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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月4日に開催されました。10年来の厳しい寒さが続く日々の朝でしたが、昼間は太陽が眩しく輝き清々しさを感じさせました。 今回の料理クラブでは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並べられるルーネベリ・タルトを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に生地に入れるシナモン・クッキー(ピパルカックです)を細かく潰します。次に粉類を計って潰したクッキーと一緒に混ぜます。別のボールにマーガリンと砂糖を混ぜると、教会はハンドミキサーの音が響き渡りました。白く泡立ってから卵などの材料を加えてケーキ用の生地が出来上がりです。生地をマフィンカップに入れてオーブンで焼き始めると「いい香り!」という声が聞こえてきます。

焼き上がったタルトの上にアップルジュースを少しかけて冷やします。終わりはタルトの上にラズベリージャムをのせて、その周りをアイシングで飾りつけ。これで、美味しそうなルーネベリ・タルトの出来上がりです!

早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリ・タルトをコーヒー紅茶と味わう歓談の時を持ちました。その時にルーネベリ・タルトとフィンランドの有名な作家ルーネベリとの関係、ルーネベリが作詞した讃美歌とそのもとにある聖書についてのお話も聞きました。

帰る時もまだ明るくて、日が少しづつ長くなって春が近づいていることが分かりました。次回の料理クラブの時はすっかり春めいているでしょうか?

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月11日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

2023年2月4日ルーネベリ・タルト

今日はフィンランド人が好きなルーネベリ・タルトを作りました。フィンランドでは新年を迎えたあと少しすると、どのお店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。もちろん家庭でも作ります。ルーネベリ・タルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、今日皆さんと一緒に作った形のもので、生地につぶしたクッキーとアーモンドを入れたり、タルトの上にラズベリージャムをのせて周りにアイシングをするものです。この形の他にも最近ではロールケーキやケーキの形のものも作られるようになりました。生地に入れる材料もいろいろ変化しています。

ルーネベリ・タルトはどうしてフィンランドの今の季節のお菓子でしょうか?それは、明日の2月5日はフィンランドでは「ルーネベリの日」という日だからです。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。

Albert Edelfelt [Public domain]ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。彼は書いた詩や小説を通してフィンランドの美しい自然や国民の理想的な像を描きました。また彼は教会のことにも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。今フィンランドの国教会で使っている賛美歌集の中にはルーネベリが書いた賛美歌がまだ15曲のっています。

どうしてフィンランド人がルーネベリを記念する時にルーネベリ・タルトを食べるのかというと、それは彼がこのお菓子が大好きで、朝食の時にも食べたくらい好きだったからです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリ・タルトは初めはスイスで作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになりました。それで奥さんのフレディリカもこのお菓子を作るようになりました。

このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはお菓子の伝統だけではありません。詩や小説、讃美歌も沢山残しました。ルーネベリ・タルトは冬の季節のお菓子ですが、彼が書いた詩や小説、讃美歌は季節に関係なくいつでも読まれたり歌われたりします。これから、ルーネベリが書いた讃美歌について少しお話したく思います。

ルーネベリが書いた讃美歌の一つに「人が地上の人生を歩む時」というのがあります。この讃美歌を通してルーネベリは人生を旅にたとえています。讃美歌の意味を短く説明すると次のようになります。人生の旅には喜びや感謝もあれば、試練や悲しみもある。しかし、天の父なる神さまがいつも導て下さることを忘れずに神さまに信頼していけばいつも安心を得られる。私たちの父である天の神さまは私たちが歩んでいる道を誰よりも一番よくご存じなので、私たちに一人ひとりに相応しい助けをいつも与えて下さる。人生の道に危険がある時は神さまは知恵を与えて安全な道に導いて下さる。このように人生の旅は神さまが守り導いて下さる旅である。だから私は神さまに感謝をする。大体こういう内容です。

この讃美歌は長くて8節までありますが、4節だけ訳して紹介します。

「このことを忘れないでほしい
あなたがどこに向かって歩んでいく時も、
あなたの神は恵み深く、いつもあなたの脇についていて下さる。
だから、たとえ危険が迫っても、
父なるみ神はあなたの歩む道を知っておられ、
あなたの行く手を守って下さる」

ルーネベリはこの讃美歌を1850年頃に書きましたが、讃美歌のメッセージは現代の私たちにとっても励ましになります。神さまはいつも私たちと共に歩んで下さって、私たちのことを全てご存じで相応しい助けをいつも与えて下さいます。このように言うことは簡単ですが、本当に神様は信頼出来るお方でしょうか。聖書には神さまが本当に信頼できる方であることを沢山の人が証言しています。旧約聖書の詩篇を書いた人は次のように言いました。
「主は人の一歩一歩を定めて下さり、み旨にかなう道を備えて下さる。たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」詩篇37章23-24節です。

私たちの生活の中にはいろいろ大変な時がありますが、そのような時でも父なる神さまは助けを与えて導いて下さるというのが聖書が伝えるメッセージです。親が小さい子どもの手を握って歩く時、子どもは遠くに走らないで親の側を歩きます。親は子どもを守ります。天の父なる神さまは親と同じように私たちの手を握って一緒に歩んで守ってくださいます。私たちは神さまが一緒に歩いてくれることを望んでいるでしょうか?時々子どものように親の手を離して好きな道に行こうとしてしまうかもしれません。そのような時は、先ほどの詩篇の言葉を忘れないようにしましょう。「たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」。このような神さまの手を離さずに、私たちは神さまを信頼して人生の道を歩んで行きましょう。

