説教「創造主の視点」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章21-37節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所は、マタイ福音書の5章から7章にかけてある「山上の説教」の一部です。ここでイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法についての正しい理解を群衆に教えます。律法を正しく理解するとは、とりもなおさず、律法を人間に与えた方の意思を正しく理解すること、つまり、天と地と人間を造られ私たちに命と人生を与えられた父なるみ神の意思を正しく理解することです。イエス様は律法や神の意思が正しく理解されていないことを知っていました。それで、山上の説教でイエス様は何度も繰り返してこう言います。「あなたがたも聞いているとおり.....と命じられている。しかし、わたしは言っておく。.....

今まで律法についてこう言われてきたが、本当は次のように理解されねばならない、と教えるのであります。このようにして、山上の説教で、創造主である神の意思が明確にされるのであります。それができたのは、イエス様が父なるみ神のひとり子で、神の視点を持てたからでした。以下、イエス様が明らかにした神の意思をひとつひとつ見ていきましょう。

まず、21~26節。ここでは十戒の第五戒「汝、殺すなかれ」が取り上げられます。「人を殺した者は裁きを受ける」という時の「裁き」とはこの世の司法制度で殺人罪が問われることだけでなく、神からも第五戒を破った者として裁かれることを意味します。人を殺してはならないというのが創造主の意志である。しかし、イエス様は言います。人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く1

者はみな裁きを受けるのだ、と。人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く」ことが具体的な行為に現れると、人を殺してしまうということがあるが2、それだけではない、悪口を言ったり罵ったり中傷したりすることもある3。悪口罵り中傷を言う者も、殺人同様の裁きにかけられて然るべきものなのだ。なぜなら、それらはみな、人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く」ことなのだから。

このようにイエス様は、「汝、殺すなかれ」という神の掟の本当の意味は、「汝、腹を立てるなかれ、怒るなかれ、憎しみを抱くなかれ」であると教えるのであります。神が「殺してはならない」と命じているのは、殺すという外面的な行為のもとになっている内面的な動機を持ってはならないということなのです。悪口罵り中傷は、たとえ殺人のような直接人に手を下してしまう行為と同じレヴェルで扱えないようには見えても、同じ動機から生じてくる以上は同じ裁きを受けて然るべきだというのであります。ここで、悪口罵り中傷が果たして殺人行為と同レヴェルで扱えないかどうかについて。最近のネット上での誹謗や中傷が原因で多くの人が傷ついたり、ひどい場合は自殺に追い込まれたりするニュースに接すると、もはや同レヴェルで扱えないなどとのんきなことは言っていられないところに来てしまったのではないかと思います。イエス様の教えは誇張でも拡大解釈でもなく、神の視点をただ素直に明確にしたものと言えるでしょう。

ところで、人に対して腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたりすることはしても、殺人はもちろんのこと、罵りや中傷のような外面的な行為に出ることもせず、もっぱら、腹を立てる、怒る、憎しみを抱くという内面的な気持ちの動きが中心な場合もあるでしょう。その場合でも、神の視点からすれば、やはり外面的な行為と同じ罪になり、同じ裁きを受けて然るべきものになるのでしょうか?先のイエス様の教えからすると、そうだと言わざるを得ません。そうすると、他人からひどいことをされて、腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたら、それも罪になってしまうのか?実は、これも創造主である神の視点では罪となってしまうのです。そうなると、一体誰が罪を犯さないでいられるのでしょうか?

ここで、今みている問題の最も難しい点について一言触れておきます。それは、他人が犯した悪い行為があまりにも甚だしく、こちらが受けた損害や傷がとても大きい場合はどうなるのか?そういう場合は、相手に腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱くのは当然ではないか、それを罪だと言うのは倒錯していないか、という疑問です。そのような損害や傷を受けた人は、怒りと悲しみ両方がごっちゃになった状態に置かれていると思われます。「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロは、悪に悪で報いてはならない、自分で復讐してはならない、悪を行った者は神の怒りに任せなさいと教えます(17~21節)。また、イザヤ書57章15節では神について次のように言われています。神とは、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」方である、と。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰にあっては、私たちを造られた創造主の神は、怒りをお任せしてよい方であり、また、悲しみをひとつ残らず吐露してよい方であるということを忘れないようにしましょう。

さて、外面的な行為に出さず、内面的な気持ちのレヴェルで神の意思に反するだけでも罪とみなされてしまうのであれば、一体人間の誰が神の目から見て相応しい者なのでしょうか?そんな人は存在しないのではないでしょうか?この疑問を覚えておきながら、先に進んでまいりましょう。

23節から26節までは不和の相手と和解する必要が述べられています。この箇所をよりよく理解するために、上で見てきた「たとえ他人から悪さをされても、腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いてはならない」という神の意思を念頭に置きます。

