お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
次回はフィンランドの伝統的なクリスマス・オーナメントの”ヒンメリ”Himmeliを作ります。 ヒンメリはフィンランドで最も古いクリスマスの飾りの一つです。天然の藁で作るヒンメリは、僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放つので、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。
そんなヒンメリをご一緒に作ってみませんか?
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1200円
お子さん連れの参加も大歓迎です!
次回は、スオミ教会の前宣教師のポウッカ先生ご夫妻も参加されます!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1751815461iamg@1751815461arumi1751815461hsoy.1751815461iviap1751815461 ℡ 03-6233-7109 スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
映画「東京物語」を観て
今年の夏フィンランド滞在中、現地のテレビで日本の映画を観る機会があった。3つほど放映され、そのうちの一つは小津安二郎監督の「東京物語」。 戦後間もない1953年の制作。現地の新聞の映画評で5つ星だったので、何十年ぶりかで観てみた。(先週のコラムでは3つの中のもう一つ、是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」について書きました。)
ストーリーは、尾道に住む老夫婦が東京の息子・娘の家族を訪問しに上京した時の出来事。息子・娘たちは一見親孝行に見えたものの結局は自分の都合を優先して両親の世話をたらい回し。ただ、戦死した次男のまだ若い未亡人だけが仕事を休んでまで献身的に義父母の世話をする。そういうコントラストはあるのだが、老夫婦を中心にした輪のようなものの中の凹凸程度なもので、全体としては言葉が通じ合い心が通い合う一つの小世界(コスモス?)を形成していると言ったら言い過ぎか。
そのコスモスに魅かれるように自分もほとんどその一部のような雰囲気で見ていると、キリスト教徒はここまで、ということが。それは、尾道に帰った後で老母が旅の疲労が原因で急逝してしまうのだが、お寺で盛大な葬式が行われる場面。何人もの僧侶が総出で延々とお経を唱える。そこで三男がやるせなさそうに外に出てしまうのだが、次男の嫁が声がけして中に戻る。この通じ合いのコスモスから出てはいけないのだ。とてもキリスト教など入り込む余地はないと思い知らされた。
ところが、終戦から戦後間もない頃の日本はキリスト教ブームだったのだ。1950年代のSLEYの宣教師の記録を見ても、どこの教会も人で、特に若者で満員だったと。コスモスから抜け出られたということなのか?そんなことを考えながら葬式の場面を見ていて突然思い出したのは、黒澤明監督の「生きる」の一場面。区役所の職員たちが、今は亡き課長がなぜ公園づくりに命を懸けていたのかを仏壇の前で話し合う。葬式の儀式は見せなかったと思う。なので葬式は背景扱い。「東京物語」と対照的ではないかなどと思った。ちなみに黒澤監督の作品に「我が青春に悔いなし」という、戦時中に反政府活動を行ったために牢獄で獄死した男の内縁の妻の半生を描いたものがある。その制作後の監督の言葉、「僕は、日本が新しく立ち直るのに大切なのは自我を尊重することだと信じていた。今でも信じている。そういう自我を貫いた女を僕は描いたんだ。
(ドナルド・リチ―著「黒澤明の映画」三木宮彦訳から)
今はどうだろう?かつて栄えたキリスト教会は戦後間もない世代の人たちが高齢化してなかなか後が続かず、この先どうなるかという状態。祟りや穢れで人心を惑わす宗教団体だと人や金が集まるのに。あの麗しきコスモスは?官製の郷土愛、愛国心に取って代わられていないか?小津監督が生きていたらどう思うだろう?「秋刀魚の味」の中で、かつて撃沈された駆逐艦の元艦長に「日本は負けてよかったんだ」と言わせた。さて、今の嵐吹き荒れる大世界の中でのあなたの立ち位置は?
