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映画「ワンダフルライフ」を観て(全聖徒主日※に寄せて)
今年の夏フィンランド滞在中、現地のテレビで日本の映画を観る機会があった。3つほど放映され、そのうちの一つが是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」。 1999年制作で英語版タイトルはAfter Life、つまり「死後の世界」。私は観たことはなかったのと、あと現地の新聞の映画評で5つ星だったので観てみた。
ストーリーは、人は死んだ後に寄宿舎みたいなところに来て、そこで人生で一番大切な思い出を一つだけ選ぶことを求められる。そこの相談員と話し合いながら決める。期限は1週間なので、話し合いはかなりインテンシブ。決まったら、そこのスタッフがそれを映画にして再現して1週間後に上映会を開く。それを観て記憶が鮮明に蘇った瞬間、その思い出を抱いて最終地に旅立ち、そこで永遠にその思い出の状態で存続する。上映会の最中に一人また一人と消えて行く。それが終われば、次のグループとの新しい1週間が待っている。思い出を選べなかった人はそこの相談員やスタッフとして働くことになる。相談員といろんな人との話し合いが映画の大筋。いろんなタイプの人が登場する。割と早く決められる人、なかなか決められない人、結局決められない人等々、ユーモラスな場面も。
私の関心を引いたのは、イセヤという青年。相談員を前にして机の上に足をのせたりする態度。ワルだったことを窺わせる。「あれっ、子供の頃よく言われた、悪いことしたら地獄に落ちるというのはないの?」「ありません」と相談員。「本当に全員がいい思い出をもって行けるの?」「本当です。」 思わずニヤッと、「やった!」 しかし、ここから彼の苦悩が始まる。人生で一番大切な思い出を決められないのだ。ある時、相談員にぶちまけてしまう。「自分の大切な思い出だけでいいなんて、責任とかはどうなっちゃうの?」真実を求めたことが良心の呵責を引き起こしてしまったのだろう。結局、彼は決められずそこのスタッフとして働くことに(セリフは記憶だよりなので正確でないかもしれません)。
映画を観て、あれっ、と思ったのは、フィンランドのキリスト教の伝統では、大切な思い出というのはあちら側でなく、こちら側に関係するもの。弔辞の決まり文句の一つ、「在りし日の故人の思い出に敬意を表します」がそれを示している。キリスト教の復活信仰によれば、亡くなった方は復活の日まで安らかに眠るので思い出など考えない。眠りに入る前、創造主の神は果たしてこの私を両腕で抱きかかえるように受け止めて下さるかどうかが気になるところ。しかし、イエス様を救い主と信じていれば大丈夫と約束された神に全てを委ねる。人生にやましい事があった人も、そんなこと思い当たらないという人も皆そうするのだ。
※キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。ラテン語でFestum omnium sanctorumと言います。加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。これは、Commemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれます。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は昨日の11月2日でした。日本のルター派教会のカレンダーでは11月1日が「全聖徒の日」、それに近い日曜日が「全聖徒主日」と定められたいます。
10月の手芸クラブは30日に開催しました。少し肌寒い午前でしたが、午後から太陽が輝いて秋晴れの天候に変わりました。
今回は前回に続いてフィンガーレスの手袋を編みました。参加者の中には前回の続きをお家で編まれて完成品を持って来られた方もいらっしゃいました。きれいな模様の素敵に出来上がった手袋をみんなで見て、きれいな色合いですね、模様もよく引き立ちますね、と感心。前回は編み物が少し難しかった方もお家で頑張って編み続け、今回上手になったのでとても嬉しかったです。今回はフィンガーレスの続きを編む方の他に、以前の手芸クラブで編んだルームシューズの編んだ部分を持ってきた方はルームシューズの組み合わせをしました。
編み物はおしゃべりをしながらすると楽しく、時間もあっという間にたちます。いつの間にかコーヒータイムになりました。
テーブルのセッティングをして皆でフィンランド風ドーナツをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、フィンランドの編み物選手権大会の優勝者や聖書が教える勝利者についてでした。
次回の手芸クラブは11月27日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!
