お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
マルコによる福音書9章2−9節
「変容の栄光のうちに指し示されるのは何か?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今朝与えられている聖書の御言葉は、イエス様の姿が白く光り輝く姿に変わられた「主の変容」と呼ばれる出来事です。この出来事は並行箇所であるルカの福音書9章では「栄光に包まれ」とか「栄光に輝く」とか書かれている通りに、イエス様がその姿をモーセとエリヤと共にその「神の栄光の内」に、3人の弟子へ、そしてその3人を通して私たちへと表されている出来事でもあります。そしてこの出来事はこの前の箇所と深く関係しております。この前の8章の後半部分では何が書かれているかと言いますと、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねています。イエスからの大事な質問でした。そこでペテロは「あなたはメシアです」と答えました。マタイの福音書の方では「あなたはメシア、生ける神の子です」とペテロは答えており、イエス様はその「信仰の告白」を明らかにしたのは人ではなく天の父なる神ご自身であるといい、さらにはその神の与えた岩の如き信仰告白の上にイエス様はご自身の教会を建てるという約束と、その教会に地上で繋ぐことも解くこともできる鍵を与えるという約束を与えています。その直後に、マタイもマルコも共通していますが、イエス様はご自身が苦しみを受け、殺されることと三日目に復活することを伝え始めるのです。「救い主が苦しんで死ぬ」なんて理解できないペテロはイエスを諌めますが、イエス様はペテロを「下がれサタン」と厳しい言葉で叱責し、そして、自分に従う者は自分を捨て自分の十字架を背負って従いなさいと伝えているのです。その後の出来事が今日の箇所になり、今日のこの「変容」の出来事はそれまでの一連の出来事から続いているのです。いわば、イエスの「あなた方はわたしを何というか」「わたしは誰であるのか」という問いの、弟子たち、そして私たちへの、天の父なる神からのさらなる確証とも言える回答が、この「変容」に表されているとも思われるのです。2節から見ていきますが、その日から六日目、こう始まっています。
2、「姿が彼らの目の前で変わる」
「2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていくと言う場面は福音書にはいくつか記録されていますが、それはイエス様にとっては「ゲッセマネの祈り」の場面など鍵となる場面が多いです。今日のところもそうでした。そこでは2節の終わりからこう続いています。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
マタイの福音書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17章2節)とあります。 そのような、イエスの姿が変わる、しかも顔が太陽のように輝き、衣も白く光った、というのはこれまで見たことのない光景であったのでした。
4つの福音書全てが証しし、そしてフィリピ書のパウロの言葉からも分かるように、イエス様は「神の身分でありながら〜自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ〜人間の姿で現れ」た、私たちと同じ肉体、同じ姿となられ共に生きられた「真の人」でした。ですから、真の人となられ生活しているイエス様がそのようなあり得ない姿に変わるなどなかったことであり、弟子たちも当然、見たことがなかったのです。しかもそこには、
3、「エリヤがモーセともに栄光に包まれ」
A,「栄光の中で」
「4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
4節
とあるのです。エリアもモーセも、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにとっては偉大な預言者ですが、過去に存在していたけれども今や地上には生きていない偉大な預言者でした。ですから、そのイエス様の光輝く光景のみならず、天に登った偉大な預言者が現れイエスと話しているという、3人にとっては普通ではない、信じがたい出来事が目の前に広がっていたのでした。ペテロの目には、5節以下の言葉に分かる通り、これは「素晴らしい」出来事でしたが、6節、どう言えば良いか分からなかったとある通りに、彼には何のことか理解できない素晴らしい出来事でありながらも同時に、「非常に恐れていた」とある通りに「恐ろしい光景」でもあったのでした。そのように人間には計り知れず理解できない光景ではあったのですが、神の前にはこの出来事には意味がありました。ルカ9章では、先ほども引用したように、これは天からの「神の栄光の中で」現され証しされた一つの出来事でした。しかし注目したいのは、ルカ9章31節の言葉です。
B,「イエスがエルサレムで遂げる最期について」
「31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
天の神からの栄光の現れ、しかしそこで3人が会って話していたのは、
「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」
であったのです。つまり十字架の死でです。みなさん「神の栄光」と「十字架の死」。一体それはどう繋がるでしょう。人の目には一見、相容れない言葉のように見えます。もちろんイエス様にあっては一貫していました。先ほども見ました。イエス様は、この直前から、ご自分が受けられる苦しみと死、そして、復活のことをはっきりを伝え、自分が歩む道、目的を伝えていました。「十字架を負って」と十字架をも示してもいます。他方、弟子たちはその時は何のことかわからず、ペテロはイエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめ、それに対し、イエス様から「下がれサタン」と厳しく叱責されました。叱責されてもそれでもペテロは理解できなかったことでしょう。そして、この素晴らしい変容の光景も理解できませんでした。しかし目には輝かしい光景に「素晴らしい」と感動し、幕屋をそれぞれのために建てようと彼は言うのでした。彼はその目に見える神の栄光の現れを見たまま素晴らしいと「肯定的に理解」しているのです。
しかし、その「人の目」の前に広がる神の輝かしい光景、天からの栄光が現れる素晴らしい出来事ですが、しかし「人の目の栄光の素晴らしさ」とは裏腹に、その栄光の本質、核心、中心は、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後、捕えられ苦しみを受けられ死ぬと言うことでした。まさに十字架の出来事を、モーセとエリヤに話し、語っているのです。そしてこの後、事実、神がイエス・キリストにおいて実現する神の栄光、神の救いと勝利は、まさしく、イエス様が苦しみを受け死なれる十字架と復活にこそ現されていくでしょう。そのことこそ4つの福音書が共通して証し、パウロをはじめ使徒たちが聖書に書き記した証しに他なりません。
C,「人が素晴らしいと思い、見ようとする栄光」
世の中の、いや、クリスチャンでもそうかもしれませんが、「栄光」という言葉に錯覚させられるのです。「人の目」にあっては「栄光」というのは、何か、自分たちの目に見ることができ、人間の価値観や理想や願望に照らして、その通りになった華やかで輝かしい繁栄や成功に「栄光」があるように思い描いたり、予想したり期待するものです。そして、人間がその心に描き出す栄光に基づいて、その栄光がなることを待ち望んだり、期待したり、実現しようと頑張ったり、そして、その通りになったり自分の力で実現するところに、神の栄光があるとか、神がそこにいるのだとか、神の祝福があるのだと、勝手に決めつけてしまっていることは実は少なくありません。そのような人間中心の栄光のための教会運営や、宣教や伝道、そして教会成長などがむしろ賞賛され、緻密で合理的なハウツー理論まで備えて、当たり前のように、それが聖書的で敬虔であるかのように教会が立法的に導かれるのは、よく耳にすることです。しかし、それはヒューマニズムや理性や感情中心を超えることのない、人間の自己実現、律法主義に過ぎないものです。神が指し示した、福音に、つまり、イエス・キリストとその十字架と復活に根ざしていないのです。罪深い人間は残念ながらその性質ゆえに、目には見えない御言葉の真理や力よりも「しるしを求める」とあるその通りに、そのような目にみえる華やかさ、しかし的外れなところに栄光を見ようとするのです。
D,「神の栄光の中にある、イエスが遂げようとするものは何か?」
しかし、天の父なる神がイエスに、そして、イエス様のもとに遣わしたモーセとエリヤとの会見の場に現した栄光の真の意味、そしてその通りに実現した栄光はどこに実現し現わされるでしょうか?それは、このイエス様の苦難と死、十字架と、そして復活に現されたでしょう?今日の箇所も、その前の出来事も、そしてこの後に続いていく頂点も、四つの福音書が示し、使徒たちがその手紙で伝え指し示しているのは、まさにそのこと、栄光は、人間が誰も予想も期待もできなかった「十字架と復活においてであった」と言うことではありませんか。ここに聖書の伝える逆説があるのです。
