説教「ラザロ、起きてきなさい」木村 長政 名誉牧師、ヨハネによる福音書11章17節~53節

 

今日の御言葉は、「ラザロの復活」の出来事であります。

ラザロは、マルタとマリヤという2人の姉と共にベタニヤ村に住んでいました。イエス様は、この家族と大変親しく、又、愛しておられました。

11章のはじめの方を見ますと、このラザロが病気になって危ない、「イエス様、早く来て助けて下さい」という知らせを、イエス様のもとによせているんです。
そして、ついにこのラザロは死んでしまいました。

今日の聖書の17節になりますと、「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて、既に四日もたっていた」というのであります。
ユダヤでは、人が死にますと、なるべく早く屍を墓に葬る、という習慣です。
墓に葬りまして後、喪にふすという期間が続きます。
この期間の、ユダヤ人の嘆きと悲しみは大変なものです。ラザロの葬りの時も、
大勢の人々が悲しみ、イエス様御自身も、涙を流される程の激しい悲しみを表しておられる。

ユダヤ教の文献によりますと、三日の間、死者の魂は屍の上を漂っていて、元の古巣に戻ろうとしている。
ところが三日たつと、だんだんと屍が腐っていって、様子が変わってくると魂は諦めて、四日目からは魂は去っていく、というのです。
ですからユダヤでは、屍の確認をするのは、死後三日以内でないとダメだ、という決まりであった。

イエス様がマルタとマリヤの所へ来られた時、四日間たっていました。ラザロの霊魂も、あきらめて神様の所へ行ってしまった後です。もう、魂が体に戻りたくとも戻れない、ということです。甦えりは不可能になってしまった。
そういう時にイエス様は来られたのであります。
イエス様がやっと来られた、というのでマルタとマリヤは出迎えに行きます。そしてイエス様との会話があります。
マルタもマリヤも同じように信仰をもってイエス様に言います。21~22節を見ますと、「主よ、もしあなたがここにいて下さったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています。」と言っています。
つまり、イエス様ならどんなことでも叶えられる、ということ。あらゆる事が可能であると、彼女たちは信じています。

次に注目するのは、イエス様が全能だから、イエス様はどんな事でもできるというのではなく、あなたがお願いになれば「神はかなえて下さる」というように、私たち人間の願いを、イエス様は取り次いで下さる方、仲立ちくらいの位置付けにしています。
ですからマルタによると、今ここで、イエス様はまだ何となく、全能の神とまでは行かない、やっぱり人間と同じような、ちょっと取次ぎ方の上手な方くらいのレベルに見積もられているわけであります。

するとイエス様は、はっきりとお答えになります。
「あなたの兄弟は、よみがえるであろう」。それに対して、マルタの信仰があらわされます。24節で「終わりの日のよみがえりの時、よみがえることは存じています。」とマルタは言います。
死人が神様によって甦えらされる、ということは、、旧約聖書の中ではダニエル書12章に、はっきりと教えられている信仰であります。
死人のうち、賢い者、つまり神を畏れる、信仰的な知識をもっている信者であれば、甦ると信じられてきました。主にパリサイ派の人々によって信じられてきました。
この甦えりは、「終わりの日」歴史が終わる時に義人である信仰者が甦らされる。
神を信じない者、神を畏れない悪人どもは、甦るどころか地獄の火に滅ぼされるというふうに、考えられていたのでした。

マルタとマリヤの信仰のクライマックスは、27節で告白しています。
マルタは言った。「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の子であると、信じております」。
ここでナザレのイエス様を「この世に来たるべき方」、「キリスト」、しかも「神の子」と言い表しています。キリスト教が期待している最高の信仰であります。
ここに少なくとも、言葉の上では、論理の上では最高レベルの信仰を彼女たちは告白しています。けれども、実質的な面からもう一度注意深くみますと、イエス様が「あなたの兄弟は、よみがえるであろう」とおっしゃると、それに答えて、「終わりの日」ならば、それはわかります、と答えています。

今、「終わりの日」の事など、関係ないことでしょう。
ともかく、今のわたしの嘆き、私たちの悲しみには、ちっとも助けにはならない、慰めにならない、と言っているのです。

マルタはすばらしい言葉で、「主よ、信じます」と言いながら、そして「どんな事でもかなえられる」とは言いながら、実際にイエス様が墓にまで行って「墓石をとりのぞけ!」と、39節で叫ばれますと、マルタは思わず申します。
「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」と、言います。
言葉の上では、どんな事も可能でしょう。しかし、現実に墓石をあけて、腐りかけた死体を、何とかすることができるかどうかになると、彼女はやっぱり、それはもう無理じゃないか、という反応をあらわしています
つまり、彼女は頭の中で、イエス様を信じています。しかし、現実には信じられない。イエス様が言われる言葉を、すべて信じ切ってなどいないのです。

この問題が私たちの口、私たちの頭、私たちの常識で最高のりっぱな信仰を言いあらわしても、実際の生活、実際の考え方には、くいちがい、すれちがいがあって、やっぱりどこかで誤魔化してしまおうとします。
ヨハネ福音書の1番の問題意識であります。このことのためにヨハネは、福音書を書いたというのであります。
ヨハネ自身が福音書の最後の、20章30節以下で念を押して書いています。
「イエスは、この書に書かれていない、しるしを、ほかにも多く弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなた方が、イエスは神の子キリストである、と信じるためであり、又、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。

イエス様はマルタに対して、このように口で言う言葉と、現実に心に思っている程度、との間にへだたりがある。
イエス様は今、そこに、非常に大きなチャレンジをなさいます。
大変大切な宣言を、なさっているのです。
「わたしは、よみがえりであり命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。又、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
今日、私たち一人ひとりに、イエス様はあなたに宣言なさっています。
あなたはこれを信じるか、と、主の前に問われているのです。
よみがえり、と、命とは、ここにある。それはイエス様がいますことによって現実となる、ということです。

40節のみことばです。マルタが主に言います。「主よ、もう臭くなっています」。
彼女にとっては、これが現実でした。そうしたマルタに向かって、イエスはおっしゃいます。「もし信じるなら、神の栄光を見るでろうと、あなたに言ったではないか」。
立派なことを言い表すことではない。本当に、イエス様こそ甦えりそのもの、と信じて、本当にその人のものになっているかどうか、ここで問われているわけです。

イエス様は、もうすでに5章24節のところで、はっきりと言っておられます。
「よくよく、あなたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、又、さばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなた方に言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今、すでに来ている。そして、聞く人は生きるであろう」。ここで言われている「イエスを信じる者はよみがえる」という、よみがえりは、主イエスの言葉を聞いて信じる者は、その時、その瞬間にです。すでに死から命に移っている、現在の話です。
この命は、肉体の死が滅んでも死なない、ずーっと続いている神の国の永遠の時の中でも続いて、生かされている命であります。永遠の命を受け、裁かれないのです。すでに今、私たち信じる者はみなそうであります。

ヨハネは、すでにイエス様が言われた、よみがえりを解説しています。
5章28節以下です。「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちが、みな神の子の声を聞き、善を行った人々は生命を受けるためによみがえり,悪を行った人々は裁きを受けるために、よみがえってそれぞれ出て来るであろう」。

ここで約束されているのは、墓から出て来る時が、やがて来るであろう、という未来の復活のことです。

このように、イエス様は二つのよみがえりを語っておられる。一つは、信じる者は、現在、死から命に移っているということ。もう一つは、マルタが言いましたように「終わりの日のよみがえり」、遠い未来の復活です。

41節から見ますと、イエス様は墓にまで行かれ、石をとりのけるように叫ばれると、人々は石をとりのけた。すると、イエスは天を仰いで言われた。
「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いて下さることをわたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。こう言って、「ラザロ!、出て来なさい!」と、大声で叫ばれた。ありったけの大声で叫ばれたのです。
すると死んでいた人、ラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
ここをよく見ますと、イエス様は天の父に、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します、と言っておられる。

天の父は、この世のすべてを創造したもう神です。
私たちすべての人間の体も命も造りたもうた主であります。
ヨハネは一貫して、この命を記していきます。ヨハネの福音書の冒頭に、「はじめに言があった...そしてこの言に命があった」と、まず記しています。

初めにあるのは命であり、本来なら、やがてこの命に帰るのであります。
しかし、人間が、この造り主である神に背き、罪を犯した。罪の果ては死であります。
死は、本来あるべきこの命から外れてねじくれてしまった、アブノーマルな状態になってしまった。
よみがえりと命、そのものであられるイエス・キリストによって、その死の状態から終わりに現われる栄光へ、神の命に生きるようにして下さったのであります。「あなたはこれを信じるか」と、イエス様は私たちに言っておられるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心をと思いを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

四旬節第五主日 

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