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マタイによる福音書4章1−11節
「荒野の歩み。み言葉と御霊に導かれて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は、このイエス様が荒野で受けられた誘惑の記録からのメッセージに共に耳を傾けていきましょう。まず、このイエス様が受けられた誘惑ですが、確かに悪魔からの誘惑とは言われます。その通りではあるのですが、しかし1節には新共同訳ですと「霊」に導かれとあります。これは新改訳聖書ですとはっきり「御霊」とあります。ESVバイブルでも大文字の頭文字で「Spirit」とありますので、霊は「聖霊」のことを指しています。つまりこの「荒野の誘惑」は三位一体の主なる神である「聖霊」によって導かれたものでした。ですからこの誘惑は悪魔の悪戯な思いだけでただ突然湧き出たものではありません。主が荒野へ導き、そして知っていたであろう悪魔がすることを許可し、そのままさせたということがわかります。そしてそうさせたことには、この誘惑を受けること、しかし御子がそれに勝利すること、どのように勝利するか、そしてそれら全てのことがこのように聖書を通して世に、時代を超えて、今日もこの朝に説教され伝えられ証されることには、神の私たちへの御心が現されているということに他なりません。その究極の御心は、紛れもなく、世の罪を負うために人となられた御子は、人間がその罪ゆえに陥る根本的で強力な三つの誘惑さえも私たちのために経験され負われるということであり、そしてそれに対し御子キリストこそ必ず勝利されることを示しているでしょう。そしてその勝利は、私たちの核心である、この十字架と復活によるのですから、キリストの十字架と復活こそ罪と悪魔に対する私たちのための勝利なのだという全人類への救いの約束のメーセージが込められています。しかし、このメッセージはまだキリストを受け入れない全人類に対してはもちろんですが、同時に、いやそれ以上に、すでに罪の縄目から解放され信仰が与えられ信仰の道を歩んでいるクリスチャンと教会に語られているものでもあります。それは「荒野に導かれ歩むキリストの教会はまさに荒野の誘惑と試練を通して、そして、そこにおられるキリストにあって勝利がある」という神の御心です。
2、「信仰の道は、荒野の道、試練の道」
まず第一に注目したいのは、この誘惑の直前の3章16−17節をご覧ください。そこには何が書かれているでしょうか?
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
そこにはイエス様が洗礼を受けられたことが書かれているでしょう。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う天の父の祝福の声もあります。これらのことの直後なのです。イエス様は「洗礼を受けられて」そのすぐ後にこの荒野の誘惑に導かれています。そして1、2節こう始まっています。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
荒野と40という言葉は旧約のある出来事と重ね合わさります。それは、イスラエルの荒野の40年です。出エジプトはイスラエルがエジプトの奴隷の縄目から神様の恵みとみ言葉の力によって解放されたまさに救いの出来事でした。しかしその救いの出来事である出エジプトの後の出来事が荒野の40年です。つまり救われた民、まさに神の恵みを覚えて歩む信仰の生涯が始まった「後」の40年でした。しかしまさにイスラエルが導かれた信仰の歩みが、「荒野の」40年でした。それは大きな試練でした。その道が神はモーセにみ言葉を与え確実に導く道なのですが、空腹など困難の連続に直面します。そしてその度毎に、彼らは恵みと約束を忘れ、疑いが起こり、不平が起こりました。つまり、それは誘惑の40年でもあったのでした。そのことに重ね合わさるのです。このイエス様が聖霊によって導かれる荒野の誘惑は、もちろん全ての人間がその罪深さゆえに受ける誘惑の面もありますが、まさに何より「信仰者の」「教会の」歩みや誘惑を指していると教えられます。それはこの場面でも神の恵みである、洗礼という恵みによって始まります。神はキリストに言われたように、実に洗礼を授けられた私たちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださっています。そのように聖霊によって導かれて私たちクリスチャンの信仰生活は始まり、教会は歩み始めます。しかしその御霊が導く信仰の歩みは、誤解しやすのですが、人間が合理的に楽観的に計画し思い描くなんでも上手くいく、思い描いた理想通りになっていき、成功に満ち溢れていく、そんないわば「栄光の神学」の道ではありません。それは救われたイスラエルの民がそうであったように、そしてイエス様が御霊に導かれてこの箇所で示し語りかけるように、聖霊とみ言葉による私たちの信仰の道は、荒野の道のりであり、試練の道であり、誘惑の道である。そのことをまず教えられます。
3、「それは本当か?」
そこに誘惑する者、サタンがやってきます。そして三つの試みを仕掛けます。この誘惑は実に賢く巧妙であり、人間の罪深さや弱さを刺激します。まさに罪人である人間が陥る代表的な誘惑をもちろん表しているのですが、同時に、義人であり同時に罪人であるクリスチャン、教会が受ける誘惑でもあります。サタンは言います。3節。
