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主日礼拝説教2024年6月2日 聖霊降臨後第二主日
聖書日課 申命記5章12ー15節、第二コリント4章5ー12節、マルコ2章23節ー3章6節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
皆さんもご存じのことと思いますが、1週間に7日あって7日目が休みというのは、旧約聖書の創世記にある天地創造の出来事に由来します。創造主の神が天と地とその間にある全てのもの、人間も含めて万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事を離れて休まれて、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1ー3節)。その日は旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)、短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とも言います。普通「安息日」と訳されます。大学の先生たちに与えられる長期休暇のことを英語でサバティカルと言いますが、このシャッヴァ―トから来ています。最近はビジネス界にも広まっているそうです。
天地創造の時、神は仕事を離れて安息された7日目を神聖な日としました。神は、私たち人間もそのようにしなさい、と私たちも7日目に仕事を離れて安息することを掟として与えられたのです。その掟は、太古の昔、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の第三の掟として与えられました。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8>節)。
「休みなさい」と言ってくれるのはありがたいことですが、注意しなければならないことは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。休んだ神がお前も休めと言っているのに、そんなの認めない、俺は仕事する、などと言ったら神に反抗することになってしいます。安息日に「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は創造主の神に造られた者であると認め、だから造り主の意思に従うのであると自分にも他人にも示すことになるのです。ただし、仕事を休むと言う時、何でもかんでも休まなければならないのか、と言うと少し考えなければなりません。例えば、人の命を助ける仕事も休まなければならないのか、という問題については、イエス様ははっきり命を助けることが大事と言っています。なので、神の意思に沿う仕事の休み方とは何かを考えなければなりません。後でそのことを見ていきます。
神の意思に沿う仕事の休み方を考える材料の一つとして、本日の旧約の日課の申命記の個所は大事です。これは、イスラエルの民がエジプトを脱出した後40年間続いた荒れ野の移動がようやく終わりに近づいた時の出来事です。この時、神は民に十戒の復習をします。安息日の掟は、先ほどエジプトを脱出して間もない頃に与えた掟を見ましたが、それに興味深い補足をします。何かと言うと、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民を神は解放して下さった。そのために/それゆえ(על–כן)、神は安息日を守るようにと命じたのだと言うのです(5章15節)。最初に掟を与えた時は、神が7日目に休んでその日を神聖な日に定めたから、人間もそれに倣えというものでした。ここではそれに加えて、神は民を奴隷状態から解放して下さった、だから安息日を守れ、と言うのです。神は天地創造の時に安息日を定めたのであるが、民を奴隷状態から解放したことで一層守らなければならないというのです。これはどういうことでしょうか?本日の説教では、奴隷状態からの解放と安息日を守ることがどうかかわっているのかを見て、神の意思に沿う安息日の守り方は何かを明らかにしようと思います。
その前に少し脇道に逸れますが、本日の福音書の日課マルコ2章のことで一つ説明しておきたいことがあります。日課は、イエス様の弟子たちが空腹を満たすために麦畑で麦の穂を摘んでいるところを宗教エリートのファリサイ派の人たちが見つけて、安息日に仕事はしてはいけないのに何事か!とイエス様に怒ったという出来事です。その時、イエス様は次のように応じます。昔ダビデがサウル王から逃れる逃避行をしていた時にノブという町の祭司から供え物のパンをもらった。サムエル記上21章にある出来事です。祭司のもとには普通のパンはなかったので、聖別されたパンを与えた、しかも、その日はパンを供え替える日で、それはまさに安息日でした(レビ記24章5~9節)。つまり、安息日に祭司しか食べてはいけないパンをダビデとその家来たちは食したという出来事です。
イエス様はこの話をされた時、ダビデにパンを与えた祭司は大祭司のアビアタルと言いました。ところが、サムエル記上21章を見ると、違う名前でアヒメレクです。これはどういうことでしょうか?イエス様は名前を間違えたのでしょうか?以前、ある教会の礼拝説教で牧師がこの個所について、福音書を書いたマルコが間違えて書いた、と言ったのを覚えています。私は、そんなにあっさり間違えと言ってしまっていいのだろうかと思いました。こういう、聖書の中によく見られる食い違いの問題は、一牧師が分かり切った顔でひと言で一蹴してしまうにはあまりにも深いことがあるのです。牧師というのは聖書を教えて給料をもらう聖書のプロです。しかも、日本では牧師は限りなく神に近い存在と見なされます。普通の信徒さんは牧師の言うことを無批判に受け入れがちです。なので、マルコが間違ったと言ったら、信徒の皆さんは、ああ、そうかマルコは間違っているんだ、さすがは牧師先生、すごいなあ、と感心するのがおちです。
私は、この問題はマルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアヒメレクではなくアビアタルの名があった可能性を考えなければいけないと考えます。果たしてそんな可能性があるのか?まず最初に、いわゆるパピアスの伝承を見てみます。2世紀に司教として活躍したパピアスの伝えるところによると、マルコ福音書は、イエス様の直弟子であるペトロが話し伝えたことをマルコが記述して出来たと言われています。もしそれが本当なら、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。しかし、ペトロはイエス様がそう言ったからそう言ったと言うでしょう。さあ、アビアタルと言ったのはペトロかイエス様か?実を言うと、聖書の各書物の成立を研究する釈義学という学問分野ではこのパピアス伝承は歴史的信ぴょう性がないとしてほとんど顧みられません。
それならば、次に見るべきことは旧約聖書のギリシャ語訳です。旧約聖書はもともとはヘブライ語ですが、紀元前3~2世紀に大々的にギリシャ語に翻訳されていきます。もし、ギリシャ語のサムエル記上21章にアビアタルの名があれば、イエス様ないしペトロはその伝統に従ったということになります。ただし、旧約聖書のギリシャ語訳と言っても、オックスフォード版とかゲッティンゲン版とかいろんな版があり、全部調べるのは大変です。それでも、ギリシャ語訳の全部の版を調べてアビアタルの名がなかった場合は、次はヘブライ語の旧約聖書の写本の出番です。
写本というのは、15世紀にグーテンベルクが活版印刷術を発明する以前、本というのはオリジナルが出来たら、後は手書きでコピーして数を増やしていきました。それが写本です。実を言うと、聖書の各書物はオリジナルのものは現存しません。全ての書物は一番古いと目される写本を元にしています。釈義学の研究者が無数にある写本を突き合わせて、これがオリジナルに一番近いだろうと結論した写本です。旧約聖書の写本の中で重要な意味を持つのが、いわゆる死海文書です。今のイスラエル国の死海の近くから発掘された古文書の中に旧約聖書がたくさん含まれています。全部がイエス様の時代ないしはそれ以前のものです。死海文書のサムエル記上21章の復元可能な写本を全部調べて、それでアビアタルの名前がなければ、イエス様はアヒメレクと言ったのだがマルコが間違えてアビアタルにしたと言ってもいいかもしれません。ただし、言い方は次のように慎重にしなければなりません。「現存する写本から見る限りは、マルコが間違えた可能性がある。」現存しない写本も無数にあります。なので、あっさりマルコが間違えたと言うのは早急すぎます。
ここで、アヒメレクをアビアタルと言い換えるのは誤りではないということを述べてみたく思います。このことは、サムエル記上21章からサムエル記下15章までをよく読んでいくと見えてきます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。父アヒメレクは、ダビデを世話したためにサウル王によって殺害されてしまいます。息子アビアタルは難を逃れ、後にダビデが正式に王になった時、祭司ツァドクと共に神の契約の箱を管理する任務に就きます。これはもう大祭司と言える位の地位です。それなので、イエス様がアビアタルのことを大祭司と言ったのは間違いではないのです。つまり、「後の大祭司アビアタル
という意味で言ったのです。問題は、サムエル記上21章の書き方がダビデにパンを渡したのはアヒメレクということです。これも、ダビデとアヒメレクが話をしていた時、他の祭司、つまり息子のアビアタルも居合わせたと考えたらどうでしょう?私たちの新共同訳では「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、」と書いてあります。ギリシャ語の原文は次のように訳することも可能です。「ダビデは、大祭司アビアタル(つまり後の大祭司アビアタル)がいた神の家に入り、」(後注)。つまり、イエス様はサムエル記上の内容から外れたことは何も言っていないのです。そのイエス様の言葉を受け取ったマルコは、それをそのまま記述しただけなので、マルコも間違っていないのです。それなのに、マルコは間違って書いたなどと言うのは、どういうことでしょうか?今見てきたように調べたり考えたりしなかったのは明らかです。同業者として情けなく思います。何よりも信徒の方たちが気の毒です。
アヒメレクとアビアタルの問題はここまでにして、神の意思に沿う安息日の守り方について見ていきましょう。本日の福音書の日課の個所で、イエス様は安息日の誤った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。弟子たちが麦の穂を摘んでファリサイ派の批判を受けた出来事では、安息日にそれを行ったことが問題になりました。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだのは仕事だったということです。仕事は安息日にしてはいけないことなのにしたという論理でした。
少し馬鹿馬鹿しい論理ですが、当人たちは真面目そのものでした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならないということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように一寸の隙もない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。
