ニュースブログ

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

ryourikurabu

4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めの13日、爽やかな春の陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのフィンランドのコーヒーブレッド、アウリンコ・プッラを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。

pullaまず、プッラの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを加えて、またよく捏ねて生地を仕上げます。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。その時にプッラのトッピングを作ります。卵以外のものをボールに入れて味見をし、もう少し砂糖を加えてみてから卵を混ぜて完成です。トッピングを準備している間に生地は大きく膨らみました。そこでプッラの形作りです。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、切った生地を一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めていくうちに皆さん上手になってきて、きれいなプッラが次々と鉄板の上に並べられていきます。それから二回目の発酵をさせます。今回は幼稚園のお子さんと小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人と一緒に一生懸命プッラの生地を捏ねて上手に生地を丸めていました。

二回目の発酵の時にちょっと一休み。あちこちから楽しそうな会話の声が聞こえてきます。さて、プッラはあっという間に大きく膨らみました。一つひとつプッラの真ん中にコップで溝を作って、そこにトッピングをのせます。鉄板には最初の丸形とは違う形のプッラがきれいに並べられました。それをオーブンに入れて焼き始めます。少し経つとオーブンから美味しそうな香りが教会中に広がりました。

pullaきれいな焼き色になったプッラをオーブンから取り出してよく冷まします。その間にコーヒーやテーブルのセッティング。それからアイシングを作って、冷ましておいたプッラのトッピングの周りに太陽の光の筋の模様を描きました。

そうして、出来たてのアウリンコ・プッラをコーヒー・紅茶と一緒に味わう時間になりました。皆さんと一緒にプッラを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。この時にフィンランドのプッラや太陽についてと、「天地創造の神さまは私たちと共にいる」という聖書のお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは5月

11日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブのお話2024年4月13日

ryourikurabuフィンランド人はコーヒーブレッド、Pullaが大好きです。フィンランドには色んな名前のプッラがあります。例えばバター・プッラ、クリスタル・プッラ、ブルーベリー・プッラ、ラフカ・プッラなどなど、そして今日皆さんと一緒に作ったアウリンコ・プッラもその一つです。プッラはフィンランドではコーヒーや紅茶と一緒に食べます。プッラは初めは貴族のおやつでしたが、1880年頃から一般の人も食べるようになりました。その時はプッラは家庭で作られるものではなくお店で買うものでした。第二次世界大戦の後、砂糖やイーストなどプッラの材料が普通に販売されるようになってプッラは多くの家庭で作られるようになりました。昔、プッラは高価なものだったので、イースター、夏至祭、クリスマスのようなお祝いの時しか食べませんでした。他にプッラが出される大事なお祝いとして赤ちゃんの誕生祝いがありました。赤ちゃんが生まれると近所のお母さんたちが大きめで丸い形のプッラを焼いて、それを赤ちゃんが生まれた家族に持って行きました。このプッラは赤ちゃんの誕生をお祝いに来る親戚や近所の人たちをおもてなすために出されるもので、赤ちゃんのお母さんにとって助けになりました。

時代は変わり、プッラは毎日食べられるおやつになって、ほとんどの家庭で毎週プッラを焼くようになりました。奥さんが美味しいプッラを作るのは大事な技能と考えられました。私の母は毎週金曜日にプッラを焼きました。私たち兄弟姉妹が学校から帰ると、焼きたてのプッラの香りが家の外にまで広がったものです。家族みんなで暖かいプッラを冷たい牛乳と一緒に食べました。

プッラを作るのはそんなに簡単ではありません。イーストを使って2回発酵させるので、時々硬くなったり、表面がちぎれることもあります。美味しいプッラが出来るために、時間と発酵の温度は大事です。それから生地を十分にこねることです。今日皆さんは、とても上手にきれいな美味しいプッラを作りました。

今日作ったプッラは太陽のイメージなのでアウリンコ・プッラという名前です。ちょうど2週間前はイースター・復活祭のお祝いがありました。フィンランドでは暗い冬が終わり日光時間が長くなる季節になりました。人々の気分も明るくなります。アウリンコ・プッラはこの季節にピッタリなプッラです。

この季節にフィンランドの教会では天の神さまの創造の業についての讃美歌がよく歌われます。天の神さまは太陽や月、湖や森や人間も造られたという歌詞で始まる明るい感じの歌です。これは子ども向けの讃美歌として歌われますが、大人も大好きです。これから、この讃美歌を一緒に聴きましょう

旧約聖書の一番最初は創世記という書物で、神さまの天地創造について書かれています。神さまは太陽や月や星を造られました。神さまは光と闇を分けられ、太陽は昼、月は夜、この地上を照らすようになりました。私たちは太陽が照る時間が長いと明るい気分になります。逆に照る時間が短いと少し落ち込む気分になるでしょう。私はフィンランドの父に毎週電話しますが、父はいつもフィンランドの天気のことを話しします。去年の秋と今年の春は太陽の照る日が少なかったので、太陽はどこに行ってしまったのかといつもがっかりした様子で話していました。sora

太陽は雲のない青空できれいに輝きますが、空が厚い雲に覆われたら太陽は見えません。しかし太陽は見えない時でも雲の上の空にあります。天の神様も太陽と同じように考えることができます。旧約聖書の申命記という書物には次のように書かれてあります。「主ご自身があなたに先立って行き、主ご自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」申命記31章8節です。

私たち人間の人生にはいろんな段階、幸せの時、試練や困難の時があります。太陽が青空に輝いている時は幸せや喜びの時とすれば、太陽が雲に覆われて見えない時は試練や困難の時です。試練の時、神さまがいなくなってしまったと思うかもしれません。でもそうではありません。太陽は雲に隠れてしまっても、それは太陽がなくなってしまったのではなく、雲の上で輝いています。天の神さまも同じです。神さまを信じて受け入れると、いつも神さまが共にいて下さるという確信が生まれます。試練の時でも、雲の上で輝く太陽を思えるように、共にいて下さる神さまを思えるようになります。その時、今読んだ申命記のみ言葉は真実になります。天の神さまは見放すことも見捨てることもせず、いつも私たちと共にいて下さるのです。

2024年4月21日(日)復活節第四主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師

[私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]

                          2024年4月21日(日)スオミ教会

 「私は、まことの羊飼い。」

今日の聖書はヨハネ福音書10章1~10節です。

イエス様は「羊飼いと羊の譬え」を10章1~10節までに語られて、11節からは本格的に「私はよい羊飼いである。」とご自分を「羊飼い」に譬えて語られます。これまでにも、イエス様はご自分のことを「私は命のパンである」とか「私は命に至る道である」とか10章のはじめでは「私は門」である、と譬えで表されました。羊の群れを囲っている一つの門である、羊たちはこの門を通って出入りする。羊飼いは同じご自分のことを露わに表されています。羊飼いは羊の世話をします。命がけで世話をします。現代で言えば教会には牧師がいます。教会で牧師というのは牧者と言う言葉から来ていると思います。主イエス様こそ教会の「よき牧者」であられます。主イエス様が、よき牧者であり給うのは、1に、その羊の事をよく心にかけて、羊のために命を捨て給うからであります。イエス様が11節から13節にかけてそのことを教えられています。その前にまず、10節で「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに受けるためである。」と言われ、続いて「私はよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われます。そして、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇人は狼が来るのを見ると羊を置き去りにして逃げる。―(そうすると)狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇人で羊のことを心にかけないからである。そして、14節から再び力説されています。「私はよい羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。」よい羊飼いと雇人と比較して、雇人は狼が来ると、羊を置き去りにして逃げる。自分の身の安全の事しかない。雇人は自分が自分の事、自分中心にしか心が及ばない。

――――――――――――――――――◇―――――――――――――――――――――

ペテロは教会の長老たち、及び牧会者たちに警告しています。ペテロの第1の手紙5章2節以下で「あなた方の長老たちに、勧めます。あなた方に委ねられている神の羊の群れを牧しなさい

強制されて、ではなく、神に従って自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく、身的にしなさい。委ねられている人々に対して権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの規範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになる時、あなた方はしぼむことのない栄冠を受けることになります。同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆、互いに謙遜を身に着けなさい。何故なら「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だかr、神の力強い、み手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます想い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方の事を心にかけて下さるからです。「よい羊飼いであるイエス様は、自分で羊のために命を捨てる、それは再び命を得るためである。」10節で言われたように、命を捨てるのは羊に命を得させるため、豊かに得させるため、というのです。世間の人間並みの立派な牧師であっても、羊のために命を捨てるでしょうか。羊たちに命を得させるため、豊かに得させるでしょうか。ここに、全くちがう、主イエス様こそは羊の身代わりに十字架に命を捨て、永遠の命によみがえる、と言っておられるのです。ここでは、イエス様が十字架にかかって、死に給うたのが、ただ羊である私たちの罪の身代わりで命を捨て、そのことで、もっと豊かに、多くの全世界の迷える羊に、永遠の命を豊かに与えるためである、というのです。2 に主イエス様が「よき羊飼い」であるのは、羊をよく知っておられる、からであります。14~15節を見ますと、「私はよい羊飼いであって、私の羊を知り、私の羊はまた、私を知っている。それは、ちょうど父が私を知っておられ、私が父を知っているのとおなじである。」天にいらっしゃる父なる神が、神のみ子、イエス・キリストを全て知り尽くしておられる。神のみ子イエス様も父を知っておられる。互いに全てを知り尽くしておられるのです。それと同じように、主イエス様はイエス様を信じて、神の子とされた私たちキリスト者の全てを知っていて下さるのであります。イエス様だけが、まことの羊飼いであって羊たちの一匹々のすべてを知り尽くしておられます。