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説教「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章13-20節

主日礼拝説教 2023年2月5日(顕現節第五主日)

聖書日課 イザヤ58章1-12節、第一コリント2章1-16節、マタイ5章13-20節

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説教題 「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言う個所です。弟子たちに言われたということは、私たちキリスト信仰者にも向けられた言葉です。「地の塩」、「世の光」とは具体的に何を意味するでしょうか?何か世の中のためになるもの、人々の模範になるような立派なものではないかという感じがします。16節に「立派な行い」なんて言っているからです。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。キリスト信仰者はもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?イエス様がそう言う以上、よーし、そうなるぞー、と気合いが入る人もいれば、逆に自分には無理と尻込みする人もいるかもしれません。しかし、気合いを入れるにせよ尻込みするにせよ、キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」というのは、イエス様が言う通り、既にそうなのです。だから、そういうものとして生きるしかないのです。それでは、「地の塩」、「世の光」とは何なのか?何か立派なものなのか?これについて後ほど見ていきます。

「地の塩」、「世の光」のことを言った後で、イエス様は自分のことを律法や預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために贈られたのであると。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は守ろうにも適用する対象がありません。ところが、人間の罪の償いのために犠牲の生贄が必要ということがあります。イエス様の十字架の死はそのための犠牲だったのです。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は適用できなくなっても、罪というものは神に対して償いをしなければならないということ、人間は罪の呪いから贖われなければならないということ、これは神殿がなくなっても、そのままです。だからイエス様の十字架の死と死からの復活は人間の救いのために今もなくてはならないものです。

このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様はさらに二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。

イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思に反する罪を持たない方、神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現している方です。預言とは、神と人間の断ち切れてしまった結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が贈られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書の中にある神の意思と計画を実現した方です。

ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫、申し分ないと認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。

2.「地の塩」とはどのような者か?

それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。

塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。

ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰が伴う状態で洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になる、するとそれはもう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。

本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に属する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた計画という神の知恵の現われであり、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた知恵なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の秘められた計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。

3.「世の光」とはどのような者か?

次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代にはイスラエルの地にもギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然と輝く光であるということです。

輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然としてある光です。

イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市や燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じように全ての人の前で光を放つのがキリスト信仰者であると言われます。そして、立派な行いがその光であると言います。人々は、キリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?

そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないことになると言っているのでしょうか?でも、そう言ってしまったら、人助けをしたくても、病気だったり障害があったり、または困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?

人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には、信仰者でない人にはない特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっている事情です。キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」になっているというのはこの事情があるからです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味しています。それなので、病気や困窮してしまって人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で困窮していない余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広いものが良い業であるということです。

光のように輝く良い業が人助けに限られないということは、本日のイザヤ書の箇所をもっと先まで読むと明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。

「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンはヘブライ語の辞書を見ると、魔術的な意味があるかどうかはクェッスチョン・マークと書いてあります。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。「有害な言葉」を神に向ければ第1から第3までの掟にも関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。

さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイザヤ書の狭い歴史の枠の中で考えると、イスラエルの民を外国の支配から解放して王国を復興させる時が来るという預言に解することができます。そうではなくて、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、この預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失って廃墟のようだった人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現したイエス様はもちろん、使徒たちのようなイエス様の良い業を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導く人たちも光を放つのです。

このようにキリスト信仰で良い業は人助けだけでなく十戒全体と結びついています。それに加えて、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。

4.ファリサイ派や律法学者の義に勝るキリスト信仰者の義

イエス様は、お前たちは「塩」である、「光」であるとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を言い表す言葉を付け足していったのです。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。

それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。この、神との結びつきが失われている地上にあって、この世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めます。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。

このことがわかったキリスト信仰者は、こんなすごいことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。

ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。だから、罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければという心を新たにします。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。

このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに踏みとどまって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。

ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために掟を守るというものです。だから、人間由来の義なのです。彼らは、掟を守る時に自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったら優越感にも浸ります。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、先に神から義と認められてしまう義です。ファリサイ派や律法学者のように人間由来の義ではありません。神に由来する義です。だから、勝っているのです。神に由来する義でそれを神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が自信の源になってしまっては、宗教的な行為を行っていても、肉だけの状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

 

 

宣教師の週報コラム SLEYの全国大会へ!

