2023年7月23日(日)聖霊降臨後第8主日 主日礼拝   説教:田口 聖牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイ132430節、3643

「毒麦の例え」が伝える世にある天の国とキリストの福音」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 先週は、イエス様は「種をまく人の例え」から、キリストの証し人として宣教へと遣わされる弟子達、つまり、教会とクリスチャンへ、福音の種を巻く宣教の働きというのは、いつでも聞く人、全ての人がその福音を喜んで受け入れ、右肩上がりで何の困難もなく成長していくものでは決してなく、むしろ皆が福音を聞いても受け入れないとか、すぐ離れていく、そのような中へ弟子たちを、そして同じように、私たちも召され遣わされているのだと言うことを伝えていました。しかし、同時に、そのような罪深い世で、困難な涙を持って種を蒔くような宣教であっても、それでも、福音の種から、信仰を起こさせ、成長させるのは、私たちではなくイエス様であり、多くの実を結んでくださるのも私たちではなくイエス様ご自身である、と言う福音にある約束と希望のうちに私たちは遣わされているのだと、いうことを学んだのでした。

 今日の「毒麦」の例えも、群衆など全ての人々への明確なメッセージというよりは、弟子達へ、つまり、全てのクリスチャン、教会へと語られているものであるのですが、ここでも前回と同じように、この罪の世にあって、天の国の現れである教会が直面する困難さと厳しさの現実を伝えていると同時に、イエス様とそのみ言葉にあって歩むものには揺るがない希望の約束があることを伝えてくれているのです。

2、「この世のある「天の国」」

 イエス様はここでも、まず例えで話します。そして36節以下、弟子達が、改めてその意味を教えてほしいとお願いし、それに対してイエス様が、その譬え話の意味を解説されるという流れになっています。

 まずイエス様はこの毒麦の譬えを、24節に、「天の国は次のように例えられる」と始めます。つまり、これは天の国の話です。しかし、内容自体は、厳しい内容であり、37節以下でイエス様は、畑はこの世界と言っているので、この世界を意味しています。「天の国」のことでありながら、この地上のこの世界の話でもあり、世界の厳しさの中にある天の国であり、この罪の世の『中に』ある「天の国」であると言うことがわかります。ある人にとっては、もしかしたら、「天の国」とあるので、文字通り、死の先の「あの世」を連想させられ、このような「世の中に」「地上に」天の国があるのかと不思議に思われるかもしれません。しかしもちろんそのような天の御国があるのですが、同時に、イエス様が来られ技が行われたところでは、既に神の国は地上でも始まってもいますし、何より、やがて父子聖霊の主によって約束され、建てられ生まれ、はじまる教会こそが、天の御国の先取りとして約束されていることをイエス様はここでも示しているのです。イエス様ご自身がルカの福音書でも言っています。

「神の国は、見える形では来ない。 21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ1720−21

20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」ルカ1120

 つまり、イエス様の救いのわざがあるところ、それは福音の言葉によるのですから、何より、神の御言葉が説教されるところにイエス様はおられるのであり、そこで律法の言葉によって罪を示され悔い改めに導かれ、そして福音によって罪の赦しが宣言されるところ、そして、その御言葉の語られるところでイエス様ご自身が、牧師をイエス様のからだと血が配られ、そして、信仰者によって食され、平安のうちに遣わされていくところは、すでに天の御国が地上に実現し始まっていることをイエス様は見ているのです。その通りに、畑はこの世界であり、その畑の中にある神の国の先取りである教会は、遠く離れた天国に建てられているのではなくて、まさに今もこの畑である世界、地上の、この罪の世に建てられ、その罪の世に彷徨う人々へと遣わされているのです。ですから、私たち自身も世界にあり同時にその神の国に今まさにあるのですが、それはイエス様にあって日々新しくされた聖徒でありながら、同時に、古い人もいる罪人でもあることにも重なります。そのようにイエス様の言う「天の国」というのは、その畑である罪深い世界の中にあり、「聖徒であり同時に罪人である」クリスチャンによって成る、まさしく世にある教会を意味していることが教えられます。

