説教「主は新しい日のために我らの疲れを癒し労をねぎらい給う」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章1-14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.先週の主日礼拝の説教で、マルコ16章9-20節は後世の付け足しと考えてはいけない、他の3つの福音書の記録同様に復活されたイエス様が弟子たちに現れたことを伝える大切な記録である、ということを強調して教えました。本日の福音書の箇所が収められているヨハネ21章も、マルコと同じ問題を抱えています。つまり、ヨハネ福音書は本当は20章で終わっていたはずなのに、21章は後で付け足されたのだ、と。どうしてこのように思われるかというと、20章の終わりを見ると、この福音書の結びとして書かれていることがわかるからです。

ヨハネ20章を概観しますと、まずイエス様が埋葬された墓が空であったことが記され、それから復活されたイエス様がマグダラのマリアに現れ、次いで弟子たちの前に二回続けて現れます。そして終わりの30節を見ると、イエス様はこの他にも弟子たちの前で多くの奇跡のしるしを行ったが本書では書かれていない、と断り書きがされます。それに続く最後の31節をみると、この福音書が書かれた目的について述べられます。どんな目的かと言うと、それは、読者がイエス様をメシア救世主、神の子であると信じるようになるためである、そして、そう信じることで読者がイエス様の名において永遠の命を持つことができるようになるためである、という目的です。私たちが、ヨハネ福音書を初めから通して読んで、イエス様をそのように信じることができるようになった時、この目的が達成されたことになるのです。誰がそのような目的を設けたのでしょうか?福音書の記者ヨハネというのは正しくありません。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられる神が、私たちの救いのためにイエス様を送られて、そのことが書物に記されたわけだから、目的の達成というのは、神が設けた目的の達成です。

 さて、20章でヨハネ福音書が完結するかと思いきや、「この後、イエスはまた弟子たちの前でご自身を現された」と言って21章が始まり出します。20章で復活したイエス様が現れたのはエルサレムでしたが、21章では場所を変えてガリラヤのティベリアス湖畔になります。ティベリアス湖というのは、ガリラヤ湖のことです。この21章が誰の手による付け足しかということについて、学界でも議論がありますが、原文のギリシャ語の使い方や文体からみて、1章から20章までを書いた人と同一人物と見なしてよく、仮に異なる人だったとしても、福音書記者の直近の弟子が先生の残した証言録を正確に伝えて記したと言えるものです。ヨハネ福音書は一体誰の手によって書かれたかということについては、これも学界では諸説がありますが、本福音書は直接の目撃者が記したのだということが随所に言われているので、12弟子の一人であるのは間違いないでしょう。さらに加えて、あの裕福な漁業経営者(マルコ1章20節)ゼベダイの二人の息子の一人ヨハネであると言っても、何も問題ないという立場を本説教者はとる者です。

 

2.ヨハネ21章の文章は、20章までと同じように直接の目撃者の証言としての性格がよく出ている文章です。どうしてかというと、創作にしては隙だらけの文章で、むしろ目撃者の狭い視点で生き生きと直接的に語られているからです。以下にそうしたことを見てみましょう。ヨハネ21章

 ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。これらの弟子たちがエルサレムからガリラヤに戻ってきたことは、イエス様の復活を告げた天使が弟子たちにガリラヤに行くように指示したこと(マタイ28章7節、マルコ16章7節、マタイ28章10節ではイエス様が直接指示)が背景にあると考えられます。さて、その夜は何も捕れませんでした。ガリラヤ湖の漁師にとって、夜は最適な漁の時間帯だったようです。ルカ5章でペトロはイエス様に、夜通し頑張ったが何もとれませんでした、と言います。最適な時間帯でもダメな時があるということです。

夜が明けた頃に、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、それがイエス様だとはまだわかりません(4節)。イエス様が復活直後に弟子たちに現れた時も、すぐにイエス様であるとはわかりませんでした。マグダラのマリアは最初、庭師かと思いました。名前を呼ばれて初めてイエス様だと気づきました(ヨハネ20章15節)。エマオに向かう途中の二人の弟子は、一緒に話しながら歩いている男がイエス様であるとわからず、夕食の時、イエス様が賛美の祈りを唱えてパンを裂いた時に、「目が開かれて」イエス様だとわかりました(ルカ28章13-32節)。なぜ、そこまで気づかなかったかと言うと、ルカによれば二人の目が「遮られて」いたからでした(24章16節)。それは、彼らが、イエス様が以前預言していたこと、つまり、自分は処刑されても死から復活すると言っていたことを心に留めていなかったことを、また、死者の復活そのものをまだ信じていなかったことを意味するのでしょう。

