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教会の日曜礼拝は人生という旅路の休憩所
この夏フィンランド滞在中、トゥルク市にあるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のルター教会の礼拝に参加した時のこと。 礼拝中に牧師が二人の信徒を前に呼び出して、会衆の前で質問。「あなたはなぜ教会の礼拝に参加するのか?」一人は大学生の女性、もう一人は小さな子供がいる30代の父親。
大学生の答えは、友達に会えること、若者が多い教会なので新しい友達が出来ることも期待している、と。因みにルター教会の礼拝出席者数は200~300人位あり、(クリスマスシーズンを除く)通常の礼拝ではフィンランドで最も礼拝出席者が多い教会の一つである。ヘルシンキ市にある聖心教会(これもSLEY)はさらに多く300~400人位。しかも、どちらも若者や子供連れ家族が年配者より多い。私が90年代にルター教会に通っていた頃は100人位で年配者の方が多かった。世代交代が見事に成功したのだ。90年代以後、フィンランド国民の教会離れが進み、国教会所属率は80%台から60%すれすれまで落ち、多くの教会の礼拝は人がまばらになってしまったのとは全く対照的な展開を遂げた。
若い父親の答えは、自分にとって人生とは天の御国を目指して歩む旅のようなもの、その旅路の中で日曜礼拝は荷物を下ろして休憩できる場である、聖書の御言葉と聖餐式を通して霊的な栄養を得て、また荷物を背負って歩み出せる、一週間後また休憩所で一息つけるんだとわかって歩めるのは素晴らしいと。
父親の答えには多くの聖書の御言葉が凝縮されている。大海原に船出して嵐に遭遇しつつも神に助けられて望みの港に到着するという詩篇107篇、実際に嵐を鎮める力を示したイエス様(マルコ4章など)、旅人の出発から目的地到着まで神が守って下さるという詩篇121篇、神に贖われた者たちが危険から守られて大路を進み、嘆きと悲しみが消え去る目的地に歓喜の声で迎え入れられるというイザヤ35章、苦難の時も良い羊飼いに守られ野原や水辺で憩う時を持ちながら目的地に進むという詩篇23篇、自分はその羊飼いであると証ししたイエス様(ヨハネ10章)、復活の日に復活に与ることを目指してひたすら走るというパウロ(フィリピ3章)、そして「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というマタイ11章28節の主の言葉などなど。
主日礼拝説教
2024年9月22日 聖霊降臨後第十八主日
聖書日課 エレミヤ11章18~20節、ヤコ3章13節~4章3、7~8a節、マルコ9章30~37節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様と弟子たちの一行はエルサレムに向かって南下する旅をしています。今日の日課の出来事は、一行がガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来た時の話です。少し前にイエス様は自分がエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕らえられて殺される、しかし、三日後に復活すると予告していました。それを聞いて驚いたペトロがそんなことがあってはならないと反対すると、イエス様はペトロを厳しく叱り、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている、と言われました。弟子たちにとってイエス様は期待のヒーローでした。イエス様の権威ある教えを聞いて無数の奇跡の業を味わった人たちも思いは同じでした。当時ユダヤ民族はローマ帝国に支配されていたので、いつかそれを打ち倒してかつてのダビデ王の王国を復興させてくれる王の到来を期待していたのです。イエス様に注目が集まったのも無理はありません。
私たちは、メシアという言葉が救世主を意味すると知っています。もともとの意味は「香油を頭に注がれて聖別された者」で、ユダヤ民族の伝統では王様がメシアの代表格でした。それでイエス様の時代、メシアを民族を超えた全人類の救世主と考える向きはほとんどありませんでした。なので、イエス様をメシアと言って担ぎ出してしまうと、ローマ帝国から反乱者と見なされて弾圧されてしまいます。神が定めた救世主の目的を果たすまでは邪魔されてはいけないのです。十字架と復活の出来事が起きる前、なぜイエス様は自分がメシアであることを公けにするのに消極的だった理由がわかります。ガリラヤ地方に来た時、人々に知られたくなかったのも、このように理解できるでしょう。
本日の福音書の個所で、イエス様は再び自分の受難と復活について予告します。弟子たちは恐れて何も言えません。このイエス様の驚くべき予告を聞かされた弟子たちは混乱してしまったようです。これから、ユダヤ民族の将来にとって何か途轍もないことを起こす偉大な方が、自分は殺されてしまう、しかし復活する、などと言われる。これは一体何なんだ?この方は自分たちが考えるような偉大な方ではなかったのか、それともやっぱり偉大な方なのだが、それは自分たちが考えるのとは違う偉大さなのか?それで、誰が偉い者かという議論が起こったと考えられます。
それに対するイエス様の答えはこうでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、子供を真ん中に立たせて抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
これを読んだ人は、ああ、イエス様は、人間謙虚さが大事、高い地位にふんぞり返っている者は偉くもなんともない、自分を低くして他人に仕える者が本当に偉いのだ、と道徳論をぶっていると思うでしょう。子供を受け入れなければならないと言っているは、聞く人によってはイエス様は子供の人権擁護の先駆者だと考える人もいるかもいれません。しかし、そういうことではないのです。聖書とは、キリスト信仰について教える書物であると同時に、読む人をキリスト信仰に導く神の御言葉です。イエス様のことを道徳論者とか人権擁護者に理解する読み方は、別にキリスト信仰がなくても読める読み方です。イエス様を道徳論者とか人権擁護者に仕立て上げると、古今東西無数にいる道徳論者や人権擁護者の一人にすぎなくなります。
私たちキリスト信仰者は聖書をキリスト信仰なしで読むことはしません。信仰をもって読む者です。それで、今日の福音書の個所も、道徳論、人権論とは全く異質なものが見えてくるのです。今日の説教では、この異質なものを明らかにしようと思います。次の3つのことに焦点を当てて明らかにします。一つは、キリスト信仰にとって「仕える」とは何なのか?二つ目は、「わたしの名のために子供を受け入れる」と言う時の「わたしの名のために」とはどんな意味なのか?三つ目は、キリスト信仰にとって「受け入れる」とは何なのか?
イエス様は一番先になりたい者は一番後になりなさいと言い、一番後になるとはみんなに仕えることであると言いました。本当に偉大な者とは人々に仕えられてふんぞり返っている者ではなく、逆に全ての人に仕える者が偉大なのだと。ここで「仕える」とは具体的に何をすることでしょうか?お仕えする相手の要望に聞き従い、お世話をすることでしょうか?召使いのようになることでしょうか?全ての人々に対してそのようなことができるでしょうか?一人や二人だったらできるかもしれませんが、人数が多くなるにつれ難しくなり、全ての人というのは不可能です。
ここで、全ての人に仕えることをしたのはイエス様本人であったことを思い出しましょう。イエス様はどのようにして全ての人に仕えたでしょうか?それは、彼が予告した十字架の死と死からの復活をもってしたのです。どうして、十字架と復活が全ての人に仕えることになるのか?それは、人間が創造主の神に対して、その神聖な意思に反しようとする性向を持ってしまっている(聖書はそれを罪と呼びます)、そのために人間が神との結びつきを失ってしまった、それで人間は神との結びつきを失ったままこの世を生きなければならず、この世を去った後も神のもとに戻ることができない状態になってしまった、この状態から人間を救い出すために神はひとり子のイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせたのでした。人間が持ってしまっている神の意思に反すること、つまり罪の神罰を人間が受けて滅びてしまわないために、イエス様が身代わりになって受けて死なれたのです。これがゴルゴタの十字架の出来事でした。しかし、事はそれで終わらず、創造主の神は今度はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。
そこで、今度は人間の方が、これらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、それでその人は神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も結びつきは失われず、復活の日が来るとイエス様と同じように復活させられて神の御許に永遠に戻れるようになったのです。これが、イエス様が全ての人に仕えたということです。
それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者にとって人に仕えるとはどういうことになるでしょうか?イエス様は、罪の赦しの救いを全世界的に打ち立てました。しかし、人間は信仰と洗礼を通してそれを自分のものにしないと、打ち立てられた救いの外側に留まってしまいます。人間の救いを計画した神とそれを実行したひとり子イエス様の願いは、全ての人がこの救いを自分のものにすることです。なので、キリスト信仰者にとって人に仕えるというのは、人々が救いを自分のものにできるように働きかたり、考えたり、祈ることが仕えることになります。まさに神が全ての人に仕えたことを受け継ぐことです。
次にイエス様が子供を受け入れる時に「わたしの名のために」と言っていることに注目します。「私の名のために子供を受け入れる」とはどういうことでしょうか?「~のために」はいろんな意味があります。「合格するために一生懸命勉強する」と言う時は目的とか目標です。イエス様の名前が子供を受け入れる目的、目標になっているというのは意味が通るでしょうか?「悪天候のために遠足は中止です」と言う時は原因とか理由の意味です。イエス様の名前が子供を受け入れる原因とか理由になっているというのも意味が通るでしょうか?「家族のために仕事を頑張る」と言う時は何かに利益をもたらす、何かを支えてあげる意味になります。イエス様の名前は私たち人間が何かをして支えてあげなければならないようなか弱いものでしょうか?このように、日本語で何となくわかったような気分でいたことが、少し突き詰めて見ると実は何を意味しているのかわからなくなることが多くあります。
聖書でそうことが起これば、すかさず原語のテキストを見てみます。ギリシャ語でエピ(επι)という前置詞が使われています。これが「~のために」と訳されているのですが本当でしょうか?エピに続く単語は属格、与格、対格のいずれかの格変化をします。格に応じて意味も変化します。今日の個所のエピには「私の名前」が続きますが、「名前」は与格です(ονομα⇒ονοματι)。古典ギリシャ語の文法書によると(後注1)エピに与格が続くと、まず場所を表す意味や時間を表す意味があります。「私の名前」は場所でも時間でもないので当てはまりません。そこでもう一つ、比喩的な意味というのがあります。その中にもいろいろな選択肢がありますが、それらを見比べて一番当てはまると思われたのは、「~に依拠して」とか「~という条件の下で」という意味です(後注2)。イエス様の名前に依拠して、イエス様の名前という条件の下で子供を受け入れるということ。つまり、子供を受け入れる時、イエス様以外の名前には依拠しない、イエス様以外の名前を条件にしない、他でもないイエス様の名前に依拠して子供を受け入れる、イエス様の名前を条件にして受け入れる。それでは、イエス様の名前に依拠して、その名前を条件にして子供を受け入れるとはどういう受け入れなのでしょうか?