イエス様は次のように教えます。エルサレムの神殿に供え物を捧げるためにお参りに出かけ、祭壇につく直前に、自分に敵対する者がいることを思い出して、その者に対してムカッとくるものが出てきたとする。その場合、すぐ供え物を置いて、敵対者のところに行って、仲直りをせよ、その後で祭壇に供え物を捧げよ、と。「仲直り」とは、具体的に何をどのようにするかについては言われていません。ギリシャ語の原文で「兄弟に対して和解をせよδιαλλαγηθι τω αδελφω σου」と言っているのですが、これは、和解を実現させよ、とも言えるし、また、実現するかはわからないが、少なくともこちらからは和解の努力をしなさい、とも言えます。どちらを取っても、要は、自分は怒りと憎しみの絡み合いから離脱して、ムカッとした状態でなく、スカッとした状態で供え物を捧げるということです。ここでイエス様は、怒りや憎しみを抱いている者は神の意思に反する罪で汚れているので、供え物の捧げには相応しくないと教えるのであります。いくら外面的に敬虔な宗教行為を行っても、内面的な汚れのゆえに、神聖な神からみて厭わしいものになってしまうのです。

25節では、不和が訴訟に発展してしまった事例について述べられます。「途中で早く和解しなさい」というのは、ギリシャ語原文では「友好的な態度でいなさいισθι ευνοων」ということです。つまり、少なくともこちらからは敵対的な態度は捨てなさい、怒り憎しみは捨てて友好的な態度を示しなさい、ということです。もし、こちらも負けずとばかり怒りを持ち続けて相手との憎しみの絡み合いの中に身を任せていると、これは、神の意思に反した状態に甘んじることになってしまう。そうなると、訴訟の解決も神の祝福を受けられなくなり、惨めな結果になってしまうと警告するのであります。

 27節から32節までは、十戒の第6戒「汝、姦淫するなかれ」についてです。男女の性的な結びつきは、創造主の神が二人を一つに結びつける結婚という枠の中でなされなければならないという掟です。ところがイエス様は教えます。結婚の枠を超えて性的な結びつきを行ってしまう行動には出なくとも、異性をそのような意図を持って眺めたら、それは「心の中で」結婚枠を超えた結びつきをしたことになる、すなわち姦淫したことになると教えるのであります。先ほどの「汝、殺すなかれ」と同じように外面的な行動と内面的な心の有り様が同じレヴェルで扱われます。そもそもなぜ神はこのような掟を定めたかと言うと、性が無秩序化していくことから人間を守ろうとしたからです。それにしても、外面的な行為には至らなくとも、内面的な心の有り様まで神の意思に沿うことが出来るのかと言うと、これも不可能としか言いようがないでしょう。誰もできないなら、神は少し甘くしてくれるかと言うと、してくれません。もし右目が異性を姦淫の意図をもって眺めたら、そんな神の意思に反する罪の汚れた目は取り除いてしまいなさい。そうしないと、一部分の汚れのために体全体が炎の地獄に落とされてしまうことになる。しかし、体の一部分を捨てるなどとは、不可能です。心の有り様まで問われたら、人間には取り除かないで済む部分はなくなってしまいます。ここで、先ほどと同じ疑問が起こります。一体誰が神の意思に沿える者になれるのであろうか?こうなると、人間とは、存在自体が神の意思に反するもの、神に敵対するものではないか?つまり、自分の造り主から見捨てられた存在ではないか?これらの問題にいかなる解決が見出されるかということについては後に譲るとして、先に進みましょう。

離縁状の問題は、その欺瞞性についてイエス様が暴き出します。離縁状を出して正式に離婚すると、夫婦はもう結婚関係にないから、新しい相手と関係を持っても、結婚の枠を破ったことにならない、つまり、姦淫したことにはならない、これが離縁状の制度の趣旨です。しかし、一度神の御前で結びつけられた男女は、神の視点ではずっと結びついたものになっている。そうなると、人間の視点で結びつきはないと言って新しい関係を持ったら、神の視点では姦淫になってしまうのであります。これなども、現代の多くの人たちには受け入れ難い教えでしょう。しかし、イエス様はこれが神の意思であるとただ突き放すように教えるのです。

33節から37節にかけての「誓い」に関する掟について。これは、十戒には含まれていないように見えますが、そもそも誓いというものは神の名前に結びつけて立てられるものなので、第二の掟「神の名をみだりに唱えるな」と結びついています。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」でいう「偽りの誓い」とは、神に対して誓った誓いが果たせない時、誓いが偽りになってしまうということです。つまり、偽りの誓いを立てるなというのは、逆に言えば、誓いを立てるなら果たせるような誓いを立てよということになります。そうなると、人間は果たせそうな誓いを立ててそれを果たすことで神の意思に沿うことができるのだ、という思い上がりを生み出す危険があります。それで、イエス様は、「然り、然り」「否、否」とだけ言いなさいと命じられるのです。つまり、「汝、腹を立てるな、怒るな、憎しみを抱くな」と言われたら、余計な条件を付けずに、「然り、然り」とだけ言う。「汝、心の中で姦淫を犯すな」と言われたら、これも「然り、然り」と言う。それ以上のことを言うのは、神の意思を水で薄めることになる。だから、果たせるような誓いは立てるな、果たせるような誓いをして神に認めてもらったとか、神のお近づきになったなどと思い上がるなと言うのです。神の純然たる意思の前で、自分はいかに神の意思に反する存在であるか思い知っていなさいということなのであります。

 

2.以上、本日の箇所のイエス様の教えをみてきました。とても厳しい教えだということが明らかになりました。一般によく抱かれるイエス様のイメージと随分異なるようで驚かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか?イエス様と言えば、規則主義、戒律主義に縛られたユダヤ教を批判して、規則や戒律に囚われない愛や恵みを唱えた寛大な方というイメージがよく持たれるからです。ここで見てきたイエス様は、なんだかユダヤ教よりもずっと規則主義、戒律主義に見えます。

ここで、イエス様の教えをちゃんと理解できるために、以下のことをよく注意する必要があります。仮に、ユダヤ教の掟の中に、犯してしまった罪の赦しを神から得るために羊を50匹生け贄に捧げよ、という掟があったとします。イエス様の教えが厳しいというのは、50匹では足りないから500匹にしなさいという厳しさではありません。そうではなくて、人を実際に殺すことをしなくとも、人に腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたら同じ裁きが適用されるという厳しさです。姦淫を実際に行わなくとも、心の中に思い描いただけで、罪の汚れに染まっているという厳しさです。羊を500匹捧げようが、1000匹捧げようが、心に汚れがあればそれらは全く意味がないという厳しさです。本日の箇所の直前で(17~20節)イエス様は、自分がこの世に来たのは律法を無効にするためではなく、律法が要求することを満たすためであると言われます4。イエス様にとって律法とは神の意思でありますから、無効にすべきものではないのです。それが要求することは人間の心や内面に至るまで満たされなければなりません。

それにしても、イエス様はどうやって律法が要求することを人間の内面に至るまで満たすことができるのでしょうか?先にも申しましたように、人間は誰も内面や心の中まで十戒の規定を守ることはできません。たとえ、外面的な行為として罪を犯さなくとも、内面的には神の意思に背く性向があり、罪の汚れを明らかに有しているのです。しかし、律法は内面に至るまで満たせないと、神に相応しいと認められる存在にはなれません。そうしないと、人間はいつまでも、自分を造ってくれた神から切り離され、神に敵対した状態に留まってしまうのです。神から呪われた存在に留まってしまうのです。

この敵対状態に終止符を打ち、人間が再び造り主の神と結びつきを持って生きられるようにするために、そうして、神から祝福を受けられるようにするために、イエス様はゴルガタの丘の上で十字架に架けられました。そこで、本来は人間が被るべき神の怒りと裁きを一身に引き受けて、私たちの身代わりとして死なれたのでした。神はイエス様のこの犠牲の死に免じて人間を赦すことにしました。人間は、このイエス様の身代わりの死は自分のためになされたのだとわかって洗礼を受けると、この赦しの救いを神から受け取ることができます。私たちの内面にはまだ罪と不従順の汚れが残っているにもかかわらず、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、神は私たちを祝福して下さるのです。

 

3.最後に、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入って神から罪の赦しの救いを受け取ったとは言っても、それで私たちが完全に罪の汚れのないものになったわけではありません。私たちの内面や心には罪の汚れは厳然と残っています。私たちが救われたと言うのは、私たちから罪の汚れが全て消え去って神に相応しい存在になったということではありません。私たちの内面や心には罪の汚れが残存しているにもかかわらず、神は、イエス様を救い主と信じる私たちの信仰のゆえに、私たちをあたかも汚れがないかの如く、神に相応しい者として扱って下さるということなのであります。

残存する罪の汚れには戦いを挑んでいくしかありません。ルターは、キリスト信仰者の人生は、永遠の死の判決を受けた古い内なるアダムを日々死なせていくことだと教えています。古いアダムを死なせる方法はいろいろあります。まず自分に与えられた実際の生活をしっかり生きていくこと。そこで直面する人間関係やさまざまな課題を通して、神の意思は一体何だろうかと祈りをもって聖書の御言葉に聞くこと。もし神の意思に沿わない自分を見いだしたならば、神に対して罪を告白し、牧師を通して神からの赦しを再確認してもらうこと。これは毎週礼拝で行っているし、礼拝の外でも行えます。また、聖餐式で主の血と肉に与ることで神との結びつきを一層強めていくことも、内なる古いアダムに打撃を与えます。このように戦いの道具は全て神が準備して下さいました。道具を全て手にしていることに加え、主ご自身が一緒にいて戦って下さいます。何も恐れたり心配する必要はないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

1 οργιζομενος、現在時制であることに注意

 

2  φονευση、アオリスト時制であることに注意

 

3  ειπη、アオリスト時制であることに注意

 

4  17節、πληρωσαιは「完成する」よりも「満たす」がよいでしょう

 

主日礼拝説教 2014年2月9日(顕現節第六主日)の聖書日課 申命記30章15-20節、第1コリント2章6-13節、マタイによる福音書5章21-37節

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