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牧師の週報コラム 

 無神論者とキリスト教徒が一致するところ

以下の文章は、トム・ホランド Tom Hollandという英国の無神論者の歴史家がキリスト教について論評したものを、ステフェン・ジェフコ―ト Stephen Jeffcoatという米国の牧師が引用したものです(同牧師の2021年6月18日付のFacebook投稿から)。因みに、欧米で「無神論者」と言ったら、たいていはキリスト教を標的にする人たちのことです。

『あなたがキリスト教に賛同しようがしまいが、無神論者の歴史家ホランドが次のような興味深い論評をしているのです。彼は古代世界を研究して、あることに気づいたと記しています。それは、古代人はただ単に残酷なだけで、彼らの価値観は自分にとって全く異質なものだということでした。スパルタ人にとって”不完全な”子供の始末は日常のことだったし、奴隷の身体は権力を持つ者たちの肉体的な快楽のアウトレットのように扱われていた、嬰児殺しは広く行われていた慣行で、貧しい者、弱い者には何の権利もなかったと。

 我々はどのようにしてそのような世界から脱することができたのか?キリスト教があったからだ、とホランドは書いています。キリスト教は男たちに自身をコントロールすることを要求し、あらゆる形態の強制性交を禁止して、性と結婚に革命を起こしたのだと。キリスト教が人間の性的営みを一夫一婦制の中に封じ込めたのだと。そして、ホランドも指摘しているように、皮肉なことは、今日キリスト教が嘲笑を浴びる原因になっているのが、他でもないこれらのスタンダードであるということ。しかし、いずれにしても、キリスト教が女性の価値を高めたことは否定できない事実である。簡単に言えば、キリスト教は世界をすっかり変えてしまったのだと。(了)』

同じような結論は、フィンランドの聖書学者エルッキ・コスケンニエミ Erkki Koskenniemiの研究書「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」にも見られます。コスケンニエミはキリスト教徒。無神論者とキリスト教徒が同じ結論に達する位、キリスト教は古代世界の性モラルを根底から変えたのでした。

 

スオミ教会のシンボル - 白樺の十字架スオミ教会のシンボル - 白樺の十字架

 

 

2023年11月19日(日)聖霊降臨後第二十五主日 主日礼拝

マタイによる福音書25章14〜30節

「少しのものに忠実な良いしもべとは」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日のよく知られている「タラントの譬え話」ですが、皆さんはここをどのように理解してきたでしょうか?この喩え話は、クリスチャンが自分の才能をフルに働かせ、自らの行いや努力や自分の力によって、神や教会のために、目に見えたり数字で評価できる成功を果たさなければならない、あるいは数を倍にするような結果や成果を出したり達成しなければならない、そのように自分の才能で教会に数的に倍以上に大きくなるような貢献をしなければならない、等々、そのような成果主義や成功主義の目標のために律法的に私たちを駆り立て遣わすように教えているイメージを持つ人もいるかもしれません。皆さんもこの譬えはそのように教えているように思うでしょうか。しかし、そういう教えではないというのが今日の説教です。もちろん、このところの勧めは、神から与えられている恵みを正しく、特に隣人に仕え、隣人を愛するために用いるようにと教えているのは間違いありません。しかし、それは私たちが自分の力をフルに働かせて果たさなければならない「律法」なのか?それともそうではなく「福音によって」遣わそうとしているのか?これは全く正反対のことですし、それを区別することはとても大事です。そしてそのことは、その「タラント」とは何か?「賜物」とは何か?「小さなことに忠実」とはどういうことなのか?そして、この時のイエス様は何を見ていてこのように教えられ、そして何を私たちに期待し何を喜ばれるのか?を、この箇所やそして聖書全体の福音の教えに照らし合わせて見ていくときに、この箇所はただの律法ではない、イエス様の福音のメッセージがあることを教えられるのです。まず14−15節から見ていきましょう。

2、「恵みの出来事:タラントを各々の能力に応じて」

「14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

A、「律法として預けるのではなく」

 まずこの譬え話において、「天の国」の主人はイエス様自身のことであり、「しもべたち」というのは、全てのクリスチャンを指しているのですが、まずここで誤解をしてはいけないのがここを見て分かる通り、ここで言われるタラントは、決して働いたことや実績に対する報酬や対価ではないことが分かるでしょう。主人はただ「自分の財産を預け」とあるからです。つまり主人の所有する財産を、ただしもべという、その理由だけでそのまま一方的に預けてくださったということです。そして「預かって」いるのですから、それは決してしもべのものになったのではなく、どこまでも「主人のもの」を預けられ預かっているということがわかります。

 さらには「それぞれの力に応じて」とあります。新改訳聖書ですと「各々能力に応じて」です。つまり、もちろんそれぞれに与えられている才能も神の賜物なのですが、ここでのタラントは、俗に言われたり思われているような、何か他よりも特別な目にみえる秀でた能力や才能のことでもそれを「与える」「預ける」のでもなく、そもそもはっきりと「能力に応じて」与えるとあるのですから、タラントが「何か特殊な才能や能力」であり、それを「与える」という理解では文脈的に正しくないことがわかります。主人はそれぞれの能力を見て理解し、それに応じてそれぞれに主人の財産の「必要な分を」預けていることがわかるのです。それは主人であるイエス様は私たちのそれぞれの能力を知っているということを意味しているでしょう。つまりイエス様がここで与えるタラントは、私たちの能力も何も知らないで、律法的かつ一方的に、「倍に増やせ」「果たせ」「しなさい」と重荷を課せるような命令をしているのでは決してないということでしょう。それぞれの能力を知り、その能力に応じて、つまり重荷とならないように、それぞれを配慮して、そのような主人の計画と思いに従って、世で隣人に仕えていくために必要なものを必要な分だけ主人は預けてくださっているといるのだと見えてきます。ですからそのタラントというのも何か一方的な義務や重荷では決してなく、当然、「律法」であるはずもなく、むしろ主人の私たち一人一人への大きな憐れみと恵みを伴っているタラントだと分かるのです。

B,「タラント:あまりにも多くのもの」

 しかもここでいうタラントにも意味深いものがあります。まずタラントというのは、それは当時のお金の単位ですが小さくない単位です。ここでは5タラント、2タラント、1タラントと数字が小さいのでその大きさがいかほどか分かりませんが、1タラントは7300デナリ(Lutheran Study Bible:ESV)と言われています(新改訳聖書の注釈:6600デナリ)。しかしその1デナリは一日の給料の賃金に等しいと言われているのですから、1タラントだけでも、1日の給料の7300倍の額になるということです。1タラントがいかに大金であるのかということです。イエス様は、21節や23節で「わずかなものに忠実であった」と書いていますが、決して「わずかなもの」ではありません。ですから、5タラントにせよ1タラントにせよ、人間はその欲望の目で額の大きい小さいとか、差があるとかだけを注目して「差別だ」「ずるい」云々と、その点だけに目が行き論じやすいのですが、それは重要なことはない、むしろここでは、主人であるイエス様はそれが5タラントであろうと1タラントであろうと、「それぞれの能力に応じて」それぞれに必要な分、イエス様から見て十分なタラントを、それぞれに必ず、しかも思いもしないほど豊かに与えてくださっているということがわかるのです。

C,「それは何か?」

 では、そのタラント、賜物とは具体的には何でしょう。それは私たちに今ある、ある今今持っている全てです。もちろん目に見えるものも神は豊かに与えてくれています。今あるものは全て神からのものです。それは才能や能力だけではない、この体も、命も、空気も水も自然も、食べるものも着るものも、お金も、家族も仕事も、そして教会も兄弟姉妹も、何もかも神からの賜物であり恵み、贈り物、あるいは預かり物です。加えて信仰など、霊的な賜物も沢山あります。私たちは兎角、今自分にあるもの、持てるものはすべて自分のものだ、あるいは自分が稼いで自分の努力で得たものだ、と思ってしまったり、あるいは逆に、自分にとって大事だと思わないものは賜物や恵みとは関係ないと思ったりもしますが、しかし、神が与えてくださるのでなければ実は何も持つことができません。全ては恵みとして神から来ているから私たちのところにあり、私たちは今を生きているでしょう。ですから、タラントを用いるということは、行いで倍増の結果を達成するために自分の特別な能力でその技を現すとか、そういうことではなく、クリスチャンであれば誰でも与えられている必要な恵み、すべての「恵み」を、世に仕えていくために正しく用いるということが、この譬えの忠実な僕と呼ばれる最初の二人の例が伝えていることに他なりません。現代は非常に物が溢れていて、物質的にも技術的にも豊かにあります。罪深いこの世の人間の思いでは、それらは神からのものではない人間の能力の発展であり持てるものも自分が得た自分の財産だという人がほとんどでしょう。あるいは神からの賜物であるはずの隣人や兄弟姉妹などについては、現代の個人主義の影響で、それらを神からのタラント、賜物、預かり物だと思わず、実質は関係のない他人だと思うかもしれません。そのように人間は多くを受けながら自己中心に、利己的に判断し用いたり用いなかったりする現実があります。しかし、それは決して、神の御心ではないと言えるでしょう。あまりにも多くの恵み、タラントを与っている私たちであるのに、それを本当に神の恵みとして見ているかどうか、あるいは、用いているかどうかがむしろ、このところが私たちに問いかけていることなのです。

3、「この譬えが何よりも指し示すこと」

 ですから、むしろ今日のこの箇所は、18節と、24節以下の1タラントを地を掘って隠してしまった僕との比較で見ていく時に、イエス様の言いたい大事なことが見えてくるのです。24節以下で3番目のタラントを地に埋めた僕はこう言っています。

