説教「完成へと導く主」浅野直樹 牧師(市ヶ谷教会) 講壇交換日

2014/11/16  聖霊降臨後第23主日 

ホセア11章1-9  Iテサロニケ3章7-13  マタイ25章1-13

説教題「完成へと導く主」

きょうの礼拝は聖霊降臨後第23主日、そして次週が教会の暦の一年最後の日曜日で聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の終わりに来ています。そういうわけで聖書日課の主題も終末です。きょうのテキストはまさしく終末という大きなテーマを扱ったイエスのたとえなのです。

終末というと極めて宗教的なテーマで、およそサイエンスとは無関係と思われます。この世の終わりがいつ来るか、あるいは人が死んだらそのあとどうなるか、そういったことがらは宗教が語ることであって、科学者たちが首を突っ込む領域ではありませんでした。 1995年3月20日に、オウム真理教という宗教団体が地下鉄サリン事件が起こしました。あのときしきりに「ハルマゲドン」という言葉を耳にしたことを思い出します。これは黙示録の中に出てくる善と悪の最終戦争を表す聖書の言葉で、きょうの主題である終末を象徴しています。オウム真理教はサリン事件を起こして、いわばハルマゲドンを自作自演しようとしたのです。そしてその中心人物たちが理科系のエリートたちでした。科学を専門とするエリートたちがハルマゲドンを起こしたのです。科学者が終末に首を突っ込んだのです。

同志社女子大学の1997年の卒業礼拝で、聖書学者の大貫隆がこのことに触れて説教しこう述べています、「科学という合理主義のリーダーが、終末預言という非合理なものにくっついてしまった」。それがあの出来事だったと語ったのです。なぜ合理的なものと非合理なものがくっついてしまったかというと、終末という出来事がいつ、どのように起こるかということに科学者たちが興味をもったからなのだと大貫氏はいいます。いつ、どのようにを問うというのは、科学者たちが物事を考えるときの大前提となる手法です。その方法を使って彼らは終末というものをとらえようとしたのです。すこし難しい言い方をすると、終末という出来事を歴史の中に対象化しようとしたのです。自然界の諸々の現象と同じく、研究すれば見えてくる、いつごろそれがどんなふうに起こるのかが解明されていく。そういう関心が科学者たちを駆り立てたのではないでしょうか。そうした見方は一般の私たちにももちろん関心大ありですが、このアプローチで聖書に描かれている終末を正しくとらえることはできません。それがいつどのように起こるのか。そういう問いから自由になれ、と大貫先生は女子大生に呼びかけたのです。そういう問いにこだわって起きたのがサリン事件でした。 キリスト教が終末を語ると、終わりを完成とみなすことができるのです。たとえば人間のいのちが、人生の終末という出来事において完成するということです。ハイデッガーという哲学者は、「人間は生まれた直後から死へと定められた命を生きている」といったそうです。では聖書が人間を一生をどのように語るかというと、人間は日々完成に向かって生きているということになります。死という出来事をわたしたちのいのちと切り離して考えてはいけないのです。死はいのちとつながっているのです。いのちの到達点に死があるのです。生きるというプロセスのゴールに終末という人生の完成があるのです。不完全な私たち。罪と人間的な弱さのゆえに欠陥だらけの私たち。そんな私たちのいのちを、最後に完成へと導いてくださるのがイエス・キリストです。 「だから、目を覚ましていなさい。」というみことばは、そのような生き方を表しています。神様が最後に与えてくださる完成を目指して生きるということです。自分の力で勝ち取るのではなく、神様がイエス・キリストのあがないによってお与えくださる完成に向かって、一日一日を生きること。それが目を覚ました生き方なのです。

きょうのたとえ話はユダヤの結婚式の一場面が題材になっています。私たちには馴染みがないのですが、イエス時代のユダヤの結婚式は花婿が花嫁を出迎えにいくことで始まります。彼女の家まで出向き、挨拶をして花嫁さんを引き取り、そこから今度は二人の新居まで一緒に道を練り歩きます。新居には彼らを祝福してくれる乙女たちが待機していて出迎えてくれます。それが夜であるならば当然灯りが必要なので、乙女たちは手にろうそくをもち二人の到着を待ち続けます。やがて二人が到着すると乙女たちがエスコートしてふたりを盛大な祝宴会場へと招きます。もちろん乙女たちも同行します。そういう流れを頭に入れて読むと、ここはわかりやすいかもしれません。 ここで問題となっているのは、五人の愚かな乙女たちは油の予備をもっていなかったという点です。その日そのときの備えができていなかったということです。災害に備えて食べ物を備蓄したり、あるいは日用品をまとめておいたりしている家庭も多いと思いますが、同様の警告を主イエスは弟子たちにもしています。それを端的に言い表したひとことが、「目を覚ましていなさい」です。 「わたしは救われて天国への切符を手に入れた。だからもう自由だ。すべてのことが許されている。思い通りの生活ができる」。信仰を得た人がこのような生き方と人生観をもっているとしたら、その人は予備の油をもってこなかった乙女のようです。終末を目指して生きるという生き方にはなりません。目を覚まして生きることにはならないのです。 あるいはここを読んで、ちょっと心配になってきたクリスチャンもいるかもしれません。わたしは一応なんとか信仰を得て今日まで生きてきた。けれども自分はいい加減で信仰的にも眠ってばかりだから、ひょっとしたら私はどちらかというと、この愚かな五人のひとりなのではないだろうか。そういう心配がよぎった人もいるかもしれません。いやもしかすると、私を含めてここに集まっているみんながそういう思いかもしれません。 では逆に、わたしはいつも信仰的に眼覚めているから賢い乙女のひとりだと、自信をもっていえるとすると、その人はどういう人なのでしょうか。私はルカ18章に出てくるファリサイ派と徴税人の祈りの比較を思い出すのです。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈ります。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

「信仰的にいつも目覚めているから大丈夫」と、自信を持って言えるとすると、私にはその人がファリサイ派の人とかぶってみえてきます。罪の中に生きる人間が、信仰的にいつも目覚めていることはできません。どうしても徴税人と声をそろえて「神様、罪人と憐れんでください」と祈らざるを得ないのです。そういうわたしたちだからこそ、イエス様は「だから目を覚ましていなさい」と呼びかけ、それだけでなくわたしたちを義としてくださるのです。いつも目を覚ましていることができないわたしたちですが、イエス様が「してくださる」のです。イエスさまにしていただいているのです。自分の力ではできませんが、イエスさまがわたしたちのために、確かに救いを成し遂げてくださったのです。 先ほど「完成に向かって生きること」が私たちの人生だということを言いました。もっと正確にいうなら、主イエス様が、わたしたちの人生を完成してくださるのです。完成させてくださる主とともに生きて、主のご用に励みます。そして用いられたことを喜ぶのです。そうした体験を積み重ねが目を覚まして生きることです。もちろんいつもそれがうまくいくわけではありません。御心にそわなかったら、「主よ、憐れんでください」と悔い改めながら生きること、それが目を覚まして生きることです。それが私たちにできる油の備えです。行い、祈り、悔い改め、この体験ひとつひとつを生涯かけて積み上げていくとき、わたしたちの人生は完成へと導かれるのです。

 

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