説教「不信仰から信仰への軌道修正」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書3章13-21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. はじめに 

  東日本大震災から4年の年月が経ちました。先週は東京にいる私たちも、本当に新たに立ち止まって被災した方々や犠牲者の遺族の方々そして今なお避難生活を送っている方々の悲しみや苦労を心に留める1週間になりました。私たちを立ち止まらせた出来事と言えば、このところ残酷な殺人事件が相次いだこともあります。どれだけ多くの人の心を痛め立ち止まらせたかは、例えば多摩川の河川敷に置かれた花束の数からも明らかでしょう。あわせて東京大空襲から70年たったということで、その関連のニュースもあり、生存者の方たちの語りや出来事の惨さを伝える記録写真に、やはり心の立ち止まりを覚えた人が多かったのではないと思います。

 このような時勢では、キリスト教会の礼拝の説教に対して、自分は何を考えたらいいのか、何をしたらいいのか、という問いに対する答えが期待されるのではないかと思います。聖書の御言葉から何か指針になるような答えが得られるのではないか、説教者が聖句から答えを導き出してくれるのではないか、と。しかしながら、聖書の御言葉というものは、今それを聞いている人たちが直面する問題や課題に直接的な答えや解決を出してくれるような、打ち出の小槌やアラジンの魔法のランプではありません。むしろ、御言葉というものは、イエス様にしろ預言者にしろ、最初に口にした時から始まって、それが聖書の形に文書化された時を経て、その後100年たった後でも1000年たった後でも2000年たった今もずっと変わることのない神の意思が貫かれているものです。そうした普遍的なものを説教者は明らかにしなければなりません。そして、その普遍的なものを聞いて確認した会衆は、今度はそれをもとにして自分の問題や課題、または自分が生きる同時代の問題や課題に向き合っていく、そういうものだと私は考えます。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、今日の世界にいて日本にいて東京の中野にいて、自分は何を考え何をすべきか、という問いは、一先ずこの礼拝の間は脇に置いて、まず人間に対する神の意思はそもそも何であったか、それを本日の御言葉を通して確認しましょう。それを終えてから私たちの日常に戻って、自分自身の課題または同時代的な問いに取り組んでいっても遅くはありません。

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ニコデモについて、新共同訳聖書では「ユダヤ人たちの議員」と訳されていますが、彼は間違いなく当時のユダヤ民族の最高意思決定機関である最高法院の議員だったのでしょう。ファリサイ派というのは、神に選ばれた民であるユダヤ民族が神聖さを保てるということに非常にこだわったグループでした。神殿祭司を中心とするサドカイ派と呼ばれるグループが別にありますが、いろいろな意味でこの二つは対称的なグループでした。ファリサイ派の人たちは、モーセ律法だけでなく、それから派生して出来た清めに関する規則も厳格に遵守することを唱え、自らそれを実践していました。

イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちも付きまとうようになります。一体、この男は群衆に何を吹き込もうとしているのか?あの男が律法や預言に依拠しているのは明らかだが、何かが違う。一体あいつの教えは何なんだ、という具合でした。イエス様に言わせれば、神の前での清さ、神聖さというのは表面的なものではない。内面を含めた全人格的な清さ、神聖さでなければならなかったのです。例えば、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても、心の中で他人を憎んだり見下したりしたら、もう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟は、実際に婚姻外の性関係を持たなくても、心の中でそれを描いただけで破ったことになるとイエス様は教えたのであります(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそういう深い所にあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせていたのであります。

全人格的に神の掟を守っているかどうかということが基準になると、人間はもはや本質上、神の前で清い存在になることは不可能です。それなのに、人間が自分で規則を作って、それを守ったり、また修行をすれば清くなれると信じて、自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、ファリサイ派のイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、中には、今のようなやり方で本当に神の前の清さ神聖さは保証されるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。本日の福音書の箇所に登場するニコデモは、まさにそのような自省する心を持ったファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様に向き合うと、たいてい批判や非難を浴びせかえけるだけでしたので、夜にこっそり一人で出かけるというのは意味深です。ニコデモはイエス様から、人間の霊的な生まれ変わりについて、また神の愛や人間の救いについて教えを受けます。その後、ニコデモはファリサイ派がイエス様に対して抱く敵意に距離を置き始めます(7章51節)。イエス様が十字架刑で処刑された後、亡骸を引き取って手厚く埋葬することに奔走しました(19章39節)。

