お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
手芸クラブの話2024年1月
今日は今年初めての手芸クラブの開催が出来て嬉しく思います。今日はバンド織のキーホルダーを皆さんと一緒に作って、とても可愛い色とりどりのキーホルダーが出来ました。 わたしが今使っているキーホルダーはひろ子さんからいただいたものですが、おかげで鍵を探す面倒がなくなりました。
今日は一月の最後の日ですが、フィンランドからもらったカレンダーの1月の写真についてお話ししたいと思います。このカレンダーには、毎月フィンランドの季節に典型的な景色の写真が載せてあります。一月の写真は寒そうですが、冬の澄んだ青空の景色です。冬フィンランドの木は霜で覆われています。写真の真ん中に岩の上に灯台が見えます。この灯台はそんなに高くはありませんが、その光は遠くまで輝いたと思います。私はこの写真の灯台を見て、これは一月にピッタリの写真だと思いました。長い冬の夜に光を与えるからです。
フィンランドに灯台は60個くらいあります。日本と比べたら全然多くありません。日本はとても多くて3千個以上もあります。日本は島国だからでしょう。フィンランドも、南と西は海に囲まれていて、島も多いので、灯台は昔から安全な海上運送のために重要でした。灯台の赤いランプは船やボートに安全な航路を示しました。ところが、現在は灯台の重要性は減ってしまったかもしれません。灯台の代わりにスマートフォンやパソコンのアプリを使って船の進路を決めるようになったからです。このため、フィンランドの多くの灯台は観光客に開かれて人気がある観光地になりました。夏多くの観光客が灯台を訪れます。
ところで、私たちの人生を考えると、私たちの歩みは海を進む船と似ています。それで、私たちの歩む道にも灯台の光のようなライトが輝いていると考えます。しかしそれはどんな光でしょうか?
旧約聖書の詩篇119篇105節には次のようなみ言葉があります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」です。天の神様は私たちに聖書のみ言葉を与えて下さって、み言葉を通して私たちの歩みを守り導いてくださいます。み言葉は灯台と同じ役割があるのです。私たちは聖書を読んだり、み言葉に聞くことをして、行く方向をチェックして進みます。灯台の大事な部分は輝く光です。聖書のみ言葉も同じで、み言葉は心の中に光を灯します。それは、どんな光でしょうか?それは、天の神さまの独り子イエス様のことです。ヨハネの福音書には次のようなイエス様の言葉があります。「私は世の光である。わたしに従うものは暗闇の中歩かず、命の光を持つ」ヨハネによる福音書8章12節です。
イエス様は「私は世の光である」と言われました。この世の消えない本当の光はたった一つ、イエス様という光です。イエス様の光と同じような輝きを持つ光はこの宇宙には他にはありません。イエス様はこの世界の全ての人々のために光として来られました。その光に従って行けば、道に迷うことはありません。イエス様はいつも正しい方向に導いてくださいます。
しかし、私たちはイエス様から来る光を見て歩んでいるでしょうか?私たちは海で灯台の光を見てそれをチェックして自分の位置を知ってから前に進むでしょう。天気の良い時には灯台の光は良く見えるので船の進路を決めるのは簡単です。しかし天気の悪い時や霧の時、嵐の時は進むことが難しくなります。灯台の光も見えません。船が正しい進路から外れて岩礁にぶつかってしまう危険が高くなります。
私たちの人生の中にも同じようなことがあります。何も問題のない時は、私たちの歩みは軽く簡単です。しかし、私たちの人生の中でも天気と同じように、霧が発生したり、嵐になったりします。それは人生の試練の時です。自分や身近な人の病気、お金がなくて生活が大変になってしまったり、仕事を失ってしまったりなどなど、そのような時は嵐や霧の中を進むのと同じです。灯台の光がなくて、前に進まなければならないのと同じです。一生懸命努力しても、どこに向かっているかわかりません。
しかし、このような状況の中にいても、イエス様の光は輝いています。聖書を読み、み言葉に聞くと、イエス様の光が輝いていることがわかります。イエス様は、天気の良い時にも悪い時にも、私たちが正しい道を安心して進めるように私たちの歩みを守り導いて下さいます。しかも、イエス様の光は、現実の灯台よりもずっと遠くまで、奥深いところまで照らします。その光は私たちの心に入って、イエス様に従う信仰を起こします。イエス様の光は今年も私たちの心の中で輝いて、私たちに歩む力と勇気を与えて下さいます。
今年最初の手芸クラブは1月31日水曜日に開催しました。朝はまだ寒かったですが昼間は太陽が輝いて暖かくなり春が近づいていることを感じさせました。
今回の作品はバンド織のキーホルダー。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者が作りたいと思うキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸を前にして皆さんどれにしようか迷っていましたが、それぞれ好きな色の毛糸を見つけることができました。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るでしょうか?これから楽しみです。
それではバンド織に入ります。まずワープになる毛糸をカードの穴から通します。穴は小さいので、皆さん、集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。皆さんはこのテクニックを早く覚えたので、毛糸のきれいな色合いがすぐ見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。こうして、長いバンド織のNauhaがあっという間に出来上がり。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて輪っかに結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!