今回も前回に続いて編み物をしました。皆さんは前回の続きをお家で編まれたので今日どんなものになったか見るのは楽しみでした。手袋の模様も上手に編まれて嬉しかったです。
手芸クラブでは皆さんお一人お一人のペースで編みます。もちろん皆さんは、どんな手袋になるか、早く完成品を見たいと思います。私も早く見たいですが、そうすると、編み物は競争みたいになってプレッシャーを感じるようになり編み物の楽しさは失われてしまいます。
ところで、フィンランド人は競争が好きな国民でいろんな競争を行います。今年の8月には編み物のフィンランド選手権大会が開催されました。そこにはフィンランドだけでなく外国からも参加者があり、全部で100人位になりました。編み物は年配の人たちの趣味と思われがちですが、この大会には若い世代の参加者も多かったのです。
この大会は編み物の何を競ったのでしょうか?参加者は皆、ホールで並んで座ります。皆、同じ太さの毛糸と編み棒を渡されてバンドを編みます。一番早くきれいなバンドを編んだ人が優勝者です。競争が始まって20分くらいである参加者が出来上がったバンドを審査員に見せに行きました。審査員はとても驚きました。バンドは早く編まれただけでなく、とてもきれいだったのです。その選手が優勝しました。新聞記事によると優勝者にとってて編み物はライフスタイルで、小さな子どもの時から編み物を沢山編み、いつもどこかに行くと、必ず編み物をもって行くそうです。職場で休憩の時間にも編み物をしているそうです。
皆さんは何か競争に参加されて優勝したことがあるでしょうか?私たちは生活の中にも競争みたいにゴールや良い結果を得るために全力を尽くさなければならない時があります。良い結果を得られると、頑張って良かったと何か勝利の気分になります。
聖書にも勝利について述べているところがあります。「ヨハネの第一の手紙」には次のように書いてあります。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの第一の手紙5章4-5節)。この聖句は、イエス様が神の子であると信じる者は打ち勝つ者になると教えます。この打ち勝つ人は一人でなく大勢いますが、これはどんな勝利でしょうか?
一番最初に打ち勝った者は一人の方でした。それは、天と地と全ての造り主である神さまのひとり子イエス様でした。ではどのようにしてイエス様は打ち勝つ者になったのでしょうか?イエス様は神さまのひとり子ですが、乙女マリアを通してこの世に人として生まれました。しかし、神さまのひとり子なので私たち人間と違って神さまの御心に背くことは何もありませんでした。神さまにはこの世の全ての人たちが神さまの元に迎え入れられるようにする勝利の計画がありました。それは、イエス様を一番最初の勝利者にして、その勝利に人間があずかれるようにするという計画でした。
イエス様はどのようにして勝利を得たのでしょうか?イエス様は人間の背きの罰を私たちに代わって受けられるために十字架にかけられて死なれました。しかし、三日後に復活させられて天の神さまの元に上られました。このイエス様の十字架の死と死からの復活と神さまの右につかれるようになったこと、これがイエス様の勝利です。背きに満ちた世に打ち勝つ勝利です。
この勝利に私たちは、イエス様を神の子と信じることで与ることができます。先ほど読んだヨハネの第一の手紙が教えている通りです。信仰をもって世に打ち勝つ者になれると言っていました。本当にこの勝利は私たちが自分の力で得た勝利ではなくて、信仰を通して贈り物として与えられる勝利なのです。
編み物のフィンランド選手権大会に参加した人たちは皆、優勝するために一生懸命早く編まなければなりませんでした。しかも、きれいに編まなければなりませんでした。全員が頑張っても優勝者は一人だけでした。天の神さまが私たちに与えてくだる勝利は違います。天の神さまは全ての人に勝利を与えて下さるのです。私たちは編み物のフィンランド選手権大会の優勝者になれるくらいに編み物を上手になる必要はありませんが、イエス様のおかげで勝利者になれることを忘れないようにしましう。
聖書日課 イザヤ25章6-9節、黙示録21章1-6節、ヨハネ11章32-44節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。
本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。
復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。
特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。
まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。
本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書25章7節でも同じ「織物を織る」動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。
人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。
次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。
そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております」。(27節)
マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。
しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。
最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ4章15節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。
イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ4章16節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
宗教改革記念主日に寄せて
キリスト教の「信条」(信仰告白)の効用
6月16日付の週報コラム「キリスト教の信条(信仰告白)を学ぼう!」で私は、ルター派にとって重要なアウグスブルグ信条はスオミ教会の信徒に励ましと自信を与えると申しました。 「ア」信条やその元にあるキリスト教の伝統的な信条(使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条)には他にも効用があります。それは次の2つの危険から守ってくれるという効用です。一つは、様々な宗教団体、特にキリスト教会を名乗るがそうではない団体の引き込み、もう一つは、キリスト教会自身にも見られる脱・使徒的伝統の傾向という危険です。
先週そういう団体の一つから勧誘員の訪問を受けました。女性二人で訪れ、スオミ教会のホームページを見て興味を持った、自分たちもクリスチャンであると。最初、出身校が同じですね、だから先輩後輩の関係です、などと接近度を強めてから宗教的な話に。神をどう呼ぶかということについて「キリスト教の神の名前はヤハヴェです」と言うと、本当にそう呼んでいるんですか?それに対しては、「神の名は神聖なのでむやみに口にせず、代わりに「主」(アドナーイ)と呼ぶのが聖書の伝統です。それに従っています」。急に、一つ聞いてもいいですか?「どうぞ」、「イエスはヨハネからバプテスマを受けた時、聖霊が鳩の形で下って来て、天から『これは私の愛する子』という声が響いたとありますが、どうして神はイエスのことを『子』と言ったのでしょう?