4、「聖書が伝える逆説的な神の恵みのわざ」
実に、ここに登場するモーセとエリヤも偉大な預言者ではありますが、彼らを通して現された神の栄光もまた人の目には逆説的であり、それは「苦難のうちに、苦難を通して」現された神の栄光であり、神の臨在と神のわざであることに共通しているでしょう。イスラエルのエジプトにおける奴隷からの解放、その後の荒野の40年、そこでのモーセは神でもなければ、完全な超人でも聖人でもなく、弱気な自信のない一人の罪人でした。「他の人を遣わして欲しい」と彼は神の召しを何度も拒みました。苦難の人生であり、苦難のリーダーシップでした。しかし神はそんな彼の罪深さと苦難のうちにこそおられ、そんな彼を通して、彼を用いて、罪深い反抗する民を導かせました。苦難の荒野を進ませ、そのようにして神は、人の期待や予想や思いを遥かにこえて、苦難の中に栄光を現されました。そのモーセがまさにイスラエルの民に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」申命記18章15節)と指し示したのが、まさにここで会見するイエス・キリストに他ならないでしょう。そして、エリヤもまた、神は彼にバアルの預言者に勝る真実をあらわしてくださったのにも関わらず、王アハブを恐れ荒野に逃げ叫びました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上19章4節)と。最後は天に上げられた彼ではありますが、彼も神でも聖人でもなく、彼も一人の人間、罪人であり、弱さを覚えていた苦難の人でした。しかし、神は、その苦難の中にあって、一人の罪人であっても、神ご自身が恵みによって選んだ、信仰者であり預言者であるエリヤを通して、そしてその苦難を通してこそ神の栄光を現してこられたのでした。さらに言えば、今日の箇所の出来事の後、イエス様が9節で言われた「人の子が死者の中から復活する」という救い主には起こり得ない死ということに戸惑った弟子たちは11節で「救い主の前にエリヤが来る」と約束されているのはどういう意味かとイエスに尋ねています。弟子たちはなおも「栄光の出来事」と「メシアの死」が繋がらないし理解できないのです。しかしイエス様は、その「来たるエリヤ」は、この変容の場面のエリヤではなく、バプテスマのヨハネのことを意味していることを教え「人々はそのエリヤであるヨハネを好きなようにあしらった」、つまり、殺したことに預言がすでに成就していることを教えています。まさにそのバプテスマのヨハネも「人の目」には見窄らしい荒野の預言者でその最後も悲惨で壮絶でしたが、そこに預言の約束の通り神の栄光は実現しているのです。そしてそこでは、12節にあるように、同じ聖書が「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」と伝えているのはなぜなのかと、聖書は、神はそのように救い主の苦難にこそ栄光を現されることを伝えているではないかと、人間の予想や思いとは逆の、やはり「神の逆説の真理と救い」を示していることがわかるのです。
5、「神の栄光、救い、勝利、真実さはどこへ現されるか?神はどこへにいるのか?」
皆さん。「神の栄光、神の救い、神の勝利と真実さ、そして神はどこにおられるのか?」聖書ははっきりと伝えているのです。人は目に見える人間の思いにある繁栄や栄光にそれらのことを探し求めようとします。しかし、神はそれらのことを、そこにではなく、まさに人間は誰も思いもしなかった、予想もしなかった、探さなかった、むしろ皆が目を閉ざし、見たくない、避けたい、私たちの罪のための、私たちの負うべきであった、その罪の報酬である、しかし私たちが決して負うことのできない、苦難と死である、この十字架と復活にこそ現されたのです。それが神の御心、計画であった、天からの福音、良い知らせではありませんか。そして、そのように「私たちが」ではなく「神が」、「私たちに」ではなく、その「御子に」私たちが負うべきものを負わせたからこそ、しかもそのことをただ信じ受け取るだけで、私たちは罪の赦しと新しいいのちがただ恵みのみによって与えられ、恵みだからこそ喜び安心することができるでしょう。イザヤ53章が私たちに示している通りです。
「1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
(イザヤ書53章1節)で始まり、こう続きます彼には「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。」(同2−5節)しかしこう続きます。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。〜8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(同5−8節)しかし最後にこうあります。「10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」(同10節)
神が私たちに現された栄光、救い、勝利、真実さ、そして愛も憐れみも、みなここに、イエス様の十字架と復活にこそあります。そして私たちはどこに神を探し、求め、見出すでしょう。私たち人間が自分の力で頑張って成功し完全になった所に、あるいは、思い描いた理想や繁栄を実現した所にではありません。罪深い私たちのために、その間に来られ、その私たちの罪のための、この地上の苦難の十字架にこそキリストはおられ神の栄光を実現し愛と救いを現されたように、今も私たちの苦難の中にあって、罪深さの中にあって、日々悔い改めつつ、神にただ「憐れんでください」と十字架と復活の約束と事実を信じ、十字架と復活のイエス様を信じすがるその時に、イエス様はそんな私たちの間にこそ今もいてくださり、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださるのです。
6、「「これに聞け」:神は人に幕屋を建ててもらう必要がない。」
最後に短くもう一つの幸いのうちに遣わされていきましょう。ペテロは栄光の3人に口を挟んでいいます。5節
5「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
しかし神はそれをそのようにさせず言います。
「7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
皆さん。感謝ではありませんか。神であるイエス様は人によって仮小屋、つまり幕屋を備えられる必要はありません。人が備え建てる幕屋に住まわれるのでもありません。つまり神は人によって仕えられ、何かを準備されたり作り上げられなければ何もできない方ではありません。むしろ、イエス様は言っているでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10章45節)と。イエス様は私たちに仕えるために来ました。「私たちがまず」仕えるのではなく、「イエス様がまず」仕えてくださり、その究極が自分の命を捧げるため、十字架で死ぬためでした。イエス様がその十字架のゆえに、今日もここで最大限に私たちに仕えてくださっている、その恵みが先にあってこそ、私たちはここで礼拝しているでしょう。だからこそここでも天の神の声はペテロや弟子たちに「まずあなた方が語れ、礼拝しろ、仕えろ。何かしろ。何か条件をクリアしろ」とは決して言いません。神は言われます。それより何より
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
と。あのイエス様ご自身の洗礼の時の天からの言葉であり、そしてあのマルタとマリヤの姉妹の場面(ルカ10章38−42節)でも、マリヤはただ唯一の必要なことをしているとイエス様が言われたこと、それは「イエスの言葉に聞くこと」。それこそ神が何より私たちに求めており、それこそが必要な唯一のことなのです。それはまず神が、イエス様が御言葉を通して仕えてくださるからこそでしょう。それが礼拝の意味です。「私たちが」まず神に仕える、「私から神へ」のサービスが礼拝ではありません。「神が」まず私たちに仕えてくださる。「神から私たちへ」の御言葉によるサービス、それが礼拝なのです。そのようにイエス様が御言葉を語り仕え、私たちがその言葉を聞くからこそ、私たちは感謝を持って応答する、祈る、賛美する。遣わされていく、それも礼拝ですが、全てはイエス様がまず仕えてくださるからこそです。今日もイエス様は御言葉を持って私たちに仕えて下さり、宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひイエスに聞き、福音を受け取り、平安のうちにここから遣わされていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
何が面白い説教か?