――――――――――――――――――◇―――――――――――――――――――――

ジョージ・アダムスという人が、パレスチナを旅行した時、一つの井戸の傍らで真昼の休息をしていた時のことです。そこに三、四人の羊飼いが水を飲みに来た、また羊たちにも水を飲ませた。当然それぞれの羊の群れも一緒にくっついて来るわけです。一つの井戸ですから、その井戸から水を汲んだ所に羊はみな群がって飲み、戯れますから三つ、四つの群れはごちゃ混ぜになってしまったわけです。見ていたこちらの方が心配になって、あれは後でどうやって羊をえり分けるのかと思って注目していると、暫くして三・四人の羊飼いが一人はあちら、一人はこちら、と別々の方向へ行って立ち上がり、それぞれが独特の声で合図をすると、ごちゃ混ぜになっていた羊の群れはそれぞれが自分の羊飼いの所へと行って、いつの間にか見事に元通りの羊の群れは三つ、四つに分かれて行ったというのです。このように羊たちは自分の羊飼いの呼び声を知っていますから、主人である羊飼いに付いて行くのです。それほど本当に羊を知り尽くした羊飼いの下で養われた羊は羊飼いを知りぬくのです。また羊飼いは生まれてくる羊の一匹々に特徴を見つけて、相応しい名前を付けてその羊を呼ぶのです。この羊と羊飼いの絶妙、絶対の信頼,頼り切った深い関係、そのものを譬えとして言っておられるのです。イエス様は神の子として父なる神に全幅の信頼を頼り切って、いつも、いつも困難と苦しみの只中で父なる神に祈ってゆかれたのです。天にいらっしゃらる父なる神は、こよなく一人子イエス様を愛し、その苦しみと戦いのすべてを知って、それに応えて無限の知恵と力とを与えてゆかれた。それと同じようにイエス様を信じ、頼り切ってイエス様を知り、信頼してゆく私たち一人々に一番相応しい恵みと力を注いでいる、全ての真実を知り尽くして助け導いて下さるのであります。

――――――――――――――――――◇―――――――――――――――――――――

預言者イザヤはイザヤ書49章14節以下で申しました。イスラエルであるシオンは全能の神に嘆き訴えました。「主は私を捨てられた、主は私を忘れられた」と。すると主は言われた。「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を哀れまないようなことがあろうか。たとえ彼らが忘れるようなことがあっても私は、あなたを決して忘れるようなことはない。見よ、私は、たな心に彫り込んだ」これがイスラエルの民を牧される牧者、主なる神様であります。シオンの民は忘れられた、と僻みました。神様は世界中に何万、何千とある教会の中で私たちの小さい群れなど、忘れていらっしゃるのではないかと、心の隅のどこかで僻みます、けれども主イエス様は言われます、「女が乳飲み子を忘れる事がないように、その腹を痛めた子供を哀れまずに放っておけないように、いやたとえそんなことがあったとしても、主なる神様はあなたを決して忘れない。あなたの、すべてをたな心に刻んで、いつも覚えている」と言って下さるのであります。まことの牧者、主イエス・キリストは愛をもって見守ってくださっているのであります。イエス様は「羊のために命を捨てる」とおっしゃいました時、それは決して十把一絡げの100人、200人のために命を捨てたのではなくて、実にあなたのために、たな心に刻んである、あなた一人を心にかけて、命を捨て給う、という愛を示して下さったのであります。――――――――――――――――――◇―――――――――――――――――――――

最後にイエス様がよき牧者であり給いますのは「一つの群れ、一人の羊飼いとなる」お方であるからであります。群れを一つにしたもう方です。「私はまた、この囲いにいない他の羊がある。私は彼らを導かねばならない。彼らも私の声を聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」。ここで言われている「この囲いにいない他の羊の群れ」というのは旧約聖書を知らない、異邦人のことですが、彼らも「導いて」「一つ」になし給うのは、何によってなされる、かと言うと、それはイエス様が命を捨てるところの十字架の死によって、であります。実は11章51節のところでこの年の大祭司が預言して言いました。「イエスがイスラエル国民のために、また、ただ国民のためだけでなく、散在している神の子らを一つに集めるために死ぬことになっている、と言ったのである」。イエスの十字架によって異邦人も一つの群れに加わる、ということが起こってきたのです。エペソ人への手紙2章15節で、こう言われています。「それはキリストにあって、二つのものを、一人の新しい人につくり変えて平和を来たらせ、十字架によって二つのものを一つの体として、神と和解させ敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。ここで言おうとしている事は神によって選ばれた選民と異邦人とが、互いに敵意を持っていた、この二つのものが十字架の死によって取り払われて一つとなる、平和の神の民となる。そういう事が言われているのです。

元々は神の子イエスが十字架の死をもって神と罪ある人間とを和解してくださった。そうして私たちが神の子となり、神を父と呼ぶことが出来るようになりました。一つになって平和の神の子となる事が出来るようになる、ここに本当に人間たちがイエス・キリストの十字架によって、神も子とせられ、愛情の関係に入った時、一人々の人間が皆、同じ神の子として兄弟となり「一つの群れ」として結びつく事ができるわけであります。イエス様は、そのような新しい兄弟たち「この囲いにいない、他の異邦人たちを導かねばならない、それは『他の羊』があるからだ」と言っておられるわけです。

イエス様が言われるのは「導いたら、キリストを信じる、そういう群れができるだろう」ではないのです。もう既に私には「他の羊の群れがある、であるから導かねばならない」とおっしゃっているのです。

使徒言行録18章9節から11節にはパウロがコリントの町で非常に困難の中で伝道しておりました。信仰に入った者たちがユダヤ人から激しい迫害を受ける、ということが起こりました。その夜キリストは幻のうちにパウロに現れて励まされたのです。「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。あなたには私がついている。誰もあなたを襲って危害を加えるようなことはない。この街には私の民が大勢いる」。そう言われてパウロは1年6ヵ月コリントで伝道したあのであります。この街には私の民がいる。だから導かねばならないのだ。私たちが導いたり、伝道するから民が出来るのではないのです。私たちが、何故私たちの囲いの外にある所にまで伝道に行かねばならないのか、それは命に定められた群れが既にある、からであります。このようにして、外にいる既にある「一つの群れ」の「一人の羊飼いとなる」というのがイエス・キリストの使命であります。それが、また、彼が命を捨て給う救いのみ業の完成なのであります。

[人知では、とうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように]      アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム

 和辻哲郎「鎖国」から渡辺京二「バテレンの世紀」へ

和辻哲郎の「鎖国」は驚くべき本である。中心テーマは室町時代末期から江戸時代初期にかけてのキリシタン盛衰記だが、序説がなんとローマ帝国の崩壊から始まる。 十字軍とルネサンスまでの西洋史を振り返り、第1章でスペインとポルトガルの新大陸進出、第2章は両国が喜望峰を越えてインド洋、東南アジア、東アジアに進出していく過程の詳細な記述。あれっ、私は何の本を読んでいたんだっけと戸惑うことも。一体いつになったら日本が出てくるのか?それでも、だんだん近づいてついに種子島に。ここから日本列島の自由闊達な者たちと西洋流「普遍」との交流と対話が始まるのだ。しかし結果は、「普遍」を遮断するようにして「日本人」が作られるようになってしまうことに。序説の出だしはこう、「太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した」。さらに、キリスト教を排斥して代わりに古代シナ(!著者の言葉遣い)の思想である儒教を思想的主柱にしたことが日本人に合理的な思考を起こさせない要因になったとも。そして締めくくりは、「現在のわれわれはその決算表をつきつけられているのである」。「現在」とは昭和25年。日本は占領下にあり、まだ焼け跡と闇市が社会風景の時だ。

その後、日本は復興を遂げ経済は急成長し世界第2位の経済大国にのし上がった。しかし、バブルがはじけた後は、失われた10年が20年、30年(?)と続き、経済は4位転落、平均賃金、1人当たりGNPも韓国が上に。キリスト教は戦後一時期ブームになったそうだが、その後頭打ちとなり、信徒数は総人口の1%のまま。

そんな時代の2017年に出版されたのが「バテレンの世紀」。渡辺京二は「鎖国」の現代版を試みたそうだ。それで、スペイン・ポルトガルの海洋進出から始めるのだが、新大陸は割愛、インド洋アジア地域のみ。現在の世界の政治経済の重心が同地域に移っていることを意識したのか。ローマ帝国やルネサンス等の西洋史にも触れないのは、西洋流「普遍」に冷めた態度があるからか。渡辺のキリシタン記述は和辻ほど理想的ではない。宣教師の不祥事にも触れたりして現実的である。しかし、私が目を見張ったのは終わりの総括のところだ。キリスト教は日本人の体質に合わないという思考様式を批判的に論じている。日本のキリシタンはカトリック本国の平民以上に受容していたと。遠藤周作は、「沈黙」に登場する棄教の宣教師に、キリスト教は日本人には不向きな宗教と言わせた。武力で壊滅・根絶させられたのに、ほら、日本人の体質に合わなかっただろ、とは何という言い草だろう、筋違いも甚だしいと言わざるを得ない。

DSC_3767

2024年4月14日(日)復活節第三主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書24章36〜49節

「生きておられる復活のキリストからの賜物としての信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 復活節の聖日の朝、今日もイエス様の復活の恵みを見ていきます。今日の箇所の前には、復活の日の出来事が書かれています。イエス様は弟子達に、十字架にかけられる前からご自身が死から復活することを予め伝えていたにもかかわらず、皆、そのことを忘れていました。忘れていただけではありません。復活のイエス様は女性たちに現れ、彼女達はそのことを弟子たちに伝えました。しかしその証言があっても11節、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と、弟子たちは信じなかったのです。しかし、その後、エルサレムを離れエマオへと向かう二人の弟子たちのところに、「イエス様の方から」現れてくださいます。二人はそれが復活のイエス様だと気づかないのですが、そんな二人にイエス様は、み言葉を繰り返し語り、思い出させ、ともにパンを裂くことによって二人の目を開き、イエス様がその弟子達の信仰をもよみがえらせました。エルサレムを離れエマオへと向かう二人の沈んだ閉ざされた心は「本当に約束の通りイエスはよみがえったのだ」と喜びに変えられ、彼らは向きを変えエルサレムへと戻って行ったのでした。今日はその続きですが、ここでもその復活の「イエス様の方から」の恵みの出来事を見ることができるのです。

2、「信仰は人の側からの熱心や意志の力やイエスとの親密さの強さなのか?」

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち

36節

A,「イエスのご自身の方から」

 「彼ら」というのは弟子たちです。しかも11人の使徒とその仲間、他の弟子たちが皆集まっています。そんな彼らは何を話していたのでしょう。それは33節以下に書かれていますが、復活のイエス様がシモンに現れたということ、そして、先ほど述べたエマオに帰る途中、二人の弟子にイエス様の方から出会った下さったその出来事でした。シモンも、そしてその二人の弟子たちも復活のイエスが現れてくださったと、証しているのですが、それでも他の弟子たちは信じられません。この後も弟子達の信じることの不完全さ、無力さが続いています。37節

