、隙を狙っては神との結びつきのない状態に引き戻そうとする。しかし、信仰の目を持つ信仰者はすぐ目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪はあそこで償われたので今、内にある罪は自分を死に繋ぎとめる力はないとわかり、感謝と畏れ多い気持ちを持って再び復活に至る道を進む。その時、私たちをこのように愛してくれる神を自分も愛そうという心を新たにする。神がそのように愛してくれる以上は私たちも隣人に対して同じようにしようという心を新たにする。この繰り返しがこの世から別れる時までずっと続く。

 新しい世が到来して私たちが神の御前に立たされる時、神は私たちが前の世で罪の赦しに留まってひとり子の死を無駄にしないように生きていたことを義と見て下さいます。そして、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せて御国に永遠に迎え入れて下さいます。それなので私たちもこの世から別れる時は、このようになるのだという使徒たちの教えと証言を思い出して安心して神を信頼して自分の全てを神に委ねて旅立つことができます。このように死を超える安心と信頼があるので、罪の自覚と神への恐れはいつも神への愛と生きる希望に転化します。そして、死から復活されたイエス様は旧約に約束されたメシア救世主であるという真実はもう曲げられないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(その2)」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書4章21-30節

主日礼拝説教 2022年1月30日顕現節第四主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の説教は先週の続きです。福音書の個所は、イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当した時の出来事でした。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という42章7節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること。その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと。そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと。これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。

 とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。旧約聖書に見えない人の目が見えるようになると言われているのは信仰の目のことですが、イエス様は肉眼の目を開けることで、人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。

 このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。これから続きを見ていきましょう。何が起きたでしょうか?

2.肉眼の目に留まってしまったナザレの人たち

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。席というのは説教者の座る所です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後にイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。

 ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。会衆はイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

 イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、彼らが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということです。さらに、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないとイエス様は見破ります。

 しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った北王国と同じ立場にある、というのです。

 これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。

3.内なる罪を透かしてゴルゴタの十字架を見る信仰の目

 イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同6章26節)。

 信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理であると信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。

 それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰として滅亡した王国と同一視するとは何事か、といきり立ってしまったのです。

 以上から明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。

 しかしながら、父なるみ神は、人間がこの世の人生を終えることになっても、復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてその前のこの世の人生の段階では復活に至る道を守りのうちに歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、罪の神罰を全て彼に身代わりに受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたのです。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。

 ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神を恐れたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを全く意に介せず、内なる罪を透かすようにして目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れどす黒い声は止み、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄んでいて冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。

4.第一コリント13章の愛を体現できる日を目指して

 以上、信仰の目を持つと自分の罪を見ることができるようになるが、それが出来るから逆に神の意思に沿うように生きようという心が強まっていくことを見ました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われているので、終わりにそのことを見ておこうと思います。

 第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?

 ここで、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、というのはどういうことか見てみましょう。「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(παντα)は「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すできでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。

 愛とはそのようなものだと述べた後でパウロは、8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって死者の復活が起こり、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうと言うのです。

 ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだったからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、自分も神と同じように愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ。これら全てをかの日には持てているのです。かつてはこれらはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。

 かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことでしょうか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。

 ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。

「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、この私も将来復活の日の神の御国で自分が愛を体現していることをはっきり知るようになる。」

 これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。

 「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは本当に前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」

そこで神は答えられます。

「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を纏った。それからはそれを取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前の内なる罪は純白の衣を被せられて日々圧搾され力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを救い主と信じる信仰に生き、聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者であると前の世で知っていた、と言ったのだ。」

 パウロはフィリピ1章6節で次にように述べています。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」

兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

後注(ギリシャ語がわかる人にです)

・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。

・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。

 

1月22日 スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

今年最初のスオミ教会・家庭料理クラブは1月22日に開催されました。今回はフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に作るのはピーラッカの生地。生地は材料を混ぜるだけで出来上がりです。生地をピーラッカの分量に分けて一個一個を綿棒で薄く伸ばします。その次は丸くて薄い生地の上にお米のお粥をのせます。お粥を平らに広げて周りのピーラッカの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。きれいな形のピーラッカを作るのは簡単ではありませんが、皆さんとても上手でした。ピーラッカを鉄板に並べてオーブンに入れて焼ます。焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたバターを塗ってピーラッカは出来上がりです。

参加者の皆さんのお皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きました。最後にカルヤラン・ピーラッカと旧約聖書のエレミヤ書の陶工のお話を聞きました。

今年最初の料理クラブはコロナ感染拡大の中、いろいろ注意をしながら開催しました。無事に開催できたことを感謝しています。今後の料理クラブは感染状況がもう少し良くなったら開催した方が良いのではと考えているところです。決まりましたら、教会のホームページに’案内をのせますのでご覧ください。

それでは、皆さん注意してお過ごし下さい。

2022年1月22日カルヤラン・ピーラッカ

カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まった食べ物です。第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られたので、そこに住んでいた人々は自分の故郷を去らなければならなくなり、フィンランドの各地に移住しました。それで、カルヤラン・ピーラッカはカルヤラの人々を通してフィンランド全国に広がりました。フィンランド人は最初、カルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。というのは、彼らはパンとおかゆは別々に食べるものと考えていたので、カルヤラン・ピーラッカのように二つを一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。それでも、フィンランド人もだんだん食べるようになって、いつの間にか全国に広がって行きました。そして、かつてはカルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとっても伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。カルヤラン・ピーラッカは、普段の日にも、お祝いの時にも出されます。また、フィンランドのどの食料品店でもカフェでも買うことができます。

昔は、カルヤラン・ピーラッカは店で買うものではなく、家で作るものでした。家によっては、作る曜日も決まっていました。その日には、薪であたためた大きなオーブンで沢山作りました。薪であたためるオーブンはとても熱くなるので、カルヤラン・ピーラッカは早く焼けて美味しいものが出来ました。

カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、普通の家庭料理で使われるものばかりです。パンを作る時に使うライ麦粉で皮を作ります。皮の中にいれるのは米のお粥ですが、フィンランドでは昔から、お米はお粥にして食べていました。こうして、カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、戦争の後、食糧が不足していた時でもほとんどの家にありました。このように特別な材料ではなく、どの家にもある材料で美味しい新しい食べ物が作られるようになったのです。

私の実家はフィンランドの西の地方にありますが、母はカルヤラン・ピーラッカが好きでよく作りました。母は子供たちにピーラッカの作り方を教えましたが、なかなか思うように作れませんでした。しかし諦めないでひとつ作って、もしかしたら次のものはもっときれいに出来ると思って沢山練習しました。

カルヤラン・ピーラッカを作る技能は世代から世代へ伝わって行きます。普通はお祖母さんやお母さんから子どもに伝わっていきますが、今は家でピーラッカを作る人は少なくなったので、ピーラッカを作るコースが開かれて、そこで作り方が教えられます。

カルヤラン・ピーラッカを作るときの難しいことは、皮になる生地を伸ばすことと、中身の回りに皮をしめていくことです。カルヤラ地方出身の人たちは、カルヤラン・ピーラッカを作るのがとても上手です。フィンランドでは、毎年夏になるといろいろなお祭りやイベントが開催されますが、カルヤラン・ピーラッカを上手に作る競争もあります。そこでは、誰が一番早く、形がきれいなカルヤラン・ピーラッカを作れるかが競われます。いつもカルヤラ地方出身の人が優勝します。カルヤラ地方の人たちにとって、きれいな形のピーラッカが出来るのは当たりまえのことなのです。他の地方のフィンランド人はなかなか同じように作れませんが、練習すれば上手になります。

私は、カルヤラン・ピーラッカをきれいな形に作ることに関係して、ある旧約聖書の話を思い出しました。それはエレミヤ章18章の初めにある出来事です。「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下っていけ。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう。』私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」エレミヤ書18章1-4節です。Donnie Nunley Potter's Hands

この場面で、神様は預言者エレミヤに陶工の家に行くように命じて、そこで器を作る陶工の働きを見せます。エレミヤは陶工の働きで神様が教えようとしていること、陶工は神様を、粘土は人間を意味していると分かりました。

この場面は私たちにどんなことを語っているでしょうか?私たち一人一人は天と地と人間を造られた神様の御手で造られました。神様は私たち一人一人に命と人生を与えてくださいました。神様は陶工が器を作るように私たち人間一人一人をお造りになるのです。エレミヤ書にある陶工は粘土をろくろで回しながら、だんだん器の形にしていきます。粘土が器の形になって静かになると陶工はホッとします。ところがどうでしょうか。先ほど読んだエレミヤ書にはこう書かれていました。「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」と書いてあります。器は陶工の思うようなものにならなかったので、粘土をもう一度ロールして器の形を新しく作り変えたのです。

