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2022年10月23日(日)聖霊降臨後第20主日 主日礼拝 聖書日課 エレミヤ14:7~10・19~22(旧1203)、第二テモテ 4:6~8・16~18(新394)、ルカ18:9~14(新144)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前の通り、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人は、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。占領された国民の中に占領国に仕える人たちがいたということです。どうして仕えたかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が同胞の裏切り者とみなされて憎まれていたことは驚きに値しません。
ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際の徴税人とは少し様子が違うのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確実なものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。
もちろん本日の箇所の徴税人は、たとえの教えの架空の人物です。しかし、徴税人のグループが洗礼を受けにヨハネのもとに行ったという歴史的事実からすると、今日のように改心した徴税人が実際にいたことは否定できないのです。ルカ19章のザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決断をします。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。
以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。
本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方が出ています。一つは宗教エリートのファリサイ派の人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと守っていますと神に報告します。私は周りにうようよいる罪びとたちと全然違うことを感謝します、などと醜いエリート意識そのものです。子供が先生に「先生、ボクは~君みたいに悪い子じゃないよ、いい子だよ」というのを大人にしたらこうなるのでしょう。もう一つは徴税人の祈りです。自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。なので、胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。
先週の福音書の箇所は「やもめと裁判官」のたとえでした。それも祈りについて教えるところで、神に対して祈り願い求めることを絶やしてはならないという教えでした。神に対して祈りを絶やさないというのは、十戒の第一の掟「私以外に神があってはならない」を守ることです。ルターも教えたように、祈ること願いごと、喜びや感謝、悲しみなど全てのことを創造主の神に祈り打ち明けるべきである、他のものにそうしてはならないというのが第一の掟のポイントです。神を全身全霊で愛するというのも同じです。「愛する」などと聞くと恋愛を連想してしまい、神を愛するなんてどうしたらいいかよくわからないと言う人もいます。要は神以外に祈らない打ち明けない、それだけ神を信頼してやまないということです。だから、祈りを絶やしてはいけないのです。
そこで、先週と本日の祈りの教えには興味深い関連性があることに気づきましょう。「やもめと裁判官」のたとえは弟子たちに対して述べられました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたでしょうか?「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉に注意します。ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」とは、「神の目に適う、神に相応しい」ということです。どういうふうに「目に適う」「相応しい」かと言うと、最後の審判の時に神のみ前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に投げ込まれる心配はないという位に神に相応しいということです。14節を見ると「義とされて」と言われています。ディカイオオ―という動詞が使われていて、これはさっきのディカイオスを動詞にしたものです。これを「義とされて」と訳したのだから、ディカイオスも「正しい」ではなく「義なる」と訳すべきだったと思います。「正しい」と言ってしまうと、少し人間的すぎてこの世止まりではないかと思います。「義」とは、この世とこの次に到来する世の双方にまたがる、神的な「正しさ」です。人間的な「正しさ」とはスケールが違いすぎます。イエス様がこのたとえを話した人たちは、自分たちはそういう義の者である、他の者はそうではないと見下している人たちでした。この人たちは誰なのでしょうか?ファリサイ派でしょうか?実はそうではないのです。
「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、最後の審判の日、果たして、やもめのように祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。この質問のすぐ後で今日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話します。ここでは、自分は神に相応しいと自信満々な者たちが相手です。つまり、このたとえが向けられた相手は、弟子たちの中で自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると自信満々な人たちだったのです。果たして私が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか?というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる人たちに向けて話されたのです。
そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものになっています。たとえ最後までひるまずに祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまうのです。
洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないために洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねました。そして、本日の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いはなく、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけでした。神から罰を受けるとはどういうことか?それは、この世の人生を終えた後で復活の日に復活に与れず、復活の体も永遠の命も与えらえず、神の御許に迎え入れられなくなってしまうということです。しかも、問題はこの世の次の段階に限りません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。たとえ罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。歩む道を変えなければならないのです。
「私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました」と認めて、「神さま、どうか罰しないで下さい」と憐れみを乞うた徴税人。その彼が神に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので何も心配することはなく、神に憐れみを乞う必要もありません。
自分では神に背を向けた生き方をしているなどとは思いもよりません。しかし、百点満点のはずの彼が神のみ前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように聞こえます。それでは、ありきたりの道徳論です。ここは道徳教育みたいなことを言っているのではありません。ここは人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならない大きな問題があることを言っているのです。これがわからないと、この個所はわからないのです。
私たちは徴税人が「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。私たちの場合は、同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。加えて、神の意思を表している十戒に照らしても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様は何と教えていましたか?たとえ殺人を犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。
以前にもお教えしましたが、フィンランドやスウェーデンには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」に分けて言い表す言
葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いでいる罪です。この受け継いでいる罪があるから行為に現れる罪も起こるという、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら具体的に犯していたかもしれないのです。
マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうのかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にしているのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神に相応しい者となれるのでしょうか?
これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に贈られました。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで神罰を人間に代わって受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はイエス様のこの身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠
の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間のために開かれました。神のもとに至る道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しい者とされ、神との結びつきを持って歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので、順境の時でも逆境の時でも変わらない助けと良い導きを神から得られます。この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを持っているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを受け取ったので、神からそういう者として見てもらえます。キリスト信仰者は、そのように見ててもらえることを畏れ多く感謝し、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうすると神の意思に一層敏感になります。まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という徴税人の祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちは自分の内にある神の意志に反するものに気がつく度に、心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あそこに首をうな垂れたあの方がおられす。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫になっていることがわかります。父なるみ神は私たちを本当に憐れんだので、ひとり子を犠牲にするのを厭わなかったのです。神は罰しないで本当に赦して下さることを、私たちがわかるようにイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。
ところで、徴税人の祈りにはイエス様の十字架の言及はありません。まだ十字架の出来事が起きる前なので、それは無理もありません。しかし、イエス様はもうすぐしたら十字架と復活の出来事が起こると知っています。その時が来たら、徴税人の祈りを祈る者は心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ、神から罪を赦されていることがわかります。この意味で徴税人の祈りは、神から罪の赦しを得られて神に相応しい者とされる祈りなのです。これぞまさしく、最後の審判をクリアーできる祈りなのです。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは、イエス様の十字架と復活の業があるおかげで、なくてはならない祈りです。イエス様を救い主と信じてこれを祈る限り、イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されるのです。イエス様を信じない人は、誰かの何に免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で罪の償いを神に対して果たさなければならなくなります。しかし、それは不可能です。このことを、本日の個所のファリサイ派の人の祈りが明らかにしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、お前には本当の罪の償いはないと言われて蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることを知って茫然として足がすくんでしまった瞬間、イエス様のおかげで神の御手が自分を離さずしっかり支えてくれていることです。
キリスト信仰者が復活の日の神の御許に迎え入れられる地点に向かって歩む道にはいつも罪の自覚と赦しの繰り返しがあります。しかし、最後の審判の時、神はこの繰り返しのことを、それはお前が神に相応しい者、義なる者として相応しく生きた証しと認めてくれます。その時、繰り返しは終わります。
本日の使徒書、第二テモテ4章6-8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、そのような生き方を総括する言葉になっています。それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」
兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。
「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」イエス様の再臨というのは、最後の審判があったりするので怖いものに感じられます。しかし、その日は、お前は神に相応しい者、義なる者として相応しく生きてきたと認められる日です。また、罪の自覚と赦しの繰り返しが終わる日です。義の栄冠はその象徴です。だからキリスト信仰者にとっては主の再臨は怖い日ではありません。待望の日です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
聖句 マタイによる福音書 6章9節
だから、こう祈りなさい。 「天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。」…
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「やもめと裁判官のたとえ」 2022年10月16日(日)
ルカによる福音書18章1~8節 スオミ教会礼拝。
今日の福音書は、読んだだけで、その内容についてはすぐ、わかる、たとえ話です。たとえの内容はわかりやすいのですが、このたとえの話で、イエス様は何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカ18章1節で、こう書いています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに『たとえ』を話された。」イエス様は弟子たちが気を落とさず絶えず祈れ、と言っておられる。弟子たちのこれから先、ずうっと先まで、生涯かけてイエス様の福音を宣べ伝えて行かなければならない。大切な大切な使命を果たして行くのに、幾多の困難が山ほどあるだろう。その困難と迫害の只中で絶えず祈れ、と教えておられるのです。
そこで、イエス様はやもめと裁判官のたとえ話を持って語られたのであります。2節をみますと、「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。ところがその町に一人のやもめがいて裁判官の所に来ては『相手を裁いて私を守って下さい』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権力を持っています。政治をする為政者も又権力を持っていて、たいてい権力を持つとその力をひけらかして自分の力でどうにでもなるという誇りや高慢になります。そうして差別や偏見の目を持って不正なことも平気でやってしまいます。
このたとえの裁判官もそうとうの悪のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから、想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。
又、この裁判官は「人を人とも思わない。」のです。人間らしい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重と言った感覚は全くゼロに等しいのです。しかもそういう人が権力を持ち、この町を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定する役なのです。