主日礼拝説教2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日
聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章38-44節
説教をYoutubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
エルサレムの神殿で大勢の人が「賽銭箱」にせわしくお金を入れていました。賽銭箱というと、日本の正月の神社やお寺で大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。エルサレムの神殿の場合は、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつかあって、それぞれに動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとり次から次へとやって来ては投げ入れて行ったことになります。それで、本日のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは容易に識別できたでしょう。
金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが投げ入れたのは銅貨二枚だけでした。それは1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この福音書の記者マルコがローマ帝国の市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。それは64分の1デナリ、1デナリは当時の労働者の1日の賃金でした。今、日本で一日8時間働いた最低賃金が9千円位とすれば、その64分の1は140円。それがやめもの投げた金額となります。イエス様は、それは彼女の全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、取るに足らない額ですが、相対的にみれば、やもめの生活費全部なので取るに足らないなどととても言えません。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。それで、やもめの方が多く捧げた、多くの犠牲を払ったとことになり、一種の美談のように理解されて、あなたも同じように多くの犠牲を払えなどと教えるところも出てくるかもしれません。
しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を捧げてしまったのです。その後でどうなるのだろうか、皆さんは気になりませんか?そういうふうに考えると、この箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないか。この出来事の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章をみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていると神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが略奪の対象になっていることがあげられています。
イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのはどういうことか?夫を失った女性の地位は不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった、それに対して法律の専門家である律法学者は彼女たちを守るどころか財産を失うようなことに手を貸していたことがあったのか、少なくともそういう事態を放置していたと考えられます。イエス様はそれを批判し、その後で本日の出来事がくるのです。まさに、困窮したやもめがなけなしの金を捧げるのです。そして、本日の個所の続きを見ると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1
2節)。貧しい人が大きな痛みを伴う献金をしているのに、余裕のある人たちは痛みを伴わない程度の献金で良かれと思っている。そんな不公平を放置している神殿はもう存在に値しないというのです。そして実際に、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年後の西暦70年にエルサレムの町共々、ローマ帝国の大軍の攻撃を受けて破壊されてしまいました。
このようにイエス様はこれを美談としてではなく悲劇と捉えていると思われるのですが、それでも、やもめの捧げ物は金持ちの捧げ物よりも価値があると認めているとも言えます。やもめは金持ちよりも多く払ったと言います。裏を返せば、金持ちは少ししか払わなかった、不十分だということです。やもめは多く払った、十分払ったということです。その場合、何に対して十分なのか、不十分なのか?神に目をかけてもらって恩恵を得られるために十分、不十分ということなのでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。よく見て下さい。イエス様は全額捧げたやもめが天国に近いとか言っていません。イエス様にしてみれば、神に捧げることは大事なことであるが、ただし、捧げものをして神から恩恵を受けようとするような、そんな見返りを求める捧げ方に反対なのです。そんな仕方で捧げたら神殿の礼拝の論理とかわらなくなります。神に捧げることは大事なことであるが、見返りを得るために捧げるのではない、しかも、捧げるからには持てるもの全てを捧げることが当然になるような捧げ方、それでも見返りは求めないという、そんな前代未聞の神への捧げ、それをイエス様は考えていたのであり、それが実際に行われるようになるためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、そのような新しい捧げ方を先取りするものでした。イエス様はやもめの捧げにそれを見て取ったのです。そして、イエス様は人間の神への捧げを全く新しい方向に導くことをこの後でやったのです。一体、何をされたのでしょうか?
その答えは、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24ー28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちが記されています。まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄となる動物の血を携えて神殿中の最も神聖な場所、至聖所に入って神のみ前で自分自身の罪と民全体の罪の双方を償う儀式を毎年行っていました。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げ、十字架の上で血を流されました。神のひとり子の神聖な犠牲ですので、1回限りで十分です。数えきれない動物の生贄の血などとは比べることができない尊い血を流されたのです。それなので、もし神と執り成しをするために何かまた犠牲を捧げなければいけないと考える人は、神のひとり子の犠牲では物足りないと言うことになってしまい、神を冒涜することになるのです。それくらいイエス様の犠牲は神聖なものなのです。
そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る道を人間のために切り開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の果たした罪の償いがその人のその通りになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦されたので、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして人生、順境の時も逆境の時もいつも変わらない守りと導きを神から頂きながら道を進みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れ、復活の日が来たら目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。これがキリスト信仰の「罪の赦しの救い」の全容です。
このような計り知れない救いを受けることになった私たちはどうなるのでしょうか?もう神から見返りを受けるために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来き上がった恩恵を受け取りなさいと差し出してくれて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備して捧げを実行してしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神が恵み深いというのはまさにこのためです!
恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、どうなるのでしょうか?私たちが神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるために神はイエス様の償いと贖いを私たちに与えて下さいました。そのもとで、私たちが御国への道を歩めるように日々の糧や様々な賜物を備えて下さいます。なので、財産や賜物など自分に備わっているものは全て恵み深い神からの贈り物に他なりません。贈り物ではありますが、自分の好き勝手に使ったり浪費してよいのではなく、自分が御国への道を歩むのに必要なものに用いる、隣人がその道を歩めるために何か足りなければその人のために用いる。全ては道を歩む自分と隣人の必要のために正しく用いなさいと神から委ねられているのです。
このように財産や賜物が全て神から委ねられたものであるということは十字架と復活の後、理論的に明らかになりますが、それが実践的に行われるようになったことが使徒言行録の3章に記されています。聖霊降臨の後で最初のキリスト信仰者たちが各自、全財産を持ち寄って、人々の必要に応じて分け与えることを始めました。十字架と復活の前にイエス様がエルサレムの神殿で目に留めたやもめが行ったことを、今度は罪を償われ罪から贖われた者たちが実践し始めたのです。彼らは神から見返りの恩恵を得るためにそうしたのではありませんでした。ちょうどやもめがそうしなかったように。彼らにとって財産や賜物は全て神からの贈り物になったのです。やもめにとってもそうであったように。聖霊降臨後に誕生した最初の教会は何も財産を持たない使徒たちを中心に洗礼を受けた人の集まりから始まりました。組織も整っておらず財政的基盤もありません。群れに加わった人たちには余裕のある人だけでなく、貧しい人も大勢いたのでした。それで御国への道の歩みをお互いに支え合うことができるように急きょ私有財産の共有を始めたのでした。何か政治的、唯物論的なイデオロギーの実践ではありません。復活の体や永遠の命という、老若男女、貧しい人金持ちの人みんなが共通して持った目的地に一人も落ちこぼれずにみんなが到達できるためにそうしたのでした。
ここで、持ち金全部を捧げたやもめはどうなったか、思いを馳せてみましょう。彼女の存在はイエス様の目に留まりました。なので、彼女は神の守りと導きの手に委ねられ、きっと神が送った助け人の支えを受けたに違いない、と私は信じます。イエス様がやもめを目撃したのは十字架と復活の出来事の少し前でした。そして、最初のキリスト信仰者たちが私有財産を共有したのは聖霊降臨後間もない頃です。イエス様の復活から聖霊降臨まで50日あります。なので、イエス様がやもめを目撃してからキリスト信仰者の財産共有まで2ヶ月位あります。その間、やもめは神が送った人の助けを受けたに違いないと私は信じます。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。エルサレムの神殿のやもめも神殿に参拝に来ていた人たちも皆この出来事を知っていたはずです。エリアの出来事が起こって聖書に記録されたのは、まさに神には不可能なことはないという信仰の証しでした。この証しを心で受け止めて、神の手足となってやもめの世話をした人はいたと信じます。
終わりに、勧めと励ましの言葉として3つのことを申し上げます。一つは、私たちには私たちのことを全てご存じな神がついていらっしゃるので大丈夫ということです。金持ちは誰一人、やもめが捧げたものは彼女の持ち金全部だったとは知りません。人間というのは、いかに多くか、どう見えるかということで物事を判断し評価してしまいます。物事がその人にどんな意味があったか、とか、その人はどんなプロセスを経なければならなかったかは見過ごしてしまいがちです。注意して見ても見極めることは出来ません。しかし、私たちの神は人間が見過ごすことも見極められないことも全て一つ残らず見届けています。まさに神のひとり子イエス様がやもめの捧げ物が彼女にとってどんな意味があったかをご存じだったように。私たちに関する全てのことは「命の書」に良く正しく完全に記録されます。人の目に見過ごされてしまったこと見極められなかったことに神は目を注がれ、過小評価されてしまったものを賞賛し、歪曲されてしまったものを訂正されます。このように私たちの恵み深い神は憐れみと正義の神でもあります。そのような神がついていて下さるのです。
二つ目は、私たちキリスト信仰者は御国の道の歩みを続けられるようにお互いに支え合わなければならないということです。今、私有財産を手にしてはいても、心の中ではこれは神から委ねられた贈り物である、もし神が時を示したら、隣人が御国への歩みを続けるのを、または道に入れるのを支えるために持てるものを捧げなければならない、と心の中で準備しておかねばなりません。
そう言うと、財産を自分の好きなことに使ってはいけないのかと言われてしまうかもしれません。そこはこう考えたらどうでしょう?例えば、時々、旅行に出かけて素晴らしい景色を見たり、美味しい料理を味わったりするのは、それが御国の道の歩みの励ましになったり慰めになって歩む力になると。そのような機会が与えられたことを神に感謝して使うのだと。とにかく自分の歩む力を強めることは、隣人の歩みを支えてあげられるために大事なことです。
三つ目は、御国の道の歩みでお互いに支え合うということは、毎週日曜日の礼拝でも実践しています。神の御言葉と説教を聞いて罪の赦しの恵みに留まる力をみんなで得ます。恵みに留まる限り、財産や賜物は全て神からの贈り物であることもその通りであり続けます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通してみんなでイエス様を頂きます。神の恵みと愛を口で味わいます。神からの霊的な糧です。そして、そのような礼拝を行う教会を支えるためにみんなで献金をします。それもお互いに道の歩みを支え合うということです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