ファリサイ派の批判に対してイエス様は、先ほど見たように、サムエル記上21章にある出来事、安息日に祭司にしか食べることが許されていないパンをダビデと従者が食べたという出来事を引き合いに出して反論します。それに比べたら、安息日に自分の空腹を満たすためだけに麦の穂を摘むのは何の問題でもないのです。ダビデのパンの場合も、弟子たちの麦の穂の場合も、「安息日は人間のためにある」ということの実例としてあげるのです。これとは逆にファリサイ派の律法主義では「安息日のために人間がある」になってしまうのです。神の意思は、「安息日は人間のためにある」なのです。
本日の福音書の日課の後半も同じテーマが続きます。安息日にイエス様が手の萎えた人を癒したという出来事です(マルコ3章1ー6節、ルカ14章1ー6節も)。イエス様が癒しを行ったら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」ここまで言われたら誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。ここでも、「安息日は人間のためにある」が実践されたのです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っていると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。
イエス様は「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているということです。イエス様は父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っています。安息日の主というのは律法の主でもあります。
ところが、安息日の主、律法の主というのは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて人々に教えることができるということだけではありません。イエス様は神のひとり子なので神の意思を体現しています。イエス様は、律法が全人格的に守られているというお方なのです。これが律法の主ということです。だからイエス様は真の意味での義人なのです。これは人間とは大きな違いです。なぜなら、人間は神の意思に背こうとする性向、罪を持ってしまっているので、律法を全人格的に守り通すことはできないからです。人間はそのままの状態では義人にはなれないです。
そこで神が人間にしてくれたことは、人間に義をプレゼントして、人間はそれを受け取ることで義人になれるようにするということでした。それを神は実行に移し、ひとり子のイエス様をこの世に贈りました。やがて時が来て彼に人間全ての罪を背負わせてその罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせました。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。それだけではありません。神は一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に切り開いて下さいました。このように神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたのです。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たした罪の償いはその人にその通りになります。罪が償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされます。神から義人と見なされるのです。
このように人間は洗礼と信仰を通して神から義をプレゼントされてそれを受けとって義人になるのです。ただし、キリスト信仰者になったとは言っても、肉の体を纏っているので罪は内に残っています。しかし、神はこう言われます。お前は高い犠牲を払ってもらって罪と死の支配状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだから、これからは何が新しい命に相応しい生き方を考えて行きなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪に反抗しなさい。死と罪の力に勝利したイエスがいつもそばについていることを忘れないようにしなさい。
かつてイスラエルの民にとってエジプトからの脱出は奴隷状態からの解放を意味しました。キリスト信仰者にはもっと重大な奴隷解放があります。それは、罪と死の力に支配されていたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に贈られ、彼に十字架の死を受けさせて死から復活させたのです。まさにそれゆえに、安息日はキリスト信仰者にとって罪と死の奴隷状態からの解放を記念してお祝いする日なのです。
仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を解放の神に向けよ、ということです。安息日に神以外のものに心と時間を向けないことこそ、安息日を神聖なものにするものです。また、仕事だけでなく生活一般のことでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を解放の神に向ける日です。どうやってそんなことが出来るかと言うと、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷をあなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。心配事を投げ出して出来た空白を今度は礼拝を通して得られる良いもので満たしていきます。御言葉や説教を聴くことで神が聖書の時代においても今の時代においても私たちにどんな大きなこと素晴らしいことをしてくれたかを思い起こします。讃美歌を歌うことで解放の神に感謝と賛美を言い表します。祈りの時に普段抱えている課題、自分自身と隣人の課題に解決を与えてくれるように助けをお願いします。また、今日のように聖餐式がある日であれば、、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な栄養と力と知見を沢山もらって、新しい1週間に臨むことができるのです。
主にある兄弟姉妹の皆さん、礼拝に出席するというのは時として「しなければならない」もののように律法的に感じてしまう人がいます。そのような人たちから見たら、礼拝は「安息日のために人間がある」ものに映ってしまうでしょう。礼拝をさぼる方が「人間のために安息日がある」ではないかと。しかし、そうではありません。礼拝をさぼることは「人間のために安息日がある」ことにはなりません。なぜなら、安息日は罪と死の奴隷状態からの解放をお祝いする日です。安息日に行う礼拝は、その解放を確かなものにします。だから礼拝は「人間のために安息日がある」ものなのです。
後注 ギリシャ語の前置詞επιプラス属格は、新共同訳のように「~の時に」という意味もありますが、「~のところに」とか「~の前に」という意味もあります。
5月の手芸クラブは22日に開催しました。梅雨が近づいているのか雨の多い日々でしたが、その日は爽やかな天候の中で開催することができました。
前回に続いて今回もクロスステッチの刺繡です。参加された方々が前回途中までだった作品をお家で頑張って完成させて、それを持ってきて見せて下さいました。たちまち、「わぁー可愛い!」「こんなに沢山頑張ったんですね!」「素敵な模様だわ!」などの声があがりました。
今回もチャレンジして作ってみたい模様を決めて、それに合う糸の色と布を選び、早速刺繡に取りかかります。細かいクロスステッチでしたが、参加者の皆さんは沢山練習したので模様の形がとても上手にあっという間にはっきり現れてきました。刺繡は細かい作業なので目が疲れやすく肩も簡単に痛みます。それで時々休憩を取ることも必要です。刺繡は完成まで時間がかかりますが、お家で完成させたものを皆で一緒に見てお互いに素敵なものが出来ると本当にわかりました。夏の間お家で完成させることは一つの楽しみになるでしょう。
コーヒータイムで肩をリラックスさせます。今回はフィンランドのドーナツMunkkiをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。今回のコーヒータイムのお話は「練習の大切さ」について。刺繍を一生懸命に練習した皆さんにはちょうど良いテーマでした。お話の中ではまた、世の中には練習ができないですぐ臨まなければならない不確かなこともあるけれども、天の神さまはいつも確かなものを与えて下さるという聖書のメッセージもありました。
夏の間手芸クラブはお休みになります。また9月25日に再開する予定です。10月が近づき秋も深まり始めると暖かい服の季節になります。それで9月は毛糸の編み物を考えています。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。天の神さまが皆様の夏の生活と健康を守られますように。
手芸クラブでは先月も刺繡をしました。皆さんクロスステッチを一生懸命練習したので、今回は本当に上手に出来ました。
この間フィンランドの雑誌を読んでいた時に、ある俳優が本番前のリハーサルをとても大事にしているという記事を読みました。その人にとってリハーサルは本番のために勇気と自信を与える機会になるのでとても大事なことだと話していました。本番に強いという人もいますが、私は多分その俳優と同じタイプなので、リハーサルや練習はとても大事です。本番で失敗しないために前もっていろいろ練習するのは必要なことです。
フィンランドでは「練習がチャンピンを作る」という言い回しがあります。陸上選手は一生懸命走る練習をしてから自信と勇気をもって競技に参加します。練習をする方がしないよりも、本番の時にどうなるか予測しやすくなるでしょう。ところが、人生のことの全てはスポーツや音楽や劇のように練習することは難しいかもしれません。例えば新しい仕事や新しい人間関係は練習をして本番に入るというよりは、すぐ本番ではないでしょうか?私たちの将来のことも、前もって練習することはできません。練習なしで本番に入るようなものではないでしょうか?それで将来のことは予測が難しくて不確かな感じがすると思います。
このような時、私は聖書を開いて神さまのみ言葉を読みます。それは、不確かなところに確かなものを与えてくれるからです。例えば、旧約聖書の詩篇には次のように書いてあります。フィンランド語の聖書を日本語に訳します。「主を信頼しなさい。しっかり立ちなさい、勇気を持ちなさい。主を信頼しなさい。」詩編27編14節のみ言葉です。天の父なる神さまは私たちの造り主でもあります。それで、私たち一人一人の弱さや、私たちが不確かな世界の中を歩んでいることをよくご存じです。そのためにこのみ言葉を私たちに与えられたのです。神さまは私たちの将来のことも、ここを進んだらあなたにとって一番良いのだ、と私たちに一人一人に相応しい道を開いて下さるのです。それに気がつくと、神さまは本当に私たちのことを一人一人大切に考えて下さっているとわかります。それが神さまに対する信頼と道を進む勇気になるのです。
旧約聖書の箴言には次のみ言葉があります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにして下さる。」箴言3章5-6節です。私たちは自分の将来についていろんな計画を立てますが、実際にどうなるかはわかりません。私たちは自分の生き方を全部自分の思うようにすることはできないからです。しかし、天の神さまが私たちに歩むのにふさわしい道を開いて下さり、それを歩む力も与えて下さいます。それが、神さまが歩きなさいと言っている「あなたの道」です。神さまが道筋をまっすぐにすることが私たちの歩く力になるのです。これらのことは、私たちが自分の分別を頼ってそれに全てを委ねないで、神さまに信頼して全てを委ねると、本当のことになります。そして、神さまが開いて下さる道はこの世の人生が終わる時が終着点ではありません。この道の終着点は永遠の命だからです。