ここでイエス様が成し遂げられた救いを思い出します。イエス様は自分を犠牲に供することで神に対する人間の罪を人間に代わって償って下さいました。人間が神罰から免れて神との結びつきを持てるようになる可能性を打ち立てたのです。さらに、死から復活されたことで死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を人間に切り開かれました。イエス様の名前に依拠して、名前を条件にして子供を受け入れるというのは、まさに子供をイエス様が成し遂げた救いの中に迎え入れるということです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにすることが出来る、永遠の命、復活の命に至る道を歩むことが出来る、子供だからまだ無理だとか、早いとか、そんなことはない、大人のキリスト信仰者はそれをわかって、子供も救いの中に迎え入れなさいということです。
このような教えは、当時のギリシャ・ローマ世界にとって革命的なことでした。というのは、十字架と復活の出来事の後で罪の赦しの福音が地中海世界に宣べ伝えられていきますが、そこは子供や女性の地位が何もないような世界でした。確かに古代ギリシャ・ローマは進んだ文明も持っていましたが、生まれたばかりの赤ちゃんの間引きは日常的に行われていました。最初ユダヤ教がそれに異を唱えました。人間は神に造られた、母親の胎内の時から神に知られているという視点に立っていたからです。キリスト教も同じ視点を受け継ぎました。キリスト教が長い迫害時代の後、ローマ帝国内で地位を確立すると間引きの風習は禁止されました。イエス様は、子供たちにも天使がついていて神の御顔を仰いでいると言われました(マタイ18章10節)。大人についている天使と何ら遜色はないというのです。これも当時の人たちには衝撃的に聞こえたでしょう。
このように「受け入れる」とはイエス様の成し遂げた救いの中に迎え入れることだと言うと、それは別に子供に限ったことではないかと言われるかもしれません。その通りです。イエス様の成し遂げた救いは大人子供関係なく全ての人のために打ち立てられました。それを神はどうぞ受け取って下さいと全ての人に提供して下さっているのです。人はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してそれを受け取ります。救いが「全ての人に」向けられているということを如実に示しているのが、子供を受け入れなさいというということなのです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにできる、永遠の命、復活の命に至る道を歩める、だからイエス様の打ち立てた救いは本当に全ての人に向けられているのです。赤ちゃんや小さな子供の場合は先に洗礼を受けて救いを受け取ります。それから両親と教会が、あなたの受けた洗礼はこういう意味があるんですよ、と教え育てて、イエス様を救い主と信じる信仰を意識化していき、堅信礼へと導いていきます。(世の人はこれを聞いて、子供の人権侵害だと騒ぐかもしれません。宗教2世の問題を引き起こすものだと。悲しい世になってしまいました。)
子供をはじめ救いの外側にいる人たちをその中に迎え入れる者は、もう既にイエス様を受け入れており、イエス様を送られた神を受け入れています。それが、外側にいる人たちを迎え入れることで、イエス様と神を受け入れていることが一層証しされるのです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも、イエス様が打ち立てた罪の赦しの救いは全ての人に提供されていることを覚えて、まだ受け取っていない人たちが受け取ることができるように働きましょう。とは言っても、今はいろんな宗教団体が社会問題を引き起こす時世ですので、誤解や警戒を生まないように何ができるだろうかと悩んでしまいます。しかし、あなたの信仰について教えてほしいと言う人が出たら、しめたもの、何も遠慮することはありません。ペトロの次の言葉の通りにしなさい。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(第一ペトロ3章15~16節)。教えてほしいという人がなかなか出なくても、慌てる必要はありません。皆さんが、神と結びつきをもって人生を歩んでさえいれば、順境の時も逆境の時も神から変わらぬ守りと導きを受けているんだという生き方をしていれば、そして将来いつの日か自分もイエス様の復活に与ることになるんだという希望を持っていれば、それを雰囲気を感じ取った人が興味を持って聞いて来るようになるでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
後注1 私が使用している古典ギリシャ語の文法書は、Jerker Blomqvist & Poul Ole Jastrup著の”Grekisk/Grækisk gramatik”です。用いている辞書は、Ivar Heikel & Anton Fridrechsen編の”Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”。
後注2 比喩的な意味の他の選択肢は、~に対する命令、(感情表現の動詞と一緒に)その感情の原因、~しようとする意図・目的。
吉村牧師ご一家がフインランドから戻られ、三鷹教会の高村牧師夫妻が赤ちゃんの藍埜ちゃんを連れて礼拝に参加されて、久しぶりに賑やかな交わりのひと時を持ちました。感謝です
[私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにあるように。アーメン]
2024年9月15日(日)
説教題 「主よ、あなたこそメシアです」
聖書 マルコ福音書 8章27~38節
今日の聖書はマルコ福音書の8章です。27節を見ますと「イエスは弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。」とあります。フィリポ・カイザリア地方へ、なぜ弟子たちを連れて行かれたのでしょうか。フィリポ・カイザリアと言えばエルサレムやガラリヤ地方から見れば、もう外国のような地方です。
◇
私はイスラエル・トルコのパウロ伝道の跡を訪ねました際、フィリポ・カイザリアにも行きました。ガラリヤ湖の小高い山に「山上の垂訓」の教会があります。イエス様が大切な説教をされた有名な所です。マタイは5章から7章にかけて記しています。その山上の垂訓の教会の近くには世界でも珍しい花がいっぱい咲いている花園があります。世界中から植物学者が来て珍しい品種を調べているのです。その花園をずうっと北へバスで1時間ほど走って行くとバリアスの滝とかヨルダン川の源流を辿って行った先にフィリポ・カイザリア地方があります。ガリラヤ地方から遠く離れた地にイエス様はどうして弟子たちを連れて来られたのでしょうか。それまでナザレの家族から出て、いよいよガリラヤを中心に神の御子としての本来の活動を始められた。神の国の教えを語られ、病人を癒し群衆が何時も押し寄せて来た。マルコ8章の始めを見ますと「群衆が大勢いて何も食べる物がなかったのでイエスは弟子たちを呼び寄せて言われた『群衆が可哀そうだ、もう三日も私と一緒にいるのに食べ物がない、空腹のまま家に帰らせると途中で疲れ切ってしまうだろう。』・・こうしてイエス様は4000人の群衆に<七つのパンと僅かな魚で彼らを満腹させる>と言う全く考えられない驚きの奇跡の出来事をなさっています毎日々寝る時間もなく病人を癒し奇跡を起こし多くの人々が何時も周りに押し寄せて来ていた。そこでイエス様はこうした群衆から離れて弟子たちだけを連れてユダヤ人たちからも遠い地に来られたと思われます。そこにイエス様にとって一つの区切りをつける時を持たれたのではないでしょうか。そしてマルコはこの福音書の半分のところにフィリポ・カイザリアへ弟子たちを連れて行かれた事を書いているのです。ですからイエス様にとって大事な一区切りの時を持つことで前半のクライマックスを持ってきているのです。マルコは、さあ後半の始めに31節以下の所からイエス様の使命を弟子たちに打ち明けられて行きます。十字架への道です。さて、イエス様はフィリポ・カイザリアに向かって旅する途中で弟子たちに質問されたのであります。「人々は私のことを何者だと言っているか」と言われた。すると弟子たちは答えています。「洗礼者ヨハネだ」と言う者もいます。他に「エリヤ」と言う人もいます。「預言者の1人だ」と言う人もいます。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。」弟子たちに向かって尋ねられるのです。それでは・・・と言う、この問いに世間の人々は色々と言っています。それはそれで・・・ともかく、では「あなた方はどうなんだ」。とイエス様の本心はここにあったのです。
このことは弟子たちにだけではなく現在の私たち1人々に対してもイエス様と言うお方を教会だけではなく日常のあらゆる生活の最中でも「私にとってイエス様はこういう大切なお方です」と言える信仰の告白を問うておられるのであります。エレサムの神殿や教会の礼拝ではない、フィリポ・カイザリアに向かって行かれる旅の途中です。「あなた方は、私を何者だとと言うのか」と尋ねておられるのです。ここで最も重要なのは主イエス様ご自身が私どもの告白を求めておられる、という事実なのです。「あなた方は、私を何時も日常の中でもどのような方として思っているのか、信じているのか」と、主イエス様はその答えを聞きたいと思っていらっしゃる。どうお答していくか実に重大な問題なのです。愛し合っている夫婦の間で、親子の間で、親しい友人たち信頼している仲間たちの間で、もし「私のことをどう思っている?」と聞かれ、どう答えるでしょう。イエス様が問われる。「私どもが主イエス様を自分でどう信じ、どう告白しているか」教会の礼拝の中では信仰の告白をしています。しかし、いつも「あなたは、私が真実に救い主である、と今信じていますか」と言う問いの前に繰り返し何時も立たされているのではないでしょうか。
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さて、ペテロは弟子たちを代表すかのようにイエス様の問いかけに答えました。「あなたこそメシアです」当時のユダヤ人たちは皆メシアが現れるのを期待していました。ですからペテロもイエス様のことをそうだと考えて言った、ということでしょう。「イエス様こそメシアです。」と告白しています。口語訳の聖書では「キリストです」となっていました。メシアと言うのは「香油を塗られた者」という意味です。旧約聖書では王や預言者が神から任命される時、香油を塗ったところからメシアという名前が起こっていました。そして「救世主」を表すようになったのです。そのギリシャ語がキリストです。ペテロは当時のユダヤ人たちが待望していたメシアを考えていたのでしょう。あなたこそ旧約の時代から待ち望んだ「救世主」であられます。と告白したのです。ペテロはイエス様の「あなたはどう思うか」という問いの前に自分の信じているままに答えたのであります。「あなたは私にとってメシアである救い主です」私たちも主の前に、いつも旅の途中であろうと、日常生活の様々な問題であってもイエス様を呼び求め「あなたこそ私の救い主です」と主イエス様がいつでも私の内にいて下さっています、ことをしかと心に留めていたいのです。最後に大切な言葉がイエス様から言われます。30節を見ますと「するとイエスはご自分の事を誰にも話さないように、と弟子たちに戒められた。」とあります。これはちょっと考えると不思議なことと言われています。なぜイエス様はご自分の事、つまりメシアである事を誰にも話さないように戒められたのでしょうか。ペテロをはじめ弟子たちはみな心からあなたこそ神から遣わされたメシアであられます。みなあそう思っています。ですから家族を捨て自分の人生を全てイエス様に預けてついて来ているのです。私たちの心から信頼しているイエス様を「メシアであられます」と言ってもよいではないでしょうか。ところがイエス様は誰にも話さないように、と言われたのです。なぜそう言われたのか、この事は謎として学者たちが議論するところであります。信仰のない学者は、こう言います。「これは後に教会が付けた句であってメシアであることが復活された後になって判ったから付け加えたに過ぎない。イエス様が生きていらっしゃる間はそんなことは判らなかったことだ。だから秘密にされていた。この説はあまりに付け足したで、とても考えられないことでしょう。では、イエス様が戒められた意味は何なのでしょうか。ここでイエス様が「戒められた」と訳されている、この語は悪霊を戒める、とか嵐の湖を鎮める時に言われた用語と同じものであります。実はこの語が旧約聖書では神が天地を創造なさる、とか権威を持って力あることをなさる、という意味のヘブル語をギリシャ語に訳す際に用いられとぃる、というそういう背景から考えますと、例えば天地や新しい生命を創造する神の力、神の意志、或いは紅海を二つに分けられたような神の力を表す言葉として使われています。そのような神の言葉の持つ力をイエス様も持っておられる事を指すのが「戒める」という言葉なのです。<私は聖書学者ではありませんが尊敬する素晴らしい牧師、学者である先生の説教で解説しておられます。>このように「戒められた」という言葉の中にイエス様は限りない主であることが力強く示されている。ということです。
ここでイエス様が「あなた方は、私を何者だと言うのか」と尋ねられ、ペテロが「あなたはメシアです」と答えました。自分で尋ね、ご自分が聞きたいと願っておられた答えをお聞きになったのに、かえって誰にも言うなと戒めた、という事はおかしな話のように思われるかも知れません。だのに、どうして普通の話のような口調で“誰にも内緒だぞ”と言うた程度ではない、嵐の海を静まらせ,紅海の海をま二つに分けられる神の力を秘めた力強い戒めの言葉で「誰にも言うな!」。弟子たちが内心震え上がるような権威に満ちた顔をもって戒めておられるのです。当時のユダヤ人たちは長い間、歴史の中で待望していたメシア、目の前にはローマ帝国の圧政の下で苦しめられているけれども自分たちは特別な神の民である、この苦しみを開放してくださる救い主がきっと今に現れる、ペテロたちも同じような心を抱いていた、そういうメシアが主イエス様だ。今に社会が、世の中がひっくり返るような神の力をもって救ってくださるにちがいない、こういうメシア観でありました。それは人間が勝手に想像し期待している救い主メシアであるかもしれない。しかし、主イエスは違う!
