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説教全文
ルカによる福音書14章1、7〜14節
スオミ教会礼拝説教
2022年8月28日
説教者:田 口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
この14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。今日の箇所は7節からですが、2〜6節には何が書かれているかを簡単に紹介しますと、その家で、一人の水腫を患った人がいたのですが、そこにいたファリサイ派の人たちは安息日にその病人をイエスが直すかどうかをじっと見ていたのでした。それは、もし直したら、イエスが安息日の戒めに違反したとして訴えるための口実を狙っていたのでした。しかしイエス様は、そのことをすべて見通して、自分から、安息日に癒すことは良いことかどうかを尋ね、もし家畜や息子が穴に落ちたら、あなた方は安息日でも助け出すではないかと、安息日に良いことをすることは神の何よりの御心であり、神様は安息日に人のために働いてくださり、救ってくださるお方であることを伝え、その人を癒したのでした。ファリサイ派の人たちは、最初はイエス様を告発しようと思っていたのに、イエス様はすべてをお見通しだった上、イエス様の言うことはその通りであり、しかも完全と働き病気を治してあげたので、全く反論できなかったということがあったのでした。
今日の箇所は、そのファリサイ派のリーダーの家での食事の席の場面が続いていますが、イエス様は。ファリサイ派の人のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが
「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座るような人々でした。つまり社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についてのマナーは厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を自ら「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人だけでなく、本当に自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10節
イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。もしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、仮にそのような例えにあるような場面が起こったなら、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席に選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。
この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのようなファリサイ派の人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にする、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。
けれども、この例えを話すのは、イエス様がただ、「末席に座りなさい」等と、社会的なマナーやあるべき道徳だけを伝えたいのでもなければ、あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的でもないのです。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。
A, 「高い、低い」
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11節
「低くされる。高められる」、「高い、低い」とありますが、それは単に人間社会の、階級のことや上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面がありますが、その時も、それは父なる神がお決めになる、つまり神の御手にあるこ、イエス様は言っただけでしたが、人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。
では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人たちのような人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
と。これと似たような教えを実は、イエス様は他のところでも述べています。弟子たちが誰が偉いかを論じていた場面がありました。その時にも、イエス様が弟子たちに言ったのは、「子供のようになりなさい」と教え、そして「仕えるものになりなさい」とも、イエス様は教えています。
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい.」(マルコ10:43−44)
と。このように、ここでもイエス様は、神の国にあっては、自分を低くすることこそを神は求めておられ、それが何よりもその神の子にふさわしいし価値があることなのだとを伝えています。みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということですが。このイエス様の例え自体は、わかりやすい例えには思えます。確かに、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるとき、そのような言葉や、そして、何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」と言う大事な背景を踏まえる時に、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。
B, 「神の前」
どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人の関係」を何より指し示しているということが言えるます。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は自他共に認めて当然のように座る席だったのかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで、その例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。
皆さん、イエス様はあえて「婚礼」と言っています。それはイエス様の場合、救い主の到来を示していて、実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時に、イエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、彼らは全く気付かないで、人の間の、人の前のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが見えていないのです。もちろん、イエス様は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言っているのではありません。しかし、彼らのどこまでも「人の前」しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方で、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。
しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。
A, 「神の前の現実:罪人」
みなさん、実に、このようにイエス様の話から「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、水腫を患っている人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人です。そして何より高ぶる罪人であるという事実です。「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの現実は、どこまでも神の前を忘れてしまい、高ぶってしまうものではないでしょうか。そして「人の前」ばかりを気にして、比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に座ってしまう自己中心な存在です。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろそれができる、できている、と思っているなら、そこにすでに高ぶりと愚かさがあるのですが、できると思ってしまうのです。それは、何より私自身にもあることであり、ここで示されるパリサイ派は私自身であることを教えられるのです。しかしまさに、そのように、聖書から、自分の神の前の高ぶりを気付かされる時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされます。そのように罪を刺し通され、神の前に立つことができなくなり、ただ憐れんでくださいと言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこにあります。「高ぶる時こそ、低くされる」。
B,「低くされる」
繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教が終わり、そのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし教会の説教はそうではありません。確かにそこには罪を示す律法ははっきりとありました。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちに律法を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく。「神が」律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。
C,「真に低くなられたお方」
しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは。まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その福音の事実、現実です。
実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章においても、その後、続けてイエス様はなんと言っているかというと、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されていますね。つまり「低くなる」「仕える」は、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架に全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章45節
イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われます。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があり、そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることを示しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに、
「へりくだる者は高められる。」
そのことを信じる私たちに実現する力だということなのです。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられる、刺し通される、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でもあることであり、日々あることです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって救われる。罪を差し通されるからこそ、十字架の輝きがいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。
イエス様は今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルカによる福音書13章10〜17節
2022年8月21日
1、「会堂にいた彼女」
今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。
まず10節、会堂にいるイエス様ですが、イエス様は、安息日にはこのユダヤ人の会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていましたが、この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」11節
とあります。もちろん全ての病気がそうだというのではありませんし、私たちにとっては馴染みのない、また理解し難い言葉ではあるのですが、その病気は霊によるものであったことがわかります。「病の霊」の働きで、腰が曲がってしまって、伸ばすことができない、そんな状態を、彼女は患っていたのでした。しかもその時間があまりにも長いです。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。
しかし彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていた、つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、
2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」
と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味していません。もしそうであるなら、全てのイスラエル人もアブラハムの子孫です。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、アブラハムから連なる「信仰による義」の相続者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、義は主を信じる信仰にあったのであり、主はその信仰こそを見て、義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。それはパウロもローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。
3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」
けれども、病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。