題名「もしものときを迎える前に ー エンディングノートを手掛かりとして」
講師 堀越洋一 医師 堀ノ内病院(埼玉県新座市)地域医療センター在宅診療科
講演の趣旨について堀越医師からのご挨拶「エンディングノートを記入することは、人生の最終段階に向けた準備としてだけでなく、自分らしく今をより良く生きるためのヒントを見いだす前向きな活動です。」
講演は、礼拝終了後(大体11時45分)のコーヒー・ティータイムの歓談が一息ついた頃、12時30分に始めます。質疑応答を含めて1時間位を予定しています。
当日は、礼拝(10時30分)から参加されても、または、コーヒー・ティータイム(大体12時開始)からいらしても大丈夫です。コーヒー菓子代は100円。講演は無料です(礼拝は金額自由な献金を募ります)。どなたでもご参加できます。テーマにご関心ある方は是非いらして下さい。
堀越洋一医師のプロフィールは新座市の市民講座案内からご覧いただけます。
映画「ワンダフルライフ」を観て(全聖徒主日※に寄せて)
今年の夏フィンランド滞在中、現地のテレビで日本の映画を観る機会があった。3つほど放映され、そのうちの一つが是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」。 1999年制作で英語版タイトルはAfter Life、つまり「死後の世界」。私は観たことはなかったのと、あと現地の新聞の映画評で5つ星だったので観てみた。
ストーリーは、人は死んだ後に寄宿舎みたいなところに来て、そこで人生で一番大切な思い出を一つだけ選ぶことを求められる。そこの相談員と話し合いながら決める。期限は1週間なので、話し合いはかなりインテンシブ。決まったら、そこのスタッフがそれを映画にして再現して1週間後に上映会を開く。それを観て記憶が鮮明に蘇った瞬間、その思い出を抱いて最終地に旅立ち、そこで永遠にその思い出の状態で存続する。上映会の最中に一人また一人と消えて行く。それが終われば、次のグループとの新しい1週間が待っている。思い出を選べなかった人はそこの相談員やスタッフとして働くことになる。相談員といろんな人との話し合いが映画の大筋。いろんなタイプの人が登場する。割と早く決められる人、なかなか決められない人、結局決められない人等々、ユーモラスな場面も。
私の関心を引いたのは、イセヤという青年。相談員を前にして机の上に足をのせたりする態度。ワルだったことを窺わせる。「あれっ、子供の頃よく言われた、悪いことしたら地獄に落ちるというのはないの?」「ありません」と相談員。「本当に全員がいい思い出をもって行けるの?」「本当です。」 思わずニヤッと、「やった!」 しかし、ここから彼の苦悩が始まる。人生で一番大切な思い出を決められないのだ。ある時、相談員にぶちまけてしまう。「自分の大切な思い出だけでいいなんて、責任とかはどうなっちゃうの?」真実を求めたことが良心の呵責を引き起こしてしまったのだろう。結局、彼は決められずそこのスタッフとして働くことに(セリフは記憶だよりなので正確でないかもしれません)。
映画を観て、あれっ、と思ったのは、フィンランドのキリスト教の伝統では、大切な思い出というのはあちら側でなく、こちら側に関係するもの。弔辞の決まり文句の一つ、「在りし日の故人の思い出に敬意を表します」がそれを示している。キリスト教の復活信仰によれば、亡くなった方は復活の日まで安らかに眠るので思い出など考えない。眠りに入る前、創造主の神は果たしてこの私を両腕で抱きかかえるように受け止めて下さるかどうかが気になるところ。しかし、イエス様を救い主と信じていれば大丈夫と約束された神に全てを委ねる。人生にやましい事があった人も、そんなこと思い当たらないという人も皆そうするのだ。
※キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。ラテン語でFestum omnium sanctorumと言います。加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。これは、Commemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれます。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は昨日の11月2日でした。日本のルター派教会のカレンダーでは11月1日が「全聖徒の日」、それに近い日曜日が「全聖徒主日」と定められたいます。
10月の手芸クラブは30日に開催しました。少し肌寒い午前でしたが、午後から太陽が輝いて秋晴れの天候に変わりました。
今回は前回に続いてフィンガーレスの手袋を編みました。参加者の中には前回の続きをお家で編まれて完成品を持って来られた方もいらっしゃいました。きれいな模様の素敵に出来上がった手袋をみんなで見て、きれいな色合いですね、模様もよく引き立ちますね、と感心。前回は編み物が少し難しかった方もお家で頑張って編み続け、今回上手になったのでとても嬉しかったです。今回はフィンガーレスの続きを編む方の他に、以前の手芸クラブで編んだルームシューズの編んだ部分を持ってきた方はルームシューズの組み合わせをしました。
編み物はおしゃべりをしながらすると楽しく、時間もあっという間にたちます。いつの間にかコーヒータイムになりました。
テーブルのセッティングをして皆でフィンランド風ドーナツをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、フィンランドの編み物選手権大会の優勝者や聖書が教える勝利者についてでした。
次回の手芸クラブは11月27日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!