本日の箇所は、イエス様とニコデモの間に交わされた人間の救いについての問答の一部ですが、その中にある3章16節は特に大事な聖句です。なぜかというと、この聖句には、旧約聖書と新約聖書の双方にまたがって聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が要約されているからです。ルター派教会が国教会的な地位にあるフィンランドでは、教会に属する中学2年生の子供たちの9割近くが10日から2週間に及ぶ堅信礼教育を受けます。そこでの課題の一つに多くの聖句を暗記することがあります。ヨハネ3章16節はその筆頭です。次にこのヨハネ福音書3章16節について見ていきたいと思います。

 

2. ヨハネ3章16節

  それでは、聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が詰まっているというヨハネ3章16節をみてみましょう。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 この聖句が理解できるためには、「滅び」とは何か、「永遠の命」とは何かがわからなければなりません。創世記3章に有名な堕罪の出来事があります。悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間が神に対して不従順となって、その命に罪が入り込んでしまい、それ以後人間は死ぬ存在となってしまいました。人間を造られた神聖な神とその神に造られた人間との結びつきが切れてしまったのです。この結びつきが切れた状態をそのままほうっておけば、人間はただ滅びるだけです。この世でどんなに栄えて栄華を誇っても、この世から死んだ後で、自分を造られた神と永遠に離れ離れの状態に陥ります。これが「滅び」です。神と永遠に離れ離れになる状態がどんなものかを理解するには、これと正反対である永遠に神のもとにいることができる状態、つまり「永遠の命」がどんなものかをみてみるのが良いと思います。それがわかれば、神と永遠に離れ離れの状態、つまり「滅び」とはその逆のことだとわかるからです。

 黙示録21章3-4節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」これは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、まさに今のこの世が終わる日に、神が死んだ者のうちで御心に適う者を復活させて復活の命と体を与えて御許に迎え入れる時のことを言っています。そこに迎え入れられた者たちは、以前生きていた世で身に降りかかっていた全てのことが清算されて、もう涙は流さなくていい、重荷は負わなくてもいい、そういう完璧な安心安堵の状態に置かれるということです。そこに招き入れられる者たちは、黙示録19章で婚礼の祝宴に招かれた者と呼ばれます(7、9節)。それは、新しい天と地のもとで彼らが以前生きていた世の労苦を全て完全にねぎらわれるということです。彼らは、神のもとに永遠にいることになるので、彼らにはもう死は及びません。

そこで今度は、永遠に神から離れ離れになる滅びの状態をみていきますと、それは今言ったことと全く逆のことになります。まず、永遠の命に与れないので、死んだ後も以前生きていた世の悲しみ、嘆き、労苦やそれらの原因が解消されず引きずられ、涙を拭われることも労苦をねぎらわれることもありません。加えて、第二の死の危険が彼らを待ち受けています。マタイ福音書25章でイエス様は、悪魔とその手下たちを焼き尽くすために永遠の火が準備されていると述べていますが、人間のうちある者たちが最後の審判の日にその火に投げ込まれてしまう危険があると警鐘を鳴らしています。この同じ火は、黙示録20章でも出てきます。まず殉教したキリスト信仰者を中心とするグループが死から復活させられてキリストのもとに迎え入れられます(20章4-6節)。それ以外の者たちについては、「命の書」という神の記録があって、以前生きていた全ての人間の生き様が記録されています。神はこれに基づいて一人ひとりの行先を決めます(12節)。そのうちの誰が永遠の火に投げ込まれ誰が投げ込まれないかについては述べられていません。ひとつ明確に言われていることは、この「命の書」に名前が載られていない者がいて、彼らは即、火に投げ込まれるということです(15節)。この永遠の火があるところは第二の死と呼ばれて(14節)、そこに投げ込まれたらが最後、昼も夜もなく永遠に焼かれることになり(10節)、この第二の死というのは永遠に続く死であります。

以上みたように、人間はこの世から死んだ後、もし自分の造り主である神のもとに戻れなければ、このような悲惨が待っているということを聖書は教えているのです。最近のキリスト教会ではこういうことを言うのは控えて、明るく楽しいことだけを言わなければいけないという雰囲気があるようですが、「こういうこと」を見ないと神がどうして愛と恵みに満ちた方なのかがわからなくなります。つまり、神は、堕罪で生じてしまった人間との断絶を悲しみ、自分の方からそれを解消してあげよう、人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分のもとに戻れることが出来るようにしてあげようと決めたのです。「自分の方からしてあげよう」と言うのは、先ほども見ましたように、罪を内に持っている人間は神の意思を全人格的に100パーセント満たすことが出来ない、救いに関しては全く無力な存在だからです。人間の側のこの行き詰まりを打開するために、神はひとり子のイエス様をこの世に送られました。人間の罪から来る罰を全て身代わりにイエス様に負わせて、十字架の上で死なせ、人間の罪の償いをさせたのです。イエス様が人間の罪を全て十字架の上に運んで行って一緒に断罪されたことで、罪が持っていた力、人間が神との結びつきを持てなくしようとする力は無力にさせられました。そして、神がイエス様を三日目に復活させられたことで、死を超えた永遠の命に至る扉が人間に開かれました。人間が罪の支配から解放される可能性が打ち立てられたのです。

このように神は、人間が永遠の滅びから永遠に神のもとに戻れるようにするという救いを、イエス様を用いて全部自分で整えてしまいました。救われるために私たち人間がすることと言えば、この神が整えた救い、「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることだけです。これらのこと全てはまさにこの私のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この受け取りは完了します。先ほど読んでいただいた使徒書の日課「エフェソの信徒への手紙」の2章8節に、救いは人間の力によるのでなく神からの贈り物であると言われていましたが、まさにその通りなのであります。

ヨハネ3章16節にもどりましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」天地創造の後で起きた堕罪が原因で、人間を造られた神と造られた人間の間に断絶が生じてしまい、人間は永遠に神のもとに戻れず滅びに向かう存在になってしまいました。神と人間の結びつきを回復して人間が永遠に神のもとに戻れるようにしようと、神はひとり子のイエス様を用いて人間の救いを実現されたのです。ここに神が私たち人間をいかに愛しておられるかが明らかになります。このように、ヨハネ3章16節には、旧約新約全聖書を貫く神の人間救済の意思、言い換えれば神の愛が要約されているのであります。

 

3. 不信仰から信仰への軌道修正

  以上みてきたように神は、人間にかわって人間のために人間の救いを整えられました。あとは人間の方でそれを受け取ればよいだけとなりました。救いを受け取るとはどういうことかと言うと、神はこれらのことをこの私のためにイエス様を用いてなさって下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。しかし、人間はみんながみんなこの救いを受け取るとは限りません。なぜこの救いを受け取らない人がいるかと言うと、ひとつには、この神の整えられた救いについてまだ知らされていないということがありましょう。それだからこそ、福音の伝道が必要なのであります。しかしながら、救いを知らされても、それを受け取らない場合もあります。なぜ受け取らないかというと、ひとつの理由として、死んだ後の命など考えるのは馬鹿馬鹿しいと言って現世中心の考えで生きることがあります。もう一つの理由は、死んだ後の命を考えることはしても、聖書で教えるのと異なる考えをするという場合があります。異なる宗教を持つことがそれです。現世中心主義の考え方や異なる宗教があるために神の救いを受け取らないというのは、かたや非宗教的かたや宗教的と全く対称的でありますが、イエス・キリストを救い主と信じないという点では共通しています。そこで、本日の箇所の後半部分(18-21節)で、イエス様はこのキリスト不信仰について教えますので、次にそれを見てみましょう。

ヨハネ3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言われます。これは一見、イエス・キリストを信じない者は地獄行きに定められていると言っているように聞こえ、キリスト不信仰者はきっと、これこそキリスト教の独りよがりだと憤慨するでしょう。ここで注意しなければならないことがあります。もちろん、人間には善人もいれば悪人もいます。しかし、先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている。これは善人も悪人も同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪と不従順を受け継いでいるのです。みんながみんな、この世から死んだ後は永遠に神から離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されるのです。イエス様を救い主と信じなければ何も変わらず、堕罪以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」という意味です。従って、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それで軌道修正がなされて、「既に裁かれている」というのは過去のことになります。

3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、彼を用いて、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を整えて下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまうのです。

3章20節では、人々がイエス・キリストという光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、キリスト不信仰者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと憤慨するところだと思います。しかし、それは早合点です。まず、キリスト信仰者と不信仰者の違いとして、不信仰者の場合は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、自分の造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。

キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意図からどれだけ離れているかが問題になります。結果はいつも離れているので、そのために罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくというプロセスに入ります。毎週礼拝で行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のであります。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせる、ということです。善行もしたかもしれないけれど、罪と不従順の結果もあわせて一緒に白日に晒すということです。私は全身全霊をもって神を愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。それで、以前であれば滅びの道を進む者でしかなかったのが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されるのであります。つまり、キリスト信仰者は自分の罪と不従順を神の目の前にさらけ出すことを辞さないのです。そのために悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ます。これが「真理を行う」ということです。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目に付くように明るみに出すためなんかではありません。そういう「罪の赦しの救い」の中で生きるキリスト信仰者が行うことは、3章21節に言われているように「神に導かれてなされる」ものとなります。善行も自分の力と能力の産物でなくなり、神の影響力があってなせるものとなり、人間は神の前で自分を誇ることができなくなるのです。

翻ってキリスト不信仰者は、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス・キリストという光が来ても、光のもとに行く理由がありません。(イエス様を信じなかったユダヤ人は、もちろん天地創造の神を崇拝してはいますが、イエス様を光とみなさないので、光のもとへは行きません。)しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むということであり、そこから人間を救い出したいがためにイエス様をこの世に送られたのでした。しかしながら、キリスト不信仰者は世界にまだ大勢います。さらに、一度イエス様を救い主と信じたにもかかわらず、それがはっきりしなくなってしまった人たちも大勢います。人間を救いたい神からみれば、これはゆゆしき大問題であります。本日の箇所のはじめの方で(14節)イエス様は、民数記21章のモーセが青銅の蛇を旗竿に掲げた出来事について述べます。毒蛇にかまれて死に瀕したイスラエルの民がこの旗竿の蛇を見ると皆、助かったという出来事です。イエス様は自分にも同じことが起きると預言されます。つまり、十字架に掲げられた自分を信じる者は、滅びから救われて永遠の命を得ると言うのであります。モーセの時は、かまれた人は皆、必死になって掲げられた旗竿の蛇をみました。しかし、掲げられたイエス様をそのように必死に仰ぐ人はまだ少数です。毒が体に回るという緊急事態に比べたら、滅びの道から永遠の命の道に軌道修正するというのは、緊急なものに感じられないかもしれません。しかし、造り主から永遠に離れ離れになるか、造り主のもとで永遠にいることになるか、これは重大な岐路であります。どうしたら、このことを多くの人に気づいてもらえるでしょうか?私たち一人一人は天地創造の神に造られた者でありながら、神との間には断絶が生じてしまっている、しかし、イエス様を救い主と信じることで断絶は解消し、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになる、ということを。このために、私たちキリスト信仰者は何ができるでしょうか?何をしなければならないのでしょうか?

しなければならないことは、はっきりしています。イエス・キリストの福音をとにかく宣べ伝えることです。これは、2000年近くたった今も、これからも変わりません。ただ具体的に何をすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければならないことがあります。宗教一般、特にキリスト教に疑いや反感を持っている人たちは、宣べ伝えに貸す耳など持っていないでしょう。しかし、もしそのような人が愛する肉親や隣人なら、キリスト信仰者としては、同じ救いを受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして状況を説明し助けをお願いすることから始めます。「天の父なるみ神よ、私にとって大事なあの人も私同様、あなたに造られた者です。どうかあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が話をするのが良いとお思いでしたら、その機会をお与えください。その時は、しっかり話ができるようにあなたの知恵と聖霊の導きをお願いします。」このような祈りを日々のお祈りに加えることから始めていくのが良いでしょう。そうすると、祈るあなたも、相手の方との関係において新しい段階に移動させられます。本当にお祈りは、祈る人に予想を超える展開をもたらす手段です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 四旬節第四主日
3月15日の聖書日課  ヨハネ3章13-21節、民数記21章4-9節、エフェソ2章4-10節


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