神様は私たちに同じことをなさいます。神様は私たちを新しい素晴らしいものに作り変えて下さるのです。もし、神様の作り変えが私たちの望むようなものでなければ、私たちは不満や疑問が起きてくるかもしれません。しかし、神様はひとり子のイエス様を私たちに贈られたくらいに私たちのことを愛して下さった方です。そのことがわかれば、神様が私たちに良いことを考えて下さっていると信頼して、神様が導いて下さる道を進んで行けます。神様が導いてくださる道では喜びだけでなく、悩みや悲しみに出会うかもしれません。しかし、神様を信頼して行けば、私たちは後で振り返ってみて神様の素晴らしい働きと導きがあったと知ることが出来るのです。その時、悩みと悲しみを超える喜びがあります。その時私たちの心は神様に対して感謝で満たされます。その時私たちは新しい器に作り変えられていることに気づくのです。皆さん、陶工である神様の御手に全てのことを委ねましょう。「しかし主よ、あなたは我らの父。私は粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。」イザヤ64章7節です。

説教「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(その1)」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書4章14-21節

主日礼拝説教 2022年1月23日顕現節第三主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課は実を言うと区切りが良くないです。ルカ4章は、14節から32節までがひとくくりの出来事です。それなのに今日の個所は前半の21節までです。取りあえずここで出来事の全容をお話しします。イエス様が育ち故郷のナザレを訪れてユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、聖書に書かれている預言は今日その通りになった、と言う。さらに神の恵みについて教え始め、会衆はそれに驚く。しかし、会衆の中に、あれはヨセフの子ではないか、と言う者もいて、その途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始める。会衆は激怒してしまい、イエス様を崖から突き落とそうとする。そういう出来事です。それにしても会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が他の町で行う奇跡の業をここでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャが奇跡の業を異邦人にしてあげてユダヤ人にしなかったのに倣い、私もお前たちにはしないことにする、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」などと自分で言いますが、自分でそうなるように仕向けたのではないか?イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのでしょうか?

 実はこの出来事は、私たちがこの世を生きる時に何を身につけなければならないかということについて教えています。それを身につけないとどうなってしまうか、どうしたらそれを身につけられるかを教えているのです。その身につけるものとは何か?結論を先に言うと、肉眼の目とは異なる「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖気づいてしまいます。信仰の目があると、怖いという視点を超える視点が与えられます。それでは、信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのか、そのことを今回と次回の説教でお教えしたく思います。事は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。二回にわたりますが、始めてまいりましょう。

2.イエス様のイザヤ朗読の謎

 イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済計画を実行に移す力です。その後すぐユダの荒野にて40日間、悪魔から試練を受けます。イエス様はこれを全て旧約聖書の神の御言葉を盾としてはねのけます。この後、舞台はガリラヤ地方に移ります。イエス様は各地の会堂を回って、神の国が近づいた、人間の救いがまもなく実現するという福音を宣べ伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。イエス様はこれまでそうしてきたように町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。

 ここで、当時の会堂シナゴーグの礼拝について本日の出来事がよりよくわかるために少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読し、その後でアラム語で説き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記述されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 さて、紀元前6世紀の終りペルシャ帝国がバビロン帝国を打ち倒して古代オリエント世界の覇者となります。ユダヤ人はペルシャ帝国の計らいで祖国帰還を許されます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の再建にとりかかります。その当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。先ほど朗読された旧約の日課ネヘミア8章では祭司エズラが民にモーセの律法を朗読する場面がありました。そこでレヴィ族の人たちが「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読した後でアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。

 ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。そこの会堂長は、その日の聖書の朗読と説き明かしを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。

 イエス様は立ってヘブライ語で朗読します。神に油注がれた者、これは文字通りメシアです。メシアとは油注がれた者という意味を持つからです。そのメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる。心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に見えるようになるという喜びの知らせを伝える。神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容の個所を朗読しました。

 これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。少し雑学的なことですが、聖書の書物は初めは章立ても節わけもありませんでした。ところどころ段落分けや余白はありますが、基本的に文章はだらだらと続くものでした。章立て節わけが施されるのはずっと後世になってからです。それなので、シナゴーグの礼拝では、私たちの礼拝のように、本日の日課は何々書の何章何節から何節までです、と言うことはしませんでした、出来ませんでした。しかし、旧約聖書をよく知っている人なら、イエス様が読んだところを聞いて、あれはイザヤの終わりの方だとわかったでしょう。私たちならイザヤ書61章1節から2節までと言うでしょう。ところが、よく見るとイエス様の朗読はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。イエス様の朗読は正確ではないのです。ヘブライ語の原文を見ると、そこには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別に原文を見なくとも、日本語訳のイザヤ書61章を見れば誰でもわかります。実は、「目の見えない人が見えるようになる」というのはイザヤ書の42章7節にあります。とすると、イエス様は朗読している時に別の章の個所を何気なく挿入したのでしょうか?

 話をさらに複雑にすることがあります。それは、イザヤ書のギリシャ語訳を見ると、61章に問題の「目の見えない人が見えるようになる」というのが入っているのです(1節)。ここでなぜ突然、イザヤ書のギリシャ語訳なんかが出てくるのかと言うと、旧約聖書は先ほども申しましたようにもともとはヘブライ語で書かれていました(一部はアラム語でも書かれています)。この旧約聖書がイエス様の時代の2、300年位前に大々的にギリシャ語に翻訳されたのです。なぜかと言うと、先ほど触れたペルシャ帝国が今度は紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国に滅ぼされてしまい、地中海世界の東半分がギリシャ語化していったからです。ギリシャ語を話すユダヤ人のためにギリシャ語の旧約聖書が必要になったのです。

 それでは、ヘブライ語の聖書を読んだイエス様がまるでギリシャ語訳聖書に倣って「見えない人の目が見える」と言ったのはどうしてなのでしょうか?次のように考える人もいるでしょう。ルカ福音書を書いた「ルカ」はギリシャ語で書いているわけだから、ルカはイザヤ書もヘブライ語原文ではなくギリシャ語訳の方を念頭に置いた、それでイエス様が朗読したヘブライ語の文章は脇にやられてギリシャ語訳にある「目の見えない人が見えるようになる」を入れてしまったのだと。しかし、そう考えると、ルカはイエス様が言っていないことを言ったことにしてしまったことになります。皆さんは、ルカが福音書の冒頭で何と言っていたか覚えていらっしゃいますか?この福音書は信頼できる目撃者の証言を集めて纏めたものだ、と言っています。とすると、ナザレの会堂の出来事も、目撃者、間違いなく弟子たちでしょう、彼らが証言したことが土台にあります。そこで考えられるのは、イエス様はイザヤ書61章の朗読の際に自分で42章7節を挿入した、または、次のようにも考えられます。イエス様は、朗読の後の説き明かしで「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べたのだが、目撃者の方で朗読と説き明かしを混ぜ合わせたものをルカに伝えてしまったということです。

 イエス様が挿入したにしても、または説き明かしたの時に言ったにしても、これは本当にイエス様が言ったのだ、と言えるためには、彼には「目の見えない人が見えるようになる」ことにこだわりがあったと言えなければなりません。実を言うと、イエス様にはそれがあったのです。皆さんも、イエス様が目の見えない人の目が見えるようにする奇跡を何度も行ったことは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことでした。このことを預言者イザヤの時代から旧約聖書とユダヤ民族の歴史を貫くようにしてある一つの問題に照らし合わせてみると、目を見えるようにする奇跡の意味が明らかになってきます。

3.十字架と復活の業によって信仰の目を開けられる

 イザヤ書6章を見ると、神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が一層頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰が言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。国が滅んでしまった後に今度は目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者」が現れるという預言も一緒にあります。さて、イスラエルの民は果たして信仰の目が開かれるようになったでしょうか?イザヤの時代にアッシリア帝国の大軍の攻撃から奇跡的に救われたエルサレムがその「残りの者」だったか?答えは否でした。ユダの王国はその後も罪と滅びの道を進んでしまい、最後はバビロン捕囚に至ってしまったからです。それでは、バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが目が開かれた「残りの者」になったのか?これも否でした。イザヤ書の終わりの方にある63章17節を見ると、祖国帰還を果たしても神が依然として民の心を頑なな状態に留めていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にもイスラエルの民はまだ目が開かれていない状態にある、それをこれから開くようにするというのが神の意図だったのです。

 この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。奇跡の業で肉眼の目を見えるようにしたのは、そういう目に見える具体的な業を通して抽象的なことを理解できない人たちをわからせる手っ取り早い方法だったからでした。私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る、といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロも「これは眠っているだけだ」と言って生き返らせました。それと同じことです。私は罪を赦す権限があると言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるから、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は信仰の目を開ける力があることを示しました。そして人間の信仰の目が大々的に開かれる出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架の死と死からの復活の出来事です。イエス様の十字架の死とは、人間が神から神罰を受けて罪と一緒に滅んでしまわないようにと人間に代わって人間の罪を償って人間を罪の滅びの力から切り離す業でした。そしてイエス様の死からの復活とは、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開く業でした。このためにイエス様の十字架と復活の業はユダヤ民族の信仰の目を開けるためだけのものでなく、人間全ての信仰の目を開ける業だったのです。それが神の人間救済計画だったのです。信仰の目を開けられた人とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いと罪からの切り離しを手にした人です。そして、復活と永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む人です。

 そのように人間の信仰の目を開くためにこの世に贈られたイエス様ですから、会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ことをイザヤ書61章のメシア預言に結びつけて述べても全然おかしくないわけです。