今回も前回に続いて編み物をしました。皆さんは前回の続きをお家で編まれたので今日どんなものになったか見るのは楽しみでした。手袋の模様も上手に編まれて嬉しかったです。
手芸クラブでは皆さんお一人お一人のペースで編みます。もちろん皆さんは、どんな手袋になるか、早く完成品を見たいと思います。私も早く見たいですが、そうすると、編み物は競争みたいになってプレッシャーを感じるようになり編み物の楽しさは失われてしまいます。
ところで、フィンランド人は競争が好きな国民でいろんな競争を行います。今年の8月には編み物のフィンランド選手権大会が開催されました。そこにはフィンランドだけでなく外国からも参加者があり、全部で100人位になりました。編み物は年配の人たちの趣味と思われがちですが、この大会には若い世代の参加者も多かったのです。
この大会は編み物の何を競ったのでしょうか?参加者は皆、ホールで並んで座ります。皆、同じ太さの毛糸と編み棒を渡されてバンドを編みます。一番早くきれいなバンドを編んだ人が優勝者です。競争が始まって20分くらいである参加者が出来上がったバンドを審査員に見せに行きました。審査員はとても驚きました。バンドは早く編まれただけでなく、とてもきれいだったのです。その選手が優勝しました。新聞記事によると優勝者にとってて編み物はライフスタイルで、小さな子どもの時から編み物を沢山編み、いつもどこかに行くと、必ず編み物をもって行くそうです。職場で休憩の時間にも編み物をしているそうです。
皆さんは何か競争に参加されて優勝したことがあるでしょうか?私たちは生活の中にも競争みたいにゴールや良い結果を得るために全力を尽くさなければならない時があります。良い結果を得られると、頑張って良かったと何か勝利の気分になります。
聖書にも勝利について述べているところがあります。「ヨハネの第一の手紙」には次のように書いてあります。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの第一の手紙5章4-5節)。この聖句は、イエス様が神の子であると信じる者は打ち勝つ者になると教えます。この打ち勝つ人は一人でなく大勢いますが、これはどんな勝利でしょうか?
一番最初に打ち勝った者は一人の方でした。それは、天と地と全ての造り主である神さまのひとり子イエス様でした。ではどのようにしてイエス様は打ち勝つ者になったのでしょうか?イエス様は神さまのひとり子ですが、乙女マリアを通してこの世に人として生まれました。しかし、神さまのひとり子なので私たち人間と違って神さまの御心に背くことは何もありませんでした。神さまにはこの世の全ての人たちが神さまの元に迎え入れられるようにする勝利の計画がありました。それは、イエス様を一番最初の勝利者にして、その勝利に人間があずかれるようにするという計画でした。
イエス様はどのようにして勝利を得たのでしょうか?イエス様は人間の背きの罰を私たちに代わって受けられるために十字架にかけられて死なれました。しかし、三日後に復活させられて天の神さまの元に上られました。このイエス様の十字架の死と死からの復活と神さまの右につかれるようになったこと、これがイエス様の勝利です。背きに満ちた世に打ち勝つ勝利です。
この勝利に私たちは、イエス様を神の子と信じることで与ることができます。先ほど読んだヨハネの第一の手紙が教えている通りです。信仰をもって世に打ち勝つ者になれると言っていました。本当にこの勝利は私たちが自分の力で得た勝利ではなくて、信仰を通して贈り物として与えられる勝利なのです。
編み物のフィンランド選手権大会に参加した人たちは皆、優勝するために一生懸命早く編まなければなりませんでした。しかも、きれいに編まなければなりませんでした。全員が頑張っても優勝者は一人だけでした。天の神さまが私たちに与えてくだる勝利は違います。天の神さまは全ての人に勝利を与えて下さるのです。私たちは編み物のフィンランド選手権大会の優勝者になれるくらいに編み物を上手になる必要はありませんが、イエス様のおかげで勝利者になれることを忘れないようにしましう。
聖書日課 イザヤ25章6-9節、黙示録21章1-6節、ヨハネ11章32-44節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。
本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。
復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。
特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。
まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。
本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書25章7節でも同じ「織物を織る」動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。
人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。