ここで不思議に思う方もいるのかもしれません。それは、信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような人は、何か罪を犯したからだ、律法に背いているからだ、神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられるのが一般的でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。カリスマ系の教会や、熱狂主義的な教会、律法的に導く教会などでは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だから信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい」と教えられたりすることがあるのです。
そうではなくても、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練は、祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そう考える人は少なくないとも言われます。
しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病と彼女の業や信仰とをつなげません。むしろ彼女のその信仰のみをイエス様は見て言うでしょう。
「この女はアブラハムの娘なのです。」
4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞
みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉でしょう。「アブラハムの娘なのです」と。素晴らしい言葉です。もちろん私たちの目から見るなら、人間ですから、誰でも不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるのは当然です。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、それが私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、そこから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかがわかるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰生活というのは決して、私たちが何かをしなければいけないという律法ではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。
5、「祝福のはかりは律法ではない」
つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、患難がありますと言いました。その中で、私自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできないときも必ずあります。まさに彼女のようにです。それらの事柄がすぐに解決ができず、18年、いやそれ以上、かかるときもあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、そのようなときも現実的にあるでしょう。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも、罪の世を生きているし、なおも罪人であるのですから。救われて義と認められても、義人にして同時になおも罪人でもあります。聖書にある通り、古い人と新しい人の両方があるのですから。
しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもありません。むしろそうだというなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節からいうなら、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いの中、サタンの誘惑や攻撃の中で、日々、戦って生きていき、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。
6、「福音の実」
しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも神の前にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところにある通りであると証ししているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、まさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵みであるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、彼女にそのようなイエス様の実らせる実が実ることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。
皆さん、それは派手でも劇的でもありませんが、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全で苦しみの中、神にすがっているだけです。しかしそれが「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。
7、「律法を基準とする会堂管理者」
けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節
「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているかのその自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。
8、「イエスの目は福音の目」
けれども、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節
「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」
安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では
「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。』」マルコ2:27〜28
と。ヨハネの福音書でも、イエス様は
「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』 」ヨハネ5:17
と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。
9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」
私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されてここに集められていることでしょう。しかしそれはそのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。イエス様は罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、それでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。
事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性がある理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあり、私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。
今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。
司式・説教 ティモ・ハヴカイネン宣教師
礼拝をYouTubeで見る
聖書 エレミヤ23:23-29
ヘブライ11:29-12:2
ルカ12:49-56
讃美歌 238,131,467,154
音楽 マリ・リ-サ・ハヴカイネン
ティモ・ハヴカイネン
ヴィデオ編集 ティモ・ハヴカイネン
礼拝をYouTubeで見る 8月7日10時30分~
聖書 創世記15章1-6節
ヘブライ11章1-3節
ルカ12章32-40節
讃美歌 244,236,200,371
今日の聖書のおはなし
ルカによる福音書12章13〜21節
「神の前に豊かになるように」
2022年7月31日:スオミ教会礼拝説教
1、「はじめに」
この12章でもイエス様は、エルサレムへと真っ直ぐと目を向けて向かっています。今日の箇所の前には三つの話があり、イエス様は、ファリサイ派のパン種の話など、これから、彼らの偽善や敵対に直面し、これから御自身のみならず、弟子達にも起こる艱難を伝えています。しかしイエス様は、その苦難を通してこそ神の御心が表され、神の国と福音に与る者たちへの本当の幸いがあるという恵みを伝え励ましています。それらのイエス様の教えの土台となっているのは「地上の事柄」ではなく「天の御国」であり、イエス様は、キリスト者は地上では艱難があり、人はキリストの名のゆえに弟子たちに害を加え殺すであろう。しかし、天の神が、その全てを知っていて神の国の約束を与え、イエスが神の前で認めてくださると励まし、その天からの賜物、贈り物である信仰と聖霊によって道は確かにさるのだと、何よりも天の「神の国」を指し示しているメッセージでもあったのでした。今日のところでは、その群衆のなかにいた一人の人がきっかけになっていますが、そこでもイエス様のメッセージは、世の事柄や「人の前」の議論ではなく、やはり「神の前」「神の国」を土台にし、神の国の視点で、人々に、弟子たちに、そして私たちに福音を、指し示しているのです。
2、「仲介者」
「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』」13節
その人の問題は、家庭、兄弟の問題です。遺産を巡っての兄弟同士の争いがあったことがわかるのです。彼はイエス様にその仲裁に入って欲しいとお願いするのです。当時の人々が、このような問題をラビと呼ばれる律法の教師達に持って行って仲裁してもらうということは良くあったようです。しかしそれに対してイエス様はこう答えます。
「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」14節
これを聞いて、おや?と思う方がいるかもしれません。「イエス様は仲介者、仲裁者としてきたのではないのか」と。あるいは、「神であるのだから裁判官でもあるのではないか、むしろ正しい裁判官であるのでは?」と、思うかもしれません。
けれども聖書はこう言っていることを思い出したいのです。第一テモテ2章5節の言葉ですが、4節から6節まで読むとこうあります。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」第一テモテ2章4〜6節
確かに仲介者とあります。けれどもそれは「人と人との間の」仲介者とはありません。「神と人との間の仲介者」であるとパウロは教えています。それは、人と人の間のこと以上に人間にとって重大なこと、それは、すべての人が救われて、真理を知ることのための「仲介者」であることを伝えているでしょう。そしてその仲介の方法までパウロは述べてくれています。それは「すべての人の贖いの代価として」と。十字架の死と復活です。このように、パウロは、そのような方法で「神と人との間の仲介者」となるために、人となられたキリスト・イエスを指し示し、その人となられた神であるイエス・キリストによってのみ、神からの救いが私たちにあるのだと、教えているのです。
イエス様はここで彼と群衆に、まさにパウロが伝えた、「人と人との間の問題」以上に、もっと大事な「神と人との間のこと」、そして、そのことを通して、何よりご自身がそれを与えるために来られた、と言う、「天の御国」「神の国」「救いのこと」を伝えようとしているのがこのところなのです。イエス様はこう続けます。
3、「貪欲に注意しなさい」
「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』 」
貪欲に注意して警戒せよ。イエス様はそういいます。貪欲とは、満足しない欲、あるいは満足を知らない欲とも言われます。それは人の心にあるものですが、それは得ても得ても、与えられても与えられても満足できない。十分ということをしらない。「足りない、もっともっと」となる欲です。それが過度になりコントロールが効かなくなることとして、現代ですと「中毒」とか「依存症」いう言葉も連想されます。この「もっと欲しい、満足できない。」ーそのように貪欲が人間の心を支配する、まさに、満足を知らない欲、貪欲というのは、人間の深い問題です。イエス様は、その遺産の分け前についての兄弟同士の争いに、おそらく、すでに富んでいる家族にあってもなおも争ってでも財が欲しいという、そのような貪欲を見ていたのかもしれません。そして、その貪欲は結局、神が与えてくださった家族という恵みの中で、争いという良くない結果をも生み出してしまっています。だからこそ、イエス様は、そのように神の前に何ら良いものを生まない貪欲に、注意し、よく警戒しなさいというのは、当然のことだと言えるのです。
4、「いのちは財産にあるのではない」
けれども、このところのメッセージは、イエス様はそれをただ道徳や倫理、あるいは律法や戒めを理由や目的としてだけ言っているのではありません。その理由をこう言っています。
「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
別の聖書の訳ですと、
「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
ともあります。つまり、それは、単なる道徳や倫理ではない、むしろ、いのちの問題であるといいます。確かにお金は必要な大事なものです。そしてお金や財産が沢山あれば、いつでも食に困らず食べることができ、良い医療も受けられる、などなど、人々はいのちが、財産、お金、富にあるように思うかもしれません。事実、お金中心で世の中は動き、お金が人の人生の良し悪しを支え保証しているような価値観で、世の中は溢れてはいるのです。
けれどもイエス様は、「いくら有り余るほど持っていても」「豊かでも」、「人の命は財産によってどうすることもできない」「人のいのちは財産にあるのではない」とはっきりと言います。どういうことなのでしょうか。それを説明するためにイエス様は例え話を話すのです。16節以下ですが、ある金持ちの話です。彼はお金持ちです。持てるものを持っています。そしてそればかりではありません。彼の畑は豊作です。さらなる富と豊かさ、発展、繁栄が豊作には現れています。けれども彼は「心の中で」、さらなる心配とそれに対する計画を立て、そして実行をします。まず豊作の作物、財産を蓄えておく場所がないと。心配、恐れです。そして、計画です。これまでの倉を取り壊して、もっと大きいの立てよう、そこに豊作の作物と財産を保管しよう。そのような計画を考え付きます。非常にできる優秀な人です。まさに金持ちになるべく富むべく知恵がある人です。そして彼が心の中で心配し彼が心の中で考え思い描いた計画に、今度は彼は「自分に言ってやるのだ」別訳では「自分のたましいに言おう」と、言わば自己陶酔し、そこに明るい希望を見ています。19節ですが、