これは、きっとイエスの神性を否定したいのだろうと思い、二ケア信条を思い出しつつ、「それは、マリアのお腹から生まれた形は人間の形ですが、その前に父なる神のもとにいらした時は人間の形も持たないイエスという名もない父と同質の方でした。私どもは神を三位一体として崇拝しております。」相手は少し薄ら笑いを浮かべ、恐らく、何もわかっていない可哀そうな人というシグナルなのだろうと解し、これで十分、お引き取りをお願いしました。
この出来事に先立つ先々週のこと、SLEYの聖書講座(Bible Toolbox)を読んだという方から長いメールを頂きました。ある聖句についてSLEYの解説がイエスの神性を主張していると解釈可能と言っているのは納得できないと。私はその聖句のギリシャ語原文を見て、神性を主張しても別に問題ないと思ったのですが、批判者はギリシャ語にも通じているようで日本の著名な聖書学者の見解を引き合いに出して批判を展開。最後に頂いたメールでは自分は「正統主義」とは距離を置く立場であると明らかにされました。「正統主義」とはキリスト教の伝統的な信条に忠実たろうとする立場です。
この批判についてBible Toolboxで翻訳と編集を担当しているヘルシンキ在住の神学者・高木賢氏と話し合いました。確かにギリシャ語やヘブライ語のような原語で聖書を読むのは大事だが、語彙や文法の分析だけで理解しようとすると収拾がつかなくなる。また、歴史的背景の解明も参考にはなるが、歴史は後世の研究者が自分たちの観点で再構築するものだから信仰の土台としては危うい。そうすると結局は、キリスト教の歴史の中で築き上げられた信条を羅針盤にして進むのが一番確かで安全な道ではないかと。その意味でルター派は、とことん理詰めで解明しないと気が済まないということがなく、理解を超えたところは、もうそういうものなんだと受け入れる、子供のような信仰だね、とお互い嬉しく納得した次第です。
なので、キリスト教を名乗る団体だけでなく、いろんな宗教団体が引きずり込もうと近づいてきたら、私どもは三位一体の神を愚直に信じる者です、それ以上でもそれ以下でもないので、ほっといて下さい、で宜しいと思います。薄ら笑いを浮かべられても、引け目や恐れを感じる必要はありません。私たちには2000年の歴史の中で鍛えられた信条があるのですから。それにしても宗教団体の中には正規のキリスト教徒を引き込めばポイントになるところもあるそうです。点数稼ぎの手段にされるなんて迷惑な話です。それだけに信条を信仰の土台にできていることはますます大事です。
宗教を持っているとそういう厄介なことに関わることになる、だから、社会を騒がす団体が近づいてきたら私は無宗教です、興味ありません、と言って追い返せば、それで済む話だと言われるかもしれません。しかし、宗教社会学の先生も指摘するように、追い返せるのは人生順調に行っている時だけで、何か不幸なことがあると引き込まれる可能性が高まります。聞いた話ですが、宗教なんかまったく無縁だったエリート夫婦に障害のある子供が生まれて、ある宗教団体の執拗な勧誘が始まり、結局は入ってしまったと。どこかに不幸がないか見張っているのかもしれません。正規のキリスト教徒は不幸があっても、愚直に「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ、汝共にませばなり」という心意気でいます。
正規のキリスト教会内にも見られる脱・使徒的伝統の傾向について。先日、某キリスト教団の月刊誌を見ていたら、聖書の解釈にトマス福音書を根拠にあげているのを目にしてビックリしました。聖書には4つの福音書、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネがあります。それ以外の「福音書」の名の付く書物は全て使徒的伝統に相いれないとして正典から除外されました。最近では初期のキリスト教はこんなに多様性があったということで注目されているようですが、キリスト教は使徒的伝統以上でも以下でもありません。多様性に流れたらキリスト教とは言えなくなります。使徒的伝統を映し出しているのが信条です。本当に信条は大事です。
今回はフィンランド風三角パンを作ります。 小麦の粒を全部使って製粉した栄養価の高い全粒粉で焼き上げるフィンランドの食卓パンです。三角の形に切っていただきます。生地の中に細切れのバジルを混ぜ、生地の上に白ゴマをかけるとパンの風味が不思議と一層深まります。
パンのおともにポテトサラダも作ります。今回はマヨネーズを使わず、ヴィネガーとサラダ油で作るさっぱりした自家製ドレッシングです。トッピングにディルの葉をタップリかけると美味しいポテトサラダになります。フィンランドではポテト料理にディルをよく使います。
フィンランド風三角パンとディル風味ポテトサラダを是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1770985626iamg@1770985626arumi1770985626hsoy.1770985626iviap1770985626 まで。