全ての民が救われる、ことをイエス様は考えておられた。ですからうっかりペテロが自分の考えに従ってユダヤ流のメシア理解を宣言するというのでは困る。だから力強い神の力をもって戒められたのであります。イエス様は確かに告白を求めておられるのですが彼らの考えの中にある内容についてはイエス様は、そうかと任されるままでは決してない。正しい告白をここで与えようと思われて、しかと戒められた。人間の言い方では危ないのであります。事実ペテロはイエス様の前にどういうふうになったか31節を見ますとその事がわかります。「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。するとペテロはイエスをわきにお連れして諫め始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。・・・・。」イエス様ご自身のま近に苦しみと死が迫って来ている運命を話されたのであります。ペテロが戒めると「サタン!引き下がれ」と激しい口調で叱られています。イエス様がどのような意味でメシアであられるのか弟子たちにその深い真実の意味は判っていない。イエス様の十字架の苦難と死に至ってはじめてはっきりされて来る。全ての人間の罪を十字架の上で流れる御血と肉の痛みで贖われてメシアとしての救い主であられる。ペテロたちが「あなたこそ、みんなが待望している救い主メシアです」と告白してもイエスご自身の十字架の死を持っての救い主というイエス様の内容の次元が全く違っているのであります。その時まで判らない、秘められた神の救いの御業であるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
田口聖 牧師は今週からアメリカ合衆国のコンコーディア神学校フォートウエインの集中講義(5回/年間)の受講のために渡米されます。 吉村牧師留守中のスオミ教会をよく牧会され又我々を導いて下さいました。そのお働きに感謝するとともにささやかな送別会を設けました。
マルコによる福音書7章24−37節(2024年9月8日スオミ教会礼拝説教)
「謙った砕かれた心を見て喜ばれるキリスト」
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
前回は、エルサレムからイエスのもとにやってきたファリサイ派の人々と律法学者達が、イエスの弟子達が手を洗わず食事をしていることを見て、「なぜ昔の人々の言い伝えの通りに手を洗うことを守らないのか」と質問し、それに対してイエス様が答えられた出来事を見てきました。イエス様は彼らに、旧約聖書の預言の言葉から答え、その預言の言葉が示すように、彼らは「口では神を敬うが、心は神に向いていない」と、その見た目は敬虔そうに装っても、その心は偽善に満ちていることを指摘しました。そして「人に入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのである」と、神の前では人の心にある罪が汚れの原因であり、人は手を洗おうが、口で綺麗事を言おうが、どんなに立派な行いをしようが、それらで神の前に自らを清めることはできないことを教えたのでした。そこから私たちを唯一きよめ救うことができる天から来られた救い主イエス・キリストを改めて指し示されたのでした。
2、「知られたくないと思うイエス」
さて、イエス様はその出来事ののち、再び別の地へと移動します。24節からこう始まっています。
「24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。
ティルスは、ガリラヤの北、フェニキア地方の地中海沿岸の、異教徒の街です。そして、こう続いています。
「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
この時すでに、イエス様の評判は広まっており、ガリラヤ地方でも行く所、行く所で大勢の人々が群衆となって押し寄せていました。5つのパンと二匹の魚の場面でも男性だけで五千人いたことが書かれていました。しかしこのように人から見れば、それほどまでの人気があって支持されている状況であるのに、そのガリラヤから北のフェニキアの異教徒の街にまで退かれ、さらには隠れるように家に入り「誰にも知られたくないと思っておられた」とあるのは、何か疑問に思われるかもしれません。人気があるんだから、もっと支持者を増やして自分の勢力を増せばいいじゃないか、人間の党派心、あるいは多数派が勝るという価値観ではそう思うかもしれません。ですから、ある学者達は、この身を隠した行動について、イエス様は本当は救い主としての道を望んでいなかったんだという人もいるようです。しかし、4つの福音書全体、そしてパウロの書簡に照らしても、間違いなくイエス様は、十字架の道をまっすぐと見て歩んでいましたし、そしてイザヤの預言53章を見ても、その十字架の道は神の御心でありそして罪のための犠牲は神の喜びであったとも書かれていますから、そのような学者達の考えは明らかに間違いだと言えるでしょう。むしろ、そのようにイエス様が世の罪を取り除く神の子羊としてこられ、十字架と復活による救いの完成をまっすぐと見て歩んでいたのであるなら、この地に退き、「誰にも知られたくないと思っておられた」理由が見えてくるのです。それは、すでにこの時、人気が出てきて、人々の人間的な動機や目的や、その勢いだけで彼を地上の王にしようとまでする流れがあった中です。まさにそのような人間的な人気の力などで神のみ心に反して王に祭り上げられることはイエス様の望むことではないでしょう。そのためにこそ、そのような人間の間違った勢いによって導かれることから離れ、神の時を待つためにも、このように異教の地に退き、密かに隠れるような行動も必要だったと言えるのです。
3、「異邦人の女性の求め」
しかし、それでも、どうやらこの異教の地ティルスにもイエス様の噂はすでに広まっていました。人々に気づかれ、25節
「25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
A,「ひれ伏す女性」
一人の女性がイエスのことを聞きつけてやってきます。彼女は「足元にひれ伏した」とあります。最大限の心からのイエスへの敬意と謙りです。そして求めるのです。「娘から悪霊を追い出してください」と。彼女の娘は絶望的な状況であったでしょう。彼女は「娘のために」「イエス様ならおできになる」と藁にもすがるようにやってきてひれ伏したのでしょう。しかし福音記者マルコはここで、この女性は「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と説明を記しています。それは彼女が異邦人の背景があることを強調するものです。それは、先週の、言わば異邦人とは正反対にあるイスラエルの民のファリサイ派や律法学者達との出来事と対照的に描いているようでもあります。そして、この後のイエスと女性とのやりとりともその対照は関わってくるでしょう。女性がそこまでも縋り求めてくるのに対して、27節、イエス様は最初、次のように返しますが、その言葉は私たちから見れば驚くべき違和感のある応答です。
B,「子犬に」
「27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
イエス様は、異邦人である彼女に対して、まずは子供達、つまりイスラエルの民に対して与えるのが先であるといういうことを言いたいのかもしれませんが、彼女を指して「子犬」という非常に侮辱的な言葉を用いているのです。イエス様はなんと失礼で冷たく、突き放しているんだと、私たちは思わされるのです。しかし、この言葉がイエス様の成そうとすることのゴールではもちろんありません。この後に成そうとすることのためのイエス様の意図が必ずあるのです。そのような非常に大きな侮辱にも思えるような、そして突き放されているとも感じる言葉に対して彼女はいうのです。
C,「彼女の応答」
「28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
イエス様が「子犬」と言っている言葉は、ギリシャ語「クナリオン」という言葉ですが、それは野生の犬や、通りにいる野犬のことではなく、家庭のペットを指すような言い方を示すものです。彼女も、そのイエス様のそのことばを捉えて「しかし、食卓の下の小犬も」と答えています。この言葉に、彼女の「足元にひれ伏す」という行為は見せかけの格好だけのパフォーマンスではなく、本当に心からのものであることがここにわかるのです。「最初は子供達に」と言われ、「子犬」と言われても、彼女は、それに怒るのではないし、自分を「侮辱した」と求めるのを止めるのでもありません。むしろ「その通りです」と、イエス様に返しているでしょう。そして、子犬でも、その子供にあげたもののパン屑でもいただければ、それでいいという、彼女の実に謙った心の内がこの彼女の言葉にはわかります。それはまさに彼女の「イエスをどこまでも求める」信仰から出る言葉です。
D,「イエス様の言葉の意図」
イエス様の意図ははじめから、彼女の娘を突き放すつもりはなかったことでしょう。その求める思いが本物であることも心を見られるイエス様は分かっていたでしょう。だからこそ、その彼女の信仰の告白を彼女の口から引き出すためにこそ、そのような冷たい言葉で返したのではないでしょうか?そして、そのやりとりは、まさにその前の出来事である、先週のファリサイ派や律法学者達と対照的な出来事であり、また対照的な言葉であり、心であることを、イエス様は見事に描き出しています。
4、「神は人の心を見られる」
イエス様は、前回の出来事からも分かるように、表面的な地位や立場、その表向きの立派な言葉や言い回しや、行いが見た目に立派に映るとかそのような表面的なことだけを見るのでは決してありません。神は人の心を見られるというのは、旧約聖書の時から実に一貫した神様の性質です。イエス様は、ファリサイ派と律法学者達がやってきた時に、その偽善性をすぐに見抜いて、聖書から答えました。彼らは確かに律法に誰よりも詳しく、教える立場であり、律法を完全に守っていると自負する人々でした。しかし、彼らは律法だけでなく、そのように律法を捻じ曲げて解釈した伝統までも含めて、それらを守っている自分の行いを誇り、それゆえにそれを基準に人々を監視したり裁く立場にもなっていました。そのようにしてイエスのもとにやってきて、彼らは確かに口では神の律法や、それを守ってきた先祖の昔から言い伝えられてきた伝統を口にして神を敬うのですが、しかしその心には神はおらず、人間の作り上げたもので神の律法を捻じ曲げ人間の心を支配する偽善性があったのでした。見た目や表向きは立派でしたが、その心が、神を求めない、いやむしろ神であるイエスを試し裁こうとする罪深い動機で支配されているのをイエス様は見抜いていました。そしてそのような心から出るものは何も生まず、清めず、たてあげず、それは人を汚すだけのものであるとイエス様は示しました。
A,「ファリサイ派のようか?異邦人の女性のようか?」
しかし、このイスラエルの民から見れば卑しい存在である異邦人の女性の心は、彼らの心とは全く逆でしょう。イエス様はまさにこの女性とのやりとりで、周りの弟子達に、そして、現代の私たちにも、神の国のために何が大事であるのかを、はっきりと示してくれているのです。それは、ファリサイ派や律法学者達のように、選ばれた民であり、聖書もよく学び、律法もよく知り、表向きは律法もよく守る良い行いをし、地位も社会的立場もしっかりしている、尊敬もされていて、人の目には申し分ないように見えるが、神は二の次、自分が中心、心には神を求める思いがない、「自分が自分が」になっている、そんな信仰が大事で求められているのか?それとも、卑しい存在、異邦人、本当に子犬と呼ばれてもその通りですとしか言えないし認めざるを得ない現実、しかしそれでも、あくまでも「イエス様、このような卑しいものを憐れんでください。こんな罪深いものにテーブルの上からのパン屑でもいいから与らせてください」と、どこまでもイエスの前に膝まずき、ひれ伏し、イエスの力と憐れみに縋り求める信仰が大事なのか?どちらなのか?イエス様の答えははっきりしているでしょう。29節