「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。 」
ここは肝となるたとえでイエス様は皮肉を込めて言っています。彼の言葉は誰かに言っているように見える、つまり、一見、複数人の会話のように見えるこのやり取りですが、しかし彼は「心の中で」、「自分に言ってやる」あるいは「自分のたましいにこう言おう」とあるように、すべて一人、彼自身の心の中のことです。そして彼は、自分のたましいに「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言っているのです。このように、貪欲の構造をイエス様は表しています。すべて自分自身の心の中の心配と、自分自身の予想、計画と期待と満足であると。けれども貪欲のさらなる事実は、満足を知らない欲です。結局、待っているのは、 「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と、自分に言い聞かせても、それでも安心できない、満足できないわけです。しかし、イエス様は、ここでただ、そのような貪欲の構造、人間の心の欲の底なしの様だけを言いたいのではありません。それだけが「注意しなさい」の理由ではありません。20節に、イエス様の「いのちは財産にあるのではない」ということの理由があります。
5、「いのちはどこに?」
「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」
イエス様の言っていることはハッとさせられるのです。財産はもちろん一時の満足と安定は与えてくれて、一時の健康の維持にも力ともなるでしょう。しかし、究極的には、つまり死という圧倒的な現実を前にして、いのちを支えることはできないということです。いのちということは死ということと隣り合わせです。死があっていのちの意味、生きているということを考えることができるでしょう。生きることをもちろんお金はある程度補償はできるのです。しかし死を前にして、財産は全く意味がありません。いい葬儀やお墓は準備できるかかもしれませんが、どんなに財産があっても死を避けることはできないのです。しかしイエス様が言いたいのはそれだけではありません。そこでは「いのちは取り上げられる」と言っています。つまり、いのちを握っているのは、つまり聖書が「生きるのに時があり、死に時がある」と言っているように、生も死もすべて神の御手のなかにあって、神が定めている、神が与え神がいのちを取りあげる、取り去られるという、圧倒的な事実をイエス様は突きつけているでしょう。そう、それこそがいのちの支配者です。いのちは財産にあるように人は思うのですが、しかしイエス様にあって真理はそうではない、いのちの真理、それはいのちは財産ではなく、神の御手にあるということです。そして、そのいのちも死も、私たちはお金でも力でもコントロールできないのです。しかも、その豊かな財産を死後どこかに持っていくこともできないのです。その時、その取り去られることが本当に起こった時に、イエス様が、「一体誰のものになるのか」と言っているように、そのような彼の心の中で心配し計画し用意していたもの、その財産も倉も、満足も、それらはその人の物にはならないのです。その人は神にいのちを取り去られて、その先にその財産を持っていくことができません。地上の財も富も死の先に持っていくことはできないのです。むしろ財産は他の人の手に渡ってしまうようなものですし、その人の手からまた他の人の手に、時にそれは敵の手に渡ったり、悪用されたりします。まさに、この場面です。お父さんが残した遺産を子供達が争って奪い合うという現実があるではありませんか。そしてその財産も形あるものは、やがては朽ちて消えていきます。地上の財産、そして貪欲は、そのような現実にあるものです。イエス様はいいます。人のいのちは財産には決してありませんと。人のいのちは、神の手に握られていると。だからとここで誤解してはいけない補足ですが、昔からそして今も世を騒がしているキリスト教の異端やカルトが良く彼らの常套手段で、律法的に脅迫するように、だからその財産は神に教会に全て捧げなさい、ということが、正当なキリスト教の教えではありませんし、イエス様のここでの教えもそのようなことを言いたいのでは決してありません。むしろ献金は、律法ではなく、恵みへの応答ですから、自由な心で喜んでささげるものであることは忘れてはいけません。ここでは決して律法のメッセージをイエス様は言いたいのではなく、ここで何より私たちに言いたいことがあるのです。こう結んでいます。
6、「神の前に富むこと」
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ここでも「人の前」ではなく「神の前」とありますが、イエス様がいいたこと、それは「神の前に富むこと」の大切さです。では「神の前に富む」とはどういうことでしょうか?イエス様の山上の説教はこのことの意味がよくわかるところです。マタイ6章19節以下に同様のイエス様の教えがあります。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイ6章19〜21
自分のために蓄える目に見える形ある地上の宝。それはいずれ虫と錆で、傷物になる。盗人が穴を開け忍び込んで盗んでいく。それは事実でしょう。しかしむしろイエス様は「神の前で富むこと」を言います。「富は天に積みなさい」と。別の聖書の訳ですと「宝は天に蓄えなさい」ともあります。それは虫もつかない、錆びることもない、盗人があけて盗むこともないと。やはり初めに言いました。イエス様はここでも「天」を人々に指し示しています。一貫しています。ルカ12章8節でも、「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言う
と、イエスに「知っている」と認められることに、救いのすべてはあることを伝えています。そして、その知ってもらう道は何より信仰のことを意味しています。どんな艱難や苦しみ、それが死であっても、一羽のスズメを忘れないほどに、決して見捨てることも忘れることもなく、憐れみ、愛し、友と呼び、そして十字架で私たちのすべてを担われる神の御子キリストを、私たちが信じること、信頼することこそ、何より必要なことであると言うのが、イエス様が福音書を通して伝えるメッセージの核心なのです。ですから、まさに神の前で富むことは、何かというと、それは、信仰のことだと言うことです。宝を天に蓄えること、それも信仰です。信仰に生きることです。信仰にあって、神を信じ、その神からの救いを喜び安心するがゆえに、喜んで応えていく、つまり、神を愛し隣人を愛することです。引用したマタイの福音書でも、そうです。この19節の前には、主の祈りが教えられています。先週お話ししました、イエス様がこう祈りなさいと与えてくださった福音の祈りです。そして、その後は、断食や祈りをするのにも、人に見られるようにではなく、隠れたところの見ている天の父に見られ父に報われるようにと教えています。それも人に見られるためではない、人にどう見られるかどう思われるかでもない、ただ神への信仰による行いを教えています。そして21節の続きの結びは、神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と、信仰を示しています。
天に宝を積むこと、蓄えること、神の前で富むこと、つまり信仰、それがいのちの道、真理の道、救いの道であることこそ、イエス様が今日も、このところから、私たちに伝えるメッセージなのです。
イエス様は一見、この人を、批判しているように見えるかもしれません。しかし最も大事なことをイエス様はこの人に伝えているのです。もちろん「人の前」では、この人の期待している通りの答えではありませんでした。けれどもまさにここにいのちがあるというイエス様の福音のメッセージが彼に語られたのです。それがイエス様の彼への愛であるともいえるでしょう。
7、「おわりに」
幸いではありませんか。天に宝を積むことができる幸いに私たちがあることは。イエス様は、決して地上の必要はどうでもいいとは結んでいません。マタイの福音書の山上の説教の有名な言葉、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」も、信じなさい。そうすれば、それに加えて、「これらのもの
、つまり何を着ようか何を食べようかということを言っているのですが、それらのものはすべて与えられるとも、イエス様は言っています。大事なことは、信じることです。イエス様こそ私たちのいのちのすべてであり、救いであると。イエス様とイエス様の言葉こそ真実であり、恵みによって取り囲まれた人生であり、そのイエスの福音とその恵みこそ、新しい命の日々の歩みを本当の豊かにする宝であると、信じ、救いを確信することです。その信仰さえ、恵みとして与えられる賜物であると、聖書は教えています。その信仰こそ、喜び、平安、感謝が溢れさせ、何より神の前で富むこと、天に宝を積むことなのです。今日もイエス様は私たちにその罪の赦しと新生の福音と恵みを、そのまま受けるようにと、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、福音をうけ、今日も信仰を新たにされ、平安のうちに、私たちの救いの道、いのちの道に遣わされていきましょう。
今日の説教
ルカによる福音書11章1〜13節
2022年7月24日
このところはイエス様がイエスご自身の祈りである「主の祈り」を教えられるところです。マタイの福音書でも主の祈りを教えられる場面が書かれていますが、今日のこのルカの福音書と違いがあります。マタイの福音書では、山上の説教の場面ですし、内容はほぼ同じなのですが、言葉がすこし長めです。しかしそれはマタイとルカで一つの出来事を矛盾して述べているということではありません。イエス様は一回だけでなく様々なところで、この主の祈りを教えていたとも言われています。それぞれ場面が違うところで、イエス様は、この祈りを繰り返し教えられたということです。そして何より大事なのは、イエス様がこの祈りを教えた目的、つまり、この祈りを教えることで、何をイエス様は私たちに語りかけているかということです。それが今日のところではよくわかるのです。
2、「祈るとき、こう祈りなさい」(2〜4節)
まずこの状況ですが、イエス様がある所で祈っていました。そして祈りから帰ってきたときに、弟子の一人がイエス様にいます。イエス様、「私たちにも祈りを教えてください。」と。しかしそれは「ヨハネが弟子たちに教えたように」ともあります。それはバプテスマのヨハネのことを指しています。彼にもたくさんの弟子がいました。当時のユダヤ教では、定ったことばの祈りが一般的でした。製本された本などはありませんので、そのような定まった祈りを暗記していたのでした。現在のユダヤ教には、祈祷書というのがあります。キリスト教にも祈祷書はあります。初代教会から、教父達の時代も、ルターの時代にいたるまでもありましたし、ルター自身も、祈祷書を書いていますし、今でも聖公会やルーテル教会にも祈祷書の類が使われています。そのような本の形ではなかったのですが、ヨハネも定まったことばの祈りを教えていたようです。同じようにイエスの弟子達も祈りを覚えたかたったのでした。イエス様は、それを拒まず、喜んで弟子達に祈りを教えるのです。
「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」2〜4節
ルカでは「罪」と「負い目」と両方のことばが使われていて、同じ意味として用いています。私たちは人に対してだけでなく、何より神に対しても重い負い目を負っているという意味が、「罪」にも「負い目」にもあるということでしょう。
イエス様はこの主の祈りを、あらゆる場面で、様々な人に教えました。こう祈りなさいと。マタイの福音書の「山上の説教」のことろでは、見れられたくて祈るような律法学者やパリサイ人達のようではなく、あるいは同じことばを繰り返すような祈りでもなく、「あなたがたがお願いする先に、あなたたがたに必要なものを知っておられる」神に、こう祈りなさいと言って、この主の祈りを教えています。つまり、私たちの必要なものをすでに知っておられる神に、祈りなさい。願いなさい。求めなさい。イエス様はいつでも人々にそのようにこの祈りを勧めていたのでした。そして、この主の祈りは、すべて「〜なるように。与えてください。してください。」と「願い求める」ことばで書かれているでしょう。このことからも、イエス様がこのように教えるように、父なる神に「願い求める」ということは、むしろ主ご自身が求めておられることなのだということがわかるのです。
そこで、その主の祈りを教えることに込められているイエス様の思い、そして、祈り求めることの素晴らしさ、大切さをさらに説明するために、イエス様は、弟子達にこのようなたとえ話を始めるのです。
3、「あくまで頼み続けるなら」(5〜8節)
「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
5〜7節
まずこの話は、人間同士の営みとして語っていることは重要な点です。その前提で見ていきますが、3人の友人同士のやりとりです。しかもすべて真夜中です。旅の途中にやってきた友人も突然だったようです。家には何も食べるものがありません。当時の食事は、店にパンなどが売っているのではなく、材料を買ってきて作って食べます。しかし夜中、その材料自体がなく、買いに行くこともできません。そこで別の友人に真夜中にお願いにくのです。パンを三つ貸してくれないかと。それに対して頼まれた方も「面倒かけないでくれ。もう子供達も寝ている」といいます。当時の人々はそれぞれに個室や寝室があるのではなく、皆一緒に寝ていたとも言われていますので、そこでパンを準備することは、作り始めるのですから、家族じゅうが起こされることになります。まさに面倒なことです。ですから断るのです。しかし、8節でイエス様はいいます。
「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」8節
「しつように頼めば」とあります。別の聖書の訳ですと、「あくまでも頼み続けるなら」とあります。これは「なおもずうずうしく頼み続けるなら」という意味合いのことばです。そこまでも頼み続けるなら、とりあえず何か必要なものを与えて行かせるでしょう。とイエス様は言うのです。イエス様は、人間同士、友人同士のやりとりとして話していますが、あくまでも頼み続けるなら、それが不本意でも不機嫌でも迷惑でも、してあげることがあるのではないか。そのようにいうのです。
4、「求めなさい」(9〜13節)
この例をもとにイエス様はこう続けます。
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」9〜13節