「24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

A,「地を掘ってタラントを隠したしもべ:恵みへの疑いと恐れ」

 皆さん、このところから何がわかるでしょうか?前の二人との違いは何ですか?増やさなかったことですか?確かにこの後の主人の銀行云々のくだりを聞くと少しでも益を出すことを強調しているかのように思えるかもしれません。しかし最初に言いました。この例えは、私たちが損失出すかどうか、利益を出すかどうか、増やすか増やさないかを問題にするそんな安っぽい律法的なメッセージでは決してない。あるいは人間の目では測りやすく評価や判断しやすい成功や成果主義的評価がイエス様が私たちに求められていることでも決してなく、むしろそれ以上のことがあることが教えられます。

 ここで大事なこととして教えられることは、この隠した僕の、その主人がそれぞれの能力まで配慮して溢れるばかり沢山、預けて下さっているタラントを恵みや喜びと見れない、ゆえにその主人に信頼し、喜んでそのことに応えられない心に他なりません。この人の言葉には、預けてくれた、あるいは与えてくれた主人のその恵みと愛の御心が全くわかっていません。この人にあるのは、どこまでも主人への「疑いの目」です。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」と自分中心な非常に断定的な決めつけです。しかも「25 私はこわくなり」ともあり、だから「地に隠した」とあります。彼にとっては神は信頼と愛を持って豊かに必要なものを必要に応じて与えてくださるお方ではもはやありません。理不尽に刈り取り、理不尽な結果を与え、奪う方、しかも恐ろしいお方であると彼は決めつけているでしょう。素晴らしいものを溢れるばかりに与っても、その与ったものさえも彼にとっては素晴らしいものではない。恐ろしい方の恐ろしい所有物でしかないことがわかります。彼のそのような主人や主人の預けたものへの理解や彼の疑いや恐怖は、聖書の中のある箇所を私たちは思い出すのではないでしょうか。そう、まさしく、あの創世記3章の堕落の場面です。神の言葉を疑って、神の恵みに対して捻くれ背を向けた態度をとり、自らの勝手な理解で神と神の言葉を勝手に推しはかり決めつけて疑った、あの堕落の時の人間の罪の態度そのものではありませんか?そして、まさに恐ろしくなって隠れたアダムとエバのように、この僕も多くの恵みを与えて下さっている神を恐ろしいと思い疑い、恵みのタンントまでも恐ろしいと思い隠す、そのことにも重なっているでしょう。

B,「十字架を見、十字架を指し示し語るイエス」

 このイエス様の例えで教えられることは何でしょうか?「小さなことに忠実な良いしもべ」とは何を伝えたいのでしょう。逆に「悪いなまけ者のしもべ」「役に立たぬしもべ

と何を意味しているでしょうか?繰り返しますが、これは行いによって神の前に義を立て、私たちが自分の力で神に倍の結果、成果、実りを出さなければならないという律法のメッセージでは決してありません。もちろん、実を結ぶ結ばないはイエス様にとって大きな問題ではあります。しかし、ここで問題になるのは人の行いや貢献で、倍の結果を出しているかどうかではなく、聖書が約束し伝える真の聖霊が結ぶ御霊の実に結びついているその人の信仰そのものこそをイエス様は見ているということです。

 イエス様がこの譬え話を話した時、それはどんな時でありイエス様は何を見ていたでしょうか?イエス様はこの時もうすでにご自身がかけられ死ぬ十字架と復活をまっすぐと見て語っています。そのイエス様が負われる十字架は、私たち人間自らでは決して神の前に正しくあれないしなれない、どこまでも罪人であるその私たちのその罪のための十字架ではありませんか?私たちの全ての罪とその報いである死を、私たちの代わりに負って死ぬために、そして、それによって私たちに罪の赦しを宣言し新しく生かすための一方的恵みの十字架であり復活であり、イエス様はそこをまっすぐと見てこの時も進んでいるではありませんか?そう、それはどこまでも神の恵みによる救いを私たちに証ししています。イエス様は神の前にあって罪を悔いどうすることもできません憐れんでくださいというしかない私たちにこそ、この十字架と復活のご自身を示してくださり、その十字架で私たちの罪の赦しと新しいいのちのために、このご自身の体と血を与えてくださいます。この十字架の死があるからこそ、私たちは「この十字架のイエス様こそ私の罪の贖い、私の罪のための救い主です」と信じ、そのまま受けとるだけで、イエス様はいつでも何度もその罪の赦しに与らせ、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と救いの恵みと平安のうちに日々新しく生かし遣わしてくださるのではありませんか?その十字架と復活の救いの恵みを日々そのまま受けて聖霊によって生かされることが新しい命にある「信仰の歩み」であり、それこそ福音に生き生かされることだと聖書は教えているでしょう。それが私たちが与っている救いであり神の国の生き方ではないのでしょうか?

C,「その十字架と復活の福音を受けてこそ全ては始まり福音に進ませる」

 その通りです。そしてそこにこのタラントを忠実に用いるということが始まるのです。ですから、与えられている目に見えるものと目に見えないもの全ての溢れるばかりの賜物を隣人に仕えるために用いることも、良い行いも、隣人を愛することも、それはその「恵みを信じる信仰に始まり信仰に進ませること」であり、しかもその信仰も福音によって与えられ強められる賜物なのですから、私たちの信仰の歩みの全ては「福音に始まり福音に進ませる」ものでしょう。それは真に生かし新しくし日々進ませる力であるイエス・キリストの十字架の福音を受けてこそ、私たちの信仰による良い行いが導かれ、ヨハネ4章にあるようにキリストが与える水に泉が湧き出るように、私たちにもその恵みが溢れ出て、そのようにしてこそみ言葉の約束に従って聖霊の豊かな働きで賜物は正しく用いられていく、実は結ばれていくということに他なりません。ですから、タラントを受け取り、喜んで出ていく人の原動力もそしてそれを実現するのも、実は私たちではない、神ご自身であり、このタラントへの忠実さは、福音の力による、神がして下さり与えてくださったことを感謝し喜ぶ信仰にこそはじまるということが見えてくるのです。事実、パウロはクリスチャンの良い行いや働きについてこう言っています。

D,「御言葉の証言とルーテル教会の信仰告白」

「6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」フィリピ1章6節

「13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」フィリピ2章13〜14節

新改訳聖書ですと「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(2章13節)とあります。

 このように世にあって良い行い、実を結ぶ働きをするのは、私たちが自分の力で果たさなければならない律法としては教えられていない。むしろそれは、イエス・キリストが良い働きを始め、志を立てさせ、ことを行わせる、成し遂げる、完成させるとそれは御言葉の約束であり福音であり、神が果たしてくださるということです。こうもあります。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」エペソ2章10節

 新改訳聖書ですとこうあります。「10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

これらの御言葉に従って、ルーテル教会はしっかりと次のように告白しています。

「彼らが神の言葉を保ち、熱心に祈り、神の恵みに留まり、受け取った賜物を忠実に用いるならば、キリストは、自ら始められた良い働きを彼らのうちに強め、増し、彼らを終わりまで支えようとしておられる」(和協信条根本宣言第11条21)

E,「真の価値ある忠実さ」

 このように私たちが沢山のタラント、賜物を正しく用いるために、イエス様は何よりまず、その大きなタラントに比べれば、人から見れば、小さく思え過小評価される、与えられたその恵みを受け取り喜ぶという信仰こそをここに見ていて、その信仰によって感謝を持って恵みを隣人のために用いるこそがイエス様が「小さなことに忠実なしもべ」として喜ばれるのです。そのようなイエス様が与えてくださった恵みを受ける分として感謝し受け取る信仰にこそ、イエス様が幾倍にもその祝福を更に増し加えてくださるし、事実、その何よりの賜物である信仰にあって歩む人、つまりタラントである恵みを忠実に用いる人、イエス様が用いてくださって、隣人のために豊かに用いてくださるのです。ですから、律法と福音の区別で言うなら、信仰生活は、それが伝道であろうと宣教であろうと教会の奉仕であろうと、隣人愛であろうと、決してそれは律法ではない、どこまでも福音であるということなのです。 

4、「結び」

 皆さんは、今、神から与えられている、あるいは預かっている、目に見える、あるいは目に見えない神からの賜物を、どう理解しますか?溢れるばかりの物や霊的な賜物、何よりも信仰という素晴らしい賜物に与っている私たちです。しかし、現代の教会は何かとかく人間中心、自分中心になって、恵みを脇に置いたか、忘れたかのように、或いは、福音の力、聖霊の力、信仰の力が何か力のないわずかなもの小さな物であるかのようにしてしまい、むしろ人間の行いやわざの方が力があるとしてしまう。そして、そのように人の力や理性を拠り所とすると自ずと律法的になり、ただ目の前の現象や数だけで「足りない少ない」「少ないからダメだ、どうするんだ」と疑ったり不安になる。更には、「自分の目の中の針」は見えず、隣人や兄弟姉妹の悪いところばかり見えてしまい、不平や、そしてそこから勝手に予想できる合理的な否定的な結論や強迫観念に心が支配されてしまって、賜物であるはずの自分の信仰や他の人の信仰生活、教会、兄弟姉妹、牧師、等々、何であっても、それらを与えられた恵みとは逆に捉えて、「あれもダメだこれもダメだ」「あの人のせいだ、この人のせいだ」と、恵みのタラントである信仰までもネガティブに活用したり、ただ神や人を、あるいは賜物である兄弟姉妹さえも裁き、そのようなことが敬虔だと思っているような教会は少なくないように思います。しかし、それはファリサイ派と同じです。律法による教会や宣教は合理的でわかりやすく行いやすい決断や判断になるかもしれませんが、しかしそれはまさに神の言葉を疑った最初の人や、今日のタラントにある恵みに背を向け地に隠した人のようではないでしょうか。それは、忠実なしもべではなくなっています。そうであってはなりません。私たちは聖書の約束から、今日も、たとえ人の目にあってはどんなに少なく見えたり不足があるように見える現実があるとしても、しかしそれでも私たちはキリストにあって溢れるばかりの神の恵みに与ってると告白し、何より、イエス様の十字架と復活、罪の赦しと新しいいのちに今日もあずかった!と喜びを持って告白する信仰を与えられた天の御国の民です。何より今日もイエス様は「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と言って下さっています。その御言葉の約束に聞き信仰と平安のうちに今日も遣わされましょう。信仰に働く聖霊が必ず豊かな真の行いを生み、賜物は正しく用いられていき、隣人との間に、社会に、平安の実を結んでいくのです。ぜひその溢れるばかりの賜物を感謝し、平安のうちに遣わされましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