3、「「毒麦のたとえ」の解き明かし」

 そのことを踏まえ、この例えは何を伝えているでしょうか。例えそのものは、シンプルです。ある人が良い種を蒔いたが、敵が来て毒麦を巻いてしまい、どちらも芽を出してしまいます。しもべ達はすぐにでも毒麦を取り除こうと言うのですが、主人は、敵の仕業だと分かっていながらも、収穫まで待とうと言います。なぜなら、芽が出たばかりで成長していない時には、良い麦と毒麦の区別ができないために、間違って良い麦も集めてしまう危険性があるからでした。だから、区別ができる収穫の時まで待ち、その時に、良い麦は未来のために蓄え、毒麦は害を及ぼさないように焼いてしまいましょう。そんな例えです。しかし、大事なのはその意味です。その意味を弟子達もわかりませんでした。イエス様は、31節以下で、からしだねとパン種の譬えも加えていて、今日の例えと関連しているのですが、この箇所は来週になります。ひとまず、36節からのイエス様の毒麦の解き明かしを見ていきますが、イエス様は、群衆から離れ、家、おそらくペテロの家とも言われていますが、戻ってきます。そこでは弟子達だけが共にいるのですが、弟子達は、例えが何を意味するのか分からなかったので、イエス様による解き明かしを求めたのでした。

 そこでイエス様は、37節以下になりますが、毒麦の譬えの意味を説明するのです。

「良い種を蒔く者は人の子、 38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 ここでは、前回とイエス様は同じように「種」を例えに用いていますが、種まきの例えと意味が違ってきます。種まきの例えでは、種は、人というよりは、御言葉の種のことであり、蒔かれる土地は、人の心でもありました。しかし今日のところでは、畑は世界を表し、種は、御国の子達、信仰者を指しています。その世界に悪魔は、その良い種、良い麦に紛れ込ませて、収穫まで区別できないように毒麦を蒔くことをイエス様は伝えています。それは世界に蒔かれるのですが、今日は特に「天の国」のこととあり、地上にある天の国でそこにも毒麦は蒔かれるのですから、特に教会にも蒔かれることに適用の範囲を広げてここでは見ていきます。その蒔かれる麦ですが、良い麦と毒麦は、私たちには、はっきりと区別できるように出てくるのではないということです。つまりこの例えは、「教会、それ以外」、あるいは、「信じるもの、信じないもの」、「クリスチャン、クリスチャン以外」、と言う、そんなはっきりとわかる区別ではないと言うことがまずわかります。キリスト教世界の中、教会の中、クリスチャンの中に、私たちには区別できないように、収穫の時、つまり世の終わりまで、主人であるイエス様ご自身とみ使いにしか区別できないように、悪魔の麦、毒麦は紛れ込んでいると言うことを意味しています。その毒麦は、世の終わりに、天使達に集められ、燃える路の中に投げ込まれる、泣いて歯軋りするとあり、一方で、良い麦は、間違って毒麦として刈り取れることなく、正しく刈り取られ父の国で輝くのだと言います。このように、ここには、明確な救いと裁きが書かれていることがわかるのですが、キリスト教世界の中に、偽りの教会があり、教会の中に、偽りのキリスト者がいることを示唆しているのです。しかし、このところは、いたずらに罪深い人間の想像力を駆り立てられるところでもあるでしょう。

3、「この例えからの人間の行き過ぎた想像や決めつけ」

 ある人は、自身の想像力を膨らませて、あの人は、あんな悪い行いをしているから、あんなひどい人間なんだから、きっと毒麦なんだとか、口に出して話したり、口に出さなくとも心の中で思ったり、あの教会は、あの牧師は、ひどい教会だ、ひどい牧師だ、聖書とは関係ない、あるいは聖書を捻じ曲げた酷い内容の教えを語って教えている、だから、毒麦なんだ、等々、話したり、心の中で思ったりしてしまうことがあるかもしれません。あるいは、自分にも当てはめて、自分はダメな人間だ、何もできない、罪を繰り返してしまう、心が汚い、人から良い人間だと思われていない、悪い評価がされている、だから自分は毒麦なんだ、等など、自分自身のことを、口で言ったり、心で思ってしまったりすることもあるかもしれません。