電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 www.suomikyoukai.org
マルコによる福音書 10:46~52 2024・10月27日(日)スオミ教会
説経題「盲人の癒し」
今日の聖書はマルコ福音書10章46~52節です。ここでは目の見えないバルティマイという男をイエス様が見えるように癒された奇跡の出来事です。46節を見ますと〔一行はエリコの町に着いた、イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒にエリコを出て行こうとされた時、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。〕目の見えないバルティマイという男は恐らく生まれつき目が見えない中で20年か~30年間、全く何も見えない手探りの暗闇の世界で何も出来ないから道端に座って物乞いをして生きてきたのでしょう。私たちは、ただ読むだけで想像しますが、彼の真っ暗な世界をとても、とても想像を絶する危難の一日、一日を過ごしてきたことでしょう。私たちは、それぞれの人生の歩みの中で、やはり色々な病気をします。ある日突然苦しい目に会います、或いは予想だにしなかった痛い目に会って時としてこの突然の自分ではどうにもならない難しい問題に直面します。まだ、何とかなるのではないだろうかと思いめぐらすくらいなら距離をおいて病院へ行かねばと思ったり、薬で暫く様子を見ようとしたり、まだ「神様助けてください」と叫ぶまでに大分距離があります。しかしどうでしょう、エリコの町で物乞いをしなければ生きて行けないバルティマイという男はこの世に生まれた時から真っ暗な世界です。信仰深い人たちは病気も神様からの賜物、神様から与えられた試練である、と思うかもしれません。その病気がある程度したら入院をしたり薬で治まったとしてもある程度の距離をおいて、そのうち平常の人間らしい生き方へ戻るでしょう。しかしバルティマイは全く違う、どうにもならない暗闇です。何のために生まれて来たのか、どんなに親を恨んだでしょう。これからどうなって行くのか全くわからない。そういう彼に今イエス様の一行が近づいて通り過ぎようとしている!バルティマイはそこに居合わせました。彼は来る日も、来る日も道端に座って物乞いをしている。その傍らを病気をたちどころに癒す奇跡の業を起こされる、というナザレのイエスが通りかかろうとされている。彼は叫びだしました、「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください。」この瞬間の以前に以後、エリコの道端には他にも盲人の人が座っていたかもしれません。しかし、バルティマイが偶々座っていた、その時主イエス様が傍らを通り過ぎようとされている。この時しかない。一生をかけてイエス様に出会う時はこの時とばかりに叫びだすのです。彼は千載一遇のチャンスを逃しませんでした。彼の癒しの奇跡の最初のポイントは主イエス様との出会いであります。彼はこの出会いを逃さなかったのです。多くの人が何故私には小さな奇跡でも起こらないのだろう。「祈っても、祈っても願いどおりにイエス様はみ業を起こしてくださらない」と嘆きます。案外イエス様はその人の傍らを通り過ぎておられるにもかかわらず自分自身の事に拘りすぎて主の方に向こうとしないまま主イエス様との千載一遇のチャンスをむざむざ失っているのかも知れません。私たちは生まれながらの目が見えないバルティマイより、あまりにも恵まれていないでしょうか、目に見えているのに一番関心のイエス様、そのものがどれだけ見えているでしょうか。バルティマイは全く見えないにもかかわらず今イエス様と出会って一番大事なものを見ようとしている。彼は死にもの狂いで叫び続けるのです。「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください!」それは率直な叫びでした。何の損得もない、ただ一心に憐れみを乞う叫びだけです。「ダビデの子」と呼んだからにはイエス様こそ私の救い主という思いがあったことでしょう。そして神様は憐れみに富み給うお方であると信じ、暗黒の中にいるにもかかわらず、その憐れみを信じ乞うたのです。旧約聖書 イザヤ書50章10節には「お前たちのうちには、主を畏れ主の僕に聞き従う者がいるであろうか。闇の中を歩く時も、光のない時も主のみ名を信頼し、その神を支えとする者がいるであろうか」とあります。彼は自分の悲惨な現実から神様の愛を推し量ることはせず、この暗闇から自分を解放してくださる神様の憐れみの深さを信頼したのです。神様の愛を信じ願った彼の信仰は的を得たものでした。けれども多くの周りの者たちは彼の叫びを不快に思い彼を叱り黙らせようとしました。バルティマイは怯まず叫び続けます。この時をおいてチャンスはない、誰が何と言おうと今この方にこそ救いを求める他はない。なりふり構わず叫び続けました。私たちは顧みて彼ほどの必死になって本当に主を求めているでしょうか。生命の危機にあれば求めることでしょう。バルティマイはついに主イエスを立ち止まらせる事に成功しました。