いつもの今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドの菓子パン・プッラを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、フィンランドの風景カレンダーの一月の写真にある灯台とイエス様は世の光ということについてお話がありました。それと、モニターを使ってフィンランドの冬の景色と音楽のビデオを鑑賞しました。楽しい歓談のひと時になりました。パイヴィ宣教師のショートメッセージをご覧ください。
次回の手芸クラブは2月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今年第一回目の家庭料理クラブでは「ラスキアイス・プッラ」Laskiaispullaを作ります。
フィンランドではイースターの準備に入る日のことを「ラスキアイネン」Laskiainenと言います。今年は2月13日です。ラスキアイス・プッラはそれに因んだ伝統的なコーヒーブレッドです。この時期フィンランドの多くの家庭で作られます。
丸いコーヒーブレッドの間にたっぷりのジャムや生クリームを挟むと美味しいラスキアイス・プッラの出来上がりです。是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1766963839iamg@1766963839arumi1766963839hsoy.1766963839iviap1766963839 まで。 電話03-6233-7109 日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会
SLEYの説教とTVドラマ「水戸黄門」の類似性について
SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)はフィンランドのルター派の国教会の中で活動する団体で国内伝道部門と海外伝道部門から構成される。 SLEYは1873年の結成以来、国教会がルター派の信仰に留まれるよう助けることを是としてきた。その礼拝説教や聖書の教えで中心になるものの一つが、「律法と福音」を一緒に宣べ伝えるということである。具体的には、律法を通して人間の罪性を明らかにし、神に義と認められる位に律法の掟を守り通すことは不可能であることも明らかにする、そして、イエス・キリストを救い主と信じる信仰により義と認められるという福音へと導いていく。なので、聖書の個所がどこになろうとも、教える内容はいつもこの「律法と福音」に集約されるのだ。SLEYにとって典型的かつ伝統的な説教は、はじめの部分で律法を通して罪の自覚を呼び覚まし、後の部分で福音を通して心の平安と神への感謝に至らせるというものである。(聞くところによれば、、90%を律法、10%を福音という説教もあったそうだが、それは行き過ぎかもしれない。)近年はこの定式を少し変えるようになってきたが、律法と福音の一緒の宣べ伝えは変わらない。
昔、高視聴率を誇ったTVドラマに「水戸黄門」がある。大学時代、TV局で番組編集のアルバイトをしていた友人が話したことを思い出す。あの番組は、流れがしっかり定型化されていて、例えば、風車の弥七が「探りに行け」と命じられるのは大体20何分の所、激しい斬り合いの最中に水戸光圀が助さん格さんに「よし、そろそろ」と言って、あの「ひかえー!ひかえー!この紋所が目に入らぬのか!」が40何分の所という具合に、日本のどこが舞台になろうとも変わらぬ定式があるのだ。それでも日本国民の多くは飽きもせず月曜夜8時にテレビの前に釘付けになっていたのだ。
フィンランドの国教会はルター派とは言っても、SLEYの外を出れば、ルター派とは思えない教えや説教がごまんとあるのが現状だ。人々は定式化されたものをつまらなく感じ、目新しいものを求める。それは日本も同じ。しかし、SLEY派の人たちにとって、律法と福音のいずれかが欠けたらもう説教ではない。紋所を掲げる場面がない水戸黄門と同じになってしまうのだ。
マルコ1章21−28節
「人間中心の聖書解釈?それとも神の真実な言葉?どちらが拠り所?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、荒野での悪魔の試みを受けられ、そして洗礼者ヨハネが逮捕された後「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げられ宣教を開始されます。その宣教の歩みにおいてイエス様は、今日のところだけでなく、そしてその後にもあるように、苦しむ人々を見離さず、悪霊に憑かれている者から悪霊を追い出したり、病めるものを癒されたり、数々の力あるわざをしていくことが記されていきます。そのようなイエス様の行うしるしは確かに神の約束と憐れみの素晴らしい証しです。しかし人はその罪の性質のゆえに、目に見える「しるし」のその本質を見誤り、むしろ自分に都合よく解釈し、人間はその「しるし」に魅了されます。そしてこの時代も、そしていつの時代も、そしてキリストの教会でさえも、御言葉を何か力のないものにしてしまい、そんな言葉の力よりも、人間中心に、しるしを求め、しるしに驚嘆し、そして目に見るしるしで全てを判断します。もちろん、イエス様は奇跡やしるしを表すことで、神の憐れみを具体的に現すだけでなく、ご自身が神であり、救い主であることを示されます。しかし、私たちが聖書を通して忘れてはならない大事な点は、イエス様はそれを、ご自身の力ある権威あるみ言葉を通してそのことをなされているということ、そしてそれは御言葉の力の証し、証明であるということです。それはこの前に書かれている、四人の漁師たちを弟子にするところでもそうでした。彼らの誰もがまず最初に彼らの方から自らの意思と力でイエスについて行こうと弟子になったのではありませんでしたし、それはできないことでした。イエス様の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」「わたしについてきなさい」という言葉が先にあったからこそ、その言葉の導きと力によって、それで彼らは、イエスについて行っているのです。その事実は、現代のキリストの弟子である私たちの救いと何らな変わることのない真理ではありませんか。私たちはみな、人の力ではなく、キリストの力、何よりみ言葉によって救われ、み言葉によって召されているでしょう。そして、さらにその弟子たちの招きの前のところでも、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時にも「天から」の神の言葉がありましたし、荒野の誘惑でもみ言葉に働く聖霊に導かれ、そしてマタイの福音書を見ても分かる通りに、悪魔の誘惑を退けたのも、まさに「御言葉」そのものによってであったでしょう(マタイ4章1−11節)。そのようにイエス様の宣教の働きは御言葉の豊かな働きであったように、教会も私たちの信仰生活も、このイエスの御言葉が何よりの力に他ならないのです。