 しかし、このところは、そのような誰が毒麦かを見分けその毒麦を除くことを私たちに求めているのでは決してないことがわかります。もちろん、イエス様は、そのように毒麦が混ざっている事実をはっきりと伝えていますし、毒麦には大きな裁きがあることも事実なのです。そしてイエスは、偽キリストに注意するようにと言っているように、間違った教えには常に注意が必要ではあります。しかし、誤解してはいけないのは、私たち人間が、人間の目に見えたり感じる、人や自分の行いなどの事柄で、つまり、そのような目に見えることを根拠に、自分の勝手な、ある意味独善的な、価値観、偏見、決めつけ、などなどで、あの人は毒麦だ、この人は毒麦だと、あの教会、あの牧師は、毒麦だ、あるいは、自分は毒麦だとなどと、決して断定できないし、すべきことではないと言うことです。今は、もちろん終末の世かもしれませんが、まだ世の終わりではありません。つまりまだここで言うところの収穫ではありません。つまり、まだ区別ができない状況です。そのような中で、しもべ達は、毒麦を取り除こうとしますが、しもべ達にはその区別はできないことを伝えており、まさにしもべ達が誤って、良い麦も刈り取ってしまう危険性を主人はよく分かっているでしょう。そう、そもそもしもべは区別はできないのです。むしろ、良い麦を刈り取ってしまう危険性さえあるのです。私たちは自分の目に見え感じることで、自分の価値観で、本当は良い麦かもしれないものを、毒麦だとしてしまうことがあるかもしれないということでもあるでしょう。そのように、私たち人間は、そのようなことを決して判別、区別できない、判断できないのです。事実、私たち人間のなす評価はどこまでも不完全でしょう。世の中のことでさえそうです。正しく隣人を評価できませんし判断できません。あくまでも私たちが目で見ることと、感じることで、しかもそこには私たちの好みや個々の価値観が強く働いて相手を評価、判断します。それは決して絶対的なものにはなり得ません。あくまでも、個人的なものであるし、それが社会において多数の評価であっても、絶対的では決してあり得ないものです。多数派の評価や判断でさえも大きな過ちを犯すのは、世の中を見ても歴史の悲惨な出来事を見てもあまりにも多くあるでしょう。世の中のことでさえそうであるのですから、神の国のことはなおさらではありませんか。私たちが、この人、この教会、あるいはこの牧師は毒麦だ、など判断できないのです。そして、言う資格もありません。なぜなら、収穫の時でさえイエス様は言っているでしょう。39節、「刈り入れる者は天使たちである」、41節、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、」と。そう、良い麦か毒麦かを判断し取り除くのは私たちではありません。私たちにできません。イエス様は言われます。「刈り入れるものは天使達」だと。天使達を使わし、毒麦を集めさせるのだと。集めるのは、神のみ使いなのです。み使いは、神のみ心を忠実に行う被造物です。ですから、み使いは刈るだけで、毒麦を判断するのは、どこまでも神であると言うことを伝えているでしょう。終わりの日に、人によってではない。神によって全ては明らかになるのです。そして、毒麦である人々は、神様によって、「燃え盛る炉の中に投げ込まれ」「彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」、それは事実なのです。

4、「行いではなく、キリストの十字架と復活、そして信仰」

 しかし、それでも、自分は誰か他人、隣人を毒麦だと言わないとしても、しかし、自分自身については確信がないと誰もが思うのではないでしょうか。それは私自身も同じであり、誰でも罪深い自分やその行いや心を見るなら、確信を持てないのです。隣人を裁かなくとも、自分は毒麦かもしれない。そう思ってしまいます。神様によって良い麦としてきちんと刈り取ってもらえるのだろうか、心配になるのは、当然なのです。しかし、皆さん、この箇所だけで、まして私達人間にある何かで、イエス様と神の国を判断すべきではありません。イエス様は今や、完全な神の言葉とその約束である福音を私たちに与えてくださっているでしょう。その福音は、4つの福音書を通して、そしてパウロなど使徒達弟子達の証しを通して、私たちにしっかりと確信できる完全な約束と救いを私たちに示しているでしょう。そう、このイエス・キリストとその十字架と復活です。

