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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

パン

11月のスオミ教会・家庭料理クラブは15日、爽やかな秋晴れの中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのメニュー、フィンランド的なパン「オートミール・セサミ・サンピュラ」とキノコのスープです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まずパンの生地を作ります。材料を計って順番にボールに入れていきます。オートミールと小麦粉を加え生地をよく捏ねてしっとりした生地が出来上がります。それを暖かい所において一回目の発酵をさせます。その間にキノコのスープの準備を始めます。玉ねぎとマッシュルームのみじん切りを終えると、生地はあっという間に大きく膨らんでいました。早速パン作りに入ります。大きな生地をテーブルの上で丸めてから、それを16個に分けて一個一個をきれいな丸形のサンピュラにしていきます。それを全部鉄板の上に並べて第二の発酵をさせます。

キノコ

発酵させている間にキノコのスープの続きをします。みじん切りにしたキノコと玉ねぎを鍋に入れてしばらく炒めてから他の材料を順番に加えて煮込みます。最後にクリームチーズを加えると柔らかい味のスープが出来上がります。

パン

サンピュラの二回目の発酵も早くすみ、一つ一つの上に卵を塗って白セサミと黒セサミをその上にたっぷりかけてオーブンに入れます。しばらくするとパンの焼き香りが台所から教会中にどんどん拡がって参加者の皆さんは何回もオーブンを覗きに行きました。「美味しいそう!」「良い香りね」とみんなワクワクでした。

パンテーブルのセッテングをしてみんな着席します。焼きたてのオートミール・セサミ・サンピュラにマーガリンを塗って、キノコのスープと一緒に味わいます。「やっぱりパンは焼きたてが最高ね!」「スープも美味しいわ」との声があちこちから聞こえてきます。皆さんと一緒に美味しくて本当に満ち足りた歓談の時を過ごしました。その時にフィンランドのキノコやパンの話と聖書のイエス様が語られた「からし種」と「パン種」のたとえ話の教えについて話を聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回はもう待降節(アドベント)の期間の開催になります!12月13日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2025年11月15日

フィンランドでは十月末に冬時間に入ります。それから日がだんだん短くなり気温は氷点下に下がる日が多くなります。この時期になると、フィンランド人は家で過ごす時間が増え、温かい料理、オーブン料理、スープ、などを作るようになります。もちろんパンやケーキなども焼きます。今日皆さんと一緒に作ったキノコのスープとオートミール・セサミサン・ピュラはこの季節にピッタリです。

フィンランドではキノコはベリーと同じように森で自由に採ることが出来ます。キノコ狩りの期間は年によって変わりますが、普通は7月の終わり頃から11月までです。この間フィンランド人の友達からキノコ、フィンランド「漏斗の形のキノコがまだ採れる」と聞きました。漏斗の形のキノコとはどんなキノコでしょうか。それはアンズタケと似ていてマイルドな味わいですが、色は茶色です。キノコは普通は寒さに弱いですが、このキノコは氷点下に下がってもまだ採ることが出来ます。フィンランドではキノコ狩りの期間は長いので、秋はキノコ狩りの「黄金期」とも呼ばれています。

森で採ったばかりのキノコは秋の食卓に相応しい食材です。新鮮なキノコをフライパンで炒めたりスープやソースに入れたりして美味しくいただけます。沢山採る場合は冷凍したり、乾燥させたり、塩付けにしたりして保存します。

スオミ教会の料理クラブではフィンランド的なサンピュラを何度も作ったことがあります。フィンランドではサンピュラの種類は多くあり、生地の材料を少し変えるだけで、新しい名前のサンピュラが出来ます。今日のサンピュラの特徴は生地に使ったオートミールと表面にかけたセサミです。オートミールとセサミを加えることでパンの栄養価が高まります。パンはミネラル、ビタミン、繊維が含まれる健康的なパンです。フィンランドではこのようなパンを食べることが奨励されています。

今日はセサミをパンの上にかけたり、イーストでパン生地を発酵させたりしたので、今日の聖書のお話はイエス様が「からし種」と「パン種」についてのたとえ話が相応しいと思いました。このお話は新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれています。

ある時、「イエス様は神の国は何に例えられるか」について教えました。そこで二つの例え話をされました。先ず、イエス様は「神の国はからし種のようなものです」とおっしゃいました。

からし種とはどんな種でしょうか。それは非常に小さくてどんな植物の種よりも小さいものです。しかし、それを蒔くと茎はどんどん伸びて畑の中で最も大きな植物に成長します。それは木のように枝を拡げて空の鳥たちが巣を枝に作るくらいになります。

イエス様のもう一つのたとえ話は次のようなものです。このお話も「神の国は何に例えられるか」について語られたものです。イエス様は「神の国はパン種のようなものです。」とおっしゃいました。ある女の人がパンを作る時に3サトンの小麦粉にパン種を混ぜると、生地全体は大変良く膨らみました。1サトンは12リットルなので36リットルです。当時パンを作る時にはイーストはまだなかったので、いつも少しだけの生地を残しておいてそれを次に作るパンのパン種に使って発酵させたのです。たとえ話の女の人が作ったパン生地は36リットルもあるとても大きなものでした。しかしわずかなパン種をそんな量の小麦粉に混ぜただけでパン生地全体が大きく膨らんだのです。