フィンランド・ルーテル福音協会(SLEY)は、フィンランドのルター派国教会の中で活動する1873年設立の団体です。 ルター派信条集に基づく信仰が国教会の中で守られるようにすることを目的とし、賛同する牧師や教会員がその精神に基づいて地元教会で礼拝を行ったり、全国各地に「祈りの家」を建設して様々な集会を行ったり、ルター派の書籍の翻訳や出版事業を始めたりしました。このようにSLEYの活動は当初は国内向けのルター派のリヴァイヴァル運動でした。それが、海外にもルター派の信仰を伝道しようという機運が高まり、最初の伝道地に日本を選び、1900年から宣教師を派遣し始めて今日に至っています。 SLEYが日本各地に設立した教会の中で主なものは、札幌、池袋、飯田、諏訪、大岡山の教会があります。全て大正~昭和初期に建てられたものです。それらは、1960年代に「日本福音ルーテル教会」が設立された後は順次日本側に移譲、スオミ教会は1990年誕生の末っ子です。

 SLEYの集会の中で最大のものは1874年から毎年夏に開催される「福音祭」と呼ばれる全国大会です。開催地は毎年各地の持ち回り、週末の3日間に延べ2~3万人位が参加します。大抵陸上競技場がメイン会場ですが、地元の学校などの公共施設も貸切られ子供から大人まで年代層に応じた様々なプログラムが実施されます。

野外礼拝の聖餐式では長い行列が延々と続きます。

 中でも最大のプログラムは、土曜夕方と日曜朝の野外礼拝です。50~60人位の牧師の前に6,000~8,000人位の人が聖餐式に与る光景は圧巻です。日曜午後は宣教師の派遣式が盛大に執り行われます。大勢の参加者が見守る中、宣教師たちはSLEYと国教会の関係者から按手を受けます。

 SLEYが設立した日本の教会からは多くの方が全国大会に参加されました。何度も行かれた強者もいらっしゃいます。スオミ教会からはまだありません。来年2024年の全国大会はオウライネンという北の町で開催されます。神がお許しになれば、久しぶりに新しい日本宣教師の派遣式があります。さらに神がお許しになれば、スオミ教会の現宣教師の延長派遣の可能性もあります。この機会にスオミ教会からも参加があれば素晴らしいと思います。

2023年1月29日(日) 顕現節第4主日 主日礼拝

本日の説教は動画配信でご覧ください

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。

 

 

2023年1月22日(日)顕現節第三主日 主日礼拝

司式 吉村博明 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
説教・聖餐式 ペッカ・フフティネン牧師・SLEY元海外伝道局長
本日の説教は動画配信でご覧ください。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「見よ、世の罪を取り除く神の小羊、神の救いを地の果てまで及ぼす諸国民の光」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章29-42節

主日礼拝説教 2023年1月15日顕現後第二主日
聖書日課 イザヤ49章1-7節、第一コリント1章1-9節、ヨハネ1章29-42節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」洗礼者ヨハネはイエス様のことをそう呼びました。小羊とは可愛らしいです。白い毛の衣に被われたフワフワした可愛らしい羊を皆さんもどこかで見たことがあるでしょう。ヨハネは、イエス様のことを世の罪を取り除く小羊だと言います。それは一体どういうことでしょうか?そもそも、世の罪を取り除くとはどういうことでしょうか?世の中には悪いことが沢山あります。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪行為になって法律で処罰されるということが沢山あります。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪をなくするということか?イエス様が取り除きをする時、それを小羊のようにするというのはどういうことか?悪や犯罪をなくすのなら、ライオンとかもっと雄々しい動物に例えた方が迫力があるのではないか?小羊では少し頼りないのでは?

それに「世の罪を取り除く」と言っても、現実にはこの世にはたくさんの悪や犯罪があります。イエス様は取り除いていらっしゃるかもしれないが、それでも減らない、逆に増える一方です。イエス様の罪の取り除きはやはり小羊並みの頼りないものなのか?実はそうではないのです。イエス様の罪の取り除きは完璧なものです。どうしてそんなことが言えるのかをこれから見ていきます。

2.神に対する罪の償いについて

「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えてみます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えられました。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っていました。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか何を考えているか、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。

聖書の神は造り主であると同時に、ご自分の意思を聖書を通してはっきり述べられる方でもあります。十戒という掟があります。それは、創造主である神こそが崇拝する対象であるとか、その名を汚してはならないとか、週一日は仕事の手を休めて神に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。この他にも、父母に敬意を払えとか、人を傷つけたり殺したりするなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうようことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、嘘をついたり他人を悪く言ってはいけないとか、他人を妬んだり他人のものを横取りしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿う者、神の目に適う者になります。

ところが、私たち人間は完全ではなく弱さや隙があります。それで掟を破ってしまうことがあります。行いだけでなく言葉や思いでも破ってしまいます。そうなると神はどう出るか?神の意思に反したことになるので、神の失望と怒りを買って罰を受けることになります。それで何か償いをしなければならなくなります。神が償いを受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。罪を償う仕方として、旧約聖書では動物の生贄を捧げることが定められました。レビ記4章をみると、掟を破ったのが祭司の場合だったり、共同体の場合だったり、その代表者の場合だったり、個人の場合だったりに応じて牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられました。

そうすると、神に背いたのは人間じゃないか、人間が罰せられるべきで動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、ここで理解しなければならないことは、人間が神から赦しを得てもう一度やり直せるチャンスを得るというのはとても大きな犠牲を要するということ、それくらいに罪というのは神にとって重いことだということです。もし人間が神罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだということです。