イエス様だと気づかれなかった原因は、弟子たちの方だけでなく、イエス様の側にもあったと言えます。マルコ16章13節によると、イエス様は二人の弟子たちに何か「別の姿かたち」(εν ετερα μορφη)で現れたと記されています。復活されたイエス様は、気づこうとすれば気づけるけれども、一見すぐには気づけない何か以前とは異なる姿かたちをしていたことが窺えます。ルカ福音書やヨハネ福音書では、復活したイエス様が鍵をしめた家の中に突然入って来られます。弟子たちは亡霊だと言ってパニックに陥りますが、イエス様は「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」と言って、弟子たちに手足を見せたり(ルカ24章39-40節)、わき腹に触れさせたりします(ヨハネ20章27節)。亡霊とか人間とかいう範疇ではくくれない、想像を超えた姿かたちとして復活の体が存在するのであります。イエス様自身、マルコ12章25節で、死者の中から復活する者は「天使のようになる」と言っています。空間を超えて移動する様は、さながら天使そのものです。使徒パウロは、復活した体は朽ち果てることのない輝きと力に満ちた体だ、と言っています(1コリント15章42-43節)。ちなみに、私たちも復活の日に死者の中から復活させられる時は、そのような体を与えられるのです。

以上のように、気づこうとすれば気づけるのだけれども、見る方の不信仰も手伝って、すぐには気づけない何か以前と異なる姿かたちがある、そんな姿かたちを復活のイエス様はとっていた。それで、弟子たちは、すぐにイエス様とわからなかったのでした。それと同じことが、ガリラヤ湖でも起きました。弟子たちは、湖岸に現れた男をイエス様とはわかりませんでした。それが、イエス様とのやりとりを通して最後にわかるようになります。どんなやりとりがあったのかをみてみましょう。

イエス様は弟子たちに、「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞いていますが、ギリシャ語の原文で「子たちよ」というのは、実は複数の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、日本語訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語の原文の形は、「ありません」と否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。つまり、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。日本語では「そうすればとれるはずだ」ですが、正確には「見つかる」です。何が見つかるかというと、「食べる物」です。

このやりとりから推測するに、弟子たちは天使の指示通りにガリラヤに戻ってはきたものの、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の弟子であるとは公にしにくい状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。主は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

まさにこの時、かつてガリラヤ湖の湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が、ペトロの記憶に蘇ったでしょう。それは、ルカ5章1-11節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には船が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと、同じことが今また起きた。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」 そう思うや否や、この福音書の記者であるヨハネが、同じ結論を真っ先に口にします。「主だ!」ペトロは、復活の主にまた相まみえるべく、湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペテロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れているところです。

ペテロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペテロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。もちろん、ヨハネが後日ペトロに、あの時どんなことを話していたのか、と聞き取りしていれば、それを加えることも出来たでしょうが、それはなかったのであります。ない以上は、書きようがなく、それでここは空白にならざるを得ないのです。こういうわけで、ヨハネ福音書に限らず、他の福音書や使徒言行録の目撃者の証言録はできる限り尊重しなければなりません。現代人の感覚にあわないものは、すぐ、これは創作だ、と決めてかかる態度は出来る限り、信仰者であればなおさら控えなければなりません。

こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主に今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。かつて、12弟子たちが宣教旅行から帰って来た時、イエス様がまっさきにしたことは、彼らを休ませることでした(マルコ6章31節)。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とはまさに主の御心なのです。

 

3.以上、本日の福音書の箇所は、福音書記者ヨハネの目撃したことに基づく出来事の生き生きした記述であることをみてきました。ここから先は、この箇所が読者である私たちの信仰にとって、どんな意味があるかをみてみたいと思います。

 本日の箇所の出来事は、イエス様を救い主と宣べ伝える者にとって大きな意味があります。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹が高まった時、主が助言して、それに従うと、予想を超えた成果を得ました。そして、主に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。主が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さったのです。網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しています。本日の箇所に出てくる153匹の魚の153という数字は、当時世界中の魚の種類は全部でそれだけあると考えられていたという説があります。それで、153匹の魚が網に入ると言うのは世界の全ての民族が福音を信じるようになったことを意味するのだと解釈する人もいます。この説の真偽はここでは吟味いたしませんが、いずれにしても、イエス様は漁師ペトロとアンデレを弟子にする時、「人間を捕る漁師にしてやろう」と言っているので(マルコ1章17節)、網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しているのです。そのため、本日の箇所は、宣べ伝えで一生懸命労苦しても誰も福音に耳を傾けてくれず心も向けない、ひどい時は悪口を言われたり追い出されたり、昔なら迫害を受けてしまうこともある。ただただ疲労に疲労を重ねるだけの時期がある。場合によっては食に窮することもある。ところが、ある時、主の助言があり、それに従うと予想もしない成果が現れることがある。そして、主は疲れた心と体を癒しねぎらってくれて、再び宣べ伝えに出ていく力をつけてくれる。そういう福音の宣べ伝えの現場のサイクルが見事に暗示されています。このことを本日の箇所から学ぶことができます。