私たちは、練習があまりできない本番ばかりの不確かな世で生きなければなりません。しかし、神さまに信頼して全てを委ねることが出来れば、不確かな世の中で確かなものを得られて、心の中に平安と安心を得ることが出来るのです。
三位一体主日 主日礼拝 2024年5月26日
聖書日課 イザヤ6章1-8節、ローマ8章12ー17節、ヨハネ3章1ー17節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地とその間にある全てのものを造り、私たち人間をも造って命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。
そうは言っても、三位一体はわかりにくいです。三つあるけれども一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと頭で考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうからくりで一つになっているのかということはあまり気にかけないからです。それよりも、なぜ三つが一つでないといけないのかということの方が重要だからです。なぜ三つが一つなのか?それは、三つの人格が一つであることで神の愛というものがどのようなものであるかがよくわかるからです。
まず、神は創造主として私たち人間を造りこの世に誕生させました。これが造り主としての人格です。ところが、人間の内に造り主の意思に背こうとする性向、罪が入り込むようになってしまったために、神はひとり子を贈って、彼を犠牲の生贄にすることで私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。これが贖い主としての人格です。こうして、私たちは罪の赦しの恵みの中で生きられるようになりましたが、人生の中でいろんなことがあって恵みから離れそうになります。そのたびに聖霊から指導や支援を受けられ、神の目に相応しい者として生きられます。これが、私たちを日々、汚れから清めて下さる人格です。
三つの人格の機能は別々のものに見えますが、それらは一丸となって一つのことを目指しています。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命に至ることが出来るようにするということです。このように三位一体は私たちに進むべき道を示すだけでなく、それを進める力を与えてくれるものなのです。
以上のことは毎年、三位一体主日の礼拝説教で述べていることですが、今日は同じことを少し角度を変えて見ていこうと思います。どんな角度から見ていくかというと、キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とはどういうことかを考えながら三位一体の神を見ていくということです。
まず最初に思い起こさなければならない大前提は、私たちは創造主の神に造られたということです。それを思い起こしたら、次に考えなければならないことは、造り主と私たち人間の関係はどうなっているのかということです。関係はいいのか?よくないのか?聖書の観点では、よくないというものです。どうしてよくないのか?それは、創世記に記されているように、神に最初に造られた人間が神の意思に背く性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったからです。使徒パウロがローマ5章で述べるように、人間誰でも死ぬというのはみんな最初の人間から罪を受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいます。悪いこともするが良いこともするという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対に神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。
罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が王なる万軍の主を見てしまったのだ」。これが罪ある人間が神聖な神を目にした時の反応です。罪の汚れを持つものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。
イザヤは自分自身の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。すると天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤは大やけどを負いませんでした。それは、炭火が焼き尽くしたのは肉体のように目に見えるものではなく、目に見えない霊的なものだったということです。それは何か?セラフィムが、お前の不正は償われた、お前は罪から贖われたと言います。イザヤは自分も民族も汚れた唇を持つと告白しましたが、それは、神の意思に背く不正と罪があることを認めたのでした。このように聖書の観点では、清めというのは罪からの清めを意味します。罪というのは、先ほども申しましたように、神の意思に背こうとする人間誰しもが持ってしまっている性向です。背きには、造り主である神をないがしろにして、別の何かに願いをかけたりをしてしまうような神との関係での背きがあります。それと、他人を傷つけたり見下したり、嘘をついたり広めたり、他人のものを妬んだり、妬むだけでなく実際に横取りしてしまったり、不倫をしたり等々、人間関係で神の意思に背くこともあります。背くというのは、そうしたことを行いや言葉で出してしまうだけでなく、心の中で思ってしまうこと全てを含みます。聖書の観点ではそういうことが汚れなのです。そういうことが霊的なことなのです。このように聖書の観点では、「清め」とか「汚れ」とか「霊的」というのは極めて倫理的な事柄なのです。
この点は他の宗教ではどうでしょうか?汚れと言ったら、倫理的な事柄ではなく、病気とか不運とか何か不都合なことを意味し、そういう不都合を取り除くことや予防することを汚れからの清めと言うのが多いのではないでしょうか?もちろん、イエス様も汚れた霊を追い出したり、重い皮膚病の人を癒してあげたりしました。しかし、よく見ると、汚れた霊の追い出しや皮膚病の癒しはサラッとしています。追い出して下さい、癒して下さいとお願いされると、イエス様は、出ていけ!治れ!と一声かけただけでみなその通りになりました。しかし、神の意思に背く罪については、イエス様が一声かけたらみんな義人になったという奇跡はありません。倫理的な汚れはその他の汚れよりも手ごわいのです。そう言うと、いや違う、汚れた霊の方が手ごわいと言う人もいるかもしれません。しかし、それは本当ではありません。どうしてかと言うと、汚れた霊とか悪霊というのは人間と神との結びつきを失くすることを本業としています。なので、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを確立してさえいれば、汚れた霊や悪霊は手出しが出来なくなるのです。病気や不運の問題も、神との結びつきの上に立って治療や立ち直りを行っていくだけです。日本人もこういうスタンスに立てるようになれば、祟りなど汚れなどと言われて惑わされることはなくなるでしょう。
それでは、罪の汚れを持つ人間が義人になることが出来るためにはどうしたらいいのか?イエス様は本日の福音書の日課の個所で、人間は新たに生まれなければならないと教えます。次にそれについて見ていきましょう。
その前にイエス様に教えを乞うたニコデモが属していたファリサイ派について少し述べておきます。それは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということをとても重視したグループでした。彼らは旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に実践していました。自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。ただし、清めというのは、異教徒がいる広場から帰ったら体を清めるだとか、外の汚れが体の中に入り込まないために食事の前に手を洗うとか、そういう外面的な清めでした。
イエス様に言わせれば、神の前での清さというのはそのような外面的なことではない、心が神の意思に沿うものになっているという清さでなければならない。マルコ7章にあるファリサイ派との論争の中でイエス様ははっきり言いました。外から体の中に入るものは人を汚さない、だから手の清めをしないで食事をしても心を汚すことはない。食べたものはお腹に入って便となってトイレに流されるだけだと。人を汚すのは、人間の心から出てくる悪い思いである。すなわち、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別であると具体例をあげます。ここからもわかるように、イエス様は汚れとは倫理的な汚れであるとはっきりさせます。神のひとり子が神の意思はこれだと教えたのです。
神の意思が人間に倫理的な清さ、しかも、行為や言葉だけでなく思いも含めた全人的な清さを求めているとすると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるなどと言って自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様はファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のニコデモはイエス様の教えと行動に何か真実を感じ取ったようです。彼は人目を避けるかのように「夜に」イエス様のところに出かけます。そしてイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」について見ていきましょう。「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。貧乏な人が生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことが悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか。または、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃん/おばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現するものと言えます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなります。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明はイエス様に目覚めさせられて朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を持って吉村博明として神の国に迎え入れられます。
そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモです。ファリサイ派とは言え、聖書をちゃんと読んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分がそのまま母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。
ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは、どういうことでしょうか?