2、「宣教の働き:御言葉の説教」
今日の箇所は21節からこう始まっています。
「21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」
カフェルナウムは、イエス様の宣教の初期に活動されたガリラヤ地方の町です。しかしその活動は、ただ悪霊を追い出し癒しをされるそれだけのために回っておられたのではありませんでした。イエス様は、安息日には、ユダヤ教の会堂に入って「教え始められた」とあるのです。つまり、そこでは巻物の旧約の言葉を開いて、その聖書の言葉から説教をされたということを意味しています。そして、これは、ルカの福音書を見てもわかるのですが、イエス様の宣教は主にその「安息日に会堂に入り聖書から教える、説教する」ということの繰り返しであったことがわかるのです。とかく人間は、目に見える華やかなしるしを求めますから、その華やかで劇的なしるしばかり注目が行きます。しかし、イエス様はそれだけのために行動しているのではない、いやむしろ、その行動、しるしの土台にある、神の御心を実現し、そして何より信仰を生み出し、支え、強めるみ言葉を説教すること、しかもイエス様ご自身も十戒に従い、神を神とし、そして安息日を覚えて聖としなさいとある通りに、聖書のみ言葉から「神が何を私たちに伝えているのか、教えているのか」を説教することを、イエス様は決して蔑ろにされなかった。軽んじなかった。いやむしろ大事にしておられたのでした。
3、「ご自身が権威ある者として」
しかも、その説教を聞いた人々ですが、22節です。
「22、人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
人々はとても驚きます。それはいつも会堂で教えている律法学者が説教をするようではなかったからでした。律法学者たちは、今の牧師もそうですが、「主はこうわれる」という言い方で説教をします。それは当然です。人に権威があるのではなく、み言葉に権威があるからです。しかしイエス様はご自身を権威あるものとして語られたことに人々は驚いたのでした。イエス様ご自身は命の言葉そのものであり神の御子であり権威そのものなのですから、そのように語るのです。人々にとってはそのような権威あるもののように語ることそのものが新しく驚きであったのでした。そのようにイエス様のしるしだけがイエスが神であることを示すのではなく、まさに今までにない人々を脅かさせるようなイエス様の権威ある者としてのその説教そのものもまた、イエスは真の神であること、つまり創造のはじめからおられ、全てを創造された言葉である方であり、そして約束された神の御子、救い主であることを示しているとも言えるのです。もちろんその言葉はただ権威あるもののように感じる見えるだけではありませんでした。事実、御言葉は、何者にも勝る権威であり力であることが現されていくためにこそ「しるし」が続いていくのが分かるのです。
4、「力ある御言葉によって悪霊を退ける」
23節以下、こう続きます。
「23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」
A,「洗礼後の悪魔、悪霊のイエスへの攻撃」
会堂に汚れた霊に取り憑かれた男性がいて叫びます。しかしその汚れた霊は、その言葉から、イエスがどのような存在であるのかわかっています。イエスが神の聖者であるとわかっているし、滅ぼす力があることをわかっているのです。マタイ4章の荒野の悪魔の誘惑の箇所を見ていただくと分かるのですが、荒野の誘惑の悪魔はそこで「神の子なら」とイエスが神の御子であることを知っているし、イエスが石をパンに変えることができる力があることも知って試みています。さらに言えば、悪魔はみ言葉にこう書いてあるからと言って、御言葉を用いてまで試みていたでしょう。悪霊もそれを支配する悪魔も、そのようにイエスのことや神の言葉さえもよく知った上で、人々に攻撃もするし、誘惑したり苦しめたりして、信仰を捨てさせようとしたり、惑わしたりして、そのようにして滅ぼすことに躍起になっている存在であることを思い起こされます。そしてマタイでもこのマルコの福音書でもそうですが、まさにイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊が降った直後に、荒野のサタンの誘惑に導かれ、そして、このような悪霊の攻撃が続くという事実があるでしょう。この洗礼の後に苦難や試みが続くこともまた、私たち自身にも当てはまる信仰の現実ではないかと教えられるのです。
B,「私たちも同じように攻撃にさらされている」
どういうことでしょう。それは私たちも、洗礼を受け、そこに信仰生活が始まりますが、その信仰生活は、何の問題もない、なんでも上手く行く、誘惑も罪ない、薔薇色の成功の日々があるということではありません。むしろイエス様のように、その逆ではないでしょうか。そのように洗礼によって罪の赦しを受け、聖霊を与えられ、イエスの福音による新しい命の道を導かれるからこそ、この罪の世にあっては、サタンの、信仰を弱め、捨てさせ、み言葉に信頼させないようにする巧妙な誘惑は常にあるということです。もちろん、キリストを救い主と信じて洗礼を授けられることによって私たちは救われ、キリストの十字架のゆえに、罪の赦しが与えられ、義と認められ新しく生かされて行きます。しかしそれは私たちが「義となった、完全になった」ということではありません。完全で聖であり義であるのはどこまでもキリストであり、私たちは、私たちにはない、私たちの外にあるキリストの義のゆえに信仰によって義と認められただけであり、私たちはどこまでも義人であり同時に罪人でもあります。信仰と霊にあっては、キリストの義のゆえに100%義と認められた聖徒ですが、しかし、パウロがローマ書でも言っているように、肉にあっては100%どこまでも罪人です。キリストにあっては日々新しいですが、古い人も同時にいるのです。だからこそ私たちの信仰生活は常にサタン、悪魔の誘惑との戦いであり、彼らはいつでも私たちを試み誘惑してきて、信仰を捨てさえようとしてくるのです。そして私たち自身の力、意思や理性の力、決心や努力では決してそれに打ち勝つことはできないのです。