 さて、主の助言がある、と言う場合、私たちはいつどこでそれを聞くことができるのでしょうか?復活されてから天に上げられるまでの40日間、イエス様は弟子たちに現れて、彼らを教え、また強めました。私たちには同じような形で主は現れません。しかし、そのかわりに私たちには、主に助言を求める拠りどころとして聖書があります。聖書には、イエス様が教えたこと、なさったことが目撃者の証言をもとに収められています。さらに、イエス様をこの世に送られた天と地と人間の造り主である神の私たちに対する御心が明らかにされています。神は、堕罪の出来事で死む存在となってしまった人間が、再びご自分のもとに永遠に戻ることが出来るようにと望まれました。そこで、その妨げになっている罪と不従順という私たちの汚点の重荷を全てイエス様に請け負わせて、その罰を全てイエス様に十字架上の上で受けさせました。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を「赦す」というやり方をとって、人間に新しい人生の道を開いて下さいました。このような神の愛と恵みを受け取った者の信仰と人生とはいかなるものか、ということについても聖書は詳しく教えています。このように聖書は、私たちにとっては主の助言の大切な源であります。

 それから、福音の宣べ伝えに携わる者というと、それは牧会者や宣教師にのみ関係すると考えられそうですが、これは異なる仕方で信徒にもかかわっています。イエス様は、彼を救い主と信じる者は、神を全身全霊で愛するように、と、また隣人を自分を愛するが如く愛するように、と教えられました。神を全身全霊で愛するというのはどういうことでしょうか?それは、人間が罪と死の囚われ状態から解放されて、神との永遠の結びつきをもって生きられるために、御自分のひとり子を犠牲にまでした神の愛と恵みにただ感謝して、その愛と恵みの中にしっかりとどまって生きようとすること、その結果、そのような神の意思に沿うようにするのが当然と志向することです。

隣人を自分を愛するが如く愛するというのは、神がこの救いようのない自分に対して多大な愛と恵みを持って接して下さったように、自分もまた、どうしようもないと見える隣人に対して愛と恵みを持って接するということです。接する際に、隣人にもなんとか神の愛と恵みが及ぶようにし、いつかはその中に入ることができるようにすることを目指すのが隣人愛です。もし隣人が同じキリスト信仰に生きる人であれば、その人が神の愛と恵みにしっかりとどまって、永遠の命に至る道を踏み外さないで歩めるように助けあい支え合うことです。もし隣人がキリスト信仰を持たない人であれば、神の愛と恵みの中にとどまる者としてその方に接しつつも、いつかは同じ道に歩みを共にすることができるようにと神に祈り願い、機会が与えられれば、聖霊の助けを得て神の愛と恵みを証すること、これが神の望まれる隣人愛です。こういうわけで、信徒も、牧会者や宣教師とは異なる仕方ではあっても、日常生活の場面で福音の宣べ伝えに深くかかわっているのです。

最後に、先ほど見た福音の宣べ伝えのサイクルでひとつ忘れてはならないことがあります。それは、主は、牧会者・宣教師であろうと信徒であろうと宣べ伝えに携わる者を見捨てないということです。残念ながら、困窮や苦難そのものは消滅しません。というのは、この世はその性質上、造り主を忘れさせる自分中心主義や、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義から抜け出ることができないからです。従って、この世を超える永遠と造り主に目を向けさせる福音に対して、この世が敵対するのは避けられません。しかし、私たちが困窮や苦難に陥っても、主はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、その時に現れました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さると本日の箇所は教えています。そのことを忘れないようにしましょう。本日の箇所以外にも聖書には、神は決して見捨てないとの教えが沢山あります。この世の人生の歩みで、神が果たして私のことを心に留めておられるのか、と心配になり弱気になることが多々あります。それでも、洗礼を通して神との間に絆が築かれたこと、その絆が聖餐式で受ける主の血と肉によって固く保たれること、これらは私たちの弱い感覚や感情がどう感じ、どう思おうが、神の目からみたら揺るぎのないものであります。そのことも忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 2015年4月19日 復活後第二主日
聖書日課  ヨハネによる福音書21章1-14節、使徒言行録4章5-12節、第一ヨハネ1章1-2章2節


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