「29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
イエス様のこの福音のメッセージは、選びの民だとか異邦人だとか、そのような線引きはもはや関係ありません。それさえ外側のことです。イエス様はこの前のところでも、「人の心」のことを教えていたでしょう。神様は人の表向きの立派さとか、何をしたとか、何を果たしたとか、そのようなことを第一に、あるいはそれだけを見るのではないのです。いやむしろ、大事なのは、その心を見られるのです。
B,「それは純粋で清い完全な心か?」
しかも、その心が純粋で清いかでもありませんね。むしろ、人は皆その心までも見られるなら誰でも汚れてた罪深い心です。どこまでも自己中心で、自分を神のようにしようとする心です。神の言葉を退け、自分の言葉こそ正しい、義である、清い、清めることができる、そう思い神を無視する心です。しかし、ここでイエス様が見られているのは、どこまでも、神の前に謙り、むしろその自分の卑しさ、罪深さを、その通りですと認め、子犬にすぎない現実を認め、それでも「イエス様、そんな私を憐んでください。癒してください。助けてください」とどこまでも縋り求める心をイエス様は見られ、賞賛されていることが分かるのではないでしょうか。ルカの福音書の18章にも、ファリサイ派と人と徴税人の祈りの例えをイエス様は語っています。そこでは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカによる福音書 18:9)とその例えは始まっています。ファリサイ派は、神殿で『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 (11−12節)と祈りました。彼は、自分の完全さを誇るのですが、隣の徴税人と比べての誇りであり、しかし、神の前での自分はまるで見えていません。神の前には皆が罪人であるのに、あたかもそうでないかのように自分を誇る罪深い心があるのですが、それが見えていません。しかし、その隣の徴税人はこうでした。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 」(ルカによる福音書 18:13)。彼は自分の罪深さを悔い、神の前に認め、謙り、「神よ、罪人のわたしを憐んでください」の心です。イエス様はどちらの心を、祈りを受け入れているでしょうか。こう続いています。14節「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
神様は聖書に一貫しているでしょう。イザヤ書57章15節にこうあります。
「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。
詩篇でもダビデはこう証ししています。51篇19節
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
5、「結び」
私たちは、この1週間、聖書を通して、その中の律法をとおして、日々、自分の罪深さを気付かされる毎日です。律法は実に私たちの心を刺し通し、神の前にあって私たちの本来の事実は、神に受け入れられない滅びゆく存在であることを教えられます。しかし、そのような罪深い私たちに神様は、「自ら自分の力で、自分の罪をきよめ、精算し、克服して、自ら自分の力で、完全に聖なるものとなりなさい。そうすればあなたを救おう、天国に受け入れよう」とは言いませんでした。神はそのような罪深い私たちの現実、滅びゆく現実、自分たちではどこまでも神に背くだけであり、自分で清めるどころか自分でますます汚していくようなそんな救いようのない存在であることを、ご存知だからこそ、あるいは、そんな存在をどうしても救って神の国に与らせたいからこそ、御子キリストを世に人として与えてくださった、送ってくださった。そして、その御子に人類の、つまり私たちの、全ての罪の責任を負わせ、罪の報いである死を、罪の罰である十字架の処罰を、その御子に負わせた。そしてその御子キリストがこの十字架で私たちが負うべき罪の代価を全て代わりに払ってくださったからこそ、神はそのキリストのゆえに、「あなたたちの罪を問わない。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださり、平安のうちに遣わしてくださるし、神は私たちに永遠の命の道を備えてくださっているのです。その一人子を私たちのために死なせるほどに神は私たちを愛してくださっているのです。それが神が天から私たちに与えてくださっている良い知らせ、福音ではありませんか。イエス・キリストの十字架は、その福音によって平安のうちに生きるようにと私たちに与えられている素晴らしい宝ですね。そうであるのなら、私たちが日々導かれるのは、ファリサイ派のように、表向きの自分でなす行いの立派さで自分を誇り、自分自身に確信の根拠を探すことでは決してありません。このイエス・キリストの十字架と復活が私たちの宝、福音、命であるからこそ、私たちはどこまでもこのイエスの前に日々、謙り、日々悔い改め、「神よ、罪深い私を憐んでください」と祈り求めすがるのです。その砕かれた心こそ、真の神への礼拝、生贄なのです。それこそ神は私たちに求めており、喜んで受け入れてくださる。そして事実、私たちを憐んでくださり、このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちの義のゆえではなく「キリストの義のゆえに」日々、赦してくださいます。そして日々、復活の命で、私たちを日々新しくし、新しい命で生かしてくださり、世にあって私たちを用いてくださるのです。だからこそ、イエス様は今日も私たちに宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を今日も受け、新しくされて、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
マルコによる福音書7章1−8節、14−15節、21−23節
「人は自らをきよめられない。神が私たちを聖としてくださる」
この週から再びマルコの福音書に戻り、7章に入ります。7月の各週では6章を見てきていますが、そこでは、ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを処刑したところまでを見てきました。その後は、マルコの福音書でも「5つのパンと2匹の魚の奇跡」のことが書かれているのですが、8月はマルコの福音書からではなく、ヨハネの福音書6章からその奇跡と共に、イエス様ご自身がご自分こそ天からのいのちのパンであると告げられたことまで詳しく見てきました。そして再びその後の出来事を、マルコの福音書に戻りまして7章から見ていきます。この直前の6章の終わりのところで、イエス様と弟子達の一行は湖の向こう側のゲネサレの地を訪問されたことが書かれています。ゲネサレの人々はイエスが来たのを聞きつけて、病気の人々を次々とイエスのもとに連れてきました。イエス様のせめて服にでもさわれば治るとまで人々は信じてイエス様に求めてきました。イエス様は、そんな彼らの病を癒やされたのでした。しかしこの7章、同じようにイエス様の元に集まってくる人々がいますが、純粋にイエスの力を信じて集まってきたゲネサレの人々とは実に対照的です。1節から見ていきましょう。
「1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
集まってきたのは、ファリサイ派の人々と数人の律法学者達でした。しかもエルサレムからわざわざやってきた人々でした。彼らはなぜ、どのような目的でイエスのもとに集まってきたのでしょうか?彼らもゲネサレの人々のように、純粋に「直してほしい」「イエス様には力がある」とイエスを求めてやってきたのでしょうか?2節からこう続いています。
「2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
彼らが見たのは、イエスの弟子達の汚れた手、手を洗わないで食事をする弟子達でした。3節以下には、彼らが昔の人々からの言い伝えを固く守っていて、そのようなものが沢山ある事が説明されています。もちろん、私たちも食事をする前に手を洗ったりするのですが、それは衛生上、清潔のための習慣であり、何か昔の人々から受け継いでいる厳格な言い伝えというものではありません。彼らの、手だけでなく、杯などの器や、食べるときに寝そべる寝台までも洗うというこの言い伝えは、衛生上のことではなく、罪汚れに対するきよめが理由であり、神殿に入るときに手を清めるのと似たような理由です。それと同じように、彼らには、汚れた食物などの定めもあり、そのようなものに触れたり食べたりすることは厳格に禁じられていて、決して食べたりせず、食べたら汚れるとして、厳しく戒めてもいました。それは確かに旧約の儀式律法で手を清めるということが命じられてはいるのですが、昔の人々からの言い伝えとあるように、彼らはその律法を厳格に解釈して、神殿礼拝の時だけでなく、人々に食事の前に、自分も食器も食べる時のクッションまでも全てを清めるよう、求めてきたのでした。ですから、彼らはイエスを求めていたのではなく、律法、とは言いましても、彼らが拡大解釈し生活に当てはめた慣習、あるいは昔からの言い伝え、伝統を、イエスや弟子達が守っているか、破っていないかどうかを見るためにイエスのもとにやってきたのでした。そして、尋ねるのです。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。
彼らは自分たちはモーセの律法に、つまり彼らが信じるところの聖書の神の命令にしっかりと厳格に従ってきたし守ってきた、それに誰よりもその律法をわかっていると自負する人々でした。この食事の前の手や食器や寝台を念入りに洗うことも先祖代々受け継がれ守られてきた律法の伝統に沿ったことだと自信を持っていたことでしょう。だからこそ、彼らはこのように質問できたのでしょう。しかしイエス様はその彼らの自信にある矛盾を聖書から照らして指摘するのです。6節からですが、
「6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
イエス様は、旧約の預言書のイザヤ書29章13節の言葉を引用します。そしてその預言はファリサイ派や律法学者達あなた方のような偽善者のことを指しているというのです。彼らは確かに社会の周りの人々から見た限りでは、律法をよく知り、教えていました。自分達でもよく守り、守るように教え、時には人々を戒めてもいたでしょう。社会では立派な行いで模範となるような人々であり尊敬もされていたでしょう。もちろん聖書の律法を正しく理解し、正しく行うことは神の御心であり大事なことなのです。しかし、彼らは確かに口では神や律法を口にはし敬っていたとしても、ここで彼らが弟子達を見て問いただし要求してる内容は、律法の正しい理解でも正しい解釈でも正しい行いでもありませんでした。福音記者のマルコ自身も3、4節でわざわざ説明を記しているように、神殿礼拝で行われる儀式律法を人間的に拡大解釈して当てはめたものであり、マルコも神の律法とは呼ばないように、「昔から受け継いで固く守っている言い伝え」に過ぎないと書いたのでした。いわゆる伝統の類のものでした。
もちろん伝統が全て悪いわけでなく、このキリスト教会に当てはめれば、きちんと聖書に教えられていることに従っており、聖書を歪めたり、聖書の教えを軽んじたりするものではなく、そのように伝統が聖書に従うものであり、教会の徳のために良いものである限りは、伝統は大事にしていくのは全然良いことです。しかし、それが逆になってしまい、まさに昔から受け継いで固く守っている伝統が、聖書よりも優位に立って、聖書を伝統に従わせてしまうなら、それは、イザヤの預言のごとくです。口ではいくら神の名を崇め、賛美をし、神を敬ったり礼拝したとしても、人間の伝統がいつでも優先されたり、判断基準になったり、教会のなかで大きな比重を占めるようになってしまえば、神も神の言葉も実はただの飾りです。その口から出るものとは裏腹に、その心は神から遠く離れてしまっています。神よりも人間の戒めが大事な教えになっており、神よりも人間に従ってしまっています。それは見た目はどれだけ敬虔に見えても、偽りの敬虔です。イエス様がいう偽善というのはそのことです。