先ほどの例えを、イエス様は人間同士、友人同士のこととして話し、人間同士であっても、あくまでも頼み続けるなら、それがずうずうしくてもしてあげることは沢山あるということでしたが、イエス様はここで強調するのです。人間同士でもそうであるなら、人よりもはるかに大きな愛に満ち溢れる父なる神は尚更ではありませんかと。イエス様がここで私たちに伝えたい大事な点の一つです。神様は人以上の方です。その愛も憐れみも深く計り知れません。それは一人子を私たちの罪のために十字架にかけるほどの愛だと聖書は伝えているでしょう。このところは、神は決して人間とイコール。人間がこうだから神もこうだというメッセージではありません。人間でさえもそうなのだから、神はそれ以上ではないか。というのがイエス様が主の祈りの説明にこの例えを用い、そして「求めなさい」と続く、大切な点に他なりません。そして、イエス様はここで「父」と「子」の関係を取り上げ語っているでしょう。その祈りの関係にあるのは父と子の関係であり、父と子の愛です。そこでも人間であってもそうなのだから、それほどまでも世を愛し、私たちのような罪人でさえも、子供と呼んでくださる神なのだから、その求める子供に良いものを与えないはずがあろうか。子供が魚をくださいと言っているのに、蛇を与えるような父があろうか。父は当然、蛇を与えないのです。しかもその父は、天の父を指しています。神はあなたがにとって、蛇を与えるようなそんな神、お父さんであろうか。子供が卵をくださいといっているのに、さそりを与えるようなそんな父、そんな神だろうか。イエス様は問いかけているのです。蛇は、ご存知のように狡猾な存在だと聖書では言われ、まさに罪の誘惑の象徴です。毒をもっています。サソリも毒で人を殺すことができます。まさに悪いもの、誘惑、死、滅びを象徴するのが蛇でありサソリです。しかし、子が求めているのに、そのような良くないものを、悪いものを、父なる神は与えるのだろうか。人間の父でさえもそんなことはしない。まして人間と比べ物にならない遥かに優れて完全で計り知れないほど大きな愛で満ちている、天の父なる神は、そんなことをするはずは全くないということをイエス様は私たちに伝えています。求める先から、必要なものをしっていてくださる神様です。魚が欲しいと言っている子に、卵が欲しいと言っている子に、そのものを、良いものを与えてくださるのが父なる神様である。イエス様は言っています。そのような人間の愛にはるかに勝って与えてくださる父なる神様にこう祈りなさいと、イエス様ご自身が教えてくださっているのが、この主の祈りであるのです。そして、それは決して、ただ祈るための祈り、定式化した文面をただ繰り返したり人に見せたりする祈りではなく、子がお父さんに求めるように祈る祈りであることを、イエス様は私たちに教えていると言えるでしょう。ですから、いいます。9〜10節
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
「求めなさい。」「探しなさい。」「叩きなさい。」と。そうすれば「誰であっても」、「与えられます。開かれます。見つかります。」と。そう言います。
5、「そうすれば、与えられる」
そしてこの言葉に鍵があります。求めなさい。叩きなさい。探しなさい。そうすれば「得ます」「開きます」「見つけます」とはありません。つまり、求め、探し、叩くとき、「私たち自身が得て、見出し、開くのではないということがわかるのです。世の精神論や自己啓発論や、根性論は、むしろ夢や目標を追い求めるとき、自分自身がその努力で得る、開く、見出すことができると教えるでしょう。もしかしたら、律法的な教会や、福音を道徳に上手く変えて教えるようなキリスト教会でも、そのように宣教や生き方を、教えるようなところがあるかもしれません。しかし聖書はそのようなことを言っているのではありません。求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、「与えられます」「受ける」「開かれます」です。受動態で書かれていて、つまり、与える方がいること、開いてくださる方がいることを示唆しているでしょう。そして「見つけます」も、それは答えを与える方がいて、その与えられた答えをみつけるという意味であることがわかるのです。ではそれは誰でしょう。それは言うまでもなく、父なる神様のことを言っています。ですから、11〜12節の言葉があるのです。父が与えるのだと。このように主の祈りにある幸いは、その父に求めるよう主ご自身が律法としてではなく、福音として恵みとして教えているという幸いです。そして求めるときに、「父なる主が必ず与えてくださり、開いてくださる。必要なものを与えてくださる。その約束と成就がこの祈りにはあるのであり、そのように主にどこまでも求めなさい。それが主の祈りの意味です。ですから、このイエス様が教えるイエス様の祈りの願いの一つ一つは、イエス様が既にご存知である、本当に私たちに必要なことを示唆する祈りとしても教えられています。最初の「御名が崇められるように」「御国が来ますように」という願いー事実、なんでも私たちの欲のまま、思い通りになることが、本当の真の幸せや平安につながるとは言い切れません。むしろ、御名があがめられること、御国が来ることこそ、私たちの救いであり平安となります。「日毎の糧を与えたまえ」という願いー日ごとの糧も必要な大事なもの、神様はそのことを知っているし、神は与えてくださるという約束です。そして「罪の赦し」を祈るようにイエス様は教えています。罪の赦しは救いの核心です。罪赦されなければ天国に行けません。しかし神は悔い改めるものに、必ず「罪の赦し」を与えてくださることをイエス様はこの祈りに示唆していますが、それは何よりイエス様はそのために来られた、その十字架に立ち返らせる言葉でもあるでしょう。そして更には、そこには、私たちも互いに赦し合うことができる希望と幸いもあります。その互いに愛し合うこと、赦しあう事は中々難しいことでありますが、その全ても、求める時に、神が私たちに与える福音の力で、今はできないと思えることをするようにしてくださるという約束でもあるでしょう。さらには、「試みに合わせず悪から救い出したまえ」という言葉ー神は試みから、試練から、悪から、助け出してくださる約束があるのです。この全てが「祈り」であり、「与えられます」なのですから、つまり、主の祈りは、私たちが、自らそれを達成しなければいけないという律法ではなく、神が助けてくださるのだから、こう祈りなさいなのです。つまり福音です。主の祈りの一つ一つの請願は、本当に私たちの人生、新しいいのちの歩みにおいても大事な大事な必要な一つ一つのことです。それを神は知っておられ、与えてくださる。その神に、父に求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、神は答えてくださる。与えてくださる。開いてくださる、と約束してくださっているのです。事実、今日の最初の朗読、アブラハムは、主の使いがソドムを滅ぼしに行くということを知った時に、甥のロトのことを思い、ロトの赦しと救いのことを願います。ソドムの圧倒的な堕落とそこには信仰者はわずかしかいないのを知っていながらも、アブラハムは何度でも繰り返し、主にしがみつくように、「50人では?」、「45人では?」〜「10人では?」と、ロトの救い、赦しを求めるでしょう。その求めに対して、主は10人の信仰者がいるなら滅さないと約束してくださったでしょう。もちろん、5人さえもいなかったので、ソドムは滅ぼされましたが、アブラハムの心配を主は知り、ロト家族を赦し助け出してくださいました。主にすがり、主に求めることは主によって与えられている素晴らしい恵みであり、とても素晴らしい勧めなのです。祈ること、求めること、そして神が、私たちの必要を知り、備えてくださる良いものを受けること、これが、私たちの新しい歩みの素晴らしいさに他なりません。それがイエス様が教え与えてくださっている主の祈りにあるのです。
6、「真に「必要なもの」を与える
そして、そう祈るためには何より信仰を持って祈るのですが、イエス様はその必要な信仰さえもきちんと配慮してここでは教えています。13節では、そうであるならと、私たちにとっての何より必要なもの、最高の宝物を備えてくださり与えてくださることを示しています。求める子供に良いもを与える神は、子供たちも思いもしない、自らでは決して手に入れることもできない、最高の必要、真の必要、本当の必要、本当の良いものを用意してくださり与えてくださるというのです。それは正しく、み言葉を通して信仰を与え、信仰を支え、常に助ける聖霊のことであるであることを伝えているでしょう。聖霊は何よりも素晴らしい神様からの贈り物であり私たちの本当の必要です。ヨハネ14章では「助け主」ともあります。世には数々物質的な素晴らしい恵みがあり、神はそれらも与えてくださり、私たちはその恵みを受けています。しかし目に見えるもの形あるものは、やがて必ず朽ちていくものであり、永遠の希望や平安をもたらすものでは決してありません。しかし、それらにはるかに勝り、そのひと時のものではない、比べ物にならないほど大きく永遠のものを確かに与える最高の存在が私たちに与えられていることをイエス様は私たちに伝えています。それは聖霊であると。皆さん、聖霊が与えられているということは、一番です。最高です。なぜなら、聖霊こそ福音を通して私たちに信仰を与え、救いを完成するからです。どのようにしてでしょうか?聖霊こそ、み言葉に働き、み言葉を通して真理を教え、まず私たちに罪を気づかせ、悔い改めに導き、そして、福音の素晴らしさ、救いの素晴らしさ、罪赦されていることの素晴らしさ、十字架と復活が私たちのものとされているその奇跡と恵みを信じさせ、確信させるからです。そのように、私たちの何かではなくて、神が、キリストが、そして聖霊が、どこまでも私たちに働き、聖め、まさにその恵みのうちに、イエス様が与えると言われた、確信と特別な平安の義の実に与らせる。それは救われた私たちにとって何よりの必要であり、それが真の幸いと喜び、平安になるでしょう。それが私たちの新しいいのちの歩みです。それを実現する聖霊が、洗礼を受けた一人一人には与えられているのです。ですから、洗礼を授けられているなら、皆さん、安心してください。皆さんは、既に救われているし、既に祝福されているのです。まず私たちの側で一生懸命何かを達成するから祝福されるのではないのです。信仰が与えられ、洗礼を授けられ、聖霊が与えられていること自体が、もう祝福なのです。そして、私たちの日頃の不信仰さや不完全さがあるとか、自分の罪深さを見て救われていないのではないかと思う必要もありません。その救いは神の約束のゆえであり、私たちの何らかの行いのゆえではないのですから、今、信じて洗礼を授けられているのなら、私たちには救いの確信があるのです。神の約束のゆえ、み言葉のゆえに、安心していいのです。そしてその信仰の歩みは、聖霊がみ言葉の約束と力を持って、天の御国に入れられるまで、私たちに確かにしてくださるのです。
7、「キリストに結ばれ:新しいいのちを平安のうちに」
第二の朗読コロサイ書に「キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、溢れるばかりに感謝しなさい」(コロサイ2章6〜7節)とあるように、私たちは、この新しい週も、主イエス様の十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちの宣言を受け、平安のうちに遣わされていきます。それは、主イエス様にあっての新しいいのちの歩みです。その新しいいのちの日々を聖霊が助けてくださいます。イエス様は今日も、私たちの日々新しい命の歩みのために、何より必要な罪の赦しと平安を宣言し与えてくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ主の祈りの幸い、求めることができる幸いを覚えながら、イエス様の名によって祈り求めるつつ、希望のうちに歩んでいきましょう。
ルカによる福音書10章38〜42節
2022年7月17日:スオミ教会主日
説教者:田口 聖
今日のところは、マルタとマリヤの姉妹がイエス様を自宅に招いた時の出来事です。この出来事をルカは、先週の箇所である、善いサマリヤ人の例えの後に記録しています。不思議に思わされるのは、出来事の表面だけを見るならですが、先週の善いサマリヤ人の例えは、究極の隣人愛が語られ、「それをするように」という律法の教えであったのでしたが、しかし今日のところは、イエスのためにと、忙しく労するマルタに対してイエス様が語っていることは、それとは正反対のように見えることです。けれども、いずれの出来事も、イエスが伝えていることも、決して矛盾するイエス様やその教えを記しているのではありません。先週の善いサマリヤ人の譬え話でも、大事な背景、文脈として、イエス様は、エルサレムの十字架に向かってまっすぐと歩んでいるということがありました。そして、その大事な前提があるからこそ、イエス様ご自身こそが、皆のための真の隣人、真の善いサマリヤ人なのだということや、そのイエス・キリストへの信仰、あるいは「キリストにあって」生きることこそ、新しいいのちのあゆみであり、良い行いをすることや隣人を愛することにおいても、それが何より大事なことなんだ、ということが見えてきたでしょう。その大事な、イエス様の一貫した背景や文脈、土台となる前提を見ていくならば、このマルタに話していることも、むしろ先週と変わらない、同じ福音のメッセージがあることがわかるのです。
2、「マルタとマリヤ」
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」38節
「彼らとあるのは、イエスと12人の弟子たちを含む一行です。そこには、12人の他にも沢山の人がお供していたともいわれています。そして彼らは、多くの物を持っての旅ではありませんので、訪問する街や村で、迎え入れてくれる人々の家で食事をしたりするということはよくあったのでした。この村では、マルタという一人の女性が家に迎え入れてくれたのでした。この後のところからもわかるように、彼女は、その大勢の人々の食事の準備のために忙しく動き回ります。一人でかどうかわかりませんが、台所と食事の部屋を忙しく走り回っていたのかもしれません。
けれども、マルタにはマリヤという姉妹がいました。そんなマルタが忙しく、イエスのためにもてなしている中、マリヤですが、
「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」39節
妹のマリヤはイエスの伝えるみことばに聞き入っていました。「主の足もと」というのは、これは学ぶ者が、教える人の足もとで聞き学ぶ当時の姿を現しているとも言われていますし、まさに足もとは、ことばがまさに口から流れ出てくる、最も近い場所、そして最もよく聞こえるところです。そこに座って、みことばに聞き入っていたのでした。
そんな時です。
「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」」40節
マルタの気持ちはよくわかります。そして、「おそらく」でしかありませんが、やはりマルタも、イエス様のみことばを聞きたかったのではないかとも思います。しかし、食事の準備をしなければいけない。そのことがまず先で、頭がいっぱいだったでしょうし、妹が手伝ってくれれば、早く終わって、自分も聞くことができるかもしれないとも、ひょっとしたら思ったのかもしれないです。詳しくは書いていませんが。マルタのいろいろな思いを想像することができます。
3、「マルタの心配とそれを受けとめるイエス」
しかし、マルタは、それをマリヤではなく、イエス様に言ったのでした。結果として、「あなたは何ともお思いにならないのでしょうか。」と、マリヤだけでなく、イエス様も責める形となってしまいました。他の聖書の訳では当初は、マルタもイエス様を「喜んで迎えた」とも書かれていますが、そのように「喜んで迎えたはずであったのに、この時には、もう「喜びではなく、イライラ、そして誰かを責める気持ちでいっぱいとなってしまっていることがわかるのです。
しかしそんなマルタに対して、イエス様はどうでしょう?