交わりのひと時:エーリック兄の帰京挨拶と近況報告。

 

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

11月の家庭料理クラブは11日に開催しました。これまで暖かい秋の天候が続いていましたが、この朝は少し寒くて冬の季節に変わる感じでした。今回は「クリスタル・コーヒー・ブレッド」Kristallipullaを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にコーヒー・ブレッドの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。発酵してる間に中身のバニラ・バターを作ります。生地は大きく膨らみ、コーヒー・ブレッドの形作りをします。綿棒で生地を長方形に伸ばしてその上にバニラ・バターを塗ります。

細く切った生地を花の形にしていくと、「わぁー、こんな形にするんだ!」と驚きの声があがりました。参加者の皆さんは一生懸命花形を作って、きれいな形のコーヒー・ブレッドがどんどん鉄板の上に並べられていきます。それから二回目の発酵をさせます。

コーヒー・ブレッドの生地はあっという間に大きく膨らみ、オーブンに入れるタイミングです。少し経ってから教会の中に美味しそうな香りが広がり、皆さん、早く味わってみたいと待ち遠しそう。きれいな焼き色がついたコーヒー・ブレッドを少し冷まして、その上に溶かしたマーガリンを塗ります。バニラシュガーでトッピングすると、水晶のようにキラキラ輝く「クリスタル・コーヒー・ブレッド」の出来上がり!

テーブルのセッティングをして、皆さん席に着いて焼きたての「クリスタル・コーヒー・ブレッド」をコーヒーや紅茶と一緒に味わいました。甘いコーヒーブレッドの他に、カット野菜をのせたクラッカーも頂きました。歓談のあとで、フィンランドの「父の日」や、聖書の神が「天におられる私たちの父なる神さま」と呼ばれることについてお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。

次回は待降節(アドベント)の期間の12月9日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。

皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話2023年11月11日「クリスタル・コーヒー・ブレッド」

フィンランドではいろんな種類のコーヒー・ブレッドを作ります。今日皆さんと一緒に作ったクリスタル・コーヒー・ブレッドはフィンランドで最も人気があるものの一つです。このコーヒー・ブレッドの特徴は中身のバニラ・バターとトッピングのバニラ・シュガーです。バニラ・シュガーが水晶のように輝くことからクリスタル・コーヒー・ブレッドと名付けられました。フィンランド語でKristallipullaといいます。

Kristallipullaは特に季節に関係なく作られますが、今の季節によく合うのではないかと思います。これからフィンランドはだんだん寒くなって気温が氷点下に下がるようになります。その時、木の枝の水滴が凍るので太陽の光が当たると枝が水晶のように輝いて見えます。Kristallipullaもキラキラして見えます。フィンランドは秋になると日が短くなって暗い時間が長くなるので、人々は色んな方法を考えて周りの雰囲気を明るくしようとします。コーヒータイムのkristallipullaはその一つです。

フィンランドでは11月の第2日曜日は特別なお祝いの日です。今年は明日ですが、それは「父の日」です。日本と違ってフィンランドでは「父の日」は秋の寒い季節のお祝いです。暗い季節を明るくするお祝いの一つです。この日はどのよう過ごすでしょうか。お父さんにプレゼントやカードを渡したり、飾りつけたケーキを作ったり、家族皆でレストランに行って食事をしたりします。お父さんに朝のコーヒーをベッドまで持って行くこともあります。

「父の日」は大事なお祝いの日でもありますが、これはお父さんにとって子供を育てる役割の大切さを考えさせる日にもなっています。フィンランドの普通の家庭ではお母さんもお父さんも仕事に行っています。このため子育ては母親だけでなく父親の役割も重要です。現在フィンランドでは父親は赤ちゃんの世話をしたり、子供と一緒に遊んだり、習い事に連れて行ったり、保護者会等に参加します。父親も子育てに責任を持つと、子どもとの関係は強くなります。

私の父はもう85歳になりました。父の年代の父親たちはみな仕事で忙しかったので、子育てにあまり参加出来ませんでした。それは母親の仕事でした。しかし私の父にとって父親になったことは大きな賜物でした。今年の夏父が次のように言っていたことを思い出します。「子どもが7人もいるが、一人でも多すぎたと考えたことはなかった。」

ところで、父の日や母の日になると多くの親たちは果たして自分は相応しい親なのかどうか少し考えてしまうことがあります。聖書の中に父親についてイエス様のたとえの教えがあります。イエス様はこのたとえを通して、天の私たちの父なる神さまはどんな方か教えられました。これは聖書の中でも最も有名なたとえの一つです。

ある家に息子が2人いました。弟の方は好きな勝手なことばかりやって暮らしていました。ある日弟が外国に行きたくなって、父親に言いました。「お父さん、あなたが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞きません。父親は自分勝手な息子のことを悲しく思いましたが、財産を分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。

息子はそこでとても華やかな生活を送りました。高価な服を着て、そこで出来た友人たちと毎日遊び暮らしていました。しかし、いつしかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって息子は食べ物に困り始めました。だれも助けてくれる人はなく、息子は一人ぼっちになってしまいました。

それで息子は仕事を探しました。やっと豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹はいつもペコペコでした。冷たく汚い豚の餌を食べたいと思うくらいでしたが、持ち主はダメだと言いました。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分はもう息子と呼ばれる資格はないとわかっていました。それで、家の雇い人の一人にしてもらえるように頼んでみようと思いました。父親の前でこう言おうと考えました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」そうして出発しました。

The Return of the Prodigal Son, 1667/1670 National Gallery of Art Washington DC https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/ Jorge Elías leoncillo sabinoThe Return of the Prodigal Son, 1667/1670, National Gallery of Art Washington DC

やっと懐かしい家が見えました。すると、最初に父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、全身汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親が走り寄ってきたのに驚きました。すると父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」息子が「雇い人の一人にして下さい」と言う前に、父親は家来たちに言いました。「さあ、急いで一番良い服を持って来て、息子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから最高の食材をそろえて、盛大なお祝いの準備をしなさい。息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」父親が罰ではなくこのように愛をもって受け入れたので、息子は生まれ変わることができたのです。

イエス様がこのたとえを話したのは、天の神さまがどのような方であるかを教えるためでした。たとえの父親は神さまのことです。息子は私たち人間のことを指します。私たちも神さまのもとに戻って行けば、神さまは息子の時と同じように必ず私たちを喜んで抱きしめて迎えて下さいます。このように神さまの私たちに対する愛は、私たちを赦して受け入れて下さることです。天の神さまはご自分のもとに戻る一人一人を自分の子どもとして迎え入れるのです。一人でも多すぎるということはありません。

「クリスタル・コーヒー・ブレッド」や父の日のお祝いは普段の生活を明るくするものですが、天の神さまが私たちを愛して迎え入れて下さるのはもっと大きな喜びになります。そのことを覚えて日々を歩んで行きましょう。

牧師の週報コラム 

 自分は「聖霊の結ぶ実」(※)をなかなか結べない、キリスト信仰者として失格だと意気消沈している方は、以下のルターの教えをどうぞ。 この教えはまた、自分はいい加減な信仰者と自称し、どうせ神は気前よく寛大だから別にいいのさと、神の愛と恵みを悪用している方も是非どうぞ。(※ガラテア5章22節にてパウロは「聖霊の結ぶ実」として、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制をあげている。)

『キリスト信仰者に十戒の掟を守って柔和で清い者になれと命じて、信仰者に聖霊の結ぶ実を要求する人がいる。しかし、それでは、そういう実を完全に結べる者がキリスト信仰者であると主張することになり、それは誤った裁きを下すことになる。そのような主張をする者は、キリストが本当におられる所にいないと錯覚しているのである。そのような主張者に何が欠けているのか考えてみよう。その者は、キリストの国がどのような国であるか全くわかっていない。その者は次のように言うのが常だ。柔和なキリスト信仰者は決して怒ったりはしないし、忍耐強くなければならない、なぜなら、そのような実が実っていなければ決してキリスト信仰者とは言えないからだ、と。

