説教「イエス様の洗礼 - 神の救いの計画の始動」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章13-17節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.日本では新年になると大勢の人たちが神社やお寺にお参りをして、それぞれに祀られている神や仏に祈りと賽銭を捧げたり、またお祓いのような清めの儀式を受けたりします。これは、毎年テレビや新聞などで報道されるので、私たちにとって見慣れた風景であります。キリスト信仰者にあっては、このような時こそ、自分たちが信じる神とはどんな方であったかを、聖書に拠りつつ、振り返り思い返すことは大切なことです。

先ほど読んでいただいた本日の旧約聖書の日課、イザヤ書42章に次のように記されていました。「神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる」(5節)。このように、聖書が明らかにする神は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える創造主であります。キリスト教会の礼拝で唱えられる二ケア信条には、「天と地、すべての見えるものと見えないものの造り主」と言われます。「見えないもの」とは、魂とか霊的な存在、霊的な力といったものも含み、こうしたものも全て被造物ということになります(コロサイ1章16節)。天使たちでさえも、被造物なのであります(ヘブライ1章5、13章)。被造物の範疇に入らないものは、造り主自身とそのひとり子、そして造り主の霊の三つのみ、つまり父と御子と聖霊の三つだけなのであります。他のものは全て皆、神に造られた被造物なのであります。

さて、造られた私たちと造り主の間の関係が損なわれて、私たちの状態が悪くなったがために、造り主は関係を回復して状態をよくしようと決めました。それでひとり子をこの世に送られました。このひとり子イエス様が成すべきことを成し遂げた後、造り主は彼を御許に引き戻し、今度は御自分の霊、聖霊を私たちに送られました。キリスト信仰者とは、イエス様が成し遂げたことを、それは自分のために成し遂げられたのだとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けた者です。洗礼を通して聖霊が授けられ、造り主である神との関係が回復した者としてこの世の人生を歩み始めることになった者です。そして、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、神が御許に救い上げて下さって、永遠に自分の造り主のもとに帰ることができる者です。このような神をキリスト信仰者は信じているのであります。

 さて、本日の福音書の箇所に入りましょう。少し驚かされる出来事です。イエス様が洗礼者ヨハネのもとに来て洗礼志願をするとは、一体どういうことでしょうか?洗礼とは、ルターが小教理問答書の中で次のように教えています。「罪の赦しをもたらし、私たちを死と悪魔から救い出すもの、そして神の言葉と約束を信じる者全てに永遠の幸いを与えるもの」であります。イエス様と言えば、聖霊の影響力によって受胎し、人間の肉体を持ちながらも、罪の汚れもしみもない神の御子です。その彼が、どうして洗礼を必要としたのか。ましてや、ヨハネの洗礼は、罪の告白と神のもとに立ち返る決心をして、イエス様をお迎えする準備をするという意味を持っていました。そんな洗礼を神の御子であるイエス様が受ける必要はなかったのであります。イエス様を目の前にしたヨハネが、「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と述べて、とまどった様子はよく理解できます。

なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?この問いに対する答えを見つけることを通して、本日も神の私たちに対する愛と恵みについて学びを深めてまいりたいと思います。

 

2.その前に、洗礼者ヨハネの洗礼と、私たちが受けるキリスト教の聖礼典としての洗礼はどう違うのかということを少しみていきたいと思います。

ヨハネの洗礼は、救世主の到来と神の裁きの日に備えて人々を準備させるという意味がありました。どのように準備させるのかというと、先ほど申しましたように、罪の告白と神のもとに立ち返る決心をして、そのあとはイエス様をお迎えできるようにするということです。

 私たちが受けるキリスト教の聖礼典としての洗礼はどうかと言うと、ヨハネの洗礼と共通する部分もありますが、それでも決定的に違う点がいくつかあります。まず、ヨハネの洗礼は、これからイエス様をお迎えする準備をするという意味がありました。それに対して、聖礼典の洗礼は、神がイエス様を用いて実現した救いをそのまま受洗者に譲渡してしまう意味があります。つまり、洗礼を受けた者は、完成済みの救いの所有者になるのです。