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。説教者の座る席です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」これを言った後にイエス様の説き明かしが続くのですが、その内容についてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあります。それで、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、説き明かしの冒頭でイザヤ書の預言が実現したと宣言した時、イエス様は、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。その後で会堂の人たちが怒り狂うようなことが起きてイエス様を崖から突き落とそうとします。一体何が起こったのか、ナザレの人たちにどんな問題があったのか、同じ問題は私たちにもあるのか、どうしたらそれを解決できるかは次回にお話ししましょう。

4.キリストの体の部分として生きる

 終わりに、信仰の目を開かれたキリスト信仰者たちはお互いどういう関係にあるかということが本日の使徒書の日課、第一コリント12章にあるのでそれを見ておきたいと思います。パウロの教えです。パウロは、キリスト信仰者というのは、体が多くの部分から成り立っているのと同じように、キリストの体という一つの体の部分部分なのだと教えます。それで信仰者はお互いを煙たがったりせず大切な仲間として助け合いなさいと言うのですが、道徳論のように受け止める人もいるかもしれません。また、キリスト信仰者の中には、信仰とは自分と神との関係だから、と言って、信仰者同士の関係をあまり深く考えない人もいるかもしれません。しかし、パウロを道徳論者のように見るのは浅い理解です。

 13節でパウロは、神の一つの霊ということを言います。洗礼を受ける人は何人もいても聖霊はお一人です。洗礼を受ける一人一人に別々の霊がつくのではありません。たったお一人しかいない聖霊にそれぞれが結びついて洗礼を受けるから一つの体になると言うのです。どの民族・人種に属しようが、社会的な地位・立場が何であろうがみんな同じ聖霊を注がれるので一つの体のお互い結びついた部分になると言うのです。それなので、信仰は自分と神の問題と言って、ほかの、神と結びついている人との結びつきを考えない人は、聖霊を分割してしまうことになるとさえ言えるのです。事は道徳論を超えて三位一体の神を認めるか否かの問題になっていきます。信仰の目とは、神と自分の結びつきという縦の関係と、その結びつきを持つ信徒たち同士の横の関係という二つを見ることが出来る目です。この縦と横の二つの関係が同時に現れる瞬間が聖餐式、主の血と肉に与る時です。

 自分と神との結びつきは、もちろん自分の罪と向き合って赦しの中に留まるという極めて個人的な面もあります。しかしながら、他の信仰者たちとの間で、私は目、あなたは足です、または、私は耳、あなたは手です、という場面は無数にあります。横の関係があって、各自の神との縦の関係が支えられるということも忘れてはいけません。目が自分は自分で支えられるから他はなくてもいいとは言えないのです。だから、各自、お互いに縦の関係を支えてあげられるように振る舞い言葉遣いを考えなければなりません。それを損なうような振る舞いや言葉遣いは避けるようにしなければなりません。それが聖霊をお一人としてキリストの体の部分として生きるということです。

 それではキリストの体とは具体的には何か?教会ということになりますが、これもいろんな層があります。まず、復活と永遠の命に向かって歩む信徒たちの集合体、組織を超えた世界大の教会があります。このスオミ教会のような個別の具体的な教会もあります。個々の教会が属している教派や教団もあります。遠い国の信徒とは祈りを通して支えたり支えられたりする関係は築けますが、聖餐式の場である個々の教会は一番身近に振る舞いや言葉遣いを磨ける場です。自分がキリストの体の部分であることを一番身近なものにすることが出来る場です。そのことを忘れないようにしましょう。もちろん私自身も含めてです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「今が、主と関わり合いを持って生きる時、 主に願い事を祈り求める時」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書2章1節-11節

2022年1月16日(日)顕現節第二主日 主日礼拝

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。結婚式の祝宴でふるまわれるぶどう酒が底をついてしまった。そこでイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って祝宴は無事続けられたという話です。聖書のよく知られている話の一つです。嵐を鎮めたり病気の人を癒したりする奇跡に比べたら手品みたいで奇跡と呼ぶには少し大げさに思われるかもしれません。しかし、結婚式の祝宴がイエス様の時代も大がかりなものであったことを考えるとこれはやはり奇跡と言ってよいとわかります。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとあります。一つにつき80~120リットル入りということです。それが6つありました。イエス様はこの水瓶の水全部480~720リットルをぶどう酒に変えたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。そのような大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えてしまったというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 この福音書の箇所は結婚式に関係するのでキリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように困っているときに助けてくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような頼りになる方がついておられるんですよ、というメッセージは式全体に祝福された雰囲気をもたらすでしょう。

 ところが、この箇所はよく読んでみると、助け人のイエス様のイメージに合わないことがあります。それは、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、私が何とかしましょう、とは言いませんでした。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは他人行儀も甚だしい。ところがマリアは、このような冷たい答えにもかかわらず、何を思ったのか召使いたちにイエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。マリアは、イエス様の答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。

 結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、助け人イエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりは一体何だったのか?イエス様はあまのじゃくで素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。以前の説教でこのことを見ましたが、今回また新しいことが見えてきたのでそれを合わせて見ていきます。

2.マリアの立場

まず、出来事の状況を把握することから始めましょう。文章から手掛かりはいろいろ見えてきます。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に列席していますが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言っていることです。マリアとイエス様と弟子たちみんなが招かれた、とは言っていないことです。「招かれた」のはイエス様と弟子たちで、マリアは「そこにいた」と別扱いです。それと、マリアは後で召使たちに命じたりして召使たちは素直に聞き従います(5節)。そうしたことから、彼女は単なるお客様でなくて主催者側の一人として何か役割を持っていたのではないかと考えられます。それで、ぶどう酒が底をついた時の心配は他人事ではなかったでしょう。

 そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと考えられます。ここで注意すべきは、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と助けを求めたのではないということです。ぶどう酒がなくなってしまった、ああ、どうしよう、とおろおろしていたのです。11節をみると、このぶどう酒の奇跡はイエス様が公けに行った奇跡の最初のものと言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を起こせる方だとはまだわからなかったことになります。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、助けをお願いしたのではなく、大変な事態になってしまったとおろおろした状態で事実を述べただけと言ってよいと思います。

 それに対するイエス様の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?昔テレビのある時代劇でヒーローがいつも「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言って、いつも結局はかかわって悪者を退治するというものがありました。イエス様も最初は自分には関係のないことだと冷たく言いながら、後で助けてあげるということなのでしょうか?

 以前の説教で私は、この箇所のイエス様は冷たく言い放っていませんと申しました。その後で宗教改革のルターが、これは冷たく言い放っているのだと言っているのをみてかなり焦りました。彼の論点は、マリアは冷たく突き放されてもイエス様にしがみつくように信頼を捨てなかった、本当の信仰を示したというものです。キリスト信仰というのは、神が怒っているように思える時でもそれは人間の感情からくる思いにすぎず、本当は神は良い方なのだと信じて神から離れないようにするのが本当の信仰なのだ、と言うのです。もちろん、ヤコブが荒野で神が送った者か神自身かわからないが謎の人物と取っ組み合いをして、祝福してくれるまで離しません、としがみついて祝福してもらったことがあります。また、異邦人の女性がイエス様に娘を悪霊から助けて下さい、とお願いした時、最初イエス様はユダヤ人でないからと言って聞き入れる素振りがありませんでしたが、女性がしがみつくように懇願して、犬もおこぼれに与りますなど、と言って願いがかなったということがあります。しかしながら、マリアの場合はしがみつくようなこともせず、イエス様の言葉を聞いてすぐ、まるで彼が手を打ってくれると理解したかのように召使いにスタンバイを命じたのです。ルター先生の解釈に盾をつくようで気が引けるのですが、でも結論は、イエス様を信頼してお願い事はなんでも、諦めないで提示していいのだというところで合流するので、問題はないと思いました。

3.イエス様の「時」

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」この言葉の本当の意味がわかるために、まず後半部分「わたしの時はまだ来ていません」から見ていきます。私の時はまだ来ていない、とは何のことでしょうか?おろおろするマリアに意味をなす言葉なのでしょうか?