B,「自ら信じることの無力さ」

「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

 シモンとエマオの二人の弟子たち以外の弟子たちだと思いますが、彼らはそのような証言、証しがあっても、驚き、恐れます。つまりこの後「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」とイエスの言葉にある通りに、彼らはまだ疑っている現実があります。どう思ったのかというと、「「亡霊を見ている」のだと思った」というのです。本当にイエスが復活をしたと信じれないのです。このようにまずわかる事実は、このように、まだ信じる前ではありますが、「イエス様の方から」がないなら、つまり、イエス様が現れなかったのなら、イエス様の方から来なかったのなら、弟子たちはずっとイエス様の復活を信じることはできなかったことでしょう。失望、絶望に沈み、悲しみに沈み、ヨハネの福音書にある通り、人を恐れて、戸を閉ざして引きこもっていたことでしょう。いや、それだけではない、エマオへ帰る二人の弟子は失望と暗い顔で自分の村に帰って行ったように、弟子たちはみな解散し、自分たちの出身のガリラヤの町々、村々に帰って行ったことででしょう。宣教も始まらなかったことでしょう。「イエス様の方から」がなかったなら、です。しかも目撃証言があり、それでも信ぜず、さらには、イエス様の方から現れたとしても「亡霊」だと思い、取り乱すしかない、心に疑いを持つことしかできません。このように一緒にいた弟子であっても、人はどこまでも、神のなさること、つまり、神の国、救いのことについて、「神の力なしには」、弟子たちの側、人の側だけではどこまでも無力であり、神に対して後ろ向きになり、信じない、悟れないものであることがわかります。それは、堕落した時のアダムとエバの姿とその性質そのものですが、その自らでは決して信じられない、疑うという罪の性質は、この復活の日の弟子たちの姿にまで受け継がれているのを見るのです。そのように信仰とは、人の熱心とか努力とか、根性とか意思の力とか、あるいは、どれだけ長く近しく過ごしてきたとか、そんな人間の側のことは全く関係ないし意味もないことがわかるのです。

3、「そのような人間の現実へどこまでも「イエスの方から」の意味」

A,「恵みに限界はあるのか?」

 しかし、そのように弟子たちは霊だと思い、取り乱し、疑います。信じません。ではこのようにもう何度も「イエス様から」の働きかけがあるのに、恵みが繰り返されているのに、それでも「信じないから」と、イエスはどうでしょう?ここで「イエス様から」の恵みは尽きるでしょうか? 終わるでしょうか? ここでもうこの弟子達はだめだ。もう私の堪忍袋の尾が切れた。もうあなた方は信じないからだめだ、と。イエス様の態度や働きが変わるでしょうか? それまでの恵みが、裁き、怒り、断罪、見捨てる、に変わるでしょうか? 人間だったら、忍耐、許すのは、二度まで、三度まででしょうか?いや、一度だけの失敗でも許せないと、いつまでも攻め続けたり、裁き続ける場合もあるでしょう。しかし、イエス様は、神様はどうでしょう?人間の悟りの遅さ、罪深さ、不完全さが理由で、神の恵みに、限界を設けているでしょうか?この後、こう続いています。

B,「イエスの方から」の恵みに限界はない」

「39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

 イエス様はそれでも、つまり何度「イエス様の方から」示しても、何度働いても、それでも信じない弟子たちを、見捨てたりしません。怒ったり、裁いたりしません。それでもイエス様は、「イエス様の方から」をやめないでしょう。このように、神の恵みは、私たちの側の足りなさ、弱さ、失敗、頑なさ、罪によって、途絶えたり、終わったり、取り下げられたりしていません。それでも、どんなに頑なで、信じられない心にさえも「イエス様の方から」は絶えることはないです。イエス様は、自分から、ご自身の復活の体、肉体を見せ触れさせるのです。「亡霊ではないことを示すため」です。ヨハネの福音書にもご自身の体を触れさせることが書かれていますが、そのところでは、その手と足と脇腹にある傷に触れさせています。何のことかというと、それは十字架の傷のことで、手と足に釘を刺されや傷であり、脇腹は、ローマの兵隊が、イエス様が十字架刑で死んだのを確認するために槍で脇腹を刺したということがヨハネの福音書にあるのですが、そのことです。つまり、霊でも幻でもなく、まさに十字架で死んだそのイエス様が、その肉体が、本当によみがえったことを示しているわけですが、その体に、その傷に触れさせているのです。弟子たちは、それに触れて、本当に十字架で死んだイエス様がよみがえったのだ、復活したのだと、信じたのでした。

 そのようにイエス様は、自分の方からご自身の身体に触れさせることによって、信じない弟子たちを、「信じてほしい」と「信じるように」どこまでも働き、導いていることがわかるのではないでしょうか。このように、イエス様の恵みと働きは尽きることがないですし、まず「私たちの側から」何か貢献しなければ、完全にならなければ、信じなければ、等々、ではなく、そのまず「イエス様から」こそがどこまでも貫かれているのです。

4、「私たちの疑いが喜びと平安に変わるために」

 それによってどうなるでしょか?41節です。

「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

41〜43節

A,「信仰は律法ではない。福音であり賜物である」

 みなさん、37節の「うろたえている」心が、まず「喜び」「うれしさ」に変わっています。「喜びのあまり信じられず」というのは、それは矛盾しているように見えますが、もう「認めざるを得ない」、つまり「信じざるを得ない」状況を示しているでしょう。信じがたいことが、信じさせられているという逆説的な言い回しです。それでもさらにイエス様は、食べ物を求めて、焼いた魚を食されるのです。そのようにして弟子たちはみな、イエス様は本当に死からよみがえったのだということを信じるのです。しかし先週のヨハネの福音書も、この前のところのエマオの途上の出来事でもそうであるように、その信仰は、律法や人間の力ではあり得ない、まさに賜物です。弟子たち自らでは信じることができませんでした。「イエス様の方から」がなければ、この「復活」の素晴らしい出来事が真実であることがわかりませんでした。しかしまさにイエス様の方からの優しい働きかけ、言葉によって弟子たちはこの復活の事実が真実であると悟り、悟らされることによって彼らは喜びに、信仰の復活に、導かれていることが教えられるのではないでしょうか。このように「復活を信じる信仰」、それは半分でも僅かでも、人の側の自分たちの努力があって、それで信じることができたという人間の力や理性や努力の産物ではないのです。「信じることができない、彼ら」が信じるために、信じるように、イエス様は、ご自身を現わされるのです。それは、創世記のアブラハムとサラなどをみていても一貫していることです。このように、「信じる」ということは、決して律法ではない、律法では不可能であり得ない。信仰はどこまでも福音であり、福音から生まれるのであり、恵みであり賜物であると言うことが聖書では貫かれているのです。

B,「私たちの信仰も同じである」

 そしてこのことが、私たちにも一貫して等しく働いている信仰とその歩みの原則であると言うことです。つまり私たちにも、どこまでも「神様から」「イエス様から」が常に働いているのです。「イエス様から」がなかれば、イエス様から働いてくださらなければ、私たちも信仰はありません。いや、そもそもイエス様が、イエスの方から、この世に来てくださなかったのなら、私たちの罪の赦しも救いも何もなく、堕落のまま、神の怒りの前に、私たちは死んで滅んでいくだけの存在であったでしょう。しかし、私たちは誰もキリストなど知らない存在であったのに、いやそれどころか知らされても初めは背いて反抗し信じないものだったのに、そんな私たちのために、イエス様の方から来てくださったから、語りかけてくださったから自分は、キリストも救いも知ったし信仰が与えられたと言うのではないでしょうか?福音書も証ししています。イエス様の方から、弟子たちを招いてくださいました。イエス様の方から、病人や、悪霊に憑かれている人々のところへ行き、手を差し伸べてくださいました。イエス様の方から、社会から忌み嫌われている罪人のところに行き、一緒に食事をされ、友となられているでしょう。イエス様の方から「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とおっしゃったでしょう。そして、私たち信仰と救いの核心部分。まさに他の誰でもない、私たちがでもない、神の御子であり罪のないイエス様が、イエス様だけが、イエス様自ら、罪人の刑罰である十字架にかかって死なれたでしょう。それは本来は全人類が、つまり私たち一人一人、私自身が負わなければならなかった十字架であり死です。しかし神の御子であり主であるイエス様はその私たちの、そして私の罪を全てご存知の上で、それを責めるのではない、裁くのでも断罪するのでも滅ぼすのでもない、その罪を全て背負って私たちのために、私たちの代わりに十字架にかかって死なれるでしょう。イエス様自ら、イエス様の方からです。まさにそのことが、この復活の後でも一貫して弟子たちに現れていますし、それが今も変わらず私たちにも現されている現実であると言うことです。その十字架と復活のキリストの恵みがどこまでも私たちを取り囲んでいるからこそ、私たちのクリスチャンとしての今があり、今の平安も喜びも、このイエス・キリストにこそあるのだということを教えられるのです。感謝なことではありませんか。

5、「平安があるようにー信仰は重荷でも私たちが行動の主役でもない」

  信仰は律法では決してない。信仰はどこまでも賜物です。信仰を与えてくださるのもイエス様であるし、信仰を強めてくださるのもイエス様です。復活の信仰を与えられていく弟子たちの姿はその一つの証しです。ですから、もし自分は「信仰が弱い」と思うことが誰でもあるとしても、しかしだからと、自分の力、努力で「信じなければいけない」「信仰を強めなければいけない」とするなら、それは神からの賜物を「自分からの何か」にすることになり、キリストの福音を歪めてしまっています。それは知らず知らず神のわざを退け、自分が行動の主役になってしまいます。しかしそれは表向きや見た目は敬虔そうには見えますが、実は不可能なことであることは、十字架と復活の前はもちろん、復活の後の罪深い弟子たちの姿、言葉、行動が示す通りです。そして何よりそのような誤解した信仰や、信仰を行いや律法にしてしまうことは、結局は、信仰生活に平安がなくなり、重荷になってしまい、息苦しくなってしまうことになります。行き詰まってしまいます。イエス様は「平安があるように」と言っているのにです。矛盾していませんか。信仰を律法にしてしまうそのような経験は、私自身もあります。誰もが直面する誘惑であり落とし穴だと思います。

