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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.本日の福音書の箇所は、イエス様が全盲の人の目を見えるようにした奇跡の後の出来事について述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問します。なぜ、尋問に至ったかと言うと、この癒しの出来事が起きた日が安息日だったために、これを行ったナザレ出身のイエスは安息日の掟を破る、つまり神の意思に反する人物かどうかが問題になったのです。
安息日とは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。
なぜ、イエス様が安息日に全盲の人の視力を回復したことが問題になったかと言うと、彼が唾と土で何か粘土状のものを作ったことと、それを使って目を治してあげたことの二つが、してはならないと言われている仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の少し前の所で、群衆が元全盲の人に尋ねました。どのようにして目が見えるようになったのか?男の人は答えました。イエスと呼ばれる者が粘土状のものを作って私の目に塗りました。そして、シロアムの池に行って洗いなさいと命じました。言う通りにそこに行って洗ったら見えるようになりました(11節)。この粘土状のものを作って目に塗るという行為と目を治すという行為が安息日に起きたために、群衆はこの出来事が宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うナザレ出身のイエスは、本当は神由来の者ではないだろうか、それとも十戒を破る以上は神に反する者ではないか、一体どちらか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?
ファリサイ派の間でも見解は割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、と主張します。別の者は、神由来でない罪を持つ人間ならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるであろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読み、その中のいくつかの預言をもとにすると、将来神の霊を注がれた神の僕が到来して、その時に盲目の人の目が見えるようになると理解することができます(42章7節、35章5節、61章1節、これらに加えてマタイ11章4~6節、ルカ7章22~23章も参照)。1 イエス罪びと説に与することが出来ない人たちは、きっと、イザヤの預言が頭をよぎったのでしょう。しかし、見解の一致は得られませんでした。そこで、ファリサイ派の人たちは、元全盲の人の見解を求めました。お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?男の人は答えました。預言者だと思います。メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られた人と考えられていたので、答えはいずれにしても、イエスは神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、という告白をしたことになります。
この出来事で一つ考えなければならないことは、イエス様はなぜ癒しの奇跡を安息日に行ったのかということです。別に日に行えば、まさにイザヤ書の預言の実現だ、と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の目は病気が治ったという奇跡には向けられなくて、安息日を破ったということに向けられてしまった。一体、イエス様はどういうつもりなのか?実は、安息日を選んで癒しの奇跡を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるとうことです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。原語のヘブライ語をそのまま訳すと「あなたは安息日を覚えておきなさい、忘れないようにしなさい、それはその日を神聖なものとするためである」というものです。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福し神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、ファリサイ派をはじめとする当時のユダヤ教社会の考え方だと、仕事をしないということが安息日を神聖なものにする中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするかということに目が行っていると言えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。それは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神の意思を知ることにもなります。
2.まず、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。
マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだということが仕事をしたと見なされて、弟子たちのリーダーであるイエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(28節)。もう少し、ギリシャ語に近い訳をすると、「安息日は、人間のために出来たものである。人間が安息日のために出来たのではない。だから、人の子は安息日についても主なのである」。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。
マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちが訴えを起こせる瞬間を待っているのを見てわかったイエス様は、次のように聞きます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができない中を、イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということであります。
ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは思わず吹き出しそうになりますが、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいというイエス様の様子がうかがえます。
ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだ、と。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15~17節)。ギリシャ語の原文に近い訳だとこうなります。「この女は(アブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ)、安息日にこの束縛から解放されるべきではないか?」つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのであります。
まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。それでは、安息日にしてはいけない仕事とは何かと言うと、そういう人を束縛や危険からの解放とは無縁な活動、通常の自分の生活のためのお金稼ぎの活動ということになります。そういう活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。
そういうわけで、人は安息日に心と体と魂を自分の造り主に向ける時、造り主である神とは命を束縛するものから解放して下さる方だと覚えなければならない。そして、もし周囲に病気や命の危険に晒されている人がいれば、安息日でも助けてあげることは解放の神の意思に適うことになるというのであります。イエス様がこの地上で活動していた当時、人間の命を縛りつけるものからの解放ということと安息日が結びつくということは、あまり人々の頭にピンと来るものではなかったでしょう。なぜなら、神が与える解放と聞けば、ユダヤ民族なら真っ先に頭に思い浮かぶのは、奴隷の国エジプトからの脱出とか捕囚の国バビロンからの帰還というような民族の歴史的な出来事だからです。ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活をきっかけに、天地創造の神が人間に与える解放とは、そういう一民族の歴史的体験を超えた、全人類にかかわる解放であることが明らかになりました。実は、このこと自体、既に旧約聖書の中に預言されていたのです。しかし、預言は預言でまだ実現していなかったので歴史的な体験になっていません。そのため、解放と聞けば、歴史的に体験された他民族支配からの解放という理解が中心になってしまったのです。しかし、イエス様の十字架と復活が起きたことによって預言が実現し、全人類にかかわる解放というものが歴史的に体験されるに至りました。以下、イエス様の十字架と復活がもたらした全人類にかかわる解放ということを見ていきましょう。
3.イエス様は地上で活動している間、奇跡の業をもって人間を束縛している数多くのもの、病気、悪霊、飢えなどから人間を解放しました。そして、十字架の死と死からの復活をもって今度は、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放しました。どうしてこのような解放が行われなければならなかったのでしょうか?
人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られたものですが、それが堕罪の出来事のゆえに存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。
以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪を「遺伝的に継承する罪」と「行為に現れる罪」の二つを考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、というのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。これが真理です。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になるのです。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると誰も、この子が罪びとだとは考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。
罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死すべき存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を神は復活させることで、今度は人間に永遠の命、復活の命に至る扉を開きました。あと人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのであります。
以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様はご自分の死と復活をもって、人間に死をもたらしていた罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対する完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、イエス様のもたらした勝利に与っているので、何をも恐れる必要はないのであります。天と地と人間を造られた神は、いったんは人間に背を向けられてしまったのですが、今はこの救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。
4.キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することに他なりません。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場であります。礼拝は、教会が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉の説き明しである説教を聞くことで、既に受け取った救いと解放を絶えず心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さったからこそ神を何よりも信頼して祈りを捧げます。そして、聖餐式で神との結びつきを維持・強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目には維持・強化されたものになるのです。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところであります。そして、一週間後また帰って来るところであります。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。以上からも明らかなように、礼拝ではイエス様が中心になっています。これを忘れてはなりません。なぜなら、私たちの救いと解放は彼を通して与えられたからです。それゆえ、イエス様が安息日の主であるというのは誠に真理なのであります。
以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神の整えた罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導く場だからです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝を大切にしていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
1 「イザヤ書を通して読み」ということについて。ここでは、いわゆる第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤの視点はありません。なぜなら、この区分は近代釈義学の中から生まれたもので、イエス様の時代を含む第二神殿期のユダヤ人がこの区分を念頭においてイザヤ書を読んだことはありえないからです。A.ラートの研究が明らかにしているように、当時のユダヤ人たちはイザヤ書を一つのまとまった書物として読んでいました。もちろん、三つの区分は、紀元前8世紀および同6世紀後半から2世紀までのパレスチナの歴史状況を解明するのには有益な区分です。しかし、イエス様の時代のユダヤ教社会の思想的神学的状況の解明には無益どころか有害でさえあります。それの解明には、「第二神殿期という特異な歴史的状況の中で、この本をひとつのまとまった書物として読むと、世界や歴史はどのように見えてくるだろうか」という視点がなければなりません。
四旬節第四主日の聖書日課 イザヤ42章14~21節、エフェソ5章8~14節、ヨハネによる福音書9章13~25節