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2024年1月7日(日)顕現後第一主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書1章4−11節

「洗礼者ヨハネが準備をし指し示す真の救い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の福音書は、洗礼者ヨハネについての記録と、そしてイエス様がそのヨハネの洗礼を受けられたことを伝えています。使徒ペテロと共に教会と宣教の働きをしてきたマルコは、ペテロの語るイエス・キリストの証しを1節、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言う言葉で始めています。しかしその「イエス・キリストの福音の初め」として彼は洗礼者ヨハネから始めます。そしてそれがイエス・キリストが彼の洗礼を受けることと共に伝え始めてい ることにはとても大事な意味があります。なぜならそこで伝えられていることはまさしく私たちへと与えられたイエス・キリストの福音の初めであるだけでなく、私たちの救いの核心をも指し示すことでもあるからです。今日はそのことを見ていきましょう。

2、「光ではない。しかし神が約束された預言者」

 繰り返しますが、マルコはイエス・キリストの福音の初めを洗礼者ヨハネの登場から始めます。しかしご存じのとおり、使徒ヨハネの福音書1章にある通り、洗礼者ヨハネは「光ではない」と聖書ははっきりと伝えています。つまり、彼は救い主ではなく人、罪人でした。しかし、彼は私たちと同じ罪人ですが、彼は旧約聖書で約束された預言者でした。4節の前2−3節にこのように始まっています。

「2預言者イザヤの書にこう書いてある。」

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、

あなたの道を準備させよう。

3荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。』」

 2節は、旧約聖書マラキ3章1節からの引用であり、3節が同じ旧約聖書のイザヤ40章3節からの引用になりますが、これは、イエス様の時代からマラキの場合は約500年前、イザヤの場合は約700年以上前の預言者を通じて神様が約束されたことでした。その聖書の言葉が挙げられ、「その通り」とあって4節になります。

「そのとおり、 4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」

 洗礼者ヨハネは、光ではありません。つまり「メシア、救い主」ではありませんが、しかし、主が「使者を遣わす」と約束されたその約束の通りに、主が遣わされた者であり、つまり、主の約束が「その通りになった」という預言の成就であるということです。それは「荒れ野に現れ」たという場所的な一致もあるのですが、それ以上に、主がこの遣わすと言われ定め約束されたその使者に与えられている「働きと使命の実現」であることもここからわかるのです。

3、「何をするために」

A、「悔い改めの洗礼を伝えた」

 まず4節には「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を伝えた」とあります。彼は悔い改めて洗礼を受けることを人々に教えました。この「悔い改め」というのは間違った道を歩んでいたのを正しい方向に向きを変えることです。聖書がその初めからはっきりと伝える通りに、堕落の時以来、人間は誰でも、誰一人例外なく皆、生まれながら神の前にはどこまでも罪人であり、皆、神に背を向け、神を信ぜず、信頼せず、神の御心に背いて行こうとする存在です。それが聖書の伝える罪です。十戒という神の御心が与えられても、誰もその神の御心を完全に行うことができず、私たちは皆、神も隣人も、心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして愛することができない存在です。そのような人類に対して堕落以来、神が望んでいるのはその罪の道、罪の行いを改め、そこから正しい道である神と神の言葉に向きを変えて神に立ち返ること、つまり「悔い改め」ることに他なりません。ですから、この「悔い改め」は、神の前にあっては堕落した昔から常に変わることなくとても重要なことなのです。イエス様も「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と宣教の言葉を伝えています。そして、マタイ3章を見ると、洗礼を受けに来たファリサイ派とサドカイ派の洗礼を洗礼者ヨハネは拒んでいます。それは彼らの心に悔い改めがないことを洗礼者ヨハネは見抜いていたからでした。洗礼者ヨハネは、そのように罪を告白し神に立ち返るよう、悔い改めの洗礼を授けるために荒野で人々を招いていたのでした。

 このように悔い改めは、イエス・キリストも望み招かれている大事で必要なことなのです。とかく現代の幾つかの教会は、罪人だと言われたくない現代人が「罪」や「悔い改め」と聞くと嫌がって教会や礼拝を避けるようになるからと、宣教や伝道と言う言葉を使いながらも、実際は「人集め」の目的のために、「罪」や「悔い改め」を伝えることを軽んじたり、むしろ「語らなくて良い」というような風潮や教会運営がよくあるのですが、そのようなことがあっては決してならないのです。教会は昔も今も変わらず、洗礼者ヨハネのように、そしてイエス様のように、聖書の律法を通して罪を示し、悔い改めを伝えていくのです。それも教会の大事な使命なのです。しかし大事な点ですが、悔い改めは必要なことではありながらも、「洗礼者ヨハネが光ではない」ように、そして律法が義認も救いも与えるのでは決してないように、悔い改めが罪から救うのでは決してないのです。

B,「救い主の道を準備する」

 預言の言葉を再び見ていただきたいのですが、

2節「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。

 というこの預言。これは神が洗礼者ヨハネに語っているのではなく、神が救い主御子キリストに語って、神である「わたし」が「あなた」御子より先に使者を遣わし、あなた「御子」の道を準備させようと言っていることがわかります。そして3節のイザヤの預言でも、荒野の叫ぶ者の声は、

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 です。その通りに、洗礼者ヨハネの役割は、悔い改めで救いを与えることはではありませんでした。それは約束の救い主キリストが来られるための役割であり、そのキリストの前にキリストの道を整えるため、準備するため、そしてキリストを指し示し、キリストの道に向きを変えさせるための役割であり、そのために悔い改めに招くのです。ですから、悔い改めは救いを与えませんが、悔い改めは、救いを受けるための準備であり備えとして必要かつ大事であり、洗礼者ヨハネは旧約聖書の言葉を用いてそのように説教し、その役割を担っていることがわかるのです。事実、5節以下にあるようにユダヤの全地方から大勢の元に来て、罪を告白し、洗礼を受けます。しかし、彼は光ではなく、救い主でもなく、一人の預言者、一人の主から遣わされたみ言葉を伝える証人として、そのなすべき大事な使命を果たしているものとして自らを証ししています。7節

「7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 洗礼者ヨハネ自身、自分は光でもなければメシアでもないことを告白するでしょう。いやそれ以上に「履き物の紐を解く」というのは最も身分の低い僕のすることですが、自分はそれにも値しない。自分も一人の罪人であることを認めています。そして、自分は来ると約束された救い主ではない。自分の洗礼は救いを与えないが、真のメシアは聖霊で洗礼を授けるのだと、まさに自分ではなく、キリストを指し示しており、キリストのために道を備えるため、そして、キリストを指し示しているのですから、自分の務めは人々がまさにキリストの道に向きを変えていくための備えであることをはっきりとさせているのです。

C,「使徒ヨハネの洗礼者ヨハネについての証言から:キリストを指し示す役割」

これは、ヨハネの福音書を見ると具体的です。1章29〜31節

「〜ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

 イエスを指し示し、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」「この方がイスラエルに現れるためにわたしは」と洗礼者ヨハネは言います。洗礼者ヨハネは悔い改めに招いています。しかし、それだけでなく、まさに、彼が主の道を整え、まっすぐにする、その目的は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とまさに聖書が約束された救い主の成就、イエス・キリストを指し示し、このイエスにこそ人々が向き、人々がキリストの名による聖霊のバプテスマを受け、真の罪の赦しと救いを受けさせることにあるのです。

 この洗礼者ヨハネの示唆は「教会とは何か、そして宣教とは何か」を教えてくれています。昨今の教会の教会観、あるいは、教会の宣教伝道観は、この洗礼者ヨハネのようにではなく、つまり、キリストの十字架を指し示すことではなく、何か、教会や組織そのものの力や能力とか魅力とか、あるいは十字架の福音よりも隣人愛のわざとか社会事業とか、あるいは、牧師のカリスマや、人間の功績や伝統などを「示したり」「アピールしたり」「指し示す」ことによって、つまり、いわば自分たちの何かを指し示し顕示することによって、教会を大きく魅力的に見せること、そのように人を集めることが何か宣教や伝道であるとか神に従っているとか敬虔であるかのように、それが教会運営のスタンダード、王道であるかのように、何の疑いもなく思われている節があります。しかし、神のみ言葉を預かる預言者であり宣教者である洗礼者ヨハネの宣教の王道は、自分の力や魅力を顕示し、人間にとって魅力的ではない悔い改めを排除することでもありませんでした。そう、彼は旧約のみ言葉から、悔い改めを説き、主と主のことばに立ち返らせ、そして何より、彼はキリストを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と指し示しているではありませんか。キリストを指し示すこと、そして、それが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と神の子羊であるキリストの十字架を指し示すこと。みなさん、ここに真の教会と宣教があるということは、何よりの基本であり、今も変わらないのです。

D,「それは自分が衰えても、キリストが栄えるなら」

 ヨハネの福音書の3章を見ると、洗礼者ヨハネは、自分のところに来る人々が減り、他方イエスのところにますます人々が行く状況でさえも、弟子たちはその数の減少に嘆きますが、しかし洗礼者ヨハネははっきりと言います。ヨハネ3章27−30節

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 とかく目に見える繁栄や成功や数の増える減ったに右往左往する現代の教会であり私自身でもあるのですが、この洗礼者ヨハネの宣教のように、どこまでもキリストを指し示し、キリストが現されるために、自分は衰え、数が減り、死んでも、それこそが自分の使命、自分の喜び。これが主のしもべの喜びであり使命であるのだ、と言うことを私自身も一人の卑しい僕として気付かされ、常に立ち返るべく教えられているように教えられます。

4、「イエスはなぜ洗礼者ヨハネの洗礼を受けるのか」

 そして、事実、イエスこそ救い主であり、イエスはまさしく洗礼者ヨハネが叫んだように、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」であり、洗礼者ヨハネがそのための備えであることがわかるのが、イエス様の受けられる洗礼なのです。9節以下ですが

「9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

 マルコはあっさりと書いていますが、マタイの福音書では、洗礼者ヨハネは洗礼を受けにきたイエスを「思いとどまらせようとして『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」と躊躇っていることが書かれています。確かにそうです。洗礼者ヨハネが自分より優れた方、そして自分の洗礼よりも遥かに優れた聖霊のバプテスマを授けるお方と自分が指し示したお方が、自分から洗礼を受けようというのですから、躊躇って当然です。人間の常識で言えばそうなるでしょう。ですから、彼の理性や常識で言えば、救い主であるイエス、そして罪がないイエス・キリスト、つまり悔い改めの洗礼を受ける必要のないイエス・キリストが、洗礼者ヨハネの洗礼を受けることは、理解できないことです。しかし、聖書全体から示されている約束と福音、つまりイエス様の十字架と復活の救いから見るならはっきりと教えられるのです。