人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章やエゼキエル書37章で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神からの霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれると霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。
それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。どういうことか以下に見ていきましょう。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こるのか?彼の問い方には途方に暮れた様子がうかがえます。
これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規則とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。
「天から地上に下った者つまり『人の子』以外には天に上る者はいない」(13節)。
イエス様は自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こす者であることをこのように言って証し始めます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということを言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。14節です。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」
これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起こると言うのです。これは何のことでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。神の意思に背こうとする罪のゆえに人間と神との間に果てしない溝が出来てしまった。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世から別れた後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受ける、つまり神が伸ばしてくれた救いの手を掴むと、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは自分から救いの手を振り払うことをしない限り、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられるようになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進みます。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。このように新たに生まれて霊的な者になるというのは、神との結びつきを持って神の国を目指して歩む者になるということです。
しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため神の意思に背くことはしないように注意するようになりますが、それでも考えを持ってしまったり言葉に出してしまったりします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つの凌ぎ合いが始まります。
これがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを妬んで自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分、神の意思に背く自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿うのが不可能だと言うのなら、無駄なことはせず感情感覚のままに行けばいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲は意味のないことだったということになります。逆に、心の奥底から完全に沿えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
そのような時は心の目をゴルゴタの十字架に向けます。まさに、そのような時のためにあの十字架は打ち立てられたのです。その時、聖霊が心の耳に囁くように教えてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方の尊い犠牲と、あの方を真の救い主と信じる信仰のゆえに、神はお前に罰を下さないと言って下さっているのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦してもらったのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先を越されたのだ、あとは何も考えずにその後を追いかけるのだ。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。
神はそのような仕方でこの世を愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。
こうしてキリスト信仰者は聖霊の働きで神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを再び思い知り、神聖な神の意思にすっぽり包まれているとわかって、そこから外れないようにしようと襟を正します。そうして、また先を越されたことの後追いが始まります。
キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そうすればそうするほど、神と人間の結びつきを失わせようとする罪は立場と面目を失い、圧し潰されて行きます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。日本語訳みたいに威勢よく一気に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。
主にある兄弟姉妹の皆さん、このように私たちには造り主の主と贖い主の主、そして日々、汚れから清めてくれる主がいつも共にいてくれるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
5月11日の料理クラブはとても爽やかな五月晴れの中で開催しました。今回はフィンランドで人気のあるウィルヘルミーナ・クッキーとフィンランドの伝統的なデザートのベリー・スープKiisseliを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、クッキーの生地。材料を測ってからハンドミキサーでマーガリンと砂糖も一緒に泡立てます。それから順番に他の材料を加えて軽く混ぜて生地の出来上がり。柔らかい生地を固めにするために冷蔵庫に入れておきます。次はベリー・スープ。今回はブルーベリーをベースにするので、ブルーベリーをしばらく煮込んでスープ状に。それから片栗粉でとろみをつけてスライスしたイチゴを加えてKiisseli は出来上がり。「美味しそう、早く食べてみたい」との声があちらこちらから聞こえてきました。Kiisseliはひとまず冷やします。Kiisseli を作っている間にクッキーの生地は固くなりました。そこでクッキーの形作りをします。生地を丸めて長い棒にします。各自それぞれ生地の棒を作りますので、あっという間に沢山のクッキー棒が鉄板の上に並びました。それからオーブンに入れて焼きます。クッキーはオーブンの中でとても広がったので、皆さんビックリしましたが、それは生地に粉が足りなかったからではありません。茶色になったクッキーをオーブンから出して、熱いうちに小さめのクッキーの形に切っていくと、「わあー、こんなふうに作るの!」と驚きの声も。
テーブルのセッティングをして出来上がったものを頂く時間になりました。特に、ウィルヘルミーナ・クッキーはコーヒーや紅茶と一緒に味わうのが美味しい頂き方です。皆さんと一緒にフィンランド人が大好きなデザート・クッキーとベリー・スープを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。翌日は母の日だったので「フィンランドの母の日の過ごし方」や、「私たちの造り主である天の神さまは私たちを守り導いて下さる方」という聖書のお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開する日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!
