2022年7月17日(日)聖霊降臨後第6主日 主日礼拝

今日の説教

ルカによる福音書10章38〜42

「どうしても必要な一つのこと」

2022717:スオミ教会主日

説教者:田口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 今日のところは、マルタとマリヤの姉妹がイエス様を自宅に招いた時の出来事です。この出来事をルカは、先週の箇所である、善いサマリヤ人の例えの後に記録しています。不思議に思わされるのは、出来事の表面だけを見るならですが、先週の善いサマリヤ人の例えは、究極の隣人愛が語られ、「それをするように」という律法の教えであったのでしたが、しかし今日のところは、イエスのためにと、忙しく労するマルタに対してイエス様が語っていることは、それとは正反対のように見えることです。けれども、いずれの出来事も、イエスが伝えていることも、決して矛盾するイエス様やその教えを記しているのではありません先週の善いサマリヤ人の譬え話でも、大事な背景、文脈として、イエス様は、エルサレムの十字架に向かってまっすぐと歩んでいるということがありました。そして、その大事な前提があるからこそ、イエス様ご自身こそが、皆のための真の隣人、真の善いサマリヤ人なのだということや、そのイエス・キリストへの信仰、あるいは「キリストにあって」生きることこそ、新しいいのちのあゆみであり、良い行いをすることや隣人を愛することにおいても、それが何より大事なことなんだ、ということが見えてきたでしょう。その大事な、イエス様の一貫した背景や文脈、土台となる前提を見ていくならば、このマルタに話していることも、むしろ先週と変わらない、同じ福音のメッセージがあることがわかるのです。

2、「マルタとマリヤ」

「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」38

 「彼らとあるのは、イエスと12人の弟子たちを含む一行です。そこには、12人の他にも沢山の人がお供していたともいわれています。そして彼らは、多くの物を持っての旅ではありませんので、訪問する街や村で、迎え入れてくれる人々の家で食事をしたりするということはよくあったのでした。この村では、マルタという一人の女性が家に迎え入れてくれたのでした。この後のところからもわかるように、彼女は、その大勢の人々の食事の準備のために忙しく動き回ります。一人でかどうかわかりませんが、台所と食事の部屋を忙しく走り回っていたのかもしれません

 けれども、マルタにはマリヤという姉妹がいました。そんなマルタが忙しく、イエスのためにもてなしている中、マリヤですが、

「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」39

 妹のマリヤはイエスの伝えるみことばに聞き入っていました。「主の足もと」というのは、これは学ぶ者が、教える人の足もとで聞き学ぶ当時の姿を現しているとも言われていますし、まさに足もとは、ことばがまさに口から流れ出てくる、最もい場所、そして最もよく聞こえるところです。そこに座って、みことばに聞き入っていたのでした。

 そんな時です。

「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」」40

 マルタの気持ちはよくわかります。そして、「おそらく」でしかありませんが、やはりマルタも、イエス様のみことばを聞きたかったのではないかとも思います。しかし、食事の準備をしなければいけない。そのことがまず先で、頭がいっぱいだったでしょうし、妹が手伝ってくれれば、早く終わって、自分も聞くことができるかもしれないとも、ひょっとしたら思ったのかもしれないです。詳しくは書いていませんが。マルタのいろいろな思いを想像することができます。

3、「マルタの心配とそれを受けとめるイエス」

 しかし、マルタは、それをマリヤではなく、イエス様に言ったのでした。結果として、「あなたは何ともお思いにならないのでしょうか。」と、マリヤだけでなく、イエス様も責める形となってしまいました。他の聖書の訳では当初は、マルタもイエス様を「喜んで迎えた」とも書かれていますが、そのように「喜んで迎えたはずであったのに、この時には、もう「喜びではなく、イライラ、そして誰かを責める気持ちでいっぱいとなってしまっていることがわかるのです

 しかしそんなマルタに対して、イエス様はどうでしょう?