今日の箇所ではない9節以下13節までのイエス様の言葉も彼らの教えていることの矛盾を示しています。十戒では「父と母を敬え」とはっきりと教えられているのに、彼らは、両親にさし上げるものを神殿や神への捧げ物とするなら、両親へするはずだったことはしなくても良いというような教えをしていたようです。何か、家族を犠牲にしてまで教団にいっぱい献金させるような、現代に問題になっているカルト宗教のようですが、しかしそれはカルトだけでなく、キリスト教でもカリスマ的な教会では時々聞く危険で間違った教えです。しかし多くの人がそんなカルト的な人間の教えに騙され引き込まれ、そのようなカリスマ的なキリスト教会でも、家族を犠牲にしてまで教会に献身させたり、高額を献金させたりすることがさせる方だけでなく、する方もそれが「敬虔だ」とか「祝福をもらえる」とか本当に思わされているのを聞くことは実は少なくないです。それぐらいに、人は、聖書を口にしていながらも、そのような本当は聖書は教えていない人間の作り出す最もそうでご利益的な教えに、巧妙に流されて行きやすいということは今もあるのです。そしてカルトやカリスマではなくても、キリスト教会や教団の中でも、何か聖書の一箇所だけを文脈や真の意味や解釈も考慮せずに取り上げて、それにいろいろ教会指導者や教会組織に都合のいいように拡大して作り出された人間的で律法的な教えや伝統の方が、教会やその成長や宣教のために大事にされたり強いられたり、教会内や教団内での評価判断基準とされたりするということは実はよくあることのように思います。しかもそれが聖書的に矛盾するのではと思ったり疑ったりすることも悪であるかのように思えるぐらいに教会や教団で大切にされている伝統とかも時々聞いたりもします。それぐらい巧妙に聖書を超えた人間的なものは聖書を支配し脅かしたりするのです。
当時も、まさにそのような人間の作り出した教えが社会の敬虔になっていたからこそ、彼らは自信を持ってその伝統の管理人としてわざわざエルサレムから来てイエスとその弟子達を指摘できたのでしょう。
しかし、それらはイエス様の目からはっきりしています。それらは「人から出たもの、教え、言葉」に過ぎませんでした。それは13節にある通り「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことなのです。イエス様は冷静に、彼らの間違いを、しかも聖書から正しく解釈した正しい教えをもって、彼らの質問に答えているのです。
そして、14節15節の言葉、そしてその言葉を弟子達に解説した20〜22節の言葉は、彼らが投げかけた「手を洗う」「清め」ということについてのイエス様の教えです。
「14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
〜18イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
人から出るもの、それは人間の作り出す、伝統、教え、そして行いや振る舞いや習慣もそれは神の前にあって人間を清めることは決してできません。たとえその手をどれだけ綺麗に洗い、食器までも全て洗い清めたとしても、それは神の前にきよいものとして立つことができる方法では決してあり得ません。あるいは、聖書の言葉だけだと、弱い、分かりにくい、現代の文化や流行に合わない、信じられない、だから人間の側に合うように、分かりやすいように、受け入れやすいように、聖書を人間らしく変えよう、聖書の言葉を都合よく解釈しよう、衣をつけよう、人間らしく装うとしても、それは人間的な成果や成功は実現できるかもしれませんが、神の前になんら良いものとなることはできません。どれだけ周りに賞賛され尊敬され敬虔そうに見えたとしてもです。神の前に清くなることも、功績を積むことも、神のわざに協力し貢献することも、救いや神の国を得ることも、決してできません。いやそれどころか、それは「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことと同じです。それは、人から出ているもので、人を汚しているだけでなく、神を冒涜しているだけなのです。イエス様はここで清くない食べ物の問題にまで踏み込んでいます。当時はそのようなものがありました。使徒の働きでも、イエス様はペテロに幻を見せて、清くない動物を食べるように言われたペテロは躊躇しています。その時、イエス様はペテロに、神が清めたものは清いと言いました。しかし、イエス様はすでにここで、外から人に入る食べ物は消化され外に出るだけで、決して人を汚さないと教えています。
イエス様がここで「人から出るものが人を汚す」といいます。それは何でしょうか?人の心に巣くう最も深刻で重大な病巣である罪のことを示しているのです。まさに人から出て聖書を曲解し、伝統の衣や文化的解釈の衣で、イエス様の教えを全く異なったものにしてしまうのは、人間の罪です。そのような間違った伝統や律法で、イエス様が与えてくださった信仰の自由や平安を、強制や束縛や不安に変えるのもそれは人間の罪であり人間が罪のゆえに神の言葉を捻じ曲げて作り上げる偽りの教えです。イエス様がその約束の故に私たちに与えてくださっている救いの確信を「本当に救われているのだろうか?と疑わせ不安にさせるのも、人間がそのキリストの福音を捻じ曲げて、福音と律法を混同させて教える間違った福音や間違った律法の教えです。全て「神の言葉、神の恵み、神の福音を疑う」という人間の罪から出るものであり、人から出るものは、どんなに敬虔そうで合理的であっても、数の上では成功で繁栄しているように見えても、聖書に正しく基づき従うものではないなら、それはまさしく人間を汚し、人間を滅びに導くものです。そのように決して人間のわざ、人間の言葉、人間の作り上げる伝統や新しい律法が、人を神の前にあって聖なるものとし義とし、人を救うのではないのです。
神の目にあって、人を、どんな人でも、真に清め、義と認め、聖徒としてくださり、私たちを救い、平安と救いの確信を与えることができるものは、私たちが手を洗うことでも伝統を守ることでもありません。人から出る何らかの良い行いや功績でもありません。それは、神が与えてくださる言葉、何より、イエス様が私たちの罪のために死んでくださった、そのイエス様の十字架の義のゆえに罪赦され、復活のゆえに日々新しい命を生かされるという福音の言葉であり、そしてその福音のゆえにイエス様が与える水である洗礼、それによる賜物として信仰と聖霊なのです。それだけです。今日もイエス様はその唯一の救いであるイエス・キリストの十字架と復活を私たちに指し示して、今日も宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も、イエス様の福音によっていのちを新たにされて、ここから救いの喜びと平安のうちに世に遣わされて行きましょう。
ヨハネよる福音書6章56−71節(2024年8月25日スオミ教会礼拝説教)
「信仰は律法ではなく、天から私たちへのプレゼント、福音である」
1、「初めに」
このヨハネの福音書6章を通して、イエス様が「自分こそ命のパンである」と神の国の福音を伝える箇所を続けて見ています。イエス様はご自分について来る人々に「あなた方がわたしを探すのはただパンを食べて満腹したからだ」と彼のその動機を見抜いて伝えました。しかしそのように言うのは彼らを責めるためではありませんでした。イエス様は、そのような無くなるパンを追い求めても、事実ただなくなるだけであるけれども、イエス様ご自身こそ、それに遥かに勝る、いつまでもなくならない、天からのいのちのパンを与えることができるという福音を彼らに伝えるためであったたのでした。それを聞いて人々は、では「何をしたら」それを得ることができるのかと尋ねるのですが、イエス様はそれは神ご自身が引き寄せ与える人々に、救い主が与える賜物、恵みであり、それは「いつまでもなくならない」「天から」とあるように、地上の物質的な出来事を遥かに超えた霊的な出来事であることを徐々に明らかにしていきます。しかし、あくまでも目に見えるしるしだけに求める人々はそのことを理解できません。それでもイエス様は彼らに神の国の福音を伝え続け、ついには、イエス様はご自身こそ、そのいつまでもなくならない、天から降ってきたいのちのパンそのものであり、わたしの肉を食べ、血を飲むものが永遠の命を得るのだと伝えたのでした。それが先週までのところでした。今日は先週の最後の節から始まります。56節以下こう始まっています。
2、「「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む物」とは?」
「56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは」と言います。これは驚くべき言葉を言っており、この後の記録を見ても分かる通りに、このイエス様の言葉に多くの人は躓くのです。私たちもこれは何を言っているだと疑問を持つでしょう。これには二つの「食する」ことの意味があります。それは「わたしの肉」を食べ、「わたしの血」を飲むとイエス様がご自身が言っているのですから、一つは、事実、イエス様の肉と血のことを指し、実際に口で食するという意味です。ただもう一つの意味もあります。それは「霊的に」食することをも指しています。54節で
「54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、〜」
とイエス様が「永遠のいのち」を指して言っている通り、この「食べる」は聖霊と信仰において起こることであり、それは福音の説教とそのみ言葉を聞き、思い巡らし、そして、聖餐を食するときに起こることを意味しています。ヨハネ1章のはじめを思い出すと分かる通りに、イエス様は「ことば」である方が受肉されて人となられたお方です。まさにイエス様は、神の言葉そのものでもあり、神の言葉の語られるところ、説教されるところには、イエス・キリストがおられるのであり、私たちはまさに説教を聞いている時に、聖霊と信仰において、その受肉したキリストの言葉を受けており、キリストそのものを受けているのです。それて何より、聖餐では実際に口で食する行為があり、その御言葉が「わたしのからだ」と宣言する、パンでありながら同時にイエスのからだに預かるのですから、聖餐に与る時、私たちは決して象徴としての体と血を受け取っているのでもなければ、私たちの何らかの行いが聖餐を成り立たせるとか、私たちの行いの捧げものをするとか、信仰の決意表明をする時、とも異なります。私たちは、イエス様の福音書の設定の言葉から、「これはあなたのために与えられるわたしのからだです」と宣言される時には、イエス様が「である」と言っているのですから、イエス様のその真実なみ言葉のゆえにそれはパンを食していながら同時に紛れもなくイエス様のからだを食しているのです。そして同じようにイエス様の言葉から「これはあなた方の罪の赦しのために流されるわたしの血です」とイエス様が「である」と言われているのですから、その通り、それは葡萄酒飲んでいながら同時に、イエス様の「血」を確かに飲んでいるのです。そのようにここで「イエスの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を得る」と教えられる時に、私たちはイエス様がその肉を引き裂かれ血を流されたその十字架の死と復活、そしてそのイエス様の体と血に口で食し与るがゆえに、罪の赦しと永遠の命を与えられていると告白できるのです。
3、「なぜイエスは、分かり難い言い方をしたのか?信仰によって明らかになる福音」