今日はフィンランドのお祝いのパーティーにも出されるWilhelmiina pikkuleipä とフィンランドの伝統的なデザートKiisseliを作りました。ウィルヘルミーナ・クッキーはフィンランドで人気があるクッキーの一つです。このサクサクした感じのクッキーは材料も特別なものはなく作り方も簡単ですので、家庭でもよく作られます。
Kiisseli はフィンランドの伝統的なデザートの一つです。Kiisseliはベリーのジュースに片栗粉でとろみをつけて作ります。私が子供の頃、お祖母さんは食事の栄養のバランスの為に週に何回もKiiseliを食事のデザートに作りました。今では学校の給食のメニューにもあります。Kiisseli はそのまま食べてもよいし、オートミールやライスのお粥の上にソースみたいにしてかけて食べてもよいです。Kiiseliはベリーで作るのが多いですが、他の果物、例えばプルーン、オレンジ、レモンからでも作られます。でも、やっぱり、フィンランド人は森で採ってきたブルーベリーやリンゴンベリーやクラウドベリー、庭や畑で出来るイチゴ、ラズベリー、赤スグリと黒スグリのようなベリーが大好きなので、ベリーのKiiseliが一番おいしいと思うでしょう。
今日の料理クラブではケーキは作りませんでしたが、今はお店できれいな飾り付けのケーキが沢山並んでいます。明日は母の日だからです。5月第2の日曜日はフィンランドでも世界中の国々でも母の日のお祝いです。
フィンランドでは母の日をどのように過ごすか、それを少しお話したく思います。子どもたちが小学生くらいまでの小さな時は、母の日が近づくと、学校で母の日のカードを作ったり、簡単なブレセントを作りします。私もフィンランドにいた時は、子どもたちが学校で可愛い模様を刺繡したタオルや、絵の具で手の跡を模様につけた買い物袋などをもらいました。母の日の前には子どもたちと父親はお母さんを驚かせようと、いろいろ内緒のことがあるようです。
母の日になると、子どもたちは朝早くお母さんがまだ寝ている時に起きてコーヒーを沸かし、前もって準備したケーキやプレゼントを持って、お母さんのベッドに運び、そこでハッピーバスデーのメロディーでお祝いの歌を歌ってお母さんを起こします。子どもは大きくなって独立すると、母の日に実家に帰ってお母さんにプレゼントやお花を渡したりします。フィンランドでは母の日の花はカーネイションではなく多いのはバラです。もちろん他の種類の花も贈られます。
母の日の頃のフィンランドはまだ暖かい季節ではないので、咲いている自然の花はあまり種類はありません。しかし、必ず咲いている花があります。黄色のたんぽぽです。私は子どもの頃、たんぽぽの花で冠を作って母の頭によくのせました。母の日が終わると、だんだん色んな花が咲き始めます。五月の終わりと六月の初めのフィンランドは自然の中でいろんな種類の花が一斉に咲き始めるので、色が豊かでとてもきれいな季節です。
母の日にお母さんを喜ばせる花はカーネイションやバラなどの花屋さんの花ですが、花屋さんの花も自然の花も私たちの心を慰めて喜ばせてくれます。実は全ての花は、私たち人間と同じように造り主の神さまの手によるものです。聖書にあるように、万物は神さまが造られたものだからです。
イエス様が話された有名なみ言葉があります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」マタイ6章28-29節です。
お母さんが子どもを大切に育て世話をするのと同じように、私たちの造り主である天の神さまも私たちの世話をします。子どもが成長して独立すると、お母さんは子どもが大丈夫だろうかと心配します。今読みました聖書の箇所は、イエス様が「思い悩むのはやめなさい」と教える一つの例として話されるところです。お母さんはいつまでも子どもと一緒にはいられませんが、天の神さまはずっと一緒にいて下さいます。天の神さまは私たちの父だからです。私たち一人一人のこと、喜びや悲しみや心配事を全てご存じで、それで私たちの世話をします。私たちをどんな時でも守り導いて下さるのです。神さまの守りと導きは私たちがどう感じようが関係なく、いつもあるものです。私たちが神さまの導きを感じる時に導かれるということではありません。私たちが困難な状況にいる時も、私たちが気がつかない仕方で確かに守り導いて下さっているのです。
先ほどお読みした聖書の箇所から明らかなように、毎年春になると花が咲くのは神さまがそのように装って下さるからです。同じように神さまは私たち一人一人のことも覚えて見守って下さり、私たちも花のように咲いて良い実を結ぶことができるように必要なものを毎日与えて下さいます。神様は、困難のない生活を与えるとは約束していません。しかし神さまは私たちにどんなことが起こっても全てをご存じで私たちと共に歩んで下さいます。この世界はいつも変化ばかりですが、神さまの私たち一人一人に対する愛や良い計画は変わりません。神さまは私たちを担い背負い、そして救って下さいます。独り子イエス様をこの世に送って下さったことに、神さまの私たちに対する変わらない愛が示されています。イエス様は私たちの救い主であると信じることが出来れば、神さまは私たちを神の国までも背負って導いて下さいます。
母の日は、お母さんが私たちに尽くしてくれたことや注いでくれた愛を特別な感謝の気持ちで覚える日です。同じように神さまが私たちに示された愛を覚えて、しかも、毎日覚えて感謝の気持ちに満たされて歩んでいきましょう。
スオミ教会は本物の教会ではない?
スオミ教会が現在の所に移転した後のこと。ある雑誌社の取材を受けた。 東京中の北欧関係スポットの特集を組むということで、スオミ教会の料理クラブや手芸クラブの紹介も掲載。取材者が電話で席を外した時、話し声が聞こえてきた。「はい、今、教会です。それにしても、ここ、教会なんですって。」あれっ、ここは教会じゃないということなのかな。一般の日本人にとってキリスト教会というのは、やっぱり立派な建物で天上高く、パイプオルガンが鳴り響くところなんだろうなあ。
スオミ教会も以前は自前の“立派な“建物があったのだが、構造上の問題はもうどんな改修も解決不可能と判明。ミッション団体SLEYも日本の教団とのお金絡みの交渉では赤子も同然、気がついたら無財産の無一文に。もう自前の建物は無理、マンションの賃貸物件が礼拝を続けられる現実的な選択肢に。それでも、来る人が心に安らぎを得られるような礼拝空間にしようと内装面もいろいろ工夫努力を重ねてきたつもりだった。しかし、やはり「自前の立派な天上高くパイプオルガン….」には敵わないのだろう。移転前後に教会から離れてしまう人が続出。
ところが、フィンランドのキリスト信仰者たちはスオミ教会を「教会」と見なして支援を続けてくれているのだ。トゥルクの大聖堂が教会であるのと同じように、スオミ教会も全く同じ教会という認識なのだ。SLEYが宣教師を派遣している国にウガンダとか南スーダンもあるが、そこでは屋根のない掘っ立て小屋以下の教会もある。それも教会という認識なのだ。なぜか?フィンランドのキリスト信仰者は日本人に比べて感覚がずれているのか?
賃貸教会も屋根なし掘っ立て教会も間違いなく教会だという根拠は、ルター派の信仰告白の一つである「アウグスブルグ信仰告白」の第7条にある。「教会とは、福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく執行される聖徒の共同体である。」建物や外見、内装のことは何も言っていない。スオミでもアフリカの難民キャンプでも、福音の純粋な宣べ伝えに心が砕かれる。律法主義に陥らず反律法主義にも堕さず、神のみ言葉に人間の思想、哲学、イデオロギー、感情、心理学を混ぜ込まない。「聖書はそう言っているが、今はそのように考えなくてもいい」などと言わない。そのように使徒的伝統を受け継ぐ教会から正式な手続きを経て按手を受けた牧師が聖礼典を執行する。これらを備えていれば教会は本物という認識と感覚なのだ。
主日礼拝説教 2024年5月19日 聖霊降臨祭
エゼキエル37章1-14章、使徒言行録2章1ー21節、ヨハネ15章26-27節、16章4b-15節
本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来、復活の日に復活できるようになったことを喜び祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が天に上げられた後、約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まって勇気と希望を持ってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。
本日の説教では三つのことについてお話します。一つ目は、聖霊降臨の出来事の時、ペトロがそれは旧約聖書のヨエル書の預言が実現したことだと言いますが、それはどういうことか?二つ目は、本日の旧約聖書の日課はエゼキエル書ですが、そこで霊について言われていました。この個所は実はキリスト教会に大いに関係するということについて。三つ目は、イエス様が福音書の日課の中で聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいますが、それはどういうことか?以上の三つのことを見ていきます。
聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた使徒言行録2章にある通り、イエス様の弟子たちが聖霊を受けて群衆を前にして、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのはとても時間と手間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず語学学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の誰かが言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。
弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは出身民族は異なるが皆、旧約聖書の天地創造の神を信じるユダヤ教徒です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いてすぐ頭に浮かぶものと言えば、その筆頭は出エジプトの出来事でしょう。大昔イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに向かって民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。それと、神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚からの祖国帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。
ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」の中には、以上のものに加えてもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分の目で直に目撃したイエス様の出来事でした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子、旧約聖書に預言されていた救世主メシアであった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられた一連の出来事です。イエス様の出来事には旧約聖書の預言が無数に絡んでいました。なので、これもまぎれもない「神の偉大な業」でした。こうしてユダヤ教の伝統的な「神の偉大な業」に並んで、イエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。
そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?