この二つのたとえ話の意味はどのようなことでしょうか。たとえに出てくるからし種とパン種はとるに足らないものに小さなものに見えますが、それぞれに強い力が秘められています。イエス様はからし種とパン種を何に例えられたのでしょうか。それは天と地と人間を造られた天の神さまのみ言葉を意味します。つまり聖書のみ言葉のことです。聖書のみ言葉は見た目ではただ普通の言葉にすぎませんが、その中には大きな力が含まれています。それはどんな力でしょうか。それは天の神さまが私たちの造り主であるという信仰を生み出す力です。そして、天と地と人間を造られた神さまが私たちを救うために独り子イエス様をこの世に送られたことを知らせ、この出来事は自分の為に起こったということを信じて受け取れるようにする力です。聖書のみ言葉を通して神様に対する信仰が生まれるのです。

CC0神さまのみ言葉を全世界の人たちに述べ伝えたら多くの人たちは信仰を持つようになります。イエス様はこのことをからし種が成長して大きな木になること、そしてパン種が小麦全体に広がって大きなパン生地に膨らむことで表されました。神様のみ言葉は全世界の多くの人々に向けられて信仰を生み出てきました。そうした生まれた信仰はこの世を生きる力になり、またこの世を超えて次の世まで導く力ともなります。

私たちも聖書のみ言葉を読んだり聞いたりしてしましょう。そこから神様への感謝の心が生まれます。

牧師の週報コラム

「聖書は神の言葉」について

昨年から礼拝の式文をフィンランドのルター派国教会のものに合わせる改訂を進めてきました。最後の変更箇所として、聖書朗読のところで旧約聖書と使徒書の朗読の後に「これは神の御言葉です」と言って、会衆が「神に感謝します」と応じる、福音書では「これは聖なる福音です」と言って、「キリストに感謝します」と応じるようにすることを先週の全体会でお知らせしました。

その後で信徒の間から、「聖書は神の言葉」と言うと、聞く人によっては米国の所謂キリスト教原理主義を思い起こさせるのでは、彼らも同じように言うからだという心配の声があがりました。世界のキリスト教界を二分するような諸問題でSLEYは伝統的な立場を取ることが多いため、それを好ましく思わない人たちから原理主義的などと批判されます。しかし、宗教改革で言う「聖書中心主義」と米国の福音派のそれには大きな違いがあります。いつか、ルター派にとっての「聖書は神の言葉」について勉強会を開こうと思います。(ちなみに、「これは神の言葉です」はフィンランドのルター派国教会の礼拝でも唱えられます。近年伝統からどんどん離れて行く傾向にある同教会を原理主義と言う人はいないでしょう。)

それで、肝心の式文の改訂はどうするか。取りあえず勉強会までは朗読者の判断に委ねます。「聖書は神の言葉」で問題ない人は唱え、心配な方は以前通りの「これで日課を終わります」。そうなると今度は、「神の言葉」と唱えられて聞く側が不安を感じたらどうするのかという反対が出るでしょう。その場合は次のようにお考え下さい。今あなたが聞いたのは神の言葉である、これからそれを説き明かして、神が今の状況にあるあなたに何を伝え何を与えようとしているかを知らせる説教が始まるのだ、それは高尚な世間話でも知的好奇心をくすぐる話でも道徳訓話でも感動ものでもない、あなたの魂を精錬する話だ、心して聴きなさい、というシグナルを与えるものとお考え下さい。会衆がそういう態度で臨めば臨むほど、説教者も一層真剣に説教を準備するようになること請け合いです。その意味でも「終わります」と言って終わってしまうよりお互いの信仰の成長に資します。

ここで説教者にとって一つ大きなチャレンジになるのが、旧約聖書の日課も使徒書の日課も「神の御言葉」と言ったら、本当は説教ではそれらも取り上げなければなりません。福音書の日課の説き明かしをそれらの御言葉に助けられて行うということです。言い訳がましくなりますが、聖書日課の編纂者はもっと気が利く組み合わせをしてほしいと言いたくなることが多いです。でも、それが取り上げない理由になってはいけなません。まだまだ研鑽が必要だと自覚しています。

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2025年11月16日(日)聖霊降臨後第23主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン              2025年11月16日(日)スオミ教会礼拝 