聖書のどこにそんなことが言われているのか指し示してみよ。キリストの国がどのような国か正しく知っている者は、キリスト信仰者が時として忍耐に欠けるのを目にしても目くじらを立てない。なぜなら、聖霊の結ぶ実は律法として与えられているのではないと知っているからだ。もし聖霊の結ぶ実が律法ならば、キリスト信仰者に実が完全なものとして現われてこなければキリストが否定されてしまうことになる。そういうことではない。聖霊の結ぶ実は次のように理解すべきだ。キリスト信仰者が柔和で忍耐強いというのは、それを目指していくということなのだ。肝心なのは、実を結ぶことが始まったということであり、成長していくということだ。成長していく際にキリスト信仰者が時として悪い思いに囚われることもあろう。結ぶ実が聖霊の望むものとは反対のこともあろう。キリスト信仰者は柔和でなければならないとよく言われるが、だからと言って、我々は既にそのような者であると言うことは出来ない。そうではなくて、我々はそのような者になる過程にあるのだ。(了)』

その「過程」とは、礼拝を中心にする信仰生活であることをお忘れなく。

2023年11月12日(日)聖霊降臨後第24主日 主日礼拝

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。  アーメン

                                           2023年11月12日(日)

題:「救い主えお迎える用意」

マタイ福音書25章1~13節

来年は、たつ年となります。私の年です。「人生100歳の時代」と言われています。年を重ねて行くと、自分の人生の最後の幕引きを考えるものです。人は誰でも、この世での人生を終え、肉体は死んでも霊魂は、次の新たな世界へと、新しい出発を始めます。聖書の言葉を通して、次の世界への道を神様が示してくださいます。

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天の御国はどういうものか、イエス様は様々な譬えを用いて語っておられます。今日の聖書で「1

人の「おとめ」の譬えを話しておられます。マタイ福音書25章を見ますと、「そこで、天の国は、次のように譬えられる」こう言ってユダヤでの婚姻の状況で花婿を迎える10人のおとめの譬えが語られます。さて、この譬えを理解するには、ユダヤの結婚手続きを知っておく事が必要です。ユダヤでは男女が結婚するのには三段階の手続きがありました。題1は、男性と女性の双方の両親が息子、娘らの結婚の約束を取り交わすものです。題2は、ユダヤの結婚式です。それは通常、花婿の家で幾人かの証人たちの前で行われ、その席上、花婿から花嫁の父に結納が贈られました。

この日から二人は法律上の正式の夫婦ですが、まだ一緒にすごしません一年の後、一緒にすごし始めることになります。いよいよ第3段階で二人の目出度い喜びの婚宴です。普通は大勢参加できるよう、夕刻から始まります。まず、花婿は親族か友人の家で身支度を整えます、その間、自宅は女中たちの手で婚宴の会場をしつらえます。夕刻、花婿と花婿の友だちは花嫁の家へ迎えに行きます。そこで花嫁の友だちは花嫁を美しく着飾り花婿の家の婚宴の席へと導きます。その行列は松明とランプとで照らし出され沿道の家々から花嫁の美しさをたたえ祝います。賑やかな行列が会場に着くと宴会が開かれ、幾日もの間、歌と踊りと酒とで目出度い時を祝いました。これが通常行われていたのです。ところで、イエス様の譬えでは「10人のおとめ」は花婿を迎え出る女たちです。その場面について、色々議論がありますが、通常とは違って花嫁の家で宴会が開かれる場合もありました。ここでも花婿が花嫁の家に来て婚宴を催すので、花嫁の家の玄関で花嫁の

代理として花婿を迎えようとしていた花嫁の友人たちのことが「10人のおとめ」であります。(なぜ、おとめが10人であったか、は当時の習慣であったかもしれません。)この譬えで大事なことは「10人のおとめ」のうち5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であったことです。では、5人の「思慮深さ」はどこにあったのでしょうか。イエス様譬えの終わりに「だから、目を覚ましていなさい。その日、その時があなた方にはわからないからである。。」と結んでおられます。(13節) これは24章42節でも言われている言葉ですが、この「思慮深さ、賢さ」が文字通り「目を覚ましていた」ことにあると、考えると。25章5節を見ますと10人が10人とも居眠りをして寝てしまった、とあります。無理もありません、花婿が来るのが遅すぎて「夜中」になってしまったからです。ですから、「寝てしまった」こと自体は非難の的として語られていません。恐らく、ここでは、花婿の到着が予想以上に遅かったことを強調しているのです。そして、突然、出迎えの支度をしなくてはならなかった、この驚きを力説するための表現です。イエス様は24章42節で「目を覚ましていなさい」と言ったのを「用意をしていなさい」と言い換えらえています。「だから、あなた方も、用意していなさい、人の子は思いがけない時に来られるからである」。

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25章10節でも「思慮深いおとめ」は「用意の出来ていた、おとめ」と言い換えられています。ですから、おとめたちの「思慮深さ、賢さ」とは、たとえ、一時は居眠りするにせよ、よそ事に心を奪われるにせよ、ともかく「花婿だ、出迎えに出なさい!}と言う、叫びが、終末前兆として告げ示された時、出迎えられる「用意をしている賢さ」の事です。では、「用意」は、どういう点にあったのでしょうか。それは、思慮の浅い女たちは、あかりを持っていたが「油を用意していなかった」といことです。しかし、思慮深い女たちは、自分たちのあかり、と一緒に入れ物の中に「油を用意していた」この点にあります。<もう少し申しますと>5人のおとめの賢さは、二つの点に現れています。第1には、花嫁の友として、花婿を迎えるには「あかり」を灯す事が絶対必要であり、それが結局、油があるか、無いか、にかかっている、と理解していた点です。よくわかって実行しています。第2には、花婿が何時来るか、わからないので別の器に油を用意した、それほど花婿の来る時、出迎える時、に対して慎重な備えをとっていた、ということです。では、「あかり」や「油」は何の比喩なのでしょうか。明らかに「あかり」というのは花嫁の代理として花婿を迎える資格を与えられている者です、それが、彼女たちを、他の女たちから区別する目印なのです。さて、私たちキリスト者として、他の人たちと区別できる印といったら何でしょうか。私どもは、日曜日に教会に行って礼拝します。又教会が洗礼を受け聖餐式にあずかったりします。目に見える印でしょう。それに対して、その「あかり」を照らす根源となる力、たとえで言う「油」は言うまでもなく、内的な目に見えない信仰です。聖書で言われる「聖霊」のことと言っていいでしょう。<つまり>賢いキリスト者は主の再臨を待つ、日々の生活において、まず目に見える信仰生活、教会生活をし、そして目に見えない聖霊が働いて下さる信仰に生かされている実感を感謝することでしょう。次に賢さの第2は、いくら再臨が遅れても、いつでも備えをしていること、それの忍耐と希望をいだいて待つことであります。

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パウロは、聖霊の油によって、照らされる「あかり」を聖霊そのものに見立てて、テサロニケ第1の手紙で5章19節に「御霊を消してはいけない」と警告しています。更に、テモテへの第2の手紙3章1節と5節には「終わりの日には、人々は信心深い様子をしながら、その実、信心の力を否定するようになります」とあります。聖霊の油の切れた人は、今は信仰を形の上だけ、保っているが、中身はギスギスした、戒律主義的な、見せかけにすぎません。次に他の浅はかな5人のおとめたちの会話を見ますと、「その日、その時がわからない」と言っても、前触れがないわけではない。」6節には「さあ!花婿だ!迎えに出なさい」と叫ぶ声がした、ことによって暗示されています。その時、5人の愚かな女はランプの油がなくなりつつ、あるのを見て、他の5人に油を求めます。すると、賢い女の返事はこうでした。「私たちと、あなた方とに足りるだけは多分ないでしょう。店に行ってあなた方の分をお買いになる方が良いでしょう」(19節)彼女たちの言葉は、いかにも意地悪な返事のようにも聞こえます。この返事の言葉は、率直に言って、こう訳すべきだ、と言います。「いいえ、駄目です。私たちとあなた方とには足りません」。このように、はっきり、足りない、と分かっているので、買いに行ってもらう外に仕方がないのです。たとえ同情心があっても、油を分けてあげるほどの余裕がないのです。だから、言われた方も、そう意地悪とはおこらないでしょう。自分たちが明らかに不注意でしたから。早速、買いに走りますが、もう夜中です、店など開いていません。彼女たちは,締め出されるほか仕方がありません。<言い換えますと>聖霊は信者から信者へと、おいそれと分け与えられるものでは」ありません。使徒言行録8章20節には「神の賜物が金で得られる等と思っているのか」。と言っています。「神の賜物は、金では買えないし、兄弟姉妹の間で取引する事もできません。」直接、神の言葉に従って神に祈りを求めることによってだけ、恵が与えられるものです。パウロはロマ書12章3節でこう言っています。神が各自に与えられた信仰の量(はかり)に従って慎み深く思うべきである。(口語訳)「つまり、それぞれに、聖霊の賜物を量(はかり)に従って分け与えられておられます。」つまり、一人びとり、神からいただいている油はその人自身になくてはならぬものです。「私たちとあなた方とには足りない、余りはないのです。聖霊の油は信者一人びとりが、各自養い、育て、貯えておかねばならないものです。マタイ福音書7章14節には、「命の至る門は狭く、その道は細い」とあります。つまり、富を抱えたままで、そこに入るより、駱駝が針の穴をくぐる方がたやすい。それほど門は狭い、ということです。聖霊の油を豊かに持つ友に兄弟姉妹のよしみで、一緒に連れ込んでもらう事は出来ない、それほど狭いということです。クリスチャンの信仰はこの点、徹底的に個人的であります。1人1人の神との関係です1人1人立たねばならないのです。ですから、主を迎える備えに於いては1人1人が自分自身に信仰を確かめていなければなりません。ヨハネ黙示録3章11節、フィラデルフィアにあてた手紙にこうあります。「私はすぐに来る。あなたの栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」。信仰は命、宝のような命、それを他人をあてにして、眠ってはならない。人に分けてやろう等とうぬぼれてもならない。1人びとりが誰にも頼れない。誰にも奪われてはならない。これなしには、私は生きてはいけない。そういうものを宝のように固く守って、用意すべきであります。次に、愚かな点は神の賜物の不足を女たちが終わりの時まで忘れていて、そのために求め始めたのが遅すぎた、という点です。終末の日まで、今は恵みの日、救いの日です。終末には確かに前触れがあります。マタイ福音書24章33節に「すべて、これらの事を見たなら人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」。前触れがあってから何とかしようと思って眠っていてはなりません。店の閉まらない間、光のある内に油を買い求めておくべきです。この意味するところは、普段から、み言葉を聞き、神に祈ることであります。終わりの日では遅すぎます。終わりの日、はまだまだ先のことと思ったりします。