 「わたしの時」とか「時」という言葉はヨハネ福音書の中に何度も出てきます。その一つヨハネ12章23節を見てみましょう。次のような出来事です。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神と神の国について教え、ユダヤ教社会の指導者たちと激しく論争をしていた時でした。地中海地域の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらにヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。

 つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が受難の道に入られて十字架の上で死を遂げる時、そして死の後で神の想像を絶する力で復活させられて神の栄光を顕す時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、人間が全ての罪を神から赦していただけるようになるための神聖な犠牲の生贄となるためでした。それなので、イエス様が十字架にかけられるのは神にとっても人間にとっても本当に大事な時だったのです。そして、イエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る道が開かれました。死が無力にされたのです。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、罪を赦されて神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。あとは人間がこのことを信じてイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ければこの可能性を自分のものにすることができるのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性をもたらす出来事の時、十字架と復活の時を意味するのです。世界各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きれば、後はその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

 それで、「わたしの時はまだ来ていない」は意味は次のようになります。「今はまだ、私が十字架の道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、将来到来する神の国がどんな国かを奇跡の業をもって示していかなければならないのだ。だから、十字架と復活が起こる前の今は、私はお前たちと共にいてこの教えと業を行う時なのだ」という意味になります。

 さてイエス様が「わたしの時はまだ来ていない」と言った時、果たしてマリアはそういうふうに、まだおまえたちのもとにいて働きをする時だ、と理解したでしょうか?まだ十字架も復活も起きる前に聞いたので、それは無理だったのではと思います。しかし、マリアの場合は、かつて赤ちゃんのイエス様を抱き上げたシメオンが、この子は将来神と神の民の間を取り持つような何かとてつもないことをすると預言したのを聞いています。それでこの子には将来何か重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で誕生したこの子は今のところは私たちと共にいるということなのだな、というくらいはわかります。言い方自体は、ぶどう酒の問題の解決には直接関係ありませんが、聖霊の力で誕生したこの方が私たちと共におられるという一言は、慌てふためく心を落ち着かせるインパクトはあります。そういう視点で前半の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」を見ていくと、その意味もわかってきます。つまり、イエス様の言葉全体はマリアを落ち着かせ、この子は何かをするつもりだとわからせて、召使いたちに待機するように指示するくらいの言葉だったのです。これからそれを見ていきましょう。

4.パニックから導き出されるイエス様

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文を直訳すると、「婦人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」という疑問文です。わかりにくい文です。ギリシャ語原文でこれと全く同じ形を取る文が他にもあるのでそれを見てみます。マルコ1章24節です。シナゴーグで汚れた霊にとりつかれた男とイエス様が対峙するところです。汚れた霊が叫んで言いました。新共同訳ではこうです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている、神の聖者だ!」ここのギリシャ語原文を直訳すると、「ナザレのイエス、お前と俺たちの間にどんなかかわりがあるのか?我々を滅ぼしに来たのか?」云々です。

 この「~と~の間にどんなかかわりがあるのか」は旧約聖書にもあります。列王記上17章18節で、預言者エリアがシドンのサレプタというところであるやもめの家で居候していた時、やもめの息子が死んでしまうという悲劇があります。その時やもめがエリアに言った言葉です。新共同訳ではこう訳されています。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか?あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか?」ヘブライ語原文を直訳するとこうなります。「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのですか?あなたは私の罪を思い出させ云々」となります。ここで、あれ、ギリシャ語とヘブライ語は違う言語なのに、どうして同じ形の文などと言えるのか、と言われてしまうかもしれません。でもこれは、ギリシャ語とヘブライ語がわかる人が見たらすぐわかるくらいに同じ形なのです。言語学を勉強している人なら統語論という言葉を使うと思いますが、統語論的に同じなのです。この辺のからくりは、本説教の原稿をホームページに載せますので、そこでお見せしますので、ここではこのまま話を進めます。

 さて、サレプタのやもめ、シナゴーグの汚れた霊、カナの祝宴でのイエス様はみんな、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?と言っています。新共同訳では、どんなかかわりがあるのか?とか、かまわないでくれ?などと訳されています。そこで他の国の言葉ではどう訳されているか参考までに見てみました。私が読んで理解できるのは日本語と英語とドイツ語とフィンランド語とスウェーデン語の5つですが、結論から言うと大体、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?というのと、あなたは私に何を望むのか?というものに収まっていきます。各国語の訳もホームーページでお見せします。

 そこで、「私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」と「あなたは私に何を望むのか?」という訳で見ていきましょう。サレプタのやもめ、「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあって、私の罪を思い出させて息子を死なせたのですか!」、または「神の人よ、あなたは私に何をお望みですか?私の罪を思い出させて息子を死なせることですか!」となります。シナゴーグの汚れた霊、「ナザレのイエスよ、俺たちとお前の間にどんなかかわりがあって、俺たちを滅ぼそうとするのか?」、または「ナザレのイエスよ、お前は俺たちに何を望んでいるんだ?俺たちを滅ぼそうというのか?」となります。どちらも、私に構わないで下さい、俺たちに構うな、かかわりなど持ちたくない、ほっといてくれ、となっていきます。

 ところが、カナのイエス様の場合は勝手が違います。やもめや汚れた霊たちは神の力を持つ人を前にしてパニック状態になってこの言葉を述べますが、カナの時はパニック状態になっているのは言葉をかけらるマリアの方で、言葉をかける本人のイエス様は平静そのものです。だから、ここは、私に構うな、ほっといてくれ、という意味はありません。その意味を捨てて考えると、こうなります。「私とあなたの間にどんなかかわりがあるかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあななたちと一緒ですよ。」または、「あなたは私に何をお望みかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあなたたちと一緒ですよ。」こういうことでしたら、冷たく突き放したようには聞こえなくなります。むしろ、この人は何かするつもりだと感じ取らせるものになります。マリアがそう感じ取ったことは彼女の次の行動で分かります。召使いたちに、イエスが何か言いつけたらその通りにするように、と命じたのです。その時のマリアはパニック状態にあってもイエス様を信頼するということが心の中に何か芯というか核のように生まれたのです。その意味でパニックはあってもそれに支配されなくなったのです。それは実際にはパニックを脱したということになります。

 ここで一つ余計なことになるかもしれませんが、言ってもいいのかなということがあります。それは、この言葉を述べた時のイエス様は案外ニヤリという表情で言ったのではないかということです。昔、大学の神学部のギリシャ語の授業で先生が言ったことですが、イエス様がニヤリと笑みを見せたところがあるという研究論文があると。どこでニヤリとしたかと言うと、ペトロがイエス様に私も水の上を歩きたい、と言って、湖の上に立つイエス様が、じゃ、こっちに来なさい、と言って、ペトロは水の上を歩き始める。しかし、波風を見て怖くなった瞬間に溺れ始めてしまい、助けを求める。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げる時に言った言葉「信仰の薄い奴だな」、この時イエス様はニヤリと笑ったというのです。どうしてそんなことが言えるかというと、私の記憶になってしまいますが、その研究者はギリシャ古典の大家で、古代ギリシャの哲学、小説、戯曲の文体を徹底的に分析して、福音書の問題の個所の文体は主人公が笑みを浮かべるものに一致するということだったと思います。これに反論しようとするなら、同じ位ギリシャ語文献を熟知しなければならないことになります。さて、「信仰の薄い奴だな」とニヤリと笑ってペトロを引き上げてあげるイエス様。そこでカナのイエス様の場合はどうか。「私に何をお望みかな、ご婦人さん、私はまだあななたちと一緒にいるのだよ。」それをニヤリと言われたら、ますます、この方は何かをしでかす、とパニックを忘れさせる効果は大と思うのですが、どうでしょうか?イエス様をこんな風に何か大胆不敵さと茶目っ気さを兼ね備えた方のように言うのは行き過ぎでしょうか?でも、大胆不敵さは母親譲りと言えるし、茶目っ気の方も、彼のたとえの教えの中には読んで吹き出してしまうものもあります。どのたとえか別の機会にお話ししますが、ユーモアの精神も見られるのです。本人がどこまでそれを意識していたかわかりませんが。

5.今が、主とかかわりあいを持って生きる時、主に願い事を祈り求める時

さて、これでイエス様とマリアのやり取りは、突き放されてしがみついたというルターが言うのとは違って見えるものになってきました。そこで、イエス様の言葉は、いろんなことで慌てふためく私たちの心にもイエス様を信頼することを呼び起こす力があることを見てみます。そんなこと言ったって、イエス様はあの後十字架にかけられ復活を遂げたではないか、もう彼の時は過ぎてしまったではないか、彼は今私たちのところにいないではないか、天の父なるみ神の右に座している、といつも使徒信条や二ケア信条で唱えているではないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、「私の時はまだ来ていない」という主の言葉は、私たちにとっては、主の再臨はまだ来ていないという意味になります。再臨の日まで今天と父なるみ神のもとにおられる主は、信仰と洗礼をもって神の子とされた私たちとは聖霊を介してその日までいつも私たちと一緒にいて下さいます。だから、かかわり合いがあります。望むことを打ち明けていいのです。そうしないと、再臨の日が来たら手遅れになります。その日、私たちは復活させられてしまったら、痛みも苦しみも悩みもなく正義も完全に実現しているところに迎え入れられてしまうので、そこではもう何も望むことは出来なくなってしまいます。

 だから今が、主とかかわり合いを持って生きる時、願い事を打ち明けて祈り求める時なのです。今、共にいて下さるイエス様が慌てふためている私たちにあの時と同じような平静さで、ひょっとしたらニヤリと、お前は私に何を望むのか?私はお前と共にいるぞ、とおっしゃって下さるのです。私たちは時として何も望むこともできない位に落ち込む時もあります。そういう時は、イエス様と自分の間には何もかかわり合いはないと思ってしまうでしょう。しかし、イエス様はそう思うのは間違っている、かかわり合いはあるぞ、望むものを思い出して打ち明けなさい、とおっしゃって下さるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

列王記上17章18節、マルコ1章24節、ヨハネ2章4節の文の形と各国訳は以下の通りです。

ヨハネ2章4節 τι εμοι και σοι, γυναι; (…)

【新共同訳】「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。(わたしの時はまだ来ていません。)」

【英語NIV】Woman, why do you involve me? (My hour has not yet come.)