「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」41

 まずここで教えられる、この聖書箇所の一つの幸いは、「マルタ。マルタ」という語りかけです。この二度名前を呼ぶ呼び声は、イエス様のその人に対する、深い愛情のこもった、優しく諭す、呼びかけを表しています。皆さん、マルタはイエス様を責めました。しかしイエス様はそれを責めるのではなく、むしろ優しく応えます。イエス様はそのようなお方なのです。聖書では、よく、自分の感情をぶつけるように思いのまま神に叫んでいる人々の出来事やことばが記録されています。しかし多くの場合、それが不平や責めであっても神は受け止められることが書かれています旧約聖書の出エジプト記では、燃える芝の山で召された時のモーセも、彼は自分の思いのままに神の言葉や約束を打ち消し否定し拒むでしょう。試練の中のダビデもそうでした。彼の苦難の中の嘆きの言葉は、詩篇には沢山あります。あのニネベに遣わされた預言者ヨナも、ニネベに行く前も行った後そうでした。不満や不平に近い言葉を言います。他の預言者たちもせっかく伝えた神のみことばを拒む民を前にして、希望を失い、神に嘆きのように叫んでいるところは幾つもあります。しかしいずれも、そのような時、神様は、それが嘆きや神を責めるようなことばであっても、きちんと受け止めておられます。そしてそれにみことばを持って、諭し、教え、再び、導いています。新たな道へです。このように、私たちがどのような態度か以上に、神様は、私たちが神様に語りかけること、装ったり偽りで自分を塗り固めるような良くみえる行いや言葉でもない、心に隠し事のない正直な思いをぶつけること、それが、今は信じられないとか、自分の弱さや悲しみがあからさまになるような叫びであっても、マルタのように責めるようなことでも、どのような形であっても、私たちが「助けてください」と、率直に素直に、子供のように、求めることを、とても大事にしておられるのが昔も今も変わることのない私たちの神であり、それが主イエス様であり、この「マルタ、マルタ」という語りかけにあることがわかります。そして、そのようなとき、いつでも、イエス様は私たちの名前も優しく呼び、そして、ことばをもって教え、みちびてくださるお方なのです。詩篇にはこのような言葉があります。

「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおらえ、霊の砕かれた者を救われる。」詩篇34篇17〜18

 神様は「完全な完成された私たち」の神ではありません。不完全で罪深い私たちの神、救い主となってくださっています。だからこそ、私たちはいつでも神の「子」と呼ばれるでしょう。神は、良い子の父でもありません。神様は不完全な罪深い子供のためにとなってくださった方です。神様はそのことをよく知っています。忘れることはありません。そして、そのような不完全でなおも罪深いが、ご自身の愛を知りすがる子供と交わり、ともに歩み、ご自身の語るみことばをもって、いつでも、正しく教えること、助けること、平安の道に導くことを喜びとしています。ですから、子供が父に、「なぜ」、「どうして」、と叫んだり嘆いたりするように、どんな時でも、それが神様に「なぜ」「どうして」「神様どうしてなんですか」という嘆きであっても、神様はそのように私たちが祈りを持って語りかけ、求めることを何より望んでおられます。そしてその時に、神様はみことばをもって語り、教え、正しい道、私たちの思いや願いを遥かに超えた最善を、導いてくださるのです。