若い人は自分がいつ死ぬか、考えてもいません。元気なお年寄りは、自分はこんなに元気だ、自分が死ぬなんて考えたくない、そうすぐには来ないと思いたい。しかし、いつ、どんな状況で、その日、その時が来るか誰にもわからない。この世での終わりの日,死はその人にとっての終末であります。今日のみ言葉の譬えの終わりに25章10節「愚かなおとめたちが買いに行っている間に花婿は到着し5人の花婿と一緒に婚宴の席に着き、戸が閉められた。後になって他のおとめたちが来て「ご主人様、ご主人様開けて下さい」と言ってもわたしはお前たちを知らない。と言われる。神様の恵みの手段は用意の出来ていない者には戸が閉められる。今日という日、終わりの日がいつ来ても用意が整えられ聖霊を求めていることこそが私たちにも警告されているのであります。

人知ではとうてい測り知ることの出来ない、神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

牧師の週報コラム

フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う

キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の11月4日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。

日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。それに、キリスト信仰では、見えない誰かに語りかける時、相手は父なるみ神と御子イエス様以外にはありません。日本人の場合は、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、お墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。

キリスト信仰では、亡くなった方は思い出の中に残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するというふうになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。かの地では「故人の思い出に蝋燭の火を灯す」という言い方をします。日本人の場合は尊重するのは故人の今身近にいる霊とか魂になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出になってしまったら、今は故人との繋がりがなくなってしまうと心配する人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身、復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。

全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。

追記 全聖徒の日の前日のフィンランドのテレビニュースを見た時、墓石会社の人のインタビューがありました。今フィンランドは教会離れ聖書離れが進んでいるが、まだ故人の思い出を尊重する伝統は続いている、ただし、将来この伝統が続くかどうかはわからない、などと話していました。聞くところによると、最近国教会に属するクリスチャンの中にも、亡くなった人は今空高くどこか雲の上にいて下にいる私たちを上から見守ってくれているなどと言う人も出てきているそうです。それはキリスト教的ではありません。この世の人生を終えた方は今、神のみぞ知るところにいて復活の日まで安らかに眠っていて、その日に目覚めさせられるというのがキリスト教の復活だからです。

写真  Tuomo Lindfors: ヴァナヤ教会と墓地、フィンランドのハメーンリンナ CC2 https://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/2.0/

説教「幸いなるかな、神の小羊の血で罪の汚れを洗い落とされた者は」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 5章1-12節

主日礼拝説教 2023年11月5日 全聖徒主日

聖書日課 黙示録7章9-17節、第一ヨハネ3章1-3節、マタイ5章1-12節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今年の日本のルター派教会の全聖徒主日の聖書日課は変則的に旧約聖書の箇所がなく代わりに黙示録の7章が定められています。著者のヨハネが遠い未来の出来事を天使から見せられる場面です。万物の創造主である神と救い主イエス・キリストの御前に世界中から数えきれない位の大勢の人たち、しかも純白に輝く衣を纏った人たちが集まる場面です。そして、福音書の方は、マタイ5章のイエス様の有名な「山上の説教」の初めです。「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。今から約2,000年前、地中海東岸のガリラヤ地方でイエス様が群衆を前にして教えたことです。黙示録の方は、イエス様の時代から60年くらい経った後に弟子のヨハネが神から啓示を受けて、今の世が新しい世に取って替わる時の出来事について見せられたことです。この二つは一見何の繋がりもないようですが、実は繋がっています。というのは、イエス様が「幸い」と言っている人たちはヨハネが見せられた大勢の純白の衣を纏った人たちのことだからです。今日はそのことについて見ていきます。

2.黙示録7章の小羊の血で衣を白く洗われた者たち

まず、黙示録7章を見てみましょう。玉座には万物の創造主である父なるみ神がいます。その傍に御子イエス・キリストがいて小羊と呼ばれます。玉座を前にして純白の輝く衣を纏った世界中から集められた大勢の者たちが神と小羊を賛美している場面です。彼らは大声で叫びます。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊のものである。」「神と小羊のもの」と言ってしまうと、あれっ、私たちのものではないの、ということになってしまいます。ギリシャ語の文法書によれば、「救いは神と小羊のところにある」とも訳せるので、そう訳します。救いは神と小羊以外のところにはないということです。純白の衣を纏った者たちはその神と小羊の御前に来たのです。まさに救いがあるところにです。この場面はまさに、今ある天と地が終わりを告げて最後の審判と死からの復活が起こった時のことです。神が新しい天と地を創造して、そこに神の国が現れて神に義とされた者たちが迎え入れられた場面です。

 そう言うと一つ疑問が起きます。あれっ、ここはまだ7章じゃないか?最後の審判と復活は20章に出てくるし、新しい天と地の創造と神の国への迎え入れられも21章のことではないか?実は黙示録というのは、最終的に起こることをプロセスの途中で垣間見せることがあります。19章がそうです。復活を遂げて神の国に迎え入れられた者たちがキリストと結ばれる婚宴の祝宴の場面です。この祝宴も新しい天と地のもとでの神の国のことです。このように黙示録の話の流れは単純な一直線ではありません。大事なことは、このような垣間見せがあるおかげで、最終目的地に至る途上でどんな苦難や困難に遭っても、私は今垣間見せてもらった場面の当事者になるのだ、今そこに向かって進んでいるのだ、と励ましと力づけを得られるのです。

 この場面を見せられたヨハネは、これら純白の衣を纏う者たちはどうなるかについて聞かされます。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽もあらゆる灼熱も彼らを襲うことはない。」これはイザヤ書49章10節にある預言です。太陽や灼熱は身体的な苦痛だけではありません。マルコ4章のイエス様の種のたとえにも出てくる迫害も意味します。「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」とは詩篇23篇の言葉です。「神が彼らの涙をことごとく拭われる」というのも、イザヤ書25章8節の預言です。8節全部はこうでした。「主なる神は、死を永久に滅ぼされる。全ての顔から涙を拭い、ご自分の民が受けた恥や屈辱を地上から一掃される。」

 これを語る長老はヨハネに、純白の衣の者たちにこれらの預言が実現したと言っているのです。彼らが父なるみ神と御子キリストの御前に立つ時に預言は全てその通りになっているのだと。飢えも渇きも迫害も苦痛もなく、命の水の源がそこにあり、涙も苦痛のだけでなく無念の涙も全て拭われていると。まさに、最後の審判と死からの復活を経て神の国への迎え入れが起こったのです。

 さて、これらの神とキリストの御前に集う純白の衣の者たちは一体誰なのか?それは、イエス様の山上の説教の「幸いな者」の教えからわかります。

3.ユダヤ教社会の伝統の「幸いな人」

イエス様は山上の説教の出だしの部分で「幸いな人」について教えます。9つのタイプの人たちが「幸い」と言われます。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエス様のために罵られ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人です。これを読んで違和感を抱く人もいると思います。心の清い人や平和を実現する人が幸いな人というのはわかるが、悲しんだり迫害される人を幸いというのは当たっていないのじゃないかと。「幸い」というのはギリシャ語のマカリオスμακαριοςの日本語訳です。「幸せ」ではなく「幸い」と訳されました。普通の幸せではない、何か特殊な「幸せ」なので「幸い」と訳されました。以前にもお教えしましたが、「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとっての幸せだという、神の視点での幸せです。人間が自分でこれが幸せだと言うのとどこか違います。どう違うのか?重なる部分もあるのですが、人間の視点では幸せとは言えないことでも、「幸い」であるということもあるのです。それで、人間的な視点での「幸せ」からちょっと離れて神の視点での「幸い」とは何かを考える必要があります。

 そこで、イエス様のこの教えを最初に聞いた群衆は9つのタイプの人が神の視点で幸せ、幸いであるとわかったでしょうか?私が思うに、彼らにはちんぷんかんぷんの教えだったのではないかと思います。どうしてかと言うと、ユダヤ教社会の伝統では「幸いな人」とは、旧約聖書の詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神から愛顧を受けられる人のことだからです。ヘブライ語でアシュレーと言います。また、詩篇の第32篇を見ると、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫な人のことをアシュレー/幸いと言っています。だから、イエス様の「幸いな人」の教えは全然かみ合わないのです。

 それでも群衆は、出だしがちんぷんかんぷんだから、もうやめた、とはならないで、まだまだ続く山上の説教を最後まで聞いていきます。どうして彼らは最初で帰ってしまわず、最後まで聞いたのでしょうか?それは、イエス様の教え方がとても力強いので何かとてつもないことを言っているとすぐわかったからです。どこが力強いかと言うと、心の貧しい人たちは幸いである、正しい訳は「霊的に貧しい人たちは幸いである」です、そう言ったあとで、どうしてそういう人たちが幸いなのか、その根拠を述べるのです。「なぜなら神の国はその人たちのものだからだ」と。新共同訳では「なぜなら」が抜け落ちていますが、ギリシャ語原文ではあります。霊的に貧しい人は幸いである。なぜなら、神の国はその人たちのものだからだ、それで幸いなのだと。他のタイプも皆同じです。

 悲しんでいる人たちは幸いである。なぜなら、彼らは慰められるからだ、柔和な人たちは幸いである、なぜなら、彼らは地を受け継ぐことになるからだ、と幸いであるという根拠を述べることで、霊的に貧しいこと、悲しんでいること等々、ユダヤ教社会の伝統から見て、あまり幸いと言えない状態なのが後で大逆転するようなことが起こる、それで幸いだと言うのです。普通だったら、律法を守る人は幸いである、なぜなら神はその人を祝福して下さるから、と言うところを、全く別次元の幸いについて教えているのです。群衆は、一体なんなんだ、この教えは?そういう驚きが起こったことは想像に難くありません。

 ところで、律法を守るというのは、神の意思に沿うように生きるということです。そのように生きて守って、その見返りとして神に見守ってもらう、もし神の意思に反する罪があれば赦しを頂いて神との関係をしっかり保って再び神から見守られて祝福を与えられて生きる、これがユダヤ教社会にとって幸いでした。それでは、人間はどのようにして罪を赦されて神とそのような結びつきを持てるのでしょうか?ユダヤ民族の場合は、エルサレムの大きな神殿での礼拝が罪の赦しを実現するとして行われていました。律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでした。それで、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、神の意思に反した罪が赦されて神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

4.イエス様の教える「幸いな人」とはキリスト信仰者のこと

そこに神のひとり子イエス様が神の御許からこの世に贈られて歴史の舞台に登場しました。神とイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守り、神の意思に沿うように生きていると言っているが、実は心に留めてもいないし本当は守ってもいない。人間の造り主である神はお前たちが心の底から神の意思に沿う者であることを望んでおられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は罪の赦しはもうそこにはない。神が預言者たちを通して言っていたように、毎年繰り返される生け贄捧げの儀式はもう形だけのものになってしまって心の中の罪を野放しにしてしまっている。それなので私が本当に神の意思をお前たちの心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えてあげよう。本当の罪の赦しを与えられた時、お前たちは本当に神の意思を心に留められるようになる。その時お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが本当に幸いなことなのだ。なぜなら、それがお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しだからだ。これがイエス様の教えの趣旨でした。

 それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、神の意思を心に留められるようにして人間を「幸いな者」にしたのでしょうか?それは、イエス様が父なるみ神の大いなる意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡すことで全ての人間の罪の神罰を人間に代わって受けられたことで果たされました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。

 この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の赦しがその人に効力を発揮します。その人は「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰が伴う洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様をあたかも衣のように頭から被せられるのです。黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことでした。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。

 このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を進みます。これが「幸いな者」です。その幸いな者が、霊的に貧しかったり、悲しんでいたり、柔和だったり、義に飢え乾いたり、憐れみ深かったり、心が清かったり、平和を実現したり、義のために迫害を受けたり、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに悪口を叩かれたりするのです。そうしてそれらが幸いなのかと言うと、全てが大逆転する神の国を今既に自分のものにしていると言える位、確実にそこに向かって進んでいるからなのです。実に9つのタイプは全てキリスト信仰者に当てはまることなのです。イエス様が山上の説教をしたのはまだ十字架と復活の出来事の前でしたので聞いた人たちが理解できなかったとしても無理はありません。しかし、十字架と復活の後で全てはキリスト信仰者の生きざまを言い表しているとわかるようになったのです。

5.キリスト信仰者の「幸いな人」としての生きざま

このように「幸いな者」は、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰を携えてこの世のいろんなことに遭遇しながら、神の国への迎え入れを目指してこの世を進んでいく者です。しかしながら、「幸いな者」になったとは言っても、この世ではまだ朽ちる肉の体を持っています。それで、神の意思に反する罪をまだ内に宿しています。そのため信仰者は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。これが霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは真に私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは犯さないように」と言って下さいます。それで、神の小羊の血が私たちに被せられた衣の白さを保ってくれます。

 キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。神が満たしてくれる方であるとわかればわかるほど、本日の詩篇の日課34篇や23篇に言われるように「私には欠けるものがなにもない」というのが本当になります。それくらい自分は霊的に満たされているとわかると、神に対してだけでなく隣人に対しても自分を小さく低くすることができるようになります。それが柔和さとか憐れみ深さとか心の清さということになります。ただ、現実の人間関係の中で自分を小さく低くすることができなくなることがあります。それで柔和さや憐れみ深さや心の清さを失ってしまいます。しかし、ゴルゴタの十字架に戻る度にまた霊的に満たされます。「平和を実現する人」とは、何か戦争を終結させたり、紛争の根を絶やす活動、今世界で一番求められる活動です、そんな崇高な活動のイメージが沸きます。しかし、平和の実現はもっと身近なところにあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、自分が霊的に満たされているとわかれば、自分を小さく低くすることができるのです。

6.そして復活の日に

そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、復活の日に眠りから目覚めさせられて神のみ前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚しています。あの滅び去った古い世で神の意思に反することが自分にあった。人を見下すこと罵ること傷つけること不倫や偽証や改ざん等々、たとえ行いや言葉に出すことはなくとも心の中で持ってしまったことがあった。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだ。何度も何度も十字架のもとに立ち返った。ひょっとしたら、弱さのために行いや言葉に出してしまったこともあったかもしれない。いや、あった。しかし、それを神の意思に反することとわかって悔いて神に赦しを祈り願った。本当にイエス様の十字架のもとでひれ伏して祈った。神さま、本当にイエス様を救い主と信じる信仰が私にとって全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、洗礼の時に着せられた純白の衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力や汚そうとする力が襲いかかっても、お前はそれをしっかり掴んで離さず、いつも罪の赦しの恵みの中に留まった。その証拠に私は今、お前が変わらぬ純白の衣を着て立っているのを目にしている。」

そのように言われたら、私たちはどうなるでしょうか?きっと感極まって崩れ落ちて泣いてしまうのではないか。そして立ち上がって周りにいる者たちと一緒にこう叫ぶでしょう。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある、他にはない!」

η σωτηρια τω θεω ημων τω καθημενω επι τω θρονω και τω αρνιω!

幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は!

Μακαριοι οι λευκαναντες τας στολας αυτων εν τω αιματι του αρνιου!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

牧師の週報コラム 

スオミ教会におけるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の牧会と伝道について

今から10年近く前のこと、日本の教会関係者がフィンランドを訪問して牧師同士の交流の機会を持ちました。 まだ東日本大震災から間もない頃でした。日本の牧師がフィンランドの牧師に尋ねました。フィンランドの牧師たちは原発反対運動をしないのですか?していない、との答えに、日本側は、どうしてしないのですか?その聞き方が少し強い調子だったせいか、フィンランドの牧師は少しぶっきらぼうに「私の仕事は人間を天国に送ることだ。」日本側は、こりゃだめだ、という雰囲気になりました。

もちろんフィンランドの牧師も、牧師が原発反対運動をしてはいけないという意味ではなかったと思います。ただ、日本の牧師先生の言い方が、反対運動しないと牧師に値しないという雰囲気があったので、自分の本来の仕事はこれなのだという答えになったと思います。

「天国に送るのが仕事」などと聞くと、大抵の日本人は不気味な感じがすると思います。それは、日本人の死生観に復活の信仰がないからです。この世の人生は復活の日を目指して歩む旅路だと考えるキリスト信仰者にとっては別に変でも何でもなく当たり前のことです。

スオミ教会の牧師として、またSLEYの宣教師として、スオミ教会は聖書の御言葉を正しく教え聖礼典を正しく執行する教会であることを信徒の皆さんが信頼して繋がって下さることを願っています。確かにスオミは、ハレルヤ!ハレルヤ!と叫び合うような熱気はないし、また多くの教団のように社会改革の先頭に立とうとする教会でもありません(ここで、かつて政治学者の丸山真男が発表論文を本にまとめて「後衛の位置から」というタイトルを付けたことを思い出しました。自分は「前衛」とは違う立場であるということを表明したのでしょう。)

この激動の時代の中にあって、一人ひとり置かれた境遇は異なり向き合う課題は異なるが、将来の復活の日を目指してこの世を歩み、いろんなことに遭遇し悩み考えながらも、聖書の御言葉と聖餐から歩む力と勇気と愛を受け取る、信仰の兄弟姉妹と一緒に受け取る、そうやって一緒に復活の日を目指して歩む、それがスオミ教会なのだと考えています。この一緒の歩みを支えるのが牧会、この歩みに一人でも多くの方が加われるようにするのが伝道と考え、任にあたってまいりたいと思います。

  スオミ教会の新しいシンボル - 白樺の十字架

 

