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説教「イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の信仰」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書23章33-43節

主日礼拝説教 2022年11月20聖霊降臨後最終主日
聖書日課 エレミヤ23章1-6節、コロサイ1章11-20節、ルカ23章33-43節

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.メシアと神の国

 本日の福音書の個所はイエス様が十字架にかけられた場面です。イエス様の両側に犯罪人が二人、一人は右側に、もう一人は左側に十字架にかけられました。三人とも五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。後は息を引き取るのを待つだけです。真に残酷な場面です。

 犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。イエス様の十字架の上には「この男はユダヤ人の王」という札が掲げられていました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていローマ帝国の官憲にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとなこうなるぞ、という具合に。

 このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られていたのです。ところが当時、このような民族解放と王国復興の期待について少し異なる期待の仕方もありました。どんか期待の仕方かと言うと、復興される王国というのは、民族自決国家というようなこの世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わって新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。それは、この地上の有り様を飛び越え新しい有り様の世のことです。さて、地上の国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代のユダヤ民族にはこの世的でない超越的な王国とメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない数多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国が地上の国ではなく将来の新しい有り様の世であることをはっきりさせたのです。

 イエス様を罵った犯罪人は、イエス様のことを地上の王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったと思われます。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのでしょう。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様の方は「あなたの御国」、つまりイエス様が王である国にイエス様が入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上の国ではない、今の世を超えたところにある国であり、イエス様はその王であると信じたのです。つまり犯罪人は超越的な国とメシアの存在を信じたのです。

 それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかという疑問が起きます。なんだか苦しみを和らげるための気休め言葉か、イエス様みたいに権威のある方が言えば、苦しみの中にあっても耐えられるありがたい励まし言葉ということなのか?そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園にいることになる、と言っているのです。息を引き取ってこの世から別れたら一緒に楽園にいることになる、ということです。

 そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあって、神以外誰も知らない将来の時、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、イエス様の再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?そういうプロセスを経て天の御国に入ることが出来るのではなかったのか?今日中に楽園にいることになると言ってしまったら、プロセスはなくなってしまうのではないか?

 この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。それなので、イエス様が今日中に楽園にいることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので間違いではありません。

2.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言

 イエス様に「私のことを思い出して下さい」という犯罪人の言葉ですが、これはよく目を見開いて何度も読んでみると、これはキリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白それに信仰者が受け取る罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。

 最初の犯罪人がイエス様を罵った時、彼は諫めて言いました。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。」この訳は不十分です。ギリシャ語原文を忠実に見るとこうなります。お前がこの方と同じ罰を受けているからという理由で、この方をお前と同等に扱うようなことを言うなんて、お前はなんと大それたことを言うのか、お前は神を恐れないのか、という意味です。ユダヤ教社会の指導者たちもローマ帝国の兵士たちも、イエス様に対して「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と繰り返し言っていました。この犯罪人はイエス様に対して「自分を救ってみろ」だけではなく、「自分と俺たちを救ってみろ」と、自分たちのことも入れたのです。

 これに対してもう一人は、それは間違っている、神を冒涜することになると否定したのです。なぜなら、自分たちは犯罪を犯して刑罰を受けて当然の報いを受けている、しかし、イエス様の場合は何も悪いことをしていないのに自分たちと同じ刑罰を受けている、だから同等に扱うのは間違っているというのです。そして、その犯罪人は、イエス様がこの世の王国を超えた新しい世の王であると信じています。別の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世の王国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、こっちの犯罪人は、イエス様は新しい世の王でもうすぐそこに入ることになると信じています。イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われている。イエス様のことを自分たちのように本当に犯罪を犯して罰を受けている者と同等に扱うのは神を冒涜することになる、と。

 この犯罪人にはイエス様が王として新しい世の国に入ることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこのような言葉をかけて下さる方がおられるというのは何と勇気づけられることでしょうか!

 この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。方や犯罪人、方やキリスト信仰者、果たして同じと言えるのか?疑問を抱く方がおられるかもしれません。同じだとわかるために、ここで少し罪と罰の問題を考えてみます。キリスト教は罪を赦すと言っているから、犯罪を犯しても罰を与えないということなのか?それでは犯しても構わないということにならないか?などと聞く人がいます。そういうことではありません。神は十戒で殺すな、盗むな等々と命じています。それらは神の意志なのでやってはいけないこと、許されないことなのです。やったら神の意志に反したので罰せられることなのです。