聖書:ルカ福音書21章5~19節

説教題:「終末にはどんな事が起こるか」

今日の聖書はルカ福音書21章5~19節です。21章と言うとルカの福音書ではもう終わりに近い方です。イエス様はご自分のこの世での活動も終わりに近づいて来ていること、つまり十字架の死が近づいて来た事を深刻に感じられています。これまで共に生活して来た弟子とも別れなければならない。この弟子たちが神様からの使命を全うして行くのに幾多の苦難があるだろう、それらに耐えて行けるように弟子たちへの訓練と警告を告げられてゆきます。ルカ福音書19章47節を見ますとイエス様の地上での活動の総仕上げの計画を含めて「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の最大のシンボルである神殿で弟子たちを教えておられます。ユダヤ教の司祭長や律法学者たちが総力を上げて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見ていたのでした。ユダヤの人々なら誰もが同じように見たでしょう。そこへイエス様が来られて言われました。6節の言葉です。「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」イエス様はこの頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いた弟子たちは吃驚したでしょう。とても考えられない事です。そこで更に7節には「彼らはイエスに尋ねた。先生、ではその事は何時起こるのですか。また、その事が起こる時にはどんな印があるのですか」と問うています。イエス様に訪ねた彼らと言うのは、実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ」の四人が密かに尋ねたと記しています。イエス様は最も信頼している四人の弟子にだけ預言されています。この事はそれだけ慎重に秘密裡に考えての事でしょう。何故かとと言いますとエルサレムの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司たち、律法学者たちでした。ルカは19章の終わりのところで「祭司長たち律法学者の指導者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で公に、いまイエス様がやがてこの神殿は悉く破壊されてしまうなどと預言されるともう大変な事になります。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに明かされたわけです。特にルカ19章の終わりの45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を激しく追い出してしまわれた」とあります。この事件以来、彼らは益々イエスを殺そうと息まいています。そうとう頭に来ていますから危険の最中にあるわけです。このような危険状況の中で弟子たちはこれから大切な福音の担い手となって世界に向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくために訓練と警告を告げておられるのであります。更に弟子たちが想像もしていなかった終末が来ると、その直前には大変な苦難と迫害が来る事も預言されているのです。

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<考えてみますと>イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機状況は現在の私たちの世界の危機状況でもあると言えるでしょう。世界の彼方此方で戦争が絶えない、イエス様の時代と違って今日では科学文明が進み核兵器の危機です。イエス様の神殿崩壊の預言はとても考えられない事が事実歴史の中で起きてしまいました。紀元70年ローマ帝国に因ってエルサレム神殿は悉く破壊されました。ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトゥスによる記録にもあります。弟子たちはイエス様の預言と実際に滅亡してゆく過程の全てを見て苦しみを味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前に問うた時、イエス様は10節以下にあるように具体的に起こる事柄を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして大きな地震が起こり飢饉や疫病が起こり恐ろしい天体現象があらわれる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には人々はあなた方に手をかけ迫害し会堂や牢に引き渡す。そして私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また私の名のためにあなた方は全ての人に憎まれる。」とあります。ここに言われる事の全てはイエスの名を信じる神の子とされた者が受ける苦難であり迫害です。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きてゆくかを示されています。「イエスの名を名乗る偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。王の前に出されたらそれは証をする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と知恵は与えられるから大胆に語れ、臆することなく勇気を持って語れ」と言われる。26節には「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされ恐怖に落ちてしまう。その時人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間の如何なる力も科学の力も機械の力もなすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうする事も出来ない、毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加、地球全体の規模で大異変が現実に起きている。そういう中で人間の力は無力です。これらは全能の神の怒り罰が下されているのでしょうか。紀元70年エルサレム滅亡は地上に住む国々の民に対し終わりの日の警告でありましょう。人類の大いなる艱難の日でもあります。「しかし、エルサレム滅亡をもって直ちに世の終わりが来るのではない」と主は言われる。エルサレム滅亡によってユダヤ民族が神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音は弟子たちによって広く世界へと、異邦人へと向かって行くのであります。エルサレム滅亡はこの意味に於いて大きな時代の一大転換期となった。人類の歴史の重要な一段落であります。マタイ福音書24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として全世界へ宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」更にマタイ福音書25章31~46節にみられるように右と左に分けられ「世の終わりが来てキリストの再臨による大いなる審判が行われる、そうして全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神のみこころのままに全てはなって行くのであります。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

礼拝後、吉村牧師の聖書研究会が開かれました。アブラムの生涯―創世記18章1~15節までを学びました。

 

牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」114日の日課から

これぞ、ルターの神学の神髄、「イエス様と人間の幸いなる交換取引」なり!

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテア3章13節)

「キリストは私たちのために呪いとなった」 ― この言葉以上に甘美な教えがあろうか?我々は感謝の心を持ってこの言葉を自分のものにしよう。「キリストが私たちのために呪いとなった」とは、別の言い方をすれば、キリストは神の怒りの主犯となった、それ位の罪びとになったということであり、世界中の罪をご自分の肩に負わせ、「これら全て人間が犯した罪は実は私が犯したのです」と言わしめたということである。

 キリストは、律法の規定に即してみて本当に呪いとなったのである。しかし、それは彼自身が原因なのではなく、私たちのためにそうなったのだ。もし彼が私の罪、君の罪そして世界中の罪を自分のものとして引き受けることなどしなかったならば、律法は彼を裁く権限を全く持ち合わせなかったのだ。なぜなら、律法は罪びとを裁くものだからだ。しかし、キリストは我々の幸いとなるように交換取引を行ったのだ。彼は我々の罪にまみれた人格を自分のものとして引き受け、ご自分の罪のない勝利に満ちた人格を我々に贈り物として与えて下さったのだ。この贈り物を纏ってもらったので、我々は律法の呪いから解放されたのである。