C,「イエスはどのように退けるのか:真実な御言葉によって」
しかしそのような現実にあって、何がこのような汚れた霊、悪霊、サタン、悪魔、それによる誘惑や攻撃を退けているでしょうか。それはここでも一貫しているでしょう。25節
「 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」
それは、イエス様のその言葉でした。イエス様はその言葉によって汚れた霊に強い影響を及ぼし、退けて打ち負かし、その言葉の通り出て行かせたことがわかるのです。このように、イエス様の言葉には圧倒的な権威と力があり、その通りになる言葉であることを聖書は私たちに示しているのです。
事実、先ほども触れた「イエス様の荒野の誘惑」の場面、マルコでは荒野の誘惑についてあっさりと簡単に書かれていますが、詳しく書かれているマタイ4章を見ると、イエス様は、悪魔の誘惑、あるいは悪魔のみ言葉を都合よく引用した誘惑さえも、理性や人間の理屈とか感情ではなく、正しく解釈されたみ言葉で悪魔の誘惑を退けています。
何より聖書はその「神の言葉」の真実さと力こそを初めから証ししてきています。創世記では、三位一体の神は「み言葉」を持って創造し、その御言葉はまさに創造のはじめから働かれていた力であることを私たちは見ることができます。神が「〜よあれ」と言われると、その言葉の通りになって天地創造はなされているでしょう(創世記1章)。その通りになった言葉によって天地万物は存在し私たちも存在しています。神の言葉があってこそ私たちはいるし、神の言葉がなければ私たちも何も存在していません。天地創造は理性や常識では信じられないからと、あれは作り話だとか神話だとかいって、人間中心の理性や常識に合うように説明する、教会やそのような牧師などの説教もあるかもしれません。しかし、それだと、私たちに与えられている神の言葉は、何の力もない言葉、人間の理性や常識に服従する、権威のない言葉にすぎなくなります。しかしそうではありません。聖書はその言葉の通り、そして、それは、旧約のモーセや預言者たち、イエス様も、使徒たちも、パウロもその通りになる、「不可能なことなどない」「何でもできる」真実な生けるいのちの言葉であると教えている通りに、神様がその言葉によって天地を創造し、命を与え、神が「〜よあれ」と言われたその通りになった現実が、この世界であり私たちなのです。
そしてその言葉が、まさに人の間に来られたとヨハネの福音書の初めにはありますね。その方が、弟子たちに「ついてきなさい」と言葉で召し出しました。それは人々がこれまで経験したことのない権威に満ちた言葉でした。事実、悪霊を「黙れ。この人から出て行け」と追い出し、病むものを癒し、立たせる力ある言葉であることが今日のところに一貫して証しされているのです。
5、「その真実な御言葉は私たちに与えられている」
そしてそれは私たちにとっても決して無関係ではありません。いや無関係どころか、今も変わることなく、私たちへ、私たちのために語られている変わることのない言葉でもあるということこそイエス様は私たちに伝えています。例えば、礼拝で「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と宣言するときに、それが単に私の言葉であり牧師などの人間の言葉であるなら、何の力もありません。しかしそれがまさに聖書を通しての天からのイエス様の真実な生ける言葉であるからこそ、本当にその通りに十字架の罪の赦しとイエス様が「世が与えることのできないわたしが与える」(ヨハネ14章27節)と言われた特別な平安を与えるのです。それが真実でその通りになる言葉だからこそ、私たちを神の命と力によって、喜びと平安を与え、希望と救いの確信で満たして遣わすことができるのであり、私たちはその恵みによって世に出ていくことができるのです。そして、それはペテロの言うように「朽ちることのない」「永遠に変わることのない」言葉なのですから(ペテロ第一1章23−35節)、「これからも」変わることなく、その真実な約束でその通りに私たちにしてくださる真実な言葉なのです。だからこそ、私たちに与えられている、聖書の言葉、イエスの言葉は、確かで完全で何にも勝る権威があり、そして力があるのです。
6、「私たちの信仰生活に生きて働く御言葉」
今日のところから何が教えられるでしょう。至極当たり前のことですが、クリスチャンは、決して人の言葉、人の成功話、人の経験論ではなく、このイエス・キリストの言葉、特に福音の言葉を信じ、信頼し、これによって生かされていく存在です。しかしイエスや使徒の時代にもそうであり、いつの時代もそうかもしれませんが、特に、目に見える美しさや魅力や繁栄や成功に流されやすく、あるいは自分の理性や常識に当てはまらないと疑うことしかできない現代の人々、それは教会や御言葉を伝える牧師でさえも、そんなみ言葉、福音より、説教より、礼拝や聖餐より、人間の行いやわざの方が力があるんだ、理性こそ力なんだと教えたり、み言葉の力よりマンパワーやヒューマニズム的な成功話や経験論の方が教会や宣教に益であるかのように信じたり、教えたり、導いたりしたりされたりすることは少なくないようです。それゆえに、み言葉や約束の力への信頼や御言葉の約束にある救いの確信よりも、自分の力や行いで救いの安心や確信を得ようともします。しかし、それは必ず行き詰まります。聖書にあるように(ペテロ第一1章)、それ野の草のように朽ちゆく不完全で真実ではない人のわざであり言葉だからです。もちろん、それでも一時的に上手くいっている時は、本当に一時は良いでしょう。しかし、そのひと時の繁栄や成功が少しでも揺らいだり終わるとそのひと時の安心も自信も誇りもあまりにも簡単に揺らぎ、脆くも崩れ去ってしまいます。まさにマタイ7章にある「砂の上に建てた家」(7章24−27節)のようにです。何より、それでは決して、信仰生活に平安はあり得ないのです。いつでも不確かな人間の理性や力や行いに依存しているので、不確かさの中で生きていくしかないのです。み言葉の力、福音の力に真により頼まない、人間の理性や経験に聖書を従わせるような偽りの信仰とはそのようなもの、そのような結末なのです。