主イエス様は「あの男を呼んできなさい」とお命じになったのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」「安心しなさい」という言葉は「勇気を出して」とも訳せます。今まで道端に座り込んで物乞いしなければ生きて行かれなかった者が勇気を出して立ち上がったのです。主の呼びかけに従って答えたのです。もはやためらう事はありません。ほかならぬ主イエス様が呼んでおられるのです。バルティマイは上着を脱ぎ捨て踊りあがって主のもとに行きました。今、私の声は主に届いた。もう暗闇は私を支配することはない!その彼に向かってイエス様は「何をして欲しいのか」と尋ねられます。何をして欲しいのかですって?イエス様が彼の願いを知らないはずがありません。しかし,あえて主イエス様は問われるのです。それは彼自らがその願いを言葉に出して言う必要があるからです。そしてその願いが的を得たものであるか、外れたものであるか、吟味される必要があるからです。そうしてイエス様は言われました。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救われた」。すると彼はすぐさま見えるようになった。そしてイエスに従ったのであります。彼が癒されたのは病院の医者でもない学者でもない占い師でもない、ダビデの子メシア救い主が癒して下さる。そのお方に止められようとも黙らされようとも、どんなことをしても必死で近づこうとするバルティマイの信仰にこそ主は目をとめられたのです。彼にとって神様はどんな方として信じられていたのでしょう。「愛」のお方なのです。必ずこの私を憐れんで下さるにちがいない。生まれながらの暗闇に苦しむこの難問は主のみ心ではない、むしろ主なる神は光を給い、人を生かされる愛のお方なのです。この信仰が彼を勇気づけ叫び続けさせ彼を救いへと導いたのです。「神は愛なり」との信仰がどんな暗闇にも希望の光を差し込む癒しの方なのです。どうにもしょうがないんだよ、と言う人間が作り出す勝手な常識を打ち破ったところに奇跡の業が起きているのです。神様は御子を十字架にかけてまで私たち一人一人を愛してくださったのです。私たち人間の常識を超えて神様は私たちに愛を注いで下さり病にも悩みにも癒しの愛を注いで下さって、私たちを苦しみから救いたいと願っておられるのであります。バルティマイは溢れる光の中を喜びと感謝に溢れて生きたことでしょう。この奇跡の出来事はエリコの町で起こされました。エリコの町は荒野の中のオアシスとして緑あふれる恵みの町であります。バルティマイに起こった全てを象徴するエリコであります。 <人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン>
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
秋の最初のフィンランド家庭料理クラブを10月19日に開催しました。10月後半のこの日も夏のように暑い日となりました。今回はフィンランドの家庭でもよく作られるベリーのケーキです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。今回ケーキに入れるベリーは冷凍のベリーミックスを使いました。初めにベリーを少し細かく刻んでまた冷凍に入れておきます。次にケーキのトッピングの生地を作って冷やします。それからケーキの生地の準備。材料を計って卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てます。白く泡立ったら他の材料を加えて生地を作り、それをパイ皿に流し込みます。刻んだ冷凍ベリーを生地の上全体にかけていきます。「色とりどりできれい!」との声が聞こえてきます。最後にトッピング用の生地をベリーの上にのせてオーブンに入れて焼きます。
ケーキが焼けている間に一休み。楽しそうな会話が教会中に広がる時になりました。もちろん美味しそうなケーキの香りも。
ケーキは焼き上がってからしばらく冷まします。その間にテーブルのセッティング。みんなで席に着き、出来たてのベリーのケーキにバニラアイスを添えて、コーヒー・紅茶と一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。この時フィンランドのベリーと聖書が教える神さまの恵みについてのお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月9日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日皆さんと一緒に作ったベリーのケーキはフィンランドの家庭でもよく作られるケーキの一つです。フィンランドでは夏や秋に新鮮なベリーを森で採ったり、朝市で買ったりしてベリーのケーキを作るのは家族みんなの楽しみです。フィンランドの森ではブルーベリー、リンゴンベリー、グランベリー、クラウドベリーなどのベリーはだれでも自由に採ることが出来ます。それで多くのフィンランド人はベリーを沢山採って冷凍したり、ジャムを作ったりしてベリーのケーキやデザートは冬でも作って味わうことが出来ます。