このように創造主がいて人間はその意思に背くと創造主との関係が損なわれる、だから背いてしまったら償いをして関係を修復しなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。ところで、聖書の外の世界を見渡すと、不幸が起こらないように霊的な何かを宥めるということがあります。日本的に言えば、バチが当たらないように、ということでしょう。しかし、聖書の場合は、創造主との関係修復というのは、不幸に陥らないバチがあたらないようにする宥めとは違います。聖書の場合は不幸に陥らないバチがあたらないということが中心的な関心事ではありません。聖書の場合は、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、結びつきを持ってこの世を別れられ、結びつきを持って復活の日に復活させられるという、いつどんな時でも神との結びつきを持てることが中心的な関心事です。いわゆる御利益宗教から見たら理解できないことかもしれません。それなのでキリスト信仰者は苦難困難に陥っても呪われたとか祟られたとか言って慌てふためくことはないし、そういうことに付け込む誘いの声は耳に届かないのです。キリスト信仰者の苦難困難の遭遇の仕方は、よし、上等だ、一緒にいてくれる神と乗り越えてやろうという心意気になります。詩篇23篇4節で「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と言われていることがその通りという生き方です。

3.神のひとり子の犠牲の生贄

動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能でないことが明らかになりました。民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されていました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになりました。儀式を盛大に格調高くやっていれば別に心の中のことはとやかく言わなくてもいいというのは聖書の世界に限ったことではないでしょう。儀式が華やかで大掛かりなこと自体が何か心がこもっていることの証しのように考えられるというのはよくあることと思います。神は心の変化を伴わない儀式を目の当たりにして、きっぱりと、生贄を捧げても何も意味はない、そんなもの持ってこられてももううんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。

つまり神は、外見だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。人を殺していなくても罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくてもふしだら目で異性を見たら同罪である、と。

神は、せっかく自分に似せて造った人間がなんとか自分の意思に沿うようになって、自分と一緒に永遠に生きることができるようにと、そのために心が変われるようにと何か別の方法を採らなければならなくなりました。そのことがイザヤ書53章で予告されています。そこでは、人間の罪を人間に代わって背負って自分自身を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。このイザヤ書の予告はイエス様が全て実行に移しました。彼は罪を持たない神聖な神のひとり子でした。なのに、私たち人間の罪を全部引き取って十字架の上に運び上げて、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように私たちに代わって神罰を受けられたのです。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。

ところで、犠牲に供されたのは動物ではなく神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神との結びつきを持ててそれを保てるために人間の側ですることは何もなくなりました。神がひとり子を用いて全部して下さったからです。

あとは人間が、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で私たち人間の罪を償って下さったことは本当のことと受け止めて、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持つようになり、その人は罪を償ってもらった者に変わります。神のひとり子に罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。神から罪を赦されたから、神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むようになります。動物の生贄は毎年のように捧げなければなりませんでした。罪の赦しには賞味期限というか有効期限があったのです。しかし、神のひとり子の犠牲はこれっきりでいいという位の完璧な永久保存のものでした。それなので信仰と洗礼を通して打ち立てられた神との結びつきは自分から捨てない限り、何があってもどんな状況にいても失われない堅固な結びつきなのです。

4.罪に与せず反抗して生きる

かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなって神は受け入れを拒否してしまいました。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪を赦された者になったら、心は変化して完全に神の意思に沿うようになるのでしょうか?答えは、そうとは言えない面とそうと言える面の両方があるが、そうと言える面が勝っているということです。どういうことか見てみましょう。

人間はキリスト信仰者になっても、この世にいる限りは肉の体を纏っているので神の意志に反する罪を持っています。しかも、信仰者になる前に比べて神の意志に敏感になるので自分の内にある神の意志に反するものに気づきやすくなります。流石に行いや言葉に出すことに歯止めがかかるようになりますが、それでも弱さや未熟さがあったり隙をつかれたりして出てしまうこともあります。その時は、神の意志に反したので神に赦しをお願いしなければなりません。行いや言葉で反したのであれば誰か相手がいるので相手に対しても赦しをお願いしなければなりません。心の思いで反した場合は相手にはわからないことです。行いや言葉の罪とは勝手が違うかもしれませんが、それでも神に対して赦しをお願いしなければなりません。

神の意志に反することが自分にあると気づいたら、それに目を背けてはいけません。その時はすぐ神に赦しをお願いします。お願いの仕方は「イエス様は私の救い主です、イエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい」と祈ります。そうすると神はすかさず、私たちの心の目をしかとゴルゴタの十字架に釘付けにしてこう言われます。「お前の罪は全てあそこで償われた。お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように。」このようにキリスト信仰者は罪の自覚を持って神に罪の告白をして神から罪の赦しを宣言してもらって再出発します。キリスト信仰者はこれを何度も何度も繰り返していきます。一見無意味なことを繰り返しているように見えるかもしれません。実はこうすることこそが自分は罪に与していない、罪に反抗する生き方をしていることの現われなのです。

やがてこの繰り返しが終わる日が来ます。今の天と地が終わって新しい天と地に取って代わられる日です。その日、神のみ前に立たされ、お前は旧い世で罪に与しないで反抗する生き方をしたと認めてもらえます。それで、既に消滅した肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せてもらって神の御許に永遠に迎え入れられます。ルターが、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは復活の時であると言ったのはその通りです。その時キリスト信仰者は、旧い世ではイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたにもかかわらず自分には罪が残っていて辛かった、しかし、罪は自分と神の結びつきを引き裂く力を失っていたというのは本当だった、だからここに来れたのだ、とわかるでしょう。