超教派の福音伝道者として活躍中のS氏とお互いの伝道の課題について話し合う機会を持った。 彼はもともとは大学生伝道の第一人者で、現在はいろいろな教会を訪問して説教や聖書の学びの奉仕をされている。その伝道手腕は各地で高く評価され、ある神学校で教鞭も取られている。
S氏曰く、奉仕先の教会の中には沈滞気味のところもあり、そこでは説教を始めるや否や、あちこちで眠りこけてしまう人たちが出て、彼らの手や膝の上から聖書が次々と床に落ち、分厚い本だから床にあたる音の凄まじさといったらなく、まるで悪魔から、神の言葉なんかやめろと抗議されている感じになりますと。そこで、そういう教会ではどんな説教が受けるだろうかという話になった。
まず、牧師の武勇伝。自分がどれだけ社会や隣人に尽くしたかを話すとみんな目を輝かせて聞くだろう。自分に材料がない場合は、他人の武勇伝を紹介する(某教会の牧師はノーベル平和賞の受賞者の業績や生立ちをずっと話して聞かせたそうだ。きっと聖書の個所はマタイ5章9節だっただろう)。
次に、自分の知識博識を披露する。アリストテレスはこう言った、カントはこう言った、フロイトは、孔子は、親鸞は…等々、古今東西の哲学者、宗教者、心理学者の思想や理論、名言・格言を散りばめる牧師もいたと聞いたことがある。「神学大全」ならぬ「博学大全」(そう言えば、中野区の哲学堂公園にはこうした古今東西の思想家の銅像が並んでいる。イエス・キリストもその一人。神の子メシアから引き降ろされてしまった。まさに現代のグノーシス主義)。
以前、某教団の牧師・代議員会議に顔を出した時、そこでの礼拝の説教で牧師が最近読んで感銘を受けた本について紹介をした。説教の最初から終わりまで。皆さん興味津々で聞き入っていたことは言うまでもない。そして、締めくくりの言葉はこれ、「今日の聖書の個所でイエス様がおっしゃりたいことは、こういうことだったのではないでしょうか?」 日本では牧師は神に近い聖職者だから、これを言えば効果てきめん、みなその通りだと信じるだろう。
かく言う私も、ルターを時々引用するが、それは説教で述べてきたことの総括としてだけ。ごく稀に著名な神学者(J.Jeremias とか E.P.Sandersとか)に言及したこともあるが、それはこんな大学者でもこんな変なことを言う、困ったものだ、という悪例としてだ。私としては、会衆に受ける話を創るつもりはなく、むしろ御言葉に包まれて眠って頂いた方がいいくらいだ。ただし、聖書は落とさないようにしっかり持っていましょう。
主日礼拝説教 2024年2月4日 顕現節第四主日
聖書日課 イザヤ40章21ー31節、第一コリント9章16ー23節、マルコ福音書1章29ー39節
Youtubeでを説教を聞く
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の福音書の個所を呼んで、皆さんは、あれ、イエス様は困っている人に少し冷たいくはないかと思わなかったでしょうか?今日の個所を注意して見てみましょう。
まずイエス様は、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ取りました。丁度その時、悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々は、イエス様は権威ある教えだけでなく、霊的な力もお持ちであることがわかりました。イエス様のうわさはその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきました。ここまでは先週の個所でした。
そして今日の個所が続きます。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいました。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。
イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂で教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い一日になりました。本当にお疲れ様でした、と言いたくなります。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いたその途中か、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。
ここが、あれっ、イエス様は少し冷たいな、と思わせるところです。もう少しペトロの家に留まって癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったのです。もちろんイエス様には苦しんでいる人たちを助けたい気持ちはありますが、ただ、病気を治して信じるようにもっていくというご利益路線ではありませんでした。マタイ6章33節でイエス様は、何よりもまず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはみな加えられて与えられる、と教えています。健康になりたいとか切実な願いがあるのはわかるが、それでもまず神の国と神の義を求めるべし、それに続いて神は必要なものを整えて下さる。キリスト信仰ではご利益を求める前にまず心が神の国と神の義に向けられていることが大事なのです。神の国は、イエス様の宣べ伝えた教えの中で一番大事なものでした。神の義に関しては、イエス様は後の使徒たちに比べるとそんなに語っていませんが、言葉に言い表さなくてもイエス様の教えは人間の心を神の義に向けさせるものでした。それでは、神の国、神の義とは何かを次に見ていきましょう。
神の国はイエス様の教えの中心です。人間が神の国に入れるようになるためにはどうしたらよいか?そのためには、人間が神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者でなければならない、それが神の義を持つということです。どうしたら神の義を持つことができるか?この質問の答えは、天地創造の神がひとり子をこの世に贈った理由がわかればわかります。
まず神の国について確認します。本教会の説教でも何度もお話ししましたが、今日もまた振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られた創造主であるというのが聖書の立場です。万物の創造主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことです。
そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。なので、キリスト信仰では神の国すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。死んだらすぐ天国に行かないのです。神の国に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。それなので、亡くなった人たちは復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠っているということになります。復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。
ところで、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはまだこの世の終わりを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論とは違う意味で言ったのでした。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章では、そこに迎え入れられた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
しかしながら、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。殺すな、盗むな、姦淫するな、偽証するな等々、十戒の掟があります。たとえ外面的にはそのような悪を行わなくても、心の中で人を見下したり憎んだり異性をふしだらな目で見たりしたら神の意思に反する罪を持っているのです。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留っているのです。また、いくら十戒の掟を外見上守っても、何か宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできないのです。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様だったのです。イエス様は私たち人間が受けるべき罪の罰を私たちに代わって十字架の上で受けてられて死なれました。まさに私たちが罰を受けないで済むようにして下さったのです。それで私たち人間が、彼の十字架の死は自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が十字架で果たしてくれた罪の償いがそのまま自分にその通りになる、罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者と見なされるようになる、神から罪を赦されたから神と結びつきをもってこの世を生きられるようになる、これが神の義を持つということです。人間はイエス様を救い主と信じる信仰で神から義なる者と認められるのです。
さらにイエス様が神の想像を絶する力で死から復活されたおかげで永遠の命に至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰で神から義と認められた者は、永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。順境の時だろうが逆境の時だろうが神との結びつきは何ら変わりません。たとえ、この世を去ることになっても神との結びつきを持って去り、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。
このようにイエス様にとって最も大事なことは、人間が神の義を持てるようになって神の国に迎え入れられるようにすることでした。それで神の国と神の義が彼の教えの中心にあったのです。しかも、教えることだけではありませんでした。自ら命を賭してまでして十字架と復活の業を遂げて、人間が実際に神の義を持てて神の国に迎え入れられる条件を整えて下さったのです。神がイエス様を通して私たちに与えて下さった信仰が御利益信仰にならないことがよくわかります。病気が治ってそれがもとで信じることになったら、また病気になったら信仰の土台は揺らぎます。創造主の神が与える信仰は、病気だろうが健康だろうが全く関係ないものなのです。
本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節で、イエス様が多くの悪霊を追い出した時、ものを言うことを許さなかった、なぜなら、悪霊はイエス様のことを知っていたからだ、というところです。これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?同じようなことが先週の個所にもありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」悪霊はイエス様が神の神聖な方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にするなと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊に話をすることを許さなかったというのは一体どういうことでしょうか?
悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。しかし、それは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、神の国への迎え入れということが全然ないからです。キリスト信仰者の場合、神の国への迎え入れがあるから信仰告白するのです。それなので、イエス様が神の神聖な者、神の子であることを悪霊に語らせないのは、信仰告白と逆方向に向かうような暴露はするなということです。ところで、イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、その言うことに私たちは耳を貸してはならないということも意味します。ここでもイエス様が私たちを悪霊から遠ざけて関係を持たないようにして下さっていることがわかります。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むのはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。「裁きは神に忘れられた」はちょっと変です。裁きはないのがいいに決まっていますから、これでは嘆きになりません。ヘブライ語のミシュパートは「正しい決定」が元の意味で、そこから派生して「正義」の意味があります。なのでここは、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。神に見放されたと思って嘆いているのです。いわゆる、神が隠されてしまった状態です。しかし、外見上は神は隠されてしまったように思えても、実はまさにその時、神はすぐそばにいて一緒にいて下さるというのが聖書の立場です。それはあたかも、曇りの日に太陽が雲に遮られて見えないのと同じです。太陽が見えないからと言って、太陽が消滅したとは誰も考えません。雲に遮られて見えないだけとわかっています。それでは、それと同じように、神が隠されてしまった時に神がすぐそばにいて一緒にいて下さることをわかるでしょうか?イザヤ書40章の終わりの部分はそのことを教えています。
まず神は創造主であることを思い出しなさいと強い調子で言います。「お前たちは知ろうともせず聞こうともしないのか、初めから告げられてはいなかったのか、理解していなかったのか、地の基の置かれた様を?
(強い調子はヘブライ語原文ではっきり表れています)。また、神は「天をベールのように広げ、天幕のように張られ」、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主である」と。そして、「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」と言われます。これなどは、神がつむじ風の中からヨブに語りかけた口調を思い起こさせます。そうなると私たちとしては、おっしゃる通りです、としか言えません。その創造主の神が何をなさるか、預言者が証しします。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。
主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて、それでいつも神に守られ導かれながら神の国への迎え入れを目指してこの世を進んで行きます。この結びつきは、病気だろうが健康だろうが全く変わらない結びつきです。なので神が隠されたような時でも実はそばにいて共にいて下さっていることは当然のことになっています。つまり、私たちはいつも神に望みを置いているのです。だからこの道を歩む力をいつも与えられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
手芸クラブの話2024年1月
今日は今年初めての手芸クラブの開催が出来て嬉しく思います。今日はバンド織のキーホルダーを皆さんと一緒に作って、とても可愛い色とりどりのキーホルダーが出来ました。 わたしが今使っているキーホルダーはひろ子さんからいただいたものですが、おかげで鍵を探す面倒がなくなりました。
今日は一月の最後の日ですが、フィンランドからもらったカレンダーの1月の写真についてお話ししたいと思います。このカレンダーには、毎月フィンランドの季節に典型的な景色の写真が載せてあります。一月の写真は寒そうですが、冬の澄んだ青空の景色です。冬フィンランドの木は霜で覆われています。写真の真ん中に岩の上に灯台が見えます。この灯台はそんなに高くはありませんが、その光は遠くまで輝いたと思います。私はこの写真の灯台を見て、これは一月にピッタリの写真だと思いました。長い冬の夜に光を与えるからです。
フィンランドに灯台は60個くらいあります。日本と比べたら全然多くありません。日本はとても多くて3千個以上もあります。日本は島国だからでしょう。フィンランドも、南と西は海に囲まれていて、島も多いので、灯台は昔から安全な海上運送のために重要でした。灯台の赤いランプは船やボートに安全な航路を示しました。ところが、現在は灯台の重要性は減ってしまったかもしれません。灯台の代わりにスマートフォンやパソコンのアプリを使って船の進路を決めるようになったからです。このため、フィンランドの多くの灯台は観光客に開かれて人気がある観光地になりました。夏多くの観光客が灯台を訪れます。
ところで、私たちの人生を考えると、私たちの歩みは海を進む船と似ています。それで、私たちの歩む道にも灯台の光のようなライトが輝いていると考えます。しかしそれはどんな光でしょうか?
旧約聖書の詩篇119篇105節には次のようなみ言葉があります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」です。天の神様は私たちに聖書のみ言葉を与えて下さって、み言葉を通して私たちの歩みを守り導いてくださいます。み言葉は灯台と同じ役割があるのです。私たちは聖書を読んだり、み言葉に聞くことをして、行く方向をチェックして進みます。灯台の大事な部分は輝く光です。聖書のみ言葉も同じで、み言葉は心の中に光を灯します。それは、どんな光でしょうか?それは、天の神さまの独り子イエス様のことです。ヨハネの福音書には次のようなイエス様の言葉があります。「私は世の光である。わたしに従うものは暗闇の中歩かず、命の光を持つ」ヨハネによる福音書8章12節です。
イエス様は「私は世の光である」と言われました。この世の消えない本当の光はたった一つ、イエス様という光です。イエス様の光と同じような輝きを持つ光はこの宇宙には他にはありません。イエス様はこの世界の全ての人々のために光として来られました。その光に従って行けば、道に迷うことはありません。イエス様はいつも正しい方向に導いてくださいます。
しかし、私たちはイエス様から来る光を見て歩んでいるでしょうか?私たちは海で灯台の光を見てそれをチェックして自分の位置を知ってから前に進むでしょう。天気の良い時には灯台の光は良く見えるので船の進路を決めるのは簡単です。しかし天気の悪い時や霧の時、嵐の時は進むことが難しくなります。灯台の光も見えません。船が正しい進路から外れて岩礁にぶつかってしまう危険が高くなります。
私たちの人生の中にも同じようなことがあります。何も問題のない時は、私たちの歩みは軽く簡単です。しかし、私たちの人生の中でも天気と同じように、霧が発生したり、嵐になったりします。それは人生の試練の時です。自分や身近な人の病気、お金がなくて生活が大変になってしまったり、仕事を失ってしまったりなどなど、そのような時は嵐や霧の中を進むのと同じです。灯台の光がなくて、前に進まなければならないのと同じです。一生懸命努力しても、どこに向かっているかわかりません。
しかし、このような状況の中にいても、イエス様の光は輝いています。聖書を読み、み言葉に聞くと、イエス様の光が輝いていることがわかります。イエス様は、天気の良い時にも悪い時にも、私たちが正しい道を安心して進めるように私たちの歩みを守り導いて下さいます。しかも、イエス様の光は、現実の灯台よりもずっと遠くまで、奥深いところまで照らします。その光は私たちの心に入って、イエス様に従う信仰を起こします。イエス様の光は今年も私たちの心の中で輝いて、私たちに歩む力と勇気を与えて下さいます。
今年最初の手芸クラブは1月31日水曜日に開催しました。朝はまだ寒かったですが昼間は太陽が輝いて暖かくなり春が近づいていることを感じさせました。
今回の作品はバンド織のキーホルダー。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者が作りたいと思うキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸を前にして皆さんどれにしようか迷っていましたが、それぞれ好きな色の毛糸を見つけることができました。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るでしょうか?これから楽しみです。
それではバンド織に入ります。まずワープになる毛糸をカードの穴から通します。穴は小さいので、皆さん、集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。皆さんはこのテクニックを早く覚えたので、毛糸のきれいな色合いがすぐ見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。こうして、長いバンド織のNauhaがあっという間に出来上がり。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて輪っかに結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!