 しかしイエス様は、感謝な方です。何よりイエス様はこのところになんと言って入ってきていますか?36節の初め、「あなたがたに平和があるように」とあるではありませんか?その平和は、イエス様が約束した世の与えることができないキリストが与えることができる平和、平安です。そのように、復活のイエス様は私たちから平安を奪い、重荷を負わせるために来たのではないことこそ、今日のところでもはっきりとわかることではありませんか。私たちちが信じることができないものだから、頑なななものだから、悟るに遅いものだからこそ、イエス様はそんな私たちに絶えず働いてくださる、イエス様の方から来てくださる。何より説教のみ言葉と聖餐を通してです。だからこそ、イエス様は繰り返し何度でも語ってくださり与えてくださる。教えるために。信じさせるために。信仰を強めるために。何度でもです。そして、そのように信仰を強めることによって重荷ではなく、喜びと平安を与えるのです。そのことが今日のところでも見事に重なっています。

6、「今も毎週の説教と聖餐のみことばを通して、変わることなく」

 そして、44節以下はその証しです。

「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 「わたしについて」と始まります。それは救いの御子イエス様ご自身を指し示しているでしょう。そして、その「わたしについて」の全ては神が与えた律法、預言、詩篇の聖書のみ言葉の実現だと、やはりここでも人間の側の計画、予想、わざ、敬虔、そのようなものは何もなく、ただただ、三位一体の神の方からのその言葉を通しての実現こそ、イエス様は「わたし」なのだ。わたしを指し示しているのだ、そしてそれがはっきりと現されているのが十字架と復活なのだと断言するでしょう。そして、それは「これから」の変わらない約束として「罪の赦しの悔い改め」の宣教にも実現すると約束します。しかも48節「あなた方はこれらのことの証人となる」です。あなた方が自分で「なりなさい」「ならなければならない」とは言っていません。「なる」と断言しているでしょう。そして49節では、「49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とあります。つまり宣教については「助け主である聖霊が与えられるまで、待ちなさい。とどまっていなさい」とイエス様は命じているでしょう。まさに聖霊の助けなしには、み言葉は実現しない。宣教も虚しいし実現しない。福音は伝えられない。だから、約束を、聖霊を待ちなさい。とどまりなさい。と伝えていることがわかるのです。まさに、その創造の初めから変わることのない約束の事実と実現が、今も変わらず、イエス様は、ご自身のみ言葉と聖霊の働きを通して、つまり何より説教と聖餐を通して、弟子達に、そして私たちにも常に働いてくださり、何度も新しくし、そして導いて用いてくださるのです。それは当然、教会も宣教もです。イエス様がみ言葉を語り続け与え続けることを通して、その信仰の道を、救いの道、そしてその良い働きまでもイエス様が与えてくださり、全てを完成させてくださることがどこまでも約束されているのです。それが聖書の伝える恵みの完全さに他なりません。パウロはそのことを伝えています。エフェソ2:8〜10節

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

新改訳ですと10節は「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」ともあります。

また、フィリピ1章6節ではこうもあります。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 」ピリピ1:6

7、「結び」

 信仰はどこまでも賜物です。神が与えてくださるからこそです。そして、神である復活の生きておられるイエス様は、今日も明日も永久に私たちのために、私たちに与えてくださった信仰のために、み言葉と聖霊の働きで、さらなる恵みの上にさらに恵みを与えてくださり強めてくださいます。私たちの安心のために、私たちの救いの完成のためにです。今日もイエス様は変わらず、罪を認め悔いるイエス様の前にある私たちに言って宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ感謝を持って福音を受けましょう。受けることによって恵みが真実であることを実感し、受けることによって救われていることを確信しましょう。そこに平安があります。平安のうちに私たちはここから遣わされていくことができるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

牧師の週報コラム

キリスト教徒の目のつけどころ

昔、スオミ教会が中野上高田にあった頃、復活祭の祝会にて信仰の証しを行い、キリスト信仰者になる前となった後で物の見方がどう変わったかについて話したことがある。一例として、信仰者になる前に読んだ本、観た映画で強く印象に残ったものを、信仰者になった後でもう一度読んだり観たりしたら新しい発見が一杯あったということについて。取り上げた本はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」、映画はW. Beatty監督の「レッズ」。どんな新発見があったか、もう覚えていらっしゃらなければ、また別の機会に。

最近またキリスト教徒だからこんな見方、こだわりをするというのが二つほどあったので紹介します。一つは、池澤夏樹の新聞連載小説「また会う日まで」。主人公は秋吉利雄という旧海軍の将校でキリスト教徒という歴史上実在した異色の人物。天皇の軍隊でどうやってキリスト信仰を貫けたのか興味を持って読み続けた。しかし、かつての部下が今は亡き秋吉の墓参りをして線香をあげるラストシーンでがっかり。線香をあげるというのは死者との交信を始める合図のようなもの。キリスト信仰では手を合わせて話しかける相手は神のみ。死者とは対話しない。復活の日の再会に希望を託す。「また会う日まで」はその希望を歌い上げる讃美歌である。なんと題名にそぐわない終わり方をするのかと失望した。

もう一つは沢木耕太郎の「暦のしずく」。これも新聞の連載小説だが、まだ終わっていない。主人公は江戸時代中期に活躍した馬場文耕という講談師。これも歴史上実在した人物で講壇の内容が幕府の怒りを買い処刑されてしまう。私の注目の的は里見樹一郎という謎の浪人。文耕の講壇の倫理的側面にいつも儒教離れしたコメントをして文耕を驚かせる。私はすぐキリシタン関係者?と直感。案の定、先々週号では里見が自分の背景を謎めいた言い回しで文耕に語った。自分は九州の山奥から天狗に連れられて江戸に来た、徳川幕府の行く末を見届けるために、などと。私は思わず、おぉ!と唸ってしまった。予想は当たらないかもしれないが、これもキリスト教徒ならではのこだわりだろう。

DSC_3767

説教「教会の条件」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書20章19ー31節

説教

主日礼拝説教 2024年4月7日 復活節第二主日

聖書日課 使徒言行録4章32ー35節、第一ヨハネ1章1節-2章2節、ヨハネ20章19ー31節

Youtubeで説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて、いろいろ大切なことを教えるところです。大切なことは三つあります。まず、イエス様が弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったこと。イエス様の言う平和。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えたこと。罪の赦しの権限。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりましたが、その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」です。この三つのこと、罪の赦しの権限、イエス様の言う平和、目で見なくても信じるということは、よく考えるとキリスト教会が成り立つ条件であると言えます。イエス様は復活後40日したら天の父なるみ神のもとに上げられますが、その後でこの世に誕生する教会の設立条件をここで定めたとも言えます。今日は、この三つの条件について学んで、それがスオミ教会に備わっているか各自で考えてみる一助になればと思います。

2.罪の赦しの権限

まず、罪の赦しの権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがないままで去らねばなりません。この悲惨な状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈って、人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。しかし、神は想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

そこで人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものとすることができます。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪が赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。この新しい自分は神のひとり子の犠牲の上にあるとわかれば、罪に反対して生きていこうという心になります。

このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たち人間に備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えますが、それは、神が備えて下さった罪の赦しを人間に及ぼす権限を授けたということです。人間が罪の赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちは、イエス様が聖霊を授けることをして権限が与えられました。イエス様が天に上げられると今度は、使徒たちが次に権限を与えられる者に手をかざす按手という儀式を行って、罪の赦しを取り次ぐ権限を伝授していきました。伝授された者たちも次に権限が与えられる者に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。これが使徒的な伝統ということです。

2年前の復活節第二主日の礼拝の説教で、私は当時スオミ教会が用いていた日本福音ルーテル教会の式文に注文をつけたことがあります。皆さんはおぼえていらっしゃるでしょうか?それは、式の最初の部分で、会衆が一緒に行う「罪の告白」に続いて「罪の赦しの祈願祝福」というものがありました。その文句は「イエス・キリストを死に渡し、全ての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に赦しと慰めを与えて下さるように」という具合に、牧師は「赦しがありますように」と赦しを祈り願う言い方でした。それに対して、フィンランドのルター派教会ではそのような祈願ではなく、ずばり罪の赦しを宣言します。言い方は、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します。」ここで注意すべきことは、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言しますということです。誰がそんな権限を委ねられているのか?先ほども申しましたように、最初の使徒たちがイエス様から委ねられました。本日のヨハネ福音書の通りです。その後は、使徒的な伝統に立って教会の牧会者に任命された者たちです。私は2年前の説教で、いつの日かスオミ教会でフィンランドと同じような罪の赦しの宣言がなされることを希望しますと申したのですが、それは本当にその通りになり感謝です。罪の赦しの権限を委ねられた牧会者がいるというのは教会の条件です。

3.目で見なくても信じられる

次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るという奇跡、そういうことを行う者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれてくるでしょう。

ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるというのが本当の信じることだと言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じられるということを強調します。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられますが、それ以後は復活の主を目撃できません。それなので、目撃者の証言を信じるかどうかということがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められているということ、これがわかってそれを自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは目撃者の弟子たちが最初に自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象を超えた大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

4.イエス様が言われる平和

イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומです。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もありますが、その他に、繁栄とか成功とか健康というように人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

それがどういう意味だったかわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。ローマ5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということはコロサイ1章21ー22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれた、それでイエス様を救い主として受け入れたら、神のみ前に立たされても大丈夫でいられということです。

こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は何の変更もなく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪の支配から贖われていることを強化していけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を揺るがないものにしていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さることを確信して神に全てを委ねることが出来ます。

5.目撃者と証言を聞いた人たちの一体性

以上、キリスト教会の三つの条件、罪の赦しの権限を委ねられた牧会者が教会にいること、信仰と洗礼を通して信徒一人一人が神と揺るがない平和な関係にあること、そして一人ひとりは目で見なくともイエス様が復活されたことを信じられることについて見てきました。もし教会がこれらの条件を満たしていなかったら、教会とは言えないと言ってもいいかもしれません。

先ほど、目撃者たちは復活に秘められた大切なことをわかって自分のものにした、そして目撃者の証言を聞いた人たちもそれがわかって自分のものにした、だから目で見なくても信じられるようになったと申しました。その大切なこととは神との平和であるとも申しました。そのことについては本日の聖書日課の別の個所、使徒言行録の個所と第一ヨハネの個所でも述べられているので、最後にそれを見ておこうと思います。

そこでは、最初の目撃者と彼らの証言を受け入れて信じた人たちの間に一体性があるということが言われています。ヨハネは、目撃者の使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは、ずばり、伝える者と伝えられた者が一体性を持つためであると言います(第一ヨハネ1章3節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っていて、なんだか礼拝の後のコーヒータイムみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteys、gemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です(ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です)。使徒言行録の日課の個所で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここではコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。このように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は目では復活されたイエス様を見ていなくても、目撃者と同じように神との平和な関係を築けており、それで両者は一体で共同体を形成しているのです。

そこで一つ気になることは、その一体性、共同体性は自分の財産を放棄して共有にしなければならないのかということです。そこまでやらないと一体性、共同体性は本物にならないのか?これも教会の条件なのか?聖書に書いてあるから、自分の財産を捨てなさいなどと言ったら、それこそいかがわしい宗教団体になってしまうではないか?