 聖書ははっきりと私たちに教えています。ヘブライ4章15節にはこうあります。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

 さらには、パウロもフィリピ2章でこう記しています。6〜8節

「そして、イエス・キリストは人となられキリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 イエス様は罪のない方です。その人となられた生涯において罪を犯しませんでした。ですから悔い改めの必要のない方です。しかしそれ以外は私たちと同じようになられ、同じように苦しまれ、試練にあわれ、私たちの罪のために、私たちの罪を背負われて、罪の苦しみとその報いである死にまで従われ、まさにこの十字架に至るまでイエス様は従われるお方であることを福音書は私たちに指し示しています。そのためにイエス様はお生まれになり、そのために宣教を始められ、そしてそのためにこそ、まさに、私たちと同じように、私たちと等しくなるため、悔い改める必要がないのに、悔い改めの洗礼を受けられるのです。そして、同時にそうすることが、まさに悔い改めを持って、キリストの十字架の罪の赦しを見上げ、待ち望み、聖霊による洗礼を受けることに正しい道があることをご自身が示されているとも言えるでしょう。だからこそここに「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来て」、 父なる神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と全ては神の御心にかなっていること、つまり、このイエス様が受けられる洗礼もまた、神が遥か昔から約束された救いの約束の通りに、成就しているのだと、宣言されたのでした。

5、「すべては世の救いである十字架と復活を指し示すために」

 ですから、今日もこのように、洗礼者ヨハネを通して、そしてこのイエス様が彼の洗礼を受けられること、そして、それがこの三位一体の神の御心に全てかなって成就していることを通して、神様は私たちに、このイエス・キリストの十字架と復活を指し示しているのです。

 私たちは、つまり、牧師である私も含めて、神の前に正しい人はいません。悔い改めの必要ない人はいません。私たちは皆、神の前には罪人です。悔い改めが必要な存在です。神は常にみ言葉を私たちに語り、罪を示し、罪を悔い改めるように招いています。その悔い改めは私たちの力や努力でできることではなく、これもまた神がみ言葉を通して私たちを導いてくださった神の働きです。しかし、その悔い改めは、神が与えてくださる唯一の正しい道へ導くための備えです。悔い改めが私たちを救うのではありません。悔い改めた時に、その唯一の救いの道である、そこに指し示されているイエス・キリストが私たちを救ってくださるのです。聖書ははっきりと伝えています。そのキリストが、私たちの神の前の罪を全て背負って、その罪のための罰を、私たちの代わりに全て完全に負ってくださって、私たちの代わりに死んでくださったと。そしてそれこそが遥か昔から神が約束し伝える福音であり唯一の救いの良い知らせなんだと聖書は伝えているし、それが聖書の中心であり教会の中心です。しかもその福音は、ある選ばれた人々のためだけではなく、全ての人々のために与えられています。例外は一才ありません。ですから、その聖書の言葉は真実でその通りになる力ある神の言葉なのですから、誰でも、み言葉から罪を示され悔い改める時に、そこに指し示されているキリストとその十字架の罪の赦しを信じ、そのまま神が与えてくださっているものを受けるときに誰でも罪の赦しを受けることができるし誰でも救われるのです。そして、そこには復活の新しい命もあるのですから、私たちはその福音によって常にいのちを新しくされ喜びと平安と救いの確信のうちに出ていくことができるのです。この平安、安心、救いの確信はとても幸いな救いの賜物であり極めて大事です。「人が、私たちが、まずこうでなければならない、こうしなければならない」という律法は決して信仰生活や良い行いに平安と希望を与えません。ただ重荷と救われているのだろうかという不安が増し加わるだけです。しかし、まさに今日教えられている、洗礼者ヨハネが「指し示す」この神の御子イ_エス様が完全に成し遂げてくださった十字架の福音こそ平安と救いの確信を与えることができつると聖書は約束しています。ですから、その福音を受けるときに溢れ出る喜びと平安、その福音による救いが何よりの命であり力であるからこそ、真に神の前に偽りのない、自分のためではなく独りよがりでもない、真に100%相手のために愛を表し、良い行いを行っていくことができるのです。それは素晴らしい恵みではありませんか。ですから、今日もイエス様は、私たち一人一人にこの十字架のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださっています。そのまま救いの恵み、イエス・キリストの罪の赦しと新しいいのちを受けましょう。そして平安のうちにここから遣わされていき、神様の御心のための用いられ隣人へ神の御心を行っていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

牧師の週報コラム

ルターの御言葉の説き明かし「救いの希望は私たちの兜」(第一テサロニケ5章8節)フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(1878年初版)12月31日の個所

「この救いの兜が意味するものは何か?それは、天の御国にある次の命を待ち望む希望のことである。それゆえ、我々はイエス様を救い主と信じ、困難苦難を一挙に引き受けるのである。もしこの希望がなければ、我々は襲いかかる攻撃を防ぐことはできないだろう。我々は、悪魔やこの世が絶えず我々を悲惨な目に遭わせるのを毎日見て知っているではないか。もし、有限でこの世的な利益のためにこれら全てを耐え忍ばなければならないのなら、死んだ方がましだということになろう。使徒パウロも言っているではないか、「もし、私たちがこの世の人生に関わるものだけのためにキリストに希望を置くならば、我々は全ての人間の中で一番惨めな者である」と。

私自身はどうかと言うと、国を3つほどあげようと言われても、この世では1時間たりとも説教壇に立ちたくないというくらいに攻撃には晒されたくないという気持ちになる。しかしながら、だからこそ、我々には本当に心を強めてくれる別のものが必要なのだ。悪魔やこの世が一体となって私たちの魂と体を激しく攻撃し、あたかも我々が成すこと耐え忍ぶこと一切が無駄で無益であるかのように我々を追い込んでいくのだから、なおさらだ。

我々の心を強めてくれるものは、次のように信じる信仰がそれだ。『我々は、イエス・キリストを信じる。彼は、この世と罪と悪魔とその他全てのものの上に立つ主であると。彼を通して我々には今の世の次に到来する世にて命が確実にあると。それで、我々を今の世の悲惨さや苦しみから救い出し、今我々を責め苦しめるものを全て足で蹴散らされる方であると。』

私たちにはこのような救い主が与えられていること、彼がいつも私たちと共に歩んでいて下さることを忘れずに、来年も進んでまいりましょう!

 

「私たちの真実を明らかにし道しるべとなるイエス様の光」吉村博明 牧師 、ルカによる福音書2章22-40節

主日礼拝説教 2023年12月31日降誕後主日

聖書日課 イザヤ61章10節ー62章3節
ガラテア4章4節ー7節
ルカ2章22-40節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様誕生後の謎に迫る - 保守主義者の立場から

 本日の福音書の箇所にシメオンのキリスト賛美がありました。私たちはこの賛美をいつも礼拝の中のヌンク・ディミティスのところで唱えています。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも唱えます。「ヌンク・ディミティス」というのは、「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。

このキリスト賛美は、老人シメオンがエルサレムの神殿でマリアとヨセフに連れられた赤ちゃんイエスを見て唱えました。ここで、イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生した後の出来事の流れを少し振り返ってみましょう。

本日の福音書の個所の前のルカ2章21節をみると、イエス様が誕生8日後にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。その次に本日の個所が来て、場面が一変します。律法によれば子供の割礼後、母親は99日間清めの期間というのがあります。その間は神殿に入れず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4~8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのはこの規定のためでした。そうすると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?ここでマタイ福音書2章を見ると、生まれたばかりのイエス様と両親はヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトに避難したことになっています。親子三人は王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。先ほどの清めの期間の約3か月間は神殿には行けないので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

ところが、時間的につじつまがあわないことが出てきます。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後です。王の死は紀元前4年とされています。そうするとイエス様の誕生は紀元前4年か5年になる。ところが、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年は紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に住民登録があったという記録は見つかっていない。さらに、星の異常な輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。そうなると、イエス様の誕生年は紀元前6、7年となり、親子三人のエジプト滞在は2~3年の長期になってしまいます。シメオンが抱きあげたイエス様も赤ちゃんと言うよりは2、3歳くらいの幼児になってしまいます。以前の説教でその可能性を言ったことがありますが、今回は、マタイ2章でヘロデ王が殺せと命じたのは2歳までの男の子だったことに思い当たりました。生後一か月とかではなく2歳まで対象を拡大したというのは、王が東方の博士たちの戻って来るのを暫く待っていたことを伺わせます。どれ位待ったかわかりませんが、もし3ヶ月以上だったら、親子三人はベツレヘムからエルサレムの神殿に行くことができます。

ここから次のように考えることができます。住民登録は紀元前7年のものが有望とは言っても有望と言うだけで、他に記録が失われたものがあるかもしれない。ないしは、皇帝の命令が全領土に一斉に同時執行されなくて、地域差があったかもしれない。星の輝きも、天文学的に突き止められるのが紀元前6年にあったと言うだけで、土星と木星の異常接近以外にも、彗星か何か、まだ突き止められていない星の動きがあったことも否定できません。それで、イエス様の誕生がヘロデ王死去の年に近づけば近づくほど、シメオンが抱き上げた子供は幼児ではなく赤ちゃんになっていきます。

なぜ、こんなふうに、一見かみ合わないマタイとルカの記述をあわせようとするかと言うと、説教者や神学者によっては、マタイとルカの記述は全く別の出所から来ているのであわせようとしても無駄だと考える人がいるからです。全く別の出所から来ていると考えると、どっちか一方は歴史的に本当かもしれないが、他方は本当でない作り話になってしまいます。または、両方とも作り話と見てしまう人もいます。そういう人たちが説教をすると、一種の小説評論のようになります。

私が、マタイとルカの両方をあわせようとするのは、両方とも歴史的に本当であることを前提にしてその可能性を追求しようということです。マタイとルカが一見かみ合わない記述になってしまったのは致し方のないことです。と言うのは、イエス様の大人の時と違って子供の時は目撃者に限りがあります。ヨセフが生前に周囲に語ったことと、長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心にならざるを得なかったでしょう。それぞれの観点でそれぞれの印象と記憶に基づいて語られたので、いろいろ一致しないことが出てくるのは止むを得ないのです。そういうものだと観念して、歴史的に本当だという立場に立つ者を私は保守主義と呼びます。聖書に書かれたことを大事に保全する(conserve、conservative、conservatism)からです。逆に、聖書のここは本当、ここは本当じゃない、と自由自在に切り刻んでいく立場を自由主義リベラリズムと呼びます。

2.シメオンのキリスト賛美 - 自己民族の観点?普遍的な観点?

イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に来て清めの儀式をした時、老人シメオンが近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が神の約束されたメシア救世主である、と。シメオンは、イエス様のことを「異邦人を照らす啓示の光」と呼びます。どんな光かと言うと、ギリシャ語原文をよく見ると、今まで現れていなかった光が現れてそれを異邦人が目にするという光です。簡単に言えば、「異邦人に現れる光」です。「異邦人」というのは、ユダヤ民族以外の全ての民族です。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人もアフリカ人も、ユダヤ教に改宗していなければ、みんな異邦人です。その異邦人に現れる光とはどんな光なのでしょうか?それは、神の意志を人間に明らかにする光です。天地創造の神の意志は、それまでは旧約聖書を通して主にユダヤ民族に知らされていました。それが、神のひとり子イエス様がこの世に贈られて以後は異邦人にも知らされることになるというのです。そのような方が旧約聖書の預言通りにユダヤ民族の中から輩出した、それでシメオンはイエス様のことを「神の民イスラエルの栄光」と賛美したのです。

 シメオンは「イスラエルの慰め」を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。

ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありません。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる

者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる、と。果たして、本当にその通りになりました。律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、自分たちこそは旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正確に理解していると思っていたのに、本当はそうではないとイエス様から突き付けられてしまいます。それで彼に躓いてしまいました。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、それがもとで十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様をマリアは自分の目で見なければならなくなります。文字通り「剣で心を刺し貫かれた」のでした。

しかしながら、イエス様はただ単に反対され躓きになっただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなったのです。イエス様の十字架の死は、ただ単に彼に躓いた者たちから迫害を受けて殺されてしまったということではありませんでした。神の大いなる計画がそのような形をとって実現したということだったのです。それでは、神の大いなる計画とは何か?それは、人間の罪に対する神罰を人間に受けさせるのではなく、代わりに自分のひとり子に全部受けさせるということです。つまり、イエス様の十字架の死というのは、人間に罪の赦しのチャンスを与えるために神がひとり子を犠牲にして罪の償いを人間に代わってさせたというのが真相だったのです。

神がイエス様を用いて行ったことは罪の償いだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る道を人間に切り開いて下さいました。人間は、これらのこと全ては神が自分のためにしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされ、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。永遠の命に至る道に置かれて、その道を進んでいきます。たとえこの世から離れることになっても、復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられます。このようにして、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も出たのです。

そこで、使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を宣べ伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者が次々と出ました。他方では、受け入れないで反対する者も出ました。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

 ところで、シメオンがイエス様を抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナというやもめの老婆がやってきました。自分の人生を神に捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきました。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると語り始めたのです。

ここで、シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることがあります。それは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、この出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしています。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあります。イエス様の誕生はこれらの預言の実現と理解されたのです。

イザヤ書の40章から55章までのいわゆる「第二イザヤ」の部分は一見すると、ユダヤ民族がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できることを預言しているように見える個所です。実際にこの帰還は歴史的に起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後もユダヤ民族の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時のような勢いはなく、ほとんどの期間は異民族に支配され続けました。神殿を中心とする礼拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実は祖国帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。そうした理解はユダヤ民族の祖国帰還から500年以上たったイエス様の時代でも持たれていたことが、シメオンが「イスラエルの慰め」を、また人々が「エルサレムの救い」を待ち望んでいたことからうかがえます。

 このようにユダヤ民族中心のように見える預言の言葉ですが、シメオンの賛美をよく見ると、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります(2章31節と32節)。特に32節の言葉「異邦人を照らす啓示の光」ないし「異邦人に現れる光」は、イザヤ書49章6節の預言が実現したことを意味します。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

ユダヤ民族の祖国帰還と復興だけでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという内容です。救世主のなすべきことはユダヤ民族のことだけにとどまらず、全世界の諸国民の光となって神の救いを全世界にもたらすことだ、と言うのです。

 そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味していることを忘れてはなりません。ユダヤ人であるかその他の異邦人であるかに関係なく、救いを受け取る者が真のイスラエルなのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が「天上のエルサレム」と呼ばれるのです。

3.私たちの真実を明らかにし道しるべとなるイエス様の光

イエス様が私たちに現れる光であるというのは、どんな光なのでしょうか?イエス様は光であると聞くと、大方は暗闇のような世の中で私たちが道を誤らないように導いてくれる道しるべのようなイメージがわくでしょう。それはその通りなのですが、イエス様が道しるべの光であるというのはどういうことか正確に理解しないといけません。それは、私たちがイエス様の光に照らされると、私たちの罪が明るみに出されたかのように自分で気づくことになってしまうということです。シメオンが預言したように、光になるイエス様が反対を受けるしるしになるというのは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」ということがあったからでした。ヨハネ3章でイエス様自身、こう述べています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と(19節)。

自分の心の中に神の意志に反する事柄が無数にある、例えば妬み、憎しみ、不倫、他人を見下すこと、誰かを悪者に仕立てること、嘘や誇張、偽証や改ざん、そして分け隔てない思いやりが不足していること、さらにはそうした悪いものに縛られていてもそこから脱せられるように神に助けを求めないこと等々、こうしたことが聖書の御言葉を聞く人、読む人は思い知らされます。それは御言葉を通して神の霊、聖霊が働くからです。また御言葉を読んだり聞いたりしていない時に思い知らされることもあります。それは、神が直接働きかて私たちを聖書の御言葉に結び付けようとしているからです。

しかしながら、自分には神の意思に反するものがあると示されたら、どんなな思いになるでしょうか?キリスト信仰者でない人には目障りなことに感じられるでしょう。自分は自分の考えで決める、自分が感じること欲することが自分の進む方向を決める、神の意思などにいちいち照らし合わせるなんてしたら自分の好きなことができなくなってしまう、と言うでしょう。

キリスト信仰者の場合は、神の意思に反するものを示されたら、ああ、自分は神の御前に立たされたら失格者だと心配になるでしょう。人によっては、何としてでも十戒の掟を守り抜かねばと必死になり神経質になり、結局、心の中までは守り切れていないとわかってとってもがっかりしてしまうでしょう。しかし、ここがまさにイエス様はどんな光かがわかる地点なのです。

洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが何度も教えるように、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられているのです。それで、神の目から見たら合格者なのです。もちろん、衣の下の肉体の中にはまだ神の意思に反する罪があります。しかし、それにもかかわらず神はイエス様の犠牲の死で罪の償いは完了した、それを受け取った者は償いを完了した者と見なして下さるのです。信仰者の側では償いのために何もしていないのに(そもそもそんなことは不可能です)、イエス様が果たしたことと、それを受け取ったことで神は義として下さるのです。つまり、私たちは神に先を越されてしまったのです。それなので、あと私たちがすることと言えば、神にしてもらった自分に自分を従わせていくだけなのです。

そうすると、必ずギャップに気づく時が来ます。というのは、外側は神の義を着せてもらっているけど、その下にはまだ罪が残っているからです。ギャップが明らかになる度に、罪の告白をして赦しの宣言をしてもらいます。その時、ゴルゴタの十字架で打ち立てられた罪の赦しは微動だにせずあることを確信して安心します。この安心と確信をもって、また神にしてもらって自分に自分を従わせる道に戻ります。キリスト信仰者はこれを繰り返していきます。繰り返せば繰り返すほど、内にある罪は圧し潰されて行きます。この繰り返しの先にあるのが、復活の日の目覚めと神の国への迎え入れです。イエス様が道しるべの光というのは、まさにそこに向かって進めるようにする光ということです。このことをイエス様自身がヨハネ8章12節で言っています。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩くことはない。その者は永遠の命に導く光を持つことになる。」(少し解説的に訳しました。)

このようにイエス様という光は私たちの真実を明らかにするという機能と明らかにされた私たちがどこに進むべきかを示す道しるべになるという機能の二つの機能を同時に兼ね備えた光です。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは洗礼を受けることでこの光を得ました。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きることでこの光を携えて進んで行くのです。今年は今日で終わりますが、新しい年もイエス様の光を携えて進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「クリスマスの祝い方」吉村博明 牧師 、ルカによる福音書 2章1-20節

降誕祭前夜礼拝説教 2023年12月24日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.

今年もクリスマス・イブの日となりました。クリスマスはお祝いのシーズンということで、毎年あちこちにクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが輝き、デパートやお店ではクリスマスプレゼント用の品物が山のように並び、レストランではクリスマスディナーが振る舞われ、あちこちにクリスマスソングが響きます。

 そうしたお祭り、お祝いの雰囲気に今年は違和感を覚える人もいます。というのは、ウクライナの戦争が続いている上に、今年は10月からのイスラエルとガザの戦争が連日ニュースで伝えられ毎日のように悲劇的な映像を目にします。さらに、こうした大きなニュースになる国々の陰で世界のあちこちで紛争や内乱があります。世界中で戦火に巻き込まれて苦しんでいる人が大勢いるのに、お祝いする気になんかなれないというのは、もっともなことと思います。

 そもそもクリスマスは何をお祝いする日なのか?イエス・キリストというキリスト教の大元になる人の誕生日ということは多くの人が知っています。ただ、自分はキリスト教徒じゃないから、イエス・キリストの誕生日は関係ないというのが大半かと思います。しかし、だからと言ってお祝いをしないかと言うと、意外とそうではありません。きっと多くの人たちは新年の前に過ぎ去る一年を労うようなお祝いみたいのがあってもいいじゃないかということではないかと思います。それでか、クリスマスというキリストに関係する言葉を避けて、この季節をホリデ―シーズンと言ったり、挨拶も季節の挨拶シーズンズ・グリーティングスなどと言い換えたりします。それで、華やかに豪華に年末のお祝いをするのですが、今のように世界の悲惨な状況がすぐ目の前に飛び込んでくるようになると、お祭り気分になれないという気持ちになると思います。