 社会の法律が罪や罰について規定する時、それは人間が人間に対して行った罪についてです。人を傷つけたら、それは人間に対して罪を犯したことになり、法律が想定している社会の安定を損ねたことになります。それに対して賠償なり刑罰が課せられます。課せられる賠償や刑罰の大きさは社会によって異なり、何が妥当かについて議論は絶えず起こります。キリスト信仰の場合、罪は人間に対して犯したというだけでなく、人間に対して犯したことを通して神に対して犯したということが出てきます。神に対する罪の罰は神罰です。神罰とは、人間が造り主である神と切り離された状態でこの世を生きなければならないということです。そして、この世から別れた後は切り離された状態が永遠のものになってしまうということです。

 社会の罪と罰とキリスト信仰の罪と罰の違いについて、神に対する罪ということの他にもう一つ重要なことがあります。それは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の神の掟は、行動だけでなく心の中でも破ったら、同様に神に対して罪を犯したことになり神罰の対象になるということです。法律の規定だけでしたら、人間に対する罪は行動や言葉で現れるものが罰の対象になります。キリスト信仰の場合は心の中で神の意志に反するものを抱いたら、それでもう神罰の対象になるのです。人間は心の中まで見通せないので法律をもってしても心の中にあるものを罰することはできません。キリスト信仰では神は人間を造られた方なので心の中も全てお見通しです。神の意志に反することが心の中にあれば、それも罪になり神罰の対象になるのです。

 しかし、人間が神罰を受けることは神の御心ではありませんでした。神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげたい、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげたいと思いました。それを可能にするためにひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、人間のために永遠の命に至る道を開かれたのです。

 そこで人間が、これらのことは本当に起こったことだ、それでイエス様は自分の救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きていくことになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままなので、復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。

 ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中に神の意志に反するものがいつも渦巻いています。それに気づいた時、キリスト信仰者は失望したり不安に陥ったり時には絶望しそうになります。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の壮大な計画によってあの十字架が歴史上に打ち立てられた以上は、あの方は自分の救い主であり続け、神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もう失望や不安や絶望に浸る必要はないのです。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世の道を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味しています。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、神の罪の赦しのお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。

3.神の祈りの学校

 本日の福音書の個所は、犯罪人が息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けたという出来事です。それに関連して、ある方が言われたことを思い出しました。その方はキリスト信仰者ではないのですが、ミッション系の学校に通ったことがあり、聖書のこともよくご存じの方でした。ある日、その方に洗礼を受ける考えがあるか尋ねたところ、自分は死ぬ寸前にイエス様助けてと言うからそれで十分、今は縛られないで生きていたいということでした。確かに、本日の福音書の個所の犯罪人の例があるので、最後の瞬間の前にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性も否定できません。しかし、ここには考えなければならないことが二つあります。

 まず、洗礼を受けると聖霊が授けられるということがあります。少し別の言い方をすると、洗礼によって聖霊が常駐するようになるということです。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけですと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけですと、イエス様のことを、自分がこの世と次に到来する世の双方の世を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の立場です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。

 もう一つ問題点があります。それは、「神の祈りの学校」の生徒としての研修期間がなくなってしまうということです。「祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間で口にされる言葉の一つです。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならなずに失望や挫折もあるかもしれない、しかし、そういうことを通しても神は人間の願いよりも大きなことを教え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。研修期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば本当に何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

11月のスオミ教会・家庭料理クラブは12日、晩秋にしては暖かい陽気の中で開催しました。今回は「オーツのリング・パン」Reikäleipä とそれにあわせてサーモンスープも作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、パンの生地を作ります。生地をよく捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵をさせます。生地はあっという間に大きく膨らみました。パンを形作るタイミングです。生地を三つに分けて皆で一生懸命に丸めて、手とめん棒で平らに伸ばして真ん中に穴を開けます。鉄板にリングパンをきれいに並べて二回目の発酵をさせます。

パンを発酵させている間にサーモンスープの準備に入ります。野菜の皮をむいてレシピ通りに切ります。もちろんサーモンも。サーモンと野菜を鍋で煮込み始めて、発酵したリングパンをオーブンに入れます。少し経つと教会の中はサーモンとディル、焼きたてパンの香りで一杯になりました。

出来上がったサーモンスープをお皿に盛りつけ、焼きたての香ばしいパンにマーガリンを塗って、一緒に頂きます!サーモンスープは味付けも上手くできて皆さんおかわりもされて、お鍋は空っぽに。スープとパンを味わいながら、フィンランドの70年代の有名なテレビドラマ「嵐の岬のマイヤ」の主題歌を皆さんで聴き入りました。その後で、フィンランドのパンや聖書に出てくるパンの話についてのお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回は待降節(アドベント)の期間の12月10日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話2022年11月12日

今日皆さんと一緒に作った「リング・パン」Reikäleipäはフィンランドの伝統的なパンの形の一つです。このような「リング・パン」は私の実家があるフィンランドの西の地方では普通に作られました。私の母や祖母もいつもこの形のパンを作りました。母や祖母が作ったパンは普通はライ麦のパンでしたが、今では生地にオートミールや大麦や野菜などを入れるようになってパンの種類はどんどん増えました。このようなパンは健康にもよいのです。