「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエス様は空腹を覚えています。そこに「石をパンにする」という誘惑です。しかし誘惑する者の意図は「空腹をパンで満たせ」という単純なものではないと言えるでしょう。確かにパンは人間にとって必要な基本的な必要に他なりません。あらゆる物質もまた神の被造物であり神から世に与えられた必要なものです。それは確かなことです。しかしここで誘惑する者は「神の子なら」と誘惑します。それは3章17節の天からの父なる神様の声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う父なる神の声のことを取り上げているでしょう。
誘惑するものは言っているのです。「その「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が本当なら」と。その言葉が本当かどうかを証明してみよと。石をパンに変えその空腹を思いのまま、欲望のまま満たすことによって証明してみなさいと。この「もし〜なら」という神とその言葉に疑いを起こさせる言葉にこそ悪魔の誘惑の本質があるのです。
教会も「必要」や「不足」ということについて誘惑を受けます。「満たされていない」時も「満たされている」時もどちらも誘惑があります。しかし全ての必要はそれはどこから来るでしょうか?「私たちが働いて得るものだ、努力の対価なんだ。」ーもちろんそうです。しかし教会の必要、クリスチャンの必要は全て、それは物質的な必要やそのような私たちの行う奉仕など働きや努力なども含めて、それらは私たちが搾り出す自分の功績ではなく、全て神様が与えてくださるものに他ならないでしょう。イエス様が山上の説教で言っている通りです。しかし「不足を覚える時」は「満たされていない」「足りない」と言ってしまう。もちろん悪いことではありません。その時、足りなさを覚え、与えてくださる神様に求めるのが私たちの信仰なのですから。だから祈ります。しかしそうではなく「満たされていない」「足りない」ーただそのことに右往左往してしまう。その危機感ばかりに取り憑かれてしまい、互いの裁きあいに終わってしまう。そのようにして神の言葉の真実さを信じること、頼ること、求めること、待ち望むことを忘れてしまう。それは荒野のイスラエルが陥った過ちでした。そして人間は高慢ですから、「満たされている時」も誘惑に陥りますね。同じように、神が与えてくださった全てであるのに、教会の良い結果は人間の功績や教会の誇りにしてしまう、それは現代の成功や繁栄に走る教会が陥っている高慢の過ちです。「自分の教会はこんなに大きい、こんなに成功した、こんなに人が来ている。経済的に潤っている。もっと大きな教会を建てられる。それは自分たちが熱心にやってきたからだ、誰々先生のカリスマのおかげだ、私たちの、あの先生の人柄のおかげだ、等々」ー福音宣教も教会も全て、キリスト中心で、どこまでもキリストのみ言葉と聖霊のみわざで自分たちは用いられているに過ぎないのに、そしてイエス様もルカ17章で「自分たちは不束な僕です」すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ17章10節)と言っているのに、自分たちの組織力や人の功績と誇りに変えてしまう。まさにソロモンが陥った誘惑です。パン、物質は必要なものです。必要を覚えること自体は何も悪いことではありません。当然のことです。しかし、そこに誘惑がある。神の言葉、神の祝福、神の恵み、それは本当か、それが本当ならと、自分自身の空腹、足りなさ、あるいは達成した、成功した、満足した、等々の基準、自分中心の基準で神の言葉を「もし」と測ってしまうのなら、疑いも、,自慢高慢も尽きません。悪魔はそこをついています。そして人間は罪深いですから、そうなると自分の願うままに、石をパンに変えてでも空腹を満たそう、あるいは、満たすことができる、あるいは、満たしてきた、と勝手に思い描き期待します。まさにパウロが警告した人間が求める空想話です。まさに空腹なもの、不足を覚えるものには、神のわざへの信頼ではなく人間のわざへ信頼する栄光の神学は最善の方法になります。しかしそこに誘惑があるのです。4節
4、「神の口から出る一つ一つの言葉」
「イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
教会にとって大事なことはなんでしょうか?罪の世は、確かに必要が思いのままに満たされ自分を誇ることが最高の満足かもしれません。満たされないことに不満を言い右往左往するのもそれも罪の世の現実です。しかし、私たち教会には、クリスチャンには、それ以上の素晴らしい命の道があるでしょう。