旧約聖書 申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは、裁きを曲げてはなりません。人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからです。ただ、公義のみを求めなければなりません。」これが正しい裁判官、また政治をする人のありかたです。さらにパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。
「彼は善を行うために立てられた神の僕なのです。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」と、これが理想的な裁判官、政治家のあり方です。
しかし、理想であって現実のこの世では権力を我が物にして自分の力を過信して行く、ついに恐ろしいほどの人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない、高慢な、我がままで正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない。自分のために固着するしかない。権力は民衆を恐れ神を忘れ自己達成を目指す、やがて腐敗しはじめます。権力の上には神がいて神の支配のもとでないと崩壊します。いつの時代でも戦争で多くの命が踏みにじまれて悲惨な世の中はいつもある。現代の世界で独裁者が権力をふるっています。まさにプーチン大統領もそうです。やがて滅んで行くでしょう。これが現実の私たちの生きている世界、この世です。
さて、たとえ話では、その町にやもめがいて裁判官のもとに行って「私の訴訟相手を裁いて私を守て下さい。」と言っています。このやもめの姿は無力な私たちの姿のようです。このやもめは賄賂を使う金もなければ、つてもない、助けてくれそうな人もない、全く無力です。それに今彼女は訴えられています、被告です。日本に初めてキリストの教えを広めようとした宣教師の人々も迫害にあい苦難を受け、神に召されました。権力には無力です、弱い者です。
やもめの彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。唯一つ、正義の神様がいます。このお方が必ず正しいことを通して下さる。この信念があります。パウロはコリントの第2の手紙12章9節でこう書いています。
「私の力は弱いところに完全に現れる。」彼女が持っているもの、この状態は決してあるべき姿ではない、という確信です。
主の祈りにあります。「御心の天になる如く地にもなさせ給え。」という祈りです。彼女はただこの祈りを持って悪い裁判官に立ち向かいました。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きて行けないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。いかなる権力にもひるまず、訴えている。その根底には実にそのことが自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけでは生命の問題とはならないのでう。裁判官は長いこと彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。
この純真な要求は聴き入れられない。幾度も、幾度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もし、この要求が生命の問題にまでなっていなかったら、途中であきらめるか、自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官はなぜ聴き入れようとしないのか。それは、「神を畏れず、人を人とも思わないからです。正義の感覚など、微塵も持ち合わせていないからです。」この裁判官がついに聴き入れたのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけでは悪魔に対抗することは出来ません。悪魔はいつも、もっと巧みな理論を用意しています。
そこに、しばらく聴き入れない期間があります。そのような期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。(※裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。)私たちの祈りも神様にすぐ聴き入れられない期間というものがあります。そういう時があるのです。裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし、今その裁判官がその後自分自身で言いました。「私は神を畏れないし、人を人とも思わないが、このやもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。そうすれば、とことんまでやって来て私を苦しめることがなくなるだろう。」
イエス様のたとえ話は5節までです。そうして6節で主イエスは即ち言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい。」イエス様は問われます。「彼の言うことを聞きましたか。」他でもない、この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをする、と言うのです。その不思議な事実を聞くのです。ここでは、極悪の地上の裁判官が正義の神になぞられているのです。では、何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは悪い裁判官がついに正義の神の裁判を行うという不思議な事実をです。
この裁判官は依然として「私は神を畏れないし、人を人とも思わない。」がと念を押すように言っています。つまり、彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急にやもめの祈りを聞いて、その熱心さに涙を流して悔い改めた。」とは書いてありません。権力者の利己的な動機などは変わりません。しかし、彼は「この、やもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。」と言い始めるのです。「うるさくて、うるさくて、俺を煩わすから。」と言っているのです。
裁判官を正義の裁判官に変えることは出来ない。それは人間の仕事ではありません。しかし、驚くことに、この権力の利己主義を通しても神の正義が実現して行くのです。しかし、絶えず、ぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し、ただ、それのみによって動かされるのです。
旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々は、その苦役のゆえに、彼らの叫びは届きました。神は彼らの、呻きを聞き
アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの民をかえりみて下さいました。」
神が働いてくださったのです。
悪い裁判官が世界を動かしているかにみえます。しかし、そうではありません。人間には、その時その時でいっぱいあります。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・信仰、不信仰・・あらゆるものを貫いて、ただひとつ、神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書の箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ。」
神は夜、昼、神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや、神は速やかに裁きをして下さるでしょう。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を思い出すでしょうか、8節で問うておられる。これは、信仰の課題です。週末の時、どうなっているか、私たちにはわからない。神の遅き、というものは遅いのではない。神は速やかに裁きをされる、と約束しておられるのです。それは又、人の速さは速いのではない。
神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀の最大の神学者、カール・バルトが言っていることです。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主、イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って、今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただ、この神に基ずくのです。たとえ、天地が崩れ去るとも、崩れることのない土台の上に立っているのです。