 皆さん、私たちは堕落の子です。どこまでも罪人です。私たち人間は、少しは神や神の国の実現のために、知ること行うことでも、何か自ら貢献できる、自ら神のみ心が行える、人間はその程度の堕落なのであり、半分は良く、半分だけ堕落している罪人だ、なんてことはないのです。人間の罪は圧倒的です。どこまでも罪人です。私たちは自らでは決して、神を知ることも、信じることもできません。むしろ私たちの自由意思は、どこまでも背を向けて否定していくだけの意志であり、そんな存在なのです。その神の前の罪深ささえ、私たちは自分達では気づきません。むしろ神の前にあっても、私たちは自分たちには罪はない、そんなに罪はない、そのように言う存在です。私たちはその通り、私たち自身のそのような肉の性質、罪深さを、罪深い、心、行いを見るなら、そう、どこまでも神の怒りのうちに、見捨てられる、滅びゆく存在でしかありません。しかし、そのような圧倒的な堕落と罪の報い、定めから、救い出してくださったお方がおられる、指し示されている、そしてそこにある私たちの救いが、私たちの何かでは決してなく、どこまでもその方の圧倒的な完全な恵みとして、私たちに示され、与えられている救いであることを、聖書ははっきりと、このお方、イエス・キリスト、そして、この十字架と復活に示しているではありませんか。ローマ321−26節でパウロはこのように言っています。

21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 律法によってではない、私たちの行いやわざや、私たちにある何かによってではない、どこまでもイエス・キリストによる十字架の贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされた。それも私たちの義ではなく、神の義、キリストの義を私たちに示された、そのキリストの義を信じるもの、私たちに与えてくださっている。その信仰さえ、福音と聖霊の賜物であると聖書は言っています。私たちはその全くの神の恵みであるイエス・キリストの福音を信じるものではありませんか。それをそのまま受けたことによって、救われたと告白するものではありませんか。その信仰ゆえに、神は、肉にあっては、まだ罪深くとも、それでもキリストのゆえに、あなたは義である、あなたの罪は赦されています、安心して行きなさい、と、聖書は何度も何度も、繰り返し繰り返し、多くのところで、宣言してくださっているでしょう。そしてそれで安心する者でしょう。ですから確信はここにあるのです。私たちの何かに、行いに救いの確信があるのではありません。どこまでもイエス・キリストとその言葉、約束にあるのです。罪を悔い、そのような悔いる私たちのために今日も私たちの前にあって、イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣言し差し出してくださっている、その福音を信じ、福音を受ける時にこそ、今日も、揺るがない、安心と確信がはっきりと私たちにはあるのです。そのイエス・キリストにあるなら、私たちは安心していいのです。誰も誰が毒麦であると判断できなくとも、悔い改めを持って、イエス・キリストの十字架と復活に立ち返り、イエス様が与える福音を今日も受け、平安のうちに出ていくなら、イエス・キリストのゆえに、私たちは良い麦である、決して毒麦ではない、とイエス様は認めてくださると、確信へ導かれているのです。

5、「キリストにあって平安になり、キリストにある平安を証しする」

 最後に、ここには忍耐を持って収穫を待つ主人の姿にも教えられます。それは、福音によって真の平安と確信を与えられた私たちにも同じ、忍耐と愛が溢れ出てくることを意味しています。つまりもはや誰が毒麦だと裁いたり、刈ったりするために私たちはいるのではないということです。パウロは、こう言っていますね。第二テモテ22426

「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、 25反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 26こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。

 毒麦が良い麦に変わると言うことは物理的はないのですが、しかし、どんなに邪悪な人でも、イエス様の御言葉はその人を変えることができます。ですから、私たちはその与えられた福音の確信に平安であるからこそ私たちも、争わず、忍耐と柔和を持って、隣人にその福音と平安を証しするのです。そのために私たちは召されているしイエス様は用いようとしておられるのです。私たちは人を変えることはできませんし、私たちの計画がなるのではありませんが、イエス様は日々新しい私たちを豊かに用いることによって福音を証ししてくださるのです。私たちはわからなくとも、予想も計画もできなくとも、私たちを通して、イエス様は、そのような教会の中にさえいると言われる滅びゆく魂に真理を認識させたり、目覚めさせ、罠から逃れさせたり、イエス様はできるし、そのために私たちは人知を超えてイエス様によって用いられている、そんなイエス様にある希望も教えられているのです。だからこそ、今日も、イエス様が語ってくださっている福音を、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」という福音の宣言を、そのまま受け取って、安心してここから遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

礼拝をYoutubeで見る

 

新規の投稿