最近フィンランドではスーパーフードという言葉をよく耳にします。スーパーフードとは何でしょうか?これはビタミンやミネラルや繊維質などの栄養が特別に豊かな食料品を意味します。スーパーマーケットにはスーパーフードのコーナーもあります。特にフィンランドのベリーはビタミン、ミネラル、繊維、フラボノイドなどが沢山含まれているので、ベリーはフィンランドのスーパーフードと言われます。べリーは2デシリットルを食べると、一日分のビタミンCとミネラルをとることが出来ます。もちろんベリーが含んでいるビタミンとミネラルはベリーの種類によって変わります。例えば海岸に生えるシーバックソーンというベリーはビタミンCがとても豊富です。ブルーベリーはビタミンCをあまり多く含みませんが、目に良い影響があると言われていています。最近ベリーの栄養や健康への良い影響が注目されているので、フィンランド人はベリーを沢山食べるようになりました。
フィンランド人はベリーを採る国民と言われます。フィンランドの東にある町ではベリーを採る世界選手権も行われるようになりました。この行事は少し遊びの競争ですが、フィンランドの全国や海外からも選手が参加します。ある男性の選手は一時間で70リットルもとる人で、もう何回も優勝しました。
ベリーを採るのはかつては中年の女性の趣味でしたが、現在は若者もベリーの栄養性の価値を分かって採るようになりました。ベリーを採る習慣は世代から世代へ伝わっていきますので、これからもフィンランド人はベリーを採る国民と言われるでしょう。
フィンランドで食べられるベリーの種類は多くて37種類もあります。森で一番多く採れるベリーはブルーベリーとリンゴンベリーです。今年の夏はベリーが育つのに良い気候だったので収穫は良かったです。今年は私たちは森に採りに行けなかったですが、イチゴ狩りに行ったり友達からブルーベリーを沢山もらったのでベリーのケーキを何回も作りました。
フィンランドの森は私有地の森でも、ベリーを自由にとることが出来ます。それでフィンランドではベリーを沢山採るのは、だれにとっても当たり前のように感じられます。しかし、少し考えてみると、これは奇跡のようにも感じられます。私たちは自分で種を蒔いたり水や肥料をあげなくても、こんなに美味しくて、しかも健康に良い食べ物が沢山得ることが出来るからです。ブルーベリーの実も他の自然の豊かな実りもみな、天と地と自然全てを造られた神様が私たちに与えてくださる恵みです。天の神さまの恵みはこのように造られた自然を通して具体的な形をとって私たちに与えられます。今年は神さまはベリーが育つために十分な雨や陽の光を与えて下さったので、美味しいベリーが沢山できたのです。私たちはこのように神さまの私たちに対する恵みを周りに見ることが出来るのです。
天の神さまは恵みの素晴らしさを自然だけでなく聖書を通しても私たちに教えて下さいます。旧約聖書の詩編には「主は憐み深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。」詩編103篇8節。神さまの恵みは自然の中で現れて私たちに美味しくて栄養豊かなベリーを与えて下さいます。私たちは神さまの恵みの素晴らしさをもっと知ることが出来るでしょうか?聖書はこのことを教えます。神さまの恵みは私たち一人一人に向けられています。
私たち人間は神さまの御前で正しい者とは言えず、神さまの御前で相応しいことだけをする者でもありません。しかし神さまはこのような私たちを慈愛に満ちた父親のように愛して下さいます。慈愛に満ちた父親は、子どもが言うことを聞かなくても、後で後悔して「ごめんなさい」と言うと赦してくれます。天の神さまは私たちも同じように赦して下さるので私たちは神さまの目に相応しい者にしていただきます。これは神さまがイエス様を通して与えて下さった救いです。このように神さまの素晴らしい救いの恵みはイエス様に現れているのです。私たちはイエス様を信じると救いの恵みを頂けるのです。
今日はケーキのベリーから神さまが与えて下さる自然の恵みを味わって体の栄養にしました。聖書のみ言葉の恵みは心で受け取ると魂の栄養になることも忘れないようにしましょう。
前回に続いてフィンガーレス手袋(フィンランド語でカンメッカートKämmekkäät)を編みます。今回初めての方も編み方をお教えしますので大丈夫です!
今から始めても冬の準備には遅すぎません。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1000円
材料 毛糸 60g、編み棒(毛糸に合わせる)
好みの色の毛糸と編み棒をご持参ください。
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1770985626iamg@1770985626arumi1770985626hsoy.1770985626iviap1770985626 ℡ 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106 www.suomikyoukai.org
なぜ日本では牧師は「先生」なのか?