「神の口から出る一つ一つの言葉」です。それこそが天地万物を創造し、私たちを生きるものとしました。確かにパンに代表される物質的な必要は大事です。私たちの必要も大事です。しかしそのパンや物質が、あるいは私たちの必要や心配や誇りが、天地万物を創造し、私たちを生きるものとしたのではないでしょう。神の口から出る一つ一つの言葉でしょう。それこそが、必要なものを全て満たします。そのように約束してくださっています。イエス様は弟子達に「明日の心配は無用だ」と神の口から出る一つ一つの言葉を持って約束しています。そしてその神の口から出る一つ一つの言葉が、堕落の時からすでにその罪からの救いを約束しました。また、主は、その自身のみ言葉がその約束の通りに実現するのだと繰り返し、アブラハムを励まし、ダビデを励まし、さらには、預言者を通して試練にある民をも励ましました。そして主はみ言葉をもってその通りに救い主を送るのだと約束し、その言葉の通りに御子イエス様を人として世に与えてくださった、そして十字架に従わせたでしょう。そして私たちの方からではない、その言葉である方が私たちのところにきて、私たちに語りかけてくださったからこそ私たちはイエス様の福音の素晴らしさを知った。その言葉こそ信仰を与えてくださり、その言葉が真実で力であるからこそ洗礼を聖餐を、救いの恵みを今日も与えてくださる。その言葉こそが、荒野の試練の日々であっても、日々生かし、日々罪赦され、日々平安を覚え、今日もここから遣わされていく。教会が覚え立ち返らされるのは、そのことでしょう。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。
と。第二、第三の誘惑もじっくり見ていくと非常に沢山のことを教えられるのですが、実は誘惑するものの誘惑は同じ攻め方です。そこでも「もし」と、人間の欲求、ここでは救われたものにさえ、教会にさえ起こる欲求、人間的な必要をさらに求める貪欲さを攻めてきます。第二の誘惑は悪魔もみ言葉を用いて「こう書いてある」というのですが、「もしそうなら」と自分が基準となって自分の欲求の通りにしようとする、み言葉を疑い試す誘惑が実にあからさまです。み言葉を神の言葉としてその通りに信頼し委ねるのではない。あるいは、書かれていないこと、わからないことはそのまま神に託し信頼するのではない。人間中心に自分の側の願望や欲求に合わせて「もしこうなら」とみ言葉を都合の良いように解釈してしまう誘惑、歴史的にも今もそのような誘惑に屈した神学や教えが教会を支配しています。それはサタンの巧妙な誘惑に屈しています。第三の誘惑はどうでしょう。まさに手に取りたい現実、成功や繁栄が目の前にあります。世の繁栄、自分の繁栄、教会の繁栄、しかし神がなす、神が与える、神のみ言葉が実現した栄光でも繁栄でもない、自分達の力や組織力で得ようとする繁栄と成功に神の栄光を見ようとする。地上の栄華への願望です。しかしそれは、まさにみ言葉の前に身を屈め平伏しているのではありません。第三の誘惑に屈してしまっています。
5、「イエスの与える勝利の道」
イエス様は全て聖書のみ言葉を「こう書いてある」と示すだけです。人間の都合のいい解釈を加えるのではない、神の言葉はその通りですと、神の約束、神がなすこと、神が与えて満たしてくださることに、期待し、信頼、祈り、待ち望む、委ねる。それが荒野の道である信仰の歩みにおいて、イエス様が示してくださっている勝利の道であることを教えてくれているのではないでしょうか?事実、イエス様の十字架の道は、ただパンだけで満足したりさせたりの地上の王国だけの道ではありませんでした。霊の糧として真に魂を満たすために福音を与え罪の赦しと平安を与える「天のいのちの道」であったでしょう。神は十字架にかけられるイエスを御使いの軍勢を送って助けることができます。しかしゲッセマネでイエス様は「御心ならこの杯を取り除けてください。しかしあなたの御心が行われるように」と祈り、神の救いの御心であり計画である十字架に黙ってかけられるでしょう。事実、神もそれを御心とされました。そのようにイエス様は、地上の繁栄と栄華に神の政治的な王国を建てたのではありませんでした。まさにこの十字架にこそ神はご自身の栄光をあらわされたではありませんか。人間の、自分たちの望むようになるところに神がおられ、神の栄光があるのだと見るのは、栄光の神学です。しかしそれは自分たちの栄光を望み、期待し、求め、見ているだけであり、誇っているだけです。まさにサタンの誘惑に屈してです。しかし教会は、このイエス様の十字架のこそ真のいのちのパンがあり、私たちへの御心があり、そして栄光がある、私たちの栄光ではなくキリストに栄光があると信じます。それが私たちの信仰です。それはみ言葉に書いてある通りであり、み言葉の約束が真実でその通りになった、これからもその通りに実現するからこそです。そのキリストとみ言葉に信頼し生きるからこそ、今日も、これからも私たちは、キリストにあって勝ったのです。誘惑に。試練にです。そして、このイエス様の試練の歩みが御霊に導かれ、御霊によって仕えられているように、私たちクリスチャンの歩み、教会の歩みもまた、荒野の試練を通してこそ、そしてそこにおられるキリストにあってこそ、み言葉と聖霊の豊かな働きによって日々聖さにあずからせてられていく、世にあって隣人のために用いられていく、そのように今日もここから遣わされていくのです。イエス様は今日も私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様からイエス様が与えるみ言葉と聖餐を受け取り、イエス様だけが与えることができる特別な平安をいただいて、ここから遣わされて行きましょう。・
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
覚悟と胆力を養うキリスト信仰