ここで考慮にいれるべきことは、この財産の放棄はどうもイエス様が天に上げられた直後のエルサレムのキリスト信仰者の間で起こった特殊な出来事だったということです。パウロがコリントやガラティアやコロサイやフィリピやエフェソの教会に送った手紙を見ても、そこで財産の所有が禁じられて共有されていたことを示唆するものは見当たらないと思います。エルサレムのキリスト信仰者の集まりが共同体を形成するやり方として起こったことではないかと思います。どうしてエルサレムの集まりでそういうことが起こったのか?使徒言行録の記述からわかることは、まず彼らの心と魂は自分の所有物はないという位に一つになっていた状況があった、それからそのような状況が生まれた背景には使徒たちがイエス様の復活を大きな業をもって証ししていたことがあったということしかわかりません。それがどんな業だったかも具体的にはわかりません。それなので、イエス様が天に上げられた直後のエルサレムの信仰者たちは全財産を共有にするのが神の目に相応しいという状況だったということだと思います。

私たちの場合は、心と魂が一つになることの現れ方としては今のところは別の現れ方をするのが相応しいということだと思います。「今のところ」と言うのは、当時のエルサレムと同じような状況になれば共有するのが相応しいということも起こりえるということです。そういう日が来るかもしれないと心のどこかで準備をするのです。そのために宗教改革のルターが財産と信仰者の関係について教えたことは大事だと思います。ルターは、財産は別に持ってもいいと言います。ただし財産の奴隷になるな、財産の主人になれと言います。どういうことかと言うと、財産を困っている隣人のために役立てることに躊躇しないで用いられるのが財産の主人なのです。もちろん、財産を共有していない時にも信仰者の心と魂が一つになっていることがあります。それは聖餐式です。信仰者は聖卓の前に並んで一人ひとりパンとぶどう酒を受けますが、全員が天の父なるみ神と平和な関係を持ち神と結びついているからです。今日これから聖餐式があります。その時、私たちは神と平和な関係を持ち神と結びついている者として心と魂は一つになっていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年3月30日(土)チャーチカフェ&ミニコンサート

聖金曜日と復活祭/イースターの間の土曜日にチャーチカフェ&ミニコンサートを開催しました。今回は西日本福音ルーテル教会で活動しているフィンランドの音楽伝道宣教師アウヴィネン夫妻をお招きしてのミニコンサートでした。

マリカイサさんの心にしみわたる美しい歌声とトーマスさんのテクニカルなギター演奏を通して聖書のメッセージを歌い上げて下さいました。なかでもマリカイサさんの作詞作曲による「自由になりたい」は、許せないという思いに囚われて身動きできなくなってしまった人をイエス様が自由にして下さるというメッセージで、聴く人の心を清める力に溢れていました。

3回の歌と演奏お疲れさまでした!

今回のチャーチカフェのメニュー、ピーチのクリームチーズケーキも好評でした!

牧師の週報コラム

イースターおめでどうございます!

クリスマス夜の同様に、天使はイースターの朝にも良いお知らせを告げに現れました。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイによる福音書 2801 節–02節、05節 – 08節)

罪と死と悪魔の力に打ち勝たれた、私たちの救い主は生きておられます 〜 ハレルヤ!!!

「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、           

喜び躍ろう。」(詩編/ 118024節)

この良いお知らせをこれからもご一緒に広げましょう!

主にあり、

Päivi & Martti Poukka

2024年3月31日 ヘルシンキより

セイヤ&パーヴォ・ヘイッキネン夫妻

Pääsiäismessuun kokoontunut Suomi Kirkko seurakunta!

Elämme alkuvuotta 2024. Tuo määrä vuosia on kulunut jostakin todella käänteentekevästä historian murroskohdasta. Aikaa lasketaan ennen sitä ja sen jälkeen. Toki on muitakin ajanlaskutapoja. Mutta Kaikkivaltiaan, Iankaikkisen Jumalan Poika syntyi ihmiseksi 2024 vuotta sitten. Ajatus on huimavan suuri  historiallinen tapahtuma; todellinen käännekohta.

Kuten tiedätte, hän kasvoi vastasyntyneestä vauvasta aikuiseksi, noin 33 vuoden ikään. Evankelistat Matteus, Markus, Luukas ja Johannes kirjoittivat Pyhän Hengen johdatuksessa Hänen elämänsä, opetuksensa, kärsimisensä, kuolemansa, kuolleista ylösnousemisensa ja taivaaseen paluunsa valtavista  teemoista. Johannes, päättäessään evankeliuminsa kirjoittaa: “On paljon muutakin, mitä Jeesus teki; ja jos se kohta kohdalta kirjoitettaisiin , luulen, etteivät koko maailmaan mahtuisi ne kirjat, jotka pitäisi kirjoittaa.” Johannes 21: 25 Mutta kaikki tarpeellinen on kirjoitettu, kaikki. 

Tunnemme tämän Pyhän Kirjan nimellä RAAMATTU. Tämän Raamatun sanaa, Vanhaa ja Uutta Testamenttia pastorinne teille opettaa ja julistaa. Ja sitä samaa Raamattua te myös kotonanne luette. 

Evankeliumikirjojen, Matteuksen, Markuksen, Luukkaan ja Johanneksen evankeliumit sisältävät Vapahtajamme Iankaikkisen ennalta olemisen, ihmiseksi syntymisen, noin 33v. vuotta kestäneen ihmiselämän, hänen kärsimisensä, kuolemansa, kuolleista ylösnousemisensa ja taivaaseen paluunsa tosiasiat. Ja myös sen, että Herra palaa näkyvällä tavalla tälle maapallolle, josta Japanikin muodostaa osansa. 

Niin, ensimmäisenä Pääsiäisenä herätti Jumala kuolleista  Ainoan Poikansa; Hänet, joka todellisesti kuoli meidän syntiemme tähden. Liian monet ihmiset ohittavat olankohautuksella tuon ennen kuulumattoman sanoman, tuon historiallisen tapahtumaan. Ja se ohitus on seurauksiltaan äärimmäisen suuri vahinko. 

Mutta älä sinä ole yksi niistä, jotka tuon Hyvän Uutisen kuultuaan  ohittavat sen olankohautuksella; älä. Pysähdy miettimään, ala tutkimaan yhdessä ja yksin, mitä ja KUKA Jeesus on! Ja teet löydön tai paremminkin sinut löydetään. Johannes kirjoittaa evankeliuminsa I luvussa Andreas nimisestä ihmisestä, joka lausuu ihmetellen ja iloiten veljelleen: “Me olemme löytäneet Messiaan…” Kristuksen. Se tapaaminen oli hänen elämälleen  käänteen tekevä.  Ja sitä se olisi sinullekin. Kuuntele tarkasti pastorisi opetusta/julistusta. Hän kuuluttaa HYVÄÄ UUTISTA. 

HYVÄÄ PÄÄSIÄISTÄ!

Paavo ja Seija (muinoiset Suomi-Kirkkolaiset.)

 

シルッカリーサ&ペッカ・フフティネン夫妻

スオミ・教会で集まっている皆様

今週中天の父なる神様の大いなる恵みや愛を感動しています。世の罪を取り除く神の小羊は三日に復活された。このすばらしいことをスオミ・教会の皆さんを含めて全世界のクリスチャンが感謝します。

イエス様の御復活おめでとうございます

Pekka Sirkka-Liisa HuhtinenHelsinki

高木賢氏

「彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、

彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲しめをうけて、

われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、

われわれはいやされたのだ。」

(「イザヤ書」53章3〜5節、口語訳)

十字架で私たちの罪のゆえに死んでくださり、私たちを義とするために復活してくださった主イエス様に感謝します。

高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会)

 

ティーナ&ミカ・ラトヴァラスク夫妻

スオミ教会の皆様へ、

イエス・キリストはこう言われます。

「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、

また生きている者である。一度は死んだが、見よ、

世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」

(ヨハネの黙示録11617節)

この聖書の箇所は、私たちに勇気や希望をもたらしてくれます。どんな試練や困難があっても、恐れる必要はありません。復活された主イエスは、世々限りなく生きておられ、天と地の一切の権能を授かって、死と陰府の鍵を持っています。全能の神は私たちを愛しておられ、キリストは私たちの罪の罰を受けてくださったので、イエスの名を呼び求める私たちは基本的には大丈夫です。

明るい春の日差しが、スオミ教会に届きますように。

世界中のクリスチャンと一緒に復活祭をお祝いしましょう!

ティーナとミカ

 

ペンティ・マルッティラ牧師

Ylösnousseen Herramme Jeesuksen Kristuksen nimessä,

Tokion Suomi-seurakunta tekee erittäin arvokasta työtä, kun se todistaa Herrastamme Jeesuksesta Kristuksesta.

Sillä maailmassa ei ole muuta toivoa kuin Jeesus, Hänen kuolemansa ja ylösnousemuksensa.

Omalla kuolemallaan Hän voitti synnin, kuoleman ja paholaisen vallan.

Jokainen, joka uskossa laittaa toivonsa Jeesukseen, saa synnit anteeksi ja iankaikkisen elämän Jumalan yhteydessä.

Tätä ilosanomaa meitä kutsutaan julistamaan kaikkialla.