フィンランドではパンは昔から毎日の食事の一部でした。今は消費が減ってきましたが、それでもフィンランド人の食事の中でパンはまだ重要な食べ物です。例えばフィンランドではパンは栄養価の高い食品として推奨されます。また、フィンランドでは毎年9月に「パンの週」と呼ばれる行事があります。その週は学校やお店でパンが健康に良いことが宣伝されます。「パンの週」には毎年テーマもあります。今年のテーマは「パンはどこで育つか?」というテーマでした。テーマの意味は、今パンを家で作らずに店で買うようになったフィンランド人に原料の麦を作ることや粉にするまでのプロセスを知ってもらうようにすることでした。人々が食物連鎖の意味やその重要性をもっとよく分かって国産の食料品の価値も高めるという狙いもあります。今年は学校でも「パンはどこで育つか?」という絵の教材を通して麦からパンになるまでの段階を教えたりしました。パンを自分で作っていた昔の人にとって、そうしたことは当たり前のことでした。

今年の夏に私は一つの小説を読みました。その小説は1800年代後半のフィンランドの西にある多島海に住んでいた漁師の家族の生活についてでした。小説の名前は「嵐のみさきのマイヤ」です。「嵐のみさきのマイヤ」はテレビドラマにもなり、主題歌はとても素敵な曲でした。小説の主人公はマイヤという女性です。この小説の中でもパンの重要性がよく出ていたので、それを少し紹介したいと思います。

マイヤの家族が住んでいる多島海の土地は不毛で麦などの食物を育てるのは簡単ではありませんでした。その上に天候の影響で収穫が少ない不作の年もよくありました。マイヤの家族には子どもが四人もいてパンの為の麦は足りるかどうかという心配がよくありました。家族の生活は貧しかったでしたが、パンを作る日は皆にとって大喜びの日でした。その日、子どもたちは蒔きオーブンの近くでパンが焼きあがるのを目をキラキラさせて待ちました。温かい焼きたてのパンの上にバターを塗る時はとても幸せな気持ちになりました。その時お母さんのマイヤは喜びに溢れていつも天の神様に感謝の祈りをささげました。

マイヤは一生懸命に家族が幸せになる為に働きました。しかし、作物が不作の年にはパンを焼く日は少なくなり、子どもたちに古くなった固いパンしか食べさせられないのは辛いことでした。そのような時でもマイヤは神様の助けがあることを信じて祈りながら働き前向きに生活していました。マイヤは、パンは神様が与えて下さるものと分かっていたのです。それは、聖書の中にパンについての教えが沢山あるからです。

旧約聖書の「列王記上」の17章にある、預言者エリアとやもめの話はその一つです。昔イスラエルに雨がずっと降らなかったため、麦が育たず、多くの人々は飢えに苦しんでいました。その時、一人のやもめは息子と一緒にとても貧しい生活をしていました。預言者エリアはやもめのところに行きました。やもめには小麦粉一握りと油少ししかなく、これはパン一回分の材料でした。やもめは、これを食べたら息子と死ぬのを待つしかないと思いました。

CC2.0, 著作権 Lawrence Lew, OP

はじめにエリアはやもめに「水をくださいと」お願いしました。やもめが水を持ってくると、今度は「パンを一切れ持って来て下さい」とお願いしました。息子と自分のための一回分のパンの材料しか持っていなかった女性はエリアのお願いを聞いて怖くなったでしょう。残りの小麦粉と油でパンを作って、それを渡したら、もう自分たちのパンは無くなってしまうからです。

しかし、エリアはやもめに「心配しなくてもいい」と言い、最後の小麦粉と油でパンを作って持ってくるように命じました。そして、その後で彼女と息子のためにパンを作りなさいと言ったのです。やもめは、なぜそのようにしなければならないのか、と聞きました。エリアが答えて言いました。「天の神様が、『私が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることはなく、瓶の油もなくならない』とおっしゃって下さったのだよ。」これを聞いたやもめはどうしたでしょうか?彼女はエリアの言うことを信じてその通りにしたのです。すると小麦粉と油は本当になくならず、やもめと息子とエリアの3人にずっと足りたのです。このようにやもめは神様の言葉を信じて、やもめと息子は神様から命をいただいたのです。

私は、この話を読んだり聞いたりすると、いつも不思議な感じがします。これは神様が私たち人間にできないことをする奇跡です。神様はどうしてこの奇跡を起こしたのでしょうか?私は、それは神様はこの奇跡を通してどれだけ人間を愛して守って下さるかを示そうとしたのだと思います。神様はいつの時代の人々も、現在の私たちのこともみんなご存じで私たちを見守ってくださる方です。神様の愛はイエス様の十字架の出来事で一番よくあらわされています。神様の人間に対する愛は、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない」と言うように、いつまでも続くものです。