 キリストは望めばそうする必要はなかったにもかかわらず、あえて自分から進んで我々のために呪いとなられた。「私は、神としての人格、人間としての人格の双方の点で、神の祝福以外の何ものでもなく、救いのために何かが欠けているという者でもない。しかし、私はこのような自分を空にして(フィリピ27節)、君たちが纏っている、自然な人間の状態をこの身に纏おう、君たちを永遠の死の滅びから救い出すために。」これが彼の本心だったのだ。

 このようにして全世界の罪を背負った時、キリストは捕らわれ、苦しみを受け、十字架につけられて死なれ、我々のために呪いとなったのである。しかし、見よ、彼は三日後に復活され、今永遠に生きて治められている。彼には罪も死もなく、我々と同じ自然な人間の状態もない。あるのは完全な義、真の命、永遠の祝福である。(以上ルターの説き明かし)

この完全な義、真の命、永遠の祝福は、キリストを救い主と信じ洗礼を受けて彼と結びつく者みんなに与えられているのです!アーメン!

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手芸クラブの報告

クロステージ

10月の手芸クラブは29日に開催しました。少し肌寒い午前でしたが、午後からは太陽が輝く秋晴れの天候に変わりました。

今回は前回に続いてクロステージのテクニックを使って刺繡をしました。参加者の中には前回の続きをお家で刺繡されて完成品を持って来られた方もいらっしゃいました。きれいな模様の素敵に出来上がった作品をみんなで見て、きれいな色合いですね、模様もよく引き立ちますね、と感心。今回は刺繡する方の他に編み物を編まれる方のご参加もありました。きれいで暖かそうなストールを背丈近くまで編まれ、もう少しで完成です。別の方は、以前手芸クラブで使ったテクニックでストールを編みました。編み物は初めてということでしたが、早くストール編みに慣れました。毛糸の色の組み合わせで模様がはっきり見えてきて、可愛いストールのスタートでした。きっと柔らかくて暖かいストールになるでしょう。

クロステージ今回は作品はいろいろでしたが、皆さん、楽しくおしゃべりしながら刺繡をしたり、編み物を編んだりして時はあっという間に過ぎてしまいました。目と手を休めてコーヒータイムに入ります。

みんなでテーブルのセッティングをして、フィンランド風ドーナツをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、フィンランドの新聞記事にも載ったエリナという女性の刺繡と、イエス様が十字架の上で言われた「成し遂げられた」という言葉についてのお話でした。

次回の手芸クラブは12月3日の予定です。(注 11月の手芸クラブは12月に変更されました)。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!

手芸クラブのお話2025年10月

今年の夏私はトゥルク地方の新聞を読んで刺繡に関係する面白い記事を見つけました。今日はその記事を紹介したいと思います。記事に登場するのは、トゥルクの近くに住んでいるエリナという女性です。エリナさんは十年前に刺繡に興味を持ち、それから熱中するようになって様々な作品を作るようになりました。そして、今年の夏の終わり頃に刺繡展を開きました。刺繡展のタイトルは「カササギのつま先やその他のステッチ」でした。カササギというのはカラス科に属する鳥で、羽は黒く胸と腹は白い色でフィンランド語でハラッカと言います。フィンランドでは「カササギのつま先」という表現はいろんなスタイルの手書きを表す時に使われます。刺繡展のタイトルはエリナさんの刺繡の手さばきを披露するという意味でした。

エリナさんはカラフルな刺繡の作品が好きで色の組み合わせに興味を持って刺繡をします。様々な素材の布に刺繡をして、この十年間でバック、写真、ぬいぐるみなどに刺繡をしてきました。コロナの時には熊のぬいぐるみに当時の出来事や思いを刺繡して「コロナの熊」という作品を作りました。また別の時には様々な言葉を日記の代わりに刺繡して残しました。60歳になった時に「人生をもって進んで行こう」という言葉をクロスステッチの壁飾りに刺繡しました。その意味は、これから体はだんだん衰えていくけれど、そのような体で進んで行こうという意味です。刺繡は完成まで時々時間がかかるので、まだ仕上がってない作品が沢山あります。しかし、それはまた続きをして、いつか完成させたいとエリナさんは考えています。

私はこの記事を読んで少しホッとした気もちになりました。エリナさんも作品を完成させるまで時間がかかり、途中まで作ったままのものが沢山あるそうです。私にも途中まで作った刺繡や編み物などが家に沢山あります。皆さんはいかがでしょうか。いつも全部を最後まで完成させていますか。刺繡や他の手芸を趣味にしている人にとって未完成のまま残っている作品は結構あるのではないでしょうか。これは私たちの日常生活にもよくあることではないでしょうか。仕事を一生懸命をしてもいつも完璧に終わることが出来るとは限りません。全ての仕事は最後まで完璧に仕上げられる人はいるでしょうか。

聖書はそのような方について教えています。その方は神さまの独り子であるイエス様です。イエス様はこの世におられた時、多くの人々に天と地を作られた神さまのことを正しく教えて神さまから与えられた役目を最後まで果たされました。その役目とは、イエス様が十字架にかけられて