ある時は、神は私たちから全てを奪って行くかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうかと思える。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。それは突如として与えられます。気付かないうちに、ある時突如としてです。神は必ず働いて下さる。
神様はいないか、に見えます。神は時として沈黙し給う。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うのです。それは、その民が神に選ばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて、神が御旨をなさるのです。神様の側でなさることであります。私たちは、あの貧しいやもめと共に、ただ感謝であります。
<アーメン・ハレルヤ>
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
クラスは【初級】【中級】の2つです。初級はフィンランド語が全くはじめての方向けです。中級はフィンランド語の基本を学んだ方向けです。
授業は19から20時までです。その後10分くらい聖書日課を読んだり、讃美歌を歌ったりします。
参加費 1000円
秋の予定は 10月19日の次は11月16日、12月14日です。 人数制限がありますので、申し込み順で受け付けます。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1751315724iamg@1751315724arumi1751315724hsoy.1751315724iviap1751315724
03-6233-7109
日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
聖句 テモテへの手紙二 2章13節 「わたしたちが誠実でなくても、 キリストは常に真実であられる。 キリストは御自身を 否むことができないからである。」
主日礼拝説教 2022年10月9日(聖霊降臨後第18主日)むさしの教会 聖書日課 列王記下5章1~3、7~15節、第二テモテ2章1~15節、ルカ17章11~19節
説教題「キリスト信仰のかたち」とはわかりそうでわかりにくい題と思います。「かたち」とは何ぞや?一昔前、日本のことを論じる本だったか記事だったか、「この国のかたち」なんていうものがありました。「かたち」という言葉でこの説教者は何を意味しようとしているのか?日本語で自分が何を言おうとしているのか、はっきりさせる際に自分が知っている外国語で言い換えたらどうなるか考えるのはいい訓練になると思います。英語のformではありえない。頭に浮かぶのはessenceです。「本質」とか「真髄」です。フィンランド語やスウェーデン語なら「核心」を意味するydinやkärnaが浮かびます。ところが、もし説教題を「キリスト信仰の本質」にしたらどうなるか?神学校の教授や牧師がそういう題で説教したら、信徒の皆さんは、ふんふん、なるほど、と聞き入るでしょう。私のような一信徒が同じ題を使ったら、何を大それたことを!と思われてしまうでしょう。それで「かたち」などという怪しげな言葉を引っ張り出した次第です。
それでも、この説教の原稿が出来上がってみると、やっぱりキリスト信仰にとって本質的なことについて語っているじゃないかと思いました。それで題を「キリスト信仰にとって本質的なこと」にすれば「キリスト信仰の本質」よりも低姿勢かなと思ったのですが、この日本福音ルーテルむさしの教会は説教題を前々週に知らせなければならないのでもう手遅れでした。そういうわけで、本日の福音書の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしているので、それを皆さんにお教えしたく思います。
イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北、ガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はどうしたかと言うと、その場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに体を見せに行きなさい、とだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだから、と言う通りにただちにエルサレムに向かいました。
すると出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム訪問の目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ、律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方のサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に贈って下さった神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。
本日の個所がキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしていると言う時、その本質的なこととは何かと言うと、2つのことがあります。まず、律法の規定を行って神から義とされ救われるというのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされ救われるということ。それと、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つがサマリア人の行動から見て取れます。ところで、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。なので、キリスト信仰のかたちがもう表れているというのは気が早いと言われるかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。
この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみましょう。一見するとこの言葉は、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだ、と言うべきです。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。これに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。それで、この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみることにしましょう。
マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救った(後注)」と言います。この言葉をかけられてから女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願するところです。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。
本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意します。これはギリシャ語の現在完了です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語のより少し意味が狭く、「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味が主です。それで「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今日この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。
これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?普通は、癒された時に救われたと考えます。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間的な目から見て境遇が良好であるということと同義ではないのです。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。
そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。
さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には言われませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、他の事例と同様に癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。
先ほども申しましたが、レビ記14章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないか、と思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。
ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロは罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と教えています。人間が死ぬということが、人間が罪を持っていることの表れなのです。
さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを褒めます。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要の和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったからです。先ほど見たように、モーセ律法には「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためにする「清めの儀式」がありました。実はそれだけでなく、律法には人間の罪を償って神との和解が得られるために様々な儀式とそこで捧げられる生け贄の規定が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27ー32節)。
しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10章1ー4節)。
そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので、神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、復活の日までひと眠りした後で目覚ましてもらって、神の栄光に輝く復活の体を着せられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。
こんなに大きなことを実現して下さった神はなんと素晴らしい方であることか!キリスト信仰者はこの神に心から感謝するようになり、これからは神の意志に沿うように生きようと心に決めます。神の意志は十戒に集約されています。イエス様はそれをさらに二つの掟に集約しました。神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。キリスト信仰の中で律法の作用の仕方が大きく転換しました。かつて神の意志というのは、それをすることで神から義とされ救われるというものでした。ところが、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖いだして、一足先にさっさと神との和解をもたらして下さったのです。人間は先を越されてしまったのです。そうなったらあとは、この受け取ったものを手放さないようにしっかり携えていくしかありません。
ところが、現実に生きていると、自分にはいろいろ神の意志に反する罪があることに気づかされることが起きてきます。神の意志に沿おうと志向しているので、かえって信仰者の方が神の意志に敏感になり、自分の内にある罪が気づきやすくなります。その時キリスト信仰者は、神との結びつきは弱まってしまったか、あるいは失われてしまうかと心配します。もし神がせっかくひとり子の犠牲に免じて罪を赦してくれたのに、こんなことでは復活と永遠の命に向かう道から外されて自分は行き先を失ってしまうのではと不安に陥ります。
まさにそのような時、神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこに打ち立てられて今も微動だにせずにそのままである。お前がイエスを救い主と信じているのはわかっている。我が子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦される。お前の信仰がお前を救ったのだ。これからは罪を犯さないように。」この時キリスト信仰者の心には信仰に入った時と洗礼の時の感謝が蘇り、これからは神の意志に沿うようにしなければと再出発します。この罪の自覚と赦しをキリスト信仰者はこの世の人生の間ずっと繰り返します。やがてそれが終わる日が来ます。復活の日です。ルターも言うように、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは、この世から別れて復活の栄光の体を着せられた時です。
このように、律法の規定を行って救われるということではなくて、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるということ、それと、先に救われてしまったことで全身全霊が感謝で一杯になるということ、これらキリスト信仰を形作る2つのことは本日のサマリア人の行動から見て取れます。キリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後で、キリスト信仰者はどう立ち振る舞うかを本日のサマリア人の出来事を例にして前もって教えているのです。
救われたら律法に戻らない
救われたら大きな感謝が生まれて、救ってくれた主のもとに戻る
感謝は神の意志に沿うように生きようとする心を燃え立たせる
皆さんの心がいつも神への感謝で満たされますように。
後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと健康になりなさい、とこれから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。
スオミ教会・家庭料理クラブは10月9日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。 今回はこの季節にフィンランドの家庭でもよく作られるリンゴのケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキのトッピング用の生地を作って冷やします。次に他の部分の準備。材料を計ったり、リンゴをスライスして、卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てます。白く泡立ったら他の材料を中に加えて生地を作り、それをパイ皿に流し込みます。その上にスライスしたリンゴをたっぷりのせて、さらにリンゴの上にシナモンシュガーをたっぷりかけ、トッピング用の生地ものせてオーブンに入れる準備完了。これを焼き始めます。
今回の料理クラブはお子さんと一緒に参加された方もいて、親子で可愛いエプロンをかけて一緒に材料を計ったり生地を混ぜたりして、親子が共通して何かに取り組めるひと時になりました。
ケーキがオーブンで焼けている間、子どもたちの遊ぶ声や参加者の楽しそうな会話が教会中に広がっていきました。もちろん、シナモンの香りも。
ケーキは焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのリンゴのケーキの上にバニラアイスをのせてコーヒー紅茶と一緒に味わう歓談の時を持ちました。同じ時に、フィンランドのリンゴと聖書に出てくるぶどうの木のお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月12日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
日本ではこの季節になると、お店にりんご、なし、ぶどう、かきなどいろいろな美味しそうな果物がたくさん並びます。日本で育つ果物の種類は多いですが、北欧のフィンランドでは育つ果物の種類はあまり多くなく、ベリー類を除けば、りんご、西洋なし、プラムくらいです。フィンランドの夏は短く、冬は長くて寒いので他の果物はあまり育つことが出来ません。一番多く育てられる果物はりんごです。りんごはフィンランドの南の地方でよく育てられますが、寒い北のラップランドでは育てることは出来ません。