パウロは新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の中で神様の愛について次のように教えています。「誰が、キリストの愛から 私たちを引き離すことが出来ましょうか。艱難か。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」8章35節です。その答えはこうです。何があっても、どんなことが起こっても、「私たちの主キリスト・イエスによって示される神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」8章39節です。

神様は、約束されたようにいつも私たちを守って下さいます。このことを忘れず日々を感謝の気持ちを持って過ごしていけたらと思います。

11月16日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」

聖句 ヨハネによる福音書 11章25ー26節

イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、
決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

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宣教師の週報コラム  「恵み」という言葉について

ギリシャ語のカリスの日本語訳「恵み」という言葉は、父なるみ神や主イエス様を言い表す時に最も使われる言葉の一つです。それは一体何を意味するのでしょうか?

フィンランドやスウェーデンで教会生活を送った者として、日本語の「恵み」には違和感があります。意味がとても広すぎるからです。フィンランド語やスウェーデン語の「恵み」に相当する言葉アルモ、ノードは、罪や過失を帳消しにする赦しを意味する言葉から派生しています。それなので、二国の言葉では「恵み」は、神からいただく罪の赦しのお恵みという意味が強く出ます。例えば、日本語で「自然の恵み」などと言いますが、フィンランド語とスウェーデン語のアルモやノードを使ってそんな言い方はできません。また、長い日照りの後に雨が降ると、日本では「恵みの雨」とか言って神に感謝しますが、そういう言い方は考えられません。

アーロンの祝福で「主があなたを恵まれるように」と言いますが、フィンランド語やスウェーデン語では「主があなたに赦しを与えて下さる方でありますように」という言い方をします。

日本語の「恵み」の意味は広すぎるだけでなく、意味をはっきりさせずに乱発していると思います。例えば、第二コリント6章の有名な聖句「恵みの時に私はあなたの願いを聞き入れた。今や、恵みの時、」。正しくは「私の心に適う時に」です。ギリシャ語原文には、カリスはありません。

パウロが手紙でよく使う挨拶言葉、「神と主イエス・キリストから『恵み』と『平和』があなたがたにあるように」はどうでしょうか?物心双方不足ない位に恵まれて平和な世界で暮らせますように、ということでしょうか?そうではありません。神から、罪の赦しのお恵みと、赦されたことで神と平和な関係を築けたこと、これらが失われないように、という意味です。

2022年11月13日(日)聖霊降臨後第13主日 主日礼拝

「イエスの神殿崩壊預言」 2022年11月13日

木村長政 名誉牧師

聖書 ルカによる福音書21章5~19節

<私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。>アーメン

今日の聖書は、イエス様の預言と弟子たちへの警告の話です。イエス様はご自分の十字架の死が近づいて来たことを、だんだん深刻に感じ始めておられます。どうしても、今弟子たちに大切な事を伝え、弟子たちがその使命に耐えて行けるように訓練と警告を告げられています。そこで、ユダヤ教の最大のシンボルであり礼拝の場である神殿へイエス様は毎日のように行って弟子たちに教えておられます。ルカ19章47節に「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の祭司長、律法学者たちが総力をあげて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と高価な装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見たいたのでした。そこへイエス様が来られて言われた。6節に「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」この頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いて弟子たちはびっくりしたでしょう。更に7節には「彼らはイエスにたずねた。『先生、ではその事はいつ起こるのですか。またその事が起こる時にはどんなしるしがあるのですか。』」と問うています。イエス様にたずねた彼らというのは実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が密かにたずねた」、と記しています.イエス様は最も信頼している四人の弟子に預言されている、このことは秘密の様式であったらしいのです。何故かと言うとこの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司長たち、律法学者たちでした。ルカ19章の終わりのところには、「祭司長たち、律法学者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で今イエス様がやがてこの神殿はことごとく破壊されてしまうなどと予言されたことは、もう大変な事でした。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに秘密裏に告げておられるのです。祭司長たち及び律法学者たちは何とかイエスの言葉尻を掴んで捉えてやろうと次々に難問を吹っかけてきています。特にルカ19章の終わりの方45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出してしまわれた。」とあります。この事件以来彼らはますますイエスを殺そうと息巻いています。境内で商売をさせて、陰で金を儲けていたわけですから、そうとう頭に来ているわけです。彼らに対してイエス様は外側は立派に見えている神殿も粉々に破壊されるぞ、と預言されているのですから、ここに真っ向から激突する時が切迫しつつあるのです。このような、激しい危機的状況の中で弟子たちは、これから大切な福音の担い手となって世界へ向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくための訓練と警告を告げておられるわけであります。更には弟子たちが想像もしていなかった終末が来る、その直前に大変な苦難と迫害がくることも預言されているのです。考えてみますと、イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機的状況は現在の私たちの世界の危機的状況でもある、と言えるでしょう。まず、新型コロナウィルスが流行し想像だにもしなかったスピードで世界中に蔓延して行きました。何百万人という人が死ぬという、ひどいウィルスです。色々型を変え未だに収まりません。それから連日テレビ、新聞などで報道されているウクライナ侵攻の戦争が起こって未だに続いています。恐ろしい事は、ロシアとウクライナだけの戦いではなく、背後にウクライナを応援しているアメリカを始めヨーロッパの民主国家が一つになってロシアと世界戦争にまでなってしまうことの懸念です。更には核爆弾という一瞬にして何百万何千万の人々が死んでしまう、それによって地球上の放射能汚染によるあらゆる生き物まで死滅し続けて行く、世の末が起こってしまうのではないか、まさに世紀の危機に直面している時代です。イエス様の神殿崩壊の預言は歴史の中で事実となって起こってしまいました。