「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」41節
まずここで教えられる、この聖書箇所の一つの幸いは、「マルタ。マルタ」という語りかけです。この二度名前を呼ぶ呼び声は、イエス様のその人に対する、深い愛情のこもった、優しく諭す、呼びかけを表しています。皆さん、マルタはイエス様を責めました。しかしイエス様はそれを責めるのではなく、むしろ優しく応えます。イエス様はそのようなお方なのです。聖書では、よく、自分の感情をぶつけるように思いのまま神に叫んでいる人々の出来事やことばが記録されています。しかし多くの場合、それが不平や責めであっても神は受け止められることが書かれています。旧約聖書の出エジプト記では、燃える芝の山で召された時のモーセも、彼は自分の思いのままに神の言葉や約束を打ち消し否定し拒むでしょう。試練の中のダビデもそうでした。彼の苦難の中の嘆きの言葉は、詩篇には沢山あります。あのニネベに遣わされた預言者ヨナも、ニネベに行く前も行った後そうでした。不満や不平に近い言葉を言います。他の預言者たちもせっかく伝えた神のみことばを拒む民を前にして、希望を失い、神に嘆きのように叫んでいるところは幾つもあります。しかしいずれも、そのような時、神様は、それが嘆きや神を責めるようなことばであっても、きちんと受け止めておられます。そしてそれにみことばを持って、諭し、教え、再び、導いています。新たな道へです。このように、私たちがどのような態度か以上に、神様は、私たちが神様に語りかけること、装ったり偽りで自分を塗り固めるような良くみえる行いや言葉でもない、心に隠し事のない正直な思いをぶつけること、それが、今は信じられないとか、自分の弱さや悲しみがあからさまになるような叫びであっても、マルタのように責めるようなことでも、どのような形であっても、私たちが「助けてください」と、率直に素直に、子供のように、求めることを、とても大事にしておられるのが昔も今も変わることのない私たちの神であり、それが主イエス様であり、この「マルタ、マルタ」という語りかけにあることがわかります。そして、そのようなとき、いつでも、イエス様は私たちの名前も優しく呼び、そして、ことばをもって教え、みちびてくださるお方なのです。詩篇にはこのような言葉があります。
「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおらえ、霊の砕かれた者を救われる。」詩篇34篇17〜18節
神様は「完全な完成された私たち」の神ではありません。不完全で罪深い私たちの神、救い主となってくださっています。だからこそ、私たちはいつでも神の「子」と呼ばれるでしょう。神は、良い子の父でもありません。神様は不完全な罪深い子供のために父となってくださった方です。神様はそのことをよく知っています。忘れることはありません。そして、そのような不完全でなおも罪深いが、ご自身の愛を知りすがる子供と交わり、ともに歩み、ご自身の語るみことばをもって、いつでも、正しく教えること、助けること、平安の道に導くことを喜びとしています。ですから、子供が父に、「なぜ」、「どうして」、と叫んだり嘆いたりするように、どんな時でも、それが神様に「なぜ」「どうして」「神様どうしてなんですか」という嘆きであっても、神様はそのように私たちが祈りを持って語りかけ、求めることを何より望んでおられます。そしてその時に、神様はみことばをもって語り、教え、正しい道、私たちの思いや願いを遥かに超えた最善を、導いてくださるのです。
4、「イエスは仕えられるためではなく」
イエス様はマルタに言っています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。もちろん、マルタのもてなしも、大事なことです。そしてイエス様もそれを嬉しいし、当然、喜んでいるでしょう。しかし、イエス様は「わたしにあってはいろいろなことを心配しなくて良いのだよ。気を使わなくて良いのだよ」とおっしゃってくれています。2週前の説教で、イエス様は「平安を与えるために」来られたと伝えました。つまり、イエス様ご自身が言っているように、イエス様は、仕えられるため、もてなされるために来られたのでもありません(マタイ20章28節)。どこまでも与えるためでした。福音、みことば、いやしを、与えるためであったでしょう。そして十字架による救いこそ、神が、神の方から、イエス・キリストによって、私たちに与える、最高のプレセントです。その十字架と復活によって「世が与えるのではないわたしが与える平安を与える」(ヨハネ14章27節)と、あり、復活の日の朝もイエス様は「平安があながたがたにあるように」と入ってくるでしょう。与えるイエス様。「平安」を与えるイエス様です。今日の最初の聖書朗読、創世記18章ですが、3人の訪問者、一人は人となられた主キリストその方です。そこでも、アブラハムは、一生懸命もてなしますが、主キリストは、アブラハムにもてなされるためにやってきたのではありません。10節の、アブラハムとサラ夫妻には全く思いもしない信じられない、素晴らしい恵みの約束、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」という福音を伝えるためであったでしょう。そう、キリストは、私たちに何かをされるため、仕えられるために来るのでも、もてなされることを目的に来るのでもなく、どこまでも「与えるために」来られるのです。事実、復活の後、イエス様は、平安を与えるためにイエスの方から閉ざされた戸を入ってきましたし、そして、湖の畔で、弟子たちがイエスのためにではない、イエスが、弟子たちのために食事を準備して待っているというところもあるでしょう。そして、その後も、イエスは、ご自身が「与えた」約束の通りに、聖霊を、私たちに「与えてくださいました。そのように、聖書には、イエス様は心配されるため、仕えられるため、もてなされるために来たのではないという、大事なメッセージがあります。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」別の聖書の訳ですと、「あなたがいろいろなことを心配して、気を使っています。」とあります。イエス様にあって、イエス様の前にあって、イエス様のためにいろいろなことに思い悩み、心乱し、心配したり、気を使ったりするのは、あなたがたのすることではありません。いや、思い悩み心配する必要はない。気を使ったりする必要はない。イエス様はそう言ってくださっているのです。そして、こう続けます。
5、「どうしても必要なことは一つだけ」
「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」42節
イエス様は、どうしても必要なことは一つだけだと言っています。そして、マリヤはその良い方を選んだのだと。このところは日本語ですと、「良い方」とただ書いているだけですが、ギリシャ語では「メリドス」ということばです。これは、ご馳走の比喩で、一人分、一皿分の食物という意味です。ですから、まさに、マルタによって忙しく準備されようとしているご馳走を例にあげて語りかけていることを見ることができます。どうしても必要な一つの良い方、真のご馳走、それは、何かというと、マリヤがイエスのみことばを聞いていたということです。確かに食事も体の養いのために重要なものです。食べれるとき、それは楽しく美味しく満足するのです。しかし、食べたものは体から出て行きます。そしてまたお腹がすきます。物質のご馳走、そしてそのご馳走の一皿分の食事はそのようなものです。もてなしも大事です。しかしそれは、平安と喜びを持ってやる自由な奉仕でなく、誰かを責めるための律法を動機とするものであるなら、律法に縛られていますし、その立派なもてなしや行いは、「人の前」で、自分のメンツを立てることはできても、「神の前」に自分を正しいとするのでも、救うわけでもありません。それは、物質的なご馳走の一皿と何ら変わらない、一時の消えゆく満足や安心に過ぎません。けれども、イエス様が言いたいのは、マルタへの批判とか、マルタがしなくていいことをしているとかそういうことでもなければ、ただのマルタへの断罪や律法でも決してありません。そうではなくて、どうしても必要なこと、本当に大事なこと、いつまでも残るもの、そして、それこそ私たちを救い、新しくし、真の霊的に養う霊のご馳走は、何か?ということです。それは、「わたしのことばである」「わたしの言葉を聞くことである」ということを、伝えたかったのです。ですから、おそらく、マルタも聞きたかったそのイエス様のことばを、イエス様はマルタに、「ご馳走などの食事に気を使ったり心配したりしないで、あなたもこっちに来て、霊を養ういのちの食事であるわたしのことばを聞きなさい」と言っているように教えられます。
6、「イエスが仕え、与えてくださる恵みの礼拝」
本当に、どうしても必要なことは一つだけ。イエス様ははっきりと言っています。イエス様をもてなすために、精一杯のご馳走を作るために、いろいろなことを心配したり、気を使ったりするのが、クリスチャンの何よりまずすべきこと、それが、新しい生き方の表し方、それが、教会であり奉仕でなければならない、まず私たちが何かをしなけれならない。等々と思ってしまいやすいかもしれません。しかし、イエス様が見ているのは逆であるということです。大事なことは、イエス様が私たちのために備えて、仕えてくださる時間と、そこで提供されているイエス様からの真のご馳走、神のみことば、聖餐式がある時は、まさに目に見える福音であるイエス様のからだと血、そのキリストの恵みであり、それをまず私たちが聞く、受ける、食するということです。そのように平安にされて安心して出ていくのが、真の愛のわざや奉仕になるのですが、それより先に、何よりまず、イエス様が私たちのために仕えてくださる、それを受ける、聞く、食するというのが、私たちの新しい生き方の何よりの原点、源、何より大事な一つなのですl。イエス様が仕えて下さり、みことばを語ってくださる。罪の赦しの福音を、いのちの福音をあたえてくださる。それを聞くこと、受けることが、どうしても必要なことだとイエス様はいっているのです。まさに今日、私たちが礼拝に集められていることがその時です。礼拝は、旧約の記録から新約に至るまで、いつでも、つまり、アブラハムの祭壇も礼拝などから、イエスの生涯、最後の晩餐の聖餐や、復活の後の食事までも、どこまでもイエス様が備え、集め、給仕し、ホストとなり、私たちに仕えて下さる時でした。そのようにして、イエス様が与えてくださる、みことばと聖餐を受けることが、イエス様の最後の晩餐の時、そして初代教会から変わることのない、キリスト教会の礼拝でした。私は、ルーテルにありながら「礼拝は私たちがキリストのために備え私たちがキリストに捧げ仕えるものだ」という福音派の「律法として礼拝」の考え方にずっとあったものですから、このスオミ教会のルーテルの礼拝が、その式文の一文一文も、その順序も、そのようにイエス様が私たちに仕えてくださり、恵みを与えるための礼拝となっていることがいかに素晴らしく聖書的なものであるのかをここで毎週、経験し教えられております。その礼拝に今日もイエス様によって一人一人集められていることは素晴らしい恵みなのです。どうしても必要なことはただ一つ。その良い方を選んだ。本当の良い方の、本当の魂の糧の一皿を、マリヤは選んだ。そして、イエス様が語ってくださるみことば。与えてくださるみことばを受けた。聞いた。そのことはこの礼拝にあるのです。
そして、「マルタ、マルタ」と、マルタをそこに優しく招かれているように、イエス様は私たちにも同じように名を呼んで仕えてくださっているのです。私たちがイエス様のためにと、何も心配する必要はない。気を使わなくていいのです。私たちが何かをするからイエスが何かをしてくださるでもありません。これはイエス様が私たちに仕えてくださる時、与えてくださる時なのですから。永久になくならない、いつまでも残るいのちのことばを、救いのことばを、新しく生かし、励まし、慰め、導く、平安のことばを、イエス様が与えてくださるのですから。
7、「どうしても必要な「一つのこと」から「多くのこと」(良いわざ)へ」
そのように、まず私たちがイエス様から受けるからこそ、私たちは、イエス様の変わることのない、イエス様が与える平安を受けて、本当に喜んで、仕えていくことができるし、先週の善いサマリヤ人のように隣人を愛していくことができるでしょう。このところも、「多くのこと」「いろいろなこと」と「一つのこと」ということばも対照的に描かれています。つまり、私たちの何か、私たちがイエスに仕える多くのこと、いろいろなことが、「一つのこと」、みことばのこと、救いや神の国を完成するのではなく、その逆を示されています。つまり、その大事な「一つのこと」、つまり「みことばに聞くこと」「イエス・キリストのみことば、いのち、救い、義と聖さ」が、多くのことをさせるのだということに他なりません。