もう一つの違いは、聖礼典の洗礼は、誰の名において授けられるかということがはっきりしています。マタイ28章19節で、死から復活されたイエス様は、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を施しなさい」と命じます。「名によって」ということですが、名前とは人格そのものを表すものと考えられていましたので、「父と子と聖霊のみ名によって」というのは、「父と子と聖霊そのものに結びつくように」という意味を持ちます。そういうわけで、洗礼を授かった人は三位一体の神に結び付けられるわけであります。そして言うまでもないことですが、ヨハネの洗礼と違って、聖礼典の洗礼は復活の主ご自身が行うように命じたものであります。

ヨハネの洗礼とのさらなる違いは、キリスト教の洗礼では神の霊、聖霊が与えられるということがあります。使徒言行録19章に興味深い出来事があります。使徒パウロはエフェソで何人かのキリスト教徒に出会います。そこで「聖霊を受けましたか」と聞くと、彼らは「聖霊なんて聞いたことはない」と答える。さらに「どんな洗礼を受けたのですか」と聞くと、なんと「洗礼者ヨハネの洗礼」という答えが返ってくる。そこでパウロは「ヨハネは神のもとへの立ち返りの洗礼を授けたが、それは彼の後に来る方を信じるようにするためであった。その方こそイエスである」と教える。そして彼らにイエス様の名を結びつけた洗礼を授けると、聖霊が彼らに下り、その影響で彼らは習ったことのない国の言葉で神を賛美し始めたり、預言をし始めたりしたのであります。

 ところで、洗礼を通して「聖霊が与えられる」とか、「霊を受ける」などと聞くと、なにか超心理現象の世界に入ったような、オカルトじみていると言う人がいるかもしれません。しかし、そういうことではありません。聖書でどう教えているかみてみましょう。使徒パウロは、聖霊を受けた人は造り主の神を「アッバ」と呼ぶようになると教えています(ローマ8章15節、ガラテア4章6節)。「アッバ」というのは、当時のパレスチナで話されていたアラム語の「父親」を意味する言葉の呼びかけの形です。日本語なら、「おとうさん」とか「父さん」、子どもだったら「パパ」ということになるでしょう。いずれにしても私たちが、お祈りをする時、また思わず助けを求める声を上げる時に、私たちの造り主である神をそのように呼ぶと、それはもう私たちが聖霊を持っていることのあらわれなのであります。これに加えて、父なる神は私たち人間を罪の呪いから贖い出すためにイエス様を犠牲の生け贄としてこの世に送ったのだと信じる信仰、それゆえにイエス様こそ救い主であると信じる信仰、この信仰を持っていることも、聖霊を受けていることのあらわれなのであります(第1コリント12章3節)。聖霊を受けていない人にとっては、2000年前の彼の地で起きた出来事は、歴史や宗教学の本にある知識にしかすぎなくなります。聖霊を受けることで、あの遠い昔の遠い国の出来事は実は今を生きる自分にかかわっている、この自分のために起きたのだ、とわかるのであります。

 

3.さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ、なぜイエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要があったのか見てまいりましょう。

 この問いに対する答えは、実は、本日の福音書の箇所の中にあります。ただ、新共同訳の訳仕方に不備があるために、答えが見えにくくなっています。どこかというと、15節でイエス様が躊躇するヨハネに対して、次のように言っているところです。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

つまり、イエス様がヨハネから洗礼を受けることは正しいことだからというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのはあまりにも当たり前すぎて、それがどうイエス様の受洗と関係するのかわかりません。

 この箇所をギリシャ語の原文に忠実に訳すと次のようになります。「今は言う通りにしなさい。このようにして、義を全て満たすことは我々にふさわしいのだから。ふさわしいこととは、「正しいことをすべて行う」ことではなく、「義を全て満たすこと」πληρωσαι πασαν δικαιοσυνηνであります。この訳が、私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の言葉の聖書を繙いてみてもわかります。例えば、英語訳の聖書NIVを見てみますと、「全ての義を満たすこと」to fulfill all righteousnessと言っています。ドイツ語のルター訳(1912年版)も同じですalle Gerechtigkeit zu erfüllen。スウェーデンのルター派教会が用いている聖書の訳は1999年版で「義にかかわる全てを満たすこと」uppfylla allt som hör till rättfärdigheten(1917年版は端的に「全ての義を満たすこと」uppfylla allt rättfärdighet)、フィンランドのルター派国教会の聖書の訳は1992年版で「神の義なる意思を満たすこと」täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon(1933年版はこれも端的に「全ての義を満たすこと」täyttää kaikki vanhurkaus)です。そういうわけで、この箇所は、「正しいことをすべて行う」ではなくて、原文に忠実な「義を全て満たす」でいこうと思います。

 そこで、問題となるのが「義を全て満たす」とは何を意味するのか、ということです。まず、「義」δικαιοσυνηという言葉ですが、これは、ルター派がよく強調する信仰義認、信仰によって神から義と認められる、その「義」です。「義」とは、つまるところ、神の意思が完全に実現されている状態を指します。神の意思が完全に実現されている状態とは、端的に言えば、十戒が完全に実現されている状態です。十戒とは、「私以外に神をもってはならない」という掟で始まりますが、最初の三つはこうした神と人間の関係に関する神の意思です。残りの七つは、「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」など、人間同士の関係に関する神の意思です。神自身が、十戒を完全に実現した状態の方である、十戒を体現した方なのであります。それで、神そのものが義の状態にある、義なる存在であると言ってよいでしょう。

この神の義というものを人間の側から見ると、人間はそのままでは義を失った状態にある。理由は、人間には罪と神への不従順が宿っているからであります。人間が義を失った状態でいると、どうなるかと言うと、神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになり、この世から死んだ後も神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまう。人間が神の義を得られて、神との結びつきの中で生きられるためにはどうしたらよいかということで、十戒や律法の掟をしっかり実行しようと言って、義の追及が行われたのですが、イエス様はそれは不可能だと教えたわけであります(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、律法の掟というものは、自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのであります(ローマ7章)。

この袋小路を打開するために神が行ったことは、ゴルガタの十字架の上でイエス様に全ての人間の罪の罰を受けさせて、この犠牲に免じて人間を赦すことにするというものでした。人間は、イエス様を救い主と信じて、神がイエス様を通して与える赦しを受け入れる時、まさにこの時、人間は神から義なる者と見なされるのであります。この時、人間の方では、自分は神の前では罪の汚れに満ちた塵に等しい存在だと認めていることになります。この空っぽの状態をイエス様で埋め合わせることで、人間は神から「お前は義なる者だ」と見なされるのであります。そうして神との結びつきを回復した者として歩み始めるのであります。

 さて、イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとに来たのは、「義を全て満たす」ためでした。「義を全て満たす」というのは、神がイエス様を用いて人間を義なる者にしようとする計画を実現することでした。イエス様が洗礼を受けた時、神の霊、聖霊がイエス様に降りました。さらに、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。これらの出来事は、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書42章1~7節の預言が成就したことを示しています。天からの声と聖霊の降りは、1節の内容そのものです。さらに、神は、この預言された方をして、イスラエルの民以外の「諸国民の光」にする、そして、「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」者にする、そう御自分の計画を明らかにしています。そういうわけで、イエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、実にイザヤ書のこの箇所の預言を実現させる手段だったのであり、神の人間救済計画を始動させるきっかけだったのであります。

ところで、イエス様の受洗について、本来洗礼など必要としない神の子が受けたというのは人間との連帯を示すためだ、という見解もありますが、これは皮相的な見方です。イエス様の受洗は、まことに神の人間救済計画を始動させる機会として行われたのであります。もしイエス様の受洗がなければ、神は何か別のことをもって、イザヤ書の預言を実現する機会としたでしょうが、歴史上起きたことはイエス様の受洗であって、それ以外の出来事ではなかったのです。神は、ヨハネの洗礼をもって預言成就の機会にしようと決めていたのであります。だから、イエス様は、ヨハネから洗礼を受けることが必要である、それこそが義を全て満たすことである、と主張したのです。そういうわけで、イエス様の受洗と、ヨハネが他の人たちに施した受洗とを同列に扱ってはなりません。ヨハネから洗礼を受けた人で、誰も聖霊の降りを受けた人はいません。天からの声を聞いた人はいません。そのようにして、イザヤ書の預言の実現をみた人はいません。これらは、イエス様の洗礼の時に起きたのです。イエス様の洗礼があって預言が成就し、それをもって神の救いの計画が始動したのであります。

 

4.最後に、イエス様が命じている聖礼典の洗礼を通して、聖霊が与えられるとはどういうことかについて一言述べておきたく思います。先にも触れましたが、私たちが造り主の神を父の呼び名で呼べたり、神が2000年前に遠い異国の地で行ったことは実は今を生きる私のために向けられていたとわかったりするのは、聖霊の力が働いていることの現れです。こうしたことに加えて、使徒パウロは、聖霊を受けた人は、聖霊の結ぶ実というものも持つようになると教えています。「ガラテアの信徒への手紙」5章22~23節に聖霊の結ぶ実が列挙されています。それによると、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自己抑制です。(「ガラテアの信徒の手紙」5章には、聖霊と反対に肉が結ぶ実も列挙されています。それらが何であるかは、各自該当箇所をご確認下さい。)

こうなると、キリスト信仰者の中には、自分はこのような徳が欠けているので、聖霊がないんじゃないか、と心配になる人が出てくるかもしれません。よくキリスト信仰者でない方が信仰者を泣かせるセリフとして、「クリスチャンになったのに全然いい人になっていないじゃない」というものがあります。ベストセラーになった「置かれた場所で咲きなさい」の著者の渡辺和子さんは、学生時代にシスターから、今の自分が嫌なら洗礼を受けなさい、洗礼を受けると新しい人になれる、と勧められて、母親の大反対を押し切って洗礼を受けました。その後、母親からは、洗礼を受けてもまともな人間に変わっていないではないか、それでもあなたはクリスチャンなのか、と言われて胸を痛め続けたそうです。ここで注意すべきことは、聖霊の実というものは、洗礼によって聖霊を受けたからといって、すぐさま自然に、自動的に出てくるものではないということです。これらのものは、私たちが、洗礼によって植えつけられた、聖霊に結びつく内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死に引き渡すという、内的な戦いを真摯に戦うことで芽生えてくるものです。ルターも強調するところですが、この内的な戦いを続けることが、キリスト信仰者の生きる道なのです。本説教で明らかにしたように、私たちは神からとてつもない恵みをいただいている。そのとてつもなさを思い知る時、古い人はただ押し潰されていく。しかし、古い人は機会を捉えてすぐ頭をもたげてくる。そういうことの繰り返しの連続なのであります。しかし、この戦いは一人さびしく行うものではないということを信仰者は知っています。なぜなら、とてつもない恵みを与えて下さった神はいつも、御言葉を通して、聖餐式を通して、祈りを通して、そばにいらっしゃると知っているからです。他の人からの厳しいセリフは、内面の戦いを活性化させるために大切です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、そのようなセリフをかけてくれる人がいたら、神に感謝しましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年1月12日(主の洗礼日) 
聖書日課   イザヤ42:1-7、使徒言行録10:34-38、マタイ3:13-17


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