 キリスト信仰者は、もちろんイエス・キリストを前面に出してクリスマスをお祝いするのですが、信仰者でない人たちから見たら、今のような世界情勢の中でどうしてお祝いする気分になれるのかと驚かれるかもしれません。特に、先ほど読んだ聖書の個所の次の2つのことがこの疑問を強くします。それは、天使が羊飼いたちに言った言葉、「救い主がお生まれになった」と、もう一つ、大勢の天使たちが賛美して言った「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というのは、ギリシャ語の原文が詩的な文章なので正確な意味がつかめにくいです。一つには、「地上では神の御心に適う人に平和がありますように」という希望を表明していると捉えられます。もう一つは、、「地上では神の御心に適う人に平和があるんだ」と、そういう人たちに平和があるという常態を述べているとも捉えられます。

 しかしながら、希望にしても常態にしても、今の世界情勢の現実を見ると、そんなのは常態からほど遠いし、そんな希望も打ち砕かれてしまう状況があるではないかと反論されると思います。それに、「神の御心に適う人たちに平和がある」などと言ったら、戦争のさなかにいる人たちは神の御心に適わないのか、逆に戦争のないところにいる人たちは神の御心に適うのか、となってしまいます。また、「救い主」が生まれたと言っても、悲惨な状況から救われない人たちが沢山いるではないか、救いなど全然ないではないかと反発を受けたりします。

 そのような反発は、「救い主」や「平和」をただ言葉のイメージだけで考えると出てきやすいと思います。そこで、今少し立ち止まって、聖書が伝える「救い主」とは何か、「平和」とは何かを見てみようと思います。それがわかると、今のこの混乱と悲惨に満ちた時代の中にいても、イエス・キリストの誕生を素直にお祝いできるようになります。これからそのことを見ていきます。

2.

「神の御心に適う人に平和がある」の「平和」とは何か?戦争がない平和でしょうか?もちろん、それも含まれますが、キリスト信仰で一番大事な「平和」は神と人間の間に平和な関係があるということです。神と人間が対立関係にないということです。神と平和な関係があれば、たとえ自分の周りは平和が失われた状況でも、自分と神との平和な関係は失われていない、周りが平和か混乱かに関係なく自分には失われない平和がある、そういう内なる平和です。使徒パウロは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者にはこの平和があると教えます(ローマ5章)。そして、神と平和な関係にある信仰者は周囲の人たちと平和な関係を築くのが当然になると教えました(12章)。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。相手が応じない場合でも、相手みたいに非友好的な態度はとらないということです。神との平和な関係が築けたら、そうするのが当然だと言うのです。

 次に「救い主」についてみてみましょう。普通、「救い」とか「救われる」と言う時、それは何からの「救い」、「救われ」でしょうか?普通、病気が治った時とか、何か危険な状態から脱することが出来た時、救われたと言います。もちろん、そういうことも含みますが、キリスト信仰の「救い」、「救われる」で一番大事なことは次のことです。つまり、神との平和な関係を壊していた原因が除去されて、神との平和な関係を築けることが「救い」です。それでは、神との平和な関係を壊していたものは何か?それは、人間誰しもが神の意思に反することが備わっているということです。その神の意思に反することを聖書は罪と言います。罪という言葉を聞くと、普通は法律で罰せられるような犯罪行為を考えます。もちろん、それも含みますが、キリスト信仰で「罪」と言ったら、もっと広く、行為には出なくても心の中で持ってしまっても罪になります。それで法律で罰せられないものも神の目から見たら罪になります。まさにこのために神と人間の平和な関係が失われていたのでした。これを放置しておくと、人間はこの世を生きる時、神に背を向けたまま、神との結び付きを持たないで生きることになってしまいます。そして、この世を去る時も、神と結び付きがないまま、全くの一人で未知の世界に飛び立たなければならなくなってしまいます。

 創造主の神は、この罪の問題を解決して人間が自分と平和な関係を築けるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に贈ったのでした。この神のひとり子は、人間のすべての罪を全部自分で引き受けて、ゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。神聖な神のひとり子が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させて、死を超える命があることをこの世に知らしめ、人間も将来の復活の日に復活に与れる可能性を開いて下さいました。あとは人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると、ひとり子が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされ、神との間に平和な関係が打ち立てられます。神と平和な関係があれば、この世の人生で逆境だろうが、順境だろうが、何も変わらない神との結び付きを持てて生きることになります。そして、この世を去る時、神との結び付きを持って去り、復活の日に眠りから目覚めさせられて、朽ち果てた体に換わる朽ちない復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられます。このような、今のこの世と次に来る世にまたがって神との結び付きを持って生きられることが、キリスト信仰の救いです。

3.

このようにキリスト信仰で「平和」と言ったら、一番大事なものは「神との平和」であり、「救い」と言ったら、一番大事なものは「罪の赦しの救い」です。これらは全部、父なるみ神が御子イエス様を通して私たち人間に準備して下さいました。神は、それを受け取りなさいと言って、私たちに差し出して下さっているのです。これを受け取らないという手はありません。ただ単に受け取るだけで、神との平和と罪の赦しのお恵みを自分のものにすることが出来るのです。どうやって受け取るかと言うと、洗礼を受けることで受け取れます。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まることで、受け取ったものを携えて歩むことができます。

 なので、クリスマスでイエス・キリストの誕生を神に感謝してお祝いするというのは、単に一人の赤ちゃんが不運な境遇の中で無事に生まれて、ああ、良かった、おめでとう、というお祝いではないのです。このひとり子のおかげで、私たちがこの混乱と悲惨が渦巻く世の中にあっても、神との結び付きを持って歩めるようになった、それで、そのひとり子を贈って下さった神に感謝してお祝いをするのです。だからキリスト信仰者は、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で眠っている赤ちゃんを心の目で見る時、同時にその先にあるイエス様の十字架の死と死からの復活をも心の目で見るのです。

 それは、あたかも、長くて暗いトンネルの向こうに光があるのを見るのと同じです。真っ暗闇の中にいる人は、自分がどこにいるのか、どこに向かっていいのかわかりません。キリスト信仰者には、自分はどこにいて、どこに向かっていいのかがわかる光があるのです。罪の赦しの救いと神との平和の関係をもたらしてくれたイエス様がその光です。イザヤ書9章1節のみ言葉の通りです。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」 ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で安らかに眠る赤ちゃんにこの光を見ることが、キリスト信仰者にとってクリスマスのお祝いの一番なくてはならないものです。それがなかったら何もお祝い出来ないというくらい大事なものです。そのお祝いでは、この光を与えて下さった神に感謝します。

 キリスト信仰者が光を見、神に感謝するのは、周囲が平和な時か平和でない時かは関係ありません。平和で品物に不自由しない時、お祝いの雰囲気を高めようと品物や食べ物を用いますが、それは光に置き換えることは出来ないと信仰者はわかっています。逆に平和がなくて品物や食べ物がない時でも、光はそれと無関係に輝いていることをキリスト信仰者は心の目で見ています。それはさながら、暗闇の方が光がよく見えることと同じです。逆に周りが明るいと光は見えなくなってしまいます。それは、平和の時に品物や食べ物に囲まれてしまってイエス様の光が見えなくなってしまうことと同じです。それだからこそ、この日、あのベツレヘムの夜、電気も街頭もイルミネーションもない、ただ夜空の星と月だけの天然の照明の夜、馬小屋の中は油か蝋燭の光が頼りだったあの夜、ヨセフとマリアと羊飼いと集まってきた人たちに囲まれて安らかに眠る赤ちゃんを心の目で見ることは本当の光をみることになるのです。

ヨハネ福音書1章14節のみ言葉は、神の言葉ロゴスであるひとり子が人間として生まれて神の栄光を現していたことを述べています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

ピエニ・タウコのカンテラ演奏

2023年12月24日(日)待降節第四主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

説教をYouTubeで見る。

聖書日課 ルカによる福音書1章26〜38節

「昔からの約束を神は私たちのために実現してくださった」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の福音書の箇所は、私たちの救いが、人から出たものでは決してなく、どこまでも神が遥か昔から計画をたて約束をしたことを、神ご自身が実現されるという、神のみ言葉と約束の真実さと完全さ、そしてイエス・キリストの恵みと救いの完全さを教えてくれています。その「遥か昔の約束」というのは御使いがマリヤに語ったように、サムエルの時代、先ほど読んでいただいた主が預言者ナタンを通してダビデに語られた約束の成就でももちろんあります。しかし神はそれよりも遥か前、それは創世記3章、人類が堕落したまさにその時に神が語られた「女の子孫が悪魔の頭を砕く」という約束の成就でもあります。そのように私たちが罪に堕落したその時から神様は私たちを罪と悪魔の支配から救われるという約束こそを、旧約聖書は伝えてきたのでした。アブラハムへの彼の子孫を大いなる国民とし祝福するという約束や、そのための子イサクの誕生の約束、等々、旧約聖書の約束全てが、神様は堕落した人類を決して見捨てるのではなく、その罪からの救いと祝福を決して忘れず、むしろアブラハムやダビデなど信仰者にその約束を繰り返し語り、思い出させ、民に伝えさせ、そして、その通りに約束を果たして下さった事実こそ、このイエス・キリストの誕生に他なりません。しかし、その世界を罪から救う約束の成就と真実さは、どこにどのように実現するでしょう?救い主は、ローマの皇帝やユダヤの王や優れた貴族の家に生まれ他のでしょうか?そうではなく、天地創造の神は、その約束の救い主を、そのような皇帝や王や貴族の家にではなく、このイスラエルの田舎町ナザレのごく普通の女性であり罪人であるマリヤへと実現されるのです。しかしその神のなさったわざと事実に、私たちへの救いの恵み、福音のメッセージがあるというのが今日のところです。

2、「天使はいいなずけであるおとめのところへ遣わされた」

 神はその実現を伝えるため、御使いガブリエルをマリヤのところへ遣わしました。26節からこう始まっています。

「26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。」

A, 「すべては初めから詳しく調べた事実:処女懐胎の事実」

 まず、このナザレのマリヤについてルカは「乙女」とあります。これは新改訳聖書ですと「一人の処女のところへ」と書いています。この福音書を記録した医者であるルカは、この福音書の書き出し1章の始めに、「全てのことを初めから詳しく調べた」(1章3節)と言っています。ですから当然今日のこの箇所も、彼が「詳しく綿密に調べた確信として