武道家であり言論人でもある内田樹氏は武道の技術向上と宗教的成熟には相関関係があると主張する。AI情報によれば、氏は「武道も宗教も、個人的なエゴ(我執)や、勝敗・巧拙にこだわるマインドを解除することを目指す」と説く。また、評論家の池上彰氏は、宗教を「よく死ぬための予習」であり、どう生きるかを考える糧と捉えているとのこと(これもAI情報)。
今まで礼拝の説教や週報コラムでルターの聖書の説き明かしを数多く紹介してきたが、どれもが、姿勢や心意気として、覚悟と胆力を身につけさせるものではないかと思っていた。そんな中でマスコミのどこかで二人の識者の発言を耳にして何か相通じるものがあると思い、AIに確認した次第。
礼拝の説教では毎回、「復活の日」にイエス様が眠りから目覚めさてくれることや、彼が整えてくれたものを受け取って手放さずに生きてきたことが最後の審判で神の御前に立たされた時に重要な意味を持つことを説いている。なので、スオミの礼拝は「よく死ぬための予習」をしていると思う。
宗教と武道の相関関係については、内田氏の言う宗教とは修行に大きな意味を置く仏教を指していることは言うまでもない。キリスト教、特にルター派は、信徒に修行や苦行や難題を課して、それを実行して神に義とされるような救いを排する。そこで一つ気にかかる聖句はローマ8章13節「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」だ。「生きる」とは死を超えた永遠の命に与かれることを意味する。体の仕業、つまり肉体が欲すること、神の意思に反することだが、これを断ち切れば永遠の命に与かれる、救われると言っているように聞こえる。
しかし、そういうことではない。「断ち切る」はギリシャ語原文では「死なせる」。しかも動詞は常態を意味する現在形。エイッ!ヤーッ!と気合を入れて自分の力で一気に欲望を断ち切ることではない(その意味ならば動詞はアオリストになる筈)。「日々、神の意思に反する業や思いを死なせていく」ことである。どういうことかと言うと、キリスト信仰者が自分の内に罪があることを日々自覚して、赦しと希望はイエス様の十字架と復活の業にのみある、その業の力が罪に無力な自分を覆いつくすように自分を日々とことんヘリ下させる、そうすることで自分の内に残る罪は内になだれ込む赦しと希望の重圧を受けて日々圧し潰されていくという死なせ方である。キリスト信仰者はたとえ腕力がなくとも武道家にも引けを取らない覚悟と胆力を持つことができるのではないか。そのことを、これから何回かにわたって紹介するルターの説き明かしからも知ることができればと思います。
↑この藪の中にいる。
ルリビタキ
< 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 マタイ6:26>
小山田緑地を歩いています。緑地の外れに休耕地の水田跡がありその上を木道を渡してあります。過日、その木道の上でカメラを構えて頻りに向かいの藪を覗っている人を見かけました。撮り終えたようなので何がいるのですかと尋ねましたらにっこり笑って画像を見せてくれました。青い鳥が写っていましたのでカワセミと聞くとルリビタキと教えてくれました。成程、カワセミより明るい空色でした。此方も負けじと愛用のカメラで藪をめがけて撮りました。ルリビタキは藪に入ったり出たりで忙しそうに飛び回り動きが速いので私のカメラでは追いつきませんでした、悲しいかな此方のカメラは彼の望遠レンズつきの高級なカメラと違いますので全く撮れていませんでした。でもこれ以来、小山田緑地の散歩の時は此処にきてルリビタキの観察を楽しんでいます。(此処に揚げたのはネットから借用したものです。)
今年最初の家庭料理クラブは2月7日に開催しました。天気予報は一日雪のマークでしたが、雪は降らず参加者の皆さんは無事に教会にいらっしゃることが出来ました。今回の料理クラブは、フィンランドの「ルーネベリの日」の二日後でしたが、「ルーネベリロールケーキ」を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにアーモンドパウダー、片栗粉などの粉類を計ります。今回の生地は小麦粉を入れることがなく小麦粉アレルギーの方にも味わっていただけるお菓子なのです。次に卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てて、白い泡になってから粉類を中に加えると生地が出来ます。それを鉄板に広げてオーブンに入れて焼き始めます。あっという間に生地の焼き香りが広がって、ケーキに焼き上がりました。クッキングシートに潰したクッキーをかけてその上にケーキをひっくり返して冷まします。
ケーキを冷ましている間に今度は中身を作ります。材料を計ってクリームを泡立てます。それから本格的にケーキ作りに入ります。冷めたケーキの上にシロップを塗ってラズベリージャムを全体に拡げます。その上にさらに泡立てたクリームを拡げます。そして、いよいよケーキをロールにします。ケーキが割れないように注意しながら少しずつロールします。ロールしたケーキをしばらく冷蔵庫で冷やしてから切ります。一個一個お皿の上にのせてクリームで飾り付けをして、その上にラズベリージャムをのせると、「可愛い!」「きれい!」の声があがりました。これで「ルーネベリロール」の出来上がりです!