しかし、ここでイエス様はなぜはっきりとそう言わず、「わたしのからだを食べ、わたしの血を飲む」と明らかに誤解を与え、何か、実際に人の肉を食べるような言い方をするのだろうか、もっと分かりやすくいうことはできないのだろうか、と思うかもしれません。しかし、これは意地悪でも、知識のひけらかしでもなければ、神の知恵で謎解きをふっかけているのでもないのです。イエス様にあっては、今見てきたように、やがて最後の晩餐で事実になり、聖霊による教会の時代が始まるときに、日々繰り返される恵みの事実を明らかに伝えています。つまり、イエス様が語っていることは、今その時に理解されることではなく、やがて聖霊と信仰によって明らかになる神の福音でした。そして、ここではもう一つの事実をイエス様は、ずっと伝えてきたでしょう。彼らは、「どうすれば、何を行えば」と尋ね続けています。つまり、「自分が何かをする」ことによって、あるいは自分の行為によって得る「いつまでもなくならないパン」を求め続ける、あるいは得ようとする、そんな彼らに対して、37節以下でイエス様はこのようにも言っていたでしょう。
「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
つまり、それは人の行いや努力で得ることができるものではなく、神が与えた人々に、御子が与えてくださる賜物、恵みであるとイエス様は伝えていたでしょう。そして、44節以下でも、こうありました。
「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。
その素晴らしい真理を知り、それを受けることができるのは、父が引き寄せたものにイエス様が働かれ与える恵みであることをイエス様は伝えていました。そのように「イエス様のからだを食し、血を飲むということ」は、イエス様がその言葉と聖霊によって与える信仰において明らかにされる福音で、イエス様にあってはその時だけではない、いつまでも残る事実を伝えているのです。しかしこの時はまだ十字架の時ではなく、その前であり、教会と使徒たちによる福音の宣言が始まる前ですから、彼らにたとえ分かりやすく伝えたとしても、仮にそれは自分がかかる十字架と復活のことであると言ったとしても、彼らは理解できず、信じることもできず、やはり躓くのです。なぜなら、それは後に福音の言葉によって目が開かれ知り信じることができることななのですから。事実、私たちも、最初は、十字架と復活の言葉を自分たちで、自分の力で理解できた人はいたでしょうか?そこに至るには当然、自分の罪に刺し通され、悔い改めに導かれるからこそ、十字架の素晴らしさがわかったのですが、その罪さえも私たちは、自分が罪人であるということさえ自分では認められなかったし、悔い改めなんて馬鹿らしい、聞きたくないと最初は誰もが思ったことでしょう。誰でもそうなのです。そう人は、自分の力で、信じようとしても決して信じられません。パウロが言うように、十字架の言葉は、しるしに求めるものには躓きとなり、知恵に求めるものには愚かに聞こえるのです。しかし、今まさに私たちに、このイエス様の言葉の意味、イエス様を食し、その血を飲むことの素晴らしさを知り、信仰があるのは、まさに「与えられている」からでしょう。父子聖霊なる神が、その律法と福音の言葉によって、引き寄せ、導き、与えてくださったからではありませんか。それが福音の真理、福音の力です。ですから、私たちは、ここでその恵みを感謝するとともに、今、目の前の数字や現実を見れば、宣教が不可能で困難だと思えるような現代の状況あったとしても、それを見て嘆くのでも、何か強迫観念にかられ律法的になり互いに裁き合うのでもなく、希望を失うのでもなく、どこまでもイエス・キリストとその言葉、福音を見上げ、イエス様の言葉には不可能なことは何もない、イエス様がその言葉で私たちに信仰という私たちの思いを遥かに超えたことを行なってくださったように、同じように、世のまだイエス様のこの素晴らしさを知らない人々にも同じように行うことができる、行なってくださいと、私たちはそのことを信じ祈り求めて行きたいと教えられるのです。
4、「ゆえに、弟子達も躓く」
さて、それゆえに、当然のことが起こるのです。60節以下です。
「60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
「弟子たち」というのは、12使徒たちと区別しなければなりません。12使徒たち以外にも、多くの弟子たちが着いてきたのでした。しかしその弟子たちの多くのものは、この「イエスのからだを食べ、イエスの血を飲む」という言葉と教えに「聞いていられない」と躓くのです。弟子としてこれまでイエス様の言葉を聞いてきた人々でさえもこの真理を理解できません。人の肉を食事するものとしか理解できませんでした。イエス様はそこで
「62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
と続けます。まさにイエス様の教えていることも与えようとしていることも天からの出来事でした。そしてイエス様の十字架と復活の出来事、そこから始まる教会の宣教も、イエス様が天に上られるところをともに見ることから始まります。イエス様はそのことを指して言っているのかどうかははっきりは書かれていませんが、人の肉を食することで躓く弟子たちにイエス様はさらに解き明かすのです。63節以下
「63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
イエス様は、単なる目にみえる肉の出来事を伝えているのではなく、まさにこれは「天からのパン」「天から来られた救い主」と語り、そして、信仰こそ神が求めておられ、それこそ神が与えるものですから、この言葉によってイエス様は、命のパンは、み言葉とそこに働く聖霊、そして信仰による賜物であることを伝え、それが真のいつまでも消えることのない永遠のいのちをもたらすものであることを伝えるのです。しかし、イエス様はそれでもわかっていました。64節
「64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
どんなに伝えても信じない人がいることをイエス様は知っていました。それが誰であるのか、そして、71節にある通り、この後起こる、使徒たちの中の一人が裏切ることさえも知っていました。しかし、ここにも、やはり繰り返し、私たちの信仰の真理、この福音の真理がはっきりと繰り返されています。65節
「65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
5、「信仰は私たちのわざの結果、律法ではないー信仰は福音」
「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」ーイエス様の下に来ること、まさにそれは永遠のいのちの歩みであり、信仰の歩みのことです。しかし、それは「父が引き寄せるのでなければ」、ここでは「父からお許しがなければ」とあるでしょう。そこには、救いも信仰も永遠の命も、まさに命のパンに与ることは、人間の知性や理性や行いの度合いや努力による産物では決してあり得ない、それはどこまでも神の働きであり、神が引き寄せイエス様に与えてくださった羊を牧者であるイエス様が決して見捨てず、みことばを語り続け、働き、導いて下り、羊はその声に聞いてただ着いてゆくがゆえの恵みであることをイエス様も教えているのです。このように、信仰は人の行いではなく、賜物であるとエフェソ書でパウロが言うのも、あれはパウロの作り話や誇張した表現ではなく、まさにイエス様の教えに根拠がある、聖書的な真理であることがわかるでしょう。信仰は決して、私たちの行いや意志の力や理性的な理解によるものではない。私たちの信じる信仰は、神が引き寄せてくださったから、神がイエス様にあって語ってくださったから、律法と福音の言葉を通して聖霊が私たちに働いてくださったから、今私たちにあるのです。どこまでも賜物、贈り物、プレゼントなのです。感謝なことではありませんか。
6、「去っていく弟子達。使徒達の信仰告白は天から」
ところが66節
「66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
やはり多くの弟子たちは、イエスの福音に躓き、離れて行きました。 12人の使徒たちに尋ねます。67節
「67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
この後、イスカリオテのユダの裏切りの預言で結ばれますが、このシモンペテロの告白は、マタイ16章の有名な告白を連想させます。マタイ16章15-17節
「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
ペテロの「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う信仰の告白。その告白についてイエス様は、人間によるものではなく、それを明らかにしたのは「わたしの天の父だ」と教えています。それなのに、このヨハネ6章のペテロの告白「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 と言う告白はそれとは違う、人間による、ペテロ自身から出たものだ、とは誰も言えないでしょう。もしそうであれば聖書にもイエス様の教えにも一貫性がなく矛盾があります。しかし聖書にもイエス様にも矛盾は全くありません。聖書は初めから終わりまで一貫して真理を伝えています。信仰の告白は、決して人間によるものではなく、どこまでもイエス様の父なる神からのものであると言うことです。その神から与えられた信仰の上に、イエス様は「わたしの教会を建てる」ともペテロに伝えたでしょう。
7、「朽ちない種から生まれた私たち」
そのペテロがこう教会に教えています。
「23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24こう言われているからです「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」ペテロ第一1章23−25節
私たちのクリスチャンとしての土台、それはイエス・キリストであり、そのイエス・キリストという土台こそ、朽ちて消えゆく野の花のようではなく、食べては消化されなくなる地上のパンでもマナでもなく、永遠にいつまでも残る、土台であり、拠り所です。決して消えることも裏切ることも見捨てることもなく、いつまでも残る平安と救いの拠り所です。それは御子イエス様が十字架と復活で成就してくださった罪の赦しと永遠のいのちのパンを、絶えず、毎週、悔い改める私たちに与えてくださり、私たちが、イエス様を御霊と信仰により、事実、そのイエス様のからだと血を、受肉されたイエス様のいのちの言葉を、食することができるからこそです。その信仰を与えてくださったのも、神様であり、イエス様であり、聖霊様に他なりません。信仰は賜物、贈り物、プレゼントです。今日もイエス様は私たちにそのみ言葉で変わることなく宣言し与えてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひそのいつまでも残るみ言葉による罪の赦しと安心をここで今日も受け取り、安心してここから世に喜びと愛を持って仕えるために遣わされて行きましょう。
スオミ教会説教 2024.8月18日
聖書 ヨハネ福音書6章51~58節
説教題 「わたしは生きたパンである」
2000年以上の昔、イエス様の時代、ユダヤの人々の食べもの,飲みものと言えばパンとぶどう酒でありました。今日も同じでしょう。パンとぶどう酒こそ人々の命にとってかけがえのない食物であったでしょう。
今日の聖書の冒頭にイエス様はご自分のことを「わたしは天から降って来た生きたパンである」と言われました。神の子であるイエス様がこの世に人の姿を持って生まれてこられた。ご自身のこの世での働き,使命とその存在のすべてをいろいろな深い真理の言葉であらわされたのであります。その1つに6章1節では「私は生きたパンであって、このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」と言われていますが、その前の28節以下かからずうっと弟子たちに重要な言葉として語ってこられています。6章のはじめでの「5000人の人々に2匹の魚と5つのパンで満腹にさせる」と言う驚くべき奇跡の業をなさった。この出来事から始まって、奇跡だけでなく「私は生ける命のパンである」と言う真理の言葉を弟子にしかと語っておられるわけです。「このパンは世の命のために与える。」と言われました。ですから、ただ神のみ子イエスが人となって受肉し、いま生きていると言う、イエスの存在そのもの、と言うよりももう少し正確に、このパンを限定して説明するならば、イエスがやがて将来において与えられるであろう、ある時に与えられるパンであります。それは何時の事であるかと言いますなら、例えば53節以下に出て来ます「肉を食べ」「血を飲む」と言うように「肉」と「血」がわざわざ別々に並んで語られていることからわかりますように明らかにそれはイエスが十字架に死んで血を流す事を意味します。「血を飲み」又特に「肉を食べる」と言うような残忍的な表現であって旧約聖書では決してあり得ない事であります。非常に残酷なむごたらしい死を表すのに使う諺であります。(民数記23:24 申命32:42 エレミヤ46:10 エゼキエル39:17~19等参照)
ですから、イエスが「私の肉を食べ」「私の血を」飲まなければならない、とおっしゃっていますのは、それはイエスの非常に惨ったらしい死、すなわち十字架の死の事を意味しています。私たちが、それによって[永遠的に生きる、ところのパン]とは限定して言うならば[イエス・キリストが十字架にかかり給い、贖いの死を意味しているわけであります。]このイエスの十字架の贖いを私たちが「食べ」或いは「飲む」とはどういう事であるか、と言う時これは文字通り理解すべきではなくて1つの文学的表現であります。57節中ほどまで進みますと、「私を食べる者も私によっていきるであろう」と言う、私があなた方の内におると56節で言っておられます。一番分かり易い大切なことを54節で見ます。54節「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」なんと言う素晴らしい約束でしょうか、キリスト者のすべての希望がここにあります。そこで、どうしてもひっかかるのは私の肉を食べ、とか私の血を飲む者は、と言う、これを聞いたユダヤ人たちが、騒ぎ立てたのも自然です。これを文字通り理解しようとするから物理的にイエスの肉や血をどうして胃袋に入れる事ができようか、なんと馬鹿にした話だろう。とすぐ考えてしまうのです。どう考えてもこれは比喩的な表現であってこれは要するに私がキリストに連なること。私とキリストが一体になることであります。<言い換えますと>イエスを信じる、ということでであります。さて、主キリストを飲み食いする、という事を[信仰によって結びつくことである]という事をはっきさせた上でその上に、ここに教会が余代々に渡って行ってきました聖餐の礼典が暗示されております。中世の教父であり英国の初代カンタベリー大主教となったアウグスティヌスのヨハネ福音書講義によりますと聖餐式を前提として、個々のイエスの教えを記している、と考えています。例えば51節最後の「私が与えるパンは世の命のために与える、私の肉である」とあります、この宣言は有名な聖餐式における設定辞で宣言されるみ言葉「これは、あなた方のために与える私のからだである」この言葉とそっくりのことばです。私たちは聖餐式においてパンをキリストの体として食べ、ぶどう酒をキリストの血として飲むわけです。が、これらは全て信仰によってキリストと一体となる、神からのめぐみであります。この福音書を書いているヨハネは最後の晩餐の物語を13章18節で記していますが、それが教会で繰り返し行われている聖餐式と同じ言葉ですが聖餐式の言葉を書いてはいません。それは他の福音書が十分書いていますから、ヨハネは聖餐式に関する説教を5つのパンと2匹の魚で5000人の人を満腹させた奇跡の後に組み込んで移している、と言ってよいのではないかと思います。それで6章54節以下、教会で行われるようになる聖餐式の内容をここに別の表現で書いているわけです。54節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は。永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの、まことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又何時もその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、又私が父によって生きるように、私を私を食べる者も私によって生きる。」私たちは教会において聖餐式に預かる毎にキリストが私たちの内に生きていてくださる、キリストの命に預かる事が出来るわけであります。では、信仰と聖餐の礼典によって私たちの、もの、と約束される「永遠の命とは」どういう命なのでしょうか。イギリスの有名な神学者ウイリアム・バークレーという先生のここの部分の聖書註解には非常に思い切った事を言っておられます。聖餐の礼典の時の主イエス・キリストのご臨在と祝福というものは必ずしも月1度や或いは年に何回かの主の日の教会で行う聖餐式の時だけに限らない、私たちがパンを食べて養われる三度,三度の食事の度毎に同じキリストの祝福と、キリストのご臨在があることをヨハネはここで教えているのである。つまり毎日の三度,三度の食事の、私たちの日常茶飯事の中でキリストが共におられる。キリストは礼典の時と同じように我々に臨在し給う、又祝福を私たちに与え給うという,そういう命であります。この「永遠の命」はその意味から言うと私たちの肉体的な命が三度,三度食べないと駄目なように、本当に何時も、何時もイエス・キリストと結びついていなければ駄目な命なのだ、と言えるでしょう。永遠の命とは、どういうものですか。それは命の根源であるキリストと、何時も結びついて初めて生きることが出来る命であります。もう一つの「永遠の命」の特色は裏を返して言えば何時も何時も私たちはこの命の源であるキリストから世に遣わされているのだ,と言う派遣の意識、召命感、使命感を持って生きる生命ことだ、と言うのであります。ですから57節にはっきり言われています。「生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。」ちょうどイエス・キリストが父なる神から遣わされ、父なる神のためにご生涯を生き給うたように私たちも、また今度はキリストによってキリストのために生きるのであります。ですから御子イエス・キリストが御父から遣わされている、という使命感と召命感を持って生きる生活が「永遠の命」である、ということであります。
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56節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又その人のうちにいる」。ここで言われれている「私の内におるなら」、と言うのは「留まる」と言うことであります。同じ言葉を使ってキリストは15章のところで「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。もし、人が私に繋がっており、留まっているなら、また私がその人と繋がっておればその人は実を豊かに結ぶようになる」とおっしゃいました。永遠の命とは、そのようにキリストから派遣されて充実した使命感に満ちて豊かな実を結ぶ、生活であります。ヨハネは第1の手紙の中で、この派遣された生活がどのような実を結ぶのか、いくつも私たちに教えています。2章6節に「神の内に何時もいる、と言う人はイエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」。言い換えれば3章24節には「神の掟を守る人は神の内に何時も留まり、神もその人の内に留まってくださいます。」又、3章6節には「み子の内に何時もいる人は皆、罪を犯しません。」とあります。このように永遠の命とは永遠の命の源であり給う方に結び付けられ、その方から派遣されて、彼のように歩み、彼のように清く神の戒めを守る生活であります。 アーメン
お詫び
体調不良で木村先生の説教の公開が遅れて大変申し訳ございませんでした。
お詫び申し上げます。
ヨハネ6章35節、41〜51節(2024年8月11日スオミ教会礼拝)
「父なる神が引き寄せてくださらなければ」
先週は、パンの奇跡を目撃し、パンを食べて満腹し、さらなるしるしを求めて自分のところにやってくる人々に、イエス様は、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物を求めよ、それこそ救い主が与えることができるものなのだから」と、ご自身が与えようとしている神の国の恵みと救いを伝え始めます。しかし人々は、そのことを悟ることができません。「何を努力し達成すれば、そのようなものを獲得できるのか」あるいは「信じることができるように、イエス様はさらにどんなしるしを、証拠を見せてくれるのか」と、的外れな質問をするのです。さらには、そのイエスが言う、いつまでも残る食べ物は、モーセの時代に天から下ったマンナのような物質的な食べ物であると言う期待に過ぎませんでした。彼らの考え方は、人間的で肉的な考え方を超えるものではなかったのでした。いや、むしろそのように神の知識は人間には、越えられないばかりか、人間は自らの力や知性、理性や論理では、イエス様の語る神の国の知識に至ることなど決してできないのです。そのように人の力ではなく、神のみ言葉こそ救いに導く力でありいのちの糧に他ならないのです。
2、「イエスの言葉を理解できない」
前回は35節のこの言葉で終わりました。
35「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
イエス様は「なくなる食物」を例に「なくならない食物」を取り上げ、少しずつ紐解いてきましたが、この35節「わたしが命のパンである」と、ご自身こそが永遠に続き残る真のいのちの源であることをはっきりと伝えるのです。しかし、36節で、
「36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
と続けているように、イエス様は彼らにご自身をはっきりと示し教えても、彼らが信じないこともよく知っているのです。事実、イエス様が「わたしが命のパンである」と教えたことに対して、彼らは信じるどころか疑い始めます。41ー43節
「41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
彼らは「パンを食べて満腹したから」イエス様を探しついてきます。つまり、あの人里離れた山の上で、何も食べるものがないようなところで、5つのパンと二匹の魚から5千人以上の人々を満腹にさせた奇跡、紛れもない神のわざを経験した者たちでした。その奇跡に「満腹」であるにせよ、感動したから彼らはついてきたでしょう。そのしるしは紛れもないイエス様が神の御子であることの証しでもありました。しかも、彼らは、30節で
「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
と、彼ら自身が「信じることができるようにしるしを見せてほしい、証拠を示してほしい、」と求めているのです。まさにその求め以前に示された証拠、しるしが、5千人の給食であったでしょう。しかし、それに基づいて、イエス様が「わたしが命のパンです」と、ご自身こそそのしるしが指し示す、約束の救い主であることを示したとしても、彼らは信じられず、むしろ、そのイエス様が自分のことを「わたしが天から下ってきたパンである」とはっきりと示したことに彼らは呟き躓くのです。マルコの福音書で見てきた、ガリラヤのイエスの出身の村の人々が躓いたのと同じ理由です。人は、自分中心の常識や正義の論理、あるいは価値観で真偽を判断するものです。彼らから見れば、イエスは、エルサレムの律法の教師やパリサイ派出身でもなければ、祭司の家の生まれでもありませんでした。大工であるヨセフの家の長男です。彼らにとっては父も母も知っていて、家族も知っていて、そんなごく普通の貧しい家族と「天から降ってきた」と言う言葉がつながらないのです。神でなければできないような、あれだけの奇跡としるしを見て満腹してもです。そのように、人間の知識や理性、どんな論理的な説明も、あるいは人間の万人が認めるような常識や価値観も、それがどんなに高等なもので、人の前で理路整然としたものであっても、人間の力や理性では、決して神の国の言葉と証しを理解できない、むしろ躓きになる事実が、ここにも示されています。
3、「罪人の現実:十字架の言葉が、躓きであり愚かとなる」
パウロが教えている通りです。コリント第一1章22節以下、こうあります。
「22、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
ですから、よくキリスト教信仰に対して「信じるから、科学的証拠を見せてみろ」と言う人はいるわけです。そもそもキリスト教は人間の合理性に当てはまる宗教でも、論理的な証拠を示す宗教でもありません。むしろここにある通り、神の力であるみ言葉を通して、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人には愚かに聞こえる福音を伝える宗教なのです。ですから彼らが求め期待するような証拠など示すことはないのですが、しかし仮に、十分確かな証拠を示したとしても、そのように言う人々はどこまでも「信じない」ことでしょう。なぜなら、神の国の福音は、人間の力、努力、理性、あるいは論理性に裏付けられた理解によってわかる、信じることができるものではないからです。そして同時に、人間は、どこまでもあの堕落のアダムとエバの腐敗した性質を受け継ぐ罪人であり、その自らの力では、どこまでも、神とその言葉を信じられない、受け入れられない、否定しようとし、反逆しようとするものだからです。ですからイエスの言葉に躓く人々、まさにパンを食べて満腹したから探し求め、そして、このようにはっきり「わたしだ」と示されても信じられずに躓く人々の姿は、特殊な人間を示しているのでも、私たちとは無関係な、不信仰で反抗する人々を示しているのではないのです。この姿こそ、罪人である人間、人間の罪深い性質、私たち自身の姿、私たち自身の性質を代表し示しているとも言えるのです。
4、「真の教会と宣教①:イエスは躓く人のために福音を捻じ曲げ妥協したか?」
ですから、何か人間が躓くような聖書の記録は神話だとか作り話だとか間違いだとか、聖書を捻じ曲げ、人間が躓かないような理性的な説明や新しい解釈で、新しいキリスト教、文化的な新しく解釈された神や福音を伝えようとすることが、現代的な教会だとか宣教だという主張をよく聞きます。そのような考えは、個人主義的で消費社会の申し子である現代人の必要に合致していて最もそうで理解しやすいかもしれません。しかし、それはイエス・キリストの福音を宣教しているのではなく、イエス・キリストを私たちの罪深い好みの服装で装飾し着飾らせた別のキリスト、偽りの福音を伝えているに過ぎないとも言えるでしょう。しかしイエス様は、ここで彼らが躓くからと、そこで真理を捻じ曲げたり、神の約束や計画を否定したり、再解釈したりしません。躓き呟く彼らに神の真理をそれでも、どこまでもまっすぐ語り続けます。43節
「43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
人々は、どこまでも自分中心でしか物事も信仰も、神の国や救いも考えられません。満腹したから来ました。さらに自分を満足させる印を求めます。そのためには自分が何をしたら良いのかと求めます。あたかも自分がそれを達成し果たすことができるかのように。そして信じられないことをイエス様に言われると、信じることができるようにさらなるしるしや証拠を求めます。「自分が信じることができるように」と。そして、イエス様が「それがわたしだ」とはっきりと自分を示されると、今度は、自分たちの常識や価値観で「そんなことありえない」と疑い否定し始める。どこまでも自分中心に神を解釈し、神を見ようとする。その自分中心の価値観や枠組みに合わないと、神はいない。そんな神はありえない。本当の神ではないと言い始める。それが人間であり、私たちなのです。しかしそんな彼らを全てご存知で、全てを見通して、そしてそんな躓きに妥協せずに、イエス様はまず「呟くのはやめなさい」と言います。なぜでしょうか?イエス様は、神の国の真理、信仰の真理をはっきりとこういうでしょう。
5、「父が引き寄せてくださらなければ:人が得るのではなく神が天から与える真の命」
「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。
と。「呟くのはやめなさい」ーなぜか?なぜなら、どんなにつぶやいても、理屈を並べ立てても、「 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない
からです。ここにも信仰と救いの本質をイエス様ははっきりと教えています。「父なる神が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの元へ来ることはできない」と。神の国も、そこに至る信仰も、神が働くのでなければ私たちには不可能なのです。これは今日の箇所では飛ばされている37節でもイエス様は言っています。
「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。
と。ここでも「父がわたしに与えてくださるから」その人はわたしのところへ来るのだと。39節でも繰り返しています。「わたしに与えてくださった人を」と。このように神の国は、神がイエスに引き寄せ、神がイエスに与えてくださるからこそ、その人はイエスを通って、神の国へ導かれる。これが何よりの真理であり、ゆえに、なくなることのない命の食物も、それは、人が努力して勝ち取るものでは決してない、神がイエスに与えてくださるから、引き寄せてくださるからこそなのです。そのような人を36節以下ではこう続いています。
「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
と。神がイエスに引き寄せる人々、与えてくださる人々を、イエス様は決して追い出さない見捨てないとあることはものすごく感謝なことです。神が引き寄せ与えた人々を、イエス様は責任を持って、その人に神の御心を行ってくださる。その御心とは、その与えられた、引き寄せられた人々が一人も失われることがないようにすること、信じるようになること、永遠の命を持つこと、死んでもやがて復活するその時まで、全責任を持って導くことだと、イエス様は言ってくださっているのがわかるでしょう。
6、「真の教会と宣教②:御言葉による確証と約束:「こう書いてある」
しかもイエス様はそれを単なる思いつきでは言いません。あえてしるしや証拠を示すとするなら、イエス様はここでみ言葉を引用するのです。45節です。
「45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエス様はもちろん目に見えるしるしや癒しも沢山行いました。それもイエスが神の御子救い主であることを示す証しであり、しるしはしるしそのものではなく、何よりイエス・キリストは真の救い主であることを指し示していました。しかしそれ以上に、イエス様が絶えず示す証しは、どこまでもみ言葉です。「預言者の書」というのは当時の聖書であり、私たちが旧約聖書と呼ぶものです。そこに「こう書いてある」というのがイエス様の証しであり証明でした。このスタンスは何よりあの荒野でのサタンの誘惑の場面からも一貫していることです。あの巧妙で狡猾で知恵深いサタンの、み言葉を悪用してまでの三つの誘惑に対して、イエス様は、当時の社会の価値観や哲学や科学の最先端の論理的説明や、あるいは人間が好むような文化的な解釈でサタンに反論しませんでした。イエス様はサタンの聖書の悪用による誘惑に対しても、どこでも聖書のみ言葉を引用し「聖書にこう書いてある」と言って、誘惑を退けたでしょう。みなさん。ここに教会の立つべき最高の模範と宣教があるのです。昨今、いやすでに初代教会の時代から変わらない教会内の問題ではあったわけですが、今も、世の中の問題に、まさに教会までもが、神の言葉の力を信じないかのように、人間中心で、社会の価値観や、理性や科学の常識、あるいは文化的な解釈と呼ばれるもので、聖書を再解釈して教えるようなことが、自由主義教会だけでなく、福音派の中でもいつの時代も当たり前とされてきています。しかし、それはサタンの誘惑に見事に乗ってしまっていますし、聞き手がつまずくからと、聖書の真理を妥協し、神の御心を損なっているのです。しかしイエス様はそうしないでしょう。イエス様は聖書を、聖書から解釈し、教え、説教するのです。神の言葉は、人間の知恵で解釈するのではなく、神の言葉によって解釈し、だからこそみ言葉と聖霊の力と助けによって人は神の御心を正しく知ることができるのです。そして、イエス様がそのようにして伝えることは100%誤りのない完全な言葉であり解釈でもあります。なぜなら46節、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」とあるからです。そう、イエス様は、イエス様こそが、イエス様だけが、神の下から来られたお方です。だからこそイエス様だけが父を見たお方です。他は誰もいません。どんなに知恵のある律法学者でもパリサイ派でも、偉大な預言者でも、父を見たものはいないのです。モーセでさえもその顔を見ることができませんでした。そう、イエスは真に父なる神から、人となられた神の御子、父なる神を知る方、父なるを神を証しできるただ一人のお方です。その方の証しこそ、神からの言葉こそ、神から与えられた権威と力こそ、真実であり、真の永遠に残る、朽ちることのないいのちを与えることができるのだと、それが、死んでも生きる、マナを食べた人が皆死んでいったようなことは起こらない、永遠にいつまでも残るいのちのためのパンの意味であることをイエス様は伝え続けるのです。
7、「結び:救われる私たちにとってそれは愚かではない」
今日はここまでですが、この後、さらにイエスの説教が続いていきます。ここに至っても、人々は、世の知恵や理性に合致しないからと議論し続けます。正しく、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人にはどこまでも愚かにしか聞こえないのです。私たちにとってもかつてはそうであったでしょう。十字架の言葉は愚かでした。イエス様が真の命のパン?そんなことよりも世に満ち溢れ自分の欲求を満足し理性を満たす知恵を見せろ、というのが、私たち皆にある罪深い性質であり、私たちの堕落したままの姿です。しかし、いつも立ち返るところは同じなのですが、イエス様は今日もこのことを指し示しているでしょう。皆さん、この御子イエスキリストの十字架の言葉は、今ここにいる私たちにとっては、愚かに聞こえますか?躓きですか?違うでしょう。私たちにとっても(コリント第一1章24節)「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と私たちは今日も告白するでしょう。(1章18節)「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と、私たちは今日も確信を持って告白し、ゆえに今日も救いを確信し安心するでしょう。そして、その信仰と確信は、今日学んだ通りです。私たちの力や知恵、呟きや屁理屈の結果では決してなく「父なる神がイエス様に引き寄せてくださったから、イエス様に私たちを与えてくださったから」こそ、イエス様がその大事な宝である私たちを責任を持って、み言葉と聖霊の働きによって、信仰を与えてくださった。永遠のいのちを与えてくださった、そして復活の日まで責任を持って導いてくださると、その恵みを喜び安心し、今日も出ていくことができるでしょう。今日もイエス様は変わることなく悔い改める私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も安心してこここから世に、御心を行うために遣わされていきましょう。