(1章1節)記しているものです。そこでですがこの時代も今の時代も当然そうですが、乙女、処女がみごもるなどあり得ない事です。ですからまず人はここで躓くのです。科学、常識ではあり得ないことだからです。創世記18章にもありますが、信仰の父と言われるアブラハムとその妻のサラでさえも、常識ではあり得ないことを疑いました。神ははっきりと彼らに「来年の今頃、男の子が生まれる」と約束しました。しかし、100歳にも近い年老いた自分たちにはそんなことはあり得ない。起こりえない。人間の理屈、常識にあわないことだ。だからと二人は笑って信じませんでした。多くの人もいつの時代でも同じです。聖書の奇跡は「科学的にも常識的にもあり得ない」と。神学者や牧師でさえも、人間理性中心で聖書を判断するような人々は、それは理性や常識に反するから、だから「マリヤは処女ではななかったのだ。それは作り話なんだ。それはマリヤは誰かヨセフ以外の人と関係を持っていたのだ。それを隠すための口実として弟子たちが記したんだ」と教会で当たり前のように説教をします。そのようにこのマリヤに起こった奇跡を否定する教えは教会の外だけではない教会の中でさえも沢山言われてきたのでした。けれども、医者であったルカは始めに「詳しく調べて」「綿密に調べて」「乙女、一人の処女のところへ」と宣言しています。つまり、これは、初代教会が、そして使徒達が初めから紛れもない神の事実であると確信して、そしてルカ自身もはじめから綿密に調べた事実として、この「天使ガブリエルは確かに「乙女」「処女

マリヤのところに来た」のだと記しているということなのです。そして27節でも、この処女はヨセフのいいなずけであったとはっきり記します。まだ婚礼の前の女性であるマリヤであったのでした。

B,「人の側には驚きと恐れしかなかった」

 さらに29節ではその御使いの言葉を聞いたマリヤの様子が詳しく書かれています。マリヤ自身は天の御使いに対して驚きと恐れを抱いているでしょう。「考え込んだ」とありますが、新改訳聖書では「とまどい」とあり、御使いガブリエルも彼女に「こわがることはない」とも言っているのです。つまり、マリヤには「恐れ」があるのです。そしてその「恐れ」を抱いて、34節で、彼女は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」とも言っているのです。皆さん、恐れと驚きで、見たこともない神の御使いの前、つまり全てを見通し偽ることも嘘をつくこともできないそんな神の使いの前に立っていながら、嘘をついたり、秘密を隠し通すことができるでしょうか。誰もできないのです。あのアブラハムの妻サラは、神に心まで見通されていることも知らず「自分は笑っていない」と偽りましたが、偽り通せなかったでしょう。マリヤもこの状況で、神の遣わした恐ろしい御使いの前に、決して、偽れなかったことでしょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」はマリヤの偽りのない言葉なのです。何よりルカは、事実を詳しく調べた上で真実を記しています。御使いは事実一人の乙女、処女のところにこられた。そしてその「乙女マリヤが」御使いの言う通り、「みごもって男の子を産む」のです。この救い主がそのように真の人ととしてお生まれになるということも大事な真理あります、信ずべき教えですが、それはルカの2章で詳しく書かれています。

3、「そのおとめは一人の罪人、はしためー聖人ではない」

 さてこのマリヤへの言葉と出来事からさらに教えられることは、このマリヤは決して、聖女でも聖母でもありません。彼女は、私たちと変わらない、罪人の一人にすぎません。彼女自身が自分は「はしため」と言っているように自分の卑しさ罪深さを感じていた女性であり、事実、紛れもない罪人であったのでした。しかしこの事実にも素晴らしい恵みが見えて来ると言うことです。この出来事と重なるので繰り返し引用し照らし合わせますが、まさにあのアブラハムの妻サラが、神の前にあってさえ「自分は笑っていない」と嘘を言ってしまう罪深さがあっても、神はあなたは「笑った、疑ったから、祝福しない」とは決して言わずに、それでも神の「祝福の子」「男の子を与える」と言うその約束が変わらなかったように、このところでも、神は、マリヤが何か素晴らしい女性で、完全で清く汚れのない生活を送り、立派で高貴な女性だからという理由では決してない、むしろ、事実、マリヤの告白の通り「はしため」であり卑しいそのマリヤの事実、その罪深さも全て知った上で、そして、そのマリヤにある何かに関係なく、主は「主の方から」一方的な恵みとして、このマリヤを選び、御使いを遣わしているのです。事実、御使いは「恵まれた方」と言います。そしてその神の方からの一方的な恵みによって、35節、その子は聖霊によってみごもると伝えています。いやそれだけでない、まさにサムエルの時代に主がナタンを通してダビデに約束されたことが、この聖霊によって人として生まれる子によって、サムエル記下7章の「その王国を揺るぎないものとする。 13この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」とか、「16あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と言うことがその通りに実現すると御使いは宣言しているのです。

4、「約束された救いは人のわざでは決してない。神の方から」

 みなさん、このマリヤに起こった出来事、そこで語られた主のみ言葉は何を伝えているでしょう。それは、創世記3章の最初の福音、そしてアブラハムの時からも、ダビデへの約束からも全く変わらず、私たちにはっきりと伝えているのです。それは、救い主、キリストの誕生、そしてその約束も、全く人の側の何か、人の業、思い、情熱や熱心、計画に一切よらない。人間の側の何らかの功績や正しさがあったからでもない。いやむしろ神の前にあっては、私たちはどこまでも神に背いた最初の男と女の子孫であり、神の前にはそのままでは義と認められることのないどこまでも罪深い民であり、救いのない滅びゆく民でした。しかし、だからこそ、その罪深い人類のためにこそ、そう、堕落の時の最初の福音がそうであったように、全て救いの計画も約束もその実現も、「天から地へ」、「神から私達へ」の全く恵みであるということがこの今日の出来事からもわかるのです。旧約聖書の最初の福音だけでなく、アブラハムの召しも、彼に現れた3人の人と子供が与えられる約束も「主の方から」でした。あの自分は相応しくないと嫌がるモーセを召したのも、そしてイスラエルの救いの計画も、十戒も、すべて「主の方から」であることが書かれています。むしろ旧約聖書ではその揺るがない真理である「主の方から」の神の恵みを忘れ「自分が自分が」と罪人にすぎない自分が神のように行動する行為こそ、大きな裁きを受けています。旧約聖書もそれは神の恵みによる救いの福音が溢れているのです。そしてその通りに、今日のマリヤの場面でも、主の方からです。マタイの福音書にあるマリヤの後に起こる父「ヨセフ」の場面でもそれは「主の方から」でした。むしろ、父ヨセフは御使いの「聖霊による」と言う言葉があるまでは、結婚前に妊ったと思ったマリヤを「何か不道徳を行なったのだ」と決めつけて密かに去らせようとしていたでしょう。そのように人間の側では、マリヤも喜びの知らせを受けても、先ほど言いました。ただ恐れ、戸惑うだけの状況です。ヨセフは理性的に去らせようとしました。しかし御使いははっきりとこの約束の成就の出来事を非常に分かりやすく言っています。「恵まれた方

と。つまり、これは神から人類への恵みなんだと。30節「あなたは神から恵みをいただいた」ともあります。さらには35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」とも。そう、これは人の思いや願い、情熱でも優れた行いでもありませんでした。救い主の約束もその通りに実現する救い主の誕生もどこまでも「人から神のために」ではなく「天から、神から、私たちのため」のどこまでも「恵みのみ」なのです。

5、「神にできないことは何一つない」

 そして、御使いガブリエルは、そんな戸惑い信じられないマリヤに、「信じられないなんて、あなたはダメだ、失格だ」と裁いて断罪するのでも、約束を取り消したりもされないでしょう。まさにあの信じないで笑った、アブラハムとサラにも語られたのと変わらない言葉を語って、約束は真実なんだ、そして神が行うのだと、励ましている、変わらない主の恵みを教えているのが分かりますね。37節で御使いは言います。

「37神にできないことは何一つない。」 新改訳聖書では「神にとって不可能なことは一つもありません。」とあります。

 みなさん、何という力強い真実な励ましのことばでしょう。御使いは曖昧さなどなく断言しているでしょう。「不可能なことは一つもない」と。「理性や常識や科学に反することだからマリヤの処女懐胎は作り話で事実ではない」と言う牧師や教師たちは何を信じているのでしょうか?聖書が、神が、神の御使いが、「神にとって不可能なことは一つもない」と断言しているのです。それは御使いも人間の理性や常識に縛られ「50%は可能性がある」とか、「80%かもしれない」などとそんな言い方は微塵もないのです。みなさん、私たちに与えられている、みことば、約束とは何ですか?仮に「人間の理性や常識に従えば奇跡の全ては作り話だ」と言うような言葉が含まれている聖書であるなら、その聖書の言葉に真実さと救いの力、神の力があると思いますか?ないでしょう。しかし、そうしてしまっているのは、そのように人間中心に人間の理性に聖書を従わせ聖書を力のない言葉にしてしまっている人間の側であり偽りの教師たちです。みなさん、私たちに与えられている聖書、神の言葉は、そんな一部だけ真理があると言うような曖昧な言葉では決してありません。「神にとって不可能なことは一つもない」と確信を与える、どこまでも真実な言葉なのです。できないことは「一つもない」という断言がそこにはあります。神様は何でもおできになる。全知全能である。不可能と言うことばは神にはないという宣言なのです。これは旧約聖書でも変わりません。アブラハムにイサクの誕生の事を伝えたときも、信じないサラに御使いは同じように言うでしょう。「主にとってできないことがあろうか」と。同じ御使いが、それから数千年後のこのマリヤにも、その神の約束を示して「できないことはない」「不可能なことは一つもない」と変わることなく断言し続けているのです。そしてこれは「今も」、これからも永久に変わることのない私たちへの神の言葉、なのであり、アブラハムの時代も、マリヤの時も、今も、神のみことば、約束は真実であり、その通りになるのであり、不可能なことは一つもないと、主は私たちを励ましてくださっているのです。そして、マリヤは、その御使いのことばを受けて、つまり、彼女の力でも努力でも性質でもない、その神の真実なみ言葉によって信仰が強められたからこそ、38節にあるように