夏私たちはフィンランドに一時帰国しましたが、今年の秋のリンゴの収穫は去年程よくありませんでした。去年は庭のリンゴの木は枝が折れそうになるくらいにリンゴで一杯でしたが、今年のリンゴは少なかったです。しかし今年も実家のリンゴを取ってそのまま食べたり、リンゴのケーキを作ったりして楽しみました。
フィンランドのりんごは日本のように大きくなく豪華な感じがしませんが、フィンランド人は自分の家の庭にりんごの木を植えて育てるところが日本と違います。りんごの木は庭の女王みたいに見られ、大事に育てられます。五月の終わりになると、木には白い花が一杯さいて、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、りんごの花が咲くのを毎年楽しみにしています。
9月になるとフィンランドの家の庭のりんごの木は赤めと緑色の実が実ります。出来具合は、はじめにも言ったように、年によって変わります。春が寒かったらリンゴの実は木に何個しかできません。そして受粉者、ハチも必要です。美味しくて虫がつかないりんごが出来るためには、ピヒラヤという木の実が関係しています。ピヒラヤの木に赤いベリーが沢山出来きる年は、美味しいりんごも沢山出来ます。しかし、ピヒラヤにベリーが出来なかったら、良いりんごも出来ません。どうしてかと言うと、ピヒラヤのベリーを食べる虫が関係するからです。もしピヒラヤのベリーがあまり出来ないと、虫はピヒラヤのベリーの変わりにりんごの中に入ってりんごを食べてしまうからです。今年はピヒヤラの実はとても少なかったので、リンゴもあまり出来ませんでした。
フィンランドではリンゴの木は3種類あって、夏リンゴ、秋リンゴ、冬リンゴがあります。夏リンゴの実は一番早く出来て、味は甘く、そのまま食べて美味しいリンゴです。秋リンゴの実は固めでジャムやジュースを作るのに用いられます。冬リンゴの実は酸っぱくて、木から採った後、何週間か地下においてから食べます。冬リンゴの実はよくクリスマスの時に食べられます。フィンランド人は自分の好みの味のリンゴを選びます。皆さんはどんな味のリンゴが好きですか。
リンゴの木や他の果物の木は美味しい実が出来るために適温、栄養、水分、日光など、適切な気象条件が必要です。木の手入れも大事です。美味しいリンゴや果物が出来るために人間はいろいろ手間をかけますが、天の神様は人間が実を結ぶことができるようにもっと手間をかけます。
聖書の中にはぶどうの木について有名な話があります。そこでイエス様は、神様やご自分について次のように教えられます。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」ヨハネによる福音書15章1節です。ここでイエス様は、私たち人間はぶどうの木に繋がっている枝であると教えられます。天と地と人間を作られた天の神様は農夫の役割をして、ぶどうの木を世話するように私たちの世話をしたり、私たちを育てられます。私たちに必要な食べ物、衣服、住まいなどを与えられます。それらは天の神様の贈り物です。しかし私たちにとってそれらは当たり前のようになっています。今世界中に起きていることを見ると、それらは当たり前ではないと思うようになるかもしれません。私たちが今持っている生活の必要な物は天の神様が与えて下さるものなのです。
同じヨハネの箇所でイエス様は次のように教えられます。「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。」ヨハネによる福音書15章4節です。リンゴや他の果物の木を育てると、栄養や水分は根や枝を通して実に入ります。そして枝は木の幹に繋がっていなければなりません。これは私たち人間とイエス様の関係のことを言っています。イエス様は、枝が木に繋がっているように私たちもイエス様に繋がるようにと教えます。繋がっていれば、どんなことがあっても大丈夫になります。
イエス様と繋がることはどのようにして出来るでしょうか?それは、天の神様の独り子イエス様のことを知って信じることで出来るのです。知って信じるとは、どういうことでしょうか? 天の神様は、ご自分の独り子、イエス様をこの世に送られました。どうして送られたのでしょうか?それは、私たち人間が神様の言われたことをしっかり守ることが出来ないからです。そのためにイエス様をこの世に送られ、イエス様は十字架の上で、私たちの罪の罰をかわりに受けてくださいました。このように神様は、私たち一人一人を愛して罪の罰を受けないで済むようにして下さったのです。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させられて、死を超えた永遠の命があることを世に示されました。イエス様を救い主と信じる者はイエス様という木に繋がる枝として人生を歩むようになります。イエス様と繋がっていると、信仰の実が生まれます。イエス様を信じる信仰の実が生まれると、本当の喜びや平安が心の中で生まれます。
私たちが食べるリンゴや果物はビタミンなど健康にも良いものが含まれていますが、イエス様に繋がってできる信仰の実は魂の栄養になります。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」ヨハネによる福音書15章5節です。
ルカ17章11-19節
2022年10月9日
(いずみ教会共同体講壇交換説教)
浅野 直樹
「誰よりも信頼できるお方」
暦は10月の第二週、いつのまにか一年の終盤にさしかかっています。教会の暦も聖霊降臨後の主日が18週となりました。終わりへと向かう暦にあわせて、きょうの福音書もそれをほのめかす一節で始まっています。
11節「イエスはエルサレムへ上る途中」とあります。イエスがエルサレムへ向かう、これは聖書では何度か出てきますが、とても象徴的なひとことと言えます。イエスにとってのエルサレムというのは、十字架を指していますので、イエスはいよいよ十字架へと向かうというということを、この言葉から聞き取るべきなのです。
エルサレムへと向かうとき、イエスはサマリアとガリラヤのあいだを通っていきました。そこで十人の重い皮膚病を患っている人とイエスは出会います。「重い皮膚病」と訳されています。口語訳聖書のときはらい病と書いてあったり、ハンセン氏病と書き換えられたりしましたが、聖書学者によるとここに出てくるツァーラートという単語は、必ずしも特定の病気に限定することはできないということで、「重い皮膚病」という訳になっています。最も新しい訳の教会共同訳では、ちょっと奇妙な訳になっていて「規定の病」と訳されていました。訳する人たちがこの一言にとても悩まされ、苦肉の策で訳したんだろうなと思えます。
12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま」とあります。遠方から立ったままイエスを出迎えたのです。近づいてはいけない、近づいたら感染してしまうと思われていたので、彼らは遠くにいたのです。イエスの時代がそうだっただけでなく、近代の日本でも、らい病についてはそういうふうに言われ続けてきました。そこから差別や偏見が生まれました。けれども今はほとんど感染しないことがわかっています。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。彼等は遠くのほうから声を張り上げて懇願しました。イエスはその人たちを見るとひとことこう言います、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。「治れ」と言葉をかけるとかはいっさいなく、ここにあるのは、ただ「祭司に体を見せなさい」でした。そして彼等十人は、イエスのいうとおりにしようと祭司のところに出かけていく途中で癒されたのです。聖書には「清くなった」というルカの言葉を記しています。ただれた皮膚がきれいになったということでしょう。イエスによって癒しの奇跡が起こったのです。
ここでわたしたちの疑問は、なぜイエスは「祭司にみせなさい」と言ったのかです。当時のユダヤ社会では、ユダヤ教の議員、祭司、律法学者といった人たちというのは、一般庶民からしてみれば絶大な権力者でした。神様のことをいちばんよく知っていて、いちばんちゃんととそれを守って、そしていちばん神様に対していちばんきちんとしていた人たちだったのです。いわば神様の代理人。なんでもできる人、なんでもわかっている人なのです。医者であり、弁護士であり、大学の教授なのです。