いつもの今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドの菓子パン・プッラを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、フィンランドの風景カレンダーの一月の写真にある灯台とイエス様は世の光ということについてお話がありました。それと、モニターを使ってフィンランドの冬の景色と音楽のビデオを鑑賞しました。楽しい歓談のひと時になりました。パイヴィ宣教師のショートメッセージをご覧ください。
次回の手芸クラブは2月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今年第一回目の家庭料理クラブでは「ラスキアイス・プッラ」Laskiaispullaを作ります。
フィンランドではイースターの準備に入る日のことを「ラスキアイネン」Laskiainenと言います。今年は2月13日です。ラスキアイス・プッラはそれに因んだ伝統的なコーヒーブレッドです。この時期フィンランドの多くの家庭で作られます。
丸いコーヒーブレッドの間にたっぷりのジャムや生クリームを挟むと美味しいラスキアイス・プッラの出来上がりです。是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1751679395iamg@1751679395arumi1751679395hsoy.1751679395iviap1751679395 まで。 電話03-6233-7109 日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会
SLEYの説教とTVドラマ「水戸黄門」の類似性について
SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)はフィンランドのルター派の国教会の中で活動する団体で国内伝道部門と海外伝道部門から構成される。 SLEYは1873年の結成以来、国教会がルター派の信仰に留まれるよう助けることを是としてきた。その礼拝説教や聖書の教えで中心になるものの一つが、「律法と福音」を一緒に宣べ伝えるということである。具体的には、律法を通して人間の罪性を明らかにし、神に義と認められる位に律法の掟を守り通すことは不可能であることも明らかにする、そして、イエス・キリストを救い主と信じる信仰により義と認められるという福音へと導いていく。なので、聖書の個所がどこになろうとも、教える内容はいつもこの「律法と福音」に集約されるのだ。SLEYにとって典型的かつ伝統的な説教は、はじめの部分で律法を通して罪の自覚を呼び覚まし、後の部分で福音を通して心の平安と神への感謝に至らせるというものである。(聞くところによれば、、90%を律法、10%を福音という説教もあったそうだが、それは行き過ぎかもしれない。)近年はこの定式を少し変えるようになってきたが、律法と福音の一緒の宣べ伝えは変わらない。
昔、高視聴率を誇ったTVドラマに「水戸黄門」がある。大学時代、TV局で番組編集のアルバイトをしていた友人が話したことを思い出す。あの番組は、流れがしっかり定型化されていて、例えば、風車の弥七が「探りに行け」と命じられるのは大体20何分の所、激しい斬り合いの最中に水戸光圀が助さん格さんに「よし、そろそろ」と言って、あの「ひかえー!ひかえー!この紋所が目に入らぬのか!」が40何分の所という具合に、日本のどこが舞台になろうとも変わらぬ定式があるのだ。それでも日本国民の多くは飽きもせず月曜夜8時にテレビの前に釘付けになっていたのだ。
フィンランドの国教会はルター派とは言っても、SLEYの外を出れば、ルター派とは思えない教えや説教がごまんとあるのが現状だ。人々は定式化されたものをつまらなく感じ、目新しいものを求める。それは日本も同じ。しかし、SLEY派の人たちにとって、律法と福音のいずれかが欠けたらもう説教ではない。紋所を掲げる場面がない水戸黄門と同じになってしまうのだ。
マルコ1章21−28節
「人間中心の聖書解釈?それとも神の真実な言葉?どちらが拠り所?」
イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、荒野での悪魔の試みを受けられ、そして洗礼者ヨハネが逮捕された後「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げられ宣教を開始されます。その宣教の歩みにおいてイエス様は、今日のところだけでなく、そしてその後にもあるように、苦しむ人々を見離さず、悪霊に憑かれている者から悪霊を追い出したり、病めるものを癒されたり、数々の力あるわざをしていくことが記されていきます。そのようなイエス様の行うしるしは確かに神の約束と憐れみの素晴らしい証しです。しかし人はその罪の性質のゆえに、目に見える「しるし」のその本質を見誤り、むしろ自分に都合よく解釈し、人間はその「しるし」に魅了されます。そしてこの時代も、そしていつの時代も、そしてキリストの教会でさえも、御言葉を何か力のないものにしてしまい、そんな言葉の力よりも、人間中心に、しるしを求め、しるしに驚嘆し、そして目に見るしるしで全てを判断します。もちろん、イエス様は奇跡やしるしを表すことで、神の憐れみを具体的に現すだけでなく、ご自身が神であり、救い主であることを示されます。しかし、私たちが聖書を通して忘れてはならない大事な点は、イエス様はそれを、ご自身の力ある権威あるみ言葉を通してそのことをなされているということ、そしてそれは御言葉の力の証し、証明であるということです。それはこの前に書かれている、四人の漁師たちを弟子にするところでもそうでした。彼らの誰もがまず最初に彼らの方から自らの意思と力でイエスについて行こうと弟子になったのではありませんでしたし、それはできないことでした。イエス様の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」「わたしについてきなさい」という言葉が先にあったからこそ、その言葉の導きと力によって、それで彼らは、イエスについて行っているのです。その事実は、現代のキリストの弟子である私たちの救いと何らな変わることのない真理ではありませんか。私たちはみな、人の力ではなく、キリストの力、何よりみ言葉によって救われ、み言葉によって召されているでしょう。そして、さらにその弟子たちの招きの前のところでも、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時にも「天から」の神の言葉がありましたし、荒野の誘惑でもみ言葉に働く聖霊に導かれ、そしてマタイの福音書を見ても分かる通りに、悪魔の誘惑を退けたのも、まさに「御言葉」そのものによってであったでしょう(マタイ4章1−11節)。そのようにイエス様の宣教の働きは御言葉の豊かな働きであったように、教会も私たちの信仰生活も、このイエスの御言葉が何よりの力に他ならないのです。
2、「宣教の働き:御言葉の説教」
今日の箇所は21節からこう始まっています。
「21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」
カフェルナウムは、イエス様の宣教の初期に活動されたガリラヤ地方の町です。しかしその活動は、ただ悪霊を追い出し癒しをされるそれだけのために回っておられたのではありませんでした。イエス様は、安息日には、ユダヤ教の会堂に入って「教え始められた」とあるのです。つまり、そこでは巻物の旧約の言葉を開いて、その聖書の言葉から説教をされたということを意味しています。そして、これは、ルカの福音書を見てもわかるのですが、イエス様の宣教は主にその「安息日に会堂に入り聖書から教える、説教する」ということの繰り返しであったことがわかるのです。とかく人間は、目に見える華やかなしるしを求めますから、その華やかで劇的なしるしばかり注目が行きます。しかし、イエス様はそれだけのために行動しているのではない、いやむしろ、その行動、しるしの土台にある、神の御心を実現し、そして何より信仰を生み出し、支え、強めるみ言葉を説教すること、しかもイエス様ご自身も十戒に従い、神を神とし、そして安息日を覚えて聖としなさいとある通りに、聖書のみ言葉から「神が何を私たちに伝えているのか、教えているのか」を説教することを、イエス様は決して蔑ろにされなかった。軽んじなかった。いやむしろ大事にしておられたのでした。
3、「ご自身が権威ある者として」
しかも、その説教を聞いた人々ですが、22節です。
「22、人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
人々はとても驚きます。それはいつも会堂で教えている律法学者が説教をするようではなかったからでした。律法学者たちは、今の牧師もそうですが、「主はこうわれる」という言い方で説教をします。それは当然です。人に権威があるのではなく、み言葉に権威があるからです。しかしイエス様はご自身を権威あるものとして語られたことに人々は驚いたのでした。イエス様ご自身は命の言葉そのものであり神の御子であり権威そのものなのですから、そのように語るのです。人々にとってはそのような権威あるもののように語ることそのものが新しく驚きであったのでした。そのようにイエス様のしるしだけがイエスが神であることを示すのではなく、まさに今までにない人々を脅かさせるようなイエス様の権威ある者としてのその説教そのものもまた、イエスは真の神であること、つまり創造のはじめからおられ、全てを創造された言葉である方であり、そして約束された神の御子、救い主であることを示しているとも言えるのです。もちろんその言葉はただ権威あるもののように感じる見えるだけではありませんでした。事実、御言葉は、何者にも勝る権威であり力であることが現されていくためにこそ「しるし」が続いていくのが分かるのです。