早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリロールケーキをコーヒー紅茶と一緒に味わうと、たちまち「美味しい!」「美味しい!」嬉しそうな声があちこちから。「アーモンドとラズベリージャムがとても良く合う!」という声も。
今回も楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの有名な作家ルーネベリと彼に由来するルーネベリ・タルトについて、そしてルーネベリが残した詩の言葉「神は試練をお与えになるが、決して見捨てることはない」とこの詩が基づいている聖書のみ言葉についてのお話も聞きました。
参加者の皆さんが帰宅する時刻は地面は白い雪で覆われていなくてよかったです。皆さんご無事にお家に帰られたでしょう。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月14日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドでは2月5日は「ルーネベリの日」です。ちょうど二日前がその日でした。フィンランドでは新年が終わると、お店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。そして、「ルーネベリの日」になると大勢の人たちはこのお菓子を買って美味しく味わいます。もちろん多くの家庭でも作られます。
では、「ルーネベリの日」とはどんな日なのでしょうか?以前お話ししたことがありますが、まだ聞いてない方もいらっしゃるので、少し紹介します。ルーネベルイは、フィンランドの有名な作家で1804年に生まれました。彼は、詩もよく書き、最も有名な詩はフィンランドの国歌です。美しいその詩は多くのフィンランド人を励ましてきました。彼は60曲近い讃美歌集の詩も書きました。今フィンランドの教会で使っている賛美歌の中にはルーネベリが書いたものがまだ沢山のっています。
ルーネベリは甘いお菓子が大好きで特にこのタルトが大好物でした。彼はこの甘いお菓子を朝食でも食べていたそうです。現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が少し長めの円筒状で、ラズベリージャムを上にのせます。面白いレシピの一つは、生地にピパルカックを入れます。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れると美味しいお菓子が出来上がるのです。最近はつぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。今日皆さんと一緒に作ったロールケーキもそれです。またロールケーキの他に、マフィンやさまざまななケーキの形のものも作られるようになり、生地に入れる材料も多様化しています。ルーネベリ・タルトは2月5日を過ぎたら喫茶店や店から姿を消しますが、ルーネベルの町ポルヴォーの喫茶店では一年中食べられます。
このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはこの冬のお菓子の伝統だけではありません。季節に関係なく、いつも読まれる詩や小説、そしていつも歌われる沢山の讃美歌を残しました。
ルーネベリが書いた作品の中では天の神様は信頼できる方であることがよく言われます。ここで彼が書いた有名な詩の言葉を紹介します。それは「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」という言葉です。これはフィンランドでは昔、人々の生活の中でよく聞かれた言葉です。
聖書の中にはこの言葉通りの出来事の例が沢山あります。旧約聖書の中で最も有名なのはヤコブの息子ヨセフの話です。ヤコブには息子が12人いました。その中でもヨセフを特にかわいがりました。それを見た兄たちはヨセフをねたむようになりました。ある日、兄たちはヨセフを井戸に投げ込んでしまいました。しばらくすると、外国の商人のキャラバンが通りかかったので、兄たちはヨセフを井戸から引き上げて、売りとばしまいました。その結果、ヨセフはエジプトに連れて行かれたのです。
ヨセフはエジプトで多くの困難に遭い、牢屋にも入れられました。しかしそのような時でもヨセフはいつも神様から知恵と助けをいただいて乗り越えることができ、最後はエジプトの王に認められて国の最も位の高い行政官に任命されました。それから何年か後、多くの国々で雨が降らず作物もできない大飢饉が起きました。エジプトは、ヨセフの指導のおかげで前もって食べ物を沢山たくわえていたので、人々は困ることはありませんでした。その時ヨセフの兄弟たちと父親のヤコブが食べ物を分けてもらうためにエジプトに行きました。そこで、ヨセフに出会ったのです。ヨセフは兄たちが自分に対して行った悪いことを全て赦して、父と兄弟たちがエジプトに住めるように整えてあげました。
このように神様はヨセフを見捨てることなく、いつも見守って下さったのです。困難や試練の時は、神様が共にいらっしゃるとはなかなか思えないでしょう。しかし神様が決めた時が来ると、神さまはヨセフを助けて下さったのです。ヨセフは困難や試練の中にあっても、いつも神様を信じて、神様に助けを祈り続けました。神様が本当に見守って導いてくれたことは、後になってわかったのです。
私たちも人生の歩みの中で様々な試練に直面します。しかしそれは神様が私たちを見捨てたということではありません。神さまは遠く離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、時には神さまのみ心に反することをしてします。それでも神さまは私たちを見放したり見捨たりすることはありません。私たちが神さまの元に立ち返るなら神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さるのです。それは神さまが私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられるのです。
ルーネベリの言葉を聞いたりタルトを食べたりする時にはこのルーネベリが書いた言葉「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」を忘れないようにしましょう。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2026年2月15日(日)スオミ教会説教
聖書:マタイ福音書17章1~9節
説教題:「イエス、栄光の姿に変貌」
今日の礼拝は変容主日礼拝であります。今日の聖書ではイエス様のお姿が三人の弟子たちの前で突然驚くべき姿に変わってしまったと言う出来事であります。マタイ福音書17章1~2節を見ますと「六日の後、イエスはペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり顔は太陽のように輝き服は光のように白くなった」。まず、イエス様は弟子たちの中でも最も信頼し、頼りにしているペテロ、ヤコブ、ヨハネの三名だけを連れて高い山に登られた。イエス様は彼ら三人を大事な場面で特別に選んでおられます。例えば会堂司ヤイロの娘を生き返らせた時にも三人を連れて行かれています。(マルコ5:37~40)また、ゲッセマネの祈りの時にもイエス様は他の弟子を園の入り口に残してこの三人だけを連れて園の中央に進まれ十字架の苦難へと向かわれる前の神への激しい祈りをされました。(マタイ26:37~46)これから起こる、この世では理解出来ないイエス様の変貌の出来事を、メシアの受難と聞き始めた他の弟子たちの中には心が動転して誤解する者もいるでしょう。そこでイエス様は信頼できる三人なら後に他の弟子たちに説得できるだろうと言う確信のもとに三人だけを特別に選ばれて連れて行かれたのであります。