”Älkää te peljätkö; sillä minä tiedän teidän etsivän Jeesusta, joka oli ristiinnaulittu. Ei hän ole täällä, sillä hän on noussut ylös,” (Matt. 28:5-6)

Pentti Marttila

Aasian aluekoordinaattori

 

イヴァン・ラプテヴ監督

説教「永遠に散り終わらない桜の木の下で」 ― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書20章1~18節

主日礼拝説教 2024年3月31日 (日)復活祭/イースター 聖餐式礼拝

聖書日課 イザヤ書25章6~9節、第一コリント15章1~11節、ヨハネ20章1~18節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が父なるみ神の想像を絶する力で復活されたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた翌週最初の日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。先ほど朗読された第一コリント15章に記されている通りです。まさに世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 本日の説教では、最初にヨハネ20章の出来事を見て、復活とはいかなる現象かということと、イエス様の復活は私たちが将来復活できるために起こったということを見ていきます。これらは以前にもお教えしたことですが復習します。その次に、私たちの復活とはどんなものか、将来復活する者として私たちはこの世をどう生きるかということを考えてみようと思います。

2.ヨハネ20章の出来事

復活とはいかなる現象か?よく混同されますが、復活は死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で言う復活は、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を纏わされて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 復活の体について、使徒パウロが第一コリント15章の本日の日課の後のところで詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それはまた、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物の体です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前もお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのも、イエス様は天にいるのが相応しい神聖な体を持っている、そのイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様と地上の体を持つマリア。以前にもお教えしたことですが、イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われますが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も、スウェーデン語訳の聖書も、フィンランド語訳の聖書も、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」です(後注1)。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えれば、マリアが仮にイエス様にすがりついていたとしても、ここは原文通りに「触れてはならない」と言った方がよいと思います。それはイエス様の次の言葉を見ればわかります。「私はまだ父のもとへ上っていないのだ」(17節)。触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだと言うのです。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。このほうが、すがりつくなと訳すよりも前後の繋がりがはっきりします(後注2)。

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 本当なら危険極まりないことなのに、なぜイエス様はすがりつくのを許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちたお方だからでしょうか?そんな常套文句で満足したら、肝心なことが見えなくなってしまいます。イエス様は、マリアが今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上、彼女も復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていました。それが理由です。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」このことをパウロは第一コリント15章20節で述べています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

3.イエス様の復活に続く復活

イエス様の復活が私たちの復活の先駆けで、私たちが将来復活できるために復活された。じゃ、私たちはこの世を去ったらみんな復活するのか?ここのところは注意が必要です。私たちはイエス様が復活したことを信じなければならないのです。復活を否定する者には復活は関係なくなってしまうのです。そう言うと、じゃ、イエスは復活したということにすればいいんだな、世界には不思議な現象が沢山あるんだから、そういうものの一つだと考えればいいんだ、と言う人も出てくるかもしれません。しかし、それではダメなんです。どうしてか?イエス様は復活に先立って十字架にかけられて死なれました。それで、なぜ神のひとり子ともあろう方があのような惨めな死に方をしなければならなかったのか?これがわかった上で復活が起こったことを信じないといけないのです。復活の本当の意味をわかって信じないと信じたことにならないのです。

 では、なぜイエス様は十字架で死ななければならなかったのか?それは、私たち人間が持ってしまっている神の意思に反しようとするもの、それを聖書は罪と呼びます、その償いを神のひとり子が私たち人間のために神に対して償うためだったのです。人間と神との結びつきを失くさせていた原因である罪をイエス様が自分を犠牲にして償って下さった、人間が神から罰を受けないで済むように守って下さったということなのです。それだけではありません。父なるみ神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、私たち人間にその扉を開かれたのです。

 私たち人間は、この方こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを回復でき、この世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになります。この世から離れる時も神との結びつきを持ったまま離れられ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて、肉の体に代わる復活の体を纏わされて、「神の国」と呼ばれる御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様が十字架の死を遂げて備えて下さった罪の償いと罪の赦しを私たち人間はそれを信じることと洗礼を受けることで自分のものにすることができます。そして、イエス様が切り開いて下さった復活に至る道を神との結びつきの中で進んでいきます。これが私たちの復活になります。

 私たちの復活についてもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、聖書によれば復活は将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる時に起こるということです。聖書には終末と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地に創造し直すという観点です。今は目に見えない手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として見えるものとして現れ、復活を遂げた者たちが迎え入れられるというのです。それなので、聖書で言う死者の復活は、かの日に一斉に起こることなのです。他の宗教だったら、一人ひとりこの世を去って各々ある年数を経たらこの地上とは別の安楽なところに行くという見方かもしれませんが、キリスト信仰ではそうではないのです。かの日には天と地は一新され、今の天と地はないのです。ここのところがキリスト信仰の死生観と他の宗教のが大きく違っている点ではないかと思います。パウロもイエス様も言うように、一人ひとりがこの世を去っても復活の日まではみんな眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。

4.今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいこと

このような復活の信仰に立って自分が向かおうとしているところがわかると、今度は今のこの世をどう生きるかということもはっきりしてきます。復活の信仰に生きる者が向かっている「神の国」について、聖書にはいろいろな描き方がされています。黙示録19章では結婚式の祝宴にたとえられています。花婿は今の世が終わる時に再臨するキリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた者たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた者たちがこの世での労苦を全て労われる至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」は嘆きや苦しみや労苦がないばかりか死もないと言われます。そこで神は迎え入れられた人たちの涙を全て拭われると言います。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的かつ完全に決着がつけられるということです。最後の審判があるのはそのためです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章でも、神が死を永久に滅ぼすところが言われています。そこは祝宴があるところであり、神はその席につく人たちの涙を拭われます。7節で「布が滅ぼされる」と言うのは、肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味します。

 ところで私は最近、こうした復活の信仰を否定する方と話をしました。その方は、人間は死んだら、もう何もかも消えてなくなってしまうと。私は礼拝の説教で、消えはしない、人間は復活を遂げると体の有り様は変わっても同じ名前を持つ自分は続くと言ったことがありますが、その方はそれに反対して言いました。人間一人ひとりは川と同じである、川にはそれぞれ多摩川、荒川と名前があるように人それぞれに名前がある、しかし、川が海に流れ込んだら、もう川はなくなって大海の中に消散してしまう、それと同じように人間も死んだら名前も何もなくなって果てしなく大きなもののなかに消散してしまうのだと。

 そのような考え方は、人間は肉の塊が全てという考え方です。もちろん人間には考えたり感じたりする部分もあるので単なる塊にすぎないと言えないかもしれないが、でも死ねばそれも肉と一緒に消滅するのでやはり肉の塊の部分にすぎなくなります。ただし、その方はこの世を生きる時、正しいこと倫理的なことを考えることは重要であるともおっしゃっていました。つまり、人間はどうせ消滅するのだから、この世でどう生きようが関係ない、好き勝手に生きればいいという考えはとらないと。しかしながら、正しいこと倫理的なこともこの世限りのことなので、死んだらそれも何も関係ないものになってしまいます。

 キリスト信仰では、正しいこと倫理的なことは復活や神の国が前提にあります。この世では、例えば他の人に何か危害を加えてしまって償いをしなければならなくなった時、一方ではこんな程度の償いでは納得いかないという思いが出ます。他方ではこんなに償わなければならないのはあんんまりだという思いが出ます。そのように完全な正義の実現は困難です。この世での正義はある時点での最適なものを目指すということにならざるを得ないと思います。でもそれも実現できるかどうかわかりません。しかし、復活の信仰は、最後の審判の時に全知全能の神が誰も文句が言えないような裁定をして完全な正義を実現するという見方をします。その内容はこの世の私たち人間にはわかりません。それは今は隠されているのです。しかし、それはかの日に明らかになるという見方を復活の信仰はするのです。なので、もし人間が、俺は完全な正義がわかった、今からそれを実現するなどと言ったら、神でない人間が神を気取ることになり大変なことになります。

 このように復活の信仰に生きる者は、完全な正義など自分は神ではないからわからない、神がそれを知っていて、それをかの日に実現して下さる、だから、今この世で私がすべきことはその神の意思に沿うように立ち振る舞うだけだ、人を傷つけない、欺かない、噓をつかない、妬まない、見下さない、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざさないようにしよう。神の意思に反することが周りにあれば、それに反対し、それに与しないようにしよう。神の意思に反することが自分に中に出てきてしまったらあれば神に赦しを祈り、イエス様の十字架の償いの力を与えてもらって襟を正そう。それなので、復活の信仰に生きる者は、何かを成し遂げようとして、たとえ上手く行かなかったり道半ばで終わってしまっても、神の意思に沿うように行っていたのであれば無意味だったとか無駄だったということは何もないのです。この世は負け犬の言い分だと言うかもしれませんが、そうではないというのがキリスト信仰なのです。逆に、何かを成し遂げたとしても神の意思に反してしたのであれば、かの日には全部ひっくり返されてしまうのです。それなので、人間は肉の塊で死んだら消滅するという考えは、神の意思に反して何かを成し遂げようとする人たちにとって都合のいい隠れ蓑になる危険があります。

 ここまでは復活を正義の視点から見てきました。最後に感性の視点で見てみましょう。フィンランドでは6月になると急にいろんな種類の花と木々の葉っぱの緑が一斉に咲き乱れ、この世とは思えないとても色彩豊かな季節になります。5月までは花も緑もなかったのでその変化の急なことと言ったらありません。日本では2月に梅、3月、4月に桜、5月にツツジ、6月にアジサイという具合に季節の花が順々に交替に咲くのとは大きな違いです。昔ある初夏の日、パイヴィと家の近くの森を歩いていた時、日本人にキリスト信仰の天の御国の素晴らしさを説明するのにこのフィンランドの初夏を紹介するのはいいのではないかと言ったことがあります。もちろん、天の御国、神の国は今ある天と地が終わった後のことなので、同じ自然形態があるという保証はありません。それが感性的にみてどれくらい素晴らしいかは、今の世の私たちには隠されていてわからないのです。それでも、そこがどれだけ素晴らしいところかを前もって、今持っている感性で予見するように感じ取ることは出来るのではないかと思いました。黙示録の終わりに書いてあることだけでは少し無味乾燥に感じられるならば、神の国はどれだけ素晴らしいところかを知るために、今この世で素晴らしいこと美しいことに触れることは将来の神の国の素晴らしさ美しさの氷山の一角のそのまた一角に過ぎない、それ位に神の国の素晴らしさはすごいのだ、ということがわかるだけでも意味があると思いました。

