牧師の週報コラム

SLEYの説教とTVドラマ「水戸黄門」の類似性について

SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)はフィンランドのルター派の国教会の中で活動する団体で国内伝道部門と海外伝道部門から構成される。 SLEY1873年の結成以来、国教会がルター派の信仰に留まれるよう助けることを是としてきた。その礼拝説教や聖書の教えで中心になるものの一つが、「律法と福音」を一緒に宣べ伝えるということである。具体的には、律法を通して人間の罪性を明らかにし、神に義と認められる位に律法の掟を守り通すことは不可能であることも明らかにする、そして、イエス・キリストを救い主と信じる信仰により義と認められるという福音へと導いていく。なので、聖書の個所がどこになろうとも、教える内容はいつもこの「律法と福音」に集約されるのだ。SLEYにとって典型的かつ伝統的な説教は、はじめの部分で律法を通して罪の自覚を呼び覚まし、後の部分で福音を通して心の平安と神への感謝に至らせるというものである。(聞くところによれば、、90%を律法、10%を福音という説教もあったそうだが、それは行き過ぎかもしれない。)近年はこの定式を少し変えるようになってきたが、律法と福音の一緒の宣べ伝えは変わらない。

昔、高視聴率を誇ったTVドラマに「水戸黄門」がある。大学時代、TV局で番組編集のアルバイトをしていた友人が話したことを思い出す。あの番組は、流れがしっかり定型化されていて、例えば、風車の弥七が「探りに行け」と命じられるのは大体20何分の所、激しい斬り合いの最中に水戸光圀が助さん格さんに「よし、そろそろ」と言って、あの「ひかえー!ひかえー!この紋所が目に入らぬのか!」が40何分の所という具合に、日本のどこが舞台になろうとも変わらぬ定式があるのだ。それでも日本国民の多くは飽きもせず月曜夜8時にテレビの前に釘付けになっていたのだ。

フィンランドの国教会はルター派とは言っても、SLEYの外を出れば、ルター派とは思えない教えや説教がごまんとあるのが現状だ。人々は定式化されたものをつまらなく感じ、目新しいものを求める。それは日本も同じ。しかし、SLEY派の人たちにとって、律法と福音のいずれかが欠けたらもう説教ではない。紋所を掲げる場面がない水戸黄門と同じになってしまうのだ。

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