本当に必要なことは、ただ一つです。それが新しいいのちのための、ご馳走であり、一皿の大事ないのちの糧です。それはイエス様が与えてくださるみことばを聞くことです。今日もイエス様は「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」(ルカ7章48、50節)と宣言し、私たちを遣わしてくださいます。ぜひ、与えてくださる恵みなのですから、喜んでそれを受けて、今日も平安のうちに使わされていきましょう。
ルカによる福音書10章25〜37節
2022年7月10日:スオミ教会主日
今日の所は、有名な「善いサマリヤ人」の譬え話です。このところは、父、子、聖霊なる神様が、私たちに、「わたしたちがなすべきこと」は何であるのかを、はっきりと示されているところでもあります。それは「神を愛し、隣人を愛しなさい」ということです。しかしこのところ文脈を見ると、9章の終わりやまた先週のところでも触れたように、イエス様は、エルサレムへまっすぐと目を向けて進み、何より、ご自身の十字架による救いを弟子達や人々に示し始めているところです。そのことを踏まえて見て行くことで、この有名な譬え話を通して、イエス様は何を私達に伝えたいのかが見えて来るのです。早速、25節から見て行きましょう。
2、「律法の専門家とイエスの問答」
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」25節
「律法の専門家」いわゆる「律法学者」のことです。彼はこの前24節のイエス様のことばを聞いていました。24節でイエス様は、これまでご自身とご自身のことばを伝え示してき来たこと、というのは、旧約の預言者達や王たちが見たいと願い見れなかったこと、聞きたいと願い聞けなかったことなのだと語っています。つまり、イエス様は、ご自身こそが、旧約の預言が約束してきた救い主である、ということをはっきりと示した言葉でした。それを聞いて、この律法の専門家は「試そう」として言うのです。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と。「試そう」としての質問ですから、彼自身は、全く分らないからと言う純粋な動機で質問をしているわけではなく、彼自身が心の中で思い描いて既に持っている答えを、想定して質問しているということを意味しています。イエス様は彼に答えます。
「イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると」26節
律法の書にどう書いてありますか?そう尋ね返します。そしてその律法の書をあなたはどう読むのかと。それに対してこの律法学者は聖書の申命記の言葉を引用して答えるのです。
「彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」27節
その彼の答えは決して間違いではありません。何よりイエス様の答えとも一致しています。マタイの22章37節以下を見ると、同じように律法学者から律法の中で一番大事なことは何かと尋ねられたときに、イエス様も同じようにこの申命記のことばから引用して答えています。神を愛すること、そして隣人を愛すること、それが律法の中で一番大事であり、マタイの福音書のことろでは、律法全体と預言者がこの二つの戒めにかかっているとも言っています。しかしこのところの律法学者の質問は少し異なり、「永遠のいのちを自分のものとするためにはどうしたら良いか」です。その問に対して、イエス様はこう続けます。
3、「イエスの答え」
「イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 28節
もし人が、永遠のいのちが自分のものとするために、何をすべきか、何をしたらよいかを求めるなら、神様の答えははっきりとしています。「心を尽くし思いを尽くし力を尽くし、知恵を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。そしてあなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」をそのまま実行することだ。そうすれば、あなたが、永遠のいのちを自分のものとすることができるのだと。
こう聞くと、おや?と思うかもしれません。私たちが教えられている、恵みのみ、信仰のみ、信仰義認と矛盾するのでは?福音と矛盾するのでは?と。しかし矛盾はしません。どうしてでしょうか?まず、ここで論じられているのは、福音である「与えられる救い」と区別する必要があります。そして、聖書が、福音と矛盾することを言っているのでもありません。この律法の専門家は、「永遠のいのちのために『自分が』何をすべきか」と尋ねています。つまり「もし私達が永遠のいのちを、「自分で」得ようとするなら」という問い掛けです。それに対する答えとしてイエス様が言っているのだということに注意しなければいけません。彼が言っているのは、自分で得ようとする「救い」ですから、イエス様が与えようとしている「救い」とは異なることを彼は言っているし、その彼の質問に誠実に答えるなら、イエス様の回答のとおりであるということなのです。しかしこのイエス様の言葉は、同時に一つの大事な真理も伝えているのです。それは何かというと、神ははっきりとこのことをするように望んでおり、神はご自身が聖であるように私達にも聖であることを命じているその「聖さ」がここにあるのだということです。そして、もしこれを完全に実行できるなら、聖であり、永遠のいのちを自ら自分のものとすることができるという、一つの事実です。そうなのです。律法は永遠に聖なるものです。そしてもしこれを私達が完全に守り行なうことができるなら、私達は聖であり救われるのです。
4、「聖なる神とその律法の前での私たちは?」
けれども、私達はみな自分たちの圧倒的な事実を知っています。それは、誰もそれを守ることができない。完全に実行することができないということです。ですから、律法を行なうことによっては誰も救われないというときには、それは、律法の側の問題、律法が劣るとか不完全ということではなく、私達の側、人間の側の圧倒的な現実、事実のことを言っているのです。私達はみな堕落しています。みな罪深い存在であり。神に反するもの、神の御心を行なえないものです。行いだけでなく、何より心において私達は神を愛することも、隣人を愛することもできないものです。ですから、彼のように、律法に、あるいは、自分の行いで、自分の救いや聖さを求める時には、神の答え、イエス様の答えは変わらずこの律法であるのですから、それは実は、どこまでも自分の不完全さ、罪深さを、私たちは示されてるということを、このところは見事に描いているのです。律法に自分の救いの根拠を求めるなら、それは自分の罪深さ、不完全さゆえに、必ずこの壁にぶつかるか、あるいは、躓いてしまうのです。
彼は、それでも
「しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
29節
ルカはここで「しかし彼は、自分を正当化しようとして」という書き方をしているのは大事なところです。ルカは、このようにその律法の黄金律の前に誰も正しい者はないのだということを、この言葉に既に示唆して記していることが分るのです。この律法学者も、それを実行しなさいとい言われることで、何か自分に引っかかることがあったことをも察することができるでしょう。しかし自分はいつでも正しいと思っている人ほど、正しくないことはなかなか認められないものです。そこで彼は、その隣人は誰なのかと尋ねるのです。
5、「隣人とは誰か?」
それに対してイエス様が答えるのが、この善いサマリヤ人のお話なのです。有名な話しですが、まず追い剥ぎに襲われるのは、ユダヤ人です。しかし同じユダヤ人の宗教的なリーダーであり、礼拝を司る祭司。あるいは、礼拝に仕えるレビ人、まさに自分たちの同士、同族、仲間であり指導者でもある人達は、死にそうな同士を見て、通り過ぎて行くのです。このとこでは、よく彼らに非難が行きがちのメッセージを聞くですが、しかしイエス様のメッセージは、そこではなく、「誰が隣人か」ということであることに注意が必要です。イエス様はここで、あるサマリヤ人が、その死にかけているユダヤ人を見て、かわいそうに思い、立ち止まって、助けたことにこそ、その「隣人は誰か」の答えをおいています。イエス様は問います。
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」36節
と。もう誰が見ても明らかです。彼も答えます。
「その人を助けた人です。」
と。そしてイエス様はいいます。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」
このイエス様の答えは、この律法学者にとっては耳の痛い、かなり大きな壁であったことでしょう。なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪いとよく言われますが、それ以上に、ユダヤ人はサマリヤ人を下に見て蔑んでいたからです。交わりもしません。ガリラヤに行くとき、あるいはエルサレムに登るときは、ユダヤ人は、サマリヤを避けて遠回りしていったと言われます。ですから、ヨハネ4章で、サマリヤをイエス様が通ったときに、イエス様がサマリヤの女に「水をください」とお願いしたことに、サマリヤの女は驚いています。ユダヤ人の男性が、サマリヤ人の女性に話しかける、ましてお願いするということはあり得ないことであったからです。ですから、このサマリヤ人を、隣人を愛する模範と示され、そのようにしなさいと言われたこと、そしてまさに敵、蔑む相手こそ隣人であり、その隣人を愛することこそ、これが神の求めておられる隣人愛の真理だといわれた時には、この律法学者は答えにつまった、いや答えられなかったと思われます。
しかし皆さん、これが神の聖、神が私達に求めておられる御心であり、聖さであるということです。そしてこれが真の隣人であり、隣人を愛するということです。つまり、自分が愛することができない人さえも、敵でさえも愛する。相手が敵であっても、自分に不利益をもたらすものであっても、好きでない人であっても、その人のためにかわいそうに思い、その人のために尽くす、行なう、助ける。そのことこそ、真の「隣人を愛すること」だ、とうことです。イエス様は、自分を愛してくれる人を愛するのは、強盗さえもしていると、言っています。自分を愛してくれる、よくしてくれる隣人を愛することはむしろ容易いのです。しかしイエス様は、聖書が求めている隣人愛は、それ以上のことであることを示しています。本当の隣人愛は、自分に敵対する相手さえ、それは拳をあげ、奪うもの、あるいは、嫌い、蔑むものにさえも向けられなければならない。愛しなさい。それが聖書が、神が人類に、私達に、求めている、隣人愛であるということを、イエス様ははっきりとこの喩えで示すのです。そう言われると、まさに律法のあまりもの聖さが私達に突きつけられ、同時に、その律法の聖さ、完全さの前にある私達の現実がはっきりと示されるはずです。
6、「そして福音へ:イエスはそれを成し遂げてくださった」
その現実。私達はそれをできないと。どこまでも罪人であると。私達はここで完全に打ちのめされるのです。しかし真のイエス様のメッセージは、ここからなのです。つまり同時に、何よりも大事な真理を気づかされるのです。イエス様は、ここでただそのように律法を示して打ちのめすだけで終わりではなく、何よりも福音を私達に語っているということをです。
皆さん。繰り返しになりますが、この背景、文脈を思い出してください。イエス様は、今どこに向かっているでしょうか。エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいます。エルサレムに何があるでしょう。何が待っているでしょう。イエス様はエルサレムの何を見ているでしょう。それは、ご自身がこれから背負う十字架の死と復活ではありませんか。周りの弟子達でさえもその時は何も見えていません。しかしイエスは、常にご自分は何のためにこられ、どこへ向かっているかは、一貫し、変わることなく、はっきりとしていて、そのことを真っ直ぐ見て、伝え、行い、歩んできたでしょう。イエス様のすべてのことには、十字架と復活があり、すべての人に、罪の赦し、神の国と永遠のいのちを与えると言う、福音こそいつでも中心にありました。その十字架で、イエス様は何をされるでしょうか?まさしく、この例えにあるこのサマリヤ人のすることでしょう。イエス様こそ、敵である全ての人、神を知らない、神を十字架につけろと、神を否定する全ての敵のために、つまり私達のために、その私達をかわいそうに思って、その敵のために、ただ助けるでだけではない、それ以上に、反抗する罪人である私たちのために、自分のいのちを十字架でささげることによって、助けるではありませんか。このサマリヤ人は、ただ私たちがすべき律法だけを示しているのではありません。「あなたはできないのだ」と罪を指摘しているだけでもない。何よりも、そのイエス様が善いサマリヤ人を通して示す、その私たちにはできない完全な愛の姿は、何よりもイエス・キリストご自身こそを示しているということなのです。
