説教「神のものは神に」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書22章15~22節

今日の福音書はイエス様とファリサイ派の人々、そしてヘロデ派の人々との論争であります。イエス様はこれまでにも、一瞬たりとも気の抜けない、ユダヤの宗教的なグループと激しい戦いをされて来ました。今回はファリサイ派の若手の弟子たちと、そして更にヘロデ派の若手の弟子たちとがいっしょになって、イエス様を罠にかけようとする議論の戦いであります。

この時、なぜ、ファリサイ派もヘロデ派も若手の弟子たちがイエス様を罠にかけようとしたか。マルコの福音書12章の方を見ますとイエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを話されました。このたとえで、ぶどう園の主人が自分の息子まで、貸し付けてやっている農夫たちに打ち殺されてしまった。その報復として「主人は農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるにちがいない」と話され、これを聞いていた祭司長、律法学者や長老たち、つまり宗教指導者は、イエスが自分たちに当てつけて、このたとえを話されたと気づいてイエスを捕らえようとしたが、群集を恐れた。それでイエスをその場に残して立ち去った。とマルコ12章12節にあります。

イエス様にとっては命の危険にさらされての戦いです。その後です、今日の聖書のマタイの方の福音書22章15節を見ますと、それからファリサイ派の人々は出ていって、今度は若手の弟子たちがイエスの言葉じりをとらえて罠にかけようと相談した。同じようにヘロデ派の若手も今度はいっしょになってイエス様に議論をしかけてきたのでありました。 ヘロデ派の人々もいっしょに結託してイエス様を罠にかけようとした、というのは驚くべきことでした。

ヘロデ派というのは、ヘロデ王家の支配を支持する党派の人々です。当時、ガリラヤの領主でありましたヘロデ・アンティスパスという王のもとで、ローマ皇帝の手先となって、地上の繁栄を第一と考えている保守派といっていいグループです。一方ファリサイ派はユダヤ教の律法をきちんと守って生きることが自分たちの神から選ばれた民として第一の生き方だというグループです。

だから普段からファリサイ派とヘロデ派とは全く相入れない人々であった。にもかかわらず、ここにイエスを陥れようというひとつの目的では協力して罠にかけようとしているわけです。こうしてファリサイ派の弟子たちが一緒になって、イエス様のところに遣わされて尋ねさせた。16節です、「先生、私たちは、あなたが真実な方で心理に基づいて神の教えを、誰はばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」 イエス様という方を彼らがどう見ているか、又民衆も、どう見ているか、真実で神の教えを、なさっている方として見ています。

その上で、イエス様をおとし入れようと企んで、イエス様に質問しています。「皇帝に、税金を納めるのは、律法に適っているのでしょうか。適っていないのでしょうか。」納税の問題です。ローマ皇帝に税金を納めなければならない、というのは、大変重い生活にのしかかる課題でありました。ローマ皇帝は納税させるため、人口調査というものをしました。この調査によって、人頭税というものを義務付けたのでした。

こうして、ユダヤは、ローマ帝国の属州として総督の管轄下に置かれていました。ユダヤ民族は、政治的にも隷属されている、というローマの権力に対して強い反発をもっていました。たびたび反ローマ闘争を起していました。だから、若手の弟子たちを、イエスに向けさせた、といってもいい程です。しかも、この人頭税に納めるのはデナリ銀貨に限るというものでした。なぜでしょうか、このデナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻印されてあって、その裏には「神的、アウグストウスの子、皇帝にして大祭司なるティべリウス」という文字が刻まれていたものでした。

だから、これは、この人頭税をもってローマ皇帝の政治の支配下に服従せよ、というしるしです。しかも「大祭司なるティべリウスこそ神である」という神の権威を宣言しているわけです。だから、神の律法を大事にした、忠実なユダヤ教徒の間で、納税に対しては強い反対があったのでした。逆にヘロデ派の人々はローマ皇帝の言う通りに従う、保守的な人々ですからヘロデ王家を支えていくのに納税に賛成です。