そこで命を捧げられたことです。十字架の上でイエス様は最後に「成し遂げられた」と言って息をひきとりました。イエス様は天と地と人間を造られた神さまから与えられた働きを完成されたので、「成し遂げられた」と言われたのです。それは私たち一人一人そして全世界の人々のための働きでした。イエス様の十字架の業によって私たちは神さまの御前に立つのに相応しい者とされるのです。神様の御前で相応しくなれるために私たちはいろいろする必要はありません。ただ、このイエス様の十字架の出来事は自分の為に起こったということを信じてイエス様を救い主として受け取ることで十分です。イエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」とは私たちにも向けられています。

クロスステッチの刺繡はいつも私にイエス様の十字架を思い出させてくれます。十字架は教会を意味し、人々をイエス様のもとに導く印です。何年か前の夏私たち家族はある町の教会を訪問しました。その頃はまだナビゲーターがなく、町中教会を探しましたが、なかなか見つかりません。別の方向に向かおうとした時娘のヨハンナが突然「十字架が見える!」と大きな声で言いました。その方向に車で走って無事に教会に着き礼拝に間に合いました。その教会の礼拝で聖書を通して天の神さまやイエス様について教えを聞くことが出来ました。スオミ教会にも礼拝堂とこの集会室に十字架が掛けられています。スオミ教会の十字架も訪れる人々を聖書のみ言葉を通してイエス様のもとへ導いているのです。

みなさん、クロスステッチの刺繡をするときも、イエス様の十字架やイエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」を覚えていきましょう。

説教「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書20章27-38節

2025年11月9日(日)聖霊降臨後第22主日 礼拝 説教

聖書日課 ヨブ19章23-27a節、第二テサロニケ2章1-5、13-17節、ルカ20章27-38節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世の人生を終えたら何が待っているかという問いの核心となる答えです。キリスト信仰の死生観そのものと言ってもよいでしょう。

サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とするエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 サドカイ派の人たちが吹っかけた議論とは、7人の兄弟が順番に同じ女性と結婚したという話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持つことになるのか?ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういうことが起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。真に巧妙な吹っかけ方です。

 これに対するイエス様の答えは反対者に有無を言わせないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。まず、人間のこの世での在りようと復活した時の在りようは全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。

2.復活の在りよう

 まず、第一の論点の復活の在りようを見てみましょう。人間は復活すると、この世での在りようと全く異なる在りようになる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない在りようになる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の在りようと同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな在りようになるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が終わった後の新しい天と地の世になります。そこで、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような存在になり、第一コリント15章でパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者をイエス様は「神の子」であると言います(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなります。つまるところ、サドカイ派は復活を正しく理解していなかったのです。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。

 ところで、キリスト信仰の復活を考える時、次の3つのことを忘れないようにしましょう。第一の忘れてはならないことは、今見たように、復活の在りようはこの世での在りようと異なるということです。

 二番目に忘れてはならないことは、復活の時、神の御許に迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということです。それを決める最後の審判があるということです。

 三番目に忘れてはならないことは、復活と最後の審判は将来、一括して一斉に起こるということです。人間一人一人死ぬたびに起こることではありません。そうすると、じゃ、死んだ人たちはみんな復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところが我が国では、人は死んだら高いところかどこかに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が多いです。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから下を見下ろしても、その時はもう今ある天と地はなくなっています。あるのは新しく創造された天と地と唯一残る神の国だけです。

 そうなると、死んだ人が本当に眠ってしまったら、誰が見守ってくれるのかと心配する人が出てくるでしょう。これもキリスト信仰では見守ってくれるのは亡くなった人ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。この方が私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、先祖の祟りだの、何とか霊の呪いだのと言われても慌てなくなり、霊的な恐れや不安を抱かずに生活できるようになるでしょう。

 そこで、神の国への迎え入れは復活の日まで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに向かって、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになります。それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。実は聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

3.神は復活に与かって生きる者の神である

 次にイエス様の答えの第二の論点、復活があることの根拠に神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ったことについて見てみましょう。出エジプト記3章6節で神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んでいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。イエス様はこれを引用した後でたたみ掛けるようにして言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。

 このイエス様の言葉はわかりそうでわかりにくいです。実は、これを正しく理解できないと、イエス様の答えの第二の論点が理解できません。まず、「神は生きている者の神」と言う時の、「生きている」の意味ですが、これはただ単にこの世で生存している者のことではありません。イエス様が、特にヨハネ福音書で、「生きる」と言う時はきまって永遠の命、復活の命に与かって生きることを意味していたことを思い出しましょう。それなので「生きている者」とは、永遠の命、復活の命に与っている者のことです。永遠の命に与かっている者には、復活の日を待たずして神の御許に迎えられた者と、復活に至る道に置かれて今それを歩んでいる者の両方が含まれます。それで、「生きている者の神」とは、既に神の御許に迎え入れられた者と今そこに向かって歩んでいる者の双方にとっての神です。