次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。
そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております」。(27節)
マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。
しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。
最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ4章15節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。
イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ4章16節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
宗教改革記念主日に寄せて
キリスト教の「信条」(信仰告白)の効用
6月16日付の週報コラム「キリスト教の信条(信仰告白)を学ぼう!」で私は、ルター派にとって重要なアウグスブルグ信条はスオミ教会の信徒に励ましと自信を与えると申しました。 「ア」信条やその元にあるキリスト教の伝統的な信条(使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条)には他にも効用があります。それは次の2つの危険から守ってくれるという効用です。一つは、様々な宗教団体、特にキリスト教会を名乗るがそうではない団体の引き込み、もう一つは、キリスト教会自身にも見られる脱・使徒的伝統の傾向という危険です。
先週そういう団体の一つから勧誘員の訪問を受けました。女性二人で訪れ、スオミ教会のホームページを見て興味を持った、自分たちもクリスチャンであると。最初、出身校が同じですね、だから先輩後輩の関係です、などと接近度を強めてから宗教的な話に。神をどう呼ぶかということについて「キリスト教の神の名前はヤハヴェです」と言うと、本当にそう呼んでいるんですか?それに対しては、「神の名は神聖なのでむやみに口にせず、代わりに「主」(アドナーイ)と呼ぶのが聖書の伝統です。それに従っています」。急に、一つ聞いてもいいですか?「どうぞ」、「イエスはヨハネからバプテスマを受けた時、聖霊が鳩の形で下って来て、天から『これは私の愛する子』という声が響いたとありますが、どうして神はイエスのことを『子』と言ったのでしょう?
これは、きっとイエスの神性を否定したいのだろうと思い、二ケア信条を思い出しつつ、「それは、マリアのお腹から生まれた形は人間の形ですが、その前に父なる神のもとにいらした時は人間の形も持たないイエスという名もない父と同質の方でした。私どもは神を三位一体として崇拝しております。」相手は少し薄ら笑いを浮かべ、恐らく、何もわかっていない可哀そうな人というシグナルなのだろうと解し、これで十分、お引き取りをお願いしました。
この出来事に先立つ先々週のこと、SLEYの聖書講座(Bible Toolbox)を読んだという方から長いメールを頂きました。ある聖句についてSLEYの解説がイエスの神性を主張していると解釈可能と言っているのは納得できないと。私はその聖句のギリシャ語原文を見て、神性を主張しても別に問題ないと思ったのですが、批判者はギリシャ語にも通じているようで日本の著名な聖書学者の見解を引き合いに出して批判を展開。最後に頂いたメールでは自分は「正統主義」とは距離を置く立場であると明らかにされました。「正統主義」とはキリスト教の伝統的な信条に忠実たろうとする立場です。
この批判についてBible Toolboxで翻訳と編集を担当しているヘルシンキ在住の神学者・高木賢氏と話し合いました。確かにギリシャ語やヘブライ語のような原語で聖書を読むのは大事だが、語彙や文法の分析だけで理解しようとすると収拾がつかなくなる。また、歴史的背景の解明も参考にはなるが、歴史は後世の研究者が自分たちの観点で再構築するものだから信仰の土台としては危うい。そうすると結局は、キリスト教の歴史の中で築き上げられた信条を羅針盤にして進むのが一番確かで安全な道ではないかと。その意味でルター派は、とことん理詰めで解明しないと気が済まないということがなく、理解を超えたところは、もうそういうものなんだと受け入れる、子供のような信仰だね、とお互い嬉しく納得した次第です。
なので、キリスト教を名乗る団体だけでなく、いろんな宗教団体が引きずり込もうと近づいてきたら、私どもは三位一体の神を愚直に信じる者です、それ以上でもそれ以下でもないので、ほっといて下さい、で宜しいと思います。薄ら笑いを浮かべられても、引け目や恐れを感じる必要はありません。私たちには2000年の歴史の中で鍛えられた信条があるのですから。それにしても宗教団体の中には正規のキリスト教徒を引き込めばポイントになるところもあるそうです。点数稼ぎの手段にされるなんて迷惑な話です。それだけに信条を信仰の土台にできていることはますます大事です。