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 と、主と主のことばに信頼した信仰の告白があったのでした。ですから、このマリヤの応答の言葉も信仰も何か彼女の性質から出た敬虔な言葉であるかのように捉えられ、こうでなければならないと信仰が律法化されやすいですが、そうではない。この告白も信仰も、私たちにとっては、決して律法ではない、このマリヤの言葉は、どこまでも主の御言葉、福音によって励まされ強められ信仰によって与えられた平安と喜びの応答なのです。

6、「十字架の神学:続く苦難の現実に神はいないのではない、そこにこそ神はいる」

 終わりに一つだけ触れて終わります。そのように恵みと祝福に溢れてマリヤは遣わされますが、しかしこのマリヤはその後も尚も試練、困難が続きます。男を知らないのに身ごもったという事実は、ユダヤ社会では大問題でマリヤは様々な困難の中に置かれます。だからヨセフは婚約を解消して去らせようとまでしました。そのように、この約束の後も苦難が続くこと、は神は矛盾していると思うでしょうか?しかしこれが神の恵みによって始まる信仰の歩みの現実です。マリヤにとってもヨセフにとっても壮絶な試練の現実の始まりでした。御使いのことばは恵みであっても、しかし人間の側からみれば「人の前」では困難と言う状況のままなのです。ここで人々は、何か目に見えて何も困難のない何でも上手くいくご利益信仰ような神を期待するなら「神はなおも困難に合わせるなんて」と躓くかもしれません。しかしそんな困難が続いてもそれでも、二人は、そのような揺るがない主と主のことばの真実さにあってこそ、つまり「神の前」にあって確かな言葉に導かれ支えられているからこそ、その信仰によって、神は真実であり恵みであり祝福であるという揺るがない平安があるです。このように、聖書の神は、どんな困難な現実があっても揺るがない希望と平安と喜びを与える神なのです。ですから38節のマリヤの信頼のことばは、「苦難の中」でも平安であることができると教えている言葉に他なりません。そしてそれが私達にも与えられている信仰でもあるのです。

 私たちの罪の性質は、「神の前」よりも「人の前」を気にしたり、基準や土台は神の言葉ではなく、私達の主観や自分中心にたって、目に見える業や成功や繁栄だけで神や祝福を評価判断したり、人の側の思い描いた願いや期待の通りになったところにこそ、あるいいはそこだけに、神がいる、神様の働きや祝福があると判断してしまう傾向があります。ですから、そのように期待通りになったところ、問題がないところに、うまく言っているところに、神がいるとか、神が働いたのだとか、祝福されているのだとか、正しい悪いと決めつけてしまうし、逆に自分の思い通りにならなかったところには神はいない、祝福はないとしてしまいます。けれども、自分が中心になって求める先に神がいるのではありません。聖書が伝える、神の業、神の御心、神の祝福というのは、むしろその逆でしょう。神の前の私たちの圧倒的な現実は、私たちはどこまでも罪人であるという現実です。だからこそこの罪の世にあっては苦しみや、人の目にあっては「なぜ?」「どうして?」と思うような事は絶えることがありません。しかし、皆さん、クリスマスの飼い葉桶のイエスも、この十字架のイエスも、まさに罪深い世に一方的に恵みとして世に来れられたイエス様ではありませんか。そしてそれは私たちを裁くのでも重い重荷を負わせるためでもなく、私たちの間に来られ、罪人である私たちの友となり、神の真理を教え、そして遂にはその私たちの罪と私たちが負うべき裁きである十字架の死も全て身代わりとして背負って死なれた方でしょう?そのように十字架で救い主イエス様が罪に定められる代わりに、私たちは、神様から、このイエス様の十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と罪の赦しと平安と新しいいのちを与えられるのが、この福音書、聖書が私たちに何よりも伝える中心であり揺るがない約束、福音「良い知らせ」ではありませんか。マリヤに宿り生まれるイエス様は十字架と復活のイエス様であると聖書ははっきりと伝えています。その十字架は人の目にとっては、成功でも繁栄でもない、人々が思い描いた期待したような救い主はそこにありません。しかしその救い主は、罪人である私たちのところに来られ、私たちと同じ人間となられ、罪のない方が、私たちの罪とその罪による困難と苦難の重荷を全て負ってくださる救い主なのです。その救い主が罪人マリヤ、飼い葉桶の上、そこしてこの十字架の上に来られ神の御心のままに実現された。だからこそ、今も救い主は、同じように罪の世にあって困難の絶えることのない私たち一人一人の信仰の歩みにこそ伴われ、頼り求めるもののその重荷を絶えず背負ってくださる、そして、罪に苦しみ悔い改める私たちに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。だからこそ困難にあっても、マリヤのように、イエス様のこの約束を信じ頼り求める信仰には、平安と希望は絶えることがないのです。それが46節以下のマリヤの讃歌にも証しされていることなのです。

 今日も十字架のイエス様は、悔い改めイエス様に「憐れみ」を求める私たち一人一人に言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ今日も平安のうちにここから世へ隣人を愛するために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム 

信仰ノ証ノススメ

教会の信徒の皆さんには、特にクリスマス、復活祭、聖霊降臨祭の時に礼拝後の祝会で「信仰の証し」をお願いするのですが、皆さん、どうも消極的。 前任者の時は積極的にされていたそうで、証しを聴いた宣教師が感激のあまり泣いてしまったこともあるなどと聞いています。当時の熱意はどこに行ってしまったのか?まさか、今の牧師のせいなのか…。

「信仰の証し」の何が難しいのか?基本的なことを申し上げると、自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、とか、一時そのイエス様は遠くになってしまったが、また身近な方になった、とか、または、今大変な人生を歩んでいるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、というようなことを、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/伴走を確信させてくれました/確信させてくれます、というようなことをお話し下さればよいのです(長文ですみません)。聞く人も、ああ、あの聖句はやっぱりそのような力があるんだ、自分もそうだと確認したり、または、その個所にはそんな力があったのか、知らなかった、と新たな発見をしたりして、信仰の豊かな分かち合いになります。

聖書の御言葉が決め手となって十字架と復活の主が身近になるというのは、まさに聖霊が御言葉を通して働くということです。どの御言葉が決め手になるのかは人それぞれ。それで信徒さんの証しは牧師にとっても新しい発見になるのです。どうか宜しくお願いします。

スオミ教会・子ども料理教室の報告

今年のアドベント期間の子ども料理教室は16日に開催しました。 この日は今の季節には珍しい暖かい日でした。今回作ったのは、フィンランドのクリスマス・クッキー「ピパルカック」とクリスマス・パイ「ヨウルトルットゥ」です。今回は大人の料理クラブに申し込まれたけれども一杯で入れなかった方たちも参加しました。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にクリスマス・パイの「ヨウルトルットゥ」を作ります。店で売っているパイシートを四角に切って、その上にプルーンジャムをのせます。それから四つの角をプルーンジャムの上に順番にのせていき、星の形にします。それがヨウルトルットゥの形です。皆さんは星形がすぐ出来るようになりました。サイズは大きめのものと小さい可愛らしいものの2種類を作って鉄板の上に並べます。パイ生地の上に薄く卵を塗ってオーブンで焼きます。

次にクリスマス・クッキーの「ピパルカック」を作ります。前日に作っておいた生地を参加者の皆さんに分けてから、それを綿棒で薄く伸ばします。その後は楽しい型抜きです。ハート、花、ムーミン、クリスマスツリー、星などの形をしたクッキーがあっという間に鉄板に並びました。今回の生地は少し柔らかくて伸ばすのはあまり簡単ではなかったですが、皆さん一生懸命作っていました。ピパルカックを作っている最中に、オーブンに入っているヨウルトルットゥは焼き上がり、台所から美味しいそうな香りが広がりました。鉄板を出してテーブルの上に置くと、「可愛い美味しいそう!」と歓声があがりました。

ヨウルトルットゥの次はオーブンに入れるのはピパルカックの番です。たちまち、シナモンなどのスパイスの香りが広がりました。

クリスマスのお祝いがもうすぐなので、それで今回の子ども料理教室ではクリスマスのお菓子を作りました。でも、私たちはどうしてクリスマス・クッキーやクリスマス・パイのようなクリスマスの特別なお菓子を作るのでしょうか?それが分かるために聖書のクリスマスについてのフランネル劇をみんなで一緒に観ました。今から二千年前の昔、世界で一番最初のクリスマスの日に天の神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋でお生まれになりました。このことは、天使が誰よりも先に羊の番をしていた羊飼いたちに知らせました。彼らはそれを素直に信じてベツレヘムの馬小屋に走っていきました。天使が告げたとおりに赤ちゃんがいるのを見て大きな喜びに満たされました。クリスマスの出来事のニュースは世界中の全ての人々に伝えられる大きな喜びの知らせです。それで毎年いつも、今年もこの出来事を準備した神様に感謝してイエス様の誕生をお祝いするのです。

"フランネル劇の後、みんなで食前のお祈りをしてからピパルカックとヨウルトルットゥを頂きました。この時、子どもたちの声は聞こえなくなって、みんな味わうのに夢中でした。どのクッキーは自分で作ったものか、探し当てるのも楽しみを増します。沢山作ったヨウルトルットゥとピパルカックはどんどんなくなっていきました。

今回は大人の料理クラブに入れなかった方々も一緒だったので、歓談も賑やかさを増して楽しい一時になりました。

ご参加者の皆さま、良いクリスマスをお迎えください。

 

 

 

説教「イエス・キリストという光を持つ者は闇の世の中で輝く」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書1章6-8、19-28節

 

主日礼拝説教  2023年12月17日(待降節第三主日)

聖書日課 イザヤ61章1-4、8-11節、第一テサロニケ5章16-24節、ヨハネ1章6-8、19-28節

説教をYouTubeで見る。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 洗礼者ヨハネとその洗礼について

本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々がお迎えするように準備をした人です。少し歴史的背景を述べますと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。これがいつ頃のことかと言うと、ローマ帝国の皇帝ティベリウスの治世15年の時でした。ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位しました。治世15年というのは即位の年を含めて数えるのかどうか不明なのですが、どっちにしても洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。

 ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。

 さて、ヨハネのもとに大勢の群衆がやって来て罪を告白して洗礼を受けました。当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日と呼ばれる日がついに来たと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる通過点とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かるために、罪から清められようと罪を告白して洗礼を受けたのでした。

 当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所からも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言に基づき神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じられていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。

 さて、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週のマルコ1章の中でヨハネ自身認めたように、罪の赦しが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けるのは自分の後に来るメシア救い主なのだと。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに誘導するものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、その自覚を聖霊が伴う洗礼の日までしっかり持ちなさい。その日にお前は本当に罪を赦され、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。これが、ヨハネが人々に主の道を整えさせたということです。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。

