2022年8月28日(日) 聖霊降臨後第12主日 主日礼拝

説教全文

ルカによる福音書14章1、7〜14

「神の前で自分を低くするもの」

スオミ教会礼拝説教

2022年8月28

説教者:田 口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「上席を選んで座る人を見て」

 この14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。今日の箇所は7節からですが、26節には何が書かれているかを簡単に紹介しますと、その家で、一人の水腫を患った人がいたのですが、そこにいたファリサイ派の人たちは安息日にその病人をイエスが直すかどうかをじっと見ていたのでした。それは、もし直したら、イエスが安息日の戒めに違反したとして訴えるための口実を狙っていたのでした。しかしイエス様は、そのことをすべて見通して、自分から、安息日に癒すことは良いことかどうかを尋ね、もし家畜や息子が穴に落ちたら、あなた方は安息日でも助け出すではないかと、安息日に良いことをすることは神の何よりの御心であり、神様は安息日に人のために働いてくださり、救ってくださるお方であることを伝え、その人を癒したのでした。ファリサイ派の人たちは、最初はイエス様を告発しようと思っていたのに、イエス様はすべてをお見通しだった上、イエス様の言うことはその通りであり、しかも完全と働き病気を治してあげたので、全く反論できなかったということがあったのでした。

 今日の箇所は、そのファリサイ派のリーダーの家での食事の席の場面が続いていますが、イエス様は。ファリサイ派の人のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが

「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

 その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座るような人々でした。つまり社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についてのマナーは厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を自ら「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人だけでなく、本当に自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。

2、「婚礼の披露宴のたとえ」

「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10

 イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。もしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、仮にそのような例えにあるような場面が起こったなら、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席に選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。

 この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのようなファリサイ派の人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にする、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。

3、「単なる道徳の教え?」

  けれども、この例えを話すのは、イエス様がただ、「末席に座りなさい」等と、社会的なマナーやあるべき道徳だけを伝えたいのでもなければ、あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的でもないのです。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。

A, 「高い、低い」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11

「低くされる。高められる」、「高い、低い」とありますが、それは単に人間社会の、階級のことや上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面がありますが、その時も、それは父なる神がお決めになる、つまり神の御手にあるこ、イエス様は言っただけでしたが、人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。

 では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人たちのような人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 と。これと似たような教えを実は、イエス様は他のところでも述べています。弟子たちが誰が偉いかを論じていた場面がありました。その時にも、イエス様が弟子たちに言ったのは、「子供のようになりなさい」と教え、そして「仕えるものになりなさい」とも、イエス様は教えています。

「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい.」(マルコ10:43−44)

 と。このように、ここでもイエス様は、神の国にあっては、自分を低くすることこそを神は求めておられ、それが何よりもその神の子にふさわしいし価値があることなのだとを伝えています。みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということですが。このイエス様の例え自体は、わかりやすい例えには思えます。確かに、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるとき、そのような言葉や、そして、何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」と言う大事な背景を踏まえる時に、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。

B, 「神の前」

 どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人の関係」を何より指し示しているということが言えるます。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は自他共に認めて当然のように座る席だったのかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで、その例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。

 皆さん、イエス様はあえて「婚礼」と言っています。それはイエス様の場合、救い主の到来を示していて、実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時に、イエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、彼らは全く気付かないで、人の間の、人の前のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが見えていないのです。もちろん、イエス様は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言っているのではありません。しかし、彼らのどこまでも「人の前」しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方で、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。

 しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。

4、「誰でも高ぶる者は低くされる」

A, 「神の前の現実:罪人」

 みなさん、実に、このようにイエス様の話から「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、水腫を患っている人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人です。そして何より高ぶる罪人であるという事実です。「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの現実は、どこまでも神の前を忘れてしまい、高ぶってしまうものではないでしょうか。そして「人の前」ばかりを気にして、比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に座ってしまう自己中心な存在です。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろそれができる、できている、と思っているなら、そこにすでに高ぶりと愚かさがあるのですが、できると思ってしまうのです。それは、何より私自身にもあることであり、ここで示されるパリサイ派は私自身であることを教えられるのです。しかしまさに、そのように、聖書から、自分の神の前の高ぶりを気付かされる時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされます。そのように罪を刺し通され、神の前に立つことができなくなり、ただ憐れんでくださいと言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこにあります。「高ぶる時こそ、低くされる」。

B,「低くされる」

 繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教が終わり、そのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりですしかし教会の説教はそうではありません。確かにそこには罪を示す律法ははっきりとありました。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちに律法を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく。「神が」律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。

C,「真に低くなられたお方」

 しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは。まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その福音の事実、現実です。

 実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章においても、その後、続けてイエス様はなんと言っているかというと、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されていますね。つまり「低くなる」「仕える」は、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架に全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ1045

5、「低くされ、高くされる」 

 イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われます。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があり、そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることを示しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに、

「へりくだる者は高められる。」

 そのことを信じる私たちに実現する力だということなのです。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられる、刺し通される、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でもあることであり、日々あることです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって救われる。罪を差し通されるからこそ、十字架の輝きがいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。

 イエス様は今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

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