祭司もそうした権力者の一人でした。祭司に見せて祭司が皮膚の状態を確認し、「治った」と宣言すれば、それが診断書となり、完治した証拠になったのです。ですからイエスはこのように言ったのです。
まだ皮膚がただれて治っていない状態のとき、彼等はイエスに、「わたしたちを憐れんでください」と願い出ました。病人の「憐れんでください」は、「私の病を癒やしてください」と同じです。まだ癒やされていない、そういうタイミングでイエスは、「祭司に体を見せなさい」と言うのです。まだ良くなっていないと思っている段階から、イエスさまはもうすでに「あなたがたは癒やされた」と言っているのです。このことはとても大切です。なぜならここに信仰の実態がよく表れているからです。信仰を持つ、洗礼を受ける、そして教会生活を始める。これは人生における大変化です。ただそれによって私たちの日頃の生活が大きく変わったでしょうか。悔い改めて心を入れ替えたことで、すぐ腹を立てていた自分が次の日から急に優しい性格になるかというと、そうでもないでしょう。自分が自分を知る限りにおいては、私たちはなんら変わらないのです。洗礼を受けて「あなたは救われました」と牧師から宣言される。救われたという実感は、洗礼を受けたそのときは喜びを感じることでしょう。けれどもそうした喜びがいつまでも続くわけではなく、再び普段の日常を送ることになります。日常においては救われているという実感も特にないでしょう。けれども主イエスは私たちに向かって「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」とすでに宣言しておられるのです。まだ皮膚がただれているにもかかわらず、「祭司に体を見せなさい」と宣言したように、「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」というイエスの言葉はもうすでに実現しているのです。
一人だけがイエスのところに戻ってきて、「先生、治りました」と感謝の言葉を伝えに来ました。ほかの九人もおそらく治ったのでしょう。けれども喜びと感謝の応答をしたのは一人のサマリア人でした。皮膚病が治ったとしても、ユダヤ人にしてみれば近づきたくないサマリア人だけでした。ここからもう一つの出来事が始まります。
彼らは皆癒されました。全員が祭司のところに行って皮膚が清くなったことを見せた、はずです。そして治ったことの証明をもらったのです。イエスは、治ったら私のところに戻ってきて神様を賛美するように、などと言ってはいません。戻って報告に来なかったからといって、別に責められるわけでもありません。ただ18節をみると、「この外国人のほかにはいないのか」と言っているので、ユダヤ人がだれも戻って来なかったことをイエスが残念がっている様子が伝わってまいります。
注目はサマリア人に集まります。皮膚病が癒されても、ユダヤ人からすれば穢れていると偏見の目で見られていたサマリア人です。イエスの足許に彼はひれ伏して感謝をしました。ひとえに嬉しかったからです。そのとき彼は自分がユダヤ人から差別を受けているとか、嫌われた民だということもすべて忘れていたのではないでしょうか。ただひとえに癒された喜びを素直に表して、それがイエス様のところに戻ってきて「ありがとうございます」という言葉となったのです。その喜びの大きさはどれほど大きかったことでしょう。
イエスはサマリア人にこう言いました、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」このように聞くと、サマリア人にはイエスをきちんと信じる信仰があったのだ、そんなふうに思えてきます。わたしたちが信仰というとき、それは聖書を読んで学んだことがあるとか、主の祈りを言えるとか、使徒信条をちゃんと唱えることができるとか、そんなことを考えるかもしれません。信仰という日本語が、そういうふうに思わせるのです。新しい聖書協会共同訳でも同じです。「あなたの信仰が」となっています。
ところがもうひとつの聖書があって、これはもう少し聖書学的見地を重視した聖書で、岩波書店が訳した新約聖書というのがあります。それをみるとちょっと違っていてこう書いてあります。「あなたの信頼が、あなたを救った」。信頼という言い方だと宗教的なニュアンスがそれほどなく、少し違った見方ができます。サマリア人にとっても聖書は大切な書物であった点は同じですが、聖書をどこまで読み込んで理解しているかとか、どういう解釈をしているかということよりも大切で見落としてはいけないこと、それはこのサマリア人がイエスのことをとことん信頼していたということなのです。「イエス様、どうか私を憐れんでください」と真剣に願い、大声で神様を賛美して、イエスの足許にひれ伏す姿から、サマリア人がイエスを心底信頼していたのだとわかります。
誰よりもサマリア人を受け入れるイエス、そして誰よりもイエスを信頼し感謝をささげるサマリア人。この両者の在り方のうちにこそ、信仰とは何かが表れています。形式ではなく、血筋でもなく遺伝でもなく、はたまた社会の常識やしきたり、特定のものの見方ではありません。無条件に受け入れていくイエスの愛に信頼すること、それが信仰です。そのイエスを素直に信頼する心が、私たちを主イエスと結びつけてくれるのです。
聖句 テモテへの手紙二 1章10節 「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」
テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」
聖書箇所 ローマ10章1~11節
1.はじめに
ローマ10章9~10節でパウロは「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公けに言い表して救われるのです。」と言います。これをどのように理解したらよいでしょうか?9月25日の聖書研究会の質疑応答の時、これは迫害を前にした時のキリスト信仰者の心構えと理解できるという意見がありました。私は、ここは、律法を行うことで神から義とされ救われるというユダヤ教の伝統から決別した信仰の有り様を表現していると教えました。迫害の心構えの役割を持つようになったことは否定しませんが、それは後のことで、パウロがこれを記述した時点では、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様であったということを以下に見ていきます。
2.10章4節
新共同訳では「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」とあります。「目標」と言っているギリシャ語の言葉テロスの意味は「終わり」とか「終着点」です。それで、
「キリストは律法の終わり/終着点です。信じる者全てに義がもたらされるための」となります。「律法の終わり」とは、律法が廃棄されるとか消滅することではありません。ローマ3章から7章までを振り返ればわかるように、「律法の業を行うことで神から義とされる」という有り様が終わりということを意味します。このようにこの節は前に述べられたことが凝縮されています。これを踏まえないと後に続く箇所がわからなくなります。
3.10章5~8節
新共同訳では「(5)モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。(6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。(7)また、「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。(8)では、何と言われているだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
「キリストを引き降ろすことにほかなりません」と聞くと、キリストを引き降ろしてはいけないと言っているように聞こえます。キリストは天にいなければならないのだと。これはその通りかなと思わせますが、「キリストを死者の中から引き上げることになります。」はどうでしょうか?キリストを死者の中から引き上げてはいけないと言っているように聞こえ、キリストは死者の中にいなければならないような感じがします。これは完全におかしいです。この5~8節が正しく理解できないと、問題の9~10節も理解できません。
5~8節の理解には、パウロがここで土台にしている申命記30章11~14節を見ないといけません。
申命記30章11~14節(新共同訳)
(11)わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
(12)それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない.