2.聖霊を伴うイエス様の洗礼

それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?それは、次のようなことが起こって始まりました。イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、なぜメシアが十字架で死ななければならなかったのかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって果たして下さったということでした。実はそのことは既に旧約聖書に預言されていたのですが、少し抽象的な言い方をされていました。それが、イエス様の十字架と復活という歴史的な出来事として起こったのでした。

 神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。

 ところが、罪を赦されたと見てもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚はなくなりません。逆に、神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって、自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づくようになります。もちろん、行為として盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんをしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神は失望して見捨ててしまうかと言うと、そうならないのです。どうしてならないかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが揺るがずにあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は揺るがない十字架を土台にしているので、自分の過去の嫌なことが浮上して新しい命を台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。

 罪の自覚の呼び覚ましとそれに続く罪の赦しが一体になっているというのは、聖霊が働いていることの現われです。もし聖霊の働きがなければ罪の自覚は生まれません。罪の自覚がないところには罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったら絶望しかありません。そこには聖霊がおられません。罪の自覚と赦しが一体になっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことで信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることこそ聖霊が目的とすることだからです。聖霊は、まさにイエス様が設定した洗礼を通して与えられます。

 自分を聖霊の働きに委ねていれば、神との結びつきは一層強まり、私たちの内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。それで悪魔は罪を用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪にはもうこの結びつきを失わせる力がないとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を私たちのために十字架で受けて下さったからです。十分過ぎるほどの償いがなされたのです。しかも、イエス様は死から復活したので死を足蹴にしています。それでイエス様に罪を償ってもらった人を罪は支配下に置けないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に向かって、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は死んだも同然さ」と。

 人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に、私たちが遭遇する苦難や困難があります。そのような時、人は、神に見捨すてられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。それでイエス様の贖いの業を忘れて、自分の力で神のご愛顧を引き出そうと何か無関係なことをやってしまったり、あるいは、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになりします。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに本当は私たちが受ける神罰を代わりに受けたという、それくらい神が私たちのためを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っているなどと考えるのは間違いです。じゃ、だったら、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものではなくて、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?これも難しい問題です。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆だという考えは捨てることです。なぜなら、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、というのがキリスト信仰の真理だからです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向ければ、本当にその通りだとわかります。

3.イエス・キリストの光を持つ者は闇の世の中で輝く

このように、キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていく生き方です。しかしながら、この世には神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あります。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光について、本日の日課の前半部分の6~8節が述べています。そこで、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、光を証しするために遣わされたと述べます。人々はヨハネ自身が光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。

 洗礼者ヨハネが証した光とは何か?それは、まさにイエス様のことでした。イエス様が光であることが1~5節の中で述べられています。イエス様が光であるとは、それはどんな光なのでしょうか?

 まず、イエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられます。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間たちの光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を素直に訳すと「人間たちの光」です。その「人間たちの光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間たちの光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。

 5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。さて、どっちを取りましょうか?悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとするが、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまった、なので、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

 キリスト信仰者とは、まさにイエス・キリストという光を持つ者です。なぜなら、神との結びつきを失わせようとする力が働く闇の世の中で、洗礼を受けて神との結びつきを持つようになったからです。キリスト信仰者はまた、闇の世の中で、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて、たえず十字架のもとに立ち返って神との結びつきを強めていきます。イエス・キリストの光を持つ者はどのように輝くか、そのことが本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中にも言われています。

 3節で、悲しみにくれる人たちに慰めが与えられ手が差し伸べられると言われ、また嘆きの時に頭からかける灰に替えて頭飾りが被せられる、嘆きに替えて喜びの香油が注がれる、恐れの霊に替えて栄誉の外套を着せられると言われます。闇の世の中で灰を被った状態、嘆きと恐れの状態にあったのが、神から頭飾りを被せられ香油を注がれ栄誉の外套を着せられるのです。そのようにイエス様の光を持つ者は、闇の世にあって義の木、神の植木と呼ばれ、神の栄光を現す者になると言われます。さらに4節では、光を持つ者たちが廃墟を再建することが言われます。闇の世の中で神との結びつきを失った人たちが結びつきを持てるようにと働く姿があります。

 10節から後は、イエス・キリストの光を持つ者の喜びが述べられます。ここで注意しなければならないことがあります。それは、日本語訳の10節で「恵みの晴れ着」と言っているところと、11節で「恵みと栄誉」と言っているところです。ヘブライ語原文ではツェダーカーなので、「恵み」ではなく「義」です。信仰義認の「義」、神から義と認められる、神の目に適う、神に相応しい状態であることを意味する言葉です。「恵み」は正しい訳ではありません。フィンランド語の聖書も「義」と訳しています。「義の晴れ着」、「義と栄誉」にします。そうすると、イザヤ書のこの個所と新約聖書の繋がりが見えてきます。

 10節で言われます。父なるみ神は私に「救いの衣服」を着せて下さったと、「義の礼服」で覆って下さったと。それは、あたかも、花婿が頭飾りをつけて儀式に臨むようであると、また花嫁が装飾品で飾られるようであると。また、大地が木々を生えさせるように、また園が種に芽を出させるように、父なるみ神は、その義と栄光を諸国民の前に生え出でさせると言われます。どれを見ても、義は人間が自分の力で獲得するものではなく、神から授与されるもの、神の力で現れるものです。まさにイエス様の十字架の業と復活の業です。使徒パウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた時に神の義そのものであるイエス様を衣のように頭から被せられたのだと言います(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)。このことをイザヤ書はイエス様の時代の何百年も前に先取りしたのでした。さすが預言書です。一人一人の洗礼と信仰は、大きな世界と大勢の人々の中では小さな粒のような出来事かもしれませんが、神の目から見たら、闇の世に大打撃を与え、それを覆すような大きな出来事なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

クリスマス祝会

2023年12月10日(日)待降節第二主日 主日礼拝  

  説教:木村長政 名誉牧師

「神の国は近づいた、悔い改めよ」       2023年12月10日

   マルコによる福音書1章1~8節

 今日の聖書は、マルコによる福音書1:1~8です。まず「マルコによる福音書」について見てみます。ふつうは、福音書は、主イエス様の伝記が書かれているように言います。確かにルカによる福音書などは、なるべく歴史の順を追って、手元にある資料と、ルカが聞いた事をなるべく詳しく書こうとしたでしょう。しかし、専門家の間では福音書は伝記とは言えない。そればかりか、イエス伝を書くことは不可能だ、とさえ言われています。イエス様のご生涯を誰も初めから記録したわけではありません。恐らく、あの時、こう言われた、とか驚くべき奇跡の業をなさって、人々の心に強く印象に残っていて、初代教会の中で語り継がれていった。と見るほうが良いようです。それを、マルコは集めて編集をしていったようです。また、マルコは、ペテロの通訳であったらしいので、ペテロからも、イエス様と生活を一緒にしていた話を聞いてメモしていたでしょう。或いはまた、初代教会の代表的人物にバナルバという人がいて、マルコとは従兄弟同士で、パウロの伝道旅行にバナルバとマルコは同行しています。ですからパウロとの関係もありました。マルコはペテロとローマに行っている間、ローマの信徒たちから、ペテロが語ったことを記憶に従って書述するように求めたようです。こうして、ペテロとパウロの死後ローマでマルコはペテロの説いた福音を文章として残したようです。この福音書がいつ頃書かれたか、と言いますと紀元65年頃と言われています。福音書は福音を読むべきもので、歴史的興味で読んでも、それは無理なことです。そこには福音書の霊的な不思議な性質があるのです。マルコ福音書1章1節はこれだけ独立していて2節以下の本文と直接結びつけることは出来ない。初代教会の人々はイエス様の生涯について、どのように見ていたのでしょうか。洗礼者ヨハネの出現と、ヨルダン川での洗礼に始まって、最後はイエス様の昇天で終るのでした。ですから1章1節は2~8節に対する標題というふうに見られます。まず、1節のみ言葉について見てゆきます。塚本訳では「イエス・キリストの福音はこうして始まった。」と訳しています。共同訳では「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と訳されています。神の子イエス・キリストの言葉と業とにより神の国が来る。そのイエスを信ずるだけで、救われる、という嬉しい音ずれは洗礼者ヨハネの活動をもって始まった、と考えたのです。福音という言葉には喜ばしい音ずれ、という古典ギリシャ語でユーアンゲリオンと言いますが元々は戦いに勝った、喜ばしい知らせを使者が報告することを意味したものです。紀元元年頃ローマ皇帝を礼拝する時代には人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現は、よき音ずれであり、その誕生は「喜ばしい音ずれ」という意味で福音が用いられた。今の時代に「人類に平和と救い」をもたらす福音が本当に求められているのではないでしょうか。イザヤ書40章9節には、うるわしい喜びを歌い上げています。「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力をふるって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よあなたたちの神、見よ主なる、神、彼は力を帯びて来られ、み腕を持って統治される。」「福音」と言う言葉を最初にキリスト教に取り入れたのはパウロで、ロマ書1章16節に「福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる者全てに救いをもたらす、神の力だからです」。という特別の意味を持たせた。さらに2世紀の中頃になるとパウロが用いた内容と同時に「イエス様の生涯の物語」を指して言うようになった。さて、この2節以下の本文は聖書の引用から始まります。またこの部分の結びの11節はイエス様がヨハネから洗礼を受けられ、その時天から神の言葉が臨んだ、言葉で終ります。このように主イエス・キリストの出来事は聖書に書いてあるとおりのことでありました。主イエス・キリストの福音はまさしく聖書が伝える神の言葉に従って起こった救いであることを喜びを持って語るのです。

