説教「バプテスマのヨハネの出現」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書1章1~8節

12月に入りました、いよいよクリスマスが近づいてまいりました。イエス様のご誕生を祝う前に、必ずと言って良い程バプテスマのヨハネが現れた、ことが語られます。 今日の聖書はマルコによる、福音書1章1~8節です。これまで何回となく、この箇所を見て来ましたが、たいていは、先ず1節については読むだけでマルコ福音書全体の表題がつけられたような気持ちで通り過ぎます。

そして、今日の箇所の本題は、2節から4節に行きます。そこには、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるため、『悔い改め』の洗礼」を延べ伝えた」。 そのヨハネは旧約聖書の時代から、すでに、預言者イザヤによって、預言された人物であった。と2節から3節で記しているわけです。聖書学者、ウイリアム・バークレーによりますとマルコはイエスの物語を遠くさかのぼって始めている、と言っています。イエスの地上への誕生で始まっていない。バプテスマのヨハネの荒れ野出現で始まってもいない。それは預言者たちの夢をもって始められた。と言っているのです。

つまり、ずうっと昔に神の心の中で始まった、と言うのです。神の秩序の中にある計画があった。歴史は、最初に最後を見ておられる神によって導かれていくものである。聖書の福音書の最初の出だしの一行がどんなに大切な意味をもって、始められているかとても重要な点です。それでマルコ福音書のは、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」。と記されています。マタイ福音書の1章1節には「アダムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」ではじまっています。イエス・キリストの誕生の出来事については18節から記されています。マルコ福音書はクリスマスの出来事について何もふれていないのです。

マルコによる福音書、とありますから、これはイエス様についての伝記ではない「マルコが伝えた福音」ということです。福音書は確かに伝記のような形で書いてありますが、 ただ歴史的興味から読むべきではなく、教会の信仰によって、貫かれた福音書を読むべきでしょう。著者のマルコは、ペテロの通訳であったらしいのです。ですから、ペテロから聞いた話も多くあるのでしょう。そして初代教会で伝えられていることをまとめて、編集したでしょう。大体紀元65年頃書かれた、と言われます。四つの福音書の中で一番古い福音書であります。

マルコは主イエス様がなさった事、語られた教えを福音書の中で語りながら、だひたすら福音を語るつもりで書いているのです。こうして冒頭の言葉は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」であります。これは神の子について書いたものである、ということです。 この福音書を読んで主イエス様のなさったこと、教えられた言葉を知って信じることで「福音」を得ることができる。福音は神のによって救われるということ。そうするこのお方はただの人ではない、ことがわかります。それは神がこの地上に来られた、ということであります。神の子が地上に来られた、ということは、はあまりにも異常なことであり、不思議な神秘に満ちたことです。

マルコはイエス様のご生涯のことを書いたのでしょうが彼は、はじめから「神が来た」と言っているのです。そのことが福音である、というのです。神は何のために、この世に来たのでしょうか、それは神が造られた世界を神が取り戻すためであります。神が造られた世界は人間の罪のゆえに神から離れてしまいました。だから、もう一度、神のものにしようというのです。そのためには、どんなことが必要でしょうか。問題は人間の罪をどう解決しようとするかです。罪を解決するには、その罪に対して罰したら解決するでしょうか。 罪を厳しく加えていっても罪がなくならない。罪の解決は罪を赦すほかないのです。

神の子が来て、この世で働かれたのもそのためでありました。神の子が働く、というのは 具体的にはどいうことでしょうか。それが、イエス・キリストの生き方そのものであります。マルコが「神の子イエス・キリスト」と言ったのは、神がこの世にあって働く、ということはイエス・キリストにおいて見ることができるというこなのです。イエス・キリストを見るというのは、イエス・キリストというお方をキリスト、救い主として信じることであります。マルコは主イエスというお方のことを、人間の伝記のように語りまがら、ここに神が救い主として働いておられる、ことを示そう、としたのです。

人間イエスの事を書いているように見えながら、実は救い主キリストのことを信仰をもって書いているのであります。「神の子、イエス・キリストの福音が始まった」そして、いよいよ、マルコ福音書には次に洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた、ことを記しています。その冒頭に、預言者イザヤの預言をもってきました。「見よ、わたしは、あなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と宣言しています。こうして預言者の預言のとおり、神より遣わされたヨハネのいでたちと生活がどんなものであったか、6節以下、8節までに記しています。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていなご、と野密を食べていた。

どうして、このような生活をしていたのでしょうか。ユダヤ人の普通の生活では想像できない、野蛮的な姿です。今回私は、ここで新たな発見をしました。今まではここを読むだけで、とにかくヨハネはよほどの変わり者で荒れ野に現れたのだから、らくだの毛衣に腰に皮の帯であったのだろうと想像するくらいでした。ところが旧約聖書、列王記下1章8節に「預言者エリヤはらくだの毛衣を着て皮の帯を腰にしめていた。」とあります。そうすると。ヨハネは預言者エリヤと同じ格好で登場したということです。もう一つ注目したいのは、「荒れ野に現れた」ということです。イザヤ書40章3節の言葉が引用されているのです。第二イザヤと言われる人がイスラエルの歴史の中で最も悲劇的な時代であった、バビロンの捕囚の時に記している預言です。

ここでは、荒れ野というのはバビロンの地のことです。バビロンに捕らわれの身であるイスラエルの民は故郷イスラエルのことを思い、望郷の念にかられた、いつか帰国を切望しながら、故国への遥かな道のりを思い、そこに横たわる荒野を見るのです。その荒れ野で声が聞こえた。それと同じように洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野に立てこもって叫んだのです。荒れ野には人が住んでいません。又住もうとも思わない、そういうところです。とにかく水がないのです。ですから草木も花も何もない、岩と石ころの荒れはてた地です。しかし、出エジプトをしたイスラエルの民を40年間荒れ野の旅をするのです。 そこには徹底した神の導きと助けによって歩むことができた旅でありました。預言者エリヤは自分の弱さを知り、嘆き途方にくれた時、荒れ野に導かれて、神の声を新しく聞きなおしました。荒れ野とは神と共にあるところです。神のみ声を聞くところです。そうして神の導きがあります。

バプテスマのヨハネは、そのような荒れ野に立ち、そしてやがて「悔い改めよ」と叫び、 ヨルダン川で洗礼を授けます。ユダヤ全土からぞくぞくとこのヨハネのもとに来たのです。 身分の差別なく、ユダヤ人も異邦人も貧しい人々も誰もが来たのです。洗礼を誰もが受ける、ことができる。罪の赦しは、皆が受けなければならないのです。罪の赦しがなければ、誰も生きられないからです。誰もが罪の許しを得るために、悔い改めなければならないからです。悔い改めなしに生き得る義人はいないのです。人は自分で悔い改めができる程 、するどい、良心というものを求められるわけではありません。悔い改める、ということは向きを変える。生き方の方向を変えられることです。自分中心の、わがまま、から自分の思っていることが一番と思い込んでいる自分をすてることです。神様の導きを受け入れる、神様に向きを変えられて、祈っていく生活です。神の、みもとに帰るのです。

そこにヨハネの、バプテスマの意味がありました。そうして、ヨハネは言われました「わたしよりも優れた方が後から来られる」と。優れた方とは、「より力がある方」という意味です。この方は「聖霊によって、バプテスマを授ける方」です。ヨハネは言いました「わたしは、この方の靴のひもを解く値打ちもない。」靴のひもを解く務めを与えられた、奴隷にも値しないのです。というのです。主イエスという方が、いかに高い存在の方か。神なのですから比べようがありません。そのイエス様が、ここに来て下さる、聖霊による業を始めて下さるのです。

私たちは、教会の礼拝で、まもなくクリスマスを迎えます。救い主、イエス様が降誕された喜びを迎えるため、み言葉によって、清められその心を備えていきましょう。アーメン

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