紀元70年ローマ帝国によってエルサレム神殿は包囲され神殿はことごとく破壊されました。(ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトスによる記録もあります。)弟子たちはイエス様の預言と実際の滅亡となって行く過程のすべてを苦しみ味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前にどんなことが起こりますかとイエスに問うた時、イエス様は10節以下にあるように、具体的に起こる事を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対し立ち上がる。そして大きな地震が起こり、飢餓や疫病が起こり恐ろしい天体現象が現れる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には、人々はあなた方に手をかけ迫害し、会堂や牢に引き渡す。私の名のために、王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族、友人にまで裏切られる。また、私の名のために、あなた方はすべての人に憎まれる。」とあります。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きて行くかを示されます。「イエス様の名を名のる偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。主の前に出されたら、それは証しする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と智恵は与えられるから大胆に語れ、臆する事無く勇気を持って語れ。」と言われる。やがて、イエス様の十字架の死後、弟子たちはどうしたか、と言うと一丸となって祈り、聖霊の力が注がれて、数々の迫害に会っても死に物狂いで戦って行ったのでした。

26節には「人々はこの世界に何が起こるのか、と怯え恐ろしさのあまりに気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされて恐怖に落ちてしまう。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間のいかなる力も科学の力も機械の力も、なすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうすることも出来ない。毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加で海面が上がり町の大半が水浸しとなってしまう、こうした事が起こっています。地球全体の規模で大異変が現実に起きている中、人間の力は無力です。それは、全能の神の怒り、罰が下されているのでしょうか。エルサレムの滅亡は地上に住む国々の民に対し、終わりの日の警告であり、人類の大いなる艱難の日であります。「しかし、エルサレムの滅亡をもって、直ちに世の終末が来るのではない。」とイエス様は言われます。エルサレムの滅亡によって、ユダヤの民が、神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音はキリストの弟子たちによって、広く世界へ、異邦人へと向かって行く。全世界へと福音が宣べ伝えられる時代が始まる。エルサレムの滅亡はこの意味において、大きな時代の一大転換期であり、人類の歴史の重要な一段階であります。マタイによる福音書の方を見ますと、24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国の、この福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」とあります。神の選びによって導かれて来た神の強力な力はユダヤ人の主導的地位から失われ、それから後は異邦人によって神の救いの道は移り、救われるべき異邦人の数の満ちるに及んで人の子が来る。(その様子はマタイ24章29節以下にあります。)世の終わりが来て、キリスト再臨による大いなる審判が行われる。(マタイ福音書25章31節に記されています。)そうして、全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神の御心のままに全てはなって行くのであります。

 <人知では、とうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いをキリストにあって守るように。> アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

11月9日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」

聖句 コリントの信徒への手紙二 6章8ー10節

「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
人に知られていないようでいて、よく知られ、
死にかかっているようで、このように生きており、
罰せられているようで、殺されてはおらず、
悲しんでいるようで、常に喜び、
貧しいようで、多くの人を富ませ、
無一物のようで、すべてのものを所有しています。」

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スオミ教会・子ども料理教室の報告

スオミ教会の子ども料理教室は曇り空の11月5日に開催しました。今回は、幼稚園の小さなお子さんから小学校6年生の子どもたちまで、 お母さんお父さんも一緒に参加して、 教会の集会室はぎやかな雰囲気に包まれました。この日みんなで作ったのは、スナックマフィンです。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。4つのグループに分けて、最初にマフィン生地を作ります。生地の中に入れるパプリカとハムを細かく切り、粉類を正確に計って材料をボールに入れて混ぜます。別のボールに卵や牛乳などの材料を計ってよく混ぜてから粉類の中にかき混ぜるとスナックマフィンの生地の出来上がりです。生地をスプーンでマフィンカップに入れて、ミニ・トマトとすりおろしチーズでトッピングをします。みんな一生懸命生だったので、生地はあっという間に出来上がりました。スナックマフィンをオーブンに入れて焼き始めます。