5.世の罪を取り除く神の小羊 神の救いを地の果てまで及ぼす諸国民の光

兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に私たちの罪を償い、私たちを罪の呪いから贖い出して下さった犠牲の小羊です。神が贈られたので真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業のおかげで、罪が持つ神と人間の間を引き裂く力は無にされ、永遠の命と復活の体が与えられる地点に向かう道が人間に開かれました。そこで、どうしてこれが世の罪を取り除くことになるのでしょうか?「世の罪を取り除く」と言ったら、この世から罪や悪を取り除くことではないのか?でも実際には罪や悪はこの世に一杯あるではないか?説教の冒頭で述べたように、そういう疑問が起きると思います。しかし、イエス様が世の罪を取り除くというのは真理です。どうしてそう言えるのか、次の2つのポイントをみればわかります。

第一のポイントは、「取り除く」と言っているギリシャ語の動詞アイローは「運ぶ、背負う」という意味と「死なせる、滅ぼす」という意味を持っているということです。マルコ2章4節で「4人の男が中風の人を運んできた」の「運ぶ」はアイローです。マタイ16章24節で「自分の十字架を背負って」の「背負う」もアイローです。イエス様は世の罪を十字架の上に背負って運び上げたのです。ヨハネ11章48節で祭祀長とファリサイ派が心配して「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言った時の「滅ぼす」もアイローです。イエス様は、神と人間の結びつきを失わせる罪の力を無にしたのです。罪を滅ぼしたのです。そういうわけでイエス様が「世の罪を取り除く」というのは、イエス様が罪を十字架の上に背負って運び上げて滅ぼしたことと同じことです。これが第一のポイントです。

第二のポイントは、やはり「世の罪を取り除く」は実際にこの世から罪を除去することを意味するということです。なぜなら、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者が増えていけば、罪に与しない罪に反抗する生き方がこの世に増えていくことになるからです。この世は神の意志に反することが沢山溢れています。神との結びつきを持てないようにしようとする力が猛威を振るっています。そのような世に対してイエス様は罪を十字架に背負って運び上げて滅ぼしました。それは、罪が滅んだ状況を作ってそこに人間を導き入れて神との結びつきを持って生きられるようにするためでした。それは、神との結びつきを失っている全ての人間に向けられているのです。そのことが本日の旧約の日課イザヤ書49章ではっきり言われています。

イザヤ書40章から55章までは第二イザヤと呼ばれ、そこに登場する「神の僕」とは、バビロン捕囚から解放されて祖国に帰還するユダヤ民族を指すとよく言われます。しかし、49章は一民族の歴史上起こった祖国帰還ではなく、全世界の人たちの歴史を超えた神の国への帰還が視野に入っているのです。5節と6節が大事です。5節は新共同訳では「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力」が節の初めに来ています。ヘブライ語原文では節の後ろです。なので、ここは、「今や、主は言われる、母の胎にあった私をご自分の僕として形作られた主は。主が私を僕に形作られたのはもともとはヤコブを御許に立ち帰らせるためであり、そうすることでイスラエルはもう取り去られることはなく、私も主の目に栄誉ある者となり、私の神が私の力になるはずだった。」それで6節に行くとその神が驚くべきことを言います。お前はイスラエルの民の祖国帰還なんかで満足するなと言わんばかりのことを言うのです。まさにここで「主の僕」は祖国帰還する民を意味せず、救い主メシアを意味することがはっきりします。新共同訳では「だがそれにもまして」とあって、祖国帰還の仕事もしてもらうがそれに加えて救いを地の果てにもたらすこともしてもらうと二つの仕事があることを言っています。しかし、原文はもっと迫力があります。こうなります。「主はこう言われる。『ヤコブの諸部族を立ち上がらせてイスラエルの残りの者を連れ帰らせる程度のスケールの小さなことでお前を僕なんかにはしない。わたしはお前を諸国民の光とし、私の救いを地の果てまで及ぼす者とする。』

人間と神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世を闇とすると、闇の力を無にしたイエス様は本当に闇の中で輝く希望の光です。キリスト信仰者はその光を持っているので何も恐れることも心配することもないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

宣教師の週報コラム ニーニスト・フィンランド大統領の年頭スピーチを聞いて

写真 ユハニ・カンデル(Juhani Kandell)/大統領府

毎年1月1日にフィンランドの大統領はテレビで国民向け年頭スピーチを行う。 フィンランド語とスウェーデン語それぞれ15分ずつの短いスピーチだが、前年の国内外の情勢を振り返り、新しい年の歩みを始める国民一人一人が心に留めておくのが大事と考える視点を簡潔に提示する内容である。

今回はもちろんロシアのウクライナ侵攻が話題の大半を占めた。それは無理もないことだ。フィンランドをめぐる安全保障の環境は激変し、国是だった中立政策を捨ててNATO加盟を決めたからだ。テレビ・ニュースでも、ニーニストがウクライナ戦争を1939~1940年の冬戦争に、プーチンをスターリンになぞらえたことを公言したことに注目が集まった。

そういう対外的な大問題と併行する形で、国民の日常にも目を向け、こういう時だからこそ心に留めておくのが大事と考える視点を提示していた。今回、キリスト信仰の観点から見ても興味深いと思われる点を3つほど発見した。

一つは、ウクライナ戦争の影響で世界的に経済が失速し物価高、電力不足が深刻になる中、フィンランドは比較的に経済や福祉を維持できていることに関して。フィンランドが国際的に平均値が高いことに満足してはいけない。格差が拡大すれば、平均値の下側の人たちはより困難な状態に陥ることを忘れてはいけない。彼らの状況に目を向け支援を忘れてはいけない。