ペトロは、この現象はヨエル書3章1ー5節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出した。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのでした。
ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文を見ると、「終わりの日々」という言い方はありません。ペトロが原文を改ざんしたのか?そうではありません。旧約聖書のギリシャ語版で「終わりの日々」と訳されていました。旧約聖書をギリシャ語に翻訳した人たちは終末論の観点で訳したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。
それでは「終わりの日々」とはどんな日々でしょうか?それは、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるということです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直されるという天地大変動の時です。大変動の後に唯一残る国として神の国が現れる、その時、誰がそこに迎え入れられるかどうかという最後の審判が行われる。それで、イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちました。しかし、仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。神が罪深い民に怒りを表す日で、バビロン捕囚の前は敵国が攻めてくるような災難を意味しました。捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の後の時代は、彼の再臨の日を意味するようになります。
21節を見ると、そういう天地の大変動の時の破滅から救われて神の国に入れるのは、救い主の名により頼む者であると言われています。そして、22節から後のところで、ペトロは群衆に対してそのような者になりなさいと説いていきます。こうして聖霊降臨の日に異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。その最初の宣べ伝えの日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。
本日のエゼキエル書の日課にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大な敵国を送られてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいます。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史のところで出てくる「バビロン捕囚」の事件です。連行された者の中に預言者のエゼキエルがいました。ある日エゼキエルは、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれます。そこで無数の枯れた骨を見ます。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられます。これが500年後に起こる聖霊降臨やキリスト教会の誕生とどう関係するでしょうか?それについて見ていきましょう。
37章11節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが言われます。大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された骨も同然だ、希望はなく消滅するしかないと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できると約束する。神は、約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。そこまでされたら信じないわけにはいかないでしょう。このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。
ここで14節をよく注意して見ます。新共同訳では、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」となっていますが、ヘブライ語原文は「わたしがお前たちに私の霊を与える」です。新共同訳では単に「霊」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。つまり、聖霊です。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は紀元前538年から祖国帰還ができるようになり復興を遂げます。しかし、民は本当に聖霊を受けて復興を遂げたのでしょうか?
確かに、民は祖国に帰還しエルサレムの町と神殿を再興しました。しかし、ユダヤ民族は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国などの大国に支配され続け、かつてのダビデの王国の再興など夢の夢でした。さらに、民自身が神の意思に沿う生き方が出来ていないのではないかという疑念も起こっていました。イザヤ書2章に、異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言がありますが、現実はほど遠いものでした。そうなると、民に聖霊が与えられて復興を遂げるというのは、祖国帰還と町や神殿の再興とは違うことを意味するのではないかと考えられるようになります。つまり、エゼキエルの預言はまだ未完という理解です。
どうしてこんなことになったのかと言うと、神が本当に目指していたことは、特定の民族の復興ではなくてもっと大きなことだったからです。それは、堕罪の時に起きてしまった人間の罪の問題、罪のために神と人間の結びつきが失われてしまったという問題を解決することでした。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者たちに言葉を下したのです。しかし、言葉は具体的な歴史の中で下されます。そのため、言葉は歴史状況に結び付けられて理解されてしまいます。神は祖国帰還と復興を実現させることで、本当はもっと大きなことを行う力があることを前もって知らせたのです。
それでは、全人類に関わる罪の問題が解決したのはいつでしょうか?それは、神がこの世に贈られたひとり子のイエス様が十字架の死を遂げて人間の罪の償いを果たし、人間を罪の支配から贖い出した時でした。そしてイエス様を死から復活させて死を超える永遠の命に至る道を人間に開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪と死の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで解放されて聖霊を与えられて「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見越した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12
13節)というのも、罪と死の支配から解放された者たちが将来の復活の日に復活を遂げて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、復活の日をも見越した預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的出来事だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということをいつも覚えて見なければいけません。
それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何だか物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼んでいます(ただし、フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)。まさしく人格を持つ者です。
それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて語ります。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そこでイエス様は聖霊を送る約束をしますが、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊と言うとき、真理とは何を意味するのか?
まず、聖霊が「真理の霊」であるということについて。キリスト信仰の観点では、聖霊の力が聖書の御言葉を通して働かないと人間はイエス様を救い主と信じる信仰に入ることは出来ません。人間の理解力、能力、理性だけでは、いくら聖書を読んでもイエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の今のイスラエルの国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書の神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。信仰なく理性だけですと、こういう歴史上の人物理解に留まります。歴史の教科書に書いてある理解です。
ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は表層的なもので、深層部にはもっと大きなことがあるとわかるようになります。大きなこととは、万物の創造主である神の計画が実現したということです。つまり、イエス様が神の力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言から明らかになった。じゃ、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになった。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して罪の償いを受け取ることが出来、償いを受け取ったら神から罪を赦された者と見てもらえるようになる。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになる。この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。以上の旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と死からの復活が行われた。これらのことが、歴史の表層部には見えない、深層部にある本当のこと、真理なのです。理性では到達できない領域です。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は聖霊の力が働くのでこの真理に到達することができるのです。
聖霊の力が働いたおかげで真理が見えるようになると、今度は聖霊は「弁護者」の働きをします。聖霊は何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。何者が私たちを告発するのか?まず、サタンと呼ばれる霊があります。悪魔のことです。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、言葉も行いも心の中も神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、罪の自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけは善人ぶっていますが、一皮むけばどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の結びつきを失わせることです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けて立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって拍手喝采なことになります。
聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられて微動だにしていません」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、このような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは襟を正して本当にもう罪は犯すまいという心を強くするでしょう。
悪魔の告発の他にもう一つ、聖霊が弁護者として働く場合があります。それは、キリスト信仰者が誤解や中傷、酷い場合は迫害を受ける時です。本日の福音書の日課は16章の1節から4節の前半までが省略されていましたが、そこのところでイエス様は弟子たちに迫害の危険があることを述べています。弁護者としての聖霊を送るというのは、このことに関してなのです。
キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰に入った段階で神の意思である十戒を心に刻みつけられています。人を傷つけない、見下さない、敬意をもって接する、偽りを語ったり広めたりしない、盗んだり妬んだりしない、不倫をしない等々のことを行為だけでなく、言葉や考えにおいても守ろうとします。しかし、行為では守れても、言葉や考えで守り切れないことがあります。それで、先ほど述べたように弁護者に支えられて罪の赦しを何度も何度も確認して前に進むのです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神からこう言われます。「お前は罪の赦しの恵みに支えられて罪に反抗する生き方を貫いた。このことは弁護者から十分すぎるほど聞いている」と。
そういうわけで、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、誤解や中傷があっても、何も心配はありません。私たちには永遠の命の弁護者がついているのです。私たちはただ、罪の赦しの恵みを支えにして、神の意思に沿う生き方、罪に反抗する生き方をしていれば、何のやましいことも後ろめたいこともありません。神の意思に沿う生き方がどれほど社会のためになるのかわからない方が憐れで惨めなのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
次回の手芸クラブは刺繡をします。
今度はクロステージのテクニックを使って室内飾りを作ります。
静かにおしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み
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03-6233-7109
福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
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「しなければならないことをしただけです」
最近あまり耳にしなくなった言葉だが、「男女共同参画」に関する新聞のコラムでの話。ある共働きの夫婦、夫は家事を怠ける人ではないのだが、妻としては何かしっくりいかない。 なんだろう。それがわける出来事が起きた。妻が家事に追われている時、夫はソファーに座って新聞を読んでいる。妻は「ちょっと、私一人だけにさせないでよ」、それに対して夫は新聞に目を落としたまま、「何をしてほしいか言ってくれたら、手伝うよ」。それで妻は切れてしまったと。
これは私にも身に覚えのある話。読んで身につまされる思いがした。一人暮らしが長かったので炊事洗濯掃除はちゃんと身についていると自負していたのだが、結婚するや、父親が会社員、母親が専業主婦という過去の面影が息を吹き返してしまったのだろう、「言ってくれたら手伝うよ」を口にしてしまったのだ。相手はそういう昭和のコンテキストとは全く無縁。怒りに当惑が混ざったのも無理はない。家事育児は夫婦の共同事項という本当の意味は、極端に言えば、何かやり残していることはないか、それを先を競うようにして見つけ、見つけ次第さっさと率先して片づけてしまうということだったのだ。ソファーに座るのが許されるのは、「何かやり残していること」がない時なのだ。「言われて手伝う」というのは、まだ共同参画でも何でもないのだ。
これは教会も同じ。かつて講壇交換で他教会に赴くと、ある教会では大学の元理事長も週報を折ってハト箱に入れている、別の教会では著名な弁護士が壁のポスターで古くなったものを外して新しいものに貼り換えている、さらに別の教会では、某大国の大使も務められた元外交官が受付に立ち、来訪者一人一人に挨拶をして聖書と讃美歌集を手渡している。男だろうが女だろうが社会的に高い地位だろうがなんだろうが全く関係ない。みんなが、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』(ルカ17章10節)でなければならないのだ。
2024年5月12日
ルカによる福音書24章44〜53節:
「イエス・キリストはみ言葉を通して働かれる」
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の福音書は、ちょうど先月のルカ24章の箇所の続きになり、またルカの福音書の結びのところになります。前回は、私たちのイエス・キリストの救いは、どこまでも「イエス様の方から」の恵みであり、それは信仰もその生活も、決して律法ではなく、神の賜物であり、福音から生まれ始まり、福音によって強められていくことを教えられたのでした。今日の聖書箇所は、先月の最後で少し触れましたが、
2、「どのようにイエスは働かれるか」
そのように「イエスの方から」の働きは具体的にどのように働かれるのか?ということから始まっています。復習を兼ねて見てきますが、44節
「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
イエスは弟子たちを最も大事な教えに立ち帰らせますが、それは突然、湧いて出てきたような新しい教えではありませんでした。最も大事なこと、それはイエス様自身が「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時にすでにイエス様が教えてきたこと、しかも旧約聖書から教えてきたこと、そして「わたしについて」、つまり、十字架も復活もその自身が教え聖書も約束してきた、み言葉の成就なのだとイエスはご自身のみ言葉に立ち返らせるのです。
A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」
このイエス様の言葉から何を教えられるでしょうか。まず一つは、聖書は全てイエス・キリストを指し示している、イエスを伝え証しているということです。まさにイエスご自身が「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」と言っています。このイエス様の時代は「旧約聖書」という言葉はなく、聖書といえば「モーセの律法、預言書、詩篇」の事です。つまりそれは私たちから見れば「旧約聖書」を指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきりと言っているのがわかります。ですから、旧約聖書の言葉もまた、皆、キリストを中心としていて、やがてくるキリストを証しているのだということは、キリストのメッセージは、後の弟子たちや教会の偉い人が勝手に考え出したり編み出した創作の教えでは決してないと言うことがわかります。それは紛れもない、神からの救い主イエス・キリストの証明のメッセージなのです。ですから私たちは旧約聖書を読んでいくときにも、このことは福音を理解するたの大事な助けになります。旧約聖書はただ律法的な言葉が並んでいる律法の言葉というのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラエル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・キリストを中心としイエスキリストを指し示しているのですから、十字架と復活を中心として読んでいくとき、旧約聖書にも私たちは福音と神の恵みによる救いの本当のメッセージを聞くことができるのです。旧約聖書にもキリストの福音は溢れているのです。
B, 「聖書の神のみことばを通して」
第二に、このように、イエスご自身は絶えず聖書を通してみ言葉を語って教え、働かれてきたように、これからも変わらずイエス様は私たちにもそうであるという事にやはり立ち返らされます。事実この後、遣わされる使徒達もそのように、聖書を通して教え、そこにこそ主の力は現され教会もあり宣教もあったでしょう。そのことが今も変わらず、主なる神は、どこまで聖書のみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を与え続けることによって、その「イエスの方から」の恵みをずっと私たちに働かせ続けておられる。イエスは、これまでもそうであったし、これから宣教に遣わすこの時も、そこから決してずれないのです。
C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」
では第三に、それほどまでになぜみ言葉、あるいは「み言葉を通して」は重要なのでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。
44節
と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「神の力はみ言葉にこそある」のであり、み言葉こそ「必ずすべて」その通りになる真実な力であるからに他なりません。イエスが言う通り、旧約聖書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(新改訳聖書)とある通りです。そして神はその「言葉で」世界とアダムとエバを祝福し、言葉で二人を導きます。そのアダムとエバの堕落と罪が入ったのは、神の言葉への疑いと否定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハムを「まだ見ぬ地へ」と言葉で遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ない、信じられないような言葉さえも告げられます。例えば、100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑います。しかしそれに対して主からの「主にとって不可能なことはあろうか」という言葉の通りに、つまり主の言葉こそ実現していくでしょう。アブラハムとサラの疑いの通りになっていったのではありません。神の言葉がその通りになって、イサクは生まれます。さらにあの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉によるものでしょう。そして罪深いヤコブでしたが、彼はまさにその憐れみに満ちた神の言葉にこそ支えられ助けられ信じて歩んでいき、神の言葉の通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、その背中以外は、神を見ることができませんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、モーセの言葉や思いではなく、神の言葉こそがその通りに成就していきます。ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。詩篇の記者もそのことを沢山、証しています。それは新約聖書でも全く同じで、ルカの福音書の記録も、主のみ言葉はその通りになるということの証しで溢れていたでしょう。まさに、聖書はそのことで一貫しているのです。イエスはそのこと、つまり「み言葉は力ある、その通りに「必ず全て」実現する真実な言葉である」と言うことへ弟子たちを向けさせようとし、私たちをもそこへと向けさせようとしているのです。
3、「「イエスが心を開いて」とある」
これまで見てきた「イエスの方から」「神の方から」の恵みの大原則。今でもイエスは、私たちへ「イエスの方から」絶えず、働いています。しかしその素晴らしい恵みをイエス様は、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実な約束と、その通りになるその力を与え続けることで実現してくださっており、それによって私たちを力づけ、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。そしてそのみ言葉には、私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉とともに私たちに力強く働く更なる神の恵みがあります。こう続いています。
「45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。
45−48節