繰り返します。今日のところでイエス様は私たちにはっきりと示してくれています。イエス様の言葉には権威がある。力がある。そしてその通りになる、真実な言葉であると。私たちにはその真実な言葉が与えられており、その言葉が常に語られています。その言葉による洗礼によって私たちは救われ、その言葉による聖餐、イエス様の言葉が結びついたイエス様の体と血に、与っているのです。そしてだからこそ、私たちは救われているという確信と赦されているという平安を保つことができるだけでなく、その約束の通りに、イエス様が働いてくださるからこそ、私たちは、福音が私たちから溢れ出るように、喜びと平安に満たされて、自分のためではない真の良い行いや隣人に仕えていくことができるのです。
7、「結び:真の拠り所:人間中心の聖書解釈か、それとも神の真実な言葉か?」
事実、イエス様の力のわざは、人間にとっては驚きです。理解できないことです。27節
「27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
みなさん、私たちの信頼や拠り所を、人間の力や可能性、あるいは人間の経験におくよりも、神の言葉、イエス様の言葉、約束、福音に置く人は幸いです。そのことは実は世に遣わされる時にこそ顕著にわかることです。例えば、神とその御心を前にする時に、私たちは、私たち自身ではできない、難しいと思えることばかりに直面するのではないでしょうか。特に神がしなさいと命じている隣人を愛すること、それは何より十字架に照らせば、隣人愛の本質は敵を愛するこということ、それは「赦す」ということですが、それは人間にとって何よりも難しいことですね。しかしそのような神の御心を前にしても、人間の限界や可能性に希望や拠り所を持つのなら、希望は限定的であり、それはもはや希望ではありません。人間の力を信じるなら、限界があり不可能なのです。重荷にもなります。そうなると、神の言葉を人間の都合のいいように解釈して、自分のできる範囲の行いで敬虔なふりをすることはできますが、神の前には不信仰に過ぎません。しかし、神の言葉の前に、いつでも律法によって謙り悔い改め、そして、そこに照らされるキリストの十字架と復活の福音に希望を置き、神の言葉と約束がその通りになることを信じ、福音の力を受けながら、神の御心に従う人生を歩むなら、イエス様が行い働いてくださるのですから、希望は耐えることがありません。できないことさえもイエス様は真実な御言葉の力で人の思いを遥かに超えて導いてくださるのです。ぜひ、変わることなく、み言葉に聞き、ますます御言葉を信じ拠り所とできるように祈り求めましょう。今日も変わることなくイエス様が御言葉を持って言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの約束を受け取り、安心して、ここから遣わされていこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)なのに、彼を信じても自分の心には神の意思に反する悪いもの、罪があることにキリスト信仰者は気づきます。 主は罪を取り除いて下さるというのは本当ではなかったのか?そんな疑問を持つキリスト信仰者は次のルターの教えをお読み下さい。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(2005年版、初版1878年)1月17日の個所、エレミヤ3章13節「ただ己の罪を自覚せよ」の説き明かし)
『敬虔なキリスト信仰者なら今のこの世で生きることは忌まわしいと思うだろう。出来ることなら、この次に到来する世で生きたいと願うだろう。そうなのは、信仰者が、自分には罪などない、無罪(むつみ)だ、と言える段階に到達することは出来ないとわかっているからだ。もし、そのような考えを抱くなら、それは悪魔の仕業である。一体、聖徒の誰が、罪の中に留まっていることを否定したであろうか?聖徒は皆、それを認め告白しているのだ。彼らの存在そのものが罪によって傷つけられてしまっているから、彼らは心に痛みを抱えていたのだ。だから彼らは嘆き、叫び、罪から贖われることを祈りに祈るのだ。
まさにこのような罪の自覚を持ち告白する者に対してキリストの御国は、罪があってもそこには罪がないという世界になって現れてくる。つまり、キリストの御国は、信仰者が罪を自覚し告白しなければならなくても、罪の赦しのお恵みが罪を足蹴にしている世界なのである。そこで神は声高に告げる。「お前の罪は私の愛するひとり子のおかげで赦される。それが私の意思だ。」
これに反して、罪を自覚しない者、自覚してもキリストを素通りして自分の力で償おうとする者、さらには自分は無罪(むつみ)だから罪など関係ないと言う者たちがいる。彼らはキリストの御国に属していない。彼らは悪魔の手下も同然だ。罪には辛い思いや心の痛みが付きものなのだ。死を怖がらない聖徒が一人でもいたら私に示してみよ。そんな者は見つからないだろう。死を目の前にして立ちすくまない者、怯えない者などいない。キリスト信仰者とは、つまるところ、罪の中にあり、罪の下にありつつも、同時に罪を越えている者なのだ。キリスト信仰者は最終的に罪に勝利する。なぜならキリストの御国の一員だからだ。
この国は寝そべって何もしない国ではない。地獄、死、悪魔、罪そしてあらゆる災難を引き寄せてしまう国だ。しかし、それでありながら、永遠に存続する国だ。神が今まだそのような状況を許しているのは、我々の信仰が人前で明らかになるためであり、そのような状況を通して信仰にある我々を鍛えるためである。』
聖書日課 ヨナ3章1‐5、10節、第一コリント7章29-31節、マルコ福音書1章14-20節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお話しします。
ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は新約聖書の原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。それでは、「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?
