信徒礼拝

本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を堀越教子 姉が朗読しました。

7月20日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

 (はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

 本日の使徒書であるローマの信徒への手紙6章15〜23節の説明に入る前に、その前の箇所6章1〜14節を読みましょう。後ほど6章の内容をまとめて扱う際に必要になるからです。

 (聖書の箇所)

6:1では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 6:2断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 6:7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 6:9キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 6:10なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 6:11このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 6:12だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 6:13また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 6:14なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。(口語訳)

 それでは、本日の使徒書の箇所の説明に移ります。

 (15〜23節についての説明)

これは、真剣に罪と戦うようにと、ローマのキリスト教徒たちに対して、パウロが説得を試みている箇所です。キリスト信仰者は、律法の下にではなく、恵みの下にいます。ですから、私たちはもはや罪の中にどっぷり浸かって生活してはいけないのです。人間には、神様に仕える者であるか、それとも、罪の奴隷であるかの、どちらかの状態しかありません。信仰に入る以前には、ローマのキリスト教徒たちは罪に浸った生活を送りながら、それをちっとも悪いこととは思っていませんでした。また、神様のことも天の御国のことも気にかけずに日々を過ごしていました。その結果どうなったでしょうか。彼らは神様との関係がだめになり、永遠の滅びの道へと転落して行ったのです。ローマのキリスト信仰者たちは自分の恥ずべき過去の行状を思い出したくはないだろう、とパウロは書いています。私たちの人生の歩みの中にも、もしかしたら神様から遠く離れて罪深い生活に染まっていた時期があるかもしれません。キリスト信仰者はそのことを後から思い出したくはないものです。ここでパウロは、誰であれ私たちが、人生を逆戻りして以前と同じ罪深い状態に陥ることがあってはならない、と真剣に警告しています。キリスト信仰者は、「古い人」に活動の隙を与えて、自分自身の罪と戦うのをやめてしまうなら、再び罪の奴隷になり下がってしまいます。パウロは、キリスト信仰者が神様の子どもであり続け、神様の子どもとしてふさわしい生活を送ることを願っています。 罪のもたらす報酬は死でした。そして、それは今も同じです。それに対して、神様の恵みの賜物は、キリスト•イエスにおける永遠の命なのです。

 ここで、ローマの信徒への手紙6章全体のメッセージを見てみることにしましょう。

 考えてみると、「ローマの信徒への手紙」6章は、奇妙な文章です。そこでは、私たちが普通なら相反するものとみなしている二つの事柄が並行して語られているからです。

まず、神様が洗礼の恵みを通して私たちのすべての罪を赦してくださる、という神様の尽きない善き御心を、この章から読み取ることができます。この点に関しては、私たち自身の行いや善さがどれほどのものであるか、といったことは問われていません。神様御自身が働いてくださるのであり、私たちはその働きかけを受ける立場にあるからです。まさにこのようにして、神様は私たちひとりひとりにキリストのあがないの御業をプレゼントしてくださいます。すべては神様からの賜物なのです。

ところがその一方で、パウロはこの箇所で、キリスト信仰者の正しい生き方を皆に勧めています。昔のキリスト信仰者はこの聖書の箇所を念頭において、「あなたの心の中にあるのは平和ですか、それとも争いですか」、と尋ね合ったものです。誰かが、「私の心には平和があります」、と答えた場合には、それは間違った答えでした。なぜなら、キリスト信仰者の心の中は常に「戦争状態にあるからです。どういうことかというと、「新しい人」が「古い人」に対して戦っていますし、義が罪に対して戦っているからです。そして、キリストが悪魔に対して戦っておられます。この戦いは私たちを苦境に立たせます。何度も敗北を喫することになるかもしれません。それでも、私たちは、 この戦いにおいて神様御自身がしっかり私たちの面倒を見てくださっている、と信じてよいのです。なぜなら、すでに神様は私たちのために、「最後の決戦において勝利を収めておられるからです。この「最後の決戦とは、十字架の死と死者からの復活とによって、イエス様が罪と死と悪魔に完全に勝利なさったことを意味しています。このイエス様の御業のおかげにより、私たちを待ち受けているのは、もはや罪の報酬としての死ではなく、神様の恵みの賜物、すなわち、永遠の命になっているのです。そして、この永遠の命の世界において、「古い人」と「新しい人」との間の戦争は「新しい人」の勝利をもって終結し、永遠の平和が始まるのです。

 以上が本日の使徒書の説明です。次に福音書の説明に移ります。

 (マタイによる福音書10章34〜42節の説明)

 この世は、イエス様を信じる者たちに対して敵意を抱いています。しかし、まさしくそのようなこの世の中で、イエス様を信じていることを公に告白することが大切になります。私たちには次に述べる二つの選択肢しかありません。第一の選択肢は、どのような犠牲を払うことになろうとも、イエス様の側に属するあり方です。第二の選択肢は、この世でも、また、最後の審判の時にも、イエス様の側には属そうとしないあり方です。しかし実は、最後の審判の時に、罪が赦されて天の御国に行けるか行けないかを決定する唯一の基準は、イエス様が私たちを御自分の側に属するものとして認めてくださるかどうか、ということなのです。イエス様は平和をもたらすためにこの世に来られました。しかし、そのおかげでイエス様を信じる人々は万事において仲良くなり、意見も一致する、などと考えるべきではありません。それとは反対に、意見の相違と仲違いが否応なく生じてしまいます。「剣」という言葉で、イエス様はこの仲違いの状態を表現なさいました。福音が宣べ伝えられる時、家族の中でも仲違いや意見の相違が生じるようになるかもしれません。しかし、そのような場合には、誰か特定の人間に対する愛情がイエス様に対する愛に勝るようなことがあってはなりません。人生をこの世的な意味でできるだけ豊かなものにすることとか、あるいは、周りにいる友人や知人との関係を良好に保つこととかを、人生の目標に掲げる人もいるかもしれません。しかし、こうした目標を達成するために、イエス様を信じることについて何らかの妥協を強いられる場合には、人は真の命を失ってしまうことになります。つまり、「人生で成功する」はずのための方法が、実際は、「人生で完全に失敗する」方法になってしまう場合もある、ということです。

 本日の福音書であるマタイによる福音書10章の冒頭にこうあります。

 10:1そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。10:2十二使徒の名は、次のとおりである(以下略)。

 このようにして、十二使徒の名前が挙げられていきます。

つまり、この十二弟子は「使徒」と呼ばれる存在です。使徒とは、主の御旨を伝える正式な代行者として派遣された者のことです。使徒を受け入れることは、イエス様御自身を受け入れることでもあります。ということは、御子を遣わした父なる神様を受け入れることでもあります。このようにして、神様はこの世に来られますし、私たちの近くに来てくださるのです。この意味で、神様の福音を御言葉通りに宣べ伝える使徒たちを受け入れることは、救いと永遠の命を受け入れることでもあるわけです。このことは使徒だけではなく、「義人」にもあてはまります。「義人」とは、神様の御国に入ることを許された人であり、キリストが 十字架の死と死者からの復活を通して確保してくださった義のおかげで、私たち罪深い者はイエス様への信仰を通して神様に受け入れていただける、という真理から日々生きる力を得ている人であり、この神の義を他の人にも伝えたいと望んでいる人のことです。そして、このような義人たちが主の救いの御業について証することを信じて受け入れる人は、神様に義なる存在として認めていただけることになります。これらの義人は、人間的には、取るに足らないように見える者、つまり「小さい者」(42節)かもしれません。それでも、彼ら「小さい者」は主の御旨を御言葉の通りに伝えて止まないことでしょう。そして、暑い夏には、彼らがイエス様の弟子であるという理由から、一杯の冷たい水を彼らに提供する信仰の兄弟姉妹がちゃんと旅先で備えられることでしょう。彼ら御言葉を伝える者たちに行ったことは、実はイエス様に行ったことでもあるのです。なぜなら、イエス様は御言葉を伝える者の後ろに控えていらっしゃるからです。このことについて、イエス様は、人の子が「最後の審判」の時に裁きの座にお就きになる様子を伝えるたとえを通して、教えてくださっています。イエス様の御言葉を正しく伝える人々がどれほど「小さな者」であろうとも、私が彼らを助けるために行うことは、イエス様御自身に対して私がそれを行っていることとして認めていただけるのです。このことを教えているのは、次の聖書の箇所です 。

 (マタイによる福音書25章31〜40節)

25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 25:37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 25:38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 25:39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 25:40すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(口語訳)

 ローマの信徒への手紙6章は、洗礼の意味を教えてくれる大切な箇所です。

この章についての聖書のメッセージをもって、本日の聖書の学びを結びたいと思います。

 「洗礼とは、契約の内容を守ることです」

 洗礼は、神様から贈られた証書です。神様が私たちに与えてくださったこの証書よりも素晴らしい遺言状を残すことができる者は、他には誰もいません。聖なる洗礼を通してのみ、私たちは、救い主との個人的な親しい関係の中に入れていただけるのです。洗礼の意味を誤解する人が出てくるのは、無理もありません。洗礼を受けている人たちが皆、信仰を持って生きている訳ではないからです。

 それは確かにそうなのです。しかし、キリストに喜んでいただけるような生き方をするために、この神様からの賜物に感謝して、日々自己中心的な生き方を正していく人は誰であれ、キリスト信仰者なのです。神様からいただいたこの尊い「相続財産」を守る人は、誰であれ、神様の子どもなのです。そして、キリスト御自身がその人の「神様の子ども」という立場を擁護しておられます。

 堅信式は、洗礼を通していただいた神様からの贈り物をこれからもしっかり守って行くことを公に表明する場です。キリスト信仰者として生きて行くことに関わるあらゆる事柄も、この神様からの賜物をしっかり守って行くことにつながっています。それは、「主よ、どうか今日も私を用いてください」、という日々の態度表明でもあります。主は、洗礼を受けている人たちを、御自分と共に積極的に活動していくように、招いておられます。「誰であれ私の後について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私に従いなさい」(「ルカによる福音書」9章23節)。

 洗礼式は、キリスト信仰者の人生において、たんなる過去の出来事ではありません。洗礼式では、洗礼を受ける者の上に十字架を切る習慣があります。これは、その人が全人生を通じて自分の十字架を積極的に担って行くことを意味しているとも言えます。洗礼の恵みの中で生きることは、 目減りしない莫大な相続財産を日々紙幣やコインに両替して行く過程になぞらえることができるかもしれません。

 洗礼がそれを受ける人のその後の人生全体を覆い尽くすほど大事な出来事であることを正しく理解できるように、私たちは霊的に成長して行かなければなりません。遺憾ながら、現代の教会では、洗礼式や堅信式をたんなる行事ととらえ、人のその後の人生に与える影響については至って無関心である場合が多いようです。しかしながら、初期の教会のキリスト信仰者たちは、個々の信仰者だけではなく、教会全体が、「水の上に建てられている」という事実を信仰の基点としていました(引用は使徒教父からのものです)。

 洗礼を通して私たちは、死者からの復活の恵みを自分の相続財産として受け継ぐ権利をいただいています。ですから、この世の高価な品々は、実はそれほど大切なものではなくなります。これほど素晴らしい相続財産をいただいておきながら、今までとは違う生き方をする勇気をもてないようなら、ずいぶん奇妙なことと言わざるを得ません。

 (レイノ•ハッシネン)

 

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