二つ目は、暗い事件は国外だけでなく、国内でも身近に起きている(クリスマスに礼拝中の教会が放火される事件が起きた、あとニーニストは国内の組織犯罪の増加に警鐘を鳴らしている)。悪の力は、一般市民をストップさせて不安に絡めて前に進むことができなくなるようにする力である。しかし、不安を抱きながらでも日常を続けることに努めることが悪に打ち克つことになる。

三つ目は、あまり聞きなれない言葉、人間はepeli olemusという言葉を使った。文脈から「意外な可能性を持つ存在」という意味だと思う。もう可能性などなくなってしまったというピンチの状態は実は、それまで自分にあると気づかなかった可能性に気づけるチャンスなのだ。フィンランド国民のシス精神はまさにそれだ。

以上の視点は、もちろんお上のお達しなんかではなく、受け入れるか受け入れないか、どう批評するかは聞く人の勝手というものである。(識者のコメントの中には、SDGsや気候変動についてもっと言及すべきだったというものがあった。)それでも、危機迫る国民に危機から目を逸らさせず、それを乗り越える共通の手がかりになるものを示し、しかもフィンランド国民なら乗り越えられると自信を与える内容になっていると言える。

因みにニーニスト大統領は年頭スピーチの終わりにいつも「神の祝福が皆さんにあるように」と結び、自身のキリスト信仰を表明する。今まで大統領によっては言わない人もいたが、ニーニストは言うのだ。

2022年1月8日(日)顕現節第1主日 主日礼拝

「天からの御声」         2023,1,8(日) 木村長政 名誉牧師

マタイ福音書 3章13~17節

2023年新しい年を迎えました。

今日の福音書はマタイ3章13節から17節です。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた話です。ユダヤの国の北から南へとヨルダン川が流れています。行く先は”死海”と言う湖です。さて、マタイ3章を見ますとバプテスマのヨハネはユダヤの民に「悔い改めよ」と叫んだ。そうするとエルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来て罪を告白し彼の質問にパスした者にはヨルダン川で洗礼を授けました。この洗礼を受けようと集まっていた民衆の中にイエスも混じって順番を待っておられた。ヨハネはイエスを発見してびっくりしたでしょう。どうして、びっくりしたかと言いますとイエスの方が自分より優れた人物であることに気づいたので言いました。「イエス様、わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに。」と思いとどまらせています。しかし、今は受けさせてもらいたいと、イエスの強い願いに負けて、ついに洗礼を授けました。イエスが岸辺に上がって祈っていると突然天が開け神の霊が下って神の御声が聞こえて来ました。「このイエスこそ、神の心にかなった救い主である。」と宣言しました。この時からイエスの救い主として活動が公に始まるわけです。この出来事について、他のマルコもルカもヨハネも福音書で記録しています。それほど、この出来事は大事な意味を持っていますので、しっかりとそれぞれの福音記者の独自の立場からイエス様の宣教の始めを計画的に書き記しているわけです。

考えてみてください。イエス様がこの洗礼を受けられた時30才でありました。ナザレの田舎で父ヨセフと大工の仕事を一緒にして家族の大きな助けをされていたのでした。ところが突如としてナザレを出てガリラヤで神の国を宣べ伝え始められました。そして、わずか3年後十字架の死をとげ、3日後に復活された。イエス様の地上に於ける生涯33年のうちの30年というほとんどの年月はナザレ村で神の福音を実行に移されるまでの大事な大事な準備の期間であったろうと思われます。その深い準備の期間、何をどう過ごされたか聖書には何も記していない。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、神の計画は準備を整えて、いよいよ天からの神の御声があったのです。この天からの声がどういう重要な内容を含んでイエス様の上に下ったのか、少しづつ見て行きましょう。

まず第1には、天の声はナザレ村で大工の長男として育って家族の中心であったイエスに対して「これからは、お前は大工の子ではない、神の子であって民衆を救うべき救い主だ。ナザレ村を出て公に神の子本来の働きをしなさい。」という神のご命令であった。神の霊が鳩のように、ご自分の上に下って来るのをご覧になった。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」これはマルコが書いている、天の声です。ルカ福音書の方はマタイと同じような意味を込めて3章22節でイエスが洗礼を受けられ、祈っておられると、その祈りに答えて天からの声があった。「あなたは、私の愛する子。」と2人称で語りかけています。ヨハネ福音書によると、この出来事はイエスにバプテスマを授けた預言者ヨハネに対して<この、イエスこそお前の待ち望んだメシアだ>ということを教えている天の声であった、というのです。そこではヨハネ福音書で言っています。1章33節で「私はこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。ある人の上に『み霊が下って、留まるのを見たら、その方こそみ霊によってバプテスマを授ける方である』私はその方を見たので、この方こそ神の子である、と証したのである。」この出来事に出会って見た多くの人々も又イエスは、ただの人ではない、神の子である、と教えられたと思います。