4、「イエスは仕えられるためではなく」

 イエス様はマルタに言っています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。もちろん、マルタのもてなしも、大事なことです。そしてイエス様もそれを嬉しいし、当然、喜んでいるでしょう。しかし、イエス様はわたしにあってはいろいろなことを心配しなくて良いのだよ。気を使わなくて良いのだよ」とおっしゃってくれています。2週前の説教で、イエス様は「平安を与えるために」来られたと伝えましたつまり、イエス様ご自身が言っているように、イエス様は、仕えられるため、もてなされるために来られたのでもありません(マタイ2028節)。どこまでも与えるためでした。福音、みことば、いやしを、与えるためであったでしょう。そして十字架による救いこそ、神が、神の方から、イエス・キリストによって、私たちに与える、最高のプレセントです。その十字架と復活によって「世が与えるのではないわたしが与える平安を与える」(ヨハネ1427節)と、あり、復活の日の朝もイエス様は「平安があながたがたにあるように」と入ってくるでしょう。与えるイエス様。「平安」を与えるイエス様です。今日の最初の聖書朗読、創世記18章ですが、3人の訪問者、一人は人となられた主キリストその方です。そこでも、アブラハムは、一生懸命もてなしますが、主キリストは、アブラハムにもてなされるためにやってきたのではありません。10節の、アブラハムとサラ夫妻には全く思いもしない信じられない、素晴らしい恵みの約束、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」という福音を伝えるためであったでしょう。そう、キリストは、私たちに何かをされるため、仕えられるために来るのでも、もてなされることを目的に来るのでもなく、どこまでも「与えるために」来られるのです。事実、復活の後、イエス様は平安を与えるためにイエスの方から閉ざされた戸を入ってきましたし、そして、湖の畔で、弟子たちがイエスのためにではない、イエスが、弟子たちのために食事を準備して待っているというところもあるでしょう。そして、その後も、イエスは、ご自身が「与えた」約束の通りに、聖霊を、私たちに「与えてくださいました。そのように、聖書には、イエス様は心配されるため、仕えられるため、もてなされるために来たのではないという、大事なメッセージがあります。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」別の聖書の訳ですと、「あなたがいろいろなことを心配して、気を使っています。」とあります。イエス様にあって、イエス様の前にあって、イエス様のためにいろいろなことに思い悩み、心乱し、心配したり、気を使ったりするのは、あなたがたのすることではありません。いや、思い悩み心配する必要はない。気を使ったりする必要はない。イエス様はそう言ってくださっているのです。そして、こう続けます。

5、「どうしても必要なことは一つだけ」

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」42

 イエス様は、どうしても必要なことは一つだけだと言っています。そして、マリヤはその良い方を選んだのだと。このところは日本語ですと、「良い方」とただ書いているだけですが、ギリシャ語では「メリドス」ということばです。これは、ご馳走の比喩で、一人分、一皿分の食物という意味です。ですから、まさに、マルタによって忙しく準備されようとしているご馳走を例にあげて語りかけていることを見ることができます。どうしても必要な一つの良い方真のご馳走、それは、何かというと、マリヤがイエスのみことばを聞いていたということです。確かに食事も体の養いのために重要なものです。食べれるとき、それは楽しく美味しく満足するのです。しかし、食べたものは体から出て行きます。そしてまたお腹がすきます。物質のご馳走、そしてそのご馳走の一皿分の食事はそのようなものです。もてなしも大事です。しかしそれは、平安と喜びを持ってやる自由な奉仕でなく、誰かを責めるための律法を動機とするものであるなら、律法に縛られていますし、その立派なもてなしや行いは、「人の前」で、自分のメンツを立てることはできても、「神の前」に自分を正しいとするのでも、救うわけでもありません。それは、物質的なご馳走の一皿と何ら変わらない、一時の消えゆく満足や安心に過ぎません。けれども、イエス様が言いたいのは、マルタへの批判とか、マルタがしなくていいことをしているとかそういうことでもなければ、ただのマルタへの断罪や律法でも決してありません。そうではなくて、どうしても必要なこと、本当に大事なこと、いつまでも残るもの、そして、それこそ私たちを救い、新しくし、真の霊的に養う霊のご馳走は、何か?ということです。それは、「わたしのことばである」「わたしの言葉を聞くことである」ということを、伝えたかったのです。ですから、おそらく、マルタも聞きたかったそのイエス様のことばを、イエス様はマルタに、「ご馳走などの食事に気を使ったり心配したりしないで、あなたもこっちに来て、霊を養ういのちの食事であるわたしのことばを聞きなさい」と言っているように教えられます。