選ばれた証人たちの前で変貌は起こりました。この時、山上で起こった出来事はどんな不可思議であったとしても疑う事の出来ない事実です。証人の一人ペテロは彼の第二の手紙1章16節以下で次のように書いています。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちはキリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18節、私たちは聖なる山にイエスといた時、天から響いて来たこの声を聞いたのです。」イエス様が三人の弟子を連れられて登られた「高い山」は恐らくヘルモン山であったと思われます。標高3000m以上のヘルモン山の中腹で出来事はで起こりました。此処で何が起こっているかと言う事ですが、此処には以前に「弟子たちはイエスの栄光をみるであろう」と約束されたその約束が確かなものとして証された、実証された、そう言う出来事であります。その約束された栄光の姿は2説~3節にありますように「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見るとモーセとエリヤが現れイエスと語り合っていた。」その驚くべき光景は宇宙的な深い見方から申しますと、此処では「天の世界との交わりが啓示された。」神からの神秘の中でこの世に表された交わりと確認でありました。それは人間の目で見る事の出来ないような此の世の常識を遥かに越えた驚くべき光景が展開されたのです。天空の雷雲から一瞬ピカピカと稲妻の光が輝いたと言った程度のものではありません。外部からの別の光が必要ないほど地上の自然のあらゆる光を凌ぐところの眩い輝きの中に主イエスは立たれていた。しかも弟子たちは目の前で空中高くそのみ姿を仰ぎ見たのであります。このイエス様のみ姿は私たちの知っているどんなものよりも高く上げられ全く新しい形で表されたのであります。そこには此の世とは次元の違う只中に展開されているその光景を弟子たちは見せられているのであります。マタイ13章43節に約束されている、「彼らは父のみ国で太陽のように輝くであろう」と言うその言葉通りの事がイエス様の上に起こっているのであります。同じ事がヨハネ黙示録にも1章12節~16節にあります。イエス様のこの変貌は単にイエス様の人格が新しくなった、と言った事に留まらない。更に此処に於いて旧約聖書時代にまで時代が遡って神に仕えた預言者たちが現れて空中のイエス様との交わりが現れたのであります。3節に「見よ、モーセとエリヤが彼らに現れてイエスと語り合った。」昔の預言者たちは今、沈黙して現れたのではなく主イエス様と語り合っているのです。この光景を弟子たちはどのように見たのでしょうか。
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弟子たちの時代より遥か千年以上の昔にシナイ山で十戒を頂いたモーセが現れている。イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、旧約聖書の律法の代表者と言ってよいモーセであります。又、イスラエルの民がメシア待望の中で大預言者と仰いだエリヤも現れている。旧約聖書のマラキ書3章23節を見ますと「見よ。私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。預言者マラキのこの約束の故にイスラエルの民がエリヤを待望したのです。こうして、この偉大な信仰に生きた二人はその最後が秘儀に満ちています。つまり、人生の終わりは謎に包まれています。モーセは独り山の上で神のみ傍近くに死んだ。エジプトからイスラエルの民を救っ年の旅の末、モーセはカナンの地に入ることなく死んでいます。それで人々はしばしば「神はモーセを天に取り去られた」と言ったのです。又、エリヤは人生の最後はどうであったかと言いますと嵐の中にみ使いによって火の車に乗って天高く引き上げられた。この二人の人生最後の姿はなんという神秘に満ちたものではありませんか。神秘に満ちて天に引き取られたモーセとエリヤが今、空中でイエス様と出合っていると言うのであります。そこでは何が語り合わされているのでしょうか。恐らくイエス様のこれから向かわれる十字架の道についてその決断の確認でありましょう。三人の弟子はと言いますと、この幻想的なモーセ、エリヤ、イエス様の天高く空中で話し合われている光景に驚きと喜びに満たされました。ペテロはイエス様の栄光の姿にどんなに感激しつつ、この光景がそのままであって欲しいと何が何だかよく分からず、4節を見ますとペテロはイエスに言った「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしい事です。お望みならば私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため。もう一つはエリヤのためです。」テロが語っているうちに、見よ!そこに光輝く雲が彼らを覆った。すると、見よ!雲から声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて恐れおののきひれ伏したのあります。イエス様とモーセとエリヤが語っている姿を光輝く雲が覆ってしまった。この光輝く雲はかつてモーセが荒野を通ってイスラエルの民を導いた時の神の印でありました。(出エジプト記13章21節にあります)更にこの雲の中から神の御子イエス様に対する御父の愛を証しする声があったのです。この声はイエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時も「これは私のみ心に適う愛する子である」と言う御声を天からあったのと同じです。(マタイ3:17)イエス様はこれからご自分の人生の方向を十字架の受難の道に向けられることを決心をされて天からの確認の御声を聞かれたのです。この事はイエス様の心の内に天の神の御心と一つにされた聖霊がここに啓示されて、神の栄光がイエス様の体にはっきりと現わされたのであります。天の空中での「イエスの変貌」のこのみ姿はまさに十字架の死から蘇られたみ姿を予め三人の弟子に示されている出来事であります。弟子たちは神の近さをこんなにまで感じた時、恐怖に襲われたのであります。その時イエス様は弟子たちに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れる事はない。」今や、イエス様は再び僕の姿をとって弟子たちと共におられた。こうして彼らは”如何に高くイエス様が彼らの上に聳えたっておられるか”と言う事を心に深く刻んで経験したのでした。更に神の栄光を身近に感じる事が出来たのであります。モーセとエリヤの中に立たれたイエス様は後にゴルゴダの丘で二人の犯罪人の間に立って罪の全てを負って十字架の死を遂げられる。そこには栄光のイエス様は何一つ無いのであります。しかし、私たちは蘇られ天の御国へ返られた栄光の中にあるイエス様を心に信じてやがて神の御国が主と共にある喜びを持って生きたい。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
2月の手芸クラブは25日(水)10時~13時に開催します。
2月の手芸クラブは1月に始めたレッグウォーマーの続きです。フィンランド語で「Säärystimet (サーリュスティメット)」と言います。
足元を温めてくれるレッグウォーマーはお家の中だけでなく、散歩やお買い物など外出時にも大活躍。レッグウォーマーは難しくなく初心者の方にも編みやすいものです。単色・多色のどちらでも、また模様編みに挑戦することもできます。
ご希望に応じて足を温めるルームシューズや指先がない手袋などを編まれても大丈夫です。
参加費: 1000円
持参するもの: 毛糸100g、毛糸に合わせた編み棒4本または5本