4、「力ある御言葉によって悪霊を退ける」
23節以下、こう続きます。
「23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」
A,「洗礼後の悪魔、悪霊のイエスへの攻撃」
会堂に汚れた霊に取り憑かれた男性がいて叫びます。しかしその汚れた霊は、その言葉から、イエスがどのような存在であるのかわかっています。イエスが神の聖者であるとわかっているし、滅ぼす力があることをわかっているのです。マタイ4章の荒野の悪魔の誘惑の箇所を見ていただくと分かるのですが、荒野の誘惑の悪魔はそこで「神の子なら」とイエスが神の御子であることを知っているし、イエスが石をパンに変えることができる力があることも知って試みています。さらに言えば、悪魔はみ言葉にこう書いてあるからと言って、御言葉を用いてまで試みていたでしょう。悪霊もそれを支配する悪魔も、そのようにイエスのことや神の言葉さえもよく知った上で、人々に攻撃もするし、誘惑したり苦しめたりして、信仰を捨てさせようとしたり、惑わしたりして、そのようにして滅ぼすことに躍起になっている存在であることを思い起こされます。そしてマタイでもこのマルコの福音書でもそうですが、まさにイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊が降った直後に、荒野のサタンの誘惑に導かれ、そして、このような悪霊の攻撃が続くという事実があるでしょう。この洗礼の後に苦難や試みが続くこともまた、私たち自身にも当てはまる信仰の現実ではないかと教えられるのです。
B,「私たちも同じように攻撃にさらされている」
どういうことでしょう。それは私たちも、洗礼を受け、そこに信仰生活が始まりますが、その信仰生活は、何の問題もない、なんでも上手く行く、誘惑も罪ない、薔薇色の成功の日々があるということではありません。むしろイエス様のように、その逆ではないでしょうか。そのように洗礼によって罪の赦しを受け、聖霊を与えられ、イエスの福音による新しい命の道を導かれるからこそ、この罪の世にあっては、サタンの、信仰を弱め、捨てさせ、み言葉に信頼させないようにする巧妙な誘惑は常にあるということです。もちろん、キリストを救い主と信じて洗礼を授けられることによって私たちは救われ、キリストの十字架のゆえに、罪の赦しが与えられ、義と認められ新しく生かされて行きます。しかしそれは私たちが「義となった、完全になった」ということではありません。完全で聖であり義であるのはどこまでもキリストであり、私たちは、私たちにはない、私たちの外にあるキリストの義のゆえに信仰によって義と認められただけであり、私たちはどこまでも義人であり同時に罪人でもあります。信仰と霊にあっては、キリストの義のゆえに100%義と認められた聖徒ですが、しかし、パウロがローマ書でも言っているように、肉にあっては100%どこまでも罪人です。キリストにあっては日々新しいですが、古い人も同時にいるのです。だからこそ私たちの信仰生活は常にサタン、悪魔の誘惑との戦いであり、彼らはいつでも私たちを試み誘惑してきて、信仰を捨てさえようとしてくるのです。そして私たち自身の力、意思や理性の力、決心や努力では決してそれに打ち勝つことはできないのです。
C,「イエスはどのように退けるのか:真実な御言葉によって」
しかしそのような現実にあって、何がこのような汚れた霊、悪霊、サタン、悪魔、それによる誘惑や攻撃を退けているでしょうか。それはここでも一貫しているでしょう。25節
「 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」
それは、イエス様のその言葉でした。イエス様はその言葉によって汚れた霊に強い影響を及ぼし、退けて打ち負かし、その言葉の通り出て行かせたことがわかるのです。このように、イエス様の言葉には圧倒的な権威と力があり、その通りになる言葉であることを聖書は私たちに示しているのです。
事実、先ほども触れた「イエス様の荒野の誘惑」の場面、マルコでは荒野の誘惑についてあっさりと簡単に書かれていますが、詳しく書かれているマタイ4章を見ると、イエス様は、悪魔の誘惑、あるいは悪魔のみ言葉を都合よく引用した誘惑さえも、理性や人間の理屈とか感情ではなく、正しく解釈されたみ言葉で悪魔の誘惑を退けています。
何より聖書はその「神の言葉」の真実さと力こそを初めから証ししてきています。創世記では、三位一体の神は「み言葉」を持って創造し、その御言葉はまさに創造のはじめから働かれていた力であることを私たちは見ることができます。神が「〜よあれ」と言われると、その言葉の通りになって天地創造はなされているでしょう(創世記1章)。その通りになった言葉によって天地万物は存在し私たちも存在しています。神の言葉があってこそ私たちはいるし、神の言葉がなければ私たちも何も存在していません。天地創造は理性や常識では信じられないからと、あれは作り話だとか神話だとかいって、人間中心の理性や常識に合うように説明する、教会やそのような牧師などの説教もあるかもしれません。しかし、それだと、私たちに与えられている神の言葉は、何の力もない言葉、人間の理性や常識に服従する、権威のない言葉にすぎなくなります。しかしそうではありません。聖書はその言葉の通り、そして、それは、旧約のモーセや預言者たち、イエス様も、使徒たちも、パウロもその通りになる、「不可能なことなどない」「何でもできる」真実な生けるいのちの言葉であると教えている通りに、神様がその言葉によって天地を創造し、命を与え、神が「〜よあれ」と言われたその通りになった現実が、この世界であり私たちなのです。
そしてその言葉が、まさに人の間に来られたとヨハネの福音書の初めにはありますね。その方が、弟子たちに「ついてきなさい」と言葉で召し出しました。それは人々がこれまで経験したことのない権威に満ちた言葉でした。事実、悪霊を「黙れ。この人から出て行け」と追い出し、病むものを癒し、立たせる力ある言葉であることが今日のところに一貫して証しされているのです。
5、「その真実な御言葉は私たちに与えられている」
そしてそれは私たちにとっても決して無関係ではありません。いや無関係どころか、今も変わることなく、私たちへ、私たちのために語られている変わることのない言葉でもあるということこそイエス様は私たちに伝えています。例えば、礼拝で「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と宣言するときに、それが単に私の言葉であり牧師などの人間の言葉であるなら、何の力もありません。しかしそれがまさに聖書を通しての天からのイエス様の真実な生ける言葉であるからこそ、本当にその通りに十字架の罪の赦しとイエス様が「世が与えることのできないわたしが与える」(ヨハネ14章27節)と言われた特別な平安を与えるのです。それが真実でその通りになる言葉だからこそ、私たちを神の命と力によって、喜びと平安を与え、希望と救いの確信で満たして遣わすことができるのであり、私たちはその恵みによって世に出ていくことができるのです。そして、それはペテロの言うように「朽ちることのない」「永遠に変わることのない」言葉なのですから(ペテロ第一1章23−35節)、「これからも」変わることなく、その真実な約束でその通りに私たちにしてくださる真実な言葉なのです。だからこそ、私たちに与えられている、聖書の言葉、イエスの言葉は、確かで完全で何にも勝る権威があり、そして力があるのです。
6、「私たちの信仰生活に生きて働く御言葉」
今日のところから何が教えられるでしょう。至極当たり前のことですが、クリスチャンは、決して人の言葉、人の成功話、人の経験論ではなく、このイエス・キリストの言葉、特に福音の言葉を信じ、信頼し、これによって生かされていく存在です。しかしイエスや使徒の時代にもそうであり、いつの時代もそうかもしれませんが、特に、目に見える美しさや魅力や繁栄や成功に流されやすく、あるいは自分の理性や常識に当てはまらないと疑うことしかできない現代の人々、それは教会や御言葉を伝える牧師でさえも、そんなみ言葉、福音より、説教より、礼拝や聖餐より、人間の行いやわざの方が力があるんだ、理性こそ力なんだと教えたり、み言葉の力よりマンパワーやヒューマニズム的な成功話や経験論の方が教会や宣教に益であるかのように信じたり、教えたり、導いたりしたりされたりすることは少なくないようです。それゆえに、み言葉や約束の力への信頼や御言葉の約束にある救いの確信よりも、自分の力や行いで救いの安心や確信を得ようともします。しかし、それは必ず行き詰まります。聖書にあるように(ペテロ第一1章)、それ野の草のように朽ちゆく不完全で真実ではない人のわざであり言葉だからです。もちろん、それでも一時的に上手くいっている時は、本当に一時は良いでしょう。しかし、そのひと時の繁栄や成功が少しでも揺らいだり終わるとそのひと時の安心も自信も誇りもあまりにも簡単に揺らぎ、脆くも崩れ去ってしまいます。まさにマタイ7章にある「砂の上に建てた家」(7章24−27節)のようにです。何より、それでは決して、信仰生活に平安はあり得ないのです。いつでも不確かな人間の理性や力や行いに依存しているので、不確かさの中で生きていくしかないのです。み言葉の力、福音の力に真により頼まない、人間の理性や経験に聖書を従わせるような偽りの信仰とはそのようなもの、そのような結末なのです。