6、「イエスが仕え、与えてくださる恵みの礼拝」

 本当に、どうしても必要なことは一つだけ。イエス様ははっきりと言っています。イエス様をもてなすために、精一杯のご馳走を作るために、いろいろなことを心配したり、気を使ったりするのが、クリスチャンの何よりまずすべきこと、それが、新しい生き方の表し方それが、教会であり奉仕でなければならないまず私たちが何かをしなけれならない。等々と思ってしまいやすいかもしれません。しかし、イエス様が見ているのは逆であるということです。大事なことは、イエス様が私たちのために備えて、仕えてくださる時間と、そこで提供されているイエス様からの真のご馳走、神のみことば、聖餐式がある時は、まさに目に見える福音であるイエス様のからだと血、そのキリストの恵みであり、それをまず私たちが聞く、受ける、食するということです。そのように平安にされて安心して出ていくのが、真の愛のわざや奉仕になるのですが、それより先に、何よりまず、イエス様が私たちのために仕えてくださる、それを受ける、聞く、食するというのが、私たちの新しい生き方の何よりの原点、源、何より大事な一つなのですl。イエス様が仕えて下さり、みことばを語ってくださる。罪の赦しの福音を、いのちの福音をあたえてくださる。それを聞くこと、受けることが、どうしても必要なことだとイエス様はいっているのです。まさに今日、私たちが礼拝に集められていることがその時です礼拝は、旧約の記録から新約に至るまで、いつでも、つまり、アブラハムの祭壇も礼拝などから、イエスの生涯、最後の晩餐の聖餐や、復活の後の食事までもどこまでもイエス様が備え、集め、給仕し、ホストとなり、私たちに仕えて下さる時でした。そのようにして、イエス様が与えてくださる、みことばと聖餐を受けることが、イエス様の最後の晩餐の時、そして初代教会から変わることのない、キリスト教会の礼拝でした。私は、ルーテルにありながら「礼拝は私たちがキリストのために備え私たちがキリストに捧げ仕えるものだ」という福音派の「律法として礼拝」の考え方にずっとあったものですから、このスオミ教会のルーテルの礼拝が、その式文の一文一文も、その順序も、そのようにイエス様が私たちに仕えてくださり、恵みを与えるための礼拝となっていることがいかに素晴らしく聖書的なものであるのかをここで毎週、経験し教えられております。その礼拝に今日もイエス様によって一人一人集められていることは素晴らしい恵みなのです。どうしても必要なことはただ一つ。その良い方を選んだ。本当の良い方の、本当の魂の糧の一皿を、マリヤは選んだ。そして、イエス様が語ってくださるみことば。与えてくださるみことばを受けた。聞いた。そのことはこの礼拝にあるのです。

 そして、「マルタ、マルタ」と、マルタをそこに優しく招かれているように、イエス様は私たちにも同じように名を呼んで仕えてくださっているのです。私たちがイエス様のためにと、何も心配する必要はない。気を使わなくていいのです私たちが何かをするからイエスが何かをしてくださるでもありません。これはイエス様が私たちに仕えてくださる時、与えてくださる時なのですから。永久になくならない、いつまでも残るいのちのことばを、救いのことばを、新しく生かし、励まし、慰め、導く、平安のことばを、イエス様が与えてくださるのですから。

7、「どうしても必要な「一つのこと」から「多くのこと」(良いわざ)へ」

 そのように、まず私たちがイエス様から受けるからこそ、私たちは、イエス様の変わることのない、イエス様が与える平安を受けて、本当に喜んで、仕えていくことができるし、先週の善いサマリヤ人のように隣人を愛していくことができるでしょう。このところも、「多くのこと」「いろいろなこと」と「一つのこと」ということばも対照的に描かれています。つまり、私たちの何か、私たちがイエスに仕える多くのこと、いろいろなことが、「一つのこと」、みことばのこと、救いや神の国を完成するのではなく、その逆を示されています。つまり、その大事な「一つのこと」、つまり「みことばに聞くこと」「イエス・キリストのみことば、いのち、救い、義と聖さ」が、多くのことをさせるのだということに他なりません。

 本当に必要なことは、ただ一つです。それが新しいいのちのための、ご馳走であり、一皿の大事ないのちの糧です。それはイエス様が与えてくださるみことばを聞くことです。今日もイエス様は「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」(ルカ7章4850節)と宣言し、私たちを遣わしてくださいます。ぜひ、与えてくださる恵みなのですから、喜んでそれを受けて、今日も平安のうちに使わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン 

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