それは次のような内容です。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしたことについての知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。この良い知らせ、福音を聞いて、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることによって神から罪の赦しを頂くこと、これがキリスト信仰の奥義です。こうして、イエス様のおかげで罪を赦された者として永遠の命に至る道を神の助けと導きを得ながら歩むこと、これがキリスト信仰者の人生です。
ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオン「福音」と言うのは少し気が早いのではないか?そこで、他の国の言葉ではどういう言い方をしているか見てみました。英語訳の聖書NIVはエヴァンゲリオンを「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は一方では「神の福音」(evankeliumi)と言い、他方で「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。
十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと思われるかもしれません。そうすると今度は、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのか、さっき言ったキリスト教の「福音」とどう違うのかという疑問が起きます。(※)それについて見ていきましょう。
イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。そこで、イザヤ書の続きを見ていくと、この「平和」と「救い」の意味がわかってきます。それがわかると「神を王に戴く国」もわかります。
イザヤ書の続き52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、周辺諸国民に自分の力を示します。それで、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力で祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するというふうに理解できます。
ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは人間の痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるようになり、まさに彼が罰を受けた傷によって人間は癒しを受けるのであると。53章11節で神は次のように言われます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられる者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら引き受けることで、人間は神の目に相応しい者になれて神との平和な関係を築けるようになるというのです。そうすると、「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が実現するという意味ではなくなります。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神との平和な関係を築けて神罰が免れるということが「救い」の内容になります。神の国もそういう罪の赦しが打ち立てられたところになります。
しかしながら、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の人々からすれば、イザヤ書の箇所で言われる「救い」とは、捕囚からの解放と祖国帰還を意味しました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。
ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。確かに歴史的にはエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民がひれ伏すような神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今ある天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。
そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつ預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた時でした。まさにその時、イエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。このように、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とは、神の約束が今実現することになるという知らせだったのです。その「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味します。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。
「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。それで、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大のものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を通して人間の救いを実現したことでしょう。
イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造する、そしてそこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。そうすると、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?と言う人も出てくると思います。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人なら出てくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。
それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わるという、この世の終わりを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったのでしょうか?ところがそうではないのです。
どうしてかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たしてあげたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っている人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まってもっと多くの困っている人たちを助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味わせてあげたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、不正に手を染めることなく、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえ期待通りにならなかったとしても無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国は、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもない、永遠の平和と安心があるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然の法則や社会の法則をはるかに超えた力が働く神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自分の力で神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架と復活の業でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して「福音」に結晶した出来事でした。私たち人間はイエス様の十字架と復活の業が自分のためになされたのだとわかって、それで洗礼と一緒にイエス様を自分の救い主と信じれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものになります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあるので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。これらのこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さったがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。
イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。なので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっている根暗なことではなく、実は神に向き合うという勇気ある振る舞いです。
「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。
「イエス様は彼を信じる者全てに、方向転換の悔い改めをしなさいと言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊も罪に対して反撃する。イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めと密接に結びつく。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。
方向転換の悔い改めが休止することはありえない。なぜなら、律法がこれは罪だと示すものを我々は絶えず遠ざけなければならないからだ。もちろん、罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されているので、我々を永遠の死に追いやる力を失っている。
かつてイスラエルの民はカナンの地に入った後もその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。それと同じように、キリスト信仰者になって罪に対して宣戦布告することよりも、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を追い払うことの方が難しいのである。それは、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだことからもわかる。神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。
兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、不安になった良心はゴルゴタの十字架を覚えるたびに落ち着きを取り戻して平安に満たされます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。この繰り返しを通して私たちの神への信頼が一層強いものになっていきます。神への強い信頼があることは、私たちがこの世から別れる時、自分の全てを神の御手に委ねることができるために必要です。神への信頼が築けている人は、復活の日に目覚めさせてくれる方を知っているので自分の全てを神の御手に委ねられます。信頼が築けていない人は何に委ねていいのかわかりません。そういうわけでキリスト信仰者の人生とは、その日に備えて神への信頼を日々育て強めていく人生と言ってもよいでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
使徒パウロは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きるキ リスト信仰者のことをあたかもイエス・キリストを衣のように「着る」とか「身にまとう」という言い方をします(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)。 それは一体どんなことか、以下のルターの教えをみるとよくわかると思います。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(1878年初版)1月5日の個所、雅歌2章16節「愛するあの方は私のもの、私はあの方のもの」の説き明かし)
『花婿が花嫁を愛するようにキリストは我々信仰者を愛する。我々も彼を救い主と信じているのであれば彼を愛しているのである。それで我々はキリストの花嫁なのである(注 黙示録19章でキリストが花婿に、キリスト信仰者の集合体が花嫁に例えられている)。
それで、我々は彼のものであり、彼は我々のものなのである。それで我々は、永遠の命と義という彼が持っているものを全て持っているのである。つまり、我々は義なる者であり至福に与る者なのだ。それで、罪と死と地獄と悪魔は我々に危害を加えることが出来なくなっているのだ。
花嫁として我々が「あなたのものです」と言えば、彼も花婿として我々の内にある悪いもの弱さを全て引き受けて負わなければならない。そのようにして我々の罪は永遠の義に、我々の死は永遠の命に、我々の地獄は天の御国の中に滅んでいくのだ。罪と義は両立しない。天の御国と地獄も同様だ。もし二つが並ぼうとしたら最後、一方は他方に呑み込まれて消滅してしまうのだ。なぜなら、キリストの義は我々の罪より果てしなく大きく、彼の命は我々の死よりも言葉にならない位に強力だからだ。彼自身、全ての命の源がある命そのものなのだから。我々の死は彼の命に、我々の罪は彼の義に、我々の滅びは彼の至福に消え去るのだ。
それゆえ、我々の罪の汚れが取り除かれた時、彼は我々をとことん素晴らしくするため永遠の義と全ての恵みで着飾って下さる。なぜなら、我々は彼の花嫁なのだから。』
[私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。アーメン]
2024年1月14日スオミ教会
説教題:「世界の罪を取り除く、神の子羊」
聖書:ヨハネ福音書1章43~51節
みなさん、新しい年を迎え、今年はどんな計画や目標を目指して行こうかと、心も新たに出発された事でしょう。人生に於いて人との出合い、というものが自分の生涯を決定するほど重要な出来事となる事があると思います。聖書はそのような不思議な導き、と出合いでイエス達の弟子となった2人の人の出来事です。
―――――――――――――――――――――◇――――――――――――――――――
ヨハネ福音書1章35節から見ますと、バプテスマのヨハネが歩いておられるイエス達を見つめて「見よ神の子羊だ」と言った。それを聞いて2人の弟子はイエスに従った。とあります。その前の日にもイエスが来られるのを見て、「見よ!世の罪を取り除く、神の子羊だ。そして、私の後から聖霊によって、洗礼を授ける方はこの方である」。と言っています。バプテスマのヨハネは神の霊に導かれて「あの方を見よ!世の罪を取り除く、神の子羊だ」とはっきりと力強く言って指で示したのです。ヨハネの神からの使命は、世の罪を取り除く救い主を示すことなのです。この神の子羊は私たちの罪を負って下さる方なのです。重荷を負っている人に、軽くする方法を教えてあげましょう、と言っても重荷は少しも軽くなりません。その荷をそっくり代わって担うなら軽くなるでしょう。それを担う以外ないのです。神の子羊は十字架の上ですべての罪を自分の命を犠牲にして、ご自分の肩に担って下さるのです。このお方を信じるあなたは、もはやあなたの肩にはその重荷はないのですイエス・キリストの上にあるはずです。その重荷は、みなさん、人それぞれに違うでしょう。しかし、どんな重荷も全てこの神の子羊が罪を取り去ったのですから、すでにあなたには罪がないのです。これがヨハネが指し示した「神の子羊」という証の本当の意味なのです。
十字架上のイエス様を見上げて異教徒の百卒長が言いました。「まことに、この方は神の子であった。」と心からの告白の言葉をあげたのです。信仰と言うのは、この「罪が取り除かれた」事実に生きることです。あなたの罪は、もうすっかり、イエス・キリストの肩にあるのです。代わりに担って下さっているのです。それなのに、まだ肩の荷があるのではないか、と疑ったり、嘆いたり、心配しているのですか。先の事は何も心配しなくても大丈夫。いつ死んでも大丈夫、もうあなたの罪は取り除かれて復活された、生きたイエス・キリストが全てを保証して下さっています。もう,ここまで人生を、腹を括って全ての全てをイエス様に任せきったら明るく感謝と、嬉しさが溢れてきます。バプテスマのヨハネの元から離れて、イエス様に従って行った、2人の弟子も生涯をイエス様共に預けて従って行ったのです。その内の1人、アンデレが兄弟のペテロに言った。「私たちはメシアに出会った」。そして、シモンペテロをイエス様のところへ連れて行ったのです。ここに、キリスト教、伝道の姿があるように思います。自分がメシアだと私の救い主と信じる方のところへ、連れて行くことです。そうして、その方を知ることによって真に心からイエス様と出合うことであります。イエス様と出合ったら人は変わります。こうして、イエス様はアンデレとシモンペテロを弟子として召されました。43節からは、「その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとした時、フィリポに出合って言われた。「わたしに従いなさい」フィリポは次にナタナエルに出合って言った。「私たちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出合った。その方はナザレの人でヨセフの子だ」。