焼いている間にテーブルを片つけて、それから少し子どもたちに遊ぶ時間が出来ました。その時台所から美味しそうな香りが広がって、スナックマフィンが焼き上がりました!もう食べたいよ、という声も聞こえましたが、マフィンを冷ます間にみんなで子供讃美歌を歌って、フランネルの聖書劇「木に登ったザアカイ」を一緒に観ました。イエス様がイチジクの木に登ったザアカイに向かって叫んだところです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まりたい。」ザアカイにとって、イエス様に出会ったこの日は人生の中で最も大切な日になりました。

2006-09-08 by MMBOX PRODUCTION, http://www.christiancliparts.net

ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。私たちもイエス様に出会うと、ザアカイと同じように大きな喜びを心の中に持てて悪いことをやめて良いことをするようになります。そんな喜びは神様が与えてくださいます。神様に感謝しましょう。

フランネル劇が終って、みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったものをいただきましょう!子供たちは食べるのに黙々と集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい、歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室はみんなで暖かい一時を分かち合うことができました。

次回の子供料理教室は12月に予定しています。詳しい案内は追ってお知らせします。どうぞ教会のHPをご覧下さい!

 

 

宣教師の週報コラム フィンランドでは「全聖徒の日」は国の祝日

フィンランドでは11月最初の土曜日は「全聖徒の日」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。 キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は昨日の11月5日でした。

その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方の人は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、それを見た日本人は、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、などと考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくrousokuまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。どうしてそんな違いがあるのかについて、本日の説教を聞けば明らかになります。

「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。

説教「聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書20章27-38節

主日礼拝説教 2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日)
聖書日課 ヨブ19章23-27a節、第二テサロニケ2章1-5、13-17節、ルカ20章27-38節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト信仰の復活について

 本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。キリスト信仰の死生観の土台と言ってもよいでしょう。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。この個所については3年前にも説教しましたが、今日は少し視点を変えて説き明かしをします。結論は全く同じです。

 ところで、復活だの死ぬだの、どうしていつも暗い話ばかりするのか、もっと現世的な明るい話題を取り上げてハッピーな気分にできないのかと言われてしまうかもしれません。誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、または自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたなと思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して前に進めなくなるということもないし、逆にそんな問いには来てもらいたくないと必死に避けることもしない。問いが来たら来たで、確認してハイ終わり、です。そういうふうに確認するものがあるというのはいいことです。

 本日の説教は福音書の個所の説き明かしが中心になります。本題に入る前に、復活について要点を復習しておきます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それと、イエス様を救い主と信じる者たちが与る、将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度復活するということはありません。それで、将来のある時とはいつかと言うと、それは今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される時です(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)。それはまた、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時です(「ヘブライ人への手紙」12章27ー28節)。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

 黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神が裁判官になって裁判を行います。神の手元には全ての人が旧い世でどんな生き方をしたか記録した書物があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがその復活に与ることになります。

 また、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様と結びついている死者たちが復活させられる。それと、再臨の時点でまだ生きている信仰者たちが彼らに合流して神のもとに迎え入れられる。このようにパウロは、イエス様再臨の時点で生きている人たちにも目を向けています。

 ここで、復活について二つ注意すべきことを申し上げます。一つは、パウロが第一コリント15章で言うように、復活させられる者は皆この世の肉体のように朽ちる体ではなく、神の栄光を現わす復活の体を着せられるということです。つまり復活させられる者は、既に死んでいた者も、その時点で生きている者も、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられることはありえないということです。みな同じ復活の体を着せられるのです。誰もこの世の姿かたちで天の御国には迎え入れられないので、皆がこの世の肉体から離別するということになります。

 このことは、本日の旧約の日課ヨブ記の中でも言われています。ただ、日本語訳は何か抜け落ちていたりしてはっきりしません。実は、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳もまちまちで、ここは各国の訳者にとってやっかいな箇所のようです。そこで、19章の23節から27節の前半までをヘブライ語の原文に出来るだけ忠実に訳すと次のようになります。

「(25)私は知っている、私を贖って下さる方は生きておられると。将来、その方はこの滅びゆく大地の上に立ち上がる。(26)私の皮膚が引き裂かれた後で、私は肉体から離れた状態で神を見る。(27a)その方を私自らが見るのだ。私の目が見るのだ。その方はよそよそしい方ではない。」