次の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」生きているという意味になります。実はここはそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、この理解はこの復活の個所とかみ合いません。文脈から浮いてしまいます。文というものは、それ自体は正しくて意味を成すことを言っていても、置かれた文脈とかみあっていなかったら意味を成しません。

 それでは、この言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「全ての人」というのはここでは全人類のことではありません。これは、35節と36節に言われている、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」のことであり、復活に与かる神の子のことです。従って、「全ての人」とは「復活に与かる全ての人」という意味です。

 次に、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は素直に訳して「神のために」とします(後注1)。参考までにドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)です。英語訳聖書NIVはto him「彼に対して」でした。フィンランド語訳は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)でした。少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。

 そこで、「神のために生きる」というのはどういう生き方かがわからないといけません。イメージとして神さまにお仕えする生き方が思い浮かぶでしょう。それでは、神に仕える生き方とはどんな生き方でしょうか?それがわかる鍵がローマ6章10~11節にあります。パウロが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神のために生きている、と言っているところです(日本語訳では「神に対して生きている」ですが、ギリシャ語では今日のイエス様の言葉同様、「神のために生きている」です)。

 パウロはローマ6章で、罪に対して死んで神のために生きるということをどう教えていたでしょうか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられる。それと同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、私たちの内にある、罪に結びつく古い人間も十字架につけられるので、私たちは罪の言いなりになる状態から離脱します。そして、イエス様は死から復活されたので、もう死が彼を支配することはありません。確かにイエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が彼に対して力を及ぼせなくなっただけでなく、洗礼を通して彼と結びつけられた私たちに対しても及ぼせなくする出来事だったのです。イエス様が罪に対して死なれたというのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与える死だったということです。そのことが十字架の出来事をもって未来永劫にわたって確立されたのです。

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは神のために生きることになると言います(ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるとは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様だけでなく洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまるのです(後注3)。それでは、キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるというのはどういう生き方か?パウロは、それは全身を罪の道具に替えて神の義を現わす武器にするのだと教えます。全身を神の義を現わす武器にするとは、具体的にはどういうことか?それは、本教会の説教でも繰り返し教えています。イエス様がもたらしてくれた罪の赦しのお恵みの中にしっかり留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。このように罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることは罪を踏みつぶしていく生き方であり、神の義を現わす生き方になるのです。復活に与かるのに相応しいとされた全ての人たちは、このようにしてこの世を神のために生きるのです。そして復活の日には、もう踏みつぶす罪はなくなり、完全に神の栄光を現わす器になっているのです。.

4.勧めと励まし

 最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか、ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて見てみます。神がモーセにこのように名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はかつてアブラハムとイサクとヤコブの3人に対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時が来たのです。神はその約束を与えた3人の名を引き合いに出したのです。もちろん、ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活の場合もそうです。アブラハムの神が私たちの神であるならば、私たちも復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神のために生きる」の「のために」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

フインランドからのプレゼントの讃美歌掲示板です。重いボードでしたが牧師が手荷物で運んで来て下さいました、礼拝時の讃美歌が一目でわかります。

牧師の週報コラム 

フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う

キリスト教会では古くから111日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。加えて112日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の111日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。

日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。日本では遺骨や位牌に魂が入っていると信じられるせいか、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。

キリスト信仰では、亡くなった方は思い出として残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するということになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。日本人の場合は尊重するのは故人の今ある魂とか霊になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出だけになってしまったら、故人との繋がりがなくなってしまうと心配してしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身は復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。それなので、キリスト信仰では墓は良き思い出の象徴であり、復活の再会の希望を確認する場になります。

全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。(2023115日のコラムに加筆修正)

 

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の料理クラブは11月15日(土)13時の開催です。

フィンランド的なパン「サンピュラ」を作ります。今回はオートミールをたっぷり含み、白ゴマ黒ゴマでトッピングしたオートミール・セサミ・サンピュラです。オートミールもセサミも栄養素が豊富なのでフィンランドでは健康的な食卓パンに数えられます。パンはふっくらとしていて、バターやマーガリンだけでも香ばしく美味しく頂けます。もちろん、ハムやチーズを挟んでサンドイッチにも最適です!

そして、パンのおともにフィンランドの秋の季節によく作られるキノコのスープも作ります。色んな種類のキノコを加えてクリームチーズで煮立てると、奥の深いまろやかな味のスープが出来上がります。

フィンランドのオートミール・セサミ・サンピュラとクリームチーズ風味のキノコスープをご一緒に作って味わいましょう!

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!

説教「復活の視点で見渡すことができれば、あなたも聖徒」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書6章20-31節

2025年11月2日(日)全聖徒主日 主日礼拝 説教

聖書日課 ダニエル書7章1~3、15~18節、エフェソ1章11~23節、ルカ6章20~31節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書ルカ6章の日課はマタイ5章と同じ「幸いな人」についての教えです。教えの主題は同じですが、見比べるといろいろ違いがあることに気づきます。一般に4つの福音書を見比べると同じ教えや出来事の書き方が違っていることがよくあります。これはどういうことでしょうか?以前にもお教えしたですが、以下のようなことです。ルカ福音書の記者はその冒頭で、自分は信頼できる目撃者の証言や書き留められたものを集めて書き上げたと言います。つまり、自分は目撃者ではないと明らかにしているのです。マタイ福音書の方は、言い伝えによると12弟子の一人のマタイ、つまり目撃者が書いたことになっています。しかし、彼が今の形で全部書き上げたというよりは、彼が残したことを土台にして彼の取り巻きか後継者が追加資料を加えて完成させたと見るのが妥当ではないかと思います。このように、ルカもマタイも今の形になる前にいろいろな資料が土台にあるのです。それでは、それぞれの違いはどのようにして生まれたのでしょうか?

 福音書を完成させた人が手にした資料は、その手に渡るまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そして最後にそれらをまとめて完成させた人がいます。そうした流れの中で、各自の観点で短く要約したりとか逆に解説を加えて長くしたということが起こります。もしそうだとすると、完成品は史実を正確に反映していないのではという疑いが起こるでしょう。

 ここで忘れてはならない大事なことがあります。伝えた人、書き留めた人、完成させた人は自分の観点で短くしたり長くしたりしたとは言っても、彼らはみな共通の観点を持っていました。共通の観点とは次の4つから成ります。まず、イエス・キリストというのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であるということ。第二に、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。第三に、そのイエス様が死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。そして第四に、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これら4つのことを共通の観点としてみな持っていたのです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。この観点はイエス様の教えと出来事がなければ生まれませんでした。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めて福音書を完成させたのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性を損なうものではありません。違いの根底には同じ出来事、同じ教えがあるのです。それに、いろんな記述があることで同じ出来事と教えをいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあってもみな同じ信仰の観点で書かれていることを忘れないようにしましょう。それらを皆等しく神の御言葉として扱い、いろんな角度を総合した全体像を予感することが大事です。教会の礼拝で福音書をもとにしてする説教とは実は、今日はルカの角度から全体像に迫ります、ということに他なりません。

2.復活の視点と「幸い」

 ルカ福音書とマタイ福音書にある「幸いな人」の教えは共に人間的に見て好ましくない状態が将来逆転することを述べています。好ましくない状態についてルカは経済的な格差に焦点を当てています。将来とは復活の日のことです。今日は全聖徒主日、イエス様を救い主と信じる信仰を抱いてこの世の旅路を終えた人たちを覚える日であり、彼らと相まみえる日に思いを馳せる日です。復活の視点はこの日に相応しいテーマです。

 「幸いな人」の教えの中に復活の視点があることがわかるために、まず「幸い」とは何かを考えてみます。どうして「幸せ」と言わず、「幸い」なのでしょうか?「幸せ」はこの世的な良いものに関係します。「幸い」はこの世を超えたことに関係します。皆さんもご存じのように聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。よく終末論と言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正解でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちをメンバーとします。黙示録で言われるように、そこは神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道を進む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。

 この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、復活に至る道に置かれてそれを進むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏は満たされ涙は拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。これは創造主の神の約束です。だから今の境遇は陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われて快活に笑う自分が見えるのです。

 もちろん、復活の日を待たずともこの世の段階で貧しさや空腹や涙から脱することは出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ、空腹、涙と同じ陽炎です。このように、この世の不運だけでなく幸せもみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。

 「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。一つ注釈しますと、ギリシャ語の原文は「あなたがたは不幸である」という言い方ではなく、「お前たちに災いあれ」という言い方です。英語のwoe to youで、ドイツ語もフィンランド語もスウェーデン語も同じ言い方です。どんな災いが降りかかることになるのかと言うと、将来飢えるようになり泣くようになるなどと今の境遇が逆転することが未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。

 こんなことを言うと、この世で裕福になったりお腹一杯食べたり笑ったりしてはいけないみたいで、もう誰もイエス様の言うことなど聞きたくなくなるかもしれません。ここで次のことに気づきましょう。イエス様は不運な境遇それ自体が「幸い」と言っているのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにすることできる、これが幸いなのです。同じように裕福、満腹、笑いそれ自体が災いではないのです。そのような人も信仰に生きて復活を自分のものにすれば、この世の有り様は消えて復活の有り様に替えられるのです。しかし、裕福、満腹、笑いの中にそうさせない力が特に働くので、そういう人たちはとても注意しないといけないのです。

 それはどんな力でしょうか?26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことを聞かず、偽預言者を賞賛してその言うことを信じた時代がありました。偽預言者のように人間にちやほやされてまるで神のお墨付きを得たような気分に浸ることが災いになるのです。そのような人は神よりも人間を頼りにする人です。神の御前に立たされる日が来たら、神から言われてしまいます。お前は私よりも人間を頼りにしてきたのだから、私抜きで神の国に入ってみよ、と。同じように裕福、満腹、笑いにも神以外のものに頼るものを求めさせる力が働きます。だから、そういう人は注意しないといけないのです。

 イエス様はこれらの教えをつき従って来た人々に宣べました。彼らに対して「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言い、「富んでいるあなたがたには災いあれ」と言うのです。つまり、彼の周りで聞いている人たちの中に貧しい人も裕福な人もいて、両者に復活の視点を提供しているのです。神の正義はこの世での不正義を逆転させるものなので、今大変な境遇にある人には最終的には大丈夫になるという希望を与えてこの世を雄々しく生きる勇気を与えます。逆に今満足な境遇にある人には注意しないと将来大変なことになるぞと警告を鳴らしてへり下って生きる賢明さを与えます。

3.復活の視点と正義

 次にくる教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝の敵を愛せよ、汝を憎む者に良くしてあげよ、これは実行は難しくとも理想としてなら受け入れてもいいと多くの人は考えるでしょう。ところが、その後がもっと大変です。汝を呪う者を祝福せよとか、汝を侮辱する者のために祈れとなどと。極めつきは29節、汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分の愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちも殴ってやろう、となってしまわないか?

 これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを破る者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰も信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、どうしたらよいでしょうか?実は、イエス様はこれらの教えを通しても、キリスト信仰者は物事を復活の視点で見ることを教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様はどんな視点に立ってこれらを教えているのかを見抜けなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

 敵を愛せよ、頬を差し出せという教えについて。これは、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。マタイ5章にも同じ教えがあります。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っています。これを聞いた人は、神の心の広さに驚くでしょう。しかし、こんなに気前よくしたら悪人は、しめしめ神は罰など下さないぞ、とつけあがらせてしまわないだろうか?これではあまりにも正義がなさすぎるのではないか?

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることは、旧約聖書のエゼキエル書18章と33章からも明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。先ほども申しましたように、神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 汝のものを取られるに任せよというのも、私たちが神から頂いた賜物に固執してしまって賜物を与えてくれた本人を忘れてしまうから、そんな賜物は取られてしまった方がいいのだと極端な言い方で教えているのです。

 そうすると一つ大きな問題が出てきます。こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、及ぼされた危害そのものには何もしなくてもいいのかということです。神から頂いた賜物を固執などせず神の御心に沿うように用いていたのに不当な仕方で取られたらそのままでいいのか?そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけない、盗んではいけないというのが神の意思である以上は、それらを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論は起きます。そんな程度では納得できないということが出てきたかと思うと、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分な補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分な罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それが出来るのは、復活と最後の審判の時に神が完全な正義を実現されると信じるからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげようという優しい気持ちがあるからかもしれません。しかし、受けた危害が大きければそんな気持ちは消えてしまうでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

4.勧めと励まし

 十字架と復活の出来事が起きる前にイエス様の教えを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活と完全な正義に至る道に置かれてそれを歩み始めたのです。神から罪の赦しを頂いたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が肥大化するのを抑える力になるはずです。それなのに、私はあいつを裁く、絶対に赦さない、などと言ったら、神は何のためにひとり子を犠牲にしたのかとがっかりするでしょう。私がお前にしたようにお前も周りにすべきではないか、お前に対して恨みを持つ人にそれをなくしてほしいと願うなら、お前がそうしなければならない、そう神は言われるでしょう。イエス様の教えと行動は神の視点、復活の視点をもって見れば見るほど、私はできない、絶対できないと言い張る頑な心を柔和な心に変えてくれるはずです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1016日の日課から

「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。」 (詩篇141節)

「これが自然な状態の人間とその理性の言い草だ。それらは、目で見ること耳で聞くこと感覚で感じることを超えることができない。見たり聞いたり感じることができないと、すぐ次のように言って神を否定してしまう。『ここには神はいない、何かいるとしたらそれは悪魔だろう。』 これが高等教育機関が照らし出す光である。本当は、それらは人間を創造主の神のもとに導くことをしなければならないのに、地獄の底に沈めてしまうことをするのだ。人間の自然な状態の光と神の恵みの光は決して一つにはなれない。

自然な状態の人間は見て聞いて感じてわかろうとし、信じる前に確信を得ようとする。ところが、神の恵みは見て聞いて感じる前に信じるように導く。それゆえ、自然な状態は自分の光が届く範囲から出て行くことができない。これに対して神の恵みは暗闇の中に導いていく。しかし、神の御言葉の後について来なさいと言って導いてくれるので、周りがどう不安を掻き立てるものに見えようがそんなことにお構いなく、大丈夫だという気持ちで導きについて行けるのである。このように神の恵みは御言葉と固く結ばれ、それなしにはあり得ない。自然な状態がそれを偽りだと言っても、そうなのだ。まさに信仰が信仰たるゆえんは、神の御言葉にのみしがみつくことにおいてである。目には見えなくとも御言葉が約束しているものならばしがみつく、それが信仰である。しかしながら、同時に信仰は御言葉を台無しにしようとするものにも多く直面する。それらは、御言葉の約束が無効で空虚だと思わせようとするのだ。

人間の自然な状態が愚かなものと呼んで避けようとするものを信仰は正しい道と呼ぶ。信仰は、自然な状態が自分を賢いものと思うなら勝手に思わせ、その目に愚か者に映るなら喜んでそれで構わないとし、それが踏み込めないところに堂々と入っていく。そのようにして信仰はキリストのもとに到達して彼を見いだすのだ。」(以上ルターの説き明かし)

これぞ、ルターの「御言葉の神学」!

 

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