宗教を持っているとそういう厄介なことに関わることになる、だから、社会を騒がす団体が近づいてきたら私は無宗教です、興味ありません、と言って追い返せば、それで済む話だと言われるかもしれません。しかし、宗教社会学の先生も指摘するように、追い返せるのは人生順調に行っている時だけで、何か不幸なことがあると引き込まれる可能性が高まります。聞いた話ですが、宗教なんかまったく無縁だったエリート夫婦に障害のある子供が生まれて、ある宗教団体の執拗な勧誘が始まり、結局は入ってしまったと。どこかに不幸がないか見張っているのかもしれません。正規のキリスト教徒は不幸があっても、愚直に「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ、汝共にませばなり」という心意気でいます。
正規のキリスト教会内にも見られる脱・使徒的伝統の傾向について。先日、某キリスト教団の月刊誌を見ていたら、聖書の解釈にトマス福音書を根拠にあげているのを目にしてビックリしました。聖書には4つの福音書、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネがあります。それ以外の「福音書」の名の付く書物は全て使徒的伝統に相いれないとして正典から除外されました。最近では初期のキリスト教はこんなに多様性があったということで注目されているようですが、キリスト教は使徒的伝統以上でも以下でもありません。多様性に流れたらキリスト教とは言えなくなります。使徒的伝統を映し出しているのが信条です。本当に信条は大事です。
今回はフィンランド風三角パンを作ります。 小麦の粒を全部使って製粉した栄養価の高い全粒粉で焼き上げるフィンランドの食卓パンです。三角の形に切っていただきます。生地の中に細切れのバジルを混ぜ、生地の上に白ゴマをかけるとパンの風味が不思議と一層深まります。
パンのおともにポテトサラダも作ります。今回はマヨネーズを使わず、ヴィネガーとサラダ油で作るさっぱりした自家製ドレッシングです。トッピングにディルの葉をタップリかけると美味しいポテトサラダになります。フィンランドではポテト料理にディルをよく使います。
フィンランド風三角パンとディル風味ポテトサラダを是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1751815461iamg@1751815461arumi1751815461hsoy.1751815461iviap1751815461 まで。
電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 www.suomikyoukai.org
マルコによる福音書 10:46~52 2024・10月27日(日)スオミ教会
説経題「盲人の癒し」
今日の聖書はマルコ福音書10章46~52節です。ここでは目の見えないバルティマイという男をイエス様が見えるように癒された奇跡の出来事です。46節を見ますと〔一行はエリコの町に着いた、イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒にエリコを出て行こうとされた時、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。〕目の見えないバルティマイという男は恐らく生まれつき目が見えない中で20年か~30年間、全く何も見えない手探りの暗闇の世界で何も出来ないから道端に座って物乞いをして生きてきたのでしょう。私たちは、ただ読むだけで想像しますが、彼の真っ暗な世界をとても、とても想像を絶する危難の一日、一日を過ごしてきたことでしょう。私たちは、それぞれの人生の歩みの中で、やはり色々な病気をします。ある日突然苦しい目に会います、或いは予想だにしなかった痛い目に会って時としてこの突然の自分ではどうにもならない難しい問題に直面します。まだ、何とかなるのではないだろうかと思いめぐらすくらいなら距離をおいて病院へ行かねばと思ったり、薬で暫く様子を見ようとしたり、まだ「神様助けてください」と叫ぶまでに大分距離があります。しかしどうでしょう、エリコの町で物乞いをしなければ生きて行けないバルティマイという男はこの世に生まれた時から真っ暗な世界です。信仰深い人たちは病気も神様からの賜物、神様から与えられた試練である、と思うかもしれません。その病気がある程度したら入院をしたり薬で治まったとしてもある程度の距離をおいて、そのうち平常の人間らしい生き方へ戻るでしょう。しかしバルティマイは全く違う、どうにもならない暗闇です。何のために生まれて来たのか、どんなに親を恨んだでしょう。これからどうなって行くのか全くわからない。そういう彼に今イエス様の一行が近づいて通り過ぎようとしている!バルティマイはそこに居合わせました。彼は来る日も、来る日も道端に座って物乞いをしている。その傍らを病気をたちどころに癒す奇跡の業を起こされる、というナザレのイエスが通りかかろうとされている。彼は叫びだしました、「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください。」この瞬間の以前に以後、エリコの道端には他にも盲人の人が座っていたかもしれません。