【ドイツ語・ルター】Was geht´s dich an, Frau, was ich tue? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【ドイツ語Einheitsübersatsung】Was willst du von mir, Frau? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【フィンランド語】Anna minun olla, nainen. (Minun aikani ei ole vielä tullut.)

【スウェーデン語】Låt mig vara, kvinna. (Min stund har inte kommit än.)

マルコ124τι ημιν και σοι, Ιησου Ναζαρηνε; (…)

【新共同訳】「ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。(我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている。神の聖者だ。」

【英語NIV】What do you want with us, Jesus Nazareth? (Have you come to destroy us? I know who you are – the Holy One of God.)

【ドイツ語・ルター】Was haben wir mit dir zu tun, Jesus von Nazarem? (Bist du gekommen, um uns ins Verderben zu stürzen? Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes.)

【ドイツ語Einheitsübersatsung】Was willst du von uns, Jesus von Nasareth? (Du bist gekommen, uns zu vernichten. Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes!)

【フィンランド語】Mitä sinä meistä tahdot, Jeesus Nasaretilainen? (Oletko tullut tuhoamaan meidät? Minä tiedän, kuka sinä olet, Jumalan Pyhä!)

【スウェーデン語】Vad har du med oss att göra, Jesus från Nasaret? (Har du kommit för att ta död på oss? Jag vet vem du är, Guds helige.)

列王記上1718(…) מהלי ולך איש האלהים

【新共同訳】「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。(あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子をしなせるために来られたのですか。)」

【英語NIV】What do you have aganst me, man of God? (Did you come to remind me of my sin and kill my son?)

【ドイツ語・ルター】【ドイツ語Einheitsübersatsung】ドイツ語の聖書は、私の手元にあるのは新約聖書だけなので割愛します。

【フィンランド語】Pitikö sinun sekaantua minun elämääni, Jumalan mies! (Pitikö sinun tulla tänne vetämään minun syntini esiin ja tappamaan poikani.)

【スウェーデン語】Vad har du här att göra, gudsman? (Du har bara kommit hit för att låta min synd komma i dagen och för att döda min son!)

 

 

説教「洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書3章15-17、21-22

主日礼拝説教 2022年1月9日 顕現後第一主日(主の洗礼)

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるというのは理解しがたいことです。ヨハネの洗礼は、ルカ3章3節で言われているように「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。イエス様は神のひとり子なので罪を持たない方です。それで洗礼を受ける必要など本当はありません。マタイ3章を見ると、ヨハネはイエス様が洗礼を受けに来たことに驚き「わたしこそ、あなたから洗礼を受ける必要があるのに、あなたが私のところに来るのですか?」と言います。どうしてイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?

少しヨハネの洗礼について振り返ってみます。それは「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているからですが、洗礼を受けて即罪の赦しに至るのか、それとも受けた後しばらくしてから赦しに至るのか、はっきりしません。しかし、後でみるように答えは後者でした。即ではなかったのです。

それでも大勢の人が洗礼を受けにヨハネのもとにやってきました。中にはユダヤ民族を占領下においているローマ帝国の手下となって好き放題している取税人や兵士たちもいます。みな一様に何かに怯えています。なんでしょうか?それは、神の怒りの日が来ることでした。神の怒りの日とは、旧約聖書の預言書のあちこちに出てくる「主の日」のことです。それは神が人間に怒りをぶつける日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異も起こる時です。イザヤ書の終わりの方では、それこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地に創造し直す日が来ることが預言されています。人々はヨハネが「悔い改めよ、神の国が近づいた」と大々的に宣べ伝えるのを聞いて、その日が近いと思ったのです。悔い改めないと神の怒りをもろに受けて、森羅万象の大変動を乗り越えられず滅び去ってしまう、永遠の神の国に迎え入れられなくなってしまうと心配したのです。それでヨハネのもとに来て、自分たちには神の意思に反する罪がありますと告白して、悔い改めに相応しい行いをしますと誓って罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。

ところがヨハネは、自分は水を使って洗礼をしているが、後に来る方つまりイエス様は聖霊と火をもって洗礼を授けると言います。火を伴うというのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリア13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2―3節)、罪からの浄化を意味します。ヨハネは自分の洗礼にはそういう浄化の力もないし聖霊も伴わない、だから神の怒りが及ばないようにする力はないと認めるのです。そこで先ほどの「罪の赦しに至る」ということについて見てみます。それは、ヨハネの洗礼で即赦しが与えられるのではなく、聖霊と火を伴うイエス様の洗礼で即与えられる、それを受ければ神の怒りが及ばないということだったのです。そういうわけでヨハネの洗礼は人々に罪の自覚を呼び覚まして告白させ、すぐ後に来るメシア救い主が設定する本物の洗礼に備えさせるものでした。人々を罪の自覚にとどめて後に来る罪の赦しに受け渡すためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊と火の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい、その時お前は罪を赦されて神の子となれる、そうして「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主をお迎えする準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中の道を真っ直ぐに整えるためのものでした。ヨハネが本物の洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのは当然のことでした。

2.預言の実現と救いの計画実行開始としての洗礼

ヨハネの洗礼がイエス様をお迎えすることが出来るようにする洗礼だとすると、イエス様がそれを受けるというのは自分で自分をお迎えするみたいでとても変です。これは一体どういうことなのでしょうか?一つの見方としては、イエス様が洗礼を受けたというのは人間に対する連帯の表れという見方があります。しかしながら、以前の説教でも申し上げましたが、人間に対する連帯の表れを言うのならば、天の父なるみ神のもとにいたひとり子が乙女マリアから人間の姿かたちを取って生まれたという受肉の出来事の方が連帯をよく表していると思います。それとイエス様がユダヤ教の伝統に従って割礼を受けた出来事も人間に対する連帯の表れとして重要だと思います。というのは、割礼を受けることで人間と同じように律法の効力の下に身を置かれ、それによってゴルゴタの十字架の上で罪の罰を本当に神罰として本気で受けられるようになったからです。

洗礼には、もちろん人間との連帯の意味も否定できないが、もっと別の意味もあるということで二つのことを申し上げました。一つは、イエス様が洗礼を受けたことでイザヤ書42章の預言が実現したということがあります。もう一つは、イエス様の洗礼に聖霊が伴ったことで私たちが受ける洗礼の先駆けになったということがあります。本説教でこの二つの意味を振り返ってみます。その後でキリスト信仰の洗礼と聖霊は切っても切れない関係にあることを見ていこうと思います。

まず、イザヤ書42章の預言が実現したことについて。イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その時、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1~7で預言されていることの成就でした。実にイエス様の洗礼はこの預言が成就するために必要な手続きだったのです。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。

このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?私たちの新共同訳を見ると「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これらはわかりにくい訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。ここはもうヘブライ語の原文に遡ってみないと本当のことはわからないのです。

まず、参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。

神の僕が携わることが、どうして日本語では「裁き」になって他の訳ではそうならないのか?それは、ヘブライ語の単語ミシュパートמשפטがいろんな意味を持つ言葉だからです。大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような意味がでてきます。しかし、それだけではありません。大元の意味を出発点として「正当な要求」「正当な主張」という意味もあるし、「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。

それなのでイザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、他の国の訳のように「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せます。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」です。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」です。

それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉集である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか出てきたら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、人間が自分の造り主である神の意思に反しようとする罪の力から解放されることです。罪から解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きられることです。そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れられることです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てて下さいました。

イエス様が洗礼を受けた時、天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降りました。これでイザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。この時イエス様に神が定めた人間救済計画を実行に移す力が供えられたのです。もちろんヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼を通して預言通りに聖霊と特別な力を得て、主体的に神の計画を実現させることとなったのです。洗礼を押しとどめようとするヨハネに対してイエス様が言ったマタイ3章15節の言葉、神の義を実現するために洗礼を受けなければならない、というのはその通りだったのです。

3.洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ

ヨハネはイエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。火を伴うとは罪からの浄化を意味します。しかし、人間は洗礼を受けて本当に罪から浄化されるかと言うと、実は洗礼を受けてキリスト信仰者になっても神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、浄化されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、洗礼には、受ける前と後で人間に決定的な違いをもたらします。それは、人間を復活に与らせないようにしようとする罪の力、神のもとに迎え入れさせないようにする力が罪から奪われるということです。なぜ罪からその力が奪われるかと言うと洗礼を受けると聖霊がその人に降るからです。

聖霊が洗礼を受ける人に降るということで、イエス様が受けた洗礼はキリスト教会の洗礼を先取りしています。ヨハネの洗礼は受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。ヨハネはかなりの数の人に洗礼を施しましたが、誰にも聖霊は降りませんでした。誰にも起こらなかったことがイエス様に起こったのです。それは神がそうすると決めていたからです。イザヤ書の預言が文字通りに成就して神の救いの計画の実行を開始するためにそう決めたのです。

聖霊が人に降るなどと言うと、事情を知らない人は何か霊にとりつかれたみたいに聞こえて不気味に感じるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点は、人間は自分の力ではイエス様を救い主と信じることはできないというものです。第一ヨハネ4章2~3節では神のひとり子が肉を伴ってこの世に来られたと告白する霊は神から来る霊であると言っています。第一コリント12章3節ではずばり、聖霊を持っていなければ誰もイエス様は主であると言うことはできないと言っています。このように人間は聖霊が働かないとイエス様を救い主を信じることはできないというのがキリスト信仰の立場です。それくらい聖霊は信仰のカギになっているのです。