手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み ℡ 03-6233-7109
日本人を日本人たらしめる視点
かつてジャパンアズナンバーワンと言われた日本も、今では平均賃金、一人当たりの国民総所得ともに欧米諸国は言うに及ばず韓国にも追い抜かれてしまった(円安をやめれば計算上はまだ救いはあるかもしれない)。 フィンランドでもかつては自分が日本人と言えば、一目置かれる雰囲気があった。国の存在感の威光が薄れた今こそ、個人の存在感で自分は中国人でも韓国人でもベトナム人でもない日本人であることを示せるかが試される時代になったのだと思う。
日本が羽振りが良かった80年代、フィンランドにいた時に何が自分を日本人たらしめるかを考え、それは他の国の人間が持てない視点を持てることで、しかもそれが他の国の人間の視点にインパクトを与えるような視点であること、そんな視点を持てれば国の威光に頼らない存在感のある一端の日本人になれるのではないかなどと考えた。それで、子供の頃から気になっていた二つの特殊日本的な極限状況に自分を置いてみて、自分だったら何を思いどう立ち振る舞うかを考えることで、そのような視点が得られるのではないかと考えた。二つの特殊日本的な極限状況とは、一つは特攻隊、もう一つは踏絵である。
特攻隊は、子供の頃は凄いとか可哀想という二つの複雑な思いの混合。高校大学の時に読んだ「きけわだつみの声」や阿川弘之の「雲の墓標」で、彼らの苦悩と葛藤がとても他人事に思えなくなった。自分だったらどうするのだろう、とにかく自分なりに考えに考えて、結局は「志願」させられて出撃するしかないのだろう。では、どう自分を納得させられるだろうか?家族の住む町が爆撃されないため、国が占領されて占領者の言いなりにならないために必要なのだと言い聞かせるしかないだろう。
踏絵は、小学校か中学の時にキリシタン迫害のドラマの演劇を観て身近に感じたことがきっかけ。まだキリスト教徒ではなかったが子供ながらにキリシタンの人たちの苦悩と葛藤が他人事に思えなかったことを覚えている。もし自分がキリシタンだったら踏むのだろうか、踏まないだろうか。キリスト教徒になった今は文字通り自分事になってしまった。全くしょうもないものを幕府は作りおって。もし踏むという選択ならば、その納得の仕方として遠藤周作の「沈黙」は果たして妥当か、ずいぶん悩んだ。帚木蓬生の「守教」でそれを超えられる視点が得られたのではないかと思う。
二つの特殊日本的な極限状況は追体験の機会を与えるだけではない。人をそのような極限状況に追いやってはならないこと、そしてそのような仕組みを作り出す精神構造から脱却されねばならないことを日本の政治と社会が課題として持っていることを教えるものでもあると思う。それを忘れないためにも追体験による思考訓練は意味があると思う。
聖書日課 イザヤ58章1-12節、第一コリント2章1-16節、マタイ5章13-20節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちや群衆に向かって、君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言います。その言葉は私たちキリスト信仰者にも向けられています。「地の塩」、「世の光」とは何を意味するのでしょうか?16節に「立派な行い」などと言っているので、何か世の中のためになるものという感じがします。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。君たちはもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?「地の塩」、「世の光」とは何かについては後ほど見ていきます。
その次にイエス様は律法や預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために来たのだと。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は死文化しています。ところが人間は神から罪を赦して頂くために罪の償いが必要です。神殿があった時は動物の生贄が捧げられていました。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は死文化しても、罪の償いはしなければならないこと、人間は神から罪を赦されて罪の支配から解放されなければならないこと、これは神殿がなくなっても、そのままです。ここにイエス様の十字架の意味があります。このことはまた後でお教えます。
このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様は二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。
イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現しているのです。預言も、神と人間の結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が来られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書が示す神の意思と計画を実現した方です。
ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫と認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。
それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。
塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。
ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になるので、もう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。
本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に関係する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた知恵の現われで、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた計画なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。
次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代のイスラエルの地にはギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸の地域にヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然とした輝きであるということです。
輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然とした光です。
イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市の輝きや燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じようにキリスト信仰者は全ての人の前で光を放つのだと教えます。立派な行いがその光であると言います。人々はキリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?
そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないと言っているのでしょうか?でも、そうしたら、人助けをしたくても病気だったり障害があったり、困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?
人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には信仰者の特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっているという事情です。この事情があるためにキリスト信仰者は「地の塩」、「世の光」になっているのです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味します。病気や困窮して人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広い意味で良い業が言われるのです。
光のように輝く良い業が人助けに限られないことは、本日のイザヤ書の箇所からも明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンは辞書を見ると、呪いという意味があるかどうかはクェッスチョン・マークが付いています。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。
さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイスラエルの民に起きた出来事と結びつけて考えると、民を外国の支配から解放して王国を復興させる日が来るという預言に解することができます。しかし、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失った廃墟のような人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現してくれたイエス様はもちろん、イエス様の福音を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導いた使徒たちも光を放つのです。
このようにキリスト信仰では良い業は人助けだけでなく、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。
イエス様は、お前たちは「塩」になれ、「光」になれとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を意味する言葉を付け足して言いました。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。
それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが失われているこの世にあって、まさにこの世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めたのです。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。
このことがわかったキリスト信仰者は、こんな凄いことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きようという心になります。その感謝から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。
ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。これからは罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければと心を新たにします。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。
このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに留まって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。
ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために自分の力で掟を守るというものです。彼らは、自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったので優越感にも浸りました。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、一足先に神から義と認められてしまう義です。神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が誇りの源になってしまったら、宗教的な行為を行っても、それは肉の状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。
聖書の翻訳の諸問題と課題
1月11日の礼拝の後で信徒の方から、礼拝中に朗読されたイザヤ書42章6節について質問があった。同節では、神が僕(イエス様のこと)のことを「あなたを形づくり、あなたを立てた」 と言っているが、スオミ教会の礼拝で唱えられる二ケア信条(西暦325年成立)で御子は「つくられたのではなく生まれ」と言っているのと矛盾するのではないかという疑問。私は説教を準備する時は原文しか見ないから、日本語でどう言われているか気づくのは大抵は礼拝の朗読の時。その日当番の方の朗読で、あれ、と一瞬思ったが、その後の礼拝の流れに集中しなければならず通り過ぎてしまった。
ヘブライ語の文章では「形づくる」はない。「守る」という動詞ならある。6節を忠実に訳すと次のようになる。「私、主(ヤハヴェ)は、あなたを恵みによって召し出し、あなたの手を取ってあなたを守り、あなたを私と民の契約として、また諸国民の光として立てた。」
どうして「形づくる」などと訳したのか。新共同訳はカトリックとプロテスタント諸派が一緒に作った訳。諸派の中には使徒信条や二ケア信条のような古代の信条を顧みない派があって、その関係者が訳したのか?それとも、この預言はイエス・キリストと無関係であることを強調したいためにわざとこうしたのか?それなら、どうして辞書にない意味を持ちだしてきたのか?私が用いるのとは異なる辞書にその意味があったのか?(因みに私が用いているのは、HolladayのA Concise Hebrew and Aramaic Lexikon of the Old Testament。大学の神学部時代は手に負えない時は学部図書館にあったBaumgartenの大型のものを用いたことがあるが、個人ではとても所有できない。)
実は11日の福音書の個所にも問題があって、洗礼授けを躊躇するヨハネに対してイエス様が「正しいことを全て行うのは我々に相応しい」と言う下りがある(マタイ4章15節)。「正しいことを行うのは相応しい」とは少し寝ぼけた訳ではないか?「正しいこと」はここは「義なること」ではないか?英語(NIV)もルター・ドイツ語もスウェーデン語もフィンランド語も皆そう訳している(「義なること」が何を意味するかはその日の説教を参照のこと)。先日の聖書研究でわかったことだが、創世記18章16節はヘブライ語で、アブラハムの子孫が「義と正義を行うように」と言っているのに、新共同訳は「義」を削除してしまった!ルター派の翻訳委員は一体何をしていたのか?
今日の山上の説教の「心の貧しい人」(マタイ5章3節)も正確には「霊的に貧しい人」である。上記4カ国語もそう訳している。「心が貧しい」は、「あの人は心が貧しい」と批判したり、「私は心が貧しい」と反省したりして、人間関係で現れる至らなさ惨めさを意味する。「霊的に貧しい」は、神との関係で明らかになる至らなさ惨めさだ(ドイツ語のEinheitsübersetzungはまさにそう訳している)。
日本語は美しい言語であり、そこで育まれる感性には美しいものが沢山ある。だからと言って聖書の精神をその中に埋没消散させていいわけはない。それは、日本語とその感性に一層磨きをかけることが出来るものであると信じている。