 このように、ここは復活の時の有り様がこの世の有り様と違うことが言われているのです。さらに贖い主つまりイエス様の再臨のことも言われています。聖書の学会では普通、ヨブ記は知恵文学に属すると言われるのですが、このように復活という黙示文学の要素も持っているのです。聖書の書物を~文学、~文学とジャンル分けすると、他のジャンルの要素があっても気に留めなくなる危険があると思います。各国の訳者は案外、この危険に陥って黙示文学の要素などあり得ないという視点で訳したのかもしれません。

 復活に関してもう一つ忘れてはならないことは、迎入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

 復活は将来に一括して起きること、人間一人一人死ぬたびに起こることではないなどと言うと、じゃ、死んだ人たちは将来起こる復活の日まではどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところで我が国日本では普通、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が大半です。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 そう言うと今度は、死んだ人が本気で眠ってしまったら、誰が起きていて見守ってくれるのかと心配する人たちが出てきます。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、祟りだの、ナントカ商品だのと言われてもびくともしなくなり、この日本も安心して住める国になるのにと思わざるを得ません。

 そこで、天の御国への迎え入れが起こるのは復活の日だからそれまで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

2.イエス様の論点(1)- この世での有り様と復活の有り様

以上、復活の要点を復習しました。これから本日の福音書の個所の説き明かしに入りましょう。サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに議論を吹っかけました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問なんです、と無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。一つは、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということです。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみます。

 人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた新しい世になります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、先ほど見た第一コリント15章のパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」であると言われます(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きるようになる。この、復活した者が「神に対して生きる/神のために生きる」ということが第二の論点のところで鍵になります。

 以上、イエス様の第一の論点を見てみました。サドカイ派は復活を正しく理解していませんでした。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。もし復活を正しく理解していれば、そんな質問は出なかったでしょう。

3.イエス様の論点(2)-「神に対して生きる/神のために生きる」とは?

 イエス様の第二の論点は出エジプト記3章6節です。そこで神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。

 ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの根拠になっていることです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブは将来の復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられたと考えることができます。以前の説教では、3人が復活の日まで眠っていてその日に復活させられる可能性について考えてみました。今回は3人が既に神の御許にいる可能性に立って話を進めます。

 イエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になります。実はこの個所はそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、その意味で「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、その言い方はこの復活について教える個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。文というものは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文が置かれた文脈と無関係だったら意味を成さなくなるのです。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」です。これも注意しないといけません。文脈から遊離してはいけません。

 それでは、このイエス様の言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど素直に直訳的に「神に対して」とか「神のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」byとは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

 次に「神に対して生きる/神のために生きる」というのは、どういう生き方かをわからないといけません。わかりそうでわかりにくい文です。イメージとして、神にお仕えするように生きるということが思い浮かぶかもしれません。もっと具体的にわかることができるでしょうか?それができるのです。「神に対して生きる/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章10~11節にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。このようにギリシャ語で読むと両方とも同じ言い方をしているとすぐわかるのに、日本語訳では一方は「神によって」、他方は「神に対して」と違う言い方で訳されてしまうので関連性が見えなくなってしまうのです(後注2)。そこでローマ6章の「神に対して生きる/神のために生きる」がどんな生き方かを言っているかがわかれば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

 ローマ6章のパウロの教えは、スオミ教会の聖書研究会の復習になりますが、こういう流れです。神の意思を表す律法は、人間が神の意志に反しようとする性向、罪を持つことを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされるようになる。まさに罪の赦しが神から「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪が暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を復活と永遠の命に導くようになった。

 そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人が出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きることなど不可能なのだ」(6章2節)。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、それは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪の言いなりになる生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということなのです。そのことが十字架という歴史上の出来事をもって未来永劫にわたって起きたのです。

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様のことだけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまります(後注3)。キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す器として生きるというのはどういう生き方か?本教会の説教でも毎回のように教えています。罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。そのようにして罪に背を向け神に向く生き方を貫くと、復活の日に神の栄光を現す復活の体を着せられて罪との戦いは終結します。

4.神は復活に向かう者の神

 イエス様の言葉「神に対して生きる/神のために生きる」は、パウロの言い方からわかるように、罪の赦しのお恵みに留まって、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す生き方をすることです。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、既に神の御許に迎え入れられた者たちだけでなく、今そこに向かって進んでいる者も含むのです。「生きている者」というのは、ただ単にこの世で生存している者のことではなくて、まさに復活に至る道に置かれてその道を歩む者のことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~は既に神の御許に迎え入れられた者だけでなく、そこに至る道を歩んでいる者も含むのです。

 兄弟姉妹の皆さん、その~に自分を当てはめてみて下さい。皆さんが聖書の神つまり創造主でありイエス・キリストの父である神を「私の神です!」と言うと、皆さんはその神の御許に向かって歩んでおり、復活の日に神が自分を復活させてくれると確信していると告白することになります。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