このことは、信仰と知識の違いを見ればよくわかります。イエス・キリストという人物が約2000年前に現在のイスラエルの地で活動して最後は十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、と言うのは知識です。信仰ではありません。また、キリスト信仰者は処刑されたイエスが復活したと信じていて、そのイエスのおかげで神と結びつきを持ててこの世を生きられる信じている、そしてこの世から別れた後は自分も復活の日に復活させられて神の御許に迎え入れられると信じている、そういう連中なんだ、そういうふうに言うのも知識です。信仰ではありません。

翻って信仰というのは次のように言うことです。あの方があの時成し遂げた十字架の死と死からの復活は今の時代を生きる私のためにもなされたのだ、それはあの方の身代わりの犠牲のおかげでこの私が天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになるためだったのだ、この結びつきは私が自分から手放さない限り順境の時も逆境の時も変わることがないので私は常に神から見守られ導いてもらっている、もしこの世から別れなければならない時が来たらその時は復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れてもらえる、そこは懐かしい人たちとの再会の場所なのだ、このように事柄を自分事として自分自身に対しても周囲に対しても言える人、その人は事柄をもう知識で持っていません。信仰に生きています。聖霊が働いたから事柄は知識ではなくなったのです。聖霊が働かないところでは知識どまりとなります。

洗礼を受ける時に聖霊が降る、聖霊を注がれる、その時に知識が信仰になると言うのなら、洗礼を受ける前にイエス様は救い主と信じられるようになった人は聖霊が降っていることになるのではないか、その場合は洗礼はもう必要ないのではないかという疑問が起きるかもしれません。これは次のように考えます。洗礼を受ける前にも神は人間に聖霊を働かせてイエス様が歴史上の人物に留まらず、本当に今を生きる自分の救い主、自分を犠牲にしてまで私と神聖な神を結びつけて下さった方とわかるようにします。そうなれば洗礼を受ける機が熟したことになります。洗礼を受けることで聖霊の働きに完全に服することになります。受けないでいると、せっかく一時イエス様が自分の救い主と見えたのに、すぐ別のもの、例えば別の霊や人間の理性に頼ってしまい、自分の救い主としてのイエス様が見えなくなってしまい、世界史の教科書か何かの小説のイエスに戻ってしまいます。それなので洗礼は聖霊の働きを定着させる出来事と言ってもよいでしょう。聖霊の働きが定着するというのは、神との結びつきがそれこそ順境の時も逆境の時も変わらずにあるということになり、この人生大丈夫、この世と次に到来する世にまたがって生きてやろうという心が起きるということです。

それでは最後に、どうしたら知識上のイエス・キリストが自分と個人的な繋がりのある主になるのか、どうしたらそうなるように聖霊の働きが自分に起こるようになるのかを考えてみます。いろいろあると思いますが、一つカギになるのは、自分と自分の造り主であり神との関係はどうなのかを考えてみることです。造り主の神がどのような方で、どんなことを私に望んでいるかについては聖書がよく教えています。この私は神の意思に照らし合わせてみてどんな存在なのか、神のみ前に立たされて果たして大丈夫な存在なのかを考えてみます。どうしてそんなことを考えるかと言うと、神は神聖な方で罪の汚れを持つ人間はその正反対だからです。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃した時、恐怖の叫び声をあげました。私は滅びてしまう!この目で神を見てしまった、私は汚れた口を持つ者なのだ、汚れた口を持つ国民の一人なのだ!と。イザヤ書6章です。神に選ばれた預言者にしてこうなのです。預言者でもない私たちはなおさらでしょう。

しかし、ここで思い起こします。イエス様はこの私が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられる者にして下さったということを。大丈夫な者にするために神は大切なひとり子をこの私に贈って下さり十字架と復活の業を果たさせたということを。それは神が私を愛しているからそうされたのだということを。イエス様も私を愛しているから天の栄光ある地位を捨てて人間としてこの世に降り十字架の道に進まれたのだと。そして、今天の父なるみ神の右の座におられる主は再臨の日まで聖霊を介して私とともに毎日一緒にいてくださるということを。そして、復活の日が来たらこの私をも目覚めさせて御許に迎え入れて下さるということを。

ここまでくれば、私はこの世の人生をイエス様と共に歩もう、もう私には何も不足はない、何も怖くはない、という詩篇23篇を絵に描いたような心意気になります。もうイエス様は遠い過去の人物ではなくなっているのです。このようにイエス様がそばにいる方になると、縁遠く感じた旧約聖書の御言葉も私たちに呼びかけるものに聞こえてきます。試しに本日の旧約の日課イザヤ書43章で見てみましょう。

1節 神はかつてヤコブとイスラエルの民を造り形作ったように私たちを造り形作ったと言います。それがどんなことか後で7節でわかります。「恐れるな、私はお前を贖った」と神は言います。新共同訳では「お前を贖う」ですが、ヘブライ語原文では「お前を贖った」と完了形で言っています。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者のことを言っています。信仰者でない人も信仰者になったら、そう言えることになります。私たちはイエス様のおかげで罪と死のもとから神のもとへ買い戻された、難しい言葉を使えば「贖われた」のです。それで神は私たちを名前で呼ばわる位に私たちの父になり、私たちは神の子となったのです。

2節 お前が水の中を通らねばならないような時も私は一緒にいるからお前は流されない。火の中を通らねばならないような時もお前は焼き尽くされない。なぜなら私は主なる神であり、お前自身の神だからだ。

3節 私はイスラエルつまり神の民の神だ。お前を滅ぼそうとする者から救い出す神なのだ。

4節 お前を贖うためなら、私はエジプトやクーシュやシェバやその他諸国を身代金として差し出してもいいくらいだ。それ位お前は私にとって価値があるのだ。(しかし、実際にはそんな国々など差し出さず、私はひとり子を身代金にした。お前は価値があるということの本当の意味はそれだ。)

5節 だから恐れてはいけない。私がお前と共にいる。

6節 お前が東にいようが西にいようが何処にいようが地の果てにいようがお前を呼び寄せる。誰も邪魔することは出来ない。

7節 お前は私の名で呼ばれるくらいに神の子なのだ。私がお前を造り、贖われた者に形作り、私の子へと完成させたのは、私自身の栄光を増し加えるためにそうしたのだ。

以上です。どうでしょう、旧約のみ言葉が身近になったでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「ロゴスの光を持って生きよ」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1ー18節

2022年1月2日(日)降誕節第二主日 主日礼拝

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているでしょう。ただ、よく見ると、この「ことば」は漢字では「言」と書かれています。普通の「言葉」ではありません。普通の言葉ではない特別な言葉だから、違う言い方をしているのです。それでは、この「ことば」は普通の言葉ではない、「言」であるとすると、それはどんな「ことば」なのでしょうか?これはもう、日本語をこねくり回しても解決出来ない問題です。ギリシャ語の原文に立ち返って、その言語の世界の視点から事柄を眺めてわかるようにして、そして日本語の世界に戻ってわかりやすい言葉に直すしかないです。この言はギリシャ語でロゴスと言います。

ところで、日本語の世界から飛び出すと私たち日本人に関係ないことになってしまう、と思う人がいるかもしれません。特に今は新年で大多数の日本人は神社仏閣に参拝に行く時です。新年早々日本的でないことに手を染めてしまうと怪訝な顔をする人も出てくるかもしれません。しかし、これを見ていくと、事は日本とかギリシャとかを超えたこと、日本とかギリシャとかを全部含めてそれらを超えたことに関わっているとわかってきます。どうしてそうなるかと言うと、聖書の神の意思というのは民族を超えた普遍的なもので、それを神は人間に知らせる時にある特定の地域の人たちにその人たちが生きた時代の中で知らせたからです。それがたまたまギリシャ語の世界だったからギリシャ語云々という話になるのです。事をもっと広く見ると、天地創造の神は旧約聖書が形成される時代はずっとヘブライ語やアラム語を用いる人たちを通して自分の意思を伝えました。その人たちが住み生活する地域がギリシャ語の文明圏に組み込まれると、今度はギリシャ語を通して伝えるようになったのです。

本日の福音書の日課ヨハネ1章1~18節を見ると、イエス様のことを言い表わす言葉として言ロゴスの他に光フォースも出てきます。この二つは何度も出てきます。ロゴスは4回、フォースは6回。さらに、それらを指す代名詞が何回も出てきたり、主語を省いた動詞だけというのもあるので、ここはロゴスとフォースのオンパレードです。イエス様はロゴス言、フォース光であるというのです。私たちは、日本語で言葉、光と聞いてそれらの意味はわかります。しかし、ここの「言葉」は特別な言葉、言です。「光」も後で見るように特別な光です。じゃ、どんな言葉なのか?光なのか?もう日本語では太刀打ちできないので、ここから神が御自分の意思を伝えたギリシャ語の世界に入っていきます。それから日本語の世界に戻ります。

 

2.ロゴスなるイエス・キリスト

ヨハネ福音書の記者ヨハネはイエス様のことをロゴスと呼びました。彼はなぜそう呼んだのでしょうか?ヨハネは、あの十字架にかけられて死なれるも3日後に復活された方、その後1カ月少し自分ら弟子たちと共におられそして天の父なるみ神のもとに戻られた方、あのイエス様のことをどう表現したらいいだろうか?彼は福音書を書く時に考えました。あるいは既に考えついていたのかもしれません。ヨハネは旧約聖書を守るユダヤ民族の一員です。旧約聖書の預言を思い出し、イエス様と共にいた日々を思い出して出た結論が、イエス様とはロゴスなのだということでした。どうしてそういう結論に至ったのでしょうか?