律法の聖さのまえに私達はただただ罪人に過ぎません。そのなすべき愛を自らでは果たせないものであるし、神が求める愛を決して完全には行えないものです。しかし、このイエス様こそ、聖なる方であり善いサマリヤ人の喩えが示すその方です。まさにその私たちにはできない聖なる律法を、聖さを、真の愛を、私達のために成し遂げてくださったのでです。
7、「それはキリストのゆえにわたしたちに:恵みの聖化」
そしてそれだけではありません。このサマリヤ人が、助けた人に多くものを与え続けることによって保護し回復させてくださるように、イエス様は私達にも、そのご自身の洗礼と聖餐とみ言葉を通して、そのイエス様がしてくださった聖、救い、いのち、すべてのことを、私たちのものとして、与えてくださっているではありませんか。そして、私たちが日々回復するために、イエス様が日々、私のものをすべてにない、日々、代わりにイエス様のものを、私達のものとしてくださっているではありませんか。そのように、私達は、ただこのイエス様にあってこそ、毎日毎日、神の前に、罪赦されたもの、回復されたものとされます。
そしてさらなる恵みがここにあるのです。その私たちへの罪の赦しは、この律法の黄金律を、すでに行なっているものともしてくださってもいるのです。しかしそれは私たちの何かではなく、どこまでもイエス様のゆえにです。ですからイエス様はヨハネ15章で伝えているでしょう。イエス様にしっかりとつながっていなさいと。そのようにイエス様に、結び合わされ、キリストにつながっているなら、キリストのものが私達のものとなって実、キリストご自身が実を結ぶと約束してくださっているでしょう。ですから、このところ、私達はまず第一に、この黄金律とも言われる愛の戒めと良いサマリヤ人の譬え話の前にあって、なおも罪人であり悔い改めさせられる。しかし、同時に真の善いサマリヤ人であるキリストにあって、その罪深いものが、聖とされ義とされる、と言う福音を、私たちに今日も指し示しているのです。
皆さん、イエス様が私たちに与えている天の宝である福音こそ、私たちに実を結ぶのです。私たちがそ今日も、み言葉に聞き教えられ、悔い改め、今日も、キリストに立ち返らされ、キリストにつながっているなら、私達は、今日から始まる新しい週も、キリストにあって、聖霊とみ言葉の働き、福音の力で、イエス様が望んでいること、できないと思えるような愛さえも、させられて行く、実を結んでいくのです。なぜならそれが「そうずれば実を結びます」というイエス様の言葉の約束だからです。今日の第一の聖書朗読である申命記30章でも11節、その神の戒めは「難しすぎることはない」と言っています。しかしそれは「私が天に登って取ってこよう」とか「海の彼方にわたって取ってこよう」とかではないとあります。つまり、私たちの側が自らの達成によって行うことができるということではないというのです。ではなぜ難しくないのでしょう。14節「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」とあります。つまりみ言葉が、福音こそが、できないと思われるその律法を行わせる源であり力であることを聖書ははっきりと伝えているでしょう。これが福音の力、福音の素晴らしさ、福音が日々与える新しいいのちの生き方なのです。私たちが自らなるのでも努力で達成するのでもない、キリストが私たちを聖く完全なものとしてくださる、私達が行なえないことも、キリストは、行なえるようにしてくださる、導いてくださるということなのです。新約聖書ヘブル13章20〜21節の祝福の祈りにはこうあります。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
ヘブル13章20〜21節
新改訳聖書では
「すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。」
とも訳されています。
8、「終わりに」
皆さん、神の聖なる律法の前に、私達、私自身がですが、ただただ、自分の不完全さ、罪深さを認めさせられるだけです。心を尽くし思いを尽くし精神を尽くして、神を愛することのできないものですし、隣人をも自分を愛するように愛するどころか、愛せない、むしろ自分しか愛せない。自分中心な存在です。しかし、だからこそ、イエス様はこの世へ来られました。人となられ、そんな罪深い私たち一人ひとりのために、十字架にかかって死なれました。まさに瀕死の、罪で滅びるしかない、私たち一人一人のために、イエス様は、私たちの真の良いサマリヤ人になってくださり、そのなすべき完全な愛を、イエス様が私たちにしてくださったからこそ、私たちは救われたのです。そのようにイエス様に救われて生かされたからこそ、私たちの日々新しい歩みがあるのです。今日もイエス様は私たちにはっきりと宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい。」と(ルカ7章48、50節)。今日もイエス様の十字架のゆえに罪を赦されていると宣言を受け、確信と平安をもってここから遣わされていこうではありませんか。
礼拝説教
ルカによる福音書10章1〜16節
2022年7月3日:スオミ教会主日
1、「すべてのひとのために」
今日の福音書の言葉は、イエス様が宣教に「遣わす」ということについて語られています。実は9章の初めでも、イエス様は12人の弟子達を集めて、イエス様の御名による権威を授けて遣わしたということが書かれていました。その所と同じように、この10章の始めでも、イエス様が人々を遣わすところから始まっています。しかし今度は12人の弟子達ではありません。1節にありますように、別に72人。弟子達とは別に72人を選んで遣わすのです。これはルカのみに書かれています。このようにこの時、既に、12人の他にもイエス様は名も知られていない多くの人々を遣わしていたことがわかります。この72人という数は、このイスラエルの周辺を取り囲むようにある異邦人の国や民族の数を象徴しているともよく言われます。
注目したいのは、1節「ご自分が行くつもり」だったという言葉です。先週の9章51節にあるように、イエス様はこのとき、エルサレムにまっすぐ向かって進んでいたとありました。ですから、人となられたイエス様は、すでに真っ直ぐと目を向けてエルサレムへ事実、向かってはいるのですが、この十字架までの3年間のその短い期間で、周りの取り囲むような全ての国々や民族のところ全てへ行きたかったが、行くことができなかったことがわかってきます。けれども、この72人の派遣と「ご自分が行くつもり」だったという言葉には、イエス様がこのエルサレムへ向かう本当の目的と思い、つまり、イエス様の最大の目的である、「すべての人の罪の赦しのために十字架で死んでよみがえる」とうことそのものが、この派遣と言葉に表れていることがわかります。つまりこのところは、だからこそイエス様は、誰一人例外なく、全世界のためにこられ、全世界の人々のためにエルサレムに向かっている。そして、全世界の人々のために十字架にかかって死なれるという福音に結びつくでしょう。つまり、先週の箇所で、イエス様は、ご自身を拒んだサマリヤ人が滅びることを望まなかったように、周りの72の国や民をもなおも見ているし、もちろん、そこにはサマリヤ人も含まれている。そのように、イエス様は、決してイスラエル人、ユダヤの民だけではない、全世界の人々、つまり、確かに私たち一人一人のためにもイエス様は来られ、私たち一人一人にも目と思いが向けられていた。私たち一人一人のためにエルサレムに向かい、十字架にかかられる。その幸いをまず第一に覚えることが出来るのです。
2、「恵みのうちにある派遣」
A,「キリストが遣わす」
そのイエス様が目と思いを向けている異邦人の国々の人々、そのために72人は選ばれ遣わされるのですが、今日はさらに、その「遣わす」ということの恵みを見ることができるでしょう。もちろん目に見える地上の事柄では、託された教会が召し出し遣わすのですが、しかしそのキリスト者を用い流のは誰か、そしてその派遣がどこから生まれのかどこから来るのかということがここからわかります。それは何より、イエス様から生まれ、始まり、イエス様が選んで、イエス様が遣わすのです。先週の箇所でもありました。まず自分から、自分達の意志や決心や他の何らかの力によって、まず私たちの方から「従う」というのではありませんでした。イエス様は、まずイエス様の方から「ついてきなさい」「従いなさい」と召した弟子達に、「神の国を言い広めなさい」と遣わしていました。同じようにここでも、どこまでも神の国の働き、イエス様の働きは、人が、私たちが、ではなく、イエス様が選び、招き、召し出し、そしてイエス様が遣わすということが、この1節にわかるのです。つまり、派遣やそして宣教・伝道も、決して人や自分の思いや計画、自信や意志や決心から出たものではない、人は用いられるだけであり、つまり全ては恵みであるということを教えられるのです。
B,「キリストの名によって:キリストが行う」
そしてその召される働きや使命も、1節では「ご自分の行くつもりの」とありますし、2節では、あえて「収穫の主」ともあるように、収穫でさえも主の働きであるということもわかるでしょう。つまり、主の働き、主のなそうとすること、主がなさることのために、72人は選ばれ、遣わされるということがわかるのです。それは、9章の始めも同じでした。弟子達はイエス様から「権威を授けられて
遣わされます。そして、その遣わされた所でも、弟子たちの力ではなく、「イエス様の名によって」とある通り、イエス様の力によって、悪霊が追い出されたり、病が癒されたりしたのでした。それは弟子達に力があるのではなく、イエス様の力が現れていることであったというメッセージです。事実、すぐ前9章の37節以下にある出来事ですが、イエス様が山に行っている間、子供が悪霊に憑かれているからと助けを求めてきた親に対して、弟子だけではできなかったのでした。逆に、49節以下では、弟子のヨハネは、弟子でない者がイエスの名を使って悪霊を追い出していたのを見て、仲間ではないのでやめさせたという場面があります。それに対してイエス様は止めさせてはいけないといいました。そして10章17節をご覧頂くと、遣わされ帰って来た72人が「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」とも言うのです。このように、イエス様の名が与えられ、遣わされ、イエス様の名が広められ、イエス様の名によって悪霊が追い出され、病が癒されています。つまり、すべては弟子たち自身の力や功績ではなくて、イエスの名、つまりイエス様がなさる業、計画、働きであることがわかるのです。そのイエス様のなそうとしている働きのため、召され用いられる彼らであるということなのです。
C,「平安があるように言いなさい。」
今日のところから、イエス様によって「遣わされる」ということは、恵みであるというイエス様からのメッセージが私たちに語られています。このように何をするにもどこまでも、それがこのように宣教や教会の働きであっても、イエス様はどこまでも与える方です。つまり、イエス様は私たちに何かをしてもらう必要もなければ、聖書にあるように、仕えられる必要もありませんし、まして私たちが何か重いものを「背負わせる方
ではありません。事実、5節のイエス様の言葉を見ても分ります。イエス様は、家に入ったら「平安があるようにと言いなさい」と言っています。何か重荷を負わせるような言葉ではありません。つまり、イエス様がなそうとする働き、イエス様が伝えようとすることは、「重荷」ではなく、「平安があるように」「シャローム」であることが分ると思います。イエス様は私たちに平安を与えるために来ました。それは遣わすということでも同じだとわかるのです。イエス様が召した人を、イエス様が選び、イエス様が遣わす。しかもイエス様のなそうとすることをさせるため、イエス様の名によって。すべてはイエス様の主導権なんだということです。ですからそうであるなら、「遣わされる」ということは、「イエス様にあって」という、イエス様への信仰、信頼があれば、どこまでも安心だけれども、逆に、イエス様を見失ったり、イエス様から受けるのでもない、イエス様の名によるのでもない、イエス様への信頼でもなくなる時に、イエス様以外のものへの信頼になるときにこそ、遣わされるということ、クリスチャンとして歩むということが、平安ではなくなる、重荷となるということだと言えるでしょう。
D, 「宣教は福音」
イエス様は私たちをも遣わしています。この世へ。身近な隣人へ。社会や家庭へ、あるいは世界へ。しかしそれは、平安のうちにです。なぜなら、私たちもイエス様の名によって洗礼を授けられ罪赦され救われ、イエス様によって、イエス様の名によって遣わされているからです。イエス様から今日も受け、イエス様から受けるからこそ、私たちの新しいいのちの歩みがあり、キリスト者としての日々があり、そして平安があることを知っているからです。ですから、宣教というのは、ルーテル教会の、律法と福音の区別で言うなら、「しなければいけない」「律法」ではないのです。どこまでも宣教は福音です。第一の聖書箇所イザヤ書66章でもそこに「彼女」と繰り返されているのは、それは教会を意味しています。その彼女は、喜びに溢れているでしょう。「彼女と共に喜び楽しめ」とあるでしょう。重荷があっては、あるいは、律法が動機では、楽しみや喜びはありません。教会は、重荷と裁きではなく、平安と喜びが満ち、その喜びと平安で遣わされるところ。教会も宣教も律法ではなくて福音なのです。ぜひ、今日も、イエス様が救ってくださり、イエス様がイエス様の名において遣わしてくださっている恵みを感謝して、ここから遣わされて行きたいのです。