みなさん、これでまで「み言葉が大事」と繰り返していますが、しかしそれを律法的に捉えてしまっていることはないでしょうか?「ああそうか。み言葉が大事だから、もっと自分で頑張って努力してみ言葉をもっと悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」そのように「自分の力で〜しなければ行けない」と。しかし実はそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言われて、では「自分からもっと悟らなければ」と言って自分の力で悟りに至ってはいません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるでしょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかった、いや3年間共に歩む中で、すでに分かっていたかもしれません。しかしそのイエスの十字架と復活にある救いの真の意味を知り、それを信じ確信し喜ぶ信仰は彼ら自身からは生まれなかったのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分が聖書を」とか「自分が神のために、イエスのために、神の国のために」となったかもしれません。しかしそれだと前回も見たように、彼らはイエスの復活の日であっても、福音を全く悟っていなかったし、約束も全て忘れてしまっていたでしょう。悲しみと失望に暮れるしかなかったでしょう。彼らはどこまでも的外れでした。しかしみ言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開いたのは、彼ら自身ではなくイエスであることがここにはっきりと書いてあるでしょう。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と。
イエス・キリストは、み言葉を通して働きます。み言葉こそ力です。もちろん聖書を読むことや暗誦することは大事です。しかし私たちは「み言葉」を理解することを律法的に捉える必要はありません。私たちが頑張って理解するではないのです。むしろそれはできません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちに喜びと平安を与えその歩みを導いてくださるのも実は、イエス・キリストご自身なのです。「あなたがたが自らで、聖書を信じて、理解し、確信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でしょう。矛盾するでしょう。神や神の国のことを「頑張って、理解し、喜び、安心する」というのは矛盾するし、真の喜びや安心ではないし、そもそもできない、成り立たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。むしろ、み言葉を持ってイエス様ご自身が、聖霊が、私たちに働き、そしてイエスが、聖霊が、心を開いて福音を悟らせてくださり、私たちに喜びと平安が与えられるのです。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とある通りに。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法でもなく神の恵み、賜物であることにつながっているでしょう。だからこそ、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせるのも、それはみ言葉を通して「イエス様が心を開いて」私たちのところへ来るのだと言うことは、まさに天からの素晴らしい福音の出来事だとわかるでしょう。私たちは今、そのことに与っているのです。だからこそ毎週、礼拝でみ言葉に「聞くこと」は大事ですし意味があるのです。
4、「何を宣教するのか。福音とは何か」
そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまりこれは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め」こそ宣教すべきことであり伝えるべき律法と福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は「罪や悔い改めは暗い言葉、聞きたくない言葉だから語ってくれるな」と、教会から敬遠され語られなくなっていると言われています。その方が人が集まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確かに「愛」という言葉は強調されますが、しかしどんな愛なのでしょうか。自分の神の前の罪もわからず、悔い改めも知らず、十字架と罪の赦しのない「神の愛」などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと語るべき律法と福音とは何か、証すべき宣教すべきは何かを伝えています。それは罪の赦しを得させる悔い改めだと。悔い改めと十字架の事だと。そしてその罪の赦しこそ福音、その罪の赦しの十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです。そうです。人間の理性や常識では、神の前の罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません。むしろ人は自分にも世にも「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いことです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、それが普通かもしれません。人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいことになるのは当然の流れなのです。しかしだからこそ、ここでその人が聞きたくない「悔い改めと罪の赦し」こそが、証しされるべき福音なのだとイエス様が言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身ではできない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれているのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、人間自らでは理解できない、十字架の罪の赦しは、私たちの理解となり、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当の証し、本当の宣教になっていくのだと、イエスは伝えてくれています。そのことを保証するように49節の言葉が続いています。
5、「み言葉と聖霊」
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。
49節
と。聖霊を与える約束です。イエスはこの後、天に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ、イエスは常に共にいて「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。目に確かに見えません。しかし弟子たちに対してと全く変わらず、今も聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださり、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通して、賜物である信仰に」なのです。ですからみ言葉が語られている時、それはイエスが私たちに語っている素晴らしい時です。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持って証するように遣わすためにです。牧師はそのための道具にすぎません。私は何も与えることはできないし力はありません。しかしイエスにこそ力があり、イエスの言葉に力があるのです。そのようにイエスが私たちの心に働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。それはイエスしか与えることができません。そのようにしてまさに52〜53節にある通り、弟子たちが約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たされ、賛美に溢れていたのです。その信仰、その喜びはどこから来るのか?賛美はどこから来るのか?もちろんキリストからですが、パウロはこう言っています。
「‘実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 」(ローマ10:17)
と。これはあのルカ10章、マルタの妹のマリヤが、ただイエスの言葉を聞いていたことこそを、イエスが「最も大事なこと」と伝えたのと一致しています。自分が、神をもてなさなけれならない、神を喜ばせなければいけない、喜ばなければいけない。賛美しなければいけない、とまず自分が主体で、主役で、神のためにまず自分が何かをしなければ、という信仰、賛美、礼拝、喜びも律法にすることに、そこに真の喜びや賛美はあるでしょうか?それは忙しなく動いていて、苛立ち、マリヤを裁き、イエスにまで不平を言うようになってしまった、マルタの結末になってしまいます。真の平安も喜びもありません。ルカの福音書は、喜びと賛美で始まり、52節以下、喜びと賛美で終わります。ルカの福音書の真ん中のルカ15章の放蕩息子に代表される三つの例えは、やはり救いの喜びですね。イエス様は真の喜びと平安を与えるために来らました。それは「まず私たちが神のためにしなければいけない」の律法からは生まれないでしょう?真の喜びと平安は、イエス様の方から、み言葉を通して、聖霊の豊かな働きによって来る、福音であり、福音からくるものであり、それ以外にはあり得ないのです。イエス様は言われるでしょう。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14章6節
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ヨハネ10章9節
ぜひ、み言葉をとおして福音が与えられている幸い、イエスの語りかけである福音に聞くことができる幸いを賛美しましょう。そしてこの恵みに取り囲まれて、福音の喜びと平安に満たされて、私たちは罪の赦しの福音を証していこうではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
キリスト信仰の「平和」と「平安」
イエス様は、「私はあなた方に平和を残しておく、私の平和をあなた方に与えるのだ。私は平和をこの世が与えるようには与えない」と言われました(ヨハネ14章27節)。 今、世界を見渡すと悲惨な戦争ばかり。戦争がない国でも人が人を傷つることが氾濫してしまっています。 イエス様の平和の約束は空しく聞こえるかもしれません。
しかし、キリスト信仰で言う「平和」の一番大元にあるものは、神と人間が平和な関係にあることです。人間が持つ罪のために神と敵対関係に置かれてしまっていたが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで平和な関係を持てる可能性が開かれた。人間はそれを受け取ると内に揺るがない「平安」を得て、波風猛る世にあっても雄々しく進むことが出来るようになる。どうして出来るのか?宗教改革のルターが次のように教えています(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 4月30日の個所から)。
『イエス様が言われる「平和」は、不幸がない時に心を安らかにするというものではない、不幸のただ中にあって、外面的には全てが動揺している時に心を安らかにするものだ。
この世の「平和」とキリストの「平和」の間には大きな違いがある。この世の「平和」とは、動揺を引き起こした悪がなくなることである。これとは逆にキリストの「平和」は、外面上は不幸が続いている状態、敵や疫病や欠乏や罪や死や悪魔が取り巻いている状況でも、内面的には心に慰めと励まし、「平安」があるというものだ。その時、心は不幸を意に介しないばかりか、不幸がない時以上に勇気と喜びに溢れて駆け上がっていく。それゆえ、この「平和」と「平安」は人知を超えていると言われるのだ。
理性が把握できる「平和」はこの世の「平和」だけである。理性は、悪がまだ残っているところに「平和」があるなどと理解できない。理性は心を安らかにする術を知らない。なぜなら、悪がある限り「平和」はないと考えるのが理性だからだ。キリストが私たちを顧みて下さる時、ひょっとしたら私たちの外面的な惨めさは取り除かれていないかもしれない。しかし、主が確実になさることは、キリスト信仰者を強くし、怯える者を恐れない者に、動揺する良心を落ち着かせることである。それで信仰者は、この世全てが恐れおののき青ざめる時でも、よく守られ喜びを失わないでいられるのだ。』
注 上記文の中で「平和」と「平安」と二つ類語が出てきますが、ギリシャ語の原文では両方ともエイレーネ―という一つの同じ言葉で言い表します。訳し分けたのは、「平和」と言うと、日本語ではどうしても戦争の反対の意味で捉えられてしまうからです。エイレーネ―は内面の「平和」すなわち「平安」も含みます。英語のpeaceやフィンランド語のrauhaも、外面的な「平和」と内面的な「平安」を両方含んでいます。面白いことに、スウェーデン語は日本語と同じように二つに区別しているようです。例えば、ローマ12章18節でパウロが全ての人と「平和な」関係を保ちなさいと言う時、fredという言葉を使い、イエス様が「平和」を与えると言う上記ヨハネ14章27節では、fridという言葉を使っています。大体、外面的な「平和」はfredが用いられています(例えばルカ14章32節)。しかしながら、神との「平和な」関係について述べているローマ5章1節ではfredではなく、fridを用いているので、そこでは外面的なものと内面的なもの両方が含まれていると考えられていると思います。