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説教「神を信じ主イエスを信ぜよ、さらば心騒ぐことなし」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書 14章1-14節

2023年5月7日 復活節第五主日 主日礼拝説教

聖書日課 使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

2.道の決定版、真理の決定版、命の決定版

イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して神聖な復活の体を持つイエス様がおられるのに相応しい場所、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。そこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。どこに連れて行ってくれるのでしょうか?それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、新しい天と地のもとで新しく始まる世の中にあります。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれす。つまり、その国では旧い世の不正義の報いが完璧に果たされます。また、そこは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様はこの約束を必ず果たされると信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちを持てるのです。

しかしながら、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に復活に関係する話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。どういう決定版かというと、創造主の神のもとに至る唯一の道という意味で決定版なのです。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っているなどと誤解する人が出てきます。

このように言うと、人によっては、いや、それはこの福音書を書いたヨハネの考えであって、実際のイエス様はそんな偏狭な考えの持ち主ではないと言う人もいます。そういう人にとって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は実際のイエス様の言行録ではなく、それらを書いた人の限りなくフィクションに近い文学作品なのです。そういう、福音書を見ても実際のイエス様の教えや業は見えてこないという考え方はドイツの有名な聖書学者W.ヴレーデやR.ブルトマンの時代から1980年代まで聖書学会に根強くありました。福音書を文学作品のように扱うと、作者の意図は何かということに関心が行きいろんな解釈が生まれます。人を感心させたり感動させる解釈が注目を集めます。文芸評論みたいになります。ただ、それが実際のイエス様と関係ないことは、福音書は作者の文学作品であるという前提から明らかです。そのような解釈が信仰にとって妥当かどうかは、キリスト信仰の土台である使徒的伝統に照らし合わせてみればすぐわかります。

話がわき道に逸れたので戻ります。イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいいが、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価を受けます。

しかしながら、至福に至る道に関してキリスト教を他の宗教と同列にできない点があることを忘れてはいけません。恐らく多くの宗教では人間はこの世を去ったらあの世に行ってそこからこの世にいる人たちを見守っているというような、この世とあの世が同時併行してあるという見方ではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地再創造があるので同時併行にならないのです。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異なる次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は新しい復活の体を与えられてそこに迎え入れられるという流れになります。もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。それで、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なるのではないかと思われます。他の宗教ではこの世から離れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような何かを行っているという見方があると思われます。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。

真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理なのです。そしてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、これは真理なのです。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場です。最後の審判が真理であるということです。

次に命の決定版ということについて見てみます。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.父なるみ神と御子は一体

7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践し、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことがわかるようになったのです。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を開きました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。弟子たちの働きはイエス様が天に上げられた後で本格化します。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務として祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者とは神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難に解決を与えて解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。それに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のために、その歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の忍耐が試されるところです。

4.おわりに

イエス様は、心を騒がせるな、神を信じ私を信じなさい、と弟子たちに言われました。そこで、復活が関係する将来のことを話しましたが、まだ十字架と復活の出来事が起きる前です。弟子たちは何のことかわかりませんでした。イエス様はさらに、自分と父なるみ神は一体であることも教えましたが、それもわかりません。そこでイエス様は、言葉で信じることができなければ、イエス様の業のゆえに信じなさい、その業はイエス様と一体である父なるみ神が行うのである、それくらいイエス様と父なるみ神は一体なのであると言います。弟子たちはイエス様の行った数多くの奇跡の業を思い出したのではと思われます。

しかしながら、それで弟子たちが心を騒がせなくなったかどうかはあやしいです。というのは、最後の晩餐の後でイエス様が逮捕されてしまうと、弟子たちは逃げてしまったからです。ペトロに至っては、お前はあいつの弟子だっただろうと聞かれて、あんな人知りませんと3度も答えてしまいました。

ところが、弟子たちが心を騒がせなくなるような真の業がこの後に起こったのです。イエス様の復活がそれです。これこそイエス様と一体である父なるみ神が行う業の中で最高の業でした。復活された主を目撃した弟子たちは一変しました。権力者から、イエスの名を広めたら命はないぞと脅され続けたにもかかわらず、彼らはひるまず恐れず伝道していったのです。それでイエス様が、言葉で信じるのが難しければ業のゆえに信じなさい、と言った時の業とは復活だったことが明らかになりました。このように復活というのは、神がイエス様を通して行う業のなかで一番心を落ち着かせて勇気を与える業なのです。それなので復活の日を目指して歩むこと自体が、心騒がず勇気を持って歩める歩みになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)講演会

田口先生の発表された論文「ルターの『ハイデルベルク討論』の十字架の神学から見る『福音は宣教』についての考察」についての紹介と概略の説明がありました。ルター派神学について大変勉強になるお話でした。田口先生の御働きに感謝いたします。

田口先生の許可を得てこの論文のご紹介をいたします。

論文「ルターの「ハイデルベルク討論」の十字架の神学者から見る「宣教は福音」についての考察」の簡単な紹介

2023年4月30日:スオミ教会礼拝後の交わりにて

田口 聖

はじめに

 この論文は、聖書から学んだり説教したりする時に、少なくともルター派ではとても大事なこととして「律法と福音とを適切に区別する」という教えがあるのですが、それに従う時に、「宣教は律法」ではなく「宣教は福音」であるということを紹介するものです。初めから難しい言葉が出てきますが、「律法と福音の適切な区別」というのは、ものすごく簡単に言えば、みことばや信仰をどう理解するかということであり、「律法」はもちろん十戒を指すのですが、それを含めて「私たちが神のためにしなければいけないこと、あるいはしてはいけないこと」で、「福音」はその逆で、もちろん十字架の罪の赦しや復活の新しいいのちのことですが、それを含めて「神が私たちのためにしてくださったこと」です。それを正しく区別して聖書を理解することは大事なことで、説教もその区別に基づいて正しくみ言葉を伝えなければなりません。その、みことばや信仰をどう理解するのかの区別は、私たちの信仰の実践、生活や生き方にも関わることです。本当は父子聖霊の恵み(つまり、福音)として教えられなければならないものが、律法に混同されたり、あるいは律法として(つまり逆に)教えられたり理解されたりすると、それはキリスト者の信仰生活に大きく深刻な影響を及ぼします。例えば、礼拝と説教は、キリストの十字架と復活が中心であり、そこで最初に律法で悔い改めに導かれ、悔いるものに罪の赦しと新しいいのちが与えられて、福音の言葉で平安のうちに遣わされていく大事なものです。スオミ教会の礼拝はもちろん、同じような順序と式文に従って行われているルーテル教会の礼拝は基本的はそのようになっているはずです。しかし、礼拝、聖書の言葉が出てきたとしても、律法の行いによって救われるとか、それによって、人間の価値が決まるとか、律法によって生きるように教えられたり、または、キリストが語られても、キリストの十字架や復活が、恵みや平安としてではなく、ただ道徳や立派な行いの従うべき模範や目標としてだけ教えられたり、そうしなければ救われないとかクリスチャンではないなどと教えられたりすると、それは正しく区別されていません。混同されています。そしてそのまま教えられて遣わされた人も、そのように生きるようになると、キリスト者にとってとても大事な、「福音によって救いの確信を与えられ、平安のうちに遣わされる」ではなく、「律法によって、救いの確信なく、重荷を負わされ遣わされる」ことになり、そのように生きることににもなります。もちろん、十戒は大事なことですし、私たちが、従うべきものですが、誤解してはいけないのは、キリスト者は、従わなければいけないから(つまり律法で)、律法に従うのではなく、キリストが十字架と復活で私たちの救いを果たされたから(つまり福音によって)喜んで律法にしたがっていくのがキリスト者の服従であり良い行いです。それは同じ従うでも、180度違う逆の行動です。それは、律法と福音の正しい区別が教えらているかどうか、あるいは、律法によって遣わされているか、それとも、福音によって遣わされているのか、どうかによって変わってくるのです。そのように律法と福音とを正しく区別して教えられ、福音によって歩むことはキリスト者の良い行い、隣人愛、そして、伝道や宣教に関わる大事な問題です。まずこの律法と福音の適切な区別がこの論文の土台にあります。

 また言葉についての前置きがもう二つあります。まず「宣教」とありますが、宣教学の言うような厳密な定義づけはしていませんし、伝道と宣教の区別もしていません。さらに言えば、そこには、キリストの実践全体、良い行いや隣人愛まで含まれての、信仰の歩み全体を含んでいます。それは言葉を曖昧にしていると言うことでそうしているのではありません。信仰者にはそれぞれにキリストからの召命(Vocation/教会、社会、家族それぞれの場で)が必ず与えられており、福音によって遣わされる私たちが、福音に生かされ、福音から生まれる信仰生活の、派手でも劇的でもないけれども、ごくありきたりな家族との日常や人間関係、そこにある良い行いや隣人愛の全ては、決して宣教に関係のないことではなく、むしろ関わっており神に用いられており、そこにもキリストの証人としての宣教がある、という前提で用いております。ですから、宣教とあっても、宣教師や牧師だけの働きということではなく、キリスト者の実践全体まで含む書き方となっています。

 もう一つ、前置きですが、途中でルターのハイデルベルク討論が取り上げられ、そこに十字架の「神学」とか「神学者」と言う言葉があります。「神学」という、その言葉だけ聞くと、多くの信徒の皆さんは、自分とは関係のない、その言葉は、牧師先生だけの言葉、神学校内だけの言葉だと思うかもしれません。けれども、ルターにとって、神学というのは、キリスト者が、日々、み言葉を通して、信じたり、時に葛藤したり、励まされたり、一喜一憂したり、考えたり、そのように信仰の活動そのものを、神学をしているのだ、と考えます。そのように、聖書の主の声を聞きながら、キリストを信じて、祈ったり、生き、生活し、行動するキリスト者は、皆、神学者であるという意味で述べています。

2、このテーマの経緯

 前置きが長くなってしまいましたが、前置きも意味のないことではありません。私は、「宣教は福音である」ということをこの論文で紹介しています。というのも、なぜそのことを紹介したいかと思ったかというと、正直にいうと、そうではない状況が教会にあったことへの長年の苦悩からでした。私は、いわゆる、福音派と呼ばれるグループの中で、その影響を強く受けているルーテル教団の牧師です。

(ちなみに、余談ですが、「福音派」という言葉は、本来は、ルーテル教会のことで、今でもそうかもしれませんが、ヨーロッパ、特に、ドイツなどでも「福音派」というのはルーテル教会のことを指していると、聞いたことがあります。ですから、私の言う「福音派」というのは、いわゆるアメリカ型の福音派のことで、信仰復興運動の流れにある保守的なバプテスト派やホーリネス派やきよめ派のグループのことで、日本の福音派もその流れだと思われます。)

 彼らは宣教に熱心です。それはとても良いことです。しかし、その熱心がどこから出ているのかと疑問を持ちました。つまり、福音から生まれているものなのかと。というのも、私たちはよく分かっている通り、キリストの福音は、十字架と復活であり、罪の赦しと新しいいのち、そしてそれはどこまでも恵みであり、キリストが「平安があるように」「安心して行きなさい」と言っているように、信仰は平安と喜びが溢れるものであり、平安と喜びのうちに遣わされていき、平安と喜びで神に仕え人に仕えていき、そこに福音の泉が溢れ出るように(ヨハネ4章14節)私たちの宣教も隣人愛もあるはずです。しかし「福音を伝えなければ伝えなければ」と熱心さはあるのですが、そこに、平安も喜びもない、むしろ、絶えず、「しなければ」「達成しなければ」という重荷と心配と強迫観念があり、目の前に、自分が描いた期待通り、計画通りにことが進まなくなったり、望まない試練や問題に直面すると、犯人探しが始まり、牧師同士、信徒同士、教会同士、牧師から信徒へ、信徒から牧師へ、等々、裁きあいが頻繁に、しかもそうすることが正義であるかのように罪悪感もなく起こります。(逆に彼らが期待する通りにうまくいっている時は、裁きあいは起こりませんが人や人の功績を誇ることが必ず生まれますし、そしてやはりそこにも、活動に参加しなかったり、消極的であった人に、怠け者だとか、敬虔でないとか、等々、裁きや軽蔑が起こります)。それが、彼らの熱心でした。誤解のないように何度も言いますが、熱心なのはとても良いことです。しかし、それが動機や出発点が、「律法から生まれるものなのか、福音から生まれるものなのか」によって180違います。そして、福音はどこまでも平安を生み与えるもの(ヨハネ14章27節、20章19−21節)であり、不安や重荷も決して与えませんし、その不安から生まれる裁きも福音からは生まれないはずです。しかし私は、彼らが「福音、福音、宣教、宣教」と叫びながら、①その福音が与えるはずの平安がないこと(むしろ裁きと批判)、②その平安がないのに、福音を宣教と叫ぶ矛盾(平安を知らないのにどんな平安を伝えるのか?)、③つまり、平安がない熱心であること、④つまり、彼らの熱心や宣教は、福音からではなく律法からであること、⑤それはキリストが伝えている福音と宣教とは異なること、を悟りました。そのように苦悩と疑問の葛藤の苦しい期間があり、ルーテル教会に疑問を持ちましたが、しかし、アメリカのルーテル同胞教団の神学校や、神戸ルーテル神学校で、正しいルーテル教会の神学を学ぶことを通して、少なくともルターやルーテル教会にとっては、宣教は律法ではなく、宣教は福音であるということの理解へと導かれたのでした。そのルターの沢山の教えの中で、助けの一つとなったのが、ルターの「ハイデルベルク討論」でした。

3、ハイデルベルク討論の伝えること:簡単に

 ルターが命題を28の命題を掲げ、それを解説する形で書かれています。あくまでもごく簡単な概略ですが、

1)(1〜3命題)律法はどこまでも聖であり有益ですが、人間は堕落し圧倒的な罪人であるがゆえに、自ら律法を果たすことができず、義に進むどころかむしろ反対していくと教えています。ルターは、「神の前」と「人の前」という区別を用いており、「人の前」にどんなに美しく良いように見えるものであっても、罪人の行為は神の前に決して義とするものにはなり得ないと教えています。

2)(4〜12命題)人間の行いと神の行いとの間の明確な違いをルターは述べています。やはり、人の前と神の前の区別に基づいて、人の前における目に見える行いは、 どんなに良く見える、どんなに高く評価されるものであっても、神の前には義とするものではないが、逆に神のわざは、どんなに人間にとって醜く不条理に見えたり思えたりしても、それは、神の矛盾のない永遠の功績であると教えています。

3)(13〜16命題)ここでは自由意志が論じられています。ルター以前もそれ以降も、教会では程度の差こそあれ、自由意志は賛美され、教会では「自己のかぎりをなす者には神は恩恵を拒まない」というアリストテレス倫理学が前提となり教えられていました。今もそうかもしれませんが、「自分の持てる限り一生懸命に行うものに神の祝福や恵みはある」という教えは、ルター以前も以後も、「人の前」では分かりやすく、教えやすく、人を動かしやすい教えでした。しかし、ルターは、1)2)の命題に従って、むしろ「自由意志は罪の虜、奴隷とされている」と述べ、その自由は神に向き、神を信じる自由ではなく、その逆で、ただ神に背を向け反逆する自由であると教えました。

4)(17〜18命題)前半部分のまとめとして、これまでの命題(1〜16)は、ある意味、人が耳を閉ざし聞きたくない認めたくない人間の完全な堕落や自由意志の無力さなど厳しい現実を伝えてきましたが、しかしルターは、それらの命題とその現実は、決して絶望を与えるためではなく、むしろ、律法によって人間はその罪を教えられ神を恐れるようになり、天を見上げることができず、ただ「憐れんでください」というしかできないほどに人を打ち砕き、「神の前」に謙らせる事によってキリストの恵みに出会い平安を受けるようにするためだとまとめます。この前提を踏まえて、本題の十字架の神学者のことをルターは述べて行きます。

5)(19〜22命題)真のキリスト者(真の神学者)の姿であるという十字架の神学者とはどのようなものなのか、それは、その反対である栄光の神学者との比較で述べられています。ここはこの提題の核心部分なので、命題をそのまま載せます。

第19命題 「神の目に見えない本質が「被造物を通して理解されると見なす」者は、神学者と呼ばれるに値しない。(ローマ1:20)」

第20命題 「だが、目に見える神の本質と神が見られる背面が、受難と十字架によって知られると解する者は、神学者と呼ばれるに値する。」

第21命題 「栄光の神学者は悪を善と言い、善を悪という。十字架の神学者は事態をそれが現にある通りにいう。」

第22命題 「神の目に見えない本質が諸処のわざによって理解されると考える知恵は、人間を全く思い上がらせ、全く盲目にし、そして頑なにする。」 

 そこでは「神の目に見えない本質」を「被造物を通して理解されると見なす」ことができると考える人は、神学者と呼ばれるに値しないとし、それを栄光の神学者と呼びます。逆に、「目に見える神の本質と神が見られる背面」が、「受難と十字架によって知られると解する」人は、神学者と呼ばれるに値するとし、それが十字架の神学者であるといいます。このことは、神学者つまりキリスト者が、神を、あるいは、神の栄光や祝福を、どこに見よう、信じようとするのかの大事な問題を私たちに提起しています。

 難しいので説明しますが、ルターは出エジプト記33章18−23節を引用して説明しています。以下、新改訳聖書からの引用ですが、

「18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(新改訳)

 モーセは、その目で神を見たいと願いました。ルターはモーセの求めを「あなたの栄光をお示しください」とも訳しています。神の栄光をその目で見たいと願ったのでした。けれども、神は顔を見ることができないといい、ただ「神の背中」「神のうしろ」だけを示したのでした。このモーセの求めは、人間の求めを表しています。人間は、肉の目でその願うまま、思いのままに神を、特にそのはっきりとした「顔を」見たいと思います。つまり、神のわざが肉の目に見える形で(つまりそこに人間の側の願望などの慈善概念を込めて)現されることを期待し、求め、見ようとします。しかし、それは人間中心、人間の願望や期待を中心にして神を目の前に見よう求めることと同じで、神にとってはそれは「死」でした。ルターが言ってきたように、肉の目や知識、その知恵や理性、自由意志では神は知ることはできないのです。

 むしろ、神はご自身が示された通りに、しかも神が「わたしが手を退けたら」とある通り、それはモーセが意図した時や方法でも意志でもなく、神が意図した時と方法と神の意志で、神はご自身を啓示され、それでしか人は神を見、知ることはできません。それは名指しで選び出されたモーセであっても、です。人が望まず思い描かず期待もせず、ある意味、愚かにも見え、理性では信じられない、その通り過ぎた後の、神の意志した瞬間のその隙間に見える神の背中にのみ、神はご自身を現したのでした。その「背中」に、はっきりと目で見て神だとわかる「顔」はないように、理性では神を見ることはできません。 そればかりか、人間の意志や決心の先に見ることができるものでもありません。神が手をよけた時でした。しかし、それが神がご自身を啓示するために取られた神の意志であり方法であったのでした。それは人の目には不十分な方法には見えますが、神にあっては、不十分な方法ではなく完全で御心にかなった方法でした。それはキリストを指し示しているのです。神が啓示されたキリストにこそ、そしてキリストを通してこそ、それのみを通して、私たちは神に会うことができるということなのです。事実、キリストは、「私たちに父を見せてほしい。そうすれば満足します」と願ったピリポに「わたしを見たものは父を見たのです」と答えている通りにです(ヨハネ14章8−9節)。

 そのことはキリストが世に与えられたことそのものを証ししています。実に、キリストは、人の思いや計画に従って来たのでも、人が期待した通り、願い通り、思い描いた通りに、救い主は世に与えられたのではありませんでした(イザヤ書53章)。実際、キリストは、人が王や救い主が来ると期待するような、王室や貴族の家に生まれたのでもなければ、国中の人に喜ばれて誕生したのでもありませんでした。人が誰も思いもしないような、貧しいナザレの大工の家の、普通の罪深い女性マリヤの胎を通してその聖霊によるいのちを育まれ、ベツレヘムの家畜小屋で生まれました。預言の通りではありましたが、人は誰も思いも期待もしませんでした。マリヤもヨセフも、御使いのメッセージを聞くまでは、不安と恐れしかありませんでした。世の人々も、目に見える繁栄やエルサレムの再興、あるいは、パンを食べて満腹することを期待した人々、つまり、目に見える被造物に神や神の栄光を見ようとした人々は、キリストを受け入れませんでした。期待通りではなかったことに躓き、蔑みました。むしろ信仰へ導かれたのは、神の前に、自分の罪深さを認めさせられただ謙るものや、顔を上げることもできず、憐れんでくださいとしか言うことのできないような、まさに目に見えない、肉の思いが認めたくない、自分の罪を認め、ただただ神の前の憐れみと罪の赦しにすがるものでした。そして、何より十字架と復活の出来事は、人々が拒み、躓き、拒否し、蔑み、絶望するものでした。世の価値観で期待する通りの贖いや救いではありませんでした。人はそんなイエスに、受難に、十字架に、神がいるとか、神の栄光や祝福や恵みがあるとは期待もしませんし思いもしません。人の目に見えることや価値観だけで判断するなら、十字架は敗北であり、絶望なのです。しかし、ここに神の逆説があり、神の変わることのない啓示があります。神はモーセにご自分の背中のみを示し、神が示してたところにしか神の本質を見ることができなかったように、人の前、人の目には、敗北にしか見えない、キリストにこそ、神の御心があり(イザヤ53章)、キリストこそ、神が示された、神の背中、神の栄光であり、そのキリストにこそ救いも、栄光も、救いの祝福も恵みもあるのであり、そこにキリストはおられ、神はおられるのです。

 キリスト教信仰の核心は、そのキリストの十字架と復活に神と出会い、キリストに神と神の栄光を見ることであり、その神が示されたキリストにおいてのみ、その救いの恵みは溢れていると言うことなのです。そのようにキリストの十字架と復活に神の栄光を見るものが、十字架の神学者であり、そうではなく、人間中心に、人間の肉の欲求、願望、事前概念や価値観に基づいて、その通りに実際に被造物に(つまり、目に見える形で)起こるところに神はいるとか、神の祝福があると理解する人は栄光の神学者であると言うのです。それは人中心で人基準ですから、自ずと、人が何をしたか何を成し遂げたのかで、神がそこにいる、いない、あるいは、祝福されている、祝福されていない、等々、神や神の祝福や恵みを推測するので、自ずと人間の欲や感情のままに、裁きや蔑みは起こりやすいのです。パリサイ派の人々のように。ですから、それは神(キリスト)中心の神学(Christ-centered)か、人中心の神学(Anthropocentered, humancentered)かの区別でもあります。その区別は、どこまでも聖書の正しい解釈と教えにしっかりと基づいて、理性や文化を考えるか、その逆で、今もよくある、人間の理性や文化に、聖書を従わせ、解釈や教えをどんどん変えていくのかの、問題にも関わってくることでもあります。また、これは幸いな教えでもあり、私たちの目には神がいないかのように思えるところにも、たとえば、目に見える、失敗や挫折、大きな試練や困難、罪の只中や絶望など、人の目にはあたかも神に見捨てられたかのような状況にあっても、キリストはそこにおられないのでも見捨てられたのもなく、そこにこそキリストは居られ、いつでもみことばを通して聖霊によって働いておられるということでもあるのです。

(論文では、新約聖書の箇所、マタイ4章(荒野の三つの誘惑)、ヨハネ3章27〜30節のバプテスマのヨハネの言葉、ルカ18章9〜14節(二人の人の祈り)、ルカ22章以下の弟子たちとキリストのやりとり、使徒言行録を取り上げて、聖書に証されている十字架の神学者を紹介しています。時間が足りないため、時間があるときにぜひ読んでいただけたらと思います。)

