2026年2月15日(日)主の変容の主日 午前10時半 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン 

             2026215日(日)スオミ教会説教

聖書:マタイ福音書1719

説教題イエス、栄光の姿に変貌

今日の礼拝は変容主日礼拝であります。今日の聖書ではイエス様のお姿が三人の弟子たちの前で突然驚くべき姿に変わってしまったと言う出来事であります。マタイ福音書1712節を見ますと「六日の後、イエスはペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり顔は太陽のように輝き服は光のように白くなった」。まず、イエス様は弟子たちの中でも最も信頼し、頼りにしているペテロ、ヤコブ、ヨハネの三名だけを連れて高い山に登られた。イエス様は彼ら三人を大事な場面で特別に選んでおられます。例えば会堂司ヤイロの娘を生き返らせた時にも三人を連れて行かれています。(マルコ53740)また、ゲッセマネの祈りの時にもイエス様は他の弟子を園の入り口に残してこの三人だけを連れて園の中央に進まれ十字架の苦難へと向かわれる前の神への激しい祈りをされました。(マタイ263746)これから起こる、この世では理解出来ないイエス様の変貌の出来事を、メシアの受難と聞き始めた他の弟子たちの中には心が動転して誤解する者もいるでしょう。そこでイエス様は信頼できる三人なら後に他の弟子たちに説得できるだろうと言う確信のもとに三人だけを特別に選ばれて連れて行かれたのであります。選ばれた証人たちの前で変貌は起こりました。この時、山上で起こった出来事はどんな不可思議であったとしても疑う事の出来ない事実です。証人の一人ペテロは彼の第二の手紙116節以下で次のように書いています。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちはキリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18節、私たちは聖なる山にイエスといた時、天から響いて来たこの声を聞いたのです。」イエス様が三人の弟子を連れられて登られた「高い山」は恐らくヘルモン山であったと思われます。標高3000m以上のヘルモン山の中腹で出来事はで起こりました。此処で何が起こっているかと言う事ですが、此処には以前に「弟子たちはイエスの栄光をみるであろう」と約束されたその約束が確かなものとして証された、実証された、そう言う出来事であります。その約束された栄光の姿は2説~3節にありますように「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見るとモーセとエリヤが現れイエスと語り合っていた。」その驚くべき光景は宇宙的な深い見方から申しますと、此処では「天の世界との交わりが啓示された。」神からの神秘の中でこの世に表された交わりと確認でありました。それは人間の目で見る事の出来ないような此の世の常識を遥かに越えた驚くべき光景が展開されたのです。天空の雷雲から一瞬ピカピカと稲妻の光が輝いたと言った程度のものではありません。外部からの別の光が必要ないほど地上の自然のあらゆる光を凌ぐところの眩い輝きの中に主イエスは立たれていた。しかも弟子たちは目の前で空中高くそのみ姿を仰ぎ見たのであります。このイエス様のみ姿は私たちの知っているどんなものよりも高く上げられ全く新しい形で表されたのであります。そこには此の世とは次元の違う只中に展開されているその光景を弟子たちは見せられているのであります。マタイ1343節に約束されている、「彼らは父のみ国で太陽のように輝くであろう」と言うその言葉通りの事がイエス様の上に起こっているのであります。同じ事がヨハネ黙示録にも112節~16節にあります。イエス様のこの変貌は単にイエス様の人格が新しくなった、と言った事に留まらない。更に此処に於いて旧約聖書時代にまで時代が遡って神に仕えた預言者たちが現れて空中のイエス様との交わりが現れたのであります。3節に「見よ、モーセとエリヤが彼らに現れてイエスと語り合った。」昔の預言者たちは今、沈黙して現れたのではなく主イエス様と語り合っているのです。この光景を弟子たちはどのように見たのでしょうか。

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弟子たちの時代より遥か千年以上の昔にシナイ山で十戒を頂いたモーセが現れている。イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、旧約聖書の律法の代表者と言ってよいモーセであります。又、イスラエルの民がメシア待望の中で大預言者と仰いだエリヤも現れている。旧約聖書のマラキ書323節を見ますと「見よ。私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。預言者マラキのこの約束の故にイスラエルの民がエリヤを待望したのです。こうして、この偉大な信仰に生きた二人はその最後が秘儀に満ちています。つまり、人生の終わりは謎に包まれています。モーセは独り山の上で神のみ傍近くに死んだ。エジプトからイスラエルの民を救っ年の旅の末、モーセはカナンの地に入ることなく死んでいます。それで人々はしばしば「神はモーセを天に取り去られた」と言ったのです。又、エリヤは人生の最後はどうであったかと言いますと嵐の中にみ使いによって火の車に乗って天高く引き上げられた。この二人の人生最後の姿はなんという神秘に満ちたものではありませんか。神秘に満ちて天に引き取られたモーセとエリヤが今、空中でイエス様と出合っていると言うのであります。そこでは何が語り合わされているのでしょうか。恐らくイエス様のこれから向かわれる十字架の道についてその決断の確認でありましょう。三人の弟子はと言いますと、この幻想的なモーセ、エリヤ、イエス様の天高く空中で話し合われている光景に驚きと喜びに満たされました。ペテロはイエス様の栄光の姿にどんなに感激しつつ、この光景がそのままであって欲しいと何が何だかよく分からず、4節を見ますとペテロはイエスに言った「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしい事です。お望みならば私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため。もう一つはエリヤのためです。」テロが語っているうちに、見よ!そこに光輝く雲が彼らを覆った。すると、見よ!雲から声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて恐れおののきひれ伏したのあります。イエス様とモーセとエリヤが語っている姿を光輝く雲が覆ってしまった。この光輝く雲はかつてモーセが荒野を通ってイスラエルの民を導いた時の神の印でありました。(出エジプト記1321節にあります)更にこの雲の中から神の御子イエス様に対する御父の愛を証しする声があったのです。この声はイエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時も「これは私のみ心に適う愛する子である」と言う御声を天からあったのと同じです。(マタイ317)イエス様はこれからご自分の人生の方向を十字架の受難の道に向けられることを決心をされて天からの確認の御声を聞かれたのです。この事はイエス様の心の内に天の神の御心と一つにされた聖霊がここに啓示されて、神の栄光がイエス様の体にはっきりと現わされたのであります。天の空中での「イエスの変貌」のこのみ姿はまさに十字架の死から蘇られたみ姿を予め三人の弟子に示されている出来事であります。弟子たちは神の近さをこんなにまで感じた時、恐怖に襲われたのであります。その時イエス様は弟子たちに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れる事はない。」今や、イエス様は再び僕の姿をとって弟子たちと共におられた。こうして彼らは”如何に高くイエス様が彼らの上に聳えたっておられるか”と言う事を心に深く刻んで経験したのでした。更に神の栄光を身近に感じる事が出来たのであります。モーセとエリヤの中に立たれたイエス様は後にゴルゴダの丘で二人の犯罪人の間に立って罪の全てを負って十字架の死を遂げられる。そこには栄光のイエス様は何一つ無いのであります。しかし、私たちは蘇られ天の御国へ返られた栄光の中にあるイエス様を心に信じてやがて神の御国が主と共にある喜びを持って生きたい。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

 

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