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「預言者イザヤの書に、こう書いてある」。マルコはそう書き始めました。しかし、ここで引用されているのは厳密にはイザヤ書の言葉ばだけではありません。この当時、自分たちが待ち望む、救いの約束を告げてくれる聖書の言葉のエッセンスを集めた書物が愛用されていたようです。「証言集」と呼ばれていました。そこに収められていた言葉が此処に引用されているのではないかと言われています。「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わし」。とありますが、これはイスラエルの民の歴史を語り始める、出エジプト記23章20節からの引用です。ここでの「あなた」というのはエジプトをようやく脱出することが出来たがまだ荒野の旅を続けておりました神の民のことです。主なる神が、この荒野を旅するイスラエルの民にみ使いをおくって導くとの約束です。神の民はその導きに従って行けばよいのです。次に「あなたの道を準備させよう」。これは旧約のマラキ書3章1節の言葉です。マルコの引用と少し違います。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」となっています。マラキ書ではイスラエルの民でなく神ご自身がいよいよ登場なさる、その道備えをする使者を送る、というのです。また、マラキ書3章23節を見ますと「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。神の勝利が明らかになる、終わりの日に先立って力あるエリヤが登場するのです。エリヤは最後の救いをもたらす神ご自身の到来の先駆けをなす者でした。さらに、列王記下1章8節によれば、エリヤは駱駝の毛布を着て皮の帯を腰にしておりその服装でエリヤだとわかったそうです。と言うことは洗礼者ヨハネが此処に現れた時、まさにエリヤと同じ格好をして登場して来た、と言うことです。3節の「荒野で叫ぶ者の声がする、主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」、これはイザヤ書40章3節の言葉です。第二イザヤと呼ばれる部分の最初の言葉です。第二イザヤは、イスラエルの歴史の中でも最も悲劇的な時代であったバビロン捕囚の時代に記された。「荒野」とはバビロンの地の事であり、また故郷イスラエルと自分たちを隔てる荒野のことでしょう。バビロンに捕らえられている人々が望郷の思いに駆られ帰国を切望しながら故国への遥かな道のり、そこに横たわる荒野をみるのです。その荒野で声が聞こえた。「主の道を整えよ、主の道をまっすぐにせよ」。と荒野には道がありません。そこへ道をつけ神がイスラエルに帰られる道を備えよう。そう叫ぶのです。もちろん神お一人ではない。神の民も解き放たれて、それに従う。その自由解放の日が来る、と言う望みの歌であります。このように、出エジプト記、イザヤ書、それとマラキ書が引用されています。旧約聖書全体を貫いて語られてきた望みの言葉が要約されて、それが今ここに成就する、という喜びが語られるのです。どのように成就するのか。神が来られるのです。他の何事でもありません。神が私どものところに来られる、それが始まるのです。洗礼者ヨハネはその先駆けです。これは神の救いの新しいみ業が始まった、というしるしなのです。そのヨハネが立っている荒野です。荒れ野には人が住んでいません。住もうとも思わないところです。しかし、そこはまた神の民が神に導かれて歩むことが出来たところです。預言者エリヤは自分の弱さを嘆き途方に暮れた時、荒れ野に導かれて神の声を新しく聞き直しました。荒れ野、それは神と共にあるという、神の声を聞くところでもありました。<考えてみますと>この教会も日本へ伝道されて以来、今の時代がまさに弱さと嘆きの途方に暮れた荒れ野ではないでしょうか。

この荒れ野に神が共にいてくださっている、私たちは神の声を聞く時でありましょう。4節、5節を見ますと「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れれて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べ伝えた」しかし、ヨハネはそこでただ1人ではありませんでした。5節「ユダヤの全地方とエレサレムの住民は皆ヨハネの下に来て罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」誰もが来たのです。全ての人が差別の扱いなく、皆が受けられる罪の赦しの洗礼を受けたのです。罪の赦しがなければ、誰も生きられないからです。誰もが罪の赦しを得るために悔い改めなければならないからです。悔い改めが出来るのは鋭い良心が求められるのではありません。悔い改める、それは向きを変えて帰る、ということです。今までの道の歩き方が間違っていた事を知り、神の身許に帰るのです。洗礼を受けるのはそのためでした。そこに、ヨハネのバプテスマの意味がありました。そして、ヨハネは言いました。「私よりも優れた方が後から来られる」と「優れた」というのは「より力がある」という意味です。「この方は聖霊でバプテスマを授ける」方です。ヨハネは「この方の靴ひもを解くにも値しないと言いました。靴のひもを解く務めを与えられた奴隷にも値しないのです。主イエス様が、いかに高い存在か。神なのですから比べようがありません。そのイエス様が此処に来て下さって聖霊による業を始めて下さるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない

神の平安があなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

本年最後の家庭料理クラブは12月9日に開催しました。季節は冬なのに、この日は暖かくまだ紅葉もきれいで秋のような天候でした。今回はフィンランドの伝統的なクリスマスのパンJoululimppuとクリスマスのデザートLuumurahka を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、クリスマスのパンの生地を作ります。材料を測って、生地に入れるスパイスのフェンネル・シードを細かくして順番にボールに入れていきます。ライ麦と小麦粉を加え生地をよく捏ねて出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。今回は発酵が早くて生地はあっという間に大きく膨らみました。それから早速パン作りに入ります。生地を3つに分けて丸め、きれいなパンの形にします。参加者一人ひとりが作ったパンはあっという間に鉄板の上に並べられました。そこで二回目の発酵をさせます。

パン生地を発酵させている間にデザートの準備をします。その途中でパンが十分に膨らんだのでオーブンに入れて焼くことにしました。デザートは、水を切ったヨーグルトにプルーン・ジャムを混ぜ、それにホイップした生クリームを加えると、スポンジ状のデザートが出来上がります。

パンの方は焼き色がつきました。焼いている途中で水とシロップを塗ったので表面がピカピカし出しました。それを見た皆さんは、どんな味がするんだろう、早く食べてみたいなどと興味津々。今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク「Glögi」も用意して温めたので、クリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。

テーブルのセッティングをして皆さん席に着き、いよいよ焼き立てのJoululimppuを味わいます。今回はスライスしたパンの上にマーガリンとディルと塩付けのサーモンGraavilohiをのせて頂きました。Luumurahka とGlögiも一緒に味わうと、フィンランドのクリスマスの味がする!という声も。歓談の一時の後で、フィンランドのクリスマスについてや、聖書に書かれている世界最初のクリスマスの出来事についてのお話を聞きました。

今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来たと思います。とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休みですが、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

2023年12月9日料理クラブの話「クリスマス料理」

今日は皆さんと一緒にフィンランドのクリスマス・パン「Joululimppu」とクリスマスのデザート「Luumurahka」を作りました。Joululimppuはフィンランドの伝統的なクリスマスのパンで、私の祖母も母も毎年クリスマスの季節に作っていました。フィンランドのクリスマスの食卓にはいろんな種類の料理を作りますが、それでも、もしJoululimppuがなかったら何か足りない感じがします。フィンランド人はクリスマスのお祝いのためにいろいろなお菓子や料理を作ります。一番初めにクッキーやケーキを作って、Joululimppuは最後にクリスマスの少し前に作ります。パンは出来たてが一番美味しいからです。Luumurahkaは伝統的なクリスマスのデザートではありませんが、プラーンで作った別のデザートは昔から作られました。今はLuumurahkaのように簡単に作れるものが多くなりました。

クリスマスはフィンランド人にとって一年の中で最も大事なお祝いです。クリスマスの前の四週間はアドベント、日本語で待降節と言います。明日は待降節の第二の日曜日です。フィンランドではアドベントに入ると、多くの人たちはクリスマスの準備で忙しくなります。フィンランド人はアドベントとクリスマスをどのように過ごすか、これから写真を見ながらフィンランド人の過ごし方についてお話をしたいと思います。

フィンランドではクリスマスは家族が中心のお祝いです。毎年準備もお祝いも同じように家族一緒に行います。料理やお菓子の準備も、大掃除も飾り付けも、クリスマスカードやプレゼントの準備も、教会の礼拝に行くのも家族一緒です。教会から帰って家族みんなでクリスマスの食事を頂き、プレゼントを渡します。しかし、家族中心のお祝いのクリスマスに時々何か予想外のことも起こります。私はフィンランドでそのようなクリスマスを何回も経験したことがあります。

子供の時、次のような不思議な体験をしました。私の実家は田舎の奥深い森を切り開いたところにある酪農家でした。あるクリスマスイブの前の日のこと、全然知らない旅人が突然訪れて泊めてほしいとお願いしたのです。私の父と母は少し困ってしまいました。これから家族のクリスマスのお祝いをしようと準備をしてきたのに、全然知らない人を家に入れるのは難しく感じられました。泊めても大丈夫かという心配もありました。でも外は暗く雪が積もってとても寒く、泊めてあげないのは可哀そうでした。結局泊めてあげることにし、準備していたクリスマスの料理も出してあげて、少し早くクリスマスの雰囲気を分かち合いました。翌日その人は出発しました。両親も子供たちも、最初は抵抗感があったのですが、泊めてあげてよかったと思いました。あとでこのことを思い出すと、最初のクリスマスの夜のベツレヘムの羊飼いのことを考えるようになりました。

世界で一番最初のクリスマスにどんなことが起きたでしょうか?その夜ベツレヘムの馬小屋で神さまの独り子イエス様がお生まれになりました。その同じ夜ベツレヘムの町の郊外の野原で羊飼いたちが羊の番をしていました。その時突然天使が現れて言いました。「恐がらなくてもよい。今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになりました。」当時羊飼いは社会の中でとても低く見られた職業でした。このような社会の低い層の人たち、恵まれない人たちに天使が現れて救い主の誕生を知らせたのです。ここにはとても深い意味があります。それは、イエス様は本当に位の高い人、低い人を区別することなく、全ての人々のためにお生まれになったということです。このことをはっきり示すために、神様は羊飼いを選んで一番最初に知らせたのでした。このように神様の優先順位は人間の考え方とは違い、低く見なされる人たちの方を選ばれるのです。そして神様は、そのような人たちこそ天使のメッセージを素直に受け入れると知っていたのでした。

羊飼いたちは天使から告げられたことを大勢の人々に伝えて分かち合いました。それで私は、クリスマスの時に実家に見知らぬ旅人を泊めてあげたことはクリスマスの豊かな喜びを分かち合う体験だったと思います。神様はこのことを忘れないようにとその旅人を送ったのだと思うようになりました。

クリスマスを毎年同じようにお祝いできることは感謝すべきことです。しかし、一番大事なことは、初めてのクリスマスの夜に何が起こったかを忘れないことです。救い主が私たちのために人としてお生まれになったということが本当の喜びです。その喜びを羊飼いたちのように他の人たちと分かち合うことができれば、喜びは小さくとどまらず、もっと大きなものになります。今年のクリスマスの季節、私たちもクリスマスの本当の喜びを忘れないように過ごしましょう。

クリスマス