 

手芸クラブの報告(2022年10月26日)

東京も秋が深まり朝晩は寒く感じられるようになりました。10月のスオミ教会の手芸クラブは朝の冷たい空気を陽の光が温めてくれるような雰囲気の中で開催されました。

今回の作品はマクラメのテクニックを使ったクリスマスの飾り物でした。

初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回参加された皆さんはクリスマス・リースに興味を持ってそれを作りました。まず、糸の長さを測って結び始めます。マクラメの一つの基本の結び方を用いました。リングの上にマクラメを結んでいくと、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。参加者の皆さんは手早く結べるようになったので、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。

次はリースの飾りつけです。鈴や赤リボンやキラキラ星で飾り付けるとリースはクリスマスの装いになりました。可愛いらしいクリスマス・リースが出来上がりです!

参加者の皆さんにとってマクラメのテクニックは初めてだったので今回のクリスマス・リースはとても興味を引き付けました。時間が経つのも忘れて作業に集中したためか、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。

次回の手芸クラブは11月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブの話2022年10月マクラメ

今日はクリスマスの飾り物を作りましたが、クリスマスまではあと2か月なので少し早すぎると思われるかもしれません。しかし、クリスマスの準備の期間アドベント、日本語で待降節は11月27日から始まりますので、そこまではあと4週間位だけです。それでクリスマスの飾り物を少しづつ作り始めても良いと思いました。

今日はマクラメのテクニックを使ってクリスマスの飾り物を作りましたが、もちろんマクラメ以外にもいろんな素材やテクニックを使って作れます。また、特別の季節に飾られるものだけではなく、一般的にいつでも飾られる飾り物もいろいろあります。飾り物は家の壁にかけたり、服に付けたりして雰囲気を作ります。特に誕生日のお祝いのように、にぎやかな飾りつけは子どもたちにとって大事なことです。飾り物は自分だけでなく相手も喜ばせます。美しい飾り物は目を引き付けて力を与えられます。美術でも視覚に訴えることは重要です。また、自然の中で美しいものや景色を見ると、それはずっと目に焼き付いて私たちを力づけてくれます。私は夏のフィンランドで白夜の太陽が沈みそうになる場面や、太陽の光が海や湖の水面にあたってキラキラする美しさが今でも目の前にあります。日本は今はあちらこちらで美しい紅葉の景色を見ることが出来ます。自然の中の美しい花、新緑、紅葉などは私たち人間が造るものではありません。それは、天地を創造された神さまが造られたということがよく分かります。天の神さまは私たちに美しいものをいろいろ与えて下さる神さまです。

ヨーロッパの孔雀蝶

旧約聖書の創世記には神さまが天地を創造したことが書いてあります。天の神さまは天と地と全ての植物、動物、太陽、月など、そして最後に人間を造られました。神さまは造られたもの一つ一つを見て全てについて、「よく出来ている、これでいい」と言われました。このように天の神さまは全てのものを良い相応しいものに創造されました。造られた人間の最初の男の人と女の人もこの良さと相応しさの中で暮らしていました。この良さと相応しさがあることが美しいことなのです。

しかし、この美しさはずっと続きませんでした。どうしてでしょうか。それは最初の男の人と女の人が造り主である神さまの言われたことを守らずに破ってしまったからです。このために神さまが創造をされた時にあった良さと相応しさは壊れてしまいました。それで世界には美しくないものがたくさん現れてしまったのです。犯罪や戦争が起こるようになったのもそのためです。私たちも神さまが言われたことを守ることが出来ません。

しかし、神さまには人間が壊してしまったことを回復する計画がありました。その計画は世界中の全ての人々のためのものでした。どんな計画でしょうか?それは、私たち人間がまたいつか神さまが最初に創造された時と同じように良さと相応しさに満ちた美しい大地に住むことが出来る計画です。それを実現するために神さまと人間の関係を直さなければなりませんでした。それはどのようにして出来たでしょうか?それは、神さまがひとり子のイエス様をこの世に送って実現させました。イエス様は、私たち人間の悪いこと、罪を全部十字架の上まで背負って持って行って下さって、そこで私たちに代わって神さまから罰を受けて死なれました。そして3日後に神さまの力で死から復活させられました。イエス様の十字架と復活のおかけで、私たち人間の悪いこと、罪が全部許されて、神さまと人間の関係は元通りになりました。イエス様のおかけで私たちはこの世では神さまの美しい大地を目指して歩むことが出来ます。そして、この後に来る次の世で、その美しい大地に迎え入れてもらえます。

今、私たちは良さと相応しさに満ちた美しいものを周りに見つけることが出来るでしょうか?私たちが天の神さまの御手の業を見ることが出来るように、神さまが私たちの目と心を開いて下さるようにお祈りしましょう。