するとナタナエルが言った、「ナザレから何か良い者が出るだろうか」。フィリポは「来て、見なさい」。と言った。この福音書を書いているヨハネは淡々と簡潔に書いていますが、私たちは福音書を読むのに表面の書かれていることだけ読むのでなく、その書かれていること、秘められている一言一言の短い言葉の奥にどんな心情や深い真理が込められているか、ということを心を開いて読むべきだと思います。福音書は福音が書かれているのですから福音を読み解くことです。聖書は神の言葉であって聖霊に導かれて書かれているものです。ヨハネが淡々と短く書いている言葉の中にイエス様がどのような気持ちで若者と出合ってご自身の弟子として将来も見据えて、彼らにどんな期待を込めて弟子に召されていったのでしょうか。ここでイエス様と出合ったフイリポは友人のナタナエルに言っています。自分たちの民族の歴史の中に神が関わって来て下さった、旧約聖書の全部を一貫して代表と見てきたモーセ、預言者たちが指し示しているメシアに今、出会った」と。このことはフイリポにとって、とてつもない出合いであったことでしょう。するとナタナエルはいとも簡単に「ナザレから何か良い者が出るだろうか」とナザレの村のことを侮辱したような言い方で返しています。なぜ、こんな事を言っているのだろうか、と思います。ナタナエルは軽蔑して「神が選ばれた人などナザレから出るなどと旧約聖書のどこにも預言されていないよ。」と言いたげです。
イギリスの有名な聖書学者ウィリアム・バークレーと言う先生の解釈では次のように言っています。ナザレは極めて平凡な所であって、ナタナエル自身はガリラヤのもう一つの町カナの出身であった。田舎の地方では町と町との間に嫉妬心があって村戸村との間にライバル意識があるのは周知のことであった。ですからカナ出身のナタナエルがナザレの村から何か良い者が起こるようなはずはない、と断言したのです。そこでフィリポは賢明でした。彼は議論をしなかった。彼は単純に「来て、見なさい」と言ったのです。47節を見ますと[イエスはナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼の事をこう言われた。「見なさい!真のイスラエルびとだ。この人には偽りがない。」つまり、ここでは本当に純粋なユダヤ人その心に偽りのない人がいる。]と言われたのです。この事は敬虔なユダヤ人なら誰もがよく知っていた賛辞の言葉でありました。イエスは誉め言葉を言われたのです。面白いですね、ナタナエルはナザレ人をけなして言いましたがイエス様はナタナエルを誉め言葉で迎えられてナタナエルもイエス様の言葉をわかっていて、「どうして私の事を知っておられるのですか」と。お会いして間もないのに純粋なユダヤ人だと判断されるのに驚いたのです。そこでイエスはナタナエルに言われた。「フイリポと会う前にイチジクの木の下にいるのを,既に見たのだ」。ナタナエルは又びっくりです。どうしてイチジクの木の下にいたのを知っておられるのだろう。その奥にある意味は何であろうか。バークレー先生の解釈によれば、ユダヤの思想ではイチジクは常に平和を表すものであった。彼らが平和を思う時、自分のブドウの木の下とイチジクの木の下で穏やかに過ごす事が出来る時であった。更にイチジクの木は葉が茂って日陰が多くその枝で出来た屋根の下に座して黙想する習慣があった。そこでナタナエルもイチジクの木の下で黙想していたのだろう。彼は「神の選び人」が来る日に想いを馳せ、そのために祈っていたにちがいない。今や、彼の想いの奥底まで全てを見抜いておられる主イエス様に驚嘆したのでした。そうして彼は恐れおののきつつ叫びをあげたのです。「ラビ!あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」こうして、ナタナエルは自分の心を読み取り理解し、心を満たしてくれたイエス様に生涯仕えてゆく弟子となったのです。恐らくイエスは微笑まれたでありましょう。そして彼は旧約聖書、創世記18:12~13節にあるヤコブがベテルで夢の中に天まで達する梯子を見た、この物語を引用して、イエスが次のように言われたかのようで、「ナタナエルよ、あなたの心を読み取るよりも、もっと大きな事が私には出来るのだ。私はあなたのためにも、又全ての人々のためにも天に至る道、天に至る梯子となる事が出来るのだ。それはイエスによってだけ天に至る梯子となるのであります。ヨハネ福音書はイエス様の弟子となった4人について書いています。そのフイリポと一緒に弟子になったナタナエルは誰であったのか。
バークレー先生は言っています。ナタエルはヨハネ福音書では、弟子たちの最初のグループの1人であった。ところが他の三つの福音書には彼は全然現れていないし名前すら出ていない。これはどうしてなのか、聖書学者の間でいくつかの説が言われました。一つにはナタエルは実在のじんぶつではなかった。という考えです。彼はイスラエル人全てを表している理想像であった。次に二つ目は彼はパウロだったかも知れない。或いはこの福音書の著者ヨハネか、どちらかであろう。三つめには、彼はマタイと同一人物ではないか、マタイとナタエルという名には神の贈物を意味していた。当時、大部分の人が二つの名を持っていた。一つはギリシャ語の名で、もう一つはユダヤ風の名であった。マタイもナタエルもユダヤ風の名である。四つ目が最有力な説ですが、ナタエルは友人のフイリポによってイエス様のもとに連れてこられた。ところでナタエルの名は他の三つの福音書には全然追及されていない。例えばマタイ福音書10章3節とマルコ福音書3章18節には12使徒の名は次の通りである。とあります。[まず、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フイリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。]こう見てくるとマタイとマルコにも共通にフイリポの次に並んでバルトロマイの名を記しています。ところがヨハネではフイリポとナタナエルの名であってバルトロマイの名ではありません。バルトロマイというのはセカンドネームであって、もう一つの名を持っていたにちがいがない。そうするとバルトロマイとナタナエルは異なった名を持った同一人物である、ということは可能である。つまりナタナエルは他の三つの福音書ではバルトロマイと書かれている、という説です。イエス様の目にナタナエルは高慢な心を持たない、偏見に染まらない、まことのイスラエル人として、彼を弟子として召して下さったのであります。最後に、イエス様が召された、初めの弟子たちはこの世で、どんな終わりを遂げたのかと言いますと、アンデレはギリシャで磔の刑で殉教の死を遂げています。ペテロの人生の最後はローマに於いて逆さ磔にされて殉教の死を遂げています。フイリポは何処であったかわかりませんが、矢張り磔の刑にされて殉教の死を遂げています。ナタエルというバルトロマイの最後はアルメニアで鞭打ちの刑により殉教の死を遂げています。イエス様の弟子となって彼らはこの世に生きる限り、精いっぱい主に従ったのです。そしてその最後はイエス様と同じように磔の殉教の死を遂げています。イエス様に従って、全てを捧げ、命を投げ出した、その全てはやがて主イエス様の御国において輝かしい永遠の命に生かされる、希望の中にある、と信じます。「来て、見なさい。見よ!神の子羊」この一言の召きが熱い信仰と生涯を主に従って行く人生へと変えていったのであります。 アーメン
自然災害は神の仕業か?
東日本大震災の時、ある著名人の方が、このような大惨事を引き起こす神は悪い者だ、自分は神など信じないという趣旨のことを述べられたそうです。 また、これは神罰だ、などと言った政治家もいたそうです。自然災害は神が引き起こすものでしょうか?自然災害が起こらないようにすることが出来ない神は無力なのでしょうか?キリスト信仰者にとってとても難しい問いです。
そこで、自然災害はどのようにして起こるかを聖書に即して考えてみました。神は万物の創造主であるというのが聖書の立場です。星々や太陽や月など天体にあるもの全ては神に造られ、それらは全て神の定めた法則に従って寿命を持って動いている(詩篇8篇4節)。それはこの地球も同じです。重力も気圧も神の創造の中に入っています。プレートや断層が動いてひずみが生じ、時間が経つと支えきれなくなってしまうのも大いなる法則の中でのことです。そういうプレートや断層がしのぎ合うところに日本列島が出来ているというのも神の創造の一部です(詩篇95篇4~5節)。神がその都度、ちょっとあの国民を困らせてやろう、懲らしめてやろうと考えて地震を起こすという見方は少し幼稚な感じがします。
なので、この列島がそのような地であることを承知の上で暮らすと決めたら、その日が来た時の被害が最小限に抑えられ、その後に続く再建や復興に繋げていけるような態勢を社会レベルでも個人レベルでも整えなければならない。これが、この国に住む者の宿命であり使命でしょう。
キリスト信仰者がそのような態勢を整える際の大事な視点の一つは、心が永遠なるものに繋がっていることです。イエス・キリストが十字架と復活の業をもって永遠の命に至る道を人間に切り開いた、それで、大惨事の時でも平時と同じようにその道を進んでいるという確信です。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」コヘレトの言葉3章11節