しかし、バルティマイが偶々座っていた、その時主イエス様が傍らを通り過ぎようとされている。この時しかない。一生をかけてイエス様に出会う時はこの時とばかりに叫びだすのです。彼は千載一遇のチャンスを逃しませんでした。彼の癒しの奇跡の最初のポイントは主イエス様との出会いであります。彼はこの出会いを逃さなかったのです。多くの人が何故私には小さな奇跡でも起こらないのだろう。「祈っても、祈っても願いどおりにイエス様はみ業を起こしてくださらない」と嘆きます。案外イエス様はその人の傍らを通り過ぎておられるにもかかわらず自分自身の事に拘りすぎて主の方に向こうとしないまま主イエス様との千載一遇のチャンスをむざむざ失っているのかも知れません。私たちは生まれながらの目が見えないバルティマイより、あまりにも恵まれていないでしょうか、目に見えているのに一番関心のイエス様、そのものがどれだけ見えているでしょうか。バルティマイは全く見えないにもかかわらず今イエス様と出会って一番大事なものを見ようとしている。彼は死にもの狂いで叫び続けるのです。「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください!」それは率直な叫びでした。何の損得もない、ただ一心に憐れみを乞う叫びだけです。「ダビデの子」と呼んだからにはイエス様こそ私の救い主という思いがあったことでしょう。そして神様は憐れみに富み給うお方であると信じ、暗黒の中にいるにもかかわらず、その憐れみを信じ乞うたのです。旧約聖書 イザヤ書50章10節には「お前たちのうちには、主を畏れ主の僕に聞き従う者がいるであろうか。闇の中を歩く時も、光のない時も主のみ名を信頼し、その神を支えとする者がいるであろうか」とあります。彼は自分の悲惨な現実から神様の愛を推し量ることはせず、この暗闇から自分を解放してくださる神様の憐れみの深さを信頼したのです。神様の愛を信じ願った彼の信仰は的を得たものでした。けれども多くの周りの者たちは彼の叫びを不快に思い彼を叱り黙らせようとしました。バルティマイは怯まず叫び続けます。この時をおいてチャンスはない、誰が何と言おうと今この方にこそ救いを求める他はない。なりふり構わず叫び続けました。私たちは顧みて彼ほどの必死になって本当に主を求めているでしょうか。生命の危機にあれば求めることでしょう。バルティマイはついに主イエスを立ち止まらせる事に成功しました。主イエス様は「あの男を呼んできなさい」とお命じになったのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」「安心しなさい」という言葉は「勇気を出して」とも訳せます。今まで道端に座り込んで物乞いしなければ生きて行かれなかった者が勇気を出して立ち上がったのです。主の呼びかけに従って答えたのです。もはやためらう事はありません。ほかならぬ主イエス様が呼んでおられるのです。バルティマイは上着を脱ぎ捨て踊りあがって主のもとに行きました。今、私の声は主に届いた。もう暗闇は私を支配することはない!その彼に向かってイエス様は「何をして欲しいのか」と尋ねられます。何をして欲しいのかですって?イエス様が彼の願いを知らないはずがありません。しかし,あえて主イエス様は問われるのです。それは彼自らがその願いを言葉に出して言う必要があるからです。そしてその願いが的を得たものであるか、外れたものであるか、吟味される必要があるからです。そうしてイエス様は言われました。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救われた」。すると彼はすぐさま見えるようになった。そしてイエスに従ったのであります。彼が癒されたのは病院の医者でもない学者でもない占い師でもない、ダビデの子メシア救い主が癒して下さる。そのお方に止められようとも黙らされようとも、どんなことをしても必死で近づこうとするバルティマイの信仰にこそ主は目をとめられたのです。彼にとって神様はどんな方として信じられていたのでしょう。「愛」のお方なのです。必ずこの私を憐れんで下さるにちがいない。生まれながらの暗闇に苦しむこの難問は主のみ心ではない、むしろ主なる神は光を給い、人を生かされる愛のお方なのです。この信仰が彼を勇気づけ叫び続けさせ彼を救いへと導いたのです。「神は愛なり」との信仰がどんな暗闇にも希望の光を差し込む癒しの方なのです。どうにもしょうがないんだよ、と言う人間が作り出す勝手な常識を打ち破ったところに奇跡の業が起きているのです。神様は御子を十字架にかけてまで私たち一人一人を愛してくださったのです。私たち人間の常識を超えて神様は私たちに愛を注いで下さり病にも悩みにも癒しの愛を注いで下さって、私たちを苦しみから救いたいと願っておられるのであります。バルティマイは溢れる光の中を喜びと感謝に溢れて生きたことでしょう。この奇跡の出来事はエリコの町で起こされました。エリコの町は荒野の中のオアシスとして緑あふれる恵みの町であります。バルティマイに起こった全てを象徴するエリコであります。 <人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン>
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。