3、「一人ではなく」
そして、更に幸いが書かれています。1節の後半には「ふたりずつ」という言葉があるのです。このようにイエス様は決して一人では遣わしませんでした。イエス様のなそうとする働きは確かにイエス様の働きと業があるのですが、同時に、私たち兄弟姉妹は、その神様の御心が行なわれて行くために用いられる、皆、互いが互いのための、イエス様から与えられ一緒に遣わされている助け手、パートナーでもあるということがこの言葉には示唆されているのではないでしょうか。もちろん人には皆、それぞれ、足りなさ不完全さがあるでしょうし、私自身にもあります。人と人の間のことも、クリスチャンといえども、いつでも完全ではない事実もあります。しかしだからといってそれを全く無意味とはイエス様はしません。創造の始めでも、神は、人は一人でいるのは良くないといって、助け手として、つまり、人は互いに助けあうためにパートナーを与えています。確かに堕落によって人も、人と人の関係も堕落しました。しかしその神様がパートナーを与えた御心は、尚も大事なこととして私たちにはあるでしょう。それは、主によって選ばれ主のなそうとすることのために「遣わされる」ことにおいてもイエス様は貫かれます。一人ではなく、ここでは二人で、あるいは、使徒言行録ではさらに三人以上の場面もあります。あるいは、家族や、友人、教会という大きな数でもそれは同じことが言えるでしょう。そのように私たちは一人で遣わされているのではない、ともに唯一の救い主であるイエス様への信頼を受け、互いに助け合い励まし合いながら遣わされているのです。それは今日の第二の聖書箇所ガラテヤ6章でパウロが伝えていることです。しかもです。これは決して二人だけの力でもない、そこにはイエス様の名のゆえにイエス様が働いてくださるのですから、つまり常に目に見える数「プラス1」です。二人のときは、ともにいてくださるイエス様もいて3人です。しかも見えないイエス様こそ、何よりの力、言葉を持って導き、働く、真のリーダーです。私たちの歩み、遣わされる、従うということ、宣教ということさえも、そのような幸いな派遣、全ては恵みであることが見えて来るのです。
4、「収穫の主に祈りなさい」
そのようにイエス様が、遣わす彼らに言った、遣わす言葉が、有名な2節以下の言葉になるでしょう。これはよく2節だけを取り上げられますが16節まで続いている長い言葉になります。2節だけをお読みします。
「そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
実りは多いのに、収穫のための働き手は少ないのだとイエス様は言っています。まずイエス様には多くの実りが既に見えているのです。それは尚も働き手が沢山必要なほどに実りがあることがわかるのです。その「実り」は、イエス様が与える救い、罪の赦しと永遠のいのちです。そして人々にその実り、救いを得させるのは、ルカの福音書でも見てきて分る通り、イエス様の名であり、イエス様のことば、福音です。使徒言行録でもこうあります。ペテロとヨハネは、金銀は私にはないが私にあるものをあげようと言って「イエスの名によって歩きなさい」といいました。そして、4章12節では、「イエスの名以外には、いかなる名前も与えられていない」とも言っています。そして使徒達と教会が伝えて行ったのは、まさにイエス・キリストの福音であったのでした。ですから「働き手
というときに、それはそのようにイエス・キリストのみことば、福音を伝える人のことを指していることは分ると思います。それが少ない。今はどこの教団や神学校でも同じような声をききます。しかしその時に、イエス様はそのことに対する答えと導きを与えてくれています。まず第一に、収穫の主が、収穫のために働き手を送ってくださるのだということです。これは大事なことです。今日も見てきました。召しや従うということ、それは人の自信や決心、人のわざではないと見てきました。主がみことばを持って召してくださるのだと。そして今日の所でも、主が、選んでくださり、遣わしてくださると。貫かれています。そしてこの2節でも、主が送ってくださると一貫しています。これは主が召し、主が送ってくださるのです。出エジプトの時のモーセもそうでした。モーセを選び、召したのは誰でもありません。モーセは同胞から殺しのことを問われ逃げてきました。召されたときも、彼は何度も拒みました。しかし主が召し、主のことばによってモーセは導かれ、主がエジプトに送ってくださったのでした。このように主の収穫の働き手も同じです。人のわざではない、人の自信や決心でもない。人が選び、人が募り、人が働き、人が説得し決心させるのではありません。主がなさるのです。何より、みことばをもってです。みことばにこそ力があり、みことばの力で、人は召され、選ばれ、主は人を送ってくださいます。ですから、イエス様の言うことは最もです。「祈りなさい」と。収穫の主に、働き手を送ってくださるように「祈りなさい」なのです。そして人の説得や促しではなく、みことばを伝えることこそ、人が主によって召されるための最善で最高のことであるともいえるでしょう。ぜひ、私たちは「祈りなさい」との進めにある通り、祈っていこうではありませんか。祈りに力がないように思わないで、「祈りなさい」と勧められているのですから、祈りに力があると信じ信頼してぜひ祈って行きましょう。
5、「イエスは裁くためではなく代わりに負い与えるために」
尚もイエス様のことばは続きます。その遣わされるのは全くのイエス様の恵みであるのですが、しかしその前途は決して易しいものではないこともイエス様は伝えて行きます。3節では「狼の中に子羊を送り出すようなものだ」と。すべての人が受け入れるわけではなく、拒む人、受け入れない人もいるのだと、言うのです。そして16節では、こうもイエス様は言って結んでいます。
「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。
16節
イエス様が与える平安を受け入れない人、拒む人は必ずいると。そしてその受け入れない、拒むことによる報いの大きさも、イエス様は述べていることを見ることが出来ます。ここから神の裁きはイエスを受け入れるかどうかにあるということと、その神の裁きは確かにあり厳しいものであることを教えられるのです。けれども、皆さん、大事なことですが、イエス様はなぜ来られたとあったでしょうか。ヨハネ3章17節。「裁くためではない」とはっきりと書いています。先週のところ、弟子ヨハネはまさにそのように受け入れない人々に「天から火を降らせて、焼き滅ぼしましょうか」といいました。しかしイエス様は戒められたとあったでしょう。神の裁きは確かに必ずあるでしょう。しかし神がその一人子イエス様を世に与えたのは、その裁き、断罪をイエス様に負わせるためでしょう。私たちの代わりにです。そして事実、イエス様は、イエス様を受け入れない、罵り、十字架につける全ての人々の罪の身代わりとなり、十字架にかかって死ぬでしょう。全ての人に、つまり私たち一人一人に、その罪の赦しを与え、神の前にその十字架のゆえに、罪がないものとするためにです。そしてその後も今も、そのイエス様のゆえに、尚も、福音を教会で語らせ、伝えさせ、そのやがて来るその裁きの時も、尚も神はイエス様のゆえに、忍ばれているではありませんか。神は裁く以上に、この御子イエス様のゆえに、御子イエス様を与える程に、私たちをやはり愛してくださっているのです。
6、「イエス・キリストの恵みと平安にあって遣わされる幸い」
クリスチャンである私たち自身でさえも、受け入れる受け入れないでいうなら、決して完全ではないことも教えられます。私たちは決して完全ではありません。受け入れられないこと、拒むこともあるのです。そのような時に本当に私たちに救いがないなら、ただこの裁きだけしかないなら、何と絶望的でしょうか。しかし、私たちはそのような時でも、このイエス様こそを知り、イエス様の十字架に立ち返り、イエス様にあって何度でも罪の赦しを受け、イエス様にあって新しくされ歩むことが出来ることはなんと幸いでしょうか。ここでもイエス様は、裁きのことを遣わす72人には説明しても、受け入れない人々にそのような罰や裁きのことを言いなさいとは言っていません。むしろイエス様が伝えさせるのは「平安があるように」と「神の国が近づいた」だけであることが見て分ると思います。私たちは裁きを証しするのではありません。裁き合うお互いでもありません。そうではない。私たちがイエス様から受けているもの、それは本当に不完全で神の裁きの座にあった私たちをイエス様が救ってくださった。イエス様のゆえに何度でも罪の赦しが与えられ、いつでもどんな時でもイエス様にあって平安が与えられる。そのことではないでしょうか。私たちもそのようなイエス様にこそ平安があるという証人として、恵みのうちに遣わされている一人一人なのです。それはイエス様の平安を知らなければ証しはできません。イエス様はも今日も宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と(ルカ7章48、50節)。まず私たちがイエス様から平安を受け、平安のうちに遣わされていきましょう。
6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の季節ですが、ちょうどその日は雨が降らず傘を使わないで教会に来ることが出来ました。
今回もコースターの編み物を続けました。前回のように初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型や色を選びます。前回いらして既に編んだ方たちは今回は違うモデルを選びました。出来上がりの楽しみが増えます。もちろん今回初めて参加された方たちにも出来上がりは楽しみです。皆さん、モデルをよく見ながら一生懸命編み続けていきます。皆さんが選んだモデルや色はみんな異なっていたので、お互いのものを見るのも楽しかったです。おしゃべりしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。手芸クラブと同じ時間帯にチャーチカフェも開きました。
手芸クラブもコーヒータイムに入ることにしました。その週はフィンランドでは夏至祭のお祝いが近づいていたので、フィンランドで夏至祭の時によく歌われる「夏の日、カンガスアッラにて」という曲のピアノ演奏をモニターを通して聴きました。モニターから映し出されるフィンランドの景色を眺めながら演奏を聴き、コーヒーとお菓子パン・プッラを味わいました。チャーチカフェに来られた方もいて、教会の集会スペースは賑やかな雰囲気になりました。コーヒータイムの時に「毎日、神様の御手に守られて」というフィンランドの聖書日課からみ言葉を聞きました。この日の日課の箇所は「フィリピの信徒への手紙」4章6節でした。
手芸クラブはしばらくお休みになります。夏が終わってからまた再開する予定です。案内をホームページにのせますので、どうぞご覧ください。
日本は暑い夏になると思います。皆さま、どうぞ気をつけてお過ごしください。
ユハ・ヴァハサルヤ(Juha Vähäsarjaフィンランド聖書学院講師) 「毎日、神の御手に守られて」(Joka päivä Jumalan kämmenellä)2010年
フィリピの信徒への手紙4章6節(フィンランド語の聖書からの和訳) 「何事についても心配に身を任せるのではなく、必要なものはいつも神に打ち明けなさい。祈りながら、願い求めながら、そして感謝しながら、そうしなさい。」
私たちは誰も、心配したり案じたりすることがあまりにも多く、心配する能力に長けていると言ってもいいくらいです。もちろん、心配するのは、現実にちゃんとそのための理由があるからなのですが。しかし、心配の重荷に絶えず身を委ねていたら、それが生きる喜びを押し潰し、奪ってしまうことになります。
聖書の神の御言葉は、「何事についても心配に身を任せてはいけない」と言っています。それは、「心配しない人間になれ」という命令と受け取るよりは、「心配するのはわかるが、その必要はないのだ」という励ましに受け取るべきです。どんなことがあっても、神は状況を打開して私たちが前に進めるように助けて下さる、心配するのはわかるが、それに身を任せるのは無駄なことなのだ、と約束してくれているのです。聖書の他の箇所にも記されているように、神は私たちの世話を焼いて下さると約束しておられます。天と地と人間を造り、人間に命と人生を与え、また独り子イエス様をこの世に送られた神がこうだと約束されている以上、この地球上で、これより確実なことは存在しないのです。
だから、私たちは、遠慮しないで心配事の重荷を神に引き渡したり、投げつけたりして構わないのです。願い求め、感謝すること以外にするべき必要なことはありません。私の心配事を神は今回、どのような仕方で解決に導いて下さるのだろうか、しかと見届けてやろうという信頼の気持ちで待っていればよいのです。