ヨハネはイエス様の復活を目撃しました。それでイエス様は本当に神のひとり子で、今は再臨する日まで天の父なるみ神のもとにいながらも聖霊を介して私たちの身近におられるとわかっています。そして、彼が父なるみ神のもとにいるというのは、復活して初めているようになったのではなく、もともとは神のもとにおられたのだが神が前もって定めたように乙女の受胎を通して人間の姿かたちを取ってこの世に生まれ出てきた、そういうもともとは神のもとにおられた方なのだ。人間として生まれてきた時にイエスという名前をつけられたが、それ以前の父の御許におられた時の有り様はどんなだったか?イエスという名前をつけられる前の神のひとり子をどう呼んだらいいか?それを考えた結果、ヨハネはロゴスと呼ぶことにしたのです。それで14節で次のように言ったのです。「ロゴスは肉となって、私たちの間に住んだ。」

それではなぜ神のひとり子をロゴスと呼ぶことにしたのでしょうか?ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味があります。まず、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今ではキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味します。これは私たちが日本語で「言葉」と言っているのと同じです。この他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味します。また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったらこういうふうに別々の言葉で言い表す事柄も全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語文化圏のある哲学の考え方として、世界の事象の全て森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた考え方もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話です。それは、もともとはユダヤ教やキリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念です。聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を明らかにしたり伝えたりして人間はそれを受け取るという立場です。つまり、大元にあるのはあくまで神である、という立場です。哲学では人間の頭が大元ということになります。

こうして見るとヨハネは、神のひとり子イエス様というのは森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたようにみえてきます。しかし、ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をそのままイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、あくまで旧約聖書の伝統とイエス様が教え行ったことに立ってイエス様を捉えようとするが、このとてつもないお方を今自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統がイエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたのか?それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造以前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の際にも父と同席していたと言われています。しかしながら、神のひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると「万物はロゴスによって成った。成ったものでロゴスによらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に天地創造の大事業を担ったのです。どうやって担ったでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように神が発する言葉も天地創造になくてはならないアクターだったと気づけば、ひとり子をロゴス言葉と呼ぶことで彼も創造の役割を担ったことを言い表せます。
このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であると言っていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。

それならヨハネはなぜイエス様を「知恵」と呼ばなかったのか、という疑問が起きるでしょう。それは、アラム語というヘブライ語に近い言語の使い手であるヨハネがギリシャ語世界の人たちにどう言ったらイエス様のことを正確に伝えられるかを考えた結果です。知恵はヘブライ語でחכמהと言います。ギリシャ語でソフィアと言います。この、天地創造の時に既に父なるみ神のもとにいてその「言葉」として創造の業を担ったという途方もない方をギリシャ語の「知恵」と言ったら言い尽くせない、やはりあの方はロゴスでいいのだ、ということになったのです。

この世に生まれ出てイエスと呼ばれた方は実は天地創造の時に父なるみ神と共におられ、父と共に創造を行っていたというのは想像を絶することです。イエス様とは本来はそういう方だったとわかると、「はじめに言ロゴスありき」の「はじめ」というのはいつのことかもわかります。多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるでしょう。実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしの「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。このように時間をずっとずっと遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに言ロゴスとヨハネが呼ぶ神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう途方もない方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてきてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のもとにおられました。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られてきました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

 

3.光なるイエス・キリスト

ヨハネはイエス様のことを光フォースとも呼びます。それがどんな光なのかを見てみましょう。4節を見ると「ロゴスには命があった」と言われています。「命」とは、ヨハネ福音書では死で終わってしまう限りある命のことではなく死を超える永遠の命を意味します。ロゴスは死を超える永遠の命を内包していた。これに続いて次のことが言われます。「ロゴスが内包する永遠の命は全ての人間の光であった、その光は闇の中に輝く光である。」新共同訳では「人間を照らす光」と言っていますが、少し注意が必要です。原文では「人間を照らす」とは言っておらず、ただ「人間の光」、人間は複数形なので全ての人間の光です。どうして「人間を照らす光」と言ってはいけないのか?闇の中に輝いているから暗い夜の証明のように照らすと言ってもいいではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここは注意して見ていく必要があります。この光は単なる照明器具のような光ではありません。

同じことが9節でも言えます。新共同訳では「世に来て全ての人を照らす」と言っています。しかし、ここの動詞φωτιζωの正確な意味は「人を照らす」ではなく、「人間に輝きを与える」、「人間を輝かせる」です。それで4節の「全ての人間の光」とは「人間に輝きを与える光」、「人間を輝かせる光」です。10節から12節を見ると人間は、ロゴスであり光である方を受け入れる人と受け入れない人に別れてしまうことが言われています。受け入れる人は神の子になれると言っています。

それでは、人間を輝かせる光とはどんな光でしょうか?人間をどう輝かせるのでしょうか?それをこれから見てみましょう。それがわかるために、ここで言われている光と闇は普通言われる光と闇と違うものであることをわからないといけません。今あちこちで見られるイルミネーションを思い浮かべてみましょう。大体クリスマスの頃が一番多く見られますが、まだやっているところもあります。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間が懐中電灯を持たなかったり、照明のない所を歩いたという不用意不用心によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じです。それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。

ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っています。闇の目的は、人間から造り主である神との結びつきをなくそうとすることです。闇がその目的を果たした出来事が創世記の3章に記されています。最初の人間が悪魔に巧みに誘導されて造り主である神に対して不従順になって神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間は神との結びつきを失い死する存在となってしまったのです。しかし神は、人間が神との結びつきを回復して、それを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に御許に迎え入れられる道を開きました。その道を、御自分のひとり子をこの世に贈って、彼に十字架と復活の業を果たさせることで道を開いて下さったのです。闇の力を上回る光が闇の中にいる人間に与えられたのです。人間がその光を受け取って持つことが出来るようになったのです。

ここで5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。ここの訳は各国の訳で別れます。これはギリシャ語の動詞カタランバノーがいろいろな意味を持つからです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。もし十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。しかも父なるみ神が一度死なれたイエス様を復活させたおかげで、死を超える永遠の命の扉が開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。

悪魔は罪を活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てます。しかし、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。なぜなら、闇は死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。それなので5節の訳はやはり暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリではないかと思います。

そういうわけで、イエス様の光、ロゴスの光は、人間が永遠の命を持てるようにするという意図と目的を持つ光で、人間が受け取ることができる光です。受け取っても目の前が真っ暗になってしまう時もあります。受け取ったはずの光が見えなくなってしまうのです。しかし、それは私たちが勝手に見えなくなっているだけで、大元の光は相も変わらず輝いています。それは闇が支配下に置けない光だからです。どうしたらそれを私たちはまた見ることが出来るでしょうか?そういう時は、どこでイエス様に出会え、その声を聞くことが出来るかを思い出します。聖書のみ言葉をひも解くところでです。礼拝の説教を通してです。聖餐式に与る時です。罪の自覚から逃げず勇気を持って罪の赦しの宣言を受け入れる時です。そのようにしていつも洗礼の地点に立ち返ります。こうすることで一旦は閉じた私たちの目はまた開きます。

このようにロゴスの光は神との結びつきを回復させるだけではなく、回復した結びつきが失われないようにし一層強める目的も持っています。このような光を私たちは与えられているのです。どうかこの新しい年も私たちがこのロゴスの光を持って歩むことができますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「イエス様の名前と私たち」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章15~21節

2022年1月1日(土)主の命名日の礼拝(ビデオ小礼拝)

説教をYouTubeで見る

新年の小礼拝の説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
西暦2022年の幕が開けました。新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。しかしながら、今はコロナ禍が足掛け2年目となってしまい、日本でもオミクロン株のために感染がまた拡大するのか心配されている時です。それで個人的な願いもそうですが、それを超えて感染が拡大しないように、本当に終息に向かうようにこの礼拝を通しても父なるみ神に祈ってまいりましょう。

新年の時、日本では大勢の人がお寺や神社にいって、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。今はコロナ禍なので総人口より少ないと思われますが、いずれにしても新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。

キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後が、このひとり子がイエスの名を付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日と重なります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。

2.
まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。

そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。旧約聖書の預言にはそういう終末論があると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時が来ると「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。いずれにしても、イエス・キリストの「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。

次に「イエス」の方を見てみましょう。これも、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は、「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ヨーシャアッ」יושע救って下さる。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語ではイエス・キリスト)になったのでした。

3.
さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと命じた時、その理由として「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何かということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。

「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の外敵からではなく、罪と死という人間の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、端的に言えば、罪がもたらす神の罰から救って下さる、神罰がもたらす永遠の滅びから救って下さる、そういう罪がもたらす呪いから救い出すという意味です。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と言うのかといつも疑問を持たれてしまうのですが、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。自分の造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っているのです。

イエス様が人間を罪から救い出すというのは、人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって次に到来する世の神の国に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらる神罰を全部引き受けて私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子として神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者であるかのようになったのです。誰かが身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。

4.
神の定めた律法に服するようにさせられたというのは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたということです。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の御国の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書に約束されたメシア救世主として、その旧約聖書の伝統を守る民族の只中に乙女の胎内から生まれてきました。人間の救い主となる方が特定の民族の伝統に従ったのは、もちろん、その方がその民族の一員として生まれてきたことによります。しかし、それだけではありません。先ほど述べたように、人間を罪の呪縛から救うために一旦、人間に罪があることをはっきり知らせる旧約聖書のもとに服させる必要があったのです。

イエス様の十字架の死と死からの復活の後すべてが一変しました。イエス様が十字架で果たして下さったことはこの私にもあてはまると受け入れて彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってである、と主張したのです。それで人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。

このように私たちには、人間を罪の呪縛から解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びついてこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。

このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれるということからくる嬉しさ、喜びです。

どのくらい神の目に相応しくなっているのかと言うと、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れられるくらい、天のみ国に迎え入れられるくらいに相応しいということです。神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いや希望もありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いや希望が叶えられず、どうして?神は何か私に怒っているのか、不満なのか、それで聞き入れてくれないのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は怒ってなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、私とその道を歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思うとおりに進むから、心配するな、私の目はお前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、今年も主なる神にあって大元の嬉しさと喜びがあることを忘れずにこの新しい年を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「少年イエスの言動から見えてくるもの」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章41〜52節

2021年12月26日(日)降誕節第一主日 主日礼拝

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長

本日の福音書の日課の箇所ルカ2章の終わりは、12歳のイエス様が両親と共にエルサレムの過越祭に参加した後で一緒に帰らなかったため、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという場面です。神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。この出来事はよく見ると、私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。特に母マリアとイエス様のやり取りがそのカギになっています。今日はこのことを見てみましょう。

その前にこの出来事を見るとイエス様のこの世での生涯がどういうものかがよりわかるので、それを見ておきましょう。イエス様の言行録である福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがあります。マルコ福音書とヨハネ福音書ではイエス様の記述は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まります。双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後は今日のルカの箇所で12歳の時の出来事が記されているだけで、あとはマルコやヨハネと同じように洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年前後のこととされているので、この12歳の時の出来事が幼少期と大人期の間の長い空白期の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでも、その前後のイエス様の様子や状況が少し見えてきます。

一つは、マリアとヨセフは毎年過越祭に参加していたことが大事です。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、エルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?これは、旅行が家族単位のものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味を持ちます。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、また誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたことがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端がうかがえます。

しかしながら、この12歳の時は勝手が違いました。今までになかった予想もしなかったことが起きてマリアとヨセフはパニックに陥ったのです。
この出来事の後のイエス様の様子はどうでしょうか?51節に「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけないようにしようと心がけていい子に生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。

洗礼者ヨハネが登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に対して抱く愛顧も増していった」です。「愛された」と言ってもいいのかもしれません。いずれにしても、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年だったのでしょう。その彼が、人間と神の間を切り裂いている罪と死の問題を解決するために自らを犠牲にしなければならなくなったのでした。

2.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない

以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。

マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。これは私も経験上、特別支援の息子が4回ほど迷子になったことがあるので痛いほどよくわかります。2回は大きなお店の中で店内呼び出しをしなければなりませんでした。2回目の時は息子に先を越され、悦才くんのお父さん、悦才君がお父さんをインフォメーションで待っています、すぐ来てください、と言われて、私が迷子扱いになったようでした。店の外に出なければ大丈夫なので、出ないでくれと必死で祈りながら探しました。ところが3回目と4回目の時は外でした。これは本当に恐怖でした。4回目の時は携帯があったので話しながらお互い近づいて最後は落ち合うことが出来ました。バッテリーがなくなる前に見つかるようにと必死で祈りました。3回目の時は携帯がなく、しかも日が沈んで暗くなり始めてしまい、警察に届けなければなりませんでした。ただ、息子は家に帰る道順を覚えていたのでマンション前で待っていた母親に抱きかかえられてゴールインでき事なきを得ました。暗くなって人通りも少なくなった時に、子供が泣きながら歩いていたら今の時世何が起きるか考えただけで気が気でなく、私は本当にパニック状態でした。

マリアとヨセフの場合は携帯も交番もありません。1日分の帰路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。その間の二人の思いはどんなものだったか考えただけで心が苦しくなります。エルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を一人の少年を捜し出すというのは雲をつかむような話です。丸3日以上の二人の気持ちを考えただけでこちらの胸も張り裂けそうになります。イエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶよりも苦渋の表情を見せました。なぜなら、見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。両親はなんだこれは、と呆気に取られて大いに困惑したでしょう。彼らに再会の喜びは起きなかったのも無理はありません。

そこでマリアの問いに対するイエス様の次の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言っていません。そういうふうに訳すと、あなたたちは捜す必要はなかったんですよ、なのにどうして捜したですか、と言っていることになります。イエス様はそんなことを言っていません。じゃ、何を言っていたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」その意味はこうです、あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」ということなのですが、「父の家」とはイエス様の本当の父である神の家、すなわちエルサレムの神殿を指します。ところが、ここの訳も訂正が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。神殿もそうした事柄の一つですが、他にもあります。何でしょうか?それを見る前にまず、ここの文を直訳すると「私は父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」です。それでは、「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か見てみましょう。

エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としては12歳です。言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でも祈りをし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰上の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの時、律法学者の話を耳にして言語的に語彙的に接点が今までになく多くあったと思われます。以前は抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時はいろいろ耳に入ってきて何が問題になっているかいろいろわかったでしょう。
さて、どんなわかりかたをしたでしょうか?イエス様は神のひとり子です。天の父なるみ神のもとにおられた時はどのような姿かたちを取られていたか私たちは全くわかりませんが、マリアから生まれ出て人間の姿かたちを取りました。12歳の彼の言語能力と語彙力は30歳や40歳の学者よりは限られているかもしれませんが、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはひょっとしたらほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年ごろになったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言っていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。神は彼の父で、しかもこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思は被造物である人間なんかよりよくわかっています。それで公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。イエス様の言葉は学者が使うものとは違うけれど、抽象的な言葉や言い回しで誤魔化すことがなく、全てをわかっているので質問も答えもストレートだったでしょう。人々はこの子は理解があると驚いたのは当然です。

ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなく、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力があります。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」人間の知識人との差は歴然としていたのです。

3.捜しに行かなくてもイエス様は聖書と礼拝を通してそばにおられる

ここでイエス様を捜す、見出すということについて私たちの場合はどうか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時、また私たちに起きてくる苦難や困難の時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。ここで、どちらに祈るのがいいのか、両方に祈らなくていいのか?といういうことについて一言述べておきます。どちらか片方に祈っても、キリスト信仰者は次のように祈るので結局は両方に祈ることになります。祈る相手が父なる神の場合は必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」ということで他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主ですということを父に知らせます。では、なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の罰を代わりに受けて下さったからです。そして死から復活されたことで私に復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さり、その道をいま共に歩んで下さるからです。助けを祈り求める相手がイエス様の時は、イエス様が約束した通り、祈りを父なる神に取り次いでくれることを肝に銘じて祈ります。

さて、このように祈っても苦難や困難がなかなか終わらないと、イエス様は世の終わりまで一緒にいると言ったのに、一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?キリスト信仰では、救い主イエス様がそばにいたら苦難や困難はない、それらがあるのはそばにいないからだという見方はありません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。そばにいるのに苦難や困難がなくならないのはなぜか、ということにはキリスト信仰はあまり注意を払いません。祈り願い求めているのに助けがないのはなぜかという質問をたてて答えを得ようとすると、日本のコンテクストではすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰ではそういう問いのたて方はしません。苦難困難がなくなるのにどれだけかかるかはわからない、もちろん早く終わるにこしたことはないが、別に早く終わらなくても、それらがなくなる方向を目指してイエス様が一緒についていってくれるからそれでいいという信仰です。

イエス様が一緒についてくれていることがどうしてわかるのか?そこは彼がマリアに言った言葉「私は神に関わる事柄の中にいなければならない」を思い出しましょう。神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。捜しに行くまでもありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちは独りぼっちでこの暗闇のような世の中で立ち往生はしないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

うさぎのププちゃん、本当のクリスマスを見つける

今年もコロナのためスオミ教会のクリスマス子ども料理教室は開けません。パイヴィ宣教師は去年に続いてビデオで料理教室を開くことにしました。今年はヨウル・トルットゥを作ります。 ちょうどトルットゥが焼き上がった時、突然教会に姿を現わしたのはうさぎのププちゃん。さあ、これから何が起こるでしょうか?お楽しみに!

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