 そこでフィンランド人にとって、6月の自然の開花が神の国のとっかかりになるのであれば、日本人にとって感性に訴えるとっかかりはなんだろうかと考えました。それは、やはり桜の花ではないでしょうか?何週間か前にパイヴィと近くの神田川の桜並木に行った時のことです。もちろん並木はまだ立ち枯れの様態でした。そこに一本だけ河津桜が満開に咲いていました。それを見て、あと何週間かしたら周囲のソメイヨシノは満開になるのだと目に浮かびました。それで、河津桜は第一コリント15章で言われる、イエス様は復活の初穂で、彼に続いて私たちも復活するということを思い出しました。桜並木が満開になれば、その下にはシートが拡げられてあちこちでピクニックをする人たちで賑わうでしょう。詩篇23篇5節で神が羊飼いに導かれた者たちに食卓を整えられると言われます。ヘブライ語の原文では敷物を拡げて食事を供するという意味です。復活の日の祝宴はまるで桜の季節の野外の宴のようです。

 日本人にとって天の御国の素晴らしさを予見するのに、桜の木の下の宴会を持ち出すのはその感性に訴えるものでしょう。しかし、中には、その桜は永遠に咲きっぱなしなのか、桜は散ることが日本人の感性に訴えるのだと言う人もいるかもしれません。そのような人には次のように言ったらどうでしょうか?その桜は確かに散る、しかしそれは永遠に散り終わらないのだ、と。

 主にあって兄弟姉妹でおられるみなさん、このように創造主の神は、完全な正義を予見する理性と完全な素晴らしいものを予見する感性が備わるように私たち人間を造られたのです。今は隠されて見えないが、かの日には明らかになる完全な正義と素晴らしいものを満喫できる神の国を私たちキリスト信仰者は心に抱いて、聖書の御言葉を道しるべにしてそこに向かって歩んでいるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

後注1

ドイツ語のルター訳の聖書はRühre mich nicht an!、スウェーデン語訳の聖書はRör inte vid mig、フィンランド語訳の聖書はÄlä koske minuun、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。

後注2

このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。

2024年3月29日(金)19時 聖金曜日 礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネの福音書19章16−30節

「イエスは何を「成し遂げられた」?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 聖金曜日の今日の箇所は、18章から記録されているイエス様の受難の記録の一部になりますが、「ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」で始まり、「イエスは、自ら十字架を背負い」と続き、そして最後は、「成し遂げられた」(30節)、これは新改訳聖書では「完了した」と訳されていますが、その言葉とともに「息を引き取られた」あるいは「霊を引き渡された」と「死」で結ばれる、とても意味深い箇所であります。もちろんこの死は復活へと繋がるのですが、このところは何より私たちキリスト教信仰の核心が伝えられいると言えるでしょう。聖金曜日のこの日、神はこのみ言葉を通して、私たちにその信仰を問いかけているのです。「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そし十字架の死で「何が成し遂げられ、何が完了したのか」をです。今日はそのことを18章19章の流れを踏まえながら、共にみ言葉から教えられていきましょう。

2、「十字架の前に義人はいない」

「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」それは、私たち人間の最も深刻な、そして最悪の現実である罪のために他なりません。この今日のところのみならず、18章からは、まさに人間の圧倒的な罪深い姿、現実がまざまざと記されていきます。まず18章3節では、園で祈っていたイエスと弟子たちのところに、裏切ったユダが「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」とあります。イスカリオテ・ユダはわずかなお金のためにイエスを裏切りユダヤ人指導者たちに引き渡します。彼はイエスと一緒に過ごしてきたのですから、イエスが暴力的革命家でも混乱で社会を転覆しようというお方ではないし、その弟子たちも決して武装蜂起しようなどとも考えていないことはよく分かっていたことでしょう。しかし、彼は前もって宗教指導者たちと計画を立てたのでしょう、そんなイエス一人を捕まえるために、数人の兵士ではありません。わざわざ一隊の兵士たちと、そして武器を持ってやってきているのです。ルカ22章52節にはそれを見たイエスの「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。」という言葉もあるのです。

 この行動は、イエスがそれほどまでして逮捕することが必要な犯罪人であることをまさに周りに印象付けています。事実、この後イエスは、極悪人のかけられるローマ最悪の処刑である「十字架」を負わされるよう扇動されていくのです。次に書かれているのは、ユダの裏切りに乗った祭司長やパリサイ派たちや役人などです。彼らは、社会の宗教エリートであり指導者でもありました。幼い時から律法と預言をよく学び、他の誰よりも自分たちはその律法の内容や教えを知っているだけでなく実践もしていると自負している人々でした。しかし皮肉なことに、そんな彼らが、その律法と預言が指し示してきて、その約束の通りこられた救いの御子とその正しい聖書の教えを受け入れられないのです。それどころか自分たちの伝統とプライドを守ることに躍起になりイエスに対して妬みを抱き続けてきました。そして何度もイエスを陥れようとしながら、その敵意と妬みが最高潮に達して、このようにユダと共謀しこのイエスの逮捕へと行動しているのです。その彼らの行動には、信心深さや聖書的な根拠などはもはや見られません。民に神のみ言葉を指し示して、信仰による行いに導き駆り立てるどころか、民をその敵意と妬みに巻き込み、そして偽りと策略によって煽動します。そして、18章39節以下では、罪のないイエスよりも明らかな犯罪を犯した強盗のバラバを釈放してほしいとまで叫ばせ、今日の箇所の直前の19章15節では彼らは「私たちには、皇帝の他に王はありません」とさえ叫ばせるのです。実に節操のない言動ですが、これが、妬みと憎しみによる自己中心な感情と欲求の実であり、罪の実であり、偽りの実の現実なのです。彼ら宗教指導者たちは、自他共に認める聖書をよく知り行いも立派な人々でした。表向きには社会に尊敬もされる敬虔な人々と見られていたでしょう。しかし、そのような「人の目」に評価され、いかにでも振る舞うことのできる人間の行いの敬虔さというのがこのように、十字架の前、神の言葉の前、神の前にあっては、いかに脆く、愚かなものであるのかが教えられます。

 では次にピラトはどうでしょうか?ピラトは、18章38節や19章4節で、イエスには「私は、あの人には罪を認めません。」とイエスには十字架刑に値する様な罪はないことを何度か認めているのです。さらには、19章12節にあるように、イエスを釈放しようとさえ努めます。しかし、彼はローマ社会で実績を残してきて皇帝に託された責任あるローマの総督、高官ではありましたが、王でもなければ神でもありません。彼も一人の罪人にすぎません。彼も何が正しいことかわかっていて、その内なるところではそこには良心も理性も働いたことでしょう。しかし、ユダヤ人の勢いや強い言葉と暴動を恐れ、そしてやはりそこには自分のプライドとメンツという自己中心な感情や欲求が勝り、正しい罪のない、十字架刑に値しない人を十字架刑に引き渡す法的な実行者責任者になるのでした。周りにいるローマ兵も、上司上官に言われるがまま、無実の男を平気で鞭打つだけでなく、残酷なほどにイエスの肉体を苦しめ、辱め、馬鹿にします。そして無実のイエスの肉を十字架に釘打つ刑の執行者となるのですした。

 そして、忘れてはいけません。十字架の出来事の、その周辺の人々として、目を閉ざしてはいけないのは、イエスの弟子たちです。彼らはイエスと一緒にいたから、信仰が与えられていたから、イエスの味方、弟子だからと、罪から自由な、立派な、完全な、聖人君子であったでしょうか?とんでもありません。弟子の一人ユダは、最初に見たように、わずかな金のためにイエスを裏切り売り渡しました。ペテロはイエスの御心ではない、剣で歯向かい、大祭司の僕の耳を切り落としてしまいます。そしてヨハネによる福音書にはありませんが、マルコの福音書14章50節には、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

とあるのです。彼らは、この前に、イエスから弟子の誰かが裏切ることをことを予め伝えられたときに「まさか私ではないないでしょう」と皆がいい。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は決して裏切らない」と言い、そんなペテロにイエス様が「あなたは三度私を知らないという」と告げられた時には、マルコ14章31節にこうあるのです。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 ペテロだけではない、他の弟子たちも皆、自分は決して裏切り者にはならない。決して知らないなどとは言わない。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)とまで言うのですが、ユダ以外の他の弟子みなも同じ思いと自信があったことでしょう。彼らの意思では、決して嘘ではない意思の表明であったと思われます。しかし、そのような立派な人間の意思や決心も神の前にあって、神の計画の実現の前にあって、十字架の前にあって、いかに無力で脆く、決してその通りに実現しないし、実現できないことが福音書は伝えているでしょう?何よりペテロはその証人ではありませんか?彼は一人、イエス様の審問が行われている大祭司カヤパの庭に入って、イエスを見に行きます。しかし、18章15節以下、ペテロは前に豪語した、自分の立派な決意を実践したのではなく、イエスの言っていた通り、三度、イエスを「知らない」と言ったのでした。誰よりも強い意志と立派な敬虔に忠実従おうとする言葉を表してきたペテロですが、彼の意思、決意、自信は何一つなりませんでした。ただただイエスの言葉だけがその通りになったのでした。

 みなさん、今日のところからまず教えられることは、神の前、十字架を前に、ここに罪のない正しい人は誰一人いません。もちろん、「人の前」、ローマ社会、ユダヤ社会では、それなりの地位があり、功績と名声があり、立派な行いと敬虔な振る舞いで、人々からも尊敬される人々は沢山いたでしょう。しかし、この「十字架の前」、イエスが背負われる十字架、そして完了したという、その神の計画の前、み言葉の前にあって、今見てきた通り、正しい人はいませんね。罪のない人は一人もいませんね。もちろん女性達は、墓に至るまでついてはいきました。人の目には、そんな弟子達よりは立派に見えます。しかし、その女性達は聖女であり罪はなかったとは聖書には書かれてはいません。彼女達もやはり罪人でした。神の前に、義人はいないのです。まず何よりも、聖書は、その現実を私たちに突きつけています。

3、「例外はいない:「自分に限ってはそんなことはしない」と言い切れるか?」

 もちろん、人間の理性や善を信じたい、自分はそんなに悪い人間ではないという人々の中には、自分は良い人間だから、意志も強いし罪も犯さないから、自分に限っては、彼らの様にはしないと言いたい人もいるかもしれません。しかし、もし自分が、これまでの自分の地位と行いに誇りとアイデンティティーを置いてそれを支えにそれを守って生きてきたユダヤ人宗教指導者としてその場にいたならどうでしょう?あるいは、日頃その様なユダヤ人たちに指導され、敬意を払うこと、従うこと、倣うことが当たり前の日常で、そのような社会的大多数の価値観の生活する一人であったならどうでしょう?大多数派の価値観や声に動かされず、自分は決して煽動されない、それでも否と言える自信がありますか?あるいは、ピラトのように実績と名声に支えられやっとつかんだ総督の座にありながら、その治める地のユダヤ人が暴動を起こさないようにしなければならない、実績に傷をつけてはならない、そんな立場で群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫び続ける中でも、周りの声が望まない正しい判断をあなたは絶対することできますか?あるいは、上官の命令には絶対のローマ兵の立場であったならどうでしょうか?それでも、総督の決定、上官の命令に逆らってでも自分は鞭打たない、釘を打たないとあなたは断言できますか?そして、ペテロのような決心を持った強い敬虔な言葉を発しながら、自分もイエスと一緒に仲間として十字架にかけられるかもしれない恐怖の中、「あなたは仲間でしょう」と問われた時に、自分はそれでも弟子達のように逃げない、ペテロのように「知らない」と否定しないと言い切れ断言できる人がいるでしょうか?仮に断言できたとしても、実際にその場で、なんの躊躇いもなく、葛藤もなくそれを実行することができる人がいるでしょうか?私はその自信がありません。いや、たとえ、その様な、立場に置き換えるということがフェアではないとしても、しかし聖書は、まさに堕落の初めから、はっきりとその人間の罪の事実を、つまり、人は神のみ心、み言葉を、疑い、反対し、背くものであり、そして間違った道をいくものとなったことをはっきりと私たちに伝えているでしょう。神はノアの洪水の後に「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(8章21節)と言っています。そして神の怒りを受けてなおも背いていく神の民の性質について、神は、イザヤを通して、こう言っています。イザヤ書57章17節(新改訳)

「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。

 そう、聖書が変わることなく何千年もそのようにはっきりと伝えてきた人間の事実、現実が、十字架の前にまざまざと実現しており、はっきりとしているのです。「義人はいない。一人もいない」そのことです。イエスが引き渡される時、イエスが自分で十字架を負う時、そこにはただただ人の罪が取り囲んでいます。人の罪が、救い主として、王としてこられた約束の救い主、御子キリストを拒むのです。そのように私たちの罪こそが、どこまでもキリストを拒み、必要ないとし、そして「十字架につけろ」と叫び、殺すのです。ここで見てきた罪深い一人一人は、、私たち一人一人であり、私たちの姿であり、私たちも御子キリストを拒み十字架につけた一人であり、そこに例外はないのです。もちろん、私自身もその一人であることをまずここから教えられるのです。

4、「福音の核心:何のために?何を成し遂げた?」 

 しかし、「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そして「何が成し遂げられ、何が完了したのか」その究極の答えもここにあるでしょう。イエス様は、マタイの福音書26章53節以下で、ペテロが剣を持って祭司の僕の耳を切り落とした時に「53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26章53節)と言っています。しかしその後、こう言っています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言っています。つまり、その取り囲む人間の圧倒的な罪を「天の軍勢を送って」断罪し火で焼き滅ぼすことができるけれども、しかしそれが神の御心、聖書の約束ではなく、その様にするのではなく、まさに「必ずこうなると書かれている聖書の言葉が実現する」ために、つまり、そう、これまでまっすぐと目をむけ弟子達にも伝えてきた十字架にかかって死ぬことのために。つまりその取り囲む彼ら、そして私たちの罪を全てその身に負って、私たちの代わりにその罪を報いを、裁きを、死を受けて、私たちを滅びから、永遠の死から、罪の報いから救うため、罪から贖うことをイエス様はどこまでも見ているし従っているのです。ヨハネ18章でも11節、イエス様はこのように言っています。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と。この逮捕の前に、イエス様は園で祈っていたでしょう。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(26章39節)と。その祈りに対する父が与えてくださった答え、その杯は今、まさに表されたからこそ今こそそれを飲むべきではないかとイエス様はペテロに伝えていることがわかります。さらにヨハネ18章36節でも「36 「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

 とピラトに答えています。まさに神の与える杯、神の御心、それは、地上の国とは違う神の国をイエスは見ていて、この罪に溢れた裁判も断罪も、神の御心、杯として、黙って受けているでしょう。なぜですか?それはご自身がその人類の全ての罪を黙って背負って、十字架にかけられて死ぬためではありませんか。罪人が受けなければならないその十字架という刑罰と死、それは罪人である私たちが受けなければならない十字架であり、刑罰であり死のはずでした。しかしまさに、イエス様はこのように、人間の神への罪、敵意を一身に黙って受けて、十字架に従われることによって、人類の代わりに、つまりそこにいた全ての人々、そして私たち一人一人の代わりに、その罪の報いである、私たちが受けなければならなかった刑罰と死を受けられているのです。しかし、そのイエス様のこの十字架のゆえにこそ、神の御心は実現したことを聖書は伝えていますね?ヨハネはここで、「聖書の言葉が実現するため」(24節)「聖書の言葉が実現した」(28節)「聖書の言葉が実現するため」(36節)と繰り返しています。つまりこの福音書を記したヨハネもまさに、この十字架、この救いには、人の思いは一切ない、これは、神の御心が実現することなのだと繰り返していますが、その御心とは何ですか?それは遥か昔から神が一貫して約束されてことでした。創世記3章の約束もそうですが、イザヤを通しても変わることなく神はその身代わりの死による贖いの御心を伝えています。イザヤ53章

「5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。〜10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

 と。みなさん、私たちを罪から贖う十字架の死はその変わることのない神の救いの御心の実現なのです。「完了した」「成し遂げられた」。何がですか?その神の御心がです。剣によってでも、革命や暴力によってでもない、天の軍勢の裁きによってでもない、神の御子が、神ご自身が私たちと同じ肉体を取り人となられ、私たちの代わりに、私たちが受けなければならない罪と滅びという大きな深刻な、そしてどうすることもできない問題、十字架の死を全て代わりに背負われて、死んでくださった。その十字架のゆえに神は変わることなく私たちに罪の赦しを宣言してくださるのです。私たちは神の前に圧倒的な罪の現実に絶望するしかありませんでした。しかし、その罪を認め悔い改めて十字架の前に立ち、その神の御子キリストの贖いは私のためであると信じるものは誰でも、その罪の赦しがそのままその人のものになるとイエス様は約束しています。誰でも悔い改める者に、イエス様は「あなたの罪はこの十字架ゆえにもう赦されています。だから心配しなくて良い。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。その罪の赦しのため、その平安のため、安心のため、安心していくことができるその救いのために、「引き渡され」「自ら十字架を背負い」そして「完了した」「成し遂げられた」なのです。

5、「成し遂げられた:福音はまだ未完成で残りは人が完成させなければならない」ではない」

 そして大事なのは「完了した」「成し遂げられた」のですから、救い、罪の赦しは100%イエス様が果たしたということです。つまり、福音は未完成であり後はクリスチャンの努力で福音を完成させなければならないという教会もある様ですが、そんなことは決してない。福音や救いは、残りの半分は後は私たちが果たしてくださいというものでも決してないということなのです。「完了した」「成し遂げられた」とイエス様が私たちのために宣言してくださっていることは幸いです。福音というのはイエス様が完了し、完成してくださったものを、そのまま受け取るだけのものなのです。そのルター派の教えに対し、「福音の後にやっぱり律法の力や人間の数%の努力や意思の力も必要だ」と教える教会では「物足りない、だからルター派は弱いんだ」と言いますが、決してそんなことはありません。人間には決して実現できないことを成し遂げ「完了した」と宣言してくださったイエス様のその福音が何にもまして、人の思いを超えて遥かに力があることは明らかではありませんか?むしろ人の力ではどんなに立派な良い行いをしても敬虔そうに装えても限界があったでしょう?しかし、イエス様の福音こそ、逃げた弟子たちを命をかけた宣教師に変えました。迫害者でありパリサイ派であったパウロを、180度変えてイエスの福音に生き伝えるものにしたでしょう。それは人間の力や律法ではない、福音によって遣わされた平安な宣教の証しなのです。「未完成」ではなく「完了した」罪の赦しをはっきりと宣言され、その完全な罪の赦しを受けるからこそ、私たちは罪の赦しの確信をもち、救いの確信を持ち、安心していくことができるのです。

6、「結び」

 結びます。私たちが神の前にどこまでも罪人であることを知ることはとても大事な聖書のメッセージです。そんな暗い、人が聞きたくないことはやめて、罪とか悔い改めなど語るのはやめて、もっと明るいポジティブな愛とか成功とか繁栄とか語りましょう。もっと人が集まり人が支持するような万人受けするような教えで教会を沢山の人で満たしましょう。聖書の古い暗い、聞きたくない教えは蓋をしてもいいから、皆が受け入れやすい様に聖書を解釈して、今の社会風な教えと教会を変えましょう。そのように人間に都合のいいように方向転換する教会は少なくありません。事実、それが正義であるかのように讃えられ、罪と悔い改め、十字架の罪の赦しを説教することが時代遅れとか悪であるかのようにさえされます。事実、人の前では、その様な方向転換の教会が見た目は栄え、数的に大きくなるようなことはあるのです。しかし、人中心で神の言葉を再解釈することが堕落の初めであり、変わることなく自己中心、人間中心こそ、神を排除しようとする十字架を取り囲む人々に溢れていた罪の現実ではありませんか?それは現代においても、結局は、理性と感情とマンパワーによる教会へとなって行きますが、平安は無くなってしまします。それは世の与える平安は伝えられますが、イエスが与える平安は絶対に伝えられません。聖書はいつまでも変わらぬ真理と救いと真の平安を伝えています。私たちはどこまでも罪人である。しかしその罪のためにこそ、イエス様は十字架にかかって死なれた。それが御心であった。それが救いの「完了した」であったのだと。私たちが罪人であることがはっきりとわかり認め悔い改めに導かれるからこそ、聖書が伝える真の救い、十字架と復活にある、罪の赦しと新しい命の素晴らしさ、真の神の愛がわかります。それが私たちを平安にし、救いの確信を与えるのです。罪を知らされる、悔い改めに導かれるからこそ、そこに、真の天からのいのちの光、神の前に安心して歩むことができる平安な道が開かれているのがわかるのです。今日もイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひそのまま福音を受け取り、安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン