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説教「君は心の目でイエス様の十字架を見つめられるか?」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書3章14-21節

主日礼拝説教 2024年3月10日 四旬節第四主日

聖書日課 民数記21章4-9節、エフェソ2章1-10節、ヨハネ3章14-21節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

旧約聖書と新約聖書は互いに密接に繋がっています。旧約聖書に来るべき救世主のことが預言されていて、それがイエス様の出来事で実現して新約聖書に記されました。それで、旧約、新約はそれぞれ天地創造の神の人間救済について計画段階と実現段階を述べていると言うことができます。このように聖書は全体として神の人間救済についての書物です。

 旧約と新約が互いに密接に繋がっているということは預言の実現だけではありません。それは、旧約にある出来事は将来のイエス様の出来事を初歩的な形で先取りしていたということがあります。その一つの例は、エルサレムの神殿で行われていた礼拝でした。イスラエルの民は神殿で毎年、罪を償う儀式として大量の牛や羊を生贄にして神に捧げました。それが、イエス様が十字架の上で死なれたことにより、人間の全ての罪の償いが果たされたということが起こりました。それで何かを犠牲にする必要はなくなり、神殿の存在理由がなくなってしまったのです。神殿の儀式は罪の償いの実物ではなく、実物はイエス様の十字架でした。神殿の儀式はそのミニアチュアのようなものだったのです(礼拝の説教中に一つ思い当たり、ひょっとしたら自動車のコンセプトカーと実際に生産販売される自動車の違いのようなものではないかとも申しました)。神殿では大量の生贄を毎年捧げなければならないので、神に対して罪を償うというのはとても大変なことだということは誰にでもわかりました。それが神のひとり子の一回限りの犠牲で未来永劫しなくていいということになったのですから、イエス様の犠牲の力の凄さと言ったらありません。

 本日の福音書の個所のイエス様の教えにもミニチュア/コンセプトと実物の関係があります。遥か昔モーセがシナイの荒れ野で蛇の像を掲げて、それを見た者が毒蛇の毒から救われた、それと同じように十字架に掲げられたイエス様を信じることで人間は永遠の滅びから救われるという教えです。これもイエス様の十字架が実物でモーセの蛇の像はそのミニチュアという関係にあることを示しています。今日はこの関係をよく見て神の私たちに対する愛と恵みをより深く知るようにしましょう。

2.信じるとは、心の目で見つめること

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1ー21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛と人間の救いについて、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについて教えられます。

 まず、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では、作った蛇を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥ、プラス前置詞エルは辞書によると英語のlook at、gaze atです。「見上げる」、「仰ぐ」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたという共通点にとどまらない深い意味があります。

 本日の民数記の個所に「炎の蛇」が2回出てきます。最初は神がイスラエルの民に対する罰として「炎の蛇」を送ります。その次は神がモーセに「炎の蛇」を作りなさいと命じます。興味深いことに各国の聖書は最初の蛇を「炎の蛇」と訳さず「猛毒の蛇」と訳しています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ところが、ヘブライ語の辞書を見ると「猛毒の蛇」はなく、「炎の蛇」です。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて辞書にはない「猛毒の蛇」で訳したのではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、合理的な解釈をしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、その欧米で作られた辞書に「炎の蛇」とあるのだから、別に「炎の蛇」でいいじゃないか。それと、神がモーセに作りなさいと言った「炎の蛇」も、各国の訳はそう訳していません。素直じゃないと思います。

 さて、モーセは「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりました。これは一体どういうことでしょうか?次のように考えたらよいと思います。

 モーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを言われた通りに旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。これが堕罪の出来事です。

 イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神の意思に反する罪を犯すと、罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いことを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、冷たくなった蛇の像が現している罪の無力化がその通りになって死を免れたのです。

 これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを回復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。イエス様は全ての人間を代表して全ての罪を神に対して償って下さったのです。それと、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力です。人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありません。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。復活が起きたことで死を超える永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

 このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部果たし、罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは歴史上、本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。荒れ野の民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた罪の無力化がその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それで、モーセの蛇の場合と違って、イエス様の十字架の場合は「見つめる」ではなく「信じる」と言うのです。しかし、イエス様を信じるというのはゴルゴタの十字架を心の目で見つめることでもあります。次にそのことを見てみましょう。

3.一度だけでなく、何度でも見つめること

イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時に起こります。肉眼の目を通して見たわけではないのに、まるで肉眼の目で見たのと同じように頭の中に映像があるのです。もう心の目を通して見ているとしか言いようがありません。

 そこで、イエス様の十字架を心の目で見つめることは洗礼の時の一回だけで終わらないこと、洗礼の後も何度も何度も繰り返して見つめることになることを忘れてはいけません。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったと言っても、神の意思に反する性向、罪はまだ残っているからです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも頭の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない

注意があって罪を言葉や行いで出してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?イエス様が果たしてくれた罪の償いと贖いを台無しにしてしまったことになり、神罰を受けるしかないのでしょうか?

 いいえ、そうではない、ということを毎週、本教会の説教で申しています。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で認めて赦しを願い祈ります。「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで今も打ち立てられて微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だから、これからは罪を犯さないようにしなさい。」

 こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることができたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることの繰り返しです。それで、十字架を見つめることは何度もします。そうやって何度も再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛です。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。それほどに神は世を愛された。それで、独り子をお与えになった。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(後注)。」

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

ヨハネ3章の本日の箇所の後半(18ー21節)で、イエス様は自分を信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても少し気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

 3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたら穏やかではないでしょう。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険にある。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正します。信じなければ状況は何も変わらず、滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

 3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

 3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒されたくないからだと言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るのではと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教は本当は独善的でも何でもない。そのことがわかるために、キリスト信仰者とそうでない人の違いを見てみます。そうでない人は造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

 キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口にした言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからもわかるように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

 このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

 翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、神の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないようにするというのは、詰まるところ人々が心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超える永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)ヨハネ3章16節の訳し方について。ουτωςを後ろのωστε~と結びつけて考えると、「神はひとり子を送るほどに世を愛された」となります。これは一般的な読み方です。

もう一つの読み方は、ουτωςを前の14節と15節で言われていること、つまり、「モーセが荒れ野で蛇を上げたのと同じように人の子も上げられなければならない、それは彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった

、ουτωςはこれを受けているという見方も可能です。そうすると訳は、「彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった。そのように神は世を愛した。それで、ひとり子をこの世に送られた」になります。

 どっちがいいか、是非皆さまでご検討下さい。

スオミ教会の2024年度の活動方針

3月3日、教会の2023年度の年次総会が開かれました(教会員、オブザーバー、委任状提出含めて20名の参加)。宣教師がまとめた総会資料に基づいて昨年度の活動の総括と収支報告の承認を行い、新年度の活動や予算を話し合って採択しました。

以下、総会資料中の「牧師報告」の巻頭言「激動の時代にあって流されない生き方」と、採択された教会の新年度の主題と聖句、活動方針について紹介します。

 牧師報告

【総会巻頭聖句】

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。心を新しくされた者として自分を変えていき、何が神の御心であるか、何が善いことで、御心に適うことか、また完全なことであるかを吟味するようになりなさい。」ローマ12章2節(ギリシャ語原文からの訳※)

(※ 総会の時に、なぜ日本語訳の聖書を用いず、ギリシャ語原文から直接訳したものを掲げたか説明しました。日本語訳では「心を新たにして」というふうに、人間が心を新たにしなければならなくなっていますが、ここは本当は、キリスト信仰者は神によって既に心が新たにされたという意味です。それなので「新しくされた心をもって」とか、「心を新しくされた者として」と訳したほうが良いと思います。「心」はギリシャ語でヌースνους、「意識」、「自覚」とも訳すことが出来ます。「理性」と訳す人もいますが、それはルター派的ではありません。キリスト信仰者は既にヌースが新しくされているということは、ローマ7章のパウロの教えからはっきりわかります。)

【激動の時代にあって流されない生き方】

世界を見回すと、ウクライナ戦争はまだ続く上に、10月にはイスラエルとパレスチナのガザ地区が戦争に突入してしまいました。内戦状態や市民への弾圧が続く国々が数多くあります。悲しむべきことはこれらを解決できない状態が続いていることです。自由と民主主義の国々が国の内外から挑戦状をたたきつけられているような状況に陥っています。温暖化の阻止も待ったなしです。

日本国内を見ても、人口や経済の縮小が続き、国の将来に悲観的な見方が広がっていると思います。国の政治も、統一教会問題や裏金問題のため、政治に対する不信と諦めが漂っていると思います。

そして私たちが繋がるキリスト教会も世界を見渡すと、いろいろな教派があるのは昔からですが、伝統的な教会が見解の相違のために分裂状態に陥っています。フィンランドでも国民の教会離れが進み、1980年代までは国民の90%以上がルター派の国教会に属していましたが、現在は60%程度、ヘルシンキ首都圏では50%まで落ちています。国民の教会離れ聖書離れは、キリスト教が伝統的な宗教であった国々で進んでいます。

ただ、そのような時代にあっても、フィンランドでは、教会を支えよう、聖書の御言葉を大事にする信仰者としてこの世を生きよう、という人たちは大勢残っています。彼らが国内と海外の伝道を支えています。私たちのスオミ教会もそのような兄弟姉妹の支援を受けていることを忘れないようにしましょう。

この世がどのような方向に流れていくにしても、私たちは、上記の聖句が教えるように、イエス様の十字架と復活の業と洗礼のおかげで心を新しくされた者として、何が神の御心か、何が善いことで、御心に適うことか、完全なことであるか、吟味しながら日々を生きる(吟味のためには聖書を開く必要があります)、そうすることで、流れを変えることは出来ないかもしれないが、ただ単に流されるだけで自分を見失ってしまうことはないと信じます。

♰♰ 2024年度の主題聖句、主題、主題の趣旨、伝道方針、年間行事予定

【2023年度の主題聖句と主題】

主題聖句 詩篇23篇4

「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ。汝、共にませばなり。」(文語訳)

「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。」(新共同訳)

主題 「いかなる状況にあっても御言葉と聖礼典がある限り主が共にいて下さることは揺るがない。」

【主題の趣旨】

吉村が牧師になったことで、聖礼典も執行できるようになりました。これでやっと、御言葉と聖礼典という「恵みの手段」(ルター派の言い方)を用いて、信徒一人一人の信仰の成長の手助けができます。

「信仰の成長」とは何か、少し具体的に述べます。昨年12月17日の週報コラムで「信仰の証し」についてお教えしました。「信仰の証し」とは、①自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、②一時そのイエス様から遠ざかってしまったが、また身近になった、③現在、平穏な時/大変な時にあるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、この3つのいずれかについて話し分かち合うことです。その際、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/随伴を確信させてくれたということがあれば申し分なし。日々聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて見直すことをしていれば、主が身近におられることが当たり前になり、「証し」をして下さいとお願いされても慌てないですみます。これが「信仰の成長」であると考えます。礼拝の説教と聖餐はまさに主が身近におられることを揺るがないものにするものです。また、牧師・宣教師と話をしたり祈ることでも、聖書のあの個所が決め手になった!というようなものが見つかります。

主が身近な存在になるかどうかは結局は信徒一人ひとりにかかっていますが、牧師・宣教師はそのお手伝いをするというスタンスでいます。

【2024年度の伝道方針および年間行事予定等】

礼拝は会堂とオンラインのハイブリッド方式を続けますが、礼拝と聖餐と聖徒の交わりを実現する本来の場所は会堂です。様々な事情で会堂に来れない方が教会に繋がれるための手段としてオンラインはやむを得ないと思います。

諸集会はコロナ前と同じ水準で行っていきます。諸集会に教会員やキリスト信仰者の参加があると、ノンクリスチャンに対する伝道力が一気に高まることをお覚え下さい。今年もチャーチカフェを開催します。新宿区の保健所から菓子製造販売の許可証を得たので堂々と開催できます。

教会歴に沿った年間行事予定は、大きなものは3月24日受難週、同29日聖金曜日、同31日復活祭、5月19日聖霊降臨祭、12月1日待降節、同22日クリスマス礼拝、同月24日イブ礼拝となります。伝統のバザーもクリスマス期間に出来るでしょうか?

今年の宣教師の一時帰国は長めのものになります。6月中旬から9月初旬まで位になると思います。期間については正確にわかり次第お伝えします。

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説教「いつ人は十戒の掟を仕方なくではなく、 喜んで守れるようになるか?」吉村博明 牧師 、出エジプト20章1-17節、ヨハネによる福音書2章13-21節

主日礼拝説教 2024年3月3日 四旬節第四主日

聖書日課 出エジプト20章1-17節、第一コリント1章18-25節、ヨハネ2章13-21節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神を愛するから掟を守るのか、それとも神から愛されるので守るのか

本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。十戒には、創造主の神の意思が明確に示されています。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた創造主の神の意思です。それなので十戒は神に造られた全ての人間に関わる掟です。神はそれをモーセを通してイスラエルの民に、あたかも全ての民族の代表者のようにして与えました。それでイスラエルの民は自分たちこそ全知全能の神に選ばれた、神に一番近い民という誇りを持ったことは当然のことでした。

十戒はキリスト信仰者の皆さんはよくご存じのものですが、信仰者でない方もこの説教を聴いたり読んだりするので、少し内容を見ておきます。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係についての掟です。第4から第10までの掟は、人間同士の関係についての掟です。神と人間の関係についての掟を見ると、第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名前を引き合いにして誤った誓いを立ててはいけない、また不正や偽り事に神の名前を引き合いにして唱えるのは神聖な名前を汚すことになるのでしてはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

人間同士の関係についての掟を見ると、第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にしようとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。まさにSNS時代に相応しい掟です。第9と第10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

私たちのルター派の教会では大人の方がキリスト信仰者になるべく洗礼を受けようとする時は、前もってルターの小教理問答書を学ばなければなりません。ルター派以外の教会から転入する人も同じです。小教理問答書の内容は、十戒の他に使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐式、罪の告白と赦しについての教えがあります。十戒の解説を見ると、一つ一つの掟の最初に次の言葉が来ます。「あなたは神をおそれ、愛さなければならない。」その後に掟の解説が続きます。神をおそれ、愛さなければならないというのは一体どういうことでしょうか?神をおそれるというのは、神を怖いと思う恐れの意味と、神を高く祀り上げて自分を低くする、畏れ多いという意味の二つが合わさっています。そんなおそれるべき神をどうして愛することができるでしょうか?十戒の一番最初の掟で、それはできる、だからそうしなければならないと言うのです。それを見てみましょう。

まず、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と神は言われます。「わたしを否む者」というのは、ヘブライ語のもともとの意味は「わたしを憎む者」です。天地創造の神以外の神を拝む者は天地創造の神を否む者です。それは神を愛していないことになり、それで憎む者と言われるのです。そのような者が犯した罪は三代目、四代目の子もその責任を負うことになると言うのです。まさに罪の呪いです。そういうことを言う神は真に恐ろしい方です。

ところが神はすかさず言われます。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」先ほどの、神を否み、神を憎む者の反対のことが言われます。神を愛する者とは、創造主の神のみを神として崇拝する者です。神の戒めを守ると言う時の「戒め」はヘブライ語は複数形なので十戒の全部の掟を指します。神を愛し崇拝し十戒の掟を守る者には幾千代にも慈しみが及ぶ。「慈しみ」はヘブライ語のヘセド、神の恵み、親切、見捨てないことという意味があります。それで、永久と言えるくらいに神から恵みと親切を受けられ、見捨てないでずっとついていてくれると言われたら、神は真に愛すべき方です。

神は神を愛さず罪を犯す者にとっては恐ろしい方であり、神を愛し十戒を守る者には愛すべき方です。そうなると、罪を犯す者にとっては愛すべき方ではなく、逆に、十戒を守る者には恐ろしい方ではありません。しかし、私たちは神を恐れると同時に愛さなければならないというのはどうしてでしょうか?罪を犯す者が神を愛するようになることは可能なのか?十戒を守る者が神を恐れることはあるのか?エゼキエル書33章を見ると、神は十戒に背く者が神に立ち返って守るようになることを強く望んでいることが言われます。33章16節では、背く者が掟を守るようになり不正をしなくなれば神はその者の過ちを思い起こさない、不問にするとまで言われます。なので父が罪を犯しても、このように生き方を変えれば罪は問われなくなる。もし三代目、四代目の子孫もこの方針を続けていれば、問われなくなった父の罪は何の影響もありません。なので、罪を犯す者にとっても神は愛すべき方なのです。エゼキエル書の同じ33章では逆のことを言っています。もし神の掟を守る正しい人が「自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ」(13節)。そうなれば、3代、4代先の子孫まで影響を及ぼす事態になります。なので、掟を守る者にとっても神は恐るべき方なのです。

そこで一つ問題が出てきます。十戒の掟を守ると神は恵みと親切を与え見捨てないでいて下さる、掟を守る者は神を愛しているから守る。そうすると、人間がまず神を愛して掟を守って、神から見返りに恩恵を受けるということになる。そうすると、第一ヨハネ4章10節で言われていることと相いれなくなります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神が先に私たちを愛したのであれば、私たちが掟を守ることは恩恵を受けるためではなくて、神から愛されたから守るということになります。ここにキリスト信仰の十戒の守り方の真髄があります。これからそれを見ていきましょう。

2.イエス様は究極の神殿

本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、イスラエルの民がモーセの指導の下、神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。その主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿税の納入のために通貨を両替する必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、罪の赦しを与える方はまさに創造主の神です。しかし、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような態度は傲慢です。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。

 イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。どうして彼はそこまで憤ったのか?それは、本当ならばユダヤ民族だけでなく全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけをする場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、すなわち罪を持つようになってしまいました。そのために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になったのです(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。

 イエス様の犠牲は、それまでの神殿の牛や羊などの動物の生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24~28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄だけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代価が、神のひとり子イエス様が流した血でした。

 そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした者ということになります。まさにエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことをイエス様が果たして下さったのです。そういうわけで十字架の死を遂げて復活されたイエス様は真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

3.十戒の掟を感謝と喜びを持って守れるようになる。

ここで十戒に戻りましょう。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は人間に心の中までも潔白性を要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。ローマ3章10節で使徒パウロが、神に相応しい義を持つ者は誰一人としてもいないと断言したのはそのためでした。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

 神聖な神がこのような人間に不可能な完全さを要求するならば、人間はどうすればよいのでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を恐れて神から逃げるか、または神は人間の本性を理解できない酷い方だと反発するかのどちらかでしょう。どっちをとっても神に背を向けて生きることになってしまいます。

 ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。ただしそれは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金にして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのことを洗礼を通して頭からすっぽり被せられているからです。だから十戒の鏡で罪を照らし出されても恐れや反感を抱かずに神に向き合うことができるのです。

 イエス様が果たしてくれたことを自分のものにしていない人は、罪を照らし出された時、自分は罪があるから神に相応しくないとわかります。しかし、イエス様が果たしてくれたことを自分のものにした人は、彼のおかげで自分は神に相応しいものにかえてもらった、という喜びがある自覚になります。その時、十戒の掟を守ることは神に罰せられないために仕方なく守るという消極的な守り方でなくなります。神から恩恵を受けるために守るという報酬主義もなくなります。こちらが何もしないうちに恩恵を与えてもらったので、イエス様を贈って下さった父なる神に感謝し愛することの現れとして神の意思に沿うように生きよう、十戒を守ろうという積極的な守りになっていきます。

 しかしながら、十戒の守り方が積極的になっても、再び罪を十戒の鏡に照らし出される時があります。その時は、罪の赦しの恵みの王座の前で罪を認めて告白し、ひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという神の恵みをまた受けます。そうしてまた恵みを受けた感謝と喜びがあって、神を愛する現れとして十戒を守るようになります。キリスト信仰者は人生の間、何度も何度も罪の赦しの恵みを受け、何度も何度も神を愛して十戒を守るようになることを続けていきます。この繰り返しは、復活の日に最終決着がつくのです。

 イエス様は十戒について、心の中の潔白さも問うものであると教え、十戒を表面に留まらないとても深いものにしました。それで十戒は罪を照らし出す鏡のような働きがあるのです。イエス様はさらに、十戒の「してはいけない」ことは実は「しなければならない」ことも視野に入れていることを教えました。それで十戒はとても広いものになったのです。イエス様は人間同士の関係を律する7つの掟について、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟をその趣旨に照らして見ると、小教理問答書の中でルターも教えるように、「殺すなかれ」はただ殺人を犯さなかったら十分というのではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入ると教えました。他の掟も同じように広くなりました。このようにイエス様は、十戒の掟を広く深くして完全なものにしたのです。それが神の意思だったのです。十戒を広く深いものにして私たちが受け入れて守れるようにする、しかも感謝と喜びをもって守れるようにする、そのためにイエス様は十字架と復活の業を遂げられたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

手芸クラブの報告

2月の手芸クラブは28日に開催しました。前日は冷たい北風が吹きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。

前回に続いて今回もバンド織のキーホルダーを作りました。フィンランド語でNauhaと言います。前回参加された方たちは新しい模様のキーホルダーを作りました。毛糸は既に準備したものを用い、各自それぞれの場所で織始めました。初めて参加された方にはいろいろ細かい準備をして、それから織始めました。

新しい模様のバンド織の毛糸は細かったので、今回はどんな模様になるか皆さん楽しみにしながら織進めていきます。すると、可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。

今回の毛糸は黒色が多かったので少し織りづらかったようでしたが、皆さん一生懸命頑張ったので今回も素敵なバンド織のキーホルダーが出来上がりました。

初めての方もテクニックを早く覚えてNauha はどんどん長くなって、かわいい春らしい色のNauhaが出来上がりました。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて結ぶと可愛いキーホルダーの完成です!

肩をリラックスしてコーヒータイムに入りました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、毛糸のNauhaや天の神さまが私たちに与えて下さる人生のNauha についてお話がありました。

3月の手芸クラブはお休みになります。次回は4月24日に開催予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブの話2024年2月

今日もきれいなバンド織のキーホルダーが出来ました。皆さんは覚えが早いので、あっという間に出来上がりました。今日はバンド織について少しお話をしたいと思います。

バンド織は地中海の地域で古くから作られた手芸の一つです。イタリアでは1200年代に作られたものが発見されています。バンド織作りは中世期に北欧にも広がってフィンランドのトルゥクでは1400年代に作られたものが発見されています。

バンド織はフィンランド語でPirtanauhaと言います。Pirtanauhaは1800年代から1900年代にかけてとても人気がありました。バンド織で作ったものは貴族の間では使われませんでしたが、農民の人たちはそれを使ったので女性たちがよくバンド織をしました。母親たちは織り方を娘たちに教えたので、このスキルは世代から世代へ伝わっていったのでした。

バンド織はどのようなものに使われていたでしょうか。一番多かったのはベルトでしたが、靴のひも、バッグの持ち手、服の飾りなどに使われました。バンド織は何本も繋げていくと生地にもなりました。

フィンランドでは1900年代から1970年代まではバンド織を作る人はあまり多くいませんでしたが、1970年代からまた人気を集めるようになりました。現在は作る人はそれほど多くはいませんが、フィンランドの伝統的な手芸の一つですので、手芸センターなどでバンド織のコースが時々開催されます。

Nauhaは色んな長さや色んな色のものに作ることが出来ます。フィンランド語のNauhaは、「ひも」という意味です。Nauhaという言葉はいろいろな文脈で使われます。人生を象徴する時、Nauhaということもあります。人生が一本の長いひもにたとえらえるのです。フィンランドの子どもの讃美歌には次のような歌があります。「人生の日々は美しいNauha、一つ一つの思い出は真珠の粒、日々の連なりは真珠をひもに通した飾りのように高価なもの。そのどれもNauhaから外すことはできない。」

この歌は人生の日々の連なりをNauhaに、そこにある一つ一つの思い出を真珠にたとえています。沢山の真珠があるNauhaは素晴らしく見えます。Nauhaの中にある真珠の一つ一つは思い出の一つ一つですが、よく見ると明るい色や暗い色があります。それでもNauhaの全体は素敵なものになります。私たちの人生のNauhaは振り返って見ると、いろんな色の時期があったと分かります。一つ一つの色には意味があります。明るい色は幸せや喜びの時期を表しますが、暗い色は悲しい時、困難な時期です。私たちの人生には両方の時期があると思います。私たちはもちろん幸せを求めますが、ずっと続くとは限りません。自分で選ばないのに悲しい時がきます。

聖書には、人生の中にいろんなことががあっても心配したり恐れる必要はないと教えるところが沢山あります。その中でも旧約聖書の詩篇23篇は有名な箇所です。

この詩篇は、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という文で始まります。「羊飼い」とは天と地と人間を造られた神様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。羊は弱くて、野生動物に簡単に捕まって食べられてしまいます。そのため羊飼いは羊を守って導いていきます。羊飼いが羊を守り導くように、神様が私たちを守って導いて下さると詩篇の言葉は伝えています。もし人間を造られた神様が私たちの羊飼いならば、神様は信頼して大丈夫な方です。神様の導きのうちに生活する時に大きな安心があります。神様はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか?

この詩篇には「主はみ名にふさわしく、正しい道に導かれる」と書いてあります。神様は私たち一人一人のことをよくご存じで、いつも歩むべき道を示して下さいます。神様は私たちを愛しているので、良い場所に導いて下さいます。良い場所とは、「きれいな青草の原」、「憩いの水のほとり」と詩篇の中で言われます。ただ、そこに至る道はいつも明るい安全な道とは限りません。詩篇では、「死の陰の谷」を通ることもあると言われます。私たちの人生の中には喜ばしいことだけでなく悲しいこともあります。もちろん、私たちは喜ばしいことを望んでいます。それで、悲しいことが起こると受け入れるのは簡単ではありません。しかし神様は実は悲しい時でも、喜ばしい時と同じくらいに共にいて下さると詩篇で言われているのです。この詩篇の箇所は、このように神様の人間に対する愛が示されているので、いつも安心と感謝の気持ちで一杯になります。

私たちの人生のNauhaにはいろんな色があります。しかし、神さまがいつも一緒にいて下さると信頼できればこれからも真珠をつけていくことができます。このことを忘れずに歩んで行きましょう。

 

説教「一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へ」吉村博明 牧師 、マルコによる福音書8章31ー38節

主日礼拝説教2024年2月25日 四旬節第二主日

創世記17章1‐7、15‐16節、ローマ4章13‐25節、マルコ8章31ー38節

Youtubeで説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる道徳をイエス様は教えているのだと。

 ところがイエス様はこの言葉の前で何と言われていたでしょうか?「わたしの後に従いた者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。

皆さん、しっくりいくでしょうか?「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」などと聞くと、大方の人は、ああ、迫害を受けて殉教した人は天国に行けることを言っているんだなと理解するでしょう。そうすると、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を歩めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重い、それくらい価値あるものなのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのはOKというのは矛盾しているのではないでしょうか?

 実はイエス様は矛盾したことは何も言っていないのですが、なぜ矛盾しているように聞こえるのかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」、この部分を「命は地球より重い」という一般的な道徳で理解してしまうからです。この部分をよく目を見開いて見ていくと、一般的な道徳とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般的な道徳ではなく、キリスト信仰の道徳があるのであり、それが見えてくるとイエス様が言っていることは筋の通ったものになります。そういうわけで本日は皆さんを一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へと道案内したく思います。

2.神の人間救済の計画

まず、本日の福音書の日課マルコ8章31~38節ですが、その少し前の27節~30節を見ると、イエス様が弟子たちに、人々は私のことを何者と言っているかと質問をします。どうやら人々はイエス様のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていたようでした。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、メシア・救世主と信じていることを明らかにします。

 そこで今日の31節が来ます。イエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。お前は「神のこと」を思わず、人間のことを思っている、と。これを読む人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。その場にいたペトロや弟子たちに至っては大ショックだったでしょう。しかし、神の人間救済計画を全世界の人たちのために実行すべくこれから十字架の死を受けなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思っていない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済計画のことです。

 それでは神の人間救済の計画とはどんな計画か?それがわかるとイエス様が教えていることは一般的な道徳を越えてキリスト信仰の道徳であることがわかってきます。当教会の説教で毎回教えていることですが、復習しましょう。

キリスト教信仰では、人間は誰もが創造主の神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからです。人間は神聖で永遠の神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の見返りなのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で宗教指導者たちとの論争で明らかにしたように人間の力では不可能です。律法という神の意思を表す掟があります。しかし、人間はそれを行いだけでなく心の中でも完全に永続的に守り通すことはできないのです。律法は、人間が不完全で罪があることを示してしまうのです。人間が自分の力では無罪(むつみ)の状態になれないとすれば、どうすればいいのか?なれないと、神聖な神と結びつきを持つことも神のもとに戻ることもできません。

この問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に贈って、彼に人間の罪を全部背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで人間の身代わりに神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こった、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになって、この世をその結びつきの中で歩むことができるようになります。

イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありません。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになったのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。

 ところで、神から罪を赦された者と見てもらえるようになったとは言っても、この世にいる間は私たちは肉の体を纏っているので私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。どんなに注意していても、人間的な弱さのため、また隙をつかれて罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神との結びつきは失われてしまうでしょうか?

 そうではないのです。もし自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神は、「お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けて見よ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられている。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないようにしなさい。」そうおっしゃって下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発します。

 キリスト信仰者といえども神の意思に反する罪を内に抱えています。それで自然、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことになります。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すというのは、イエス様の十字架の下に行くことです。また自分が受けた洗礼の地点に戻ることです。洗礼の地点に戻って十字架の下に立つというのは、私は罪に与しない、罪を忌み嫌って生きているということの偽りのない表われです。なので、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪は圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。怒りや憎しみ、口を制御することができないとか、えこひいき自分もひいきされることを望むとか、そういう愛のなさが染みついている古い人。これを神から頂く罪の赦しを重石のようにして圧し潰していくプロセスです。

 やがて、このプロセスが終わる日がきます。生きている人も死んでいた人も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと認められれば、それで十分です。そう認められた人は、その時もう自分には圧し潰すものがなくなっていて、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体にかわる復活の体を着せられた時なのです。

3.一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へ

以上が神の人間救済の計画とそれがどう実現したかについてです。それでは、イエス様がつき従う者つまり私たちキリスト信仰者に背負いなさいと言っている十字架とは何かに?それについて見ていきましょう。そして、命を救う、失う、と言っていることはどういうことか、それも見ていきましょう。

 まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現しました。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。

 それで、「自分を捨てる」というのは、まさに古い人を死なせ、新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い人です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まりました。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨てることは続きます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般的な道徳の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の道徳から見た「自分を捨てる」です。

 そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの内容は、それぞれが置かれた状況によって異なってきます。人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てきます。人を妬むことで古い人が強まります。あるいは、キリスト信仰者であると公けにすると立場が悪くなってしまうから黙っていよう、などと言ったら、新しい人が育たなくなります。このように背負う十字架は中身は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がなくても日常生活のどこにでもあります。

 このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。次にそれを見ていきましょう。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは前の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待つ神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。まさに、「自分の命を救いたいと思う」人です。しかし、この世での命は永遠に続きません。だから、「それを失う」のです。

 次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではない、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあると申しました。しかしながら、信仰を捨てるか命を捨てるかのどっちかを選べ、と権力者から迫られたらどうするかという問題は歴史上あちこちでありました。今日でもあります。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。

 そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節に二回出てくる「命を失う」と原語のギリシャ語の動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味がありますが、36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっています。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般的な道徳を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えているのでしょうか?

 36~37節の意味はこうです。「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんな命は何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れたもので命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。

 それは、ここで言われている「代価」がカギとなります。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。

 それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態のことです。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界でも、財産でも、名声でも業績でも何でも、代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般的な道徳では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の道徳です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

 

牧師の週報コラム

なんで英語じゃないとダメなんですか?

スオミ教会が中野にあった時のこと。キリスト教会の礼拝に初めて参加したという青年がコーヒータイムの時に私に聞いた。 「先生、僕は聖書を原語で読みたいんです。教えて頂けますか?」 立派な志しだと感心し、「それじゃ、ギリシャ語から始めようか。それともヘブライ語?アラム語もあるけどヘブライ語を先にやった方がいいよ。」 すると青年は当惑した表情で「いえ…、英語でです。」 これには私も仰天。聖書は新約はギリシャ語が原語、旧約はヘブライ語(一部アラム語)ですと説明しなければならなかった。青年は二度と教会に姿を現さなかった。

キリスト教はアメリカの宗教…。そういえば、オペラの「蝶々夫人」。米海軍士官との結婚を機に蝶々さんはキリスト教に改宗して一族から勘当。一時帰国の筈の夫はなかなか戻らず。一人残った家政婦のスズキさんが主人の帰国を一生懸命に神仏に祈っていると、そんなものに祈っても意味はないと嘲笑する蝶々さん。「私にはアメリカの神がついている」と。そして悲劇的な結末…。

これも中野時代のこと。ある教団の牧師(アメリカ帰り)がスオミ教会の礼拝で説教をした時、「皆さん、イエス様は皆さんのことを愛して下さっているんですよ!アイ・ラブ・ユーっておっしゃっているんですよ!」と。私は思わずのけぞってしまった。イエス・キリストが「アイ・ラブ・ユー」だって?!彼は何度かスオミで説教したが、よく口から出てきたので、自分の教会の礼拝でも常套文句なのだろう。きっと信徒さんたちもうっとりして聴いているのだろう。そう言えば、日本では多くのキリスト教会の案内や出版物もカタカナ英語がよく目につくと思う。

そういうお前はどうなんだ、フィンランド帰りをちらつかせて、フィンランド語で何か言っているじゃないか、と言われるかもしれない。しかし、私の場合は、ジーザス・ラブズ・ユーとは違う。説教の準備の終わりの段階でいつも聖書の個所が日本語訳ではどう言われているかを確認する。原語はそう言っていないのでは?この日本語訳いいのかな?ということに時々出くわす。それで、フィンランド語ではスウェーデン語ではドイツ語では、そして英語ではどう言っているか、と自分の訳に応援を求めているだけである。私の経験では(正確に統計を取ったわけではないが)、日本語と英語の訳が一致して、その他3つが別の訳で一致するということがよくあると思う(ただし、英語訳はNIVについてのみ。ドイツ語訳も共同訳とルター訳があるのでさらなる違いもある)。

日本の政治家は日米同盟のことを共通の価値観で結ばれた世界最強の同盟と誇りにするが、聖書の訳や理解でも同じようなことがあるのだろうか。

説教「神の御言葉と洗礼があれば怖いものはない」吉村博明 牧師 、マルコによる福音書1章9-15節

主日礼拝説教 2024年2月18日 四旬節第一主日

聖書日課 創世記9章8節-17節、第一ペテロ3章18-22節、マルコ1章9-15節

Youtubeでを説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の聖書日課は旧約と使徒書がノアの箱舟に関係する箇所でした。福音書はイエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと、荒れ野で40日間、悪魔から誘惑の試練を受けたこと、その後で本格的に活動を開始したことについてです。使徒書と福音書の個所を見ると、おやっ、と思わせることがあります。使徒書、第1ペトロの3章、では、十字架にかけられて死んだイエス様が陰府に下って死者の霊に福音を宣べ伝えたことが言われます。これは理解が難しいところです。これについては6年前の四旬節第一主日の説教で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は4章6節まで見ないと理解は不可能です。ただし今回は、そこまで見なくても大事なことはお話しできることがわかりました。大事なこととは、洗礼には私たちを悪いものから守る力があるということです。このことについて後で見ていきます。

福音書の方の「おやっ」は、イエス様の荒れ野の試練です。マタイ福音書とルカ福音書では詳細に書かれているのに、本日のマルコ福音書ではたったの二節です。どうしてこんな違いが出たのかと言うと、荒れ野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので目撃者がありません。それで、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語ったものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載されて、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。要約とは言っても、マルコの記述にはマタイとルカにないことがあります。それは、「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた」の「野獣と一緒にいたが天使が使えていた」というところです。これは一体何を意味するのか?これをよく見ていくと、神の御言葉には本当に私たちを悪いものから守る力があるということがわかります。

そういうわけで、本日の説教では、この2つの「おやっ」と思わせるところをもとにして、洗礼と神の御言葉には私たちを悪いものから守る力があるということを見ていこうと思います。

2.神の御言葉があれば怖いものはない

まず、最初にイエス様の荒れ野の試練を見てみましょう。「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいた、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在してチンプンカンプンです。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。

そこでマタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。なので、このマタイの順番を守ってマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後で野獣の真っ只中にいたが、天使たちに仕えられていた。

新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」という意味もあります。それでいくと、荒野で野獣の真っ只中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語とスウェーデン語の聖書では「野獣の真っ只中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)悪魔の誘惑の試練の後、イエス様は荒れ野で野獣の真っ只中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。

そうすると、悪魔から試練を受けていた時のイエス様は天使の仕えがなかったことになります。それは、誘惑を受けていた時、天使の助けはいらないと自分で言っていたことからわかります。ここで、イエス様はどのようにして悪魔の試練を乗り越えたのか振り返ってみます。

皆さんも既にご存じのように、イエス様は聖書にある神の御言葉を武器にして悪魔の誘惑を撃退しました。悪魔が空腹状態のイエス様に、お前が神の子なら地面の石にパンになれと命じてみろ、と言いました。それに対してイエス様は「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から語られる言葉によって生きる」と申命記8章3節の御言葉を盾にしました。次にイエス様を神殿の高い屋根の上に立たせて、お前が神の子なら、ここから飛び降りて天使たちに助けさせてみろと言いました。それに対してイエス様は、神を試してはならないと申命記6章16節の御言葉を盾にしました。神を試してはならないというのは、神よ、俺のためにこれをせよ、あれをせよ、しないと信じてやらないぞ、という態度のことです。もう一つの誘惑は、イエス様に全世界の豪華絢爛を見せて、悪魔にひれ伏したらこれを全部くれてやろうというものでした。それに対してイエス様は、神のみを敬え、神のみに仕えよ、という申命記6章13節の御言葉を盾にしました。それで悪魔は太刀打ちできないと観念して退散したのでした。

このように悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。」そして、イエス様は、見事に悪魔に打ち勝ちました。その後で野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちが来るのを許して仕えさせたのです。

荒れ野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の仕えというのは、ただ単に荒れ野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指していると言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様はまた守りがない状態になってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?

それは彼自身が言った通り、聖書の神の預言の言葉が実現するためでした。預言とは、天地創造の神が計画した人間救済の計画を実現することでした。人間には神の意思に反する悪いもの、罪がある。罪はほおっておくと人間を永遠の滅びに陥れてしまう。そこから人間を救い出すという計画でした。この救いを実現するために、神はひとり子をこの世に贈られ、そのひとり子を私たち人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせたのでした。神のひとり子がまさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしそのイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのでした。

このようにイエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたのでした。悪魔の誘惑の試練の時、神の御言葉には悪魔の攻撃を撃退する力があることが明白になりました。私たちキリスト信仰者はそのような力のある言葉を自分のものにしているのです。さらにイエス様が天使の守りを求めないで十字架の受難の道に入られたことで神の人間救済の計画が実現しました。神の預言の御言葉が実現したのです。それで、御言葉は単に将来起こることを待ち望むものでなくなって、本当にその通りの御言葉になりました。来るべき救い主について預言した旧約聖書と救い主が来られて預言が実現したことを伝える新約聖書の両方を持てば、もう怖いものなしです。預言が実現する前の御言葉にも悪魔を撃退する力がありました。預言が実現した後の御言葉の力はいかほどのものか、推して知るべし言わずもがなです。

3.洗礼があれば怖いものはない

私たちを悪いものから守るものとして神の御言葉の他に洗礼があります。それについて使徒書の日課、第一ペトロ3章をじっくり見てみましょう。まず、18節と19節です。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」

 初めにイエス様が受けた苦しみが何のための苦しみであったかが述べられます。神の目から見て罪びとにしかすぎない人間、罪のゆえに神の義を持てない人間、そんな人間が罪を赦されて神の義を得ることが出来るようにイエス様は途轍もないことをして下さった。神聖な神のひとり子でありながら、人間の罪を全部自分で引き受けて、それを十字架の上にまで運んで、そこで神罰を人間の代わりに受けて死なれた。このイエス様の身代わりの犠牲のおかげで、人間は神から罪の赦しを得られる可能性が開かれた。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪の赦しを受けられるようになった。この「イエス様の犠牲のおかげで」ということがある限り、人間は、これからは神に背を向ける生き方ややめてよう、神を向いて生きる生き方をしよう、罪を憎み、それに与しないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、という心を持ちます。実際にどこまで出来るか足りない部分は多々あるが、その心には偽りはありません。「イエス様のおかげで」がある限り、神は心に偽りがないことを認めて下さる。だから、神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのです。「あなたがたを神のもとへ導く」というのは、まさに神聖な神のみ前に立たされても大丈夫なものにして下さるということです。

18節の「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」というのは、イエス様は肉体の面では死んだが、霊の面では生きる者にされたということです。具体的に言うと、十字架にかけられて死なれたが、三日後に天地創造の神の想像を絶する力で復活させられて、もう普通の肉体の体ではない、神の栄光を現す復活の体を持つ、霊的な存在として生きる者になったということです。

 さらに「霊において、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」とあります。これは、イエス様が十字架の死の後、三日後に復活するまでの間、陰府に下った、ということです。このことは、伝統的なキリスト教会の礼拝で唱えられる使徒信条の中でも言われています(後注)。

 陰府というのは死者が眠りにつく場所です。よく誤解されますが、炎の地獄とは異なります。聖書によればキリスト信仰には死者の復活と最後の審判というものがあります。それなので、亡くなった方は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて眠りにつきます。「陰府」と言うと、暗い陰気な感じがしますが、これは人間が墓に葬られるのでどうしても地下のイメージで描かれるからでしょう。しかし、地面をいくら掘っても、死者が眠っている世界など出て来ませんから、これは天の御国と同じように、私たちの五感や科学的な数値では解明できない次元・空間です。ルターは復活の日までの眠りのことを痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時と言っています。とにかく、神のみぞ知る場所としか言いようがないのです。復活の日が来ると復活させられて神の審判を受けます。天の御国に迎え入れられるか、炎の地獄に投げ込まれるか、決定が下されるのです。他方で聖書には、復活の日を待たずして神の御国に迎え入れられたと考えられる人物もいます。しかし、基本はあくまで復活の日までは眠りにつくということです。

 イエス様は十字架の死の後、復活までの間、陰府に下り、そこで宣教した、と言われます。イエス様は陰府で何を宣べ伝えたのでしょうか?それは、神のひとり子の犠牲の死と死からの復活が起こったということです。そして、そのおかげで人間を永遠の滅び陥れようとする罪は力を失い、人間に対して永遠の命の扉が開かれたということです。眠っている者たちに言っても聞こえないのではないかと思われるかもしれませんが、大事なポイントは次のことです。つまり、亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられたということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。生きている者がこの真理と無関係でいられなくなったように、死んだ者も無関係でいられなくなったのです。

 ペトロは続けて陰府の中にいる、「捕らわれていた霊たち」が誰であるかを明らかにします。それは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です。どうして急にノアの箱舟のことが出て来るのでしょうか?それは、イエス様の時代のユダヤ教社会の人たちの関心事の一つとして、ノアの時代に洪水に流されて滅んでしまった者たちは今どうしているか、ということがあったのです。どうしてそんな関心事があったとわかるのかと言うと、当時ユダヤ教社会に出回っていた書物の中にそのことが書かれていたからです(そのような書物にエノク書という書物があります)。

 創世記6章にあるように、ノアの時代、この世の状態は非常に悪く、悪が蔓延していた。それで神は全てのものを一掃してしまおうと大洪水を起こすことを決めた。その大洪水で滅ぼされた者たちの霊が「捕らわれた霊」です。そのような霊のいるところにまで行って、死と罪に対する勝利を告げ知らせたのです。こうして、死んだ者が眠っている陰府にも勝利が響き渡り打ち立てられました。罪と死は陰府でさえも力を持てなくなったのです。22節に「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服している」と言われている通りです。「権威」「勢力」というのは、霊的なものを意味します。

 そこで、大洪水に巻き込まれずに箱舟に乗り込んだ8人だけが水の中を通って救われたと言われます。21節「この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。」ここで注意が必要です。「水で前もって表された洗礼」とは意味がよくわかりません。ギリシャ語原文ではアンティ・テュポスと言う言葉です。テュポスとは、類型とか型、日本語でもタイプと言います。アンティとは「逆」とか「反対」を意味します。つまり、大洪水の水は人間を滅ぼす神の裁きの水であったが、洗礼の水は逆に人間を神の裁きから救う水であるということです。

 神はノアの時代、大洪水を起こしてこの世の悪を一掃しようとしました。まさに最後の審判に匹敵する裁きでした。しかし、洪水の後で神はもう二度と同じような滅びの洪水を起こさないと約束します。それは、今の天と地がある間はそのような全世界的な裁きはしないということです。しかし、聖書には、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されるということがあります。その終わりと始まりの間に最後の審判が来るのです。この天地の大変動と最後の審判を乗り越えられるために洗礼があるというのです。それで水は、かつては裁きの水だったのが、今度は逆に裁きから救い出す水になったのです。かつての水は全ての陸地を無慈悲に覆いつくす恐ろしい威力を持つ水でした。私たちが受ける洗礼は、水滴を頭にかけるか、または教派によっては全身を水に浸すかのどちらかですが、果たしてその程度の水で天地の大変動と最後の審判を乗り越える力があるのか?しかもペトロは、洗礼は肉の汚れを完全に取り除くことは出来ない、洗礼とは正しい良心を神に願い求めるものでしかないなどと言います。そんな頼りないもので乗り越えられるのでしょうか?

 それが乗り越えられるのです。先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、イエス様の犠牲のおかげで心が新しくなり、それで最後の審判の日に神の御前に立たされても、やましいところがない者として前に進み出ても大丈夫な者なのです。それだから、洗礼とは神の前に立つことができる良心を神に願い求めるものなのです。さらにペトロは洗礼にはイエス・キリストが伴っていると教えます。死から復活し死を超えた永遠の命を持ち、彼に続く者たちにも同じ命を与えられる方、今は再臨の日まで天の父なるみ神の右に座していて、既に霊的なものを全て、天使も権威も勢力も足元に服従させている方が、洗礼を受けることで一緒にいて下さるようになるのです。

 兄弟姉妹の皆さん、私たちはこのように史上最強の神の御言葉と洗礼を自分のものにしているのです。一体、何を怖れる必要があるでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注 「霊において」は訳が違うと思います。英語訳NIVとドイツ語ルター訳はこの訳でいっていますが、ドイツ語共同訳とスウェーデン語訳とフィンランド語訳はそう訳していません。ギリシャ語原文のこの箇所εν ωは接続詞句と見るべきです。「霊において」という訳ならば、ここはωでよかったと思います。

牧師の週報コラム

平穏の時も動揺の時も聖書の御言葉を基として生きる

先日Facebookでフィンランドの知り合いの牧師が「ダニエル書3章16~17節を忘れるな」とだけ記していました。 捕囚の民の若者が、異国の王から金の像を拝め、さもないと炎の炉に投げ込むぞ、と脅された時の若者たちの答えです。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

多くのキリスト信仰者は、信仰者として態度を示さなければならなくなった時、自分がこう振る舞うのはキリスト信仰の立場に立っているからだ、とはっきりさせてそう振る舞うべきか、それとも、周りとギクシャクするのは気が進まない、そう振る舞わないのが賢いやり方ではないか、どっちにしようかという場面に立たされます。私の場合、そのような場面に立たされた時はいつもこの聖句が身近にやって来たので賢くならなかったのでした。「そうでなくとも」というのは、神が助けてくれない場合もあると認めています。しかし、そんことは自分が神を信じることと何の関係も影響もないと言っているのです。

私たちの家族に特別支援の子供が生まれた時、最初は本当に情けない位に動揺しました。足元の地盤が砂のように崩れ落ちていく感じでした。しかし、ヨブ記2章10節の御言葉が身近にやって来ました。敬虔な信仰者ヨブにありとあらゆる不幸が襲い掛かり、最後は一人残った妻からも、いつまで無垢を装っているのか、さっさと神を呪って死んだ方がましではないか、とさえ言われてしまいました。ヨブは次のように答えました。「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか。」 以前素通りしていた御言葉でしたが、ヨブ記の終わりにある神とヨブの対話を知る者には全てを打ち砕いて全てを再建する言葉として響いてきたのです。足元に新しい地盤、以前よりも固い地盤が築かれたと思いました。それで、その時「不幸」だと思っていたものが、ただの「大変なもの」に変わっていったのでした。

激しく動揺するような事態に陥った時、聖書のどの御言葉が自分を支えてくれるか。それは、平穏な時に日ごろから聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて吟味することを積み重ねていれば、動揺の時に相応しい御言葉が目の前に飛び込んでくると思います。その時になって慌ててページをめくっても恐らく手遅れではないかと思います。なので、少し怠けていた方はそうならないために聖書を開きましょう。

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは3月9日(土)13時に開催します。

パイナップル・ココナツケーキ

 

料理クラブは定員に達しましたので、受付は終了しました。ご了承ください。

今年もイースターの季節がやってきました!3月の家庭料理クラブは「パイナップル・ココナツケーキ」を作ります。カルダモン風味のしっとりケーキの上にパイナップルをたっぷりのせてイエロー色豊かなイースター・カラーを演出します。フィンランドでは「ココナツのトッピングはケーキの風味を王冠のように高める」と言われるくらいです。本当にその通りであることを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。パイナップル・ココナツケーキ

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、
moc.l1758193426iamg@1758193426arumi1758193426hsoy.1758193426iviap1758193426 まで。

電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月10日に開催しました。週の初めは東京でも大雪でしたが、週末に向けて暖かくなり雪も融け、春の近づきを感じさせました。

今回作るものは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並ぶラスキアイス・プッラです。今回も申し込まれた方が多く、すぐキャンセル待ちの状態になってしまいした。ラスキアイス・プッラは日本でも最近知名度が高まっているフィンランドの代表的なプッラの一つです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、「コーヒー・ブレッド」用のプッラの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加え始めます。生地をよく捏ねてから柔らかいマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地が出来上がりました。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。ここで一休み。あちこちから楽しそうな話し合いの声が聞こえていきました。もう少しすると美味しいラスキアイス・プッラが出来ることが皆さん、楽しみのようです。生地はあっという間に大きく膨らみました。

それからラスキアイス・プッラの形作り。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、切った生地を一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めたら皆さん、上手になってきれいなプッラが次々と鉄板に並べられていきます。それから二回目の発酵です。今回は小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人と一緒に一生懸命プッラの生地を捏ねて上手に生地を丸めていました。

ラスキアイス・プッラの中身を準備しているうちにプッラはあっという間に大きく膨らみました。それをオーブンに入れて焼きます。少し経ってオーブンの中を覗いてみると、皆さん嬉しそうな声で「わぁー、また大きく膨らんでいる!」「形がきれいね!」きれいな焼き色になったプッラをオーブンから取り出してよく冷まします。その間にコーヒーやテーブルのセッティングをします。

冷めてきたプッラを半分に切り下半分にラズベリーのジャムをのばしてその上にホイップ・クリームをのせます。その上にプッラの上半分をのせてラスキアイス・プッラの出来上がりです!

出来たてのラスキアイス・プッラをコーヒー・紅茶と一緒に味わう時間になりました。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきます。

皆さんと一緒に美味しい満ち足りた雰囲気で歓談の時を過ごしました。同じ時にフィンランドの「ラスキアイネンの日」や受難節の期間に開催される「日常の喧噪から離れる」というイベントについて、それからイエス様が教えられた休息の必要性についてのお話も聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月9日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

フィンランドのラスキアイネンの話2024年2月

今日はフィンランド人が大好きなラスキアイス・プッラを作りました。フィンランドでは新年が終わってしばらくするとラスキアイス・プッラがどのお店や喫茶店でも販売されます。ラスキアイス・プッラの販売期間は大体2か月くらい、ラスキアイネンの日までだけです。ラスキアイネンの日が近づいてくると、もちろん多くの家庭でもラスキアイス・プッラを作ります。ラスキアイス・プッラの種類は中身によって二つあります。今日作ったのはジャムと生クリームが中身ですが、アーモンドペーストと生クリームの中身もあります。今年はどっちの方が美味しいかなぁといつも話題になります。

ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。それで今年のラスキアイネンの日は来週の火曜日となります。

フィンランド人はラスキアイネンの日をどのように過ごすでしょうか?フィンランドではラスキアイネンの頃から太陽が出る明るい時間が少しづつ長くなって晴れる日も多くなります。sori, CC0それで、雪の中をそりですべって「下る」ことをしたり、美味しいラスキアイス・プッラを味わうことが伝統的な過ごし方です。大人も子供も寒い外でそりで滑って、その後で暖かい部屋でラスキアイスプッラと暖かい飲み物を一緒に楽しみます。多くの町ではいろんなイベントもあり、子供たちを馬や馬のそりに乗せたり、スケートをしたり、スキーの競争もしたりします。もちろん、そこでもラスキアイスプッラと暖かい飲み物はつきものです。

ラスキアイネンの日が過ぎると受難節に入ります。この期間フィンランドの教会では「日常の喧騒から離れる」というイベントがあちこちで行われます。これは自然の中にある教会の宿泊施設で行い、だいたい金曜日の夜から日曜日の夕方まであります。参加者は自然の中で散歩したり、部屋で静かに時間を過ごしたり、一緒にお祈りしたり聖書を読んだり讃美歌を歌ったりします。もちろん一緒に食事をします。そこではスマートフォンやパソコンは使いません。参加者は日常の忙しい騒がしい生活から離れて、日常から距離を置いて自分を静かに見つめて、聖書をもとにいろいろ考えたりするので、体を休めるだけでなく魂にとっても良い休息の時になります。私は参加したことはありませんが、このような、何もあくせくする必要がない時間を持つことは心身ともに良いことだと思うので、いつか参加してみたいです。

Marcílio José Soares, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

聖書にも、イエス様が時々、人々から離れて静かな場所に行って祈る場面が沢山あります。マルコの福音書1章35節には次のように書いてあります。「朝早くまだ暗いうちに、イエス様は起きて、人里離れたところへ行き、そこで祈っておられた。」イエス様が静かな所に行かれたのは天の神さまにお祈りするためでした。そのために静かな場所が必要でした。その後で別の町や村に行って神さまのことを人々に教えに行かれたので、静かな場所でお祈りするのは心の準備にもなったのです。

イエス様はまた、静かな場所で休むことは自分だけでなく弟子たちにも必要と考えました。ある時弟子たちがイエス様の所に戻って来て、自分たちが町々で人々に教えたことを報告しました。多くの人たちが神さまについて興味を持って信じるようになったので、弟子たちはイエス様に詳しく報告したかったのです。しかし、イエス様は言われました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。イエス様と弟子たちの周りにはいつも大勢の人たち、神様について教えを聞きたい人たちや癒しを求める病気の人たちが集まってきました。務めは沢山あっても、イエス様は弟子たちと一緒に休んだのです。イエス様は弟子たちに肉体的な休みが必要であることをよく知っておられたのです。私たちも同じように休みが重要です。イエス様がその例を示しています。

私たち人間は肉体的な休みのほかに魂の休みも必要です。魂の休みはどんな休みでしょうか?イエス様はこのことについても教えられました「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書11章28節です。イエス様はだれでも自分のもとに来るように招いておられます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、お祈りすることでイエス様のもとに行くことが出来ます。イエス様は彼のもとに行く人に休みを与えて下さると言われます。

もし私たちがイエス様のことを、神さまが救い主として贈って下さった方だと信じることが出来れば、心の中に平安を得ることができます。このようにイエス様に繋がっていれば、彼を贈って下さった神さまを信頼することができ、全てのことを自分で抱えないで神様の御手に委ねることが出来ます。そこから心の中に平安が生まれるのです。これが、イエス様が与えて下さる魂の休みです。

イエス様は世界の人々だれにでも「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。私たちにもいつもそう声をかけて下さいます。

魂の休みの場として、教会の日曜礼拝は一番重要な場所です。そこでも私たちは、日常の喧騒から離れて、聖書の御言葉を聞いたり、讃美歌を歌ったりお祈りしたりします。それも、天の神さまのみ前で心を静める時です。そこで神さまとの繋がりが強くなります。それで、礼拝は新しい週の心の準備の時にもなって、一週間を歩む力になります。礼拝も、「日常の喧噪から離れる」イベントなのです。

フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化を与えることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を食べないということがあります。この受難節を通して私たちは自分の生活や時間の使い方を考えることにもなります。これは大事な準備の期間です。