スオミ教会・子ども料理教室の報告

この秋最初の子ども料理教室は10月28日に開催しました。この日の朝も太陽が青空に輝き、清々しい気持ちで一日を迎えることができました。今回作るのはフィンランドのオートミール・パンです。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。オートミール・パンはイーストで発酵させるので、今回は一つの生地は先に発酵させて準備したので、もう大きく膨らんでいました。それですぐパン作りを始めることができます。テーブルの上に置いた生地をお子さんが一生懸命こねて細長く丸め、それからパンの大きさに切っていきます。その後は楽しい形作りです。丸形、細長い形、お子さんの年齢から取った数字の6の形など、いろんな形のパンがあっという間に鉄板を一杯にしました。これから二回目の発酵をします。

お子さんはやる気一杯、自分でも生地を作ってみたくなったので、新しい生地を初めから作り始めました。材料をレシピの通りに測ってボールに入れて小麦粉を少しずつ加えていきます。お子さんは生地をこねるのがとても楽しそう。柔らかい生地の出来上がりです。新しい生地を作っている間に発酵させたパンは大きく膨らみました。それをオーブンに入れます。パンを焼いている間に上にのせるハム、チーズ、きゅうりのカッティングをします。

もう一つの生地も大きく膨らんだので、それもパンの形にして鉄板の上にどんどん並べていきます。ちょうどその時、オーブンがある台所からパンの香りが教会中に広がりました。パンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味に焼き上がったのかな。

味わう前に聖書のお話「五つのパンと二匹の魚」のフランネル劇をみんなで一緒に観ました。イエス様はたった五つのパンと二匹の魚で5千人の人たちに十分な食べ物を与えました。イエス様はそのパンと魚を手にとって、天を見上げて神様に感謝の祈りをさざけました。すると、イエス様のお話を聞きに集まってきた人たちは皆お腹一杯に食べることができたのです。それだけではありませんでした。食べ残しを集めると12の籠が一杯になる位の量になったのです。神さまは私たちが思っている以上のことをして下さるというのがイエス様の奇跡の業であることがよくわかるお話でした。

フランネル劇の後、みんなで食前のお祈りをして自分で形を作った焼きたてパンを頂きます!パンを真ん中から二つに切って、間にマーガリンを塗ってハム、チーズ、トマトをのせてサンドイッチにしたり、二つに切ったパンのそれぞれの切り口にハム、チーズ、トマトをのせてオープンサンドにしたり、皆さんの好みに合わせて頂きました。美味しく食べながら、幼稚園の話や趣味の話など楽しい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。

2023年10月29日(日)宗教改革主日 主日礼拝

説教をYouTubeで見る

ヨハネ8章31節〜36節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。今日のこの福音書は、イエス・キリストが、信仰とは何か、真理とは何か、そして自由とは何か、そしてそれがどのように私たちにあるのか、を私たちに伝えてくれています。それらの言葉はいずれも聖書では、救いに結びつく大事な言葉であり、また福音でもあるのですが、それが救いのための大事な福音であるがゆえに、悪魔が何より絶えず攻撃し惑わす言葉でもあり、人間の側で都合よく理解され、正しく理解されなかったり、歪められたりする言葉でもあります。

2、「問題提起」

A,「何を信じる信仰?」

 聖書の伝える「信仰」。それは何を信じる信仰でしょう。それはキリストは世界に政治的社会的な変革をもたらす救い主であるという「信仰」でしょうか?イエス様の時代にも、キリストはローマからの圧政から解放してくれる政治的なメシヤという期待がありました。あるいは、信仰とは、人間の側で律法や聖書の約束を精一杯行い実現し完全に果たせば救われ神に受け入れられるという律法としての「信仰」でしょうか?これもイエス様の時代には、ファリサイ派の人々やユダヤの宗教指導者たちはそう信じ、そう教えてもいました。8章の最初では、彼らはまさに姦淫の現場で一人の女性を捕まえて石打ちにすべきではないかと言っているように、守られないものは救われないし殺されなければならないし、そして守っている自分たちは救いに一番近いし、誰でも裁くことができると信じていたし、そうすることが彼らの「信仰」でもあり信じる救いでした。そのような理解は現代のキリスト教会にさえあり、福音や救いはまだ十分ではなく不完全であり、自分たちが約束やその未完成な福音を実現し果たすことによって福音も救いも完成させるのだ、それが信仰、救いであり、そのように信仰は律法であり、救いは人間の意志の力と努力による協力で人が完全に果たされなければならないのだという教会やクリスチャンも少なくなりありません。あるいは、もう単純に、人間中心の期待や願望の通りに実現するように信じる信仰、その通りになったら信じるというご利益信仰のような「信仰」という理解も多いことでしょう。しかし、そのような信仰がイエス様の伝える信仰なのでしょうか?

B,「聖書の伝える真理とは?」

 では、「真理」とは何でしょう。この相対主義的で個人主義的な傾向の強い現在は、真理という言葉は非常に立場の狭い言葉です。「真理は他者を排除するものだから、教会でもあまり言わない方が、あるいは強調しない方が良い」と教える教会やクリスチャンは沢山あります。そして言うのです。真理は人それぞれ、多種多様なんだと。今日のところで「真理は自由にする」とあり、真理は救いに関わるものであるのですが、その真理も、そのような現代の世の受け入れられやすい風潮に従ってそのような多種多様な「真理」を聖書は伝えているんだと、人間に都合の良い解釈に変えてしまい、どんな宗教のどんな真理でも自由にするんだ、結局は登山口やルートが違うだけで、どの真理から登っても、同じ頂上の救いに至るんだと平気で教え信じる教会やクリスチャンもいます。しかし聖書の伝える真理とは果たしてそうなのでしょうか?

C,「聖書の伝える自由とは?」

 では今度は、「真理はあなたたちを自由にする」、その「自由」とは何でしょうか?これもさまざま理解される言葉です。自分中心で、自分の欲望の通り、好き勝手にできること、それが自由である、世の人々はそのように考えることでしょう。同じように、キリスト教会やクリスチャンの間でも、そのように好き勝手に感情のままに行動できること、聖書を解釈できることが自由だという人もいますし、あるいは、それに少し高尚な理由づけを加え、宣教や伝道、愛や隣人愛などを掲げて、その名の下に、しかし人間中心に、人間に都合よく、自由に聖書を解釈することや、自由に感じるままに感じ取ることが聖霊の働きなんだ、と非常に巧妙に、最もらしく聞こえるように自由を主張する人々もいます。しかしそれが聖書の言う自由なのでしょうか?

 このように、信仰、真理、自由、それらは、救いに関わる大事な言葉であるのに、このように多種多様に理解され多種多様に用いられ、かつそれが「人の前」では支持されてもいますが、しかし、それは「神の前」では、イエス様が「ああそうか、良かった」と喜ばれる状況では決してありません。なぜなら、イエス様は、今日のこのところで、そのような罪深い人間の風潮やトレンドとは真逆の、何を信じることが信仰であり、真理とは何か、その真理が自由にするという「自由」とは何なのかを、私たちに教えてくれているからです。

3、「「信じた」人々のその「信じた」とは?」

 今日のところの一節前の30節には、「 30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。しかし、8章11節までの姦淫の女性の話の後にイエス様が教えていることは、12節からにせよ、21節からにせよ、かなり難解です。21節以下などは、イエス様だけが知っている、ご自分が今まさに十字架にかかって死ぬことや、そしてイエス様は父と一つであるという三位一体を示すようなことを伝えており、27節では彼らは「悟らなかった」とも記されています。さらには、今日の箇所の後の37節ではその「信じた」と言っている人々を指して「あなた方は私を殺そうとしている」とさえあるのです。ですから、ここに「人々が信じた」とあるのは、おそらく、革命者であるメシアをイエスに見ていた人々と同じように、あるいは、試しにきたファリサイ派の人々ように、非常に表面的なものか偽りのものであったことでしょう。というより何よりも、人間は口でいくらでも「信じる」と口にできたとしてしも、イエスの示す真理には、罪深い肉の思いのままでは、自らでは決して理解することも到達することもできない人々の姿もまたここには表されているのです。

4、「イエスの言葉にとどまるならば:人の力ではない聖霊の力によって」

 そのような人々へです。31節、イエスは教えるのです。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

A, 「み言葉によって真理へ」

 まず教えられるのは、私たちは自ら、自らの力や意思では、決して真理を悟ることも到達することもできません。しかし、イエス様はここで、私たちがそのように自ら真理を悟り到達「しなければならない」ということも教えていないでしょう。つまり「私たちが自ら真理に至らなければいけない、そうでないと救われない、そのように自ら真理に至って自ら自由になりなさい」、というのが聖書の教え、イエス様の教えではないことがここにわかると言うことです。イエス様はそんな悟りの遅い、あるいは表面的な、打算的な信仰者であってもその彼らのためにこそ、そして、人は自らでは悟ることは決してできないからこそ、彼らに「わたしの言葉に留まるならば」と言う大事な言葉を言ってくださっているでしょう。「わたしの言葉をあなた方が自ら悟り理解したら、あなたたちは本当にわたしの弟子です」とは言っていません。「留まるなら」と言っています。英語のESVですと「abide in My word」とありますが、「abide」は我慢する、耐えるという意味の他に「住む」という意味もあります。そのように、イエスの教えることをそのまま聞き、そのまま受けとり、そしてそこに縋り、しっかりとしがみつき、イエスの言葉が心に住まい続ける時に、私たちの力ではない、そのイエス様の言葉とそこに働く聖霊によって「真理を知る」ようになるという恵み、イエス様のみわざをイエス様は教えていることがわかるのです。これはとても感謝な平安のメッセージです。この後見ていくように、真理は多種多様ではなく、イエスが与える唯一の救いの真理を伝えます。それが自由にする真理です。しかしそれは決して私たちが自ら得なければいけないということではないのです。人間の側で、頑張ってその真理を理解したらわかったら、救われるという律法をイエス様は決して伝えていません。どこまでも「わたしにとどまるなら」です。皆さん、真理を知ることは律法ではありません。真理は、イエス様のみ言葉にあり、イエス様の教えにあり、そこに留まり聞くことによって、イエス様が教え、悟らせてくださる恵みであり福音であるということなのです。

B,「何からの自由か?:誰でも罪の奴隷である」

 しかし次にその真理とそして自由です。それは、先ほども言いましたように、多くのそれぞれの真理があってどの異なる登山道を通っても結局は同じ頂上の救いに至るという多元主義者がいうような多種多様な真理のことをイエス様は言っているのではありません。32節「32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 と言った後、それを聞いていた人は、まだ目が開かれていません。むしろイエス様が言おうとしている「自由」の意味を、彼らは人間的な視点での自由でしか判断できません。33節

「33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

 「誰の奴隷になったこともない」と、彼らは「自由」という言葉を、物理的な身体的な束縛以上のことでは理解できないのです。そして「なぜ自由になるというのか」と自分たちは何者にも束縛されていないかのように彼らは答えるのです。ちなみに彼らは物理的には実際はローマと皇帝と親密なヘロデに服従させられているのにも関わらず自由だと言っているのですから、その言葉が彼らの虚飾と自尊心で言っている「強がり」であることも窺い知ることもできます。しかしイエス様はここで、そのような物理的肉体的な束縛や奴隷状態のことではなく、むしろ「神の前」にあっては人は何の奴隷であり、そして真理は何から自由にするのかを、はっきりと教えます。

「34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」

 イエス様は、言います。罪を犯すものは誰でも罪の奴隷であると。ある人は言うかもしれません。「私は罪を犯していない」と。確かにここに聞いている人は、日本の刑法に触れることはしていないでしょうし、道徳に反することもしていない人であるかもしれません。しかしここでイエス様がいう「罪を犯すもの」はまさに神の前にある律法、十戒に照らしてあなたは罪を犯したことはないかを問うているのです。この8章の初め姦淫の女の出来事の7節ではイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 と言った時に、律法学者たちやファリサイ派たちは「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」ました。彼らは、表向きは立派で律法を守っていると自負する人々ですから、そのような犯罪とか犯したことはない人であったかもしれませんが、しかし、彼らも十戒に照らすときに、これまで全く背いたことがない、罪を犯したことがないとは誰も言えなかったのです。それはアブラハムの家の子孫だからと家柄や地上のいかなる権威でさえも抗うことのできない現実です。37節を見ると

「37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」

 そう、「信じる」といっているアブラハムの子孫である彼らのこれから成そうとする策略までも見通して、未来に至るまでも、あなた方は罪を犯さないものではないとイエス様は言っています。「信じると言っているあなた方が、わたしを殺そうとするのだ」と人間がいかに罪に縛られていて自由ではないかをイエス様は言っているのです。私たちも人の前では刑法や道徳に触れることはしていないかもしれません。「罪人だと言われても、私はそんなに悪くはない。そんなに罪罪、言わないでよ。気分が悪い」と言うかもしれません。しかし、誰でも、私自身も、十戒の前に照らし出されるときに、私たちも誰一人、姦淫の女に石を投げることができないものです。確かに行為として盗んでいません。殺していません。姦淫していません。しかし心の中の罪は計り知れません。そして何より、イエス様が十戒を要約して律法全体がこれにかかっているとして「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神を愛しなさい、隣人を愛しさなさい」(マタイ22章36−40節)と命じていることを、私たちは誰も完全に果たせていると言える人はいません。神よりも隣人よりも自分が中心で、自分を何よりも愛するものです。創世記3章などの罪の根源である初めの人の誘惑に照らすなら、私たちは誰でも、神のようになれるという誘惑に負けて自分を神のようにする自己中心な存在ではありませんか。私自身がそのようなアダムの子孫である紛れもない罪人であり、まさに罪に縛られてどうすることもできない存在であることを認めざるを得ません。ヨハネはその最初の手紙1章でこのように私たちに教えています。

「8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。〜10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1章8節、10節

 私たちは罪人です。罪があるのです。罪の奴隷であるのです。ヨハネは罪がないと言うなら、真理も、神の言葉も、私たちのうちにはないと、今日のところに重なるように言っているでしょう。しかし、それは同時に、教えられます。私たちが神の言葉から、何に縛られ、何の奴隷であるかがわかるからこそ、その束縛から解かれなければならないことがわかり、だからこそ神の与えようとしている救いの真理がわかるようになる。その神の言葉が私たちのうちにあって真理に導いてくださるのです。そしてその時に、その自由は何であるのかも見えてくるでしょう。そう、イエス様が伝える自由は、人間が好き勝手に欲望のままに何でもできる自由では決してない。それは神とその言葉によって、罪の奴隷、罪の束縛から解かれ自由とされると言うことなのです。

C, 「イエスが伝える「真理」とは」

 さあ、その神がイエスを通して与える、罪の束縛から解放する「真理」は、皆さん、もう明らかでしょう。イエス様はそのために預言で約束され、約束の通りに世にこられ、そして初めからこのことを真っ直ぐと見て、教えてきたでしょう。そうです。真理とはこの私たちの罪のための贖いである十字架と復活に他なりません。イエス様はそのためにこの地上に人としてお生まれになります。イエスはただ、道徳的な模範なんだと教える教会もあるかもしれません。私たちが自分たちの努力や意志で律法に従い律法を果たし義となるための模範を示すために来たと。しかし、それでは誰も自由にしません。イエス様が人となられたのは、私たちの罪の奴隷からの解放であり、それはそのご自身の肉体に、私たちの底なしの罪と私たちが本来負わなければならなかったその罪の報いである死と罰を、代わりに受けることによって、神の前にイエス様が罪に定められる代わりに、私たちに罪の赦しを与えるためではありませんか。そのように神はこのイエス様の十字架にあって「あなたに罪はない。義である」と罪の赦しを宣言することによって、私たちを神の前にあって罪の束縛から解き放ってキリストにあって本当に自由にするためにこの真理を与えてくださっているのです。そして、その真理も自由もどのように私たちに来るのか?それは、どこまでも御言葉を通して与えられるのであり、み言葉を通して罪を認めさせられ悔い改めさせられ、そこで人は刺し通され痛みがあり絶望するのですが、それで終わりではない、まさにその時にこそこの真理、どこまでもイエス様がしてくださった一方的な罪の赦しをそのまま信じ受け取るだけで「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」とイエス様は宣言してくださるのです。先ほどの罪を示すヨハネの手紙の言葉にはこのような言葉もしっかりとあります。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1章9節)

そして、第二の聖書日課の箇所ローマ3章24節でもパウロは教えています。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」

さらには、パウロはその悔い改めも、信じる信仰さえも、そのまま受け取ることさえも、それは、私たち自らの努力とか行いとか意思の力とかによるものではないことまでも教えています。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」フィリピ2章8−9節

5、「終わりに」

 みなさん、このみ言葉を通して、恵みによって真理を知る信仰が与えられ、その信仰によって誰でも自分の罪が赦され、罪の束縛から解放され、「あなたの罪は赦されています」「正しい」と宣言され、自由とされる。安心していくことができる。それはどこまでも一方的な神のわざ、神の恵みである。律法ではない、福音であるのです。

 昨今、この真理も自由も信仰も、人間中心に考えられることによって、律法か放縦か、いずれかに偏った聖書の教えがされます。しかし、それらは律法であっても放縦であってもいずれも人の行いに依存しているのですから、どこまでも福音ではなく律法による歩みです。個々の人間自らが一生懸命獲得する真理、自由、信仰であるか、あるいは人間が好き勝手に解釈していい真理、自由、信仰であるのか、いずれかです。それはどちらも間違いであり、イエス様が与えると言われた真理も自由も平安もありません。ルターの宗教改革運動も、当時の腐敗した、人中心の間違った教えから、真の神中心、キリスト中心の「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」に立ち返り、真の真理、自由、信仰、そして平安を教会と人々に回復することでした。その改革の精神は、昔の単なるノスタルジーで今は関係ないことでしょうか?あるいは、現代風に新しく再解釈していくものなのでしょうか?そんなことはありません。今も決して失われてはいけないものではないでしょうか。私たちはいつでも永久に変わることも朽ちることのない十字架と復活の主イエス・キリストの言葉に立ち返り、すがり、留まることができ、聖書から「人が何を聞きたいか」ではなく「神が何を伝えているのか」を聞けることこそがクリスチャンの幸いでありいのちの歩みでしょう。その真理こそ今日も私たちを自由にするのです。そしてそのキリストが与える真理と自由に与るからこそ、私たちはルターが「キリスト者の自由」で「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何者にも従属せず、キリスト者はあらゆるものの、最も義務を負っている僕であって、全てのもののに隷属している」と言っているように、真の自由と平安のうちに、今度はキリストの自由な奴隷として、本当に自己中心や自己愛などの罪な動機や思いに縛られないキリストの平安と喜びに満ちて、真に隣人に仕えていくよう用いられていくのです。

 だからこそ、今日も神の前に罪人であることを認めさせられ刺し通され悔い改めに導かれる私たちですが、だからこそ十字架と復活の福音の言葉を語り、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言ってくださるイエス様の声を聞き、自由にされ、平安のうちにここから遣わされて行こうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン