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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イエス様が復活した日の夜のこと、弟子たちはある家に集まっていました。ペトロとヨハネは、その日の朝早くマグダラのマリアからイエス様の葬られた墓が空であったという知らせを聞きました。そして、すぐ自分たちも確認に行ったところ、確かに墓は空でした。この出来事が先週の福音書の箇所の内容でした。今、家の中でペトロとヨハネは、空の墓のことを他の弟子たちに話したところでした。さらに、墓に残ったマリアが復活したイエス様に会ったということも知らされました。さあ、どうしたものか。主は本当に復活したのだろうか?みんなで出かけて行って会うことができるだろうか?しかし、外はイエス様を十字架刑に処することに賛同した者たちで溢れかえっている。うかつに出て行ったら、自分たちにも危害が及んでしまう。それで成す術もなく家の中で過ごすうちに夜になってしまったのでした。ヨハネ福音書には記述がありませんが、ルカ福音書によれば、この時点でエマオの村から息を切らして二人の弟子が駆け込んできて言いました。自分たちは復活した主に出会った、と。弟子たちの驚きが頂点に達しているちょうどその時、なんとイエス様本人がそこに立っていたのです。迫害を恐れて扉という扉にはしっかり鍵が掛けてあったにもかかわらず(ギリシャ語原文で扉は複数形になっています)。
ルカ24章によると、弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。本日の福音書の箇所にもあるように、イエス様は、弟子たちに自分の手とわき腹の傷跡を見せて本人確認をさせます。先週の説教でもお話ししましたように、復活されたイエス様は人間がこの世で有している体とは全く異なる復活の体を有していました。それは、亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それはあたかも天使のような体でした。こうして、復活したイエス様は、この世の我々の肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ存在となったのであります。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な天の御国です。罪の汚れに満ちたこの世ではありません。本来は、復活した時点で天のみ神のもとに引き上げられるべきだったのですが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間、この地上にいることとなったのであります。
2.弟子たちの前に現れたイエス様は、「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言います。要するに、弟子たちに「平和」を祈願したのであります。「平和を祈願する」などと言うと、日本の政治家が神社にお参りした後の記者会見で言う言葉みたいですが、本説教では、イエス様が「あるように」と願われた「平和」について、見ていきたいと思います。
ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉ですが、イエス様はほぼ間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉として、これも間違いなく、ヘブライ語のシャーロームשלןמという言葉が考えられます。このシャーロームשלןמという言葉はとても幅広い意味を持ちます。国と国が戦争をしないで仲よくするという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、損なわれていない状態とか、健康な状態とかいうように、国のような集団に関わるのみならず、人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。ずばり、神が人間にもたらす救いを意味することもあります(1列王記2章33節、イザヤ54章10節「平和の契約」と訳すことも可)。
ところで、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。十字架に掛けられる前日、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス様特製の平和である。しかも、それを、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?まず、「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、その場合の平和シャロームとは何かを考えてみます。先ほどシャロームは幅広い意味があると申しました。国と国の平和のみならず、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生が含まれます。こうしたもの全てが「この世が与えるような仕方で」与えられると言う時、「この世」がこれらのものを与える主体です。つまり、これらの望ましいものは、「この世」から得られるものとなり、別の言い方をすれば、人間が自分の力で獲得するものです。
他方でイエス様は、「わたしの/イエス様の平和」を与えるが、それを「この世が与えるように」は与えないと言われます。つまり、イエス様が与える彼特製の平和シャロームがある。しかも、それを「この世があたえるように」は与えない。つまり、イエス様の平和シャロームは、人間の力によって獲得されるものではない。あくまでも、イエス様が与えるものです。そうなると、イエス様が与える平和シャロームとは、国と国との平和とか、人間個人の望ましい理想的な状態とは異なるものなのでしょうか?結論から申し上げますと、イエス様が与える平和シャロームとは、こうした理想的な状態の土台にあるようなもっと根源的な「平和」を指しています。そのような平和があってはじめて、シャロームが普通意味している理想的な状態が成り立つと言えるような根源的な平和です。さらに踏み込んで言えば、そのような平和がなければ、どんなに理想的な状態を獲得していてもたいして意味がないとさえ言えるような、そんな根源的な平和です。一体それはどんな平和なのでしょうか?
イエス様が与える平和を理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。そうすると、イエス様のおかげで神との間に平和が得られているということは、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない、言わば敵対関係だったのか、という疑問が起きます。、実はそうだったのであります。そのことは、「コロサイの信徒への手紙」1章21~22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対していた私たち人間が、イエス様の死によって神と和解することができ、神の前に神聖なる者として立つことができるようになった、と言うのであります。神との敵対、そしてイエス様の死による和解と平和、これらは一体どういうことでしょうか?
これらがわかるためには、まず、私たち人間には造り主がいて、その造り主が私たちに命と人生を与えられたということに立ち返って考える必要があります。そして、このことを出発点とした時、今度は、その造り主と私たち人間との関係は、また私個人との関係はどうなのか、ということを考えなければなりません。
創世記によれば、人間はもともとは天地創造の神に似せて造られたくらい、神に近い存在でした。それが最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、神との結びつきが失われてしまいました。その経緯は創世記の3章に記されています。不従順と罪が原因で神との結びつきが失われたのに伴って、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。
罪が内部に入り込んでしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。神は御自分の神聖な意思に反するものを、汚れたものとして忌み嫌われ、激しく憎むからです。こうして罪のゆえに神と人間の間に敵対関係が生じてしまいました。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と人間を見捨てることはしませんでした。神としては、人間を支配している罪の力を無力にして、人間をその呪縛から解放し、人間が再び神との結びつきの中で生きられるようにしようと決めたのです。しかし、どうすれば、そのようなことが出来るのか?そのためには、人間から罪を取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を全部受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すこととしました。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命、復活の命に至る扉を開きました。こうしたことの後で人間の側ですることと言えば、あとは、これらのことが本当に自分のために行われたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、この神が整えた罪の赦しの救いを全部受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神と和解し、神との結びつきが回復した者となります。そして、神と平和な関係を持って、この世の人生を歩むことになります。この和解と平和は、まさにイエス様の身代わりの犠牲の死によってもたらされたのであります。
神との結びつきが回復した者はまた、永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、今後は神と平和な関係を持ってその道を歩んでいく者となります。歩んでいく過程では、成功、繁栄、健康などこの世的な平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあるでしょう。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を自分の救い主と信じる信仰に生きる人は、神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係はしっかり保たれているのであります。人間的な目から見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか神と平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者というものは、罪の告白を行って罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与っていれば、神の目から見れば、神との結びつきも平和な関係もしっかり保たれているのです。たとえ人間的な目にはどう見えようとも。そして万が一、この世から死ぬことになっても、その時は、主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げてくれる。そうして永遠に自分の造り主である神のもとにいることができる。キリスト信仰者はまさにこの世から次の世に移行する時、父なるみ神の御許に引き上げられる瞬間に、ああ、本当に順境の時も逆境の時もかわらず神はいつも見守っていて下さっていたんだ、私は本当は沢山の良い導きと助けを頂いていたんだ、全然気がつかなかった、恥ずかしい、主よ、これまでのご高配に心から感謝します、と思うのであります。
3.本日の福音書の箇所でイエス様は、弟子たちに大事な任務を与えます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ここで次のような疑問が生じます。キリスト教では、十字架の出来事で全ての罪が赦されたと言っているではないか。それなのになぜ、まだ赦されるとか赦されないとか言い続けるのか?また、人がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神との結びつきが回復して神と平和な関係を持つことになると言うんだったら、その人はもう罪が取り除かれてなくなっているはずではないか?それでもなお、赦されるだの赦されないだのと言っているのはどういうことか?以下、こうした疑問について答えを見いだしていきましょう。
天の父なるみ神はイエス様を用いて罪の赦しの救いを確立したわけでありますが、人間の方がこの確立した救いを受け取らないと、この罪の赦しはその人に効力を持たないのであります。救いは確立された。しかし、それを受け取らないと、その外側にとどまることになってしまうのです。せっかく神が全ての人間に対して、どうぞ受け取って下さい、と言って差し出して下さっているのにもかかわらず。そこで、もし救いを受け取れば、神がイエス様の十字架上の身代わりの死に免じて赦すと言っていることが、その人にとってその通りになるのです。
次に、イエス様を自分の救い主と信じる信仰に生きる者は罪が除去された者ではないか、だから赦されるだの赦されないだのは関係ないのではないか、という疑問です。確かにキリスト教では、十字架の出来事で全ての罪は赦されたと言いますが、全ての罪が赦されたというのは、これで信仰者がもう罪を犯さなくなるということを意味しません。
人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になっても、まだ肉の体を纏っているので罪を内在させています。いつでも、神の意思に反する考えを抱き、言葉を発し、行いを行ってしまう可能性を持っています。その点は、信仰者でない人と何の変わりはありません。ただ、何が違うかというと、キリスト信仰者の場合、イエス様を自分の救い主と信じている信仰のゆえに、罪の赦しの救いを自分のものとして所有していて、神もそのような人としてその人を見てくれている。それでその人がたとえ思いとか言葉とか行いとかによって罪を犯しても、それを認めて、自分は間違っていました罪を犯しましたと正直に認めて、イエス様を自分の救い主と信じていますから、彼の身代わりの死に免じて赦して下さい、と言えば、神は罪に対する怒りや憎しみをその人にぶつけることはせず、すぐ赦して下さるのです。
このように信仰者は、罪を犯さなくなった者ではなく、罪を犯しても、イエス様を自分の救い主と信じる信仰のゆえに神の怒りや罰が下されることから免れている者であります。イエス様を救い主と信じる信仰は、まさに神との平和を保証するものです。それなので、人が信仰に留まる限りは、罪が本来持っている力、人間を永遠の滅びと死に定める力はその人に対して無力化しているのであります。私たちの礼拝の最初に唱えられる罪の告白と赦しの祈り、それに続く赦しの宣言というものは、罪の無力化を確認するものです。そういうわけで、罪の告白を行い赦しの宣言を受けるということは、洗礼の時点に戻ることを意味します。罪の告白と赦しの宣言は、礼拝の時にみんなで一緒にする場合もあれば、個人的に牧師先生や信頼できる信仰の兄弟姉妹を相手にすることもあります。いずれにしても、キリスト信仰者にとって洗礼はいつでも立ち返ってまたそこから出発する原点であります。
ここで、洗礼と並ぶもうひとつの聖礼典である聖餐式について一言。聖餐は、私たちがかつて洗礼の時に受け取った、神の確立した罪の赦しの救いを私たちの体の中で強めていく栄養です。また罪がもたらす苦しみを癒す薬です。私たちの目には単なるパンのひとかけら、ぶどう酒にすぎないものが、イエス様を自分の救い主と信じて摂取すると、神はこの人との結びつきは強められたと認めるのです。
最後に、弟子たちに与えられた任務について一言。イエス様の直近の弟子たちは、福音を宣べ伝えなさい、と彼によって世界に送り出された者たちです。この弟子たちは「送り出す」という意味が添えられて、「使徒」と呼ばれます。彼らに罪の赦しの権限が主から委任されました。使徒の後は、使徒の教えをしっかり守る者がこの委任された権限を受け継いでいきました。そしてこれは今日、教会の聖職者へと受け継がれていきました。
イエス様が使徒たちに命じたことで、一つ気になる言葉があります。「あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」が それです。使徒や使徒の伝統の上にたつ者が赦さない罪とはどんなものだろうか?一つには、罪を犯したにもかかわらず、自分は犯していないと言い張る人の場合が考えられます。自分は罪を犯していないと言う以上、罪の告白をすることもなく、告白がなければ赦しの宣言も起こりえず、要するに赦しを与えようにも与えられない状態にある者です。赦されない罪のもう一つのタイプは、何か罪を犯した時に、神はその行為はやってはいけないとはっきり禁止していないので、自分は神の意思に反したことにならない、ということが考えられます。これも罪の告白が生まれないケースになり、赦しの宣言を与えようにも与えられない状態です。さらにもう一つのタイプとして、罪を罪と認めても、今度はイエス様の十字架での贖いの業を忘れて、自分の力で神との和解を勝ち取ろうとすることがあります。このような人は、なぜ神はイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという方法を取ったのかということを理解していません。人間が自分の力で罪を除去できないからでした。
これらとは反対に、イエス様を救い主と信じる信仰をもって、罪の告白をし、罪の赦しの宣言を受ければ、罪は必ず赦されます。赦されないということはありません。大丈夫です。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、罪の告白と赦しの宣言で始まる私たちの礼拝はとても大切だということを心に覚えておきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
復活後第一主日の聖書日課 使徒言行録2章22~32節、第一ペトロ1章3~9節、ヨハネ20章19~23節