2024年5月5日(日)復活節第六主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安が、あなた方にあるように。 アーメン

「互いに愛し合いなさい」          2024年5月5日(日)スオミ教会

聖書 [ヨハネ福音書15章9~17節]

きょうは「子供の日」です。子供は純粋で素直に成長します。ところで今、日本でその子供の数が減っています。将来の働き手が少なくなってしまう、大変な課題です。さて、きょうの聖書ではイエス様が「まことのぶどうの木」の譬えを15章1~16節までのところで語られて続いて「私の言葉があなた方に留まっているならば、豊かに実を結ぶ、と言われました。その実を結ぶと、どうなるか?・・その結果は17節の「互いに愛し合いなさい」と、言うことです。実を結ぶのは、あなた方が外へ出て行って成果を上げること。そこで、出て行って、なす業とは何か、と言いますと、12人の弟子が地の果てまで出て行って、そこでイエスの弟子を作ることです。つまり異邦人伝道であります。その伝道によって多くの人々がキリストの福音を聞き、そして実った、というだけではなく「その実がいつまでも残るためである。」とイエス様は言っておられます。このメッセージはイエス様の言葉を聞いている私たちにも命ぜられている事です。

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世界中にまで、キリストの福音が伝えられ、そうして実を結ぶのにはどうして行ったら良いのか。

その第1は、祈りの喜びを知ることです。7節には「あなた方が、私につながっており、私の言葉があなた方に留まっているならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなた方が実を豊かに結び、そして私の弟子となるならば、それによって、私の父は栄光を、お受けになるであろう。あなた方が実を豊かに結び、そして私の弟子となるならば、それによって私の父は栄光を、お受けになるであろう。この7節に「求める」なら「与えられる」と言われていて、16節には「イエスの名によって父に求めるもは何でも父が与えて下さる」という約束です。ここに非常に祝福された、祈りの喜びが語られています。”祈りは、キリスト者の血液である”と言われており、またキリスト者の呼吸する空気のようなものである、とよく言われています。それほどに、祈りはキリスト者が信者として生きてゆくための絶対不可欠な営みであります。祈りというものはキリスト者であれば、ごく自然のこと、と思いがちですが、やはりりそこに特別な心構えも必要であります。マルチン・ルターがコープルグという城に隠まれておりました時、ルターはせっせと聖書の翻訳をしていたのであります。がその頃、彼のそばにおりましたディ—トリッヒという弟子が有名なメランヒトンという友人に宛てた手紙の中で、ルターの生活の事を伝えております。それは「このような苦しい時にこの人の特別な不撓不屈の精神と快活さと信仰と希望とはどれほど驚嘆しても仕切れない、それほど彼は絶えず神の言葉を熱心に研究し、そのような精神を養った。彼は少なくとも一日、3時間、しかも研究に最も適した3時間を祈りのために費やさない日はなかった。ある時、私は幸いにも彼が祈っている声を聞くことができた。彼の祈りの言葉のうちに何という素晴らしい信仰があったことか!彼は自分の神に大いなる畏敬の念をもって語る。彼は自分の神に父と語り、友と語るように祈り続けました。このことが宗教改革の仕事を人間業ではない仕事にすることが出来たのだと思う。」メランヒトンに宛てた手紙です。

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旧約聖書、列王記上17章1節と18章41~45節を見ますと、「預言者エリヤは雨が降らないように祈りを捧げたところ3年6ヶ月の間、地上に雨が降らなかった。それから再び祈ったところ、天は雨を降らせ地はその実をみのらせた」とあります。このように、私たちの祈りの働きが力ある働きとなるためには、祈りにも力がなければならない。そのような祈りの力強さというものはヤコブの手紙5章16節にあるように義人の祈りは大いに力があり、効果がある、とありますから、祈る本人が「義人である」ということです。7節には「あなた方が、私につながっており、私の言葉があなた方に、留まっているならば、何でも祈ることは叶えられる。そういう力ある祈りを捧げることであります。」とあります。このように、私たちが、まず、イエスの言葉うちに留まり、イエスの言葉が私たちのうちに留まることであります。注意することは、私たちが望む事、欲する事がキリストの言葉とは殆ど無関係で父なる神さまが栄光と挙げ給う事とは無関係な事を望んだり、欲したりしていて、それを頼んだら何でも叶えられる、というのではない。そうではなく、あなた方が本当にイエスにつながり、イエスの言葉があなた方につながり、あなた方が本当のイエスの弟子となり、イエスが願われる事と同じ事を願うようになる。つまり、父の栄光が挙がる事を喜びとするようになったならば、その時、望む事は何でも叶えられるのであります。私たちも本当にイエスの弟子となり、イエスの望む事を我が望みとするようになったら,その時、何でも望むものは与えられる。イエス様は11節で「私が、これらの事を話したのは、私の喜びが、あなた方のうちにも宿るためであり、また、あなた方の喜びが満ち溢れるためである。」と語っておられます。ここで分かりますように、イエス様は、いま生涯を閉じようとする遺言めいたお話しの中で、ご自分の生涯、或いはご自分の在り方そのものを「喜び」と言う言葉でまとめていらっしゃるのであります。神の喜びが、我が喜びとする事が真の喜びを持つものであります。

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第2にイエス様は9節から15節までかなり良い言葉を費やして実を結ぶために「あなた方は私の友である」と言うことをお教えになります。9節~10節に「父が私を愛されたように私もあなた方を愛したのである。私の愛のうちにいなさい。もし私の戒めを守るならばあなた方は私の愛のうちにおるのである。」そして、14節で「あなた方が私の命じる事を行うならば、あなた方は私の友である」と、同じ事を言っておられます。ここで、私も君たちも仲が良いね、と言うことではありません。あなた方が私を愛しているかどうか、は別にして、あなた方は私の愛のうちにいるんだよ、私が、あなた方を愛しているんだよ、そういう意味で「友」なのであります。弟子たちが“イエスの友である”と呼ばれたその友の意味を旧約聖書からもう少し深く見て行きますと、歴代誌27章33節を見ますと、ダビデ王の年代を詳しく記している中で“アルキ人フシャイはダビデ王の友人であった。”とあります。また列王記上4章を見ますと4章1節にソロモン王は全イスラエルの王となった。そしてソロモン王の高官たちの名が,綿々と記されている中で、5節になりますと「チタンの子ザブドは王の友で祭司となった。」とあります。これまで「王の友」となった名をあげました。王の友となる人は宮殿にあって、朝、起きたらすぐにでも,ずかずかと王様の部屋に入ることが許された特権階級でありました。どんな大臣や家来が王様と語るより先に王と語る権利を持った者が「王の友」でありました。また、そして旧約聖書は「神の友」という言葉をただ一人「アブラハム」に使っているのです。例えばイザヤ書41章8節に「私の愛する友、アブラハムよ」とあります。歴代誌下20章7節には、ヨシャファトは主の神殿にユダヤの人々を集めて祈った、「この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになった」と言っています。ヤコブの手紙2章23節には「アブラハムは神を信じた、それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、「彼は神の友と呼ばれたのです。」とあります。このように旧約聖書で言われている「王の友」とか「神の友」と言われている「友」という場合の深く重い意味を込めてイエス様が弟子たちに言われた「人が、その友のために命を捨てること、これより大きな愛はない」と、この言葉には特別に選ばれた、イエスの大きな愛に包まれて「あなた方」と言っておられるのです。この福音書が書かれた一世紀の終わり頃より前にパウロの書いた手紙や他の福音書が既に書かれて教会の中で読まれているわけですね。その頃に書かれているのはクリスチャンは自分たちを主イエスの僕という言い方をして書いています。自分は主イエスの奴隷であると言っています。クリスチャンである自分たちはカエザルの奴隷ではなくキリストの奴隷である。と言うことを誇りとしてまいりました。ところが、今ヨハネはここでイエス様の慰め深い言葉を思い出して“いや、あなた方はもう奴隷ではなくて、「友」なのです。”と指摘しているわけです。神様は友と呼んでアブラハムに対して特別親密な関係をもたれました。創世記18章でソドムと言う町が、あまりにも罪深いので神様はその町を滅ぼされる前に3人の旅人の姿をとって町の実情を調べに行かれます。そのことを何も知らずにアブラハムは心を込めておもてなしをしましす。そして、別れる直前に主は仰せになりました。17節で「私のしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」彼は全地の祝福の基となるために私が選んだのではなかったのか・・・神様はこう、ご自分が自問自答なさいまして、ご自分が胸のうちで考えている事を全部アブラハムに打ち明けなさいます。奴隷でなく「友」である、という事はまさに、そういう親しさを与えられる、ということであります。それで、今日の聖書の15節のところで弟子たちに言われます。「私は、もうあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなた方を友と呼んだ。私の父から聞いた事を、皆、あなた方に知らせたからである。」奴隷は確かに主人の命じた事を全部しなければなりません。しかし、奴隷は、なぜ今日ご主人は、これをやれ、とお命じになったのか、なぜご主人は昨日あれを私にお命じになったのか、その事の深い目的や意図を知らされません。ただ命じられた事をそのまますれば良いのだ。それ以上に詮索するのは、むしろ傲慢であります。ところが、友という愛されている者とはちょうど神様がアブラハムにお語りになったように隠していては水臭いではないか、そこは、はっきりと自分の考えている事、その理由や目的や意図の何もかも打ち明けて、こちらと同じ理解をもってもらえるようにするのが友情の関係と言うものです。私たちも、また主イエス様は友と呼んでくださって、そういう関係に入れられているのであります。イエス様が弟子たちを、もう奴隷とは呼ばない、友と呼ぶ、なぜなら、私の知っている事は全部知らせてあげるから、と言ってくださった時の信用の程度というものは驚くべきものだ、と思うのです。心からの信頼です。

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最後に、イエス様は、その使命を16節で語っておられます。「あなた方が、私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。そして、あなた方を立てた」。あなた方を選んだという「選び」の意味と言うのは職務び任ずる、とい意味で選んだのだ。と主は言っておられるのです。「私が、そういう任務に定めて任じたのだ。一方的な、主権的な主キリストの決定を強調した命令であります。私たちは一人々は、その人に最も相応しい主のみ心に沿った職務を命じられて選んだ、と言っておられるのです。そして「あなた方を立てた」。あなた方を任命して立てた。立てたというのはどういう意味でしょうか、使徒パウロが使徒言行録13章47節に、ずばり言っています。「主は私たちに、こう命じておられる。『私は、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである』」。ここにはっきりと、地の果てまで異邦人に救いをもたらす世界伝道に任ぜられる、ことを「立てる」と言う言葉で表現しています。ですから、ここで「あなた方」と言っていますのは、12人の弟子たちに限るのではなく、主イエス様が十字架の上で命を捨てて友としてくださった、すべてのキリスト者なのであります。12節で「私の戒めはこれである。私があなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい」。すべてのキリスト者がここで「立て」られている、あなた方であります。およそ、主キリストによって義と認められた、すべてのキリスト者、キリストが、その人のためにご自分の命を捨てるほどの愛を示された、ところの全てのキリスト者が、この尊い任務のために立てられ任ぜられているのであります。

<人知では、とうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の、心と思いを、キリスト・イエスにあってまもるように。 アーメン >

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