6)ルターは、ここで結びとして、十字架の神学者こそ、真の良い行いの実行者となることを述べていて、つまり十字架の福音から生まれる真の実践について論じています。先ほども触れたように、良い行いにせよ、隣人愛にせよ、宣教にせよ、人間の側で、事前概念や願望を、被造物に目で見ようとすると、自ずと律法を動機にした行為に帰結します。神の前の真の良い行いは、そのような律法を動機に、自由意志や人間の側の努力などによって達成しようとするような律法のわざではあり得ません。神の前の、真の良い行いや隣人愛は、律法からではなく、神の目に見える神の本質であり神の見える背中である、イエス・キリストの十字架を通して、キリストご自身から福音を通してくる約束と賜物によって、なされていく神のわざであり、それは律法としての信仰ではなく、 福音としての信仰によるわざであり、神ご自身、キリストご自身が福音を通して行う新しい創造だとルターは結びます。

 ですから、ルター以後の改革者たちは(もしかしたらルター派の牧師の中でも)、ルターは信仰義認を強調するが、良い行いを軽んじているとよく批判して、ルター以後のカルヴァンやその他の改革者達や、敬虔主義者達が、ルターの足りないところを完成させたんだと主張したり教えたりします。しかしそれは全くの誤解であり、ルターは、十字架と復活の福音によって生きる十字架の神学者こそ、真の良い行いや隣人愛、そして真の宣教の実行者であり、それこそ真に力強く躍動的であることを教え、むしろその真の良い行いを強調さえしています。そのように、宣教は律法ではなく、福音であるということを、ルターの正しい聖書理解から学ぶことができるのです。

(論文では、栄光の神学者の陥る、人間中心の神理解、それによる、律法と福音の混同によって生じる、様々な現代的な問題に触れています。栄光のすり替え。宣教において何を伝えるか(福音ではなく、人が期待するような、模範、道徳、自己愛の奨励、等々)。人が信条になる。栄光の神学者の隣人愛。数の束縛。などを取り上げておりますが、時間がないので、機会があればぜひ読んでください。)

4、十字架の福音から始まる実践と宣教:三つの転換

 最後に、ではどうするかという結論を述べなければなりませんが、私の論文は「こうすればこうなる」というハウツー(方法論)を提示する目的はありません。ただ、福音と十字架の神学者の理解は、見方の転換を与えてくれることを紹介しています。

1)日々の洗礼:

 日々の洗礼の理解を紹介しています。大教理問答書のルターの言葉から紹介しています。以下、一部引用です。

「洗礼は~生涯を通して私たちの内部に行われるべき事がらであり、したがって、キリスト者の生涯とは、一度、開始せられるや、絶えず続けられていくべき日毎の洗礼に他ならない。古いアダムにつけるものが常に除かれ、新しい人に属するものが現れてくるように、絶え間無くなされなけばならない。〜私がかく言うのは、私たちが長い間、思い違いしていた考えに陥らないためである。これまでは「洗礼はもう済んでしまったのだ。だから、再び墜ちた後ではもう二度と役立てることはできない」と言う風に、間違って考えられていた。これは洗礼を単にかつて起こったわざとしか見ないところからくる考えである。そしてそれは確かに聖ヒエロニムスが「懺悔は、私達がキリスト教界に入った時、乗り込んで航海して行く、船が難破した後の第二の板切れで、私達がこれにすがって泳ぎきり、岸辺につかなければならない」と記しているところに 誤解の原因がある。この言葉によって、洗礼の「正しい」用い方は止み、洗礼 はもはや私達を益することのできないものとなってしまった。だからこの言葉 は正当ではない。なぜなら、この船は(すでに述べたように)神の秩序であって、私達のものではないゆえに、決して難破をすることはないからである。けれども私達が滑って船から落ちるということはもちろんありうる。だから、船から落ちたその場合には船に泳ぎ着き、これに取り付いて、再び乗り込み、先 に開始した通りにこの船で航海を続けるように心がけるべきである。」

 このようにルターは、キリスト者の歩みは、日々、キリストの十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちを受ける、日毎の洗礼であることを教えています。洗礼の日で、洗礼は終わったのではなく、私たちはむしろ、日毎に、律法を通して罪を示され、悔い改めによって、水に沈められ死に、水からあげられ新しく生かされる、その繰り返しであることを述べています。ですから、教会で、洗礼を受けるまではお客さんのように優しく親切にされるけれど、会員になるといきなり、教会の対応が180度変わり、あれこれと律法を強いられ、その矛盾のゆえに信仰生活が続いていかない人が多いという問題のように、主の恵みは、洗礼の日までで、洗礼を受けた後は、律法の日々が始まると言うような教会生活は、キリストの教えではないと言えます。そうではなく、日々の洗礼によって、日々平安があり、福音と平安のうちに遣わされていくことに、福音を動機とした、福音から生まれる「真のキリストの証人の日々」があるのであり、そのように、宣教は、日々、罪の赦しの福音に生かされることから生まれる、素晴らしいものだということなのです。

2)聖化の正しい理解

 聖化の理解の転換を紹介しています。きちんとしたルーテル教会の教えが教えられている教会では触れなくても良い部分かもしれませんが、ルーテル教会以外の、律法的に人間の協力や努力で実現する聖化や、目に見える人間の期待する律法的行いの成長を聖化と見るとか、特定の時と現象によって(特別な第二の回心を経験する等々)目に見える変化などを強調する聖化の教え、等々の影響が強い状況を踏まえて、この聖化の理解の転換を取り上げ触れています。ルター派の聖化は、小教理問答書にもある通り、義認にある聖化であり、日々の洗礼に重なるように、日々、悔い改め、日々、福音によって 新しくされることの、日々の繰り返しによって、すでに、聖化は日々進行していると言う理解です。つまりそれは栄光の神学者のように、目に見える形で、右肩あがりで年々、いい人間になっていくとか、何かを人に感動を与えたり目立って取り上げられるような劇的な変化や経験があったとか、聖人になったかのように罪を犯さなくなったとか、何か聖化がそのような人間の価値観中心の判断基準で測られるようなものではなく、どこまでもイエスが、福音と聖霊の働きにおいて日々、私たちの信仰のうちに進行しているのが聖化であり、キリスト者は、十字架と復活の福音にあって信仰に生きるなら、皆、聖化にあるのであり、それは重荷としてではなく、平安と希望の聖化なのです。

3)神が仕える礼拝(Gottesdienst/Divine Service)

 礼拝の理解の転換を紹介しています。この部分も、スオミ教会では当たり前のことかもしれませんが、栄光の神学者の礼拝は、人中心の律法的な理解ゆえに、人が神のために、人が思い描くように何か目に見える成果を期待して、組織や自分のために礼拝をささげる傾向にあり、教会や宣教の考え方同様に、礼拝は、聖餐なども含めて、人が神のためにたてあげるものであり、その期待も、人間的な事前概念に基づいた期待であり、ゆえに説教も「神が何を語り何を伝えているか」(神中心)、ではなく、人のニーズや価値観に応えるようなもの(人中心)になります。しかし、十字架の神学者を土台とした真の礼拝はその逆です。人がまず神に仕えるではなく、神が私たちに仕えてくださるというのが真の礼拝です(ルカ2章、マタイ2章:最初の礼拝者、ヨハネ5章17節、マルコ2章27−28節、マルコ10章45節、使徒17章24−25節、創世記22章、詩篇51篇17節、ヨハネ4章23−24節、ルカ10章42節、ヨハネ21章)。「宣教は福音」は、何より礼拝そのものにも貫かれ、礼拝から始まるのですが、それは「人が神に仕える」の礼拝 ではなく、「神が私達に仕える」礼拝(Gottesdienst:Divine Service)であり、神が私たちにまず仕えてくださりキリストがみ言葉で私たちに仕えてくださり与えてくださるものを受け、平安のうちに遣わされるからこそ、平安と喜びに満ちた真の宣教になり、宣教は福音になるのです。

5、終わりに

 「宣教は律法」では実は、「福音を宣教する」とどれだけ素晴らしいスローガンを掲げ、それをどんなに熱心におこなっても、結局は、矛盾を感じ、平安のない生活と律法的な組織活動になります。罪の赦しと新しいいのちを与え、神の前に義とされ平安のうちに遣わすのは福音だけであるので、律法を動機にし、律法を目的に、律法に駆り立てられても、それは結局、人間の力や意思にかかってしまうので、人の前では合理的であったり、うまくいくことがあったり、見た目や人間の基準で成功することがあっても、それは人の結ぶ実以上ではなく、神の前や救いや義に関わることでは、平安はなく、日々の生活はもちろん、宣教にも平安はありません。挙句の果てに、平安を伝えるどころか、宣教を声高に叫ぶその中に、裁きあいや人を誇ることが溢れるという矛盾と更なる重荷が生じるだけです。そうではありません。「宣教は福音」です。キリスト者は、キリストによる十字架の罪の赦しと日々新しくしてくださる復活の福音によって平安のうちに遣わされてこそ、真の歩み、実践があるのです。

説教「罪の赦しというお恵みに生きる者の覚悟と心構え」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章1-10節

主日礼拝説教 2023年4月30日 復活後第四主日
聖書日課 使徒言行録2章42-47節、第一ペトロ2章19-25節、ヨハネ10章1-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の個所はイエス様のたとえの教えです。日課は10節までですが、本当は16節までがひとくくりのところです。どういう流れかというと、最初1~5節までイエス様は羊の囲いについて話をします。羊飼いや羊を盗む泥棒のこと、羊飼いが羊の群れを囲いから出して牧草地に連れて行くことを話します。これを聞いた人たちは、何のたとえかわかりませんでした(6節)。それでイエス様は7節から説き明かしをします。まず、自分は羊の囲いの門であると明かします。7節から10節までです。その次に自分は良い羊飼いであると言います。11節から16節までです。

これらを聞くと、ああ、イエス様は私たちを守って下さるお方なんだ、何とありがたいお方なんだという気分になります。しかし、具体的にわかろうとすると難しくなります。イエス様が良い羊飼いのように私たちを危険から守り導いてくれると言っているのはわかりますが、イエス様が囲いの門というのはわかりにくいと思います。それに、囲いの門は何を意味しているのか?牧草地は何を意味しているのか?皆さんは直ぐわかるでしょうか?

実を言うと、これらのたとえの正確な意味は、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活と結びつけないでイエス様の教えを理解しようとすると、自分に都合の良い解釈がどんどん生まれていき、イエス様が言いたいことはこれだなどと言ってしまう危険があります。注意しないといけません。

本日の日課は、イエス様が自分を羊の囲いの門であると言うところまでです。本当は良い羊飼いと言っているところまであった方がいいのになと思ったのですが、囲いの門のたとえは本日の使徒書の日課、ペトロの第一の手紙の箇所と合わせてみると、より深く理解できることに気づきました。それで日課が囲いの門どまりであったことに感謝した次第です。

2.日常的な出来事をもとに

1節から5節はたとえそのものです。イエス様は本当に当時の社会の日常的なことを話します。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

羊の飼育が盛んなところでは、木材や石材で塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。泥棒が「乗り越える」というから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方から、囲いの中には、複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の所有する羊を呼び集める。羊は、生まれた時から同じ羊飼いに飼われているので、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられる、別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がる、イエス様は羊飼いと羊のそんな理想的な関係について言われます。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

以上の話は、当時の人には日常的な当たり前な話でした。イエス様が日常的な事柄を話していることは、ギリシャ語の原文を見ると、ここの動詞のほとんどが現在形であることからわかります(後注)。しかし、これを聞いた人たちは、話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになりました。それで、イエス様は自分は囲いの門である、自分は良い羊飼いであると明かしたのです。しかし、それでも、まだ十字架と復活の出来事の前ですので、イエス様がどういうふうに囲いの門なのか、良い羊飼いなのかはわかりません。しかし、私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているのでわかる立場にあります。以下それについて見ていきましょう。

3.イエス様は羊の囲いの門

イエス様は、自分は羊の囲いの門である(7節)と言って、たとえの解き明しを始めます。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ギリシャ語原文を見ると、ここの動詞は全部現在形ではなく未来形になっています。救われることも牧草地を見つけることも未来の意味になっていて、日常を超える話をしているのだというシグナルを出しているのです。ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧の営みのイメージを出しています。ところが、原文ではそうは言っていません。「囲いの中に入って、外に出ていく」と未来形で言っていて、その結果、牧草地を見つけると未来形で言っています。囲いの中に入ることも、外に出ていくことも、牧草地を見つけることも全て日常を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?答えのカギは、囲いの中に入る際にイエス様という門を通らなければならないということがあります。さあ、ここで、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。どんな群れかというと、創造主の神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を進む者たちの群れです。この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども、結局はそれらに聞き従わず、イエス様の声に聞き従った者たちです。

このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世の人生を生きることを意味します。

それでは、二つの世のまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、そのためには神と結びつきを持てることが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。どうして持てないかと言うと、もともと人間は天地創造の時に造られた時はそれなりに良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。贈って何をしたかと言うと、あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたのです。

そこで今度は人間の方が、このことは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになったのです。

このように、私たちが造り主の神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の両方を生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。それがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語原文では、道、真理、命、それぞれに定冠詞ヘーηがついています。定冠詞とは、英語で言えば、皆さんご存知のtheです。イエス様は天の父なるみ神のみもとというゴールに至る唯一の道、真理、命であると自分で言っているのです。いろいろ沢山ある道、真理、命の中の一つではなく、自分が決定版であると、他でもないイエス様が言っているのです。

4.罪の赦しというお恵みに生きる生き方 その1

こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?良い羊飼いがついているから何も心配いらない、いつも安心安全な進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。ここで、主が共にいるから確かに心配はいらない、しかし、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に留まっています。もちろん、罪の赦しを頂いたので、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと恐れたり、そういう至らない自分に失望します。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者はまた神の意思に沿うようにしなければと心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、罪の赦しの確認ということを繰り返してこの世を進んでいきます。これこそが罪の赦しに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き裂こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。ある時は、お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、別の時には、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとします。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書の神を嘘つき扱いします。そういう声は特に苦難や困難に陥った時には耳に響いてきます。しかし、それらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向ける、罪の赦しに留まります。そうすることが、自分は罪に逆らっている、罪を憎んでいることを証しします。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

5.罪の赦しというお恵みに生きる生き方 その2

このように罪の赦しに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことが罪の赦しに留まって生きることになります。

罪の赦しに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。または、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」この訳ではダメです。「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神から見れば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。確かにギリシャ語のカリスは「恵み」以外にもいろんな意味があります。しかし、「御心に適うこと」は少し離れてしまっていると思います。「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、訳した人は、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えて、それで「神の御心に適うこと」にしたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。それでは、善を行って苦しみを受けることがどうして神からすれば恵みになるのか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。そのことを見る前にもう一節見てみます。

19節「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」ここも「御心にかなうことなのです」と言っていますが、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。これに関連してもうひとつ訳の問題点があります。「神がそうお望みだとわきまえて」とあります。ギリシャ語原文を直訳すると「神に関わる良心のゆえに」です。「神に関わる良心のゆえに不当な苦しみを受ける」です。「神に関わる良心のゆえに」とは一体何でしょうか?これはもう、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています。

この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

さあ、大変なことになりました。善を行うことで苦しみを受け、それを耐えることは神からすれば恵みである、良心が神に縛られているゆえに不当な苦しみを耐えるのは恵みであるという。どういうことでしょうか?

ここで「善を行う」と言う時の善とは何かについて確認します。これは20節の「罪を犯す」の正反対のこととして言われています。それなので、「善を行う」とは神の意思に沿うように生きることです。罪を犯すことは神の意思に背くことだからです。神の意思に沿う生き方とは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛し、その愛の上に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。もっと具体的には十戒を見ればわかります。人を傷つけることはしてはいけない、不倫してはいけない、偽証してはいけない、妬んだりしてはいけない等々、いけない尽くめです。これをルターの小教理問答書風に言えば、これらの逆のこともしなければいけないということです。困っている人を助け、夫婦関係を大事にして守り、陰口をたたかない、悪く言われる人に良い面があることを見つけてあげる等々をしなければならないということです。

そう言うと、あれっ、キリスト教って、神から罪の赦しがお恵みのように与えられるのを福音と言っていたんじゃなかったっけ?律法を行うことで救われるという考えは取らないんだから、人間に善いことをしろと命じたら恵みは意味がなくなってしまうのでは?そんな疑問が出てくると思います。本当にその通りです。キリスト信仰では罪の赦しは神のお恵みなので、人間がいくら善い業を行っても赦しを得られることにも、確実にすることにもなりません。だから、ペトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせずご褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることや救われることと何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行っても裏目に出たら嫌だな、褒められたり褒美をもらえるほうがいいなと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなるような教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。それから、わざわざ不当な扱いを受けることを目的にして善い業をする必要はありません。善い業は神の命令であって、何かの目的の手段ではないからです。

これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)ただし、「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」のところは未来形です。これは、他の者が近づくことが通常のことではなく例外的なことを表すためにその形にしたと考えられます。

 

2023年4月23日(日)復活節第三主日 主日礼拝

ルカによる福音書24章13〜35節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 イエス様の復活は、ご自身が既に約束されていた通りに、死んで葬られてから三日目の日の朝に起こりました。ところがその時、弟子たちは、イエスが言われた通りになるだろう、つまり復活するだろう、と堅く信じて待っていたわけでもなければ、復活の後もすぐにそれを信じたわけではありませんでした。それはこの前の12節までのところでもそうでした。最初は、婦人たちが、墓にイエス様の遺体がないのを見つけます。そんな彼女たちが途方に暮れているところに御使いが現れ言います。「イエスはよみがえったのです。イエスがかつてよみがえるといったことを思い出しなさい」と。彼女たちは、その言葉によって、イエス様の言葉を思い出して、イエス様は本当によみがえったのだと信じるのです。そして彼女たちは、その良い知らせを伝えるために、急いで弟子たちのところに走ります。しかしその知らせを聞いても、それでも使徒たちは、11節「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように、その時はまだ、彼女たちの話を信じなかった、つまり、イエス様の復活を信じなかったのでした。

 もちろんこの後、彼らはイエス様の復活を信じます。しかし、大事な点ですが、このキリスト教信仰の核心である、イエス様の復活の事実を信じるということ、それは、この女性たちも、5−8節で、御使いから、

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」5−8節

 と言う言葉を受けて、それから「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」ともあるよう、彼ら彼女たちは、自分たちの力や、意思や、理性で信じることができたのではなく、まさに、御使いの告げるイエスのみ言葉と、み言葉に働く聖霊によって、そのイエスの言葉を思い出させられることによって信じるように導かれたのでした。そのように、「信仰」というのは、決して律法ではない、つまり、私たちの、行いや力や努力や決心で「信じなければいけない」、ではなくて、むしろ全くその逆、信仰はどこまでも福音である。つまり、神からの恵み、賜物、み言葉を通しての導きと働きとしての信仰であるのだということを、このところは私たちに伝えています。そのことは、単純で当たり前のようでありながら、しかし同時に私たちクリスチャンが一番誤解し、逸れていきやすいところであり、だからこそ何度も繰り返し教えられ、立ち返らされる福音の核心なのです。今日はそのことを見ていきますが、13節から見ていきましょう。

2、「エルサレムに背を向け」

「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

13節

 とあります。女性たちが伝えに来たその同じ日、二人の弟子が、60スタディオンという距離、それは、エルサレムから11キロという距離ですが、エマオという村に向かっていました。この二人の弟子については一人は18節にある通り、クレオパという弟子です。彼らは、エルサレムに背を向け離れようとしていました。14節を見ますと、彼らは二人で「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。どの出来事かというと、この後、書かれているのですが、イエス様が二人のもとに現れます。しかし、二人はそれがイエスであると気づかずに、その論じ合っている内容をイエスに話しています。それは19〜24節にある通り、この二人は、十字架の出来事だけでなく、その日の朝の出来事、つまり、女性たちが墓に行ったら、重い石の蓋が開いていて、中にはイエスの遺体がなかったこと、そして御使たちからの言葉を受けたことまでも、話しているのがわかるでしょう。

 しかしこの二人は、「それでも」エルサレムに背を向け離れていこうとするのです。11節で、弟子たちは女性たちの言うことを信じなかったことが書かれていますが、正しく、この二人も信じなかった弟子達であったのです。事実、23節、新改訳聖書や英語のESVバイブルを見ると、彼らの説明で女性たちは「御使たちの幻を見た」と言っていることがわかります。二人にとっては彼女達が見たのは「幻」だったのです。女性たちは「幻」ではなく、事実「御使い」を見たと伝えたはずなのにです。つまり信じていないのです。それだけでなく、この二人の明るい平安な思い、ではなく、沈んだ思いもここには現れています。まず、17節に「二人は暗い顔をして」と彼らの心の内、感情を表している言葉です。決して喜ばしい状況で、エマオに向かっていたのではないことがわかります。暗い顔つきで二人は、イエスの十字架からその日の朝の出来事まで語っていたのでした。さらに、イエスについては19節で、あたかも、もはや過去のこととして「預言者でした」とあります。21節でも二人は「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」という言い方をしているでしょう。このところは、新改訳聖書の方は「イスラエルを贖ってくださると望みをかけていた」とも訳されています。つまり、事実、イエス様による「イスラエルの贖い」は、十字架で完全に果たされたのですが、しかし、この二人にとっては、イエスの十字架は、躓きとなり、彼らにとっては、イエス様の十字架という結末は、彼らの期待していた解放や贖いの形ではなかったのでした。まさしく、彼らは、「政治的な解放」としか思っていなかったということを窺い知ることができます。何より「望みをかけていました」とやはり、もはや過去のことなのです。二人にとっては、その望みは過去のこと、そして、望みではなく失望に終わったということが暗い顔に現れているのです。ですから、女性たちの復活の知らせも「たわごと」のように思えて当然なのです。彼らは、まさに暗い顔つきで、望みを失って、イエスがよみがえったという女性達の知らせにもかかわらず、あえて、その復活の約束のエルサレムを離れエマオに向かっているのです。何より、後でそんな二人に発するイエス様の言葉が、彼らのその信じない頑なさを表しているのがわかります。25節にこうあります。

「すると、イエスは言われた。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

25節

 イエス様はそのようにいうのです。

3、「人間の現実:自ら信じることはできない」 

 復活の良い知らせ。その新しさ。新しいいのち。それはまさに福音の真髄であり、そこにキリスト教の信仰も教会も始まっていますし、使徒達たちも全ての弟子達、キリスト者達も、その十字架と復活を福音として世界に伝えていきました。しかし、今日のところではっきりと伝えられているように、その素晴らしい福音を、復活を、自ら、自分の力で「信じる」ことにおいて、弟子たちはみな無力であることがはっきりとわかります。自分たちの力や理性や意志の力では、誰も決して信じることができなかったのです。イエスが前もって伝えていたことであったとしても、そして、女性たちが見て喜びをもって伝えたことであっても、彼らは信じることができませんでした。これは人間の、つまり私たちの紛れもない、否定できない、神の前の現実を伝えている大事な事実の記録です。つまり「信仰、信仰」と、聖書も教会も最も大事だと言うけれども、その「信仰」というのは、決して、私たちの側から、私たちにある私たちの肉の性質から出る力のわざ、行い、努力でも、意思の力でもないと言うことです。むしろそれはできません。誰一人できませんでした。誰一人、信じられませんでした。女性たちとて、最初は、遺体に香油を塗るために墓に行っていました。復活を期待して墓に行ったのでもありません。墓が空っぽでも、彼女らは途方にくれるだけでしたし、御使いを見ても恐れるだけでした。そんな彼女たちは、主が遣わした御使いの方から、イエスが言ったことを、もう一度語ってくださり、その言葉を思い出しなさいと、導かれることによって、そのイエスのみ言葉を思い出して、イエスはよみがえったのだと、初めて悟ったでしょう。悟らされたのです。つまり、人間の側からでは決してない、どこまでも主からの、主のみことばの働きと導きがあってこその、「信じる」であったでしょう。主から与えられた信仰であったのでした。

 この信じることができない、頑なな心の弟子たちの姿は、まさにそれこそ「人間のありのまま」を示しています。主イエスがいなければ、み言葉がなければ、主に導かれなければ、主の介入がなければ、誰も信じることができません。むしろ、どこまでも疑う。どこまでも背を向ける。そんな罪深い頑なな心の人間の現実こそ、真の人の「ありのまま」の現実なのです。