(13)海のかなたにあるものでもないから、「誰かが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
(14)御言葉(※)はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
※ ヘブライ語のダーバール。意味は「言葉」の他に「もの事」、「事柄」、「出来事」です。ここでは神の戒め、律法を指すことは11~13節を見れば明らか。
この申命記の個所で、律法は遠くにない、とても身近にある、口と心にある、だから行える、それ位身近にあるということを言っています。一つ注釈すると、ヘブライ語の原文は「行うことができる」ではなく、「行うことができるように口と心にある」が正確です。新共同訳は少し楽観的かなと思います。
この申命記の個所を土台にすると、ローマ10章5~8節で、キリストを引き降ろすとか引き上げるとか言っているのは、キリストは引き降ろすには及ばない位に身近にある、引き上げるに及ばない位に身近にあるという意味であることが分かります。それでその個所をギリシャ語原文に忠実に訳すると以下のようになります。
(5)モーセは律法に由来する義について次のように書いた。
「律法の掟を行う人は掟によって生きることができる。」(レビ18章5節)
(6)しかし、信仰に由来する義は次のように言う。
「心の中で『誰が天に上がっていくことができのか?』などと聞いてはいけない。そんなことを言うと、キリストをそこから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)
(7)また、『誰が深い所に下って行くことができるのか?』などと聞いてもいけない。そんなことを言うと、キリストを死者のところから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)
(8)そんなことではない!(申命記に)何と言われていたか?
「御言葉(※)はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。」
すなわち、これが私たちが宣べ伝えている信仰の言葉(※)なのです。
※「御言葉」も「言葉」も両方ともギリシャ語のレーマです。「言葉」なのに有名な「ロゴス」でないことに注意。レーマの意味は広く、「語られた事」から転じて「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「物事」、「事柄」の意味を含みます。パウロは申命記30章14節のダーバールにこのレーマを当てはめました。というより、旧約聖書のギリシャ語訳で既にレーマと訳されていたのです。
「御言葉はあなたの近くにあり」の「御言葉」は何を指すか?6~7節から明らかなように「キリスト」です。パウロは6~9節で、「キリスト」と「イエス」を使い分けています。「イエス」と言うと、地上にいた時のイエス様の意味になります。「キリスト」と言うと、十字架と復活の業を遂げて今天の父なるみ神の右に座して将来再臨する方という意味が強くなります。
この「御言葉」は、「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「事柄」なので、キリストそのものを越えてキリストが十字架と復活の業によって成し遂げた贖いを含みます。それを象徴するものとしてのキリストです。そのキリストの贖いが申命記の律法に代わって、口と心にある位に身近になったのです。大きな入れ替えかもしれませんが、言葉上はダーバールがレーマという同義語に代わっただけになっています。
そこで、8節終わりの「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」について。この「言葉」は先ほどの「御言葉」と違います。「御言葉」はキリストとその贖いを指しました。ここの「言葉」、これもレーマですが、なんの「事柄」でしょうか?
新共同訳のように「信仰の言葉」とすると、前にある「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」が「信仰の言葉」になります。そこで、これを「信仰の事柄」とすると、「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」は「信仰の事柄」ということで、「信仰の内容」とか「信仰の有り様」ということになります。つまり、「キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある」というのが信仰の内容、信仰の有り様になるのです。
「私たちが宣べ伝える信仰の言葉」はまた、「私たちが宣べ伝える事柄すなわち信仰」とも訳せます。そうすると、「『キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。』これが私たちが宣べ伝えている事柄すなわち信仰なのです。」この場合も、キリストの贖いが口、心の中にある位に身近にあるというのが信仰の有り様であることを言っています。
4.10章9~10節の理解
以上のように8節は、イエス・キリストの十字架と復活の業による贖いが洗礼を通してキリスト信仰者の内に注がれて口と心の中にある、それ位身近にあることが信仰であると言っています。あとは、キリストの贖いをそのまま口や心の中に留めて身近なものにしていれば救われるのです。口にあるからそれを公けに言い表すのは自然なこと、心の中にあるから心で信じているのは自然なことなのです。言い表すことと心で信じるということは口や心の中に留めていることなので救われていることなのです。これが9節の意味です。10節はユダヤ教の伝統から決別したことを念頭に置いて見たら次のように言い換えることが出来ます。「かつて律法を行うことで人は義とされ救われるとされていたが、キリストが贖いを成し遂げて洗礼が設定されてから以後は、人は心で信じ口で公けに言い表して義とされ救われるのである。」
5.終わりに
以上、ローマ10章9~10節は、申命記に照らし合わせて見ていくと、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様を言い表していることが明らかになったと思います。この大転換は、パウロが手紙を書いた当時の人たちだけではなく、その後の時代の人たち、現代を生きる私たちにとってもキリスト信仰を理解する大事なポイントであり続けていると思います。
それから、この個所が迫害を前にした心構えになるということについて。パウロがローマの信徒たちに手紙を書いたのは西暦50年代です。皇帝ネロの治世の西暦64年にローマで大火災が起こり、キリスト教徒が犯人扱いされ大きな迫害が起こりました。伝説によれば、パウロの殉教はこの迫害の時とも言われています。キリストの贖いが口と心の中にあるのが信仰であるという教え、そして、その口にあるもの心にあるものを言い表しつつ信じることで、律法がなしえなかった義認と救いを得られるという教えは、迫害を前にしたパウロ本人をはじめ、この手紙から学んだローマの信徒にとって心構えになったのは間違いないでしょう。
現代を生きる私たちも、このユダヤ教の伝統からの大転換をわかった上で、口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じると、本当にキリストの贖いが口と心の中にあるというふうになるでしょう。(了)