ですから簡単に申しますとイエス様が、この納税に対して、どちらの方に味方しても批難される立場におち入ってしまうのでした。イエス様は彼らの質問が悪意に満ちた企みである事を見抜いておられます。そこで言われました。「偽善者たちよ」と言って「税金に納めるお金を見せなさい。」と、彼らがデナリ銀貨を持ってくると「これは誰の肖像と銘か」と きかれた。彼らは「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。

彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。イエス様の言葉はカイザルの支配下に無条件に従え、と言われたわけではない。「神のものは、神に返せ」という、次の言葉こそ最も大事な意味を持ったものであります。「デナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻印されているように、人間は神にかたどり、神のかたちに創られているのだ」と言うこと。 そして、その全存在はすべて神のものである。だから神のものとなる自分をささげて生きなさい。ということです。このすべてのことが律法の根本精神である、ということです。

このイエス様の言葉が聞く人々のすべてに、いかに驚きをもたらしたか。三つの福音書とも、この出来事をしっかりと記しています。実にあざやかな結果となりました。「ものは神に返す」ということを今度は具体的な問題として、自分がどのように信仰の中で受けとめ、 どのように生きていくか、各々の人の判断に委ねられているのであります。イエス様を主と信じるキリスト信徒は霊的には神の支配に服して生きる、ことであります。同時に私たちはこの世にある者として、この世の政治の支配の権力の下にある法律のもとにあります。

パウロはキリストの福音を異邦人のため、宣教して行きました。そして、パウロは福音宣教の最終目標をローマに置いたのであります。当時の世界の中心地です。パウロは彼の生涯の終わりに、ロマ書を後世の遺言として書き残しました。その13章1節に次のように記しています。「人はみな、上に立つ権威に従いなさい」イエス様が言われた「カイざるのものはカイザルに返しなさい」「ローマ皇帝の権力の支配下に生きるのなら、その地上の権威に従いなさい」同時に神の霊の世界に信仰によって生かされているキリスト者は、神の御国の支配の権威のもとに従って生きなさい。という二国論がルターの時代にも論じられました。

ルカは使徒言行録の中に、キリストの福音はローマ帝国の治安を乱すものではなく、皇帝支配の下に於いても存立していく。そして神の支配は、すべての、この世の権力の支配を越えていく。という道を貫いています。ユダヤの律法主義社会に福音が受け入れられない。そして異邦人世界へと、キリストの福音が述べ伝えられていく中に福音は、果たして定着できるだろうか、という、この課題がキリスト信仰の死活に関わる問いでありました。

ローマ皇帝を神つる支配体制の下に、いかに、キリストの福音が存立していけるのか。唯一の神を信じる信仰が貫いて行けるのか、これは皇帝礼拝との対決にほかならない。イエス様につきつけられた納税問答が、この動きを決定していく分岐点となっていったのであります。こうした後々の時代にまで及ぶ歴史的展望からして見ると、いかに、イエス様の答えが重大な意味をもつものであったかがわかります。唯一の神、ヤハウェーを信じる信仰を純粋に守るため熱狂的に反ローマ闘争にのめり込んで行った、ファリサィ派の道をイエス様はお取りにならなかった。

「カイザルのものは、カイザルに返せ」。この世の帝国の支配にあって、なお「神のものは神に返して生きよ」ということが、まことの唯一の神信仰が貫かれていくための、余地を残していく、決定的役割を果たしていくものである、ということ。キリスト信徒のの群れはローマ皇帝の支配下にあっても、ただ単に体制に順応して、のめり込んだのではない、迫害の苦しみに耐え信仰は貫かれていった。やがて時代は皇帝がイエスキリストの父なる神の名のもとに戴冠式を行うようになった、というこの歴史の事実を見て、「神のものは神に返せ」というイエス様の一言の言葉が、やがて後に世界を支配する聖なる世界へと変えられていく原動力となったのであります。   アーメン

 

聖霊降臨後 第21主日(緑)  2014年11月2日

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