では、マタイはこの出来事を、どの点に力説しようと、したのでしょうか。マタイ3章17節の最後の部分で、天からのみ声があった、「これは、私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。この、天の声の仕方に秘密があるのかも知れません。マタイの言うのは、マルコやルカによる記録のように、「あなたは・・・・私の愛する子だ」と2人称で語りかける父親の声ではありません。マタイの言うのは、言ってみれば「これが、こういうのが、私の愛する子である」と言う客観的な宣言文です。日本語訳によると,マルコもルカも「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者である」と一気に言われた文章を記してあるかのように見えますが、実はこれは二つの文章に切れていて「あなたは私の子、愛する者である。私は、あなたを喜ぶ」となっています。これは、父親が子に対する率直な気持ちを伝える親子の語らいなのです。ところが、マタイだけはこれを一つの文章で 書いています。つまり「こういうのが、私の喜ぶところの、私の子、愛する者なのである」と。ここではイエスが神と、どういう続柄にあるか、神はどういう気持ちを抱いておられるか、というような問題ではなくて、神が喜ぶ、愛する子、とはどういう者なのか、という定義が述べられているのです。神からの宣言です。この声によって、イエスが神の子だ、という事が言われているのです。同時に、だから神の子はどういう性質のものなのか、という事までわかるのだ、とマタイは言いたげであります。

では、「私が喜ぶところの、私の子、愛する者とは」何のことでしょうか。マタイは12章17~18節のところでこう記しています。「これは、預言者イザヤの言った言葉が成就するためである。見よ、私が選んだ僕、私の心に適う愛する者。私は彼に私の霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」。ここに、今の3章13~17節を思い出させる重要な言葉が次々と出て来ることに気づくでしょう。「私の心に適う」とか「愛する者」という二つの言葉は天の声と同じ用語です。「私は彼に私の霊を授け」という言葉も、イエスが受洗された時の天から下ったみ霊を思い出させます。「正義」という言葉も3章15節の」「正しいこと」と同じ言葉です。すなわち、マタイが3章17節に記している天からのみ声は、マタイが12章18節で引用している旧約聖書イザヤ書42節1節に他ならないのです。正確に調べると、イザヤ書42章を開いて読むと、マタイが引用した天からの声と全く同じでは、と感じられるかもしれません。それは、旧約聖書のヘブル語をギリシャ語に訳したために多少変わってしまったからです。要するに、マタイによれば、この時天からの声は旧約聖書の預言したメシア、とりわけイザヤが預言していたメシアとはこういう方である、と説明したのです。

イエスが神の子だと言うが、彼と神との父子関係がどういうものであるか、そんなことは論じられていません。むしろ、マタイが今までイエスはメシアである、と論証してきた、そのメシアというのはどんな性格の方であるかをマタイは言おうろしているのです。私たちは誰が救世主であるかを知ればそれで充分なのではありません。彼が、どういう性格の救い主であるか、が分からなければ信じる事が出来ません。神信仰と言うのは、神がおられることを信じるだけでなく、どういう神がおられるか、という事まで含む信仰です。イエス・キリスト信仰もイエスという方を救い主と信ずるだけでなく、イエスという方がどういう者かという事まで含む信仰です。

では、真のメシアとはどういう性格の方でしょうか。それを、明らかにするためにマタイは他の福音書記者の切り捨てたものをちゃんと保存しています。すなわち、ヨルダン川でイエスがバプテスマを受けられる前にイエスとヨハネとの間で交わされた言葉のやり取りが、このメシアの特色をよく伝えてくれるのです。マタイ3章14~15節を見ますと「ところがヨハネは、それを思いとどまらせよう�として言った。私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私の所においでになるのですか。しかし、イエスは答えられた、今は受けさせてもらいたい。このままにして論じないままにしておいて欲しい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しい事である。これまで、預言者としてのヨハネは人々に説教をしてきました。「私の後から来る方は、私より力のある方で、聖霊によってお前たちにバプテスマを、お授けなるであろう」と。それが、今、イエスの方から何故バプテスマを授けて欲しいと言われるのでしょうか。イエスの答えは明快でした。「このように、すべての正しいこと義を成就するのは我々に相応しい事であるから」と言っておられる。理由はただ一つ、「正しい事を果たす」のが我々に相応しい、適切だからだよ。もっと言えば、この事はメシアであるイエスにとって適切だ、とか言うのではない、又、預言者ヨハネに有利だ、と言うものでもない。

◎ ただ神を信じ、神に仕える「我々に」適切なことなのです、ということです。

◎ 神様が喜ばれるのは、そうした真理と正義への率直な服従と熱心であります。」イエス様は人の肉体をとり人の心を持って、この世に来られました。十字架にかかられる前日には血の汗を流して祈られました。出来ることな ら、十字架の死の盃を取り除いて下さい。正真正銘の人の子として生きられました。