4、「主イエスの方から」

 しかしそんな二人に対して、まさに「主イエス様の方から」働かれているではありませんか。まず15節です。

「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

15−16節

A,「近づいて、話しかけられる」

 「イエスご自身が『近づいて来て』」とあるでしょう。「イエス様の方から」二人のところに来られ、そしてイエス様の方から二人と一緒に、ともに道を歩き始められているでしょう。「イエスの方から」なのです。むしろ、二人はそれがイエスだとわかりません。さらに、イエス様はただ来ただけではありません。「イエスの方から」話しかけられています。17節「イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。」とあります。そして先ほども引用した25節の言葉で、確かに、イエス様は二人の不信仰さと頑なな心を嘆いてはいます。しかし、どうでしょうか。イエス様はそのまま嘆いたまま、彼らを裁くためだけ、嘆いて終わるだけのために、来られたのではないということが、ここでもはっきりとわかります。そのように不信仰で、分からない二人に対して、イエス様はこう続けています。

B,「何度でも繰り返し教える」

「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

26−27節

 どうでしょうか。イエス様は、その二人が分からないからこそ、何度でも、聖書を、み言葉を、説き明かし、教えているでしょう。もちろん、これまでもイエス様は弟子達に「モーセおよび全ての預言者から始めて、聖書全体の中から」「彼らに説き明かされ」てきたことでしょう。事実、復活のことも十字架の前に、予め約束し伝えていたことです。しかしそれでも信じなかった、女性たちから復活の良い知らせを受けてもそれでもエルサレムを離れようとした、そんな二人を、イエス様は叱るのでもない、裁くのでもない、罰するのでもない、見捨てるのでもありません。み言葉から何度でも優しく教えているではありませんか。そして彼らは後で気づいているでしょう。

5、「信仰は律法ではない」

「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

32節

 と。このようにイエス様は、あんなに教えたのに、伝えたのに、それでも分からない、信じない、背を向けるそんな二人のためにこそ、イエスの方から来られ、聖書から何度でも話し、教え、説教をし、心を燃やしてくださる方だと分かるのです。ですから、皆さん。誤解しないでください。「まず私たちの方で、聖書の全て、信仰の全てがわかるから、信仰がいつでも完全であるから、なんでも自分の強い意志と力で神の命令に完全に従えるから、あるいは、罪も犯さず立派に生き、証ができているから、だから、自分には信仰があるんだ、信仰は立派なんだ、そのように自分の何かや自分の完全さで信仰を立派だと誇れるから、礼拝に集う資格がある、だから、み言葉を聞く資格がある、聖餐に与る資格がある、クリスチャンになることができる、立派なクリスチャンなんだ」、と、クリスチャンは考えるかもしれませんし、ある教会ではそう教えるかもしれません。しかし、これは完全に間違いです。それは、せっかくイエス様が私たちに与えてくださった素晴らしい福音の賜物、平安のための喜びの信仰を、律法にし、重荷にしてしまっています。イエス様の恵みの働き、福音の力を、自分の手柄や功績にしてしまっています。それは何より私たちに平安がなくなるし、どこまでも重荷でもあるし、神の前に傲慢でもあります。みなさん、信仰は、そうではありません。

6、「信仰は福音」

A、「信仰は神がみ言葉を通して与える恵み」

 皆さん。むしろ、私たちの日々は、第一の聖書日課にあるように、ペンテコステの日の朝に律法と福音の説教を聞いた人々のように、聖書の律法の言葉から自分の罪を責められ毎日刺し通される(新改訳)、悔い改めに導かれる日々ではないでしょうか。私自身がそうです。しかし、私たちの救い主イエス様は、律法で指し通して重荷を負わせるために来た方ではないでしょう。日々、悔い改めてもまた肉の弱さを覚え、何度でも罪を悔い、そのように、私たちがどこまでも弱さを覚えさせられるからこそ、罪深さを覚えるからこそ、信仰の弱さを覚えるからこそ、そして、何度教えられても、わかならないからこそ、まさにエマオへ向かう二人に現れたように、イエス様は毎週、この私たちのために語りかけられ、平安を与えてくださる、聖なる安息日、礼拝を備え、み言葉を語って、何度でも解き明かし、教えてくださっているのだということをこのところは教えているのではないでしょうか。

B、「礼拝も律法ではなく福音(「人が仕える」ではなく、神が仕えてくださる)」

 だからこそ、礼拝も、聖書のみ言葉も、聖餐式もそのためのものです。礼拝は、神であるイエス様が、弱く不完全な私たちのためにこそ、備えてくださっており、私たちが神に仕えるのではない、神ご自身が私たちのために仕えてくださる、そして悔い改める私たちに、救いの恵みと平安を与える時なのです。それは、何を通してですか?それは、聖書、み言葉を通して、何度でも教えてくださり、何度も刺し通し、そして、何度でも、十字架と復活に立ち返らせ、力づけてくださり、何度でも心を燃やしてくださるのです。だからこそ、信仰も、礼拝も、洗礼も聖餐も、それは決して「まず私たちの方から何かをしなければならない」「律法」では決して、ない。それはどこまでも「イエス様から私たちへの」「福音」であるのです。

 この後もそのことは一貫しています。2人は、イエス様から聖書の解き明かしを受けながらエマオに着きます。その時に、目を閉ざされていた二人の目を、イエス様が開くのですが、それはどのようにしてでしょう。

C、「み言葉と、イエスが裂いて与えてくださるものを通して」

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

30節

パンを取り、それを割いて渡したその時、二人は目を開かれます。二人がイエスを招いて泊まらせたのですから、二人が食事のホストでした。しかしイエス様がパンを取って祝福し、裂いて渡された。それはまさにあの最後の晩餐の日の、主の聖餐と同じでした。二人は、いわば、み言葉とそしてこの裂き与えるパンによって目が開かれ、それがイエスだとわかるのです。それもまさに「目が開かれた」ともある通り、どこまでもイエス様の方から、イエス様によって、その言葉とイエスが仕え祝福し与えるものによって導かれている完全な恵みではあることがわかります。そのようにして二人は、32節の彼らの信仰告白に導かれているのです。

D、「福音が証しを生む」

「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

32節

 二人は、まさにイエス様の方から現れてくださり、イエス様によって導かれ、イエス様のみ言葉、イエス様の与えるもので、心燃やされ、目が開かれ、復活のイエス様のその働きによって、自分達の信仰もよみがえらせれたことを告白しているのがわかるでしょう。そして最後、31節の「イエスが彼らには見えなくなった」とある言葉も非常に重要な言葉です。

7、「信仰は確信と平安」

A、「見える必要がない」

 なぜ「見えなくなるのか」と皆さん、思うのではありませんか?「見えている方がいい」のに「なぜ消えるの?」と思うでしょうか?しかし実は、もはや見えなくなっていいのです。なぜなら、信仰を与えられた人は、もはや見えることに依り頼まなくてもいいからです。たとえイエス様が見えなくなっても、姿が見えなくても、彼らはまた「信じない」になりましたか?なっていないでしょう。もはや信仰が与えられたので、見えなくても、二人は信じています。心は燃えています。見えなくても、イエスはよみがった、生きていると、二人の信仰はイエスを見ているでしょう。信仰が与えられたなら、見えなくてもいいのです。なぜなら聖書の言葉も言っているでしょう。信仰は見える事柄ではなく、「目に見えないものを確信させる」(ヘブル11章1節)素晴らしい天の賜物だからです。

 事実、どうでしょう。女性たちと同様に、イエス様から恵みとしてこの二人に与えられた「イエスはよみがえった、生きている」という信仰は、イエスが見えなくなっても、それまでは暗く沈んで望みを失っていた心から180度変わっているでしょう。

B、「証し、宣教も福音」

「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

33−35節

 失望のうちにエルサレムを去り、エマオに向かっていた二人ですが、着いてすぐにエルサレムに引き返すのです。そして弟子たちのところに戻ります。イエス様は、その間に、イエスの方から、シモン・ペテロにも現れてくださったようで、弟子たちの間でも、イエス様がよみがえって、自分たちのところに来てくださったことで話が持ちきりでした。この二人の弟子も、同じように、その日のイエス様の恵みの証しをしたのでした。

 このように、信仰と同じように、礼拝と同じように、そして、キリストを証しすることも、つまり福音の伝道や宣教も、それは人の力でしなければいけないからする「律法」では決してないということがわかります。どこまでもまず、イエス様の方からの、福音のことば、解き明かし、聖餐の恵みによって、いつでも、繰り返し教えられ、目を開かれ、信仰を与えられ燃やされ、その福音と恵みによって与えらえた信仰こそが、このように「喜び」のうちに再びエルサレムへと向かわせ、つまり、派遣させられ、そのようにして、その口に、イエス様とその福音が、証しと福音の伝道や宣教を溢れさせていることがここにわかります。みなさん、証しすること、福音の伝道も宣教も、とても大事です。しかし、それは、決して律法ではありません。律法の動機による律法の行い、重荷では決してありません。その逆です。福音の証しも伝道も宣教も、それは福音であり、福音を受けるからこそ、福音から生まれ、その恵みと福音から湧き出る信仰と平安と喜びの行動が、このように、伝える、証する、という、証しの原点だということを聖書は私たちに伝えているのです。

8、「結び:派遣の言葉、最後の言葉は、律法ではなく、福音」

 皆さん、信仰も証も宣教も、私たちがイエス様から与えられた新しい生き方は、どこまでも福音から生まれ、福音がなす主のわざです。もちろんそこにはまず律法によって教えられ罪を示され、日々、罪を刺し通され死ぬこと、悔い改めが必要です。しかしその律法が私たちを遣わす最後の言葉では決してありません。それでは重荷を負わされ疲れるだけであり、信仰は苦痛でしかなくなるでしょう。しかしそんなことがイエス様が私たちに与えた救いなのですか?イエス様はそんなことをなされないのです。まさにイエス様は、そのように罪を悔いる私たちこそを、十字架と復活の福音で、日々、その罪と死から助け出し、日々、私たちを新しく生まれさせてくださるというのが聖書が伝える真の約束であり恵みなのです。ですから、真のキリスト教会の最後の派遣のことばは、律法ではない。どこまでも福音です。イエス様は福音で私たちを日々、遣わすのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言うイエス様の言葉がイエス様の派遣の言葉なのです。今日もイエス様は、私たちに語ってくださっているのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、今日も、イエス様から福音を受け、重荷ではなく、平安のうちに遣わされましょう。その時に、イエス様は恵みのうちに、私たちをキリストの証人として、豊かに用いてくださり、それこそ真の宣教として、イエス様の御心と計画のうちに、復活の良い知らせ、真の福音が、私たちを通して広がって行くのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2023年4月16日(日)復活節第2主日礼拝

「聖霊を受けよ」                      2023年4月16日(日)   スオミ教会説教

ヨハネ20章19~31節

キリスト教信仰の真髄は何であるか、教会の一番大事な中心は神の御子イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架に死んで蘇られたことです。

パウロはコリントの教会への手紙第1:15章3節で「最も大切な事として、私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のため、死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れその後12人に現れたことです。」と書いています。

イエス様は私たちの罪を全部負って身代わりとなって十字架につけられました。その時十字架のもとにいたのは、母マリヤ、そしてマグダラのマリア、他数名の女性たちでした。ほとんどの弟子たちはどこへ行ったのでしょう。3年間共に働いてきた、あの弟子たちは恐ろしくなって逃げたのです。主であるイエス様が捕らえられ十字架で殺された。次は弟子たちも捕らえられ同じように殺される。もう、その恐怖で十字架から逃げたのです。

その後、彼らはどうしたのでしょうか。今日の聖書であるヨハネ福音書は次のように記しています。20章19節から見ますと。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」彼らは恐ろしくて恐ろしくて家中の戸に鍵をかけ外から誰も入れないようにして、密かに震えていたことでしょう。週の初めの夕方、この時イエス様はもう復活されています。朝にマグダラのマリアが墓を訪れていた時、既にイエス様の姿はなかったのです。

マルコ福音書の方では14章4節で、「弟子たちは11人で食卓についている所に復活されたイエス様が現れた。」と正確に書いています。この夕食はもう遅い夕食でした。ルカ福音書によりますと24章に弟子の一人クレオパという人がゴルゴダの丘の十字架の死の出来事を聞いて、あんなに偉大な尊敬していたイエス様が死んでしまわれた。これから、自分はどう生きようか、と失望して自分の故郷のエマオに帰っていた、その道すがら復活されたイエス様が現れ、はじめはイエス様だと分からず夕食を共にしてパンを割く時、パッとわかった。もう、びっくりしてイエス様は蘇っておられる。そのことを他の弟子たちに知らせようとエルサレムに引き返し集まっていた弟子たちに知らせています。ですから、もう相当遅い夕食であったことがわかります。

その夕食の食卓に突然、復活のイエス様が現れて下さった。絶望と恐怖から一転して彼らは大喜びでありました。十字架に死なれた愛するイエス様が蘇って生きておられる。だれもが考えられない奇跡の出来事であります。そうして、20節から見ますと、蘇られたイエス様は弟子たちの中に立ち「安かれ」と言われた。新共同訳には「あなた方に平和があるように」とあります。弟子たちの喜び、騒ぐ心を先ず落ち着かせて「安かれ」と言われたのです。そう言って手と脇腹とをお見せになった。

そうして、弟子たちにこれから、ずうっと一生をかけて死ぬまで、大切な働きを命掛けでしてゆかねばならない。神からの使命を話してゆかれるのでした。この使命は11人の直弟子だけではなく、他の弟子たち全員に語られているのです。もっと言えば、これから後、世界の歴史の中で神の使命を負って福音を宣べ伝えてゆく、すべての教会のキリスト者に向けて語っておられる使命でありました。

イエス様は言われた。「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私も又あなた方を遣わす」そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が許す罪は誰をの罪も許され、あなた方が許さずにおく罪は、そのまま残るであろう。」

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この重大な使命を果たすのには並大抵のことではないでしょう。いくら強い弟子といっても所詮人は弱いものです。「いつも神の平安があるように」と言われたイエス様はご自分の十字架上で受けられた手と脇腹の傷をしかと見せて、死から蘇られたイエス様がいつも一緒にいる。蘇りの主をしかと受けとめて、これからの使命に生きねばならない。この使命は彼らの持てる力では到底やって行けない。だから、イエス様は「聖霊を受けよ」と言われる。「聖霊を受けて、神の力をいただいて行くのだよ」と、言うことです。福音書の中で、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」とお授けになったのは此処だけです。

ルカ福音書と使徒言行録によりますと、この聖霊は約束されていたもので、その聖霊が下るまで、弟子たちは待っていなければならなかった。そして、やがて50日後、あのペンテコステの日にどーんと一度に聖霊が降って、彼らは伝道を始めた、と言われています。ところが、ヨハネ福音書だけは、そうではない。イエス様が復活なさった夜、もう早々と弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけられている。そこで、昔から多くの学者の間でいろいろ言われてきました。一つには此処で「息を吹きかけられた」と言うのは一つの象徴的な真似事であって、本当に聖霊を授けられたわけではない。ペンテコステの日に起こった聖霊降臨を約束するシンボルであった、考える説です。ところが、AD553年の第二コンスタンティノポリス会議に於いて、この考えは退けられました。どうしても、ここで復活の主は息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたからには、確かに聖霊は下ったのである。

では、ペンテコステの日の聖霊降臨とイースターの夜の聖霊とは、どういう関係があるのか、という難しい問題となりました。いろいろな説が出ましたが多くの学者たちの考えている結論を申しますと、ここでヨハネが示していますのは、まさに、あのペンテコステの日に下った、同じ聖霊降臨である。復活された朝、マグダラのマリアが、嬉しさの余りか、イエス様にすがろうとした時、主は言われました。今、私は父の身許に上がって行く・・・上がっている最中である。イエス様の昇天がこの日の朝、既に起こっておりました。弟子たちに夜、現れたイエス様は既に昇天を終えて主となられた、キリストが聖霊を授けておられる。この点でペンテコステと同じであってペンテコステの聖霊降臨は多くの国々から集まっていた人々の上に降った。それまで、待っていなければならなかった。ヨハネはルカの描いた、ペンテコステの聖霊降臨は、もう、復活の日の夜に起こっていた、と教えているのです。つまり、ペンテコステから起こった教会の命は働いていたのです。教会の命と力とはペンテコステの前から主の復活の日から、既に息づいていた、という事をヨハネはここで教えたいのです。この日、弟子たちは主の「手と脇腹」とを見ました。あの、十字架上で流された血と水の脇の傷であります。主が十字架上で血と水を流し給う時、そこから聖霊の水が流れる、という事を象徴的に示しておりました.「手と脇」とを見て、そして十字架の死を終えた主から直ちに弟子たちが聖霊を受けている、という事をヨハネは教えたいわけであります。

旧約聖書、創世記2章7節には、創り主である神様が「土の塵で人を造り、命の息を、その鼻に吹き入れられた」そこで人は生きた者となった。とあります。イエス様が十字架で死なれた後の弟子たちはユダヤ人を恐れて死んだも同然の彼らに、創世記に示されている同じ聖霊の息を吹きかけて、再び新しく造られた者、生きる者とされたのです。死んでいた弟子たちを蘇らせ、弟子たちは新しい命の仕事へと遣わされて行くわけであります。

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さて、この聖霊を受けたならば23節にあります、「あなた方が許す罪は、誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」と言われた。これは大変な特権を弟子たちに与えておられる、光栄ある約束です。マタイ福音書では、16章19節でも同じような事が記されています。「私はあなた方に天の国の鍵を授ける、あなた方が地上で繋ぐ事は天上でも繋がれる。あなた方が地上で解く事は、天上でも解かれる」。これは、その後、教会が出来て、教会の規則を定めて行く事になります。地上のあなた方が教会規則を設けると、それが、そのまま天国でも通じます。そこまで、イエス様は権限を与えて言っておられるわけです。

マルコ福音書16章16節を見ますと、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」とあります。ここでは弟子たちが信じた者に洗礼を執行することによって救われる人と、罪に定められる人とをふるい分けてゆく、という約束が語られています。

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ルカ福音書の方では、24章47節に、こうあります。「メシアの名によって罪の許しを得させる悔い改めがエルサレムから始まって、諸々の国民に宣べ伝えられる」とあります。三つの福音書で、それぞれニュアンスの違う言い方をしていますが、ヨハネの場合は、もっと大変な言い方です。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残る」。これは単なる教会の規則を作る時、とか洗礼を授ける時の事以上の強い宣言です。そのため、これらの言葉をめぐって教会内で論争されてまいりました。カトリック教会内の司祭の権限をめぐってプロテスタントっとカトリックの解釈に激しい反対が起こったりもしました。

<注意すべき大切な事は>

ここで言われた「誰の罪でも許される」とか「そのまま残される」と、いう受け身の形で語られている、のはユダヤの一つの言い回しであった。ということです。「神様によって赦される」「神様によって留められる」と言うところを「神様」とむき出しに言うのは余りにも畏れ多いいことなので「神様」の部分を隠して遠回しの表現で言われた、ということであります。それで、「あなた方が許す罪」というのはあなた方の力で勝手に赦せる、と言っているのではなくて、あくまでも、それが赦される、とすれば神によって、赦されるのである。又、神によって、そのまま留められるのである。となります。マルコ福音書2章7節の言葉に「神一人の他に誰が罪を赦す事が出来るだろうか」と聖書が明らかに示していいます。

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このように、ヨハネが強い言葉で宣言しているのは、キリストの弟子たち、或いは現代の教会の福音宣教に遣わされている全ての者に、信仰にある力と希望を与えられているのであります。伝道の困難な中で忍耐と、この世の敵と立ち向かう勇気を与えられているのであります。何度も何度も祈り、何度も聖霊を受けなければならない。アメリカの牧師によって、次のような言葉があります。「キリストに祈り、祈り続けて祈り抜かれると、霊の世界では、たちまち、ふるい立ち色めき立って天使たちや天からの力が反動してキリストは応答されます。」復活されたキリストは天に昇って再び来て死人のように絶望していた弟子たちに直接「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられて最大の使命を宣言されたのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

スオミ教会・子ども料理教室の報告

今年最初の子ども料理教室は4月8日に開催しました。 春の天候が激しく変わりやすい一週間でしたが、この土曜日の朝は太陽が輝いてちょうど良い暖かさでした。イースター/復活祭の前日でもあるこの日は、みんなでミニ・ピザを作ってイースター・エッグの飾りつけをしました。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にピザの生地を作ります。小麦粉の量を計ってボールに入れ、別のボールにお湯、塩、ドライ・イーストを入れてそこに小麦粉を少しずつ加えていきます。子どもたちは楽しそうに生地を捏ねて柔らかい生地が出来上がりました。生地を発酵させる間にトッピングの準備をします。発酵させた生地をテーブルにひっくり返すと、「面白い、おもちみたい!」と驚きの声が聞こえてきました。ピザの生地をちぎって一つ一つ丸くして手や綿棒を使って伸ばしていきます。その上にひき肉などのトッピングをのせてすぐにオーブンに入れて焼き始めます。

ピザを焼いている間にイースターエッグの飾りつけをします。可愛らしい模様のラッピングで卵をくるんでお湯の中に入れると、ラッピングは卵にピタッとくっつきます。くっつく度に「わー不思議!」と声が聞こえてきます。可愛い模様のイースター・エッグが出来上がりました。

ピザの香りが教会中に広がって、ピザはきれいな焼き色がつきました。どんな味になったか楽しみです。

その前にイースター/復活祭の時に何が起こったのかをみんな一緒に聖書のフランネル劇を観ました。イースターの前の週イエス様は私たち人間が救われるために多くの苦しみを受けて死ななければなりませんでした。しかし、次の週の始めの日、日曜日にイエス様は神さまの力で死から復活したのです。イースターの時、私たちはこの出来事を覚えて喜んでお祝いするのです。そしてイエス様を復活させて下さった神さまを感謝するのです。

フランネル劇が終って、みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったピザをいただきましょう!子供たちは黙々と食べることに集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。

イースター祝会とフィンランドからの挨拶

今年もイースターは礼拝、祝会と共に大勢と方とお祝いすることができ感謝です。 祝会はまだコロナ以前のようなポットラックのご馳走は控えましたが、音楽、スピーチ等のプログラム、テーブルもコーヒー紅茶プッラ、旅行先の名産品、有志の方が準備された軽食が並び大分昔の雰囲気が戻りました。 以下は祝会で紹介されたフィンランドからの挨拶です。

♰ ペンティ・マルッティラ SLEYアジア地域コーディネーター

(フィンランド語からの訳)

「キリスト信仰はイエス様の歴史上起きた死と復活に基づきます。自らの死をもって主は罪と死と悪魔の支配を打ち破り勝利しました。キリストの復活は、イエス様を救い主と信じる者全てがかの日に永遠の命へと復活を遂げることの保証です。イエス様が最初に永遠の命に復活されました。キリストのものである者たちがかの日それに倣います。」

『しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』 第一コリント15章20節」

   

♰ セイヤ&パーヴォ・ヘイッキネン 元スオミ教会SLEY宣教師、 ラハティにて

(フィンランド語からの訳)

「フィンランドのルター派教会の復活祭讃美歌の歌詞をもってスオミ教会の皆様にご挨拶申し上げます。

『心怯える多くの人が、あたかもイエス様がまだ墓の中に安置されているかのように、悲しみを心にため込んで通り過ぎていく。多くの人が独りぼっちで希望を失ってため息をついてる。しかし、それは、復活されて私たちと共におられるイエス様が私たちの心を満たす時までのこと。』

私たちの主は本当に死から復活されました。今は喜びの時です!」

   

♰ ティ―ナ・ラトヴァ-ラスク SLEY宣教師インターネット伝道部門

 ミカ・ラトヴァ-ラスク 元SLEY宣教師

(原文は日本語)

「スオミ・キリスト教会の皆様、

主のご復活のお慶びを申し上げます!イエス・キリストが私たち一人ひとりの心に真の平安・生きる喜びと希望を与えられますように。」

 

♰ パイヴィ&マルッティ・ポウッカ元SLEYスオミ教会宣教師

(原文は日本語)

イエスは生きておられます。ですからキリスト者は希望を持っています。

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙一1:3-4)

イースターの喜びと希望を皆さんにお祈りいたします!!!

 

♰ 高木賢 SLEY宣教師インターネット伝道部門

 アンナカイサ・タカキ 元SLEYアジア地域コーディネーター、 ヘルシンキにて

(原文は日本語)

スオミ教会の皆さん、イースターおめでとうございます。

神の御子イエス様の十字架の死と復活は私たち人類にとって唯一の罪の赦しであり救いであり揺るがぬ希望です。洗礼を通して神の子どもとされ信仰をもって天の御国への帰り道を終わりまで歩み続けましょう。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」

(「使徒言行録」4章11〜12節、口語訳)

♰ シルッカ-リーサ&ペッカ・フフティネン 元SLEYスオミ教会宣教師、元SLEY海外伝道局長、元SLEYアジア地域コーディネーター

(原文は日本語)

イースターおめでとうございます。
スオミ教会の兄弟姉妹に久しぶりに会うことが出来ましたことを感謝します。一人一人の上にそして吉村先生とPaivi先生の上にイエスキリストの復活の力と喜びがありますように。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」コリントの信徒への手紙一 15:54-55

説教「イエス様の復活を信じる心」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書28章1-10節

聖書日課 エレミア31章1節-6節、コロサイ3章1節-4節、マタイ28章1-10節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の神の力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、意味は「過越し」です。つまり、旧約聖書の「過越し祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言うのです。興味深いです。英語や日本語では別々に分けて言います。

 復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。それは何をお祝いするのでしょうか?クリスマスは、イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いします。それでは復活祭は、惨い殺され方をしたイエス様が復活して良かった良かったと喜ぶお祝いでしょうか?実はそうではありません。復活祭はイエス様の復活自体がおめでたいことの全てではありません。イエス様が復活したことで私たちにとって良いことがあるのでおめでたいのです。イエス様の復活は私たちのために起こったということ、それを今年もこの復活祭礼拝の説教で、ただ少し角度を変えて明らかにしようと思います。

2.復活とはどんな現象か?

まず、復活とは何か、それはどんな現象なのかを理解できなければなりません。それをわからないまま復活の話をしたら聖書から離れて必ず行き詰ります。

 普通、死亡が確認された人が息を吹き返すと生き返ったとか蘇生したと言います。復活はそれとは全く異なる現象です。「復活」は、死んで遺体が火葬とか土葬に付されて肉体が腐敗して消滅した後に起こることです。「蘇生」の場合は、まだ肉体があります。例えば、イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行いましたが、生き返った人たちは後で寿命が来て最終的に亡くなって肉体は腐敗して消滅しています。それなので生き返りの奇跡は「復活」ではありません。

 「復活」について、旧約聖書の中にそれを示唆する預言がいろいろあります。はっきり出てくるのはダニエル書12章です。今のこの世が終わって新しい世が誕生する時に起こるとされ、復活する者は腐敗消滅した肉の体に代わって輝く体が与えられることが言われています。新約聖書では、もっと詳しく具体的に述べられていて、特に黙示録、第一コリント、第一テサロニケに詳しく述べられています。「復活」は聖書の世界観の重要な要素です。聖書の世界観は、今あるこの世は天地創造の神が造られたものだ、造られて始まったのだから終わりもあるという見方です。それで今ある天と地はいずれ終わって新しい天と地が創造される、その時、今私たちの見えないところ手の届かないところにある「神の国」が新しい天と地のもとに唯一の国として現れるという見方です。その時、誰が「神の国」に迎え入れられるかを決める「最後の審判」が起こる。これが聖書の世界観です。

 その中で、今あるこの世が終わって新しい世に取って代わられる時、死の眠りについていた者たちが再臨の主イエス・キリストに起こされ、消滅した肉体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられる、これが「復活」です。

 ここで、あれっ、復活は消滅した肉体に代わる復活の体を着せられることだったら、イエス様はまだ肉の体があったではないか、もちろん満身創痍の痛ましい状態ではあったが、それでも体は一応あるのだから復活ではなく蘇生ではないか、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、復活後のイエス様の体はもう普通の肉の体ではなかったことが聖書に記されています。信じられないような空間移動がありました。鍵をかけた家の中に急に入って来て、パニック状態になった弟子たちに、幽霊ではないぞ、と言って、手足を見せます。ちゃんと触れることが出来ました。しかし、むやみに触れてはいけないこともマグダラのマリアに言いました。復活の体は神聖なので、本当は直ぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない体だからです。それでもイエス様は、弟子たちを初め大勢の人に復活が真実であることを示し、また旧約聖書の不明部分をわからせるために結局40日間この地上に留まることになりました。

 「復活」は、キリスト教が他の宗教と大きく異なる点の一つです。他の宗教ですと、死後の世界を想定する時、それはこの世の世界と同時併行してあります。それで、亡くなった人は今どこか高いところにいて私たちを見守ってくれている、などと言います。ところがキリスト教では、今の世が終わって消滅して新しい世が出来る時に復活が起こるという流れになります。復活を遂げた者は下を見下ろしても旧い世はもう存在しないのです。もちろん神の国自体は、今この現在も私たちの手の届かないところ次元の異なるところにあります。ただ、そこに迎え入れられるのは復活の日になってからと言うのです。そうすると、亡くなった人はその日までどこでどうしているのかと聞かれるのですが、それはもう、神のみぞ知る場所にいて静かに眠っているとしか言えません。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を業を行った時、この者は眠っている、と言って生き返らせました。それは、イエス様を救い主と信じる者にとって死は復活の日までの眠りにしかすぎず、彼こそが眠りから目覚めさせる力があることを示すために行ったのでした。

 そうすると、じゃ、今、神の国は神以外は誰もいない空席状態なのかと聞かれてしまうのですが、そういう訳でもなく、聖書は復活の日を待たずして神のもとに迎え入れられた人がいることも認めています。いわゆる聖人です。カトリックでは聖人も崇拝の対象になりますが、ルター派は崇拝の対象はあくまで三位一体の神です。

3.なぜ神は復活を起こすのか?

以上、復活がどういう現象かについてお教えしました。次に、なぜ天地創造の神は復活を起こすのかについて見てみます。この「なぜ」に答えられるためには、なぜイエス様は十字架にかけられて死ななければならなかったのかがわからないといけません。

 イエス様の十字架の死は、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たしたという身代わりの死です。人間の罪などと言うと、キリスト教はすぐ罪、罪と言って犯罪者扱いするから嫌だ、という人もいます。しかしながら、聖書で言われる罪とは、神の意思に反しようとする人間の性向のことです。それは、創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から人間全てに備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。造り主の神との結びつきが切れてしまったらそうなるしかないのです。そこで神としては、人間をこの罪の支配から解放して結びつきを回復してあげよう、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去る時も結びつきの中で去ることができるようにしてあげよう、そして復活の日になったら眠りから目覚めさせて自分のもとに永遠に迎え入れてあげよう、そうすることを決めてひとり子をこの世に贈られたのでした。

 この神のひとり子のイエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになりました。そのようにして私たちの罪の償いが神に対して果たされたのです。それからは悪魔が罪を引き合いにだして人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎてうまくできません。はっきり言って悪魔の狙いは破綻してしまったのです。加えて、神が想像を絶する力でイエス様を死から復活させて、死を超えた復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。自分が償ったのではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う先が天地創造の神であれば人間には償いなど無理です。しかも償いをした方がその神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもの軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

 罪を赦されたから神との結びつきが回復します。この結びつきは人間の方から手放さない限り、神の方でしっかり掴まっていて下さいます。順境だろうが逆境だろうが神との結びつきはいつも変わらずあります。いつも神の守りと導きの内にこの世を進んでいきます。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられます。この世と次に来る世の二つの世を生きられる人生です。罪と死の支配から解放された人生です。

 罪と死の支配から人間を解放する神の救いの計画がイエス様の十字架と復活の業をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちも将来イエス様と同じように復活させられることがはっきりしました。それで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活も可能になったことを喜び祝う日です。さらに自分自身が復活させられるという希望に加えて、復活の日にはやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた。それで復活祭は私たちにとっておめでたい日なのです。

4.復活を信じる心

以上、神はなぜイエス様の復活を起こしたのかを見てみました。これで復活の現象とその意味について知識が増えたことと思います。キリスト教はそういうふうに考えるのだなと理解が深まったでしょう。それでは、知識が身につき理解が深まったところで、復活を信じることが出来るでしょうか?イエス様の復活は歴史上、本当に起こった、それで彼を救い主と信じる者は将来本当に復活する、と信じることができるでしょうか?

 近年では、聖書に記されている不思議な出来事はキリスト教徒の間でもあまり本気で信じられなくなってきたのではないかと思います。処女が赤ちゃんを産むだとか、一度死んだ人間が全く有り様の異なる体をもって人前に現れるだとか、そんな理性と常識ではあり得ないことは、みんな古代世界の人間のファンタジーのせいにしてしまうか、あるいは言葉や表現の技法のように考えて言葉通りに受け取る必要はないと考えるようになってきているのではないかと思います。ただ、そのように考える人も、全部うそだ、作り話だと言ってしまったら、キリスト教をひっくり返すことになり元も子もなくなってしまうとわかります。それで、そういう理性や常識であり得ないことは実体的な現象とは考えず、何か人間の心の中で思い描かれたもの、心理的な現象として捉えればよい、現代のキリスト教の使命は社会変革の先頭に立つことだから、その使命を果たしてさえいれば聖書の不思議な出来事を本気で信じなくても大丈夫、矛盾しない、そういう風潮ではないかと思います。どうでしょうか?少し言いすぎでしょうか?

 そこで、イエス様の復活は本当に単なる作り話のファンタジーなのか、少し考えてみましょう。

 イエス様の復活の出来事は4つの福音書に記されています。4つ全てに共通しているのは、週の最初の日の早朝に女性たちが墓に行ってみると墓の前の石はどけられて中に遺体がなかったことです。それと天使の出現があり、空の墓と天使の目撃の後に復活されたイエス様と出会うことがあります。4つともそういう共通点がありますが、他方で、詳しく見るといろいろ違いもあります。マタイでは墓を塞いでいた石を天使がどけたことが記されています。それが起きたのは女性たちが到着する前か後か微妙なところです。他の3つは石がどけられた後に到着しています。天使がどけたということはありません。墓に行った女性も、マタイではマグダラのマリアと別のマリアの二人の名が挙がっています。マルコでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが遺体に塗る香油を購入したとあります。ルカでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとヨハンナと他にもいたとあります。ヨハネではマグダラのマリアの名前だけがあがっています。それから、現れた天使の数がマタイとルカは二人、マルコとヨハネは一人です。

 さて、これらの違いをどう考えたら良いでしょうか?こんなにバラバラだったら、それぞれが勝手に作った話だということになるでしょうか?実は逆なのです。この問題についてスウェーデンの1960年代、70年代に活躍したボー・イェ―レツという神学者が次のように言っていました。イエス様の復活を犯罪事件の裁判と比較したらいい。事件の目撃者が4人いるとする。4人の証言が細部にわたってみんな一致していたら、裁判官は普通、これは不自然だ、4人は前もって打ち合わせて話をすり合わせたのではないかと疑うだろう。逆に細部は一致せずバラバラでも、肝心なところで一致していたら、証言の信ぴょう性は高まると裁判官は考えるだろうと。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、ローマ帝国軍によるエルサレム破壊の年、西暦70年の後になって書かれたというのが学会の定説です。もしそうならば、イエス様の十字架と復活の出来事から40年以上も経ってまとめられたことになります。人間の人生の2世代か3世代後のことになります。その間、4つの福音書のもとにある証言や資料は最終的に福音書にまとめられるまでに証言や資料が伝播していく過程を辿ります。40年以上の過程にはいろんな場があって、それぞれ伝道の状況、信仰の状況があります。そういう過程を経る中でこの証言はここの部分をもっと強調してもいいとか、逆にここを省いてもいいということが起きてきます。

 犯罪事件の4人の目撃者が、それぞれどんな性格の持ち主か、犯罪を許さないという強い気持ちを持つ人か、自分は巻き込まれたくないと恐れる人か、大人か子供か、男性か女性か、事件当時何をしていたか、そうしたいろんな要因があるために同じ事件に遭遇しても受け止め方や反応が違って、目撃したことの描写も異なってくるということが起こります。しかし、目撃した事件そのものは同じです。イエス様の復活も同じです。しかも復活の目撃の証言は、40年以上の間に変わる部分も出てくるが、40年以上経っても変わらない大元があることをはっきりと示しているのです。

 事件の複数の目撃者の証言が細部で異なった方が信ぴょう性が高まるということを言うのは神学者だけではありません。ダニエル・カーネマンという2002年にノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がおりますが、彼の最近の著書「Noise – A flaw in human judgement(ノイズ-人間の判断の欠陥)」の中でも同じことが言われていました。もちろんカーネマンは復活のことについてではなく一般的なこととして言っているのですが、なぜか、例として目撃者の数を4人にしているのが興味深かったです。それを読んだ時すぐイェ―レツのことを思い出しました。

 さて、イエス様の復活の出来事は信ぴょう性が高いということになりました。それでは、じゃ、イエスの復活を信じるぞということになるでしょうか?それでも足りない、100%確かでなければ信じないと言う人がほとんどでしょう。それはタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行って墓の前で見張らない限り無理です。これからもおわかりのように、キリスト教の信仰には負荷が大きくあります。他の宗教だったら、昔、教祖がこう言った、こういうことをしたと書いてある、そう言えば、大方はそれが歴史的に事実かどうか気にせずに、ありがたや、と言って信じると思います。キリスト教では4つの証言があってもまだ足りないと言うのです。今では4つあってもダメになってしまいました。

 そこで信仰についてひと言。信仰とは、出来事が100%真実だとわかったので信じると言うものではありません。その場合は、もう信じるも何も、目で見た通りですとしか言いようがありません。それは信じることではありません。信じるとは、理性や理解力で捉えられないことが目の前に横たわっていたら、それを踏み越えて向こう側に行くこと、これが信じることと言ってよいと思います。最初は踏み越えることなど無理だと感じるかもしれませんが、創造主の神がひとり子を用いてとてつもないことをして下さったことを思い起こすと、神を信頼して大丈夫という気持ちになり、踏み越えることが出来ます。そこで、向こう側に行くというのはどんなことか、それが本日の使徒書の日課コロサイ3章によく記されているので、最後にそれについて述べておきます。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれるて現れるでしょう。」

まだこの世で生きているのに「復活させられた」と言うのはパウロらしい言い方です。彼は「ローマの信徒への手紙」6章の中で洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪がその人に対して支配者でなくなってしまい無関係になってしまう、それでその人は罪に対して死んだことになり、それからは生きることは神に対して生きることになると言います。その時、復活の体と永遠の命と目には見えない繋がりが出来ていることになり、将来の復活の日に目に見える形で手にしていることになります。それで「あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている」というのです。

この「命」は地上の命ではなく永遠の命です。目には見えないが繋がりができているものです。見えない状態なので「隠されている」のです。「隠す」と言うと何か困らせる意図があるみたいなので「秘められている」と言った方がいいと思います。復活の体も永遠の命も性質上、この世では秘められたものになってしまいます。キリストも天の父なるみ神の右に座しているから地上にいる私たちからすれば秘められています。それが、イエス様の再臨の日がくると、イエス様は秘められた状態から現れた状態になり、同時に私たちの永遠の命も秘められた状態から現れた状態になります(後注!)。その時は神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので、それで「キリストと共に栄光に包まれて輝く」のです。

今この世の中を歩む者にとって、永遠の命もキリストも秘められた状態にあるが、それはいつか現れると確信して、今は見えない状態で別に構わない、なぜならかの日に現れるからという心でこの世を歩むこと。これが上にあるものを求めること、上にあるものを心に留めることです。このような心で歩んでいる時、理性や理解力で捉えられないものを踏み越えています。ところが、イエス様の復活を本当に起こったことではなく、心の中の描写だとか心理的現象と見なす人はこの踏み越えはできません。その人は、全てのことを理性や理解力で捉えようとするので、捉えられないものに出くわすと、心の中の描写だとか心理的現象と言って踏み越える必要がないようにしてしまうからです。そこには信仰はありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

(後注!)新共同訳の「あなたがたの命であるキリストが現れるとき」は正しい訳ではないと思います。正確には「キリストが現れるとき、あなたがたの命も現れます」と思います。なぜなら、前の文で、「あなたがたの命」と「キリスト」の二つが隠されている/秘められていると言っているので、ここではその二つが現れることを言っていると解する方が自然だからです。ギリシャ語原文に省略があると考えればよいわけです

 

説教「イエス様の十字架とキリスト信仰者の心」吉村博明 宣教師、ヨハネ18章1節~19章42節

主日礼拝説教 2023年4月7日 聖金曜日

聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ10章16~25節、ヨハネ18章1節~19章42節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。

 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

2.イザヤ書の預言の実現

イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。霊的な激痛も一緒でした。イエス様が受けた霊的な激痛について、先ほど朗読したイザヤ書が明らかにしています。その個所は、イエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とあります。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とても潔白ではいられないのです。近年はますます潔白ではいられなくなっていると思います。そのために、そんな自分の都合悪いことを言う神など胡散臭いと、ますます遠ざけられていきます。

 そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態と奴隷の状態から自由にしてあげようと手立てを考えました。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をひとり子に身代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。この神のひとり子が受けた罰の苦しみに思いを馳せることが出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。思うことが出来なければ心は変わらず奴隷のままです。

 イエス様自身、十字架にかけられる前、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えたもっと大きな苦しみがあるとわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、最後にイエス様は、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだ、と言ってやめさせます。

 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまっているために神との結びつきがない状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。

 あとは人間の方が、このことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まります。こうして人間は、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。

3.キリスト信仰者の心

神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦された者と見なされる者はどのような心になるについて、先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の中が明らかにしています。

 17節 神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ31章34節にある神のみ言葉ですが、この神の決意はイエス様の十字架の業で実際のものになりました。

 18節 「罪の赦しのあるところには、罪を償うための捧げものもない」と言われます。神がひとり子を犠牲に供して罪の赦しが起こったのだから、もう人間の方で罪の赦しの為に何か別の犠牲を捧げたり、罪の赦しが得られるように何か自分で規定を作ってそれに従って業を行うことは一切無意味になった、そんなことをしたら神のひとり子の犠牲を無駄にすることになるのです。

 イエス様の犠牲の上に罪の赦しを得た者はどうすればよいのか?19~25節は、この神の側からの罪の赦しに全てをかける者はこういう心になるのだ、ということが言われます。どんな心でしょうか?

 19節から21節では次のことが言われます。イエス様が私たちのために犠牲となって十字架で血を流されました。洗礼を受けるとイエス様の血と結びつくことになります。その血と結びついていれば、神聖な神のみ前に立たされても大丈夫、神罰を受けることはないから大丈夫だという勇気を持って神のみ前に立つことが出来ます。そのような勇気のある者になれるのです。

 かつてエルサレムの神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れませんでした。何しろ見えない神の前に立つ場所だったからです。しかし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。動物の生贄の血を振りかけて罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今ではイエス様の犠牲の血で罪の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかっていました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけられて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂けたのです。かつて大祭司は動物の血をかけられて垂れ幕をくぐり抜けて神のみ前に行くことを許されました。今、イエス様の血で汚れを落とされた者は、イエス様の犠牲の体をくぐり抜けるようにして神のみ前に立つことができるのです。

 人間にとってイエス様は真の大祭司であることが明らかになりました。神殿があった時の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、それでも大祭司自身、儀式で自分を清めなければならないレベルの低い仲介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方です。その彼が自分自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち立てたのです。これぞ真の大祭司、完璧な仲介者です。

 このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神から仕打ちを受けてしまう、神に見捨てられてしまう、というような苦しい思いから解放されています。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落とされています。それなので、イエス様は間違いなく私の救い主なんだと信じる信仰に生きれば、もう私にはやましいところはありません、私は潔白です、と言えるくらいの怖気づかない心を持つことが出来ます。その心があれば、この世を前にして堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に堂々と立つことができます。

 23節 このようにキリスト信仰者には神のみ前に立たされても大丈夫という揺るがない希望があります。それを心にとめておきましょう。これらのことを約束した方は約束に忠実な方であることも忘れないようにしましょう。

 24節 キリスト信仰者はこのような怖気づかない心、やましいところはありませんと言える心を持っているのだから、あとはお互いのことを考えて、愛と善い行いをすることを考えればもうそれで十分なのです。

 25節 キリスト信仰者にとって礼拝を大切にし守ることは大事です。なぜなら、イエス様が大祭司であること、それで私たちには怖気づかない心があり、やましいところはありませんと言える心があることを確認できるのが礼拝だからです。人によっては礼拝を大した意味のないと考えて、別に出席しなくてもいいや、他に何も都合がなくて気が向いたら行けばいいやと考える人もいるようですが、礼拝を離れてイエス様が大祭司であることや私たちの怖気づかない心をどうやって確認できるのでしょうか?キリスト信仰者がキリスト信仰者である所以は、イエス様の再臨がいつか来ると、ひょっとしたら自分が生きている間にあるかもしれないという主の再臨を待つ心です。そのような心がある信仰者は、イエス様が大祭司であること、怖気づかない心を確認し強めることは当たり前で自然なことになっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

宣教師のコラム フィンランド・イースター・ノスタルジー

イースター、CC0

フィンランドでは、イースター/復活祭はクリスマスに並ぶ教会の大きなお祝いの時です。前週の「枝の主日」から受難週に入り、金曜日から復活祭翌日の月曜日までの4日間は国の祝日となります。木曜日はまだ平日なので聖木曜日の礼拝は夕方にあります。イエス様が十字架にかけられる前夜の晩餐を記念して聖餐式が行われます。礼拝が終わるや否や、聖卓の上にあるものは花瓶も蝋燭立ても全て片付けられて、黒い布が敷かれます。その上にイエス様の受けた傷を象徴する赤いバラの花が5本置かれます。

聖金曜日の礼拝は、黒い布をかけられた聖卓を前にして、讃美歌斉唱もオルガンの伴奏なしという暗い沈んだ雰囲気の中で守られます。礼拝後は会衆は交わりの時を持たずに直ぐ帰宅、教会は静まり返ります。

復活祭は盛大に祝われます。深夜に礼拝を行う教会と行わない教会がありますが、どちらの場合も朝の聖餐式礼拝を行います。聖歌隊も出て、私たちの救い主イエス・キリストの復活を喜び祝います。礼拝後は家庭でお祝いします。クリスマスと同じ連休なので実家に帰って親族と会う機会になります。皆で一緒に食事をして、マンミやパシャというイースターのデザートを楽しみます。翌日月曜日も礼拝がありますが、流石に出席者は少いです。

あと、キリスト信仰とは関係ないのですが、この季節に子供たちが魔女の格好をして、家々を回ってネコヤナギの蕾がついた枝を渡して、お菓子をもらう風習があります。私たちが住んでいたトゥルクのある南西地方では「枝の主日」の午後、パイヴィの実家のある南ボスニア地方では聖土曜日に行われ、地方によって日が違います。その日は町角や住宅地のあちこちで箒と小枝を持った小さな魔女のグループに出くわします。私たちはイースター連休はいつも実家に帰省したので、ウチの子供たちはこの「お菓子ねだり」を毎年2回していたことになります。あまりにも信仰に関係ないので、訪問先で復活テーマの子供讃美歌を歌いなさいと言ったことがあります。そうしたら、夫に先立たれたばかりのご婦人が涙を流して喜んでくれたそうです。