繰り返します。今日のところでイエス様は私たちにはっきりと示してくれています。イエス様の言葉には権威がある。力がある。そしてその通りになる、真実な言葉であると。私たちにはその真実な言葉が与えられており、その言葉が常に語られています。その言葉による洗礼によって私たちは救われ、その言葉による聖餐、イエス様の言葉が結びついたイエス様の体と血に、与っているのです。そしてだからこそ、私たちは救われているという確信と赦されているという平安を保つことができるだけでなく、その約束の通りに、イエス様が働いてくださるからこそ、私たちは、福音が私たちから溢れ出るように、喜びと平安に満たされて、自分のためではない真の良い行いや隣人に仕えていくことができるのです。
7、「結び:真の拠り所:人間中心の聖書解釈か、それとも神の真実な言葉か?」
事実、イエス様の力のわざは、人間にとっては驚きです。理解できないことです。27節
「27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
みなさん、私たちの信頼や拠り所を、人間の力や可能性、あるいは人間の経験におくよりも、神の言葉、イエス様の言葉、約束、福音に置く人は幸いです。そのことは実は世に遣わされる時にこそ顕著にわかることです。例えば、神とその御心を前にする時に、私たちは、私たち自身ではできない、難しいと思えることばかりに直面するのではないでしょうか。特に神がしなさいと命じている隣人を愛すること、それは何より十字架に照らせば、隣人愛の本質は敵を愛するこということ、それは「赦す」ということですが、それは人間にとって何よりも難しいことですね。しかしそのような神の御心を前にしても、人間の限界や可能性に希望や拠り所を持つのなら、希望は限定的であり、それはもはや希望ではありません。人間の力を信じるなら、限界があり不可能なのです。重荷にもなります。そうなると、神の言葉を人間の都合のいいように解釈して、自分のできる範囲の行いで敬虔なふりをすることはできますが、神の前には不信仰に過ぎません。しかし、神の言葉の前に、いつでも律法によって謙り悔い改め、そして、そこに照らされるキリストの十字架と復活の福音に希望を置き、神の言葉と約束がその通りになることを信じ、福音の力を受けながら、神の御心に従う人生を歩むなら、イエス様が行い働いてくださるのですから、希望は耐えることがありません。できないことさえもイエス様は真実な御言葉の力で人の思いを遥かに超えて導いてくださるのです。ぜひ、変わることなく、み言葉に聞き、ますます御言葉を信じ拠り所とできるように祈り求めましょう。今日も変わることなくイエス様が御言葉を持って言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの約束を受け取り、安心して、ここから遣わされていこうではありませんか。
イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)なのに、彼を信じても自分の心には神の意思に反する悪いもの、罪があることにキリスト信仰者は気づきます。 主は罪を取り除いて下さるというのは本当ではなかったのか?そんな疑問を持つキリスト信仰者は次のルターの教えをお読み下さい。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(2005年版、初版1878年)1月17日の個所、エレミヤ3章13節「ただ己の罪を自覚せよ」の説き明かし)
『敬虔なキリスト信仰者なら今のこの世で生きることは忌まわしいと思うだろう。出来ることなら、この次に到来する世で生きたいと願うだろう。そうなのは、信仰者が、自分には罪などない、無罪(むつみ)だ、と言える段階に到達することは出来ないとわかっているからだ。もし、そのような考えを抱くなら、それは悪魔の仕業である。一体、聖徒の誰が、罪の中に留まっていることを否定したであろうか?聖徒は皆、それを認め告白しているのだ。彼らの存在そのものが罪によって傷つけられてしまっているから、彼らは心に痛みを抱えていたのだ。だから彼らは嘆き、叫び、罪から贖われることを祈りに祈るのだ。
まさにこのような罪の自覚を持ち告白する者に対してキリストの御国は、罪があってもそこには罪がないという世界になって現れてくる。つまり、キリストの御国は、信仰者が罪を自覚し告白しなければならなくても、罪の赦しのお恵みが罪を足蹴にしている世界なのである。そこで神は声高に告げる。「お前の罪は私の愛するひとり子のおかげで赦される。それが私の意思だ。」
これに反して、罪を自覚しない者、自覚してもキリストを素通りして自分の力で償おうとする者、さらには自分は無罪(むつみ)だから罪など関係ないと言う者たちがいる。彼らはキリストの御国に属していない。彼らは悪魔の手下も同然だ。罪には辛い思いや心の痛みが付きものなのだ。死を怖がらない聖徒が一人でもいたら私に示してみよ。そんな者は見つからないだろう。死を目の前にして立ちすくまない者、怯えない者などいない。キリスト信仰者とは、つまるところ、罪の中にあり、罪の下にありつつも、同時に罪を越えている者なのだ。キリスト信仰者は最終的に罪に勝利する。なぜならキリストの御国の一員だからだ。
この国は寝そべって何もしない国ではない。地獄、死、悪魔、罪そしてあらゆる災難を引き寄せてしまう国だ。しかし、それでありながら、永遠に存続する国だ。神が今まだそのような状況を許しているのは、我々の信仰が人前で明らかになるためであり、そのような状況を通して信仰にある我々を鍛えるためである。』
聖書日課 ヨナ3章1‐5、10節、第一コリント7章29-31節、マルコ福音書1章14-20節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお話しします。
ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は新約聖書の原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。それでは、「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?
それは次のような内容です。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしたことについての知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。この良い知らせ、福音を聞いて、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることによって神から罪の赦しを頂くこと、これがキリスト信仰の奥義です。こうして、イエス様のおかげで罪を赦された者として永遠の命に至る道を神の助けと導きを得ながら歩むこと、これがキリスト信仰者の人生です。
ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオン「福音」と言うのは少し気が早いのではないか?そこで、他の国の言葉ではどういう言い方をしているか見てみました。英語訳の聖書NIVはエヴァンゲリオンを「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は一方では「神の福音」(evankeliumi)と言い、他方で「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。
十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと思われるかもしれません。そうすると今度は、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのか、さっき言ったキリスト教の「福音」とどう違うのかという疑問が起きます。(※)それについて見ていきましょう。
イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。そこで、イザヤ書の続きを見ていくと、この「平和」と「救い」の意味がわかってきます。それがわかると「神を王に戴く国」もわかります。
イザヤ書の続き52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、周辺諸国民に自分の力を示します。それで、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力で祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するというふうに理解できます。
ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは人間の痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるようになり、まさに彼が罰を受けた傷によって人間は癒しを受けるのであると。53章11節で神は次のように言われます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられる者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら引き受けることで、人間は神の目に相応しい者になれて神との平和な関係を築けるようになるというのです。そうすると、「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が実現するという意味ではなくなります。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神との平和な関係を築けて神罰が免れるということが「救い」の内容になります。神の国もそういう罪の赦しが打ち立てられたところになります。
しかしながら、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の人々からすれば、イザヤ書の箇所で言われる「救い」とは、捕囚からの解放と祖国帰還を意味しました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。
ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。確かに歴史的にはエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民がひれ伏すような神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今ある天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。
そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつ預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた時でした。まさにその時、イエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。このように、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とは、神の約束が今実現することになるという知らせだったのです。その「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味します。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。
「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。それで、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大のものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を通して人間の救いを実現したことでしょう。
イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造する、そしてそこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。そうすると、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?と言う人も出てくると思います。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人なら出てくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。
それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わるという、この世の終わりを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったのでしょうか?ところがそうではないのです。
どうしてかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たしてあげたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っている人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まってもっと多くの困っている人たちを助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味わせてあげたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、不正に手を染めることなく、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえ期待通りにならなかったとしても無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国は、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもない、永遠の平和と安心があるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然の法則や社会の法則をはるかに超えた力が働く神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自分の力で神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架と復活の業でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して「福音」に結晶した出来事でした。私たち人間はイエス様の十字架と復活の業が自分のためになされたのだとわかって、それで洗礼と一緒にイエス様を自分の救い主と信じれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものになります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあるので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。これらのこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さったがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。
イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。なので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっている根暗なことではなく、実は神に向き合うという勇気ある振る舞いです。
「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。
「イエス様は彼を信じる者全てに、方向転換の悔い改めをしなさいと言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊も罪に対して反撃する。イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めと密接に結びつく。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。
方向転換の悔い改めが休止することはありえない。なぜなら、律法がこれは罪だと示すものを我々は絶えず遠ざけなければならないからだ。もちろん、罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されているので、我々を永遠の死に追いやる力を失っている。
かつてイスラエルの民はカナンの地に入った後もその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。それと同じように、キリスト信仰者になって罪に対して宣戦布告することよりも、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を追い払うことの方が難しいのである。それは、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだことからもわかる。神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。
兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、不安になった良心はゴルゴタの十字架を覚えるたびに落ち着きを取り戻して平安に満たされます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。この繰り返しを通して私たちの神への信頼が一層強いものになっていきます。神への強い信頼があることは、私たちがこの世から別れる時、自分の全てを神の御手に委ねることができるために必要です。神への信頼が築けている人は、復活の日に目覚めさせてくれる方を知っているので自分の全てを神の御手に委ねられます。信頼が築けていない人は何に委ねていいのかわかりません。そういうわけでキリスト信仰者の人生とは、その日に備えて神への信頼を日々育て強めていく人生と言ってもよいでしょう。