◎ しかし、彼は真理のため、正義のためには、どんな事も果たされたのです。それが十字架の死

  であっても、神の、み心であれば相手が誰であれ服従されたのです。

◎ 神の喜ぶメシアとは、こういう方なのであります。イエスがヨハネに「このことは我々に相応しい」

  と言われた、この言葉使いの中にはイエスご自身を民衆の中に徹底的に身を置こうとされる

  考えがにじみ出ています。

驚くべき事は、ヨルダン川に出て来て、神の子として活動して行こうとされるイエスが、このように人々の列の中に行列に加わることによって、悔い改めのバプテスマを受けようとする、罪びとの中にその身を置かれた、というこの事実です。告白すべき罪などない神の子がバプテスマを受けることは一体、何でありましょうか。彼はメシアでありながら、神に背く罪が自分にもある、と言いたげに、今、人生の出直しを新しく決意されているのです。彼は罪びとの最も身近な友、最も親しき罪の共犯者になろうとしておられる。バプテスマのヨハネは、どうかと言うと、もし、メシアが来られたら、きっと聖霊の火を持って罪びとを焼き滅ぼすに違いないと思っていました。しかし、そうではない。聖霊は恐ろしい、滅ぼす火のようではなく。鳩のように、ひっそりと下られました。ヨハネの後から来る方は力ある裁き主ではなかった。むしろ、力なき者の友、罪びとの友、悔い改めて泣き崩れる者の味方であった。彼こそ真の救い主なのであります。神の喜ぶメシアはイザヤの預言どおりの救い主なのだ、と天の声は断言しているのです。ナザレから出て、洗礼を受けられたイエスは、天の声で断言されたメシア、神の子の使命をこれからいよいよスタートして行かれる。天から神のみ声は大きな霊の力となってイエス様に下ったのでありました。   アーメン

説教「全知全能の神とこの世の悪」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章13~23節

2023年1月1日降誕節第二主日 主日礼拝
聖書日課 イザヤ書63章7~9節 (旧1164頁)、ヘブライ2章10~18節(新402頁)、 マタイ2章13~23節(新2頁)

説教を見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神は悪に対して無力か?

本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。

初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難しました。そして王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは初代のキリスト教徒たちがそう見て、マタイが福音書を書いた時にそれに倣ったということかもしれません。

二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイないしは初代のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみたのです。

三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ひとつ明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と関係があります。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰を神の僕がかわりに受けて苦しむという預言があります。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した人たちは、エッサイの若枝ネーツェルとはイエス様のことだとわかりました。このようにイエス様が「ナザレの人」と呼ばれたのが預言の実現だったというのは、彼が住んでいた町がナザレだったということよりも、ネーツェル預言があったからでした(「ナザレ」については、この他に民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)

ところで、本日の福音書の中で一番難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるかもしれません。もし、その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちを導いてヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナの戦争もコロナも東日本大震災もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.全知全能の神とこの世の悪 ― キリスト信仰の観点

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この問題についてキリスト信仰者はどう考えるかということを以下に述べていきたいと思います。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に沿うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまったことが、創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたい神と張り合いたいという考えを持ったことが間違いの元だったのです。

ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志とは十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪があることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの証なのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にそれはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。

それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められています。その呪いをイエス様が全部自分で請け負って、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下ったことで人間が陥らないですむ状況を作って下さったのです。

そういうわけでイエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節の言葉を借りれば、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいて罪の奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。それでは人間を解放した後はどうなるのか?罪の奴隷状態から解放されるのはわかった、じゃ、どこへ解放されるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになって、この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられる、そういう神との永遠の結びつきへと解放させられるのです。

もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本当の罰受けになって人間の罪を償うことが出来ました。ヘブライ 2章17節で言っている通りです。そして18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させました。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったので二重の打撃です。

神はこのようにして人間に救いを整備して下さいました。今度は人間のほうが、神が整備した死に至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整備した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整備された状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためであった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していきます。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらって、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。

このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを歩んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。

以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、という見解になります。もちろん、これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを果たして下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.正義と赦し

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心に従って造り上げたものに対して、また神が御心に従って与えて下さるものに対して、それらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。

人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判的になる人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うようにしようとするものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

宣教師の週報コラム  フィンランドの「クリスマス平和宣言」

12月24日のクリスマス・イブの日、フィンランドのトゥルク市には14世紀から続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。その日、ブリンカラという名称で親しまれる市の会館前の「旧大広場」に大勢の群衆が集まります。トゥルク大聖堂の12時を知らせる鐘が鳴ると、軍楽隊の伴奏で群衆は一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら(日本のルター派教会の教会讃美歌450番「力なる神は」)」を歌います。歌い終わると会館のバルコニーから市の儀典担当者が巻物を広げて次の宣言文をフィンランド語とスウェーデン語で高らかに読み上げます。

「明日は、もし神がお許しになるのであれば、我々の主であり救い主でおられる方の恩寵溢れる降誕の日である。それゆえトゥルク市にクリスマスの平和を宣言する。市民はこのお祝いに相応しい敬虔さをもって祝い、静かに騒ぎ立てぬよう振る舞わなければならない。なぜなら、この平和を破り、違法あるいは相応しくない行為によってクリスマスの平和を乱す者は、重大事案が生じたことになるので法令がそのために別途定めている刑罰に処せられることになるからである。終わりに、トゥルク市に居住する全ての住民にとってクリスマスのお祝いが喜びに満ちたものになるように。」

読み上げた後、再び軍楽隊の伴奏で今度はフィンランド国歌を斉唱し、最後は「ポリ市民行進曲」の演奏で終わります。大体15分位の内容ですが、テレビ中継され国民のほとんどが注視するひと時と言っても過言ではありません。ヨーロッパでは中世から同じようなクリスマスの平和宣言はどこでも行われていたそうですが、現在も続けているのはフィンランドのトゥルク市だけだそうです。(2021年12月19日初掲載)

「クリスマスの平和宣言」をYoutubeで見る