昔、フィンランド留学中に現地のキリスト教会(ルター派)で聖書の学びと洗礼を受けて日本に帰国する時、教会関係者から東京にあるルーテルO教会を紹介してもらった。 帰国後、早速電話すると事務の方が応対。「牧師のKさんをお願いします。」相手は少し間をおいて「牧師のK先生ですね。少しお待ち下さい。」 思わず、エーッ、日本では牧師は「先生」と呼ばないといけないのか!フィンランドでは牧師と信徒はファーストネームで呼び捨て。その東京の教会にはSLEYの牧師も宣教師として働いていて、彼とフィンランド語で話す時は、「おい、ペッカ」、「なんだ、ヒロアキ」だが、周りの人も一緒に日本語で話すと、「あの、フフティネン先生」、「なんですか、吉村さん」と全く別人格の世界を行ったり来たりするようであった。
牧師を「先生」と呼ぶのは、聖書を教えるからか?日本の神学校では牧師養成の課程を「教職」課程と呼ぶところもある。しかし、それだけではなさそうだ。14年前、SLEYの宣教師として日本に来た時、日本の協力教団(当時)のお偉方と初の顔合わせの会合の席、私の仕事の内容の打合せが始まり、最初の議題はなんと私を「先生」と呼んでいいのかどうか(当時はまだ牧師の按手を受けていなかった)。だめだ!だめだ!牧師でもない者を先生呼ばわりするのは認められない、と剣幕の人もいれば、「でもフィンランドの大学の神学部で博士号を取ったと言っているから、聖書くらい教えられるでしょ。」「でも、牧師でなければダメ!」と結局コンセンサスは得られず、その教団の中では暫く先生という人もいれば、さんづけの人もいた(次第に先生に統一されていったが)。
牧師を「先生」と呼ぶ理由として聖書を教えること以外に何があるか考えてみた。洗礼や聖餐式の聖礼典を執行するという牧師の職責、また結婚式や葬式のような宗教的な儀式も。しかし、住職や神主は「先生」と呼ばれるだろうか?それから、教会を一つにまとめ、信徒一人ひとりの信仰を御言葉と聖礼典を通して支えると共に、見舞ったり話を聞いたりお祈りしたりして支える牧会者としての役割。しかし、教会の頭はあくまでキリスト。その前には牧会者も信徒同様、一弟子にしかすぎない。
先日チャーチカフェで、私のことを昔から知っているT氏が私のことを吉村牧師と言ったり、昔ながらに吉村さんと言ったりした。彼は上記O教会の信徒。自分の教会の牧師は先生と呼んでいると思うが、昔から知っている吉村さんを吉村先生に変更すると、今まで同列にいたのが上下の序列になってしまうようで何か変、今まで通りがいい、でも牧師であることははっきりさせたい、ということなのだろうか。私はそれで良いと思った。フィンランドで例えば同じ人が「Aさん、牧師が呼んでいるよ」と言う時もあれば、「Aさん、ペッカが呼んでいるよ」と言う時もある。それに似ているのではないかとも思った。
主日礼拝説教 2024年10月20日 聖霊降臨後第22主日
聖書日課 イザヤ53章4-12節、ヘブライ5章1-10節、マルコ10章35-45節
イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に聞きました。「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまり、あなたが栄光の王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いしたのです。この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言います。偉くなりたい者は皆に仕える者になれ、いちばん上になりたい者は全ての人の僕になれ(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んだ人の多くは、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人は謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。(日本は今衆院選の真っ最中です。候補者に聞かせてやりたいと思う人もいるでしょう。実はこの個所はちょうど3年前の10月にもありました。その時も衆院選がありました。天のみ神はよほどこの聖句を国権の最高機関を目指す人たちに知らしめたいのでしょう。)
しかしながら、人のために尽くすことが偉いとか、地位の高い人は謙虚たれという教え自体は別にキリスト教でなくても、他の宗教でもまたは無宗教の人にも見られる道徳です。イエス様はそういう一般的な道徳を教えるためにわざわざこの世に来られたのではありませんでした。それでは、なんのために来られたのか?答えは本日の個所の最後にあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が自分の命を身代金として捧げるというのはどういうことか?確かにイエス様はゴルゴタの十字架で死なれましたが、それが身代金を払う行為であり人に仕えることだというのは、どういうことなのでしょうか?今日はこのことを明らかにしていこうと思います。
まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について予告しました。予告は本日の日課にはありませんが、この直ぐ後で二人は閣僚ポストを要求したのです。二人はイエス様の予告を聞いて、いよいよイエス様を王に戴く神の国が実現すると直感したのでした。それでは、イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのでしょうか?3年前の説教でお教えしたことですが、駆け足で復習します。
イエス様が地上で活動された時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデのような王が現れて、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された王になる。メシアとはもともとは聖別の油を注がれた者を意味しました。その新しい王メシアがユダヤ民族を支配しているローマ帝国を打ち破って王国を再興してくれる、そして諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言、同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。
これらの預言をみれば、将来ダビデ家系から偉大な王が現れて外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。ところで、このようなダビデ家系の王が王国を復興するという考えは、現世に実現するものです。王も現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもありました。それは、今あるこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神が新しい天と地に再創造する、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らない神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。現世的なメシアと王国復興の考えとは異なる、終末論的なメシアと神の国の考えです。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。
どうしてそういう終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章、66章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、それまで現世的な王が現世的な王国を復興すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり読み込めていないことになります。
こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかし、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。彼らは神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように位の高い者と低い者の序列があると思ったようです。それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えます。お前たちの間で偉大な者になりたい者は互いに仕える者になれ、お前たちの間でいちばん上になりたい者は全ての人の僕(奴隷)になれ、と。そして、大事な言葉が続きます。「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が多くの人の身代金として自分の命を捧げるというのはどういうことか、次に見てみましょう。
身代金とは、誘拐事件や人質事件のような忌まわしい事件が起こった時に、捕らわれた人を解放するために犯人に渡すお金を意味します。イエス様が多くの人のために自分の命を身代金として捧げたというのは、人が捕らわれた状態にあったので、そこから解放するために捧げたということです。では人は何に捕らわれた状態にあっだのでしょうか?そこから解放されたらどんな状態になるのでしょうか?
まさのこのことについて明らかにするのが聖書です。人間は罪に捕らわれた状態にあると聖書は教えます。罪と言うと、普通は何か犯罪を犯すことを考えます。何も犯罪を犯していないのに、キリスト教は人間のことを罪びと罪びとと言うので嫌がられます。しかし、聖書でいう罪とは、神の意思に反しようとする、人間誰もが持ってしまっている性向を意味します。十戒の中に「汝殺すなかれ」という掟があります。イエス様が教えたように、実際に人を殺さなくても、心の中で相手を憎んだら同罪なのです。人を傷つけることを行いや言葉に出してしまうことだけでなく、心の中でそのような思いを持つことも神の意思に反するのです。このように十戒の掟は、外見上守れたら神に認められるというものではなく、人間が内面的にも神の意思に反する存在であることを暴露する鏡なのです。
人間はこのような神の意思に反するものを堕罪の時に持つようになってしまいました。そのため、神との結びつきを失ってこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世から別れる時も神との結びつきがないまま別れなければなりません。神はこの不幸な状態から人間を救い出そうとして、御許からひとり子をこの世に送られたのです。このひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。それは人間が神罰を受けないで済むようにする犠牲の死でした。イエス様は人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されたました。
そこで人間はこれらのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。神のひとり子の犠牲を本当のものとして受け入れたので、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう、と仰るのです。こうして神から罪を赦された者は神との結びつきを持てるようになります。そして、永遠の命と復活の体を与えられる復活の日に至る道に置かれ、その道を進むようになります。この道の歩みはいつもバラ色とは限りません。波風猛る時もあります。しかし、神からの罪の赦しで築かれた神との結びつきはどんな時にも波風の時も全く変わらずにあります。この世から別れる時も結びつきを持ったままった別れられ、復活の日が来ると目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。
ところで、神との結びつきを持てるようになる前の人間は、罪と結びついていたので罪の支配下にありました。それをそのままにしておくと、人間はこの世から別れる時、神との結びつきはなく、復活も神の国への迎え入れもなくなってしまいます。イエス様の犠牲の死は、文字通り人間を罪の支配から解放して神との結びつきに入れるようにする救いの業でした。だから、イエス様が捧げた命は人間を罪の支配から解放する身代金だったのです。神と結びつきを持って生きられるようになったというのは、神のひとり子の命を代価として罪の支配から神のもとに買い戻されたということです。この犠牲を伴う「買い戻し」のことを、宗教的な言葉で「贖う」と言います。イエス様はこの私を罪の支配から神のもとへと贖って下さった。「贖う」の代わりに、イエス様は自分の命を代償として私を神のもとへ買い戻して下さった、と言っても同じです。ただし、「罪を贖う」と言わないように注意しましょう。贖うのは人間です。神が人間を罪から贖う、買い戻すのです。反対に、罪は償うものです。人間を贖うのに、罪を贖うと言ったら、神は罪を買い戻すことになってしまいます。神は罪なんか買い戻したくありません。買い戻したいのは人間です。
人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神に贖われた者、罪の支配から解放された者になります。そうするとキリスト信仰者は罪のない無つみの者になったのかというとそうではありません。信仰者になっても、神の意思に反するものが自分に残っていることに何度も気づかされます。それじゃ、キリスト信仰者になっても何の意味もないじゃないかと言われるかもしれません。しかし、そうではないのです。神聖な神のひとり子の尊い犠牲をもって罪を償ってもらったので、今度は罪に背を向けて生きるようになります。罪は忌まわしいもので間違っているとわかり、それに迎合しないように生きようとします。自分の内に神の意思に反するものが出てきてしまったら、慌てずに心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが打ち立てられていることを確認します。神聖なひとり子の犠牲の上に今の自分があるとわかれば、もう軽率なこと愚かなことはすまいと心の襟を正します。これがパウロがローマ8章で言う、聖霊の力で肉の業を日々死なせるということです。まさに霊的な戦いです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神は私たちが罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていたことを認めて義とされ、御国に迎え入れて下さるのです。私たちが完全に無つみになれたから義とされるのではありません。無つみに向かう道を恵みに留まって踏み外さずに歩んだことを義とされるのです。
終わりに、仕える者になれというイエス様の命令についてひと言。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人は復活と神の国に至る道に置かれて今それを歩んでいます。その道を歩む者はお互いに仕え合うようにして歩まなければならないということです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言います。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛に欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さると教えます。
この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。
信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国に向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、それも支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない。きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そういうふうに考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのが決まっています。それ位、イエス様に背負ってもらっておきながら他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。
以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかです。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるようにとひとり子を贈られたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン